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  今週の鑑賞。定年後の身辺雑記

老人になるということは? 13.4.21
 今日のように、冷たい雨が降っていた3月のある日のこと、近所の大型スーパーに買い物に行った。スロープになっているエスカレーター(オートスロープと言うらしい)に乗り、地下に降りようとした。無意識にここも運動と思ったのかもしれない。乗ってすぐ、動いている下りのスロープの上を歩きだしたのだが、その途端に足が宙に浮き思い切り後ろに転倒した。倒れる瞬間は何が起きたのか、全く分からなかった。
 運悪く、その日は両手が傘と荷物でふさがっていた。両肘と腰に衝撃が走り、気が付いたら動いているスロープの上で仰向けになって必死に事態を飲み込もうとしていた。幸いに頭を打った感じはない。腰も痛いが、特に肘が痛かった。でも、骨に異常が起きたような痛みではないようだった。

◆転倒事件のショック
 昼下がりで周りには誰もおらず、私は暫くスロープの上で仰向けになりながら、頭の中であちこちを点検して、地階に着く前に起き上がった。そのスロープは、カートと一緒に乗れるようになっていて、カートの車を止める工夫はしてあるが、進行方向に筋状の線がついていて、人に対しては何の滑り止めもない。歩こうとした私も悪いが、雨にぬれた靴底がその上で滑ったのだろう。
 起き上がってそろそろと歩きだしたら、両肘が下着に擦れて痛い。見ると厚いダウンを着ていたのに両肘がすりむけていた。打った腰もジーンとしている。しかし、しばらく経つと今度はその痛さが、心に響いて来たのに私は驚いた。倒れた時に頭を打っていたら、今頃どうなっていたろうか。肘の骨にヒビでも入っていたら面倒なことになっていただろうな。そんな怯えに似た気持ちが起こって心臓がどきどきした。

 加えて、何故あんなことで転倒したのかという別なショックが心に響いて来た。普通なら靴が少し滑った位で転倒する筈がない。やはりどこか歯車が狂って来たのか。自分が頭の中で想定している体の動きと、実際の動きが微妙にずれて来ているのだろうか。年を取ると、こういうことが心に堪(こた)えて来る。
 平らな廊下でつまずくのは良くあることで、「そういうのを廊下(老化)現象と言うんだよ」とある先輩が言っていたのを思い出す。そんなのは序の口で、先日は、駅の階段でつまづいた60歳代の男性が転げ落ち、70歳代の女性にぶつかって死なせてしまった、というニュースもあった。年を取ることによって生じて来る、脳と体の連携の「微妙なずれ」。他人事ではなく、そう言うことに日々気付かされることが多くなった。

◆無意識の中で生じる微妙なずれ
 それは無意識の中で生じる、ごく僅かなずれに違いない。例えば最近、熱いお茶をたっぷり注いだ茶碗を手に取ろうとして落とし、危うく火傷しそうになったことがある。あるいは、テーブルの上のワイングラスを取ろうとして手元が狂い、倒してしまったことも。後から考えても分からない位の誤差だった。
 その微妙なずれは、どこから来るのだろうか。それは多分、脳の指令が手の動きに伝わる際の時間的ずれが大きくなったのか、または、脳の指令そのものが明確に行われていないのか。あるいは、単に皮膚が滑りやすくなって来ているのに、脳がその変化を計算に入れていない、など。複数の原因が重なり合って起きているのかも知れない。

 従って、こうした老人特有?の「そそう(粗相)」を回避するには、従来よりも肉体の動きをゆっくりにして、(列車の安全確認のように)一つ一つの行動を頭の中でしっかり意識するしかないように思う。時と場合によっては、考え事や無意識の行動も禁物になる。年を取るというのも面倒なことである。

◆老人はPTSDになりやすい?
 さらにもう一つ付け加えれば、あの転倒事件はその後の私に、老化と言うことのもう少し厄介な側面についても考えさせている。それは、大げさに言えばPTSDということ。それも老人特有のPTSDについてである。
 PTSDとは、ご存知のように「心的外傷後ストレス障害」の意味で、危うく死ぬまたは重症を負うような出来事の後に起こる、様々なストレス障害を引き起こす疾患のこと(ウィキペディア)。それは、3.11の時の激しい揺れや大津波に見舞われた人々、福島第一原発事故で緊急避難した人々を、(年齢を問わずに)今も苦しめている症状でもある。

 私の場合の3.11も、結構大きな揺れだった。しかし、その記憶から来るPTSDは、あったとしてもごくごく軽いもので、普段は忘れている。ただし、3.11の記憶や今回の転倒事件の心理などから類推するに、老人というものは案外、このPTSDになりやすいのではないか、と思うようになった。普通、老人は過去、色々なことを経験してきたので、ちょっとやそっとのことでは驚かないようになっていると思われがちだが、どうもそうではないのではないか。

 思うに、この仮説に対する理由はこういうことだと思う。高齢者は、残された時間が少なくやり直しがきかない。また、体力的にも余裕がないために衝撃をもろに受けてしまう。そのことを無意識に感じているために、同じショックでもより大きく受け止めてしまうのではないか。また、仮にそれを小さくやり過ごしたとしても、その衝撃がもたらしたかもしれない影響をより大きく想像してしまう。老人の心はショックに敏感ーー何かそんな気がする。
 そう思って試みに、「高齢者のPTSD」でネット検索して見ると、その原因までは書いていないが、実際に3.11の震災ではPTSDに悩む高齢者が多いという報告もある。なるほど、老人がPTSDになりやすいというのは案外当たっているのかもしれない。

◆心が固くならないように、面白がって
 さて、私の転倒事件をきっかけにした話をもう少し先に進めたい。それは、老人は普段から、無意識のうちに自分の心がPTSDに弱いことを知っていると言うことである。理由は先ほどと同じ、もう若い頃のように無理は効かないと思っているからだ。そうするとどのようなことが起こるか。
 簡単に言えば、「未知のストレス」に身構えてしまうと言うこと。これから起こるかもしれない、様々なストレスについ身構えてしまう。地震などの天災もあるだろうし、自身の病気や家族との別れもあるだろう。そういう未知のストレスに構えるようになると、自然に心が固くなっていく。心配事をもたらしかねない変化を受け入れなくなる。これは哀しいことだが、ある意味当然のことでもある。

 先月「岩波ホール」で観た名画「八月の鯨」(リンゼイ・アンダーソン監督、1987年製作)。この映画でも「年を取ると心が固くなる」ということが、テーマの一つになっている。90歳の女優リリアン・ギッシュが演じる老女は、もう残りの人生に何も起こって欲しくない。よそ者を受け入れない頑な生き方を貫いている。それでも、老姉妹が住む島の暮らしには季節の変化があり、風のそよぎや海辺の変化がある。部屋の中には追憶の品々がある。映画は、そうした老境のやり取りを描いて、しみじみした気持ちにさせる。
 しかし、80歳や90歳ならそれでいいだろうが、今の私は60代。今の60代はまだ若いのだから、余り身構えずに面白がって生きる方がいいような気がする。そのためにも、そんな生き方をしている先輩はもちろん、友人や若い世代との心の交流、いい芸術の鑑賞、時代への関心を大事にし、しかも健康にも留意しながら「心の柔軟体操」に努めよう。そして自分にもこの先、いろいろ衝撃的なことは起こるに違いないが、引き続き定年後の未知との遭遇を観察して行きたいと思う。
青年と、ある店の物語 13.3.20
 最初は一人のおかみさん風の女性がやっていた一杯飲み屋だった。その店が何かの事情で閉じた後、そこを改造してちょっとおしゃれなカウンターバーを開いたのは若者たちだった。間口3間ほどの小さな店で、店の横に小さなテラス風の板敷を張り、そこに白い椅子と観葉植物を置いたりして頑張っていた。しかし、夜8時から午前2時までが営業時間だったが、ガラス越しに足元だけ見えるカウンターに客がいることはまれで、気がついた時には店は閉まっていた。3カ月も持たなかったと思う。 

 半年ほどそのままの状態だったが、次に看板を付け替えてオープンしたのが「Restart(再出発)」というバーだったのには思わず笑ってしまった。またあの若者たちなのだろうか。しかし、場所から言って、そこに客が来るとは思えないのである。そこは、私の家から数分程の、結構交通量の多い街道沿いにある。しかし、住宅街に近く繁華街のように歩行者の多い道筋でもない。車で来るにも駐車場がない。夜の帰宅時に店の前を通るが、店は開いているが中はしんとしている。店を始めた若者たちはどうしているのだろうと気になった。

 「あの店もダメなんじゃないかなあ」と、私が家族に言うと、「あそこはパン屋のような店がいいと私は思うんだ」と娘が言う。すぐ近くにお寺が経営している大きな幼稚園があって、子ども連れのお母さんたちが良く通る。
 そんな、住宅街に近い、街道沿いにあるカウンターバーである。どこか場違いのような気もするが、始めが一杯飲み屋だったのを引きずっているのかもしれなかった。店の外に何個かの照明灯があって「Restart」の看板を照らしていたが、ある時を境にその照明が消え、いつの間にか店は閉じていた。

