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  今週の鑑賞。定年後の身辺雑記

「原発ゼロ」のシナリオ後の状況 12.9.20
 「原発ゼロ」を言うか言わないか、閣議決定するのかしないのか、などと政府のエネルギー政策が迷走するのを横目に、自分なりの『「原発ゼロ」へのシナリオ(1)、(2)』を書き終え、原発問題に一応の決着をつけたつもりになった。早速、他のテーマに手をつけたいと思っているのだが、なかなかエンジンがかからない。夏バテで疲れたせいもあるのだろう。
 ノートには幾つものテーマが出揃っていて、殆ど書きだせばいいまでになっているのだが、今一つ踏ん切りがつかない。「風の日めくり」は、気ままに思いつくまま書ける利点もあるので、こちらでその状況のあらましを書く。

◆尖閣問題をどう書くか
 書くべきテーマとは、例えば、尖閣問題に関する日中関係。政権交代後の民主党の3年と自民党の3年。橋下大阪市長の日本維新の会について。宰相の器と政治家の顔。困った時のドイツ。日米原子力同盟。などなどだ。
 ジャーナリスト(或いは市民でも)なら誰でも関心を持つべきテーマであり、私もそれぞれに関連する本や雑誌の資料、新聞の切り抜きなどを集めつつある。しかし、踏み出せないのは、一つにはそれらのテーマが、それぞれ事態が急展開しているためもある。あれよあれよという間に色んな事が心配した方向に動いて行く。
 特に尖閣問題などがそう。尖閣問題には様々な要素、要因が複雑に絡んでいて、それらを多面的に理解していないと、一部政治勢力の短絡的扇動に翻弄されてしまう。センセーショナルな言説が飛び交い、議論が単純化して国と国の面子が激しくぶつかり合い、最悪の場合は局地戦になる。そうなれば、戦争の犠牲をいとわない中国に日本は負ける。戦闘が尖閣周辺に限定されている限り、米軍は助けてくれない(理由は本編で)。それが現実である。

 尖閣を巡る歴史的背景、日中戦争を巡る国民感情。中国の国内政治の矛盾の深刻さ(貧富の格差による不満の鬱積、特権階級の腐敗、軍部の台頭、穏健派と強硬派の権力闘争)。それと表裏一体になった近年の富国強大化と膨張路線。加えて、日本側の理解とは違って中国は本気で尖閣を自国の領土だと思っている。「日本の国境問題」孫崎亨、ちくま新書は明確に双方の論点を整理している)

 これらに対しては、じっくり長期的な戦略を持って取り組むべきなのに、そこに、敢えて火を投げ入れる日本の右翼政治家がいる。その思惑(日米同盟への揺さぶり、憲法改正による日本軍の復活、自主自立国家の確立)が何であれ、結果としてその火遊びは、中国国内の強硬派や軍部に口実を与える結果になり、損なわれるのは両国にとっての多大な国益である。
 今国益と言えば、尖閣を守ることだというが、日中間に営々として築いてきた戦略的互恵関係こそ両国にとっての最大の国益ではないか。世界に目を向ければ、領土問題は殆どが紛争ないしは戦争に直結して来た。従って、いまここで取るべき最優先の課題は、何としても武力攻撃に持ち込ませないあらゆる努力をすることである。

 ざっと、こんな論旨で書きたいのだが、これも書き始めたら長くなりそう。この段階でこんな予行演習のようなことを書いているのは、子どもの頃、テストの前夜に、勉強しなければと思っているのになかなか取りかかれずに、鉛筆などを削っているのに何か似ている。取りかかるのには、あと数日かかるだろう。

◆政権交代後の民主党の3年と自民党の3年
 現在、民主、自民両党とも党首選に向けて候補者たちが盛んにテレビに出ている。印象で言えば、自民党はやはり時差ボケのようになっているなあ、ということ。先日の「サンデーモーニング」で河野洋平が言っていたが、昔の自民党には右派もいればリベラルもと多様な人材がいたが、今回は右派ばかり。野党暮らしの中で民主党のだらしなさを追求ばかりして来た結果、新しい方向を模索するのを忘れ、保守本流に戻って右傾化するしかないと思い込んでいるのではないか。
 時代の変化、文明の分岐点にありながら、新しい保守を模索する意気込みが感じられない。マスメディアも個別テーマに対する考えは聞くが、どんな国にするつもりなのかを聞かない。中国に対して毅然と国を守るとは言うが、彼らはどんな「新しい日本の国のかたち、姿」を考えて来たのだろうか。それにしても、この中で誰が「宰相の器」なのか。かつて「顔を見れば分かる」(石堂淑朗、飛鳥新社)という面白い本があったが、この人の顔を毎日首相として眺めていたいというような人がとんと見当たらない。

 一方、民主党も同様。この3年、民主党は何故躓いたのか。様々な雑誌や新聞が、その総括を書いているが、これもテーマの一つ。アイデンティティを見失った民主党は、それでも古い自民党よりはましだと思うが、腰の定まらないヌエ的な存在になりつつある。その間にあって官僚だけがぬくぬくとしている。民主党が党首選を経てどこに原点を定めるのか、これもきちんと見極めなければならないだろう。

