日々のコラム  <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

■保守対リベラルの対立軸とは? 06.4.11

 4月7日に民主党代表選挙があり、小沢新代表に決まった。訳のわからない前任者からようやく大人の政治家にバトンタッチしたという感じ。
  ところで、投票前に小沢が行った政権表明演説は、持ち時間15分の中でいろんな所に目配りした、かなり周到なものだったと思う(誰が書いたのだろう?)。石原東京都知事は「具体策に乏しく、極めて抽象的、観念的」と酷評(新聞談話)。また官房長官も「明確な政策はない」と否定的イメージを植えつけるのに躍起だが、素直に吟味すればそうでないことが分かる。

 私は民主党関連ネットで全文を読み直し、「明確な理念と設計図をもとに政治を行う」と言う彼の姿勢に改めて好感を持った。(前々から言っていることだが)これからの政治は明確な政策を国民に示して、その公約に責任を持つものであって欲しいと思うからである。
  問題はその政策の中身。で、今回は、この小沢演説をベースに民主党は政策で自民党との対立軸を作れるか、占ってみたい。

◆小沢代表の政策
  小沢が政策の第一に挙げたのは平和問題である。@憲法の理念に基づいて国連中心の安全保障の原則を確立。また、A日米関係を基軸にしながらも(中韓をはじめとする)近隣諸国との関係を改善してアジア外交を強化する。
  内政では、B心の荒廃を立て直す人づくり、C地域主権の国づくりによる中央集権体制の打破(中央省庁からのひもつき個別補助金の全廃)、D公正をめざす経済社会の真の構造改革。
 そして、全体をくくるキャッチフレーズとして打ち出したのが、E(人と人、人と自然の)「共生」である。  

 前回のコラム(「政党・国民にとっての役割とは」)で私は、政党に期待する国の基本的政策として、「平和、教育(文化)、財政再建、環境、防災」の五項目を挙げ、その方法論の違いが政党の対立軸になるだろうと書いた。(偉そうで気が引けるが)
 政策のうちA、B、C、Eはそれぞれ「平和」、「教育」、「財政再建」、「環境」に関するが、具体案はこれからだろう(小沢も現在執筆中の「新しい日本の設計図」を元に今後議論したいと言っている)。
  今回は具体案の、@国連中心の安全保障(「平和」)と、C中央省庁からのひもつき個別補助金の全廃(「財政再建」)、の2つに注目したい。

◆平和の対立軸  
 国際的な平和を維持する考え方には、国連を中心とした「集団安全保障」と、二国間の軍事同盟をベースにした「集団的自衛権」という2つの対立する考えがあるという。 (「日本リベラルと石橋湛山」田中秀征)
 集団的自衛権は、常に具体的な仮想敵国を想定した軍事同盟のため、同盟国(例えばアメリカ)の思惑に引きずられて戦争に加担する危険が指摘される。
  一方、小沢の言う集団安全保障は、国連加盟国の中に無法者が出れば加盟国皆で結集して制裁を加える、というもので、それなりの財政的、軍事的協力が要請される。

 日本にとってどちらが望ましいのか。(国民の間では)まだ十分認知されていないが、憲法9条論議とセットで、日本の平和を左右する重要な対立軸になると思う。(この点、民主党の前原前代表は自民党と同じ集団的自衛権を認める立場だったから、前原では対立軸が作りにくかっただろう)

◆財政再建(国の構造改革)の対立軸  
 一方のC中央省庁からのひもつき個別補助金の全廃(中央集権体制の打破)は、日本の官僚制度の弊害に根本的なメスを入れるものだ。私は、これ一つを実現するためだけでも内閣の一つや二つは吹き飛ぶ位の、重要だが困難な政策だと思う。(まあ無理だろうなあ)
 
  日本の官僚制度の弊害については、石橋湛山も言っている(同書)。明治維新の勝利者が官僚の中枢を占めたために、日本では役人が公僕でなく国民の支配者の性格を持ってしまった。
  政治家の代わりに官僚が国民を支配する、世界にもまれな中央集権体制。その中で、確固とした設計図を持たない政治家と官僚の無責任体質が互いにもたれあい、日本の莫大な借金を作り出してきたのである。  

 この中央集権体制を打破して地域主義に転ずることが出来れば、明治以来の国の構造改革になり、財政再建の突破口ともなる。 この点では、自民党が5%の公務員削減などと言う量的なお茶の濁し方(これも官僚にごまかされそう!)に止まっているのに対して、小沢のいう「中央省庁からのひもつき個別補助金の全廃」は、政策の重要な対立軸になると思うのだ。

