「風」の日めくり                                  日めくり一覧     
  今週の鑑賞。定年後の身辺雑記

森の魂を描いた女性画家エミリー・カーC 16.3.1
 エミリー・カーが生まれ育ったバンクーバー島ビクトリア市には、彼女の足跡を物語る幾つかの場所がある。港に面した街の一角にあるのは、「OUR EMILY」と銘打たれた彼女のブロンズ像。犬を連れているが、肩に乗せているのはジャワ生まれの猿だ。その猿は「ウー」と名付けられて孤独な画家の話し相手になり、彼女に描かれて(写真)今に残っている。こんなふうに一風変わった姿でエミリーは、周辺の森に出かけていたのだろう。

 そして、もう一つは市内に今も残る彼女の生家。1871年に生まれたエミリーが両親と4人の姉たち、弟と少女時代を過ごした生家である。その後、人手に渡ったその生家が取り壊わされてアパートになるという話が持ち上がった時。その会話をたまたまレストランで小耳にはさんだ州の議員が、即座に銀行に行って自分の家を抵当に入れて金を借り、その生家を買い取ったという。それが今も残っている家だそうだ。
 明るい黄色の外壁を持つおしゃれな家で2階は寝室、1階は、居間、ダイニング、書斎、朝ごはんを食べるキッチンがある。今、この家に住むロスさんによると、当時のままなのはパントリー(食料品置き場)だけで、他は1960年後半から70年代までに改装されてはいるが、ほぼエミリーが暮らした時代のものに再現していると言う。

 居間でロスさんの話を聞いた。エミリーが先住民のトーテムポールを描いたのは、当時のカナダ政府が先住民の文化を残さず、取りあげてしまう方向にあったのを心配したからだとロスさんは言う。今、先住民の文化は彼ら自身の懸命な努力で残されており、エミリーの心配は杞憂に終わったが、ロスさんはそうした時代の背景やカナダの負の歴史も含めて理解してもらいたいと思って、エミリーの生家を公開していると言う。居間には、エミリーの絵だけでなく、かつて先住民が子どもたちのころ描いた絵も並べられている。
 先住民の文化に敬意を持っていたエミリー・カーの存在は、カナダの人々が試行錯誤の末に学んだ「多文化主義」を最初に表現したアーティストとして敬愛されており、その意味で、エミリーの絵をカナダの象徴(イコン)のように見る向きもある。

 ロスさんはまた、「(孤独とか変わり者とか言う人もいるが)幼い頃のエミリーは、幸せだったと思います」と言う。「この家も、幸福な空気が満ちあふれています。私の家族もそれを感じながら住んで来たし、娘たちもちゃんと育ってくれました」。「両親が早くに亡くなったので、大人になってからの付き合い方を学べなかったのかもしれません。エミリーを知っていた人は、繊細で傷つきやすいとも言っていますが、クリエイティブな人はみんなそうじゃないかしら」。
 さらに、こう言うことも話してくれた。「最後にこうなったのだから、残念な人生だったとは思いません。彼女にとって描き続けることが人生だったし、芸術を通して神に近づこうと求めて来たと思います。その生き方に影響を受けた多くの生徒もいます」(写真左が幼い頃のエミリー)。

 ビクトリア市では、毎年7月に「Paint-In」という大規模なアートイベントが行われている。地元芸術家160人が通りに沿って芸術を並べ、期間中、数万人の市民がそのアートを楽しむ。エミリーの絵を展示している美術館「Art Gallery of Greater Victoria」が後押しするアートイベントだが、そうした芸術に対する感情には、地元ビクトリアが生んだ女性画家エミリー・カーの存在が色濃く反映している。そのエミリー・カーが描いた象徴的な絵を最後に紹介してこの紀行文を終わりにしたい。
 1930年代になるとエミリーは、森の木々が無残に切り倒されたはげ山を描くようになる。カナダの深い森にも開発で少しずつ人間の手が入り始めたのである。その中の一枚が写真(バンクーバー美術館蔵)。はげ山に僅かに残された木が天に向かって立っている。背景の空は輝くようにその木を包んでいる。ジョアンさんはこの絵について、「この残された木は、材木としての価値はなかったけれど、天には愛された木」と説明してくれた。エミリーはどういう思いでこの絵を描いたのだろうか。私にはその木が、生きていた時代にはあまり芸術家としての価値を見出されなかったエミリー自身に重なって見えてならない。森の魂を描いた女性画家エミリーが亡くなって70年。今、彼女の絵はカナダの人々の心をしっかりとつかんでいる。(終わり)
森の魂を描いた女性画家エミリー・カーB 16.3.1
 エミリーの絵を集めた美術館としては、バンクーバー市にあるバンクーバー美術館も知られるが、彼女の地元であるビクトリア市にはもう一つブリティッシュ・コロンビア州立の博物館がある。ここには、彼女のスケッチや手紙、文章など1200点のほかに絵画200点が収められている。中には、彼女が新聞のために描いたマンガや手作りのランプシェード、絵模様を織り込んだ床マットまである。
 それらが収められている収蔵庫を特別に見せて貰った。担当者が彼女の絵が何枚も重ねて収められている引き出しから絵を引きだしながら解説してくれたが、ここではエミリーが先住民の村を訪ねて描いたトーテムポールの多彩なスケッチがある。節約のために、マニラ紙に速乾性の塗料を使って水彩画のように描いたものだが、こうしたスケッチは非常にのびやかで力強く、
スケッチ自体が完成作品になっている。











  左上の写真の絵(「Tanoo, Queen Charlotte Island」 1913年)は、先住民のハイダグアイの村で描かれたもので、エミリーの絵の中では最大のものだと言う。彼女の死後、ローレン・ハリスが選んでBC州に買い上げさせたもので額も彼が作った。亡くなる年の1945年、彼女は死後の財産保管人としてローレン・ハリスら3人を指定したというが、グループ・オブ・セブンへの信頼が厚かったことを思わせる話だ。
 担当者の解説によれば、グループ・オブ・セブンと違って、画家エミリー・カーの特徴は、あくまで西海岸の地元にこだわったこと。その風景が彼女にとって唯一の表現対象だったことだという。西海岸の「人々やその土地への愛」がベースになっており、エミリーも
「(ここは)まさに私自身の地であり、私の一部である」と書いている。










 晩年の彼女は、画家としては家族にも理解されず、名が知られるようになったのは物語作家としての最後の4年ほどだった。しかし、時には周囲の画家たちに嘲笑されながらも、画家としてのエミリーはずっと強い信念と自信を持ち続けながら描いて来た。
 前回、紹介した案内人のジョアンさんは、「エミリーは先住民や森、自然からインスピレーションを受けて描いたが、それまでの(森の外から描いていた)画家たちと違って、森の中から描いた初めての画家」だと言う。「彼女が南太平洋に行っていたら、ゴーギャンと同じような軌跡をたどったかもしれない」ともいう。

 当時の西海岸は、女性画家が容易に認められるような時代でも文化的環境でもなかった。その彼女がむしろ亡くなった後にカナダの人々の敬愛を受けているのは、そうした環境の中で孤独に独自の絵を追求した、その生き方の潔さにもあるのかもしれない。それはまた、先住民文化への理解が乏しかった時代に、いち早くそれに気づいて敬意と共感を示した先駆者としてのエミリーに対する尊敬の念も混じっているのかもしれない。このことを感じたのは、ビクトリア市に現在も残っているエミリーの生家を訪ねた時のことである。ここでは、取り壊されそうになった彼女の生家を購入して保存し、公開している人にエミリーへの思いを聞くことができた(最終回に続く)。
森の魂を描いた女性画家エミリー・カーA 16.2.25
 グループ・オブ・セブンの画家ローレン・ハリスに出会って以降、エミリーは先住民の文化(トーテムポールなど)ばかりでなく、カナダ西海岸の森や海辺の風景も描くようになった。当時のビクトリアは、町からちょっと足を延ばせば殆ど手つかずの自然が残っていた。彼女は、その森の霊気を吸い込むようにして様々な森の表情を描いて行った。このあたりの森は温帯雨林に属するが、彼女はそうした深い森の“気配”を自在に描いている。それは時に荒々しい原初的な緑の塊のようでもあり、時にゴッホが描いた糸杉の絵のような線描的な木々や空でもある。

