日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

縮む日本・待ったなしの近未来 13.11.23

 現在、日本では年間110万人が亡くなっている。これが超高齢化の進行に伴って急増し、2040年には年間170万人にもなる。この増え方は尋常ではなく、すでに最近では死んでも火葬場が満杯で、遺体を一週間も冷凍保存しなければならない事態さえ起きている。また死ぬまでの一定期間、どこでどのように死を迎えるかも大問題で、病院や中間施設(老人ホームや介護施設)、在宅ケアのそれぞれの現場で悲鳴が上がっている。このままいくと、私たち高齢者は早晩「死に場所が見つからない」という重大問題に直面することになりかねない。
 そういう事態を迎えて11月12日、銀座の「ヤマハホール」でシンポジウムがあった。今年87歳の大先輩、行天良雄さんが年に一回、プロデュースと司会を務めて来た「国民の健康会議」(主催、全国公私病院連盟)のシンポジウムだ。25回目になる今年は「超高齢・多死時代の病院」がテーマ。病院が手一杯で悲鳴を上げる一方で、介護施設でも介護士が給料の安さから定着しない。行政が期待する在宅ケアも様々な難問に直面している。

◆多死時代の裏側にある少子化問題
 31年前の1982年、行天さんと私はNHK特集「日本の条件・医療 あなたの明日を誰が看(み)る」で、来るべき高齢化時代の医療問題を扱った。世界最速で高齢化時代を迎えつつある日本は、このまま行くと医療費が破綻する。これからの高齢者医療は「治す医療から、看取る医療へ」、「キュア(治療)からケア(介護)へ」どう舵を切って行くか、というのがテーマだった。番組でキャスターを務めた行天さんはその後も一貫して、超高齢化時代の医療問題と向き合って来た。
 ご存知のように、その後の日本は、高齢者医療制度による医療費抑制、介護保険の導入による中間施設や在宅ケアへの移行といった政策を導入してきたが、まだまだ病院、中間施設、在宅の連携がうまくいっていないという。シンポジウムでは、限りある医療資源をどう使って行くのか。例えば、寝たきりなのに胃に穴を開けてまで(“胃ろう”までして)延命を図るべきか、治る見込みのない患者にどこまで治療を施すのか、といった問題も議論された。

 特に印象に残ったのは、次の2点。一つは、どのように死を迎えるのか、ある程度の国民的コンセンサスが作れるような“終末教育”が必要なのではないか、ということ。一人一人の「死生観」にも関る問題である。このコンセンサスがない限り、病院は治る見込みのない患者にも過度な治療を期待され、いつまでも延命治療を続けることになる。パネリストの医者が「治る見込みがないと分かったら、自分は絶食する。1週間食べなければ人間は死ねる」と言っていたのが印象的だった。それだけ医療の現場も切迫しているのだろう。
 もう一つは、「これからは在宅ケアだと言っても、家で看る家族がいない」という切実な声である。現在は高齢化とともに少子化の時代。子どもを作らなかった一人暮らしの老人や、子どもと同居せずに老人が老人を支える老々介護が普通になっている。そんな中で、どうして在宅ケアに移行出来るのか。日本の超高齢化時代の医療問題の裏側には、これも急速に進行する日本の少子化問題が大きな影を落としている。

◆縮む日本。姿を現して来た「少子化」の深刻さ
 日本の将来を考える時には高齢化よりも、むしろ急速に進行する少子化の方が大問題かもしれない。増田寛也氏(元総務相)によると、日本の少子化の深刻な実態は、長寿化による高齢者の増大で見掛け上隠されてきたが、その高齢者が(多死時代を迎えて)減少に転じるにつれ、多くの地域で「人口減少の本来の深刻な姿」が見えて来たと言う(時代の風、毎日11/10)。
 人口が維持される(一人の女性が一生のうちで産む子供の平均人数である)合計特殊出生率は2.1とされるが、今の日本はこれが1.41(2012年)でしかない。これを日本の地域別に当てはめて行くと、恐ろしい現実が見えて来る。まず、これから30年以内に全国の500を超える市町村が消滅する。今、限界集落などと言っている所はあっという間に消えて行くだろう。さらに頼みの首都圏では、むしろ子育て環境が悪く出生率は1.09と極端に低い。これが日本全体の人口減少に拍車をかけて行く。

 しかも、私や団塊世代の老人がこの世からおさらばすれば、若い人たちの時代がやって来ると思ったら大間違いだ。少子化の未来は決して明るいものではない。統計を探すと、僅か30年以内に人口は2680万人も減る一方で、65歳以上の高齢者の割合が23%から38%に増えてしまう。私の子や孫の時代になっても、日本は人口が縮む一方でさらなる高齢化問題に苦しむことになる。(*1)
 「縮む日本」。これは、地球温暖化や巨大地震以上に、科学的に明確に予言できる日本の近未来である(私はどこかのテレビ局が「シミュレーション・ドキュメンタリー」を作ってくれないかと思う位だ)。30年と言うと、まだまだ先のことと思うかもしれないが、私が番組で高齢化時代の医療を考えたのは30年前。振り返ってみれば30年などはあっという間だった。しかも、地方の消滅は時間との競争であり、待ったなしの状況にある。

◆若い世代の政治参加をどう促すか
 では、「高齢化と人口減少」という近未来の衝撃を少しでも和らげるために、日本は何をすべきか。増田氏は東京圏の都市機能を地方に分散させる国土政策を、と訴えている。地方を活性化して首都圏への人口流入に歯止めをかけ、子育てに適した地方を守る。これは、私が2012年の1月に「危機に強い柔構造の日本(1)」で書いた内容とほとんど変わらない。待機児童の解消や児童手当も大事だが、国は今こそ、来るべき現実を直視して課題解決のための国家の基本計画を作らばければならない。防衛問題にばかり目が行っている今の政治家たちに、そこまで考える余裕はあるのだろうか。
 そういう意味で、私としては少子化という近未来の危機を乗り越えるためにも、是非若い世代に政治に参加してもらいたいと思っているのだが、今は、60歳以上の有権者によって選ばれた60歳以上の政治家が、60歳以上の人たちに向かって政治をしている。こうした状況を今の若い世代が打開できるか。若い世代が自分たちの未来のために政治に参加して、政治を取り戻すべく立ち上がることが出来るか。

 実は最近、この点で少し考えさせられることがあった。それは、今年の夏に大学の学生たちに出した番組企画の宿題である。参院選挙の反省もあったのだろう。少なからぬ若者たちが、
「若者の政治参加と投票行動」、「棄権による若い世代の損失」といった問題意識で番組企画を書いて来て心強く思った。20年後、30年後と言えば彼らこそ社会の中核で日本を支えている層である。国民投票法の投票権の問題もあるが、若い世代の政治参加を促していくことこそ、これからの政治が(同時にメディアも)真剣に考えるべきテーマだろうと思う。
(*1)例えば、現在の日本は、現役世代(20歳から64歳)の3人が1人の高齢者を支えている状態だが、これが2030年には1.9人で、2050年には1.4人で支えなければならなくなる。

「プロジェクトX」は再び来るか 13.11.14

 11月12日の日本記者クラブの会見で、小泉元首相が脱原発(彼はこれを原発ゼロという)について「決断すればできる」と言い、しかもその時期は「即ゼロ」と明快だった。上げ足をとられるような余計なことは一切言わず、敵の痛いところを突く言い方は相変わらず。「首相が決断すれば反対論者も黙る」、「原発ゼロの方針を出せば、必ず知恵のある人がいい案を出してくれる」、「(処分場は)10年以上かけて一つも見つけることが出来ない。政治の力で見つけると言うが、(そっちのほうが)よっぽど楽観的で無責任」と迫力がある。言葉の一つ一つが政治的に計算されている。
 やはりうまいと思うのは、原発の代わりになる自然エネルギーの開発を、「自然を資源にする事業は、壮大で夢のある事業だ」と、夢として描いたことである。そして、返す刀で「それに力をふるえる。こんな運のいい首相はいない」、「これは結局、総理の判断力、洞察力の問題だと思う」と安倍を挑発した。

