日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

曖昧で不真面目な首相答弁 15.6.23

 5月26日から始まった安保法制国会は、一カ月近く経過しても断片的な報道ばかりで、そこで何が議論になっているのか、国民には容易に分からない状況が続いていた。こんな浅い議論のまま法案が通ってしまうのかと思っていたら、6月4日の衆院憲法審査会で3人の憲法学者が揃って安保法制を「違憲」と断じてから、状況が変わって来た。大慌ての政府は、56年も前の反基地闘争での最高裁判決(後述)を持ち出して必死に巻き返しを図っているが、これも一向に説得力がない。
 最近は、「憲法学者は字句に捉われ過ぎている」、「学者に任せていて国の安全が守れるか」と、法治国家とも思えない“開き直り”で切り抜けようとしているが、国民の80%以上が説明不足と指摘し、(NHKのニュースだけを見ていると分からないが)広範な反対運動に火をつけたり、支持率が低下する結果となっている。当初は、適当に時間を稼いで強行採決に持ち込もうとした作戦も完全に失敗で、最近は9月27日までの大幅な会期延長を強いられるなど、法案の先行きもかなり混とんとして来た。

 この状況に、これまでの国会論戦がどうなっているのか、改めて論点ごとに政府答弁を整理してみたくなった。すると、質問をはぐらかす、出来るだけ具体例を出さない、自説を延々と繰り返す。意味もなく相手を見下す、逆に極端な例を出して恫喝する、など、首相自身の「曖昧で不真面目な答弁」の異常さが際立って来た。こうした支離滅裂な答弁の背景には、もともと無理なものを強引に通そうとする “焦り”があるに違いないが、一方で、安保法制に対する彼らの隠れた意図が透けて見えるようにも思う。その危険な意図を探ってみる。

◆曖昧な「必要最小限」。具体的でない「存立危機事態」
 安保法制の目玉である集団的自衛権について、安倍政権が合憲論の根拠としているのは1959年の砂川事件最高裁判決だ。この時、憲法9条でも「自衛のための措置」(自衛権)が認められると同時に、その内容については高度な政治性を有するので、その合憲性は内閣および国会の判断とされた。しかし、この「自衛のための措置」に、集団的自衛権は含まれないというのが、歴代内閣の見解だった。それが憲法9条の、自国の安全を「必要最小限」の武力で守る「専守防衛」の考え方だった。
 しかし去年7月、安倍政権は「自衛のための措置」について、「どこまで含まれるのか、常に国際状況を見ながら判断しなければならない」と、国際状況の変化を理由に拡大解釈し、自国が攻撃されていないのに(米国などを助けて)武力行使する集団的自衛権の容認に踏み切った。安倍は、その場合でも容認の「新3要件」に「必要最小限」と書いてある以上、「専守防衛という考え方は、全く変わらない」と答弁。しかし、もう一つの要件である「存立危機事態」については、その時々で判断するとして具体的な説明を避けている。

 具体的な答弁を迫る岡田民主党代表に対して、安倍は「新3要件に当てはまるかどうかがすべてで、どういう場合でなければ武力行使しないのか、そんなことをいちいちすべて述べている海外のリーダーは殆どいない」と開き直った。これでは「必要最小限」の中身が分からず、いくら専守防衛と言われても信用できない。その一方で、持論の「ホルムズ海峡での機雷除去」については、海外派兵の唯一の例外として新3要件に当てはまるなどと言う。訳の分からない主張だが、本当に重要な南シナ海や台湾、北朝鮮有事といった、近隣での(巻き込まれ)戦争の議論を避けて、あえて中東などの遠隔地に注意を向けさせる作戦なのだろう。

◆質問をはぐらかして、逆襲する
 問題の朝鮮半島有事については、「日本を守るために出動している米艦船への攻撃を、日本への攻撃の着手と判断することがあり得る」という考え方、つまり集団的自衛権ではなく、「個別的自衛権」(重要影響事態など)で対応出来るはずだという考え方がある。それを指摘した岡田代表に対し、安倍は「新3要件に当てはまった時には、日本は武力行使を行う。法律によって事態を判断する材料、基本的な考え方が決まっている。武力行使する際には新3要件、重要影響事態では重要影響事態のための要件をそれぞれ満たすかどうかだ」と質問をはぐらかした。
 その一方で、「(集団的自衛権で)日本人を守りぬくことができる。このことを考えないことが政治家として責任ある態度か、極めて疑問がある」と逆批判。あるいは、「(今)法改正をしなければならない何か相当な危機が迫っているのか」と質問した松野頼久(維新)に対して、「では、危機が起こらないと言えるのか」などと逆切れする。ホルムズ海峡の機雷除去について、その必要性について細かくシミュレーションすべきとの指摘に対しても、「ホルムズ海峡が封鎖されて誰も何もしませんよということなら、病院にエネルギーが供給されない事態が起こってもいいのか」と極端な例をあげて脅す。

◆自衛隊のリスクを巡る無責任な答弁
 質問をはぐらかす不真面目な答弁は、自衛隊の海外派遣のような“具体的事例”となると特に目立って来る。例えば、自衛隊の活動範囲が広がるのだから、当然リスクも高まるのではないか、という質問に対しては「今まで自衛隊に死傷者が出ていなかったかのごとくの認識ですが、それは違いますよ」、「新法にのっとって、自衛隊はしっかり訓練を重ねて行くことによってリスクを低減する」と意味不明な答弁でごまかす。さらには「リスクがないとは言っていない。国益を中心に判断する。そうした判断をすることをリスク、リスクと騒ぎ立てるのは政治家としてどうかと思う」などと開き直る。
 自衛隊の後方支援について、従来は(活動の期間中戦闘が行われない)「非戦闘地域」に限られていたが、新法案ではそれを緩めて「現に戦闘が行われていない地域」となった。一般には、今や安全な後方支援などはなく、むしろ住民等が近くにいるために、より敵の攻撃目標になりやすいというのが最近の常識になっているというが、安倍は「必ず戦闘に巻き込まれるわけではない。安全な場所で相手方に(物資を)渡すのがいまや常識ではないか」などと答えている。

◆法治国家の死。法制を少しでも幅広(はばびろ)にしておきたい
 こうした「曖昧で不真面目な首相答弁」の極端な例が、「我々が提出する法律の説明は全く正しい。私が総理大臣なんですから」だろう。これらに対しては、新聞も「首相は異論に耳を傾けようとしないし、異論を持つ人を説得する意思もない」(朝日6/18)などと批判しているが、ここで、一連の答弁が何を意味しているのかを、もう少し掘り下げて見て置く必要があると思う。一つには安保法制の根本的な欠陥(違憲)と対米奉仕の実体であり、それをごまかさなければならない“焦り”である。これは法案審議が進むにつれて、ボディーブローのように効いて来ている。
 しかし、より重大なのは、審議によって
手足を縛られたくないという安倍政権の隠れた本心だと思う。法案の内容を出来る限り「曖昧な幅のある“幅広な”法案」にして置き、その時々の国際状況によって解釈を変える。「必要最小限」や「専守防衛」の定義を変えて、より自由に軍事力を展開したいという(危険な)本心なのではないか。そのために、出来るだけ具体的には答えない。そこには、「国家の安全や国益を考えているのは我々だけだ」という国粋保守特有の思い上がりがあるのだろう。

 既に安保法案の歯止めとされる「新3要件」も、恣意的に解釈できるものになりつつある。その上で将来、国家指導者の権限を大幅に強化する法律でも作れば、(戦前のドイツや日本のように)憲法を変えずとも「必要最小限」や「専守防衛」の名のもとに、かなりのことが出来るようになる。しかし、それは「法治国家」の死を意味する。そうした「いつか来た道」に戻らないためにも、野党は山積する問題点を(抽象的な観念論ではなく)より具体論で攻めて欲しい。あと95日の歴史的な安保国会。私たちもその推移を注意深く監視して行く必要がある。

「言い換え」と虚言の政治 15.6.11

 ユダヤ人の政治哲学者、ハンナ・アーレントが戦後間もなく、まだヒトラーのナチとスターリン(1953年死)の大粛清の記憶が生々しいうちに、人類が犯した最も恐ろしい政治システムについて解明した大著が「全体主義の起源」(全3冊、1951年)である。とても全部を読む気力がないので、その集大成とも言うべき3巻目をアマゾンで手に入れて読み終えた。アウシュビッツ収容所の体験を書いた「夜と霧」(ヴィクトール・フランクル)などを読んで一応は知っているつもりになっていても、ヒトラーが突き進んだ全体主義の真の恐ろしさは、これを読まないととても語れない気がする。それはスターリン時代の恐怖を描いた「収容所群島」(ソルジェニツィン)だけでは、その全体主義の真の恐ろしさを語れないのと同様だろう。

 去年、映画にもなったハンナ・アーレントと彼女の著作「全体主義の起源3」についてはいずれきちんと書こうと持っているが、今回はその中から、ヒトラーとスターリンが権力を握って行く過程で用いた政治手法の一つについて書いておきたい。それは政策やスローガンを語る時の「政治的語法」なのだが、最近の日本の政治を見ていると、(もちろん政治体制は違うにしても)何やら似かよっていて不気味な感じがするからである。

◆揺るぎない断言、見せかけの態度。本質隠しの「言い換え」
 かつてヒトラーのナチは「勝利か破滅か」というスローガンによって、一民族全体を戦争に引きずり込むことが可能だと言うことを立証した。アーレントは、その成功が(大衆を掴む)指導者の「魅力」などではなく、別の所にあったと言う。それは、「この男が自分自身に寄せていたファナティック(狂信的)な信頼」であり、意見を揺るぎない確信に満ちた声で語ることであり、そして、常に一つの包括的世界観(陰謀論による反ユダヤ主義やアーリア人種賛美など)の中にぴったりと収まる意見だったことである。それを「氷のような首尾一貫性」で続けたことだった。
 一方で、運動が過激さを増して行ったときには、ヒトラーは運動内部においては常に最も過激でありながら、外部に対しては自分だけは別で、尊敬すべきナイーブな共感者のふりをすることができた。スターリンも同様で、外部に対しては中間派の役割を演じていたという。こうした見せかけは、彼らにとって(どうせ反古にするのだから)何の束縛にもならなかった。ナチ台頭の初期、ドイツ社会や外国はそれに騙されて、全体主義の恐ろしいシステムを見ぬけなかったのである。

