日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

法の終わるところ暴政が始まる 15.10.22

 9月19日に安保法案が成立してから1カ月余り。安倍政権はその直後から、「もう安保法案の話題は終わった」とばかりに、来年の参院選挙に向けて「経済最優先」の政策に舵を切っている。9月24日には、新たな「新三本の矢(GDP600兆円、出生率アップ、介護離職ゼロ)」を打ち上げ、7日の内閣改造では「一億総活躍担当相」などという意味不明のポストも作った。こうしたイメージ戦略とこれから予定されている外交日程をテコに安保法強行採決の不評をかわす戦術なのだろう。
 同時に、通常は開くことが慣例になっている秋の臨時国会を開かないと言いだしている。現憲法下で開かなかったのは10年前の2005年を含めて4回しかないというから、これは異常なことである。大筋合意したTPP、「新三本の矢」、「一億総活躍社会」の他に、新閣僚のカネの問題など、議論すべきテーマは山積している。安倍政権が論戦を避けようとしているのは、こればかりではない。先般の安保法案採決について重大な疑義が生じているのである。一体どういうことか。

◆検証の中で見えて来た、採決の“違法性”
 10月14日の各紙に、安保法案の採決に関する小さな記事が載った。先月17日の参院特別委員会で、混乱の中で安保法案を“採決”した時の議事録を、参院事務局が1カ月近くたった(姑息にも連休の中日の)11日にHPで公表したニュースである。それ以前の議事録(未定稿)では、「発言する者多く、議場騒然。聴取不能」となっていたのを、自民党の鴻池委員長(写真)の独断で、関連法規の採決と付帯決議について「いずれも可決すべきものと決定した」、「付帯決議を行った」との文言を付けくわえたのである。
 当然、野党(民主党)は「与党だけで文書を作り上げたのは前代未聞。横暴に強く抗議する」と反発。法案に反対して来た学者やシールズの学生らも、「手続きの正当性を欠き、一部は “改ざん”だ」と抗議、法的措置も検討しているという。そこで(雑誌「世界」11月号やネット情報をもとに)特別委の経緯を仔細に点検してみると、あの“強行採決”がかなり違法性の高いものであることが分かって来た。以下に、採決がなされたとする9月17日午後4時36分までの検証の中で見えて来た、“採決の無効性”についてまとめてみる。

@ 地方公聴会の報告がないままの採決
 地方公聴会については、委員全員が出席しているわけではないので、参議院先例280によって「派遣委員は、その調査の結果について、口頭または文書をもって委員会に報告する」となっている。しかし、横浜で行われた地方公聴会に関して、この報告はなされなないまま採決に突入。これは公聴会制度の根本を揺るがす憲政史上例を見ない汚点であり、報告手続きを欠いた採決には重大な瑕疵(欠陥)がある。

A 委員でもない与党議員が抜き打ち的に委員長をガード
 自民党は、事前に野党には鴻池委員長が席に着いたら(すぐに採決しないで)審議を始めると吹聴しておき、油断させて与党議員でとり囲んでしまうという、巧妙な作戦を立てていた。委員長が席に着いた途端に、委員会室の後方に控えていた10人程の自民党議員が殺到して委員長をとり囲んでガード、直ちに採決に入るという段取りである。議長席を取り囲むために、防衛大の棒倒しの訓練を摸したシミュレーションまで行っていたという。しかし、その中には、特別委員会の委員でもない自民党議員が加わっていたのが分かり、その時の状態そのものが違法だと指摘されている。

B 誰にも分からない採決劇の進行
 気づいた野党議員も委員長席に殺到する大混乱の中、何がどう採決されたのか、誰も分からない。委員長が裁決の進行を記した紙を読み上げるが、聞こえない。しかも、この間ずっと下を向いたままで起立多数を確かめることも出来なかった。参議院規則137条1項では「議長は、表決をとろうとするときは、問題を可とする者を起立させ、その起立の多少を認定して、その可否の結果を宣告する」となっているが、何ら確認出来ていない。この状況を、速記者が「発言する者多く、議場騒然。聴取不能」と書くのは当然で、安保法案の採決は確認できず法的に無効なのである。

◆二重に汚れた安保法案。それに命をかけられるか 
 混乱の始まりから、委員長退席までおよそ8分間。ついでに言えば、中継をしていたNHKは最初、「野党議員が委員長席に詰め寄りました」と間違えたり、「何らかの採決が行われたものと見られます」と実況したりしていたが、状況を十分把握しないまま「強行採決」を流した。
 こうして、表決が成立していないにも拘らず、鴻池委員長は一カ月近く経ってほとぼりがさめたころ、参院事務局に指示して、上記のように議事録を“改ざん”させたわけである。参院規則では、補足説明の指示は委員長権限とされているが、これだけ不確実な状況である以上、記載は与野党の委員会理事会で協議すべきだというのが野党の指摘である。

 このように、来年3月には施行されるという安保法は、内容そのものが極めて違憲性が高い法案であるだけでなく、採決の手続きにおいても重大な法的欠陥(瑕疵)があることが分かって来た。安保法は、いわば「二重に汚れた法案」になったのである。戦後日本の安全保障政策に大きな転換をもたらす安保法の足元がこんなに脆弱で、果たして自衛隊や国民はそれを運用する政府に命を預けられるのだろうか。

法が終わるところ、暴政が始まる
 問題は、安保法の成立に限らない。安倍政権の国会運営が(ノンフィクション作家の保坂正康氏が言うように)ファシズムとも言うべき極めて憂慮すべき危険水域に入っていることである。いくら野党が徹底抗戦を辞さないと言っても、多数を占める与党が自分たちの価値観に凝り固まり、法を無視して国会を機能不全に陥れていいのか。今回の仕組まれた採決劇を「周到に準備されたトリック採決」と呼ぶ山室信一(京大教授)は、こうした先例が認められれば、これからの国会審議において規則や先例が無視され、討議や表決は意味のないものになってしまう、と指摘する。

 戦後民主主義の基本となる国会運営において、歴史的な汚点を残したと批判される安保法案の国会審議だが、すでに安倍政権は、こうした批判にも耳を貸さなくなっている。その背景には圧倒的な数を握った安倍自民党が(彼らが絶対視する)戦前回帰的な国家主義的価値観を政治の舞台に持ち込み、敢えて意図的に国論を二分していく手法を辞さないということがある。そして、価値観の違う相手を議論の対象から外し、価値観を共有するものだけで非妥協的に政治を進める。
 そのために、彼らが目論んでいるのは国会の無力化である。策略と騙し打ちを多用し、法を軽んじ、憲政のルールを破壊して行く。立憲主義を唱えたイギリスの政治思想家ジョン・ロックは、「暴政とは、統治者が権利を超えて権力を行使することであり、法が終わるところ、暴政が始まる」(統治二論)と言っているが、この先の安倍政治で憂慮されるのは、まさに国会の無力化と並行して始まる「暴政」ではないのか。

 ロックはまた、「その場合(国民には)統治者に抵抗する権利が発生する」とも言っているが、私たち国民は為政者の暴政には、しつこく異議を申し立てて行かなければならない。そのためにはまず、様々な選挙対策用の目くらまし政策に惑わされずに、暴政が始まった9.17、そして安保法が成立したとされる9.19への異議を忘れずに持続すること。同時に、憲法53条を盾にした野党一致の要求によって秋の臨時国会を開かせ、徹底した検証を迫ることである。

カナダ、国立博物館めぐり 15.10.12

 9月下旬から足かけ12日間、カナダを取材して来た。日本のカナダ観光局が2017年のカナダ建国150年に向けてカナダをより知ってもらうためのサイト「カナダシアター」を立ち上げたが、それへの連載を依頼されたためである。私の方から提案したのは、カナダの文化を紹介する2つのテーマ。一つは、ユニークな文化的発信を続けているカナダの5つの国立博物館を紹介すること。もう一つは、1920年代から30年代にかけてカナダで新風を巻き起こした画家集団(グループオブセブン)と、西海岸で先住民の芸術と触れ合う中で独特の絵を描いた女性エミリー・カーの足跡を訪ねることである。

 カナダ東海岸のトロントやオタワ、中部のウィニペグ、そして西海岸のバンクーバーやペンティクトン、バンクーバー島のビクトリアと飛行機を乗り継いで横断するかなりの強行軍だったが、現地コーディネーターの皆さんのお陰で濃密な取材が出来た。その詳細については、750枚の写真と、博物館や美術館の担当者の熱い思いとともに、肩の凝らない訪問記としてこれから半年以上かけて連載していく予定だが、ここでは今なぜカナダの国立博物館なのかを書いておきたい。

◆なぜ、カナダの国立博物館なのか。そのユニークな挑戦
 カナダが紆余曲折の末、英連邦の自治領として事実上の独立国家になったのは1867年。2017年に建国150年を迎える若い国である。この間、ヨーロッパや南米、アジア(中国、日本、インドなど)などから多数の移民を受け入れ、多民族国家として成長してきた。先住民との対立など、様々な人種的あつれきも経験しながら、現在は英仏2言語を公用語として掲げる、世界で最も先進的な多文化主義の国になっている。
 しかし、その多民族国家も放っておくと遠心力が働いてバラバラになって行く。そこで、カナダは教育の面でも法的な面でも、文化的な面でも、多様な文化の存在を容認しながら、「我々はカナダ人だ」という国民を一つにまとめるアイデンティティの形成に努めて来た。それが、民族間の平等を目指す先進的な多文化主義なのだが、カナダの国立博物館もその役割の重要な部分を担っているというのが私の“見立て”である。その観点から言えば、カナダの国立博物館は、(以下に書くような)極めて先進的な取り組みに挑戦しているユニークな存在と言える。

