日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。


「反省なき国家主義」を問う 13.5.8

 昨年末に第2次安倍政権が発足して、4ヶ月あまり。アベノミクスの華々しい打ち上げの陰で、安倍のメディア対策も着々と進められてきた。ネットで検索すると、安倍とメディア幹部(会長、社長、論説委員長、解説委員長、政治部長)たちとの頻繁な会食が分かるが、会食は読売、産経、朝日、毎日、日経、共同、時事などの新聞、それに日テレ、フジ、テレ朝にまで及んでいる。日本の主要メディアの上層部が、こぞって安倍と高級料理店で懇談している

◆安倍と大手メディアの「不適切な蜜月」
 安倍政権のメディア対策を指揮しているのは、かつて小泉の秘書官だった飯島勲(安倍内閣で内閣官房参与)だが、権力(安倍)からの誘いにメディアも踏み絵を踏まされる形で、次々と会食に応じたのだろう。こうした癒着関係は、権力の監視役であるメディア
としては自殺行為と言っていいが、一方で、メディアの方にも消費税の軽減税率の問題などで政権に睨まれたくないと言う思惑があったに違いない。
 自民党の中でも特に安倍は、これまでも露骨なメディア介入を行う体質を持っており、言論機関に対して先進国の首脳が備えているべき自制や遠慮というものがない。こうした一連の「対話と圧力」が効を奏して、今や、正面きって安倍政権と立ち向かう大手メディアはなくなった。朝日などは、週刊ポストの「安倍信三と朝日新聞の『不適切な蜜月』(5月17日号)」の中で、安倍と社長の手打ち式からすり寄り記事まで事細かに書かれている。朝日がこれだから、読売や産経は推して知るべしだ。

 こうしたことが影響しているのか、このところのメディアのニュースが軒並み表面的でつまらなくなっている。4月28日から5月4日までの安倍のGW外遊(ロシア→サウジアラビア→アラブ首長国連邦→トルコ)でも、やたらと安倍談話というのが出てきた。安倍と懇意の政治記者は、どうしても発表ジャーナリズムになるから、憲法改正問題、靖国問題や歴史認識、原発輸出などについて、国民は安倍の一方的な言い分ばかりを毎日聞かされる羽目になる。
 これまでの安倍は「日本を取り戻す」に始まって、「世界一を目指す気概」、「世界に冠たる日本」(施政方針演説)や、「真の独立を取り戻すために」(憲法改正)、「世界最高水準の安全技術」(原発輸出)、などと言った、実体の伴わない「上滑りする言葉」を連発して来た。しかし、メディアはアベノミクスの華々しさに幻惑されて、その裏にある安倍政治の本質を掘り下げずに来た。

◆アベノミクスからアベノイズムへ
 安倍の歴史認識については、「わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない」(靖国参拝)、「侵略の定義は国際的にも定まっていない」といった発言に対して、国内より海外のメディア(アメリカの主要紙など)から「安倍氏の恥ずべき発言」、「歴史を直視することが出来ない」などと厳しい批判の声が上がっている。自身の国際感覚が疑われ、経済政策の本気度までもが危ぶまれ始めているのに、高揚する安倍はここへ来て、「経済の次は憲法改正」だと前のめりに走り始めた。
 これは言うならば、「アベノミクスからアベノイズム(安倍の政治)への転換」である。自分のやりたい「戦後レジーム(体制)からの脱却」が、国民の望むこととずれていた、というのが7年前の政権投げ出しの反省だったはずだが、人間の本質と言うものは変わらないものである。

 「戦後レジームからの脱却」において安倍が目指すのは、平和憲法の基本精神の否定であって、部分的な改正などではない(ジェラルド・カーティス、コロンビア大学教授、朝日)。それは戦後68年に及ぶ歴史の否定であり、戦後の日本が平和と繁栄と基本的人権と民主主義を育てて来た基本精神とも言うべき「憲法の理念」を否定することである。その上で、時代錯誤で中身のない「大国主義、国家主義」に向かうことである。それは今の国際化時代に、後ろ向きで(独りよがりになりやすい)内向きの思考だ。ご存知のように、憲法第96条の改正はその入り口に過ぎない。

◆今なぜ憲法改正なのか、何が不便なのか
 本丸の憲法9条の改正について言えば、国防軍を規定し「いざという時に、戦争がしやすくなるように」これを改正することは、武力で国を守るという観点に立てば理論上すっきりするかもしれない。しかし、戦後70年近く、日本が平和憲法のもとで世界でもユニークな政治を行って来た歴史を否定することは、あの敗戦の反省を忘れた愚論ではないか。
 なぜ、政治家は軍部の暴走を抑えられなかったのか、なぜ、国体などと言う虚構の理念に引きずられたのか、なぜ、メディアは戦争を煽り、国民は熱狂したのか、なぜ、国民の命が紙屑のように扱われたのか、なぜ、アジアの諸国に2000万人にも及ぶ犠牲者を出したのか。安倍には見えていないのかもしれないが、先の大戦で日本が犯した誤りは根本的なものである。

 (国家を至上とする価値観、独りよがりで身の程知らずの大国主義、外国への差別とナショナリズム、歴史の忘却など)その根本的な誤りを生む土壌は、相変わらず日本の中に息づいている。日本には、すぐに先祖がえりする国家主義とナショナリズムの土壌がある。それに軍部でも原発でもそうだが、日本には「暴走したら致命的に危険なもの」
をコントロールする自律的な思想と構造が期待できない。
 従って、私の考えを言わせてもらえば、日本は戦争が出来ないようになっている方がいい。武力行使と言う観点から言って、たとえ不自由でも、手足が縛られていている方がいい。それでこの68年、何か決定的に不便なことがあったか

 先の敗戦の反省から言えるのは戦争だけはしてはいけない」
いま「不戦の誓い」、とはということではなかったか。そのためには、戦争をしやすくすると言うことではなく、戦争を避けるための、あらゆる努力をするということである。これは、国防のあり方としては気持ちの良いことではないかもしれない。
 アメリカには頼らなければならないし、周辺諸国とも関係改善に努めなければならない。そんなことより、自分で自分を守れるように防衛力を高め、いざという時に戦えるように備えるべきだ、という方が格好いい。しかし、防衛力を高めることは必要だが、戦争のスイッチを押す点に関しては不自由な方がいい。平和憲法を原点にして、未来志向の新しい国際関係を模索して行く方が資源小国日本にとって、ふさわしい生き方ではないか。それが歴史の反省というものではないか。
 
◆参院選に向けて、安倍政治の本質を
 問題はあと3カ月に迫った参院選挙。安倍自民党はアベノミクスの余勢を駆って、憲法改正まで争点にしようとしている。野党が火が消えたようになっていて、このままでいくと安倍自民党は参院でも過半数を取る勢いだが、アベノイズムにフリーハンドを与えたら、日本の将来はどうなるのか。安倍の「反省なき国家主義」に付き合わされる国民の将来はどうなるのか。
 (同志社大の浜矩子教授が詐欺商法とまで言う)アベノミクスについては、これはこれで直近の心配だが、国民に痛みを強いると言う点では未来の戦争の方がもっと心配。安倍の関心がはっきりとアベノミクスからアベノイズム(安倍の国家主義的政治)へ転換しようとしている今、問うべきはむしろアベノイズムの方かもしれない。「不適切な蜜月」などと言われないように、メディアには安倍政治の本質と安倍の国家観を徹底的に掘り下げる報道を期待したい。

三陸へ(2)記憶を共有するために 13.4.29

 (つづき)気仙沼市で陸に打ち上げられた大型漁船を見た後、地震の地盤沈下で、今でも満潮時の浸水に悩む魚市場周辺の改修工事や、見渡す限りの更地になった南気仙沼地区などを取材。さらに気仙沼湾沿いに南下し、湾の入り口にある宮城県気仙沼向洋高校に向かった。校舎へのアクセス道路を見つけるのにひと苦労したが、近づいて見ると、そこには学校全体が津波に直撃されたままの姿で残されていた。瓦礫が片付けられた所ばかりを見て来た私にとって、それは衝撃的な光景だった。

◆宮城県気仙沼向洋高校の場合
 体育館の天井がなくなり、中が爆撃を受けた後のようにめちゃめちゃに破壊されている。校舎と校舎の間には大量の瓦礫が詰まっている。瓦礫に交じって逆立ちした車や押しつぶされた車が見える。驚いたことに4階建て校舎の最上階のベランダが何かにえぐられたように壊れている。2年後の今も、半分千切れた漁船が放置されている。一体、この高校に何が起きたのか。
 







 ネットで探すと、学校側が当時の状況についてまとめた「その時,現場はどう動いたか」と題する報告書や、「気仙沼を襲った大津波の証言」が見つかった。それらによると3月11日、学校には部活動などで170人がいたが校外の高台に避難し、残った50名は職員の機転で危うく屋上に逃れた。

 第二の大波が押し寄せて来てもうダメかと思ったその時、第一波の引き波とぶつかって勢いが弱まり辛うじて助かった。津波が去った後は校舎4階で一夜を明かしたという。えぐられたベランダは、近くの鉄筋の冷凍工場が流れて来てぶつかった跡だというが、これがまともに当たっていたら大変なことになっていたという。

