日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

今日の記事 2009.10.15

今日の毎日新聞朝刊で、政治部副部長が「報道も変わらなければ」という囲み記事を書いている。民主党になってからの変革に、政治記者たちもようやく今までのやり方を変えなければと気づいたようだ。

 「これまで、政治も官僚も政策の見直しについて責任を取ってこなかった。民主党はその責任を負うと言っている。メディアもともに責任を負う意識改革が必要ではないか。」

 「官僚の描くシナリオを超え、記者ひとりひとりが国のあり方や政策の方向性を考える。その努力なしに民主党政権の政治主導を検証するのは困難だろう。政治は変わった。報道も変わらなければならない。」というのである。

本当に変われるか?
 新聞週間にちなんだ特集記事らしく、殊勝でもっともな意見である。しかし、その意味するところが十分現場で咀嚼されて、具体的な取材態度や記事になって現れるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

 というのも、変化が現れるには、(ここにも書いてある通り)記者クラブなどに頼らずに情報を集め、またその一つ一つのテーマについて、「歴史的な経緯はどうだったのか、世界的にはどのようになっているか、未来的にはどうなるのが理想なのか」といった広い視点で自らも勉強していなければならないからだ。
 その上でなければ、「新しい政策の本質を理解し、その是非を考える材料を読者に提供するのが我々の責務だ。」(記事)とはならない。

夕刊の一面トップ記事
 そして、この日の夕刊の一面トップ。「やっぱり官僚頼み」という大きな見出しが躍っている。タイトルだけ見ると大方の読者は、民主党もやっぱり駄目か、という気になる。
 しかし、よく読むと国会での相手党の質問取りを官僚に頼んだということ、だけ。それも「民主党はこれを議員の政務官が行うことを検討しているが」ということで、民主党はまだ「政務官が行うのに決めた」と言ったわけではないらしい。

 決めてもいないことを先回りして、「政治主導」という建前からして官僚に質問取りをやらせるのはおかしいと、記者が勝手に思っているだけなのだ。しかも、この記事はそう自分が思っているということを一切表に出さない。

 記事は、官僚に質問を取らせたら、民主党も(昔の自民党にように)「答弁も官僚の書いたものを読んでいた」ようになる、という、自民党時代と変わらぬことが起きるはずという前提で書かれている。民主党がこれだけ官僚主導打破を唱え、様々な変革を行おうとしているときに、その本質を理解しようとしない。

官僚は使えばいい
 さらに、民主党が質問取りを官僚にやらせる理由が、政務次官が今は大変に忙しくて手が回らない状況だから、というのであれば、何でこれが「やっぱり官僚頼み」という大見出しになるのだろうか。
 理想的には、国会答弁のすべての事務を政治家がやるべきだというのはあるだろうが、理想がすぐにも実現するならこんな簡単なことはない。政治家の手が回らない時に、それを官僚が手伝ってはいけない法律でもあるのだろうか。

 素直に考えれば、質問取りくらい、官僚にやらせればいいではないかと思う。あるいは、(民主党はしないかもしれないが)答弁の下書きだって書かせてもいいではないかとも思う。
 政治家が各々のテーマについて、基本方針を明確に指示していれば、頭のいい官僚はその線に沿って答案を書く。骨抜きを図ろうとしたらそれを権限を行使して、直せばいいだけの話。

 今までは方針が明確でなかったり、族議員らの圧力の中で身動きがとれず、官僚に足元を見られていただけなのだ。民主党はそこを変えようとしている。
 問題は、大臣がそれを自分の考えで直し、自分の言葉で答えられるかどうか、だと思う。それができないときにこそ、この見出しを使うべきではないか。

大事なことを熟慮して伝えよ
 ようするに、この記事は「官僚が質問取りに行くことになった」という情報を聞きつけ、自民党幹事長の話まで動員して膨らませて、「口では政治主導と言っているけど、民主党は口ばかりだ」と思わせる記事に仕立てている。

 その一方で、この記事は「質問取りとは具体的にどういうことをやるのか」、「質問取りはなぜ必要なのか」というような国会慣習にかかわる素朴な疑問も素通りしている。一般市民には分からない。狭い永田町界隈の感覚で書かれた不親切な記事と言わざるを得ない。
 記者は一面トップで「やった!」と思っているだろうが、こうした瑣末な記事が連日大げさに報道されて、徐々に政治不信を増大させていく。そしてメディアもいつか見放されてしまう。

 今は、予算をどうするかの大事な時、概算要求が出るという日に、国民の立場に立って「民主党は何を目指しているのか、それは国民にとってどうなのか」を伝えずに、こんな記事が一面トップでは、「報道も変わらなければ」というのも空しく聞こえる。

民主党に何を望むか 2009.10.2

政権が発足してからまだ3週間余りしか経ってないが、政権の各所轄大臣たちがマニフェストの実行のために一斉に様々な問題に手をつけ始めている。
 子育て手当などの政策のための補正予算見直し、八ッ場ダムの工事中止、中小零細企業の借入金返済のモラトリアム、アフガニスタン救援のための給油の見直し、普天間基地の移設問題、税金の減収を補うための赤字国債発行問題、などなどだ。

高みから批判するマスコミ
 多くは自民党時代からの大きな方向転換だけに、政権内で意見のばらつきも目立つ。また、首脳同士の会談などから相手国の意向が見えてくると、当初の主張から後退したような発言が出始める。またそれをマスコミが、ブレるだの政権内不一致だのと揶揄する。

 しかし、こんなことは、何か大きな変革を実行するときには当たり前のことではないか。マスコミは大胆な政策転換など、必要だと思っていてもこれまで提言したこともなく、また仮に考えていたところで自民党政権に何の転換も促せないできた。

 今も、多くのマスコミは民主党の政策をきちんと評価もしないまま、自分たちのこれまでの無作為を棚に上げて、高みから偉そうにアラさがしをしている。同じマスコミが民主党がやると言えばやり方を批判し、やらないと言えば後退だと批判する。良くもまあいろいろ言えるものだと思う。
 是々非々の批判がマスコミの権力に対するあり方だと言うのだろうが、こういう重大な変革時になると、それは無責任。言うなら言うで、政策に対する自分たちの考えを明示するのとセットにしてもらいたいと思う。