 揺るぎない確信のもとに一つのメッセージを繰り返し断言する。一方で、外部に向かってはソフトで物分かりの良い指導者として振舞う。この2つの顔を持ちながら、決して達成できない世界征服や世界革命の野望に取りつかれ、その運動を持続するためにユダヤ人や少数民族の絶滅と言った恐ろしい狂気に人々を駆り立てて行った。その間、様々な政策やスローガンが作られたが、それらはどれも内実を隠すような“用語法”に基づいていた。
 その極め付きが、ユダヤ人問題の「最終的解決」という政策だった。「解決」と言いながら、その本質は支配下のユダヤ人の大量殺戮であり絶滅作戦だった。アーレントは、このようなナチの用語法が、出来事(本質)からの心理的距離と犯罪のスムーズな遂行を可能にした、と指摘する。つまり、ナチの幹部だけでなく、実際にユダヤ人を大量にガス室に送りこむ役人たちさえも、自分がやっていることの本質から心理的に目を背けることに役立ったのである。

◆安倍政権の政策の「言い換え」
 政策の本質を隠す「言い換え」は、戦前の日本でも横行した。アジア侵略に踏み切るのに「五族協和」、「八紘一宇」、「大東亜共栄圏」などの耳触りのいい言葉が使われた。それから70年。その目で見ると、政策を耳触りのいい言葉に言い換える用語法は、最近になって至る所で復活しつつあるように思う。例えば、以前は「武器輸出三原則」と言っていた法律である。これを一気に緩めて、より武器輸出を拡大するのに際して、法律の名称を「防衛装備移転三原則」に換えた。
 「武器」を「防衛装備」に換えても、「輸出」を「移転」に言い換えても本質は同じなのに、よほど後ろめたい気持ちがあるのだろう。それで国民を騙せると思っているところが、最近の政治の幼稚さであり、胡散(うさん)臭さだ。あるいは、原発の「規制基準」を、安倍などが「世界一厳しい“安全基準”」などと意図的に言い換えるのも本質隠しである。この見方で言えば、安倍の「積極的平和主義」なども、同様の「本質隠しの心理」が働いているに違いない。

 この字面だけ見れば、積極的に世界の平和構築に貢献する政策のように見えるが、内実は日米軍事同盟の一層の強化であり、自衛隊がアメリカ軍の補完勢力となって紛争への軍事介入にこれまで以上に関与するということである(*)。その一連の具体化が先の日米ガイドラインの改定であり、安保法制なのだが、今回彼らのつけた名称(「平和安全法制」)がまた本質隠しがミエミエ。またその中の一つ、戦争中の他国軍を自衛隊が後方支援するのが「国際平和支援法」だ。幾ら平和と名付けても、本質は変わらない。積極的平和主義とアメリカ依存
 これらを「戦争法案」と呼んだ野党に自民党は強硬に抗議したが、私などは、戦争の現実を直視せずに、そうした“見せかけ”の言い換えにこだわる所に、彼らの危うい心理を見てしまう。それが「自衛隊のリスクは増大しない」などという空虚な答弁を繰り返させる心理なのだと思うが、そんな言い換えで現実を直視せず、自分を安心させながら、国民をも騙せると思い込んでいる所が幼稚(政治の堕落)で、却って危険に思えるのである。

◆政治が信を失う時。その言葉、信じられるか
 一方、ここへ来て首相は国会で、「(日本が)ポツダム宣言を受諾し、降伏したこと」を認め、「東京裁判についても、異議を唱える立場にない」と答弁し始めた。ポツダム宣言の6項目目は、日本の軍国主義者に対して「国民を欺いて世界征服の挙に出た過誤を犯させた者たちを永久に除去する」としているが、彼らの戦争責任についても、同じ答弁で安倍は「そうした結果を生み出した日本人の政治指導者には、それぞれ多くの責任があるのは当然」とも答えている。
 これは、ポツダム宣言を詳しくは読んでいないと言ってはぐらかした先日の答弁を修正したものだが、以前に、東京裁判(従ってA級戦犯の裁判)について疑義を呈していた言説とは矛盾するものである。どちらが本当かと言えば、もちろん本心は、彼の思想的母胎である「日本会議」の思想(連合国による東京裁判の否定、自存自衛とかアジアの植民地解放という理由での太平洋戦争の肯定など)に近いのだろう。今は状況を見て穏健的に言っておいて、時が来れば本心に帰るつもりなのだろうが、政治家の二枚舌と言われても仕方がない軽さである。

 問題は、このように政治家や追随する官僚の言説が本質隠しの言い換えや、二枚舌になって行く時の危うさである。私は最近の極右的な政治状況をみた時に、日本が戦前のような国家主義に先祖がえりする危険性には十分注意を払うべきだと思うが、ヒトラーやスターリンのような異質な全体主義に日本が踏み出すことはないと思いたい。しかし、こうした政治システムが初期には共通の土壌を持っていることは十分警戒しなければならない筈だ。
 それは、政治に信頼が持てないという危険な社会の兆候である。自分たちの言説に政治家自身が信を置かない、あるいは「言い換え」で自分をごまかす。これを見れば、国民も呆れて政治を信用しなくなる。そうした状況を作っておいて、確信犯的に強固なメッセージを繰り返すのが独裁者の常とう手段。この国会で安倍は(この安保法制によって)「国民の生命、幸せな暮らしに責任を持つ」と何十回となく言っているが、私たちはその背後にある危険な兆候を注意深く観察し、見誤ることがあってはいけないと思う。

抽象論での逃げ切りを許すな 15.6.3

 5月26日の党首討論を皮切りに、国会での安保法制の審議が始まった。まだ8日間ほどの審議に過ぎないが、早くも多くの問題点が浮かび上がって来ている。いわく、集団的自衛権を可能にする新3要件(「武力攻撃事態法改正案」)にある、我が国の存立を脅かす「存立危機事態」とはどういう事態をさすのか。それは、後方支援のためなら自衛隊を世界中に展開できるとした別の「重要影響事態」と何が違うのか。また、様々な事態に「切れ目なく」対応できるとしたグレーゾーン対応についても、実際にはどれを適用して自衛隊を動かすのか。様々な事態の仕分けも混乱していて明確に説明できない。
 もともと専守防衛を旨とする憲法9条下では不可能とされて来た問題を、憲法を変えずに「新しい国際環境に応じて国際平和に貢献し、国民の生命と財産を守るため(安倍)」といった理由で無理やり可能とした論理的破綻が、ここへ来て露呈し始めている。その無理筋の安保法制を国会で説明する役者は、安倍首相、中谷防衛相、岸田外務相の3人のみ。具体例には答えられずに(壊れたレコードのように)抽象論を繰り返す3人に対し、野党はどれだけ具体例で迫れるか。そこに国会論戦の趨勢の分かれ目があるように思う。

◆「存立危機事態」の本丸はどこか。どこまで含むのか
 ご存知のように、日本が攻撃されていないのに、日本と密接な関係にある他国が武力攻撃された場合に一緒になって戦うのが「集団的自衛権」。「存立危機事態」とは、その歯止めのために作られた「新3要件」の重要部分である。他国が攻撃されることによって「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」事態を言うが、これを素直に解釈すれば、当てはまるケースはごくまれであり、場所的に言ってもアメリカを当事者とする近隣国との戦争以外に考えられない。
 例えば、アメリカと中国との間に戦端が開かれるか、アメリカと北朝鮮が戦争を始めるかである(ウクライナ問題で仮に米ロ間に戦争が起きても、すぐに「存立危機事態」になるかどうか)。その場合は、日本はこの「存立危機事態」によってアメリカとともに中国や北朝鮮と戦争することになる。これが「存立危機事態」による戦争であり、「アメリカの戦争に巻き込まれることは絶対ない」などと言えるわけがない(*)。日本は米中、米朝のどちらが先に仕掛けた戦争かは別として、アメリカに付き合って日本国内までも戦場となるような“隣国との戦争”に巻き込まれるリスクを抱えることになる。*)日本が先に戦争を仕掛けられれば、個別的自衛権と日米安保条約の適用問題になる

 安倍たちは、日本がこうしたリスクを引きうけることが、一方で中国と北朝鮮に対する抑止力につながると主張するが、リスクには2面性がある。一方のアメリカは、日本の集団的自衛権があるからと言って、中国や北朝鮮と戦争を始めるハードルが変わるわけではない。世界の警察を自認するアメリカは、独自の国益で動くので何の抑止力にもならない筈だ。この根本的な問題から目をそらせて、ただアメリカの期待に応えるために、出来るだけ遠隔地で恩を売りたいと言うのが、いまの安倍政権の考え方ではないのか。
 そのための事例が、ルムズ海峡やインド洋での戦闘(機雷除去など)だが、幾ら例外的でも重油などの資源封鎖や経済的な影響まで、戦争に踏み出す「存立危機事態」に入るとは思えない。ならば、いま米中で緊張が高まっている南シナ海についてはどうなのかと言うと、南シナ海は“う回路”があるので「存立危機事態」には当たらないという。要するに、真の意味での「存立危機事態」である米中、米朝の“隣国との戦争”から目を逸らして、自衛隊だけがリスクを負う遠隔地に議論を閉じ込めておきたいのである。野党はタブーを恐れずに、米中、米朝戦争の「存立危機事態」の本丸(巻き込まれ論)に迫るべきである。 

◆違憲の安保法案。新3要件を満たせば、「専守防衛」なのか
 新3要件(「存立危機事態」)を踏まえて、戦争に参加するには、武力行使を目的として他国の領土、領空、領海に戦力を送り込まなければならない。従来、そうした海外派兵は「自衛のための最小限度を超えるもの」と見なされ、憲法上許されないとして来た。しかし、安倍は(必要最小限と言っている)新3要件を満たしているのだから、こうした遠隔地への武力派遣も「専守防衛」だ(つまり憲法9条に違反しない)と言い張っている。これは、集団的自衛権を認めるために、「専守防衛」の定義を変えることであり、論理矛盾(論理の転倒を示すものではないか。
 しかも、その新3要件も「一般」と「例外」を恣意的に使い分けた、あいまいな基準でしかなくなって来ている。アメリカの期待に応えるためにハードルがどんどん下がって来ている。(最近の国会答弁で安倍は否定したが)菅は新3要件を満たせば、アメリカを狙う敵のミサイル基地攻撃もできる、などと言う。今や、新3要件が何でもできる錦の御旗になりつつあるわけだ。この状況をも「専守防衛」と言い張らなければならないところに、憲法を改正せずに集団的自衛権を可能にしようとした根本的な無理がある。具体的に迫れば迫るほど、法案の違憲状態が浮き彫りになるはずだ。*6/4、衆院憲法審査会で3人の憲法学者が揃って安保法制を「違憲」と断じたのは当然とはいえ、この法案の異常さを示ている。