 彼の原発ゼロ宣言が、どういう勝算のもとに言いだされたのか、詳しいことは分からない。しかし、始まったのは(安倍政権やアメリカを核とした)原子力共同体との熾烈な戦いである。相手も必死で、すでに裏では右派雑誌やイエロー・ジャーナリズムを動員した、えげつない「小泉叩き」が始まっている。カネも相当動いているに違いない。
 この原発ゼロ宣言がこれからどう発展するのか、或いは一場の夢で終わるのか。今、小泉の姿は単身で巨大な原子力ムラに立ち向かうドン・キホーテを思わせるところがある。ただし、失敗すれば脱原発の世論にも大きな影響を及ぼすだろうし、その行方は予断を許さない。従って、小泉の投じた波紋の行方と意味については、もう少し時間をかけてじっくり考えるとして、今回はすこし脇道にそれて別なテーマを書いて見たい。それは、図らずも小泉も掲げた(時代の)「夢」に関連することである。

◆「プロジェクトX」、誕生の経緯
 原発ゼロを達成するために新エネルギーを開発する事業は壮大な夢だと、小泉は言った。人間集団が何かに挑戦する時は、使命感もさることながらチームの力をまとめる「大きな夢」が必要になることを、小泉は良く分かっている。そのことは、チーム全員がこの2年以上も「東北の被災地に優勝と言う喜びを与えたい」という夢を持ち続けて闘った東北楽天を見ても分かる。日本シリーズ優勝の時、「楽天と巨人では背負っているものが違うよ」と娘がいみじくも言っていたが、そういうことである。

 夢があり、その夢に向かってチーム全員が力を合わせる。。。もう14年前になるが、私が企画に関って生まれたNHKの番組「プロジェクトX」も、そうした時代の夢を描いたシリーズだった。番組誕生のきっかけは2000年の番組改訂で、それまで夜の9時台にあったニュース番組が10時台に移り、その空いた夜9時台に「骨太の番組を並べる」という編成方針が打ち出されたことだった。
 当時、番組部門の責任者の一人だった私は、「これは各セクション(部)の議論に任されていた従来のやり方では無理だろう」と思い、組織横断的な「番組開発プロジェクト」を作って、そこで企画を議論することにした。各部から選りすぐりのプロデューサーを集め、彼らが持ち寄る企画アイデアをもとに、私が座長になって毎週のように議論を重ねて行った。

 その中の一つが「プロジェクトX」となった経緯はこうである。議論も大分煮詰まっていたある時、「以前に、こういう企画を考えたのだが」と出された企画がある。それは「グレート・チャレンジ」というタイトルのアポロ13号の冒険を描くドキュメンタリー・シリーズの企画だった。定時番組の提案ではなかったが、私たちはその「グレート・チャレンジ」というタイトルに飛び付いた。こんな挑戦モノが日本を舞台にして出来ないか、それも戦後の挑戦を……戦後の社会的事象をいろいろ集め、会議で議論する日が続いた。
 そんなある日、私の頭に一つのアイデアが浮かんだ。「これらは、みんなチームでやっているよな。それに戦後は“プロジェクトの時代”と言われているじゃないか」。プロジェクトで成し遂げられた戦後の挑戦、しかも主役は無名のチーム全員。定時番組に耐えるかどうか、戦後の年表を眺めながら、「これは入る、これは入らない」という番組コンセプトを固める検討が行われた。これなら、何年間かは行けるなあということで、1999年の夏に編成に提案。タイトルは最初「ザ・プロジェクト」だった。

◆時代の夢を描いた「プロジェクトX」
 その後、編成とのやり取りがあって、タイトルは「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」になった。最初の「グレート・チャレンジ」は、サブタイトルに僅かに残ることになったわけである。番組は私の手を離れて提案部のIプロデューサーたちのもとで見事な番組に仕立てられて行った。2000年3月28日に一回目の放送が始まって半年が経った頃、制作体制のやりくりに悩んでいたIプロデューサーと食事をしながら「この番組は絶対社会現象になるよ」と励ました記憶がある。
 それから半年もたたないうちに、「プロジェクトX」はNHKの名物番組になり、中島みゆきの主題歌「地上の星」とともに文字通り社会現象になった。番組が描いたのは、戦後の日本が敗戦の傷跡から立ち上がり、高度経済成長に向けてひた走った「時代の夢」だろう。特に2回目の「窓際族が世界企画を作った VHS執念の逆転劇」(VHSビデオテープレコーダー、日本ビクター)は、私も試写室で泣けて来たが、日本の技術者の夢と挑戦を描く典型となった。

 私は番組の当初から、「3年が花。3年でやめられたら満点」と言っていたが、あまりの評判の良さで上層部がやめるのを許さず、結局5年続いて後半にはスタッフはいろいろ苦い思いも味わうことになったらしい。しかし今、5年間の放送記録を眺めると、「プロジェクトX」は確かに、日本全体が明日の可能性に向けて夢を追い続けていた時代の物語だったと思う。見ながら毎回、「日本人も棄てたものじゃない」という感慨を引き起こしてくれる番組だった。
 
◆再び「時代の夢」を描けるか
  「プロジェクトX」が描いた戦後の時代から、多くの年月が流れた。その後の日本は、バブルが崩壊し、失われた20年が来て、今やデフレ現象に喘いでいる。容易に時代の夢を描けない中にいる。去年以来のアベノミクスが、このデフレ退治を行うと言って、異次元の金融緩和を行っているが、その成果は日本のモノづくりの強化に少しは役立っているのだろうか。
 株価の上昇と円安で、ソニーを除く日本の電機メーカーも一息ついているようだが、かつて時代を画したしたような新機軸の製品が日本のモノづくりメーカーから生まれとは聞かない。リーマンショックなどで企業が委縮し、かつてのような「リスクを恐れないチャレンジ精神」が見られなくなったのが原因だと専門家は言うが、どうなのだろう。

 日本は、再び時代の夢を描けるか。新しい「プロジェクトX」は作れるか。私は定年後、ある独立行政法人で「サイエンスニュース」という5分の動画のインターネット放送に関っている。この2年で150本ほどのニュースを出したが、この日本でも基礎的な所では人類の未来を切り拓くような様々な先端的研究が行われていることが分かる。
 例えば、エネルギー関連だけでも、「CO2ゼロを目指す石炭ガス化発電」、「浮体型の巨大風力発電」、「地熱利用の岩体発電」、「潮流を利用する海洋発電」、「海底下メタンとCO2の海中貯蔵」などなど。それに国際協力で進んでいる「核融合」研究もある。それから考えると、薬のネット販売などのアベノミクスの成長戦略も小さすぎて、夢がない。むしろ、原発ゼロを掲げて国を挙げて新エネルギーの開発に取り組むべきだとする小泉の意見の方が、夢があると言えないだろうか。

積極的平和主義とアメリカ依存 13.11.2

 秋の臨時国会が始まったとたんに、日本の行く手にきな臭い臭いが立ち込めて来た。当初、安倍首相はこの国会を「経済戦略実行国会」と位置付けていたのに、言うこととやることが違っている。今国会でやろうとしていることは、衆参のねじれ現象が解消したとはいえ、強行採決で「戦後レジームからの脱却」を急ぎすぎて失敗した前回の反省を少しも生かしていないように見える。
 安倍政権が強引に進めようとしている「特定秘密保護法案」に対しては今、厳しい批判が展開され始めている。この法案は、安倍が掲げる「積極的平和主義」の構想のもとに提出されているものだが、この構想そのものがどうも胡散(うさん)臭い。そこで今回は、焦点になっている特定秘密保護法と積極的平和主義の背後にあるものについて考えてみたい。