◆日本の保守とリベラル  
 私としてはさらに、(まだ具体的ではない)ほかの政策でも対立軸を作ることを提案したい。例えば、Aでは国際協調主義VSアメリカ主導主義、Cでは格差是正主義(ケインズ的)VS市場原理主義(ハイエク的)、などなど。
 これらをうまく整理すれば、日本における「リベラルVS保守」の骨太の対立軸が作れる。そうすれば、国民にとって分かりやすい二大政党の色分けとなり、魅力的な政治状況が生まれるだろう。(面白いと思うけどなあ)

 私は小沢を良く知らない。「豪腕」だの「側近政治」だのと言われているが、政治家の資質の一つは時代感覚と使命感である。今の小沢はこれに賭けているのだろう。
 ここまでくれば民主党もお互いの足の引っ張り合いはやめ、小沢も耐えるべきは耐え、是非、「民主党=日本のリベラル政党」の確立にまい進してもらいたい。政権交代はその次である。
(うまくことを運べるかどうかを左右する、政治家の資質については、次回以降に書きたい)

■政党・国民にとっての役割とは? 06.3.9

 偽メール問題で墓穴を掘った民主党がとたんに意気消沈して、野党としての役割を放棄している。先日の参議院質疑では、いわゆる4点セット(*1)の追求もせず、全く迫力のない質問を連発して自民党から同情される始末だ。 自業自得で批判の矢面に立っている執行部ならいざ知らず、他の議員(質問者)までもが萎縮してしまうとはホントに情けない。

国民が見えない政治家
 それにしても今回の前原党首や永田議員の言動、責任の取り方を見ると、彼らがなぜ政治家を志したのか理解に苦しむ。
  特に前原代表。既に自民党やマスコミが様々な情報からメールを偽ものだと指摘していた時に「我々には他にも情報が寄せられており、確度は高いと思っている。明日の討論を楽しみにしていてください」などと思わせぶりに言っておきながら、党首討論では新材料も示せずに腰砕け。自分の方から持ち出した国民との約束をいとも簡単に反故(ほご)にした。
 その挙句に、全面降伏して議場で相手総理に頭を下げるようなみっともないパフォーマンスをして党首居座りを決め込んでいる。(改めて民主党のHPで党首の「お詫び」と「2月28日の記者会見=ビデオメッセージ」を見たが、「党首を辞職しないことが党のためになる」という理由がやっぱり分からない)

  ここで一つだけはっきりしたのは、彼が「政治に対する国民の信頼を裏切ることの重大さ」を感じていないということ。頭にあるのは永田町内や民主党内の事情だけで、国民のことが視野に入っていないということだ。 最近は「地方の党組織を行脚(あんぎゃ)して出直す」などと言っているが、国民に対してきちんと説明責任を果たし、謝罪するという気はないらしい。
 下司の勘ぐりかも知れないが、永田議員も含めて彼らは今風の自己実現、個人的な野心や権勢欲から国会議員という職業を選んだのではないか。だから自分のことしか考えないのだろう。これで政治家なの?と思ってしまう。
 いずれにしてもこの事件は、「いまの政治はしょせんそんな無責任なものか」という拭いがたい不信感を国民に植えつけた事例として歴史に残るのではないだろうか。

◆議会制民主主義の危機
 民主党ばかりではない。自民党も国民のことを考えていると言えるだろうか。「敵失だ、勝負あった」と浮かれているばかりで、私たち国民から見ると、政治家皆がその役割を放棄しているのではないかと言いたくなる。
 今国会は、小泉改革の5年間の功罪を問うラストチャンスである。議論すべき問題(*2)は山積しており、今これを議論しておくことは、ポスト小泉の選択に当たっても当然必要なことだと思う。
 しかし、メール問題が起きたらすべてが消えうせ、(新聞によると)執行部は国会後半戦をどうやって時間をつぶすか悩んでいるらしい。野党の影が薄くなったら自民党もぬるま湯にどっぷりで、議会制民主主義が機能不全に陥りつつある。

◆国民にとって望ましい政党の役割とは何か
 政党がこういう「体たらく」になるとかえって心配になって、腹を立ててばかりもいられない。少し頭を冷やして「国民にとって望ましい政党の役割とは何か」、根本のところから考えてみなければという気になってくる。 何しろ政党の運営には私たちの高い税金(政党助成金)が使われているのだから。

