azusaのN.Y.便り                                       
 「あづさ」さんがニューヨーク情報を届けてくれることになりました。彼女はニューヨーク大学メディア科を卒業し、1995年からニューヨークを本拠地にしてメディア関係の仕事をされています。最初はあづささんが体験した9.11同時多発テロ事件の記録から。

■911in ニューヨーク(第二回) 06.1.14
 2001年9月11日、ニューヨークには偶然にも戦争報道に携わるカメラマンたちが多数居合わせました。世界的に有名なカメラマン集団「マグナム」の定例会がニューヨークで開かれており、所属カメラマンが世界各地からニューヨークに帰って来ていたからです。 ピューリッツァー賞等、世界的に評価されているカメラマンたちが様々な角度から9月11日とその後をドキュメントしていきました。

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 現場近くに住むカメラマン、アラン・ターネンバーグは事件発生直後から現場へ駆けつけ撮影を始めました。彼も長い間、世界中の戦場を撮影して来たカメラマンです。
 その時、彼はまさかビルが崩壊するとは思ってもいなかったので、現場近くで撮影を行っていました。あの巨大なビルが崩れるのにかかった時間は10秒にも満たなかったそうです。 彼はビル崩壊の様子をまるでコマ撮りのフィルムを追う様に説明してくれました。

 ビルが崩れ始めた時に辺り一帯は、凄まじい音、鉄骨が金切り声を上げる様な轟音で包まれたそうです。そして轟音をたてて崩れ落ちるビルから真っ白い煙が四方に噴き出し、ものすごい速度で彼の方に向かってきました。
 瞬く間に真っ白な煙に襲われた彼が次に目にしたのは「暗黒の闇」(ピッチブラック)でした。あの白く見えた煙の中は真っ暗な世界だったのです。 そしてその一瞬後に訪れた「沈黙の世界」(デッドサイレント)。
 テレビ画面からはとても想像できない、巨大な白煙と轟音、そして暗黒と沈黙。これが現場での真の体験です。

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 当日の印象的な風景は、私の家の近くのセントビンセント病院の救急玄関に、いつまでたっても空のまま並んでいたストレッチャーです。空のストレッチャーは事故の深刻さを如実に表していました。ほとんどの怪我人はダウンタウンの一つの病院に収容されていたのです。
  あの巨大なビルから助け出された怪我人がたった一つの病院でまかなえる程度しかいなかったのです。あの空のストレッチャー群はわずかに残っていた私たちの希望を砕きました。

  現場での救出作業は夜を徹して行われました。私のアパートの玄関を出ると、夜には現場を照らす照明が夜空に反射して、あたかもワールドトレードセンターの様に2本の光の柱となって見えました。その光は毎日、毎日消えることはありませんでした。
 それは常にワールドトレードセンターを思い起こさせ、また、そこで日夜働き続ける作業員や消防士の人達を思い起こさせました。

 事件後まもなく、アメリカ中から作業員、消防士がニューヨークへ駆けつけ、ビルの撤去、掘り起こし作業を行いました。前回にも書いた近所のバー「グーギーズ」にも作業を終えた人達が飲みにくる事がありました。もちろん、その人達には店からも、そこに居合わせたニューヨークの住人からも、ビールが振る舞われました。
  この「光のタワー」は、その後、911記念日には毎年ともされています。

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 現場からそう遠くない私のアパートは、風向きによって現場からの煙が流れてくる事もありましたが、それよりも一人で過ごす事の方がつらくて、9月一杯ほとんど、現場から少し離れたブルックリンの友人宅で過ごしました。
 その家の窓からはワールドトレードセンターが小さいながらもよく見えていたのですが、もう見えるのは現場から立ち上る煙だけでした。悲しくて、とても見る事ができない光景でした。
  私達はその煙が見えない様に、ワールドトレードセンターが見えていた窓をふさぐように大きな置物をおきました。(今思うとその置物が取り除かれたのは、それから2年後でした)

 事件後は、いつでも空軍戦闘機がスクランブルをかけられるように、民間機は相当な低空で飛んでいました。その低空飛行の音は、あまりにも近く、不気味で、音がするたびに空を見上げたのを覚えています。
 また毎週末には、明け方4時頃にジェット戦闘機がスクランブルの練習のためにニューヨークの上空を飛び交います。その音でいつも目が覚めてしまい、同時に自分の目で戦闘機だと確かめないと不安になりました。
 今でも私達は飛行機が低空飛行をすると不安な気持ちで空を見上げます。つい先日もそんな事があり、相当低空飛行だね、とだけ言って後は目で会話をしたのです。お互いの間に911の事を口にしたくはないのだという気持ちが流れた一瞬でした。

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 911後、初めて私が現場を訪れたのは11月に入ってからでした。この事件を撮影したカメラマンたちを追ったドキュメンタリーの仕事でした。
 現場周辺を見て回ってまず驚いたのは、観光客の多さでした。私達がまだ毎日を平静な気持ちで送れず、立ち直るにはほど遠い気持ちだった時に、こんなにも多くの観光客がグランドゼロを訪れているとは思ってもみませんでした。
  私の周りには、グランドゼロをわざわざ見に行くという人は皆無に近く、そこは未だに辛い悲しい場所でした。ちょっと大げさな言い方をすれば、これが戦場を体験した人とそうでない人の違いなのだと思った事を覚えています。