◆積極的平和主義の3点セット
 積極的平和主義とは、右派系シンクタンクの「日本国際フォーラム」(伊藤憲一理事長)が以前から唱えていたものだが、今注目されているのは、安倍首相が先月26日の国連演説で日本の外交・安全保障の基本理念として初めて打ち出したからだ。「日本は新たに積極的平和主義の旗を掲げる」と表明し、国連の集団安全保障に積極的に関って、「日本を世界に対し善をなす、頼れる力とすることだ」とした。 
 これは、1992年に自衛隊を初めてカンボジアに、その後はシリアのゴラン高原、東チモールにも派遣した平和維持活動(PKO)、また特別措置法によるイラク、アフガニスタンでの人道支援や他国軍の支援といった自衛隊派遣の歴史を踏まえて、さらに高次の平和維持活動を目指すものだ、という。

 この積極的平和主義を、「内向きだった日本国民の目を国際的な課題に向け、世界の平和に対して、より大きな責任を担うことを目指すものだ」と評価する向きもある(毎日、記者の目)。しかし一方、その耳触りのいいキャッチフレーズのもとで、3点セットと言われる国家安全保障会議(日本版NSC)、特定秘密保護法、集団的自衛権などのきな臭い動きが既に始まっている。さらに、その先には憲法改正も控えているのを見れば、とても額面通り受け止めるわけにはいかない。積極的平和主義とは一体何なのか。まず、その入り口である特定秘密保護法から点検して見たい。

◆特定秘密保護法の危険性
 特定秘密保護法とは国の安全保障に関る4分野(防衛、外交、スパイ、テロ)の機密を守るための法案だが、既に10月25日に国会に提出され審議が始まっている。国民生活に重大な影響を及ぼしかねない法案なのに、国会では会期中に安倍がトルコを訪問するなど、熟議とは程遠い状況になっている。一強多弱の国会に高を括っているのだろうが、一方で国会の外に目をやると、殆どのマスメディア、日本ペンクラブ、日弁連、歴史学6団体、憲法・刑事法学者たちなどが反対を表明。国会周辺のデモなどを見ても反対の機運は高まっている。

 その問題点はご存知のように、恣意的判断によって秘密の範囲がどこまで拡大するか分からない、一旦秘密に指定されれば、いつまでも秘密扱いに出来る、特定有害活動の防止を適用されると広範囲の人間がチェックされたり監視されたりする、など国民の知る権利と人権を侵害する重大懸念があることである。
 つい先日も、自民党の小池百合子が国会で「首相の毎日の動静は知る権利を超えている」などと呆れた発言をして本音を露わにしたが、ことほど左様に運用が極めてあいまいな法律が一旦出来ると、政府も官僚もそれを利用して秘密の壁をどんどん作って行く。先日の報道ステーションの中でも浜矩子(同志社大学教授)が、戦前にも国民が事実から遠ざけられたまま戦争への準備が着々と進んで行ったと、明快にその危険性を指摘していた。

◆アメリカからの要求から生まれた秘密保護法
 新聞などの解説によれば、この法案が目的とするような機密保全は現行の法律(国家公務員法、自衛隊法)でも充分カバーされるというが、行政トップの裁量で秘密の網をかけられるようにし、しかも量刑を一段と重くしたのは何故なのか。政府の言い分によれば、これは同時に成立させようとしている「国家安全保障会議(日本版NSC)」設置法案とセットになっている。ここに民間人を持って来た場合に、アメリカから提供された機密情報がその民間人から漏れるのを防ぐためと言う。それならそれで、関係者だけを対象にした法律を加えればいいのに、なぜ国民全体の知る権利や取材活動まで制限しようとするのか。

 資料を当たってみると、実は秘密保護法はアメリカからの要求の結果だということが分かる。日本はアメリカから、これから自衛隊とアメリカ軍を一体運用しようとする時に、機密が漏れる状況では困ると再三言われ続けて来たからだ。そこに、日本版SNCを作りたいという日本側の思惑も重なった。秘密保護法は平時ばかりでなく、「戦時においても情報を共有しながら同時進行(リアルタイム)の共同作戦を安心して遂行出来るようにする」という日米の極めてきな臭い意図から作られた法案なのである。
 つまり、一連の法案は日米軍事同盟のより一層の強化を目指すものであり、これが安倍の言う積極的平和主義の内実と言える。そのネーミングに惑わされると、国連中心主義でいくように思ってしまうが、その実体は自衛隊がアメリカ軍の補完勢力となって紛争への軍事介入にこれまで以上に積極的に乗り出すということである。それを考えると、特定秘密保護法については「知る権利の侵害」と同時に、「日米軍事同盟のあり方」についても議論を深めなければならないと思う。

◆タブーとせずに日米関係の議論を
 ご存知のように、アメリカは唯一の超大国として君臨してきたが、近年は目立って勢いを失って来た。世界の警察としての役割を果たそうにも同盟国の意志をまとめられず、財政的困難にも直面している。NATO諸国(独仏など)との関係が微妙になっている上に、これまで絶対的な同盟国としてやって来たイギリスも経済的に落ち目になって、(原子力での協力など)中国との関係を強めようとしている。
 そういう中で、日本はアメリカにとって世界の中でも(何でも言うことを聞く)特異な同盟国になりつつある。アメリカは米日同盟を「世界で最も重要な二国間同盟」と持ち上げ、日本はアメリカ依存の安全保障(これを抱きつき政策と言う人もいる)をさらに強化しようとしている。最近の中国の台頭や北朝鮮の核問題があるにせよ、なぜ日本は自ら進んでかくもアメリカの軍事戦略に組み込まれようとしているのだろうか。

 中国の台頭を警戒して、アメリカとの軍事的一体化を進めればより安心かもしれない。しかし、一体化を進めれば進めるほど中国、韓国からの反発は一層強くなる。このサイクルを「永続敗戦論」の白井聡は「対米従属がアジアでの孤立を昂進させ、アジアでの孤立が対米従属を強化するという循環」だと指摘する。本当は近隣の彼らと平和の構築を模索することこそ目前の課題なのに、その努力を頭から放棄してますますアメリカ依存を強める計算と心理は何なのか。
 そこに白井は「あの戦争において、日本の旧体制は国内とアジアに対しては(終戦と言い替えて)敗戦の現実を否認し(従って、素直に謝れない)、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける」という深層心理が働いている、と見る。アメリカ依存を強めることで旧体制の存続を図り、アメリカはそれを存分に利用する。――安倍自民党がこうした旧体制の心理構造を引きずっているとすれば、一連のきな臭い法案が動き出そうとする今こそ、「積極的平和主義」と言った耳触りのいいネーミングに惑わされることなく、私たちの意識の中でややタブーとなって来た日米関係についてもっと徹底的に議論しなければならないだろうと思う。

野党は「政治の原点」に立てるか 13.10.24

 長らく休んでいた国会がようやく始まった会期は10月15日から12月6日までの53日間。この間に、電気事業法改正、産業競争力強化法案、日本版NSC(国家安全保障会議)設置法案、特定秘密保護法、国民投票法改正案などなどの重要法案を審議、採決する。同時に日本の将来を左右するアベノミクス(成長戦略)、TPP、集団的自衛権、原発政策や汚染水問題などの重要テーマについても議論しなければならない。しかし、国会は野党が弱体の「一強多弱」状態。果たして充分な審議が行われるのだろうか。野党は強気の安倍自民党に対して、少しは機能できるのだろうか。 

◆機能しない野党、声なき声が行き場を失う
 先日、「みんなの党」の渡辺代表が小泉元首相の脱原発発言を引きながら「原発はトイレなきマンション。これ以上続けるのは無責任ではないか」と質した。それに対し、安倍首相はもう10年以上も候補地が見つからずに店晒しになっている高レベル廃棄物の地中処分案を持ち出し、「場所の選定を含め責任をもって努力する」と、経産省の役人が作ったような答弁をするだけだった。
 持論のアベノミクスや防衛問題については熱を込めて答弁するが、原発問題については「原発を続ける、原発を輸出する」という大方針だけがあって、後は官僚の作文まかせ。紋切り型の答弁を聞いていると「ああ何も理解しようとしていないな」と空しくなる。「汚染水は完全ブロック、健康被害も全く心配ない」などという根拠のない言葉だけが独り歩きし、不都合な実態や不安情報が握りつぶされて行く。原発問題に関しては、(政権首脳部を含めた)原子力ムラと官僚の頑なさが続いている。「一強多弱」状態を見透かしているのだろう。

