エミリーの絵を集めた美術館としては、バンクーバー市にあるバンクーバー美術館も知られるが、彼女の地元であるビクトリア市にはもう一つブリティッシュ・コロンビア州立の博物館がある。ここには、彼女のスケッチや手紙、文章など1200点のほかに絵画200点が収められている。中には、彼女が新聞のために描いたマンガや手作りのランプシェード、絵模様を織り込んだ床マットまである。
それらが収められている収蔵庫を特別に見せて貰った。担当者が彼女の絵が何枚も重ねて収められている引き出しから絵を引きだしながら解説してくれたが、ここではエミリーが先住民の村を訪ねて描いたトーテムポールの多彩なスケッチがある。節約のために、マニラ紙に速乾性の塗料を使って水彩画のように描いたものだが、こうしたスケッチは非常にのびやかで力強く、スケッチ自体が完成作品になっている。
左上の写真の絵(「Tanoo, Queen Charlotte Island」 1913年)は、先住民のハイダグアイの村で描かれたもので、エミリーの絵の中では最大のものだと言う。彼女の死後、ローレン・ハリスが選んでBC州に買い上げさせたもので額も彼が作った。亡くなる年の1945年、彼女は死後の財産保管人としてローレン・ハリスら3人を指定したというが、グループ・オブ・セブンへの信頼が厚かったことを思わせる話だ。
担当者の解説によれば、グループ・オブ・セブンと違って、画家エミリー・カーの特徴は、あくまで西海岸の地元にこだわったこと。その風景が彼女にとって唯一の表現対象だったことだという。西海岸の「人々やその土地への愛」がベースになっており、エミリーも「(ここは)まさに私自身の地であり、私の一部である」と書いている。
晩年の彼女は、画家としては家族にも理解されず、名が知られるようになったのは物語作家としての最後の4年ほどだった。しかし、時には周囲の画家たちに嘲笑されながらも、画家としてのエミリーはずっと強い信念と自信を持ち続けながら描いて来た。
前回、紹介した案内人のジョアンさんは、「エミリーは先住民や森、自然からインスピレーションを受けて描いたが、それまでの(森の外から描いていた)画家たちと違って、森の中から描いた初めての画家」だと言う。「彼女が南太平洋に行っていたら、ゴーギャンと同じような軌跡をたどったかもしれない」ともいう。
当時の西海岸は、女性画家が容易に認められるような時代でも文化的環境でもなかった。その彼女がむしろ亡くなった後にカナダの人々の敬愛を受けているのは、そうした環境の中で孤独に独自の絵を追求した、その生き方の潔さにもあるのかもしれない。それはまた、先住民文化への理解が乏しかった時代に、いち早くそれに気づいて敬意と共感を示した先駆者としてのエミリーに対する尊敬の念も混じっているのかもしれない。このことを感じたのは、ビクトリア市に現在も残っているエミリーの生家を訪ねた時のことである。ここでは、取り壊されそうになった彼女の生家を購入して保存し、公開している人にエミリーへの思いを聞くことができた(最終回に続く)。 |