 事実、私が訪ねた5つの国立博物館はすべて、カナダと言う国のアイデンティティの構築を強く意識していた。地球環境と生物多様性を意識した「自然博物館」、先住民から始まるカナダの歴史の再定義を模索している「歴史博物館」(写真上)、若い世代に戦争の現実を教え、平和の希望を見失わないようにと教える「戦争博物館」、世界の人権問題と真正面から向き合っている世界で唯一の「人権博物館」、そしてカナダの自然と景観を発見した画家集団を展示する「国立美術館」である。
 多民族で多文化の国と言う意味で、カナダは世界の縮図でもある。トロントには200もの言語の新聞があると言われるが、そうした状況で、国民を一つにまとめて行くことは、取りも直さず多文化主義や国際平和、地球環境への貢献といった「人類的な価値観」を引き受けることを意味する。従って、そうした価値観に寄り添いながら、自国のアイデンティティを模索している、これらの博物館を取材することは、(時に極めて内向きな)私たち日本人にとっても今日的意味があるのではないか。そう考えたのである。

◆「戦争」の現実に向き合う博物館
 例えば、首都オタワにある「国立戦争博物館」。建物は日系カナダ人の建築家、レイモンド・モリヤマ氏の設計によるものだが、平べったいユニークな外観もさることながら、内部の複雑に入り組んだ構造にまず驚かされる。迷路のような通路、斜めに傾いた壁。床まで傾いている。これは(「博物館が出来ただけで意義がある」と言われるくらい)戦争に対する様々な考え方のぶつかり合いを建築家が表現したものだそうだ。
 内部には、もちろんカナダが経験して来た様々な戦争の場面が展示されているが、ユニークなのは戦争の傷を癒し、そして平和への希求を表現する空間である。石造りの大きな空間(メモリアル・ホール)の上部にスリット状の穴が開いている。毎年、リメンバランスデー(戦没者追悼記念日)の11月11日の 11時になると、そこから一条の光が差し込んで、反対側の壁に埋め込まれた無名戦士の墓に当たるように設計されている。その墓は、第一次大戦以降に戦死した兵士11万6千人すべてを代表する墓である。そこで、毎年、慰霊祭が行われる。

 Regeneration hole(復活再生のホール)という、天に向かって伸びるような空間もある。そこの壁面には希望、犠牲、平和、正義、慈悲を意味する5つの像がとりつけられ、床の中心に希望を現す像が据えられている。ホール中2階のある位置に立って、細い窓越しに像の背後に広がる景色をみると、遥か向こうにオタワの「平和の塔」が見えるようになっている。モリヤマ氏は、せっかく平和になっても油断するとすぐに戦争が忍びよって来るので、努力して平和の希望を見失わないようにと、平和の塔が見える位置に像を置いたのだと言う。
 案内してくれた担当者(Robert Gauvin氏)によれば、この戦争博物館は、戦争の傷跡をいやしてくれる国民のヒーリング・ポイントであり、未来に向けてもそうであるように設計・運営されているという。第一次大戦時の過酷な戦いを模擬体験できる塹壕や、PKOに参加したカナダ兵士がクロアチアで襲撃された時の弾痕生々しいジープなども展示されているが、博物館には13才から17才の子供たちを対象とした見学プログラムもある。その子どもたちに何を一番感じて貰いたいかと聞くと、彼の答えは「War is bad」だった。(その後に続く話の詳細は連載の方に回したい)

◆世界規模で「人権」を模索する博物館
 一方の「国立人権博物館」は、長い議論の末に去年の9月にようやくオープンした。オタワ以外に初めて作られた国立博物館で、カナダの東海岸と西海岸のちょうど中間にあたるウィニペグにある。担当者(Joseph Hophner氏)によれば、白い鳩が羽をたたんでいるようにも見えるユニークな建築で、高く伸びる塔は暗い所から明るい所へ導く灯台を象徴していると言う。
 7層に分かれた展示場はエレベーターもあるが、光を発する大理石の廊下でも結ばれており、その全長は800メートルにもなるそうだ。これを歩きながら案内されること4時間。へとへとになりながら分かって来たのは、この博物館が極めて多様な概念である人権について、真正面から取り組み、カナダと世界に発信しようとしていることだった。一つ一つの展示の背後に(国をあげた)膨大な議論があったことを窺わせる。

 過去のカナダが犯した様々な人権侵害の歴史(*)を展示するとともに、ユダヤ人やウクライナ、ボスニア・ヘルツゴビナでの大量殺りくなど、世界の人権侵害も取りあげている。さらに、この博物館は人権に対する考えを押し付けるのではなく、多様な考えを認めようとしていることも特徴的だ。人権に対する100通りの表現を並べた展示や、先端的な博物館らしく、双方向の展示や訪問者の声を収録する設備など、デジタル時代ならではの仕掛けも随所にとり入れている。*カナダが認めた75のケースのうち、戦時中に日系人を強制収容所に入れたことなど18のケースを展示
 かつて日本の国立民族学博物館の初代館長を務めた梅棹忠夫氏は、「博物館は情報を収集し、発信するメディアである」と言ったが、カナダの5つの国立博物館もまた、国の内外に向けて極めて意欲的に情報を発信しようとしているように見える。その理由は、上に書いたようにカナダが多民族からなる多文化主義の国であることから、国民を一つにまとめる普遍的な価値の追求に熱心だからでもあるだろう。翻って、今の日本で、こうした戦争や人権についての国立博物館が果たして可能だろうか、とも考えさせられた。

安保法の警戒すべき副作用 15.9.20

 5月28日の衆議院での党首討論から始まった安保法案の国会審議は、衆参両院での2度の強行採決の末に成立した。戦後70年の節目の年に「集団的自衛権」を容認した安保法案の成立は、日本の未来にとって大きな分岐点になる筈だ。従って、9月19日未明に成立するまでの4ヶ月弱の国会審議で露わになった日本政治の問題点は、記憶が薄れないうちに歴史の検証に耐えるようにきちんと整理しておく必要がある。
 出来れば、メディアがこの間の経緯、特に9月16日から19日未明にかけての4日間の攻防に関して、国会の内外では何がどう進行したのか、政治家一人一人は何を考えていたのか、時系列のドキュメントとして詳細に記録して欲しいと思う。しかし、(昔のメディアなら当たり前だった)こうしたドキュメントも、今のNHKのようなメディア状況で果たして可能なのかどうか。

◆安保法制は日米同盟の変質を迫る
 自民、公明の大多数の(無邪気な)議員たちは法案の字面だけを見て、集団的自衛権が発動されるような「存立危機事態」などはそうあるわけはない、と高をくくっているかもしれない。多くの議員は、安保法を「伝家の宝刀」として、それを持つこと自体が抑止力になると考えており、抜かなければならないような事態は来ないと思っているのだろう。しかし、事はアメリカとの関係である。9月13日のNスペの討論番組で、自民党の高村副総裁がいみじくも「集団的自衛権を持たなければ、アメリカは日本をどこまで助けてくれるか心配だ」と言っていたが、そういうことである。
 逆にアメリカから抜いてくれと頼まれれば、日米軍事同盟を維持するためにも「伝家の宝刀」を抜かざるを得なくなる。その意味で、一連の安保法制と集団的自衛権は、安倍が前から言って来たように、アメリカが日本のために血を流すのに、日本がアメリカのために血を流さなくていいのかという狙い以外の何ものでもない。それも、日本の領土の外で血を流すと言う意味では、(日本が基地とカネを提供する代わりに、アメリカは日本を守る義務を負うという)これまでの日米軍事同盟の性格を根本的に変えるものである。その変質に、多くの議員たちは目をつぶっている。

◆法案の成立によって進行する見えない社会的変化
 法案が成立したとは言っても、戦争や戦闘のリスクが目の前に迫って来なければ、何かが急に変わるわけではないだろう。しかし、法案成立は今後の「日本社会のありよう」に大きな変化をもたらすに違いない。ここで私が書いておきたいのは、法案の字面とは直接関係ないように見える「法案の隠れた副作用」ともいうべき変化である。それは大多数の国民の目からは隠れて進行し、気が付いた時には手遅れになるような副作用でもある。それが、どういうものなのか。法案成立によって危惧される日本の軍事的、社会的、政治的影響を以下に列挙しておきたい。

@ アメリカと一体になって強まる軍産複合体の影響
 何度か書いて来たように、武器の匂いを嗅ぎつける人々の動きである。訓練しかり、武器整備しかり、軍事技術や軍事情報の共有しかり。安保法によって日米の軍事戦略は一体的に進むようになる。そこに生まれるのは、アメリカと日本の経済界を巻き込んだ軍産複合化の動きである。日本で言えば5兆円超に拡大する防衛費、その他にローンでアメリカ製の高額武器を買う“隠れた防衛支出”が4兆9千億円。それをビジネスチャンスと見る経済界、防衛官僚、政治家、ロビイストがカネの匂いに集まって来る。
 アメリカの軍産複合体に呼応するように、日本の中にも「原子力ムラ」と同じような巨大な利権構造が生まれ、それが政治と社会を操るようになる。彼らは、アメリカのタカ派のような「力に頼る政治」に染まって、外国の脅威をことさら煽ることによって、自分たちが動きやすい環境を作っていく。政界はもちろん、経済界も含めて既にそうした動きが始まっているようにみえるが、そうした(日米の)防衛産業が束になって政治を牛耳る、きな臭い社会に日本もなって行く懸念がある。

A 軍事が絡むと政治の透明性が失われて行く
 こうした防衛政策の変化も、2013年12月に強行採決された「特定秘密保護法」によって、国民が知りたいと思っても十分公開されない。先の国会でも問題視されたが、軍事訓練や日米防衛協力のような国の安全保障政策に関る様々な動きも水面下に隠れて、国民の目に見えなくなる。日本の政治は透明性を失い、その一翼を担う官僚たちが好きなように事を運んで行くようになる。同時に、利権に群がる勢力が自分たちの要求を通そうと暗躍するようになり、(戦前のように)政治・軍事の世界にも様々な謀略的な仕掛けを目論む「闇の世界」が入りこんで来る。メディアの目も届かなくなる結果、いわゆるシビリアンコントロールが効かなくなり、議会主義、民主主義、立憲主義の根幹が危険にさらされて行く。

