日々のコラム  <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

■いま「不戦の誓い」とは? 05.12.11

 64年前の12月8日、日本は真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入した。私事で恐縮だが、父方の6人の叔父達のうち4人が戦争に行き、うち3人はニューギニア、中国、アッツ島(これは輸送任務)などの外地で戦った。
 ニューギニアに行った叔父は、肩に貫通銃創を受けて傷口に蛆虫がわき、浜辺で内地への輸送を待っているとき、たまたま知り合いの乗組員に拾われて潜水艦で帰国した。それが最後の輸送だったという。

  開戦から4年後、終戦の年に生まれた私は戦争を知らない。時々、母親も含めた戦争体験世代が「戦争だけはしてはならない」と口にするが、その本当の重さをわかっているのだろうかと自問する。

◆「不戦の誓い」を取り巻く状況
 「戦争だけはしてはならない」は戦後日本のあり方を決める国是だった。しかし、この「不戦の誓い」を取り巻く状況がここへ来て大きく変わろうとしている。
 来年には防衛庁が防衛省に格上げされる。2年前に議論を呼んだ自衛隊のイラク派遣は、12月9日にすんなり延長が決まった。また、アメリカ軍再編の中で中東から極東までを管轄する米軍司令部を日本に置く構想も浮上している。日米軍事同盟の中で日本は北朝鮮の核、膨張する中国軍、テロと石油の中東をにらんだアメリカ軍の中東・アジア防衛戦略の一翼を担えるように機能と体制を整備しようとしている。
 
 そして、憲法9条の改正である。憲法9条改正の動きは、戦後60年たって、いつまでも情緒的な「不戦と非武装の古証文」に頼っていていいのか、世界の状況が大きく変わっている中で、自衛隊の現実と国際情勢を見据えた国防のあり方を検討すべきではないか、というのが表向きの理由である。(民主党からでさえ)同盟国アメリカとの共同の軍事行動が可能になる集団的自衛権や、資源確保のために海外に軍隊を出動させるシーレーン防衛などという勇ましい意見も出て来ている。
  聞こえの良い意見ではあるが、私はちょっと待ってくれと言いたい。あの太平洋戦争は今でも日本という国の原体験ではないのか。世代交代が進み、戦争の記憶が風化する中で、「戦争」を道具のように軽く考えて議論が進むとしたら、日本は再びあの愚かな過ちを繰り返すのではないか。

◆日本の歴史上最大の愚行
  太平洋戦争では知っての通り、日本の軍人、軍属が200万人以上、またB29による日本各都市への空襲、沖縄占領、広島、長崎への原爆投下などで非戦闘員(国民)が110万人、合計300万人以上の国民が犠牲になった。
 あまりに大きい数字でピンと来ないが、死者の数から言えば戦争の4年間に、関東大震災(死者14万人)が20回、阪神淡路地震大震災が450回も起きたようなものだ。当然のことながらこれは天災でなく、日本人が引き起こした日本の歴史上最大の人災である。アジア太平洋地域での犠牲は各国合わせて2千万人という。

◆戦争の研究
 月刊文春は今年11月、「日本敗れたり・あの戦争になぜ負けたのか」を特集した。日本はなぜあの戦争を始めたのか、日本はいかにして負けたのか、6人の作家、研究家たちの座談会である。
 開戦から敗戦に至るまでには、近年明らかになって来た様々な対立や紆余曲折のドラマがあり、それが貴重な研究成果でもあるが、要点のみを書けば以下の通りである。
(非合理な開戦)
・ アメリカと勝算なき戦争が避けられなくなる「日独伊三国同盟」を、ドイツの巧妙な働きかけに安易に乗って
 結んでしまった。以後はドイツの勝利に期待する(他力的な)希望的観測を積み重ねて目が見えなくなり、
 明確な戦略目標もないまま場当たり的な対米外交に陥った。
・ 中国戦線の泥沼化で行き詰り、資源確保のために南方へ進出、それが米英の厳しい反発を招くことに
 なった。太平洋戦争は米英と戦争してこの苦境を一気に打開し、「日中経済圏を作って自存自衛を図る」と
 いう名目で始められた。
・ しかし、石油資源などを頼っている当のアメリカと戦うという発想自体が客観的に見てすでに非合理だった。