◆「重要影響事態」と「存立危機事態」の違いは何か
 もう一つの問題は、自衛隊がアメリカなどの後方支援で世界中どこへでも出動する事態を定めた「重要影響事態」である。「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等、我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」だとされる。これと先の「存立危機事態」はどこがどう違うのか。それを政権は明確に答えない。 常識的に考えて、一方は後方支援で、他方は戦争参加なのだから、「存立危機事態」の方が「重要影響事態」より上位にあるのだろうが、どう違うのか政府は明確に言いたがらない。安倍首相は、「国民に及ぶ被害の影響の重要性から、客観的、合理的に判断する」などと抽象的な答弁を繰り返すだけだ。
 最近になって米中小競り合いの危機が取り沙汰される南シナ海に関しては、政権は、(う回路があるので)「存立危機事態」には該当せず、後方支援の「重要影響事態」で対処する考えを示した。アメリカに恩を売るにしても、自衛隊をより安全に置いておきたい気持ちの現れだろうが、その使い分けは国際的に通用するのか。仮に米中衝突が起きた時に、場所的には戦闘が起きていない後方からでも、米軍を助ける自衛隊は中国からすれば敵でしかない筈だ。このように、実質的に武力展開と見なされる「重要影響事態」の後方支援にも落とし穴は沢山ある。これらも具体的に問い詰めるべきだろう。

◆日本はアメリカの要請を断れるのか
 以前にも書いたように、もともと集団的自衛権は安倍の「アメリカが日本を守るために血を流すのに、日本はアメリカのために血を流さなくていいのか」、「その位しなければアメリカは尖閣を守ってくれない」という年来の想いを実現したものだ。しかし、公明党が憲法9条を意識して持ち出した新3要件によって体裁を整えただけに、この安保法制は具体的になると身動きが取れないようになっている。従って、そこは議論せず、集団的自衛権を認めたと言う一点に満足して強引に法案を通し、その後はその場その場で理由を見つけてハードルを下げようと言うのが、政権の目論みと言っていい。
 しかし、そうして法案が成立した時、日本はアメリカの要請を断れるのか。安倍は、「主体的に判断するのだから、アメリカの言われるままに武力行使することはない」と断言するが、一方で、「日米同盟堅持こそが日本にとって死活的に重要であり、その毀損の恐れは“存立危機事態”に当たる(去年7月、岸田)」とした答弁は政権の本音だろう。以前は憲法9条の存在がアメリカの要請を断る歯止めになってくれた。しかし、集団的自衛権を認めた段階で、憲法9条は形骸化。既に恣意的解釈でグズグズになっている新3要件は、代わりにアメリカの要請を断る盾になってくれるのか。

 安保国会は始まったばかり。見て来たような安保法案の無理筋ぶりは、自衛隊をより広範な地域でより危険な業務につかせておきながら、「リスクは変わらない」などと強弁する異常さにも端的に現れている。では、自衛隊が海外の遠隔地でリスクに身をさらすことが、どう国民のリスクを下げることにつながるのか。安保政策は具体論で議論しなければ、国民には分からない。野党は、国家と国民の安全についての議論を抽象論に終わらせずに、出来る限り具体例をあげて法案の実体に迫るべきである。

解明されるか福島の謎 15.5.26

 5月17日放送のNスペ「廃炉への道2015〜“核燃料デブリ”未知なる闘い〜」に先立ち、かつて一緒に「NHK特集」の原発シリーズに取り組んだ大先輩から以下のようなお手紙を頂いた。ご本人の了解を得てその内容の一部を紹介するが、不自由な右手で書いて来られたその文字を見ていると、リタイアされた今もなお、自分が関った原発問題の行方を見届けようとする気迫が伝わって来る。手紙の中で触れている「原子炉の中で溶け落ちた核燃料デブリは、どうなっているのか」と言う疑問は、まさに今回の「廃炉への道2015」が探ろうとした謎でもある。
 最近は福島原発事故に関する情報もめっきり減り、人々の頭の中で事故の影が薄れているようにも見えるが、情報が少なくなっても、事故の重い現実が消えたわけではない。問題の核燃料デブリを含めて、福島原発事故にはまだまだ多くの疑問や謎が残っている。むしろ「謎だらけ」と言ってもいい位である。先輩の気迫に応える意味でも、ここで今一度、福島原発事故の謎の数々を整理しておきたい。同時にこれは、今や定期的に福島原発事故を検証する番組として、数少ない存在になったNスペ「メルトダウン」、「廃炉への道」シリーズ取材班への期待の表明でもある。

◆先輩の手紙。「核燃料デブリ」はどこに?
 『拝啓 大戦後70年、そして福島原発群大崩壊のフクシマクライシスから4年の初夏を、どうお過ごしですか。「メディアの風」は吹いていますか。戦争知らずの戦後生まれの世代が、「わが軍隊」的発言をするのが気にくわぬ昨今ですが、自らは、体調も乱筆も悪化するのみの心身障害老を自覚するのみの昨今です。
 Nスペが、去年の「廃炉への道」シリーズに続いて、17日に第3回を放送するのを前に、かねてからの素人的疑問に改めて触れてみたくなりました。それは、メルトダウンのあとのメルトスルーについてです。溶け落ちた「核燃料デブリ」が、今も圧力・格納容器の中にたまったままなのか、或いは、さらに容器の底をもメルトスルーしてはいないのか。建屋の下までボーリングしてみないのか。それは技術的に不可能で費用もかかり過ぎるというのでしょうか。
 素人の“恐怖的”関心かもしれませんが、「廃炉への道」が、いずれはそこまで調べてくれないものかと期待しているのです。原発のおそろしさ、難しさを再認識させることにもなるのですが。そのあたり、雑音の一つかも知れませんが、何か情報があれば、お知らせ下さると有り難いのです。(一部段落省略。以下、後半で)』


 「核燃料デブリ」とは、メルトダウンした高温の核燃料が炉内の様々な構造物を溶かし込んで固まった超高線量の放射性物質だ(それは、1号機から3号機で総重量600トンにもなるという)。Nスペ「廃炉への道」(5/17)では、それを捉えようとする技術者たちを追う。しかし、1号機の格納容器内に投入したロボットも僅かに冷却水の水面を捉えるのみで、その姿を捉えられない。
 次に使われたのは、宇宙線から派生したミューオン粒子を利用した装置で原子炉内を透視する試み(*)だったが、結果は大方の予想を裏付けるものだった。圧力容器の中は空っぽで、「核燃料デブリ」の殆どは圧力容器をメルトスルーして、格納容器の底に溶け落ちているらしい。しかし、それが格納容器の底でどんな状態で止まっているのか、あるいは格納容器をもメルトスルーしているのか、という先輩の疑問は残ったままだった。*私が関るサイエンスニュースでも紹介した(「宇宙線で原子炉を透視する」2014年3月20日)

◆「核燃料デブリ」は、格納容器の中に止まっているのか?
 後輩が知らせてくれた東電のこれまでの解析(2011年11月)では、格納容器の底には厚さ2.6m(溝などもあるので底の鉄板までの最短距離は1.02m)のコンクリートがあり、一番状況が厳しい1号機で、核燃料デブリはそこを65センチ溶かして沈み込んでいる、として来た。底の鉄板まで僅か37センチのところで止まっていることになる。東電と政府の「廃炉工程」は、核燃料デブリが格納容器内にとどまっていることを前提にして組み立てられているが、万一、格納容器をもメルトスルーして、核燃料デブリが容器の外に出てしまう“メルトアウト”でもしていると極めて厄介だ。
 解析資料を見ると、格納容器の下には厚さ7.6mの「人工のコンクリート層(マンメイドロック)」がある。メルトアウトした核燃料デブリは、(充分冷却されないと)その熱でじわじわとそのコンクリート層を溶かして行くことになる。その先は、いわゆる「チャイナシンドローム」のようになるのかどうか。東電の解析通りであることを信じたいが、ネット上や本(*)ではこうしたメルトアウトまで心配する向きもあって、核燃料デブリがしっかり確認されるまで、まだまだ安心はできない。*「原発報告の真実とウソ」塩谷義雄、「フクイチで新たな恐怖」など

 夏以降さらにミューオン透視装置で2、3号機も見る予定だが、溶け落ちた核燃料デブリが格納容器の下部でどうなっているのかを見るには、装置を地下深く掘り下げて置かないと分からないかもしれない。核燃料デブリが東電の解析通り格納容器内に止まっているのかどうか。先輩の疑問に答えるためにも、3つの原子炉の(コンクリート層も含めた構造の)正確な情報、それに透視装置やロボットを駆使した解明が待たれるところだ。

◆核燃料デブリの「再臨界」の条件と可能性は?
 今回の「廃炉への道」では、新たにぎょっとするような情報が出て来た。核燃料デブリの「再臨界」の可能性である。韓国原子力研究所で、実際の燃料棒や制御棒に相当する物質を高温で溶かしたところ、核分裂反応を抑える働きをする制御棒中の「炭化ホウ素」が、(比重の関係か)ウランの中に均一に混じらず、殆どが上部に固まっていたのである。これでは、核燃料デブリの大部分は核分裂反応を抑える「炭化ホウ素」の影響を受けないことになってしまう。
 専門家(東京都市大学 高木直行教授)は「仮に再臨界があったとしても局所的なもので大きな影響はない」と言うが、そもそも核分裂反応を起こす「再臨界」は、どういう条件で起きるのだろう。一説には、減速材としての水の中で、ウランが粒子状になっていると、その可能性は高まると言うが、解析資料を見ると2号機、3号機では「核燃料デブリの一部が粒子化」という表現もある。実際はどうなのか、これも今後、十分注視していくべきテーマだろう。