B 来年の参院選に向けて、政治のポピュリズムが一段と加速する
 既に、安倍政権は来年の参院選挙を見据えて、「安保法制の次は、経済に取り組む」などと言い始めている。今回の強行採決によって安倍政権の支持率がどの程度下がるのかは分からないが、民意を無視して強行した政治的傷は、容易に消えるものではない。深手を負った政権がこれから何をして来るか。まずは、一層の金融緩和や株への資金投入など、アベノミクスの深追いを始めるだろう。その方法論の誤りもさることながら、何より今の世界の経済的状況が悪すぎる。この深追いが裏目に出たらどうするのか。日本は大丈夫なのか。
 加えて心配なのは、来年度予算での大盤振る舞いである。公明党の言い分や選挙目当ての政策が並んで、国民におもねるポピュリズム政治がまかり通り、その中で大事な財政規律がどこかへ消えてしまう。こうなると、「外国の脅威より、足元の脅威」という笑えない状況が生まれてしまう。経済失速や財政破綻の危機などは、もう誰の目にも見える副作用である。

C 「右バネ」が幅を利かせて、国民が2つに分断されて行く
 「伝家の宝刀」を手にしたことで勢い込む日本の右派勢力が、これまで以上に中国や韓国を蔑視したり敵視したりするようになる。そうしてナショナリズムを煽ってさらに日本の防衛力を高めようとする。また、仮に安保法の違憲訴訟で違憲判決が出たりすれば、彼らは開き直って、憲法9条の改正を狙って来るだろう。本末転倒のような気もするが、それが右派勢力の元々の目標であり、一度強行採決を経験したら何度でも強引に突き進むようになる。それは、「強い日本」を志向する安倍たち国粋保守の思想的基盤でもある「日本会議」の思想への移行(*)だ。
 その
戦前回帰的な「右バネ」が効いて行く中で、国家のために国民が奉仕するという国家主義的傾向が強くなり、戦前のような抑圧的で窮屈な社会が到来する。こうした急進右派(国粋保守)の強引な政治は、日本国民を互いに相いれない二極に分断する。そして、その対立の中でさらに過激な集団が生まれて再び大きな不幸を日本にもたらすかもしれない。*「極右化する政治と日本の未来(1)

◆戦後70年の国柄の変質を監視せよ
 むろん、こうした副作用が必ず起こるとは言えないが、残念ながら過去の事例には事欠かない。安保法の持つ衝撃力は、戦後日本が基本として来た「非戦国家」の基軸を揺るがしかねず、こうした変化は、事態をコントロールできると考えている議員一人一人の思い込みを遥かに超える「時代と状況の力学」によって進行し、気が付いた時には手遅れになる可能性もある。それは平和国家と言う日本の「国柄(アイデンティティ)」の変質にもつながっていく。これが戦争や戦闘のリスクという目に見える主作用と合わせて、私が懸念する安保法の副作用である。
 もちろん私は、こういうことにはならないことを祈っているが、安倍自民党の幹部や若手議員の(国民をバカにした)支配者気取りの傲慢な言動を見るにつけ、公明党のように安保法案の字面だけ見て楽観的に考えているのもどうかと思う。成立したとはいえ、来年の参院選挙に向けて、国民の間に広がった安保法に対する反対と警戒は続いて行くだろう。安保法の行方を注意深く監視していくと同時に、上記のような副作用についても警戒心を持って監視し、声を上げていく必要があると思う。メディアの奮起を期待したい。(しばらく更新をお休みします)

自衛隊が日本軍になる日 15.9.10

 2014年に公開された、クリント・イーストウッド監督の「アメリカンスナイパー」という映画がある。戦争映画の興行成績を塗り替えた大ヒット映画なので、ご覧になった方も多いだろうと思う。イラク戦争において「伝説の狙撃手」と言われた実在の人物クリス・カイル(アメリカ海軍、故人)を描いた映画だが、彼は2003年に始まったイラク戦争において、4度も派遣され、ファルージャなどイラクの激戦地を転戦、退役するまでに160人のイラク人を殺害したという。
 映画の前半は、アメリカの特殊部隊に入隊を志願する主人公が、徹底的な訓練を受ける場面から始まる。多くが脱落するような超人的な訓練を通して、彼は人を反射的に殺害する「殺人マシーン」に変身していく。160人と言うのは、公称で、実際は255人を殺害したとされるが、その中には市街地でアメリカ軍に迫撃砲を向ける母と幼い子(映画では、子どもの方は引き金を引かないで済んだことになっている)も入っている。戦争に参加すると言うことは、多かれ少なかれ、兵士一人一人が人を殺す機械にさせられていくと言うことなのである。

 テロリストが住民に紛れ込む現代の戦争は、誰が敵なのか容易に判別できない。兵士はイラクの市街地で一軒一軒、敵を捜索して行くような、困難な戦争を強いられる。過酷な状況に置かれた兵士たちは帰国後、多くがPTSD(外傷後ストレス障害)に苦しむことになる。主人公も退役後、そうした兵士を救う活動をしていていたが、ある時、PTSDに苦しむ一人の帰還兵に射殺されてしまう。イーストウッド監督は、英雄的な戦闘シーンに対比させるように、帰国後の主人公の悲劇を描いているが、これが現代の戦争の実態なのだと言いたかったのかもしれない。

◆人命尊重に徹して来た日本の自衛隊
 翻って、日本の自衛隊である。今、国会で審議中の安保法案が通ると、自衛隊も海外の紛争地で(駆けつけ警護などの)戦闘行動をすることになる。あるいは、集団的自衛権を行使する時には、日本の領土外で敵と戦争しなければならない。設立後61年、平和憲法のもとで一度も敵を殺したことのない自衛隊は、その時果たして人を殺せる軍隊になれるのだろうか。アメリカの兵士のように、あるいは戦前の日本軍のように、命のやり取りに疑いを持たない殺人マシーンに変身できるのだろうか。

 日本の自衛隊が設立されたのは、1954年7月。東西冷戦の中で「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の維持に当たる」とされ、人命救助などの災害派遣や国連PKOへの派遣などの国際平和協力活動を副次的任務とする(ウィキペディア)。当初は、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と規定した憲法9条の下で、日陰者的な扱いがないでもなかったが、近年は災害救助などではなくてはならない存在になって来た。
 特に、東日本大震災の時には献身的に人命救助に全力を尽くすなど、その活動が多くの感動を呼んだ。そこに感じられるのは、人命を救う思想の徹底ぶりである。自衛隊の主任務は国の防衛ではあるが、一方で、災害救助活動を通じて一人一人の隊員が人間の命の重さを受け止める組織として、60年の歴史を積み重ねて来た。この人命尊重の精神は海外における災害救助やPKO活動でも同様に発揮されて来たと思う。自衛隊は海外でも一人も殺してはいない。

◆組織としての自衛隊。防衛族の思惑
 これが、安保法制によって180度の転換を迫られるわけで、この価値観の転換を隊員たちが素直に受け入れるのは困難なのではないか。それが、60年の歴史の重みというものだろう。しかし、一人一人の隊員においてはそうであっても、自衛隊と言う組織で見ればどうなのか。案外そうとも言えないと言うのが、私の率直な観測だ。何しろ組織の中枢にいて人を動かす人間は、政治家であれ、自衛隊の幹部であれ、現場の苦しみや痛みを十分には考えないからだ。防衛省幹部たちは、安保法制がまだ決まらないうちから、政治家の意図を先取りするように、せっせと省益の拡大を狙っている。この事実は、国会でも問題になった。
 防衛省はまた、来年度予算の概算要求で過去最大の5兆911億円の予算を積み上げた。離島奪還やゲリラ戦に使う機動戦闘車などである。日本の防衛費は、一応GDPの1%がおよその制約になっており、安倍政権は安保法制と防衛費の増額との関連を否定するが、彼らは、チャンス到来と考えているに違いない。防衛省幹部のみならず、日本の防衛産業もそれと近い防衛族(政治家)も、この状況と武器輸出を可能にした「防衛装備移転法」には多大な関心を持っている。そこに巨額のカネが動くからである。

 カネの匂いに敏感な組織論理からすれば、敵国を定めて脅威を煽り、その戦争に国民を兵士として動員することの理屈は後からついて来る。それが、(アメリカの軍産複合体が始めた)湾岸戦争やイラク戦争のような戦争の一つの現実でもある。一方、戦前の日本軍で言えば、国の安全と国民の生命を守ると言う大義名分を掲げて、軍部は情報の統制、金融・資源データの秘匿、国民の監視などを行った。国家の安全に名を借りて、国民を存亡の危機に陥れる事態にまでなったのである。
 このように言うのは、「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」の著者、加藤陽子氏(東大教授)である(8/16毎日)。そこに見えるのは、政治家や軍部が自分たちの国家観を絶対視し、それに国民を奉仕させる構図である。一銭五厘の召集令状(赤紙)で、何十万と言う兵士を集めて南方に送る。そしてその大半を餓死させても、なお送り込む(*)。東京大空襲、広島、長崎で10万人単位の国民が死んでもなお、国体護持のために戦争の継続を主張する。軍部にとって国民の命は、紙屑のようなものだった。*「日本人の戦争、「一億総玉砕と日本殲滅作戦

