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  読書というものを日々の生活と追憶の中でひも解くと、そこには何だか別な時間が流れているような...
  「読書と人生」のそこはかとない関わりをエッセイ風に書いてみます。

■憂国の数学者・岡潔 06.3.29
◆岡潔の本との出会い
 数学者・岡潔の本を初めて手にしたのは18歳の高校卒業の春休みだった。大学受験が終わり、つかの間の開放感を味わっていた時である。
 最初は「春宵十話」(昭和38年)。さらに「紫の火花」(39年)、「春風夏雨」(40年)、「一葉舟」(43年)と読み継ぎ、その後に入手した本(*)も含めると11冊になる。出会ってから40年以上、岡潔は折に触れ読み返す著者の一人となった。

 しかし今、こうして「岡潔が伝えようとしたこと」(岡的世界)を書こうとすると途方にくれてしまう。言葉の背後にある世界が余りに奥が深くて私の手に余りそうなのと、伝えようにも、今の日本が岡的世界から大きくかけ離れてしまって伝わりそうもないと思うからだ。
 その一方で、今の日本を見ていると、彼が(予言的に)伝えようとしたことはますます差し迫った重要さを持って来ていると焦りに似た気持ちを感じたりする。

◆数学者・岡潔                                               岡潔(1901-1978)
 数学者・岡潔の生涯については「評伝・岡潔」(高瀬正仁)に詳しい。何しろその頃(戦中、戦後)海外では、「オカという数学者集団」が日本にはいるのではないかと思われていたぐらい、一人で次々と独創的な研究成果を挙げていた大数学者だった。1960年には文化勲章も受章した。(但し、その数学的業績について私は全く理解できない)

  「評伝・岡潔」には、起きている時間のすべてをかけて数学の研究に没頭したという彼の(心を打たれるような)姿が出てくる。精神的行き詰まりから大学を追われた岡は、戦争中は郷里和歌山の山里にこもって考え続けた。
  ある朝、街に出かける村人が峠の山道に立って考えている岡に会い、夕方帰ってくると岡が朝と全く同じ姿勢で考え続けていたのでびっくりした、と言う。その頃彼が考えていたテーマは、日本で分かる人は皆無、世界でも数人しかいないようなものだったのである。

◆著作のテーマと明治生まれの教養
 その数学者・岡潔が60歳を過ぎてから、長年の蓄積を一気に吐き出すように一般向けの本を出し始めた。テーマは、学問の奥深さ、日本文化の真髄、日本人の情緒形成、脳と発達心理、仏教的ものの見方、さらには教育のあり方、憂国の心情にまで多岐にわたる。
 
 18歳の私にとってその本は難しかった。一つ一つの言葉はやさしいのだが、 単に文字面(もじづら)を追うだけでは理解できない何か大きなものが常に隠されているような気がした。
  一つの言葉の背後には、岡の広大な「思索の土台」が隠れている。それは、時間的には10万年に及ぶ長大な日本人の歴史であり、空間的にはフランス(ラテン文化)を含む西洋文化から中国古典、万葉集以降の東洋文化であり、さらにそれを包み込むような仏教的宇宙が広がっている。
  彼の文章を読むといつも、明治生まれの知識人が持っている教養世界と、一つのテーマを数学と同じように突き詰めて考える(本質への)到達力を痛いほど感じて、気が遠くなるような思いがしたものだ。
  「今は理解できない。でも60歳になる頃には少は理解できるようになっていたいものだ。」私はそう思って彼の本と付き合ってきた。

◆生命とは
 彼が遺したメッセージは多岐に渡っているが、その核になっているのは、真、善、美が分かる「日本人の心」である。そして、「人の心」が日本文化の真髄に洗われて美しい「日本的情緒」を持つことの大切さを訴え続けた。
  「真、善、美が分かる心」=「日本的情緒」=「生命のいろどり」について書く彼の文章はものすごく感覚的だ。「詩」のようでもあり、思い切り想像力を働かせないと何も見えてこない。以下、「春風夏雨」の一節から抜粋してみたい。