◆日米原子力同盟
 日本が脱原発をメッセージしたとたんに、様々な勢力が懸念を表明して政府が揺れている。経済界などの国内の原子力ムラは当然として、アメリカやIAEAの原子力機関などもだ。アメリカのエネルギー省副長官や、知日派と称するアーミテージやジャゼフ・ナイなどが様々なチャンネルで日本に懸念を伝えている。それを伝えるのは前原のようなアメリカべったりの政治家や、アメリカ寄りのメディア、記者などだ。
 余計な御世話と思うのだが、日本の官僚も、自分たちの権力、権益を守るためにアメリカを利用する構図が日本には出来上がっている。原子力についてはもう少し問題が構造的で、日本が原子力技術から撤退すれば、アメリカの原発はなりたたない状況にあるし、アメリカの世界核戦略の中に日本の核燃料サイクルも位置付けられている。しかし、脱原発への様々な反発は強いだろうが、覚悟次第なのは、ドイツを見ても分かる

◆困った時の(西)ドイツ
 その昔、特集番組を作っていた頃、日本が抱えている大きな課題が行き詰ると、西ドイツ(当時)を取材した。戦後処理の問題、教科書問題、自動車の安全基準の問題、地球環境問題など。私たちは、それを「困った時の(西)ドイツ」と言っていた。しかし、1990年代になって、GDPで日本がドイツを追い抜くと、日本の視線はアメリカ一辺倒になる。自由主義経済にまい進するアメリカの顔色ばかりを窺って来たが、アメリカからバブルを押しつけられ、それが破綻し、膨大な借金を抱えた日本はその間、果たして幸せだったのか。もう少し視野を広げておいた方が良かったのではないか。
 ドイツに関しては、最近は脱原発政策もあるが、その連邦制も十分研究すべきだと思う。連邦に殆どの主権を移譲し、国は重要な政策だけを担当する。税金も半分に分けて自由裁量権を与えている。「困った時のドイツ」はまだ生きているのかもしれない。

◆ジャーナリストの端くれとして
 というように、書くべきテーマは目の前にあるのだが、どれから手をつけたらいいのか。まあ、あまりジタバタしても始まらないし、ここで書くことが何らかの足しになるわけでもないのだから、気楽に出来る範囲でやるしかない。先日も北千住で、今度は別の店を開拓しながら先輩と一杯やった。その時の話を一つだけ書くと、我々はメディア関係者の端くれとして40年もやって来たので、今更何か別のことと言っても無理だよね、ということ。
 何を表現するにしても、ジャーナリスティックな眼は出ざるを得ないし、それでいいのかもしれない。頭と気力が続く限りは、それを追求して行く、ということで意見の一致を見た。特にもう慌てることはないのだから、じっくりやって行けばいい、と先輩は言う。去年の3.11以降も、原発事故を考え、原発問題を考え、脱原発の道を模索してきて、コラムの数は1年半で45本以上になった。上手く行けば新書版、ダメなら俺が本にするのを手伝うよ、と彼は言ってくれている。
薄れゆく記憶を生きる 12.8.31

 最近とみに記憶の抜け落ちに気付く。それも昔の記憶ではない。ここ5年、10年と言ったところの記憶がいつの間にか抜け落ちている。つれづれなるままに老いの心境の一つとして、そんなことを書き連ねてみたい。まずは、最近出かけた温泉行きから。

◆夏の終わりの温泉行
 先日、いつもの温泉仲間と栃木県の塩原温泉へ出かけた。前日は奥日光から足を延ばして金精峠を越え、昔行ったことのある丸沼(群馬県)に寄った。(記憶に焼き付いている)湖の見える木陰で一休みした後、湖に出て久しぶりにボートを漕ぐ。そこから塩原温泉までは車で2時間弱、これも2度目の和泉屋旅館へ。のんびりお湯に浸かって夜遅くまで酒を酌み交わした。

 翌日は旅館の御主人から聞いた所を回ることにする。まず、近くの塩原八幡宮を訪ねて樹齢1500年、幹回り11.5メートルという「逆杉(さかさすぎ)」の幹の太さに圧倒され、次に百合の花畑で売り出し中の「ハンターマウンテンゆりパーク」へ。
 ここは8年前にできたというが、スキー場の広大なスロープには500万輪とも言われる百合の花が一面に咲いている。最上部の一帯は、白樺林と百合の花畑という組み合わせ。おかしいことに、そこは何だか映画のセットのように美し過ぎて、いかにもあの丹波哲郎が言っていた、三途の川の先にある“お花畑”を思わせる。私たちは、そんな冗談を言い合いながら、いつかお迎えが来る時に見るかもしれない幻想的なその光景をカメラに収めた。

 山間をはしる塩原渓谷では、透き通った水がキラキラと陽光を反射している。岩の上ではその光を浴びてアキアカネが羽を休めている。一見のどかな風景だが、ここから暫く渓流を下って那須近くになると、そこは放射能汚染地帯だ。福島原発から100キロも離れているのに、空間の放射線量が0.25から0.5μシーベルト 。一部は国の除染対象地域にも指定されているが、この緑の一帯をどのように除染するというのだろうか。
 旅の最後に薬王寺という地元の古刹を訪ねた。ひなびた小さな寺で、明け放した本堂には誰もいない。私たちはいつものように本堂に上がらせてもらって御本尊(瑠璃光薬師如来像)に向かって正座し、般若心経を唱えた。外に出ると住職が手拭いを頭に巻いて草刈りをしていた。挨拶すると「気が付きませんで」と住職、「お経を上げさせて頂きました」と私。少しの間、立ち話をして帰路に就いた。

