日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

日本は変われるか 07.12.31
今年のキーワード
 今年も残り僅かとなった。年末らしく今年の「時代の風」を振り返ってみたい。
 今年の世相を漢字一字で表現する
「今年の漢字」は、食品表示や賞味期限などの偽装事件を反映して、「偽(にせ)」と言う文字になったが、一字に限らずに今年、世を賑わした様々な言葉を上げてみるとどうなるだろうか。

 国際的には「地球温暖化」、「原油高」、「バイオエネルギー」、「サブプライムローン」。国内的には「(地方と都市の、あるいは勝ち組と負け組の)格差」、「テロ特措法」、「ワーキングプア」、「生活保護費」、「財政再建」、「特殊法人見直し」、「年金」、「薬害訴訟」、「防衛省汚職」、「偽装表示問題」などなど。
 さて今回は、これらの言葉の背景にある文脈を探りつつ、来年のゆくえを占ってみたい。

「テロとの戦い」から「エネルギー覇権」へ
 まず、国際的な動き。今年の特徴の一つは「地球規模で進行する市場原理主義(グローバリズム)」のお陰で巨大化した国際資本が猛威を振るい始める一方で、それが地球温暖化問題と絡んで奇妙な動きを見せ始めてきたことにある。
 結論を言えば、「テロとの戦い」という命題だけで国際社会を見ている時代は過ぎて、その陰に隠れていた「エネルギーを舞台にした国際資本」の動向が世界を解く鍵になりつつある、ということかもしれない。

巨大化する世界資本
 現在、国際資本(いわゆるヘッジファンドというものか)は飽くなき利益を求めて毎日莫大なお金を動かしている。国境を越えて動いているその資金量は、最近の原油高を背景に一説に500兆円にまで膨らんでいるという。ちょっとピンと来ないが日本の国の予算が80兆円だから、およそ6倍もの資金が少しでも有利な投資先を求めて世界市場を流動している。
 今年は、そのお金がアメリカのサブプライムローン問題の影響で値下がり傾向の株式市場から、値上がりの期待できるエネルギー市場に流れ込んでいるらしい。

 一つは原油の先物買い。もう一つは、地球温暖化時代の新しいエネルギー源として注目されているバイオマス(とうもろこし)の先物買いだ。そのために、世界的な原油高に加えて、異常な小麦高やとうもろこし不足を引きこしている
 小麦やとうもろこしの畑がバイオエネルギーのためのバイオマス畑に転換されて、人間や家畜の食料に回らなくなったためだ。

 困ったことに、アブダビやロシアといった産油国にはじゃぶじゃぶとお金が流れ込んでいて、その余った資金がまた原油やバイオマスのエネルギー市場につぎ込まれ、値上がりに拍車をかけている。
 私ら庶民にはちょっと想像がつかない世界だが、巨大になり、影響も大きい国際資本の動きを、皆が困るからと言ってコントロールしようとする者はいない。コントロールしようにもできないのが現実らしい。

内向きの日本
 こうした動きが長い目で見て私たちに何をもたらすのかはまだ良く分からない。原油高にうるおうロシアや南米の国々が国際的発言力を強める中、世界はどう変わるのか、またエネルギーの高騰が地球温暖化問題にどう影響するのか、長期的なことは分からない。

 しかし、心配なのは日本がこうした動きから全く取り残されているということ。むしろ、今の日本はこうした世界的な潮流に目を向けることなく、アメリカにすべての判断を任せて、内向きな問題に精一杯な状況に見える。
 今の日本は、(今ではそれ程重要な意味を持たなくなった)「テロ特措法」を巡って政治がにっちもさっちも動かない状況で、国際的な主導権を取ることも出来ず、その影響をただただじっと耐えるしかない様に見える。

グローバリズムと日本の改革
 ところで、日本にとってグローバリズムとは何だろうか。経済のグローバリズムに適応しようとした小泉改革の結果、日本には3つのレベルが生じていると思う。
 一つは、企業。小泉改革によって多くの倒産も出したが、不良債権の処理を含めて企業の国際競争力を持たせると言う改革は一応成功したように見える。(ただ、大企業と日本の大多数を占める中小企業とでは少し状況が違っているとは思うけれど。)

 二つ目は、少子高齢化という二重苦の中でグローバリズムに適応しようとして適応不全を起こしている分野。効率性を追求し、予算を削った結果、社会の発展から取り残された地方、弱者が悲惨なことになっている。
 これがキーワードであげた「格差」、「ワーキングプア」、「生活保護費問題」などなど、改革の影の部分である。
 これを是正して日本社会を安定させるには、できるだけ光の恩恵に浴する企業や層から影の部分に廻さなければならないが、この対策はまだ絶対的に遅れている。

 さらに問題なのは三つ目の部分である。それは、改革に抵抗して脱皮しないまま相変わらずぬくぬくと生きている日本の行政機構、官僚機構である。
 それは利権、無責任、非効率の温床で、先にあげた「特殊法人見直し」、「年金問題」、「薬害肝炎訴訟」、「防衛省汚職」などの問題となって噴出している。
 行財政改革と一口に言うが、経済のグローバリズムは日本を直撃しているのでこの行政機構、官僚機構を解決しないで日本が世界に伍していけるはずがない。明治以来の政府・官僚機構を真に国民のニーズに対応した組織・機能に生まれ変わらせることが出来るかどうか。

 今は誰も出来そうにないように見えるが、国民の不満は高まっている。国民はこれを日本の制度疲労が極限にきた状況と見ている。従って、誰がこれをやるかが、次の政権選択の重要な指標となってきているのではないか。

日本は変われるか
 さて、日本が内向きな問題に時間を浪費しているのとは無関係に国際的な変化の波は否応なく日本を直撃する。さし当たって年明けには、原油高の影響で食品、加工品など様々なものが軒並み値上がりしそうだ。
 明治以来の官僚制度や政治風土の金属疲労のために、身動きが取れない日本。世界の動き、日本の諸問題に機敏に対応するために日本は変われるか。

 今年初めに「今年は地球温暖化問題の岐路年になる」と書いたが、来年は「日本の制度疲労に変化が起こる年」と思う。答えが出るのは間近なような気もするが、それがいい変化であるよう祈りたい。
政策の対立軸とは 07.9.30