『生命と言うのは、ひっきょうメロディーにほかならない。日本風に言えば“しらべ”なのである。(中略)人の情緒は固有のメロディーで、その中に流れと彩(いろど)りと輝きがある。そのメロディーがいきいきしていると、生命の緑の芽も青々としている。そんな人には、何を見ても深い彩りや輝きの中に見えるだろう。』

『このメロディーが生命なのだから、生命は肉体が滅びたりまたそれができたりといった時空のわく内の出来事とは全く無関係に存在し続けるものなのである。そして、人類が向上するというのは、無限の時間に向ってこのメロディーが深まっていくことにほかならない。』

『私は、人の情緒を日本的な彩りに染め上げるには、ずいぶん長く、最小限十万年くらいはかかるのではないかと思っている。(自我を抑えた時の)真我を自分と思っていると、この一生が長い向上の旅の一日のように思われる。』

  彼はこの「日本的情緒」を中心にすえて、それを捨てようとしている日本社会に警鐘を鳴らし続けた。そして、情緒が消えてくると子供たちの顔つきが「昆虫に似てくる」と、今の社会を見るとギクリとするようなことも言った。

◆日暮れて道遠し
 最近、今の日本人に必要なものとして情緒と形を提案した「国家の品格」(数学者・藤原正彦)や、ゲームによって子供の脳が異常を来たすことを警告した「脳内汚染」(岡田尊司)が話題を呼んでいる。
  藤原や岡田の問題提起は、かつて岡が「日本人の脳内に形成される“日本的情緒”の大切さ」を言い続け、それを失いつつある日本を憂慮したことの一端に過ぎない。

  私は今の日本社会を見る時、私たち日本人は「岡の遺言」から何と遠くに隔たってしまったかと、思う。(コラム「15歳の犯罪・人間の脳は白地図で生まれる」も読んでください)
 かつては、日本人の誰もが説明抜きで分かった、正義と恥の感覚、そして、美しさ、はかなさ、清らかさ、つつましさ、雄雄しさ、潔(いさぎよ)さ、寂しさといった美しい日本的情緒。これらは今、どこへ行ったのだろう。

 60歳を超えた今になっても私は未だに「岡が伝えようとしたこと」の前で途方にくれるばかり。自分の言葉で十分伝えることができず、一方で日本はますます遠く離れていく。。。
 岡のことを想うたび私には、「日暮れて道遠し」という感じがしきりに起こるのである。

「風蘭」、「春の草 私の生い立ち」、「昭和への遺書」、「日本のこころ」、「日本民族」、「人間の建設」、「葦牙よ萌えあがれ」
■私が本に出会うとき 06.3.1
◆偶然の女神がささやく?
 つい最近トリノ・オリンピックで女子フィギャーの荒川静香が金メダルを取った時、アナウンサーが「トリノ・オリンピックの女神が荒川静香にキスをしました!」と実況して話題になった。
 アナウンサーは勝利の女神のつもりで言ったのだろうが、考えてみるとこれは結構奥が深いコメントだと思う。トリノにオリンピックの女神がいたかどうかは分からないが、今その存在を一番身近に感じているのは荒川自身ではないだろうか。

 荒川はオリンピック直前に自ら3つもの重大な変更を決断して金メダルを取った。コーチを変え、音楽をプッチーニの「トゥーランドット」に変え、そして、有名になった「イナバウアー」という演技を取り入れることにした。
 荒川のコメントによれば、あるときふっと「この音楽がこの会場に合う」、「(イナバウアーを取り入れて)勝っても負けても印象に残るすべりをしたい」と思ったのだそうだ。
 既定の路線を彼女に大胆に変えさせたものは何だったのだろう。それこそ荒川自身も後から振り返って初めて分かる「偶然」という女神のささやきだったかもしれない。

◆偶然についての2つの解釈
  気持ちがあることに集中してくると人は、時々こうした偶然に出会う。私も仕事が佳境に入り、今あの人(久しく会っていない人)と話が出来れば、新しい展開が見えるかも知れないなどと考えたすぐ後に、その当人から電話が入るようなことが何度かあった。
  村上春樹の短編「偶然の旅人」(「東京奇譚集」)は、ありえないような幾つかの偶然が織りなす不思議な小説だが、中に「偶然」についての以下のような2つの会話が出てくる。