◆前回来たのは何年前?
 さて、私たちがお世話になった和泉屋旅館についてはこんなことがあった。翌朝、旅館の御主人においしいコーヒーを入れて貰いながら、前回泊まった時の思い出話をする。夕食の後、夜食にラーメンを食べたこと、出発前に旅館の玄関先にある赤い郵便ポスト(今となっては珍しい丸いポスト)の前に並んで記念撮影をしたことなど。ただし、それが冬だったことは覚えているが、何年前なのか、誰も正確に思い出せない。
 口々に「10年くらい前かなあ」など言っていたが、私もその前後の記憶は杳として消えている。帰ってから日記帳や手帳を引っ張り出して、ようやくそれが1998年の12月、14年前だったと分かった。私たちの温泉組はどうもその年の夏(この時はアユを食べに桐生に行った)から始まったらしい。最近いかに、ここ5年、10年の記憶の抜け落ちが激しいか、改めて思い知らされた。

◆「いま覚えているのがすべて」の日常生活
 若い時から時々日記をつけるようにはして来た。ここ12年ほどは日々の出来事を手帳に書く習慣がついている。それでも、滅多に読み返したりしないので普段は思い出せる記憶の範囲でしか生活していない。しかし、たまにこうした過去の資料を整理していると、脳裏から消えていた記憶が突然に蘇ってうろたえることがある。
 「ああ、あの人は亡くなってから10年になるのか」などということに驚く。あの頃は、しょっちゅう一緒に食事をしていたのに、いつの間にか疎遠になっている人がいる。いろいろお世話になったのに、全く忘れている人もいる。ゆっくりした時間の経過を生きているので、記憶が少しずつ消えているのに気がつかないのだろう。

 家人などはもっと徹底している。毎日のメモも残さなければ、海外旅行のアルバムの写真にも関心がない。時々、私以上に昔の些細なことを覚えていたりはするが、今の脳で思いだされるすべてが記憶のすべて。それほど自分の過去に執着もせず、その日その日を生きている。考えてみれば、(私も含めて)それが大部分の人の日常ではないだろうか。それで特別困ることもないのだが、分からないのは、それがいいことなのか、悪いことなのか。哀しいことなのか、楽しいことなのかだ。

◆本「昭(あき) 田中角栄と生きた女」
 自分の記憶について、全く違う生き方をする人もいる。「昭 田中角栄と生きた女」(講談社)は、田中角栄の愛人だった佐藤昭(あき)の娘、佐藤あつこ氏が人間角栄の過剰な愛、母と娘の壮絶な葛藤を描いた本だ。政治の世界に住む人間たちの業の深さを感じさせられる本でもあるが、その中にこんなエピソードが出て来る。「越山会の女王」と言われ、角栄の金庫番とも呼ばれた佐藤昭の死後、娘のあつこ氏は膨大な記録の整理に直面する
 すべて年代順にきちんと並べられた100冊以上のアルバム、手帳、帳簿類。政治の裏世界で権勢を誇った彼女と自民党の幹部たちとの数々の写真。そして100本以上のビデオテープも。昭は、プライベート旅行で海外を回る時にも専属のカメラマンを同行させ、自分の姿の一部始終を記録させたという。

 娘のあつこ氏は、「母は自分の思い出を整理して残すことが好きな女性だった。(中略)ただ、黄昏を迎えた人々が浸るそれとは少し違う。母の頭の中には壮大なストーリーがあり、その物語を構成するためのピースとして、記憶は整理されていた」と書いている。その思い出の数々をあつこ氏は、「お母さん、ごめん」と言いながら片っ端から棄てて行く。
 一人の人間が自分の物語のために過去の記憶に執着し、(思い出の)資料を残すことに執念を燃やす。しかし、死後それがどうなるかを思った時、時間の残酷さや記録を残すことの空しさを考えせられるエピソードだ。

◆薄れゆく人生の記憶を抱えながら
 その人が、名のある人なら回顧録や回想録(例えば日経新聞の「私の履歴書」のような)をまとめればいい。あるいは、社会的に無名であっても戦争体験などを自分史として残す人もいる。自分の人生の細部を意味づけして再構築し、まとめること出来れば、それは幸せなことだといえるだろう。しかし、平凡な人生を送って来た私には書くべきこともなく、労多くして益なし。残された時間をそのようなことに使うのがもったいない。
 かくて私などは、時々、過去の記録を引っ張り出して、時の移ろいにうろたえることはあっても、今の自分の脳が覚えている限りがすべて、といった生活を送ることになる。年月とともに薄れゆく記憶。それは、本来は何万、何十万というピースで出来ている人生のジグソーパズルの絵から、少しずつ少しずつピースがはがれ落ちて行くようなものかもしれない。

 出発の朝、私たちは14年前と同じように旅館の御夫妻と一緒に赤いポストの前に並んで記念写真を撮った。2012年8月20日、猛暑の夏。私は、この日付と旅の間に訪ねた場所をいつまで正確に記憶していられるだろうか。