◆憲法9条の国内的な存在意義
 安保法制によって戦争(戦闘)行為が発動された時には、日本の自衛隊は実質的に(戦争行為で殺し殺される集団としての)日本軍になる。自民党の憲法改正草案によれば「国防軍」となるが、これも同じである。そうなった時に、果たして60年間、一人も殺さずに人命尊重を第一にやって来た自衛隊員たちが、どのような苦しみを味わうのか。国防軍への脱皮を目指す国の最高責任者(安倍)も防衛大臣も、一人一人の隊員がそうした過酷な状況に置かれる重さをどこまで理解しているか。これは日本と言う国にとっても、非常に大きな試練である。
 加藤陽子氏は、同じ「憲法9条の意義 見つめ直す」という記事の中で、憲法9条の国内的な存在意義を忘れるべきではない、と言っている。それは「9条の存在によって、戦後日本の国家と社会は、戦前のような軍部と言う組織を抱え込まずに来ました」、(国の安全と国民の生命を守ると言う大義名分のもとに、人命を軽視する)「このような組織の出現を許さない、との痛切な反省の上に、現在の9条があるのだと思います」と述べている。なるほどと思わされる。

 今日(9/10)の関東地方の大水害でも自衛隊は、濁流の中に取り残された人々を何人も救助した。設立後60年、そのような組織の一員として、自衛隊員は自分たちのアイデンティティを築いてきたに違いない。その中に、「アメリカと日本政府が決めた敵」を殺す任務は、どのように組み込まれるのか。アメリカ軍と行動を共にする日本の兵士は、あの「アメリカンスナイパー」のような殺人マシーンに変身できるのか。敵も味方も判別できない市街戦で、罪なき住民まで殺すことになる過酷な戦闘ができるのか。
 日本の自衛隊が60年にわたって国民とともに積み重ねて来た、こうした歴史の重さを直視しないと、日本の安全保障の大転換は自衛隊員に深刻なアイデンティティ・クライシスをもたらし、多くの自衛隊員のPTSDを生むことになるだろう。そうした非生産的な混乱を避けるためにも、何度もいうようだが、戦後日本の骨格を作って来た「非戦の誓い」を貫く中で、平和構築の可能性を粘り強く追求することこそが、日本の国柄(アイデンティティ)であり、進むべき道なのではないか。

原発事故の罪を負う人々 15.9.2

 鹿児島県の川内原発1号機は9月1日にフル稼働に入り、順調にいけば10日にも営業運転を開始するという。日本の全原発が停止してから2年ほどで、原発が再稼働することになる。この間、日本の電力需給は原油の値下がり、再生可能エネルギーと節電で、原発がなくても何の問題もなく経過した。一頃騒がれた貿易赤字も円安による輸出増と原油安で、今では殆ど解消。原発再稼働の公的論理は殆ど崩れて、今や経営を改善したい電力会社など、一部の原子力ムラの限定的論理(いわば私利私欲)に依拠しているに過ぎない。加えて、本当の意味での責任者は誰なのかが不明確なままでの再稼働である。
 原子力規制委員会は「規制基準に適合しても事故は起こり得る。基準は安全を保障したものではなく、再稼働の是非については判断しない」と言うが、首相は「規制委が“安全”と言った原発は着実に再稼働する」とすり替える。さらに官僚は「事故の責任は第一義的には電力会社」と言いながら、原子力を重要なベース電源と位置付けて電力会社に原発を推進させる姿勢だ。立地自治体は、住民の意見を聞くでもなく電力会社に同意するだけ。その電力会社もいざとなれば責任を取るつもりがあるのかどうか。すべてが日本特有の「あなた任せ」の無責任体質の中で進んでいる。

◆東電元幹部3人の強制起訴と裁判の意義
 そうした中、東京第5検察審査会は7月31日、福島原発事故の刑事責任を問う「起訴決議」を公表した。元東電会長ら旧経営陣3人を、業務上過失致死罪で起訴すべきとしたのである。以前に旧経営陣や政府関係者42人を告訴・告発した訴訟では全員不起訴になったが、被災者が再度審査を申し立て、市民で構成される検察審査会が「起訴すべし」と議決したものである。事故の被害者をがれきに接触するなどして負傷した東電関係者と自衛官13人、および病院から避難して死亡した患者44人に限定した起訴である。
 争点は、事前の津波予測情報に対して的確な対処をしていたかどうかである。裁判はこれから長く続くと見られるが、起訴は(現在の避難者11万人、原発事故の関連死が1400人に上る)大事故を引き起こしながら、誰も責任を問われないことへの全うな市民感覚だろう。裁判の専門的見方からすれば、当時、津波予測がどれほどの現実的な脅威として考えられていたかが問題で、最終的には(故意の不作為が実証されなければ)罪に問うことはなかなか難しいらしい。しかし、この裁判には少なくとも2つ点で意義があると思う。

 一つは戦争責任と同じで、日本社会自らが責任を問い、罰すべき人間を罰する作業を行わない限り、責任の所在も教訓も曖昧なまま、再び同じ構造の厄災が繰り返されるからである。既に、8月31日に公表されたIAEA(国際原子力機関)の最終報告書(*)では、国や東電の責任(思い込みと不作為)が厳しく指摘されているが、日本の無責任体質を改善するには、日本人自身の手による裁判で責任の所在が明確になることが重要なのである。もう一つの意味は、仮に川内原発で事故が起きた場合には、責任の問われ方が福島原発事故の時とは全く違って来ることである。それは、一体どういうことか。*)このIAEAの報告書は裁判でも重要な材料になるに違いない。

◆これだけ事前に指摘されている不備と危険性
 川内原発の場合は、福島原発事故の教訓を受けて(原子力規制委員会が)様々な改善点を実施させた。しかし、それでも多くの専門家が事故の可能性を指摘している。例えば、地震と火山噴火である。地震については、2013年に政府の地震調査研究推進本部地震調査委員会が、九電の活断層の調査は活断層を短くし、揺れを小さく見積もるなど、いい加減だと指摘している。しかし、その指摘は今もって生かされていない。地震調査委員会の調査によれば、津波の危険性も指摘されている。
 また、火山噴火についても火山噴火予知連絡会会長(藤井敏嗣氏)は、過去に九州に見られた巨大噴火と巨大火砕流についての九電の見解が科学的ではないと批判しているが、原子力規制委員会は九電の言い分をうのみにしているだけだ。また、(IAEAも指摘しているが)福島原発事故での日本の原発に共通する構造的欠陥(ベントの構造、水位計など)についても改善がされていない。最後の砦である地域住民の避難計画についても、自治体任せで実効あるものかどうかの検証が不十分のままだ。

 さらに言えば、原発の老朽化の問題がある。川内原発は出来てから31年になる。一応寿命を視野に入れた点検は40年と言う目安があるが、今回のトラブルの原因となった冷却装置の細管の穴なども、そうした老朽化のシグナルの一つなのか。一番心配なのは圧力容器が、長年放射線を浴び続けることによって脆くなり、緊急時に冷水を注入すると破壊される「脆性破壊」の可能性だが、これはどうなのか。本当に容器内のサンプルを取り出して検査しているのかどうか。こうした様々な指摘を積み残したまま、「世界一厳しい安全基準をクリアすれば再稼働」などと、誤魔化しているのが安倍政権の姿勢なのである。

◆原発事故の戦犯リスト。責任者は逃れられない
 というわけで、川内原発の場合は、これだけ事前に具体的な問題点が指摘された中での再稼働になるわけで、このことが福島事故の時と全く違っている。万一、事故が起きた場合には意図的な不作為も含めて責任の所在は明らかで、これらの指摘に耳を貸さずに再稼働を強行した戦犯たちの責任が、より明確に問われることになる。それはまずもって、九州電力の幹部(写真は瓜生道明社長)たち、原子力規制委員会委員、地元の鹿児島県知事、川内市長などである。被害の大きさ、深刻さによっては、業務上過失致死罪では済まなくなるかもしれない。
 仮に、福島原発が危機一髪で逃れたような広域大災害、例えば放射能汚染で九州全体が居住不能になるような大災害になれば、彼らだけでなく時の政権も含めた原子力ムラ全体の責任が問われるだろう。そうした原発事故がいつ起こるか分からないが、こうした戦犯候補の面々は、(運転の見直しの責任と権限を有している以上)毎年更新されて行くべきだろう。事故の責任を負うべき当事者は、いくら「あなた任せ」を決め込もうとしても、もう逃げるわけにはいかないはずだ。そのことが、今度の福島事故裁判で明瞭になることを期待したい。

◆無責任体質は危機意識の欠如を生む
 その一方で、事故は常に誰もが気付かない(予想外の)抜け道を辿って起きるとも言われる。テロや人為ミス、老朽化も含めてこれまで指摘されたことがなかったような抜け道についても、それを未然に察知し、緻密な対策を次々と打って行かなければ、原子力のような巨大で複雑なシステムは維持できない。それには日々、当事者意識を磨いて危機管理を徹底するしか、次の原発事故を防ぐ手立てはない。そのことを考えると、「あなた任せ」の無責任体質が如何に危険か分かる。
 今、日本社会では無責任体質が蔓延している。責任を曖昧にしておいた方が、万一何かが起きても責任を曖昧に出来るという「もたれ合いのシステム」に慣れていると、危機意識がどんどん薄れて来て危機管理が杜撰(ずさん)になる。国立競技場やエンブレムの問題なら人命に関らないが、原発事故は違う。この日本特有の無責任体質が危機意識の欠如をもたらし、危機管理の杜撰さにつながって、命取りになると言うことを私たち日本人は心しなければならない。

 残念ながら、原発の過酷事故が一たび起これば、当事者にいくら重い罪を課しても広範囲に汚染された国土を元に戻すことは出来ない。原発事故は取り返しがつかないわけで、本当は脱原発しかないわけだが、せめて当事者には、その重い責任を自覚して貰わなければならない。そのためにも、福島原発事故を招いた罪を曖昧に放置してはならないし、同時に、常に危機意識を呼び覚まして行くことも必要だ。規制基準の見直しをさせて行くためにも、福島事故の検証を継続し、科学的根拠に基づいた指摘を常に続けて行く必要があるわけである。