  『僕はそのときにふとこう考えました。偶然の一致と言うのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまいます。まるで真っ昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、空を見上げても何も見えません。
 しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、一つのメッセージとして浮かび上がってくるんです。その図形や意味合いが鮮やかに読み取れるようになる。そして、僕らはそういうものを目にして「ああ、こんなことも起こるんだ。不思議だなあ。」と驚いたりします。本当はぜんぜん不思議なことでもないにもかかわらず。そういう気がしてならないんです。』
 これに対して、作者の分身は次のように言う。
  『僕としてはどちらかといえば、もう少しシンプルに、(ジャズの)神様説を信奉し続けたいけどね』

◆本に出会う様々なケース
 本との出合いについても同じようなことがある。こんなテーマの本を読みたいと思って本屋に入ると「待ってました」とばかり手招きする本がある。
 ある時、何気なく渋谷のブックファストに入ったら、(有名な庭野日敬氏の訳した)「現代語の法華経」が一冊だけでんと「俺を読め」とばかりに本棚にあってびっくりしたことがある。その日、岩波文庫の「法華経」(上中下)を読み終えて、もっとやさしい現代語訳があってもいいのにと思ったばかりだったのである。

 読書のきっかけについては、多くの人がその「読書論」に書いている(図書館に行くと大抵そうした「読書論のコーナー」がある)。 それを見ると、図書館や本屋で見つけて手当たり次第に読む「乱読」とか、あるジャンルの一群や一人の作家を系統立てて読む「系統読み」とか、一つの本をきっかけに次から次へと広げていく「芋(いも)づる式」とか様々だ。(私などはこれをどたばた繰り返している)
 また、上に書いたように、本の方から手招きする「偶然の出会い」もあるだろう。そんな偶然の女神がもし存在するなら、それはそれで大事にしなければ、と思う。

◆最近の「芋づる式読書」生活
 ここで私が勝手に「芋づる式読書」と呼んでいる最近の例をちょっと書いておきたい。去年の夏に靖国問題が話題になった時、様々な考え方(高橋哲也「靖国問題」など)を読みながら私は、この問題の本質は、日本人が先の戦争責任の問題を自ら考えるのを避けてきたからではないかと、思い至った。(機が熟したら書きたい) そんな問題意識があったせいだろう。秋に、本屋で先の戦争を特集した月刊文春11月号と半藤一利の「昭和史」を手にした。

 さらに、これだけの語り部である半藤に興味を持った私は、彼の「漱石先生ぞな、もし」(彼の奥さんは漱石の孫)、「清張さんと司馬さん」を読む。 その中で司馬遼太郎が、影響を受けた作家として夏目漱石をあげ、次のように書いていることを知った。
  『漱石という人は、作家がとうていそこから自由になりがたいその時代の様式というものから、じつに度胸よく脱け出ていたということである。様式どころか、これが小説かというようなものをぬけぬけと書いていた。』漱石の凄さを想像させる文章ではないか。

  で、今度は漱石をもう一度読み直してみようと思った(ちょっと軽薄かなあ)。それも今回の鼻の治療入院に際して、彼の処女作「吾輩は猫である」を持って行ったのである。
 ご存知のように、「吾輩は猫である」は落語のように思わず笑ってしまうところがひんぴんと出てくる。ところが(手術の内容は追って詳しく書きたいが)、手術後しばらくは笑えないのだ。吹き出すとガーゼを詰めて出血を押さえている鼻に力が入るからである。ベッドの上で笑いをこらえるのに苦労した。

