64年前の12月8日、日本は真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入した。私事で恐縮だが、父方の6人の叔父達のうち4人が戦争に行き、うち3人はニューギニア、中国、アッツ島(これは輸送任務)などの外地で戦った。
ニューギニアに行った叔父は、肩に貫通銃創を受けて傷口に蛆虫がわき、浜辺で内地への輸送を待っているとき、たまたま知り合いの乗組員に拾われて潜水艦で帰国した。それが最後の輸送だったという。
開戦から4年後、終戦の年に生まれた私は戦争を知らない。時々、母親も含めた戦争体験世代が「戦争だけはしてはならない」と口にするが、その本当の重さをわかっているのだろうかと自問する。
◆「不戦の誓い」を取り巻く状況
「戦争だけはしてはならない」は戦後日本のあり方を決める国是だった。しかし、この「不戦の誓い」を取り巻く状況がここへ来て大きく変わろうとしている。
来年には防衛庁が防衛省に格上げされる。2年前に議論を呼んだ自衛隊のイラク派遣は、12月9日にすんなり延長が決まった。また、アメリカ軍再編の中で中東から極東までを管轄する米軍司令部を日本に置く構想も浮上している。日米軍事同盟の中で日本は北朝鮮の核、膨張する中国軍、テロと石油の中東をにらんだアメリカ軍の中東・アジア防衛戦略の一翼を担えるように機能と体制を整備しようとしている。
そして、憲法9条の改正である。憲法9条改正の動きは、戦後60年たって、いつまでも情緒的な「不戦と非武装の古証文」に頼っていていいのか、世界の状況が大きく変わっている中で、自衛隊の現実と国際情勢を見据えた国防のあり方を検討すべきではないか、というのが表向きの理由である。(民主党からでさえ)同盟国アメリカとの共同の軍事行動が可能になる集団的自衛権や、資源確保のために海外に軍隊を出動させるシーレーン防衛などという勇ましい意見も出て来ている。
聞こえの良い意見ではあるが、私はちょっと待ってくれと言いたい。あの太平洋戦争は今でも日本という国の原体験ではないのか。世代交代が進み、戦争の記憶が風化する中で、「戦争」を道具のように軽く考えて議論が進むとしたら、日本は再びあの愚かな過ちを繰り返すのではないか。
◆日本の歴史上最大の愚行
太平洋戦争では知っての通り、日本の軍人、軍属が200万人以上、またB29による日本各都市への空襲、沖縄占領、広島、長崎への原爆投下などで非戦闘員(国民)が110万人、合計300万人以上の国民が犠牲になった。
あまりに大きい数字でピンと来ないが、死者の数から言えば戦争の4年間に、関東大震災(死者14万人)が20回、阪神淡路地震大震災が450回も起きたようなものだ。当然のことながらこれは天災でなく、日本人が引き起こした日本の歴史上最大の人災である。アジア太平洋地域での犠牲は各国合わせて2千万人という。
◆戦争の研究
月刊文春は今年11月、「日本敗れたり・あの戦争になぜ負けたのか」を特集した。日本はなぜあの戦争を始めたのか、日本はいかにして負けたのか、6人の作家、研究家たちの座談会である。
開戦から敗戦に至るまでには、近年明らかになって来た様々な対立や紆余曲折のドラマがあり、それが貴重な研究成果でもあるが、要点のみを書けば以下の通りである。
(非合理な開戦)
・ アメリカと勝算なき戦争が避けられなくなる「日独伊三国同盟」を、ドイツの巧妙な働きかけに安易に乗って
結んでしまった。以後はドイツの勝利に期待する(他力的な)希望的観測を積み重ねて目が見えなくなり、
明確な戦略目標もないまま場当たり的な対米外交に陥った。
・ 中国戦線の泥沼化で行き詰り、資源確保のために南方へ進出、それが米英の厳しい反発を招くことに
なった。太平洋戦争は米英と戦争してこの苦境を一気に打開し、「日中経済圏を作って自存自衛を図る」と
いう名目で始められた。
・ しかし、石油資源などを頼っている当のアメリカと戦うという発想自体が客観的に見てすでに非合理だった。
(戦略なき戦争)
・ 戦争目的も自存自衛と大東亜新秩序との間で迷走し、国際的視野を欠いていた。国際社会を視野に入れて
動ける軍人が皆無だったせいもある。
・ 前線の兵隊は一生懸命に戦ったが上層部は無能でしかなかった。陸軍と海軍との権力争いで貴重な時間を
空費し、年功序列でお互いの作戦失敗をかばいあう。
・ 近代戦争を知らないまま戦争に突入したために、補給思想のないまま作戦を実行。その結果、19年以降、
150万から200万人の兵隊が戦争でなく飢えで死んだ。餓死者は全体の70%にのぼる。
これを読むと、当時の指導者たちの救いがたい頑迷さ、また犠牲になった人々のやりきれない悲しさが改めて胸に響く。戦争は常に愚かな(あるいはそれで一旗上げようとする狡猾な)指導者たちによって始められる、どんな大義名分を作ろうとこれからの世に正義の戦争はない、ということ。これをまずもって肝に銘じることが多大な犠牲を払って日本人が得た戦争の教訓ではないだろうか。
問題は、こうした貴重な研究の成果を目の前に迫っている国防論議にどう生かすかということだろう。そこで現時点での私なりの戦争に対する基本的考え方、素朴な疑問を以下、簡単に書いてみたい。
◆戦争に対する基本的考え
まず、戦争はあらゆる方策を講じても避けるべきものだということを国家的前提にすべきだと思う。 これは単純に、仕掛けられたらどうする、自衛のための戦争もいけないのか、というようなことではない。
戦争を避けるためには、国際間の緊張レベルを下げる不断の相互理解や粘り強い外交しかないということ。そのことを肝に銘じ、「時代に即した形で」国民全体で繰り返し確認していくことが大事だと思う。
例えば今の日本はそうした努力をしているだろうか。アメリカの軍事力に頼って平和外交の努力をせず、自国の国民感情に訴えるだけでは戦争への危険は増す。
さらに、戦争が取り返しのつかない犠牲を国民に強いるということが明確な以上、そうしてまで(自分や家族の命を犠牲にしてまでも)守るものは何なのか。今の日本で国益とは何か?国の独立なのか?民族の未来なのか?(天皇を中心とした)国体なのか?これらに明確に答えられる国民は今、どの位いるだろうか。
難しいテーマだが、「国防」を考える以上、これも「時代に即した形で」具体的に議論し、国民で共有していく必要があると思う。(このテーマについてはこれから先、折をみて考えて行きたい。)
「戦争だけはしてはいけない」という戦争体験世代の切実なメッセージを風化させないためには、それをお経のように唱えているのではなく、まず以上の2点を時代に即して点検し、その重さを日々再確認していく作業が欠かせないと思う。
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