最近とみに記憶の抜け落ちに気付く。それも昔の記憶ではない。ここ5年、10年と言ったところの記憶がいつの間にか抜け落ちている。つれづれなるままに老いの心境の一つとして、そんなことを書き連ねてみたい。まずは、最近出かけた温泉行きから。
◆夏の終わりの温泉行
先日、いつもの温泉仲間と栃木県の塩原温泉へ出かけた。前日は奥日光から足を延ばして金精峠を越え、昔行ったことのある丸沼(群馬県)に寄った。(記憶に焼き付いている)湖の見える木陰で一休みした後、湖に出て久しぶりにボートを漕ぐ。そこから塩原温泉までは車で2時間弱、これも2度目の和泉屋旅館へ。のんびりお湯に浸かって夜遅くまで酒を酌み交わした。
翌日は旅館の御主人から聞いた所を回ることにする。まず、近くの塩原八幡宮を訪ねて樹齢1500年、幹回り11.5メートルという「逆杉(さかさすぎ)」の幹の太さに圧倒され、次に百合の花畑で売り出し中の「ハンターマウンテンゆりパーク」へ。
ここは8年前にできたというが、スキー場の広大なスロープには500万輪とも言われる百合の花が一面に咲いている。最上部の一帯は、白樺林と百合の花畑という組み合わせ。おかしいことに、そこは何だか映画のセットのように美し過ぎて、いかにもあの丹波哲郎が言っていた、三途の川の先にある“お花畑”を思わせる。私たちは、そんな冗談を言い合いながら、いつかお迎えが来る時に見るかもしれない幻想的なその光景をカメラに収めた。
山間をはしる塩原渓谷では、透き通った水がキラキラと陽光を反射している。岩の上ではその光を浴びてアキアカネが羽を休めている。一見のどかな風景だが、ここから暫く渓流を下って那須近くになると、そこは放射能汚染地帯だ。福島原発から100キロも離れているのに、空間の放射線量が0.25から0.5μシーベルト
。一部は国の除染対象地域にも指定されているが、この緑の一帯をどのように除染するというのだろうか。
旅の最後に薬王寺という地元の古刹を訪ねた。ひなびた小さな寺で、明け放した本堂には誰もいない。私たちはいつものように本堂に上がらせてもらって御本尊(瑠璃光薬師如来像)に向かって正座し、般若心経を唱えた。外に出ると住職が手拭いを頭に巻いて草刈りをしていた。挨拶すると「気が付きませんで」と住職、「お経を上げさせて頂きました」と私。少しの間、立ち話をして帰路に就いた。
◆前回来たのは何年前?
さて、私たちがお世話になった和泉屋旅館についてはこんなことがあった。翌朝、旅館の御主人においしいコーヒーを入れて貰いながら、前回泊まった時の思い出話をする。夕食の後、夜食にラーメンを食べたこと、出発前に旅館の玄関先にある赤い郵便ポスト(今となっては珍しい丸いポスト)の前に並んで記念撮影をしたことなど。ただし、それが冬だったことは覚えているが、何年前なのか、誰も正確に思い出せない。
口々に「10年くらい前かなあ」など言っていたが、私もその前後の記憶は杳として消えている。帰ってから日記帳や手帳を引っ張り出して、ようやくそれが1998年の12月、14年前だったと分かった。私たちの温泉組はどうもその年の夏(この時はアユを食べに桐生に行った)から始まったらしい。最近いかに、ここ5年、10年の記憶の抜け落ちが激しいか、改めて思い知らされた。
◆「いま覚えているのがすべて」の日常生活
若い時から時々日記をつけるようにはして来た。ここ12年ほどは日々の出来事を手帳に書く習慣がついている。それでも、滅多に読み返したりしないので普段は思い出せる記憶の範囲でしか生活していない。しかし、たまにこうした過去の資料を整理していると、脳裏から消えていた記憶が突然に蘇ってうろたえることがある。
「ああ、あの人は亡くなってから10年になるのか」などということに驚く。あの頃は、しょっちゅう一緒に食事をしていたのに、いつの間にか疎遠になっている人がいる。いろいろお世話になったのに、全く忘れている人もいる。ゆっくりした時間の経過を生きているので、記憶が少しずつ消えているのに気がつかないのだろう。
家人などはもっと徹底している。毎日のメモも残さなければ、海外旅行のアルバムの写真にも関心がない。時々、私以上に昔の些細なことを覚えていたりはするが、今の脳で思いだされるすべてが記憶のすべて。それほど自分の過去に執着もせず、その日その日を生きている。考えてみれば、(私も含めて)それが大部分の人の日常ではないだろうか。それで特別困ることもないのだが、分からないのは、それがいいことなのか、悪いことなのか。哀しいことなのか、楽しいことなのかだ。
◆本「昭(あき) 田中角栄と生きた女」
自分の記憶について、全く違う生き方をする人もいる。「昭 田中角栄と生きた女」(講談社)は、田中角栄の愛人だった佐藤昭(あき)の娘、佐藤あつこ氏が人間角栄の過剰な愛、母と娘の壮絶な葛藤を描いた本だ。政治の世界に住む人間たちの業の深さを感じさせられる本でもあるが、その中にこんなエピソードが出て来る。「越山会の女王」と言われ、角栄の金庫番とも呼ばれた佐藤昭の死後、娘のあつこ氏は膨大な記録の整理に直面する。
すべて年代順にきちんと並べられた100冊以上のアルバム、手帳、帳簿類。政治の裏世界で権勢を誇った彼女と自民党の幹部たちとの数々の写真。そして100本以上のビデオテープも。昭は、プライベート旅行で海外を回る時にも専属のカメラマンを同行させ、自分の姿の一部始終を記録させたという。
娘のあつこ氏は、「母は自分の思い出を整理して残すことが好きな女性だった。(中略)ただ、黄昏を迎えた人々が浸るそれとは少し違う。母の頭の中には壮大なストーリーがあり、その物語を構成するためのピースとして、記憶は整理されていた」と書いている。その思い出の数々をあつこ氏は、「お母さん、ごめん」と言いながら片っ端から棄てて行く。
一人の人間が自分の物語のために過去の記憶に執着し、(思い出の)資料を残すことに執念を燃やす。しかし、死後それがどうなるかを思った時、時間の残酷さや記録を残すことの空しさを考えせられるエピソードだ。
◆薄れゆく人生の記憶を抱えながら
その人が、名のある人なら回顧録や回想録(例えば日経新聞の「私の履歴書」のような)をまとめればいい。あるいは、社会的に無名であっても戦争体験などを自分史として残す人もいる。自分の人生の細部を意味づけして再構築し、まとめること出来れば、それは幸せなことだといえるだろう。しかし、平凡な人生を送って来た私には書くべきこともなく、労多くして益なし。残された時間をそのようなことに使うのがもったいない。
かくて私などは、時々、過去の記録を引っ張り出して、時の移ろいにうろたえることはあっても、今の自分の脳が覚えている限りがすべて、といった生活を送ることになる。年月とともに薄れゆく記憶。それは、本来は何万、何十万というピースで出来ている人生のジグソーパズルの絵から、少しずつ少しずつピースがはがれ落ちて行くようなものかもしれない。
出発の朝、私たちは14年前と同じように旅館の御夫妻と一緒に赤いポストの前に並んで記念写真を撮った。2012年8月20日、猛暑の夏。私は、この日付と旅の間に訪ねた場所をいつまで正確に記憶していられるだろうか。
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