日々のコラム        <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

■ 15歳の犯罪・人間の脳は白地図で生まれる 05.7.26

 15歳の少年が両親を撲殺、部屋に火をつけた事件が世間を騒がせている。
この事件ばかりではない。少年少女が簡単に人を殺す事件が頻発している。対象は親であったり、兄弟だったり、同級生だったり、ホームレスだったり。 私たちは今、「壊れた人々との同居」という穏やかならざる日常感覚をひきずって暮らすようになっている。
 事件を引き起こした少年少女の心の闇を個々のケースで解明し、反省や教訓を引き出す作業はもちろん大事だと思う。しかし、そうした対処療法は専門家に任せて、私はここで、この種の事件が頻発するおおもとのところについて考えてみたい。

◆ 白地図に何を書いていくか・赤ちゃんの脳の宿命
 かなり昔になるが、「人間の脳は白地図で生まれる」という考え方を読んで眼からうろこが落ちる思いがした(「保育器の中の大人」)。脳といっても、小脳や中脳の本能部分ではなく、その上を包む大脳新皮質の部分。人間の知、情、意を司る部分である。赤ちゃんが生まれたとき、その大脳新皮質は何も書かれていない白地図状態だというのである。
 成長するにつれ、人間の白地図の脳には、母親、兄弟、家族、集団、文化、四季折々の自然などといった外界との交流によって人間としての刷り込みが行われていく。
 だが、この白地図の脳には一般の動物が持っているような歯止めはない。虐待や放置、あるいは異常な溺愛などによって、刷り込み方を間違えば、どんな残虐なことでも歯止めが利かない「壊れた」人間が出来てしまう。これは肥大した脳を持って生まれる人間特有の恐ろしい宿命なのであり、私たちはこの恐ろしさをもっと深刻に受け止めるべきなのだ。

 人間の脳に関連してもう一つ。
 数学者岡潔は、赤ちゃんの心の成長(大脳新皮質の変化を意味する)を、注意深く観察した。そして人間の心を決定していく上で大事なものとして「情緒」という概念を提示した。(「春宵十話」「紫の火花」ほか)
  彼のいう「情緒」とは、正確には彼の著作を読んで欲しいのだが、私なりに解釈すれば、大自然のもつ精妙ないのちの息吹、あるいは、日本人の歴史、文化から醸成された細やかな情趣、それらと共鳴する心のありようを言う。
 その情緒は、美しさ、はかなさ、力強さ、清らかさ、つつましさ、寂しさなどに対する深い共鳴であり、事件を犯した少年少女たちに取り付いた「邪悪なもの」と対極にあるものだ。

 岡潔は小さいときに祖父から徹底して「他人を先にして自分を後にせよ」という教育を受けたと言う。自我(彼のいう少我)を抑えると同時に、他人の痛みや喜びが自分の身同様に分かる人間にしようという教育方針だったのだろう。
 このほかにも彼は、自分の体験に照らして「情緒」が形成されていく様々な場面をあげているが、幼児期の家庭環境や自然環境が人間の情緒形成という点でいかに大切かが良くわかる。
 情緒が良くわかるように教育するとどんな利益があるか、ということについて、岡潔は「情緒がよく見えるようになると、自分の今の心のいろどりがすぐわかるから、いやな心はすぐ除き捨てるようになる」と書いている。「心のいろどり」とは何と素晴らしい表現だろうか。

◆ 3世代にわたる荒廃
 少年少女たちが「壊れて」しまった原因は何か。それは、白地図で生まれた彼らの脳に幼い時に人間としての適切なすり込みがされなかったことだと私は思う。幼児の脳にいかに生き生きした情緒を取り込み、邪悪な心を抑えていくのか、そのような環境をどう用意してやれるか、という子育てにとって大事な条件が満たされなかったことなのだ。
 幼児虐待や少年少女の引き起こす様々な事件をみると、子供たちの「心のいろどり(情緒)」を形成すべき、親、家族、集団、歴史文化、四季折々の自然といった子供を取り巻く環境がこの半世紀の間にすっかり荒廃していることに、いまさらながら暗然とする。
 