(戦略なき戦争)
・ 戦争目的も自存自衛と大東亜新秩序との間で迷走し、国際的視野を欠いていた。国際社会を視野に入れて
 動ける軍人が皆無だったせいもある。
・ 前線の兵隊は一生懸命に戦ったが上層部は無能でしかなかった。陸軍と海軍との権力争いで貴重な時間を
 空費し、年功序列でお互いの作戦失敗をかばいあう。
・ 近代戦争を知らないまま戦争に突入したために、補給思想のないまま作戦を実行。その結果、19年以降、
 150万から200万人の兵隊が戦争でなく飢えで死んだ。餓死者は全体の70%にのぼる。

 これを読むと、当時の指導者たちの救いがたい頑迷さ、また犠牲になった人々のやりきれない悲しさが改めて胸に響く。戦争は常に愚かな(あるいはそれで一旗上げようとする狡猾な)指導者たちによって始められる、どんな大義名分を作ろうとこれからの世に正義の戦争はない、ということ。これをまずもって肝に銘じることが多大な犠牲を払って日本人が得た戦争の教訓ではないだろうか。
  問題は、こうした貴重な研究の成果を目の前に迫っている国防論議にどう生かすかということだろう。そこで現時点での私なりの戦争に対する基本的考え方、素朴な疑問を以下、簡単に書いてみたい。 

◆戦争に対する基本的考え
 まず、戦争はあらゆる方策を講じても避けるべきものだということを国家的前提にすべきだと思う。 これは単純に、仕掛けられたらどうする、自衛のための戦争もいけないのか、というようなことではない。
 戦争を避けるためには、国際間の緊張レベルを下げる不断の相互理解や粘り強い外交しかないということ。そのことを肝に銘じ、「時代に即した形で」国民全体で繰り返し確認していくことが大事だと思う。
 例えば今の日本はそうした努力をしているだろうか。アメリカの軍事力に頼って平和外交の努力をせず、自国の国民感情に訴えるだけでは戦争への危険は増す。

  さらに、戦争が取り返しのつかない犠牲を国民に強いるということが明確な以上、そうしてまで(自分や家族の命を犠牲にしてまでも)守るものは何なのか。今の日本で国益とは何か?国の独立なのか?民族の未来なのか?(天皇を中心とした)国体なのか?これらに明確に答えられる国民は今、どの位いるだろうか。
 難しいテーマだが、「国防」を考える以上、これも「時代に即した形で」具体的に議論し、国民で共有していく必要があると思う。(このテーマについてはこれから先、折をみて考えて行きたい。)

  「戦争だけはしてはいけない」という戦争体験世代の切実なメッセージを風化させないためには、それをお経のように唱えているのではなく、まず以上の2点を時代に即して点検し、その重さを日々再確認していく作業が欠かせないと思う。   

■耐震強度偽造の犯罪心理 05.11.30

 このところ、建築士が多数のマンション、ホテルの耐震構造計算書を偽造していた問題で日本は大揺れである。偽造した建築士ばかりでなく、それを検査する民間の指定確認検査機関、発注主であるマンション開発会社、施工に当たった建築会社の「呆れるばかりの無責任体質」が顕わになってきている。

◆社会の底知れぬ闇
 実はこの事件は氷山の一角で、他にも強度不足の危険なマンションやホテルがすでに数多く建てられているのではないか、という不安もささやかれている。
 そういえば、阪神淡路大震災のときも比較的新しいビルや高速道路が倒壊し、その原因が施工の手抜きによる強度不足だと指摘されたことがあった。地震国日本の安全が根底から揺らいでいる、という指摘もあったが、追及は大災害の混乱の中でうやむやになってしまった。日本は一体どうなっているのだろうか。

  事件の全容解明は今後に期待したいが、今回は事件を起こした建築士個人の問題を考えてみたい。
  私がわからないのは、なぜその道の専門知識があり仕事の重要性も熟知しているはずの彼が、多くの人命に関わる、しかもいつか必ず発覚する犯罪に手を染めたのか、いうことである。事件の犯罪心理に想像を巡らせると、そこに今の社会の「底知れぬ闇」を感じるのである。

◆想像力の欠如なのか
 姉歯建築士が犯罪に手を染めた理由は、表面的には彼が言うように「生活のために金と仕事が欲しかった、施工主から安くあげるように強要された、検査機関が簡単に見逃してくれた」というようなことかも知れない。
 しかし、これは理由になっているようでなってはいない。何故なら他人がどうあれ、犯罪の責めを負い、ごうごうたる非難にさらされるのは自分だからである。実際彼は今、精神的危機にまで追い詰められているという。そんなことはちょっと考えればすぐに分かる事ではないか。  