 お陰で「吾輩は猫である」は私にとって、その現代にも通じる透徹した批判精神(猫の目を通して主人=自分を突き放す漱石の覚めた見方はちょっと怖いくらいだ)とあいまって、忘れられない本になった。
■大自然の伝達者・星野道夫 05.11.16
 写真家、星野道夫を知っている人は多いだろう。そしてその多くが、今は亡き星野をこよなく愛し、彼の遺したものに心を奪われて来たに違いない。
 19歳で単身アラスカ、エスキモーの世界に飛び込んでから足掛け25年、1996年ヒグマの事故で急逝するまで彼はアラスカを本拠地にして、地球に残された大自然の息吹を素晴らしい写真と、類まれな文章の力で伝えてきた。 
  写真家、星野道夫が遺した数々の素晴らしい写真とメッセージは、その圧倒的な大自然のイメージで(都会生活に疲れた)私たちを癒してくれるだけではない。以下のような状況、文脈の中で考えるとき、それはいっそう重い意味を持つものとして迫ってくるように思う。(私は勝手にそう思っている)

◆大自然の記憶
 アフリカに人類が誕生して400万年。そして(諸説あるが)およそ15万年前に、私たちの直接の祖先である現生人類が出現、その5万年後、彼らはアフリカを出て地球上に拡散する旅に出る。今から1万1千年前、その子孫はベーリング地帯を通ってアラスカからアメリカ大陸に渡り、5千年後には南米の先端にまで到達したという。
  私は時々彼らがその長い旅の途上で見たものを空想する。 山また山の果てしない森の連なり(私はそれをフィリピンのミンダナオで見た)、ヒマラヤ、ロッキーのような巨大な氷壁、グランドキャニオンのような大景観(これにも仰天した)などなど、文字通り人跡未踏の地球はすべてが大自然だっただろう。

  彼らはまた、漆黒の空に広がる満点の星に圧倒されながら、この大自然の営みを支配しているものは何なのかを考えただろう。大自然は、時に人間の前に立ちはだかって畏怖させ、存在のか弱さを実感させ、人間より大きな何者かの存在を感じさせた。
  人間はその掟の下で生まれ、それに適応し、そして死ぬ。何万年もの間、人類の頭脳に刻み込まれた、こうした「大自然という概念」は、自己が死んでも続いていくと言うものの代名詞として、またその永遠性によって人間はその一部であるという感覚を形成してきた。(ビル・マッキベン著「自然の終焉」

◆消滅の危機にある「大自然と言う概念」
 「自然の終焉」の著者、マッキベンは警告する。大自然と人類とのこうした関係、永遠性の代名詞であった大自然という概念は、今、動物や植物が絶滅するのと同じように消え去る危機にある。
  今、人類が直面している「自然の終焉」は、人類が意識的に、あるいは無意識的に行った(地球環境の破壊という)一連の選択によってもたらされたものである。その結果、我々はもはや、自分が自分より大きな何ものかの一部だと考えることが出来なくなっている。

  それが何をもたらすのか。例えば地球温暖化の影響はよく言われるような海面上昇に止まらない。年々、深刻になる巨大ハリケーンの襲来、熱帯に閉じ込められていた未知の病原菌の出現、氷河が溶けて出来た巨大ダム(ヒマラヤ)の決壊危機など、既に様々な様相を見せ始めている。(このテーマは別途書きたい)
  つまり、自分より大きなものの存在(神々)を殺し、一人地球の運命を担う主役になった人類は、(自ら招いたことだが)その責任の重さに苦悩している...

◆星野道夫の遺したメッセージ
 この回を書くに当たり、私は初めて(星野道夫のHPで)彼の写真を見た。アラスカの森の中で、焚き火を前に腰を下ろしながら、多分彼が何度も何度も読んだと言う本「デルスウ・ウザーラ」を股の上に開き、彼が至福の時と呼ぶコーヒーカップを手にしながら、カメラを見て微笑んでいる。なんとイメージどおりの姿ではないか。
                                                        *星野道夫のHP
 星野は極北のアラスカを体験しながら、極めて平明な言葉で、大自然の懐の深さや厳しさについて、そこにすむ動物たちと共有する時間について、また先住民のエスキモーが抱く大自然のイメージについて、そして死んだ後も大自然の中に溶け込みつながって行く命について、一人思索を続けていく。
 
