ちょっと前、話題が天皇の戦争責任の問題になったとき、ある先輩が「君はジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」を読んだ?僕はあれが一番良く書いていると思うけどなあ」と言う。
私は「昭和史」(半藤一利)を読んで、あれだけ戦争をしたくなかった天皇を軍部や政治家がよってたかってだまして戦争を始めさせた経緯を見ると、その責任を問うのは人情として忍びないと思っていたのだが、歴史に詳しい先輩が言うことなので反論せず、まずは読んでみる事にした。
今に引きずる政治的テーマ
「敗北を抱きしめて(上下)」は、アメリカの歴史家で日本の戦後史研究家でもあるジョン・ダワー(MIT教授)が2001年に出版。ピュリッツァー賞など数々の賞を受賞した。冒頭の「謝辞」を見ると、著作に協力した人々の名が多数並べられており、この本が殆どプロジェクトのような状況で成立したことが分かる。膨大な資料をもとに事実を積み重ねて書いた、上下800頁あまりのこの本を読むと、学者と言うのは大したものだと改めて思う。
さて内容だが、この本は「今の日本がいまだに問題を引きずっている大きな政治的テーマ」について、占領下の日本で何があったのかを詳細に書いている。その一つは、A級戦犯を裁いた「東京裁判と天皇の戦争責任」問題、もう一つは安倍首相がその改正にこだわっている「新憲法制定」である。これらは、当時のGHQが「日本の古い国家体制を破壊して、2度と戦争の出来ない新たな民主政体を作る」という政治的意図のもとに、半ば強制的に決着を図っただけに、以後も何かと議論がくすぶり続けているテーマである。
東京裁判とA級戦犯
「東京裁判」では、一番被害を受けた中国や韓国が裁判に加わっていない公平性の問題や、戦後に登場した「平和に対する罪」といった法律で裁くという法的根拠の問題が指摘されている。しかし、さらに問題なのは、当時のGHQ(マッカーサー司令部)が、天皇の戦争責任を不問にするという政治的判断を下して裁判に様々な圧力をかけた結果、A級戦犯の性格がきわめてあいまいになってしまったことだろう彼らは、無謀で愚かな戦争を指導して自国民とアジア諸国民に莫大な損害を与えた文字通りの犯罪者なのか、それとも戦争の勝者が敗者に対して行った国際的政治ショーのいけにえなのか、あるいは天皇に戦争責任が及ぶことを防ぐために盾となって死んだ殉教者なのか。
考える機会を失ったつけ
A級戦犯については、彼らを合祀した靖国神社への首相参拝を巡って今も国論が分かれ、海外からの非難にも対応が揺れている。その原因の一つは、当時のGHQが天皇の戦争責任問題に波及することを恐れて、あの戦争についての議論や事実を戦後7年間も封じ込めたことにあるのではないか。日本国民は戦争の悲惨さや残酷さについて、まだ生々しい記憶が残っている戦後のホットな時期に、戦争の本質について充分議論し解明する機会を、永久に失ってしまったのである。同時に占領が続いた7年間、日本の旧勢力もGHQのそうした方針に便乗した。今の日本で戦争と平和の問題を考える時、この覆すことの出来ない歴史的現実をどう生かしていくのか。
◆新憲法制定についての問題
さらには「新憲法制定」についての問題である。「敗北を抱きしめて」では、下巻430ページのうち、86ページを新しい憲法制定の経緯に割いている。1947年5月3日に施行された日本国憲法は従来、「GHQ(連合国軍総司令部)によるお仕着せ憲法」とか、「たった一週間で作られた」とか言われて、憲法見直し派の口実となってきた。 しかし、その経緯を読んで見るとそうした表面的な言いがかりが当を得ているとは思えない実態があったことが分かる。
制定経緯のポイント
つい最近(4月29日)のNHKスペシャル「日本国憲法誕生」でもその制定の経緯が放送されたが、ワシントンの「極東委員会」での議論が詳しくなっているだけで、基本的には「敗北を抱きしめて」と同じ内容である。大体これが現時点での定説なのだろう。憲法制定の経緯についてのポイントは幾つかあると思うが、その主な点は次のようなものだと思う。
GHQのお仕着せ?