 これらの他にも、福島原発事故には、まだ解明されていない多くの謎がある。そもそも、あのような過酷事故がなぜ現状のような状態で止まったのか。最近になって1号機のベントも機能していなかったということが分かったが、なぜ圧力容器や格納容器は大崩壊を免れたのか。これらはNスペ「メルトダウン」の守備範囲になるのだろうが、日本が奇跡的に破局を免れた要因については、まだ十分解明されていない。汚染水となる地下水の流入問題、除染の状況、そして海産物、農産物の汚染状況や健康被害についての疑問や謎も残っている。これらを見続ける記録は、人類の貴重な財産になるはずだ。最後に先輩からの手紙の後半を紹介しながら、後輩である番組取材班へのエールとしたい。

◆先輩からの手紙。フクシマに世界の研究センターを
 『もう一つは、この人類史上例のない、複数の原発を廃炉にしなくてはならないフクシマクライシスに対応するためにも、世界各国の原発技術者を集める巨大システムが必要で、これは、世界全体の利益となるものです。しかも、福島には、崩壊・爆発した四つの原発があり、これを廃炉とする技術開発のための実験実証炉が多様に存在しているのです。
 世界の原発は、今や30ヶ国で430基ちかくに増え、さらにその数を増やしつつあります。それを安全に運転する技術改善のためにも、こうした技術集団の出現が必要です。『国際原発技術改善・廃炉技術研究開発センター』をフクシマに開設するのです。無責任な素人の勝手論は雑音になるばかりでしょうが、お笑い嗤い草にして下さい。今日も、テレビが「熱中症・脱水に注意」とくりかえしています。元気一番の夏を祈ります。  敬具』

「平和のリアリティー」を問え 15.5.14

 アメリカの上下両院合同会議での演説で安倍首相は、「アメリカが世界に与える最良の資産は希望である」、「(アメリカと)一緒なら世界をもっとはるかに良い場所に出来る」と述べ、日米同盟を「希望の同盟」と呼ぶことを提唱した。アメリカに対する手放しの礼賛であり、信頼である。その具体的な反映が演説に先立つ、「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)の改定であることは前回書いた。後方支援であれ、集団的自衛権であれ、事実上、アメリカの戦争に日本がどこまでも付き合うという内容なのだから、アメリカ側が喜ぶのも無理はない。
 しかし、この「希望の同盟」が、安倍の持論である「積極的平和主義」の現れだとしても、日米軍事同盟の拡大が本当に日本に平和をもたらすのか。或いは、それで日本が世界平和にどのような貢献を果たすことになるのか。憲法改正を睨む安倍に対抗するには、野党もどうすれば今の時代に、(日本と世界の)平和を維持できるのか、「平和のリアリティー」の議論を避けて通るわけにはいかない筈だ。間もなく始まる安保法制の国会論戦を前にして、果たして野党にその準備は出来ているだろうか。

◆アメリカを取り巻く世界の状況
 「平和のリアリティー」を考えるに当たって、(私なりに)今の世界状況を概観して見る。第二次世界大戦後70年、冷戦終結後26年。最近の世界は多極化が進行して、長らく世界の警察を自認して来た「唯一の超大国アメリカ」の一極支配体制が揺らいでいる「中華民族の偉大なる復興」を夢見る習近平の中国、帝国再建の野望を追うプーチンのロシア、加えてイスラムの大国イランや、イスラム帝国の復活を目指す過激派組織ISILの登場。世界はかつての群雄割拠の帝国主義時代のように、再び力が物を言う世界に逆戻りしつつあるかのようにも見える。
 アメリカの退潮に合わせるように、中東やアフリカ、ウクライナ、アフガン、南シナ海など、世界各地で混乱と緊張が高まっている。今は、安全装置であるべき国連が空洞化している上に、(ウクライナ問題などで)米ロ間の緩衝剤的な機能を果している、ドイツを中心としたEUもギリシャ、スペインなどの経済問題を抱えて揺れている。特に(ロシアや中国と言った)大国が絡むウクライナや南シナ海では、適正な安全装置が働かないと、現地のちょっとした衝突が大国同士の衝突に発展しかねない緊張した状況が続いている。

◆アメリカにとっては「渡りに船」だが
 こうした状況下でも、アメリカは一頃のように自由には動けない。軍事介入についても、度重なる戦争で国内に厭戦気分が出ているのに加えて、財政ひっ迫から国防予算を削減せざるを得ない状況だからだ。多極化が進む一方で、核を持つ大国同士のエゴがぶつかり合い、世界の盟主であり続けようとするアメリカにとって、世界はより面倒で困難になって来ている。そんな中での日本の申し出は、(メディアも言うように)アメリカにとってまさに「渡りに船」の展開だったに違いない。 
 日本の自衛隊がアメリカと一緒になって緊張が高まる世界で行動を共にし、アメリカ軍の後方支援を行う。南シナ海などでの衝突の場合は、日本が加勢してくれる。さらに、そうした機能を向上させるために、(オスプレイのような)アメリカ製の兵器を大量に購入する。これは、その陰に防衛力強化という日本の思惑が潜んでいようと、アメリカの世界支配機能(管理機能)の強化に有効で有難い申し出である。問題は、それがアメリカにとってはありがたいことかもしれないが、本当に日本の平和構築に役立つかと言うことである。

◆日本はアメリカの戦争について、どこまで知っているか
 この点で私が危惧するのは、(安倍の議会演説に代表されるように)戦後の日本があまりに「アメリカの戦争」を知らないか、無批判に受け入れている点である。アメリカは第二次大戦後の70年間に、大きな戦争だけで5回(朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争)も戦争して来た。東西冷戦時代の価値観に捉われたベトナム戦争も、ご存知のように問題の多い戦争だったが、冷戦終結後の戦争でもアメリカは多くの誤りを犯して来た。
 唯一の超大国になったアメリカは、「力を道義的目標に使うことが出来るという信念」を強めて、いつの間にか国家目標達成の手段として力、なかんずく軍事力を過大評価するようになった。その体現者であるネオコンたちは、イラク戦争に際して、「何ヶ月、あるいは何年も先に実現しそうな脅威に対する予防戦争」をもアメリカの採るべき戦争(これを「先制攻撃ドクトリン」という)にして、大量破壊兵器の確証のないまま戦争に踏み切ったのである(イラク戦争を批判したフランシス・フクヤマの「アメリカの終わり」、「戦争を始める論理」)。

 この「テロとの戦い」とも言われたイラク戦争が、その後の中東の大混乱を生んだ。イラク戦争に参加したイギリスでは、当時のブレア元首相が今でも国会で厳しい批判にさらされているのに、アメリカのイラク開戦に賛成した日本の小泉元首相は何の批判も受けていない。たまたまイラクで死者を出していない日本では、国民もこうした「アメリカの戦争」の裏事情に疎いこともあって、何か遠い世界の出来事と感じて来たのだろう。
 問題のウクライナでも、アメリカのネオコンたちは親ロシア派の大統領を追い落とすために、クーデタ的な謀略を何年も前から仕掛けていたという説が強い。これが、プーチンの怒りとアメリカ不信を招いているという。巨額の軍事費を扱うアメリカの軍産複合体は、何かと言うと武器を消費できる戦争を各地で仕掛けて来た。湾岸戦争などは、賞味期限が迫る武器の一大消化作戦になったというのも通説になっているが、こうした傾向は未だに続いているらしい(「田中宇の国際ニュース解説」)。

◆日本はどこまでコミットするのか。「平和のリアリティー」の議論を
 日本が一連の安保法制によって付き合おうとしているアメリカは、(ある部分では)こうした軍事力に物を言わす、好戦的な勢力に支配されている。そうしたアメリカとの軍事同盟の強化を、日本に平和をもたらす「希望の同盟」と手放しで称えていいのだろうか。むしろ、日本には直接、利害関係のない紛争地で、日本は(アメリカに引きずられて)しなくてもいい戦争をする羽目になるのではないか、という警戒的な視点を持つべきではないかと思う。 
 多極化によって、ますます複雑化する世界の中で、日本は(安倍の言うように)「世界平和のために」どこまで首を突っ込むべきなのか。少なくとも紛争地については、日本の出る幕はかなり限られて来る筈。今問題のISIL問題も、知れば知るほど、その歴史的、文化的事情は複雑で、戦いへの参加は必ずしも日本の国益に合わないことの方が多い。「テロとの戦い」の名分に引きずられてアメリカに付き合い、世界の遠隔地まで出かける必要などない筈だ(「テロリストが国家をつくる時」)。

 その一方で、大国がからむウクライナ問題(対ロシア)や南シナ海、東シナ海(対中国)での緊張に関しては、もう現実的にはアメリカと共同でも、大国を力で抑え込める時は過ぎていると思った方が賢明なのではないか。日本がアメリカと一緒になって武力的な圧力を加えようとしても解決にはつながらないし、却って危険だ。実はアメリカもそう思っている節がある。日本が知らないだけだ。むしろ、今必要なのは一定の武力を保持しながらも、「武力に頼らない問題解決の戦略」を国際的な枠組みとして構築することではないだろうか。そこになら(核を経験した)日本が幾ばくかの貢献ができる筈だ。
 もはや核戦争が出来ない以上、(中国が如何に嫌いでも、中国と対話を続けて)その戦略の方向に中国を促していく国際的な道筋を真剣に探ることこそ、今の時代に目指すべき「平和のリアリティー」なのだと思う。多極化した世界に対する冷徹な認識、戦争に傾きがちなアメリカの危険な側面への認識、そういうものを十分踏まえた上で、憲法9条の力を発揮させて行けるのか、行けないのか。安保法制の国会では、今の世界状況を踏まえた「平和のリアリティー」について、質の高い議論を期待するとともに、野党の奮起を促したい。

極右化する政治と日本の未来(2) 15.5.4

 アメリカを訪問した安倍首相が、4月29日(日本時間30日)に上下両院合同会議で演説した。並行して、NYで外務・防衛担当閣僚会議(2プラス2)の会合を開き、「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)を改定。これは18年振りの大改訂と言うが、日本は後方支援と言いながら、日米が協力して地球規模で軍事力を展開する点、また、集団的自衛権を視野に入れて、アメリカが攻撃された時には日本も一緒になって戦う点で、日米安保条約を実質的に変える内容になっている。安倍の(国賓並みの待遇と)議会演説は、こうした日米軍事同盟の強化をお土産にして行われたものである。
 もちろん評価は様々だが、私が、実際の映像や英語と日本語の対訳を見ながら、まず感じたのは、議員たちへのリップサービスであるにせよ、一国の首相が、ここまでアメリカを持ち上げ、彼らの自尊心をくすぐる背景はどこにあるのだろうか、ということである。(いくら親米保守だった祖父の信条を受け継ぐと言っても)安倍の頭の中のアメリカはそこまで理想化されているのか、と驚く一方で、そこまでアメリカに媚を売って、安倍が得たいと思っているものは何なのだろうか、と勘繰りたくなる。