 安倍辞任後、自民党は総裁に福田を選び一時(いっとき)の落ち着きを得ようとしている。しかし、安倍から福田になって自民党はどう変わろうとしているのだろうか。
 現時点での単なる印象に過ぎないけれど、個々の議員の思惑は別として総体として自民党総裁の選択に働いた力学はおおよそ次のようなものだろう。

自民党の選択
 一つには若い安倍首相と彼の同世代の執行部(お友達内閣などと言われた)が危機管理で不手際を連発し危なっかしいという印象があったのを、各派閥の領袖を取り込んだ派閥横断的な政権に変えることによって安定感を求めたこと。

 二つ目は、生みの親の小泉に遠慮して小泉改革の行き過ぎに的確な対応の出来なかった安倍に対して、福田を選ぶことによって改革も進める一方で格差是正や地方再生にも取り組むという若干の路線修正を図ろうとしたこと(この点では麻生も同じだったが、麻生の場合は小泉、安倍との連続性が裏目に出た)。

 三つ目は、憲法改正、教育基本法の改正、公務員制度改正といった性急なタカ派的改革を進める安倍に対して、タカ派色を薄めると同時に官僚との協調路線に戻る選択をしたこと。

政局と政策立案能力
 以上の選択は、これまでも自民党の中で繰り返されてきた振り子作用(あるいは復元作用)の一つに過ぎない。しかし、こうした首の挿げ替えだけで自民党が直面している難問を乗り越えられるかどうかは極めて不透明だ。
 自民党は古い体質から脱却し生まれ変われるか、そして小泉によって壊された自民党の支持基盤を再構築できるか。自己改革をしない限り、福田政権の前途は多難だろう。

 他方、衆参のねじれ現象という状況がある。政局はいよいよ総選挙をにらみながら、与野党の「政策を巡るつばぜり合い」に入る。活発な議論が展開されるなら、それはそれで国民にとっては結構なことだと思う。
 そして、そんな中でますます大事になってきたのが、政党の政策立案能力ではないだろうか。つまり、21世紀の日本をどういう方向にもって行くのか、「日本国のグランドデザイン」を国民に分かりやすく提示する能力が問われていると言うことだ。

政策の5つの対立軸
 と言うわけで、「政党の役割」で私が勝手にあげた三つの役割(*)のうち、「国の基本的政策について国民に分かりやすい選択肢を提供してくれること」はとても今日的なテーマだと言える。
 国の基本政策で政党間の違い(「政策の対立軸」)が明確になれば、来るべき総選挙において国民の政権選択に重要な判断材料となるはずだから。

 取り上げるべき国の基本的政策については、別に5つに絞るのが専売特許ではないが、今回も覚えやすいように5つに絞ってみた。(他にも大事なテーマがあるかもしれないけど)
 21世紀にも元気で平和な日本を作るために何をするかが、ポイントだ。

@ 「日本を再び戦争に向かわせない、平和を守るための外交、防衛政策」
A 「生活に密着した問題(年金、格差、食糧、防災、教育など)で安心・安全のネットを構築
  する政策」

B 「地球温暖化を防ぎ、美しい国土と自然を残すための環境・エネルギー政策」
C 「中央集権の官僚国家から脱皮して地域の活性化をめざす地方分権政策」
D 「次世代にツケを残さないために財政再建をめざす経済、財政政策」

何を優先するか
 これらの五つのテーマは、もちろんそれぞれに独立しているわけではない。例えば温暖化防止も地方分権も財政再建も経済政策に関係してくる。
 だが今の時代、政策とは何を優先するかと言う問題でもある。総花的というのは経済が右肩上がりだった昔の話。そこを間違うと(もう国民はだまされないと思うが)借金の山を築いた昔の「ばら撒き行政」に戻ってしまう。
 限れられた資源で最大効果を発揮するには、国のあり方にも改革のメスを入れなければならないだろう。そこを避けずにやり切れるかどうかだ。

 さて、上に上げた5つの基本政策では、政党によってどういう方法論の違いがあるのか。政策の対立軸(例えば@では、国連中心主義とアメリカとの軍事同盟主義との違いなど)については若干の説明が要るだろうが、長くなったので次回以降に廻したい。

安倍辞任の本質 07.9.16

 政党の役割について続きを書こうと思っていたら、12日に突然安倍首相が辞任、政局は新たな展開を見せている。これによって書こうとしていた内容が変わるわけではないが、ちょっと寄り道したくなった。
 安倍の政権投げ出しついては様々な原因が取り沙汰されているが、その根底には、次回に取り上げようとした「政策の選定と実行力」というテーマにも関わる、「もっと本質的な原因」があったように思うのだ。

理念先行の政治家
 ご存知の「美しい国」とか「戦後レジームからの脱却」は、いうまでもなく単なる政治スローガン。それだけで独立して存在するものではない。
 スローガンとは、まず具体的な政治課題があって、それを一つ一つ成し遂げていく先に見えるイメージをキャッチコピー風に表現したものだ。
 普通、為政者は持ち前の時代感覚で取り上げるべき政治課題を選ぶ。それらを包括するスローガンには当然、彼の歴史観や価値観が反映されていいわけだが、安倍の場合はこうした順序がこれまでの政治家と逆だったのではないか。

 安倍の場合はまず、「戦後レジームからの脱却」という政治信条(価値観、美学と言ってもいい)が先行したように思う。
 発想の背景には教育現場の荒廃、伝統的価値観の崩壊、自立していない国防といった戦後日本の現状に対する憂慮があったのだろう。しかし、「戦後レジームからの脱却」という言葉は文脈から、その本質は彼の祖父(岸信介)らが持っていた価値観、すなわち「戦前の保守主義的価値観」への回帰のように見えてしまう。(今回、彼の「美しい国へ」をぱらぱら読み直してみたが彼は「開かれた保守主義」といっているけど)