◆津々浦々の集落で、それぞれの悲劇が
 三陸海岸沿いを走っていて否応なく気づかされるのは、市街地ばかりでなく、入江入江にある昔ながらの小さな集落もすべて壊滅的な被害を受けていることだ。同じ気仙沼市の陸前小泉という小さな港に差し掛かると、そこは堤防が壊れ、港も海中に陥没。海岸近くの高架鉄道も(もう復旧は無理だと思わせるほどに)徹底的に破壊されている。そして、集落が跡かたもなく消えていた。
 津波来襲時、こうした集落がどういう悲劇に見舞われたのか。瓦礫が片付けられた現在の姿からは、なかなか想像しにくい。ネットで探せば、被災直後の沢山の写真が見つかるが、これも現場に行き、状況を肌で感じなければ多様な悲劇の姿も分からない。同行のIさんに聞くと、「それは、悲惨だったよ」と当時を思い出すように言った。こうした、それぞれ違った悲劇を経験した集落が、再び自分たちの生活を取り戻すのはいつのことになるのだろうか。

◆石巻市立大川小学校の悲劇
 最後に石巻市の大川小学校を訪ねた。ここでは、津波で小学生74人と先生10人が亡くなったり、行方不明になっている。すでに日は西に傾きかけていた。校門そばに祭壇が設けられ、人々が手を合わせている。涙を流している女性たちもいる。2階建ての校舎は、建築的にはしゃれた設計になっているが、屋上へ出る階段はなかったという。校庭にまわると、屋根の落ちた半円形の野外劇場があり、破壊された手洗い場があった。被災直後は、この辺りも瓦礫の山だったのだろう。








 地震後、先生たちは校庭に避難した生徒たちの人数確認や点呼に追われていた。
宮城県が事前に作っていた津波浸水予想図では、ここには津波が来ないとされ、むしろ避難場所に指定されていたというが、避難が遅れたのは、それも災いしたのかもしれない。ようやく避難を始めたのは地震から50分後。その直後、歩きだした生徒たち向かって、北上川の堤防を越えて津波が流れ込んで来た。自分だったらどうしただろうか、と考えさせられる。

 先生と生徒たちが向かおうとした橋のたもとにも行ってみたが、そこも小高くはなっているが、最終的には津波が乗り越えた。そこから先に、高い所も見あたらない。唯一残された道は裏山に逃げることだった。しかし、それも周囲を点検して見て分かったが、100人を上手く避難させられるところは傾斜が緩やかになっているたった一か所だ(写真)。実際、直前にそこに逃げて何人かは助かっている。早く決断して、ここに移動させていれば助かっただろうが、何故それが出来なかったのか(市への責任追求も含め)辛い問いかけが続いている。

 大川小学校のケースは余りに悲劇的で、校舎を取り壊すにも、一部を残すにも難しい選択をせまられる構造物になった。校舎と校庭は、傾きつつある日差しの中で静まり返っていた。帰途、その光景を思い出しながら、今回、私が(取材者として)三陸を訪れた目的は何なのだろうか、という思いが頭に浮かんだ。3.11の大津波で三陸沿岸の人々が体験した悲劇と哀しみの記憶。それを私たちは、どうしたら少しでも共有して行けるのか。また、それを民族の記憶として次の世代に残して行くには、どうしたらいいのだろうか。

◆あの「稲村の火」のように
 もちろん、今回の津波の記録を残す作業は、各地で様々な形で続けられている。ネット上には被災直後の膨大な数の映像がアップされているし、メディアによる証言の収集も行われている。私たちがたどった陸前高田市の国道45号線沿いには、津波で一本だけ残ったあの「奇跡の一本松」もあったし、大船渡市では、私設の「津波伝承館」も訪ねて、(お菓子会社の社長さんが撮影した)息をのむような津波の記録映像も見せてもらった。
 だが、今回の取材で訪ねた悲劇の構造物が、すべて撤去されてなくなった時、私たちはどのようにして、東北の人々と災害の記憶を共有していけばいいのだろうか。今回の取材では、辛うじてその手掛かりを得ることが出来たが、私たちに課せられているのは、共有した記憶をさらに民族の記憶として次の世代に残して行くことかもしれない。

 「日本の津波災害」によれば、過去、東北地方を襲った大津波の記録は、869年の貞観地震による津波を始めとして、江戸、明治、昭和にもあった。平均すると46年に一度の計算になるというが、「天災は忘れた頃にやって来る」という名言もある。哀しいことに、特に情報が目まぐるしく変化する現代は、津波だって、原発事故だって、直接その被害にあわなかった人の記憶はすぐ風化してしまう。
 その風化に抗して記憶を残して行く時に、大事になるのは何なのだろうか。一つには、今回の取材のようにその記憶を肌で感じ、少しでも共有すること。そして、(映像や証言の収集、体験館を作るのも大事だが)何より大事なのは、東北の人々が今回の津波で経験した数々の人間ドラマを発掘し、そのすべてを記録し集大成して行くことではないか。そうすれば、その「人間のドラマ」が強い印象となって人々の記憶に長く残って行く筈だ。あの「稲村の火」のように。帰りの車の中で、そんなことを考えていた。(三陸の復興については次回に。つづく)

三陸へ(1)悲劇の構造物を見る 13.4.25

 盛岡に一泊した翌朝、地盤工学の大御所Tさんの運転する車で三陸海岸に向かった。かなり冷えたが快晴だった。一行はTさんのほかに防災専門家のIさん、防災士訓練センター代表のKさんと私の4人。震災後2年が経過した三陸を見て歩いたのだが、私以外は、もう何度も現地に入っているベテランである。
 時間が許す限り見て歩こうということで、初日は宮古市(旧田老町も)、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市を回って一関市で泊まり。翌日は、気仙沼市、南三陸町、石巻市を回って仙台へと言うコースだった。三陸沿岸の入り組んだ道(国道45号線)に沿って、初日の走行距離が300キロにもなるという取材だった。取材の全貌を書くことは無理として、そこで見たもの、感じたことを3回に分けて書きたい。

◆ギリギリのタイミングだったかもしれない
 2年前の3月11日、三陸沿岸の「津々浦々」に押し寄せた大津波によって街や港を守る堤防の実に7割が破壊されたと言う。テレビ映像で何度も目にしたように、市街地も集落も巨大津波に飲み込まれて流され、所によっては津波とともに流れ込んだ重油で市街地が炎上した。土手の上を走る三陸鉄道も各所でズタズタになっている。
 当時、山のように積み上がっていた瓦礫や、折り重なった車、建物の屋上にまで乗り上げた船などは、この2年間で殆どが撤去され、今では多くの集落や市街地が哀しいほどすっぺりとした更地になっている。見渡す限り建物の土台だけが残っていて、そこにどのような暮らしがあったのか、もう簡単には想像できなくなっている。

 そんな中、沿岸の北から南にかけて津波被害のモニュメントのような構造物が、点々と残されているのを見た。殆どの瓦礫と建物が撤去されつつある今、なぜそれらの構造物が残っているのか。詳細は分からないが、(後で書くように)その一つ一つの構造物には、悲劇的な物語があり、それをどうするかの悩ましい議論があったことを想像させる。
 それらの構造物は既に象徴的な存在になっていて、もの言わぬ彼らからは津波の圧倒的な破壊力と悲劇の物語が直に伝わってくる。声をかけてくれたIさんに聞くと、殆どがやがて取り壊される運命にあるらしく、その意味で今回の取材はぎりぎりのタイミングだったかも知れない。幾つか印象的なものを(実は写真では殆ど伝わらないのだが)写真とともに取りあげたい。

◆宮古市田老地区の巨大堤防
 岩手県宮古市田老地区。ここはかつての田老村で、明治29年の明治三陸大津波で1867人(人口の83%)、昭和8年の昭和三陸地震津波で763人(人口の42%)が犠牲になった。その教訓を生かして昭和54年、高さ10メートル、総延長2433メートルの二重の巨大な防波堤が完成した。完成には44年の歳月をかけたという(「日本の津波災害」伊藤和明氏)。
 私が「地震後30分」という津波の特集番組で、当時の田老町を訪れたのも、その頃だった。しかし、津波防災のシンボル的存在だった田老の巨大堤防も、今回の大津波にはやすやすと乗り越えられてしまった。堤防を越えて津波が流れ込み、180人の犠牲者を出している。
 
 34年ぶりに、その巨大な堤防に上がって見た。堤防の内側にあった集落が消えて更地になっていた。堤防の一部はコンクリートがはがされ中の土がむき出しになっている(堤防が土の上をコンクリートで固めたものだと初めて知った)。照明灯の鉄柱が、津波が流れた方向に根元から完全に折れ曲がっている。津波の力の凄さである。
 (更地の上で仮の理髪店を営んでいる)消防士の高橋優さんに聞くと、家族を避難させてから水門を閉めに行った時、堤防の上で津波が来るのを見物しようとする人がいたという。一緒に避難したと言うが、それだけこの堤防の力を信じていたのだろう。襲ってきたのは、彼らの想定をはるかに超える巨大な津波だった。