◆アメリカ抱きつき戦術の背後にあるもの
 もちろん、外交などは(悪く言えば)二枚舌の騙し合いだから、表面上のエール交換の背後には、両国の計算が働いているに違いない。それについては様々な解説がなされているので、別途きちんと整理するとして、ここでは日本側の隠れた意図として、一つの“うがった見方”を提示しておきたい。

 それは、安倍政権は一連の安保政策によってアメリカに恩を売り、アメリカの警戒心を解きながら、一方で自衛隊の戦時体験を増やして即戦力を高め、日本の軍事力をできるだけ高度化するのが隠れた狙いではないか、ということである。アメリカに抱きつきながら、「どこまでも一体化する」と言えば、アメリカも文句は言えない。それを口実に、アメリカから軍事技術を提供してもらい、最新軍事技術を共同開発し、軍事機密も共有する。 
 それはとりもなおさず、日本をいわゆる「いつでも戦争が出来る国」に持って行くことでもあるが、このようにして軍事力を強化し、隣国との戦争に備えるのが安倍たち国粋保守派の悲願なのだと思う。これは、もちろん自国民にも隠し通す狙いである。一方のアメリカは、ナショナリストの安倍をアジアでの“トラブルメーカー”とみなし、日本のこうした「抱きつき戦術」を警戒する向きもあるというが、まあ、これは日米双方の駆け引き(騙し合い)と言ったところではないか。

◆戦争に至る道は、ダムの水位が上がるように
 問題は、そのようにして「戦争に備える準備」が高まった時、日本は本当に戦争するのか、或いは自制して平和なままでいられるか、と言うことである。憲法を拡大解釈して安保法制を進め、それを国会承認なしに日米のガイドラインに取り込んでしまう。その後に実態に合わせて憲法を変える。安倍政権のこうした一連の防衛強化のやり口は、中国や北朝鮮の脅威に備えるためだと言っているが、本当に戦争につながらないと言えるのか。
 この問題を考える時に私が思うのは、以下のことである。幾ら隣国との摩擦が高まったとしても、戦争はある日突然始まるものではない。情報化が進んだ近年の戦争は双方の国で、ダムに水がどんどん溜まって行き、ある水位を越えた時に、ちょっとしたことで、ダムが決壊するように始まるのではないか。そう考えた時に、ダムの水位を高める要因とは一体何なのか、ということである。

 一般的に言って、一番大きいのは今の安倍政権が取り組んでいるような軍事力への傾斜だろう。軍事費の増大による軍需産業の膨張、あるいは、戦争のリスクを高めるような軍事同盟の存在がある。そして国内的に大きいのはナショナリズム(国粋主義)の高まり、自国への過剰な愛国心と排外主義だ。相手国に対する差別や蔑視、その裏返しの脅威論、そして、それを盛んに煽るメディアの言説がある。加えて、国家による言論機関への介入、国家機密保護法の制定、国民への監視強化、と言った国民への抑圧がある。
 加えて、(徴兵制も視野に入れた)国防軍の制定。同時に、他国の脅威が盛んに取り上げられ始めると、戦前のように「国の運命を弄ぶ冒険主義者(右翼や極右)」が必ず現れて戦争への謀略を巡らす。さらに、戦争を正当化するための誇大な理念(八紘一宇などもその一つ)が登場する。これらが、ダムの水位を一気に上げて行く。もちろん、これらの動きは、(かつての日米戦争のように)双方に起きるものだろう。こちらに水位を高める動きが起これば、相手国内にもこうした動きが高まる。そして互いの水位がある一線を越えた時に、ちょっとしたきっかけで突如戦争が始まる。また、これらの要素は、まだ戦争に至らなくても、その前段階の社会に抑圧的で息の詰まるような空気をもたらす筈だ。

◆始まっている自民党を取り巻く政治と社会の極右化
 このように見た時に、私たちは今の日本の状況をどう見るべきなのだろうか。例えば、既にネット上では良く知られたことだが、去年の12月15日に安倍や麻生が秋葉原で選挙の街頭演説をした時のことだ。自民党シンパの大群衆が日章旗を掲げ、次のような極右的シュプレヒコールを叫んでいる。「安倍総裁を守るぞー。朝鮮人は海外に追放しろー」、「私はネトウヨじゃない。愛国者だー」。取材のメディアに対しては「ぶっつぶせ、ぶっつぶせ、朝日」、「売国奴。売国奴。売国奴」、「帰れ。帰れ。帰れ」。中には「大日本帝国憲法、万歳。天皇陛下、万歳」などと言うのもあったそうだ。
 
こうした状況が社会に蔓延して行けば、ダムの水位は確実に上がって行く。上にあげた様々な要素を見ると、日本は安倍政権のたった2年でかなり水位を上げているようにも見える。このような時、戦争を回避するために為政者が本気になってすべきことは、隣国との緊張緩和と相互理解に努めて、ダムの水位が上がらないように努力することのはずだ。しかし、今の安倍自民党は、中国を仮想敵国にして日米軍事同盟を強化しながら、支持者たちの水位を上げる動きに同調するように、自らも歴史認識で相手を刺激したり、靖国参拝を行ったりしている。若手議員たちが、国会で野党党首に向かって「日本から出て行け」とヤジるなどは、国内の極右的な動きに毒されたと言われても仕方がない軽率さである。

◆ダムの水位を測る確かな物差しが必要な時
 同じ日本人の間で、「反日的」とか「売国奴」という言葉が行きかい、愛国心の強要と排外主義が幅を利かせ始めた日本。このまま行くと、日本は本当に再び戦争をするような馬鹿な国になってしまうのか。あるいは、戦争など心配しないで済むのか。私としては、幾ら国粋保守の安倍でも、一旦始まったら核戦争になりかねない「中国との戦争」を本気で考えているとは思えない。
 しかし、戦争が起きるか、起きないかは、政治家一個人の思惑などを越えた事象である。一旦坂道を転がり出したら戦争への道は止められない。ダムの水位を上げようと企む人間たちの暴走を、為政者も止められなくなるからだ。それが歴史の教訓でもある。従って、私たちはダムの水位上昇を、常に警戒心を持って監視する必要があるのだが、そのために必要なものがある。それは、ダムの水位を正確に測る確かな物差しである。

 今の日本の水位はどの程度なのか。既に戦前のような国家主義の国なのか、排外主義の極右政党が支配する国なのか、戦前のイタリアのようなファシズムの国なのか。あるいはヒトラーやスターリンが選んだ、戦争よりも恐ろしい全体主義(*)への道を歩んでいるのか。様々な研究はあるにせよ、私たちもメディアも、残念ながら戦前の日本がどのような経緯をたどりながら戦争に突入したのかを既に忘れていて、ダムの水位を測る正確な物差しを手にしていない。
 今の日本は実体のないアベノミクスや地方創生などに惑わされて、国民の大部分は、自民党一党独裁の危険な状況に慣れてしまったようにも見える。戦後70年の今年、私たちは(戦争の悲惨を噛みしめるだけでなく)もう一度戦争に至る経緯を共有し、今の日本の水位を監視する確実な物差しを手に入れるべきではないかと思う。日々激しい勢いで事態が動いている今ほど、この物差しが物を言う時はないのだから。
*人間はここまで恐ろしくなれるのかを知る意味で、ハンナ・アーレント「全体主義の起源3」はすごい

極右化する政治と日本の未来(1) 15.4.26

 公明党に半ば圧力をかけながら集団的自衛権を認めさせ、返す刀で海外への自衛隊派遣を大幅に緩和する。同時に、次の目標である復古的な憲法改正にアクセルを踏む。また、それら一連の安保関連法案を「戦争法案」と呼んだ福島瑞穂(社民党党首)に国会質問を修正しろと迫る。あるいは、民主党議員の質問に対して、首相自ら「日教組!日教組!」と幼稚なヤジ(*)を飛ばす。共産党の志位委員長の国会質問に、自民党の若手代議士たちが口々に「日本から出て行け」とヤジる。*後に事実誤認と陳謝した
 メディアに対しては、選挙に際して自民党名でテレビキー局に報道の「公平中立」の要請を行ったり、特定のテレビ番組(報道ステーション)のアベノミクス報道に「公平中立」を申し入れたりする。あるいは、テレ朝とNHKの幹部を党本部に呼び付け個別番組の件で「事情聴取」する。立場の違い、考え方の違いはあるにしても、国権の最高機関である国会の権威を自ら貶(おとし)めて恥じるところがない。あるいは、メディア介入に人一倍抑制的でなければならない、政権党としての自制を失う。私たちは、最近の自民党の異様な高揚と嵩にかかった横暴ぶりをどう見ればいいのだろうか。

 こうした状況を踏まえて、メディアでも「右傾化」論争がにぎやかになっている。例えば、4月11日の朝日「耕論」では、三浦瑠麗(国際政治学者)、平沼赳夫(次世代の党党首)、さやわか(ライター、評論家)の3人に「私たち(日本)は右傾化しているか」と聞いている。ところが、右派の平沼は当然として、残る2人も「右傾しているとは言えない」という結論なので、(敢えて統一地方選挙の前日にこんな特集を組むのは)朝日の右旋回ではないかと話題になった。
 朝日の右旋回はともかく、私としては、上にあげたような自民党の動きを見るにつけ、最近の政治状況については、こんな「底の浅い印象論」でお茶を濁すのではなく、もっと徹底した検証が必要なのではないか、と思っている。何しろ、今の政治の動きは余りに急で、国民が気付かないうちに何か大きな変化に巻き込まれているように思えるからである。しかも、最近のメディアは何かと腰が引けている。そこで、最近の安倍自民党の政治手法と体質がどのように変質してきているのかを考えるために、目につく特徴を上げてみた。

