メディア時評   <メディア時評一覧>

テレビは社会的に有効なメディアであり続けられるのか。また、時代に適合した新しいメディアが備えるべき条件とはどんなものか。番組制作論、メディア論を通して「メディアの未来」を考えて見ます。

■テレビ番組企画(第2回) 「企画に意味を与える」 06.1.15
 番組企画の2回目は「企画に意味を与える」というテーマなのだが、これが結構難しい。私が関わった番組の具体的な成立過程を例に書くといろいろ差しさわりがあるので、他の適切な例(番組)が見つかるかどうか。しかし、言いたいことは単純である。

◆時代の意味を取り込む
  結論から言えば、どんなテレビ番組といえども時代の雰囲気の中で見られるのだから、いっそ番組の企画段階から時代を意識し、その意味するところを取り込んでみたらどうだろうということである。タイトルの「企画に意味を与える」は「企画に“時代の意味“を与える」ということなのである。
  と言っても、第一にその番組にふさわしい「時代の意味」が何なのかを読み解かなければならないし、第二に、それをどういう形で企画に取り込んでいくのかも考えなければならない。以下、(できるだけ)具体的に考えてみたい。

◆「世界一受けたい授業」(日テレ)と「トリビアの泉」(フジ)
 この2つの番組は、同じ「知識や雑学」というジャンルで括ろうと思えば括れるが、「時代の意味」と言う面から見るとその目指す方向は全く違っている。番組批評めくが、ちょっと分析してみる。

 「トリビアの泉」は、明らかに今の「オタク文化」という時代性を意識していると思う。より些細な知識にこだわり、その知識が些細であればあるほど、しかも意外であればあるほど「へえー」となる。この番組を面白がるのは、日本の多様なオタク的知識を面白がる視聴者だろう。
  題材を投稿するのも(オタク的)視聴者だし、番組もタモリ(司会者)の性格のままに、肩肘張ってメジャーを目指すでもなく、むしろわざとマイナーで結構という斜に構えた演出である。(しかし視聴率は高い)
 この番組は、日本の「オタク文化」と運命を共にしており、これが活力を保つうちはいいが、多様性を失って息切れすれば番組も本当のマイナーになってしまうだろう。

 一方「世界一受けたい授業」は、時代とともに歩く「売れ筋」をつかんだように思う。この番組の特徴は何より取り上げる教授陣にある。既に73人の教授陣が出演したと言うが、「さお竹屋はなぜ潰れないのか?」といった、新書版などで話題の著者たちをうまく引っ張り出している。
  定時番組としては本格的に扱ってこなかった素材(学者たちの授業)に光を当てたのがアイデアだが、そういう出演者をうまく生かす器(スタジオ)を工夫したところもこの番組のミソである。教授陣が話題の人たちだから、番組も時代の関心事を扱うことが出来、時代と共に歩いていける。 但し、取り上げる教授陣に「本物感」があることが条件である。

◆企画に時代の意味を与えるには
 単発のドラマやドキュメンタリーは別として、定時番組では、時代の風を読んで企画を発想するようなことは案外少ない。下手するとアイデア倒れになったりする。 しかし、うまくつぼにはまると「時代の申し子のような新しい番組」が生まれる可能性があるので、大事にしたい発想法だと思う。

 では、どうすればいいのか。人間は発想の手掛かりを必ずどこかに求めるものだから、初めから皆がびっくりするような斬新な企画はなかなか出てこない。最初はどうしても元の手掛かりの影を残した、どこかで見たような企画にならざるを得ない。(*)
 そんな時、「企画に時代の意味を与える」方法で一番やりやすいのは、いま発想された企画に後から意味を与えていくやり方だ。後知恵というか、その企画が潜在的に持っている時代の意味を見つけ出し、その意味が際立つように番組(企画)を改良していく方法である。
 一見安易なようだが、単に番組の厚化粧で視聴率ねらいをするより余程効果的だ。こうした視点や志があるのとないのとではその後の番組の売れ筋が全く違ってくる。

  「世界一受けたい授業」も最初はいわゆる有名教授だったが、だんだんと新書などの他メディアからも最近の話題を「発掘」するようになった。制作者が確信を持って時代の関心事を取り上げる番組に持って行けば、さらに個性のはっきりした番組になるだろう。

  一世を風靡した「プロジェクトX」(NHK)。戦後の日本人の底力を有名人でなく、無名のチームメンバーを取り上げることで社会的共感を呼んだが、この背景には、バブルの崩壊で意気消沈していた日本人に誇りと勇気を与えると言う時代感覚があったと思う。
  「日本人も捨てたものではない」、「プロジェクトこそ戦後日本人の力の源泉」というメッセージは番組の時代的意味として制作者が充分意識した点だろうと思う。