 あるいは、結果の重大さに思いが至らないという「想像力の欠如」なのだろうか。そう切って捨てることは簡単だが、これも違うような気がする。切れやすい子どもや思慮のない若者ならいざ知らず、専門家の彼は犯罪で自分がどういう立場に追い込まれるかぐらいは何度も考えただろう。しかも、偽造は一度や二度ではない。
  彼には結果として「想像力の欠如」をもたらすような、もっと別な心理的力学が働いていたのではないだろうか。

◆自己現実感の希薄さからくる「自己に対する無関心」
  私は姉歯建築士の犯罪心理にあれこれ想像をめぐらせると、そこに抜きがたい「自己現実感の希薄さ」が見えてくる気がしてならない。
 「自分はこういう人間で、この様な自分を大事に育てながら生きていこうという実感(自己現実感)」が希薄なこと。それからくる「自己に対する無関心」とでも言ったらいいだろうか。

 この「自己に対する無関心」は、(自分の犯罪が自分や社会に及ぼす影響について)感じる心を閉ざしてしまうのではないか。そう思わせる具体的な証言がある。  
 7年前、和歌山で起きた「毒入りカレー事件」。これに関連して、保険金詐欺犯たちを見てきた、ある保険会社の担当者が言っていたことに私は衝撃を受けたことがある。
  「詐欺犯たちはある種の知能犯だが、保険金を騙し取るために平気で自分の体に熱湯をかけたり、自分の手足を切断したりする。自分の痛みに無関心と言ったらいいのか。だから他人の命に対しても感覚が希薄なのだ。」という言葉である。  

 私は今回の事件に関しても、保険金詐欺犯たちと形は違うがどこかで共通する自己現実感の希薄さがあったのではないかと思う。知識のある専門家が自分の運命に投げやりで、かつ他人の運命に関心も払わずに、自己破滅的な犯罪に手を染める。単なる想像力の欠如とは違う。
  「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」(吉田松陰)という言葉があるが、今回の犯罪は「かくすればかくなるものと知りながら自分も社会もどうなってもいい」という心理だったようにしか思えない。 これは相当に怖いことである。

◆安心して暮らせる社会のために
 上のような見方が的を得ているかどうか。しかし、私は姉歯建築士のどこか他人事のような釈明や週刊誌(見出しだけだが)に載った酷薄な家族関係をみると、彼が自己現実感の希薄さを抱えていたという仮説は必ずしも的外れとは言えないような気がする。
 
  しかも、こう考えると問題の根は深い。専門知識はあるが自己現実感が希薄で、自分も他人も愛せないで悩んでいる人は、今の日本では決して珍しくないからだ。むしろ増えている気もする。
 そうした人々が、多くの人命に関わる「社会の安全弁」を握るケースだって想定される。 そこに、今回のようにチェックすべき組織の犯罪的とも言える無責任体質が重なったらどうなるか。
 私が今回の事件を「底知れぬ闇」と言うのはこういう意味合いも含んでいる。 被害者の補償問題は最重要課題だが、一方で事件を掘り下げた徹底した解明を忘れてはならないと思う。  

■「お客様は神様」がもたらす弊害 05.11.10

 同居している娘は銀座の某老舗デパートの中にあるアパレルメーカーに勤める接客労働者だ。通勤時間1時間弱なのに、不思議なことに毎日朝7時に家を出て夜12時過ぎにくたびれて帰る毎日である。
 娘は希望して入社した手前、「疲れた」とは言わないが、夜中帰ってきて時々「あー、この仕事してると性格悪くなりそう・・・」とこぼしている。
 彼女の店に洋服を買いに来る客には、銀座周辺のちょっと余裕のある中堅OLが多いらしいが、その人たちがあまりに「ジコチュー(自分中心)」で、いちいち丁寧に対応していると自分が情けなくなるらしい。そんなに文句があるならこのHPに書いてもいいぞ、というと「そんな時間ない!」というので、今回は、娘に取材した身近な問題を考えてみたい。考え始めると結構「今の日本の悩み」につき当たりそうな気もする。

◆銀座OLのジコチュー度(この部分は娘との合作)
人間としてのコミュニケーションがとれない。
 店員が挨拶しても無反応なのはもう当たり前の世の中だが、「そんなにイライラして人生楽しいんですか」、「買い物って女性にとって楽しい時間じゃなかったっけ」と思ってしまうくらい、なぜか不機嫌。品物を買い上げるのに店員といろいろやりとりして「ありがとうございました」と言っても「どうも」も言わず無言で帰っていく。