 私が政党の役割として期待したいのは、まず第一に国の基本的政策について国民に分かりやすい選択肢を提供してくれること。第二に権力は常に腐敗する危険があるので、仮に野党であれば「政権与党に対するチェック機能」がしっかりしていること。第三に政策の内容だけでなく実行力があること。この三点である。
 このうち最も重要なのはもちろん「国の基本的政策」だが、私は現時点で次の5点が最重要テーマだと考えている。
  @「いかなる場合も戦争を回避する」平和を守る(外交、防衛)政策
  A「若い世代や子供を適切に育む」教育や文化政策
  B「健全な国家財政を次世代に引き継ぐ」財政再建のための政策
  C「美しい国土と自然を残す」環境政策(地球環境政策も含む)
  D「災害から国民の命と財産を守る」地震などの防災政策

 これらの基本的政策について分かりやすく国民に示し、かつ、その約束を実現する政治力を持つこと。それが「国民にとって望ましい政党の役割」ではないか。それが出来ない政党は政党として失格といいたい。
 また、これらを達成するには、(税金の使い方も含めて)様々な方法論、考え方の違いがあるだろう。従って、この違いこそが「政党色の違い、政策軸の違い」であり、国民の選択肢になるはずだ。

 こういう認識を是非、国民共通のものにして行きたい。さもないと政党についての(うわべの人気に惑わされない)冷徹な評価など出来ないし、2大政党制などと言っても絵に描いた餅になると思うのだ。
  現状は始めに書いたとおり、こうした構想からは程遠い状況だが、それでも(来るべき国家の危機には)まだ時間はあると思いたい。

(*1)「防衛施設庁の官製談合事件」「ライブドア事件」「米国産牛肉輸入問題」「耐震データ偽造事件」
(*2)(国外的には)アジア外交の破綻(靖国問題など)、アメリカとの軍事同盟のあり方(米軍基地再編
   問題)、イラク派兵問題、北朝鮮問題。
   (国内的には)地方と大都市の経済格差問題、国民の中の階層化問題、ニートやフリーターなどの若者対
   策、暴走する投機社会の監視、骨抜きになった道路公団民営化、迷走する官僚機構の建て直し、
   弱者救済のための安全ネット問題、などなど。

■民主党の危機管理能力 06.2.23

◆20年前の人間体験
 以下は、本当にあった話である。20年前の1985年8月12日、日航ジャンボ機墜落事故が発生。事故の翌日も、テレビ局の報道現場は騒然としていた。特集番組を制作するために大勢のディレクターが狩り出され、私もその一人だった。
 そんな渦中に、「日航機内のコックピットと管制官とのやり取りを傍受したテープを持っている。このテープには、コックピットと客席乗務員とのやり取りも録音されている。」と言って一人の中学生がテレビ局を訪ねてきたのである。

  本当なら大変な情報だ。半信半疑の記者やディレクターたち7,8人が局内の会議室で、その中学生を囲むようにして座り事情を聴取した。
 応援の私も末席でその様子を見聞したのだが、中学生は天文少年で仲間とともに宇宙からの電波を観測するパラボラアンテナを(御殿場方面のようなことを言っていたと思う)持っており、その観測中に会話の電波をキャッチしたのだという。
  中学生は中年の記者やディレクターを相手に落ち着き払って堂々と質問に答えている。科学の専門用語にもやたら詳しい。そしてテープ使用の条件として、「テレビ局が持っている無人水中カメラを借りたい。今仲間と、ある水中生物を撮影する計画があるので。」と言った。

  私は、その時点で会議室を出た。デスクから、傍受したテープを放送するときの法的問題を聞いて来いと言われたからである。もちろん法務部は「そんなテープがあるなら法律以前に放送すべきだ。現場がいいなら水中カメラを貸すことも問題ない。」だった。
 少年は「テープは今家にある。もし使用条件を飲んでくれるなら仲間の許可も得てお渡ししたい。」と言って帰宅したという。

 この出来事はこの後、あっけない結末を迎えた。その夜、水中カメラを手配した担当記者が指定された時間に電話をかけてみると、昼間と同じ声の少年が「そのような者はここにはいません。」と言ったのだそうだ。
 半日あまり振り回され、「将来のためにならないから懲らしめてやる」と憤慨する記者もいたが、現場はそれどころでない忙しさですぐに誰も話題にしなくなった。
 墜落現場からボイスレコーダーが回収され、コックピット内での緊迫した会話が公開されたのは、それから大分経ってからだった。(去年の夏TBSが会話公開の経緯をドラマ化した)

