去年9月の衆院選挙で小泉自民党は「郵政民営化」と同時に、「小さい政府」、「官から民へ」というスローガンを掲げて圧勝した。 「小さい政府」、「官から民へ」は今や小泉改革と同義に使われており、小泉改革の陰の推進役である竹中総務相も、口を開けば水戸黄門の印籠のように持ち出している。
しかしここへ来て、格差社会や民営化の欠陥(耐震強度偽装事件)が問題になり、小泉改革の「小さな政府」が民主党などから批判されている。
小泉は「じゃあ大きい政府がいいのか」と相変わらずの強弁ぶりだが、両陣営とも表面的な言葉の投げ合いだけで、掘り下げた議論になっていないように私には見える。
かくいう私も、これらのスローガンが意味するものをどの位正確に理解していたのだろうかと考えると、これが結構怪しいと認めざるを得ない。そこで今回はインターネットの助けも借りて「小さな政府」、「官から民へ」の本質を探りながら、小泉流スローガン政治の問題点を考えてみたい。
◆「小さな政府」スローガンの出所
そもそも「小さな政府」とは、アダム・スミス(18世紀イギリスの経済学者)以来の自由主義に根ざした経済政策で、政府の市場介入を最小限にして自己責任に任せ、安上がりの政府を目指すものである。
市場に任せることで効率性の高い経済が可能と言うが、一方で公平性は保障されず、格差や階層社会の固定化が問題となる。アメリカやイギリスは既に1980年代から「小さな政府」を目指しているという。(ウィキペディア)
これらのスローガンが日本ではいつ頃登場したのか。小泉改革を進めるために設けられた、政府の「経済財政諮問会議」(平成13年)の資料をネットでのぞいてみた。
この会議では当初、小泉の「改革なくして成長なし」を合言葉に、経済活性化のための不良債権処理やIT社会の構築などが議論されたが、平成16年に郵政民営化の議論が始まると「民間に出来ることは民間に」、そして「小さくて効率的な政府」(平成17年前半の答申)というキャッチフレーズが出てくる。
一方これに遅れて平成16年から動き出した、内閣の「規制改革・民間開放推進会議」。配布資料を見ると、これまで官が扱っていた医療、福祉、教育、農業、公共放送など、様々な事業を民間企業に開放し、資金を民間に流すための規制改革が議論されている。
「官から民へ〜官製市場の民間開放」(平成16年)、「お役所仕事の改革による官の仕事減らし〜小さくて効率的な政府の実現に向けて」(平成17年9月)、「官(による配給制度)から民(による自由な選択・競争)へ」(平成17年12月)などなど、向こう受けをねらったキャッチフレーズが並んでいる。(*1)
◆ 「小さな政府」スローガンの落とし穴
さて、こう見てくると、小泉改革の「小さな政府」の本質は、これまで官がやっていた仕事を可能な限り民間に廻し、そこに新たなビジネスチャンス(金儲け)を作るということで、それ以上でもそれ以下でもないことが分かる。 これは、つまり100という政府から20でも30でもはがせるだけはがして民間に廻す、と言うことであって、「残った80の政府で何をやるのか」と言うものではないということだ。
「小さな政府」を言うなら、大きな政府から何を引き算するのかと同時に、残った小さな政府で何をしていくのか、「国家のあり方」まで考えなければならないと思う。しかし小泉改革ではそこがすっぽりと抜け落ちている。
スローガンとして聞くと、そこに何か「小さな政府」という新しい国家像があるように錯覚してしまう。そこがスローガン政治の落とし穴と言えるだろう。
◆「小さな政府」の文化と「大きな政府」の文化
例えば、アメリカには、もともと自由を求めて新大陸にやってきただけに、市民が政府の干渉を嫌い、出来るだけ安上がりの政府(「小さな政府」)を目指した建国以来の文化がある。
同時に(私も以前取材したことがあるが)、アメリカには政府や民間企業のほかに非営利のボランティアやNPOという巨大な第3の柱がある。寄付金制度なども早くに整備され、市民が自立的に「小さな政府」の足らざるところを補っている。
一方、日本人は良くも悪くも明治以来、お上(政府)に頼る生活してきた。国の裁量の中で、弱肉強食ではなく公平性を保ち、国民が大体中流でまとまっていくというのが、国の伝統文化だった。市民が政府に頼らず自己責任で生きていくという意識は希薄なのである。
そうした日本でアメリカ流の市場原理主義に倣って安易に「小さな政府」を導入すれば、(最近の事件のように)社会に思わぬ混乱を引き起こすことにもなりかねない。
◆21世紀の「国家ビジョン」を
私は、国がこれだけ(770兆円!日本の借金時計)の借金を抱えている以上、日本でも「効率的な政府」の模索は必要だと思う。しかし、国の成り立ちや文化が米英と違う日本で「小さな政府」を試みていくには、少なくとも以下のような国家ビジョンを国民に説明しなければならないと思う。
@ 待ったなしの財政再建(国の借金を減らす)をどういう道筋で果たすのか。規制緩和(民営化)がそれとどう
結びつくのか。
A 競争原理導入で心配される社会的弱者の切捨て、格差拡大にどう対処するのか。(「小さな政府」と矛盾す
る)福祉などの社会の安全ネットをどう確保するのか。
B 強いものがますます強くなる市場原理主義の行き過ぎ、逸脱を誰がどう監視するのか。公平性をどう保って
いくのか。
C 国の重要課題(高齢化と少子化、教育と文化、平和と安全)にどう向き合うのか。
これからの「小さな政府」は経済の活性化だけでなく(それだけなら反対)、むしろ「21世紀の新しい国家像」を描くくらいのつもりでやって欲しい。
さもないと、単に市場原理主義者たちを儲けさせ、一握りの勝ち組を作る政策に過ぎなくなる。金儲け主義優先の風潮によって日本の古き良き伝統文化が破壊されて行く心配もある。
アメリカ並みの格差拡大を肯定する委員がいたり、どさくさにまぎれて国の財政とは無関係の放送制度をいじろうとしたり、私は既にその心配は現れているように思う。
*1)
「お役所仕事の改革」、「官製市場」、「配給制度」など、「官」はすべて古くて悪いと決め付けるような、有識者の議論にしては随分と一方的なフレーズではある。内容を読んでも最初から「結論ありき」の感が否めない。
こうした諮問会議を多用する小泉手法は、官僚や族議員の利権を打破するには適しているが、批判もある。
一つはメンバーの選び方によっては最初から「結論ありき」の議論になりかねないという問題である。「規制改革・民間開放推進会議」では議長(宮内)が筋金入りの市場原理主義者だというところが小泉や竹中に見込まれたのだろう。また最近、竹中が自らメンバーを選んでNHK改革に関する私的懇談会を作ったが、座長(松原)らの考えを読むとこれも「結論ありき」の顔ぶれと言えるのではないか。
もう一つの大きな問題は、国家の重要案件(例えば「皇室典範に関する有識者会議」など)でも、諮問会議が「有識者もこう考えている、議論を尽くした」という都合の良いアリバイ作りに利用される恐れがあるということだ。
そうなると国会での議論が形骸化し、結果として、国民はもちろん国会議員にさえ内容が充分理解されないまま法案が通ったりする。諮問会議利用の影の部分として注意しなければならない問題だと思う。
|