安倍談話と2つの戦争責任 15.8.25

 戦後70年の今年、実に多くの「戦争と平和」についてのメッセージが発信された。これほどに多くの発信がなされた背景には、もちろん今年が70年と言う節目の年ということもあるが、安保法制を通そうとする安倍政権の存在と無縁ではないだろう。戦争の記憶が風化しかかっている現状への危機感と同時に、戦後日本の骨格を作って来た「不戦の誓い」が揺らぎ始めている現状への切迫した危機感が背景にはあったと思う。そういう意味で、今年の夏は戦争を振り返る数多くの番組が放送されたが、特に民放の番組に見るべきものが多かったように思う。
 沖縄戦で戦死したバックナー中将の日記の発掘(TBS)、1500人の下級兵士たちの証言(BSジャパン)、BAKA(馬鹿)爆弾とアメリカから言われた知られざる人間爆弾桜花の実態(TBS)などなど、やはり何十年経っても日本が戻るべき原点はあの戦争の愚かさであり、悲惨さだということを思い起こさせてくれる。戦争を始めた責任者たちの愚かさ、無責任さ。何も知らされないまま踊らされて、塗炭の苦しみを味わった国民。あの戦争は、油断すると日本人はそうした悲劇を繰り返す国民性を有していることを思い起こさせてくれる原点なのである。

 ただし、そうした(日本国民が味わった悲惨さを描く)戦争番組の一方で、すっかり少数派になった視点の一つは、日本がアジアの国々に与えた被害の実態だろう。それが、いつ頃からかは定かではないのだが、最近のマスメディアはアジアの人々から見た日本の戦争、つまり、日本軍がアジア各地で行った行為の実態を掘り起こさなくなった。それは「自虐史観」だと国内右派から批判され続けて来たせいかも知れないし、また、日本人が体験した悲惨さも忘れがちなのだから、日本人がアジアに与えた被害の記憶が遠のくのは仕方がないという見方もあるだろう。
 しかし、あの戦争で命を落とした日本人は310万人なのに対し、アジアではそれが2000万人に及ぶ。310万人と言うのも途方もない悲劇だが、アジアにはそれを圧倒する未曾有の悲劇があったのである。しかも、満州事変(1931年)以降の14年間に日本が仕掛けた戦争が、アジアの国々への侵略であったことは紛れもない事実だ。アジアで日本軍(日本政府)がどういう行動を取ったのか、アジアの人々はそれをどう記憶しているのか。8月14日に出された安倍首相の「戦後70年談話」も、こうした戦争責任という視点を抜きにしては語れない筈である。

◆談話の性格とは戦争責任を明示
 かねてから日本人の戦争責任には2つの側面があると書いて来た(*)。一つは、日本の指導者が誤った政策で多大なる損害と苦痛を日本国民に与えた責任。もう一つは日本が、アジアを中心とした国々に与えた損害と苦痛に対する責任である。後者については、曲がりなりにも戦争勝利国による東京裁判でけりがついたが、いずれの場合も国民自身がその責任を明確に問うことは出来なかった。そのツケは戦後70年経った今も、戦前のような国粋保守の復活と言う形で日本を覆っている。(*「もう一つの戦争責任」)
 例えば、国内的には戦前の皇国史観に基づく軍国主義を美化し、太平洋戦争を自存自衛の戦争として肯定し、特攻隊を美化し、A級戦犯は天皇を守った盾だと言って東京裁判を否定する。アジアの国々に対する戦争責任については、あれはアジアを欧米の植民地支配から解放するための正義の戦争であり侵略ではない、日本はアメリカに負けたのであってアジアの国々に負けたのではない、五族協和(日本人、漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人)を掲げた日本の満州政策は誤りではない、といった主張になる。

 これらは多かれ少なかれ、今の安倍につながる国粋保守思想の中核にあって、東京裁判の見直しや靖国神社参拝、侵略の否定、もう十分謝罪と補償を行ったのだからいつまでも謝り続ける必要はない、と言った主張になる。戦争責任についての考えがこのように不明確な中で、歴代首相の「談話」は、日本の戦争責任に対する見解を内外に示す性格を担って来た。日本はあの戦争をどう反省し、その責任とどう向き合おうとしているのかを明示するものだと言える。その意味で、安倍首相の「戦後70年談話」はどうだったのか。

◆大山鳴動してネズミ一匹の安倍談話
 その全文は、大まかに3部構成になっている。第一は、明治以降の日本が誤った戦争に突入した経緯。第二は、あの戦争の悲惨さの確認と反省、そして各国が戦後日本に示した寛容さへの感謝。第三は、過去を踏まえて自由、民主主義、人権の基本的価値を堅持しながら「積極的平和主義」で世界に貢献していくという決意の表明である。長さから言えば、戦後50年に出された「村山談話」の3倍で、それだけ「村山談話」の直截な表現が薄められたとも言える。
 「村山談話」では、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えました」、「私は、未来に誤ちなからしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに痛切な反省の意を表明し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」となっている。対して安倍談話では、ご存知のように「植民地支配、侵略、痛切な反省、心からのお詫び」の4つのキーワードを引用しながら、間接話法で「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」と言う。主語も「私たち」であって、「私」ではない。

 安倍は当初、これらのキーワードを踏襲せずに済まそうと考えていたが、首相の諮問会議の「21世紀構想懇談会」が、8月6日の報告書でお詫び以外の3つのキーワードを書きこんで来たこともあって、(不本意ながら)キーワードでは妥協したのだろう。安倍談話をここまで押し戻したのは、曲げることのできない厳然たる歴史の事実と、現在の安倍政権を追い込んだ国民的批判の高まりだろう。ある意味で「大山鳴動してネズミ一匹」というような結果だったが、しかし、そのネズミはなかなかの曲者でもある。
 安倍は文章を長くした効果を捉えて、安倍支持層(右派)に配慮した文言を巧妙にまぶしている。一つは「日露戦争は、植民地支配のもとにあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」(*1)。また、「あの戦争には何ら関りのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」(*2)という文言である。これは日本の植民地支配を正当化すると同時に、アジアの国々への謝罪を拒否したがる右派の歴史認識に通じるものであり、これらを見ると、今回の安倍談話が2つの戦争責任を曖昧にしてきたツケを引きずっているとしか思えない。*1)日露戦争は韓国の植民地化につながっており、この発言は韓国の神経を逆なでする。また、最近のロシアをも刺激する不用意な発言。*2)だからと言って和解への決意にも努力にも触れていない

◆侵略された国との微妙な関係を踏まえてこそ
 安倍たち国粋保守はそうしたいと言うが、侵略した国と侵略された国の関係は、果たして70年程度で水に流せるものだろうか。これを個人レベルに置き換えて譬えてみれば、相手国の彼らからすれば日本軍(政府)は、土足で自分の家に押し入って家族を殺した加害者のようなものである。大戦後における日本とアジアの国々との関係は、被害者の遺族がその犯人をどうしたら許せるか、という極めて微妙で難しい関係と言える。(想像すれば分かるが)個人レベルではその和解は不可能に近い
 それを、70年過ぎたからと言って、あれは強盗ではなかった、賠償金も払ったし十分謝ったのだからもう謝罪しなくてもいいではないか、と加害者が一方的に言って通じるだろうか。もちろん、国と国の関係なのだからもう少し高度なやり取りではあるだろうが、この本質的な関係は(少なくとも戦争の傷を負った世代の記憶が消える、あと2、30年は)変わらないのではないかと思う。それを踏まえた上で、専守防衛に徹して平和国として自分を律しながら、アジアの国々とともに戦争のない国際社会を作っていくことが日本の未来を切り開くことであり、日本が背負っている責務なのではないか。

米中対決時代の中の日本 15.8.6

 安保法制の国民的理解が得られず、支持率が低下する一方の安倍政権は、安保法制の説明をまた変え始めた。これまでは「特定の国を念頭にしたものではない」と言っていた集団的自衛権の対象について公式に中国を名指しし、その理由として南シナ海での大規模な埋め立て、東シナ海でのガス田開発、それと尖閣の領海への侵入などを上げた。そして、「日本だけで日本を守り切ることはできない。しっかりと同盟関係を強化する必要がある」と集団的自衛権の必要性を訴えた(7月28日)。
 他国の脅威を強調して軍拡に走るのは列強願望を抱く政治家の常とう手段だが、この「日本だけで日本を守り切ることはできない」ということと、「(集団的自衛権によって)しっかりと同盟関係を強化する必要がある」との間には、ごまかしに近いずれがある。すなわち、日本が攻撃された時に日本を守るのは、個別的自衛権と日米安保条約であり、集団的自衛権の有無は関係ない。そんなものがなくても、日本が攻撃された時にアメリカは日本を守ることになっているわけで、そのためにこそ日本は多大な協力費と基地提供をアメリカに行っている筈だ。

 従って、「日本を守るために、集団的自衛権が必要」というのは、論理の飛躍なのだが、ここへ来て安倍たちが「ホルムズ海峡での機雷掃海」の代わりに、中国脅威論を持ち出した理由は何なのか。一つは、中国に根強い警戒心を持っている日本人の心情に訴えやすいということもあるだろうが、やはり安倍自身が巨大化する中国に警戒心を持ち、アメリカと一緒になって中国を封じ込めたいと思っているからだろう。これこそが、安倍の本心に違いない。しかし、国内に“憎しみに満ちた中国脅威論”を煽りたてながら、集団的自衛権を掲げて喧嘩腰で中国と対峙することが、本当に日本の平和につながるのか。

