■911in ニューヨーク(第二回) |
06.1.14 |
2001年9月11日、ニューヨークには偶然にも戦争報道に携わるカメラマンたちが多数居合わせました。世界的に有名なカメラマン集団「マグナム」の定例会がニューヨークで開かれており、所属カメラマンが世界各地からニューヨークに帰って来ていたからです。
ピューリッツァー賞等、世界的に評価されているカメラマンたちが様々な角度から9月11日とその後をドキュメントしていきました。
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現場近くに住むカメラマン、アラン・ターネンバーグは事件発生直後から現場へ駆けつけ撮影を始めました。彼も長い間、世界中の戦場を撮影して来たカメラマンです。
その時、彼はまさかビルが崩壊するとは思ってもいなかったので、現場近くで撮影を行っていました。あの巨大なビルが崩れるのにかかった時間は10秒にも満たなかったそうです。
彼はビル崩壊の様子をまるでコマ撮りのフィルムを追う様に説明してくれました。
ビルが崩れ始めた時に辺り一帯は、凄まじい音、鉄骨が金切り声を上げる様な轟音で包まれたそうです。そして轟音をたてて崩れ落ちるビルから真っ白い煙が四方に噴き出し、ものすごい速度で彼の方に向かってきました。
瞬く間に真っ白な煙に襲われた彼が次に目にしたのは「暗黒の闇」(ピッチブラック)でした。あの白く見えた煙の中は真っ暗な世界だったのです。 そしてその一瞬後に訪れた「沈黙の世界」(デッドサイレント)。
テレビ画面からはとても想像できない、巨大な白煙と轟音、そして暗黒と沈黙。これが現場での真の体験です。
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当日の印象的な風景は、私の家の近くのセントビンセント病院の救急玄関に、いつまでたっても空のまま並んでいたストレッチャーです。空のストレッチャーは事故の深刻さを如実に表していました。ほとんどの怪我人はダウンタウンの一つの病院に収容されていたのです。
あの巨大なビルから助け出された怪我人がたった一つの病院でまかなえる程度しかいなかったのです。あの空のストレッチャー群はわずかに残っていた私たちの希望を砕きました。
現場での救出作業は夜を徹して行われました。私のアパートの玄関を出ると、夜には現場を照らす照明が夜空に反射して、あたかもワールドトレードセンターの様に2本の光の柱となって見えました。その光は毎日、毎日消えることはありませんでした。
それは常にワールドトレードセンターを思い起こさせ、また、そこで日夜働き続ける作業員や消防士の人達を思い起こさせました。
事件後まもなく、アメリカ中から作業員、消防士がニューヨークへ駆けつけ、ビルの撤去、掘り起こし作業を行いました。前回にも書いた近所のバー「グーギーズ」にも作業を終えた人達が飲みにくる事がありました。もちろん、その人達には店からも、そこに居合わせたニューヨークの住人からも、ビールが振る舞われました。
この「光のタワー」は、その後、911記念日には毎年ともされています。
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現場からそう遠くない私のアパートは、風向きによって現場からの煙が流れてくる事もありましたが、それよりも一人で過ごす事の方がつらくて、9月一杯ほとんど、現場から少し離れたブルックリンの友人宅で過ごしました。
その家の窓からはワールドトレードセンターが小さいながらもよく見えていたのですが、もう見えるのは現場から立ち上る煙だけでした。悲しくて、とても見る事ができない光景でした。
私達はその煙が見えない様に、ワールドトレードセンターが見えていた窓をふさぐように大きな置物をおきました。(今思うとその置物が取り除かれたのは、それから2年後でした)
事件後は、いつでも空軍戦闘機がスクランブルをかけられるように、民間機は相当な低空で飛んでいました。その低空飛行の音は、あまりにも近く、不気味で、音がするたびに空を見上げたのを覚えています。
また毎週末には、明け方4時頃にジェット戦闘機がスクランブルの練習のためにニューヨークの上空を飛び交います。その音でいつも目が覚めてしまい、同時に自分の目で戦闘機だと確かめないと不安になりました。
今でも私達は飛行機が低空飛行をすると不安な気持ちで空を見上げます。つい先日もそんな事があり、相当低空飛行だね、とだけ言って後は目で会話をしたのです。お互いの間に911の事を口にしたくはないのだという気持ちが流れた一瞬でした。
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911後、初めて私が現場を訪れたのは11月に入ってからでした。この事件を撮影したカメラマンたちを追ったドキュメンタリーの仕事でした。
現場周辺を見て回ってまず驚いたのは、観光客の多さでした。私達がまだ毎日を平静な気持ちで送れず、立ち直るにはほど遠い気持ちだった時に、こんなにも多くの観光客がグランドゼロを訪れているとは思ってもみませんでした。
私の周りには、グランドゼロをわざわざ見に行くという人は皆無に近く、そこは未だに辛い悲しい場所でした。ちょっと大げさな言い方をすれば、これが戦場を体験した人とそうでない人の違いなのだと思った事を覚えています。
現場を撮影するために、デイリーニューズに勤務している知人から紹介されたビルに上りました。ビル管理者と一緒に、40階位の位置にあるテラスに出たのですが、そこから見下ろした現場は未だに熱を持っていました。
事件後二ヶ月も経っているのに、まだ煙が立ち上り、掘っている穴からたまに炎が吹き出てくるのです。テラスは地上からはかなり離れていましたが、地下で焼け続けるビルの残骸の熱と匂いが充満していました。
その後話を聞いた作業員は「地下がまだ燃えているんだよ。まだ中は燃え続けているんだ」と教えてくれました。彼の痛みをこらえた様な顔が印象的でした。
撮影交渉をしている間は、何でも商売にしてしまうビル管理者のニューヨーカー魂に感心したりしていましたが、彼が居なくなり一人グランドゼロと向き合った時には、やはり涙が出て仕方がありませんでした。
今でもたまに同じ気持ちになりますが、この気持ちを一言で表すと「せつない」という感情です。複雑で一言では言えないけれども、それは、亡くなった方はもちろん、この事件に関わった全ての人に対する気持ちの様な気がします。
(この稿、続く) |
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