◆悲劇の大槌町役場、南三陸町防災対策庁舎
 3.11の津波では、多くの地元消防士や公務員が亡くなった。岩手県大槌町の場合、職員は余震の中、(役場の建物が古かったので)駐車場に机を並べて対策会議をしていた。そこへ津波が来た。2階建ての屋上に逃れた人々は助かったが、町長以下32人の職員が犠牲になった
 庁舎の全部の窓が津波で無残にぶち抜かれている。壁に壊れた時計がかかっていて、その短針が午後3時20分ごろを指していた。津波が襲来した時間なのだろう。玄関前に小さな祭壇が設けられ、花が添えられていた。大槌町では人口の1割の1724人が死亡または行方不明になっている。

 宮城県南三陸町の場合。防災対策庁舎に残っていたのは30人ほどの職員、最後まで避難を呼びかけていて亡くなった女性職員の遠藤未希さん(24歳)もいた。屋上に逃げたが、津波はそれを2メートルも超える高さで襲って来た。鉄塔にしがみついて助かったのは僅かに10人。その庁舎は、いま鉄骨むき出しの状態になっている。

 そこにじっとたたずんでいると、不思議なことに何もない平地に立っている鉄骨の庁舎が、津波の途方もない海水量と破壊力を雄弁に語り出す。一様に津波の流れた方向に折れ曲がった鉄骨。離れて見ると、僅かに津波に押されたように傾いている庁舎。職員がしがみついていた屋上の鉄塔はもうないが、あの屋上を越えた津波の圧倒的なイメージが、胸に迫って来る。

◆気仙沼市の陸に乗り上げた大型漁船
 気仙沼市の鹿折川沿いに広がった市街地も、一面の平地になっていた。駅舎も線路もホームも津波で破壊されてしまった鹿折唐桑駅の近くに、大型の漁船「第十八共徳丸」(330t)が打ち上げられている。ここは海岸から750メートルのところ。漁船とはいえ、近づくと見上げるような巨船である。更地に置かれた船体が、強烈な存在感を放っている。
 この船を巨大津波のシンボルとして残してほしいという声もあったが、いわき市の船主は解体撤去する道を選んだ。当日もかなりの人々が見に来ていたこともあり、私も船を残して、周辺を津波の伝承の地としたらと考えたが、解体撤去は地元感情に配慮した結果だと言う。

◆災害の記憶をどう残すか
 鉄骨だけになった庁舎も、この巨大な漁船も、見る者に津波の恐ろしさを雄弁に伝えている。その「象徴性」は、人々の記憶が風化する中で逆に異彩を放ちつつある。それは映像で伝わるものではなく、その地に立って周りの状況すべてを感じ取らなければ分からないものだ。従って、今回の津波の記憶を「民族の記憶」として後世に伝えるという点からすれば、この中の幾つかは(原爆ドームのように)撤去せずに残して欲しいとも思う。しかし、それは地元感情という壁にぶつからざるを得ない。
 特に、多くの職員が亡くなった庁舎や、74人の小学生が犠牲になった石巻市の大川小学校などは、それを見るだけで辛くなると言う人々が大勢いるからだ。当然だと思う一方で、惜しい気もする。ということで次回は、さらに悲劇的な大川小学校の様子を見ながら、災害の記憶を残すということはどういうことなのか。何もかも急いで撤去し、更地にしてしまう今の復興の在り方は住民にとってどうなのだろうか。そのことも考えてみたい。(つづく)

福島へ(2)分断と孤立の中で 13.4.20

 2年前の津波の傷跡をまだ深く残す東北、三陸海岸の取材から戻って来た。防災の専門家3人と車で沿岸各地を取材して歩いたのだが、そこで目にした現実はあまりに重く衝撃的で、これをどう消化し整理したらいいか、途方に暮れるほど。
  そこで見たものは何か。人間はこの圧倒的な自然災害とどう向き合っていけばいいのか。また、それらの現実は福島で見た現実とどう関ってくるのか。順次書いていきたいが、まずは宿題になっている福島の2回目に戻りたい。福島取材では、2日にわたる勉強会で地元の人から話を聞いたが、原発被災に苦しむ福島の悩みも深く際立っている

◆分断され封じ込められる福島の苦悩
 福島第一原発事故で避難を余儀なくされている人々は、現在、15万7千人。それも今や全国47都道府県に散らばっている。事故後2年が経過したが、その人々がもとの暮らしを再建できるのか、いまだにその目途さえ見えていない。現地の案内をしてくれた伊藤達也氏(浜通り医療生協理事長)によれば、多くの避難民が「家族そろって住める家がない、希望もない、展望もない」過酷な状況に置かれている。
 しかも、国も東電も積極的にこの状況を打開する意欲を見せない。反対に、原発被災地は、避難区域と賠償額によって分断され孤立し、それをいいことに国や東電によって出来るだけ小さく封じ込められようとしている。被災地以外の人々の関心が薄れ、原発事故の記憶さえ風化しようとしている中で、被災地の人々は見捨てられつつあるという焦燥感を抱いている。

 分断と孤立の原因は、一つには国による避難区域の見直しにある。今年4月の見直しでは、放射能汚染地帯の11市町村は、年間積算線量によって「帰還困難(5年以上帰宅できない)」、「居住制限(一時的な帰宅だけ可能)」、「避難指示解除準備(帰還可能)」の3つに分けられた。これによって、多くの市町村が中を3つに分断され、地域コミュニティーとしての将来をどうするのか、考えようにも意見がまとまらない状況に追い込まれている。
 避難民が各地に散らばっている上に、区域割りによって帰還や賠償の条件が異なってくるため、将来計画作りは困難を極めている。例えば富岡町などは、町全体が5年間は帰還しないと決めたが、その先が見えているわけではない。放射能汚染からの避難という未経験の現実。自治体がその対応に苦しむ中で、住民は直接、国や東電と向き合わざるを得ない状況に追い込まれている

◆もう一つの分断と孤立・賠償問題
 分断と孤立の原因は賠償問題にもある。東電は、一昨年9月に一方的に基準と賠償額を決めて、請求のための複雑で膨大な書類を送りつけてきた。これに対して避難民からは、自分たちが起こした災害に、自分たちで額を決めるのか、という怒りが湧き起こった。ことほど左様に住民感情を逆なでした東電のやり口に対する恨みは大きい。
 何しろ、警戒区域に指定された浪江町などでは、残してきた親を助けに入ろうとして止められ、後に親が地震で亡くなったのではなく、5月22日まで生きていた「衰弱死」だということが分かった人もいる。避難中の死亡者も含め、原発事故に起因する死者は千人を超えており、事故を引き起こした東電への恨みにはすさまじいものがあるという。それなのに、東電は今、「最強にして最大の弁護団」を仕立てて、分断され孤立した住民を相手に賠償額を押さえ込もうとしているという(地元で損害賠償の集団訴訟を指揮している広田次男弁護士)。

 不動産や家財の損害に対する賠償はこれから本格化するが、条件が汚染の区域割りによって細分化されて複雑な上に、賠償そのものに対する考え方も対立している。その主な対立点は、東電の示す賠償額が生活再建に見合うものではなく、事故前の評価に抑えようとしていること。例えば、汚染地に放置された大型漁船の場合、評価額(簿価、800万円)で貰っても、再出発のための船(8千800万円)が買えるわけではないからだ。
 もう一つ、住民を不安にさせているのは、東電が賠償の時効をちらつかせていること。民法の不法行為に関する時効は請求書が届いてから3年で、これは来年の夏にやってくる。(民法の時効は援用しないとした)社長の言葉とは裏腹に、最近では東電幹部がこれを引っ込めて、早期決着を迫っているという。

◆分断と孤立を乗り越える闘い・集団訴訟
 福島のような深刻な放射能汚染の場合に、時効というものがあり得るべきなのか。今、福島の人々を悩ましているのは、国や自治体がやろうとしている除染が果たして計画通りにいくのかという疑念であり、将来起こるかもしれない(晩発性の)健康被害への不安である。
 最近起こされた幾つもの集団訴訟はこうした将来への不安を結集したものであり、分断と孤立を乗り越えて、生活再建のための「完全賠償」を掲げて始まった。伊藤達也氏や広田次男弁護士によれば、こうした集団訴訟も「どうせ金目当てだろう。使われるのは国民の税金だぞ」と言われがちだが、完全賠償と同時に、将来までも見通した「子供やふるさとを守るための政策形成(健康管理や脱原発など)」も裁判で訴えていく、という。

 東電は現時点で2兆円弱の賠償金を支払い、最終的には3兆円を超えると見ているらしいが(毎日3/12)、失われた暮らしと自然を元に戻すには、到底そんな額では済まないのではないか。すべての損害を対象としたら、「100兆円あっても足りない」と言った財務省幹部もいたという。私としては、税金だろうが何だろうが、原発事故の真の被害規模を明確にする上でも、弁護団には理念を高く掲げて「完全賠償」を追求してもらいたいと思う。
 一度、原発事故を起こしたら電力会社が存続することなど不可能になる。原発は経済的に見合わないものだ、ということを国も電力会社も国民も肝に銘じるためにも、これは必要な訴訟だと思う。広田弁護士は、集団訴訟を今の10倍の1万人規模に増やしたいというが、それには圧倒的に弁護士が足りない。それでも「原発事故の裁判に残りの人生のすべてを賭ける」と言っていた。