 ただ私はその後も折に触れ、「あの少年はその後どのような人生をたどっているのだろうか」と思い出した。あまりに堂々とした態度、立て板に水の能弁。これが詐欺師というのかと後で妙に感じ入ったものだ。使用条件を金でなく、いかにも科学少年が考えそうなものにしたのも心憎くいではないか。
 状況を巧みに読んで相手を手玉に取る。それに快感を覚える。どうも詐欺師というのは、我々普通人ではうかがい知れない人格を有しているらしい、とその時初めて知った。

◆詐欺師は「状況」を狙って現れる
 以上のような話を書いてきたのは、もうお分かりと思うが、民主党が引き起こしたライブドア関係のメイル騒動があったからである。いろんな人がかんかんに怒っているが、私も2点ほどを言いたくなった。

 一つは、事件が成立する「状況」である。以下はこれが民主党を狙った謀略だという前提で書くのだが、仕掛け人が笑っちゃうくらいに食いつきのいい内容とタイミングだったと思う。
 民主党は年明けから「防衛施設庁の官製談合事件」「ライブドア事件」「米国産牛肉輸入問題」「耐震データ偽造事件」の「4点セット」で、それいけどんどんと自民党を攻撃しようと意気込んでいた。あのメイルはその矢先に、タイミングを狙いすますようにして持ち込まれた。タイミングが良すぎる。

 私はこれが謀略とすれば、同じものが自民党にも持ち込まれていたのではないかと予想していたが、案の定、平沢議員のところにも渡っていた。どちらが先かわかったものではない。案外、自民党の一部は承知の上で民主党の食いつき具合を見ていたのかもしれない。
  状況が煮詰まってくれば、(特に政界では)この手の謀略はいくらでも発生する。(あの中学生が大人になったような)謀略が面白くて仕方がない奇怪な人間が周辺にゴロゴロいて、隙あらばと仕掛けを練っているに違いないからだ。

  酷なようだが、引っかかる側の問題もある。仕掛け人から見ると、永田議員は格好の標的だったのではないか。目立ちたい、一旗あげたい、というぴったりのキャラクターで見ていて哀しくなるくらいだ。民主党の前原党首も同じ。彼にもここらで喝采を浴びたいという姑息な野心があったのではないか。若すぎて経験不足と言う以上に、政治家失格とも言うべき未熟さをさらけ出している。

◆政党の危機管理能力とは?
 もう一つのもっと深刻な問題は、民主党の危機管理能力の危うさである。国会での論戦は論理と論理のぶつかり合いだから、論理的展開を事前に細部まで詰めなければ、闘いなど出来っこない。
 民主党では、メイルが本物だと実証する手段がない場合にどのような論理で相手を攻めるべきなのか、あるいは、攻撃に失敗したらどのような事態に陥るのか、組織的な検討が行われた気配がない。その前にメイルが本物かどうかを専門家に相談した形跡もない。秘密を守りたかったのかも知れないが、危機管理のイロハはどうなってしまったのだろう。

 先に紹介した「昭和史」(半藤一利)を読むと、戦争に向う激動の時代には、野心家たちによる詐欺まがいの謀略が日常茶飯事だった。いつの世にも自分の能力に酔い、謀略を快感とする人間がいるのだ。
  国内、国際を問わず、政治は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界というではないか。こんなことは常識だと思うのだが、政治に取り組むには、こうしたことを前提に危機管理に当たらなければ、真に国民に責任を負う政治などできないと思う。

  民主党はこの先、ますます危機管理能力が試される事態である。党首を変えても(多分彼では持たないだろう)この危うさが続くようだと、とてもじゃないが民主党に国政は任せられない。「交替可能な2大政党制」に期待を寄せる立場としては、本当に困ってしまう。

■「小さな政府」の落とし穴 06.2.1

 去年9月の衆院選挙で小泉自民党は「郵政民営化」と同時に、「小さい政府」、「官から民へ」というスローガンを掲げて圧勝した。 「小さい政府」、「官から民へ」は今や小泉改革と同義に使われており、小泉改革の陰の推進役である竹中総務相も、口を開けば水戸黄門の印籠のように持ち出している。
 しかしここへ来て、格差社会や民営化の欠陥(耐震強度偽装事件)が問題になり、小泉改革の「小さな政府」が民主党などから批判されている。
  小泉は「じゃあ大きい政府がいいのか」と相変わらずの強弁ぶりだが、両陣営とも表面的な言葉の投げ合いだけで、掘り下げた議論になっていないように私には見える。