 余裕の安倍は国会会期中にトルコ(原発輸出がらみ)やインドシナに外遊する予定さえ組んでいるというが、こうした野党の弱体化について、新聞社説は「与党を喜ばすな」、「混迷する野党、のたうち回っても」、「万年野党にならぬために」、「野党は論戦力を磨け」、「多弱に甘んじるな」などと叱咤し続けて来た。しかし、どうすればいいのかという点になると、正直、見るべきものがない。それだけ悲惨な状況なのだろう。
 政党助成金を睨んだ年内の野党再編の動きもあるらしいが、毎日新聞の「野党再編 高い壁」という特集(8/30)を読むと、単なる数合わせがうまく行くはずもなく、掲げる理念も入り乱れていてとても無理そう。問題は、こういう状況の中で安倍政治に違和感や警戒感を抱く無党派層の「声なき声」が行き場を失っていること。集団的自衛権や特定秘密保護法など、安倍の「衣の下に隠した鎧」が露わになりつつある今、野党は声なき声の受け皿としてどう応えるべきなのか。個別各論の足し算や引き算ではなく、もう一度「自分たちの依って立つ原点」を再確認する必要があるのではないか。 

◆政治の原点。国民が求める野党の役割とは?
 ということで今回は、私が考える野党の役割について今一度確認しておきたい。その役割の一つは権力の監視機能である。(その是非はともかく)安倍が如何に高邁な理想に沿って政治を進めようと思っても、その周辺では様々な利権が渦巻き、砂糖にたかる蟻のように有象無象が群がって来る。時には怪文書まがいの記事を書いたり街宣車を繰り出したりする、業界ゴロや暴力装置まで金につられてすり寄って来る。
 使いきれないほどの公共事業費、除染や事故対応がらみの原発利権、成長戦略関連の利権、防衛産業の利権、それに金融緩和のカネ余りに湧く投機筋。多額の金が動く時、権力は必ず腐敗する。野党の機能の一つはその監視である。それを国会で追及することである。昔はロッキード事件やリクルート事件の疑惑を追求して「国会の爆弾男」と言われた楢崎 弥之助(社民党、旧社会党)のような代議士もいた。そのためには独自の調査力も必要になる。

 さらに大事な役割は、政治の原点とも言うべきものである。前々回も書いたように私たちの日本は、農業や林業が育んで来た「豊かな自然環境」、鉄道、道路、電気、ガス、水道などの「高度な社会的インフラ」、教育、医療、行政などの「先進的な制度」といった、世界に誇るべき「日本の良さ、素晴らしさ(社会的共通資本)」を受け継いできた。これを損うことなく、(出来れば)より豊かにして次世代に継承して行くことこそ政治の目的だと思う。
 しかし一方で、日本の「社会的共通資本」は今、膨大な財政赤字、少子高齢化、原発事故、そしてTPPや隣国との緊張などによる様々なリスクに直面しているのも事実。従って野党の役割はその「課題解決のための政策立案能力」と「実行力」を鍛えながら、自民党に対抗できるような「解決策、方法論」を国民に示すことにある。残念ながら、先の民主党政権はこの2つの能力を決定的に欠いていた。硬直したマニフェストに縛られるかと思えば、野田のようにそれをあっさりと棄てて思いつきの政策(消費税とTPP)に飛び付く。党内の暗闘にうつつを抜かして国民に対する説明責任も果たさなかった。

◆対立軸のポイント@平和の構築
 今の野党は、この「日本の素晴らしさ(社会的共通資本)」を次世代に引き継ぐことを「政治の原点」に据えることが出来るだろうか。そして、説得力のある方法論を掲げて自民党と対峙することが出来るだろうか。最大野党の民主党は、反省を踏まえて「政策立案能力」と「実行力」を鍛えることが出来るか――こうした問題意識で見た時に初めて、私は今の野党が自民党政治に対抗すべき幾つかの方法論と解決策の要点が見えて来ると思っている。
 その要点は幾つかあるが、まずは何と言っても「平和の構築」である。現代の戦争に勝者はない。仮に戦争にでもなれば、祖先から受け継いだ「社会的共通資本」などは一瞬にして消え去ってしまう。それを思えば、政党・政治は二度と戦争を起こさないと言う強固な意志を持ち、平和を構築するための高度な方法論を構築しなければならない。

 特に安倍政権になってからは拡大する中国の軍事力や北朝鮮を意識して、日本を強い国にするための憲法改正、集団的自衛権などの動きが急である。これは当然のことながら日本の平和を構築する一つの方法論として発想されているわけだが、一方でこうした動きは戦争へのハードルを下げるリスクも抱えている。単に、鎧を固めるだけでは平和は構築されず、同時に平和への強固な意志に基づく外交戦略も視野に入れなければならない。
 その点、今の自民党はアメリカ一辺倒の平和の構築しか視野に入っていないように見える。それが危うい。世界中で戦争を仕掛けて来た戦後のアメリカと、戦争への反省を国是として来た日本は、自ずと国の背骨が違うはずだ。しかも、大きな太平洋を挟んで向き合う米中と、中国のすぐ隣に位置する日本は地政学的に言っても明らかに国益の違いがある。この違いを見ずにアメリカと軍事的行動を共にする平和構築(安倍の言う積極的平和主義)などあり得ないはずだ。

 確かに中韓との緊張緩和は、領土問題と歴史認識が絡んで難しい。しかし、その歴史認識においても、戦後の日本(特に自民党政権)は常にあいまいな世界に逃げ込もうとして来た。東京裁判に不満を持ちながら、一方で自らの手であの戦争の責任を明らかにしてこなかったからである。過去にも書いたように(*)、日本の旧体制が引き起こした戦争責任には、アジアに対する責任と日本国民に対する責任の両方がある。*「もう一つの戦争責任
 そのいずれをも中途半端にして来た結果、目の前の不確かな危機に熱くなって歴史の教訓を忘れ、今の安倍政権のような「反省なき国家主義」が復活することになる。これに対抗して平和の構築を考えるなら、野党はあの戦争の戦争責任と戦後の歴史を根本から問い直す位の気構えが必要になるだろう。その原点に戻ることが、今の野党に出来るだろうか。

 野党が「政治の原点」に立ち、そこから考えるべき自民党との対抗軸の要点にはこの他にも、経済政策や財政再建、対グローバリズム、原発政策なども当然入って来る。これについては、長くなったのでまた回を改めて書きたい。

体制の“くびき”から自由であること 13.10.8

 かつて政権の中枢にいた政治家の発言が波紋を呼んでいる。一人は、このところ脱原発を主張し続けている小泉純一郎元首相。もう一人は尖閣諸島の領有権問題で「棚上げ論」の存在を持ち出して、日中の関係改善を訴えている野中広努元内閣官房長官(元自民党幹事長)である。ちなみに2人とも近年政界を引退し、野中氏は自民党も離党している。いわば、「体制」から離れて自由の身になった人たちである。
 両氏の発言は、ともに現政権の方針に真っ向から異を唱えるものだが、かつては顔色を窺いつつ従っていた先輩政治家に対する後輩たちの反応はまことに冷たい。それは何故なのか。「体制」の内側にいることと、「体制」の外側にいることにどんな違いがあるのだろうか。

