日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

泣きながら生きて 2006.11.11

 11月3日の夜9時からフジTVで放送されたドキュメンタリー「泣きながら生きて」を見て、15年と言う歳月の意味や重さというものを考えさせられた。10年の長きにわたってある中国人家族を追ったドキュメンタリーである(それは同時に、中国全体がまだ貧しくて懸命にそこから脱しようと努力していた時代の象徴的物語でもある)。
 
 15年前、日本で勉強するために故国中国に妻子をのこして35歳の男が来日した。北海道の阿寒町が始めた日本語学校に入学するが、働きながら学び、中国で借りた42万円の借金を返す計画は、過疎地の阿寒町に働く場所がないことからもろくも崩れてしまう。
 夢破れた彼は阿寒町を抜け出して東京に出た。以後滞在期間が過ぎたあとも不法滞在者として借金を返すために働く毎日となる。ビルの清掃や中華料理のコックや零細企業の工場労働者などを3つも掛け持ちしながら金を中国に送り続ける。
 
 やがて彼の夢は自分が勉強する代わりに、娘を一流の学校にやることに変わる。娘の学費を稼ぐために、終電あとの線路を歩いて帰宅し、一部屋の安アパートで深夜、食事と次の日の弁当を作り、銭湯代を浮かすために部屋でビニールで囲いながら体を洗う。寝る間も惜しんで稼いだ金はすべて中国に送金した。
 上海には妻と娘がいるが、男が苦労して送金してくれていることを理解している。妻は縫製工場で働いた金で家計をやりくりし、男からの送金はすべて娘の来るべき留学費用として貯金している。

 やがて、成長した娘はアメリカの一流大学のNY州立大学に入学した。彼女がNYへ向かう途中日本に立ち寄り、8年ぶりに父親に会う。娘は父親がどんな暮らしをしながら自分の学費を作ってくれたのかを目のあたりにする。
 アメリカに見送る日、不法滞在のために成田までは行けない男は日暮里駅で娘と別れる。ホームに下りた父に背を向けながら娘は電車の中で泣き続ける。

 男はアメリカの娘に仕送りするためにさらに東京で働き続ける。過酷な労働のために頭も薄くなり、歯も半分は抜けてしまった。
 その4年後、今度は妻がアメリカの娘に会うために72時間だけ男のいる日本に立ち寄る。13年ぶりの夫婦の再会である。
 この日のために男はアパートのシーツを洗濯し、東京見物の計画を練った。浅草を散歩する2人。狭いアパートの一室で夫の暮らしぶりを見て妻も涙を流す。
 
 アメリカの娘はNYで医者の卵になった。そして来日から15年、男が妻の待つ中国に帰る日が来た。
 50歳になった男は15年ぶりに北海道の阿寒町に行き、かつて勉学を志した日本語学校を訪ねる。阿寒町の事業はとうに破綻し、学校は廃校になっていた。

 男は廃校に向かって頭を深々と下げる。あの時は逃げ出す以外にどうしようもなかったが、勉学を断念して申し訳なかったと。

 上海では妻が歯の悪い夫のために柔らかいご馳走を用意して夫の帰国を待っている。
 アメリカNYでは白衣の娘が生まれたばかりの赤ちゃんを診察している。

娘が言う。「私の父親は信じられないくらいの苦労をして私を医者にしてくれた。その苦労に報いるためにも私は一人でも多くの患者を救いたい。」

 上海に向かう機内で男は涙を流し続ける。「万感胸に迫る」とはこのことだろう。

父親たちの星条旗 2006.11.9

クリント・イーストウッド監督の映画「父親たちの星条旗」を見た。太平洋戦争の激戦地、硫黄島での戦いをアメリカ側のエピソードで描いた映画。ジェームズ・ブラッドリーが書いた同名のノンフィクションを映画化したものである。

シナリオはさすがイーストウッド監督、良く出来ている。戦争の映像も凄い。
多大な犠牲者を出した後にアメリカ軍が硫黄島のすり鉢山頂上に星条旗を立てたのは2度あった。最初に立てた時の写真はなく、後に新聞にも載ったり、記念碑の群像にもなった有名な写真は旗をもっと大きなものに取り替えるために立て直した「2度目のもの」だった。