  かくいう私も、これらのスローガンが意味するものをどの位正確に理解していたのだろうかと考えると、これが結構怪しいと認めざるを得ない。そこで今回はインターネットの助けも借りて「小さな政府」、「官から民へ」の本質を探りながら、小泉流スローガン政治の問題点を考えてみたい。

◆「小さな政府」スローガンの出所
 そもそも「小さな政府」とは、アダム・スミス(18世紀イギリスの経済学者)以来の自由主義に根ざした経済政策で、政府の市場介入を最小限にして自己責任に任せ、安上がりの政府を目指すものである。
 市場に任せることで効率性の高い経済が可能と言うが、一方で公平性は保障されず、格差や階層社会の固定化が問題となる。アメリカやイギリスは既に1980年代から「小さな政府」を目指しているという。(ウィキペディア)

  これらのスローガンが日本ではいつ頃登場したのか。小泉改革を進めるために設けられた、政府の「経済財政諮問会議」(平成13年)の資料をネットでのぞいてみた。
 この会議では当初、小泉の「改革なくして成長なし」を合言葉に、経済活性化のための不良債権処理やIT社会の構築などが議論されたが、平成16年に郵政民営化の議論が始まると「民間に出来ることは民間に」、そして「小さくて効率的な政府」(平成17年前半の答申)というキャッチフレーズが出てくる。

 一方これに遅れて平成16年から動き出した、内閣の「規制改革・民間開放推進会議」。配布資料を見ると、これまで官が扱っていた医療、福祉、教育、農業、公共放送など、様々な事業を民間企業に開放し、資金を民間に流すための規制改革が議論されている。
  「官から民へ〜官製市場の民間開放」(平成16年)、「お役所仕事の改革による官の仕事減らし〜小さくて効率的な政府の実現に向けて」(平成17年9月)、「官(による配給制度)から民(による自由な選択・競争)へ(平成17年12月)などなど、向こう受けをねらったキャッチフレーズが並んでいる。(*1)
 
◆ 「小さな政府」スローガンの落とし穴
 さて、こう見てくると、小泉改革の「小さな政府」の本質は、これまで官がやっていた仕事を可能な限り民間に廻し、そこに新たなビジネスチャンス(金儲け)を作るということで、それ以上でもそれ以下でもないことが分かる。 これは、つまり100という政府から20でも30でもはがせるだけはがして民間に廻す、と言うことであって、「残った80の政府で何をやるのか」と言うものではないということだ。

  「小さな政府」を言うなら、大きな政府から何を引き算するのかと同時に、残った小さな政府で何をしていくのか、「国家のあり方」まで考えなければならないと思う。しかし小泉改革ではそこがすっぽりと抜け落ちている。
 スローガンとして聞くと、そこに何か「小さな政府」という新しい国家像があるように錯覚してしまう。そこがスローガン政治の落とし穴と言えるだろう。

◆「小さな政府」の文化と「大きな政府」の文化
 例えば、アメリカには、もともと自由を求めて新大陸にやってきただけに、市民が政府の干渉を嫌い、出来るだけ安上がりの政府(「小さな政府」)を目指した建国以来の文化がある。
  同時に(私も以前取材したことがあるが)、アメリカには政府や民間企業のほかに非営利のボランティアやNPOという巨大な第3の柱がある。寄付金制度なども早くに整備され、市民が自立的に「小さな政府」の足らざるところを補っている。

 一方、日本人は良くも悪くも明治以来、お上(政府)に頼る生活してきた。国の裁量の中で、弱肉強食ではなく公平性を保ち、国民が大体中流でまとまっていくというのが、国の伝統文化だった。市民が政府に頼らず自己責任で生きていくという意識は希薄なのである。
 そうした日本でアメリカ流の市場原理主義に倣って安易に「小さな政府」を導入すれば、(最近の事件のように)社会に思わぬ混乱を引き起こすことにもなりかねない。

◆21世紀の「国家ビジョン」を
 私は、国がこれだけ(770兆円!日本の借金時計)の借金を抱えている以上、日本でも「効率的な政府」の模索は必要だと思う。しかし、国の成り立ちや文化が米英と違う日本で「小さな政府」を試みていくには、少なくとも以下のような国家ビジョンを国民に説明しなければならないと思う。
@ 待ったなしの財政再建(国の借金を減らす)をどういう道筋で果たすのか。規制緩和(民営化)がそれとどう
  結びつくのか。
A 競争原理導入で心配される社会的弱者の切捨て、格差拡大にどう対処するのか。(「小さな政府」と矛盾す
  る)福祉などの社会の安全ネットをどう確保するのか。
B 強いものがますます強くなる市場原理主義の行き過ぎ、逸脱を誰がどう監視するのか。公平性をどう保って
  いくのか。
C 国の重要課題(高齢化と少子化、教育と文化、平和と安全)にどう向き合うのか。

