No3 教えの本質@


 <我々衆生が抱える悩み、苦しみ、煩悩は実は実体のないものである。>

  これまで書いたように、私たちは生まれてから死ぬまで、実に様々な人生の苦しみに
 直面する。私たちはその苦しみから逃れようと必死にもがくが、苦しみは私たちの上に
 重くのしかかったまま動こうとしない。この重い苦しみのために身動きさえも
 出来なくなると、それから逃れようと自ら死を望むケースもでて来てしまう。


  しかし、ここで立ち止まって、その苦しみ、悩みが生じることになった直接、間接
 の要因(仏教でいう因縁)を考えられる限り、数え上げてみよう。
 あのことがあったから、このことがあったから、ああしたから、こうしたから。
 また自分ばかりでなく家族が、友人が、先生が、先祖が、ああだったから、こうだった
 から、などなど。


   
もちろん私たち衆生は、全能の神ではないのでその全貌を明瞭に見ることは
 出来ない。しかし、こうして見ると、私たちの苦しみ、悩みは、ここに至るまでに
 無数の直接、間接の原因(因縁)の相互作用で生じてきたことが、おぼろげながらも
 見えてくる。

  そして同時に、私たちの苦しみ、悩みは、遠い過去から今に至るまでの無数の
 因縁が相互に作用しあって、たまたま今生じているものであり、また新たな因縁が
 絡み合うことによって時々刻々、変化していくものだということもわかるはずだ。


  この世の現象のすべては私たちの煩悩も含めて、他のものから独立して固定的、
 永続的に存在できるものではなく、様々な因縁の時間的、空間的な相互作用によって
 有為変転、常にその姿を変えていく。動きそうもない山だって地球的時間の中では
 海の底だったりするではないか。
  このように見てくると、私たちが苦しんでいる煩悩も、私たちの切実な気持は
 ともかくとして、実は何一つとして確固とした実体はない
()のである。

  私たち煩悩の徒は、目の前の苦悩がこのまま永久に続くかと思いがちだが、煩悩の
 原因は時間軸を自在にとって考えれば、刻々と様相を変え、やがては消え去ってしまう
 ものなのだ。
  煩悩に苦しむ私たちは、一瞬後にはもう元の水ではなくなる川の流れを、同じ水が
 変わらずに流れているものと思い込んでいる。かりそめのものを固定的、永続的な
 ものと見て悩んでいるのだと、仏教の教えは言う。


  さらに、お釈迦様は追い討ちを掛けるように、実体のない悩みを悩む私たち自身の
 感覚さえ実体がない
()と言った。次のNo4では、私たちの心について仏教が教える
 ところを見ていきたい。


 No4 教えの本質A


 <私たちの感覚、こころも実は実体がない>

   ところで、数々の煩悩を抱えた自分とはいったい何者なのだろうか。
 普段、「これが自分だ」と疑うこともなく思い込んでいる自分というものは、
 それだけで全部の自分なのだろうか。例えば、金持ちになりたいとか、愛している
 人を失いたくないとか、あいつだけは嫌いだとか、今は死にたくないとか、そういう
 思いから離れられないでいる自分の心を仮に捨てることが出来たらどうだろう。
 その時自分は全くゼロになってしまうのだろうか。


  既に述べたように、自分を含めてこの世のすべての現象は固定的、永続的な  
 ものではなく実体がない。同様に自分の感覚や心も実は実体がない(空)と
 お釈迦様は言う。
  仏教のエッセンスである「般若心経」では、私たちの感覚である五感や意識、
 さらにはそれで感受した世界も同じように「空」だという。(まあ自分の感覚や心
 ぐらい状況によってころころ変わるものはないから、考えてみれば、それはお釈迦様
 の言うとおりかもしれない。)

  実体のない自分の感覚や心でとらえたものが固定的、永続的であると思い込んで、
 それにとらわれること(我執)から私たちの煩悩は生じる。従って、仮にそういう
 我執がなくなれば、煩悩も消えてしまう。少なくとも、苦悩している自我そのものが
 「空」だと分かれば、その悩みの本質をありのままに見ることができる。そうすれば、
 悩みへの対処の仕方も変わってくるはずだ。
 
  ここのところは私にもまだ良く分からない。病気になったときなど確かに苦しいし、
 目の前の苦しみはたとえ自我を消しても魔法のように消えてなくなるわけではないと
 思う。
  お釈迦様が涅槃に入るきっかけとなったのは急性の下痢の症状だが、やはり大変な
 苦しさがあったはずだ。その苦しさの中でお釈迦様は、訪ねて来た人に最後の説法を
 行い、彼がお釈迦様最後の弟子になった。
  禅の修行をした山岡鉄舟が胃がんを患い、いよいよ臨終と言う朝「まあ、こんな
 ものですな」と言って次のような句を読んだという。
 「腹はって苦しき中に明けがらす」

  自分が「空」であると踏まえたうえで、自分を空しくして、ありのままに
 苦しさを苦しさとして見れば、自ずと心のありようも変わってくるのではないか。
 「空」からありのままの現実へ、そこに煩悩解脱の本質があるように思う。

  仏教は私たちに煩悩から解放されるためには、その自分の自我、我執を捨てよ、
 と教える。そして、とらわれの心を捨て去った自分こそが本当の自分だという。
 安心してこのように信じることが出来るための、根拠となる考え方を次に見て行き
 たい。