◆時代感覚を磨く
 最初はある種の直感で発想された企画でも、それが潜在的に持っている時代性を見つけ出し意識して改良していけば、時代の共感を得て時代と共に歩んでいける番組になる。番組の寿命も長くなる。
  問題は、その時代性を見つけ出す能力をどう磨いていくかである。時代の中で今求められているものは何か、何が時代の関心事なのか、企画者の時代感覚が問われてくる。

 その時代感覚を磨くには当たり前のようだが、自分の時代に対するアンテナが錆び付かないように普段から努力する以外にない。 そして、その前に大事なことは、バラエティー番組も含めてすべてのテレビ番組は企画者が時代と向き合う中から生まれてくるものだということを、しっかり認識することだと思う。

発想の手掛かりとしては例えば、@法律、利殖、雑学、美術などなど今の視聴者が関心を持ちそうなテーマを設定して考える、
  A昔の番組や他局の同種番組を今風に「換骨奪胎」する、B視聴ターゲットの嗜好調査を基にして考える、
  C雑誌やネットなど他メディアの当たり企画からアイデアを借りる、などなどがあるだろう。

「テレビに時代の意味を与える」は同時に、「番組の寿命をどう延ばすか」にも関係してくるが、これは次回以降に廻したい。
■テレビ番組の企画について(前書き) 05.11.23
◆テレビ番組の企画を考える時に
  テレビ関係者は(実は視聴者も)常に、良い番組企画に飢えている。何が良い企画かは議論が分かれるところだが(そこが今回考えたいテーマでもある)、一般的に言って、良質で視聴率も取れそうな企画があればテレビ局は放っておかない。いつも良い企画はないかと呼びかけてはいる。

  しかし、そんな良い企画はそうそう生まれるものではない。番組企画というのは頭を絞りに絞って考えていくしか、生まれて来ないのは確かだが、自分の経験から言うと、漫然と考えていてもうまくいかないし、犬も歩けば棒に当たる式で闇雲に取材して回ってもこれはというのにはぶつからない。
 まず視聴率を取らないと、という発想の呪縛もある。自由に企画を考えよう、と言っても、長い間、檻に閉じ込められていた動物が檻から出されてもすぐには動き出せないように、発想が自由にならない。逆に視聴率をねらって企画を考えると、「視聴率ねらい@」で書いたようにろくな企画にならない。

 そこでこれから(6回程度のシリーズになると思うが)、テレビ番組の企画について、自分の体験をもとに(外野席から)何が提案できるのか、整理してみたいと思う。
 それがすぐに良い企画につながるかどうかは分からないが、企画を考える際の「発想の手がかり」のようなものになればと思う。書くうちに、テレビの現状に対する私の願望も当然反映されて来るだろうと思う。
■第一回「テレビの日常感覚を疑え」 05.11.23
◆テレビの中の日常は本物か?
 テレビが家庭に浸透していったその昔、「テレビよ、お前はただの日常に過ぎない」と言った先輩がいた。映像表現の主役が映画からテレビに移った時代に、テレビは(珍しいだけの存在から)早くお茶の間の主役にふさわしい新しい表現を見つけるべきだという趣旨ではなかったか。

  それから半世紀近くたって、テレビは日本人の日常そのものになった。殆どの日本人が今、テレビと同じ日常感覚で暮らしているといってもいい。 テレビだからと笑って見ているうちに、いつの間にか自分の感性をテレビに染められていることに愕然とすることもある。
  例えば、かつて随分と顰蹙(ひんしゅく)をかった、さんまの「恋の空騒ぎ」(日テレ)。それでも発足当時は常識的な姉御肌のメンバーもいたが(自分も結構見ているなあ)、近年は、話の面白さを強調するために、わざと常識はずれのメンバーばかりを集めてきた。
 彼女たちのセックスや金の話に呆れているうちに、いわゆる「テレビによる感性の鈍磨」によって、それがいつの間にか日本の若者の日常感覚になっていることに気づく。最近では、レイザーラモンHGという腰を振るゲイが茶の間の人気者らしい(誰か文句を言わないか)。