淡々と、流れのままに 12.8.14

 昨日の午後、次の会合の時間までと思って、ひと駅ずらして乃木坂で降り、新国立美術館に立ち寄りました。あまり時間がなかったので、当日の催しのうち無料で見られる「日美絵画展」と「日本・フランス現代美術世界展」の2つをブラブラと見て歩きました。前者は油絵、水彩画、パステル画からデッサン、絵手紙、ちぎり絵まで、全国から出展された2000点が、後者はフランスや日本など11カ国の絵画350点ほどが並んでいます。いずれも、玄人はだしの絵画から、素朴な素人絵画まで。日美展には大賞から優秀賞、佳作まで色んな賞があります。

◆いつか油絵を描いて見たい
 こんなにも多くの人が絵を描いていることに感心する一方で、正直な感想を言わせてもらえば、オリジナリティーを感じさせる絵は数えるほどしかありません。もちろん、中には技術的に素晴らしい絵があるのですが、この会場に一枚でもゴッホやピカソやダリの絵が混じっていれば、すべての絵が色あせてしまう。厳しいようですが、それが芸術の奥の深さであり、至難なところなのでしょう。
 とはいえ、これら2000を超える絵からは、それぞれに描く楽しさのようなものが伝わってきます。一番多いのは、風景画でしょうか。それも川がある風景。さほど大きくない川が画面の中央に流れていて、両岸の木々から木漏れ日が落ちているような絵。

 「日本・フランス現代美術世界展」の方には抽象画もかなりあり、これは興味を持って見ました。実におこがましいのですが、この中に自分が描いた抽象画を置いて見たらどうなのだろう、などと思いながら。(もちろんそれは、これまでのような小さな画用紙の水彩ではなく)いつか大きなキャンバスに、骨格は今のようなものでいいから、細部まで細かく描き込んだ油絵をものにしてみたい。一年くらいはかかるでしょうが、これは空想のようなものです。

◆日常の時間のもどかしさ
 でも、残念なことに、どうすればそれが出来るのかが分からない。多分、地元の絵画教室にでも行って、絵の具の溶き方から勉強しないといけないだろう。そして、先生に自分には具象ではなく(それはもう手遅れ)、抽象画を描かせて下さいとお願いする。それを認めてくれたら、その絵画教室に通いながら場所を借りて描くのが一番いいかもしれないなあ。時々市民会館での展覧会なども覗きながら、最近は、そんなたわいのない空想の中を行きつ戻りつしています。

 まだ時間が十分とれないためもありますが、油絵で描きたいという思いが邪魔をして、一向に絵のようなものに取り掛かれない。そうこうしているうちに、時間だけが過ぎて行き、気がついた時にはすっかり「絵心」をなくしていた、なんてことになったらどうしよう。
 完全リタイアから1年8カ月。普段は“仕事らしきもの”や、人付き合いで何となく忙しく時間が過ぎているわけですが、それが途切れた時などに感じる老後の時間のしっくりこない、もどかしい感じは相変わらずです。

◆心身の状態と時間の流れ方のミスマッチ
 このもどかしい感じは、以前「老人性モラトリアム?」に書いたように、リタイア後の心身の調子、意欲、イメージなどと、日常の時間の流れ方がしっくり行っていないことから来るものだと思います。例えば、もっと何かやりたいと思っている自分がいる時には、目の前に流れている時間が物足りない退屈なものに感じる。
 ただし、以前の仕事のように、あまり疑いもなくのめり込むには、自分の老後の時間をそういうふうに使うことをためらう自分がいる。老後の時間の使い方、流れ方と、現在の自分の意識がミスマッチを起こしているのでしょう。これがあと3年もして、体力、意欲的に自分にできることの限界がはっきりしてくれば、時間の流れ方とも自然に折り合いがついて来る。

 もう一つ大きいのは、かつてのように意識の中心にあった「仕事」がなくなった結果、すべてのことに優先順位がつけにくくなったことがあります。家族や孫との付き合いも、庭木の剪定も、お手伝いをしている“仕事らしきもの(最近は大学生のリポートにせっせと点数をつけている)”も、ブログを書くのも。すべてが平等にやってきます。
 それにお付き合いしていると、時々ふっと、何か老後の時間のイメージとは違うよなあ、というもどかしさに駆られる。これが典型的な「老人性モラトリアム」の症状で、それに深く付き合い始めると、例の「初老性うつ」になってしまう。

◆淡々と、流れのままに
 ということで、こうしたしっくりこない感じ、もどかしさは、これはという趣味が確定し、“仕事らしきもの”が絞られて、意識と時間の流れ方が安定するまで、あと2、3年は続くと見なければならない。いま、私より少し下の団塊の世代も、同じように日々の充実というものを模索しているのでしょうが、老後の時間と言うのも、こう考えるとややこしいものですね。なかなか「人生の楽園」(テレビ朝日)のように、絵に描いたような(その人にとっては充実した)老後は難しい。

 しかし、これも覚悟を決めれば話は簡単になります。様々な日常の出来事やお手伝いの充足感などに一喜一憂せずに淡々と過ごしながら、心身が変化し時が熟するまで待つということです。殆ど主体性がない気もしますが、老後の体力も気力も、この先、それがどう変化して行くかは、自分にとっては全く未知の世界なのですからね。
 そして、その時には様々なことにもある程度の優先順位ができ、何かを取捨選択すると言う自らの選択も後悔なくできるようになるかもしれない。あるいは、病などで否応なく選択を迫られるかもしれないし。それまでは、「淡々と、流れのままに(一日一日を頑張る)」――最近、しきりにそう言い聞かせている自分がいます。

