◆岡潔の本との出会い
数学者・岡潔の本を初めて手にしたのは18歳の高校卒業の春休みだった。大学受験が終わり、つかの間の開放感を味わっていた時である。
最初は「春宵十話」(昭和38年)。さらに「紫の火花」(39年)、「春風夏雨」(40年)、「一葉舟」(43年)と読み継ぎ、その後に入手した本も含めると11冊になる(末尾にリスト)。出会ってから40年以上、岡潔は折に触れ読み返す著者の一人となった。
しかし今、こうして「岡潔が伝えようとしたこと」(岡的世界)を書こうとすると途方にくれてしまう。言葉の背後にある世界が余りに奥が深くて私の手に余りそうなのと、伝えようにも、今の日本が岡的世界から大きくかけ離れてしまって伝わりそうもないと思うからだ。
その一方で、今の日本を見ていると、彼が(予言的に)伝えようとしたことはますます差し迫った重要さを持って来ていると焦りに似た気持ちを感じたりする。
◆数学者・岡潔
数学者・岡潔の生涯(1901−1978)については「評伝・岡潔」(高瀬正仁)に詳しい。何しろその頃(戦中、戦後)海外では、「オカという数学者集団」が日本にはいるのではないかと思われていたぐらい、一人で次々と独創的な研究成果を挙げていた大数学者だった。1960年には文化勲章も受章した。(但し、その数学的業績について私は全く理解できない)
「評伝・岡潔」には、起きている時間のすべてをかけて数学の研究に没頭したという彼の(心を打たれるような)姿が出てくる。精神的行き詰まりから大学を追われた岡は、戦争中は郷里和歌山の山里にこもって考え続けた。
ある朝、街に出かける村人が峠の山道に立って考えている岡に会い、夕方帰ってくると岡が朝と全く同じ姿勢で考え続けていたのでびっくりした、と言う。その頃彼が考えていたテーマは、日本で分かる人は皆無、世界でも数人しかいないようなものだったのである。
◆著作のテーマと明治生まれの教養
その数学者・岡潔が60歳を過ぎてから、長年の蓄積を一気に吐き出すように一般向けの本を出し始めた。テーマは、学問の奥深さ、日本文化の真髄、日本人の情緒形成、脳と発達心理、仏教的ものの見方、さらには教育のあり方、憂国の心情にまで多岐にわたる。
18歳の私にとってその本は難しかった。一つ一つの言葉はやさしいのだが、 単に文字面(もじづら)を追うだけでは理解できない何か大きなものが常に隠されているような気がした。
一つの言葉の背後には、岡の広大な「思索の土台」が隠れている。それは、時間的には10万年に及ぶ長大な日本人の歴史であり、空間的にはフランス(ラテン文化)を含む西洋文化から中国古典、万葉集以降の東洋文化であり、さらにそれを包み込むような仏教的宇宙が広がっている。
彼の文章を読むといつも、明治生まれの知識人が持っている教養世界と、一つのテーマを数学と同じように突き詰めて考える(本質への)到達力を痛いほど感じて、気が遠くなるような思いがしたものだ。
「今は理解できない。でも60歳になる頃には少は理解できるようになっていたいものだ。」私はそう思って彼の本と付き合ってきた。
◆生命とは
彼が遺したメッセージは多岐に渡っているが、その核になっているのは、真、善、美が分かる「日本人の心」である。そして、「人の心」が日本文化の真髄に洗われて美しい「日本的情緒」を持つことの大切さを訴え続けた。
「真、善、美が分かる心」=「日本的情緒」=「生命のいろどり」について書く彼の文章はものすごく感覚的だ。「詩」のようでもあり、思い切り想像力を働かせないと何も見えてこない。以下、「春風夏雨」の一節から抜粋してみたい。
『生命と言うのは、ひっきょうメロディーにほかならない。日本風に言えば“しらべ”なのである。(中略)人の情緒は固有のメロディーで、その中に流れと彩(いろど)りと輝きがある。そのメロディーがいきいきしていると、生命の緑の芽も青々としている。そんな人には、何を見ても深い彩りや輝きの中に見えるだろう。』
『このメロディーが生命なのだから、生命は肉体が滅びたりまたそれができたりといった時空のわく内の出来事とは全く無関係に存在し続けるものなのである。そして、人類が向上するというのは、無限の時間に向ってこのメロディーが深まっていくことにほかならない。』
『私は、人の情緒を日本的な彩りに染め上げるには、ずいぶん長く、最小限十万年くらいはかかるのではないかと思っている。(自我を抑えた時の)真我を自分と思っていると、この一生が長い向上の旅の一日のように思われる。』
彼はこの「日本的情緒」を中心にすえて、それを捨てようとしている日本社会に警鐘を鳴らし続けた。そして、情緒が消えてくると子供たちの顔つきが「昆虫に似てくる」と、今の社会を見るとギクリとするようなことも言った。
◆日暮れて道遠し
最近、今の日本人に必要なものとして情緒と形を提案した「国家の品格」(数学者・藤原正彦)や、ゲームによって子供の脳が異常を来たすことを警告した「脳内汚染」(岡田尊司)が話題を呼んでいる。
藤原や岡田の問題提起は、かつて岡が「日本人の脳内に形成される“日本的情緒”の大切さ」を言い続け、それを失いつつある日本を憂慮したことの一端に過ぎない。
私は今の日本社会を見る時、私たち日本人は「岡の遺言」から何と遠くに隔たってしまったかと、思う。(コラム「15歳の犯罪・人間の脳は白地図で生まれる」も読んでください)
かつては、日本人の誰もが説明抜きで分かった、正義と恥の感覚、そして、美しさ、はかなさ、清らかさ、つつましさ、雄雄しさ、潔(いさぎよ)さ、寂しさといった美しい日本的情緒。これらは今、どこへ行ったのだろう。
60歳を超えた今になっても私は未だに「岡が伝えようとしたこと」の前で途方にくれるばかり。自分の言葉で十分伝えることができず、一方で日本はますます遠く離れていく。。。
岡のことを想うたび私には、「日暮れて道遠し」という感じがしきりに起こるのである。
*「春宵十話」、「紫の火花」、「春風夏雨」、「一葉舟」、「風蘭」、「春の草 私の生い立ち」、「昭和への遺書」、「日本のこころ」、「日本民族」、「人間の建設」、「葦牙よ萌えあがれ」。
関連本「評伝・岡潔(花の章、星の章)」、「岡潔 数学の詩人」、「数学する人生」、「数学する身体」など |