 毎日のようにテレビ画面に登場する、タレントの私生活、「セレブ」の暮らし、一部若者たちの風俗、小泉チルドレンの面々、不可解な凶悪犯罪などなど。それらがたとえ自分の日常生活からかけ離れたものであっても、私たちはテレビの世界と同じような感覚で暮らすよう強いられているのかもしれない。
 視聴者は、自分の日常感覚がテレビに染められていくことに何となく違和感を抱きながらも、その違和感のぶつけどころがないままに仕方なくテレビに付き合っている。その一方で、テレビは徐々にメディアとしての地位と信頼を失い、視聴者から見放されつつあるのではないか。

◆テレビ的日常感覚を離れて考えよう
 テレビが作り出した日常感覚は仮想のものだが、私はそれをすべて否定するつもりはない。それがどんなに珍妙なものであれ、現実を離れて楽しむのもテレビなのだから。
  問題は娯楽番組も報道情報番組もすべての番組が、視聴率競争の中でテレビ的日常感覚に染められて同質化していることであり、テレビ制作者たちもそれにどっぷり浸かって番組を考えていることである。
 私は、極論かもしれないが、企画者が今のテレビの日常感覚にどっぷり浸かっていたのでは、テレビに未来はないとさえ思ってしまう。

  では、(一見華やかだけれど地盤沈下している)この現状に「活」を入れるために必要なことは何か。それは、番組の企画に当たる者たちが、まず今のテレビ的日常感覚を徹底的に疑って(否定して)かかることではないかと思う。テレビ的日常の裂け目から踏み込出して、テレビの世界の外に出るということである。そうすればそこに本物の現実と本物の感動がある、と思うことである。このことがテレビ企画について一回目に言いたいことであり、テレビが閉塞状況にある今こそ必要なことだと考える。

◆ドキュメンタリーとドラマの効用
 ところで、今のテレビ的日常感覚を否定してテレビに活を入れようと考えた時に、最も有効な番組とはどんな番組なのだろう。私はその効果を如実に実感させてくれるジャンルの番組が第一にドキュメンタリーとドラマだと思っている。
 もちろん、そのドキュメンタリーもドラマも(トレンディーものなどではなく)見ているものに粛然と「人生」を感じさせるような本物の現実や感動がなければならない。(そうした名作の数々がテレビ文化を築いてきた)
  しかし、そうした企画を生み出すためにはまず、(「北の国から」の倉本聡のように北海道に住まなくてもいいけど)今のテレビ的日常感覚を離れて企画を考えることが必要なのだ。
 
 テレビ局側にも考えて貰いたい。受けねらいの作り物で一杯のテレビの中に、効果的に2つの「本物の大作」が登場することで、いかに今のテレビが引き締まるか。テレビの中だけで完結してないで、テレビの日常感覚を打破するような「本物感」を、常に外から注入し続けることが、テレビの活力維持にいかに重要か。
 ドキュメンタリーやドラマは、沢山の種類の番組を「料理の具」とする番組編成の中で、(多くはいらないが)料理全体を生かす「塩」のようなものである。当たり外れも多いけれど、「本物の大作」のための企画探しと投資を惜しむとあっという間に衰退してしまうジャンルだということも忘れないで欲しい。

*先日民放の日本放送文化大賞を受賞したドキュメンタリー「桜の花の咲く頃に」(フジ)は12月9日に再放送されるようだ。
*(追記)12月4日のNHKスペシャル「脳梗塞からの“再生”、免疫学者・多田富雄の闘い」も粛然と「人生」を感じさせた。このことはいずれ番組批評で書きたい。
■楽天対TBS・テレビ局の理念とは何か? 05.11.8
 IT企業の楽天がTBS株の20%弱を買い占めて筆頭株主になり、経営統合を求めて攻勢をかけている。春のライブドアとフジテレビに続く攻防劇である。
 この結末がどうなるのか(商法に疎い私には)分からないが、テレビ局にいた人間としては、この問題を少し別な視点から考えてみたい。攻勢にさらされるテレビ局の方に問われているものは何かということである。

◆テレビ局のコンテンツはバラ色のビジネスになるか
 楽天側が経営統合のメリットの第一にあげているのは、テレビ局の豊富な番組資産(コンテンツ)をインターネットなど様々なメディアに配信し、収益の多角化を図ると言うことである。TBSの強みは「卓越した番組制作能力と豊富な番組資産」にあり、これをうまく利用すればもっと儲かるはずだと言う(楽天の提案)。
  しかし、ライブドアの場合もそうだったが、IT企業が経営統合の大義名分として異句同音に、「テレビ局の優秀な制作能力とコンテンツ資産」の活用をあげてくることに、私は笑ってしまう。 これは「隣の芝生(テレビ局の番組資産)は青い」的なIT企業共通の幻想か、あるいは別な狙いを隠すためのタテマエとしか思えない。