◆公明党を隠れ蓑に、議会制民主主義の形骸化が進行
 第一に目につくのは「議会制民主主義の形骸化」だろう。閣議決定を多用し、面倒な民主主義的手続きをできるだけ省いて政策を通すやり口が常習化している。これは、いわゆる一強多弱、言い換えれば一党独裁的状況が続いているせいだが、例えば、去年始めから本格的な検討が始まった集団的自衛権は、戦後の憲法解釈を大きく変える大事件だったにもかかわらず、検討は専ら自民党と公明党の間だけで行われ、去年の7月1日に閣議決定。その後の国会審議は僅か3日だけで、秋には本格的な議論があると思ったら、消費税増税を先送りにするという名目で衆議院が解散されてしまった。
 その後は年初から、一連の安保法制の検討に形を変えて、自公の間で延々と協議が続けられたが、これも4月の統一地方選挙で議論が中断。与党の恣意的な都合によって、殆ど国会審議なしに検討が進んでいる。実質的な国会審議は連休明けの閣議決定で法案が整う5月連休明けまでお預けになっており、それから会期を延長して一気に成立を目指す、(ある意味、国会を馬鹿にした)スケジュールだという。

 憲法解釈に関る重要な政策変更にも拘わらず、公明党を“疑似野党”に仕立てた与党間協議を延々と引き伸ばすことで、国民に対して説明責任を果たしているような雰囲気を作り、最後には「閣議決定」で事実上の決着を図る。その一方で面倒な国会審議をできるだけ簡略化する。これは、公明党を隠れ蓑にした極めて巧妙な政治手法だ。しかし、考えてみればこれは異常なことであって、野党のだらしなさ、発信力のなさもさることながら、(自公の協議内容を追うばかりで)国会が機能しない現状を問題にしないメディアにも責任があるのではないか。

◆メディアへの介入と圧力に一貫して取り組む
 この意味で二番目に目につくのは、メディアへの介入と圧力である。2012年12月の第二次内閣成立以後、メディアを抑え込み、政権寄りにするのは、安倍自民党の一貫した方針だった。主要メディアのトップと会食を重ねて締め付けを図る一方で、意向に沿わないテレビや新聞(特に朝日新聞)を陰に陽に攻撃して来た。近年は、古館伊知郎の「報道ステーション」、関口宏の「サンデーモーニング」、国谷裕子の「クローズアップ現代」などが攻撃の対象で、4月17日にテレ朝とNHKの幹部を呼び付けたのもこの流れに沿ったものである。
 この時の「事情聴取」で自民党は、テレビ局が一番怯える「放送免許の許認可」をちらつかせて、今後も監視すると脅している。放送免許の許認可は総務省の管轄で、自民党ではない筈。(高市早苗大臣に言えばどうにでもなると考えているのかもしれないが)自民党のこうした越権行為は「法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」という放送法に違反しているのではないかと、厳しく指摘されている。NHKの“変人会長”に対する擁護も含めて、自民党によるメディア介入はどんどん露骨になって来ている。

◆安倍自民党の思想的母胎「日本会議」
 今の日本では、右派雑誌、新聞、ネットを動員して、特定のメディアに対する攻撃が執拗に続いている。それらの多くは反中国と反韓国をベースにしており、歴史認識に関しては、村山談話を踏襲して中国や韓国との融和を図れとする論調に対して、「自虐史観」、「反日メディア」と言った攻撃を繰り返す。これらの攻撃と自民党が直接関係している確証はないが、こうした右派メディアに安倍を始めとする自民党幹部が頻繁に顔を出していることは周知の事実である。
 さらに、こうした右派メディアと自民党が思想信条的に通じ合っていることは、彼ら右派勢力の思想的母胎である「日本会議」の主張を見れば分かる。この「日本会議」については以前にも書いたが、この思想団体が安倍自民党の思想的母体であることは、公然の秘密だ。団体に属する国会議員でつくる「日本会議国会議員懇談会」には、自民党を中心に289名の国会議員が名を連ねており、現在の安倍内閣では19人の閣僚のうち、22日の春の例大祭に靖国参拝を行った女性閣僚3人(山谷えりこ、高市早苗、有村治子)を含む15人がこの懇談会のメンバーとなっている。

 懇談会の幹部には、麻生太郎(特別顧問)、谷垣禎一(相談役)、平沼赳夫(会長)、安倍信三、石破茂、菅義偉など(副会長)、下村博文(幹事長)、萩生田光一(事務局長)が名を連ねている。注目すべきは彼らの思想母胎である「日本会議」の主張で、一言で言えば占領政策の否定と戦前的価値観への回帰である。具体的には、連合国による東京裁判の否定(従ってA級戦犯の否定)、平和憲法の否定と改憲、自存自衛とかアジアの植民地解放という理由での太平洋戦争の肯定、靖国神社参拝、万世一系の天皇を中心とした国柄の強調などだ。
 もちろん「日本会議の綱領」には、ここまで露骨には書いていないが、構成メンバーの言説を総合するとこうなる。加えて改憲の内容についても、集団的自衛権の必要性に加えて、徴兵制にもつながる「国を守る義務」を主張してきた(日本会議「新憲法の大綱」)。この思想団体について、「第二次安倍内閣では日本会議の影響力がさらに強くなっている。一部では、安倍首相は日本会議の方針を現実化させているだけ、という声もあるほどです」(自民党幹部)という意見さえある。知らないのは、首相の「戦後70年談話」の中身にやきもきしている、私たち国民だけかもしれない。(つづく*)

*)安倍首相は4月26日から5月3日の予定でアメリカを訪問し、29日には上下両院合同会議で演説をする。これに関連して、アメリカは安倍の歴史認識やこの夏に発する「戦後70年談話」に神経をとがらせているという。しかし、これらがどういう表現になるにせよ、「日本会議国会議員懇談会」の主要メンバーである首相の政治信条については、私たち国民より海外の方がよく知っている。だからこそ、疑心暗鬼も生まれるわけだが、この先の(敢えて極右的と書いた)安倍自民党が、日本と日本を取り巻く環境にどういう状況を生んで行くのか。これらについては、次回に書きたい。

テロリストが国家をつくる時 15.4.19

 イスラム過激派組織「イスラム国(ISIL)」については、かねてから一つの素朴な疑問があった。それは、彼らが支配している地域の住民と過激派組織との関係である。支配下に入った住民は、過激派組織をどう考えているのだろうか、ということである。イスラム過激派も何万という兵士を抱えている以上、そこで食糧や生活物資を調達しなければ生きて行けない。幾ら残虐な方法で支配しようとしても、住民たちが逃げ出したり、あるいは死を免れないと悟った住民が反乱を起こしたりすれば、そこは単なる廃墟にしかならず、支配そのものが成立しなくなる筈だ。
 そう思って、「イスラム国」に関する幾つかの本を読んで見たが、彼らと住民の関係を的確に説明するものにはなかなか出会わなかった。そんな中、対テロ・資金洗浄問題コンサルタントで、女性ジャーナリストでもあるロレッタ・ナポリオーニが語るインタビュー内容(朝日オピニオン3/15、後述)に惹かれて一冊の本を購入した。「イスラム国 テロリストが国家をつくる時」である。これは近代以降初めて、国家の樹立を目指して戦うテロリスト集団「イスラム国」の特異性を解説したもので、まさに目から鱗の本だった。

 現在のイスラム国は、3月のイラク軍による地上攻撃でティクリートを奪還され、イラク国内の支配地域の25%ほどを失ったと言われるが、なおシリアとイラクにまたがる広大な土地(3万2千平方キロ、人口800万人)を支配している。情勢は混とんとしているが、「打たれ強く、機動力もある(*)」彼らが消滅するようなことは、当分期待できないことだけは、はっきりしている。「新しいカリフ制国家の建国」を掲げて、世界中から若者を集めている彼らの狙いとはいかなるものか、日本はそれにどう対処すべきなのか。ナポリオーニの本を参考に考えてみたい。*イラク、アバディ首相4/16

◆テロ組織として初めて。カリフ制国家の樹立を目指す
 まず、イスラム過激派組織「イスラム国」が他のテロ組織と決定的に違っているのは、彼らが明確に国家たらんとする意志をもっていることだと、ナポリオーニは説く。その点で、遠くの欧米相手にテロを行って来たアルカイダなど、旧来の過激派組織とは目的も戦略も決定的に違っている。「アルカイダは一つの組織に過ぎないが、われわれは国家だ」というのが、「イスラム国」の主張であり、9.11同時多発テロは欧米の顔に見舞ったパンチに過ぎないが、彼らが目指す「カリフ制国家の樹立」は、親欧米の中東諸国に与える“ノックアウト・ブロー”とも言える衝撃力をもっているという。 

 2014年6月、「イスラム国」は世界中のムスリム(イスラム教徒)に向けて、カリフ制国家の樹立を宣言した。第一大戦後にイギリスとフランスがオスマン帝国の領土をシリアとイラクに分割した「サイクス=ピコ協定」(1916)の国境線を否定して、そこに新国家を樹立するとの宣言である。中東の混乱と絶望の中から、屈辱と恥辱の塵を払い落してイスラムの“地上の天国”(ユートピア)を作る。それは、数世紀に及ぶ屈辱や差別、欧米など異教徒への屈従からの解放を意味する。
 この新たな「イスラム国」の指導者となるのが、預言者ムハンマドの血を引くカリフであり、久しく絶えていたカリフの出現は、かつてカリフの下でイスラム教国が領土を拡大し文化的にも栄華を誇った黄金時代の記憶と結びついている。そのカリフが、イスラム教の指導者であり、かつてワラという町の町長でもあったアル・バクダディ(1971年生まれ)である。宗教的な家系に生まれ、自身はバクダッド大学でイスラム神学の学位を取っている。残酷なテロリストの一方で、用意周到に神秘の衣をまとい、聡明で現実主義的な宗教指導者だともいう。イスラム教では、このカリフの指令が絶対になる。