◆中国の大国化と「攻撃的リアリズム」
 実は、安倍政権が進める安保政策は、アメリカのジャパンハンドラーズ」(いわゆる知日派:日本を飼いならそうとして来た人物たち)の意向を強く受けているとする説がある。彼らは日本に対して、集団的自衛権によるホルムズ海峡での機雷掃海や、南シナ海での対中国攻撃まで期待しているが、安倍政権は数年前に彼らが作った報告書に沿うように集団的自衛権や自衛隊のPKO活動の拡大を図ろうとして来た。それがアメリカの覚えに叶う道なのである(*「報道ステーション」集団的自衛権行使容認。米国知日派が求めるもの2014.1214)。

 しかし、アメリカのこうした戦略ももとはと言えば、アメリカと中国の熾烈な覇権争いの構図の中から生まれて来たものであり、その構図の中では、日本はアメリカが都合よく利用すべきカードに過ぎない。それを知らせてくれる一冊の本がある。アメリカの国際政治学者ジョン・J・ミアシャイマー(シカゴ大教授)が書いた「大国政治の悲劇」アメリカの安保政策に強い影響を与えて来た本である。これによれば、中国のように経済的にも軍事的にも大国となった国家は、どういう政治形態を持つ国家であれ、必ず世界的な覇権を求めることになる。
 なぜなら、全世界の上に君臨して全世界の安全を守ってくれる中心的な権威がない状況では、国家が生き残りを図るためには、相手より強くなることが最も合理的な判断だからだ。そのためには同じような力を有する相手を軍事的(質と量)にも地政学的にも、あるいは経済的にも凌駕する必要がある。これはアメリカも同様で、米中は互いの覇権をかけてぶつかり合う運命にある。つまり、現在の超大国アメリカと中国はこの先「必ず衝突する」というのが彼の「攻撃的リアリズム」の論旨である。

◆覇権を目指す中国。力で対抗するアメリカ
 中国の人口は日本の10倍、アメリカの4.3倍。GDPは2009年に日本を追い抜いて世界第2位になったと思ったら、あっと言う間に日本の2.2倍(2014年)になった。このまま行けば2024年には、アメリカを抜いて世界トップになると予想されている(IMFなど)。軍事的にも、中国の軍事支出は10年間で4倍に膨張した。詳しくは不明だが200個を超える核弾頭と90基の大陸間弾道ミサイルを有し、いざとなれば宇宙で敵の人工衛星を破壊する技術もある。国内に巨大な矛盾を抱えた国ではあるが、中国は文字通り21世紀世界の大国になる。
 そうなった時、米中は世界規模で覇権を巡ってしのぎを削ることになるが、これは「中国が悪い国だから」、「文化的に問題があるから」ではなく、大国とは常にこう振る舞うものだというのが教授の説である。その時、今の中国がまず目指すのは第一に、アメリカの力をアジアから排除したい、第二に、アジアの覇権を握りたい。すなわち日本やロシア、インドといった周辺国より強くなって軍事的な挑戦を受けたくない、第三に、現在の領土体制(尖閣、台湾、南シナ海)を変えたい、ことだと言う(文春3月号「中国の野心は核でしか止められない」)。

 教授は、だから南シナ海などで覇権的な膨張を目指しつつある中国に対しては、アメリカは核を含めた軍事技術を磨き、周辺国を仲間に引き込みながら中国を封じ込め、アメリカの現在の覇権を維持するべきだと言う。これが彼の唱える「攻撃的リアリズム」である。もちろんアメリカにも、融和政策によって中国と経済的結びつきを強めて中国が国際社会に平和的に着陸することを期待するリベラリズムの考え方もある。しかし、パワーゲームを中心とした、こうした“マッチョな考え方”に惹かれるタカ派の政治家はアメリカにも多い。
 日本のタカ派政治家にもこうした考え方が浸透してきているのかどうか。アメリカの知日派の描いたシナリオ通りに、安倍政権は自ら進んでアメリカの片棒を担ぎながら、アメリカの覇権を守るために中国と対決しようとしている。しかし、「攻撃的リアリズム」は見て来たように、あくまで米中2国の問題なのであり、仮に米中がそうしたぶつかり合いの構図にあるとして、日本が進んでその構図の中でアメリカが喜びそうな軍事的役割を果たす必要があるのかどうかである。

◆アメリカの冷徹な策略。核の悲劇を体験した日本の役割
 「大国政治の悲劇」には、こうした覇権を巡る争いの中で大国が生き残る戦略についても触れている。一つは、侵略する相手国に対して線を引いて、「これ以上越えたら戦争も辞さない」と警告する。二つ目は、防御的な同盟を結成して危険な敵を封じ込めるというもの。加えて、もっと策略的な戦術もある。すなわち、ある国に侵略的な国家を抑止する重荷を背負わせ、自分は傍観して力を蓄えると言うものである。侵略的な国の目をそちらに向けさせるという戦術である。
 これを、今に当てはめると、アメリカは日本をはじめとする周辺同盟国と一緒になって中国を封じ込め、(軍事費を浮かせながら)アメリカの優位を保つ。あるいは、中国に最も近い日本に中国の関心を向けさせ、日本を使って中国を抑止する重荷を背負わせることである。いずれにしても日本はアメリカの覇権国家としての生き残り策の一つに使われることになるわけだが、こうしたアメリカ国益中心の構図に進んで身を投じようとしているのが、今の安倍政権といえる。

 私自身は、現代のような核時代においては、大国同士の核戦争には勝者は存在しない筈だから、教授(写真)が言うように、米中が(核をちらつかせながら)ギリギリのところまでパワーゲームを追求するかどうかは、疑わしいと思っている。その前に大国同士の戦争回避の手段を見つけなければ人類は破滅しかないのだから、世界は「攻撃的リアリズム」を超える平和維持の方策を見つけて行かなければならない筈だ。特に、かつて大国意識に駆られて米中と戦争し、核の悲劇を体験した日本は米中の力の対決とは別の方策を模索し、両大国に提案する位の使命を果たすべきではないか。少なくとも、アメリカが要求する安保法制のために、国内で民族主義的な中国脅威論を煽る人々の主張については、眉に唾して聞いた方がいいと思う。

安保法制反対が広がる理由 15.7.25

 7月15日の衆院特別委員会で安倍政権が安保法制を強行採決して以降、政権を取り巻く状況は大きく変化してきている。国会周辺だけでなく、各地で抗議デモが広がり、学者・研究者・文化人の反対アピールも続いている。特に若い世代も声を上げ始めたのが特徴で、SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)などの活動や主張(*)がネット上に溢れている。支持率も軒並み10%近く下落して40%を切った。特に女性の反発が強く、これは安保法制が子どもたちの未来を脅かすという当然の警戒心の表れだろう。*)彼らが制作した「6分で分かる安保法制」が分かりやすくて面白い

◆火事や泥棒で“戦争”を語る幼稚さ
 焦った安倍は、ネットやテレビに出演して安保法制のPRに必死だが、その内容が如何にも国民を愚弄した幼稚なもので、却ってひんしゅくをかっている。『(離れから)火の粉を含んだ煙が来て、自宅に火が移る明白な危険がある時に、離れの消火活動に入ること』とか、『「アベシンゾウは生意気だから殴ってやる」と言う不良がいる。友達のアソウさんが「俺は喧嘩が強いから守ってやるよ」という。2人でいたら不良がアソウさんに殴りかかって来た。アベソシンゾウもアソウさんを守る』などと言うものだ。
 国民の命と国の運命を左右する重大な政策転換を一国の首相が言うなら、まずは今の世界状況をどう認識しているのか、どのような国家を目指したいのか、過去の戦争をどう認識しているのか、世界観や国家観、歴史観を踏まえた説明があってしかるべきだろう。それを、この期に及んでも、こんな幼稚なたとえ話で“戦争”を説明したつもりになっているところが、何とも低レベルだ。ヤフーの知恵袋などでは「安倍はバカとよく皆さん言いますが、本当にバカなんですか」などという質問が溢れているが、足元の自民党からも却って分かりにくいなどと言われている。

 もちろん、安保法制反対の主な理由は「法案が内包する戦争の危険性」にある。しかし、最近の強行採決をきっかけとして、一段と広がりを見せて来た安保法制反対運動の根底には、安保法制への疑念だけでなく、こうした幼稚さを平気で示す安倍の性格や、知的レベルへの疑念や警戒感も加わっているのでないか。そこで、こうした警戒感も含めて、国民の間にある安保法制反対の様々な理由を列挙し、反対運動が広がる理由と安倍政権の今後を探ってみたい。

◆反対運動が広がり始めた様々な理由
@ 民意無視の政治に広がる怒り
 今の日本の主権は国民にある。政治家は国民の意志を無視して政治は出来ない筈だ。それなのに、60%の国民が安保法制に反対(賛成は30%)し、80%が説明不十分としている法案を、数を頼んで強行採決した詐欺的行為に国民は怒っている。去年12月の(消費税増税先送りを口実とした)抜き打ち的な選挙で絶対安定多数を得たと言っても、その時点で安保法制は具体的になっていないし、選挙の明確な争点にしたわけでもない。頼んだ覚えもないのに、自分たちの価値観を絶対視し、民意とかい離する政策を国民に押し付ける。こうした安倍政治の体質に多くの国民が警戒感を抱き始めている。

A 憲法の形骸化を目論む立憲主義の否定への怒り
 安保法制の目玉である「集団的自衛権」については、殆どの憲法学者が憲法違反と言っている。憲法を改正しなければ出来ない筈なのに、国民の意志も問わずに、歴代内閣が積み上げて来た見解を勝手に覆して憲法を拡大解釈。結果的に憲法の理念を骨抜きにした。絶対多数のもとで、憲法を変えずに憲法を骨抜きにする手法は、戦前のヒトラーなどが用いた手法である。この手法が常態化すれば、憲法が形骸化され立憲主義が危機にさらされる。憲法を無力にする危険な企みに、多くの識者が怒りと警告の声を上げているわけである。