民主党の説明は足りているか
 民主党は、この3週間の間に、国際的な場では、国連で二酸化炭素25%削減を表明し、米国と核廃絶、温暖化防止について基本的な考え方を議論し、日中韓で東アジア共同体構想について理解を促した。昨日はアフガニスタン救援を直接相手国に伝えている。
 外国から
「顔の見えない日本」などと言われ、マスコミからも嘲笑されていた日本政府としては、好調な滑り出しではないか。

 問題は内政。一つ一つのマニフェストを実行しようとするのに急で、国民に対する説明が疎かになっている。何のためにこの政策を行うのか、それはどのような将来像につながるのか、口を酸っぱくして説明しなければならない。
 国民は幸せを感じることができる国作りのためなら、次の世代や弱者のために、多少のことは犠牲にしてもいいと思っている。しかし、その道筋を納得する形で説明されなければ満足しない。

 例えば、高速道路料金の無料化も、これによってどのような国作りにつながるのか、説明できなければならない。マニフェストに書いたからということだけでなく、時間をかけて国民の納得を得ていかなければ、政権は民意から離れてしまう。それが出来るかどうかが、民主党の試金石になるだろう。

日本を幸せにするマスタープランを
 そこで毎回書くのだが、説明をするためには「基本的な、国の設計図」(マスタープラン)を早く出すことだ。国家戦略室がどのような設計図を描くのか、これが重要になる。
 これは、国の将来を盤石なものにするために取り組むべき基本的なテーマであり、個々の政策はすべてそのテーマにつながってくる。その骨格が見えれば国民も個々の政策の意味が呑み込める。

 必要なのはテーマの立て方と具体的な行程表。テーマ立ては、個々のマニフェストにも関連してくるが、過去に「日本を幸せにする5項目」として取り上げたものとほぼ同じ。優先順位を変えて、例えば。

@国民生活の質的豊かさと社会的安定を確保し、日本が「生活大国」になるための経済および福祉政策
A税金の効率的な運用で地方を活性化しながら、国家財政の破たんを防ぐための行財政機構のあり方
B日本が絶対に戦争に巻き込まれないための外交、防衛政策
C日本人の知的、文化的レベルを維持し、日本が将来もソフトパワーで生きていくための子育て、教育、および文化政策のあり方
D日本が「環境機軸社会への転換」を実現し、技術的、経済的に世界をリードして地球温暖化を防止する政策

国民の理解を求める努力を
 この5項目の具体策が、それぞれの分野で成果を上げ始めれば、日本は間違いなく元気になる。日本の将来も安心だ。
 しかし一方、今、議論になっている個々のマニフェストもすべて、こうした骨太のテーマのもとで意味付けられないと、国民に対して説得力を持たなくなる。

 「国家戦略室」については、人選も進んでいるので、そこでどういう議論が展開されるのか注目したいと思う。民主党もここでの議論を出来るだけ公開して国民の理解を得るように努力すべきだろう。マスコミもここで議論されるべきテーマを掲げて論戦を迫るくらいのことをやってほしいと思う。

マニフェスト選挙とは 2009.8.23

 やたら前哨戦が長かった総選挙もいつの間にか終盤戦。自民党の壊滅的減少という予想が新聞紙上に躍っている。
 (もう過去形で書いているが)この大変化をもたらした民意の深層については、言われているような、政権与党のこの4年間の体たらくや、格差や最貧困層を作った小泉改革に対する反発といったものばかりではないように思う。それはむしろ戦後の「国民と政党との関係」に転換を迫るような国民意識の変化なのではないか。

 これが確かだとすると、自民党壊滅というこの流れはこの先、民主党の誰かが間違って(麻生に代表されるような)「自民党特有の偉そうな古い体質」を見せない限り、誰も止めることはできないだろう。
 今度の選挙は結果の衝撃を見て初めてその意味するところが誰の眼にも明らかになるような「何かが後戻りできないくらいに変わる選挙」になる気がする。これが具体的に何なのかは、結果を踏まえて様々に分析されることだろう。

マニフェスト選挙
 その前に今回は、いわゆるマニフェスト(政権公約)について日頃思っていることを書いてみたい。ご存知のように、今度の選挙では、民主党はかなり早くからマニフェストを公表した。
 それに引きずられるように他の政党もマニフェストを発表した結果、今回はマスコミが初めて正面から各党マニフェストを論じた選挙となり、マニフェスト選挙などともいわれている。これまでは、何かと言うと興味本位の劇場型選挙報道に走ることが多かったマスコミにしては、異例の展開である。

 これは多分、マスコミの意識の変化などではなく、公示前期間があまりに長かったために、すぐには選挙区報道が出来ず、マニフェストという格好の話題に飛びついた結果だろうと思う。
 それだけにマスコミのマニフェスト論議も当初はかなり一面的で、何とかの一つ覚えのように財源論ばかり。しかし、最近では、アンケートをもとに国民の関心の高いテーマ(年金、医療、景気回復、消費税、子育て支援など)について各党マニフェストを整理点検するなどの工夫も見えるようになった。

 また、マニフェストは一次試験のようなもので、実行力と言った二次試験も残っているのだ、といった複眼的見方も紹介されて来ている。まあ、時間がたっぷりあったお陰だろうが、マニフェストへの理解も少しずつ進化していて、これはこれで喜ぶべきことだと思う。

マニフェスト選挙の本当のあり方
 私はしかし、このマニフェストというものを本当に政党選択に役立てるためには、まだまだ工夫の余地があると思っている。それは選挙においては誰が主人公なのかと言う本質的な問題とも関連してくる。
 端的に言えば、選挙とは国民が「自分たちが幸福になるような政治という仕事」を「政党という業者に発注する」ようなものだということである。国民が主人公で発注主。各政党はそれに応札する業者と思えばいい。

 もちろん、「自分たちが幸福になるような政治」は世代や階級、あるいは国家観などで一人一人違ってくるだろう。しかし、政権の選択は国民大多数の幸福を実現するためのものと考えると、その選択はバラバラな個人に白紙でゆだねられるよりは、より多くの人々の幸福にそうような判断材料が提供される中で行われるのが望ましい。
 そういう観点から言えば、選挙前には、いま政治に何を求めるのか、国民の側からの最大公約数的な要求項目(注文書)が明確に示されていることがまずもって重要となる。