原発の暑い夏・貰ったメールから 12.8.5

 猛暑が続いている。その炎天にもくもくと積乱雲の黒雲が。そこで一句、『炎天に 業のようなる 雲湧けり』。原発再稼働も温暖化による猛暑も皆、人間の強欲のなせるところ、でしょうか。
 国民そっちのけで、自分たちの欲得だけを考えた政局の混乱が続く中、一方では、原発依存か脱原発か、大事な方針を決めるための「
エネルギー政策の選択に関する意見聴取会」や、新しいタイプの「討論型世論調査」が行われている。民意から呆れるほどかい離した政治家たちに対する国民の不信はかつてなく高まっており、国会を包囲するデモも盛り上がってはいるが、オリンピックや政局の混乱の中で、どうなって行くのか。

 原発論議もいよいよ解散、総選挙が近づいて来ると、選挙を意識した極端なデマゴーグが飛び交うことになる。熟議からは程遠い浮足立った議論は、結局何も生まず議論を振り出しに戻すことになる。それは日本の将来にとって大いなる不幸。ここは、政局に引きずられて右往左往せずに、粘り強く脱原発への論理と工程をしっかり積み上げて行く時だろうと思う。そこのところは「日々のコラム」で考えて行きたいと思うが、今回は、原発問題に関して最近頂いた2つのメールを紹介したい。

◆官邸と国会を包囲するデモ
 「日々のコラム」のお知らせをすると、時々メールで感想や意見を頂く。最近は国会デモに参加したAzusaから当日の雰囲気を伝えたリポートが届いた。このデモの本質が「闘いのデモ」でなく、「主張のデモ」と感じたとある。本人の了解を得て一部を紹介したい。

 国会包囲デモに行ってきました。大勢の、それこそ日本列島の縮図のような色々な方が、それぞれの思いを胸に来ていました。整然とした包囲でしたが人数が膨らんだため、途中でバリケードが崩れ、封鎖されていた国会正面前の道に人が移動しました。私も一員として、その中にいました。
 そこで目にしたのは、真っ暗な国会議事堂でした。日曜日なので真っ暗なのは当然だと思いますが、しかし、これが現時点の政府の象徴のように思えてなりませんでした。

 正門前、明るい照明の中の人々は自分自身の気持ちを意思表示する声をあげていました。その明るい人々から国会方向に目をやると、そこには真っ暗なもの言わぬ国会議事堂があるのです。大勢の人々の声が届かない国会。メルトダウンし、もはや中身は無いが、権力を誇示し、民意は無視し、権力と権威だけは持っていると思い込んでいる、我らが政府の象徴がそこにありました。あまりにも鮮明で、象徴的な図柄だったので一言お伝えしたかったのです。』

 『(中略)その声もそろっている時もあれば、バラバラの時もあり、声の大きい人が音頭とりをしたり、拡声器の声が音頭をとったり、私達の知っていた60年、70年代のデモとは様相がかなり違います。そのぬるさ加減をデモ経験者は批判しますが、これはデモという同じ言葉でも全く違うものだと思いました。
 その違いの核は「闘いのデモ」ではなく、「主張のデモ」なのだと思います。継続していけば、主張に耳を傾ける姿勢が出てくるのかどうか分かりませんが、それが私達の今できる事なのだなとあらためて思いました。』


 国会包囲デモについては、無視を決め込んでいた一部メディアもしぶしぶ取りあげるようになり、最近では政治家までがすり寄っている。鳩山が演説し、菅が市民代表と会った。野田首相も会見に前向きだそうだが、これは政局の中で不透明。しかし、いずれも選挙を意識した儀式やパフォーマンスに終わる可能性は高く、こうした会見が脱原発に効果があるかどうかについては様々な議論がある。
 市民側のこうした動きに批判的なグループからは、デモの変容を云々する意見も出始めているが、悪知恵の働く政治家たちに高まったエネルギーを吸収されたり、勢力を分断されたりしないためには、脱原発を見届けるまで地道に声を上げ続けるしかない。(私も参加しよう)

◆日本の既成勢力の背後にあるアメリカの影
 もう一つのメールは原発問題と日米安保の関係を指摘したものだ。
 『「3.11の事故を経験して、日本は変われるか」、本当にその通りだと思います。金曜日の官邸デモ、7.29国会大包囲などに、「もしかしたら、少しは変われるかもしれない」と期待します。
 根本は、アメリカとの関係ではないでしょうか。原発の日本導入は、1953.12.8のアイゼンハワー大統領の国連演説「平和のための原子力」政策の訴えに始まるといわれています。この演説を踏まえて、同盟国などへの濃縮ウラン100キロの提供と、国際原子力機関の創設が提起されました。目的はソビエトを抑え、アメリカ主導の核管理体制を作ることでした。

 このことを考えると、日米安保体制を問い直さざるを得ないと思います。オスプレイでの、野田の発言、「配備はアメリカ政府の方針であり、(日本から)どうのこうの言う話では基本的にはない」を想うと、アメリカの「安全保障」への配慮はあっても、日本人の安全など念頭にないようです。この骨の髄から「日米安保絶対」の体質をマスコミも含めて考えなおせるかどうか。そこに「日本は変われるか」の根本問題があるように、私は思います。』