 現場を撮影するために、デイリーニューズに勤務している知人から紹介されたビルに上りました。ビル管理者と一緒に、40階位の位置にあるテラスに出たのですが、そこから見下ろした現場は未だに熱を持っていました。
 事件後二ヶ月も経っているのに、まだ煙が立ち上り、掘っている穴からたまに炎が吹き出てくるのです。テラスは地上からはかなり離れていましたが、地下で焼け続けるビルの残骸の熱と匂いが充満していました。
 その後話を聞いた作業員は「地下がまだ燃えているんだよ。まだ中は燃え続けているんだ」と教えてくれました。彼の痛みをこらえた様な顔が印象的でした。

 撮影交渉をしている間は、何でも商売にしてしまうビル管理者のニューヨーカー魂に感心したりしていましたが、彼が居なくなり一人グランドゼロと向き合った時には、やはり涙が出て仕方がありませんでした。
 今でもたまに同じ気持ちになりますが、この気持ちを一言で表すと「せつない」という感情です。複雑で一言では言えないけれども、それは、亡くなった方はもちろん、この事件に関わった全ての人に対する気持ちの様な気がします。                                                 (この稿、続く)
■911in ニューヨーク(第一回) 05.12.20
 2001年の9月11日、たまたまニューヨークシティーから2時間ほど北へ行った所にあるポキープシーという街にいた私は、日本の皆さんと同じ様にワールドトレードセンターが崩れて行くのをテレビで見ていました。ただ違ったのは、友人からの「私の息子があの中で働いているのよ!」という電話で事件を知らされた事でしょうか。

 崩壊して行くビルの映像を見つめながら私が感じたのは、「(私自身も含めてのことですが)人間というはこんな事までやってしまえるのか」という驚愕でした。人間の能力の可能性(それは良い方にも悪い方にも働く)に、ただただ畏怖の念を抱いたのを覚えています。 同時に、いま戦場となっている街に住んでいる人達は、毎日をこんな風におくっているのだという実感を体中で受け止めていました。

                                ◆◆◆
 事件が起きたワールドトレードセンターからあまり遠くない3丁目に住んでいた私は、9月13日になってようやく自宅に向いました。最初の2日間は14丁目より下が封鎖されていたのです。皮肉にもこの日は私の誕生日でした。
 14丁目の封鎖は解かれたものの車の乗り入れはまだ禁止されていたので、地下鉄で私の家がある西4丁目の駅まで行きました。地下鉄の階段を上がり地上に出て見たのは、私の知らない街でした。

 ここウエストビレッジはジャズやキャフェが集まる、どんな時でも人通りが絶えた事が無い、24時間眠る事の無いニューヨークを代表する様な街です。その街に人が一人もいないのです。
  辺り一面は霧が立ちこめたように薄暗く、視界が利きませんでした。呆然とする私の前方から歩いて来る二人の人影が霧の中を通して見えて来ました。グランドゼロから歩いて帰って来た消防士と現場作業員でした。
 二人はゆっくりと立ちこめる煙の中から現れ、その重い足取りのまま、無言のうちに西4丁目の地下鉄の駅の階段を下りて行きました。その時初めてグランドゼロから一番近くて封鎖されていないのがこの西4丁目なのだと言う事が分かりました。

 霧の中をワンブロック歩いて行くうちに私は咳き込み始め、これが霧ではなく、ワールドトレードセンターが崩れた後、その現場から途切れる事無く立ち上っている煙だということに気付きました。
 画面で見ていた白い煙には匂いも息苦しさもありませんでしたが、現実には、マスクをしないと歩けない状況でした。2日間、テレビの画面を通して現状を見て来た私は、画面で見る事件現場と、実際自分の五官で体験する「現実」との大きな違いを体験していました。

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 ウエストビレッジは、戦場とはあたかもこの様なものかと思わせる様な街になっていました。不気味に静まり返って、まるでゴーストタウンでした。
 お店はほとんど閉まっており、家に着くまでに誰にも会いませんでした。ただ近所のバー「グーギーズ」が開いており、私は皆の無事を確かめるためにのぞいてみました。そこは私の行きつけのバーで、近所の消防士のたまり場になっていましたし、飲み仲間の警察官、ヨハンも良く来ていたからです。
 
  いつもは近所の常連とニューヨーク大学の学生でにぎわっているグーギーズには、バーテンのフランキーと近所のアイバンしかいませんでした。そしてフランキーから近所の消防士で飲み仲間だったキースが無くなった事を知らされました。つい数日前に一緒に飲んだキースが犠牲者になっていたのです。
 消防士仲間の話では、ここの消防署の消防士達がビルに入ろうとした、ちょうどその時にビルが崩れ始め、キースはただ一人ビルの敷居をまたいでいたそうです。 もちろん仲間が助けようと崩れるビルの下から必死に引っ張り出したのですが、その人はキースではなく一般の人でした。
 キースは亡くなってしまいましたが、その代わりに助けられた人もいるのです。

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  その後ロックフェラーセンターやグランドセントラルステーションで行われた犠牲者の写真展では、現場に入る直前のキースの写真が展示されました。これが彼の最後の数分間なのだと思うと涙があふれ、なかなかその場を立ち去る事ができませんでした。
  キースは面白くてお茶目な一面を持っていて、その頃タバコをやめようと思っていた私に、タバコをどんどん進めて面白がっている、そんな楽しい人でした。

  「グーギーズ」ではキースの為の追悼大宴会を催し、寄付金やキースの追悼の為に作ったTシャツの収益金はスッタテン島に住んでいるご両親に渡されました。
  ワールドトレードセンターの絵とキースの名前、911がプリントされているTシャツですが、寄付の為に購入したものの、そのTシャツを見ると悲しくなってしまうので、やはり着る気にはなれません。キースの思い出とともにタンスの奥にしまってあります。(この稿つづく。写真はまだ何もない被害跡地)