◆2人の発言と現体制の反応
 小泉元首相は、8月26日の毎日新聞のインタビューに始まり、9月24日の東京での講演、10月1日の名古屋での中部財界の集まりでの講演と、立て続けに脱原発を訴えている。8月には、使用済み核燃料を10万年も地中に保存するためのフィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」も視察しただけに、その脱原発の論旨は原発推進側の痛いところを突いている。
 いわく「人間は原子力を制御できるのか。核のゴミを10万年も管理出来るのか。リスクを考えれば原発ほどコストのかかるエネルギーはない」、「原発がなくても電気は足りている。経済成長に必要だからと作るより、同じ金を自然エネルギーに使って循環型社会を作る方が建設的ではないか」、「世界が必要とする安全な社会を作るため、今はピンチでなくチャンスなのだ。今、ゼロ方針を打ち出さないと将来も難しくなる」と、さすがに的を射た主張である。

 一方の野中氏は、6月に中国で政府首脳と会談した際に、日中国交正常化交渉の時(1972年)の「尖閣諸島領有権の棚上げ論」に触れたとして、国内右派から「国賊」などと激しい批判を浴びた。しかし、野中氏は意気軒高で、9月6日に都心で開かれた公益財団法人新聞通信調査会主催の講演会で、田中角栄元首相から聞いた周恩来元首相とのやりとりを具体的に紹介しながら、「尖閣諸島の領有権については棚上げにする」という事実上の合意が日中首脳にあったという認識をあらためて強調した。
 その上で、「日本は大国ではない。日中、日韓関係が正常化し、東アジアの団結が世界平和に貢献できるように願っている」、「(戦後の日本は)『憲法9条を柱として平和な道を歩む』という新しい誓いをしたことを忘れないでほしい」と呼びかけた(*)。サイエンスポータル・チャイナ

 両氏の発言にたいして、現体制の反応はそっけない。尖閣諸島の領有権問題について、政府は「棚上げ論につながるような事実はなかった。尖閣諸島に領土問題は存在しない」としており、野中氏の発言についても「個人の発言」と突き放す。一方、小泉氏の発言についても、政府は「エネルギー政策は丁寧な議論を積み重ねている」、「我が国には言論の自由がある(言うのは勝手だ)」と無視する(*1)。
 日中間に「尖閣棚上げ論」があったことは、私も様々な調査(*2)から事実だと思うが、野田前首相が(愚かにも)国有化に踏み切った今となっては、もっと大きな枠組みで解決を図らなければならないと思うのでここでは措く。問題は、小泉発言に対する現体制の反応である。素直に現実を見れば当然行きつく「今こそ脱原発」という率直な提言に、なぜ現体制は耳を貸そうとしないのか。何故、中から呼応する発言が出て来ないのか。――私は、ここにこそ「体制の“くびき”」とでも言うものが存在するのではないかと思う。*1)それにしても9日発売の週刊新潮の露骨な小泉つぶしには驚いた。いかに体制側の焦りと締め付けが強いのか。*2)例えば「永続敗戦論」(白井聡、57〜58ページ)の論証など

◆体制の“くびき”とは?
 「体制」とは一般に政治支配の形式を言うが、広くはそれを構成する権力構造、組織やそこに含まれる人までも指す。具体的に言えば、首相を頂点として現在の日本を動かしている(と思っている)政財官の集合体。そこには、(かつて一応は体制をチェックする側の組織に属していた、私のささやかな経験から言っても)以下のような目には見えない幾つかの特徴的な力学が働いていると思う。
 一つには、自分たちの組織利益を最優先で考えるということ。例えば、党益、省益、企業益。たとえそれが、国民大多数の利益につながるようなことでも、自分たちの不利益になるようなことは極力認めようとしない。組織利益に合わない異論は排除される。
 二つには、そこに属する人間にとっては、個人の考え方がそうした組織益と合致する場合にだけ権力に近づくことが許される。道を外れて落ちこぼれまいとする一方で、権力者になれずとも、同調することによって利益を共有しようとする(おこぼれに与る)意識が働く。

 こうした力学が働く結果、「体制」はそれ自身で(空気のように見えないが)利益共同体としての強い意志を持つようになり、そこに属する個人の考えを無意識のうちに支配する。体制から離れて自由になれば見えて来るものが、体制の中にいると見えない。あるいは、体制の外側から発せられる意見を馬鹿にして無視する。しかも、無意識を支配されているためにそのからくりにも気付かない。原子力ムラの中心にいた、あの東電の実体を見ても分かるが、これが「体制の“くびき”」というものである。
 しかも、今の安倍政権は(「反省なき国家主義」にも書いたような)特異な国家観を共有する人間たちだけで政治を動かそうとしており、その国家観が政権の空気を支配している。現体制の中にいる政治家が、この「空気の支配」を逃れるためにはよほど確固とした信念を持っていなければならず、同時に安倍の国家観に対抗できるような歴史観と人類共通の普遍的理念(後述)も持っていなければならない。

◆日本の右傾化に対抗するのは文化力
 その意味で、「体制の“くびき”」から自由になった小泉氏が、脱原発に向かったのは自然なことだと思うが、その一方で、現体制の中枢から小泉氏や野中氏に同調する声が出て来ないのもまた当然なのである。しかし、そうであれば私たちが注目すべきはむしろ、最初から「体制の“くびき”から自由な人々」、それも「自覚的に自由をかち得ている人々」の声ではないか。――というわけで私が今、関心を持っているのは、覚醒した文化人(表現者)の発信力である。
 今、ネットで検索してみれば「脱原発に賛成の文化人リスト」が見つかる。村上春樹、坂本龍一、瀬戸内寂聴、吉永小百合、小沢征爾、菅原文太、杉良太郎、長淵剛などなど、その芸術活動で広く国民の心を掴んでいる文化人である。こうした文化人を突き動かしているのは、古いイデオロギーなどではないと思う。「体制の“くびき”」から自由であると同時に、平和の価値、弱者への配慮、人道主義や人権、地球環境といった人類共通の普遍的な価値にも積極的な共感を持っている(それが芸術家の資質でもある)からこそ、脱原発なのだろう。この声をどうしたら、政権の中枢に届けられるのだろうか。

 それは、彼らの声を直接、体制に届けることではないのかもしれない。彼らの声を広く国民に届け、世論を形成する。その世論が政権に影響を与える、あるいは政権を選択する、という道筋なのだろう。それが出来るためには、今以上に文化人同士の横の連携、様々なメディアを使った共同アピール、また体制から比較的自由な若者たちの応援など、多様な回路が必要になって来るだろう。
 急速に国家主義的な動き(集団的自衛権、特定秘密保護法、憲法改正、アジアの隣国に対する偏狭なナショナリズム)を強める最近の日本だが、その一方で、一部の有力メディアは体制べったりである。従って、そうした危険な兆候を感じ、それに異議申し立てできるのは、普遍的でまっとうな価値観を踏まえた、国民の強靭な「文化力」でしかない。その中心に位置する文化人が機能するかどうか。理想論かもしれないが、これが案外日本の将来を左右するキーポイントかもしれないと思っている。

外国で「日本の良さ」を考えた 13.9.28

 9月8日から足掛け11日間、カナダ東海岸にあるプリンス・エドワード島(PEI)に行って来た。カナダ観光局が毎年開いている「GoMedia」という催しで、内外のメディア関係者がカナダ各地の観光担当者と対面しながら、取り上げる題材のヒントを得る。今回で4度目の参加になるが、PEIはご存知の小説「赤毛のアン」に出て来る美しい島だ。主催者によると州都シャーロットタウンに集まったのは全部で355人、うちジャーナリストは120人という。
 会議の後の5日間、私はメディア関係者たちと(愛媛県位の大きさの)PEIの端から端までおいしい食べ物を求めて旅をする “A Field Trip for Foodies”というツアーに参加した。このツアーでの不思議な体験は、これから順次「風の日めくり」の方に書いて行く予定だが、ここでは会議の間にホテルの一室で考えた別のことを書いてみたい。それは日本のことで、日頃書いている「日々のコラム」の足元を確かめるような内容でもある。

