短いながらベトナムとカンボジアの旅では、先進国とはまた違った複雑かつ強烈な印象を持った。過去にフランスなどの植民地だった歴史の名残り、まだ消えていない戦争の傷跡、経済的離陸を摸索する中での貧困、そこに流れている独特な時間、そしてアンコールワットなどの圧倒されるような歴史的文化遺産。そうしたものが混在する、どこか異質で猥雑な風景を旅することによって自分の心の中に引き起こされたのは、今の日本の日常感覚とは遠く隔たった(これぞ“アジア”と言うような)遥かな時空感覚だったように思う。
しかし、その感覚を取り出して反芻したいと思っても、帰国して一週間もするとあっという間に日本のせせこましい現実に引き戻されてしまう。政治家やマスメディアは「やれ第三局の政治連合だの、解散総選挙だの」と連日大騒ぎをしているが、本当は極めて内向きの(ちょっと国を離れて見れば)どうでもいい話には違いない。
旅先のホテルで世界のニュース報道を見ても、日本のこと(その頃の大ニュースは田中真紀子の大学問題だったらしいが)などこれぽっちも報道されていない。すぐ近くのアジアから見ても日本の存在は情けないほどに希薄だ。なのに、帰国して政局報道を見ているうちに自分の感覚も内向きになって、旅の間に感じた感覚など、どこかに消え去っていることに気付く。それではあまりに寂しいので、何とか少しは思い出してみようと思う。
◆異質でゆったりした時間感覚
例えば、今の日本の忙しげな市民生活などとは隔絶したようなハノイ旧市街の様子。自転車タクシーのシクロに乗ってゆっくりと旧市街を走ると、昼日中から人々が歩道に座り込んで食事をしたり飲み物を飲んだりしている。あるいは、かごに入れた僅かな野菜を道に並べて、女性が売れるのを待っている。ホーチミン市も同様で、夜遅くなっても人々は家に入らずに歩道で椅子に座っていつまでも談笑している。目抜き通りにはバイクの洪水が忙しく流れているのに、そこには昔からのゆっくりとした時間が流れている。
ハノイから(海の桂林と言われる名勝の地の)ハロン湾へ行く街道は、トラックやバイクがかなりのスピードで走っている。殆ど正面衝突をしそうな勢いで、向こうもこちらも車線をはみ出しながら前の車を追い抜いていく。その一方で、道端の地面に布きれを敷き100足くらいの靴を並べて、木陰で人が寝ている。「あれで売れるのかなあ」と聞くと、「工場帰りの労働者が買って行く」という。一昔前のゆっくりした時間と、バイクのスピードが混在している。
カンボジアでも、アンコールワットからアンコールトムの遺跡に向かう道路沿いには、昔ながらの高床式で殆ど掘立小屋のような住居が並んでいる。その住居の前に様々な手作りの土産品を並べている。売れるのか売れないのか。バイクタクシーの観光客も車を止めてそれを買っているようには見えないが、それでも、人々はハンモックを吊って昼寝をしながら店番をしている。
◆貧しさと、遠くに見える「経済的離陸」への道程
その道路沿いでは、制服姿の小学生たちがかばんを背負い、列を作って下校する風景も見たが、もっと小さい子供たちはだいたい裸足だった。アンコールトムの遺跡の出口付近では、学校へ行っているのかどうか、小学生とおぼしき裸足の子どもたちが手づくりの土産物を買ってくれと寄って来る。蓮の実で作った腕輪が3個で1ドル。買ってあげると手を合わせて、にっこりと嬉しそうな笑顔を見せるが、子どもたちは手足も衣服も汚れたままで、将来こうした貧しさから抜け出すことはあるのだろうかと思ってしまう。
その遺跡への森の中の道には、義足の男性たちが募金用の壺を前に置いて民俗音楽を演奏していた。暑さの中で、うまく木陰を探しながら4人ほどが固まって演奏している。多分、内戦時に負傷したか、地雷によって負傷したのだろう。
ホーチミン市のレストラン街でも夜食事をして出て来ると、子どもたちが客に何か買ってもらおうと寄って来る。道端の露店で働く人々も含めてベトナムやカンボジアの失業率は5%程度と低いらしいが、一人あたりの収入は僅かに月1万円(名目GDP、ベトナム)から6千円(同、カンボジア)だ。いくら物価が安いと言ってもやはり貧しい。ただ、貧しいとは言っても、日本の都会で見るようなホームレスの人たちは見当たらない。貧しいながらも何とか暮らしていけているのかもしれない。