 本当のところ「戦後レジームからの脱却」が何なのか、明確な説明がないので良く分からないが、彼はそうした保守主義の理念の実現に使命感を抱いたのだろう。結果、取り上げた政治課題は「憲法改正」、「教育基本法の改正」などなどの、大テーマのオンパレードになってしまった。
 別に大テーマを取り上げるのが悪いわけではないが、理念先行の政治課題が国民の関心事と必ずしも一致するとは限らない。まして、世情に疎いのでは(使命感だけが空回りして)、「年金」、「格差」など生活に直結する国民の関心事からずれていくのは当然の帰結だった。

政治手順が分からない
 安倍の理念先行の政治にはもう一つ、政治手法(民主政治の手順)を軽視するという欠陥があった。それは「教育基本法の改正」、憲法改正の布石となる「国民投票法案」などの強行採決の連発にも現れている。
 本人は使命感に燃えてやっているのだろうが、教育も憲法ももう何十年も前から言われてきた国論を二分するような大テーマである。実現するには、それなりの緻密な手順と言うものが必要なはずだ。
 充分時間をかけて議論して出来るだけ多くの人が賛成するような法案に持っていくのが本筋である。

 台湾の元総統、李登輝氏は台湾の民主化を成し遂げた老練な政治家だが、その著「台湾の主張」の中で「政治の資源は時間である。『時を待つ』ことが大切なのだ。」と言っている。大事をなすには、時間がかかっても細かい手順をおろそかにしてはいけない、ということだろう。
 しかし、安倍の場合は政治的に未熟で、こうした具体的な手順が見えなかったのではないか。政治家としての資質に欠けていたと言わざるを得ない。

せめてもの救い
 同時に、大きな政治課題ばかりにとらわれて、目の前に迫っている危機(格差や年金問題)が見えなかったのが致命傷になった。政治家は遠くの理想を追いつつも目の前の政治課題が現実的に見えてなければ国民の支持を得られず、苦境を乗り切って行くことは出来ない。

 7月29日の参院選挙で大敗したのに続投を決めたのは、使命感にとらわれて目の前の現実が素直に見られなかったため。
 そして今回、彼が目の前の苦境を前にして意外にもろかったのは、あるのは使命感だけで、苦境を乗り越えるための具体策が何一つ見えなかったためではないか。
 政治的資質を欠いた指導者は国に大きな損害を与える可能性があるが、まあこうしてみると在任期間が短かったことがせめてもの救いだったかもしれない。

スローガン政治の危険性
 今の政治は、具体的な政策を示さないままに耳障りのいいスローガンを前面に打ち出す。国民もそれに引きずられて人気だけで動かされてしまう。(「小さな政府の落とし穴」)今回の辞任劇は、それを許した自民党、マスコミ、国民の責任でもある。

 ということで、前から言っているように政治は「政策とその実行力」である。今回は思わぬことがおきたのでちょっと寄り道してみたが、次回は「政党の役割(政策の対立軸)」を書きたい。 

政党の自己改革 07.9.9

 前原民主党が偽メール事件に巻き込まれてガタガタになっていたのは、去年の3月。一方の自民党も敵失にあぐらをかいて緊張感のない国会運営を続けていた。(その時は納税者の立場から、うんと怒りを込めて「政党・国民にとっての役割とは?」を書いたが)
 あれからわずか一年半。その間、郵政民営化の衆院選挙で小泉自民党が大勝、今度はその後を受けた安倍政権がガタガタになり、小沢民主党が参院選挙で大躍進。民主党の悲願だった政権交代が俄かに現実味を帯びてきた。

国民が政党に求めるもの
  しかし、時代は動こうとしているのに、肝心の政治はというと旧態依然の体質からなかなか脱皮できないでいる。私に言わせれば、この1、2年の流れを見ていると民意が政治に突きつけているメッセージが明瞭に浮かび上がってくるように思えるのだが。
 どの政党が民意を受け止めて自己改革を成し遂げられるか、その敏感さとスピードが政党の命運を決める時代に入ったと言えるのではないか。

 政党の自己改革を占う視点として、以前にも書いたが、国民が求める「政党の役割」を重要な次の3点に絞って考えたい。
第一に
「国の基本的政策について国民に分かりやすい選択肢を提供してくれること」
第二に
権力は必ず腐敗するから、自浄能力、とりわけ政治と金についての透明性を
     確保すること」

第三に
「人材確保と政策の実行力」
 第一と第三については次回に廻して、今回は今問題の「政治と金」について少し書いておきたい。この点だけを見ても、今の政治が如何に民意に対して鈍感かが分かるからだ。

政治と金
 今は日本の国家財政が借金まみれであることを誰でも知っている。財政再建が叫ばれているときに、またそのための増税が見え隠れしている時に、政官財の癒着による税金の無駄使い、或いは政治家のごまかしによる税金の無駄使いを一円たりとも国民は許さなくなっている。

 今、「政治資金規正法」の一部改正でも「一円単位で報告する」と言う規定を盛り込むかどうかでもめているが、こんなことに異議を唱える方がおかしい。
 「一円や百円の領収書がもらえるか」というが、そんな低額なものは領収書が何百枚あっても1万円にもならないのだから仮に領収書がもらえないのであれば、政治家が自己負担すればいい。

 政治家が政治資金の透明化に反対する裏には、貰った政治資金は自分の金として、できるだけ自由に他人に知られないように使いたいという遅れた感覚があるのではないか。
 しかし、政治資金規正法は政治活動の公明と公正を確保するために作られた法律である。また一方で政治家は税金から多額の政党助成金を得ている。
 従って、その活動資金については、例えそれが国民からの浄財(政治資金)であっても税金であっても、使途報告は一円単位まで行うのは今や世間の常識であって、それが義務なのである。

政治家の時代遅れの特権意識
 政治家は莫大な国税の使途を決める力を持つ。税金を廻して貰いたい連中から「先生」などと呼ばれているうちに、よほど目をぱっちり覚ませていないと国民が頼んだ覚えもない変な権力意識、特権意識を持ってしまう。
 しかし、政治家は国民がのぞむ政策を実行してもらうために機能として選んだ人々である。そこのところを履き違えて、付託以上の特権が許されると思い込んでいる政治家は、主権者意識が強くなっている国民から見ると、それだけでもう民意から離れているのだ。