 案内のジョアンさんは、エミリーの森の絵について「ダンスをしているような木々の枝や森の動き、光のリズムが好き」だという。そう言えば、彼女の絵にはまるでダンスをしているように枝を伸ばし震わせているような森の木々が描かれている(「Deep Woods」1936年)。文字通り「Dancing Tree」というタイトルの絵もある。
 あるいは、深い森の中で他の木々とは違って一本だけどっしりと幹を天に伸ばしている「Lone Cedar」(写真左)のような絵もある。この絵も、筆の動きは軽やかというかリズム感に満ちている。エミリーの絵には後段に紹介するようにもっと量感のある緑の塊のぶつかり合いのようなダイナミックな絵もあるが、美術館「Art Gallery of Greater Victoria」にあるのは、大抵がジョアンさんの好きそうな森の絵だ。ただし、その描き方は多様で、写真の「Blue Sky」(1936年)のような、ちょっと抽象化されたような森の絵もある。

 後半生のエミリーは、こうして様々なカナダの森の表情を描いて、まさに「森の魂を描いた女性画家」になったが、それは若い時から先住民の人々と交流し、自然を畏敬する彼らの精神に触れたことも大きかっただろうと思う。しかし、一方でエミリーは、その自伝に次のように書いている。「私は先住民から沢山のことを学んだ」。「しかし、カナダそのもの以外、誰がこの地の大きな森や空間を分からせてくれたか」。画家集団「グループ・オブ・セブン」が新しい画風によってカナダの自然を発見したのと同じように、エミリーもまたカナダ独特の奥深い森に相応しい表現を追求した画家だった。

◆エミリーが描いた場所を見に行く
 「晩年の彼女が実際にどういう所を描いていたのか、見に行きましょう」とジョアンさんが“アートツアー”に連れて行ってくれることになった。美術館から車で10分程、最初に連れて行ってくれたのはコルドバ・ベイという海辺だった。流木が流れ着いている海岸で、遠くに描かれていた小屋はもうないけれど、エミリーの絵(「Shore and Forest」1931年)そのままの風景が今も残っている。あのキャンピングカーの「エレファント」を運転してこうした人気(ひとけ)のないところにやってきては、好きな犬や猿と会話しながら描いていたのだろうか。

 近くには深い森が続いている。ジョアンさんは、持って来たエミリーの画集を広げながら森の木々について解説してくれた。この森には杉や(トーテムポールの材料になる)もみの木々が茂っている。
 また、彼女の生家の近くの公園の森には、彼女が描いた絵とそっくりの曲がりくねった幹や枝を持つ木もあった。晩年に心臓病を患ったエミリーは遠出ができなくなり、よくここへ歩いて来て描いたと言う。こうして実際の現場を訪ねてみると、その昔、エミリーが不自由な足を引きずりながらスケッチブックを持ってこのあたりを歩いていた光景が浮かんで来る。ローレン・ハリスに励まされたとはいえ、彼らは遠い東海岸の画家たち。ひとり孤独に森の木々たちと会話していた彼女は、
その時どのようなことを思っていたのだろうか

◆彼女はどういう思いで絵を追求していたのか
 最晩年の彼女は、先住民の物語などを書いた何冊かの物語でやっと有名になったが、絵の方では最後まで理解者が少なかった。その彼女が今、多くの人々に愛される画家になったのは、彼女の独特の絵だけでなく、逆境の中で絵を描くことを貫いた波乱万丈の生き方に惹かれるのかもしれない。絵を描くことに専念するために、一人の青年からのたびたびのプロポーズも断り、生涯独身だったこともある。
 その詳しい生涯については、彼女自身が書いた
「エミリー・カー自伝」や、「エミリー・カー」(野に棲む魂の画家)などの日本語訳本などを読んで頂くとして、知りたいのはやはり彼女がどういう気持ちで、あの独特の絵を追求し続けたのかということである(写真はかつてのエミリーのアトリエ)。それをさらに知るために、次回は同じビクトリア市にある、彼女の絵を収蔵している州立の「ロイヤル・ブリティッシュ・コロンビア博物館」と彼女の生家を訪ねる。(その前に、バンクーバー美術館の好意で彼女の森の絵を2つほど紹介しておきたい。彼女の絵のユニークさが分かる絵だ)
森の魂を描いた女性画家エミリー・カー@ 16.2.21
 カナダ西海岸のバンクーバー島ビクトリア。1871年(日本で言えば明治3年)、ここでイギリスからの移住者夫婦の間に生まれたエミリー・カー(1971-1945)は、カナダの原初的な森の風景をテーマに独特な絵を描いた女性画家である。小さい頃から絵を描くことが大好きで画家になることを心に決めたが、家族や周囲に芸術を理解する雰囲気は乏しく、孤独に自分の絵を追求するしかなかった。絵の勉強にと、若い頃にはサンフランシスコやロンドン、またパリにまで出かけたが、彼女が生涯のテーマとして描いたカナダの森や先住民の文化であるトーテムポールなどは、ヨーロッパ風の絵画を中心とする当時の画壇からはあまりに遠く、4人の姉たちでさえ冷ややかにしか見なかったという。(写真は22歳の時のエミリー)

 子ども相手の絵画教室を開いたり、バンクーバーで小さな展覧会を開いたりしたが、そのユニークな絵は評判にもならず、彼女は犬のブリーダーや下宿屋などで暮らしを立てながら絵を描き続けた。ある時は先住民の暮らす森を訪ね、ある時はビクトリア周辺の森や海岸を訪ねて。馬車に足の親指をひかれて怪我したために不自由な歩き方で、猿など好きな動物を乳母車に乗せて歩くエミリー。生涯独身で絵を描きやすいようにネットで頭髪を抑え、意志の強そうな目を持った彼女を、周囲の人々はちょっと変わった画家としか思わなかったようだ(写真は晩年のエミリー)。


◆Art Gallery of Greater Victoria
 その彼女の絵を評価する真の理解者が現れたのは1927年、彼女が55歳の時だった。それは、カナダの東海岸で活躍するグループ・オブ・セブンの画家たちで、中でもローレン・ハリスが彼女を見出したと言っていい。その時の話は後ほど書くとして、彼らの励ましを得た彼女は、その後も西海岸のビクトリアで一人孤独に独自の絵を追求した。1945年に彼女が74歳で亡くなった時、彼女の絵をまとめて収める美術館はなく、死後に彼女の絵を選んで美術館や博物館に買い上げさせたのもローレン・ハリスたちだったという。今では、多くのカナダの人々に愛されているエミリー・カーだが、その生涯でどのような絵を描いたのか。まずは、彼女の絵を収集している美術館の一つ、バンクーバー島ビクトリア市にある「Art Gallery of Greater Victoria」を訪ねた。

 この美術館は、1870年に建てられた実業家の邸宅を市に寄贈したもので、1951年に美術館としてオープンした。外観はごく普通の地方美術館だが、中に入るとかつての持ち主だったスペンサー家の居間や豪華な吹き抜けの玄関を見ることができる。エミリー・カーの絵のほかにもアジアの美術品を中心に1万9千点を収蔵している。設立資金の60%は地域住民からの寄付で、地元アーティストの個展を開くなど、地域のコミュニティーセンターのような存在にもなっている。