ちょっとした時間が待てない。
 店員が他の人の応対をしていて手が離せないのが分かっているはずなのに、「さっきから待ってるんですけど!」という。デパートの閉店間際に入ってきて、「急いでいるんですけど」と言うわりにサイズ違い、色違いを見せて欲しいと言い、見つからないと(あいさつもなく)「もういいです」と機嫌を悪くして帰っていく。

自分の非が認められない。
 何度も試着して買って帰ったのに「やっぱりサイズが合わなくて」と「意味不明な理由(娘)」を言って返品にくる。店員が「(ご納得されて買われているので)返品ではなく別のものと御交換を」というと「普段、よくここで買ってるのよ」と言ってくる。それでも(御交換を)…と言うと「そうなんですか?」と言って怒りだす。そして結局返金。

店員を人間と思わない女王様気分。

 製品の少しのしわや糸くずなどが気になって買う決断がくだせない。そんなら買わなければいいのに(娘)、店員にわざわざアイロンをかけさせ、しわが取れても「やはりやめときます」と言って帰る。その時に「値段はよかったのに」とお金には余裕あるように(娘)言う。

 娘は「人に喜びを与えようと思って選んだ職業なのに、お店に花を飾って綺麗にしてもお客は気づかない」、「もうちょっと心に余裕を持って欲しいのに」と嘆くが、(私がそれって普通にあるよなあ、と思ってしまうくらいに)こうした「ジコチュウー現象」は日本人の間でますます進行しているらしい。
  原因については様々な解釈があるだろうが、こうした傾向に関連して私は以下の2点を取り上げてみたい。

◆自己意識の肥大化が進む日本人
  今の若い世代は、子どもの頃から異質な他人との共同生活の経験が少ないため、できるだけ他人との(面倒な)ぶつかり合いを避けつつ、意識的の上ではひたすら自分の想念を膨らませながら大きくなる。
  その結果、(もちろん程度の差はあるが)大人になっても自己愛が強く、自分を客観視出来ない。自分が一番正しいと思っていて、他人の存在が希薄にしか感じられない。これがいわゆる「自己意識の肥大化」とか、自分中心の「オレ様子ども」とか言われるものだろう。

  自分のことしか頭になく、他人(店員)を同じ人間として認識できないために、まともなコミュニケーションがとれない銀座のOLたちにも、こうした現象が進行しているのかもしれない。とすると、これは何も彼女たちだけの問題ではなさそうだ。少子化の進む日本や一人っ子政策の中国(小皇帝というらしい)などが抱える現代社会特有の、結構深刻な悩みにつながってくる。

◆過度の「お客様は神様」精神がもたらしたもの
 さらにもう一つ、彼女たちの「女王様気分」を助長した原因がありそうだ。(私はこちらの方を、より注目すべきだと思うのだが)
 サービス産業の経営者たちは熾烈な売り上げ競争に勝ち抜くために、顧客の優越感をくすぐる至れり尽くせりのサービスを競って来た。それは今あらゆる業種にまで広がってきている。その結果、皮肉なことに「お客様は神様」はもともと経営側のモットーだったが、それが顧客の意識まで「お客様は神様」に変えてしまった。
 過度のサービス(それは時として過度の「へりくだり」に通じる)が客の特権意識を肥大化させ、日本人の「ジコチュー度」を上げているのではないか。銀座の高級(?)デパートなどに来ると、「お客の自分は神様」意識に一層拍車がかかることになる。(いやはや...)

◆新たな階層社会の中で
 日本は今、新たな階層社会に入り始めていると言われ、それを見越した種々の富裕層向けサービスが開発されている。お金持ち向けのぜいを尽くしたサービスで話題を呼んでいる銀行の大口顧客向けサービスや、トヨタの最高級車レクサス販売戦略などもそうした動きの一つだろう。

 しかし、(負け惜しみで言うわけではないが)こうした過度の「お客様は神様」サービスがもたらす弊害にも、私たちは目を向ける必要があるように思う。
  それは、「お客様は神様」と「日本社会の階層化」が結びついて「新たな特権意識」を生み出すということだ。そして、日本社会の主流をなしてきた健全な庶民感覚や、他人の痛みが分かる平等意識が、私たちの気がつかないうちに破壊されていく...これは今後の新たな社会問題になっていくに違いない。

  身近な取材から思わぬところへ話が飛んだが、後日、娘に「ところでキミは客としてはどうなの?」と聞いたら「最近は店員の目を見てあいさつを返すようにしている。ちょっとあいさつするだけで今日は一日いい人ばっかりと思ってもらえるんだから」と殊勝な答えが返ってきた。