No1<宗教の原点>


   自分がなぜ宗教を求めるのか。
  その原点をいつも忘れない、いつもその原点に立ち返ることができる、というのは、
  宗教を求める庶民にとって大事なような気がする。

   
何故なら、求める理由が明確なほど、また求める気持ちが切実なほど、自分の宗教
  に向かう気持ちはゆるぎないものになるし、同時に宗教に間違った期待をかけたり
  変な宗教に惑わされたりすることも少なくなるはずだからである。


   
人はなぜ宗教を求めるのだろうか。

  <私の場合>
    
私の場合、今でも仏教の熱心な探求者などとはとても言えないが、最近少し心が
   定まったのは、あるきっかけがあったからである。ただし、いくらか以前からの
   下地があったかもしれない。仏教で言う因縁とでもいうのだろうか。


    
祖母が熱心な信徒で、毎週お寺で開かれる読誦会(どくじゅかい=お経を読む会)
   に参加したり、毎日写経をしてそれを沢山のお経本にして皆に配ったりしていた。
   もう
50年以上も前の、その小さなお経本を今でもお守り代わりにしている。
    
小学生の頃は毎朝、学校に行く前に、父と一緒に般若心経と観音経を唱えていた。
   父が死んでからは父の写真に向って朝晩、般若心経をあげるようになった。
   それはもう
30年近くになる。
   そして、ここ
5年ほどは近くのお寺で月一回、早朝のお勤めに参加してきた。

   しかし、仏教を宗教として意識し、それに救いを求めるようになったのは、
   自分がある状況に追い込まれたのがきっかけだった。

    
具体的には言えないが、私は、ある年、長期にわたる係争に巻き込まれ、強度の
   ストレスの中で体調を崩しかけていた。
   辞職もままならず、自分が体調を崩しても敵を利するだけという状況の中で、
   夜眠られぬまま、自分が囚われている堂々巡りの煩悩を見つめていた。
   そのとき初めて出会ったのが仏教経典の王とも言われる法華経だった。


    
法華経が描いた仏教の壮大で鮮やかなイメージにはびっくりした。
   やがて法華経から密教、禅へと様々な入門書、解説書を読み始めた。
   悩みの中で読むこれらの本は、素直に心に響いて私を支えてくれた。
   仏教との新たな出会いを作ってくれたという意味では、その深刻な悩みに感謝する
   気持ちさえ感じるようになったのである。


    
その係争が決着した今、自分の悩みは仏教の教えのごとく実体のないもの(空)に
   なった。しかし、喉もと過ぎれば何とやら、にならないように、あのとき切実に
   宗教を求めた自分の気持ちを忘れずに仏教の探求を続けたいと思っている。

   
 何故なら自分がいかなる状況にあろうとも、以下(No2)のような、人間が宗教を
   求める根源的な理由から自分も無関係でいることは出来ないからである。





  No2<人はなぜ宗教を求めるのだろうか>

 ・ここでは一般的なことを考えてみたい。

 ・人生は苦(生老病死)に満ちている。
  お釈迦様ははっきりと、人生は苦そのものだと言い切った。
  生老病死だけではなく、愛する者との別れや家族の不幸、
  いやな人間と出会わなければならない苦しみ、思い通りにならない悩みや、
  明日どうなるか一寸先のことも分からない不安などなど、人生は様々な苦しみに
  満ちている。


 ・生まれてから死ぬまで次々と押し寄せるこの苦しみから、
  どうしたら逃れることが出来るのだろうか。
  そうした苦しみの最中にあっても苦しみを苦しみと思わず、苦しみから
  わが身と心を解放して、毎日を晴れ晴れとした気持ちで幸福に生きる知恵を
  授かることは出来ないだろうか。


  ・さらには、やがて誰も逃れられない「死」が来る。それから逃れられないと誰もが
  知ってはいるが、すぐには来ないとみんなが思っている。「死」は日々背後から
  忍び寄り、あるとき突然引き返せない、取り返しのつかないものとして姿を現す。


 ・まともに考えれば「死」は人生最大の不安と恐怖に違いない。
  自分という存在も含めて、自分が認識している世界のすべてが消滅する恐怖、
  自分が消滅した後に見るかもしれない巨大な無、空虚の恐怖、
  そして、その消滅と空虚に苦しみながら向う恐怖。

  この人生最大の不安と恐怖を、何とか安楽に心穏やかに乗り越えることは出来ない
  ものだろうか。


  ・ 自分の苦しみばかりではない。
  広く世の中を見てみると、戦争や災害、事故、犯罪、貧困など、途方もなく
  不条理で悲惨な出来事が毎日のように起きている。
   自分ひとりが恵まれたとしても、多くの人々がそのような苦しみにある限り、
  自分の心は哀しいままである。
  この巨大な不条理の前で自分は小さい存在に過ぎないが、
   この世界の苦しみを軽減するために、自分に何か少しでもできることは
   ないのだろうか。

 
 ・ さらに、一寸先が見えず、煩悩のかたまりである我ら衆生は、自分に不幸が
  訪れないように、家族に不幸が来ないように、そして、病気平癒や幾つかの
  小さな幸福の願い事が叶うようにと、現世利益を宗教に託す。
  だが、宗教に現世利益を求めるのは正しいことなのだろうか。
  また、宗教は庶民のこの素朴な願いにどんな答えを用意してくれるのだろうか。


 ・ 以上、様々な苦しみを上げてきた。しかし、人間は本来、喜びに満ちて幸福な
  人生を送るために生まれてきたのではないか。
  もし苦しみと悩みを克服する知恵と、その知恵に向っての確かな実践の道筋が
  あるならば、その可能性に賭けてもいいではないか。


 ・ お釈迦様はその知恵と道筋を示した。以下、その教えの本質を見ていきたい。



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