 訪ねた日に案内してくれたのは、ジョアン・ルーイさん(72歳、写真左)。大学で30年間キャリア教育に携わった経験を生かして、近年はエミリーが描いた場所を案内するアートツアーも行っている。芸術に関心が深い家庭に育ち、子どものころからエミリーに影響を受けたアーティストたちとの交流もあったという。画家としてのエミリーを深く尊敬している彼女は、一見して、絵本から抜け出て来たような個性的なおばさんだ。 

◆エミリー・カーのギャラリー
 早速、エミリー・カーの絵を集めたギャラリーに案内される。ここには、例えば彼女が20歳の頃に姉たちのために描いたユリの花(写真)など、絵の技巧としてはかなり確かなものを持っていたことを示す絵もある。

 また、30歳半ばに姉とアラスカを旅して描いたトーテムポールの絵(1907年)もある。これらのトーテムポールは実は観光用に並べられたもので、これを見てエミリーは先住民の文化が消えないうちに記録しておこうと思ったという。案内のルーイさんによれば、この後、彼女は先住民との付き合いを通して自然の魂を感じる感覚を研ぎ澄ましながら、先住民の文化や森の中に立つ様々なトーテムポールを描くことになる。
 そうして55歳でローレン・ハリスたちに見出されるまで、彼女はカナダ西海岸に住む先住民の文化を描くユニークな画家として一部に知られていたらしい。その時代の絵は、例えばオタワの国立美術館(写真)や同じビクトリア市にある州立博物館(別途紹介)、バンクーバー美術館などで見られるが、この美術館はむしろローレン・ハリスに出会った以降の森の絵の方が充実している。

◆カナダの森や木々を描くようになったエミリー
 1927年、エミリーは国立美術館で開催されたカナダ西海岸の先住民文化の絵画展に出品するよう招待され、その機会にグループ・オブ・セブンの画家たちと初めて会うことになる。当時、新たな絵画の潮流を作りだしていた彼らにとっても、エミリーの伝統に捉われない画風は魅力的で、ローレン・ハリスは彼女を仲間のように扱って、遠く離れた彼女を手紙で励まし続けた。「あなたの絵はまさに芸術作品であり、創造的な生命があふれ、息づいています」。そして同時に、彼女に先住民のモチーフばかりでなくカナダの自然を描くように勧めた。
 エミリーは「エレファント」(写真)と名付けたキャンピングカーを運転してスケッチ旅行に出かけるようになった。好きな犬を連れて、様々な森の表情を描いた。心臓を患った晩年は、近くの森に出かけて。その結果が、この美術館の中心をなす「Light Swooping Through」(写真、1939年)のような森や木々の魂を描いた絵になったのである。(次回に続く)
グループ・オブ・セブンの画家たちB 16.1.23
 マクマイケル美術館のほかにも、カナダ国内でグループ・オブ・セブンの絵画をまとまって見られる美術館が2つある。オタワにある国立美術館(National Gallery of Canada)と、トロントにあるオンタリオ美術館(Art Gallery of Ontario)だ。マクマイケル美術館を訪れた後、このうちの一つ、国立美術館を訪ねた。ガラス張りのメインホールを有するユニークな建物は、1988年に完成したものだが、美術館としての組織そのものの歴史は古い。かつては、国立自然博物館の中に同居していたが、1960年に国立美術館として独立した。

 ユニークな建築を少し紹介しておこう。設計したのは、イスラエル系カナダ人のモシェ・サフディ美術作品は自然光の下で鑑賞するのが一番という考えで、巧みに自然光を取り入れる構造にした。しかし、太陽光は作品を傷めるという短所もあるため、ブラインドによって調節する。ガラス張りのメインホールでは、そのブラインドが帆船の帆のように見える。時にはここで結婚式なども行われるそうだ。建物の前面にはカナダの自然を摸した庭が作られ、周囲の風景と調和するようになっている。オタワの観光名所の一つで、夏だけで110万人が訪れる。

◆グループ・オブ・セブンのギャラリーを見る
 美術館に入ると、最初にカナダ先住民の芸術の部屋、次いでヨーロッパの古典主義のような肖像画、宗教画、あるいは写実主義的な風景画の展示室があり、その次にグループ・オブ・セブンのギャラリーがある。やはり、彼らの絵はカナダ絵画史の中でも重要な位置を占めているのが分かる。案内してくれたのは、広報担当のアンドレア・ガンパートさん。ここでのグループ・オブ・セブンの絵画は、1910年に作品収集を委任されたキュレーターのエリック・ブラウンが収集したのが始まりだという。主に初期の絵画を集めている。ローレン・ハリスなどのほかに、トム・トムソンの有名なNorthern River(1915)やPine Island(1914)などの絵もある(残念ながら、これらは著作権上載せられない)。

 ガンパートさんによれば、グループ・オブ・セブンの絵は、ヨーロッパのポスト印象派の影響を受けているために、感覚的であると同時に情念的(エモーショナル)でもあると言う。その代表的な絵がJ.E.H.マクドナルドのThe Tangled Garden(1916年)。夏の終わりの庭を描いたものだが、庭の草花や節くれた木が“もつれた”ように入り乱れて描かれている。カラフルでルース・ブラッシングと呼ばれる荒い筆使い。一見20世紀初頭のフォービズム(野獣派)の絵のようにも見える。こうした絵は、今ではカナダの人々に受け入れられているが、当時の人々にはさぞショックだったろうと思う。

 例えば、それはグループ・オブ・セブンが登場する一世代前の19世紀後半のカナダの風景画と比べてみれば分かる。これは、国立美術館にある1880年に描かれた風景画(Sunrise on The Saguenay)だが、如何にも写実主義的な静的で精密な絵だ。2つの絵は年代的に36年ほど離れているが、比べてみると全く描き方が違う。J.E.H.マクドナルドの「The Tangled Garden」は、ヨーロッパの伝統を重んじる当時のカナダ画壇で、様々な論評の的となったが、新しい時代の到来を告げるような大きなインパクトを与えたに違いない。

◆カナダの大自然に相応しい描き方を模索
 グループ・オブ・セブンのギャラリーには、トム・トムソンの小さい合板に描かれた絵も沢山なら並べられている。彼が39歳で亡くなるまでの、わずか5年の間に北のアルゴンキン公園やスペリオル湖、カナディアンロッキー、そして極北まで。時に仲間とともに足を運んで切り取って来たカナダの手つかずの風景である。その数64枚。厳しい雪山の風景、春の日差しを受ける雪原、人影のない湖に映った美しい紅葉などなど。カナダの自然を描いた1枚1枚の板絵を見て行くと、彼らが如何にカナダの大自然や景観を愛し、それに相応しい描き方を真剣に模索していたかが伝わって来る。グループ・オブ・セブンの画家たちこそ、カナダの自然の素晴らしさ、豊かさ、奥深さを見出し、カナダの人々に「自分たちの国の自然が如何に素晴らしいか」を気付かせた画家たちだったと言える。

◆森の魂を描いたエミリー・カー
 グループ・オブ・セブンのギャラリーの入り口近くに、同じ頃にカナダの自然のもう一つの顔を描いた、ある女性画家の絵が展示されている。女性画家エミリー・カー(1871-1945)。グループ・オブ・セブンがカナダ東部で活躍していた頃、彼女は西海岸のバンクーバー島ビクトリアをベースに独自の画風で先住民のトーテムポールや森を描いた。先住民と触れあう中で、先住民の文化を吸収し、彼らの精神文化を尊敬しながらカナダの「森の魂」を描いた。孤立し孤独の中で絵を追求していたエミリー・カー。その彼女を見出し励まし続けたのも、グループ・オブ・セブンの画家たちだった。(エミリー・カーの絵とその物語については、次回以降に)
グループ・オブ・セブンの画家たちA 16.1.19
 1920年代から30年代にかけて、カナダ画壇に新風を巻き起こした画家集団「グループ・オブ・セブン」。美術収集家マクマイケル氏が、彼らの絵を中心に収集し寄贈したのが「マクマイケル・カナディアン・アート・コレクション」だ。美術館に問い合わせると、結成当初の7人の絵が405点、後にグループに加わった3人を合わせると557点の絵が所蔵されている。その他に、(後述するが)グループの生みの親とも言うべき若い画家で、グループ結成の3年前に謎の事故死をとげたトム・トムソン(1877-1917)の絵が84点ある。まさに、カナダで最大級のコレクションと言える。