 これからの「小さな政府」は経済の活性化だけでなく(それだけなら反対)、むしろ「21世紀の新しい国家像」を描くくらいのつもりでやって欲しい。
  さもないと、単に市場原理主義者たちを儲けさせ、一握りの勝ち組を作る政策に過ぎなくなる。金儲け主義優先の風潮によって日本の古き良き伝統文化が破壊されて行く心配もある。
  アメリカ並みの格差拡大を肯定する委員がいたり、どさくさにまぎれて国の財政とは無関係の放送制度をいじろうとしたり、私は既にその心配は現れているように思う。

*1)
  「お役所仕事の改革」、「官製市場」、「配給制度」など、「官」はすべて古くて悪いと決め付けるような、有識者の議論にしては随分と一方的なフレーズではある。内容を読んでも最初から「結論ありき」の感が否めない。 こうした諮問会議を多用する小泉手法は、官僚や族議員の利権を打破するには適しているが、批判もある。

 一つはメンバーの選び方によっては最初から「結論ありき」の議論になりかねないという問題である。「規制改革・民間開放推進会議」では議長(宮内)が筋金入りの市場原理主義者だというところが小泉や竹中に見込まれたのだろう。また最近、竹中が自らメンバーを選んでNHK改革に関する私的懇談会を作ったが、座長(松原)らの考えを読むとこれも「結論ありき」の顔ぶれと言えるのではないか。

  もう一つの大きな問題は、国家の重要案件(例えば「皇室典範に関する有識者会議」など)でも、諮問会議が「有識者もこう考えている、議論を尽くした」という都合の良いアリバイ作りに利用される恐れがあるということだ。 そうなると国会での議論が形骸化し、結果として、国民はもちろん国会議員にさえ内容が充分理解されないまま法案が通ったりする。諮問会議利用の影の部分として注意しなければならない問題だと思う。

■若者よ団結せよ! 06.1.22

 以前にも書いたが、同居の娘は銀座の老舗デパートで働く接客労働者である。と言ってもデパートの社員ではなく、そこに出店しているアパレル産業の社員だ。その道では結構人気のブランドを扱う全国展開の会社である。
 彼女が入社した去年4月段階で店の従業員は14人だったが、一年間に6人が辞め、補充は2人、現在は10人で年中無休の店を運営している。10人中、正社員は5人に減り、後はアルバイトと準社員(成績によっては正社員に登用する)である。

 昼食は1時間の休憩(順番に時間をずらして取る)があるが、夜は10時まで働く時でも30分の休憩時間しかない。その間に何か少し口に入れるだけで夜中帰ってきてから腹に詰め込む。通勤時間1時間、朝7時に家を出て立ち詰めで働いて夜11時、12時過ぎに帰宅する毎日だ。
 本社の総合職を希望して入社した(娘のような)社員も、こうした販売員の中から選ばれるシステムで、本社までたどり着けないうちに辞めてしまう社員も多いらしい。

 聞くと他の店舗も同じような状況だという。時間外のサービス労働も日常化している。対応策を取らないのは多分、(この世界では勝ち組らしい)オーナー経営者が、若者たちの「自分の好きなブランドで働けるのだから我慢できるうちは我慢する」という気持ちに甘えている(利用している?)からだろう。

◆けなげに働く若者たち
 私が時々行く銀座や渋谷の飲食店。様々な規模のチェーン店が多いが、そこにも正社員やアルバイトの若い店員が働いている。その店で私が最近感心するのは彼らの働き振りである。
 客の注文にこたえて忙しく店の中を飛び回っているが、きびきびと実に感じのいい笑顔で接客する若者が何人もいる。私はその若者たちの「とびきりの笑顔」にちょっと感動を覚えたりする。娘に重ね合わせているのかも知れない。

  彼らは時給800円位の店員やフリーターだろうが、彼らの笑顔を支えているのは何なのだろう。「マニュアルや店の教育なんかじゃない」と娘(ついこの前までそうした飲食店でアルバイトしていた)は言うが、そのわけが分からない。
  「意欲に欠ける」、「我慢ができない」、「何を考えているか分からない」というのが今時の若者像だったはずだが、何がどう違うのか。問題点の研究は盛んだが、若い世代の良質な部分の研究というは遅れているとしか思えない。
  同時に、こんなことも考える。成功して勝ち組などといわれているチェーン店のオーナーたちは、けなげに働くこの若者たちに正当に報いているのだろうか。