◆福島から、脱原発の象徴としてのフクシマへ
 見てきたように、事故後2年経過しても福島の苦悩は深い。しかし一方で、分断と孤立、封じ込め政策に抵抗する形で、新しい福島の姿を模索する動きも各地で粘り強く続けられている。自分たちの村をどう復興させるのか、激しくも本音の議論を続けている飯館村などは、自分たちの将来を自分たちで作っていくという、地に足の着いた民主主義のあり方を考えさせる。
 去年7月、福島県は「原発に依存しない福島」を復興ビジョンに掲げたが、脱原発を見直すという安倍政権の中でも、再生エネルギーの拠点、放射線防護の拠点、脱原発の拠点へ向けて敢然と声を上げ続けることが出来るだろうか。事故後初めて現地を取材し、話を聞いただけで言うのもおこがましいが、福島には是非とも、日本と世界に向けて発信力を強めつつ、世界の脱原発の象徴としての「フクシマ」への道を歩んで欲しいと思う。

福島へ(1)放射線の中を行く 13.4.6

 3月31日、事故後2年たった今も福島第一原発から放出された放射能に苦しむ周辺の市や町を取材することになった。茨城県民を中心とした「東海第2原発差止訴訟団」が仕立てた視察バスに加えて貰って、(最近見直された右の避難区域図で言えば南端のいわき市から北へ)福島第一原発に向って国道6号線(陸前浜街道)を北上するルートだが、もちろん原発の敷地までは行けない。

 現在も汚染地域から1万2千人が避難してきている「いわき市」→おととし9月に町長が帰還宣言を出したけれども帰還したのは住民の一部だけの「広野町」→日中だけ立ち入りが許可されている復興前線基地「Jヴィレッジ」がある)「楢葉(ならは)町」→3月25日に立ち入り許可部分が拡大、新たな封鎖線が設けられた「富岡町」まで、というルートである。

 バスの中で、いわき市に住む伊藤達也さん(浜通り医療生協理事長)の説明を聞きながら、要所でバスを降りて取材する。伊藤さんは今年の3月11日に、いわき市の住民をまとめて原発事故被害補償の提訴に踏み切った人。駆け足の視察だったが、参加者の一人が線量計の数字をバス前方のモニターに映し出す工夫をしてくれたおかげで、原発に近づくにつれて空間線量が刻々と上がって行く様子が手に取るように実感出来た。視察の後は2日にわたる勉強会。そこで聞いた、避難区域によって分断される自治体の苦悩、遅れる賠償と東電不信、除染の難しさ、などについては次回に回すとして、今回は取材中に見聞した事実のみを書いておきたい。

◆いわき市を出発。広野町へ
 いわき市の四倉(よつくら)海岸で昼食を取った後、13時15分に大型バスで出発。港近くの浜辺には津波で流され傷ついた多くの舟が集められ、“舟の墓場”のようになっている。出発時にモニターに映し出された空間線量は、0.14μ㏜(マイクロ・シーベルト)/hを示していた(ちなみに東京や埼玉などは、0.05μ㏜ /h位)。
 そこから少し北の久之浜も津波で大きな被害を出したところで、家々の土台だけが残っている。国道のそばを走る常磐線も津波に襲われ、壊れた電車が半年ほど線路上に放置されていたというが、今は新しく線路が敷き直されて一日9本の電車が通っている。林の近くを走ると、車内の線量が0.382μ /hに上がった。除染ができない林に近づくと、やはり線量は高くなる。国が除染の目標とする「年間被曝1ミリシーベルト」は、空間線量に換算すると0.23μ/hになるが、汚染地帯の大部分を占める山林をどう除染するのか、これが難問中の難問になっている。

 さらに北上して広野町に入る。ここは、一昨年9月の緊急時避難準備区域の解除に伴って町長が帰還宣言を行い、昨年春には役場を元の場所に戻した。しかし、人口5500人のうち帰還したのは僅かに700人。子どもの帰還はゼロ(いわき市などから車で通学)という状態が続いている。町には除染などの復興事業と事故収束の作業員3千人が居住しているというが、住民は寄り付かない。
 広野駅に立ち寄ると、常磐線はここが現在の終点になっていて、そこから先の下りの駅名が消されていた。「(常磐線がつながるのは)10年はダメなんじゃないか」と案内の伊藤さんは言う。このあたりの草むらにガイガーカウンターを近づけると2μ㏜ /hになった。

◆楢葉町へ。復興の前線基地「Jヴィレッジ」を見る
 続いて楢葉町にある「Jヴィレッジ」へ。隣の広野町にもまたがる国内初のサッカー・トレーニングセンターだったが、原発事故直後から事故対応の一大拠点になった。現在は、事故収拾にあたる日立や東芝の系列企業や、今年1月に設けられた東電の「福島復興本社」としても使われている。「入り口で止められるかも」と言いながら、私たちはバスを降りてぞろぞろとセンターハウスの中に入って行った。
 「東京電力 福島復興本社」という看板が遠慮がちに立っている。大きなガラス窓を通して外のサッカーコートを見ると、そこは車が埋め尽くす駐車場に変わっていた。11面あった練習コートも殆どが駐車場や簡易宿泊施設に使われていて、東電の復興本社だけでも年内に4000人に増えるという。










 
 楢葉町は人口7700人。去年8月に20キロ圏の警戒区域の封鎖が解かれ、今は日中だけ立ち入りが許可される「避難指示解除準備区域」(分かりにくい表現!)になっている。しかし、夜は完全に無人の街になるため、封鎖解除直後に自販機やシャッターがバールでこじ開けられる盗難事件も発生した。昼なのに行き交う車は殆どなく、今も人気(ひとけ)のない“無人の街”の様相を呈している。
 走っていると、黒い大きなビニール袋がぎっしりと敷き詰められた広大な土地が目に入る。除染で刈り取られた雑草や土壌などの放射性廃棄物を詰めた袋の「仮置き場」だ。現在、こうした仮置き場が町内に12箇所あるというが、その先の中間貯蔵施設についてはまだ何も決まっていない。

◆立ち入りが許可された富岡町へ。
 14時10分、楢葉町の北の富岡町に入る3月25日から立ち入りが許可された、この辺りから車内の空間線量が高くなり始めた。福島第1原発から8キロ当たりで、モニターの値は1.339μ㏜ /hを示している。国道を右に入って、海に近い富岡駅まで行くと、津波被害の惨状が目に飛び込んで来た。駅舎は大破し、電柱が傾き電線が垂れ下がっている。
 駅前の商店街も津波に破壊され、車が住宅に突っ込んだり、折り重なったりしている。人々は慌てて避難したまま汚染のために、この2年帰ることができなかった。駅周辺は津波被害を受けた時の状態を曝している。このあたりで、空間線量は1.61μ㏜ /h。

 富岡町は、現在、国が決めた3つの避難区域(避難指示解除準備区域、居住制限区域、帰還困難区域)に分断されているが、議論の末、町は5年間戻らないと決めた。解禁された国道を走っていると、右手にメルヘンチックなしゃれた建物が見えて来る。東電のエネルギー館(原発のPR館)だ。皮肉にも空間線量は2μ㏜ /hを超え、富岡町役場に差し掛かると3.65μ㏜ /hに跳ね上がった。視察団の何人かが携帯している線量計がうるさいほどピーピーと鳴り出した。

◆帰還困難区域のぎりぎりまで。夜ノ森の桜並木へ
 国道を左に折れて、(立ち入りが許されない)帰還困難区域と居住制限区域を分ける道路を走る。この時、バスの中の空間線量は4μ㏜ /hになり、瞬間的に5μ /hを超えた。車内でこれだから、外は随分と高いに違いない。案内の伊藤さんが、わずかな道路幅の違いで全額補償(帰還困難区域)とそうでない所に分けられる矛盾について話す。
 さらに、私たちは足を延ばして有名な夜ノ森(よのもり)の桜並木にまでやって来た。バスの中からその並木通りを見た時、私は異様な光景に目を奪われた。桜の大木の一本、一本の根元がブロックで囲まれ、土がきれいに入れ替えられている。そして驚いたことに、すべての木々が下から高さ2.5mくらいまで、一斉に赤むけになっている。表皮を薄く削って放射能を洗い落したのだという。

 夜ノ森の桜並木は、樹齢100年の古木を含む1500本のソメイヨシノが並ぶ。毎年4月には「夜ノ森 桜祭」が行われ、ライトアップされた桜が人々を楽しませてきた。その桜が、今年は立ち入りが許されるというので除染を急ぎ、赤むけになっている。専門家の意見も取り入れたというが、立ち木の除染をするとなると、ここまでしなければならないのか、と愕然とする。
 見ると、桜はそこかしこでつぼみが膨らんでいる。間もなく満開にはなるだろうが、人々はどのような気持ちでこの桜並木を見るのだろうか。無人の通りに並ぶ桜の古木たち。その光景は、私に皮を剥かれた因幡(いなば)の白ウサギの話を思い出させたが、同時に、そのレベルがどうであれ、放射線の中で暮らすことを余儀なくさせられている福島の人々、そしてより過酷な状況下で働く作業員の人々の言い知れぬ不安と苦悩を思わずには居られなかった。