  時にそれは何ヶ月もの間、人間世界から隔絶した孤独な越冬にもなる。厳冬期、アラスカ山中の雪原にセスナ機で下ろしてもらい、雪解けの頃迎えに来てもらう。周囲何百キロも人の気配が全くない大自然の中、彼は一人で生き抜かなければならない。
  アラスカの大平原を埋め尽くすほどの大群で移動するカリブー(トナカイの一種)を撮るために、マッキンレーの雪山を背景にしたオーロラの(それまで誰も成功していなかった)写真を撮るために、人跡未踏の川を40日かけて一人カヌーで下るために。

 詳しくは彼の一連の著作(「アラスカ 光と風」、「長い旅の途上」、「旅する木」などなど)と写真集があるので手にとって貰いたいが、私がその中で感じたのは、かつての人類が抱いただろう大自然のイメージである。
 アラスカの自然について、彼は「それは果てし無く続く未開の大地だ。地平線の向こうからは、また新たな地平線が見えてくる。」と書いている。

  アフリカを出た人類は、地球上の多種多様な自然を体験する中で、生き残るために懸命にその意味するものを読み取ろうとしただろう。そして、読み取られた意味は、自然への畏敬と溶けあって伝承や宗教となり、部族の共有文化になっていっただろう。
  アラスカの大自然と先住民に愛された星野もまた、その意味を自分の言葉で探ろうとしたのではないか。そして、今でもそのメッセージを伝え続けている。
 人類が欲望の果てに消滅させつつある大自然からのメッセージを。        
■「幻の朱い実」(石井桃子)を秋に読む 05.10.7
 彼岸も過ぎるとさすがに秋の深まりを感じる。深まり行く秋を何気なく眺めていると、ふいに心が動く。そして、この心の正体は何のだろうと考える。だが私は結局、その正体をつかめないまま漠然としたこの「秋の心」を抱えて死んで行くような気がする。

◆秋が深まると日本人は
 これは感傷というのではなく、秋になると日本人が感じる「人懐かしさ」という情緒なのだと数学者、岡潔は書いている。(「日本民族」)
  彼は芭蕉の俳句を使いながら、秋が呼び起こす「人懐かしさ」の情緒について調べている。
  一つは「菊の香や奈良には古き仏たち」。菊の香、奈良、古き仏、実に選ぶべきものを選んで、「一句千年の昔に温かく包まれているような懐かしさ」がここにあるという。

 もう一つは、芥川が「茫々たる三百年、この荘重の調べを捉え得たものは芭蕉ただ一人である」と書いた「秋深き隣は何をする人ぞ
  岡潔はこの句について、芭蕉は芥川の解したように当代人の孤独感を現したのではなく、人の世の本質である「厳粛な懐かしさ」を詠んだのだという。そして、「江戸の街を蔽(おお)うて深々と秋が来ている」と書いた。
  芭蕉の心はこのとき、人の世の心になり切ってしみじみと秋の「人懐かしさ」を感じていたのだろう。  

◆秋深し、「幻の朱い実」(石井桃子)を読む
 さて、私はちょうど10年前の秋、この「人懐かしさ」の季節に、一つの美しい小説に出会った。小説は主人公がある秋の日、蔦一面に赤と黄色の烏瓜(からすうり)の実が見事なほど連なっているのに出くわすところから始まる。

  「幻の朱い実」(上下)。著者は「ノンちゃん雲に乗る」などの童話作家として有名な石井桃子。1907年生まれの彼女(今年98歳!)が、この長編小説を8年がかりで書きおえたのは87歳のときだという。
  彼女は50年も前の出来事に光を当てなおし、人生の晩年まで引きずってきたものを童話ではなく本格小説として書いたのである。