◆◆◆
 私が住んでいる街は東京のベッドタウンではあるが、古い宿場町の面影も僅かに残す小都市である。年とともに旧街道沿いの商店街がさびれて、くしの歯が欠けたようになっている。そこに時折、思い出したように新しい店が開店するが、駅前の飲食チェーン店などを除いて、長続きするケースは少ない。

 特に、駅から少し離れた一角などは、もう前の店が何だったのか忘れる位に次々と入れ替わっている。記憶しているだけで、洋品店、リサイクルショップ、古本屋、そして現在はレンタルビデオ屋になっている。アルバイトらしき従業員が一人で、辛うじて営業を続けている。二階は、いつの間にか飲み物だけをサービスする玉突き場になった。どちらも人件費を抑えた細々とした経営で、家賃が安いから続いているのだろう。
 商店街の古い店が店じまいし、新しく開店した店が再びなすすべもなく消えていく。その様子を眺めながら、意識のどこかで日本が確実に老齢化し、衰退していくのを感じて来た。さびれた商店街を歩いていると、新宿や赤坂の繁華街に繰り出していたバブルの頃が夢のように思える

◆◆◆
 さて、話はもどるが、あの「Restart」が閉店してから久しく空き家になっていた所に去年の夏前、工事が入り新しい店がオープンした。店に看板はないが、始まると毎日「DOG ORDER」と書いた立て看板が出し入れされるようになった。家人に聞くと、犬の床屋さん(トリマー)だという。歩道から店の中が丸見えになるように造られていて、犬を乗せる台があり、小さなカウンターの奥に実直そうな青年が座っている。

 「こんどは長続きをしてもらいたね」と話し合っていたが、夏が来ても一向に客が来る気配がない。青年は、カウンターの奥に座っていつもパソコンを覗いている。顧客にメールでも送っているのだろうか。たまに台に犬が乗っているかと思うと、いつも同じ黒い犬で、どうやら彼の飼い犬のようだった。
 夏の暑さの中で、ドアを開け放している。冷房費を節約しているのだろうか、などと余計な心配をする日が続いた。時々、彼のガールフレンドらしい女の子が犬を連れて遊びに来て、青年と何やら話していた。

 夏が過ぎ、秋が来てもそんな状態が続いた。青年がいつ店を諦めるのか、だんだん心配になって来た。「今の若者たちは、店を出す前にマーケット・リサーチと言うのをしないのかなあ」、「どこで修行して来たのか知らないが、顧客リストのようなものはないのだろうか」、などと家人と話していた。
 時折、台の上であの黒い犬ではない犬がトリミングされているのを見るとほっとしたりもした。家人に聞くと「料金は他の所より安いみたいよ」というので、知られては来ているのだろう。多分、そうしてやって来た顧客の心を掴んだのだろうと思うが、秋も終わりごろになるとようやく、台の上で大人しくトリミングされている犬たちを見かけるようになった。

◆◆◆
 そして、ついに去年の年末のこと。人間が新年を迎える前に美容院に行くように、犬たちも新年用のお化粧をするらしい。様々な種類の犬たちが次々と「DOG ORDER」にやって来た。狭い店内で2、3匹の犬が大人しく順番を待っている。そうした日が何日も続くのを見て、「これで、あの青年もやっと年を越せそうだ」と他人事ながら胸をなでおろした。
 年が明けてからも、自転車で店の前を通るたびに少しスピードを落として、店の中を覗くようにしているが、一日のうち一回は犬が台の上に乗るようになった。青年がかがみこんで熱心に鋏を動かしている間、感心なことにどの犬も殆ど動かずにじっとしている。私は犬を飼ったことがないので、それがどのくらい感心なことかは分からないが、台の上で静かに青年に身をゆだねている犬たちを見ると不思議な気持ちになる。店で青年が飼い主たちと談笑している光景も見かけるようになり、この店にもやっと春が来たか、と思う。

 ある夕方のことである。私が店の横にある横断歩道で信号を待っていると、道の向こうでかばんを下げた中年の男性がじっと店の中を覗き込んでいるのを目撃した。近所のサラリーマンだろう。その様子を見て、私は直感的にここにも一人、店の行く先を気にかけていた人がいたのだと思った。何故か、そうに違いないと思わせるような雰囲気が漂っていたからである。

◆◆◆
 いま、店の近くのお寺の境内ではしだれ桜が満開で、幼稚園では終業式が賑やかに行われている。そこの桜の古木にもちらほらと花がつき始めた。私の住む街にも、春爛漫の季節が訪れようとしている。そういう近所を散歩しながら、それにしても、と私は今更のように感心する。毎日毎日、一人(一匹)の客も来ない日々を、あの青年はよく耐えたものだと。そして、今時の若者たちも自分の夢を叶えるために、結構頑張っているじゃないか、と思う。
ジャーナリストは現場を目指す 13.3.10
 フォトジャーナリストの大石芳野さんの最新写真集「福島 土と生きる」を入手して読んでいる。福島第一原発事故で避難を余儀なくされた人々を見つめ続けた写真集だ。モノクロの写真一枚一枚に大石さんの簡潔なコメントがつけられている。ただし、その内容は重い。

◆写真集「福島 土と生きる」
 中学2年生の星利奈さんの言葉。「将来の健康が気にならないことはないけれど、心配しないことにしている。でも、心配」。事故後3カ月の浪江町の山林に分け入って写した写真では、「木漏れ日の新緑には清涼感が漂う。東電福島第一原発から北西30kmほどの赤宇木はこのころ、50μSv/hを超える放射線量が続いていた」とある。中には、原発事故で酪農の道を閉ざされて自ら命を絶った男性がベニヤ板に白いチョークで書き遺した「原発さえなければ」という言葉も。

 <あとがき>を読むと、体調がすぐれなかった大石さんが「医師から許可をもらうなり急いで列車に飛び乗った」のは2011年の5月。以来、「福島の人たちはなんと花が好きなのだろう」、「花を愛でる福島の人びとの姿に感動しながら」放射能汚染に向き合わされている福島に通い続けて来た
 大石さんはこれまでも、沖縄、広島を撮り続け、ベトナム、カンボジア、コソボ、チェルノブイリ、アフガニスタンなどの人びとを撮り続けて来た。原発事故直後から、体調がすぐれない中で福島に行かなければと思い続けたのも、そのジャーナリスト魂なのだろう。フォトジャーナリストとしては、現場に行かなければ何も始まらないとは言え、その信念の強さに敬服して来た。写真集「福島 土と生きる」は、そう言う意味でまさに、「ジャーナリストは現場を目指す」を体現した成果である。

◆ジャーナリストは現場を目指す
 最近、「ジャーナリストは現場を目指す」を、強く印象付けられたことがもう一つあった。前回の「自費出版、その後」にも書いたが、私の福井時代にお世話になった写真家のYさんから頂いた手紙である。今年84歳になるYさんは、現在、がんの闘病中だが、その手紙の中で次のように書いて来た。

 「私の方、一昨年の大震災を知ってから、TV生中継をCDに連続録画、1枚のCDに18時間継続録画、息をのむ画面に目を見張り、今日まで生中継のほか「スペシャル番組」、「きらり東北」を含め、38枚のCDに700時間の放送を収録し、子や孫にと伝えていきたいと考えています」
 「しかし、本当は大震災の現場にカメラを構えて立ちたかったのが本音です。しかし、70代中ごろ心臓のバイパスや足裏の悪性黒色腫瘍の手術を受けたため、ドクターストップ。家族の反対。八十路を越えた私には当然だったかも知れませんが、一枚でも写真に映像化して、残せなかったのが悔やまれます」。

 そのYさんは、さらに手紙の中で、1983年の日本海中部地震の時は、すぐに東北を回って被災地の生々しい様子を写真に収めたこと。20世紀の最後の年の2000年8月には、6日午前8時15分の「青空の太陽を原爆ドーム越しに収め」、続いて9日11時2分の長崎原爆投下時刻の写真を“時の記憶55年”として記録したことを書いている。
 「その私には、一昨年の東日本大震災は心の中の記憶になってしまったようです」と残念がっている。歳老いてからも、なお「ジャーナリストは現場を目指す」を追い求めた写真家だと、その執念に魂を揺さぶられる気がした。大石さんの写真集は、こうしたジャーナリストたちの思いにもこたえる写真集なのだと思う。

◆お前はジャーナリストなのか?
 翻って、お前はどうなのかと自問する。去年の夏東北に出かけようとして果たせなかった私は、「お前はジャーナリストなのか」という問いをいつも突きつけられているように思う。「メディアの風」のようなコラムを書いている自分というものを、どう規定するのか。一市民でいいじゃないか、という声と、それでも少しは現場を目指すジャーナリストでありたいと思う気持ちと。
 特に「震災2年、東北からいかに学ぶか」(日々のコラム)のような内容を書くとなると、東北の現場を見ておきたいという気持ちは募る。
「愚直に時代と向き合っていきたい」とは思うけれども、いずれ、このことはしっかり考えなければならないと思っている。
自費出版、その後 13.2.25
 前回に書いたような経緯から、初めて自費出版という形で本(“「メディアの風」原発事故を見つめた日々”)を世に出した。あまりお金がないので、部数も僅かだし体裁もいたってシンプルだが、A5判の大きさで286ページ、結構ずっしりと来る分量になった。
 印刷所から直接送ったので届いたかどうか気になっていたが、今日まで思いのほか多くの方々からメールや手紙を頂いた。日頃、ネットで読んでくれている人たちも、一冊にした時の分量が意外だったらしい。ネットで読むのと印刷されたものを手に取るのと、2つのメディアの違いを指摘してくれた人や、原発問題の幅広い論点、観点が網羅されていると書いてきてくれた人もいた。