東北へ・周辺に立つ 13.3.30

 震災後2年。思わぬお誘いを受けて、近々2回にわたって念願の東北を訪れる機会が巡って来た。しかし、いざ行くとなると、様々な報道で知ったつもりになっている東北の被災地も、どういう心構えで行けばいいのか、どういう見方をすればいいのか戸惑いを感じる。まずは白紙状態で素直な気持ちで見てくればいいと思うが、2年も経過しているのに、そんなことでいいのかという気もする。少しは、自分の立ち位置や心構えを明確にしておく必要があるのではないか。そこで出かける前に、最近読んだ震災論の内容紹介を兼ねて、現時点での問題意識をまとめておきたい。

◆東北発の震災論

 最近読んでなるほどと思った本に、「東北発の震災論~周辺から広域システムを考える」(ちくま新書)というのがある。著者の山下佑介氏(首都大学東京準教授)は、2年前の東日本大震災を、津波や原発事故の大きさ複雑さにおいて、日本の政治・経済、交通、電力・エネルギー、農林水産業、教育、行政など、広範な社会システムを直撃した「広域システム災害」と規定する。そして、3.11後の被災地復興を遅らせ、避難民を苦しめているのも、この広域システムに特有の問題だとする。
 経済成長をひたすら追い求めて来た戦後の日本は、効率化のために周辺部(市町村や地域コミュニティなど)の機能をどんどん統合・消去しながら、様々な機能を中心部に集めることによって広域システム化を図ってきた。しかし、巨大化した広域システムは、いったん破綻した時のリスクもまた大きくなる。中心部には様々な機能の中心が複雑に寄り集まっているために、(原発事故の時のような)いざという時に誰が責任主体なのかがはっきりせず、危機管理のシステムが有効に機能しない。また周辺部の災害であっても影響がシステム全体に及ぶために、復旧するのに余計に時間がかかってしまうという問題を抱えているからだ。

◆広域システムにおける中心と周辺
 著者はこの2年間、地域社会学の研究者として東北の復興を支援し、原発避難民を調査して来た。彼の「震災論」は、まだ仮説的なものとは言うが、私には今の日本の本質をかなり的確に捉えているように思える。いわく、広域システム化が進んだ日本では、国と個人の間にあった(市町村や地域コミュニティなどの)中間的な機能が弱くなっている。そのために被災地や被災者は直接、国や東電に向き合わざるを得なくなって、互いに分断され無力化している
 しかも、恐ろしいことに、打撃を受けたかに見える広域システム(中心部)はそうした弱い周辺部(被災地と被災者)を切り捨てることによって、より強固になって復活しようとしているという。その指摘は、安倍政権の誕生によって勢いづく最近の「原子力ムラ」や、それと相似形の「日本というシステム(旧体制)」のしぶとい復活ぶりを見ても納得できる指摘だ。

 広域システムの中心と周辺。この関係は、何も首都圏と東北といった地理的な関係だけではないと思う。格差社会の中での富める者と貧しい者、都心と老齢化する団地、グローバル企業と下請け零細企業などにも当てはまる筈だ。こうした中心と周辺の関係を、著者は“すり鉢”に例えて「周辺からは中心が良く見えるが、中心からは周辺が見えない」という。
 ところで、この広域システム化した日本に内在する「中心と周辺という2つの関係性」は、今の自分に何を問いかけているのだろうか。中心と周辺のどちら側に身を置くべきなのかということなら、一市民(そして少しはジャーナリスト)の身から考えれば、答えは自ずと明確になるように思う。一つは意識の上で「周辺に立つ」ということ。周辺に立って、この国の様々な中心が今、何をしようとしているのか、良く見ることである。さらには周辺に出かけて、そこで今何が起きているのかを知ることである。

◆東北への2つのお誘い
 その意味でも、いつか東北に行きたいと書いたりして来た(「ジャーナリストは現場を目指す」)。ところがそう書いてまもなく、東北へ行こうというお誘いが2つもあったのである。2つとも願ってもない機会なので、悩んだ末に予定のキャンセルで不義理をする相手にお詫びをして、急遽参加させてもらうことにした。
 一つは故郷、茨城県の「東海第2原発差し止め訴訟団」の余席に加えて貰っての福島視察。いわき駅に集合→原発事故処理の前線基地「Jヴィレッジ」→双葉町、楢葉町→富岡町の封鎖線近くまで。地元との交流会、勉強会もある。
 もう一つは、防災専門家の先輩、研究者たちと岩手から宮城にかけての三陸沿岸の取材。こちらは田老(宮古市田老地区)→宮古→大槌→大船渡→陸前高田→気仙沼。そして女川→石巻→仙台という広範囲の取材になる。

 30年以上も前になるが、私は「地震後30分」という津波の防災番組で、田老町(現宮古市田老地区)の万里の長城のような巨大堤防、大船渡湾の巨大な防潮堤を取材したことがある。田老はその時以来になる。月末から4月上旬にかけての2つの小旅行は、私にとって実にありがたいお誘いで、これから何が見えてくるのか、地図を眺めながら想像を膨らませている。
 もちろん、以前、何度も東北に通いながら「近づけば近づくほど見えなくなる」と書いてきた友人もいる位だから、この程度の取材で何が見えるものではないだろうとは思う。ただ、先にあげた「東北発の震災論」などもその一例だが、「この震災で日本が問われているもの」を見出すには、意識を周辺に置きながら幾度とない「仮説と検証」を繰り返す必要があるだろうと思う。自分にそれを期待するのもおこがましいが、東北への小旅行がそうしたことを考える一つのきっかけになればと思う。

◆力のある思想と方法論の発見を
 「東北発の震災論」はまた、経済成長だけを重視して統治の効率化に突き進む日本の先行きを危ぶんでいる。地域コミュニティが消滅し、県まで道州制の中に消えていき、最後には「国と統治される個人」という関係しか残らなくなる。そこで、人は統治のために数値化され、非人間化されモノと化す。こうした流れに抵抗するために、システムに組み込まれた個人が、システムを問いなおすことが出来るか、と問いかけている。
 この図式はとりわけ、原発再稼働が必要だと主張し、自民党筋を動員して規制委員会に圧力を加え、発送電分離を骨抜きにし、あるいは原子力委員会のメンバーを意のままになる人間に置き換える、といった「日本というシステム(原子力ムラ)」にも当てはまる。システムに支配されている彼らは(中心部にいることによって)何が何でも経済成長をという唯一絶対の価値観に駆り立てられ、今も、放射能に脅かされている原発事故の被災地のことなど見えなくなっている。

 こうした旧体制の復活ぶりは、この2年にわたって福島第一原発事故の推移を見続けてきた私などには、まるで形状記憶合金のようだ。あるいは、いったんバラバラになったジグソーパズルが、フィルムを逆回転する時のように元の位置にピタっと収まる映像を思わせる。あの震災で日本は何が変わったのだろうか
 同時にそういう状況だからこそ、日本と言う「広域システム」の中心に届く力のある思想と、それを実現する方法論を私たちは模索して行く必要がある。そのヒントは、「東北発の震災論」の中にも僅かにしか顔を見せていない、市民による徹底した討議なのかどうか。思想の発見と実践は、私たち一人一人の思索にかかっているように思う。

アベノミクス・バブルの結末(2) 13.3.27

 「アベノミクス・バブル」というタイトルについて。これにはもちろんアベノミクスが引き起こしかねない経済的バブルの意味を込めているが、一方で過熱気味の報道によって膨らむ過剰な期待の意味も込めている。バブルとは破裂して初めてそれがバブルだったと分かるというが、過去の経験から言っても事前の期待と膨張が大きいほど後遺症も深刻かつ広範囲になる。
 従って、ここは冷静にその政策の適否を吟味しておく必要があると思うのだが、これがなかなかに難しい。何しろアベノミクスについては、内外の経済学者が賛成・反対の立場から様々な意見を言うので、素人にはどれが正しい意見なのか分からない。専門家の評価がこうも分かれるのはホントに困りもので、一時はタイトルを「ホンニ経済は難しい」とつけようと思った位だ。

 それでも、様々な識者の賛成・反対の意見を仔細に分類して行くうち、論点がかなり整理されて来たように思う。本当は、どこかのテレビ局が各論ごとに賛成・反対の論客を招いて、徹底的に論争させればいいと思うのだが、何故か腰が引けてどこもやってくれない。そこで、私が是非白黒をつけて貰いたいと思っている論点だけでも以下にあげておこうと思う。