 ところが従来の選挙ではこの注文書がないままに選挙に入り、業者(政党)が勝手にああやる、こうやるという提案書(マニフェスト)を書いて出すと言うことが行われている。項目も書式もバラバラ、判断する方の国民は途方に暮れる。これが問題だと思う。

 仮に最大多数の最大幸福を実現するのに必要な項目が国民の側から明確に示されれば話は簡単。政党のマニフェストはその注文に対して各政党がどう応えるのか明らかにした提案書になるはずだから、国民はどの政党の提案がいいのか注文の趣旨に沿って自分で評価していく。私は、それが本当のマニフェスト選挙ではないかと思っている。

マスコミがアクティブに機能するには
 こうしたマニフェスト選挙の利点については、4年前の総選挙の時にも書いた(「政権選択は政策の総合評価で」)が、問題は2つ。一つは国民が政治に何を期待しているのか、誰が国民の声を代弁して明確な注文書作りを行うか。
 もう一つは、各党が示した提案内容(マニフェスト)を評価するための評価基準(これには政党の実行力、政治手法なども入ってくる)を作っていくこと。

 ここでは、一つ目の問題だけを再度取り上げたい。すなわち、選挙に先立ち「いま政治が取り組むべきテーマ」、「選挙で争点にすべき日本の政治課題」について優先順位をつけてリストをまとめる作業。これを誰がやるかである。

 この作業は、国民大多数が納得できる注文書にしなければならないため、できれば政治に左右されない、より公平な機関が行う方がいい。結論から言えば私はマスコミに期待している
 マスコミが国民アンケートなども駆使しながら説得力のある注文書にまとめていく。それが一番いいのではないかと思う。

 今回の選挙でも、マスコミは長い長い準備期間があったのに、事前にそういう作業をせずに、各党のマニフェストが出てからそれをあれこれ高みから検証するばかり。受け身の態度だ。
 選挙が予想される時には、今国民は何を政治に求めているのか、最大多数の最大幸福のために何が求められるのか、マスコミは国民の声を正確に代弁し、政党に問いかけるアクティブな機関でなくてはならないと思う。それが、公約の監視というマスコミ本来の機能にもつながっていくはずだ。

 ただし、そのためにはマスコミも日頃からシンクタンクや大学などとも協力して「日本の政治課題」について充分に研究をして、注文書作りの技術を成熟させておく必要があるだろうと思う。

Nスペと戦争責任 2009.8.12

 私は日本が敗戦を迎える3ヶ月前に生まれた。間もなく64回目の終戦記念日だが、私の年齢と同じなので分かりやすいと同時に、自分を生んでくれた両親たちの当時の心境や苦労を思いやる時でもある。その思いをもとに4年前には「いま、不戦の誓いとは?」を書き、3年前に「もう一つの戦争責任」を書いた。

 「もう一つの戦争責任」の中で私は、東京裁判に任せて日本が自らの手で戦争責任を追及する機会を失ったばかりに、戦後の日本は靖国問題を始め様々な問題を積み残してしまったことを書いた。
 そして話を明確にする意味で、日本の戦争責任については、@日本を無謀な戦争に駆り立てた責任、A戦争を始めたからには一方で終戦の道を探ることは不可欠なのに、その判断を放棄し国民の悲惨な苦しみ長引かせた責任、の2つが問われるべきだと書いた。

11年、400時間の反省会
 そんな思いを持ち続けている私が多大な関心を持って見た番組が8月9日から3回にわたって放送された、NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」だ。海軍の中枢で作戦を立て日本を戦争に導いていった海軍軍令部。その経験者を中心とした元軍人たちの11年間、述べ400時間に及ぶ「反省会」の録音テープが発掘された。
 これをもとに第1回「開戦 海軍あって国家なし」、第2回「特攻 やましき沈黙」、第3回「戦犯裁判 第二の戦争」をそれぞれ1時間のドキュメンタリーとして放送したものだ。

 これまでも、日本がどのようにして戦争に踏み込んでいったのか、戦前の体制を構造的に論じたもの、或いはあの戦争に何故負けたのか、失敗の本質を論じた番組など、概論的に戦争責任に触れた番組はあった。しかし、この放送は戦争責任というテーマに真正面から向き合いながら、極めて具体的にそこに踏み込んだ初めての番組ではなかったと思う。

 詳しい内容は省くが、このことが可能になったのは、元軍人たちの反省会が「あの戦争の教訓は何か、2度とあのようなことを起こさないための反省点は何か」という一点で行われた真摯なものだからだと思う。但し、それは海軍の恥部をさらけだす内容だったため、(それが彼らの限界とも言えるのだが)その証言は関係者の中だけに埋もれたままになっていた。

 今回表に出てきたのは、多分、その内容が今となっては埋もれさせるにはあまりに重大、かつ(国民の財産とも言うべき)貴重なものなので、そのテープ自身が「私をこのまま消さないで!」と声を発したのだろうと思う。それを見つけたスタッフも手柄だが、その公開に同意した関係者も偉いと思う。

組織があって国民なしの無責任体質
 日米開戦の重要な鍵を握っていた海軍軍令部がいかに大勢に引きずられていったか。第1回の番組では、彼らには海軍の組織を守るということがあっても、国民、国をどう守るかと言うような意識がなくなっていたこと、極めて杜撰で無責任な計画のままに戦争に突入した実態が語られている。

 また、第2回では、若者に多大で無駄な犠牲を強いたカミカゼ特攻隊の発想がどのようにして作られていったか。その責任者は誰なのか。また第3回では終戦時の「東京裁判」で海軍上層部を守るために、いかにBC級ら下級軍人に責任をなすり付けたか、そのために戦後の旧軍令部の人間たちがいかに動いたか、驚くべき実態を明らかにしている。

 この番組で感心する点は、400時間の証言を鵜呑みにするのではなく、関連の資料をこれまた緻密に発掘していることだ。また、全体のトーンも彼らの戦争責任を明らかにするだけではなく、それを現在の日本に引き比べている点。「省益あって国益なし」というように、今の社会にも自分たちの組織を大事にして国民を犠牲にする構造、間違っていると思っても敢えて口に出さない体質は何ら変わらずに生き続けている、ということを私たちの問題として指摘している。