◆キャンバスの代わりに持って行ったもの
 その中でも、目を引くのが小さな合板に描かれた絵と、それを拡大したキャンバスの絵である。その一例が、J.E.H.マクドナルドの絵(1919年)。縦横30センチ×20センチの板の絵を拡大再現した油絵(写真)だが、大きなキャンバスに描かれたエッセンスは、すでに小さな板絵にしっかりと描かれていて、その板絵がおろそかに描かれたものではないことを物語っている。また、中にはトム・トムソンのように板絵を描いた時点の早春の冷たさを、日差しが暖かい春の息吹に描き変えるような工夫をとりいれた絵もある。

 実は、ここにこそカナダの大自然の景観や風景を発見したグループ・オブ・セブンの特徴が隠されているという。彼らは、当時交通の便も悪く、滅多に人が踏み入れないカナダ各地を旅してカナダの風景を切り取って来た。その足跡は広大なアルゴンキン公園やスペリオル湖、ロッキー・マウンテン、ノヴァスコシア、そして極北にまで及んでいる。そういう所に出かける時に、大きなキャンバスを担いで行くのは不可能。そこで、厚さ数ミリの薄い合板を5枚くらい重ねて木製のカバンに入れて出かけた。写真はJ.E.H.マクドナルドが1920年から30年にかけて使っていたカバンだが、説明文によると、彼はこのかばんを持って3万6千マイルを旅し、7回もロッキー・マウンテンに行ったそうだ。

 その代表格がトム・トムソン。オンタリオ州の西部に生まれた彼は、絵の学校にもヨーロッパにも行ったことがない。独学で絵を始め、39歳の若さで死ぬまでの5年間にすべての絵を描いた。彼は、彼の死後3年にグループを結成することになる画家仲間を連れて北の自然や北極圏にまでよく足を延ばした。アルゴンキン公園では、カヌーを漕ぎ、魚を釣って、キャンプしならがスケッチを重ねた。その旅の中でカナダの大自然に触発されて、「これがカナダだ」とカナダ人の心に訴える、新しい風景画のパイオニアになった。
 家に戻ってから大きなキャンバスの油絵に拡大再生したものも、小さな板絵のままのものも沢山残された。その数は300点に上る。彼が短い人生の中で残した板絵について、学芸員のウェブさんは「小さな絵だけれど、すでに完成している」という。



 湖の向こうに林があり、その向こうに山が見える。しかし、それらは極端に低い位置に描かれていて、画面のほとんどを占めているのは連なる雲と青い空である。手前に来るほど大きく描かれている雲と青い空。小さく描かれている木々が、逆に空のスケール感を引きだしている。その画面一杯の解放感は、とても、これが横30センチほどの小さな絵とは思えない。

 一方、こちらも同じ場所から描いたのだろうか。今度は、空いっぱいに怪しい雲が立ち上っている。ウェブさんは「今にも嵐が来そうな空」というが、雲の上の方には、まだ(夕日だろうか)太陽の光が当たっている。手前の林はもう暗く沈んでいる。小さいのに、ドラマティックな絵である。
 中には、縦が15センチほどの小さな絵もあるが、描かれてから100年も経過したとは思えないほどの新鮮な感じがする。

 1917年7月8日、彼はアルゴンキン公園の湖にカヌーで魚釣りに出掛け、翌朝カヌーだけが発見された。遺体が見つかったのは7月16日。その死は謎とされたが、画家としてこれからと言う時の死は、仲間たちに大きな衝撃を与えた。しかし、その足跡はグループ・オブ・セブンに受け継がれ、新しい潮流を形成して行った。美術館には、ローレン・ハリスの小型の絵(右)も残されているが、こうした小さな絵の多様な集合が、カナダの自然の豊かさの表現となり、カナダ人の自然に対する新たなイメージを作り上げて行ったのである。

◆森の中にある墓地
 美術館の出口からすぐの森の中に、カナダの自然石をサークル状に並べた墓地がある。ここにはマクマイケル夫妻の墓のほかに、グループ・オブ・セブンの画家たち6人(ローレン・ハリス夫妻、A.Y.ジャクソン、アーサー・リズモア夫妻ほか)の墓がある。木漏れ日の中で、自然石に刻まれた名前を確認しながら美術館で見た絵の数々を思い起こす。それも楽しいひとときだった。
 (次回は、グループ・オブ・セブンを所蔵する、もう一つの美術館「国立美術館」を訪ねます)
グループ・オブ・セブンの画家たち@ 16.1.17
 去年の9月23日から10月4日にかけて、カナダの国立博物館と画家集団について取材した件はコラム「カナダ国立博物館巡り」で書いた。取材記は日本のカナダ観光局が主宰するサイト「カナダシアター」に載せる予定なのだが、これが忙しさにまぎれて遅れていた。このほど、画家集団について3回分を書いたので、こちらにも許可を得て載せておきたい。まずは、その一回目を載せる(2回目以降は「カナダシアター」の方を)。

◆◆◆
 カナダ最大の都市トロントから車で北西に45分程走った所にアーティストが集まるおしゃれな街、ヴォーン市クラインバーグがある。その一角の緑に囲まれた美術館が
「マクマイケル・カナディアン・アート・コレクション」だ。ここに自宅を設けた実業家、ロバート・マクマイケル氏(1921〜2003)が、こつこつ集めたカナダのアート作品を近所の人たちも見に来るようになり、それではと1965年にオンタリオ州政府に収蔵品を建物や土地ごと寄贈した。住宅として建てられた当初から徐々に土地を買い増して7倍に増やしたという美術館敷地には、谷や川、遊歩道があり周囲は保護区になっている。

 地形に合わせて起伏を設けた平屋建ての美術館で、各ギャラリーをつなぐ廊下の窓からは、季節ごとに色彩を変える豊かな森が目に飛び込んで来る。秋にはこれが美しい紅葉に彩られる。
 この美術館が異彩を放っているのは、集められた美術品がすべてカナダの芸術家の作品だと言うこと。先住民イヌイットの絵や彫刻、仮面など興味深い作品も集められているが、一番のセールスポイントはカナダの美術愛好家ならだれでも知っている「グループ・オブ・セブン」という画家集団の絵を大量に収蔵しているということである。


 グループ・オブ・セブンは、1920年代から1930年代にかけて、カナダの画壇に新風を巻き起こした画家集団で、1920年に7人の画家が集まって展覧会を開いたことから、この名がつけられた。その時のメンバーは、フランクリン・カーマイケル、ローレン・ハリス、A.Y.ジャクソン、フランク・ジョンストン、アーサー・リズマー、J.E.H.マクドナルド、フレデリック・ヴァーリーの7人。カナダの絵画史上、最も重要なアーティストたちとも言われる。


 ただし、グループ・オブ・セブンとは言いながら、このグループの生みの親とも言うべきトム・トムソンはグループ誕生直前の1917年に事故で亡くなっており、その後も出入りがあったりしたので、メンバーの数は計10人になる。
 それまでのカナダ画壇は、風景を描くにしても古典的な写実主義が中心だったが、ヨーロッパのポスト印象派(マティス、ルノワール、ゴッホなど)の影響も受けて、彼らはそれぞれ独特な手法でカナダの雄大な風景を描いた。それが、東と西が一体になってカナダが一つの国としてまとまって来た「時代のムーブメント」と相まって、カナダの大自然を見出した芸術として人々の心を掴んだのである。

