これから、定年後の「未知との遭遇」を、体と心の両面から順次書いていく予定だが、その前に 少しだけ、心と体の両方にまたがる領域について俯瞰的に書いておきたい。
というのも、このコーナーではできるだけ微細に自分の心と体の変化について観察し、記録 しようと思っているので、時には老後と言う大きな森の中で道に迷うようなこともあるだろうと
思う。従って、時々森の上空にまで飛翔して自分がどの辺をさまよっているのか俯瞰する作業も 必要になると思うからだ。
◆体における「未知との遭遇」
定年後2年たったが、私の場合、その前後から実に様々な異変が自分の体におき始めた。 それは、おそらく女性の更年期障害にあたるようなものかもしれない。しかし、女性の場合は
ホルモンの関係だから一定の期間が過ぎれば安定するのかもしれないが、男性の場合はどうなの だろう。老化による非可逆的な現象なのか、あるいはこの先改善が期待できるのか、それも良く
分からない。
ささいな例を一つ。ある夜中目が覚めたら、水道管の中を水が流れるような、シーンという 金属的な高い音が聞こえていた。 音は耳をふさいでもなくならない。気にし始めると余計気になる。
耳の中からか、あるいは脳の 中から聞こえてくるようだ。何か異様なことが自分に起きているのではないかとうろたえて、 一人布団の周りをうろうろする。
以来、ずっとこのシーンという金属音は続いている。 老化現象の一つである「耳鳴り」が始まったときのショックについては、かの石原慎太郎氏も
書いている(「老いてこそ人生」)。
やがて、耳鳴り患者は全国に六百万人もいて、耳鳴り患者専用のホームページまであることが、 分かってきた。 耳鳴りは、高血圧が原因の場合、くも膜下出血のサインであったり、気になり始めると初老性
うつ病の引き金になったりするという。それが原因で自殺する人までいるらしい。 「耳の中にセミを 1匹飼っていると思えばいい」、なんて慰めにもならない意見もある。
その後の経過については、いずれ詳しく書いていきたいが、このように「ある日突然やって きて、その先が読めない」というのが老化現象の特徴である。これは「未知との遭遇」に違いない。
何しろ当初は、この症状がこの先どう変化していくのか、全く分からず、それがまた種々の妄想と 不安をかきたてる。
◆心における「未知との遭遇」
さて、老化にともなう身体の異変は、初めて体験する「未知との遭遇」に違いないが、そのとき 「心」の方はどうなっていくのか。
養老孟司氏の言うところによれば、人間は文明の進展とともに、自分の脳のように環境を作り 変えてきた。これを脳化といい、脳化の最たるものが都市である。人間は都市という人工空間を
自分の脳に合わせて拡大する一方、邪魔になる自然を消そうとしてきた。このとき自然の一部で ある身体(からだ)についても、社会の見えないところに追いやった。
江戸時代以来進行している脳化の大きな代償が身体の消失だという(「日本人の身体観」)。
というわけで、日本人は普段、死体、病人、高齢者、あるいは交通事故、暴力行為などの 生の身体を見ないで生きている。それを隠す社会になっているからだ。
(このことが、脳死問題をはじめとする様々な社会問題を混乱させる原因にもなっていると彼は 言うが、それはここでは別問題。)
さて、社会における以上のような身体の消失は、個人の身体観にも影を落としていないだろうか。 もちろん各人それぞれの自然体験、身体体験の差でその感覚も違ってくるだろう。
私の場合はこれまで大きな病気も手術もせずに来た。たまの病気もすぐに回復する類のもの だった。これは世の多くの人々も同様ではないだろうか。
社会全体が生身の身体を隠す脳化社会の中で、そういう個人が身体に関心を持つことはまれで ある。私も自分の身体(からだ)のことなどあまり意識せずに生きて来た。 その私が、これから回復のあまり望めない様々な老化現象に死ぬまで付き合うことになる。
個人の レベルでいえば、それはある意味、これまで自分の脳化傾向の中で無視してきた身体の側からの 反乱である。やがて自分の死という具体的な身体変化も否応なく視野に入ってくるだろう。
◆心のソフトランディングをどう果たす?
そのとき、こころは自分の身体とどのように折り合っていけばいいのだろうか。毎年多数の人が 死んでいるのだから、これはまさに普遍的な問題に違いないが、いかんせんこうした生身の身体的
テーマは今の社会で隠されている。具体的な病気を抱えた個々人の孤独な思索になるのだろうし、その思索は症状によって様相も違って来るだろう。
しかし、以上見てきたところから、あえて一般論で言えば、これはこれまで無視してきた自分の 身体の反乱という「未知との遭遇」の中で、身体と心の折り合いをどうつけていくのか、心の
ソフトランディングをどう果たすのか、というテーマなのかもしれない。 また別な言い方で言えば、心が身体的な老いや死をどう受け入れていくのか、というテーマなのかも
しれない。
インターネットで発信していく以上、この「定年後の体と心」は、単に年寄りの病気自慢と繰言に ならないように、時には老後という森の迷路から上空に飛翔して、それが普遍的なテーマなのか
どうか、検証しながら進んでいくようにしたい。
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