戦争責任問題解明の重要性
 以前書いたように、今の日本にとって、あいまいなままに放置されている戦争責任問題を解明することは、ますます重要になっている。二度と馬鹿な戦争を度繰り返さないために、私たちは常に戦争責任の原点に戻って点検し、その教訓を肝に銘じなければならない。
 その原点の姿をより明確にし、国民の財産としてつけ加えた意味において、このNスペシリーズは評価されるべきだと思う。それが11年にわたって反省会を開き続けた元軍人たちの願いでもあったろう。

 但し、最後にわずかな不満を一つだけ。番組の冒頭とまとめのメッセージで、「一番大事にするべきは一人一人の命」と言っている事だ。それは言葉上は正しいけれど、それでは戦争を論じるには短絡過ぎる。
 本当に戦争を食い止めるには、「いま、不戦の誓いとは?」の最後にも書いたように、戦争の引き金になる「国益、国家」と「国民」の関係を充分議論しておく必要がある。

 「戦争が取り返しのつかない犠牲を国民に強いるということが明確な以上、そうしてまで(自分や家族の命を犠牲にしてまでも)守るものは何なのか。」ということをいまこそ議論しておく必要がある。その結果の「一人一人の命」と言うことでなくてはならない。

裁判員裁判で感じたこと 2009.8.8

娘が裁判員に?
 実は昨年のことだが、同居の娘に裁判員の候補者に指名されたと言う通知が来た。特別の理由がない限り、指名されれば裁判に参加しなければならないという。
 裁判員制度については、マスコミも盛んに取り上げていたが、まさか娘が裁判員になるような事態は予想していなかったので、やはり身近にも起こりうることなのだと実感した。

 この制度は、これまで法律の専門家たちの間だけで完結していた裁判に市民が参加することによって、裁判に一般市民の日常感覚や常識を反映させることを目的として5年前に作られた。裁判の対象となるのは、殺人や傷害致死、強盗致傷、建物の放火や身代金誘拐などの重大な刑事事件に限られている。

反対の理由
 しかし、私などはこう思っていた。何で善良な一般市民がそんな凶悪な事件の裁判につき合わなければならないのか。莫大な税金を使って、しかも市民に他人を裁くという苦痛を強いるのが果たして正しいのか。

 何で市民が高い給料を貰っている裁判官のために、安い日当で狩り出されなければならないのか。そんなに今の裁判官たちが一般市民の感覚からずれているなら、裁判官たちを教育するのが本筋ではないか。
 或いは、特権階級のような裁判官の給料を下げて、いやでも市民感覚を持たざるを得ないようにすることの方が早道ではないか。―――そう思っていた。

 この裁判員制度については、「天下の悪法」だと、反対する人々も多い。しかし先日、その裁判員制度の第一回目が、マスコミの大々的な報道の中で行われ、その過程をつぶさに見てみると自分なりに感じたことがあった。
 マスコミの論調は、参加した裁判員が市民感覚にあふれた質問をしたのが良かった、これは裁判官にとっても新鮮だったのではないかと、概ね好評のようだ。しかし、私が感じたのはそういうこととはちょっと違う。

社会の薄っぺらな価値観が覆されるような現実に直面する
 私が感じたのは、この制度はむしろ市民教育の重要な場になっていくのではないかと言うことだ。
 裁判を通して、私たち(裁判員と同時に傍聴者の国民も)は、犯罪者がどんな暮らしをきてきたのか、何を思って犯罪に走ったのか、罪を犯したことをどう考えているか、をつぶさに知っていく。これまではニュースの断片記事でしか伝えられなかったものが、ほとんど肉声として伝えられる。

 そうするとどんなことが起こるか。犯罪者たちの話を聞いていくと、私たちの日常的な価値観などはごく表面的な価値観でしかないことを思い知らされることになるだろう。
 また、犯罪者は氷山の一角で、罪を犯すに至らないまでも、世の中には犯罪すれすれの価値観で生きている人々が実に沢山いるということも見えてくる。裁判に関わる中で、市民はそういう様々な価値観の人々との同居で日本の社会が成り立っているということを嫌でも知ることになるだろう。

 私たちは日頃何の疑いもなく、マスコミや学校や会社で作られるある種の上澄みのような奇麗事の価値観を社会全体の価値観だと思って生きている。だから、不祥事や犯罪が起きると(マスコミを先頭にして)社会全体が、その価値観でよってたかって糾弾する。
 しかし、そう言う糾弾は国民の溜飲をさげさせ、また何事もなかったような日常に戻る効果を果たすかもしれないが、裁判を通して知ることは、実際の社会はそんな表面的な価値観で変えられるほど単純ではないということ。もっと重層的な価値観のぶつかり合いで成り立っていると言うことだと思う。

多様な価値観を知ることによって市民の日常感覚が鍛えられていく
 このことは、何も犯罪者の世界だけではない。私たちの社会は一皮めくれば、実に多様な価値観の持ち主で構成されているのが分かる。
 暴力団や右翼のような裏社会があって、それがまた奇麗事を言っている表の権力と結びついている。自分たちだけが正しいと思っている宗教団体の構成員たちもいる。さらには、いわれなき差別に苦しむ在日の人々や部落の人々もいる。そうした人々が持っている価値観がダイナミックにぶつかり合っているのが、現実の社会なのだと思う。(*)

 そういう観点からすると、健全で健康な人々だけしかいないような仮想社会の上に、マスコミなどによって作られた今の価値観は何かあるとたちまちどこかに消えてしまうような薄っぺらなものだと言う気がしてならない。戦前、軍国主義にやられたように案外、狭量でもろいものだという気がする。
 そんな一面的な価値観だけで世の中を見ているのはある意味、危険で残酷なことなのだ。

 そうならないためには、社会を構成する(弱者も含めた)多様な人々の価値観に直面し、関わりながら何が大切なのかを人々とともに模索していかなければならない。それが成熟した社会を作っていく要件にもなってくるのではないか。
 裁判員制度はその意味で、多様な価値観のぶつかり合いの中で、私たちの現実感覚を柔軟かつ強靭なものに鍛え直す一つの機会になるのではないか。そんな風に思った。