B 安保法制そのものに内在するリスク
 安保法制については、既に多くの問題点が指摘されている。集団的自衛権の条件となる「存立危機事態」とは、具体的に何を指すのか。自衛隊が世界中に後方支援で出かけることになる「重要影響事態」とどこが違うのか。また、後方支援は、敵からすれば戦闘そのものではないか。これらが曖昧で、政権の恣意的な判断に任されている。しかも、自衛隊の武力行使を国会で審議するにしても、先に制定された「特定秘密保護法」を盾にすれば、具体的な理由を説明しなくても良くなる。歯止めが歯止めにならないことが見えて来た。

◆安保法制を取り巻く状況への危機感
C アメリカの戦争に付き合うリスク
 アメリカと対等の立場になって、ともに世界の平和構築や紛争解決に貢献するなどと言えば聞こえはいいが、安保法制の本質は、アメリカの世界戦略の中に日本の軍事力を位置付けることにある。しかも、アメリカは第二次大戦後の70年間に、大きな戦争だけで5回(朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争)も戦争して来た国である。多くの場合はアメリカによる先制攻撃だったが、中には間違った戦争もあった(*)。「日本はアメリカについて行けば間違いないという」思考停止で日本の平和は守れるのか。特に、好戦的な共和党が政権を取った時に、集団的自衛権を掲げた日本はアメリカの要請を断れるのか。安倍は「アメリカの戦争に巻き込まれることは断じてない」というが、その危うさに多くの国民が気付き始めている。*)「平和のリアリティーを問え」

D ことさら中国の脅威を煽るリスク
 確かに、今の大国・中国は覇権主義的な傾向にあり、安保法制の主な狙いが、対中国にあるというのは安倍の半ば知られた意図である。それと関係しているのかどうか、最近は、奇妙なタイミングで南シナ海や東シナ海での(中国の非道を示す)画像が政府から提供され、その都度(NHKを含む)政権に近いメディアが、大々的に報道する。中国との緊張は、(粘り強い)話し合いで緩和すべきものであり、安保法制を進めるために、政権が意図的に中国との緊張を高めるようなことがあれば、それこそ本末転倒の危険な行為と言わざるを得ない(中国の脅威については、次回に書きたい)。

E 岸の亡霊に取りつかれた国家主義的集団への警戒
 そこまでして、安倍が集団的自衛権にこだわるのは、祖父である岸信介の亡霊(悲願)に取りつかれているためだという見方がある。岸の戦前のような国家主義的な思想は、安倍たち自民党右派の思想的母体「日本会議」に通じるものである(*)。彼らはアメリカと肩を並べる列強願望を抱き、軍事的にも中国に負けない強い国を目指している。仮に安保法制が通れば、次は岸の悲願でもあった憲法改正や国防軍の創設(場合によっては徴兵制)に踏み出そうとしている。そうした認識がようやく広がって来て、安倍ら右派的集団に対する不信と警戒が安保法制反対の根源的な理由になりつつある。*)「極右化する政治と日本の未来(1)

◆この夏の政治日程。反対の国民的メッセージを
 この夏、安保法案が通過する60日期限までの政治的日程には、数々の山場がある。8月には、民意を無視した川内原発の再稼働、戦後70年の首相談話、そして、9月には自民党総裁選挙、衆院の2/3以上での再可決がある。仮にそれらを乗り越えて安保法制が実現したとしても、安倍の支持率は戻らず政権は不安定な運営を余儀なくされるだろう。その時、追い詰められた安倍政権がどんな危険な賭けに出るのか。故意に隣国との摩擦を作り出したり、参院選挙に向けて(財政破綻につながるような)予算の大盤振る舞いをしたり、政権浮揚ための無茶苦茶な政治が始まるのではないか。
 これも心配で、さしあたっての次善の策は行き詰まった安倍が退陣し、現政権から距離のある自民党の穏健保守派に交代することだ。そのためには、以上にあげたような、安保法制に反対する多様な理由を包含するような(創価学会も含めた)幅広い反対運動が、立場や考え方を越えて広がっていくことが必要だ。特に若い世代を中心にした国民的メッセージが作られることを期待したい。

「時代」に向き合った10年 15.7.8

 2005年6月27日、最初のコラム「言葉の持つ力について」を書いてから、満10年が経過した。書き始めたのは長年勤めた放送局を定年退職して2年が過ぎようとしていた頃である。その時の心境は「開局宣言」にも書いたが、簡単に言えば、マスメディアに身を置いたジャーナリストの端くれとして定年後も時代に向き合って生きたいと思ったわけである。「私たちは今、どういう時代に生きているのか」、「時代はどこに向かおうとしているのか」、そして「この時代をより良く生きて行くにはどうすればいいのか」というのが基本的な問題意識だった。 
 始めたのは、ちょうど60歳の時。定年後しばらくは、まだ別の会社に奉公する身だったので、書いたものをただ黙々とHPに載せているばかりだったが、6年ほど経過した頃から、メールリストを作って身近な人に「更新のお知らせ」をするようになった。書いた内容に少しでも共感してくれる人がいれば嬉しいと思ったのと、お知らせをするからには、出来るだけ独りよがりにならないように分かりやすい論理展開や書き方にも注意したいと思ったからである。双方的になったことで、時折、感想を寄せてくれる友人たちがいて励みにもなった。

◆時代に向き合いながら、コラムを書く
 こうして10年、「コラムを書く生活」を続けて来た。毎週末、溜まった2つの新聞を切り抜いてファイルにテーマ毎に分類する。それを電車の中や近所の喫茶店で、マーカーで線を引きながら読む。書くべきテーマが思い浮かぶと関連記事を集め、ネットで情報を探し、時には本や雑誌を購入して読む。そして可能な限りコトの本質に迫ろうと努めながら、近年は1週間から10日に1本のペースで書いて来た。書いたコラムは275本、ほかに定年後の日常を書いた「風の日めくり」が300本を超えた。
 2011年3月に起きた福島原発事故については、コラムをまとめて「メディアの風〜原発事故を見つめた日々〜」として自費出版したりもしたが、問題は、70歳を迎えて今後どうするかということである。確かに、この10年を振り返えっても、今ほど大きな時代の転換点はないのだから、引き続き時代の行方を見届けたいとも思う一方で、年齢を考えると、他にも今やっておきたいことが幾つかあることに気付く。そこで取りあえず、この10年間に書いて来たテーマと内容を整理して、自分が見つめて来た10年はどんな時代だったのかを総括してみたい。

◆275本のコラムをジャンル別に分類
 一口に10年と言っても、政治的には第三次小泉内閣と経済改革、第一次安倍内閣の挫折、自民党の衰退と政権交代。そして、民主党政権の迷走と安倍政権の登場と、それなりに激動の時代だった。この間、東日本大震災や原発事故、火山の噴火やSTAP細胞事件など、大きな災害や事件が起きた。国際的には、イラク戦争の影響で元気がなくなったアメリカの陰で、中国やロシアの大国意識が頭をもたげ、世界の多極化が進行。中東では国際テロ組織のイスラム国が拡大している。そうした分野には素人なのに、時代の変化を見極めようとすると、考えるジャンルもテーマも広がらざるを得なかった。

 コラム一覧」をもとに、ジャンル別にコラムの内容を分類してみると、少子高齢化(人口減少)や財政赤字、格差問題、官僚の制度疲労など、「日本の課題」について考えたものが26本。日本人の戦争と戦争責任、平和憲法、戦争を始める論理、不戦の誓いなどについて書いた「戦争と平和」が11本。小泉改革や民主党政治について書いた(安倍政治を除く)「政治」が36本。そして、安倍政権が誕生(2012年12月)してからは、反省なき国家主義、靖国参拝、見せかけと実体、極右化する政治、言い換えと虚言の政治など、安倍政治の本質について書いた「安倍政治」が18本になる。
 安倍政権関連では「安全保障政策」についても書いて来た。積極的平和主義、集団的自衛権、憲法と安保法制、平和のリアリティー、不真面目な首相答弁などが13本。その他、アベノミクスやTPP、資本主義の終焉とアベノミクス、消費税問題、富裕と貧困など「経済問題」について書いたものが17本ある。合計すると安倍政権に関するものが48本となって、かなりの量になった。

 その他のテーマで言えば、アメリカや中国問題、ロシアとウクライナ、イスラム国などの「国際情勢」についてが20本。テレビや映画、NHKの会長問題、マスメディアと政治などの「メディア問題」が19本。さらに、幼子受難や耐震偽造事件、小沢事件、STAP細胞など社会的事象や事件について考えた「社会問題」が15本。地球温暖化問題、グローバル問題、技術進化などの文明的なテーマを扱った「その他」が29本ある。しかし、最大のテーマは何と言っても「原発事故関連」で合計65本。自費出版した2013年1月以降も21本のコラムを書いている。(以上は年末に向けて本にまとめたいと考えている)

◆書くことの虚しさを乗り越えられるか
 こうした時代の変化を見つめながら10年間、よく飽きずに続いたものだとも思うが、コラムを書くのに費やした時間を惜しむ気持ちは全くない。大変は大変だったが、自分にとっては、上記のような「コラムを書く生活」のリズムも含めて、今の時代を生きている実感のようなものをもたらしてくれたからである。しかし、その一方で(最近は特に)書くことの虚しさや無力感を味わって来たことも事実である。もともと、これらのコラムは、自分が今の時代に起きていることを理解するために書き始めたものであり、それをHPに発信することで世の中を変えようなどと思って書いているわけではない。しかし、それにしても原発問題にせよ、安全保障政策にせよ、これだけ書いている内容が今の政治の方向と真逆になると、歯がゆさを感じることが多くなった。