 実は私も原発再稼働を企む日本の既成勢力の背後にアメリカの影を見ている一人ではある。それが日米安保体制なのかどうか、についてはまだ良く分からないが、日米原子力協定を始めとする原子力を巡る日米の強固な利害関係が、日本の原発政策に大きな影響を与えていることは間違いないと思う。最近私は「脱原子力国家への道」(吉岡斉)を読んでいるが、著者は、日米の原子力に関する強固な利害関係を「日米原子力同盟と呼んで、それを脱原発に立ちはだかる最強の障害と言っている。

 さらに最近私は、こうした日米関係を、官僚が我が身を守るための盾(たて)として利用し、政治家までを脅して来たと言う意見を読んで痛く興味をそそられた(*1)。そう言われれば、官僚たちが目障りな小沢一郎や鳩山由紀夫などを追い落とす材料に、アメリカの影を使った形跡は大いにありそうだ(*2)。
 普段はあまり気がつかないが、オスプレイ問題にも見るように、こと軍事に関しては日米関係は日本人にとって戦前の天皇制のように不可侵なものになっている。それ以外の分野でも、日本は踏まれても踏まれてもついて行く「下駄の雪」状態にある。これが原子力政策にも当てはまるのかどうか。日本はアメリカの意向を無視して独自に脱原発に踏み切れるかどうか。その可能性がないのであれば、今政府が行っているエネルギー政策に関する意見聴取会なども、税金を使った茶番に過ぎなくなる。このアメリカの影(日米原子力同盟)についてはいずれコラムの方できちんと考えてみたい。(8/8、前回アップした内容から、Nスペを「日々のコラム」に回し、一部書き足しました)

*1)「日本の官僚支配と沖縄米軍」(米国の威を借りて自民党を恫喝した官僚)
*2)「小沢切りの真相と深層」(アメリカの思惑と一致した動き)

北千住の居酒屋で話したこと 12.7.10

 夕方5時半に先輩のNさんと北千住で待ち合わせて、近くの居酒屋へ。焼き鳥とポテトサラダ、そら豆、穴子の天ぷら、イカ刺。それに生ビールと焼酎のお湯割りを注文しながら、この半年あまりNさんが東京の下町を足を棒にして調べた「むさしあぶみ」の研究について話を聞く。
 仮名草子「むさしあぶみ」は江戸の大半を焼き尽くした「明暦の大火」(1657年)について、京都在住の浅井了意が江戸まで出かけて調査、記録したルポルタージュ(1661年刊行)である。

◆「明暦の大火」の記録「むさしあぶみ」
 Nさんは3か所から出火したというその延焼状況を江戸時代の古地図と突きあわせ、東京の街を歩きながら、「むさしあぶみ」に出て来るエピソードの数々を読み解いて行く。火の手が迫る中で罪人たちを解き放った牢奉行、石出帯刀(たてわき)の話、逃げる人々が折り重なるようにして死んでいった浅草門周辺の状況。
 この時の焼死者は一説に十万人というが、作者の浅井了意はその時の様子を『一語一語から感じ取れる息づかい、ドキュメントの躍動感、高まる胸の鼓動――、あたかも「声で伝えることを想定して」書かれたもののごとくである』(Nさんのリポートから)というような文章で活写した。

 研究をまとめたNさんの「むさしあぶみ〜仮名草子作家 浅井了意の挑戦〜」は1万3千字の原稿となって彼が世話役をしている同人誌に載ることになっている。その同人誌「いちもん」はもう20年以上続いているが、今では製本にして配る手間を省くためにネット上で閲覧する仕組みだ。ただし、知り合いの印刷所に頼むと、データからあっという間に製本してくれるので毎回何冊かは製本して、そのうちの1冊を国会図書館に収めている(国会図書館にはこういう類の本を喜んで引きとる制度があるらしい)。81号以後の「いちもん」

◆自由に軽々と羽ばたく知的好奇心
 半年の成果を書き上げたNさんの頭の中には、すでに次の構想が膨らんでいる。一つは、朗読と合唱による「カンタータ・むさしあぶみ」の舞台上演。演奏曲は(私の知らない)オルフの「カルミナ・ブラーナ」だそうだ。これまでも古典の朗読をこなして来たNさんだが、今度は(活字ではなく筆書きそのままを刻んで印刷した)変体仮名の台本を読む。その「筆の呼吸」が伝わるような新しい朗読に挑戦してみたいという。
 もう一つは、「むさしあぶみ」という本のタイトルが平安時代の「伊勢物語」から取られたとことに関係する。そのなぞ解きは置くとして、Nさんの次の関心は、「伊勢物語」の主人公、在原業平が関東に左遷された時(東下り)の足跡を探ること。業平橋や言問橋(*)など、今も東京下町に名残のある在原業平だが、Nさんの知的好奇心は軽々と時代を越えてどこまでも広がって行く。*「名にし負わば いざ言問はん都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」

◆江戸と現代には似通ったところがある?
 生ビールから焼酎のお湯割りへ。酒を飲みながら私たちの会話は、我々世代でやれることや、一緒にやりたいことなどに移って行く。次の温泉行きはどこにするか、ふるさと村の村おこしはどうするかなどなど。そんな時、ふと私の頭にある考えが浮かんだ。それは。。。
 私たちは定年になってようやく、サラリーマン時代に引きずっていた様々なしがらみや価値観から解放されて自由になった。そして、お金はないけど時間だけはたっぷりある。そう考えると、今の私たちは、その昔江戸の文化を開花させた人たちと似通った状況にあるのではないか?ということである。