(*)こういうことを書いたのは、最近、戦後沖縄の裏社会の動きを追ったノンフィクション「沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史」(佐野眞一)や、在日や部落の当事者がどんな思いで今の日本を見ているかを知ることが出来た「差別と日本人」(野中広努&辛淑玉)などを読んだせいもある。何しろ日本は多様な人々を受け入れるのが最も苦手で、すぐに一つの価値観で走ろうとするから。

政権交代の衝撃 2009.3.29

 小沢の秘書が政治資金規正法違反で逮捕された事件については、24日に秘書が政治資金の虚偽記載で起訴。それをうけて小沢が会見、当面の間、代表を続投することになった。
 問題は世論の反応だと言うが、世論だってこれだけマスコミによる検察情報の垂れ流しにさらされれば良くなるわけはないだろう。

 しかし、政権交代が現実味を帯びてきたこのタイミングで、検察がこの程度の犯罪で強制捜査を行い、あげくに盛んに匂わせていた汚職や談合の余罪も問えないという構図は、検察にとってもかなりやばい。
 (この点で、仮に検察が何らの政治的意図も持たなかったとしても、捜査のタイミングを誤ったのではないか。検察はいろいろ理由を挙げているが説得力はない。政治への影響を考えれば選挙後に捜査しても充分良かったはずだし、批判を避けられたはずだ。)

マスコミ対ネット
 また、今回は「マスコミVSネット」の対立と言うような不思議な現象も目に付く。マスコミも最近こそ、申し訳程度に検察の説明責任を問う記事を併記しているが、一方のネット上には最初から検察の露骨な政治介入を批判する意見が満ち溢れていた。

 もし、様々なネット情報が伝えるように、検察が多少とも小沢民主党の芽を摘もうという由々しき政治的意図を持っていたとすれば、そして、その意図がネットによってじわりと世論に反映して政権交代が阻止されないとすれば、あまりフェアとはいえない検察やマスコミを向こうに廻してネットが初めて機能したケースと言えるかもしれない。

 民主党の中にも小沢辞任論が出始めているが、これはバランス感覚として当然。しかし、ここ暫くは検察VS民主党、自民党VS民主党の世論の動向を見ながらの我慢比べが続くのではないか。

政権交代を巡る死闘が始まった
 ところできょうの本題は別のところにある。それは政権交代の持つ衝撃力をもうちょっと想像力を働かせて考えてみようということ。政権交代はいざ目前に迫ってくると、権力者の間に我々市民が想像する以上の血みどろの戦いを引き起こすらしいから。

 実際に今回の一連の騒動に対する様々な報道を見ていると、改めて民主党による政権交代に危機感を抱いている既成勢力の恐怖に近い焦りがあぶりだされて来た思いがする。
 一方で、民主党の方も自分たちが言っていた政権交代がなまじなことでは達成できない、大変な抵抗を招くということを、今更のように思い知ったに違いない。

既成勢力が抱く政権交代への危機感
 考えてみれば、民主党による政権交代がもし実現すれば、(‘93年の細川政権の9ヶ月間を除き)戦後50年以上続いた自民党政権の終焉を意味する。
 その衝撃力は希薄な空想に過ぎなかった昔の社会党や共産党による政権交代(革命=体制の変革)ほどではないにしても、既成勢力にとっては生死に関わるような打撃になるはずだ。その打撃とは、そして彼らの危機感とは具体的にどんなものだろうか。

 まず何より、自公政権やそれに密着した官僚たちが権力の源泉としている80兆円と言う国の予算の裁量権を奪われることが大きい。これが対立する民主党に移るのだから当面立ち上がれなくなるほどの深刻な打撃になる。

 第二に、中央から地方に至るまで、官僚たちの権力図の組み換えが起こる。民主党に覚えのめでたい新興勢力に取って代わられるだろう。
 それに、多額の税金を使っている独立行政法人などは、官僚の天下りを受け入れるのはもちろん、存立そのものも危うくなる。(民主党も必要な政策とはいえ官僚を敵にまわしたものだ)

 第三に、経団連などの財界主流も民主党政権誕生に危機感を感じているのではないか。製造業への派遣の禁止や低くなった法人税の見直しなど、自民党時代に勝ち得たもろもろの優遇策が変わるかもしれない。

 最後に、右翼団体から右派マスコミまでの政治勢力が抱く危機感がある。我々にはその実態がなかなか掴めないが、秘書が起訴された翌日の一部新聞、週刊誌、雑誌による堰を切ったような小沢批判でも分かるように、その危機感はかなりのものだ。
 また、第七艦隊だけで大丈夫などと言う小沢発言に(アメリカと一蓮托生の)自民党が一斉に反発したように、日本の基地問題に神経を尖らせているアメリカ政府、軍産複合体の危機感も加わっているかもしれない(そんな説を流している人もいる)。

 民主党による政権交代に恐怖に近い危機感を抱いたこれらの既成勢力がいま、総力を挙げて小沢民主党をつぶしにかかっている。まさに生きるか死ぬかの闘い。いやなことだが、これから暫くは何でもありの状況が続きそうだ。

政権構想、マニフェストで真っ向勝負を
 日本は今、戦後64年にして初めてといえるような歴史的変化を前にして民主政治の様々な産みの苦しみを経験している。世界的不況も相まって社会には政治に対する不信感と閉塞感がただよっている。
 私などは、こうなったら民主党も自民党も出来るだけ早く、本格的な政権構想とマニフェストを示して選挙で真っ向勝負というのが唯一の本道と思うのだが。

政治とカネ 2009.3.8

小沢の秘書が政治資金規正法違反で逮捕されて以来、毎日洪水のように検察からのリーク情報を垂れ流しているマスコミを見ていると、疑問が膨らむばかり。

政治家、政党への企業の献金について
 検察が小沢側を追い込んでいる政治資金規正法というのを初めて読んで見たが、大体、この政治資金規正法(特に寄付の制限)が良く分からない。法律そのものが政界の度重なる「政治と金」の不祥事を受けてその都度改正されてきた法律で、改正を渋る政党側の抵抗が透けて見えるようだ。


 「政治と金」という永遠の問題についての抜本的解決(全部政党助成金でやるとか)ではなく、政治に金は必要、しかも政治に金を出して政治参加をしたいという人々の(善意の)欲求まではそいではならない、という政党側の言い分の一方で、出来る限り献金した特定団体(企業や労組)への利益誘導の政治を排するという、二つの考え方の間を取り持つ妥協の産物のような法律なのである。