その2度目の写真に写った兵士たちも実は最初に頂上を征服した兵士たちと違って、その後たまたまその場にいた兵士たちだった。しかし、2度目の写真に写った3人の兵士はすぐに帰国させられ硫黄島征服の英雄として戦費調達のための様々なイベントに駆り出されることになる。

3人を英雄に祭り上げて底をつきかけた戦費調達にやっきになる政治家たち、英雄の役割を演じることに抵抗を感じる3人と対照的なアメリカ国民の熱狂ぶり、彼らが英雄としてもてはやされている間にも硫黄島の過酷な戦いで死んでいく海兵隊たち、最初に旗を掲げた後に島で戦死した遺族たちの冷たい目。その合間に「地獄の中の地獄」と言われた戦争の経過映像が挿入されていく。

この映画で監督が描きたかったのは、戦争に利用された3人の心の屈折と戦争による心の傷だろうと思う。それは、上の図式のような対立的要素が効果的にぶつかり合うことによって最終的に戦争の空しさを伝えている。
良くできた映画だと思う。しかし、一方で練りに練ったシナリオの落とし穴も感じさせる。

アカデミー賞を取った「ミリオンダラー・ベイビー」(イーストウッド監督)も、最初これでもかと言うくらい老コーチが女ボクサーを拒否したりする。後半の彼女の挑戦を盛り上げるための演出だと思う。
まあ、それはともかく私は人生の現実も戦争の現実もそのような絵に描いたような図式に当てはまらないところにあるのだともう。

硫黄島では前回書いたように2万129名の日本兵と6821名のアメリカ兵が戦死した。映画が描いたのはその戦争で生き残ったたった3人のアメリカ兵の物語である。その陰には2万7千人の一つ一つ違った人生があった。
「散るぞ悲しき」を読むと、日本兵の中には15,6歳の少年兵も沢山いた。夕方島での訓練を終えた彼らは「夕空晴れて秋風吹き」と歌いながら隊列を組んで帰った。「ああ わが父母いかにおわす」と続く、この女々しいと受け取られかねない「故郷の空」の歌を上官たちもとがめることなく聞き入っていたと言う。

戦争の過酷さは戦いで死んだ膨大な人々、一人一人に特別なものである。私はこの映画の良さを否定するつもりはないが、一つの図式の背後にはそれにも当てはまらない、もっと過酷で悲惨な現実が山のようにあるということもまた忘れてならないと思う。

日本人の戦争 2006.9.17

台湾とフィリピンの間に「バシー海峡」がある。昭和18年半ばには既に日本はこの海峡での制海権を失っており、日本軍の輸送船は出没するアメリカの潜水艦や戦闘機の格好の標的となって、大量の兵員を載せた輸送船が次々と海の藻屑と消えていった。
それでも大本営はやがてフィリピンに再上陸するであろうマッカーサーを迎え撃つために兵員を送り込み続けた。

評論家、山本七平も昭和19年4月、22歳の時、戦地フィリピンに行くために門司から輸送船に積み込まれた。輸送船とは名ばかりの老朽貨物船。甲板には、船べりを伝って海に汚物を垂れ流す便所が無数に並んでおり、船全体が異臭を放っている。
午後1時、貨物船に3千人を詰め込む作業が始まる。しかし乗船作業は遅々として進まず、雨の中兵隊たちは待ち続けた。

胴回り2倍ほどの装備と座布団のような救命胴衣を着けた兵隊が乗り込むのだが、その詰め込み方が想像を絶している。
一坪(たたみ2畳)の船倉を上下2段に区切って、そこに14人を押し込むのだ。一旦横になって並ぶと立つことも出来ない。湿気100%の蒸し暑い船倉に3千人の兵隊を押し込むのに夜半までかかった。

船のスピードは5ノット(時速9キロ強)。この身動きも出来ないすし詰めの状態で、ノロノロとしかも発見を避けるためにジグザグに、危険なバシー海峡を渡ってフィリピンに向かう。
木造老朽船は魚雷が当たれば15秒で沈没した。誰も助からない。山本氏はそれをアウシュビッツよりも恐ろしい死のベルトコンベアだと書いている。
事実多くの輸送船が声を発する間もなく消えて行き、その大量の戦死は秘密にされた。