 もう40年も前の福井時代にお世話になったメディアの大先輩たちからも長文の手紙をもらったり、「一読再読大いに示唆を受けました」に始まる感想を頂いたりした。本を肴に高校時代の友人たちが集まって一杯やったり、娘が鉛筆で線を引き引き読んで、僅かなミスを発見してくれたり。あまり期待していなかっただけに、そうした感想や励ましを貰うのは素直に嬉しいことだった。

◆本の持つ意味はどこにあるのだろう?
 さて、そうした感想を貰ったことに気を良くしたせいか、改めてこの自費出版本の持つ(単なる自己満足だけでない、客観的な)意味について整理してみようという気になった。もちろん、言うほどのレベルになっているかどうかは問わないことにして、強いて挙げればこの本の意味は以下の4点になるように思う。

@事故直後から同時進行的に発信して来たので、(日本が破滅の瀬戸際にいた初期状況も含めて)忘れがちになっている原発問題の経緯を思い起こさせる記録になっていること
A原発事故の様々な局面の報道において新聞、テレビ、ネット、雑誌などのメディアをウォッチングし、その役割を問う内容になっていること
B原発事故に関する論点や観点が、かなりの程度幅広く網羅されていること
 例)
  国家の危機管理体制、メディアの役割、人災の問題、事故の解析と安全問題、原子力ムラの責任、
  放射能汚染の影響、事故調査報告、原発と政治、原発再稼働問題、原発ゼロへのシナリオ etc

C原発のない社会への考え方、原発ゼロへの手順など、未来へ向けての模索、提案をしていること

◆恥ずかしさを顧みず、送らせてもらう
 随分と大目に評価したものだが、原発がある限り、こうした問題提起や意味合いはこれからも持続して行く筈だと思う。同時に、このように整理したら不思議なもので、残った部数を全部有効活用しようという気になった。気恥ずかしさを顧みず、友人のつてを使ってNHKや民放のキャスターさんにも送ったし、高校時代の友人(弁護士)の紹介で脱原発のロードマップを検討している民主党の長老の方や、政策的に脱原発を掲げている(高校の後輩に当たる)公明党の重鎮にも送らせて貰った。
 さらに勢いに乗って、原発を抱えている郷里の県知事(同級生)にも送ることにした。どこまで共感してくれるかは分からないが、それだけ原発問題の重要性を訴えたいという思いが強いのだろう。それもこれも、現役時代とは違う(何のしがらみもない)一市民の自由さだからこそである。

 同時に、地元越谷市の図書館と国立国会図書館にも一冊ずつ寄贈した。市立図書館は、特に地元在住の人の自費出版本を受け付けてくれ、行ってみると目立つ閲覧棚に「原発本コーナー」が特設されていたので、そこに並べてくれるだろう。
 また、国会図書館には(ネットで調べると分かるが)「納本制度」という立派な制度があり、自費出版本も納本すると、同館ホームページ上の『日本全国書誌 <http://www.ndl.go.jp/jp/publication/jnbwl/jnb_top.html>』やNDL-OPAC <https://ndlopac.ndl.go.jp/>(国立国会図書館蔵書検索・申込システム)にその書誌データが掲載されることになっている。
 その本は『図書館資料として広く利用されるとともに、国民共有の文化的資産として永く保存され、日本国民の知的活動の記録として後世に継承されます』とあるから、私が死んでもこの本は半永久的に残って行く。郵送先も出ているので納本は簡単に済んだ。ネットで検索すると、すでに登録されているので、まもなく礼状(受け取り)が送付されて来る筈である。(*3月5日時点で、越谷市立図書館、国会図書館とも検索可能になっている)

◆次なる出版を目指して?
 これでいいようなものだが、もう少しやることが残っている。印刷所が作ったPDFデータの僅かなミスを修正し、それをネット上に上げることである。そのやり方は2つ。自分のHP上に載せてリンクを張ることと、もう一つはBCCKのようなネット上の電子図書館にあげることである。ただし、この手順はIT音痴の私にはちょっと難しい。先輩のNさんに手伝ってもらうとこにしている。そこまでやれば、初めての自費出版も充分楽しんだことになるだろう。

 さて、そうこうしている間にも、原発問題を取り巻く状況は動いている。新しい安全基準や断層調査を巡っては、電力会社やそれに近い議員たちと規制委員会との激しい攻防、暗闘が始まっているし、朝日がスクープした事実だが、東電幹部が嘘をついて国会事故調の調査を妨害した案件もある。こういう「企業への歪んだ忠誠心」がこの期に及んでなぜ出て来るのか不思議な話だが、これも心理面から分析する必要があるのではないか。

 また、安倍首相がアメリカに行って日米同盟強化を打ち出したが、「アメリカ側から見た尖閣問題」や、「アメリカ側から見た日米同盟」についても少し視点を変えて考えてみると、様々なことが見えて来るに違いない。先日、念願かなって先輩たちのハイレベルの勉強会に参加したが、そこでのテーマは「アベノミクス」についてだった。
 こうした勉強会にも参加しながら、当面の関心事である「アベノミクス」、「野党の再生問題」などについても、一市民の視点からぼちぼちと、手探りしながら書いていこうと思う。そして(健康、頭、手元資金が許せば)、その先に今回の自費出版の経験を生かして、「メディアの風(2)」にトライできればいいのだが、と密かに思っている。
「メディアの風」自費出版のこと 13.1.24
  「メディアの風」にアップした3.11以後の原発事故関連のコラムが、去年の9月に書いた「原発ゼロのシナリオ(1)、(2)」で一区切りついた気がしたので、これをまとめて本にしておこうと考えた。先輩のNさんたちの同人誌の例に刺激されたのかもしれないが、本にすると国会図書館が喜んで蔵書に加えてくれる(これを納本制度というらしい)と言うのが引き金になった気がする。
 ただし、自費出版と言うのはお金がかかる。うまく出版社が話に乗ってくれればタダで出版出来ると言うので、虫がいい話だが知人に頼んで幾つかの出版社に当たってもらった。しかし、結論はどこも難しいという答え。「一頃はブログ版といってネットで見られるものを本にして売ることが流行ったけれど、最近はその売れ行きが難しくなったので」とか、「今出版界では500冊くらいの原発本が出ていて食傷気味。よほど特徴がないと」などというのが理由だった。残念。

 そこで、幾つか自費出版のサイトを見てみると、これが結構便利にできている。例えば、A5版、300ページと入れて希望の体裁を入れると見積もりがすぐにネットで見られる。こうして、自費出版している人たちも多いのだろう。私の方は結局、以前、母の句集を出してもらった印刷会社を思い出して、そこに頼むことにした。気心が知れているので、丁寧にやってくれる。(追記1月31日完成、写真)

 タイトルは“「メディアの風」原発事故を見つめた日々”とした。構成を考え目次を作り、「まえがき」を書く。目次と「まえがき」は以下に記すが、「まえがき」には私なりの想いが入っている。「あとがきにかえて」には今年になってから書いたコラム「安倍政権と脱原発の行方」を入れた。全体で286ページ、結構な分量になる。
 というわけで、第1集の書籍化は完成するが、本当は「メディアの風」その(1)としたかった。後2年、何とか70歳まで頑張って、10年間に書いたコラムをテーマ別にしてまとめ、
「メディアの風」の(2)、(3として自費出版する。それを同様に国会図書館や市立図書館(当市は地元在住の人の出版物を引きとってくれる)に納めて卒業する。思惑通りいくかどうか分からないが、「メディアの風」の道楽もここまでやれば本望だろうと思う。

◆「まえがき」から
 NHKの番組ディレクターだった私は、定年後に「メディアの風」という個人的なホームページを立ち上げ、ジャーナリストの端くれとして、あるいは一市民として、関心のあるテーマをコラムに書いては発信して来た。「私たちは今、どういう時代に生きているのか」、「時代はどこに向かおうとしているのか」、そして「この時代をより良く生きて行くにはどうすればいいのか」というのが、基本的な問題意識である。

 そういう時に、東日本大震災と福島第一原発事故が発生。日本は3基の原発が同時にメルトダウンし、メルトスルーまで引き起こすという人類史上最悪レベルの深刻な原発事故を経験することになった。それは、かつて幾つかの原発関連番組を制作したことのある私に大きな衝撃を与えた。
 事故の深刻さに心を痛め、事故の背景にある人災の構図に呆れ、放射能汚染の影響を憂慮し、原発の構造的欠陥および原子力行政の杜撰さを指摘し、そして私なりの原発ゼロへのシナリオを考えることになった。
すべて刻々と変化する当時の状況の中で手探りしながら、同時進行的に書いてきたものだが、原発関連のコラムはこれまで50本を超えた。