 だから、法律的には、政治家個人が企業から直接寄付を受けるのはダメだが、政党なら企業から寄付を受けてもOKだとか、企業ではなく政治団体ならいいとか、書いてあるが、私などは政治家に金を寄付する企業や団体が何か見返りを期待しないわけはないのではないかと、考えてしまう。
 法律で形式的に規制しようとはしているが、どうも政治から利益を引き出したい人間たちに、うまい抜け道を考えてくださいと言うような法律だという指摘も一部にあるくらいだ。

見返りを期待しない企業の寄付などない
 企業の寄付行為について言えば、企業経営者の集まりである経団連だって、自民党に多額の献金をして、消費税アップやサラリーマン増税などの様々な政治的要求を行って来た。御手洗氏が会長を務めるキャノンも彼が経団連会長になってから政党への献金を増やしているという。
 表向きお付き合いなどといっても、企業が献金するには何かの下心があるということは法律がどうあれ誰でも知っていることだ。

 そういう点では、新聞などが西松建設関係者の話として、工事の受注がしやすくなるよう期待して献金したというのをさも悪いことのように書いているが、それが(高級な要求か低劣な要求かは別として)寄付する側が何らかの利益を期待するのは当たり前のことではないか。

素人なりの疑問点の幾つか
 今回、検察は盛んに小沢側に汚職に近い重大な犯罪行為があるような情報を流しているが、仮に小沢側が企業からダミー団体を通して直接献金(寄付)を受けたという規正法違反だけだとすると、大した罪にはならないという話もある。
 法律では罰金50万とか100万とか書いてあるが、場合によっては行政指導で済む位の「微罪」という表現もあるくらいだ。しかも、汚職に結びつけるには職務権限なども関係してくるのでそう簡単ではない。

 とすると、この時期に検察が総力を挙げて小沢側を追い詰めようとしている意図が何なのか。検察のいうような単に時効の問題だけだろうか。
 民主党でなくとも勘ぐりたくなる点は幾つもあるのだが、素人なりの疑問点を幾つか上げてみたい。

 政界には小沢以外にも毎年多額の政治献金を各種政治団体から集めている大物議員が沢山いる。そうした大物議員に献金している団体の背後に、禁止されているダミー団体を通じての企業の寄付行為というケースは全くないのか?
 どうもそんなことはないような気がする。
大体多額の金の背後に企業の影がちらつかないようなことが日本であるだろうか。小沢が「不公平」と言った背景にもつながりそうだ。
 仮に「違反は違反でも、そんなの政界では常識。誰も言わないだけ。」というようなことだとすると、何故今回は小沢になったのか。

 それに、口利きが悪いと言うようなことが言われるが、秘書たちが(企業も含む)支持者たちの便宜を働きかけることは、政界の日常茶飯事ではないか。(悪いことは悪いのだろうが)何故小沢の秘書の口利きだけが問題になるのか。

 西松建設の現社長が前社長の悪行を報道関係者にぺらぺらとしゃべるのも解せない話だ。西松建設にどのような権力交代劇や内紛があったのか。西松建設の権力交代は今回の捜査にどのような影響を与えているのか。
 検察は西松建設の裏金問題を手がかりに(これは完全な脱税や収賄罪?の)巨悪に迫ろうとしているらしいが、その本丸はどこにあるのか。本丸が小沢なのか。小沢でなければ小沢は隠れ蓑に使われているのか。

 また、これも下司の勘繰りかもしれないが、今回の事件には政治の流れを阻止しようとする検察を含む霞ヶ関の官僚たちの危機感が共有されていないだろうか。検察の国策捜査(「国家の罠」佐藤優)の存在を知った者としては、素人の様々な疑問やかんぐりにも答える情報が欲しい。

足りない情報
 時は日本の運命を決める天下分け目の選挙を迎えている。日本にとっては政権交代があるかもしれないという歴史的事件の直前である。その時に合わせて、検察が一方の首領をばっさりやろうとしていることだけは確かである。

 私は小沢が次の首相にふさわしいと思っているわけでもないのだが、検察が微罪を適用してまで小沢を失脚させようとする裏には何があるのか、知りたい。
 いずれにしても、今回の事件がどのような結果をもたらすのか、それを知るにはまだまだ情報が少なすぎる。検察のリーク情報があふれる中で、われわれ市民は情報の過疎状態に置かれているのが悔しい。

独裁を描いた映画 2009.3.1

幻の名画「懺悔」
 グルジアのテンギス・アブラゼ監督が映画「懺悔」を完成させたのは1984年。しかし、当時グルジアはまだ厳しい検閲が残っていた旧ソビエト時代で、血塗られた独裁者スターリンを想像させるこの映画は、公開までなお2年間も待たなければならなかった。

 しかし、1986年にグルジアの首都トリビシで、そして翌年にはモスクワで公開されると映画は大反響、モスクワでは10日間で70万人の観客を動員したという。1987年のカンヌ映画祭で審査員特別大賞を取り、ソビエト全土の公開でも記録的な大成功をおさめた。
 時あたかもソ連の指導者がゴルバチョフ書記長(1985年就任)に代わった時で、映画は1991年のソビエト連邦解体(そしてグルジアの独立)につながるペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)のシンボル的映画となった。

 日本での公開はある事情から遅れに遅れて昨年末からこの2月にかけて、岩波ホールで行われた。日本にとってはある意味、幻の映画だったわけだが、見終わるとさすがに優れた芸術が発する重い衝撃が伝わってくる。
 それは、アブラゼ監督が「独裁者および独裁」というもののグロテスクで恐ろしい本質を見事なまでに凝縮して描いているからだ。

ある主人公の白日夢?
 物語は(多分、厳しい検閲を逃れるためだろう)、ある架空の街の出来事という装いをとっている。始めに、かつて市長を務めた老人が死んで盛大な葬式が行われるが、その墓が二日続けて掘り返され、遺体が家族の家の庭にさらされるというショッキングな事件が起きる。
 その犯人が主人公(女性)のわけだが、捕まった女は裁判で、市長は埋葬に値しない犯罪者なのだから自分は当然のことをしたまでだと主張する。

