メディア時評       <メディア時評一覧>
テレビは社会的に有効なメディアであり続けられるのか。また、時代に適合した新しいメディアが備えるべき条件とはどんなものか。番組制作論、メディア論を通して「メディアの未来」を考えて見ます。

■小泉自民党の9.11メディア戦略 05.10.17

◆メディアを利用する側から見る
  前回の「選挙報道はなぜワイドショー化したか」では、9.11選挙のメディア側の問題を考えた。しかし、この問題はメディアを利用しようとする(政治の)側からも見ておく必要があると思う。小泉自民党が今回の選挙でどのようなメディア戦略を立てたのか、またそれはどんな意味があるのか考えてみたい。

 と言っても私に手がかりはあまりない(新聞報道も不充分だし)。一つは、自民党の選挙広報戦略を担当した世耕広成参議院議員の活動日誌(ブログ)。もう一つは、アメリカの著名な反体制学者(実にあいまいな言い方だが)、チョムスキーMIT教授の著作「メディアコントロール」。
  材料が少ないので多少問題意識が先行するかもしれないが、これらを下敷きに、選挙で私たちの目に映ったものを読み解いてみたい。

◆初めて本格的なメディア戦略で取り組んだ選挙
 世耕議員は、選挙期間限定の自民党広報本部長代理になり選挙のメディア戦略を取り仕切った。彼のブログ「世耕日記」を見ると、自民党は解散直後の8月11日に「コミュニケーション戦略チーム」を召集。以後、この戦略チームの会議は投票日の3日前まで約一ヶ月間、連日開かれている。世耕も毎回出席。

 この戦略チームがどういう顔ぶれか、またどのような具体的活動をしたのか、詳細は(私には)謎である。ただ、自民党の選挙戦略についてはマーケティング専門家の間でいろいろ取り沙汰されている(最近のブログ)くらいだから、広報やマーケティングの方法論を勉強したかなり専門性の高いチームだったのではないかと思う。

  世耕は8月11日の日記で「自民党は今まで戦略的なコミュニケーション戦略を持っていなかったが、今回の選挙では戦略性を持った広報を展開して行きたい」と宣言、結果としてねらい通りのメディア戦略を展開した(詳しくは「世耕日記」)。
 利用される側のメディアは無邪気だったが、自民党はまさに今回初めて、本格的なメディア戦略のもとに選挙戦を戦ったことが分かる。

◆小泉自民党の戦略と民主党の失敗
 今度の選挙で、小泉自民党が言い続けたのはたった一つ、「郵政民営化賛成か反対か」である。途中で「郵政民営化は改革の本丸」、「改革を止めるな」、「官から民へ」と言い方を変えつつも、(相手の土俵に乗らずに)何としても争点を郵政民営化一本に絞る。世耕らのメディア戦略もすべてそこから展開されたといっていい。
  対抗馬(刺客)を立てて郵政を巡る抗争劇を演出し、世論の動向を毎日分析しながら候補者たちに郵政以外にものを言うなと釘を刺し、争点が広がりやすい党首討論を拒否した。

 一方、民主党は郵政の代わりに前面に押し出した「年金と子育て」が大きなうねりにならず、途中で「郵政民営化には賛成だがプロセスが違う」と言い出した時点で勝負あり(*)。
 民主党大敗の原因は、(小選挙区制の不幸もあったが)郵政一本に絞った自民党の選挙戦略、メディア戦略に後手を引き続けたのが大きかったといえる。

◆国民にとっては良かったのか
 しかし、スローガンを一つに絞って選挙をするというのは何も自民党の発明ではなく、実は、アメリカでは非常に効果的な戦略として選挙の常套手段になっているという。(「メディアコントロール」)。
  湾岸戦争時、「我々の軍隊を支持しよう」といって戦った父親ブッシュ、「テロと対決する」と言って戦ったその子ブッシュ。ポイントは誰も反対しようとしないスローガン、誰もが賛成するスローガンだ。
  しかし、それが何を意味しているか具体的には誰も知らない。漠然としたスローガンだからだ。チョムスキー教授によれば、大事なのは本当に重要なことから大衆の目をそらすことにあり、その戦略はPR専門家によって入念に考え抜かれて来たという。

