盛岡に一泊した翌朝、地盤工学の大御所Tさんの運転する車で三陸海岸に向かった。かなり冷えたが快晴だった。一行はTさんのほかに防災専門家のIさん、防災士訓練センター代表のKさんと私の4人。震災後2年が経過した三陸を見て歩いたのだが、私以外は、もう何度も現地に入っているベテランである。
時間が許す限り見て歩こうということで、初日は宮古市(旧田老町も)、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市を回って一関市で泊まり。翌日は、気仙沼市、南三陸町、石巻市を回って仙台へと言うコースだった。三陸沿岸の入り組んだ道(国道45号線)に沿って、初日の走行距離が300キロにもなるという取材だった。取材の全貌を書くことは無理として、そこで見たもの、感じたことを3回に分けて書きたい。
◆ギリギリのタイミングだったかもしれない
2年前の3月11日、三陸沿岸の「津々浦々」に押し寄せた大津波によって街や港を守る堤防の実に7割が破壊されたと言う。テレビ映像で何度も目にしたように、市街地も集落も巨大津波に飲み込まれて流され、所によっては津波とともに流れ込んだ重油で市街地が炎上した。土手の上を走る三陸鉄道も各所でズタズタになっている。
当時、山のように積み上がっていた瓦礫や、折り重なった車、建物の屋上にまで乗り上げた船などは、この2年間で殆どが撤去され、今では多くの集落や市街地が哀しいほどすっぺりとした更地になっている。見渡す限り建物の土台だけが残っていて、そこにどのような暮らしがあったのか、もう簡単には想像できなくなっている。
そんな中、沿岸の北から南にかけて津波被害のモニュメントのような構造物が、点々と残されているのを見た。殆どの瓦礫と建物が撤去されつつある今、なぜそれらの構造物が残っているのか。詳細は分からないが、(後で書くように)その一つ一つの構造物には、悲劇的な物語があり、それをどうするかの悩ましい議論があったことを想像させる。
それらの構造物は既に象徴的な存在になっていて、もの言わぬ彼らからは津波の圧倒的な破壊力と悲劇の物語が直に伝わってくる。声をかけてくれたIさんに聞くと、殆どがやがて取り壊される運命にあるらしく、その意味で今回の取材はぎりぎりのタイミングだったかも知れない。幾つか印象的なものを(実は写真では殆ど伝わらないのだが)写真とともに取りあげたい。
◆宮古市田老地区の巨大堤防
岩手県宮古市田老地区。ここはかつての田老村で、明治29年の明治三陸大津波で1867人(人口の83%)、昭和8年の昭和三陸地震津波で763人(人口の42%)が犠牲になった。その教訓を生かして昭和54年、高さ10メートル、総延長2433メートルの二重の巨大な防波堤が完成した。完成には44年の歳月をかけたという(「日本の津波災害」伊藤和明氏)。
私が「地震後30分」という津波の特集番組で、当時の田老町を訪れたのも、その頃だった。しかし、津波防災のシンボル的存在だった田老の巨大堤防も、今回の大津波にはやすやすと乗り越えられてしまった。堤防を越えて津波が流れ込み、180人の犠牲者を出している。
34年ぶりに、その巨大な堤防に上がって見た。堤防の内側にあった集落が消えて更地になっていた。堤防の一部はコンクリートがはがされ中の土がむき出しになっている(堤防が土の上をコンクリートで固めたものだと初めて知った)。照明灯の鉄柱が、津波が流れた方向に根元から完全に折れ曲がっている。津波の力の凄さである。
(更地の上で仮の理髪店を営んでいる)消防士の高橋優さんに聞くと、家族を避難させてから水門を閉めに行った時、堤防の上で津波が来るのを見物しようとする人がいたという。一緒に避難したと言うが、それだけこの堤防の力を信じていたのだろう。襲ってきたのは、彼らの想定をはるかに超える巨大な津波だった。
◆悲劇の大槌町役場、南三陸町防災対策庁舎
3.11の津波では、多くの地元消防士や公務員が亡くなった。岩手県大槌町の場合、職員は余震の中、(役場の建物が古かったので)駐車場に机を並べて対策会議をしていた。そこへ津波が来た。2階建ての屋上に逃れた人々は助かったが、町長以下32人の職員が犠牲になった。
庁舎の全部の窓が津波で無残にぶち抜かれている。壁に壊れた時計がかかっていて、その短針が午後3時20分ごろを指していた。津波が襲来した時間なのだろう。玄関前に小さな祭壇が設けられ、花が添えられていた。大槌町では人口の1割の1724人が死亡または行方不明になっている。
宮城県南三陸町の場合。防災対策庁舎に残っていたのは30人ほどの職員、最後まで避難を呼びかけていて亡くなった女性職員の遠藤未希さん(24歳)もいた。屋上に逃げたが、津波はそれを2メートルも超える高さで襲って来た。鉄塔にしがみついて助かったのは僅かに10人。その庁舎は、いま鉄骨むき出しの状態になっている。
そこにじっとたたずんでいると、不思議なことに何もない平地に立っている鉄骨の庁舎が、津波の途方もない海水量と破壊力を雄弁に語り出す。一様に津波の流れた方向に折れ曲がった鉄骨。離れて見ると、僅かに津波に押されたように傾いている庁舎。職員がしがみついていた屋上の鉄塔はもうないが、あの屋上を越えた津波の圧倒的なイメージが、胸に迫って来る。
◆気仙沼市の陸に乗り上げた大型漁船
気仙沼市の鹿折川沿いに広がった市街地も、一面の平地になっていた。駅舎も線路もホームも津波で破壊されてしまった鹿折唐桑駅の近くに、大型の漁船「第十八共徳丸」(330t)が打ち上げられている。ここは海岸から750メートルのところ。漁船とはいえ、近づくと見上げるような巨船である。更地に置かれた船体が、強烈な存在感を放っている。
この船を巨大津波のシンボルとして残してほしいという声もあったが、いわき市の船主は解体撤去する道を選んだ。当日もかなりの人々が見に来ていたこともあり、私も船を残して、周辺を津波の伝承の地としたらと考えたが、解体撤去は地元感情に配慮した結果だと言う。
◆災害の記憶をどう残すか
鉄骨だけになった庁舎も、この巨大な漁船も、見る者に津波の恐ろしさを雄弁に伝えている。その「象徴性」は、人々の記憶が風化する中で逆に異彩を放ちつつある。それは映像で伝わるものではなく、その地に立って周りの状況すべてを感じ取らなければ分からないものだ。従って、今回の津波の記憶を「民族の記憶」として後世に伝えるという点からすれば、この中の幾つかは(原爆ドームのように)撤去せずに残して欲しいとも思う。しかし、それは地元感情という壁にぶつからざるを得ない。
特に、多くの職員が亡くなった庁舎や、74人の小学生が犠牲になった石巻市の大川小学校などは、それを見るだけで辛くなると言う人々が大勢いるからだ。当然だと思う一方で、惜しい気もする。ということで次回は、さらに悲劇的な大川小学校の様子を見ながら、災害の記憶を残すということはどういうことなのか。何もかも急いで撤去し、更地にしてしまう今の復興の在り方は住民にとってどうなのだろうか。そのことも考えてみたい。(つづく)
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