◆若い世代の前に立ちはだかる壁
 今、日本は勝ち組と負け組、富める者と貧しい者、といった二極化が進んで新たな階層社会に入っている。
 その中で消費者としての彼らは携帯やIT、ゲームなど、若者を対象とした様々なビジネスの分野で日本の景気を支えて来た。その一方で、派遣やフリーター、ニートといった下流社会に位置する若者たちも多い。
 そこから這い上がろうにも、這い上がる手段がイメージできない「思考の壁」に阻まれて、その日暮らしのまま社会の下部構造を支えているという。(「下流社会 新たな階層社会の出現」)

  こうした若い世代は、問題の放置によって今既に社会から奪われているものを取り戻すことが出来るのか。そのために若い世代が連帯し、社会に向って声を上げることは出来るのだろうか。

◆若者の可能性
  1月5日放送のドキュメンタリー「にっぽんの現場 東京渋谷発、俺たちのメッセージ」(NHK)は、渋谷にたむろする茶髪、ガングロの若者たちが力を合わせてユニークなイベントを実行するというものだった。
  リーダーたちは苦労しながらも最終的に有明コロシアムに四千人を集め、「ドラッグをやめよう、街をきれいにしよう、親に感謝しよう」といった彼らの考えたメッセージを社会に伝える様々なパフォーマンスを行った。茶髪やガングロの若い世代が大人から自立して連帯し、自分たちの主張を内輪ではなく社会に向ける、というのは最近にない新鮮さを感じさせた。

  この番組の見どころの一つは大人から見れば社会の鼻つまみのような彼らの中からも、何かやろうとすれば必ず優秀なリーダーが生まれるということである(彼は大変有能だった)。

◆若者よ立ち上がれ
 去年、フランスなどのヨーロッパ先進各国で若者たちの暴動が吹き荒れて社会問題になった。その背景には日本などよりはるかに深刻な階層社会、貧富の差がある。
  作家の塩野七生は「問題を解決するには経済的援助だけでなく、失業中の若い世代に自尊心の持てるような職業を与える政策が重要だ」と書いている。(月刊文春2月号コラム)
 私もこうした「上からの政策」は必要だと思うが、日本の若い世代にはもう少し別なことを期待したい。

  それは「好きなことが出来ているのだから」と我慢せずに、もっと声を上げてもらいたいということだ。暴動や犯罪と言った反社会的な行動を取れということではないが、若い世代には自分たちの置かれている現状に甘んじることなく、自分たちの主張を大人社会にぶつけてもらいたいと思う。
 何だか若者を煽(あお)っているようだが、ある種本音でもある。私は若い世代が(内輪ではなく)社会に向かって主張するための組合、NPO、さらには若い世代のための政党が出来てもいいとさえ思っている。

  年金、増税、格差など様々な世代間難問が予想されるこれから、若い世代が声を上げていくことは高齢化していく日本社会の閉塞感や停滞感を打破する貴重な原動力になると思う。
  「若者よ団結し、そして立ち上がれ!」 活発な議論を重ねれば、若い世代にも正しい道が見えてくるに違いない。大人の価値観に左右されずに自分たちの意志と感性で行動する若いリーダーたちの出現を期待したい。

■アメリカの2つの顔 05.12.27

 イラクへの自衛隊派遣、北朝鮮問題に関する6カ国協議、中韓との付き合い、米軍基地再編問題などなど、日本の重要な問題には常にアメリカの存在が大きな影を落としている。
 そればかりではない。日本の純粋な内政問題である金融制度改革、規制緩和・民間開放、建築基準法の改正、そして小泉改革の本丸といわれた郵政民営化さえも、日本から利益を引き出すためにアメリカが周到に仕掛けた「日本改造計画」だったという論証も出てきた。(「拒否できない日本」、「騙すアメリカ、騙される日本」)  

 アメリカが知らない間に日本を変えようとしているのが本当だとすると、私たちもこれまで以上にしっかりとアメリカを見ていく必要があるだろう。日本の一市民がアメリカをどう考えようと、唯一の超大国からすれば痛くも痒くもない話ではあるが、今回は、最近私の頭の中に勝手に像を結び始めた「今のアメリカの姿」を資本主義と民主主義の2つの顔から書いてみたい。