◆新風を巻き起こした絵画たち
 当主のマクマイケル氏は気に入った絵があると、熱心に何度も足を運んで、家族とも仲良くなって譲って貰ったというが、収集家としての一途な情熱が今の貴重なコレクションにつながっている。美術館を訪ねた日、案内をしてくれたのは学芸員のミリアン・ウェブさん。ここに来て7年と言う彼女は、自身もイヌイットアートやコンテンポラリーアートの収集家で、学校などでも教えて来た人である。「グループ・オブ・セブンはカナダそのもの。今でも新鮮に感じるし、彼らの絵をとても誇りに思っています」という彼女は、早速、グループ・オブ・セブンの絵が並んだギャラリーに案内してくれた。

 メンバーが描いたのは殆どがカナダの自然や風景。それまでのカナダの風景画と言えば、オランダなどヨーロッパの写実画の流れを汲んで、写真で写したような静かで精密な絵が主流を占めていた。それを1890年代にヨーロッパに出かけたメンバーたちが、ポスト印象派の刺激を受けて大胆に変えた。それぞれが、それぞれのスタイルでカナダの大自然を力強く描くようになった。
 例えば、これはコレクターのマクマイケル氏が250ドルの分割払いで最初に手に入れたローレン・ハリス(1885-1970)の絵。前景に木々を配置した、当時としては斬新な構図で、湖の向こうに秋の紅葉を描いている。

 ローレン・ハリスは、後に静謐で神々しいような抽象化された風景画を描くようになるが、次の絵は既にその特徴が現れ始めているような絵だとウェブさんはいう。トロントの北200キロに位置するアルゴンキン公園で描いた絵(1917年)だが、静かで平和な自然のリズムを大事に表現しており、それ以前の写実派の絵のような細かい描写を巧みに省いている。それでいて力強さも感じさせる。



 ローレン・ハリスは、さらに独特な抽象化された風景画に移行する。これは湖の右上から光が差している風景画。ウェブさんは、これを神の光のようで高い精神性を感じると言う。別のスペリオル湖の広がりを描いた絵も、カナダの広大な自然の中に一人いる時の、孤独を感じさせる。彼の絵は、神秘的な体験に触れるような霊的な光を描き、魂の浄化を感じさせるまでになっていく。

 
 これは、
A.Y.ジャクソン(1882-1974)の風景画(左)とJ.E.H.マクドナルドの絵(1919年)(右)。それぞれ、太めの筆で荒いタッチで大胆な色遣いで力強く描いていて、グループ・オブ・セブンの画家たちの絵が当時、いかにセンセーションを巻き起こしたかが想像できる。登場した当初は、その絵があまりに大胆すぎて、当時の人々には気に入られなかったという。
 








 ところで、グループ・オブ・セブンの画家たちは、どのようにして当時は交通の便も悪く、滅多に人々が立ち入らないような手つかずの自然や景観を描いたのだろうか。それを物語る2枚の絵を見せて貰った。一方は縦30センチほどの小さな絵。そして一方はそれをキャンバスに拡大した油絵。これは1922年にアルゴンキン公園の紅葉を描いた、フランクリン・カーマイケル(1890-1945)の絵である。グループ・オブ・セブンの画家たちは、多くがこうした大小二つの絵を残しているが、その秘密については、次回に。
母死後の「きょうだい会」 15.11.22
 間もなく師走という先日、我々きょうだい4人と連れあいとで「きょうだい会」を開いた。7月に母が亡くなり、8月に納骨式をやって以来だから3ヶ月近くが経過していた。母がいなくなって心棒が抜けたような感じがしていたので、このまま年が明けてしまうと、「きょうだいは他人の始まり」のようになるのではという心配もあったのだろう。全員の賛成で集まることになった。昼前に水戸に集合し、母の眠る菩提寺に向かう。祖父母、父母が入った墓と父のきょうだいたちの墓前に花と線香を供え、例によって皆で「般若心経」を唱えた。寺の本堂前には見事な懸崖の菊の鉢が幾つも並べられており、イチョウの古木が葉を舞わせていた。
 その日の前日までは雨だったが、朝には雨も止んで陽も差して来た。北風が強いと言う予報だったが、風もない。やはり母は「晴れ女」だったのか。寺の境内で記念撮影をした後、市内のうなぎ屋に向かった。そのうなぎ屋は母が亡くなった当日、お盆の墓参りの後で昼食をとるはずの店だった。その店で、母が食べそこなったうなぎを皆で食べようじゃないか、という趣向である。2階の座敷の個室に座って、皆でその「うな重」を注文した。

◆母の写真を囲んで
 この日の朝、私の家に収まった仏壇をiPadで写真に撮った。納骨式の後、母の遺言に従って、実家にあった仏壇を弟が車で私の家に運んでくれたものである。そんなに大きな仏壇ではないのだが、狭い家なのでどこに置くかで夫婦の間でかなり揉めたけれど、ようやく置き場所を見つけて、ネットで探したローボードとホームセンターで購入した材料を組み合わせて場所を作り、その上に設置。部屋の片隅にしっくり落ち着いた感じになった。その写真を姉たちに披露しながら、母の写真の入ったiPadをテーブルに置く
 短歌をかじる弟が、喪中のハガキに添えた歌「たらちねの母は逝きたり 鳴き初めしカナカナの声 時に千切れて」を披露すると、「千切れて」より「途切れて」の方がいいんじゃないか、などと茶々をいれながら、写真を囲んで母の思い出話に花を咲かせた。亡くなる直前まで元気だったせいもあるのだろうが、我々4人はまだ何となく母がどこかにいるような感じがすることがある。誰からともなく、そんな話になった。この時期にそういう思いを共有出来ただけでも、「きょうだい会」を開いた意味があったかもしれない。久しぶりのうなぎも旨かった。 

◆先祖から続く時間の長さを実感
 食事の後、姉たち2人は上の姉の嫁ぎ先の墓参りに向い、弟夫婦と私たちは、先祖の墓があると言う別の寺に行ってみることにした。駅を挟んで反対の方角にある浄土宗(私たちは真言宗)の寺である。本家筋の代々の富右衛門さんのお墓があるということで、弟は以前に母と訪ねたことがあるという。そこは、江戸時代からの一族の墓が幾つも並んだかなり広い墓所だった。墓の記録を見ると、私の祖父の兄に当たる4代目富右衛門さんは、昭和23年に亡くなっていた。私が3歳のときである。
 その昔、叔父が作成した家系図によると、4代目富右衛門さんの父(3代目富右衛門さん、私の曽祖父)は明治17年に亡くなっている。随分と遠い昔のように思えるが、祖父が八男ということを考えれば曾祖父が亡くなった時と、ひ孫の私が生まれた時の間が60年以上離れているのも納得がいく。それを考えれば、孫たちが93歳で亡くなった私の母(曾祖母)にこの世で出会えたのは、やはり稀なことだったと言える。私の命も時代を越えたこういう先祖の営みを経て、様々な偶然の重なりの中で生まれ、また様々な偶然の重なりの中で私の子どもたち、孫たちにつながっている。一族のお墓にお参りしながら、長い時の流れと今あることのありがたさを感じたことである。