一つは「主権在民」、「象徴天皇制」、「戦争放棄」、「基本的人権」などの新憲法の基本理念が「GHQによるお仕着せだった」という点。これはある意味当たっているが、一方でそうならざるを得ない理由もあった。
GHQは終戦から2ヶ月も経っていない段階で、日本の軍国主義、封建主義を根底から解体して日本に民主主義を根付かせるためには、大日本帝国憲法(明治憲法)を廃止して新憲法を制定すべきだと判断、日本側にもその検討を促していた。これに対して日本政府は憲法問題調査会(松本委員会)を設けて検討を始めたのだが、その内容がいかにも時代遅れだったのである。
憲法改正の動きが伝えられると、日本では12もの団体やグループが次々と独自の憲法草案を発表した。中には今の憲法に近い「象徴的天皇制」、「言論の自由」、「男女平等」といった新しい理念の提案も含まれていて、GHQも注意深く見守っていたという。しかし肝心の調査会はそうした動きに全く無関心で、天皇が絶対君主として政治・軍事のすべてを統括するという「明治憲法の基本的精神」を何とか維持しようと独りよがりな努力を続けていた。すなわち、天皇条項を「神聖」から「至尊」に変えるなどの、10程度の修正で切り抜けようとしてGHQに見放され、GHQが独自に憲法草案を作るという動きにつながったのである。
「GHQのお仕着せ」とはいうが、こうした経緯をみると、政府の委員たちの方こそ世界情勢や国民の意向からかけ離れており、古い考えに囚われた政府委員会には新しい日本を作るという発想も能力もなかったことが分かる。
議論の時間は足りなかった?
二つ目は、憲法が「たった一週間で作られた」という点。確かにGHQによる草案作成作業は1946年2月4日に始まり、6日後の2月10日にマッカーサーに手渡され、2月13日に日本側に伝えられた。GHQがこれだけ草案作成を急いだのは、ソビエトや中国を含む11カ国が参加した「極東委員会」の動きを警戒したからである。「極東委員会」を構成する国の間では、天皇の戦争責任を追求すべきだと言う不穏な空気が漂い始めていた。
これに対し、マッカーサーは2月下旬に予定される「極東委員会」の発足前に何としても民主的な憲法を制定して、天皇の責任追及の矛先を和らげようとしたのだという。GHQの占領政策をスムーズに行うためには天皇制の維持が欠かせないというのがマッカーサーの政治的判断だったからである。
しかし、誕生は一週間だったが議論の時間はたっぷりあったように思う。3月6日に国民に公表されてから、6月20日には国会が召集されて議論が始まり、「義務教育の延長」や「国民の生存権」、「戦争放棄条項の修正」など、様々な修正や追加が行われた。これらはもちろんGHQの承認が必要だったが、公表から8ヵ月後の11月3日に新憲法は大々的に公布され、半年後の1947年5月3日に施行された。
憲法は国の骨格
それから今年で60年。日本国憲法はその理念に沿って新しい日本の骨格を作ってきた。当然のことのようだが、私はこのことに改めて感心する。主権を国民に置き(主権在民)、天皇を象徴として政治から切り離したこと、中学までの義務教育の延長、男女同権などは、国民にとってもう後戻りの出来ない常識になっている。修正の過程で、自衛力の保持は許されるのか、自衛のための戦争は許されるのかといった、あいまいさを残した第9条「戦争の放棄」も、何とか踏ん張って戦争の抑止力の働きを果たしてきたと言える。
憲法改正に際して
今、安倍政権は憲法改正を政治課題に掲げて国民投票法などの準備を着々としているが、実際のところ、憲法改正についての国民の関心はどこまで高まっているのだろうか。しかし、憲法こそ国の骨格を作り、国の未来を決め、国民生活の基底をなすものだということは何度強調してもしすぎることはない。もし憲法を変えるのだとすれば、どこをどう変えるのか、それはどんな理念によるものなのか、それによって国民生活はどう変わるのか、時間をかけて納得行くまで議論する必要がある。そして今度こそ、あいまいさを残さない明快な表現で書き記すことである。
「敗北を抱きしめて」(上下)は、戦争直後の日本の原点に立ち返って今の日本を考えると言う意味で、やはり名著の一つと言うべきか。
|