 江戸時代の武士も町人も(現代より年齢は若いが)早くに家督を譲って隠居し、それまでのしがらみを離れて自由に好きなことに打ち込んだ。そして浮世絵から歌舞伎や俳句、そして寿司や天ぷらなどの食文化まで、世界に誇る文化を育て上げた。
 同じように今の日本にはしがらみから解放された膨大な数の定年退職者がいる。サラリーマン時代に背負っていた「目標達成や出世競争、組織への忠誠や自己規制、コンプライアンスやガバナンスなど」といったちょっと窮屈な価値観の荷をおろして、目の前のたっぷりある時間をどう使おうかと考えている。

 そして現在、ネット上にあふれる様々な表現活動や、時折送られて来る会社OB向けの近況報告を見ても分かるように、みんな実に自由に軽やかに生き始めている。個人的な趣味の世界にせよ、何がしか社会とつながった活動にせよ、多くの人がびっくりするような創造的な老後を送り始めている。
 とすると、今の日本人も頑張りようによっては、かつての江戸時代と同じように、未来に通じる独特な文化を創造出来るかもしれないなあ。Nさんの江戸研究に触発されたのかもしれないが、これはちょっとわくわくするような思いつきだった。

◆世界一の老人大国・日本の可能性
 今の日本は世界一の老人大国になった。60歳以上の人々が人口の30%を占め、しかもこの割合は年々増えて行く。これだけの急速な高齢化は人類史上初めての経験であり、その意味で日本社会は未知の領域に突入していると言える。政府も「高齢社会対策会議」を作って高齢者の生きがいや活躍の場などについて議論をし始めたが、そういうものは官僚の作文に終わるだろう。私が期待するのは、定年後の自由人が自分たちで見つける価値観であり、文化的成熟である。

 人口の3分の1を占める4200万の人々が窮屈な価値観に縛られずに、趣味でもボランティアでも鑑賞でも旅行でも、はたまた若い世代の応援でも何でもいい。好きなことを自由な発想で楽しむようになれば、社会も新しいものに変わって行くのではないか。それがどのような価値観を生み、どのような文化的成熟に結びついて行くのか。まだ明瞭に見えているわけではない。
 しかし、特に団塊の世代が大量に定年を迎えた2007年以後、日本は見えないところで「高齢社会の新しい生き方と価値観」を模索し始めているに違いない。世界一の老人大国になったからには、その可能性に期待したいのである。

◆自分はどうする?
 居酒屋の酒を切り上げて、私たちは北千住には珍しい静かで落ち着いたバーに移った。そこでマスターお気に入りのKeith Jarrettのピアノを聞き、カクテルを一杯だけ飲む。「Nさんもあと10年は元気で頑張ってよ。こっちも何とか頑張るから」。
 言いつつ、自分はどうなのだろうと考えた。取りあえずあと3年、この「メディアの風」を頑張って70歳を期に一冊の本にまとめよう。Nさんに倣ってそれを国会図書館に収めれば満足だ。その後は何をしようか?(「人生の趣味の季節」に書いたように)なかなかこれと言うのが見当たらないのが悩みだが、さしあたってはしばらく描けないでいる絵を本気で始めようかと思っている。

大学で教えるということ 12.7.1

 早いもので今年ももう半年が過ぎた。近所の遊水池のアジサイも大分色があせて来ている。6月29日は大学の講義の日で、3時からの「人物ドキュメンタリーの要点」と、続く4時45分からの「ネットの登場でテレビはどう変わる?誰がジャーナリズムを担うのか」。それぞれが90分で二階建ては初めてだったので、終わった直後は何かがっくり疲れて声もかすれていたが、その後、教師仲間4人(と言っても皆かつての同僚)で一杯やっているうちにようやく元気が出て来た。
 大学の授業も、終わった後の一杯が楽しみで出かけているようなもので、そういう意味では単純な肉体労働に近いかもしれない。時々はお世話になっている教授の部屋で学生たちと鍋を囲みながら酒を飲む。これから社会に出るという4年生を相手に「思い切ってやれ!」などとはっぱをかけたりして、それはそれで結構楽しい。

◆手探りの授業
 定年後、声を掛けられて趣味のような非常勤講師をやり始めてから、考えてみたら3年目に入った。「ドキュメンタリー構成」(前期)と「メディア・リテラシー」(後期)、それに4回ほどの「番組の企画制作」(ほかの大学)という講義だが、やりながらも大学で教えることは自分にとって何なのだろうと、時々考える。何しろ、今の大学生は自分の子供と孫の中間くらいの、どうにも距離がつかみにくい年齢なのだ。どこまで実生活の感覚を持っているのか(どこまで大人なのか)、何を考えているのか、何に興味を持っているのか、が良く分からない。

 先日も、かつて私が制作した番組から、寝たきりになった老人を医療がどう介護して行くのか、というドキュメンタリーを見せた時に、はっと思ってみんなは“床づれ”という言葉を知ってるかな?と聞いたら殆どの学生が知らない。授業の感想で見ていて辛くなるから、こういう番組は見たくないと正直に書いて来た女生徒もいる。
 さすがに次の授業の時に、「強要はしないけど、時には目をそむけずに見ることも大事だと思うよ」。「例えば、イラクの自爆テロで少女がボロボロになって死んでいるニュースなどがあるけれど、そういうイラクの現実と私たちの平和な生活も“ドア一枚でつながっている”と言うことを知っておく必要があるんじゃないかな」などと言って、ブッシュが始めたイラク戦争に日本も積極的に賛成したことを言わねばならない。まあ、メディア学部の生徒なので。