 そういう政治家は(役人もだが)、必ず問題を起こす。他人の恨みをかうことが多いために、内部告発などがきっかけでその所業が天下にさらされる。そうすると、(なんとか還元水もそうだったが)言い訳を聞いているだけで笑ってしまうような遅れた意識の持ち主であることがはっきり見えてしまう。
 政党自体もそうである。そういう遅れた体質を抱えていると見られただけで、生き残りが図れない時代になっている。

 安倍首相は日本経済のグローバル化についてしきりに改革の続行と言っているが、一連の「政治と金」問題は、それ以上に必要な改革が政治家たちの足元に迫っていることを示しているのではないか。
 「政治と金」の問題は21世紀へ向けて先進的な民主政治を確立する試金石。国民は今、どの政党が抜本的な改革に目覚めるのか、総選挙の予感の中で「
てぐすねひいて」見ているのだと思う。(この項、終り)

次回予告(政策の対立軸)
 さて次回は、政党の役割の第一「国の基本的政策について国民に分かりやすい選択肢を提供してくれること」について考えてみたい。

 国の基本的政策を明確にすることは、2つに意味で重要である。一つは、日本の将来についての政策に国民の関心を引き付け、政治を国民に近づける大事な要素になるから。
 もう一つは、政党間で考え方の違いが明確になれば、それが「政策の対立軸」となって、私たち国民が政権選択をする際の重要な判断材料となるからである。

敗北を抱きしめて 07.4.24

  ちょっと前、話題が天皇の戦争責任の問題になったとき、ある先輩が「君はジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」を読んだ?僕はあれが一番良く書いていると思うけどなあ」と言う。
 私は「昭和史」(半藤一利)を読んで、あれだけ戦争をしたくなかった天皇を軍部や政治家がよってたかってだまして戦争を始めさせた経緯を見ると、その責任を問うのは人情として忍びないと思っていたのだが、歴史に詳しい先輩が言うことなので反論せず、まずは読んでみる事にした。

今に引きずる政治的テーマ
 「敗北を抱きしめて(上下)」は、アメリカの歴史家で日本の戦後史研究家でもあるジョン・ダワー(MIT教授)が2001年に出版。ピュリッツァー賞など数々の賞を受賞した。冒頭の「謝辞」を見ると、著作に協力した人々の名が多数並べられており、この本が殆どプロジェクトのような状況で成立したことが分かる。膨大な資料をもとに事実を積み重ねて書いた、上下800頁あまりのこの本を読むと、学者と言うのは大したものだと改めて思う。

 さて内容だが、この本は「今の日本がいまだに問題を引きずっている大きな政治的テーマ」について、占領下の日本で何があったのかを詳細に書いている。その一つは、A級戦犯を裁いた「東京裁判と天皇の戦争責任」問題、もう一つは安倍首相がその改正にこだわっている「新憲法制定」である。これらは、当時のGHQが「日本の古い国家体制を破壊して、2度と戦争の出来ない新たな民主政体を作る」という政治的意図のもとに、半ば強制的に決着を図っただけに、以後も何かと議論がくすぶり続けているテーマである。

東京裁判とA級戦犯
 「東京裁判」では、一番被害を受けた中国や韓国が裁判に加わっていない公平性の問題や、戦後に登場した「平和に対する罪」といった法律で裁くという法的根拠の問題が指摘されている。しかし、さらに問題なのは、当時のGHQ(マッカーサー司令部)が、天皇の戦争責任を不問にするという政治的判断を下して裁判に様々な圧力をかけた結果、A級戦犯の性格がきわめてあいまいになってしまったことだろう彼らは、無謀で愚かな戦争を指導して自国民とアジア諸国民に莫大な損害を与えた文字通りの犯罪者なのか、それとも戦争の勝者が敗者に対して行った国際的政治ショーのいけにえなのか、あるいは天皇に戦争責任が及ぶことを防ぐために盾となって死んだ殉教者なのか。

考える機会を失ったつけ
 A級戦犯については、彼らを合祀した靖国神社への首相参拝を巡って今も国論が分かれ、海外からの非難にも対応が揺れている。その原因の一つは、当時のGHQが天皇の戦争責任問題に波及することを恐れて、あの戦争についての議論や事実を戦後7年間も封じ込めたことにあるのではないか。日本国民は戦争の悲惨さや残酷さについて、まだ生々しい記憶が残っている戦後のホットな時期に、戦争の本質について充分議論し解明する機会を、永久に失ってしまったのである。同時に占領が続いた7年間、日本の旧勢力もGHQのそうした方針に便乗した。今の日本で戦争と平和の問題を考える時、この覆すことの出来ない歴史的現実をどう生かしていくのか。

◆新憲法制定についての問題
 さらには「新憲法制定」についての問題である。「敗北を抱きしめて」では、下巻430ページのうち、86ページを新しい憲法制定の経緯に割いている。1947年5月3日に施行された日本国憲法は従来、「GHQ(連合国軍総司令部)によるお仕着せ憲法」とか、「たった一週間で作られた」とか言われて、憲法見直し派の口実となってきた。 しかし、その経緯を読んで見るとそうした表面的な言いがかりが当を得ているとは思えない実態があったことが分かる。

制定経緯のポイント
 つい最近(4月29日)のNHKスペシャル「日本国憲法誕生」でもその制定の経緯が放送されたが、ワシントンの「極東委員会」での議論が詳しくなっているだけで、基本的には「敗北を抱きしめて」と同じ内容である。大体これが現時点での定説なのだろう。憲法制定の経緯についてのポイントは幾つかあると思うが、その主な点は次のようなものだと思う。

GHQのお仕着せ?
 一つは「主権在民」、「象徴天皇制」、「戦争放棄」、「基本的人権」などの新憲法の基本理念が「GHQによるお仕着せだった」という点。これはある意味当たっているが、一方でそうならざるを得ない理由もあった。
 GHQは終戦から2ヶ月も経っていない段階で、日本の軍国主義、封建主義を根底から解体して日本に民主主義を根付かせるためには、大日本帝国憲法(明治憲法)を廃止して新憲法を制定すべきだと判断、日本側にもその検討を促していた。これに対して日本政府は憲法問題調査会(松本委員会)を設けて検討を始めたのだが、その内容がいかにも時代遅れだったのである。