 福島第一原発事故の発生からまもなく2年を迎える。しかし、事故がもたらした衝撃は依然として続いているはずなのに、また、原発問題は日本の未来を考える際の重要な座標軸の一つであるはずなのに、
人々の間で事故の記憶は時とともに少しずつ風化しているように見える。そういう現状を見て、個人的なものではあるが、私の原発問題に関する思考の経過を、一つの区切りとしてまとめておくのも少しは意味があるのではないかと考えるようになった。

 そこで、原発関連のコラムから45本を選び、さらに私が朝日新聞社の「月刊ジャーナリズム(2011年10月号)」に書いた「NHKは原発とどう向きあって来たか」(第4章)を加えて、一冊にすることにした。いま読み返してみると行きつ戻りつの感もあるが、これは事故の収拾、放射能汚染の問題、安全の考え方すべてに関して、
日本全体が未体験の問題に突き当たって、もがいていた当時の状況と愚直に付き合って来た結果とも言える。
 安倍政権の登場で日本の原発政策も大きく変わろうとしているが、この拙い記録があの事故を振り返り、原発を取り巻く様々な状況や論点を考える際の一助にでもなればと言う思いである。

◆電子書籍化の試み
 「メディアの風」その(1)の「原発事故を見つめた日々」は、今月中には出来るだろう。それともう一つ、今朝デザイナーの息子に聞いたら、「BCCKS」という無料で電子書籍を作ったり、販売もできるサイトがあるという。自分の好きなデザインを選んで簡単にネット上に本ができるというシステム。サイトを見ると様々な本がすでに書籍化され、中には有料なものもある。簡単にできそうなので、こういう新しいことも研究して電子空間に自分の書いたものが残る試みにも挑戦してみよう。出版事情も日々変化していて、いろいろ面白い時代になったものだと思う。

◆内容(目次)
まえがき
第1章 最悪の事態を心配した日々(2011年3月13日〜4月2日)
 最悪に備えてあらゆる対策を
 
原子炉災害・国を挙げて取り組め
 
原子炉事故・国と人の試練の時
 
巨大地震・想像力のある人、欠けている人
 原発事故・危機管理体制の情報を
 
原発事故・危機管理体制の情報を(2)
 
国家の危機は政治家を映す鏡 

第2章 人災が招いた事故の恐ろしさ(4月4日〜6月16日)
 原発事故はなぜ「人災」なのか(1)
 原発事故はなぜ「人災」なのか(番外編)
 原発事故はなぜ「人災」なのか(2)
 
原発事故はなぜ「人災」なのか(3)
 
原発情報・疑心暗鬼を解くために 
 原発・「思い込み」の呪縛は解けるか
 77万テラベクレルの放射能 

第3章 脱原発への問題提起(6月23日〜9月10日)
 日本の脱原発はもう始まっている 
 
脱原発に向けて徹底した議論を
 「再稼働延期」と「脱原発」、何が違うか
 脱原発を巡る最近の動きから 
 
放射能汚染問題を直視せよ 
 「脱原発隠し」と政治の不毛 
 原発を看取るということ 

第4章 NHKは原発とどう向き合ったか(番外編)
  スリーマイル島原発の建屋内に初めて入る
  膨大な放射性廃棄物をどうするか
  メディアの監視が弱く緊張感を失っていた?

第5章 原発事故と放射線被ばく(10月10日〜12月31日)
 「事故の全体像」から目をそらすな 
 放射能・正しく恐れるために(1)
 放射能・正しく恐れるために(2
 低線量被曝・影響は「がん」だけか
 
原発事故調査に何を期待するか
 
検証番組から見えて来たこと
 日本は「脱原発」の実験中 

第6章 年が明けても模索は続く(2012年1月9日〜3月9日)
 国策としての原発輸出はなぜダメか 
 議事録不在は何を意味するか 
 「低線量放射線被ばく」の影響 

第7章 原発再稼働と原子力ムラ(3月24日〜6月24日)
 息を吹き返す「原子力ムラ」
 
「原子力ムラ」の責任は問えるか 
 
巨大地震と脱原発のシナリオ 
 
原発ゼロの日 
 日本は原発を持つ資格があるか
 
原発再稼働と発表ジャーナリズム
 
若狭湾・原発銀座の原風景 
 脱原発を阻む「日本というシステム」

第8章 原発ゼロへのシナリオ(7月29日〜9月13日)
 3.11後の日本が問われていること
 
Nスペ「メルトダウン 連鎖の真相」
 
「原発ゼロ」への道筋を示せるか
 
「原発ゼロ」へのシナリオ(1)
 
「原発ゼロ」へのシナリオ(2)

あとがきにかえて(2013年1月13日)
 安倍政権と脱原発の行方
年の初めに願うこと 13.1.5
 明けましておめでとうございます。一昨年の巨大地震と原発事故の余震はまだ続いていますが、2013年を迎えて、日本はいい方に変わっていくことが出来るのでしょうか。世界はどう動いて行くのでしょうか。今年も「メディアの風」で一市民の立場から今という時代に向き合って行きたいと思います。定年後の身辺雑記を書いている「風の日めくり」ですが、今回は以下に書くような理由から、新しい気持ちで幾つか年初の願いと言うものを整理してみました。

◆写真に残された父の姿
 私は去年、内心ひそかに緊張していたけれど、何とか元気で67歳で死去した父の年齢を越えることが出来た。死ぬ前に病院で撮った父の写真は気迫に満ちていて、癌を知らされてはいたが、この人が間もなく死ぬとはとても思えないようながっしりした体形をしていた。毎日、その時撮った写真と顔を合わせているのだが、そこからにじみ出ている人格は、とても今の私などの及ぶところではないといつも痛感させられる。
 同じ年齢に達したとはいえ、ずっと息子として接して来たからだろうか。どうもそうでもないように思う。そういうことを差し引いても、父の晩年のたたずまいにはとても敵わないと思う。仮に父の写真と今の自分の写真を並べて知らない人に見て貰っても、10人中10人が父の方が風格があるというだろう。同じ年齢の人間と見てくれるかどうかだって怪しい。

 あれは、明治生まれと言う時代が作った風格なのか。戦禍で家業を失い、浪人したり転職したりして、貧しい中で家族8人を養って来た、その苦労の体験が作ったものか。あるいは長年の努力の成果なのか。40歳を過ぎてからの遅いスタートで教職に転じた父は、死ぬ時には現役の教育長だったが、毎朝4時に起きてお経を上げ、座禅を組み、般若心経を写経し(それを父は手のひらサイズのお経本にして多くの人々に配っていた)、そのあとこつこつと自分に課した様々な勉強をしてから役所に出た。
 父の風格の理由を考え出すと父の人生や生きて来た時代の迷宮に分け入ることになって途方に暮れてしまう。そこで(その疑問はひとまず置いて)ここはむしろ単純に、67歳を超えても未熟な自分には、まだ努力すべきことが沢山残されていると思うようにした。後何年生きるか分からないけれど、生きて健康でいる限りは学ぶべきテーマを持っていたい、と思う。

◆年初の願い
 努力と言っても、別に社会的なことではない(それはもう終わった)。定年後の過ごし方としては珍しくないが、あくまで自分のための勉強である。年寄りの冷や水と言われようと、まだ自己研さんの余地があるうちは努力してみようということである。まあ、「棒ほど願って針ほど叶う」類のものかもしれないが、年初めの願いとして、それを4つほど上げてみる。

 第一に、今年は去年殆ど出来なかった「勉強」というものを少しはしてみたい。読書の時間を確保してきちんとしたものを読んで見たい。また、テーマを精選して大学のオープン講座と言うものに一度くらいは参加してみる。機会があれば(今、参加を打診しているところだが)勉強会にも参加したい。
 テーマとしては政治、経済(資本主義の未来)、中国、アメリカ、防衛、エネルギー、歴史文化といったものが候補で、これは今やっている新聞の切り抜きのテーマとも重なる。あまり欲張ることはないが、その中から関心のあるテーマを選んで基礎的な見方というものを少しは身につけたい

 第二に、本当に好きなこと、楽しいこと、今やっておくべきことをやる。仲間との交流、温泉行、海外への旅。美術展や芝居、映画などの鑑賞。出来れば絵を描くことも。これらは時間を見つけ出せないまま、つい億劫になって見送ることも多かったが、去年行ったインドシナ(アンコール遺跡など)旅行のように、これはと思うものは見ておきたい。もちろん欲張らずに消化できる範囲で体験し、その内容を咀嚼して、できるだけ文章にして残すようにしたい

 第三に、本気でTV企画を考える。幸いに若いディレクター仲間とTV企画について議論できる環境にある。今年は、その環境の中で自分にとってテレビがまだ魅力的なメディアなのかどうか(*)、を自問自答して行くことになるだろう。と言っても自分の発想は知れたものなので、若い人たちの発想をどう生かせるかが課題になる。実際に実現するかどうか別として、冷めることなく熱い心を持ってテレビの可能性を摸索できればと思う。*「テレビ制作者は今も“放送人”か

 第四に、社会的つながりとして関っている幾つかのボランティア的仕事(これが名刺的には一応の肩書になる)は自然の流れにまかせる。もっとも定年後の身としては、こうしたボランティア的仕事というのは、意味の見出し方がかなり難しい。責任がないだけ、意欲もかき立てにくい。それでも、社会とのつながりが持てるのは捨てがたく、(いつまで許されるかは分からないが)模索しながらも続けて行くことになるだろう。