 だから、「壊れた」少年少女たちの親たちを一方的に責めることはできない。少年少女たちもその親たちも、荒廃した時代の海にたまたま頭を出した氷山の一角に過ぎないからだ。
 しかも憂慮すべきは、この荒廃はすでに親子3代にわたって続いてしまったということだ。私もだが、戦後育った子供が親になり、荒廃に気づかないまま子育てをし、その子供が大人になって子育てをする。  幼児の脳に刷り込みが行われるときに何が大事で何が害毒なのか、それを見極める知恵を、親も学校も社会も長い間見失ってきた。
 
 最近、50歳くらいの女性が電車の中で平気で長々と化粧をしていたのには本当にびっくりした。子供たちだけではなく、大人さえも他人の存在が目に入らなくなってしまったのか。
 かつて我々日本人は、心に美しい情緒を取り入れようと努力し、そのような文化を育ててきた。だが、殺人ゲームや残虐ビデオがはびこり、社会に奇妙奇天烈な価値観が跋扈(ばっこ)する今、かつての知恵を回復するのは殆ど絶望的といわざるを得ない。これからも子供たちによる信じられないような事件は後を絶たないだろう。

◆ どうしたらいいのだろう?
 そうは言っても、少しでも改善するためにはどうしたらいいのか。あえて言えばまず、人間の幼児は壊れやすいこと、それゆえに愛情に包まれて極めて適切に育てられなければならないことを社会全体がもっと認識することである。
 そして、少年少女が「壊れる」のを防ぐために何が大事で何が害毒なのか、を明確にし、社会全体でその知恵を共有することである。(すでに研究は山ほどあるのだから、取捨選択の「知恵」を働かす時ではないか)
 もちろんそれだけで社会の荒廃が改善されることはないだろう。次に大事なのは、今の日本で子育て環境の改善(それも様々なアプローチがあるだろう)に努力している「活動」を応援していくことである。
 よく目を凝らせば、学校だけでなくNPOなどにも、理想を持って地道に努力している「目覚めた」グループが沢山ある。それらの活動を正しく評価して支援し、点と点を結んで横のネットワークを作っていく。それが荒廃した社会で孤立しがちな親子を救う安全ネットになっていくに違いない。
 犯罪の低年齢化をおおもとで食い止めるには、迂遠なようだが、社会全体で子供を守るという認識を共有し、子育ての安全ネットを社会全体で支援し、強化していく以外にないのではないか。

■ グローバル化をどう考えるか 05.7.24

 マルクス、エンゲルスによる「共産党宣言」(1847年)の有名な書き出し、「一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている、――共産主義という妖怪が」になぞらえていうと、「一つの妖怪が世界を席巻しようとしている――グローバル化という妖怪が」ということになるだろうか。

 現在、「グローバル化」をYahooで検索すると77万件も出てくる。「グローバル化」なんて我々市民からは縁の遠い話だと思っていたが、最近はどうも、市民レベルにまでその影響が現れ始めてきた気がする。文字通り、時代の潮流の一つには違いない。
 まあ、「世界と日本はどこに向っているのか」というテーマを掲げた以上、取り上げざるを得ないだろうと思うが、果たして手に負えるか。そこで、正面突破は避けて(沢山の論文もあることだし)、このHPの立脚点である市民生活レベルから、何とかその意味を探ってみたい。

◆市民生活に影を落とし始めたグローバル化
 グローバル化はもともと多国籍企業の経済活動から端を発したもので、世界が単一の市場になること(世界単一市場化)をいう。IT情報網が地球を一つの経済圏とし、金融を始めとする企業活動が世界規模になったために、これまで国ごとに独自に設けられていた経済システムや経済活動のルールを「世界標準」という世界共通のものに変え、その中で競争しようという動きである。
 ただし、その「世界標準」を作ってきたのは主としてアメリカが主導する世界機関である。従ってグローバル化は発展途上国側に立つ人々から、アメリカルールの押し付けだと非難されてきた(反グローバリズム)。日本もアメリカが主導する、この「世界標準」というルールの受け入れに腐心してきたのはご存知のとおりである。