 憲法改正の動きが伝えられると、日本では12もの団体やグループが次々と独自の憲法草案を発表した。中には今の憲法に近い「象徴的天皇制」、「言論の自由」、「男女平等」といった新しい理念の提案も含まれていて、GHQも注意深く見守っていたという。しかし肝心の調査会はそうした動きに全く無関心で、天皇が絶対君主として政治・軍事のすべてを統括するという「明治憲法の基本的精神」を何とか維持しようと独りよがりな努力を続けていた。すなわち、天皇条項を「神聖」から「至尊」に変えるなどの、10程度の修正で切り抜けようとしてGHQに見放され、GHQが独自に憲法草案を作るという動きにつながったのである。

 「GHQのお仕着せ」とはいうが、こうした経緯をみると、政府の委員たちの方こそ世界情勢や国民の意向からかけ離れており、古い考えに囚われた政府委員会には新しい日本を作るという発想も能力もなかったことが分かる。

議論の時間は足りなかった?
 二つ目は、憲法が「たった一週間で作られた」という点。確かにGHQによる草案作成作業は1946年2月4日に始まり、6日後の2月10日にマッカーサーに手渡され、2月13日に日本側に伝えられた。GHQがこれだけ草案作成を急いだのは、ソビエトや中国を含む11カ国が参加した「極東委員会」の動きを警戒したからである。「極東委員会」を構成する国の間では、天皇の戦争責任を追求すべきだと言う不穏な空気が漂い始めていた。
 これに対し、マッカーサーは2月下旬に予定される「極東委員会」の発足前に何としても民主的な憲法を制定して、天皇の責任追及の矛先を和らげようとしたのだという。GHQの占領政策をスムーズに行うためには天皇制の維持が欠かせないというのがマッカーサーの政治的判断だったからである。

 しかし、誕生は一週間だったが議論の時間はたっぷりあったように思う。3月6日に国民に公表されてから、6月20日には国会が召集されて議論が始まり、「義務教育の延長」や「国民の生存権」、「戦争放棄条項の修正」など、様々な修正や追加が行われた。これらはもちろんGHQの承認が必要だったが、公表から8ヵ月後の11月3日に新憲法は大々的に公布され、半年後の1947年5月3日に施行された。

憲法は国の骨格
 それから今年で60年。日本国憲法はその理念に沿って新しい日本の骨格を作ってきた。当然のことのようだが、私はこのことに改めて感心する。主権を国民に置き(主権在民)、天皇を象徴として政治から切り離したこと、中学までの義務教育の延長、男女同権などは、国民にとってもう後戻りの出来ない常識になっている。修正の過程で、自衛力の保持は許されるのか、自衛のための戦争は許されるのかといった、あいまいさを残した第9条「戦争の放棄」も、何とか踏ん張って戦争の抑止力の働きを果たしてきたと言える。

憲法改正に際して
 今、安倍政権は憲法改正を政治課題に掲げて国民投票法などの準備を着々としているが、実際のところ、憲法改正についての国民の関心はどこまで高まっているのだろうか。しかし、憲法こそ国の骨格を作り、国の未来を決め、国民生活の基底をなすものだということは何度強調してもしすぎることはない。もし憲法を変えるのだとすれば、どこをどう変えるのか、それはどんな理念によるものなのか、それによって国民生活はどう変わるのか、時間をかけて納得行くまで議論する必要がある。そして今度こそ、あいまいさを残さない明快な表現で書き記すことである。

 「敗北を抱きしめて」(上下)は、戦争直後の日本の原点に立ち返って今の日本を考えると言う意味で、やはり名著の一つと言うべきか。

爆発する技術進化 07.4.14

 「トマス・エジソンの正当な相続人」と言われるアメリカの大発明家であり、思想家、未来学者でもあるレイ・カーツワイル(1947年生まれ)。彼が書いた「ポストヒューマン誕生」は600頁の分厚い本だが、その内容は人類の未来に起こる(と彼が確信している)驚くべき変化を描いたものである。

進化のプロセス
 彼は宇宙誕生以来の生物の進化と人類が開発した技術の「進化のプロセス」を分析して、これらの進化はある段階を過ぎると急激な立ち上がりを見せることに気がついた。
 長い生命進化の過程で人類が登場したのは一日の時計で考えれば夜の11時57分ごろとはよく言われることだが、生物の知能はグラフに描けばその段階からほぼ垂直に高度化している。

 同じように人類が発明した様々な技術も、ある段階(彼はそれを「特異点:シンギュラリティー」と名づけた)を過ぎるとほぼ垂直に高度化する。
 そうした段階に来ると、技術進化の効率、加工技術、測定技術、コスト、開発知能などの「進化を加速させる様々な要素」が一斉に急速進化するために、その成果(収穫物)の相互作用で技術は倍々ゲームのように(指数関数的に)進化していくと言う。(これを
「収穫加速の法則」という)

技術の爆発的進化
 彼は、現在の遺伝子工学、ナノテクノロジー、ロボット工学の技術進化のプロセスを詳細に分析しつつ、これらの技術も「収穫加速の法則」に基づいて、近未来の「特異点」に向って驀進しつつあるという。
 「特異点」を越えると技術は爆発的に進化するが、その「特異点」の到来は想像するよりはるかに近い。同時に、その技術進化がもたらす人類の未来は驚くべきものになる。

 まずコンピュータなどの情報技術は、各種の性能(集積度、演算速度、コストパフォーマンスなど)が一年に2倍ずつ進化しているので、このトレンドを伸ばしていけば、2020年にはパソコン並みの値段と大きさのコンピュータが人間の知能と同程度に達する。
 コンピュータの素子は分子レベルから原子レベル、量子レベルと限りなく小さくなり、演算速度は途方もなく速くなる。
 そして、情報技術は今世紀半ばに「特異点」に達し、さらに急激な進化を見せるようになる。2050年には、12万円(千ドル)のラップトップコンピュータの処理能力は地球上すべての人間の脳を合わせたよりも大きくなり、2080年には人類文明の50億×1兆個倍の能力を持つようになる。こうしたコンピュータは過去1万年間の人類のすべての思考と同等の働きを1万分の1ナノ秒でやってのける。