◆夫婦二人の未知との遭遇
 さて、我々夫婦は、ここへ来て殆ど未経験(40年振り!)と言っていいくらいの夫婦水入らずの生活に入ることになった。いろいろ気をもんだ娘の結婚がやっと叶うことになり、10月末にごく内輪の式を上げたからである。これから始まる老夫婦2人の暮らしも未知の部分が多く、なかなかスリリングではあるが、今の時代に老夫婦2人の生活と言うのは珍しくない。そうした暮らしもいろいろと参考にしながら、私たちにとっての「未知との遭遇」を何とか楽しみながら乗り切って行きたいと思っている。
 一方で子どもたちに対しては、娘が片付いてやっと肩の荷が下り、気分も大分軽くなった。息子たちもそれぞれに家庭を築いていてくれる。大したことはやれていないけれど、大体は責任を果たしたということになるのではないか。できることは、もう殆どない。後は、テロや戦争、災害や原発事故、そして地球温暖化と、心配の種は尽きないけれど、私たちに続く世代が無事に時をつないで行ってくれるように、この先の日本や世界が平穏であってほしいと願うばかりである。
ある先輩への手紙 15.10.14
 カナダを取材中に、NHKの同僚だった友人からメールを貰った。私が間に入ってお願いしていた、NHKの先輩への原稿依頼が無事達成されたという報告である。それは、私たちOBが読む会報への寄稿で、体が不自由な先輩に私が電話で依頼しておいたものである。友人からのメールには、「体調があまりよろしくないと途中に連絡をいただき、無理をなさらずにとお伝えしましたが、頑張って下さいました。お宅にもコピーをお送りするそうです。11月末に発行する会報に掲載させてもらいます」とあった。
 その先輩は、私にとっては「大先輩」と言っていい存在で、私がディレクターとして原子力や技術大国のNHK特集を作った時に、取材とはこういうものかと随分と勉強させて貰った先輩である。私たち若いディレクターは、その先輩の名前をとって「○○学校の生徒」と密かに自認していたものである。何年も前に患い不自由な身体になっても、出来るだけ外出して刺激を受けるのだと言っていたのだが、体調が良くないと知って帰国するまで気になっていた。

◆先輩からの手紙と、先輩への手紙
 カナダから帰国してみると、先輩からの手紙と原稿のコピーが届いていた。かつてNHKの大型シリーズで日本の様々な課題に取り組んだ先輩は、原稿の中でこれらを振り返り、番組が成功するたびに、『NHKの「頭脳知力集団」の存在を実感した』と書くと同時に、34年前の原発シリーズでは津波の危険性を指摘し得なかった自分を「自らの恥じ入る失策」として誠実に“ざんげ”もしている。そして、福島原発事故の後始末を見届けるNHKスペシャルの「廃炉への道」いう(数十年は続くはずの)長期シリーズに対して、「NHKが築き上げて来た番組制作のDNAを引き継ぐもの」として期待を寄せている。
 一方、手紙の方には、「小生、体調良からず、秋天を楽しむゆとりこれ無く。転倒防止を含め外出を控え、本の雨読、資料の山との“断捨離”ざんまいです」と書かれていた。そこで、私はカナダ取材で返事が遅れたお詫びかたがた、帰国した翌朝に以下のような手紙をしたためて速達で出した。(文中、先輩とあるところにはもちろん本名を入れている)

拝啓
 9月23日から10月4日まで10泊12日間、カナダ取材に出かけていまして、返事が遅くなり失礼しました。旅の途中でI君から先輩が、体調があまり良くない中で、頑張って書かれた旨のメールを貰いました。無理なお願いを申し出て、大丈夫だったのだろうかと大変気になっていましたが、取材を終えて昨夕、帰国しました。

 寄稿の文章とお手紙を拝読しました。本当に体調がお悪い中を「NHKが築き上げてきた番組制作のDNA」について書いて頂き、誠にありがとうございました。安倍政権におもねる“変人会長”と、その会長におもねる放送部門の幹部とによって、今のNHKの放送部門のDNAは厳しい環境に置かれています。その現状にあって、先輩のような方からの誠実で力強いメッセージは大いなる励ましになったと思います。ありがとうございました。腐った上層部はどうあれ、現場の頭脳集団がこのメッセージに励まされて、これからも時代のテーマと格闘して行くことを願うばかりです。

 体調の方は、くれぐれもお気をつけて下さい。2011年の秋のアーカイブスの番組の中で見ることの出来た、先輩の当時の颯爽としたキャスターぶりは、今のNHKマンにとっては、まさに驚異だったと思います。私たち“○○学校”の生徒としては、それに比べて今のキャスターたちの何と存在感の薄いことかと思いますが、それも粘り強く期待して行くしかないのでしょうね。体調にますます気をつけられて、存在を示し続けて下さい。

 小生の方も今年で70歳を過ぎ、何かと店じまいを意識するようになりました。しかし、表現者として請われるうちはと思って、自分の提案でカナダに行ってきました。カナダが2017年に建国150年を迎えると言うので、日本のカナダ観光局が様々なカナダの顔をウェブサイトにのせることになり、前からのお付き合いで小生に依頼が来ました。私が提案したテーマは2つ。
 一つは多民族国家で多文化主義を掲げているカナダの5つの国立博物館(歴史、自然、戦争、人権、美術)のユニークな挑戦をレポートすること。もう一つは、1920年から30年にかけて(それまでヨーロッパスタイルの絵画に甘んじていた)カナダ画壇に新風を巻き起こした画家グループ(グループオブセブンなど)の足跡をレポートすることです。これから半年以上かけて、「カナダシアター」というインターネットウェブサイトに連載して行きます。

 それにしても、このたびは、本当に無理なお願いを聞き入れて下さってありがとうございました。I君やO君と相談して、お宅の近くで昼食会などを企画するのは、どうかと思いますが、その時はまたお電話します。日本も急に秋風が肌に沁みるようになりました。お体大切にお過ごしください。     敬具

◆最後の希望(拠り所)への期待
 私信ということもあり、今のNHK(特に政治報道)に関する私の率直な感想も入っている。これについては、私ばかりではなく周囲からも良く聞くようになった。OBたちから現会長への様々な抗議も行われているが、当のNHK幹部たちが何を考えているのか、私たちに何も伝わってこないのが、歯がゆい。
 漏れ伝わって来るところによれば、変人会長はともかく、その会長に気に入られようとおもねる幹部たちによって、今の会長は「絶対権力」を誇っているとさえ聞く。これは、安倍首相一人が絶対権力を誇っている今の自民党と同じ構造で、いくら政治家やジャーナリストと言っても、それが人間の哀しい性(さが)なのかもしれない。その中で、最後の希望(拠り所)が「NHKが築き上げて来た番組制作のDNAを引き継ぐもの」への期待なのである。

 手紙が着く頃を見計らって、先輩のお宅に電話した。思いのほか声が元気だったので一安心。お宅の近くでお昼をするのはどうですかと訪ねると、「いや、この辺は何もないから、渋谷に出て行くよ」と言うことだった。そこで、友人たちと相談して、渋谷のレストランで昼食会を持つことにした。当日の天気がいいことを願っている。
93歳の母の死と葬儀(2) 15.8.13
 告別式の朝。火葬場に行く前に、母のきょうだい、私たち子ども、孫たち、そしてひ孫たちの4世代がお棺を取り囲んで、最後のお別れをした。8時半過ぎには、母の実家である福島県須賀川市からも叔母が従兄弟たちに連れられて車で到着した。長い人生を共に過ごして来た仲の良い姉妹である。前日に医師の許可をもらい、朝6時に家を出たそうだ。こうして集まった親族が、それぞれに母の遺言通りの白い花で母の周囲を埋めて行った。小学校6年と4年の私の孫娘たちもきちんと母の顔を覗き込みながら花を加えた。母は相変わらず端正で穏やかな顔をしていた。
 お棺のふたを閉める前に、親族一同で母を囲んで(私たちにはなじみの深い)「般若心経」を唱えることにした。弟が孫やひ孫たちも読めるようにと工夫した(コピーの)お経本を配る。その時、斎場には親族のほかには葬儀社の人がいただけだったが、その人たちも声を合わせてくれた。40人程の親族が心を一つにして「般若心経」を唱えているうちに、母を火葬場に送りだす前の何か大事な儀式を終えた気がした。