◆旅先で日本の良さを再確認する
 かねてから私は、日本の現状について批判的に書くばかりでなく、国際的に見た日本の良さを自分なりに整理しておく必要があると思っていた。それが、こうした集まりで、日本に行ったことのあるジャーナリストたちから「日本が好きだ。また行きたい」などと熱っぽく言われてみると、改めて「日本の良さ」を客観的に眺める気になった
 先般のオリンピック招致会議で上映されたPRビデオではないけれど、そう思ってみると、国際的に見ても日本の良さは際立っていると思う。例えば、日本に行った外国人が素晴らしいと称賛する「洗練された日本食」や「おもてなし」を一例として、日本には長い歴史に育まれた「個性豊かな美しい伝統文化」がある。江戸末期に日本を訪れた外国人が驚いた(*)、「隅々まで手入れされた美しい農地や自然環境」もまだ残っている。「逝きし日の面影」(渡辺京二)

 また、カナダ人男性が「日本ではエスカレーターの手すりまで綺麗に磨いている!トロントでは考えられない」と感嘆したような、清潔で安全な社会。さらに鉄道、道路、電気、ガス、水道といった社会的インフラのレベルの高さ行政機関、学校、病院、メディアなどが維持する生活水準も高い。加えて世界第3位の経済力を支える企業群(製造、サービス、金融など)も色々問題を抱えてはいるが健闘している。
 資源が乏しく国土も狭い。多くの人口を抱えているのに飢える人もなく、経済的にも豊か。文化的、社会的な面でも高いレベルを保っている日本は客観的に見ても、確かに際立った存在には違いない。内戦や紛争に苦しんでいる国々、食糧さえも十分確保されない貧しい国々はもちろん、法治主義が保証されていない中国や、貧富の差が激しく貧しい人々が医者にも行けない「貧困大国アメリカ」などに比べても、日本に生まれたありがたさは身に沁みる

◆「社会的共通資本」の前に立ちはだかる様々な困難
 こうした「日本の良さ」は、経済学者の宇沢弘文氏がいう「社会的共通資本(自然環境、社会的インフラ、制度資本)」の充実によるものと言える。日本は江戸時代から明治維新後も、営々とこの社会的共通資本を豊かにし、先の戦争で壊滅的に荒廃した後もたゆまぬ努力で回復、充実させてきた。私たち現世代はありがたいことにその恩恵に浴しているわけである。
 それを考えれば、私たち現世代の責務の一つは、先人から受け継いだこの豊かな社会的共通資本を損なうことなく、より豊かにして次の世代に継承して行くことだと思う。まあ、個人の目標はどうあれ、国の単位で考えれば、それ以外にない、というのが私の考えだ。特に国民の税金で仕事をしている政治家や官僚にとっては、この責務をどう果たしていくかが基本的な仕事となる筈だ。

 しかし、社会的共通資本の継承と言っても簡単なことではない。実際、今の日本は様々な難問に直面している。例えば、道路や鉄道、水道などの社会的インフラが急速に老朽化しているのに、手当てする資金がない。肝心の国家財政は膨大な赤字を抱えて破綻の危険さえある。高齢化が進んで農村が維持できなくなり、農地や山林が荒廃しつつある。中央集権の官僚制度は制度疲労を起こしていて、こうした問題に対処できない。その上、原発事故や巨大地震などのリスクに対する備えも不十分だ。
 これらは、これまでも「日本の難問」として書いて来たことだが、適切に対処しなければ、「豊かな社会的共通資本をより豊かにして次世代に継承する」どころか、私たちの世代で食いつぶして、大きな「負の遺産」を次世代に残すことになりかねない。

 加えて最近の日本は、一国だけでは対処できない「グローバル化」という波にもさらされている。国家を超える国際金融・経済への対応、TPPへの参加問題、それに中韓との緊張関係とナショナリズムの高まり、同盟国アメリカとの集団的自衛権などなど。混沌とした世界情勢の中で、日本は「日本の良さ」を国際的にも適合したものにして行かなければならず、さらに難しいハンドリングが必要になってくる。

◆価値観を共有し、方法論を競い合うために
 こうした状況を踏まえれば、日本の政治課題とは何かが明確に見えて来る筈だ。今の「日本の良さ」を破壊することなく、いかにバージョンアップして次の世代に継承するか――これに尽きるのではないか。これが政治家や官僚の存在理由であり、多かれ少なかれ国民誰もが持っているべき共通の責務になる。しかも、これは偏狭な軍国主義に染まった戦前の一時期を除いて、国の歴史と伝統を否定しないで済む日本に相応しい価値観だと思う。
 問題はその方法論である。現代では、よほどの極右や極左、カルト集団でもない限り、独りよがりの価値観のために、今の「日本の良さ」を否定し、破壊しようとは思わないだろう。怖いのは、むしろ「日本の良さ」を拡大しようと思いながらも方法を間違え、結果的に破壊してしまうことである。そのためにも、私たちは「日本の良さ」の何たるかをとことん追求し、これを損なわずにバージョンアップするにはどうすればいいかを研究しなければならない。(その具体的内容については、以下のテーマに合わせてまた書いて行きたい)

 というわけで、関連して次回以降に考えたい2つのテーマをあげておきたい。一つは、今の野党である。安倍政権が独走態勢に入るのを眺めながら、野党は何を考えているのか。個別のテーマを議論するのもいいが、彼らは、もう一度自分たちが何を託されているのか、何のために政治家になったのか、「原点」に立ち帰って党の立脚点を再構築すべきではないのか。その位まで徹底して突き詰めないと、説得力を持って今の自民党と戦えないのではないかと思う。
 もう一つは、私などより年上の文化人と学識者の発信力である。「日本の良さ」を維持発展して行くには何をすればいいのか。何をしてはならないか。血気にはやる今の安倍政権を見ていると、彼らの見識と発言が政治に対して力を持たなければならない時が、既にやって来ているように思う。問題は、その発信力の弱さだが、それをネットワーク化し若い世代の力も借りて増幅する方法はないだろうか、ということである。

 以上、ホテルの一室で書いたメモをもとに書いて見た。外国で考えるとどうしても考えが飛躍しがちだが、これはこれで日頃から漠然と感じていたことである。私も現世代の一員として「日本の良さ」を忘れず、少しは責務をはたすべく今しばらく、この「メディアの風」であれこれ模索して行きたい。

最悪のケースを直視せよ 2013.9.5

 9月3日、政府がようやく重い腰を上げ、福島第一原発の汚染水問題に「国が前面に出て必要な対策を実行する」という基本方針を決めた。「従来のような逐次的な事後対応ではなく、リスクを広く洗い出し、予防的かつ重層的に、抜本的な対策を講じる」と言う。
 こんな当然すぎる作文をあっという間に作る位だから、日頃から経産相の官僚たちは、国と東電の汚染水対策が、「先のリスクを評価しない、その場しのぎの逐次的なものであり、とても抜本的とは言えない不十分なものだった」と分かっていたのだろう。

◆見透かされている動機
 そうと知りつつ国や官僚たちが無責任に口をつぐんでいたのに、ここへ来て急に態度を変えたのはどうしてか。放射能漏れが続いて事態が深刻化し、8月28日には、上京した福島県知事が茂木経産相に会って『国家の非常事態』だと申し入れる場面もあった。しかし、新聞によれば、その決定の舞台裏は福島の危機を受け止めるというより、安倍の国際的メンツを重視するという政治的な判断だったようだ。
 一つは、海外メディアからの厳しい批判である。ヨーロッパの多くのメディアがフクシマの汚染水漏れを重大なものと捉え、日本政府と東電の対応の無責任と杜撰さを批判していること。もう一つは、安倍が出席するロシアでのG20と、それに続くアルゼンチンでの(2020年オリンピック開催地を決定する)IOC総会で、日本批判が出ないように安倍周辺が決断したのだという。それは「世界が注視している(3日)」という安倍の言葉にも現れている。