  この論で言えば、今回自民党が掲げた「官から民へ」、「改革を止めるな」は誰も反対できないスローガンだが、このスローガンについてどのくらいの国民が明確なイメージを持っていただろうか。「説明が足りない」と言われ続けた郵政民営化についても、国民の殆どが最後まで具体的な内容や手順を知らなかったのではないか。また、年金や増税、憲法などほかの議論も隠れてしまったのではないか。
  国民は郵政民営化のスローガンに反対できないばかりに、巨大自民党を誕生させ4年間を白紙委任した。これは果たして国民の知る権利に対して、説明責任を持つ政党が、誠実に答えた結果だったのだろうか。

◆政治の変貌とメディアの責任
 私は、今回の選挙がすべてチョムスキー教授の説に当てはまるとは思わないが、一つだけ言えることがありそうに思う。それは従来、政治家個人や派閥の親分がばらばらな思惑で雑居していた自民党が、ここへ来て新たな組織政党に脱皮しつつあるのではないか、ということである。
 その中心にいるのはもちろん小泉だが、彼の意向に沿う形で自民党の一部は、(良い悪いは別として)戦略的な機能集団に変わりつつあるような気がする。民主党もよほど戦略を練り直さないと対抗出来ないだろう。

  と言うようなわけで、自民党のメディア戦略には今後さらに磨きがかかるに違いない。場合によってはメディア操作、メディアコントロールにまで踏み込んでくる可能性だってある。そんなときに、メディアは今のように無邪気に興味本位に政治家たちを追いかけていていいのだろうか、というのが私の素朴な問題意識である。
  「選挙報道はなぜワイドショー化したか」で書いたように、見識あるニュースキャスターたちには、今回の選挙報道と政治のメディア戦略との関係を客観的に検証し、今後の対策に生かしてもらいたいと思う。
  権力のチェック機能として、また国民の知る権利にこたえる機能として、メディアの責任はますます重くなるのだから。

*)前回の大統領選挙で、ブッシュに負けた民主党のケリーは「テロ撲滅には賛成だが、やり方が悪い」と言い、今回日本の民主党の「郵政民営化には賛成だがやり方が悪い」と同じ言い回しだったが、これはパンチ力に欠ける言い方の「見本」のようなものと言われた。

■ 選挙報道はなぜワイドショー化したか 05.9.29

◆問題意識が希薄なテレビ
 9.11選挙から2週間経つが、私が見るところ、今回の選挙におけるマスメディア(特に民放テレビ)の選挙報道については、まともな検証が殆ど行われていない。
 或いは今後、雑誌などが取り上げるのかもしれないが、どうも今回の選挙報道についてマスコミにはあまり深刻な問題意識はないようだ。

 テレビ現場に問題意識が薄いのは、多分、次々と話題を繰り出す小泉陣営の選挙戦術があまりに鮮やかだったために自分たちが振り回されたと言う自覚が薄いこと、むしろ自分たちは国民の知りたいことをきめ細かく伝え、結果として政治に関心が高まり投票率が上がったのは良かったではないか、といった思いがあるのではないかと思う。(事実このように総括していたニュースキャスターもいた)

◆テレビは真に伝えるべきものを伝えたか
 しかし、本当にそれでいいのだろうか。
 選挙後の調査で、国民の多くはこれほどの自民党圧勝になるとは想像しておらず、結果に不安を感じているという。また、今になってマスコミは小泉首相の所信表明を聞いて郵政以後の具体的姿が見えない、などといっている。
 国民の選択にけちをつける気は毛頭ないが、小泉劇場に幻惑されて一政党だけの話題に振り回され、何か大きな議論が抜け落ちていたのではないか、テレビも新聞も真に伝えるべきものを伝えていなかったのではないか、という疑念がぬぐえない。選挙報道の最低条件である「公平性、中立性」も名ばかりだったのではないか。

◆選挙報道はなぜああなったのか
 ここへ来て、一部のトップでさえ問題意識を持って来ている(*下記)のに、当のニュースキャスターたちからは、不思議に何の問題提起もされていない。私はそこに案外テレビの本質的な問題が潜んでいるように思う。
 選挙報道(民放で言えば、午後5時、6時台、10時、11時台の報道番組)が小泉劇場に振り回された要因を、私なりに幾つか推測してみようと思う。

  一つは、目の前の面白い事象を追いかけるのは、テレビに携わる人間の本性だということ。テレビの第一線にいる人間は誰しも、自分の野次馬根性に絶対的な価値を置いている。
  「刺客」だの「反対派つぶし」だのと、目の前に何十年に一回かの面白い現象が起きているのに、それを追いかけないでどうする、というのがキャスターも含めた現場の気持ちだったのではないか。
 視聴者の知りたいことを伝えるのはテレビの役目ではないかという理屈も付いてくる。 それが裏目に出て、目の前の事象との距離が取れず、公平、中立という選挙報道の王道を踏み外すことになったのではないか。