◆健康第一で
 以上は、「私たちは今、いかなる時代に生きているのか、時代はどこに向かおうとしているのか」、そして「この時代をより良く生きて行くにはどうすればいいのか」という問いを持ち続けながら書いて来た「メディアの風」の作業ともつながって来る。ただ、こうして上げてみると結構欲張り過ぎていて、67歳という年齢を考えると、まだまだ整理が必要だろうとは思う。一番良くないのは、追われる心境になってしまうことである。自らに課したこうしたことを、義務のように感じて汲々とするのは避けたい。そのためには、まず自分の興味のある分野に集中することだろう。「棒ほど願って針ほど叶う」ことになっても良しとしながら、余裕を持って少しずつ新しいことにトライしてみようと思う。

 何はともあれ健康第一。明日何があっても不思議ではない年齢ですが(それは別途考えることにして)、折角、父の年齢を越えさせて貰ったのだから、これからの一年一年は、自分を律しながらささやかに努力の日々を重ねて行きたいと思います。今年もよろしくお願いします。
ベトナム・カンボジア紀行Cバンテアイ・スレイ 12.12.30

 若き日のアンドレ・マルロー(1901-1976)が魅了され、レリーフの一部を盗み出そうとして国外に追放されたバンテアイ・スレイアンドレ・マルローの記事)。ホテルのある観光都市、シェムリアップからは35キロ北にあります。10世紀末にジャヤバルマン5世王によって完成されたヒンズー教寺院で、かつて、マルローが密林をかき分けながら何日もかけて進んだ「王道」も、今では車で40分程の行程です。午後4時前に着いて遺跡の中に入って行くと、背の高い木々がお堀に影を映し、あたり一面に聞いたことのないような金属的な蝉の声が響いていました。


 










 「女の砦」と言う意味のこの遺跡は、1930年頃にフランス隊によって修復されるまで、長く密林に覆われて瓦礫の山のようになっていたそうです。塀や参道は日干しレンガで造られていますが、基本的には
ピンク色をした砂岩で出来ています。そのピンクの砂岩に「アンコール美術の宝石箱」と言われるほどの繊細で彫りの深い浮き彫りが施されています。













 屋根の破風に彫られているのは、シバ神などのヒンズー教の神たち、そして裏側に回ると「東洋のモナリザ」と呼ばれている女神像が2体、お堂の両側に彫られています。 現在は、保護のために近づくことが出来ないので、目鼻立ちまではっきり見ることは出来ませんが、夕暮れの静寂の中、その像たちは静かにたたずんでいました。

 











 アンコール遺跡群は、歴代の王たちが権勢を誇るために建てた都や寺院跡で、アンコール地方だけで60か所もあります。その中で、有名なのはアンコールワットやアンコール・トム、そして大木の根が遺跡を覆っているタ・プローム、バンテアイ・スレイなどですが、ツアーではこの他にもプリヤ・カーン、ニャック・ポアン、プレ・ループなどの遺跡を巡ります。

 











 写真は、塔の最上階からカンボジアの森と農地が見晴らせる
プレ・ループの遺跡ここは、ちょっと怖いような急な階段を上って行きます。

ベトナム・カンボジア紀行Bアンコールワット 12.12.22
 今回は東南アジアの遺跡群の中でも最大、最高の造形美と言われるアンコールワット。アンコール遺跡群の中でも中心的存在です。日本で言えば平清盛と同時代にカンボジアのアンコール王朝を築いたスールヤヴァルマン2世王(1113-1150頃)によって造られました。建造時はヒンズー教寺院でしたが、14世紀になって仏教寺院へと衣替えしたために、仏像も運び込まれたそうです。
 遺跡は西を向いていて、私たちも西門から入ります。遺跡を囲むお堀は、南北1.3km、東西1.5kmもあり、堀の幅も160mあります。長い内戦時代、ポルポト派の虐殺など不幸な歴史を経てようやく平和が戻った1993年以降、ポルポト派の武器庫だったアンコールワットの修復作業も進んで来ました。今ではお堀の水草の清掃も常に行われていて、澄み切った水面にアンコールワットの姿が美しく影を映しています。

 











 アンコールワットの西門をはいると、まず目の中に飛び込んで来る石造りの尖塔群に目を奪われます。砂岩を積み重ねた上に日干し煉瓦で覆った回廊や尖塔が、圧倒的なボリューム感で迫ってきます

 











 最初の囲いの構造物は、第1回廊と呼ばれ、南北180m、東西200m。そこにヒンズー教の叙事詩「ラーマーヤナ」などのレリーフが描かれています。その壁画彫刻の長さは760mにもなります。













   第2回廊の内側の壁に彫られた女神像は
デヴァターと呼ばれ、盛装した王宮の舞踏姫たちをモデルにした女神たち。













 「東洋のパルテノン」とも言われるアンコールワット。ヒンズー教寺院の特徴は、上に高く聳えて行くことなので、中心の塔は高くなった第3回廊からさらに47mも高くにそびえています。第3回廊へは、傾斜50度の階段で登ることになります。尖塔のてっぺん付近に植物が生えていますが、あそこまでは手が届かない、という位高く見えます。













 アンコールワットは、西側に向けて造られているので早朝に行けば朝日をバックにした塔のシルエットが見られ、夕方に行けばアンコールワットの遺跡からお堀越しに沈む夕日が見られます。11月は乾期の始まりですが、それでも30度の蒸し暑い日中に比べれば、何となく涼しくなった夕方に沈んで行く夕陽を眺めながら、遥か昔の異郷の歴史に思いをはせました。次回は、「東洋のモナリザ」と呼ばれる女神像のあるバンテアイ・スレイの写真を。
別れの季節に 12.12.19
 暮になって「喪中」を知らせるはがきが届くようになった。また今年は、暮も間近になって人々の記憶に残る有名人が幾人も亡くなった。私の周辺でも今年は高校の友人、お世話になった方を見送ることになった。先日12月17日のお葬式では、もう40年近くお世話になって来た方が突然に亡くなられ、告別式で弔辞を読ませて頂いた。涙をこらえつつのあいさつで、上手くは言えなかったけれど、集まった人々の前で、お別れを言える機会を設けて頂いて感謝している。

 同じ弔辞で思い出すのが、9年前に突然事故死した親友のお葬式である。この時は、友人たち、関係者の何人かが弔辞を読み上げたが、殆ど号泣してしまうと言う状態だった。それだけ、亡くなったA君の人柄が際立っていたこと、そしてあまりに突然で、若い死だったからだと思う。私もその一人として弔辞を読んだのだが、用意して行った原稿が涙でかすんで上手く読めなかった。
 先日のお葬式での「ごあいさつ」は、胸に留めておくことにして、9年前の12月7日に郷里で亡くなった、建築家A君の時の弔辞を、A君を偲ぶ意味でここに載せておきたい。読みながら当時の悲しみが蘇ってきたが、それにしても、親しい人との別れは本当にさびしいものである。

◆A君への弔辞
 あまりに突然のことで呆然としています。東京在住のいつもの仲間と病院に駆けつけたとき、君は息を引き取った直後でしたが、まだ体も温かく、事故にあったとは思えないほど、とても安らかな顔つきになっていました。今にもふっと何か冗談でも言い出しそうなそんな感じがして、どうしても君が亡くなったという気がしませんでした。
 あれから、4日たったいまも、僕たちは、ただただ胸に穴が開いたような喪失感にとらわれるだけで、君を失ったことの意味の大きさをまだ十分理解できていないように思います。
 
 思えば、高校で机を並べてから40年、長いお付き合いをさせていただきました。思うところがあって君が地元に根を下ろし、東京と茨城とに分かれて生活するようになってからも、僕たちは君に会うといつも新鮮な驚きを感じたものでした。郷里にあって君は、地方の文化のあり方を考え、風土に根ざした建築とは何かを考え、さらに地球の環境問題や世界の芸術文化にまで関心の世界を広げていました。
 あるときは、ポルトガルの民謡ファドが好きになり、奥さんと本場のヨーロッパまで聞きに行って感激した話を熱く語ってくれました。地元に足を下ろしながら地元のことから世界のことまでを極めてまっとうに見据えている君の姿に、僕はいつも教えられ、共鳴するものを感じていたのです。
 
 君のそんな魅力に引かれて、もう何年も前から毎年お盆になると高校の同窓生たちと僕は君の家に集まるのが恒例になりました。奥さんの手料理で一杯やった後、君が用意してくれた近所の料理屋でゆっくり飲みながら語り合うのは何と楽しかったことか。夏の集まりは、僕たち皆にとって本当に至福のときでした。
 地元に戻ろうと決心した後、しばらくは仕事がなくて良く奥さんと地元の野山を散歩して食べられる草を摘んでいた、などという話も君から聞きました。しかし、そんな苦労の中で、君はその人柄で郷里で着実に人の輪を広げていきました。そして同志とも言うべき奥さんと日本の風土に相応しい建築の姿を求めながら確かな仕事を残してきました。今年の夏行った店はたまたま君が設計したものでしたが、そこは君の人柄を反映したようなシックで落ち着いた感じの建物でした。
 