◆支配地住民の支持を取りつける洗練された戦略
 地上に理想のイスラム国家を作ると言う「カリフ制イスラム国」の宣言。そしてそのためにこそジハード(聖戦)があるのだとする、アル・バクダディたちの主張は、その斬新さと魅力によって、アルカイダなど武装闘争に明け暮れる他のジハード組織の権威をみるみる低下させた。同時に、イスラム教を土壌とする中東の親欧米諸国の欺瞞性を露わにする結果にもなった。その結果、一躍主流に躍り出た「イスラム国」は、世界中から志願兵を集め、中東の混乱に乗じて支配地を広げ、そこを国家の足場にする独自の戦略を遂行してきた。
 もちろん、彼らは(自らネット公開するように)支配地で異教徒に対する残虐な刑罰、女性差別や人身売買、厳格な規律の執行をためらわない。その一方で、国家として自立するための経済的、政治的体裁を整えつつある。アル・バクダディが望むのは、アフガニスタンのタリバンのように住民を搾取し抑圧して、国家を巨大な監獄にするのではなく、近代的な国家、被征服民の同意と支持を得た国家だと著者は言う。そのために「イスラム国」は、社会改善や生活水準向上のためのプログラムも実行している。

 彼らは、油田や天然資源の確保、その密輸ビジネス、銀行襲撃、人質の身代金など、テロをビジネス化して、いち早く経済的自立を果たした。さらには、地元のスンニ派部族のリーダーたちを取り込み、資源の共同管理も行っている。(冒頭の疑問に答えることにもなるが)彼らは征服地の住民対策として、時には一人の地元民も聖職者も殺さないという洗練された外交戦術も駆使する。食糧配給所を作って貧困者にパンを配ったり、ワクチンを投与したりもする。新しい市場を作る、電力制御センターを設置する、バス輸送を行う、郵便局の運営を行うなどの偽装国家的な統治を行っているという。
 こうした偽装国家的なプログラムは戦闘員とは区別された非戦闘員によって行われるが、これは「イスラム国」が単なるテロリスト集団ではないことを示している。テロ組織と偽装国家組織が共通の財政基盤を持ち、連携して国家建設を目指すわけだが、もし万一にでも新国家樹立という目的が成功すれば、近代以降初めてのケースになる。さらに(あり得ないと思うが)、彼らがかつてのイスラム帝国の復活を目指して、あくなき領土拡大に走るならば、イスラム国の存在は、先進諸国にとって究極の試練となるだろう。(右図は彼らが主張する5年後の支配地域) 

◆欧米の誤りが怪物を生んだ
 明確な支持ではないにしても、こうした偽装国家的運営が、支配地の住民によってある程度受け入れられるのには、やはり理由がある。それは欧米の干渉によって、長い間中東に混乱と貧困と政治的空白が続いてきたからである。遠くはイラクのサダム・フセイン政権(スンニ派)への経済制裁による貧困、さらにはイラク戦争、アラブの春、シリア内戦における欧米の誤った介入。サウジアラビアなどの中東王家による支援などによって、中東は雑多な武装勢力による代理戦争の様相になり、住民の苦しみが続いて来た。
 「イスラム国」は、その地の住民の絶望につけ入る形で勢力を拡大して来た。彼らにとって、政治的混乱が大きい方が果実に結びつきやすい。そこで、残虐なテロで恐怖を生み出す。それをインターネットの最新技術を駆使して宣伝する。一方で、彼らはグローバル化し多極化した世界を熟知し、敵対する大国の限界も驚くほど明確に理解している。こうした彼らの戦略にとって、日本人人質事件と安倍首相の「テロとの戦い」は格好の世界宣伝として利用されたわけである。

 さて、冒頭のナポリオーニ氏のインタビューに戻ると、日本政府の対処を聞かれた彼女はこう答えている。最善の道は局外にとどまることです。2人の人質を殺されたことは悲劇ですが、私なら報復しません。イスラム国を巡る状況を作ったのは日本ではなく、私たち欧州とその同盟国で、イラクに侵攻した米国なのです。欧米が始末をつけなければならない問題です」
 中東に行ってイスラム国対策として2億ドルを支援すると発表したり、人質を殺害されて「テロとの戦い」を持ち出したりする前に、日本の首相は、こうした中東の複雑な歴史と現状をどれだけ知っていたと言えるのだろうか。

日本礼賛ブームの落とし穴 15.4.9

 何故か今、日本礼賛ブームだそうである(毎日2/25)。書店には「やっぱりすごいよ、日本人」、「だから日本は世界から尊敬される」などの、日本と日本人を褒める本が溢れ、一方のテレビでも「所さんのニッポンの出番」、「世界が驚いたニッポン!スゴイデスネ!!視察団」などの日本礼賛番組が並ぶ。NHKの「日本人の意識調査」(2013年)でも、「日本人はすぐれた素質を持っている」、「日本は一流国だ」と答えた人は、68%、54%で、10年前の51%、36%から目立って増えている。
 これは2000年代に入った頃の日本が、「失われた20年」などと言われて自信喪失に陥っていたことへの反動でもあるのだろうが、安倍政権の登場で「強い日本」志向に火が付いたこともあるだろう。同時に、「破綻する中国、繁栄する日本」、「中国・韓国を本気で見捨て始めた世界」など、中国や韓国を見下す本も相変わらず書店に山積みだ。これを見ると、最近の日本礼賛ブームと嫌中・嫌韓論はコインの裏表のようなもので、最近の“国粋的気分”の反映と見るべきかもしれない。

 確かに、外国に行くと日本の良さが分かるという傾向はあって、以前私も書いた(「外国で日本の良さを考えた」)。ただし、その時は日本の良さを作っている豊かな“社会的共通資本”を次世代に引き継ぐ責任について考えたわけで、趣旨は違っていた。隣国を蔑(さげす)んで自己陶酔にふける右翼本はさておき、テレビ番組の方はさすがに、外国人の目を通すなどの“客観性”を担保してはいる。しかし、都合のいい情報ばかりを集めて自画自賛に浮かれていると、思わぬ落とし穴が待っているようにも思う。

◆都合のいい情報しか入らない
 その一例が、日本が盟主であるかのように思い込んで来たアジアの中での地殻変動である。最近話題になった中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)の設立では、代々トップを占めて来たアジア開発銀行(ADB)やアメリカとの関係もあって、日本はAIIBに距離を置いて来た。しかし、ここへ来て日米以外の先進諸国が雪崩を打ってAIIBに参加を表明、中国の影響力を見せつけられた形になった。参加を表明した国と地域は48(*)、そのGDPを総計すると世界の半分近くになり、蚊帳の外に置かれた日本とアメリカには孤立感が漂う。*4/15時点で57カ国
 AIIBの資本金(1000億ドル、12兆円)の最大出資国は中国で(最大50%まで)、本部は北京、初代トップも中国の金立群氏が就く予定になっている。参加した先進国にも、それぞれの思惑があって、ドイツはフォルクスワーゲンで中国国内でのトップブランド、フランスは原子炉メーカーのアレバが中国での受注を狙っているし、ワインでも中国は大輸出相手だ。イギリスは、中国の大手企業がロンドン・シティでの資金調達を期待している。要するに欧州主要国は経済的に中国に頭が上がらないわけである。

 日本政府は、各国にAIIBに参加しないように働きかけたアメリカに追随して参加表明を見送ったのだが、こうした中国の“実力”を見せつけられて動揺を隠せない。安倍首相がこの件で財務省と外務省の幹部を呼び、「聞いていた話と違うじゃないか。君たちは、いったい何処から情報を取っていたんだ」と怒ったそうだが、財務省の本心は、「アメリカとこじれると何をされるか分からない。それは避けたい」(朝日4/1)と言うところらしい。外務省の方は「AIIBに加入するとすれば、2000億近い出資金を税金から出すことになる」などと、弁解めいた理由を上げている。

◆「井の中の蛙」になりつつある日本
 今の時点で、中国主導のAIIBに参加するのが得か損か、私には良く分からない。しかし、ASEANに5年で2兆5千億円の経済支援をすると言っている日本が、2000億円を理由に不参加を言うのは説得力がない。肝心のアメリカでも動揺が起きているので、いずれは日本も参加することになるのだろうが、この事案は、図らずも、アメリカ追随で自立的に判断できない日本と、過去の栄光を引きずって中国の実力を見誤りがちな日本の問題を浮かび上がらせた。
 経済的な地殻変動という意味では、さらに衝撃的なリポートがある。「アジアの“中所得国”に落ちた日本」(「選択」4月号)と言う記事で、これを読むと、急激に進んだ円安もあって、日本の給与所得者、特に管理職層の賃金はアジアの中でも中間レベルにまで落ち込んでいるという。最近、日経新聞が調査した20歳代の若者の月収は、トップがシンガポールで36万円、2位が韓国で25万円、3位が日本の22万円、4位が中国の16万円。日本は中国に追いつかれつつある。

 管理職の給与になるとさらに顕著で、韓国の大手電機メーカーがパナソニックの3割増し、中国でも大手なら年収2000万〜2500万と高額で、「日本の給与水準が世界トップクラス」などという時代は、もう10年前に終わっている。意外なのは、タイ、インドネシアなどの中進国でも管理職やエンジニアの給与は1200万円(10万ドル)が一つの基準になっていて、引き抜きの時には倍になる。「アジア進出は人件費削減のため」といった理由は、いまや現実を見ない「寝ぼけた考え」になっているという。
 日本の給与水準の低下は、1995年を100とした時の賃金の推移が、アメリカで180、EU平均で140と伸びているのに対し、先進国のうち日本だけが、90前後と減っていることからも明白。これは、日本企業がバブル崩壊後、20年にわたって賃金を抑制してきたこと、派遣労働者が増えてアジアの賃金に引きずられる形で低下したことなどが理由である。こうしたデータを突きつけられると、とても「世界が驚いたニッポン!スゴイデスネ!!視察団」、「日本は一流国だ」などと、自己陶酔にふけっている場合ではないように思える。

◆弱点を直視し改善してこそ、伸びしろもある
 このまま行くと日本は、自画自賛で自己像を肥大化させているうちに、気がついたらアジアの二流国になっていた、というような笑えない状況になりかねない。その意味で、経済成長をしたいなら日本が遅れている所をしっかりデータで把握することだと説く「イギリス人アナリスト、日本の国宝を守る」(デービッド・アトキンソン)が、面白い。自分たちに厳しいデータで国際比較をしてみると、日本にはまだまだ改善する余地があることが見えて来る、というのだ。