 No5 教えの本質B


 <現実世界は絶対不変の真理、仏のいのちで満たされている>


   さて、お釈迦様が言うごとく、時空、自我を離れて見れば、この世の事象はすべて
 無常変転する実体のない空である。しかし、これを一面的にとらえるとすべての現実
 を否定することになり、この世は虚無で確実なものは何一つないということになる。

  そうした現実否定の虚無的な見方だけでは、この現実世界(娑婆世界)を、生き
 生きとした生命力を持って生きることが難しいのではないだろうか(仏教ではこれを
 空病といって戒めているらしい)。


   そこで、深い瞑想の中で我執を離れて心静かに、もう一度この現象世界を見て
 みよう。お釈迦様は、このとき無常変転する「空」の現象世界
の背後に、絶対不変の
 一つの真理があることに気がついたのである。
  それは、宇宙が始まる前から未来永劫に至るまで、すべての現象世界を織り成して
 きた原理、現象世界の根底にある原理とも言うべきものである。

  それは、この宇宙を貫く真理であり、また、すべての現象世界を織り成してきたと
 いう意味で、人間も含めて山川草木すべての中にも平等に働いている真理である。


  この宇宙の真理を、仏教では法(ダルマ)という。
 また、このダルマを、仏のいのち、仏性、仏心ともいう。


  宇宙の真理である法(ダルマ)は、人間の五感や尺度で捉えることは出来ないが、
 この宇宙全体に満ち満ちており、この世の現象世界すべてに、その息吹を吹き込んで
 いる。風のそよぎ、鳥の声、人間の姿、森羅万象のすべては、その見えない仏の
 いのちを歌っているのだ。

  お釈迦様が唱えて以来2500年、このダルマ(仏のいのち)という考え方は仏教の
 根本原理になってきた。実体のない空と見えたこの宇宙全体が、絶対不変のダルマ
 (仏のいのち)で満たされているという考え方は、現代科学によっても否定される
 ことはない。正直すごい発見だと思う。


  さて次に、仏教はこの法(仏のいのち)に宗教として2つの思いを託した。
   一つは、数限りない因縁からこの全世界を作り上げる能力、そして、その成り立ち
 のすべてを知っているという、人知を越えた能力である。

  
  もう一つは、大慈悲心、大喜心。

 法(仏のいのち)には人間にあるべき慈悲、清浄、喜びといった理想の心を全人類的
 に集大成したよりもさらに広大無辺な、この宇宙を覆いつくすほどの大慈悲心、
 大喜心があるのだと考える。


  すなわち、仏心は人知を超えた能力、広大無辺の大慈悲心、大喜心を持っていて、
 この人間世界を見守り、衆生を苦しみから救うのだと考えるのである。そしてすべて
 の人々が喜びを持って幸せに毎日を生きられるように、いのちの喜びを伝えてくれる
 のだと言う。
  この考え方はこれまでの厳密さから言うと、私にはまだ証明されていない仮説の
 ように見える。

  しかし、この仮説は、古来多くの国の何百億という人々の熱い信仰心をひきつけて
 きた。私はむしろこの歴史的事実の重さに、お釈迦様以来の宗教家、信徒の、多くの
 人を救いたいと言う理想の高さ、救われたいという思いの深さを見る思いがする。

  想像するに、自我を捨て去って、仏のいのちと一体になれたときに初めて、人はこの
 仏のいのちの本質が、大慈悲心、大喜心であることを覚るのだろう。
  同時に、その思いは、人間が理想とする心のありようを反映したものだとしても
 不思議なことではないだろう。何故なら、前述のように人は誰でも心のうちに理想の
 自分、本来の自分、すなわち仏のいのちを有しているからだ。
  
  これは、私にとってはまだまだ探求すべき宿題なのだが、信仰と言う実践の中でしか
 実感できないものなのかもしれない。
 


 No6 教えの本質C   

 <人は誰でも仏になれる>

   私たちの現実世界が、実体のない「空」であると認識することからはじまって、
 ようやく、その同じ「空」が人知を超えた慈悲心に満ちた仏のいのち、仏心に満た
 されているというところまで来た。
  それでこそ、私たち衆生は他でもないこの現実世界に踏みとどまって、「空」の
 虚無感にとらわれることなく生きることが出来る。
  仏のいのちと向き合って努力し、仏のいのちと一体になって煩悩を解脱し、しかも
 人間本来の生き生きした喜びに満ちた、そして慈悲の心を大事にした人生を送れる
 はずだというのである。


  大多数の人間はそれに気づかないけれども、先にも書いたように、この仏のいのち
 は本来、私たち一人一人にも平等に備わっている。従って、誰でも我執を捨てて
 本来の自分に目覚めれば仏のいのちと一体になれる(成仏)と考えるのである。


   お釈迦様は、私たち衆生が成仏するための様々な道筋も示している。

  詳しくは、次回以降になるが、仏教では、この法(仏のいのち)が衆生の目に見え
 る形で姿を現したのが、お釈迦様をはじめとする諸仏、諸菩薩だとする。しかも、
 法華経では、仏様がこの世に出現したのは、たった一つの目的、すなわち、すべての
 衆生を救うというたった一つの目的のためにこの世に現れたのだと述べておられる
 (出世の本懐)。


  私たち衆生は、この仏のいのちの呼びかけにこたえて正しい道を歩みながら、
 我執を捨て、現実世界に足場をおき、宗教を求める原点である、煩悩の解脱、世間
 救済に向かうことこそ肝要なのである。





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