 A君、君は器用に生きようとすることから頑固に身を守り、余計な飾りを捨てて潔いほどに、シンプルで人間的な生き方が出来る人でした。温かくやさしく誰もが安心して付合える人でした。君のその人間性で君は郷里にしっかりと根を下ろし、我々高校の同窓生を始め多くの人々に慕われてきました。
そして、君の存在は僕たち都会で根無し草になった人間にとっても心安らぐかけがえのない存在だったのです。
 
 今年の3月には、いつものメンバーで温泉にも行きましたね。快晴の浅間山ろく、残雪がまぶしい鬼押し出しを初老の男5人で散策しながら、老後にこう言う付き合いがあるのもいいなあとひそかに思っていました。57歳での別れは早すぎます。本当に無念で、残念でなりません。

  しかし、僕は今、強く思っています。君はあまりに早く旅立ってしまったけれど、君の面影は、残されたご家族はもちろん、君を知るすべての人の心の中で時とともにますますくっきりと鮮やかになって、いつまでも生きていくに違いありません。君は真実そのようなひとでした。

 いつまでも名残はつきませんが、ひとまずお別れをいいます。さようなら。本当にありがとうございました。
 (2003年12月11日 茨城県日立市での告別式)


◆丁寧に生きて行く
 先日亡くなった方は、かつてご主人をなくされた時、会葬者に向かって「これからも丁寧に生きて行こうと思います」と挨拶されたが、文字通り周りの人たちを温かく包みながら、気配りを欠かさない「丁寧な生き方」をされた方だった。心からご冥福を祈りたい。
ベトナム・カンボジア紀行Aアンコール・トムとタ・プローム 12.12.16
 カンボジアでの写真をアップして行きます。まずは、四方に観音様のお顔を拝した塔が特徴のアンコール・トムの遺跡とガジュマルの根に覆われたタ・プロームの遺跡から。
 アンコール遺跡には、ヒンズー教の遺跡(アンコールワットなど)と仏教遺跡の2つのタイプがあり、ヒンズー教の寺院は上に高く、仏教寺院は横に広く、という特徴があるようです。アンコール・トムの遺跡は都の跡で堀の大きさで3キロメートル四方になります。その中心に位置するのがバイヨン寺院。日本で言えば鎌倉時代の12世紀後半から13世紀にかけて建設された寺院跡です。観音様のお顔は全部で64面もあるそうです。



























 タ・プロームの遺跡。ガジュマルの大木で取り囲まれ、この巨大な根っこを取り払うと遺跡が崩れてしまうので、ここだけは植物の繁茂に任せているといいます。かつてヨーロッパ人たちが密林の中で発見した遺跡群もこのような状況ではなかったかと思わせるようなところです。13世紀に国王(ジャヤヴァルマン7世)の母の菩提を弔うために建てられた仏教寺院跡です。













 ここは、映画「トゥーム・レーダー」の撮影現場にもなったそうです。木々は樹齢300年から400年のスポン(ガジュマルの一種)と言う木だそうですが、その生命力に圧倒されます。


 アンコールの遺跡はこの地を統治する王様の宗教によってかなりの影響を受けて来ました。仏教寺院として建てられた時の仏像群が、その後のヒンズー教の王様によってお顔が削られるようなことが随分とありました。また、タ・プローム遺跡の仏像などのように、カンボジア内戦後の混乱期に首を盗まれてしまったケースもあるようです。

ベトナム・カンボジア紀行@ 12.11.18

 短いながらベトナムとカンボジアの旅では、先進国とはまた違った複雑かつ強烈な印象を持った。過去にフランスなどの植民地だった歴史の名残り、まだ消えていない戦争の傷跡、経済的離陸を摸索する中での貧困、そこに流れている独特な時間、そしてアンコールワットなどの圧倒されるような歴史的文化遺産。そうしたものが混在する、どこか異質で猥雑な風景を旅することによって自分の心の中に引き起こされたのは、今の日本の日常感覚とは遠く隔たった(これぞ“アジア”と言うような)遥かな時空感覚だったように思う。

 しかし、その感覚を取り出して反芻したいと思っても、帰国して一週間もするとあっという間に日本のせせこましい現実に引き戻されてしまう。政治家やマスメディアは「やれ第三局の政治連合だの、解散総選挙だの」と連日大騒ぎをしているが、本当は極めて内向きの(ちょっと国を離れて見れば)どうでもいい話には違いない。
 旅先のホテルで世界のニュース報道を見ても、日本のこと(その頃の大ニュースは田中真紀子の大学問題だったらしいが)などこれぽっちも報道されていない。すぐ近くのアジアから見ても日本の存在は情けないほどに希薄だ。なのに、帰国して政局報道を見ているうちに自分の感覚も内向きになって、旅の間に感じた感覚など、どこかに消え去っていることに気付く。それではあまりに寂しいので、何とか少しは思い出してみようと思う。


◆異質でゆったりした時間感覚
 例えば、今の日本の忙しげな市民生活などとは隔絶したようなハノイ旧市街の様子。自転車タクシーのシクロに乗ってゆっくりと旧市街を走ると、昼日中から人々が歩道に座り込んで食事をしたり飲み物を飲んだりしている。あるいは、かごに入れた僅かな野菜を道に並べて、女性が売れるのを待っている。ホーチミン市も同様で、夜遅くなっても人々は家に入らずに歩道で椅子に座っていつまでも談笑している。目抜き通りにはバイクの洪水が忙しく流れているのに、そこには昔からのゆっくりとした時間が流れている。

 ハノイから(海の桂林と言われる名勝の地の)ハロン湾へ行く街道は、トラックやバイクがかなりのスピードで走っている。殆ど正面衝突をしそうな勢いで、向こうもこちらも車線をはみ出しながら前の車を追い抜いていく。その一方で、道端の地面に布きれを敷き100足くらいの靴を並べて、木陰で人が寝ている。「あれで売れるのかなあ」と聞くと、「工場帰りの労働者が買って行く」という。一昔前のゆっくりした時間と、バイクのスピードが混在している。
 カンボジアでも、アンコールワットからアンコールトムの遺跡に向かう道路沿いには、昔ながらの高床式で殆ど掘立小屋のような住居が並んでいる。その住居の前に様々な手作りの土産品を並べている。売れるのか売れないのか。バイクタクシーの観光客も車を止めてそれを買っているようには見えないが、それでも、人々はハンモックを吊って昼寝をしながら店番をしている。

◆貧しさと、遠くに見える「経済的離陸」への道程
 その道路沿いでは、制服姿の小学生たちがかばんを背負い、列を作って下校する風景も見たが、もっと小さい子供たちはだいたい裸足だった。アンコールトムの遺跡の出口付近では、学校へ行っているのかどうか、小学生とおぼしき裸足の子どもたちが手づくりの土産物を買ってくれと寄って来る。蓮の実で作った腕輪が3個で1ドル。買ってあげると手を合わせて、にっこりと嬉しそうな笑顔を見せるが、子どもたちは手足も衣服も汚れたままで、将来こうした貧しさから抜け出すことはあるのだろうかと思ってしまう。
 その遺跡への森の中の道には、義足の男性たちが募金用の壺を前に置いて民俗音楽を演奏していた。暑さの中で、うまく木陰を探しながら4人ほどが固まって演奏している。多分、内戦時に負傷したか、地雷によって負傷したのだろう。

 ホーチミン市のレストラン街でも夜食事をして出て来ると、子どもたちが客に何か買ってもらおうと寄って来る。道端の露店で働く人々も含めてベトナムやカンボジアの失業率は5%程度と低いらしいが、一人あたりの収入は僅かに月1万円(名目GDP、ベトナム)から6千円(同、カンボジア)だ。いくら物価が安いと言ってもやはり貧しい。ただ、貧しいとは言っても、日本の都会で見るようなホームレスの人たちは見当たらない。貧しいながらも何とか暮らしていけているのかもしれない。

 一方、ハノイからハロン湾に通じる街道沿いには、広大な土地に宇宙から舞い降りて来たような近代的な「サムスン」の工場が建設されていたし、ホーチミン市には超高層ビルも建ち始めている。また、アンコール遺跡のある観光都市シェムリアップには、次々とリゾートホテルが建ち、ショッピングモールさえできている。それでも、人々が歩道に座ってのんびりと食事をしている風景やはだしの子供たちが走り回っている風景を見ると、こうした国が日本と同じように近代化するのはいつになるのだろうか、いわゆる「経済的離陸」の条件とは何なのか、ということをしきりに考えさせられた。(同時に、同じアジアにありながら、我が日本がいかに特異な国なのかについても)

◆戦争の傷跡と平和のありがたさ
 一方、ハノイを案内してくれたガイドさんに聞くと、ハノイでは1965年に始まったアメリカの北爆で政府の施設も学校も病院もすっかり破壊されてしまった、という。また、1970年代から80年代にかけて、カンボジアではポルポト派によって医者や弁護士や教師などの知識階級がことごとく殺害され、その後の内戦でも多くの犠牲者が出た。そのことが、今のカンボジアでどれほど発展を阻害しているか。今はようやく平和を取り戻したベトナムもカンボジアもそういう意味では、植民地支配、太平洋戦争、戦後の冷戦構造の中で、大国からの戦禍を受け互いにも入り乱れて戦争をして来た。その傷跡がまだ十分癒えていない中で、懸命に這い上がろうとしているようにも見える。