◆①日本は本当に財政破綻しないのか?
 まず、どうしても不思議なのが、アベノミクスのブレーンとして内閣官房参与にも登用された浜田宏一(イェール大学名誉教授)と藤井聡(京都大学教授)の両氏が言っている(このまま財政出動を続けても)「日本は財政破綻しない」という説である。
 藤井は、政府の借金が幾ら大きくても国内からの借金である限り、また円建てで借金している限り、日本が財政破綻することはない。だから緊縮財政などせずに、どんどん公共事業をするべきだと言う(「公共事業が日本を救う」)。浜田も一家の財政にたとえて、政府(亭主)が借金まみれでも、それは金を貸している国民(女房)の財産なのだから、日本と言う国(家)が破産することはない、などと言う。

 こう言われると、去年大騒ぎした消費税問題は何だったのかと思う。財務省に吹き込まれた野田が盛んに「ギリシャのようにならないために」と言っていたのは、嘘だったのか。あの時は、このまま行ったら日本は財政破綻して大変なことになる、だから消費税増税が必要だということではなかったのか。
 このまま借金が増え続けた場合、日本は財政破綻するのか、しないのか。こんなことも分からないとしたら、経済学とは何なのだと思う位に単純な問題だと思うので、専門家同士で是非決着をつけて貰いたい論点の一つだ。ただし、2人の言い分をよく読むと、彼らの主張には幾つかの前提が巧妙に隠されていることが分かる。論争するなら、それも整理して議論の土俵を明確にする必要がある。

◆前提を明確にして論争を
 その一つが時間軸。彼らは「今のところ」という言葉を良く使う。現時点では、国債による国の借金も、国債の金利も、為替レートも財政破綻を心配するような状況にない、と言う。その理由として、90%以上が国内からの借金(内債)だということ、国債の金利も非常に低いこと、海外に巨額(250兆円)の資産を持っているので円の暴落も考えられないこと、を上げている。従って、この状況がいつまで続くのかどうか、時間軸を明確にした議論をしなければならない。

 もう一つは、政府と国家の違い。普通、「日本が破産する」と言えば一般人は「政府が財政破綻する」と思いがちだが、そうではない。端的に言えば、政府の破産=国債の暴落であり、国家の破産=円の暴落らしい。浜田が「政府が破産しても国民は絶対に破産しない」と書いているように、2人は政府と国家(企業や銀行、国民)を使い分けている。
 しかし、浜田は「政府が破産しても国民は破産しない」と言うが、ちと乱暴すぎないか。円が紙くずになるような国家の破綻がなくても、仮に政府が財政破綻して予算も組めない状況になったらどうなるのか。それはそれで国民生活を直撃する大問題ではないか。議論の前提が違ったまま、安倍政権がブレーンの言うままに巨額の財政出動(公共事業)と量的緩和を続けたら。。。これも前提を明確にして公共事業(国債増発)の是非、量的緩和の是非を論争して貰いたいと思う。

◆②インフレ政策は経済成長につながるか
 もう一つの論点は、量的緩和によって仮に2%のインフレ(デフレ脱却)が達成できたとして、それが肝心の経済成長につながるのかと言う点である。新日銀が掲げる2%インフレ目標(デフレ脱却)については、達成出来るかどうかも意見が分かれているが、仮に達成できてもそれが経済成長につながるとは限らないという意見が結構多い。
 というのも、2%インフレの影響はいいことだけではない。金利も企業コストも国債の金利も上がって却ってマイナスの影響が心配(斎藤誠、一橋大教授)。雇用にも影響が出るので労組も困る。「結局、経済界も自民党も、(せいぜい)円安による輸出主導での成長を落とし所と考えているだけ」といった意見もある。

 また、インフレ政策には、イギリスのようなジレンマもある(朝日1/25)。アメリカと並んでリーマンショック後、思い切った金融緩和を行って来たイギリスだが、インフレ目標の2%を超えたものの、経済成長がゼロ近辺で低迷している。本来なら金融引き締めして物価を下げる頃なのだが、そうすると景気をさらに冷やしてしまう。そこでイングランド中央銀行(日銀に当たる)は、カナダから新総裁を引き抜き、新たにGDPを指標とする金融緩和を摸索し始めている。
 アメリカ(FRB)は緩和の指標を失業率(6.5%以下)にした。米英とも思うような経済成長に結びつかない中で、金融緩和を続ける新たな理由を探している。日本の2%インフレ政策が本当に経済成長につながるのか。2年後、2%のインフレが達成されてもなお、経済成長がない場合、日本はどうするのか。金融緩和をやめるのか、続けるのか。その結果どうなるのか。。。アベノミクスの「出口戦略」(緩和のやめ方)についても議論してほしい。

◆③バブルは避けられるのか。インフレはコントロールできるのか
 弱い経済を冷やせないというので、(2%インフレが達成された後も)量的緩和を続けた場合、心配される問題は2つ。一つはバブルの再現である。既に日本には、アベノミクスを当てこんで世界から大量の緩和マネーが株、国債、不動産などに流れ込み始めた。その上に、日銀が大量の緩和マネーを流し続ければ、投資市場が一気に過熱してバブルにならないか、ということである。
 もう一つは、インフレ抑制が効かなくなってハイパー・インフレになることである。浜田教授は、日銀にはインフレ抑制のノウハウがあるから大丈夫、というが、そのノウハウは一国でのコントロールだった筈。これから世界中が緩和競争に入ると、「世界はそろってインフレに向かう」と言う説もある(ジェームズ・リカーズ氏、通貨戦争の著者)。素人の私などは、金融のグローバル化の中で世界にマネーが溢れだしたら、日銀単独でインフレを抑えられるのか、と心配になる。この先、バブルとハイパー・インフレが避けられるかどうか。これも徹底的に議論してほしい論点である。

◆第三の道はあるのか
 この他にも、アベノミクスに対しては、「デフレという仮想敵」にやみくもに突っ込んで行くのは危うい。幻の高成長を追うのではなく、もっと地道な生き方が日本にはあるのではないか、生活大国を目指せ、といった価値観、文明観に関る議論も見逃せない。長くなったので、これについては別の機会に。

アベノミクス・バブルの結末(1 13.3.17

 4年半前(2008年9月)のリーマンショックの時、幾つかの経済入門書や雑誌、新聞の切り抜きをにわか勉強、経済音痴を棚に上げて6本ほどのコラムを書いた(*)。アメリカ発の世界同時不況というものによって、日本が深刻な経済的、社会的影響を被るというなら、一市民の私にも少しはモノを言う資格があるだろうと思ったからである。*)世界で何が起きているか◆アメリカ発の世界不況◆癌化(がん)した資本主義◆時代のマグマが動く◆不況が長引くわけ ◆バブル時代の麻薬◆不況が小泉改革を直撃 

 今回のいわゆるアベノミクスではどうだろうか。世間では株の上昇や円安、春闘の満額回答など、浮かれ気味の報道が続いている。定年後の私にとっては無縁の話だが、これも成り行き次第では、年金は増えない、諸物価は上がる、貯金の目減りはする、最悪の場合は国家の財政破綻も、となると我が身を直撃する話になる。
 そうかと言って、あっという間に株も為替レートもリーマショック直前の水準に戻ってしまった今、「バスに乗り遅れるな」とばかりに株や海外の投資話に首を突っ込んでも、怪我しそうな感じもする。ここはひとまず頭を冷やして、「アベノミクス」なるものについて自分の理解が及ぶ範囲で、その可能性と問題点を整理しておきたい。

◆リーマンショック後の円高とデフレ(日銀VSリフレ派の攻防)
 その際、一点気になることがある。「100年に一度の大津波のようなもの(グリーンスパン)」という位の大事件(リーマンショック)に遭遇して、多くの経済学者が「行き過ぎた金融資本主義」への反省を口にした。いわく、「資本主義の暴走」、「癌化した資本主義」、「強欲な資本主義」、「カジノ資本主義」などなど。4年後の今、こうした反省は、どこへ行ったのだろうか。
 また、その時は読んで目からウロコのように思った本に、「すべての経済はバブルに通じる」(小幡績)があるが、今も金余りの世界では、次なるバブルの対象を探して巨額の金がさまよっているのだろうか。そこに、日本までもがアベノミクスで大型の量的緩和を始めるとしたら、一体何が起きるのだろうか。また再びどこかでバブルがはじけるのか。起こるとすれば、一体どこでなのか。

 思うに、今は新総裁(黒田東彦)、副総裁も決まって完全にリフレ派の軍門に下った日本銀行だが、これまではリーマンショックのトラウマから「行き過ぎた金融資本主義」を避けるために、むしろ抑制気味に金融政策を行ってきたのだろう。金融緩和によって市場が過熱するのを抑え、物価の安定を図る。そのためにある程度のデフレも容認する。それをリフレ派からは、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」と批判された。

 日銀批判の急先鋒は、アベノミクスの理論的支柱の一人でもあるリフレ派の浜田宏一氏(イェール大学名誉教授)。彼の著作、「アメリカは日本経済の復活を知っている」を読むと、その日銀(および日銀と結託している財務省)批判は強烈だ。すでに先進国の常識になっている「マクロ経済政策」の成果をなぜ日銀は取り入れないのか。日銀のケチケチした金融政策(過度のインフレ恐怖)が円高とデフレを生み、日本の企業と労働者を苦しめている。日銀は庶民の苦しみを顧みない利権集団だとまで決めつけている。