◆資本主義の国・アメリカ
 まずアメリカの代表的な顔である資本主義。このアメリカの資本主義が近年、グローバル化によって世界中から富を吸い上げる高度な仕組みを築いてきたのはご存知の通りである。
 アメリカの企業グループは海外との企業戦争に勝つために、政府と一体になって自分たちのルールを世界標準として認めさせ、有利な競争条件で世界市場の拡大を図ってきた。(「グローバル化をどう考えるか」)
   *日本の場合それは、金融制度、会計制度、建築基準法など国の構造そのものの変革に及び、その結果今、日本の金融、保険、
    不動産などなどの分野で「外資」が急成長している。


  一つのイメージとして、世界市場の上に築かれた「富のピラミッド」が頭に浮かぶ。ピラミッドを高く築くには底辺を大きくしなければならないが、グローバル化による市場拡大で底辺は広がり、「富のピラミッド」はますます高く巨大になる。そしてその上層部を占めるのは、ピラミッドの隅々にまでITの情報網を張り巡らせたアメリカである。
  このピラミッドの上部を占めるアメリカの資本主義(これをソロスの言うのとは別な意味で仮にグローバル資本主義と呼ぶ)が具体的にどんな行動を取っているのかを把握することは難しい。
  アメリカの政策を決めているのは一握りのパワーエリートだというが、私はこれと重なる形で、このグローバル資本主義こそが、自分たちの都合のいいようにアメリカの行動を決めているのではないかと疑うようになった。 以下、2つの例を挙げる。

◆アメリカの一国中心主義と資本主義
  国連の大方の意見を無視してブッシュが始めたイラク戦争。テロからアメリカ国民を守る、フセイン政権を倒し中東のイスラム圏に民主主義を広げていくことがアメリカの安全につながる、というのがその名分だった。
  しかし、肝心の大量破壊兵器情報が全くの嘘であり、中東に民主主義のとりでを広げていくなどと言う名分が夢物語に過ぎないことがはっきりしてくると、アメリカを性急に愚かな戦争に駆り立てたものは他にあったのではないかと思えてくる。
 それは、この戦争で誰が得をしているかを考えれば見えてくる。原油の高騰で笑いの止まらないアメリカの巨大石油資本と莫大な国防費で潤う軍産複合体(軍と軍需産業)である。
 
 地球温暖化対策を国際的に取り決めた京都議定書しかし、アメリカはこれだけ温暖化の傾向がはっきりし、巨大ハリケーンに悩まされるようになっているのに、依然頑なに参加を拒んでいる。これも背景にあるのは、温暖化対策で自国の企業活動が縛られたくないという、むき出しの資本の論理である。
 アメリカが掲げる民主主義の大義はどこへ行ったのか。一国中心主義を言い訳する、都合のいいお題目に過ぎなくなってしまったのか。

◆民主主義の国・アメリカ
 戦後のアメリカには環境運動、フェミニズム、人種差別撤廃運動、平和運動など、弱者救済を求める知識人による動き(リベラリズム)があり、これが民主国家アメリカのイメージを作ってきた。しかし近年の資本主義の変容は、このリベラリズムをも追いやろうとしているらしい。
 ブッシュ政権を構成しているアメリカのパワーエリートたちはリベラリズムを嫌い、自由競争を是とする強者の論理を強めているように見える。(「国家の呪縛」アメリカのネオコン、など)

  一口に、民主主義の国アメリカと言うが、その基本的精神は、自由競争主義であり、徹底した個人主義だ。 私たちのイメージする日本の戦後民主主義とはちょっと違う。今のアメリカの民主主義は自由競争の原点に先祖がえりしたのか、強大になった資本主義の行動をチェックするリベラルな機能を失いつつある。イラク戦争開戦時の議論、メディア報道などをみると、特にそう思う。

◆アメリカのイメージ
 アメリカの資本主義と民主主義は、近年までアメリカの顔を代表し、アメリカンドリームを支える車の両輪として互いにその特質を補い合って来た。しかし、この2つの関係は、グローバル資本主義の台頭で全く別なものに変わってしまったように見える。
そして今、私の頭の中には次のようなイメージが浮かんでいる。
  『アメリカの資本主義は政府と一体になって、あくなき利益を吸い上げるために世界を動かしていく。「右手に口実としての民主主義、左手に世界最強の軍事力」を掲げながら。』 日本はこのアメリカとどう上手に付き合っていけばいいのだろうか。