 グローバル化の影響は企業活動だけに止まらない。真っ先にグローバル化の洗礼を受けた経済界の働きかけもあって、社会のあらゆる面での規制緩和、競争原理の導入、効率化、リストラなどが、日本社会の活性化、景気回復に欠かせないと言う声が大きくなっている。 今佳境にある郵政民営化に代表される「官から民へ」の動きもそうした声に後押しされているに違いない。グローバル化の波は、私たち庶民の知らない間に、日本の社会全般に影を落とし始めていると言える。  

◆グローバル化だけがいいのか
 私も、勤務時間中に喫茶店で時間をつぶしたり、昼寝をしたりしているような官庁役人、国民から預かった金を好き勝手に使っている社会保険庁、身内の下請けに高い金で仕事を回している道路公団などの、効率化、リストラ、競争原理の導入は大賛成。 また、莫大な郵便貯金を抱えて、国民の監視もないまま無駄な公共投資につぎ込んできた郵便事業の民営化にも賛成である。    
 
 しかし、国民生活全部をグローバル化の名の下に、効率化、競争原理の導入、利益追求、すなわち
「強いものだけが勝ち残る」といった単一の価値観でローラーをかけていくような風潮には疑問を感じざるを得ない。
 社会には、スタートラインからすでにそうした競争にハンディを持つ弱者がいる。母子家庭、障害者、高齢者、病気療養者などなど。そういう人々と共生しようとしてきたのが近代社会でもあるはずだ。
 こうした人々は、これまで不十分ながら社会の安全ネットで最低限の保護を受けてきたが、グローバル化の風潮によって、この安全ネットをさらに不十分にし、(聞こえは良いが)「自立」を促すような動きが出てはいないか(障害者自立支援法など)。
 行政と言うのは、自分のところの自立は嫌がるくせに弱者の効率化は図りたいらしい。そのときの理屈にグローバル化がもたらした価値観が都合のいいように使われているような気がする。

◆グローバル化の大波の中で多様性を確保するために
 私たち市民は、社会全体を一つの価値観で動かしていく風潮には、それがどんなものであれ、常に警戒の目を向けないといけないと思う(先の戦争の反省からしても)。この場合は、本当に効率化や競争によって変革すべき対象と、守るべき対象を峻別して議論しなければならないと思う。
 グローバルな企業戦争に勝ち抜くために、身と心を捧げて仕事をする人々がいてももちろん良い(そのテーマについては次回に書きたい)。しかし、社会の中では、そういう集団の声ばかりが大きくなるのではなく、多様な価値観を持つ人々が、それぞれのペースでそれぞれの生き方ができるような、懐の深い社会の方が豊かな社会と言えるような気がする。

 私たち市民生活まで飲み込もうとしているグローバル化の波。グローバル化というのは文字通り、世界全体を席巻しようとする巨大な潮流だから、いろんな角度から見る必要があるだろう(確かにその論文は沢山ある!)。
 しかし、中でも、私たち市民が声を上げるときに力になるような研究こそが、今必要なのではないだろうか。(自分の勉強不足を棚に上げて、専門家に期待している)

■ グローバル化時代に「働く」ということは? 05.7.24

 地球規模で進行するグローバル化。その中で、企業従業員は、自分たちが働く意味をもう一度問い直されているのではないか、というのが今回考えたいテーマである。(何となくグローバル化から離れられない。大きな潮流だから仕方ないのかも。)  
 企業を取り巻く2つの動きをまず見てみる。

◆グローバル企業に献身するサラリーマン
 日本のグローバル企業を代表するトヨタ自動車。その21世紀戦略をリポートした「トヨタ式」(日本経済新聞社刊)を読むと、グローバル化の中で生き残りを図る企業の戦略はすさまじい。
 あくなきカイゼン(改善)と効率化で企業競争力を高め、利益率をあげ、得た利益を世界の新たな拠点に投下し、生産拡大を続けていく。しかし、その結果、世界で年々販売台数が伸びていかないと、国内の生産拠点が維持できない仕組みになってしまったらしい。また、現状維持では、拡大し続ける世界市場での後退を意味し、企業間競争に生き残れない。拡大こそがグローバル企業として生き残る必須条件なのだ。
 同じように日産自動車もゴーンに鍛えられた幹部たちが出遅れた中国でサラリーマン生命をかけて戦っている(7月10日NHKスペシャル「ゴーン・チルドレン」)。