◆「幻の朱い実」の2人の女性
 読売文学賞を受賞したこの小説を読んだ人も多いと思うが、その概要を10年前の私の日記から抜き書きしてみる。

 『 自分の中に他の人々とは何処か馴染めない、ある淋しさや孤独を沈めて生きている明子は、ある秋の日、偶然に赤と黄色の烏瓜が蔦一面にぶらさがっている家で一人の女性、蕗子と知り合う。
 彼女は結核を病んでいるが、独特の激しさをもって精一杯自己を貫きながら生きている。2人は20代前半、互いに磁石のようにひきつけられる。大正末期から昭和初期のぼんやりした不安の時代に、響きあう2つの楽器のように楽しくも切ない時間が流れる。

 明子と蕗子の千葉勝浦での一夏の生活、明子の結婚、2人の間に交わされるおびただしい数の手紙。彼女たちの交流には常に蕗子の病状の進行、きたるべき死が隠れた主題のように流れている。そして、大正デモクラシーの時代に洗練された日本人の優しさや細やかさが鋭いリアリティーをもって描かれている。

  出会って3年ほどで蕗子は死ぬ。まだ日本が本格的な戦争に入る前である。

  あれから50年、70歳半ばの明子は若かった時のその大切な思い出を小説に書いた。同じように蕗子の思い出をひきずっている友人や蕗子の家族の協力を得て、彼女との輝くような時間を詳細にたどる。
 その間に、明子は蕗子との共通の友人だった長年の友、加代子を看取ることもした。

  加代子の初七日を終えた秋の一日、明子は娘を伴って新宿御苑に烏瓜を探しに行った。昔、蕗子の家で見た烏瓜の朱い実の光景が彼女の脳裏にははっきりと浮かんでいる...』

◆芸術の秋、時間を見出す作業
 この小説は、出版後、石井桃子が若いときの同性に対する愛についてカミングアウトした小説ではないかなどと論議を呼んだらしい。
  しかし、そんなことより私が打たれたのは、自分が抱えてきた、漠然としているけれど忘れようのない重い人生の時間を、あいまいなまま墓場に持っていかずに克明に見つめなおし芸術作品として結実させた、(87歳の)彼女の執念に対してである。

 平々凡々たる人生を経てきた私でも、これまでの人生のすべての時間が醸成した漠然とした思いを引きずって生きている。それは、秋の「人懐かしさ」のせいなのかどうかはわからないが、時折自分の手に余るほどになる。
 人生の時間が醸成したその思いは、人生の終わりが近づくほど得体の知れない切実さで迫ってくるから、それを何とか目に見える形に取り出したいというのは芸術家が直面するテーマの一つだろうと思う。

  石井桃子は人生の最終章でそれと格闘し、8年の歳月をかけて芸術作品に結実させることが出来た。幸せな人生だともいえる。
 それはまた、死を目前にした(「失われた時を求めて」の作家)プルーストが部屋に目張りをして閉じこもり、「茫々たるその時」を見出すのに夜も日も没頭したのにも通じることだろう。

 「芸術の秋」。
 やはり、秋は芸術を味わうにふさわしい季節であると同時に、どこかに芸術の種をまいている季節なのかもしれない。
■美しい墓地からの眺め(尾崎一雄) 05.9.19
 作家尾崎一雄(1899〜1983)の本に出会ったのは、「遅読のすすめ」(山村修)を読んでからである。この本で著者は、立花隆などのいう速読(「ぼくが読んだ面白い本、ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術」)を頭から否定して、本はじっくり、ゆっくり味わって読まなければ、その面白さは分からない、という。
  「遅読のすすめ」はこの「楽しい読書生活」というテーマにぴったりの本でもあるが、中に尾崎一雄の「虫のいろいろ」が出てくる。

◆作家が日常を生きる覚悟
 あるとき、尾崎一雄は額に止まったハエに気づいて、眉をぐっと吊り上げたら、額によったしわがハエの足を挟んでハエを捕まえてしまった。尾崎が「世にも珍しいことをやってのけた」というそのユーモラスな情景は実はそれだけで終わらないのだが、これを引用しながら、山村は私小説作家を貫いた尾崎の覚悟のようなものを感じると書いている。
 日常生活の淡々とした時間の流れの中からでも、作家の目さえ光っていれば、他の誰でもない作家独自の世界をつかみ出すことができる、ということなのだろう。