人間を越える人間の誕生
 一方で、人間の脳に関する様々な研究、測定の技術も格段に進化しつつあり、記憶やパターン認識、連想といった人間の脳の機能解析(リバース・エンジニアリング)が急速に進みつつある。脳についての知識は指数関数的に増えており、大量のデータベースによって整然と目録化されつつある。

 さらに脳の分析に力を発揮するのが、現在も研究が進んでいる分子レベルのロボット(ナノボット)である。ナノボット時代は2020年代に到来する。その時になると人間は脳の毛細血管に何十億個もの微小なナノボットを送り込み、脳の内側から詳細な観察が出来るようになる。
 そうすると、脳全体をモデル化しシミュレートするのに必要なデータが集まり、その成果を先のコンピュータ進化と結びつければ、コンピュータはたちまち人間の知能を超えることが出来るようになる。

 さらに、脳内に送り込んだ微小なコンピュータ素子を、ナノボットを使って人間の神経細胞とつないでやることも可能になる。そうすると光の速さで思考する人間が誕生する
 人間の脳を人工的なコンピュータ素子で補助するこうした動きは、2020年代に始まり、2030年代には人間の脳の中に占める非生物的な部分が優勢になる。
 さらに2040年代になると人間の脳は非生物的な部分の性能のほうが何十億倍も高くなり、人間は過去の人類の知識や経験すべてを脳内のコンピュータに瞬時にアップロードできるようになる。

遺伝子工学、ナノテクノロジー、ロボット工学
 彼は遺伝子工学の分野の進展にも注目している。人間の体内に何兆と送られた微小なナノボットが、遺伝子工学の成果を生かして細胞の修復に当たることも可能になる。
 人間はついに癌も老化も克服して不老不死になるが、さらには人体をもっと都合の良い人工物質で構成するようにもなるだろう。

 非生物的要素が多くなった人間の子孫は、高度な知性でさらに自己改良、進化を進めながらやがて、その知性を宇宙にまで及ぼし始める。遺伝子工学、ナノテクノロジー、ロボット工学の3分野の爆発的進化は、こうして人類の知性を宇宙の果てに広げるまで止まることを知らないというのが、カーツワイルの確信である。

様々な議論
 人類の知性が宇宙の果てまで広がるという展開は、私の理解力も想像力も超えてしまうのだが、本当はこれから先の方が面白いに違いない。
 彼は最近の宇宙論の成果を駆使して、人類は非生物の知性に姿を変え、宇宙の星やブラックホールまでをもコンピュータとして利用しながら光の速度を越えて広がっていくという。そしてこの宇宙に存在する知性は人間以外にないのではないか、ともいう。
 何よりびっくりするのは、そうして進化した人類の子孫とも言うべき非生物の知性はやはり、人間的なものだと言うことだ。

 こうした可能性について世界の科学者の間では、現在様々な論議が交わされていると言う。哲学的な意味では、人間の脳に非生物的な素子が移植されたとき、それは以前の個人と同じなのか。またどの段階で個人は個人でなくなるのか。
 また、別な観点からこうした技術進歩にストップをかけるべきだと言う声もあるらしい。細菌より小さいナノボットは果たして安全なのか。自己改造して強力な敵となり、未知のウィルスのように人類に反乱を起こさないだろうか。

 ともかく、この勢いで技術が進化すれば、あと数十年で人類はかつて経験したことがない衝撃に見舞われるかも知れない。そのキーポイントは「特異点」と「収穫加速の法則」。あなたはどう思われますか。

緑の消費者 07.3.10.

前回、人類社会が(それもまず日本社会が)「環境機軸社会への転換」というパラダイムシフトを果たさないと地球温暖化を食い止めることは出来ないだろうと書いた。
 「環境機軸社会」とは、私の造語だが、「環境問題への取り組みを社会的価値観の中心(機軸)にすえる社会」という意味である。

 その「環境機軸社会」では、私たち市民の暮らしはどう変わるべきなのだろうか。とりわけ、消費行動とライフスタイルはどう変わるべきなのか、というのが今回考えたいテーマである。

便利、快適を追求する消費者天国
 今の日本は史上最も物の豊かな時代だと思うが、これも「環境機軸社会」という点から見るとどうなのか。試みにコンビニやスーパーを覗いてみると、その道のりの遠さに暗然とする。
 トレイやラップに丁寧に包まれた大量の野菜、肉、魚。そして様々な容器におかずを盛ったレンジで温めるだけの弁当などなど。人々が買ったものをレジ袋に詰め込んでいる様子を見ると、必要なもの以外に実に様々な石油化学製品(ゴミ)が付随して来るのが分かる。
 私も時々弁当を利用するが、一回の食事で出るゴミの量にびっくりする。

 デパートでもそうだ。中の商品を良く見せるために、過剰なまでの贅沢な箱や包装が使われている。しかし、こうした石油製品のゴミも結局は燃やされて二酸化炭素になる
 日本は基本的に消費者天国の競争社会。買う方もそれがサービスであり、売る方もそれが付加価値だと考えてきた。メーカーが商品の便利さ、快適さ、見かけの贅沢さでしのぎを削っている中、まず消費者が変わらなければこの状況は変わらないと思う。

緑の消費者(グリーンコンシューマー)
 ドイツなどでは既に様々な製品について、生産から廃棄までのエネルギー消費量やゴミとなる量を評価し、ランク分けして表示しているという。
 そうした表示を参考に、環境に優しい商品を優先して選んでいる消費者を「グリーン・コンシューマー(緑の消費者)」と呼ぶ。
 詳しくはネット検索すると出てくるので見てもらいたいが、多少面倒で不便でもゴミの少ないもの、リサイクルのできるものを買う。必要なものだけを買う。生産、流通、使用、廃棄の各段階を通して、環境にかける負荷の少ない製品を選ぶ(「グリーン・コンシューマー10か条」)。
 こうしたことを心がける「緑の消費者」がドイツでは半数以上いるのに対して、日本はまだ1%だという。