 他人事ながら大変である。経営幹部も従業員も現状維持に陥らないように、アメとムチによって常に変革を求められる。いわゆる「熱いフライパンの上の豆」状態だ。「ストレッチ」だの「コミットメント」だのと、従業員から最大限の貢献を引き出すための理論作りも進んでいる。  

 ここでちょっとお節介かもしれないが、サラリーマンの身になって考えてみたい。今は成功例としてもてはやされてはいるが、こうしたグローバル企業で脳みそを絞りながら働いているサラリーマンは働く意欲をどのように保っているのだろうか。企業が大きくなること、利益を上げること、企業戦争に勝つこと、が生きがいなのだろうか。企業の成功に仕事の達成感を重ね合わせているのだろうか。では、それは、かつて「エコノミック・アニマル」といわれ、身も心も企業にささげていた高度経済成長期の企業戦士と何がどう変わったのだろうか。

◆企業は誰のものか
 それともう一つ、6月下旬に集中した株主総会で今年の話題になったのは、「企業は誰のものか」という問題である。「企業は株主のものである」というのが、あのホリエモンの騒動以来、目に見えて強くなった主張で、経営者も従業員も旗色が悪い。
 株主と言っても、巨額の金を動かす世界の投資ファンドというのが、また良く分からない。従来、資本家とみなされていた企業経営者の、その上に、得体の知れない世界規模の資本家が突然姿を現したようなものかもしれない。
  株価を上げるための経営努力が足りないと言って、株主が役員の給料や退職金にまで口を出す。ある日突然現れた外人大株主の納得を得ようと、地方工場の社長さんが脂汗を流す。テレビも新聞も今までが遅れていた、という論調である。
 しかし、そうだとすると経営者も従業員も何のために苦労して働くのか。資金をあっちこっちに投資して、短期間に利益を上げようとしている株主のために脳みそを絞って汗水たらして働くのか。 金融のグローバル化の中で、冷静に考えてみると、「働く」ということについて、これまでの庶民感覚が通じない何か変なことが進行しているのではないか。

◆グローバル企業と従業員、双方に問われているもの
   グローバル化で企業間競争が熾烈(しれつ)になっていくにつれて、そこに働くサラリーマンに対する要求は厳しくなる一方だ。とすると、企業経営者は単に世界一になるとか、大きくなるとか、生き残るとかではなく、そこに働くサラリーマンが「生きがいを持って働けるような何か」を提供していくべきではないか。
 どうもそれは、世界一になるとか、勝ち組になるとか、税金を沢山納めるとかいうだけでは持ちそうにないように私には思える。 これからのグローバル企業には、従業員や、さらには企業を受け入れる社会がなるほど、と思うような、「経済効率性ばかりでない企業ビジョン」を示せるか、それを行動で示せるかどうか、が問われているのではないか。
  また、サラリーマンの方も、経営者任せにするのではなく、グローバル企業に働く生きがいとは何なのか、企業の社会的使命は何なのか、自ら真剣に考え、社会に問いかけていくべき時ではないかと思う。

■ 言葉の持つ力について 05.6.27

 時代の中で、あるいは社会の中で、「言葉が力を持つ」と言うことはどういうことなのだろう。「言葉が時代を動かす」、あるいは「言葉が社会を動かす」と言い換えてもいい。端的に言って、ジャーナリズムは社会や時代と向き合い、時にはそれを動かすような、「力のある言葉」を捜すべきだ、というのが私の言いたいことだ。
 しかし、力のある言葉は何もジャーナリズムの専売特許ではない。過去にも、いろんな人間が時代や社会を視野に入れ、それを動かすような「力のある言葉」を発してきた。そうした種々の言葉の中で、ジャーナリズムが目指すべき「力のある言葉」とはどういう類のものなのだろうか、と言うのが今回考えたいテーマである。
 というのも、今、マスメディアからは言葉が毎日洪水のようにあふれ出して来るが、私たち市民の指針となるような、真にジャーナリズムの存在意義を示す言葉が果たしてどのくらいあるのか疑問に思うからだ。