一方、ハノイからハロン湾に通じる街道沿いには、広大な土地に宇宙から舞い降りて来たような近代的な「サムスン」の工場が建設されていたし、ホーチミン市には超高層ビルも建ち始めている。また、アンコール遺跡のある観光都市シェムリアップには、次々とリゾートホテルが建ち、ショッピングモールさえできている。それでも、人々が歩道に座ってのんびりと食事をしている風景やはだしの子供たちが走り回っている風景を見ると、こうした国が日本と同じように近代化するのはいつになるのだろうか、いわゆる「経済的離陸」の条件とは何なのか、ということをしきりに考えさせられた。(同時に、同じアジアにありながら、我が日本がいかに特異な国なのかについても)
◆戦争の傷跡と平和のありがたさ
一方、ハノイを案内してくれたガイドさんに聞くと、ハノイでは1965年に始まったアメリカの北爆で政府の施設も学校も病院もすっかり破壊されてしまった、という。また、1970年代から80年代にかけて、カンボジアではポルポト派によって医者や弁護士や教師などの知識階級がことごとく殺害され、その後の内戦でも多くの犠牲者が出た。そのことが、今のカンボジアでどれほど発展を阻害しているか。今はようやく平和を取り戻したベトナムもカンボジアもそういう意味では、植民地支配、太平洋戦争、戦後の冷戦構造の中で、大国からの戦禍を受け互いにも入り乱れて戦争をして来た。その傷跡がまだ十分癒えていない中で、懸命に這い上がろうとしているようにも見える。
ホーチミン市では「戦争証跡博物館」を訪ねてみた。庭には戦利品のアメリカの戦車や戦闘機が並べられ、館内ではベトナム戦争時のアメリカ軍の残虐さを示す様々な写真、釘や金属片を入れた汚い爆弾などの実物などが並べられている。中でもベトナム全土に撒かれた「枯葉剤」の被害が痛々しい。後遺症によって多くの奇形が生まれている。 
そういう歴史を知ると、やはり「平和のありがたさ」を強く感じる。例えばハノイの観光名所の「文廟」で、女学生たちが華やかなアオザイの民族衣装をまとって記念写真を撮り合っている風景が実に貴重なものに見えて来る。過酷な歴史を経験した後で、ようやく取り戻した平和をゆったりと味わっている人々。その暮らしはハノイの旧市街に見るように、まだ歩道の地面から高くは飛躍出来ていないにしても、その平穏な暮らしこそが尊いものなのかもしれない。
◆そこに流れている民族の悠久の時間
現在の背後にある、そうした過酷な歴史の流れを踏まえながらカンボジアの遺跡群を見ると、そこには一段と遥かで悠久な時間が流れているのを感じる。写真集などでは伝わらない膨大な石の量感にまず圧倒される。日本で言えば平安時代、10世紀から12世紀にかけての昔に、ここには世界有数の石造文化が花開いていた。長らく密林の中に埋もれて崩れていた、そうした遺跡の壁面には「東洋のモナリザ」とか「クメールの微笑み」などと言われる女神像や観音像が刻まれている。
 乾期に入ったとはいえ、蒸し暑さで汗だくになりながら、こうした遺跡群を見て回っている時の感覚がまた何とも言えない。夕暮れが迫る中、バンテアイ・スレイで「東洋のモナリザ」を見た時には、聞いたことのないような金属的な蝉の声があたり一面を支配していた。堀の水面に巨木と石造りの遺跡が姿を映している。その場所に流れている時間もまた、何と言ったらいいか、私の幼少の頃の田舎の原風景をさらに超えて、アジアの原初的な時空を思わせる。日本では味わえない、その独特の時間を表現するのは私にとっては難しい。本当は、もっと言葉の表現にこだわるべきなのだろうが、写真集が出来る位に写真を沢山撮って来たので次回からは出来るだけ写真で報告して行きたい。
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