しかも奇跡的にフィリピンに到着した兵隊を待っていたのは、「何だって大本営は、兵員ばかりゾロゾロと送り込んで来るのだ。こっちには食い物も宿舎も武器もないのに。」という状況である。
到着した兵隊が飯ごうの残りかすをあさっている乞食のような人たちを目撃するが、よく見るとそれが先着の日本兵であり、到着した日本兵がそういう姿になるのに10日もかからなかった。

人間の命が紙くずのように扱われ、貨物船に押し込まれたときから日本兵の思考力も戦意も失われていた。
こうした状況を軍部の誰も直視せず、50万人を送ってだめなら100万人を送り込むと言う、行き当たりばったりの作戦を大本営は続けていたのである。

山本七平の「日本はなぜ敗れるのか 敗因21か条」は、帯に「奥田会長が是非読むようにとトヨタ幹部に薦めた」とあるが、様々な角度からこうした行き当たりばったりの思考方法がいまだに日本を支配している、ということを伝えている。体験者にしか書けない名著と言うべきだろう。

◆◆◆
激戦の地「硫黄島」
東京から南に1250キロ離れた絶海の中に硫黄島はある。広さが世田谷区の半分にも満たない22平方キロメートル、縦に8.5キロ、横に4.5キロしかない小さな島である。
島はしゃもじのような形をしているが、柄に当たる島の南西に標高169メートルの摺鉢山があるほかはなだらかな台地が広がっている。
この小さな島が太平洋戦争中、アメリカ海兵隊の兵士に「地獄の中の地獄」と言わしめた激戦の地となった。

アメリカ軍は上陸前に海と空から74日間にわたって島の形が変わるほどの徹底的な爆撃を行ったあと、昭和20年2月19日、上陸を開始。圧倒的な火力を備えた6万のアメリカ軍が島を守る日本軍2万に襲い掛かった。

当初、アメリカ軍は上陸後5日で島を制圧できると見ていた。上陸前の砲撃を見て「これじゃ日本兵は一人残らず死ぬんじゃないか」「おれたち用の日本人は残っているのかな?」と言っていた海兵隊は、しかし予想に反して島の地下壕に潜んでいた日本兵と地獄のような死闘を続けることになる。

双方死力を尽くした戦闘は36日間続いた。米軍側の死傷者2万8686名(うち死者6821名)、日本側死傷者2万1152名(うち死者2万129名)。硫黄島は、太平洋戦争においてアメリカが攻勢に転じた後、米軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦場となった。

総指揮官、栗林忠道
日本軍2万の総指揮官は、陸軍中将の栗林忠道である。彼は、それより前の島々の攻防戦で失敗した「水際作戦」を排除して、アメリカ軍を島に呼び込んで島中にめぐらした地下壕から地上の敵と戦うという独創的な戦術を採った。
着任した昭和19年6月以来8ヶ月、彼は食料も野菜も乏しく、特に水は雨水しか頼れない厳しい環境の中、2万の部下とともに地下壕を掘り続けた。

両者の戦力を比較すれば、日本軍には万に一つの勝ち目もない絶望的な戦いである。彼は闘いの目的を、戦いを出来るだけ長く引き延ばし、一人でも多くの敵を殺すことに置いた。彼らが硫黄島で戦っている限り、首都東京の空襲を防げると考えたからである。
そして、部下にバンザイ突撃による玉砕を禁じ、一人になっても最後の最後までゲリラとなって戦うことを命じた。

栗林中将と2万の日本兵は、36日間でほぼ全滅したが、最後の兵士2名が投降したのは終戦から3年半、主力部隊の全滅後から4年近くもたっていた。

硫黄島の悲劇が伝えるもの
硫黄島の戦いを描いた話題のノンフィクション「散るぞ悲しき」(梯久美子)。これを読むと、硫黄島の戦いにもまた先の戦争の典型的な悲劇が凝縮しているのが分かる。
@ 充分な食料も水も、そして武器も補給せず、2万の軍隊を送り込んで太平洋の要衝を守らせたこと。
A 指揮官栗林はアメリカ駐在の経験を持っていて「アメリカは最も闘ってはならない国」と考えていたにもかかわらず、アメリカの物量作戦と戦う運命に置かれたこと。
B 現地指揮官が大本営の無能に悩まされたこと。大本営は、島の重要性を知りながら誤った水際作戦を強要する一方、補給を怠り、やがて島を見捨てた。