  同時にその裏には、大物キャスター特有の過信も働いていたに違いない。どんな事象を追いかけていても、自分はテレビをコントロールできると言う思い込みである。
 しかし、 彼らにはしてやられたと言う意識はないかも知れないが、今回は小泉の方が上手だった。どんなに辛口のコメントをつけようが、取り上げたが最後、結局テレビは(キャスターの思惑を超えて)小泉陣営のねらい通りにしか機能しなかった。

 テレビは今、理性を忘れて一斉にとんでもない方向に走り出す傾向がある。また、そこを虎視眈々とねらっている勢力もいる(テレビを利用しようとする側の動きは次回)。よほど皆で臆病に手綱を握り締めていないと、一人のキャスターなどの手に負えない暴れ馬になりうるのだ。

  もう一つは視聴率だと思う。表向き視聴率などある程度確保していればいいと言うニュースキャスターや現場スタッフも視聴率の誘惑には抗しきれない。
  視聴率が上がれば、現場はそれが国民の関心だと考え、話題性がある限り追いかけるのを止められない。この期間中、ニュースの視聴率はいつもより数%は高かった筈だ。

◆ワイドショー化する報道番組
 もっと根本的な問題は、ニュースを伝える側に、新しい時代の選挙報道に関する備えがなかったことだろうと思う。
  田中真紀子と鈴木宗男の騒動以来、政治はワイドショー(民放の午後2時、3時台)の格好の題材になった。その中で、ニュース、ニュース番組、ワイドショーの垣根がどんどん低くなり、結果として内容が限りなくワイドショーの方に引き寄せられている。 有名政治記者やキャスターがニュースにもワイドショーにも同じように登場し、誰もこの現象を疑わない。

  テレビの現状を心して見れば、これからの選挙と選挙報道が劇場型(ワイドショー型)になることは十分予想されたことだ。しかし、テレビの日常感覚に慣れてしまったキャスターたちには、これに対する意識的な警戒と備えがなかったのではないか。

◆新しい時代の選挙報道の憲法とは
  私がニュースキャスターに期待したかったのは、たとえ準備不足だったとしても走りながら軌道修正をして、せめて従来の「選挙報道の最低条件」である公平性、中立性くらいは(名実ともに)取り戻して欲しかったということである。
  さらに、今回の選挙報道を踏まえて、ニュースの現場に期待したいものがある。
  それは、今回の選挙報道全般について、専門家を交えて客観的に十分検証をしてもらいたいと言うことだ。
 その上で、新しい時代の「選挙報道の憲法(王道)」を今から考えていってもらいたい。

 今後ますます政治ネタが芸能ネタと同様にワイドショー化する時代にあって、テレビはどのように選挙報道をしていくのか。選挙に当たってニュースとニュース番組が当然守るべきことは何なのか、また、国民の選択に欠かせない政策論議をどう設定していくべきなのか。議論を深めてもらいたいと言うことである。

*TBS社長談(28日)「(今回の選挙は)テレビを意識した選挙だった。公平中立をちゃんと保ちながら番組をやっていくのは大変だ。この次の選挙にはどうなるのか、正直言ってちょっと心配になるくらいだ。」

*一連の選挙報道の中で、民放の中で私が一番バランスが取れていたと感じたのは関口宏の「サンデーモンーニング」(TBS)だが、これについては番組批評で書きたい。

■ 視聴率ねらい(1) 05.8.1

 テレビ関係者にとって避けて通れないのが視聴率の問題である。長年テレビ制作の現場にいた身で視聴率を気にするななどと偉そうなことは言えないが、行き過ぎた視聴率競争がテレビにどんな弊害をもたらしているのか、2回にわたって書いてみたい。

◆視聴率競争の現場
 テレビのプロデューサーが一喜一憂するのが、放送翌日に配られる視聴率データである。1%の違いが定時番組では番組の改廃に影響し、特番ではディレクターや番組プロダクションの評価に直接影響する。
 数字が低ければ、鳴り物入りで始まった久米宏の番組(日テレ「A」)も僅か3ヶ月で打ち切りになる。 俗に「視聴率は七難隠す」というが、視聴率さえ良ければ番組は成功で、内容については表立って誰も問題にしない。逆に、視聴率が悪いと企画の中身や番組の出来不出来についてあれこれと取りざたされる。負け戦のようなものだ。