◆告別式で。孫とひ孫の別れの言葉
 告別式は午後1時からだったが、台風の余波の雨はほとんどやんでいた。祭壇にはお骨になった母、母の戒名が書かれた白木の位牌が並んでいる。俳句仲間が、母に捧げる「弔句」を色紙にしてくれたが、それも祭壇に並べた。参列者の焼香が始まる前に、Tちゃんの「お別れの言葉」があった。39年前に父が亡くなり、母の一人暮らしが心配になった頃、近くに住んでいた弟夫婦の配慮で母と一緒に暮らすことになったのが、中学校に入ったばかりのTちゃんである。
 母は孫娘の世話をしながら、Tちゃんが大学を卒業するまでの10年を、彼女に元気を貰いながら暮らした。市民俳句大会で一位になった母の俳句「少女らの男言葉や ソーダ水」も、どうやらTちゃんからヒントを得たらしい。そのTちゃんは、今小学校の先生で2児の母である。(本当は全文を載せたい位なのだが、彼女に叱られそうなので、母の人となりが感じられる部分を抜粋したい)

 『おばあちゃん、突然旅立ってしまいましたね。まだ気持ちの整理がつきません。「もう歳だから、いつお迎えがきてもいい」と言っていたけれど、何の前触れもなく、逝ってしまうなんて、本当に悲しいです。もっとおばあちゃんに会いに行けばよかった、電話で話しておけばよかった、と思います。』
 『毎日、決まった時間に起きて、食事を作り、会瀬の海を散歩し、寝る前に必ず家計簿と日記を付けていたおばあちゃん。四季の移ろいを感じ、俳句を作りながら、丁寧に日々を生きるおばあちゃんの暮らしぶりを間近に感じ、私は思春期を過ごしました。
 私が生まれる前に亡くなったおじいちゃんの話、戦争の頃の話、俳句の話になると、ついつい話が弾んで、夜遅くまで話していましたね。
 「ITに縁なき暮らし 日向ぼこ」。この俳句はおばあちゃんが作った俳句の中で私が好きな句の一つですが、お茶を飲み、のんびりと他愛もない話をしながらおばあちゃんと過ごした日々は、今振り返ると素晴らしい日々だったんだと今になってやっと分かります』

 『新年の俳句大会に、着物を着て、颯爽と出かけて行く美人で素敵なおばあちゃんは、私にとって自慢のおばあちゃんでした。(中略)
 久しぶりに帰省した時に感じる、おばあちゃんの家のお線香の香り、海の潮の香り、そして変わらないおばあちゃんの笑顔を見ると、「帰って来たんだ」と私はホッとしました。帰る時も、必ず駐車場まで出てくれて手を握り「がんばってね」とやさしく見送ってくれましたね。
 私が育児休暇中に俳句を作って送ると、とても喜んで添削してくれましたね。ひ孫達が作った俳句もいつも褒めてくれて、「もっとつくって どんどんつくって」と励ましてくれました。おばあちゃんとやり取りした俳句の手紙、おばあちゃんの二冊の句集は私の宝物にします。
 「思い出し笑いに回す 日傘かな」。これもおばあちゃんの句ですが、今頃、天国で日傘を回しながら、色々楽しかった事を思い出しているのでしょうか』

 次いで、ひ孫のR君(小学一年生)が、「おばあちゃんに、ぼくのきもちを俳句にしたので読みます」と、彼が母の死を聞いて作った句を読み上げた。
 「おばあちゃん ねているみたいに天国へ」
 「おばあちゃん 天国いってもまもってね」
 「ぼくたちと 空もいっしょに ないている」
 「ひまわりの けさはげんきが なく見えた」
 「おばあちゃん まだまだ俳句を みてほしい」
 「おばあちゃん ぼくは俳句を がんばるね」

◆母の晩年
 93歳と言うと、生まれは大正10年(1921年)になる。2歳の時にたまたま上京していて関東大震災にあい、背負われた肩越しに空が真っ赤に染まっていたのをうっすらと覚えているという。女学校を出てすぐに福島県から叔母の嫁ぎ先の水戸にやって来て、そのまま呉服商を継いでいた父と結婚。いとこ同士の結婚である。戦争で被災して商売が続けられなくなった父は、最終的には教育者になったが、その間、母は一家あげての疎開、田舎での子育てと随分苦労もした。戦後しばらくは父は無職で、母もやりくりに相当苦労したらしい。しかし、私たちきょうだいは飢えることもなく、それぞれにきちんとした教育を受けさせて貰った。
 54歳で未亡人になった後は、趣味の俳句にいそしみながら、Tちゃんの「お別れの言葉」にあるような生活を送って来た。「夫(つま)恋ひの夢醒めし時 霜の声」というような父を想う俳句も幾つも作った。やがて、弟夫婦が隣に引っ越してくれた。東日本大震災の時には、家の壁が落ちるなどの被害もあったが、それからは奥さんが同居してくれるようになった。そういうわけで長男のわたしは、感謝しながら安心していられた。戦争と2度の震災を生き抜いた93年の人生である。

 ひ孫達も集まって賑やかに祝った米寿、卒寿の後は、しばらくお祝いがないというので、私たちきょうだいは、毎年2回、連れあい同行で母を囲んで「きょうだい会」を行って来た。水戸のお寺に行って、父の墓前で揃って「般若心経」を唱えた後、食事会や偕楽園の散歩をした。そういう時も背筋をしゃんと伸ばして、弟の奥さんや妻と腕を組んでゆっくり歩きながら、「今が一番幸せ」というのが口癖だった。
 その一方で、毎年、弟に葬式の時に使う写真を撮らせていた。自分の戒名も、さっさと住職と相談して準備していた。「戒名に注文をつける人はなかなかいないんですがね」と、葬儀の時に住職が笑っていたが、住職が作った戒名の中に自分の俳号を入れて貰っていた。「いつお迎えが来てもいい」ように準備しながらも、「さよならのエンディングノート」のモットー欄には「日々前向きに、楽しいことを考えるようにしている」と書いていて、まさにそのように生きて来た。

◆亡くなる直前の俳句
 私たちにとって母の存在は大きく、亡くなって見るとその喪失感が思いのほか大きいことに驚く。せめてもの慰めは、一日一日を丁寧に生きていた母の最晩年がもう母なりの完成の域に達していたように思えることである。その意味で、母は天寿を全うしたと言えるだろう。皆が母との思い出に浸るしみじみとした葬儀だったが、その中にもどこかカラッとしたものがあった。
 告別式最後の喪主のあいさつで、私は母が亡くなる直前に「創作ノート」に記していた俳句を紹介した。「ひそやかに巡りてゆけり 梅雨の蝶」。梅雨の合間に、一匹の蝶がひらひらと庭にやって来て、静かに庭の木々の周りを飛んで、いずこともなく去って行った、という句である。私はその句を読み上げながら、「この蝶は、ひょっとしたら39年前に亡くなった父の使いだったかもしれません」と言った。その時、母は父の「もうそろそろこちらにきたらどうか」という声なき声を聞いたのかもしれないと思ったのである。(おわり)
93歳の母の死と葬儀(1) 2015.8.6
 人の命は、はかないとはいうものの、前日まで元気だった母が翌朝に亡くなって見ると、特にその思いを強くする。6月末に夏風邪を引いて熱を出し、しばらく咳をしていたが、それも恢復して元気にしていた。亡くなる当日(7月13日)は、新暦のお盆に入るというので、家族と墓参りに行く予定だった。前日に庭の花を切って用意し、墓参りに着て行く洋服を枕もとにきちんと畳んで就寝したが、翌朝、同居している弟の奥さんが起きて見てみると、座敷の椅子から崩れるようにして亡くなっていた。まだ身体は暖かかったという。このまま行くと、ひょっとしたら百歳まで生きるのではないかと密かに期待していたのだが、やはり、あの夏風邪で心臓が弱っていたのかもしれない。93歳と7ヶ月だった。