極限の中で命を賭して壮絶なまでに戦ったかつての日本兵の姿を知るにつけ、戦争の悲劇、むなしさが一層募ってくる。

戦争のドキュメントは私たちに、局部の作戦、戦術の成否を後から「たられば」(ああなっていたら、こうしていれば局部的には勝っていたかも知れない)で云々するより大事なことがあることを教えてくれる。
大事なのはむしろ、この愚かな戦争が何故引き起こされたのか、引き起こしたのは何か(誰か)という大局的な視点の中で、個々の悲劇的現実を見ることなのだ。

まもなく、日米両国から硫黄島の戦いを描いたクリント・イーストウッド監督の2本の映画「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」が公開される。これらの感想もいずれ書きたいと思う。

この国の姿・田舎 2006.8.26

ある日ふと、「帰りなんいざ 田園まさに荒れなんとす」という、ご存知、唐淵明の漢詩「帰去来の辞」の一節が頭に浮かび、面白半分にネット検索に入れてみた。すると意外なことに、実に多くの人たちがこの言葉を引用しながらネット上で「あるテーマ」について書いているのを発見した。

「あるテーマ」とは、要約すれば老後の田舎暮らしについてである。今、多くの日本人が田舎で暮らすことにある種の憧れを抱いているらしい。
毎日、嫌なニュースだらけの閉塞感のある都会生活を脱出して、老後を田舎という異次元の空間でゆったりと暮らしてみたいと幻想を抱く人の気持ちは分からないでもない。

しかし一方で、今の日本に快適な暮らしが出来る田舎なんてあるのかとも思ってしまう。バブル崩壊後の失われた10年に続く小泉政治の5年間、日本の田舎は打ち捨てられてきた
地方経済が崩壊の中から立ち上がれないままに過ぎた15年の間に、日本の田舎は大きく変わってしまったのではないか。でもどんな風に変わったのだろう?

この夏、私はそんな思いを抱きながら郷里を訪ね、50年前の記憶と比べながら周辺を歩いてみた。以下はその時の雑感である。

森のそばにあった、かつての保育園はとっくになくなって、お決まりの小公園になった。錆びたブランコと滑り台が寂しく残っているが、十年以上も前から使われている気配はない。子どもが減ってしまったのだ。
昔は森に分け入り、よく蝉を取ったものだが、森は今、手が入らないまま人を寄せ付けないほどにうっそうと茂っている。

一方、家の近くにあった祠(ほこら)は、かつて何本もの大木に囲まれていたが、数本を残して無残に伐採されていた。コンクリート製の小さな祠と鳥居に変わって、すぐそばには開発された住宅地。住宅メーカーのパンフレットから抜け出したような、日本の田舎にそぐわない華やかな住宅が何軒か並んでいる。
そうかと思えば、朽ち果てた家、草に覆われた家も目立つ。住人が出て行ってしまったのだろう。

住宅地がくしの歯が抜けたように、駐車場になっている。そこには、何故か車だけが多い。
近くにあった日用品の店はもうかなり昔に店じまいし、バスで町に買い物に出なければならない。老母によれば、そのバスの便もだんだんと少なくなり、今では2時間に一便だと言う。

今、地方経済は限られているから、日本の田舎に都会人が移り住むには、極論すればテレビでよくやっているように、自給自足か、年金生活かになってしまう。日本の田舎は今後、どうなっていくのだろうか。

一つ言えるのは、それでも田舎の存在は都会の日本人にとって心のよりどころであり続けるということだ。
そう考えれば、荒れた田舎も政治の舵取り次第で、本当は限りない可能性を残しているはずだし、田舎の再生はこれからの重要な政治課題になるべきだろう

「帰りなんいざ 田園まさに荒れなんとす」という言葉が最近妙に心に引っかかる。

もう一つの戦争責任 2006.7.17

戦争責任といえば、日本が諸外国に与えた莫大な戦争被害(犠牲者2千万人という)に対する責任を裁いた「極東国際軍事裁判(東京裁判)」がある。この裁判は色々問題も指摘されるが、日本はサンフランシスコ講和条約(S26年)で国際的にもこの結果を受け入れたことになっている。