 視聴率はスポンサーからのCM費(この一部が番組費にもなる)の算出根拠にもなるから、民放経営者が放送現場に視聴率ねらいのプレッシャーをかけるのは当然の成り行きである。
 NHKも同じように視聴率にこだわる。見ないのに受信料を払ってくれる人がだんだん少なくなっている中、教育テレビで視聴率を狙うのは無理だとしても、ゴールデンアワーなどでの視聴率をできるだけ上げてNHKの存在感を高めなければならない。
 番組の時間帯には相場の視聴率があり、その相場より0.1%でも視聴率を上げるためにディレクターは悪戦苦闘することになる。この構図は当面変わらないと思うので、地上波のテレビ制作者はこの先も好むと好まざるとにかかわらず、視聴率競争に駆り立てられていくだろう。

◆視聴率をねらった企画の落とし穴
 視聴率をねらう場合、制作者から言うと大まかに2つの方向があるかと思う。一つは始めから視聴率をねらって企画を考えるケース。もう一つはある企画があって、視聴率を上げるための様々な手練手管を使うケースだ。より大きな問題は始めのケースにあると私は思う。

 始めから視聴率をねらって番組を作るとどうなるか。まず視聴率を引き上げそうな視聴者層(ターゲット)を想定する。そのターゲットが何を見たいか、どんなタレントが好きか、どんな話題を望んでいるか、ちょっと先を行く専門誌や雑誌などから情報を拾って企画に生かす。しかし、これはいわゆるターゲット論を履き違えたもので、こうして出来た企画にはろくなものが無い。
 セレブのお嬢様を紹介したり、お宅を拝見したり、IT成金の持ち物の値段をきそったり、タレントのよく行く高級グルメ店を紹介したり、売れっ子ホストを覗いたり、勝ち組女優の私生活を追いかけたり。一頃は渋谷あたりにたむろするガングロ娘の生態を毎日のようにテレビ局が追いかけていた。これらは単にその時々の流行をいいわけ程度の理屈をつけて番組にしたに過ぎず、「企画の貧困」以外の何ものでもない。

  視聴率の歩留まりだけを考えた企画も多い。タレントを連れて東南アジアを食い歩く。わざと馬鹿な若者をスタジオに連れてきてクイズを出したり、男女で喧嘩をさせたりして視聴者を呆れさせる(制作者サイドでは視聴者の優越感をくすぐるという)番組。時間帯にもよるが8%や9%はとりますということだけで成立する番組だ。
 こうなるとテレビの世界は「柳の下にどじょうがうじゃうじゃ」の世界で、どのテレビ局も毎日同じような番組を垂れ流すことになる。何か一発当たった番組があると恥も外聞も無く後を追う番組が作られる。どのチャンネルを廻しても同じタレント、同じ出演者、同じ話題。制作者もこの惨たんたる有様に慣れてくると、気がついた時にはもう斬新な企画など出てこない頭になっている。

◆結論
 視聴率をねらうことは、多くの人に見られる番組をめざすということだから、一概に罪悪視することではない。問題は視聴率ねらいをどう捉えて番組作りをするかという制作者(編成プロデューサー、制作プロダクション、ディレクター)自身の心構えの問題だと思う。
  安易な数字ねらいだけで番組企画を考えることがいかに制作者自身の創造性を失わせているか、また、テレビとはこの程度のものだという視聴者の見切りをいかに誘っているかを、をまず知って欲しいと思う。これが今回の結論。

 テレビ局の看板に育つような、本当に爆発力を秘めた斬新な番組は、それこそ24時間頭を絞っていないと生まれてこない。また、どんな番組を作ってもどこかで新しい試みを取り入れるくらいの気持ちで仕事をしていないと生まれないはずだ。
 番組企画のヒントについてはいずれ項を改めて考えてみたいが、視聴率ねらいの第二のケース、まず企画があって、それを視聴率が取れるようにもっていくというケースについても幾つか問題点はある。次回はそれについて書きたい。

■視聴率ねらい(2) 05.9.11

 前回は、始めから視聴率をねらいに行った番組企画がいかに発想の貧困をもたらしているかについて書いた。今回はある番組企画があった場合に、その番組の視聴率を高めるために使われている演出法の問題点について書きたい。ジャンルとしては主としてスタジオバラエティーと言うことになる。