 そんなこともあって、尾崎一雄の「暢気眼鏡・虫のいろいろ」、「美しい墓地からの眺め」などを読みだした。尾崎家は代々、曽我兄弟で有名な宗我神社(小田原市)の神主だった。その先祖伝来の財産を食いつぶして夫婦して極貧の生活をしたり、瀕死の重病をしたりしながらも彼は悠々と戦前戦後の日常の時間を見つめている。
 山村によれば、「(尾崎は)自分の方から腹をくくって、ゆるゆるとした時間を(作家の意志で)めぐらせている」という。

 尾崎に師事した作家に「清貧の思想」で有名になった中野孝次がいる。中野は彼の「贅沢なる人生」の中で尾崎のことを「精神の構造から気質そのものの考え方まですべてに於いて醇乎(じゅんこ)として醇なる日本人であった」と書き、小田原市下曽我にたびたび彼を訪ねた思い出を様々に懐かしんでいる。

◆ 下曽我を訪ねる
 さて、去年の2月下旬、私は小田原に行く用事ができ、妻と一泊の小旅行を企画した。小田原からすぐの下曽我駅で下り、満開の梅林を見て歩きながら宗我神社を目指す。
 まだ葉をつけていない欅の大木に囲まれて神社があり、そこから僅かなところに尾崎と表札のついた屋敷が見つかった。尾崎ゆかりの人が住んでいるのだろう。
  妻と2人で屋敷脇の細い農道を入っていく。少々気が引けたが「美しい墓地からの眺め」に出てくる、尾崎家の墓所を探したかったのだ。

 「美しい墓地からの眺め」は、主人公(緒方という名になっている)が戦後間もなく亡母の一年祭を家の墓所で行った時の様子を書いたものである。家近くの見晴らしのいい一画に設けられた緒方家だけの墓所で、そこからは南に相模灘、伊豆大島が見え、西には箱根や富士の山並みが見渡せる。
 その墓所で、先祖代々の財産を手放し、不治の病を抱えた主人公が、集まった親戚たちと微妙な会話をかわす。
 死の影を見つめながら、淡々とした日常を書いている。私はその墓所を探そうとしたのだった。

 めざす墓所は屋敷と農地の境に樹木に囲まれてひっそりとあった。幾つかの墓が並んでいる。確かに墓所は小さな台地の中腹にあり、南と西に開けていて見晴らしがよさそうである。そこから海の方向を眺めてみた。
  しかし、当日は汗ばむくらいの暖かい春の日だったが、花曇というのか海のかなたは霞んでいて島は見えなかった。でも私は小さな確認をした気になってそこを離れた。

◆鴨宮のウナ重
 小田原で確認をしたものはもう一つある。中野孝次が師と仰ぐ尾崎一雄を下曽我の家に訪ねていたのは昭和40年代から50年代にかけてだと思うが、「贅沢なる人生」を読むと、中野が尾崎家を訪ねて話し込み夜になると決まって「ウナ重」が出た。
 「鴨宮の正直家という店が尾崎家の御贔屓で、いつもこの店のウナ重が供されたが、何度御馳走になってもここのはうまかった」と書いてある。
 2人の交流の時から、40年近くが過ぎている。この店はまだあるのだろうか、というのが私の思いつきだった。あったらそのうまいウナ重を2人で食べてみたいと考えたのである。

 結局、インターネットが役に立った。正直家で検索すると店のホームページは無いが、そこでうなぎを食べた人々の感想などがひっかかった。それは小田原の鴨宮に今でもあったのである。
 電話して住所を聞き、インターネットからコピーした地図を頼りにJR鴨宮駅から歩いて店を見つけた。小さな店である。
 昼、店の開くのを待ってウナ重を頼むと、生きている立派なうなぎを2匹見せて、それから料理する。ご飯もお吸い物もすべて注文を聞いてからだという。 聞くと昭和40年ごろから店を始めており、本に書かれたことも知っていた。
 私は、40年近く前の2人の交流に思いをはせながらウナ重ができるのを待った。