しかし、あの戦争を指導した人々にはもう一つ、日本を未曾有の厄災に導いた「日本国民に対する戦争責任」があるはずだ。
何しろ、「不戦の誓い」にも書いたが、先の太平洋戦争では300万人以上の日本国民が犠牲になり、日本は文字通り焼け野原になった。そして、犠牲者のうち150万人から200万人は、軍部指導者の無策によって南方の島々で飢え死にした日本兵である。

それなのに、当時は国民皆が国を思って自存自衛のための戦争に突き進んだのだから、誰も悪者にはできない、という人がいる。とんでもない話だ。
また、日本人の戦争責任を突き詰めていくと、らっきょの皮をむくみたいに誰も悪者がいなくなってしまう、と言う人もいるが、そんな「日本人総ざんげ論」ですますようなことではないのである。

国民の運命に責任を持つべき立場の為政者や軍部は、その思いや意図が何であれ国民に対する「結果責任」がある。それを日本人は自らの手で、厳しく問うべきだったのだが、東京裁判騒ぎと戦後の混乱の中で、これまでなおざりにして来た。
最近、遅ればせながら新聞などで「国民に対する戦争責任」の再検証が始まっている。靖国の「A級戦犯」合祀問題などを考える上で、避けて通れない問題になって来たからだろう。

しかし、これも多面的に検証すればするほど、悪者が増えて問題が拡散して何が何だか分からなくなる。
私としては「国民に対する戦争責任」を考える時、とりあえず、これだけは許せないと言う、以下の2つに絞って考えるのが最も分かりやすいのではないかと思っている。

第一に、日本を無謀な戦争に駆り立てた人々である。
国際的に孤立の道を歩み、戦争が避けられないような数々の愚かな選択(日独軍事同盟など)をし、日本を戦争に導いた為政者たち。さらには、国の運命をもてあそび、様々な軍事的冒険を勝手に始め、戦争拡大の道を突き進んだ軍部、軍人。
戦争を煽ったマスコミも悪いが、何しろ戦争は始めたやつが最大の戦犯である。

第二は、戦争を始めたからには終戦の道を一方で探ることは不可欠なのに、その判断を放棄し国民の悲惨な苦しみ長引かせた責任
特に戦争末期、誰が見ても敗戦しか方途がないと思われた時期に、終戦の努力を妨害し、広島、長崎を招いた責任。
第一よりは軽いかもしれないが、後世の教訓のためには、これも責任を問う必要があるだろう

これらの責任者は、すでに様々な研究からその具体的名前と罪状が明白になりつつある。東京裁判問題云々は別として、日本人自らがその責任の所在を明確にし戦争を防ぐ教訓として生かさなければ、先の戦争の犠牲者たちは浮かばれない。

◆◆◆
戦後の「極東国際軍事裁判(東京裁判)」で判決の出た、いわゆる「A級戦犯」については、その結果をサンフランシスコ講和条約で日本は受け入れた形になっていて、これは特に甚大な被害をこうむった近隣諸国にとって決着のついた結論である。(だから小泉首相の靖国参拝に対して中国や韓国も怒る)
しかし、この裁判の正当性を巡ってはその後も様々な異論が出ており、刑死したり獄死したりした「A級戦犯」を殉難者として祀るべきだと言う人々もいるのはご存知の通りである。

毎年、神社参拝を続ける小泉が、この「A級戦犯問題」について、どのような考えを持っているかはマスコミも追求しないし、彼も説明をしないので分からない。
しかし、日本人が自らの手で、自ら納得のいく形であの戦争の責任者を裁いたとしたら、その責任者を(二度と戦争をしてはならないと公言している)国の政治家たちがあのような形でお参りするだろうか。

前回、「日本人に対する戦争責任」について2つのポイントを書いたが、この観点から新たに追及されるべき責任者は、当然のことながら、靖国神社に合祀された「A級戦犯」と重なってくるだろう。 しかし、仮に重なったとしても、その意味や重さ、納得の度合いは大きく違ってくるはずである。

最近、昭和天皇が靖国神社への「A級戦犯合祀」について、不快感を抱いていたことが報道された。その気持ちを尊重するような新聞の論調も多かったように思うが、天皇がなぜ不快感を抱いたのか、今ひとつ明快ではなかった。

天皇は、極東国際軍事裁判の結果を妥当と考え、尊重すべきだと思っていたのか、或いは、天皇の意図に反して無謀な戦争を始めた彼らの責任を、天皇なりに判定を下していたからなのだろうか。