◆通夜まで
 朝6時頃に弟から一報を受けて、昼ごろに郷里に着いた。突然の死だったので病院で検視を受けた後、母は自宅に戻っていた。まるで眠っているような安らかな顔だったが、既に、葬儀社によって逆さ屏風が立て懸けられ、掛け布団の上には短刀(守り刀)が乗せてあった。患った後の死ではないために、顔もふっくらとしていて、呼べばすぐにも起きそうな感じである。午後、母が生前から会員になっていた葬儀社と葬儀の相談。亡くなったのは月曜日だが、諸々の都合で木曜日が通夜、金曜日昼が告別式ということになった。
 気がかりは、この猛暑である。聞くと、既に弟は病院で、その辺の相談を葬儀社としていて、母の遺体はこれから一旦葬儀社の方に運ばれ、「エンバーミング」という処置をされるという。時間をかけて、ある種の薬剤を点滴することによって、ドライアイスを使わなくても済むという。母は夕方に戻って来たが、相変わらず穏やかな顔をしていた。お陰で、この猛暑の中でも母が家にいる間中、家族は安心していられた。 

 通夜までの中2日は忙しく過ぎて行った。葬儀に参加する親族の確認、ホテルの手配、斎場までの移動手段、納棺の時に入れる品々、葬儀に供える生花、お寺さんとの連絡、通夜や告別式での料理の確認などである。しっかりものの母は、生前から自分の葬儀について「さよならのエンディングノート」というのに、自分の希望を書き遺していた。その中には、例えば「花は白で統一して欲しい」というのもあった。喪主である私は弟と相談しながら、およそそれに沿うように葬儀の内容を決めて行った。
 一方で、訃報を聞いて近所の方たちが三々五々とやって来た。皆、びっくりしていた。母は町内でも最長老になっていて、夕方、日課の散歩をする時などに近所のお年寄りたちと立ち話を楽しんでいた。ごく最近も話したばかりだったのに、という人たちが沢山いた。「声をかけてくれるのを楽しみにしていました」と言いながらひとしきり悲しんだ後、母の顔を見て口々に「本当に、うらやましい亡くなり方ですね」と、感嘆したように言っていた。中には「どうしたらこういう死に方ができるんだろう」と言う人もいた。

 地方版の「お悔やみ」欄に名前が出たこともあって、懐かしい人たちも訪ねて来た。かつて隣どうしだったSさんもその一人である。娘さんに連れられて「身体が弱って、お葬式には出られないので」と訪ねて来た。もう引っ越しして久しいが、私が幼いころは、隣同士で良く砂糖や醤油の貸し借りをしていた。聞くと、母はその後も時折、先方の家を訪ねてお付き合いを細く長く続けていたそうだ。「今度も、もう来るころと持っていたのに」と言っていた。
 39年前に亡くなった父にお世話になったというI先生夫妻も訪ねて来た。今から60年近く前になるが、貧しい女学生だった時に「勉強したいなら家に来なさい」と当時教諭だった父に言われて英語の勉強に通ったらしい。その時、母がいつも「おいものちゃきんしぼり」を作って食べさせてくれたそうだ。彼女は、その後先生になった。

◆住み慣れた家を出る
 こうして、中2日は過ぎて行ったが、考えようによってはすぐに通夜と告別式になるより、この方が良かったと思う。斎場に来られない高齢の人たちとも、こうして自宅で様々なお別れが出来たからである。来たいと言うのを「まだ出番ではない」と一日待ってもらった我々きょうだいの家族も集まった。母は同居していた弟の奥さんに、死んだら化粧は長姉にやって欲しいと言っていたそうだ。「あの子は化粧が丁寧だから」というのが理由で、長姉が母の顔を化粧し口紅を引いた。
 長女の母には、3人だけ残った仲の良い妹たちがいる。皆高齢だが、時々集まっていた。そのうちの一人、最初の日に母が都合悪く葬儀社に行っていて会えなかった叔母(母のすぐ下の妹)一家が再びやってきた。もう一人、母の一番下の妹は、福島県に住んでいて、今心臓や骨折など様々な故障を抱えているのだが、告別式の朝にはどうしても駆けつけて一目母に会いたいと言っているらしい。こちらは、無理のないようにと同居の従兄弟にお願いするが、明日医者に行って許可をもらってから来ると言う。孫たちもひ孫を連れて集まって来た。

 木曜日の午後。斎場に向かうのに先立ち、母をお棺に入れる作業が始まった。女性と男性の若い納棺師2人が母を清めた後、母が葬儀の時には着せてくれと言っていた「白無垢」の着物を着せる。母が嫁入りのときに実家から持って来たもので、少し黄ばんでいたが、真っ白より暖かい感じがして却ってよかった。姉によってもう一度化粧された母は、端正な顔立ちになって、どこか観音様のような雰囲気になって行った。それから私たち子どもで、三途の川を渡るための六文銭を入れ、白足袋と手甲脚絆をつけ、私の娘など孫たちが手や足をさすったりして、整えて行った。
 お棺の中には、亡くなる当日、お盆の墓参りに着ていく予定だった洋服や、俳句仲間が「お棺に入れて」と作って来てくれたお香袋なども入れた。午後3時半、西日本に台風が来ていて天候が心配されたが、出棺の時には雨はやんでいた。「お母さんは、晴れ女だから」と下の姉が言った。近所の人たち大勢が見送ってくれた。幼い頃、ともに遊んだ近所の小学校仲間も集まってくれた。彼らは斎場にも来てくれたが、最長老の母がいなくなって、この町内も一つの世代交代が行われたようだった。

◆斎場で
 こうした近所の人たちの他にも、母には長年お付き合いをして来た俳句の仲間がいた。既に何人かが自宅に訪ねて来たが、そういう人たちのために、葬儀社が会場の入り口に母の思い出の品を並べたらどうかと提案して来た。そこで、母の2冊の句集、市民俳句大会で一等賞を貰った時の小さなカップ2つ、広告紙などの裏側を綴じて作った俳句の創作ノート、そして亡くなる直前に作ったと思われる俳句を書いた色紙を並べた。ひ孫たち5人に囲まれてニコニコしている写真や、今年のお彼岸に水戸の偕楽園で梅の花を前に撮った写真なども加えた。
 母には、8人の孫と11人のひ孫がいたが、今年4月に生まれた私の孫も含め、11人全部の名前が言えるのが母の自慢だった。通夜前日、私は弟と相談して、告別式には弟の娘のTちゃんに「お別れのことば」を言ってくれるように頼むことにした。彼女は、早くに未亡人になって一人暮らしの母と、中学から大学卒業までの10年間を一緒に住んでくれた孫である。始めは「えーっ!泣いちゃうからダメ」なんて言っていたTちゃんだったが、一晩考えて翌朝には「やります」と言って来た。それと、今年一年生になるひ孫のRちゃんに、彼が母の死を聞いて泣きながら作ったと言う俳句6句を披露してもらうことにした。

 通夜は6時からだったが、雨は辛うじて止んでいた。近所の人々、俳句の仲間などが参列してくれたが、ひ孫たちも孫である母親や父親にくっついて焼香した。通夜の晩は、私と弟が斎場で泊まった。弟とビールを飲みながら安保法制の話などをしながら、時々母が眠っている祭壇を眺め、本当に母は亡くなったのかと思った。(つづく)