 言わば、国際社会での安倍政権批判を封じ込めるために間に合わせ的に取られた措置だが、これが見透かされてIOC関係者の間では「東京の集票活動」とみなされ、却って反発を呼んでいるという(毎日4日)。一方、福島の地元からは、オリンピックが決まってしまえば、政府の関心はまた福島から離れてしまうのではないか、と怒りの声が上がっている。こうなると、470億円の税金投入もとんだブラックユーモアに見えて来る。一体、彼らの言う「抜本的な対策」とは何を言うのだろうか。

◆「国が前面に出る」とは言うが
 一番の問題は、この期に及んでも政府が「国と東電の線引き(役割分担)」にこだわって、「国費を投じるのは技術的に難度の高いもの」に限定していること。凍土遮水壁(地中を凍らせて地下水の流入を防ぐ)の建設と、汚染水から放射能を取り除く大型除去装置の開発の2つだが、これらは仮にうまく行ったとしても効果を発揮するのは1年以上も先になる。目の前の危機であるタンクからの放射能漏れと海への汚染水流入を食い止める作業は、相変わらず(よれよれ状態の)東電任せである。
 「事故の現場を担うのは東電。国が関与を強め過ぎれば、東電の当事者意識が薄まり、事故処理にかえってマイナス」というのが経産相幹部の話らしいが、これこそ官僚の(責任を取りたくない)本心を隠す言い回しだ。高みから東電は当事者能力がないと言いつつ、緊急に対応すべきところは任せて手を汚さない。これが「国が前面に出る」の実体で、これで今の危機的状況が乗り越えられるとは思えない。

◆最悪のケースを想定せよ
 今考えるべきは、この危機から国民と国家をどう救うかである。それを最優先に考え、最も効果的で有効な対策を考えることである。抜本的対策と言うなら、東電の解体も含めて国が全責任を負う体制を作ること。その第一義の責任者は原子力災害対策本部長の安倍首相のはずだ。
 ただし、こうした抜本的対策を実行するには相当なエネルギーがいる。それを乗り越える唯一の方法は、信頼できるリスク評価である。福島第一原発の事故収拾に当たって最大のリスクとは何か。この共有がなければ、幾ら国が前面に出ると言っても抜本的対策は無理。常に「逐次的な事後対応」にならざるを得ない。

 最大のリスクという意味で、さしあたって今の私が心配しているのは、1000基にも増えた巨大タンクの耐震性である。既にタンクの底は地盤沈下で歪んでいるものがあると言う位だから、あそこは急ごしらえの軟弱な地盤に違いない。震度5強や6の地震が来ても大丈夫なのか。タンクが壊れることはないのか。恐ろしくて聞けないのかもしれないが、メディアは早急にこのことを確かめる義務があると思う。
 仮に重大な懸念があると言うなら、それこそが最大のリスクの一つになる。何しろ中には35万トンもの汚染水が溜まっている。タンクが破損して高濃度汚染水が大量に吐き出されたら、あの付近には誰も近づけなくなる。海の汚染も甚大になり、最も肝心の核燃料の冷却作業にも重大な支障が出るのではないか。危機の連鎖になる。もちろん、そういう事態にならないことを祈るが、内外の専門家を集めた第三者機関で福島のリスク評価を多面的に行い、それをもとに実効性のある危機対応を進めて行かなければならないはずだ。

◆本部長の危機管理能力と覚悟が問われる
 全く新しい技術の開発、進捗状況の評価、莫大な資金調達、技術者や作業員の確保、作業員の被ばく管理などなど。福島の廃炉作業には、この先半世紀にわたって極めて困難な作業が続く。これらの困難な課題に対して、誰がどのように責任を果たして行くのか。「国が前面に出る」と口でいうのは簡単だが、それを明確にしない限り、実体が伴わない言葉遊びに過ぎなくなる。
 心配なのは安倍政権になって原発再稼働を急ぐあまり、関係者たちがあの事故の現実から目をそらしがちなことである。見なければ危機がなくなると言うものではないのに、危機の実体を直視せず、対策が後手に回って被害を大きくする。これだけは避けなければならない。
 要は、原子力災害対策本部長(安倍)の危機管理能力と覚悟のほどが問われる事態なのだ。「日本の原子力技術は世界一」などと言ってセールスマンよろしく原発輸出のために世界を飛び回ってみたり、日本は安全だと言ってオリンピック招致に血道をあげたりせず、足元の危機をまず直視することである。逃げることは出来ないのだから、「政府一丸となって解決に当たる(安倍)」という言葉が空虚に響かないような「一大転換」を見せて貰いたい。

TEDに見るネット時代の進化 13.8.28

 私の苦手なIT関連の話なので、ごく身近な体験から書き始めたい。9月上旬にカナダ観光局のお誘いで5年ぶりにカナダ北東部のプリンス・エドワード島に出かけることになった。前回は、「赤毛のアン」出版100周年の記念行事で、アンの家の裏庭に白樺の木を植えて来た。その成長ぶりを見るのも楽しみの一つだが、心配なのはこの1年半ぐらい全く英語に接していないこと。
 そこで、少しは英語に慣れておこうと2ヶ月限定で地元の英会話教室に通い出した。以前にも通っていたところで、今回は奮発してプライベートレッスンにした。先生はオーストラリア出身の元エンジニアで、世界情勢や技術情報、環境問題などにも詳しく、毎回、適当な話題を見つけて議論する。このところの福島原発の汚染水問題やシェールガスの問題、それに映画「風立ちぬ」に出でて来たゼロ戦の話などをテーマにしながら、私の拙い英語をリードしてくれる。

 IT情報にも詳しい彼は、いつもiPadを駆使しながら単語の内容や関連情報を検索して見せてくれる。ある時、ネット時代のテレビがどうなるか、ということが話題になった。その時、彼が見せてくれたのはiPadに取り込んでいる世界の放送局のファイル。アメリカ、イギリス、ロシア(英語ニュース)、オーストラリアの20程のテレビ局が並んでいて、いつでも好きな番組が見られるようになっている。
 著作権の問題で一部しか見られない番組もあるが、殆どが無料で見られる。CNNのニュースなども項目別に映像の一部(サムネイル)が表示されているので、関心のあるニュースだけを選ぶことができる。彼が言うには「ニュース番組の頭からずっと付き合わなければならないテレビと違って、ネットは時間が節約できる」。そして、「10年以内には、すべてのテレビはネット環境の中で見る(PC機能を備えた)テレビに置き換わって行くだろう」と言う。

◆TEDについて
 さらにこうしたネットで見る動画について、「検索の方法や見やすさが驚くほど滑らか(slick)になって来た」と言って、有名なTEDのサイトを見せてくれた。TEDは、教育テレビの番組「スーパープレゼンテーション」(月、夜11時から)で紹介されているので、ご存知の方も多いと思うが、アメリカのNPO法人によって運営されている講演会(TEDカンファレンス)だ。
 年一回開かれる講演会には2000人の聴衆が集まり、4日間に70人程の講演が行われる。会場に参加するにはお金(年会費7500ドル)がいるが、その内容(TED Talks)は順次ネット上に無料配信されている。1984年の設立当初は「技術」、「エンターテイメント」、「デザイン」の3分野だったが、現在はそれに加えてビジネス、科学、世界問題など幅広いテーマを扱っている。著名人から無名の人々までが、練りに練った講演で集まった聴衆を魅了する様は見ていて圧巻だ。

 現在1500本を超える講演の動画が、「TED自身のHP」やYouTubeで配信されているが、中には500万回以上再生されているものも。内容の幅広さ、レベルの高さ、考えのユニークさ、インパクトの強さなど、一つ一つが感銘を与えるものになっており、なじみのなかった私でもすぐに感動的なTED Talksを見つけることが出来た(最後にURLを)。
 内容もさることながら感心するのは、そのサイトの使い勝手の良さである。講演内容は基本的には20分以内。多くは10分程度の、ネットで見やすい長さになっている。英語の講演だが、今ではボランティアたちによって世界100以上の言語に翻訳されている。もちろん日本語スーパーで見ることもでき、「日本のTEDのHP」を覗くと、日本語翻訳に参加した250人以上の日本人ボランティアの名前を見ることが出来る。