 やがて裁判を傍聴する市長の家族や市民の前に、(彼女の回想ないしは白日夢によって)市長の独裁者としての昔の顔があばかれていく。
 主人公は当時8歳。インテリの父(画家)と母親との3人家族だったが、些細なことから一家は市長に目をつけられる。
 ある夜、家族は市長の(捕らえた獲物をいたぶるような)薄気味悪い訪問を受けたあと、父親は市民からの密告を理由に突然連行される。送られた収容所の名前も知らされない。

 幼い主人公が母親と2人、収容所からの材木が着く駅の構内で父の名前が材木に記されてないか、ぬかるみに足をとられながら材木の山の間を探しまわるシーンが痛ましい。その父親は誰も知らぬ間に密室で処刑され、やがて母娘も無理やり引き離され母親も死ぬ。

 独裁者の市長は祖国の危機をあおり、敵の存在を誇張し、気まぐれから同じ姓の市民をトラック一台分拘束して投獄するなどの恐怖政治を敷いていく。母を失った幼い主人公がその後、どのような過酷な運命をたどったかは語られないが、裁判に登場する主人公はすでに初老になっている。

独裁の本質
 裁判の展開とギリシャ悲劇のような結末は省略するが、この映画は独裁と言うものが持つ本質的な特徴を凝縮して見せている。そのいくつかを私なりに整理すると次のようになるのではないか。

@ 突然の恣意的、気まぐれな決定によって、人々を恐怖と混乱に陥れる
 昨日の同志を気まぐれな理由を見つけて次々と粛清して行ったスターリンのように。取り巻きたちは独裁者の顔色をうかがって暮らすようになる。

A 常に手足のように使える暴力装置をともなっている
 映画で市長はいつも中世の甲冑をつけ槍を持った公務員(暴力装置)を連れている。独裁はかつてのソ連の秘密警察、ナチの親衛隊、日本の特高や極右団体などのような狂信的な暴力装置とセットになっている。しかも彼らには甘い汁を吸わせ、思考力を持たせなくしている。

B 外敵の恐怖をあおり、市民間の監視、密告を奨励する
 旧東ドイツでは、市民の中にスパイを潜入させ、スパイによる偽装の夫婦までいる密告社会を作り出したという。

C 大衆を熱狂させる親密さと冷酷の2面性を持つ
 独裁者はあるときは大衆の熱狂的支持を呼ぶ慈父のような親密さや人間的魅力を見せるが、その仮面の下には自国民をモノのように殺す冷酷さを隠し持っている。

D 芸術に対して熱烈な理解者、愛好家のように振舞う
 映画の中で市長はシェークスピアの一節を暗唱して見せる。同じようにスターリンもヒトラーも芸術の庇護者のように振舞い芸術の力を利用した。しかし、多くの場合、庇護された芸術家が最後まで生き残るのは困難だった。

 独裁は個人によるばかりではなく軍部や政党の場合もある。私たちは独裁者や独裁と言うものが遠い国のことだと思いがちだが、実はつい戦前まで日本にも存在した。そして世界にはいまだに存在する。
 歴史は繰り返すというが、こうした独裁の特徴は五つすべてが一気に始まるわけではない。
一つずつ、少しずつ進行する。気をつけなければならない。

日本はどうすべきか 2009.2.2

 100年に一度と言う今回の金融危機と世界同時不況について、このブログの「世界で何が起きているか」で初めて触れたのは去年の10月末。その中で、「株安や円高に一喜一憂するまえに、その背景にあるもっと本質的、根本的な変化を知るべきではないか」と書いてから3ヶ月、(素人なりに)できるだけその意に沿って情報を整理してきた。

 「アメリカ発の世界不況〜サブプライムローン破綻のメカニズム」(10月)
 
「癌(がん)化した資本主義〜バブルを生む金融資本主義の病理」(11月)
 
「不況が長引くわけ〜金融危機がもたらした世界的損害の大きさ」(〃)
 
「バブル時代の麻薬〜財政投入によるバブル発生と破綻のサイクル」(12月)
 
「不況が小泉改革を直撃〜世界同時不況に直撃される日本の新たな弱点」(1月) など。

危機の本質を踏まえて、日本はどうすべきか
 こう見て来ると「では、日本はそうすればいいのか」という問題についても、(その細かい施策は別途にして)基本的な考え方は素人にも自ずとは見えてくる筈だ。それは、以下の2つになると思う。

@金融危機の対策
 自己資本率が不安になって貸し渋りと貸しはがしに走っている金融機関(銀行)に充分な財政を投入して、必要な資金が企業側に出回るようにすること。さらに、投入した資金が再び行過ぎたマネーゲームに使われないように、金融市場の新たなルール(規制)を作ること。
 同時に、投入した資金が確実に出回っているか、また新たなルールが守られているかどうか、金融機関をガラス張りにして監視すること。国内、国際両面での手順は色々あるにしても、以上をワンセットにするという理念をもとに対策を早急に取ることである。

A短期と長期の不況対策
 a)短期的には、不況の影響を最も受けやすい人々に対する救済策。
 これは、派遣切り対策、失業保険、医療保険の未加入問題、年金未払いなど、小泉改革でほころびた
「社会の安全ネットの再強化」とも言える対策である。

 b)長期的には、国のあるべき姿(*)につながる対策。
 第一に産業構造を「世界不況に弱い過度の輸出依存型」から「輸出と内需のバランスの取れた産業構造」に変えるための
内需振興策。これは、大幅な財源委譲による地域振興策(情報インフラの整備もその一つ)や食糧需給率を高めるための農業振興策が中心になるだろう。

 第二には、国の未来を拓くための重点投資である。すなわち、新たな成長が期待できる新技術の開発、地球温暖化防止のための環境技術や環境エネルギーの開発、日本文化の発信力を高める文化産業の振興、国の未来を作るうえで欠かせない教育への重点投資などになるだろう。

国民に分かりやすい骨太の施策を
 次回以降に書くが、既にアメリカも中国もこうした国民にも分かりやすい基本的理念のもとに骨太な緊急経済対策を打ち出している。一方の日本はどうか。
 すったもんだの末にやっと通過した「第二次補正予算」は2兆円の定額給付金のほか、中小企業の資金繰り対策、高速道路料金大幅引下げ、医療対策、介護従事者の処遇改善と人材確保、地域活性化対策、緊急雇用対策など総額27兆円。