 ホーチミン市では「戦争証跡博物館」を訪ねてみた。庭には戦利品のアメリカの戦車や戦闘機が並べられ、館内ではベトナム戦争時のアメリカ軍の残虐さを示す様々な写真、釘や金属片を入れた汚い爆弾などの実物などが並べられている。中でもベトナム全土に撒かれた「枯葉剤」の被害が痛々しい。後遺症によって多くの奇形が生まれている。
  そういう歴史を知ると、やはり「平和のありがたさ」を強く感じる。例えばハノイの観光名所の「文廟」で、女学生たちが華やかなアオザイの民族衣装をまとって記念写真を撮り合っている風景が実に貴重なものに見えて来る。過酷な歴史を経験した後で、ようやく取り戻した平和をゆったりと味わっている人々。その暮らしはハノイの旧市街に見るように、まだ歩道の地面から高くは飛躍出来ていないにしても、その平穏な暮らしこそが尊いものなのかもしれない。

◆そこに流れている民族の悠久の時間
 現在の背後にある、そうした過酷な歴史の流れを踏まえながらカンボジアの遺跡群を見ると、そこには一段と遥かで悠久な時間が流れているのを感じる。写真集などでは伝わらない膨大な石の量感にまず圧倒される。日本で言えば平安時代、10世紀から12世紀にかけての昔に、ここには世界有数の石造文化が花開いていた。長らく密林の中に埋もれて崩れていた、そうした遺跡の壁面には「東洋のモナリザ」とか「クメールの微笑み」などと言われる女神像や観音像が刻まれている。

 乾期に入ったとはいえ、蒸し暑さで汗だくになりながら、こうした遺跡群を見て回っている時の感覚がまた何とも言えない。夕暮れが迫る中、バンテアイ・スレイで「東洋のモナリザ」を見た時には、聞いたことのないような金属的な蝉の声があたり一面を支配していた。堀の水面に巨木と石造りの遺跡が姿を映している。その場所に流れている時間もまた、何と言ったらいいか、私の幼少の頃の田舎の原風景をさらに超えて、アジアの原初的な時空を思わせる。日本では味わえない、その独特の時間を表現するのは私にとっては難しい。本当は、もっと言葉の表現にこだわるべきなのだろうが、写真集が出来る位に写真を沢山撮って来たので次回からは出来るだけ写真で報告して行きたい。

上海空港に緊急着陸の巻き 12.11.13

 ベトナム・カンボジアのツアーから10日に帰国しました。旅は充分に印象深いものだったけれど、ツアーの初日に自分としては滅多にできない出来事を経験したので、その時の心境はさておき、事実関係だけを記憶が新鮮なうちに書いておこうと思います。

◆突然酸素マスクが
 11月4日、午前10時発のベトナム航空VN311便で成田からハノイに向って飛び立ち、3時間ほど過ぎた頃だった。私はうとうととしていたのだが、突然、何のアナウンスもなく機内の天井から一斉に酸素マスクがバラバラと落ちて来た。同行のM君に起こされて見ると、赤い民族衣装(アオザイ)姿の客室乗務員が慌てた様子で乗客に酸素マスクを口に当てるように言って歩いている。
 とっさには何が起きたのか分からずに、私は酸素マスクを口に当てたのだが、一向に酸素が出て来る気配がない(これは後日、チューブを強く引っ張らないと酸素が出ないことが分かった)。マスクを外して空気を確かめてみても息苦しいという感じはない。どうなっているのだろうと思っているうちに、機内に何か焦げ臭いも漂ってきた

 天井から何百本という透明なチューブが垂れ下がり、皆が不安そうに酸素マスクをつけている。何だか映画のワンシーンのような情景になって来た。カメラで機内の様子を撮り始める人も出て来る。一応、機体が安定して飛び続けているために大きな混乱はないのだが、乗客が落ち着かなくなってきた。いよいよ飛行機事故かと嫌な想像が頭をよぎる中、私たちも互いのマスク姿を撮影した。
 暫くすると、客室乗務員が今度は「酸素マスクを外していい」と言い始めた。飛行機が一気に高度を下げたためらしい。それからようやく「トラブルが発生したので、これから5分から7分後に、上海空港に緊急着陸します」と言うアナウンスがあった。

◆上海空港に緊急着陸
 幸いなことにトラブルが発生した時、私たちは中国の上海上空を飛んでいた。「気をつけて着陸します」というアナウンスの後、311便は本当にあっという間に、日本時間の午後1時20分、降りる予定のない上海浦東国際空港(写真)に緊急着陸した。聞けばパイロットはベトナム空軍上がりのベテランパイロットだそうで、案外スムーズな着陸だった。最悪の事態が避けられて、機内にほっとした空気が流れた。焦げ臭いにおいもいつの間にか消えていた。
 311便の機体に何が起きたのか。上空での最初の説明では「空調のトラブル」と言っていたが、その後は「技術的な不具合」という説明に変わっており、乗務員たちに聞いても正確なところは最後まで分からなかった(*)。
*ネットで調べてみると高高度(1万メートル前後)を飛ぶ飛行機には、空気の薄い外気より高めの気圧(2000メートル程度)を作るための「与圧装置」がついている。これが故障した場合は、当然のことながら酸素マスクが必要になる。同時に、飛行機は一気に3000メートル位まで降下して、酸素マスクがなくてもいいように対応する。これを「急減圧急降下」という。311便でも同じようなことが起こったのではないかと思う。

 しかし、着陸はあっという間だったが、その後が大変だった。 最初は「電源車が来るので、それを待っています」と言っていたが、電源車が来ても故障は治らなかったらしい。そこで、「ハノイから別の飛行機を飛ばして、それに乗り換えて頂きます」、「ハノイから上海までは3時間かかるのでそれまで、空港ターミナルビルに移動します」ということになった。
 しかし、機体はそのまま全く動かない。「中国側が乗客すべての名簿を出すよう要求しているので、現在作成中」や、「3時25分発(上海時間)の上海からハノイ行きに30席ほどの余裕があるので、マイレージのある方、優先される方に乗り換えてもらいます」などのアナウンスがあったが、乗客は200名を越えていることもあり、後部座席にいた私たちはハナから諦めていた。その時は、待機がこれほど長時間になるとは思っていなかったためもある。

◆機内に6時間閉じ込められる
 やがて、ハノイから来る飛行機には残った乗客全員は乗れないということが伝えられた。えらいことになった、と思っていたら「4時半(上海時間)のホーチミン行きに余裕があるので、ホーチミン経由でハノイに行かれる方を募集します」と言う。「30名がこの便に乗らないと積み残しが出てしまう」、「ホーチミン経由の方が早くハノイに着きます」というので、希望者や名前を呼ばれたものが急いで乗り換えることになった。
 私も一時名前を呼ばれたが、同行者がいるので断ろうと座席前方に向かうと、そこは混乱状態。出発を待たせているホーチミン行きに、乗客を大慌てで送りだしている。この状態では、荷物など積み替えている時間はないはずで、どうせハノイで荷物を待つならこのままの方がいいと思い、私たちは荷物とともに新しい機体を待ってハノイに直行することにした。幸いホーチミン経由の30名が確保でき、残り(171名)は全員が新しい便に乗れることになった。

 そんな騒ぎがあった後も、私たちは2時間近く機内に閉じ込められていた。対応の悪さに呆れ果てて「海に不時着して泳いでいるよりは、ましか」などと冗談を言っているうちに、ようやく中国側の許可が出たらしい。中国側係官の厳重な人数チェックを受けながら、大型バスで(これも3回に分けて移動するのに時間がかかった)、空港の一番端のターミナルに連れて行かれた。午後1時20分(日本時間)に着陸してから、すでに6時間が経過していた。やれやれである。

◆ターミナルビルで3時間、さらに機内に1時間。そしてようやくハノイに到着
 私たちが、集められたターミナルビルのゲートD228は一方が壁、片方には空港警察が7名ほど並んで監視している。中国側は、私たち乗客が勝手にターミナルビル内をうろつかないように、都合のいいターミナルビルの端っこを選んだのだろう。そこで、サンドイッチとバナナ、ジュースの弁当を貰い待機する。
 ハノイへの出発時間は始め午後7時10分と言っていたが、新しい搭乗券を発行してもらってハノイからの飛行機003便(写真、8時45分に上海に到着)に搭乗したのは午後9時半だった。結局、空港ターミナルの椅子で3時間過ごしたことになる。
 ところが、搭乗してからも「我々はスペシャル・フライトなので離陸許可に時間がかかっています」という機長のアナウンスがあり、離陸するまで機内でさらに1時間待たされる。午後10時半、ようやく上海国際空港を離陸。緊急着陸してから機内に6時間、空港ビルに3時間、機内に1時間、計10時間が経過していた