 詳しくは本文を読んで欲しいが、著者は元ゴールドマン・サックス(証券会社)の経済アナリストとして、日本の不良債権処理の無責任な先送りに手厳しい指摘を続けた人である。その時もそうだったが、日本人は「認めたくない現実から目を逸らして、都合のいいデータ、情報にすぐに飛びつく」と言っている。その彼は、日本経済が戦後に急成長したのは、良く言われるように「日本の技術力が世界一になったから」が理由ではなく、最大の理由は、単に戦後の人口が爆発的に増えたからだと言う。
 その意味で、これから人口減少に転じる日本は厳しい状況にあるが、彼は遅れている所(弱点)を直視して手を打てば、日本にはまだまだ成長の伸びしろ(可能性)がある、と言う。その弱点の一つが、日本の経営者はデータに基づく分析と細かい改善をしないという点。「楽して儲けたい」経営者が多すぎると言う点。あるいは、データを用いずに、やたらとコンセンサスに時間をかける非効率さ。結論を出してから、数字を理由づけに使うなど。耳が痛い話が並んでいるが、これらを改善すれば、(観光立国などで)日本経済にはまだ伸びる可能性がある。

 自分に酔っているうちに、日本を取り巻く現実がとんでもないことになっていることに気付かないのは、経済だけでなく政治の世界にも起こり得る。その意味で、最近の(かつて日本を盟主とする世界帝国を目指した)「八紘一宇」発言や、(欧米と歩調を合わせようと意気込む)「テロとの戦い」(*)なども、どこまで現実を直視した情報に基づいて言っているのだろうか。戦前の日本は、自分の力を過大評価して大言壮語し、独りよがりになって痛い目にあったが、そうならないためにも、過度の日本礼賛に目がくらんで危険な落とし穴に落ちないように、自戒しなければと思う。*次回に、目から鱗の「イスラム国 テロリストが国家をつくるる時」を紹介したい。

成長戦略の危険な副作用 15.4.3

 鳴り物入りで始まったアベノミクスは2年経って、ますます先の見えない状況になって来た。300兆円という膨大な緩和マネーが溢れているのに、国内の設備投資には回らず、株などに流れるばかりで実体経済の成長には結びつかない。2014年度の実質成長率は0.3%のマイナス成長に落ち込んでいる。それでも、安倍政権は「回復基調であることは変わらない」と言い張り、なりふり構わぬ株価政策(*1)や、あれやこれやの成長戦略によって何とか政権浮揚を図りたいと必死である。
 経済成長という見果てぬ夢を掲げて、国民に「この道しかない」と迫る。こうした彼らの政治手法は、今や成長戦略にかこつけて、(安保政策も含めた)政権への全権委任を取り付けようとする、これまでにない異質な政治に変化しつつある。すなわち、手当たり次第に経済成長に結びつけて、国民に幻想を持たせながら政権維持を図る一方で、成長戦略に名を借りた「何でもあり」の政治がまかり通る。こうした、いわば「経済ファッショ」的な政治の陰で何が起きているのか。「成長戦略の危険な副作用」と言うべき問題を提起しておきたい。

◆異次元の金融緩和の副作用
 日銀の黒田総裁による異次元の金融緩和が始まって、この4月で丸2年。計画では、今頃は物価が2%上がって、実質賃金も企業の設備投資も伸びて、実体経済が上向いているはずだった。しかし、その計画は上手く行っていない。日銀の金融緩和の狙いは量的緩和→円安(株高)→企業業績アップ→賃金上昇→購買意欲アップ→デフレ脱却(2%程度のインフレ、物価アップ)というシナリオだった。しかし、進んだのは円安と株高だけで、企業業績アップ→賃金上昇は、円安の恩恵を受けた一部輸出企業にとどまっている。
 その一方で、円安→輸入原材料の高騰→生活用品の値上げ→庶民生活への直撃という悪循環も始まっており、肝心のGDP全体の6割を占める個人消費は冷え込んだままだ。そのために、物価全体はゼロ近辺にまで下がっていて、デフレ脱却は遠のく一方。日銀はここへ来て、2%アップの実現時期を2015年度後半(2016年の年明け)へ延ばすと言い始めたが、これについても実現できるかどうか怪しいと言うのが市場の見方である。

 日銀は、原油の値下がりや消費税増税の影響が予想外だったと言うが、これだけ変動要因が多くなると、一体何が物価を決めるのか、原油安の影響なのか、円安の影響なのか、何が何だか分からなくなっている。日銀の説明も、(例えば、原油安の物価への寄与率は何%なのかといった)データの根拠を欠いた“感じ”だけのものになっていて、予想外の現象をきちんと説明出来ていない。大体、金融緩和でデフレ脱却を目指す(マネタリズム)理論そのものが間違っているという意見も多い(「安倍政治の見せかけと実体(3)」)。
 そういう人たちは、むしろ「異次元の金融緩和による副作用」の方を心配している。それが、株価のバブル崩壊や、国債金利と連動した財政破綻なのだが、経済で支持率維持を考えている安倍政権は、そうした恐怖に怯えながらも、この危険なゲームから下りることが出来ない。政権維持のためには、行きつくところまで行くしかないという「ハイリスクの政治」を続けざるを得ないのが、今の安倍政権の実体であり、これこそが真の意味での“危険な副作用”かもしれない。

◆利権が群がる「何でもありの成長戦略」
 「成長戦略の危険な副作用」は、金融政策にとどまらない。安倍政権が経済成長を前面に打ち出すのを見て、官僚も財界もチャンス到来とばかりに、自分たちの利権を成長戦略に結びつけようとしている。政権側も(かつてはあったような)抑制心もかなぐり捨ててそれに乗るという、「何でもありの成長戦略」が生まれつつある。もちろん、それが出来る背景には一強独裁の政治状況があるのだが、以下に、その危険な副作用の一端をあげておく。
 一つは、原発輸出である。これは、(野田民主党時代から始まったものだが)安倍政権が成長戦略の一つ(インフラ輸出戦略)として位置付けたものだ。もちろん、「原子力ムラ」が束になって働きかけた結果でもあるが、この輸出戦略をテコに、国内の原発再稼働にも弾みをつけようという目論見でもある。2020年までに2兆円分の輸出を見込むというが、多分に獲らぬ狸の皮算用としても、この原発輸出は、核兵器の拡散にもつながりかねない、そして事故が起きれば政府が税金で責任を負いかねない“非倫理的な政策”であることは、以前にも書いたところである(「国策としての原発輸出はなぜダメか」)。

 二つ目は、武器の輸出である。政府は、去年4月にそれまでの「武器輸出三原則」を改め、「防衛装備移転三原則」なるものに変えた。武器輸出や他国との共同開発を原則として解禁したもので、防衛産業の発展を成長戦略につなげるのが狙いだ。ただし、問題も指摘されている。紛争当事国への武器輸出は認めないとしているが、どれだけ実効性のあるチェックが出来るか不確かな上に、国家安全保障会議(日本版NSC)による審査・承認が必要とされる重要武器の輸出については、議事内容が秘密になる。
 今年10月には、こうした武器輸出や購入を一元管理するための「防衛装備庁」(仮称、1800人規模)も出来る予定だが、莫大な金になる防衛産業はもちろん、権限が増える防衛省も、かつてない事態に色めき立っている。そこには、「成長戦略なら何でもあり」と言う以上に、成長戦略を隠れ蓑にして日本の防衛産業を伸ばしたいという安倍政権の意図が透けて見える。しかし、癒着して肥大化した軍産複合体(軍部と軍事産業の連合体)が政治を動かし、時には戦争を始めようと目論むアメリカの例を見るまでもなく、防衛産業を成長戦略にむすび付けるのは、平和国家としてよほど慎重にしなければならない筈である。

 三つ目は、リニア新幹線である。JR東海が自前で作るとして来た、総額9兆円に上るリニア新幹線を成長戦略として位置づけ、「国家プロジェクト」に格上げする動きである。まずは2027年までに東京〜名古屋を、と考えているJR東海の計画を大阪まで前倒して進めるために、政府が無利子の金を用意すると言う。ただし、この新幹線は問題山積の巨大プロジェクトだ。全線、地下トンネルを走る難工事で、アルプスの地下はどうするか、活断層はないのか、ウラン鉱脈をどう避けるのか、掘り出した残土をどこに置くのか、といった問題がある。
 さらには、100年先の豊かさを掲げて「日本で一番美しい村」つくりに取り組んでいる、長野県大鹿村でも、地下水脈の遮断によって村の水源が枯れるかもしれないと心配している。工事が始まると、狭い村道を1日最大、1700台ものダンプが何年間も走ることになる。そもそも、狭い日本で、原発1基分もの電力を使って、SFのような超スピードの新幹線を作る必然性はあるのか。予算が9兆円から膨らんだら、誰が面倒を見るのか。

◆強権で経済を主導する「経済ファッショ的国家主義」
 問題は、いったん成長戦略に位置づけられると、それが免罪符になってしまう日本の現状である。リニア新幹線も経済効果は17兆円だなどと言われると、メディアでさえ黙ってしまう雰囲気がある。しかも、それをいいことにJR東海(会長は安倍のお友達)は、きちんとした住民説明会も開かない。以上にあげたように、今の日本では、多くの怪しい利権が成長戦略の名のもとにうごめき出している。それは、財界や国際資本の意向を受けた各種の「規制改革」でも同じである。
 私も、各自の創意工夫と経営努力で経済成長が出来ればいいとは思う。しかし、経済成長を唯一の指標として、国家が強権で経済を主導することがいかに危険か。これは、自由主義経済が食い物にして来た国々の荒廃を見れば分かる筈だ。口では「瑞穂の国の資本主義」(「美しい国へ」)などと言いながら、私たちが祖先から受け継いだ豊かな「日本の社会的共通資本(*2)」を経済原理に変えて危険にさらす「経済ファッショ的国家主義」。そろそろ私たちは、安倍政治の危険な実像を、何らの幻想も持たずに(ある種の覚悟を持って)直視すべき時が来ているのだと思う。

*1)上場投資信託(ETF)の買い入れ、年金積立資金管理運用法人(GPIF)の株式投資額を増やすなど
*2)その国には、農業などの長い歴史を積み重ねて築いてきた自然環境があり、道路や鉄道、水道や電力などの社会的インフラがある。また、教育、医療、金融、司法、ジャーナリズムといった制度資本がある。これらはそれぞれ専門的知識を有する職業人によって維持されており、これを「社会的共通資本」(宇沢弘文)という。