 しかし、定額給付金(問題だが!)ばかりが争点になって、予算がどのような基本的考えで作られたものか、政治家もマスコミも追求しないから我々市民だって皆目分からない。多分、その予算は相変わらず、各省庁がチャンスとばかりに要求を積み上げた理念なき総花的予算だったに違いない。

日本をどうするのか
 そこには残念ながら「この経済危機の本質をどう捉えるか、この危機をバネにして日本をどういう国に作り変えるのか」と言った基本的議論が欠けていたのではないか。
 間もなく平成21年度予算(総額75兆円の景気対策がこれで決まる)の審議が始まるが、そこでも政局優先で、以上のような骨太な議論がないまま肝心な対策がすっぽりと抜け落ちていくのではないだろうか。日本の将来が心配。

*例えば2年前にあげた「国のあるべき姿のための5項目」(「政策の対立軸とは?」)
@ 「日本を再び戦争に向かわせない、平和を守るための外交、防衛政策」
A 「生活に密着した問題(年金、格差、食糧、防災、教育など)で安心・安全のネットを構築
  する政策」

B 「地球温暖化を防ぎ、美しい国土と自然を残すための環境・エネルギー政策」
C 「中央集権の官僚国家から脱皮して地域の活性化をめざす地方分権政策」
D 「次世代にツケを残さないために財政再建をめざす経済、財政政策」

不況が小泉改革を直撃 2009.1.25

日増しに深刻化する日本の不況
 今回、サブプライムローン問題が騒がれ始めた頃、日本のエコノミストや政治家は「日本はサブプライムローンの傷は浅いから大丈夫」などと能天気に言っていたが(全くいい加減!)、日本の不況は日増しに深刻さを増している。

 自動車、電機など日本経済の優等生と言われて来た大企業が、世界の消費低迷の影響をまともに受けて次々と巨額の赤字を計上し生産を減らしている。その影響で下請け中小零細企業の仕事がなくなっている。
 大企業の「派遣切り」が横行して、この寒空に泊まる所もない失業者が街にあふれ始めている。何かがおかしいと感じさせる異常な光景だ。
 一方、(地銀などの)金融機関も自己資本比率が下がって国の資金投入を受けながらも、貸し渋り、貸しはがしに走り、回転資金不足で倒産する中小企業が続出している。消費が落ち込み、特に地方経済は火が消えたようになっている。

「小泉改革」の負の部分を直撃
 こういう姿を見るにつけ、企業の国際競争力を強化するために「金融のグローバル化」や「企業のグローバル化」を進めて来た日本の「構造改革、規制緩和」とは一体何だったのかと思う。というより私は、むしろ最近次のように考えるようになった。

 今の日本の状況は単に世界の不況が押し寄せたと言うのを越えているのではないか。それは、日本の構造改革がもたらした負の部分(日本の新たな弱点)を、世界同時不況が狙い撃ちしているためで、それだけ危機も深刻になっているのではないか、と。
 とすれば、日本の不況対策、景気対策はこの「構造改革がもたらした負の部分」を正確に認識しない限り効果が期待できない、ということになる。今の政府対策は(定額給付金のばらまきのような)カビの生えた景気振興策ばかりで、そこのところを全く分かっていない。

構造改革の10年
 小泉構造改革は2001年から始まった。背景にあったのはアメリカ流の「新自由主義、市場原理主義」。「規制を排し、あらゆる経済活動を市場にゆだねることが経済を発展させ幸福な社会を作る」という考えである。
 「改革なくして成長なし」、「官から民へ」、「小さな政府」というスローガンのもとに、金融、税制、特殊法人、国と地方の関係、医療、福祉、郵政民営化など多岐にわたる分野に手をつけた。

 もちろん、改革には功と罪の二面性がつきもの。いつかその両面をきちんと整理しなければならないが、(詳しい因果関係、内容の説明は次回以降に譲って)ここではまず、巷間、小泉改革の罪と言われる部分を列挙してみよう。

@ 企業のグローバル化(競争力強化)、規制緩和がもたらしたもの
 ・ 派遣対象業種の拡大による派遣社員の増加(現在は3人に1人が非正規社員)
 ・ 過度のコスト競争による賃金、労働条件の悪化、賃金の下どまり
 ・ 耐震偽装などに見る公共性の喪失
 ・ 法人税の引き下げ、企業利益が国内に還元されない

A 所得税のフラット化(累進課税の緩和)、相続税の軽減
 ・ 富めるものと貧しいものとの2極化、貧困層の増大、中流の没落

B 超低金利政策
 ・ 円安政策による日本経済の輸出依存割合の拡大(9%台から16%へ)

C 地方交付税の減額、財源委譲の遅れ(三位一体の改革)
 ・都市と地方の格差拡大、地方経済の停滞

D 医療、教育、介護などの分野に効率性、競争原理を持ち込む
 ・ 福祉関連費用の抑制による社会の安全ネットのほころび

 金子勝や内橋克人らの本から私なりに整理したので異論があるかもしれないが、金融改革(ビッグバン)の橋本首相(1996年)から小泉首相退陣(2006年)までの10年間に日本がこんなに変わってしまった、ということである。
 加えて「改革なくして成長なし」のお題目にもかかわらず、この10年、日本はこれと言って新しい成長産業が育ってないと言うし、国の借金も小泉時代の5年半だけで538兆円から828兆円と300兆円も膨らんでいる。どうなっているのか!だ。

反省を対策に生かす
 改革、規制緩和の旗振り役を努めた竹中平蔵らはこの期に及んでも「改革が中途半端だからダメなのだ」といっているらしいが、今の状況を見ると、金子勝が「小泉構造改革の罪をきちんと総括すべき」という方に分があるように思う。

 また、「世界同時不況が小泉改革の負の部分を直撃している」という私の感想も的外れではないように思う。

 ともあれ、こうした反省(総括)を踏まえないと的確な不況対策、景気対策など取れないはずだ。では、具体的にはどうしたらいいのか。
 やはり何回も言うように「国のグランドデザイン」を描くべきということになる。このことについては、次回に。