◆視聴者を離さないための演出、手練手管
 今テレビは、視聴者がリモコン片手にちょっとでも退屈を感じるとチャンネルを切り替えてしまう、いわゆる「恐怖のザッピング視聴」の時代である。 そのために、スタジオバラエティーでは、30秒に一回、場合によっては15秒に一回笑いを取るような工夫がないとお客が逃げてしまうと言われるようになった。
 視聴率を落とさないためには、移り気な視聴者を何とかよそ見させずに引き付けておく工夫が必要になる。  

 視聴率をねらう制作者がその時、手っ取り早く試みるのが番組のお化粧という演出法である。スタジオを派手に、にぎやかにする。より刺激の強いものにする。以下、視聴者を引き付けておくための手練手管の具体例を幾つかあげてみる。

  タレントをスタジオに集められるだけ集めて(壁の花にして)にぎやかにする。タレントたちはこの機会を逃すまいと必死で目立ち方を考えてくるが、大部分はカットし使えそうなものだけを適当に選ぶ。
 笑いを取ろうとしたタレントの言葉を大きな斜め文字にして強調する。文字に色をつけたり効果音をつけたりもする。(番組のテーマを忘れさせてしまうくらいに)本筋から外れた余計なお笑いをできるだけ多くして道草を食う。
 もっと刺激を強くしようとする場合は現金を用意する。常識問題をクイズにして、50万、100万の金をタレントに競わせる。さらにはいじめられ役のタレントを選んでタレントいじめをする。タレントの常識のなさや同情を引きそうなところを見せて、視聴者の優越感をくすぐるという戦術だ。

  視聴率をねらいに行く時に制作者が頼るこのような演出の引き出しは実はもう出揃っていて、特に創造力を必要とするようなものではない。しかし、これがバラエティー番組だと思い込んでいるディレクターも多いのだろう、バラエティーの時間帯には同じような演出の番組が幾つも並ぶことになる。

◆なぜ厚化粧に走るのか
 視聴率をねらう演出も、こうなると番組のお化粧と言うよりは厚化粧と同じで私などには逆効果にしか見えない。 しかも、視聴者を離すまいと番組を派手にし、刺激を強くすればするほどテレビはますます低俗化していく。
 「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉があるが、そうしたどぎつい番組が良質な番組を押しのけていくのだ。

 ではなぜこうした安易な演出が幅をきかすようになったのか。
  もちろん(1)に述べたように、制作者が視聴率のプレッシャーにさらされているのが直接的な原因ではあるが、私は、制作者がこうした安易な厚化粧にたよるのは、はっきり言って番組企画そのものにあると考えている。
 企画の内容が無い、内容があいまいでひと言でいえない、伝えるべき内容、情報が希薄。そういう場合に、欠点を繕(つくろ)うために番組の厚化粧に走るのだ。何となく女性に例えているようで恐縮だが、そう考えるとわかりやすい。

◆良質なバラエティー番組を生み出すために
 他方、各局の看板番組に育っているような番組は、まず内容がはっきりしている。私がよく見るバラエティー番組でいうと、「いつみても波乱万丈」は人物、「世界一受けたい授業」は一流人の授業、「チューボーですよ」は料理、「何でも鑑定団」はアンティーク鑑定、「本当はこわい家庭の医学」、「あるある大辞典」は医学健康など、それぞれに伝えるべき内容がはっきりしている。
  最近はどうしても伸介に頼って演出過多になる(このバランスが難しい)「行列のできる法律相談所」も身近な法律とテーマはっきりしている。

  法律や医学、授業などは本来なら教養番組にしかならない(NHKを見れば分かる)が、こうした起爆力のある番組は、様々な演出を工夫して娯楽番組にしている。
 視聴率をねらうにしても、その内容、企画にふさわしい個性的なスタジオ構成、演出を考え出している。華やかさは持っているが、ゲスト、司会者、観客などの関係が明確で、シンプルでさえある。
  明確な企画内容を持ち、それにふさわしい個性的、魅力的な演出法を発見すること、その結果が視聴率にもつながること。そこにスタジオバラエティーの醍醐味もあるのだと思う。(ここに企画のヒントもあるのだが)

 制作者には、安易な視聴率ねらいがテレビの低俗化に拍車をかけている現状をもっと認識してもらいたいと思う。安易な演出に頼る前にその企画は明確なのか、内容があるのか、企画内容にふさわしい斬新な演出を発明しているか、充分に吟味してほしい。
 そして、個性的で良質な娯楽番組を生み出すことにこそ、その創造力を発揮してもらいたいと思う。