 私たちがベトナムの首都ハノイに到着したのは、日付が変わって午前0時半(日本時間午前2時半)。荷物も無事だった。心配した出迎えの方も、機内に閉じ込められている間にM君が東京の旅行会社に携帯で連絡をとってくれたおかげで、旅行会社は私たち2人のために臨時のガイドとドライバーを雇いあげてくれていた。その時、他の旅行会社に聞いた話では、ホーチミン経由で行った乗客の中にはハノイ行きの便に乗りきれずに、ついにホーチミンで泊まることになった人もいたらしい。私たちは旅程を一部入れ替えて、その後の旅を楽しむことが出来たのだが、それは案外間一髪のところだったとも言える。

◆私たちは「招かざる客」だったのか?
 ところで、緊急着陸時の対応として、上海での10時間が長いのか、短いのか、初めての経験なので私には分からない。11月4日は日曜日だった。警備体制を組むのに時間がかかったのは分かるとしても、一般乗客を6時間も機内に閉じ込めるのが適当だったのか。中には年寄りや子ども連れもいたのだから、もう少し乗客の精神状態や健康に配慮した対応があっても良かったのではないかと思う。同じ社会主義のベトナムと中国の間には、色々微妙な関係があるのかも知れず、また、乗客の殆どが日本人ということも関係したかもしれない。
 ただ、中国の空港警察がちょっとでも責任問題につながるようなことを避けようとしていたことは見ていて明らかだった。人数チェックにこだわり、これまでの搭乗券の半券と新しい搭乗券(パスポートも)を交換する際に、一枚数が合わないと言って警備責任者が大声で怒鳴り出す場面もあったからである。世界的な常識がどうなのかは分からないが、(難民と同じような)
「緊急着陸の乗客」は、受け入れた中国にとって、ある意味「招かざる客」だったのかもしれない

カンボジアとベトナムのツアー 12.10.28

 思い立って11月上旬、カンボジアのアンコールワット、アンコールトム、バンテアイ・スレイの各仏教寺院の遺跡を見に行くことにした。特にバンテアイ・スレイについては、何故か死ぬまでに一度行っておきたいという思いが強くなっていた。もう半世紀近くも前に読みふけったマルローの小説が、記憶の底から囁いたのかもしれない。このツアーではついでにベトナムも回る。

◆作家、マルローと日本とのつながり
 アンドレ・マルロー(1901-1976)は、日本でも大変ファンの多いフランスの作家だと思う。若い時から西洋と東洋の文明に興味を持ち、20世紀の時代的関心だった革命や反ファシズム運動に行動を持って参加。スペイン内戦時には共和国側を応援するために国際義勇兵として参戦したり、ナチのフランス占領に対しては反ファシズムのレジスタンス運動を展開したりした。
 激動の20世紀を通じて、行動する作家として状況に積極的に関りながら時代の精神を映す実存主義的な小説を次々と発表。それは、25歳の時の「西洋の誘惑」に始まり、「征服者たち」(27歳)、「王道」(29歳)、「人間の条件」(33歳、マルローはこれでゴンクール賞を受賞している)、「希望」(37歳。スペイン戦争の体験をもとに)、「アンテンブルクの胡桃の木」(38歳)と続く。これらは、現在にも読み継がれている小説群である。

 さらに、彼の「人間が死すべきものである時に、その死に抵抗して意味のあるものは何か」というテーマを発展させ、戦後は時を超越して残る美術や芸術に独自の芸術論を展開し、「空想の美術館」、「神々の変貌」、「東西美術論」、「芸術論」などを発表した。日本の絵画や彫刻についても強い関心を抱き、特に平安、鎌倉、室町の美術(藤原隆信作の源頼朝像や鎌倉彫刻など)に、独特の解釈と光を当てた。
 彼の関心は、美術にとどまらず日本文化の精神性、静謐(セレニテ)、武士道精神などにも広がり、日本文化の深い理解者となり、ドゴール政権下では文化担当大臣として日仏文化交流にも力を注ぐことになる。広島に原爆が落とされたわずか数日後に、マルローは「日本は、この戦争において、我々の敵ではあった。だが、その文明が世界でもっとも気高いものの一つであること、その文明の破壊は人類にとってもはや修復不可能の損失となるであろうとことを、決して忘れてはならない」というメッセージを発している。

◆小説「王道」
 こうしたマルローの小説や芸術論に、学生の私が親しむようになったきっかけが何だったのか、今となっては思い出せないが、当時はかなりの若者がマルローを読んでいたように思う。その頃に読んだ小説の一つに「王道」がある。今でいうカンボジアの奥深く、密林におおわれた寺院を探してそこから石像(女神像)を運び出して金に変えようとする小説だ。
 運命や死というものに対する共通の感じ方で結びついたクロードとペルカンという2人の主人公が、水牛の荷車を引き連れながら密林に覆われた、かつての「王道」をたどりながら寺院の遺跡にたどり着く。そこで苦労の末に石像を手に入れるが、その帰りに2人は番族(未帰順部族)に捉えられ、脱出の際にペルカンが致命的な重傷を負ってしまう。

 実際のマルローは22歳の時、今のカンボジアの密林に入って仏教寺院の遺跡「バンテアイ・スレイ」を発見し、そこから石像を運び出そうとして現地警察に捕まり、有罪判決(その後、嘆願運動によって釈放)を受けている。「王道」はその時の経験が下敷きになった小説だが、そこに書かれているテーマは、そうした冒険小説的色彩もさることながら、マルローの生涯のテーマである「死に対する抵抗」についてである。
 死すべき存在であることを強く意識した2人の主人公が、何故そういう危険な賭けに身をさらすのか。そしてついには番族(未帰順部族)との交錯の中で傷ついたペルカンが、死にゆく己を見続ける中で何を思うのか。友の死を見つめるクロードは何を思うのか、が情緒を排した硬質な文章で書かれている。

◆2冊の「王道」
 ツアーでカンボジアに行くにあたって、私は書棚から学生の頃に読んだ「王道」(小松清訳)を引っ張り出して読み直そうとした。しかし、何分この本は昭和28年に発行された古本で、旧漢字だし、字もすごく小さい。若い頃には読めたものが、今は老眼鏡をかけても辛うじて判読できる程度にしかならない。そこで、別の文庫本(2000年発行、渡辺淳訳)をアマゾンで取り寄せて読み始めたのだが、この訳が今一つピンとこない。通俗的な冒険小説風になっていて、マルローが書こうとした「死」についての思索が真に迫ってこないのだ。以下、小説の最後で主人公の一人のペルカン(渡辺訳ではペルケン)が死ぬ時の3行を比較してみる。

<小松清訳>
…ペルカンの唇がわずかに開いた。「死など…ないのだ。ただ俺だけが…」
腿(もも)のうえに彼の指が痙攣(ひきつっ)た。
「…ただ俺だけが死んでゆくのだ…」
<渡辺淳訳>
唇が半ば開いていた。「ないさ…死なんて…ただあるのは…おれ…」
一本の指が腿(もも)の上でひきつった。
「…このおれが…死んでいく…」

 それぞれだが、やはりここは大事なところで、ペルカンは世間一般にある死の概念に自分の死が抱きとられるのを拒否して、行動の果てに自分が選びとることになった死を一つの行為として死ぬ、ということにこだわっている。従って、私としては小松清の訳の方がしっくり来る。原典に当たっていない素人が軽々に言う所ではないが、小松清は戦前戦後を通してマルローと極めて熱い友情と信頼関係を築いてきた人物で、マルローの小説から芸術論までを初めて日本に紹介した人だけに、マルローの思想の根底に通じていたのだろうと思う。

◆マルローと小松清の稀有な友情
 ちなみに、小松清とマルローの交友については伝記「小松清 ヒューマニストの肖像」(白亜書房)に詳しい。そこには小松とマルローの膨大な往復書簡が収められているが、これを見ると日本にマルローファンが生まれたのは実に小松によるところが大きいということが良く分かる。
 彼らが知りあうのは戦前のパリ。マルローと小松清の肝胆相照らす交友は、2人が共に30歳頃に始まり生涯続いた。小松清は若くして日本を飛び出した芸術家で、絵を描き、小説やルポを書き、翻訳もこなし、戦後の日本ペンクラブの中でも重要な働きをした。戦争や革命、独立運動など激動の時代にあって、生涯変わらずに続いた2人の友情は稀有なものに思えるが、その往復書簡からは互いの細やかな心遣いが痛いほど伝わってくる。

 今回、「小松清」を読んで初めて知ったが、戦前、小松は日本での言論活動で投獄され、その後は終戦間際に特高の目を逃れるためにベトナムにいて終戦直後のベトナム独立運動を支援していた。小松もまたマルローと同様の行動する作家だった。
 小松がベトナムで活動していた頃から既に70年、さらにマルローがインドネシアで特異な経験をしていたころからは90年が経っている。
若いマルローがこだわった「死」のテーマについて、学生の頃は「確かに実存的な死とはそういうものか」と頭の中では共鳴するところもあったが、この歳になると、また考えが違って来ているはずだ。
 それについては、また「風の日めくり」の中でおいおい考えて行くとして、ベトナムとカンボジアを訪ねる今回のツアーでは、2人の
知の巨人たちの友情に多少とも思いを馳せたいと思う。ただ、今やどちらもすっかり観光地化していて、とてもそんな雰囲気はないかもしれない。果たしてどうだろうか。