◆浜田宏一氏の主張
 そこにあるのは、原発反対派が利権集団の「原子力ムラ」を批判するのにも似た義憤である。自分が研究してきたマクロ経済への自信と、世界の孤児に陥っている日銀への憤りが溢れている。その純粋で一途な思いは、読んでいて好感が持てるくらいだ。しかし、彼らリフレ派の主張が「アベノミクス」として世界を巻き込む経済政策になった時に、果たして理論通りうまく行くのか。そこに落とし穴はないのだろうか。
 浜田の主張はシンプルとも言える「円高、デフレ対策」である。日銀が円を大量に刷って銀行や国からの国債を大量に引き受け、市中に円を流し込む。そうすると、その国の通貨価値は出回っている量が多ければ多いほど、ドルやユーロに対して下がるので、円安になる。これに尽きる。麻生財務相はG20で「日本の金融政策はデフレ対策であって円安誘導ではない」などと各国の批判をかわしたが、浜田の本を読む限り、ねらいは量的緩和による円安誘導だ。

 浜田は日本の極端な円高(リーマンショック当時に比べて対ドルで30%のアップ)は、大胆な金融緩和に踏み切った米英に対し、日本がその対策を怠ったためだと主張する。従って、日本も金融緩和によってリーマンショック以前の水準に円高を是正すべきだとする。ちなみにリーマンショック前とは1ドル110円前後(株価は12000円台)だが、浜田は、当時(去年の12月)80円位だった為替レートをせめて90円の水準に戻せと言っている。
 しかし問題は、まだ何も具体的な手を打っていないのにアベノミクスへの思惑だけで、既に株はリーマンショック前に戻り、円は96円にまで戻ってしまったこと。この先、「2%インフレのために、やれることは何でもやる」という黒田新日銀総裁の金融政策で何が起きるのか。期待と不安が相半ばしている

◆インフレ政策への期待と不安
 ご存知のように、アベノミクスの目論みは、量的緩和→円安(株高)→企業業績アップ→賃金上昇→購買意欲アップ→デフレ脱却(2%程度のインフレ、物価アップ)、というものだ。しかし、このサイクルが首尾よく進むためには幾つもの関門があり、アベノミクスに対しても様々な疑問が出されている。
 いわく、デフレを脱却しようとして過度のインフレになったらどうするのか。大量の金が出回っても、体力のない企業は投資をしないので、量的緩和は経済成長に結びつかない。また、各国が量的緩和に踏み切って「通貨安競争」になったらどうするか。さらに、世界的なカネ余り現象がまた投資の対象を求めて集中し、バブルを起こすのではないか。etc

 これに対し、浜田は戦争や内戦、革命以外にハイパーインフレは起こり得ない。デフレからインフレになるには必ずゼロ点を通過するので、そこで日銀得意のインフレ抑制のノウハウを生かせばいい。通貨安競争は、むしろ世界の経済を活性化する、などと反論している。
 しかし、一見首尾よくスタートしたかに見えるアベノミクスも一皮むけば、量的緩和への思惑先行からくる円安と、(円安による輸出企業への期待からの)株価上昇に尽きる。これは単純な思惑買いだけで、その点、アベノミクスはまだ第一コーナーにも差し掛かっていない。安倍首相は「結果が出ているではないですか」などと胸を張るが、そう単純に喜んでいていいものかと思う。そこで、(多くの識者も言っているが)アベノミクスへの疑問を以下にあげたい。

◆アベノミクスへの疑問と出口戦略
 浜田の主張は突き詰めれば、為替レートをリーマンショック以前に戻すという極めて短期的なものだ。しかし、それが思いのほか早く達成された今、単に量的緩和をするというだけでは不十分なのではないか。少し長期に見ればその前から、日本経済は長い低迷時代に入っていたのだから、今必要なのは単なる量的緩和とは別の成長戦略の筈だ。しかし、問題はそれが見つからないために日本が長年苦労して来たという現実である。

 今のアベノミクスは経済成長のための第二、第三の矢というものを持ち出しているが、これが難題。その前にむしろ、最近の急速な株高、金融資産への投資増、不動産の値上がりなどを見ると、心配なのはこれから本格化する量的緩和による弊害の方かもしれない。日本の経済成長につながる実体経済とは無関係なところでバブル起こり、それが泡と消えたら、日本はまた深刻な不況に舞い戻ってしまう。日銀も難しいさじ加減を迫られる筈だ。

 さらに、政府が第二の矢として(大量の国債を発行して)行う公共事業がある。その国債を日銀が引き受ける結果、またカネ余りになる。こうした放漫な財政出動によって、国家財政に対する信用がなくなり国債が暴落すれば、(国債の金利が上がって)国の財政破綻を来す。これを避ける舵とりの責任は政府になるが、今の政府にそれを上手くやる能力があるのか。特に日銀の金融政策だけではうまく行かなくなった時の、政治による「出口戦略」(危機回避策)については、長くなったので次回にまわしたい。

震災2年、東北からいかに学ぶか 13.3.10

 3月2日、夜9時15分から放送した「マイケル・サンデルの白熱教室@東北大学~これから復興の話をしよう~」を見て、(最近にない位に)深く感動させられた。メモを取らずに見ていたので正確ではないかもしれないが、大筋そのエッセンスを書いてみようと思う。
 その日、東北大学の講堂に集まったのは学生500人と一般公募からの500人の計1000人。今回は東北の復興がテーマだったが、事前にマイケル・サンデル(ハーバード大学教授)が東北の被災地を見て歩き、今の東北が抱える様々な問題を取材した。それをもとに教授が、例によって容易に結論が見出せない問いを会場に投げかける。「除染作業で出た土は誰が引き受けるべきか?」「自主避難を補償すべき?」などだが、その中で私が心を動かされた議論は、以下の二つのテーマに関するものだった。

◆自分の命と職務への責任、どちらを優先するか
 2年前の東日本大震災では、多くの民生委員の人たち、民間の消防士の人たちが亡くなった。津波に逃げ遅れた人々を助けに行って犠牲になった人々である。災害時に自らの命を危険にさらしても住民を救うべきか、或いは、申し訳なく思いながらも自分の命を守るべきなのか――震災の過酷な体験は東北の人々にこの重い問いを突きつけている。
 現在、民生委員を預かる自治体は「災害の時は、まず自分の命を守って下さい」という指導をしているが、サンデル教授は「もし、あなたが民生委員だったらどう考えるか、消防士だったらどうするか」と会場に問いかける。

 様々な意見が出された。「自分の命を守るべきだと思う。災害の時は民生委員も消防士も、生き残ってやるべきことが沢山あるのだから」と学生たち。「でも、」と東北をテーマに書いている若い作家が言う。「亡くなった方々には申し訳ないと思うが、そういうことのお陰で、私たち日本人の心は慰められて来たのではないか。亡くなった人々の記憶は私たちの中にずっと残って行くと思う(大意)」。
 様々な意見が続くうち、一人の青年が手を上げた。「私は消防士だが、妻と子供に逃げるように言ってから現場に向かった。それが私のしなければならないことだと思ったから」。サンデル教授が「では、あなたは部下に助けに行けと言えるだろうか」と問いかけると、「部下に行ってくれとは頼めないと思う」。今度は別の青年が言う。「市役所の職員だが、地元の消防団に入っている。私も助けに行く。消防団に入った時にそういうことを覚悟したので」。若者たちがこんな意見をごく自然のことのように言う。聞いていて胸が熱くなった。

復興に必要なのは強いリーダーシップか、話し合いか?
 次のテーマは、「遅れている復興を進めるためには、強いリーダーシップが必要か」、「全員が合意するまで話し合いを続けるべきか」。津波で大きな被害を受けた陸前高田市では、地上3メートルの高さに盛り土してその上に町を造る計画だが、住民の意見が分かれてなかなか前に進まない。その現状を取材したサンデル教授が、会場に問いかける。
 会場アンケートでは「リーダーシップで前に進める」が圧倒的に多い。「全員一致を待っていたら遅れてしまう」と言う意見だ。一方で、「リーダーシップと言って少数派の意見を切り捨てたから原発事故だって起きたのではないか」などの意見も。それに対して中年の男性から「そういう綺麗ごとでは進まないよ。私たちはこの100年に3回も津波に会っているのだから、もう待てない」と言う意見が。会場から拍手が起こる。

 これで議論は終わりかな、私はちょっと違うのだがと思っていると、30代後半くらいの男性が手を上げた。「私は、地元で復興のお世話をしているが、やっていて思うのは時間をかけて議論することの大切さだ。時間をかけて議論するうちに、全会一致とはちょっと違うが “納得”ということが生まれて来る。私は、特に自分たちの将来を決めるような大事な時には、この“納得を得る時間”が必要だと思う」。
 サンデル教授が会場に問いかけたのは、今求められている民主主義の手続きとは何かということなのだろうが、男性の静かで説得力あるもの言いが、心に素直に響いた。2011年9月に始まった「ウォール街を占拠せよ(OWS)」運動でも、全員が納得するまで徹底的に議論する方式が話題になったが、期せずして東北でも同じ方式が始まっている。会場から先ほどと変わらない位の拍手が起きた。