 最近は、アベノミクスの失敗や国家財政の破綻など心配しても仕方がない、万一起きても日本人は賢いのだから、いずれ立ち直るだろうなどと諦めていて、最低限、末代にまで禍根を遺す「(核)戦争と原発事故さえ起きなければいい」と考えるようになった。しかし、その原発でさえも既に65本も書いて、もう危険性や非倫理性については付け加えることがないと思っているのに、安倍政権はそれを無視して原発再稼働へ向けて動き出している。
 安保法制についても、中国との平和構築に真剣に取り組まずに、日米軍事同盟強化と軍備増強で中国に対抗し、封じ込めようとする姿勢は、却って(中国との)戦争のリスクを高めるのではないか、と危惧している。しかし、これもいずれ国会を通過するだろう。そういう政治状況の中でも虚しさを無視して、これまでのように書いていくべきなのだろうか。むしろ、他にいろいろやりたいこともあるのだから、70歳を機にすっぱりと終了して、後は若い世代にバトンタッチすべきではないか。

◆コラムのある生活。時代の行方を見届ける
 このように、いろいろ迷った末に結論を出した。当面、頭と身体が元気なうちは、75歳を目途に「メディアの風(日々のコラム、風の日めくり)」を続けるということである。理由の一つは、ジャーナリストの端くれとして、「時代」を見つめるというのが、自分にとって “習い性”になってしまったからだ。あるいは、上記のような「コラムを書く生活」のリズムが、自分にしっくり来ていると言うこともある。それが今の時代を生きる実感をもたらしてくれるなら、この無力感も何とか我慢できるかもしれない。
 何しろ、まだ「この男(安倍)、危険につき」と確信を持って書くことが出来ていないし、中国の脅威は本当のところどうなのか、「巨大国家・中国のリアル」についても突き詰めて考えなければならない。ただし、再び始めた絵らしきものも続けたいし、あちこち旅にも出たいので、これらと共存を図る意味でも、更新頻度は10日に一回程度としたい。若い世代とも問題意識を共有出来れば嬉しいし、社会とのつながりも感じていたいので、従来通り、「更新お知らせ」はさせて頂きたい。またしばらく、お付き合いのほどを。。 

漂流する「メディアと権力」 15.6.30

 “はしなくも”と言う言葉があるが、6月25日の夜に自民党本部で開かれた議員の勉強会で飛び出した数々のメディア抑圧発言は、今の安倍親衛隊たちの体質を“はしなくも”露呈した事件だった。講師として招かれた作家、百田尚樹の「(安倍政権を批判する)沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない」などと言った沖縄に対するトンデモ発言(他にもいろいろある)もさることながら、それを誘発した自民党議員たちの発言は、(身内の勉強会とはいえ)民主主義国の国会議員とは思えないほど不見識だ。
 既に報道されているように、「マスコミを懲らしめるには広告収入がなくなるのが一番だ。文化人や民間人が不買運動を経団連などに働きかけて欲しい」(大西英夫衆院議員、東京16区)、「福岡青年会議所の時にマスコミを叩いた。なるほどと思ったのは、広告収入をなくすのと、スポンサーにならないことだ」(井上貴博衆院議員、福岡1区)、「沖縄の特殊なメディア構造を作ってしまったのは戦後保守の堕落だ。沖縄タイムスと琉球新報の牙城の中で、沖縄世論の歪みをどうただすか」(長尾敬衆院議員、比例近畿ブロック)などという発言である。政権に批判的なメディアを、力で締め上げようとする危険な体質である

◆安倍親衛隊の「ひいきの引き倒し」。メディア報道の濃淡
 言うまでもなく、民主主義社会においてメディアを選択して行くのは国民の方で政治家(権力)ではない。それもわきまえずに、こうした問題発言を吐いたのは、いずれも当選2回ながら、いい歳をした50代、60代の議員で、安倍が直接自派に引きこんだ議員(長尾)もいれば、過去に様々なヤジで問題を起こした議員(大西、写真)もいる。安倍と親しい作家の百田(元NHK経営委員)もこれらの議員も、要するに「安倍応援団」として親分の意に沿うように言っているつもりで、それが結果として「ひいきの引き倒し」になっている所が滑稽ではある。
 百田などは「報道陣は冒頭の2分だけで退室したのに、 ドアのガラスに耳をつけて聞き耳してるのには笑った。しかし、正規の取材じゃなくて盗み聞きを記事にするのはルール違反だし、卑劣だろう!」とツイートしたが、後の祭り。まさに「壁に耳あり」で、聞き耳を立てた記者の方を褒めたい。何しろ、最近のマスメディアの政治報道は、政治家の“公式的な発言”ばかりで無味乾燥。今回のように立ち聞きでも、安倍グループの正体を知らせてくれたのはいいことに違いない。

 ただし、この情報が最初、どのような経緯で表に出たのかは、あまり良く分からない。ネットで確認出来たのは、当日の夜11時の朝日新聞デジタルに簡単な記事が載り(しかし、奇妙なことに翌日の朝刊には載っていない)、翌26日午前の衆院特別委員会で民主党の寺田学議員が報道の事実関係を質したということ。ともかくこの国会質問で一気に火が付き、26日夜の「NHKニュースウォッチ9」でも(珍しく正面から)取りあげて、河野キャスターが苦言を呈した。続く「報道ステーション」でも、その倍以上の時間を使って発言内容を詳しく報道した。
 翌27日の朝刊各紙も、一斉に大きく報道。ただし、(コンビニで買って来た)在京6紙のうち、一面トップと社説で報じたのは朝日、毎日、東京の3紙。読売(4面)、日経(4面)、産経(5面)は一面を避け、日経、産経には社説もなかった。このメディア抑圧発言は、「報道の自由度」で世界ランキング61位に後退した日本の、いよいよ深刻になる「メディアと権力」の現実を浮かび上がらせてもいる。両者の関係が漂流しながら危険水域に入りつつある今、メディアには何が問われているのだろうか。

◆権力に近寄るメディア幹部たち
 抑圧発言報道の濃淡に見るように、大手新聞の政治的スタンスが原発再稼働や安保法制に関して、(安倍政権寄りと批判的の)二極化していることは周知の事実である(百田は「本当につぶれて欲しいのは朝日、毎日、東京」とも言っている)。これにNHKや民放テレビ局も影響を受けて、マスメディア全体が安倍政権(権力)との距離に極めて神経質になっている。背景にはもちろん、メディア監視と締め付けを一段と厳しくしている自民党の存在がある。その遠慮のなさは、「表現の自由は民主主義の根幹なのだから」などと言いながら、勉強会での議員発言をたしなめた自民党幹部の言葉が白々しく聞こえるほどである。
 その結果、これまで批判的だった新聞も民放も極めて慎重なもの言いに変化して来ている。NHKなどもすっかり毒気に当てられて、政治に関しては、毎正時に何かと言えば「安倍総理大臣は..」で始まる政府広報的なニュースに様変わりをしてしまった。(聞くところによると)放送担当の幹部たちの自民党や変人会長への気の使いようは、情けない程で、そうまでして偉くなりたいのかと陰口をたたかれているという。

 こうした「漂流するメディアと権力」の背景には、安倍がマスメディア幹部と頻繁に会食している影響もあるに違いない。安保法制の国会審議が始まった5月26日以降だけも、内閣記者会報道キャップ、朝日、毎日、読売、日経、NHK、日本テレビなどの編集委員、論説主幹、解説委員、社長などが次々と会食に参加している。そういう所に名前が出ている編集委員の記事は、安倍に批判的な新聞であってもどこか疑って読んでしまう。例えば、毎日の山田孝男特別編集委員なども、原発問題には厳しくて共感するが、安保法制になると一転して歯切れが悪くなる。野党の不毛な反対をたしなめる一方で、申し訳のように「自国防衛の用心は怠らぬにせよ、国の基本は不戦にある。そういう国だと首相に言ってもらいたい」(6/22「風知草」)など綺麗事になって、やはり権力に近いせいなのかと勘繰ってしまう。

◆大事なこと。知ることに飢えている国民のために
 こうしたマスメディアとの(オフレコの)会食の席で、安倍が何を話しているのか。残念ながら、マスメディアからその肉声は一向に伝わって来ない。ただし、(よほど問題と感じたのか)自分の新聞には書かないけれど、時々週刊誌に書く記者はいる。そういう記事で暴露された安倍の発言は、かなり際どいもので、相当程度に安倍の本心が現れているようにも見える。そのごく一部を抜き出すと、「私の名前はアベノミクスで歴史に残る」 「僕が何をいおうが、(あなたがたは)悪く書けるはずがない」(週刊ポスト5/15)などとなる。
 また、安保法制については「だいたい論点は出尽くしたでしょ。もう議論することなんかないのに」 「(民主党)の岡田(克也代表)さんなんて、いつも同じことばっかり言っている。意味がないですよ」 「あんな民主党はもう終わりだよ」。そして、「安保法制は、南シナ海の中国が相手なの。だから、やる(法案を通す)と言ったらやる」(週刊現代、7/4最新号)である。要するに、ホルムズ海峡の機雷除去などはカムフラージュで、安保法制の真の狙いは中国だと平気で言っている。安倍は集団的自衛権を使って、本気で米軍と一緒に南シナ海で中国と対決するつもりらしい。

 問題は、会食に出席した政治記者たちが、その重大な発言を、(オフレコだからという理由で)自分のメディアには載せないことである。安倍は、こうした記事が(適当に否定できる)週刊誌に載ることも計算しながらリップサービスし、報道キャップたちを手なずけているつもりなのだろう。しかし、こうして権力に近寄るメディアの側に、果たして「国民」のためにと言う視点はどの位意識されているのだろうか。
 権力に監視され、脅されて漂流しているように見えるマスメディアだが、今問われているのは、「権力と国民のどちらを向いて仕事をするのか」ということだと思う。仮に、そこに「メディアと権力」の間の、ぎりぎりの神経戦があるとしても、メディアの幹部たちには、日々、知ることに飢えている国民がいることを忘れないで欲しいと思う。