 ちなみにここでいう「時代」とは、自分が生きている今を、歴史的認識(時間と方向性)の中でとらえたものであり、同時にこれだけ世界が狭くなってくると単に日本という場だけではなく、時には地球的視野でとらえることも必要になってくるだろう。
 それに比べて「社会」とは、殆ど現在の日本と同義である。まあ、極めて感覚的な表現だが、日本という場に限って言えば、社会が動いて、かつ何らかの歴史的方向性を持ってくれば、やがて時代も動くことになる。

◆社会を動かす政治の言葉
 さて、そういう時代や社会を動かす言葉は、過去いくつかの顔を持ってきた。政治的なキャッチフレーズもその一つである。戦時中の「大東亜共栄圏」、「欲しがりません、勝つまでは」、近年では、池田首相の「所得倍増計画」、中曽根首相の「戦後日本の清算」などなど、権力はその時代の大衆の心に訴え、自分たちの考える方向に社会を動かすために言葉を作ってきた。
 最近では、「自民党をぶっ壊す」、「構造改革なくして景気回復なし」などと言い、ワンフレーズ・ポリティックスと揶揄されながらも、キャッチフレーズ作りが得意な小泉首相のような人もいる。
 政治はその良し悪し、成功不成功は別として、時代や社会に寄り添い、それを動かすような、力のある言葉を常に密かに捜している。

◆ジャーナリズムに期待する言葉とは
 問題はジャーナリズムである。冒頭で書いたように、ジャーナリズムも社会や時代と向き合い、時にはそれを動かすような、「力のある言葉」を捜すべきだ、と私は思う。では、ジャーナリズムが探すべき「力のある言葉」とはどんなものなのだろうか。どんな条件を備えているべきなのだろうか。

 まず、事象の本質を突く言葉である。それは豆腐のにがりのように、混沌とした時代のカオスを一つの言葉に凝縮させたものである。事象の背後に隠れて漠然としか見えなかった本質をつかみ出し私たちに明瞭に見せてくれるものである。
 その言葉は、私たちがどのような時代に生きているのか、世界はどこへ向おうとしているのか、私たちがどのような世界観を持つべきなのか、を知らせるものでなければならない。こうしたことを大衆に知らせてくれることこそ、市民がジャーナリズムに期待するものであり、言葉が力を持つという真の意味だと私は思う。

 そしてまた、そのようにして得られた言葉は、先に書いた政治の言葉に拮抗する力を持つものでなくてはならない。政治がプロパガンダ、アジテーション、ポピュリズム、偏狭なナショナリズムの言葉を発し始めたとき、それを押しとどめる力をもたなければならない。
 また、その力は、時代認識、状況認識の的確さ、取るべきスタンスと目指す方向性の正しさ、そして明確な表現を源泉としなければならない。

◆「力のある言葉」を見つけ出す
 第二次大戦前のヨーロッパ、戦前の日本でも、幾多のジャーナリストがそうした珠玉のような言葉を発しながらも結局時代に押しつぶされ、世界大戦の悲劇を押しとどめることは出来なかったという例を読んだことがある(「燃え続けた20世紀」)。
 それは確かに悲劇ではあったが、戦うべき対象が明確で強大なときにこそ、ジャーナリズムはその輝きを増す。
 また、言葉が事象の本質を突くためには、かの安岡正篤氏がいうように、物事を歴史的、多面的、根本的に見なければならないなど、そこへ向けての方法論の議論もある。ジャーナリズムは過去の例に学びながら、常に自らを研鑽して来たが、この辺は、おいおいこのコラムでも検討していきたい。

 ジャーナリズムがメッセージを載せるメディアは、新聞、テレビ、インターネットと、この百年間に、大きく変化してきた。しかし、その時々の時代と向き合い、「力のある言葉」を捜す作業は今も変わっていないのではないか。
 最近は驚くような事象が多発し、マスメディアに情報が溢れる中で、事象の本質を突く言葉を探すのが追いつかない現状である。しかし、ジャーナリズムには、是非以上に書いたような「力のある言葉」を見出し発信してもらいたいと思う。これが要望であり、密かにこの「メディアの風」にも課したい課題である。