いずれにしても、日本人自らが戦争責任問題をあいまいにしてきたつけは大きいと言わざるを得ない。

幼子受難 2006.6.20

「お前がついて来ると迷惑なんだよ!」と大きな声がしたので見てみると、母親が小さな女の子(小学一年くらい)を突き飛ばしている。
街の中なので、母親からはぐれたら大変と思っているのだろう、女の子は、振り返りもしない母親の後を3メートルくらい離れながら必死についていく。その顔には、普段からこうした虐待に遭っているためか、あきらめに似た深い悲しみが張り付いている。
その子の目には、向こうから来る手をつないだ幸せそうな親子の姿は映っているのだろうか?父の日の先日、街で出会った光景である。

また、ある日の電車の中で「だから我慢しなさいって言ったでしょ!」と声を荒げる母親。
「出ちゃう出ちゃう」と言っていたのに、前の駅で降ろしてもらえなかった男児のズボンから電車の床におしっこが流れ出した。その時、母親を見上げた男児の悲しそうな表情も忘れられない。


秋田の小学生殺人事件。可哀想過ぎて詳しく読む気も起こらないが、容疑者の亡くなった娘(9歳)も、母親から虐待され、カップめんを持って冬の戸外に出されていたりして「死にたい」ともらしていたという。その幼な子の写真も数々の精神的、肉体的受難を経てきた暗い哀しみの表情をしている。

大人の心無い仕打ちが、いかに幼児の心に消しがたい傷を残していくか。特に幼い時に虐待を受けた大人が、我が子の心を思いやることが出来ない。
壊れた心に鎧(よろい)をつけ感覚を麻痺させた結果、かつての自分の悲しみを忘れてしまったのか。哀しい輪廻(循環)である。

子どもたちの無防備な心が大人からは想像できない位に敏感で傷つきやすいと言うことを、大人たちはもっと深刻に思い知るべきではないか。
幼児をめぐる数々の受難を見聞きするたびに、私は胸がふさがるような気持ちになって、なぜか世のすべての哀しみを引き受けて死んだ、あのキリストの受難を思ってしまう。

◆◆◆
ある朝。
道路の向こう側を、見た目はごく普通の若い女がタバコを吸いながら歩いてきて、そのタバコを何の躊躇もなく路上に投げ捨て、横断歩道を渡り始めた。火がついたままのタバコを気にするそぶりもない。すれ違って見るその表情は、やはりどこかがずれている。

今はそういう何か大事なことを踏み外した若い女性が(もちろん男性も)子育てをする時代である。ある調査によると妊娠した女性の1割が喫煙を続けると言う。

生まれた赤ちゃんはただ可愛いばかりではない。
昼も夜も、お腹がすいては泣き、おしめがぬれては泣き、少し熱が出ても泣き、何だか分からない不機嫌でも泣く。
そういうサインが読み取れずにただあやしていても泣き止まない。途方にくれて叱ったりすればもっと泣く。

小さいながらも個性を持った赤ちゃんは泣くことで精一杯自己主張しているのだが、それを我侭と勘違いして、しつけのつもりで叱ったり叩いたりすると、赤ちゃんは何かに怯えたように情緒が不安定になる。
こうしたことが続くと、赤ちゃんはなつかなくなり、妙にいじけた表情や仕草を見せるようになる。表情も乏しくなり、ちょっとしたことで泣き喚くようになる。

赤ちゃんを可愛いペットを飼うぐらいに思っていた若い母親は、こんなはずではなかったとイライラする。
さらに、幼い子どもは親の心を映す鏡のようなものだから、親のイライラは子どもに伝染して、ますますいじけさせる。可愛いはずの子どもが可愛くない。悪循環の始まりである。

多かれ少なかれこうした(仮想の)心の揺れを経験しながら、多くの母親たちが踏み止まって子どもを受け入れて行くのは、本能に近い、偉大なる母性があるからだろうと思う。

しかし今は、その偉大な母性が、出口を見つけられずに心の内部に鬱積(うっせき)してしまうことがあるのではないか。
小学生殺人の畠山容疑者は、虐待していた我が娘が死んで初めて、自分の中の巨大な母性に直面したのだと思う。(私は本当だと思っているが)「胸が張り裂けそうになった」と言うのは、ある意味で現代の深刻な悲劇である。