5月26日から始まった安保法制国会は、一カ月近く経過しても断片的な報道ばかりで、そこで何が議論になっているのか、国民には容易に分からない状況が続いていた。こんな浅い議論のまま法案が通ってしまうのかと思っていたら、6月4日の衆院憲法審査会で3人の憲法学者が揃って安保法制を「違憲」と断じてから、状況が変わって来た。大慌ての政府は、56年も前の反基地闘争での最高裁判決(後述)を持ち出して必死に巻き返しを図っているが、これも一向に説得力がない。
最近は、「憲法学者は字句に捉われ過ぎている」、「学者に任せていて国の安全が守れるか」と、法治国家とも思えない“開き直り”で切り抜けようとしているが、国民の80%以上が説明不足と指摘し、(NHKのニュースだけを見ていると分からないが)広範な反対運動に火をつけたり、支持率が低下する結果となっている。当初は、適当に時間を稼いで強行採決に持ち込もうとした作戦も完全に失敗で、最近は9月27日までの大幅な会期延長を強いられるなど、法案の先行きもかなり混とんとして来た。
この状況に、これまでの国会論戦がどうなっているのか、改めて論点ごとに政府答弁を整理してみたくなった。すると、質問をはぐらかす、出来るだけ具体例を出さない、自説を延々と繰り返す。意味もなく相手を見下す、逆に極端な例を出して恫喝する、など、首相自身の「曖昧で不真面目な答弁」の異常さが際立って来た。こうした支離滅裂な答弁の背景には、もともと無理なものを強引に通そうとする “焦り”があるに違いないが、一方で、安保法制に対する彼らの隠れた意図が透けて見えるようにも思う。その危険な意図を探ってみる。
◆曖昧な「必要最小限」。具体的でない「存立危機事態」
安保法制の目玉である集団的自衛権について、安倍政権が合憲論の根拠としているのは1959年の砂川事件最高裁判決だ。この時、憲法9条でも「自衛のための措置」(自衛権)が認められると同時に、その内容については高度な政治性を有するので、その合憲性は内閣および国会の判断とされた。しかし、この「自衛のための措置」に、集団的自衛権は含まれないというのが、歴代内閣の見解だった。それが憲法9条の、自国の安全を「必要最小限」の武力で守る「専守防衛」の考え方だった。
しかし去年7月、安倍政権は「自衛のための措置」について、「どこまで含まれるのか、常に国際状況を見ながら判断しなければならない」と、国際状況の変化を理由に拡大解釈し、自国が攻撃されていないのに(米国などを助けて)武力行使する集団的自衛権の容認に踏み切った。安倍は、その場合でも容認の「新3要件」に「必要最小限」と書いてある以上、「専守防衛という考え方は、全く変わらない」と答弁。しかし、もう一つの要件である「存立危機事態」については、その時々で判断するとして具体的な説明を避けている。
具体的な答弁を迫る岡田民主党代表に対して、安倍は「新3要件に当てはまるかどうかがすべてで、どういう場合でなければ武力行使しないのか、そんなことをいちいちすべて述べている海外のリーダーは殆どいない」と開き直った。これでは「必要最小限」の中身が分からず、いくら専守防衛と言われても信用できない。その一方で、持論の「ホルムズ海峡での機雷除去」については、海外派兵の唯一の例外として新3要件に当てはまるなどと言う。訳の分からない主張だが、本当に重要な南シナ海や台湾、北朝鮮有事といった、近隣での(巻き込まれ)戦争の議論を避けて、あえて中東などの遠隔地に注意を向けさせる作戦なのだろう。
◆質問をはぐらかして、逆襲する
問題の朝鮮半島有事については、「日本を守るために出動している米艦船への攻撃を、日本への攻撃の着手と判断することがあり得る」という考え方、つまり集団的自衛権ではなく、「個別的自衛権」(重要影響事態など)で対応出来るはずだという考え方がある。それを指摘した岡田代表に対し、安倍は「新3要件に当てはまった時には、日本は武力行使を行う。法律によって事態を判断する材料、基本的な考え方が決まっている。武力行使する際には新3要件、重要影響事態では重要影響事態のための要件をそれぞれ満たすかどうかだ」と質問をはぐらかした。