 便利さにどっぷり浸かった私たち日本人の消費行動。これをどうしたら環境機軸(中心)に変えて行けるのか。一人一人の行動を変えることはもちろん、メーカー、行政への働きかけから家族の環境教育まで、私たち市民がすぐにも手をつけるべき宿題が山ほどある。

環境に優しいライフスタイルの模索
 同時に、そうした消費行動を包含する「環境に優しい生活」というものもあるに違いない。環境機軸社会では市民のライフスタイルどう変わってくるのだろうか。

 今、いわゆる「田舎暮らし」や「スローライフ」が人々の共感を呼んでいるが、これも、物の豊かさ、便利さ、快適さよりは、ゆったりした時間の流れ、自然との共感、人付き合いといった「心の豊かさ」を求めているのではないか。
 「物の豊かさ(ハード)」から「心の豊かさ(ソフト)」がポイントの一つかもしれないが、それはとりもなおさず、環境に優しいライフスタイルの一つでもある。

 しかし、そうはいっても皆が皆田舎暮らしをすることはできないし、私たちの生活を単純に2、30年前に戻せばいいということではないだろう。
 ライフスタイルは人々の美的感覚にフィットし、心も満たさなければ長続きしないと思うし、人類が今の情報化時代の便利さを手放すことは不可能に近いと思うからだ。
 省エネ、省資源だが、どこかで情報化時代の快適さや便利さといった成果(ソフト)も享受できる生活。環境機軸社会でのライフスタイルの条件とは何か?私にはこれがまだなかなかイメージできない。

 「環境機軸社会」での新しいライフスタイルは、もちろん人によって多様であるべきだと思うし、この模索はこれからの市民社会の大きなテーマの一つだと思う。
 スローライフに限らず、すでに「目覚めた人々」の様々なライフスタイルが人々の関心を呼ぶ時代に入っていると思うので、これはこれで今後注目して行きたい。

経済発展との両立は?
 最後に。環境機軸社会は経済発展が可能か?というテーマは実はつい最近、二酸化炭素20%削減と言う厳しい政策をまとめたEUでも切実な課題である。できれば環境機軸社会であってもゆるやかな経済発展が望ましい。
 大きなテーマだが、環境と経済の両立が可能になる様々な兆候は主に技術的な発展の方から現れているように思う。また、環境機軸社会への転換の中で新たな産業、経済発展の可能性が生まれつつあるとも言う。(これも今後、考えて行きたい)

 但し、日本はまず、遅れている「環境機軸社会への転換」にすぐにも手をつけるべきだと思う。経済の心配はそれからでも遅くない。

 (この項はこれでいったん終りにして、次は「日本を幸せにする5項目、A精神のグローバル化」に進みます。)

日本を幸せにする5項目 07.3.2

 景気回復に取り残されて荒廃する田舎や地方、忍び寄る地球温暖化の影、格差やワーキングプアの実態、毎日のように新聞をにぎわす異常な事件や事故。
 そんな閉塞感ただよう日本社会の中で、私たち日本人が未来に希望を持って生きるためには、この日本をどこから変えていけばいいのだろうか。ある日、不意にこんな疑問が頭に浮かんだ。
 もちろん、財政再建や教育の再生といった政治上の大きな課題もあるだろうが、政治だけに任さずに私たち市民も取り組めるようなテーマはないのだろうか。あれこれ考えていたら以下の5つのテーマにたどり着いた。

日本を幸せにする5項目
@ 地球温暖化の進行を少しでも遅らせるための「環境機軸社会への転換」
A 日本を真に世界に開かれた社会にするための「精神のグローバル化」
B 日本の環境的、精神的拠りどころとなる「荒廃した田舎・地域の再生」
C 日本文化の世界発信を支えるための「日本の財産・江戸文化の再認識」
D 日本を再び戦争に向かわせない「戦争回避の広範なシステム」

 仮にこれがうまく行けば、日本の未来が少しは明るくなりそうな「日本を幸せにする条件」とでも言おうか。それぞれ大きなテーマばかりだが、どこかで私たち市民が参加する余地もありそうに思える。
 いずれも日頃から問題意識をもって少しずつ勉強して行こうと思っていたテーマでもあるので、手始めに、(まだその段階なので)企画提案風にその「こころ」をテーマごとに書いて行きたい。

@「環境機軸社会への転換」
 地球温暖化が人類の未来の立ちはだかる最大の難問であることは、「温暖化対策の岐路年」でも書いた。もちろん日本もその影響から逃げられない。
 耐え難い暑さの夏が長く(真夏日が3ヶ月以上!)続いて、冬が無くなる。四季折々の美しい自然がなくなるということは、日本が日本でなくなってしまうことである。
 同時に、竜巻や瞬間的豪雨、巨大台風、旱魃や食料不足、沿岸漁業の激変、熱帯性病原菌の進入、大規模な海岸侵食など、深刻な危機も襲ってくる。

温暖化を食い止めるために日本が出来る3つのこと
 この破滅的な地球温暖化の被害を少しでも食い止めるために、日本がやれることがあるとすれば、私は次の3点だろうと思う。
 一つは、温暖化の原因物質である二酸化炭素の排出を抑える「国際的枠組み」(温暖化防止の国際条約、京都議定書)を率先して実行していくことである。
 自国の達成だけでは駄目だ。ヨーロッパ先進国と共同で、参加を拒否しているアメリカ、中国、インド、ブラジルを説得する。同時に、様々な技術的、経済的支援も行いながら、温暖化対策で世界をリードしなければならない。

 二つ目は石油の代わりになる新エネルギーの開発である。太陽光、風力、バイオマス、燃料電池などの新エネルギー技術で世界をリードし、できるだけ石油を燃やさない社会を作っていく。ドイツのように技術が進化・普及しやすい制度を設けて、その成果を内外に広げていく。
 同時に、光合成を人工的に再現して二酸化炭素を減らす研究や、二酸化炭素を海中の岩石に吸着固化させる夢の技術などについても、ぜひ国際的な共同開発の可能性を探ってもらいたいと思う。