◆NHKスペシャル「脳梗塞からの“再生”」
 29日の授業では、「これから見る番組も、時々目をそむけたくなる様な場面があるかもしれないけど、目をそらさずに見て」と言って、ある「人物ドキュメンタリー」を見せた。私が感心して過去に何度かブログにも書いて来た、NHKスペシャル「脳梗塞からの“再生”、免疫学者・多田富雄の闘い」だ(「人間の素晴らしさ」、「寡黙なる巨人」)。
 免疫学者の多田富雄さんが2001年に脳梗塞で倒れて4年、日々リハビリを重ねながら自分の中に新しく目覚めた「命の再生」を科学者の目で観察して行く。番組は口からよだれを流し、食べ物を飲み込むにも難渋する多田さんの日常を追いながら、「命の再生」を見つめるというメインテーマから目をそらさない。

 ディレクターの上田真理子さんと面識はなかったが、一度教材として取り上げたいと思っていたので、今回初めて連絡を取り制作過程の様子を聞いた。合わせて彼女の同名の本(文芸春秋)を取り寄せて読み、改めて番組作りの奥深さに感心した。30分ほど見せた後、彼女から聞いた番組作りの模索の過程を話して最後の山場へ。
 見終わった後は、人物ドキュメンタリーの要点としての「テーマの発見、何に感動するのか、取材される側と取材者、視聴者との関係性、信頼関係の作り方、距離の取り方」などについて話す。人生経験の少ない学生たちに、実人生のこういう重いメッセージが伝わったかどうか。毎回、授業の感想を書いてもらっているが、それを見るのは来週になる。

◆大学で教える意味@体験をまとめる
 実は、私は人物ドキュメンタリーを制作した経験が殆どない。番組プロデューサーとして見て来た経験とか、その後関心を持って調べたりしてきたことが講義の土台になっているが、冒頭に書いたように、そういう自分なりのメディア論を教えるということは自分にとって何なのだろうと時々考えるわけである。
 一つは、40年以上もテレビの現場に関わりながら考えて来たことを、授業を契機に自分なりに整理し体系づけてみようと思ったこと。講義の内容には例えば、やらせ問題で痛い目にあいながら学んだ「ドキュメンタリーにおける事実と真実」もあるし、「メディア・リテラシー」の「視聴率の魔物性について」には、民放のプロデューサーたちに聞いた生な話なども入っている。
 直接自分が経験してきたことも、メディアの世界に触れながら考えて来たこともあるが、そういうことも含めて、学生にも分かる様なメディア論を一度まとめてみようと思った。授業に追われながらやっているうちに、その骨組みだけは見えて来たように思うので、近いうちにもう一度整理したいと思っている。

◆大学で教える意味A恩返し
 もう一つは、これまで自分が生計を立てて来たメディアの世界への恩返しかも。別に特定のメディアにではなく、この先も日本社会が必要とするメディアという世界への恩返しと言ってもいいかもしれない。学生たちが日ごろ何気なく接しているメディアの背後には、先人達が築いてきた奥深い創造の世界があることを少しでも分かって貰いたい、という気持ちである。

 前回の「社会派ドキュメンタリー」では、自動車の安全問題に長年かかわって来たディレクターを招いた。命取りになる様な落とし穴を慎重に避けながら、衝撃力のあるメッセージをどう伝えて行くのか。一つの番組の背後にいかに多くの思考が隠れているか、構成にどんな工夫が隠されているか、を話して貰った。
 (質問もあり、感想文でも好評だったが)こうした講義が、今の学生にすぐに役立つかどうかは分からない。ときどき暖簾に腕押しのような感じになり、時間がもったいないと思うこともあるけれど、大学教授など遠い存在だった自分の学生時代を考えれば無理もないことだと思う。メディア学部を志した学生たちがメディアに接する時に、あるいは将来メディアの仕事に就いた時に、何かを思い出してくれればいいと思うようになった。


◆若い世代と交流しながら
 学生相手ばかりでなく、ネットの動画サービス(サイエンスニュース)の編集長として制作会社の人々に接したり、若いディレクターたちと企画について議論したり、科学ジャーナリスト塾で原発番組について話したりもしている。これも言ってみればお世話になったメディアへの恩返しのつもり。今は既存のマスメディアが期待されている機能を果たしているとは必ずしも言いにくい状況にあり、マスメディアに対する風当たりもかつてないほど強いこうした恩返しが出来るのもあと僅かだと思うが、これからの日本社会の中で問われて行くメディアの責任の重ディアの可能性、やりがいについてちょっとでも若い世代に伝えられたらと思う。

 その一方で、今のネットメディアの状況を見ると、自分の40年の経験など吹き飛んでしまうほどの急変ぶりだ。これについても時折「メディアの風」で考えながら、大学の授業に適宜織り交ぜてはいる(「ネットの登場でテレビはどう変わるか?誰がジャーナリズムを担うのか」)。しかし、ネットの世界などはもう若い世代の方が私などよりはるかに知識が豊富。ときどき手伝ってもらいながらやっているが、そう考えると、この年齢になっても若い世代と交流しながら自分の関心事であるメディアについて考えて行けることにこそ感謝すべきなのかもしれない。