◆東北、フクシマの真実に向き合っているか
 最後にサンデル教授が、「心を揺り動かされる意見が沢山あった」と言ったが、本当だった。私も「日本人はなんと上質な議論が出来る国民なのだろう!」と舌を巻く思いがしたのだが、ふと「待てよ」と考えた。この質の高い議論は、東北だからこそではないのか。あの過酷な体験を通してこの2年間、東北の人々が日夜悩みながら考え続けて来たからではないのか。
 そう考えると震災から2年、私たちは相変わらず「東北に手を差し伸べる」、「東北の人々に寄り添う」といった(ちょっと上から目線の)報道を見続けているが、本当に心掛けるべきは(過酷な体験を通して日本の思想的基軸となって来た広島や長崎、沖縄などと同じような意味で)「東北(とフクシマ)から、いかに学ぶか」ではないのか、と思う。そして私たちは今、こうした「東北(とフクシマ)が投げかける真実」にどれだけ謙虚に向き合っているのだろうか、とも反省する。 

持ちこたえるか?原子力規制委員会 13.3.5

 しばらく原発問題について書いて来なかったが、福島第一原発事故から間もなく2年を迎えるにあたり、(相変わらずの視界不良に加えて、怪しげな動きも始まっている)最近の原発を取り巻く状況を整理しておきたい。
 2月に入って東電は、各メディアに福島原発事故の現場を公開した。現在、環境中への放射能の放出は毎時1000万ベクレルと少なくなっているものの、深刻さは相変わらずだ。原子炉3機が同時にメルトダウンするという人類が初めて経験する最悪の事態に直面して、事故後2年経過しても廃炉に向けての手探り状態が続いており、具体的な見通しは全く立っていない。

◆今なお難題が続く福島第一原発の収束
 3機の原子炉すべてで、莫大な熱量を発する核燃料が厚さ15センチの鋼鉄の圧力容器を突きぬけて外側の格納容器の底に落下している。しかも、容器の底に辛うじて止まった100トンもの燃料の塊を冷やすために、それぞれ毎時6トンの水を流し込んでいるが、格納容器に穴があいているために僅か40センチから60センチしか水が溜まらない。温度管理も気を抜けない状態が続いている。
 一方で、原子炉建屋に流れ込む地下水などの汚染水が一日400トンのペースで増え続け、森を切り開いた敷地内には、汲みだした汚染水を入れる3階建てビルと同じくらいの高さのタンクが既に900も並んでいる。この汚染水は新しい浄化装置で放射性物質を取り除き、海に流すことも考えているが、認められなければ際限なくタンクが増えて行くことになる。

 大量の核燃料をどうするかは最大の難問。4号機のプールにあった1533体の使用済み燃料については、別の共用保管場所に移す計画が立てられている。しかし、溶けてドロドロになった1号機から3号機までの核燃料をどうするかは、先が見えない。放射線量が高くて近づけず、原子炉のどこがどの程度損傷しているのか掴めないからだ。
 それが分かれば、損傷部分を何らかの手段で塞いで格納容器に水をため、数十年冷やし続ける。それから燃料を取り出すことになるが、廃炉は上手く行って2050年位になるだろうと言われている。その間、膨大な費用の捻出、廃炉のための新技術の開発、さらには危険作業に従事する作業員の確保など、気の遠くなるような困難が続いて行く

◆この期に及んで事故の解明を遅らせる日本
 事故で問われた原発の安全についても様々な問題が生じている。その一つは事故の解明が遅々として進んでいないことである。福島原発では未だに地震による損傷が起きていなかったのかどうか、本当のところ津波の高さはどの位だったのかなどなど、重大な謎が東電の壁に阻まれて殆ど分かっていない(*)。国会事故調の委員長を務めた黒川清氏は、「第2の国会事故調を作って引き続き解明を」と訴えるが、国会には全くやる気が見えない。黒川氏たちが行った膨大な調査の資料も倉庫に眠ったまま公開される気配がない。*4つの事故調査報告書を読み比べた「原発事故調査報告書の真実とウソ」(文春文庫)が大変面白い

 また、先月には東電幹部(玉井企画部部長)が、国会事故調の立ち入り検査を断念させるような虚偽の説明をしていたことが、朝日によってスクープされた。1号機では、非常用復水器が地震で損傷したのではないかと疑われていたが、(結果的に)東電はその疑念を隠ぺいしたことになる。廣瀬社長が国会に参考人として呼ばれ、第三者委員会で虚偽説明の経緯を調査すると言い逃れたが、ネット上では「東電はどこまで嘘つきなのか」と詳細に論破されている。

 世界が震撼した重大事故を引き起こしながら、なおも事実の隠ぺいに走ろうとする日本の電力会社。彼らは海外(米英仏)の規制当局からも不信の目で見られており、国際的に見ても恥ずかしい存在になり果てている。原子力規制委員会の田中俊一委員長も、日本の電力会社に対して「今の状況では極めて不満。経営層に安全対に責任をとる体制があるかどうかも見ていきたい」と言っている(朝日、1月11日)。
 安全よりも企業の論理を優先させてきた東電の姿勢については、国会事故調の黒川清氏もヒアリング時の勝俣恒久前東電会長のらりくらりした責任回避を批判している(毎日2月18日)。福島の廃炉は国有化された東電にしっかりやってもらうしかないが、民間企業としての東電には、既に危険な原発を維持する資格はないと見るべきだろう。

◆原子力ムラの懲りない面々がうごめき出す
 懲りない面々は他にもいる。今年1月11日、原子力規制委員会は7月に策定する新しい安全基準の骨子(素案)を発表。津波や地震、あるいはテロや航空機落下による「過酷事故対策」を初めて導入し、第2制御室を設けることや、放射性物質を取り除きながら排気するベント装置などを義務化した。また、活断層についても40万年前までさかのぼって調査し、直上に重要施設を認めないとした。
 規制委員会は「世界最高水準の安全基準」と自負しているというが、これは地震国日本なら当然のことで、むしろ最低限のルールと見るべき(朝日など)。しかし、これも厳格に適用すると殆どの原発が再稼働出来ないというので、早くも骨抜き(猶予期間を設けて再稼働を認める)に向けての駆け引きや、原子力ムラの連携プレーによる露骨な規制委攻撃が始まっている。

 例えば、原子力ムラの住人たちで構成する民間の「エネルギー・原子力政策懇談会」(会長、有馬朗人元文相)が、(2月25日に)「責任ある原子力政策の再構築~原子力から逃げず、正面から向き合う~」なる提言を安倍首相に提出したのもその一つ。その中で彼らは、原子力エネルギーの重要性を訴えるとともに、規制委員会について「わが国最高水準の叡智と現在得られる最大限の情報を活用した検討が実現していない」と批判している。
 原子力規制委員会の(政府からの)独立性に厳しい目が向けられている時に、一国の首相がマスコミまで呼んで、こうした民間有志団体の提言を軽々しく受け取ることの重大性に安倍も日本のマスコミも気づかないのだろうか。或いはむしろ、これは出来レースで、一部メディアも含めた原子力ムラの面々が陰で連携しながら、あの手この手で規制委員会に圧力をかけ始めたと見るべきかもしれない。

◆規制委批判の姑息な連係プレー。日本は原子力を持つ資格があるか
 それが証拠に、2月28日の読売は打てば響くようなタイミングで、有馬氏らの提案を社説(「規制委の独善に注文がついた」)で取り上げ、「規制委員会の運営には問題が多い」、「独善に陥ってはならない」などと難癖をつけている。いかにも規制委員会が独善に陥っているという見方を既成事実化しようとする意図が丸見えの記事である。
 しかも、その批判の根拠は「過去の原子力規制にかかわった専門家が排除されている」、「効率性、経済性を無視した原子力規制はあり得ない」というもの。これこそ、過去に規制に関った人たちが(原発の安全より)効率性、経済性を重視したことが今回の事故につながったという教訓を無視した「ピンぼけな批判」(朝日)である。

 今月1日に発表された経産省の「エネルギー計画有識者会議」でも、脱原発派が15人中2人に激減したらしいが、ことほど左様に、(原子力ムラの母体ともなっている)「日本というシステム」は、なりふり構わずに原子力を再起動させたいと動いている。そして今、彼らの最大の攻撃目標になっているのが、原発の新しい安全基準を作っている原子力規制委員会なのである。
 もちろん今の状況で私は、規制委員会がこうした攻撃に耐えて、世界に誇れるような厳しい安全基準を作ってほしいとは思っているし、規制委員会が持ちこたえられるかどうかを、注意深く見守りたいとは思う。しかし、目先の経済、政治の風向きによって、ご都合主義的に「安全の原理原則」をコロコロ変えようとする「日本というシステム」。その救い難い動きを見ていると、(以前の「日本は原子力を持つ資格があるか」にも書いたが)やはり日本は、原子力のような危険極まりない巨大システムを運営するには全く不向きな国なのではないか。---そういう感じを深くする昨今である。