 というのは、テレビの番組資産(コンテンツ)がどのくらいのビジネスになるかは、既にテレビ局自身がこの何年か試みてきておよその見当はついているからだ。まだまだ工夫の余地があるにしても、コンテンツのネット配信は、急成長が期待できるようなバラ色のビジネスではない。著作権問題などのハードルも高く、これまでも成功例はごく一部に限られている。
  IT企業は、「放送と通信の融合」という時代の潮流に乗って経営統合のメリットを(相手に敬意を表して)うまくアピールした積りだろうが、コンテンツのネット配信などは(難しさが分かっている)テレビ局主導でやるべきだと思っている放送側からすれば、むしろ「衣の下の鎧」を見る思いだろう。

◆楽天の本音はマネーゲームか、金儲けか
 私は、楽天はそんなことは百も承知で、「TBSとの経営統合は、それさえ出来ればどう転んでも損はしない」と言う、金儲けのうまみを見ているのだと思う。
 TBSは(よく伝えられるように)赤坂に莫大な不動産を持ち、その資産評価は株価に反映されていない。つまり、資産に比べて株価が安いのだから、経営に参加できれば株価を上げる事は容易である。株を安いうちに買い占めて高くし楽天の資産価値を高める、これが固いところの金儲け。

 さらに、楽天側の最大の目論みは、言葉を飾ってはいるが、要するにテレビ放送を使って楽天宣伝を行い、莫大な数の視聴者を楽天市場に引き込むことにある。つまり、(インターネット上の商売ではあるが)テレビの通販と同じ商売を経営統合した自分のテレビ局を使ってやるということである。
  仮に視聴率20%の番組で楽天商売を宣伝すれば、2千万人が見ることになり、インターネットの限界を簡単に突破できる。楽天にとって「放送と通信の融合」は利益拡大のビッグチャンスなのだ。

◆テレビ局は企業理念をどう考えてきたか
 現在、「放送と通信の融合」は時代の必然のようにいわれて、放送業界もIT業界もバスに乗り遅れまいと様々な模索を続けている。 IT企業のテレビ局買収もこうした動きの一つだろうが、私は一連の攻防を見るとき、テレビ局側がなぜはっきりと「テレビ局とIT企業は目指すところが違うのだ」と説得力を持って言えないのか、これが情けないと思う。

 特定対象の「通信」と違って、不特定多数を対象とする「放送」は国の免許事業である。無秩序な競争から保護されているかわりに、公共性を担保するための様々な規制も受けている。 放送の公共性という社会的責任に答えるために、放送事業者はその企業理念を常に自らに問うて来なければならなかったはずである。
  例えば、10年ごとに免許更新問題が俎上に載るBBC(イギリス)は、その存在理由を常に自ら点検し国民に訴えてきた。報道番組、娯楽番組、文化番組、デジタル事業、世界戦略などなどについて、BBCの役割と目指すところをビジョンとして作り、明らかにして来た(Green paper)。
 
 ところが、日本の放送界は最低限の放送倫理コードは自主的に作ったが、放送の理念(ビジョン)作りには熱心ではなかった。視聴率主義でCM売り上げをねらいテレビで通販をやり、事業の多角化を図ってきた民放は、自らの手足を縛るそうしたビジョン作りを意図的に忘れようとしてきたのかもしれない。

◆IT時代にふさわしい放送の理念を確立すべき
 IT企業には、IT技術の進化によって可能になった不特定多数向け通信のビジネスモデルをいち早く開発して来たという自負があるかもしれないが、それは出会い系やポルノまで何でもありの世界である。
 そのIT企業から経営統合を持ちかけられて、テレビ局があわてて放送の公共性などを持ち出しても説得力がないと言われてしまう。放送事業者としての理念を明確に構築してこなかったテレビ局の日頃の怠慢が問われているのだ。

  私もIT技術の進化を考えるとき、「放送と通信の融合」は避けようのない流れだとは思う。しかし、そういう時だからこそテレビ局(NHKも民放も)は、社会の公器としての放送の役割、使命は何かを問い直し、それを放送局のビジョンとして視聴者に提示していくべきだと思う。(今からでも遅くはない)
  そのうえで、時代に即した新たな「融合のビジョン」を作って国民に理解を求めていくことが必要なのではないか。そうでないと「放送」も結局は、金儲けの主導権をどちらが握るかと言う「資本の論理」に引きずり込まれることになる、と私は懸念する。

 放送メディアが次々と巨大資本に統合されているアメリカの例を見るまでもなく、これは市民にとって決して幸福な状況とは言えない。