その一方で、「(集団的自衛権で)日本人を守りぬくことができる。このことを考えないことが政治家として責任ある態度か、極めて疑問がある」と逆批判。あるいは、「(今)法改正をしなければならない何か相当な危機が迫っているのか」と質問した松野頼久(維新)に対して、「では、危機が起こらないと言えるのか」などと逆切れする。ホルムズ海峡の機雷除去について、その必要性について細かくシミュレーションすべきとの指摘に対しても、「ホルムズ海峡が封鎖されて誰も何もしませんよということなら、病院にエネルギーが供給されない事態が起こってもいいのか」と極端な例をあげて脅す。
◆自衛隊のリスクを巡る無責任な答弁
質問をはぐらかす不真面目な答弁は、自衛隊の海外派遣のような“具体的事例”となると特に目立って来る。例えば、自衛隊の活動範囲が広がるのだから、当然リスクも高まるのではないか、という質問に対しては「今まで自衛隊に死傷者が出ていなかったかのごとくの認識ですが、それは違いますよ」、「新法にのっとって、自衛隊はしっかり訓練を重ねて行くことによってリスクを低減する」と意味不明な答弁でごまかす。さらには「リスクがないとは言っていない。国益を中心に判断する。そうした判断をすることをリスク、リスクと騒ぎ立てるのは政治家としてどうかと思う」などと開き直る。
自衛隊の後方支援について、従来は(活動の期間中戦闘が行われない)「非戦闘地域」に限られていたが、新法案ではそれを緩めて「現に戦闘が行われていない地域」となった。一般には、今や安全な後方支援などはなく、むしろ住民等が近くにいるために、より敵の攻撃目標になりやすいというのが最近の常識になっているというが、安倍は「必ず戦闘に巻き込まれるわけではない。安全な場所で相手方に(物資を)渡すのがいまや常識ではないか」などと答えている。
◆法治国家の死。法制を少しでも幅広(はばびろ)にしておきたい
こうした「曖昧で不真面目な首相答弁」の極端な例が、「我々が提出する法律の説明は全く正しい。私が総理大臣なんですから」だろう。これらに対しては、新聞も「首相は異論に耳を傾けようとしないし、異論を持つ人を説得する意思もない」(朝日6/18)などと批判しているが、ここで、一連の答弁が何を意味しているのかを、もう少し掘り下げて見て置く必要があると思う。一つには安保法制の根本的な欠陥(違憲)と対米奉仕の実体であり、それをごまかさなければならない“焦り”である。これは法案審議が進むにつれて、ボディーブローのように効いて来ている。
しかし、より重大なのは、審議によって手足を縛られたくないという安倍政権の隠れた本心だと思う。法案の内容を出来る限り「曖昧な幅のある“幅広な”法案」にして置き、その時々の国際状況によって解釈を変える。「必要最小限」や「専守防衛」の定義を変えて、より自由に軍事力を展開したいという(危険な)本心なのではないか。そのために、出来るだけ具体的には答えない。そこには、「国家の安全や国益を考えているのは我々だけだ」という国粋保守特有の思い上がりがあるのだろう。
既に安保法案の歯止めとされる「新3要件」も、恣意的に解釈できるものになりつつある。その上で将来、国家指導者の権限を大幅に強化する法律でも作れば、(戦前のドイツや日本のように)憲法を変えずとも「必要最小限」や「専守防衛」の名のもとに、かなりのことが出来るようになる。しかし、それは「法治国家」の死を意味する。そうした「いつか来た道」に戻らないためにも、野党は山積する問題点を(抽象的な観念論ではなく)より具体論で攻めて欲しい。あと95日の歴史的な安保国会。私たちもその推移を注意深く監視して行く必要がある。
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