環境機軸社会とは?
 そして三つ目のアプローチが、今回のテーマである「環境機軸社会への転換」。

 どんなに新エネルギーが開発されても、エネルギー使い放題で、飽くなき物質的豊かさ、便利さを追求すれば、人類はそう長くは続かない。
 地球環境と人類が共存して行くには、私たちの社会をいわゆる「環境に優しい社会」に作り変えていく必要がある。省エネ、省資源を徹底して、地球環境の許す範囲内で暮らす社会である。

 こうした環境に優しい社会は従来、「持続可能な社会」とか、「循環型社会」とか呼ばれて来た。しかし、「持続可能な社会」はちょっと抽象的だし、「循環型社会」は普通、単に様々な製品のリサイクルを行ってゴミを少なくする社会的取り組みと捉えられている。

 そこで私は新たに、「環境機軸社会」と言う言葉を考えてみた。造語だが、「環境問題への取り組みを社会的価値観の中心(機軸)にすえる社会」という意味である。
 地球温暖化という人類最大の難問を食い止めるには、前の2点も重要だが、とりわけこの「環境機軸社会への転換」というパラダイムシフト(規範の転換)がなければ不可能だと思うのだ。

取り組みの難しさ
 しかし、一口に「環境機軸社会への転換」と言っても、実はこれが大変なことなのである。便利さ、快適さ、物の豊かさに慣れてしまった私たちは、自分たちの暮らしのどこをどう変えれば、環境に優しい社会を作れるのか、想像できないからだ。
 問題は私たちの消費行動とライフスタイルをどう変えるかだと思うのだが、実は私もまだ明確なイメージがつかめない。

 「環境機軸社会」では、私たちの消費行動とライフスタイルはどうあるべきなのか?ちょっと長くなりそうなので、この続きは次回に。(この「日本を幸せにする5項目」は順次「日々のコラム」にまとめて行きます。)

温暖化対策の岐路年 07.2.3

 快晴の冬空のもと、ウォーキングした。遊水地公園からさらに川の下流の方に歩いていくと、周囲にはまだ畑や雑木林が残っていて、空がいよいよ広くなる。
 それにしても冬とは思えない暖かさだ。冬だというのに汗をかきながらのウォーキングである。この夏がどうなるのかと心配しているのは私だけではないだろう。


加速する温暖化
 このところ再び地球温暖化問題がクローズアップされてきた。スーパーコンピューターを使った最新の地球シミュレーションによれば2040年には北極の氷が全部溶けてしまうという。
 それまでに白熊も絶滅する。すでにその兆候も現れている。先日のNHKスペシャル「プラネットアース」では、腹を空かせた白熊が薄い氷の上で立ち往生している切ない様子が放映された。氷が無いために沖にいるアザラシ近づけないのだ。
 NYは記録的な暖冬だし、夏のオーストラリアでは千年に一度の大干ばつが起きている。いよいよ地球温暖化は皮膚感覚として実感されるようになってきた

 コラム「地球温暖化は防げるか」で書いたように、私は長年、地球温暖化こそ人類最大の危機だと思ってきたのだが、最近の傾向を見ると温暖化は私たちの想像を超えた急展開で進むもかもしれないと心配になる。
 これまで一部の科学者は「地球の水や大気の循環システムは複雑すぎて、まだ十分解明されていない」として、人為的温暖化説に疑問を呈してきた。しかし、この複雑さの影響が逆目に出ればもっと大変なことも起こり得るのではないか、とは素人でも考えることである。
 特に、最近の急激な温暖化の兆候はそれを感じさせて不気味なのだ。

温暖化対策の岐路の年
 2月2日、こうした危惧を裏付ける報告書が国連から出た。「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)はこれまで一部にあった「人間活動による地球温暖化」に対する懐疑論を明確に否定すると同時に、温暖化は加速度的に進むと警告している。
 環境保護団体グリーンピースは「前回の報告書(2001年)が警告だとすれば、今回は最後の叫びだ」と言う。
 アル・ゴア元副大統領が出演した映画「不都合な真実」が世界で公開されたり、ブッシュがさすがに温暖化対策を打ち出したりと、今年は(中東で大戦争が始まらない限り)地球温暖化に関する節目の年になりそうな予感がする。
 というより、「今年、何らかの国際的動きがないならもう温暖化は食い止められないかも」と言うくらい、残された時間は少なくなってきている。

新エネルギーの開発
 そんな中、最近、日本の新エネルギー政策を推進している役所の人に話を聞く機会があった。
 風力発電、太陽光発電、燃料電池(天然ガスや農産物利用の水素から)などの最新情報だったが、その中でドイツの風力発電量がすでに原子力発電所10基分(1600万キロワット・時)にも達しているというので驚いた。
 私が「やはりドイツは石油の後のエネルギー戦略で世界をリードしようとしているのではないですか?」と尋ねると、その人も「私もそうだと思います。今、世界は新エネルギーの技術開発を巡って熾烈な競争をしているところなんですよ。」と言う。

 ドイツの環境政策を推し進めてきた原動力は、「緑の党」など、環境保護政党の圧力だった。最近、ロシアが天然ガスや石油といった自国のエネルギーを外交圧力のために使う動きがあって、ドイツでもエネルギーの安全保障上、これまでの脱原発政策を見直す動きもないではないが、すでにドイツは新エネルギー大国になりつつある。
 新エネルギーの動きついてはまた書く機会があると思うが、どの国でもやろうと思えば出来るのである。必要なのは、それを促す政治の明確な意志である。

中選挙区制のススメ
 ここで余談だが、そのためにはむしろ単一主張の政党が出来る方が有効かもしれないと思ったりする。
 与党も野党も政争ばかりで民意を受け止められない今の日本の閉塞状況を打破するには、二大政党制を待つより、むしろ環境党、年金党、若者党(その理由はここ)、平和党など様々な単一主張の政党の出現を模索した方がいいのかもしれないと思う。
 現在の政党とそうした新政党との連立の方が様々な民意を吸い上げることが出来るのではないか。まあ、そのためにはもう一度、中選挙区制に戻さないといけないが。 (ゆっくり考えてみよう)

 いずれにしても、今年は地球温暖化問題について人類が後に「あの数年が岐路だった」と思い起こすような、重要な年の始まりになるに違いない。