◆進化するネット動画サービス
 今や、1500の動画には、カテゴリー別、言語別、動画の長さ、年代順、反響(再生回数、メール数、コメントの数、反響の強さ)などの索引(タグ付け)がされていて、視聴者は簡単に見たいものにたどり着けるようになっている。例えば、電車を待つ間の8分間に見たいと検索すると、時間に見合ったリストが表示されるという具合だ。
 しかも、TEDはスマホ向けに幾つかの無料アプリも提供している。私はスマホを使わない(使えない)ので、娘に調べて貰ったら、その一つの英語勉強用のアプリが大変親切。字幕がないものはもちろん、英語の字幕がついているもの、他の言語の字幕も見ることが出来る。再生速度や文字の大きさも変えられる。1文ごとの英文と和訳も表示もできる。辞書機能があって覚えたい単語を登録出来る。お気に入りの「My Talksファイル」も作れる。これがすべて無料のサービスなのである。

 TEDは、始めはごく細々とした活動だったが、2006年にインターネットに配信するようになってから爆発的に人気が出た。中には現在のアメリカの教育制度を批判するもの(*)など、様々な意見があるが、多くの企業が協賛し、「Ideas worth spreading(広げる価値のある考え)」を世界中に広げることに賛同している。動画の最初に協賛企業のロゴが一瞬出るだけで広告はない。
 企業の協賛と会員の年会費、それに多くのボランティアによってTEDは進化してきた。TEDのネット上での視聴環境が劇的に改善されているのは、価値ある内容を世界に広げたいという、人々の思いが集約されているからだろう。こういう条件が揃えば、ネットの可能性はどんどん広がっていく筈で、TEDの例は、将来のインターネットの一つの可能性を示唆しているようにも思える。

◆無料サイトの進化を視野に入れながら
 TEDの他にも、彼はオーストラリア最古の新聞「The Sydney Morning Herald」の電子版を見せてくれた。これは、文字と動画が結びついたデジタル新聞だが、しゃれた動画広告が入っているために殆どが無料。そのために多くの視聴者を獲得しているという。しかもその見せ方、検索対応などがいかにも滑らかでストレスが全くない。
 このように、ネット上での動画の視聴環境が急速に進化して行くのを考えると、彼が言うように、もう10年もすれば、すべてのテレビは機能を高めつつインターネットに移行する、というのも一理ある予見かもしれない。しかし一方で、既存のマスメディアとしては、その時のビジネスモデルはどうなるのかは結構悩ましい問題だろうと思う。少なくとも、今の有料のデジタル新聞や有料の番組オンデマンドの現状を見る限り、あまり成功しているとは言えない感じがするからだ。

 その点で、ネット時代のビジネスモデル(金儲け)に余りに性急にこだわると、折角のチャンスを失うこともあるのではないか。そこにはまず、TEDのように良質なコンテンツだからこそ可能な限り無料で世界の人々に見て貰いたい、伝えたいという「熱い思い」が根底になければならないだろう。それでブレイクすれば、お金は後でついて来る、これが理想的。その先には、まだ私たちの気がつかないビジネスモデルが隠れているかもしれない。
 これに関して最近気になっているのは、有料化を目指している新聞(テレビも)のHPがひどくそっけなくなっている感じがすることである。HPの作りがすべて課金の購読者に誘導するように作られていて、知りたいことに行きつかない。無料で見られる頁の進化が見られない上に、情報量まで減っている。広く世界に目を転じれば、ネット上の無料サービスが劇的に進化している時代なのに、無料で見られる部分を減らしていくこうしたやり方に違和感を持つのは私だけだろうか。
<TEDTalks>から
*バイオリン―魂の暗闇を越えて *「破綻していく学校:もうたくさんだ! *「学校教育は創造性を殺してしまっている

フクシマ・今そこにある危機(2) 13.8.22

 昨晩(21日)のプライムニュース(BSフジ)は高濃度の汚染水が海に流出したり、タンクから漏れ出したりしている事態を受けて、東電の事故処理担当の相沢副社長をスタジオに呼んで2時間にわたって問いただしていた。その中で、意外な事実が明らかにされた。福島第一原発の敷地にはかつて川が流れていたこと、事故以前にも原子炉建屋に流れ込む毎日800トンの地下水を汲みだしていたこと、原子炉建屋の壁には様々なパイプ類などが貫通していて水の機密性はもともとないこと、などである。前回も書いたように、福島原発はまさに、あちこち水漏れする状態で地下水の川の上に浮いている難破船のようになっている。

 チェルノブイリ原発では事故後27年経過した今も、地上での放射能封じ込めに精一杯で廃炉作業は遅々として進んでいないが、地下水の問題はない。3基すべてがメルトダウンし、その上、汚染水問題にも追われる福島原発は、廃炉作業と言う点ではチェルノブイリよりはるかに困難かもしれない。フクシマは本当に工程表通り廃炉作業を進められるのか。日本は、この困難な状況を乗りきれるのか。今世界がフクシマの危機を注視している。

◆放射能漏れ事故が続く異常事態
 福島第一原発では溶けた核燃料を冷やすために循環させている冷却水と、外から原子炉建屋に流れ込む毎日400トンの地下水が混じって日々大量の汚染水が発生している。その汚染水を溜める大きなタンクが940基(容量1000トン)作られていることは前回書いたが、一昨日にはそのタンクの一つから高濃度の汚染水が敷地に漏れ出していることが分かった。漏れ出した高濃度汚染水は300トン、放射能にして24兆ベクレルもあり、原子力規制委員会はこの事故を国際的な評価基準で「レベル3」(重大な異常事象)に該当するとしている。

 加えて東電は今、1日300トンの高濃度汚染水が海に直接流れ込んでいる事態にも直面している。原子炉建屋の汚染水とは別の地下水が、トレンチなどから周辺に漏れ出た放射能に汚染され、海に流れ込んでいる。こちらの方がより深刻だ。東電は、6月に海岸近くの地下水から高濃度の汚染を検出したが、データが不足しているなどの曖昧な説明に終始し、原子力規制委員会が海への流出を警告して来た。その東電が一日300トンの流入を認めたのは、何故か参院選挙の翌日だった。しかも、プライムニュースでは、この流入は今に始まったことではなく、事故直後からずっと続いていたことを副社長も認めていた。東電の情報公開は意図的と勘繰りたくなるほど消極的で、対策も後手に回っている。

◆地下水と汚染水の実態が見えない
 東電は現在、トレンチに溜まっている汚染水を減らすとともに、海に入る前の汚染水を毎日100トン汲み上げる計画を立てているが、これも年内の解決は無理。その間高濃度の汚染水は海に漏れ続ける。また、原子炉建屋に流入する地下水を減らすために、山側にも数十本の井戸を掘って地下水をくみ上げ、海に放出する計画だ。
 さらに、原子炉施設の地下に多数のパイプを打ち込み、ここに零下50度の不凍液を循環させる計画も立てている。施設周りの地下を凍らせて地下水の流入を防ぐアイデアである。しかし、これだけ大規模な凍結計画は世界にも例がなく、2年後の完成を目指すと言うが、それが成功するかどうかは分からない。たとえ成功したとしても、維持するには莫大な費用がかかる。

 問題は、国民にはこの地下水と汚染水の実態が充分知らされていないことである。そもそも1日1000トンの地下水というが、これだって大雨が降れば一気に増えることもあるだろう。また、このまま海や敷地への放射能漏れが続いた場合は環境にどういう影響が出るのか。応急措置で作った巨大タンク群は耐用年数が5年と言うが、耐震性は大丈夫なのか。既に43万トンも蓄えられている高濃度汚染水が、地震で大量に漏れ出るようなことはないのか。これらが、さっぱり分からない。
 これまでもたびたび異常事態が続いて感覚がマヒしてしまっているが、私たちの身近に高濃度汚染水を入れた1000トンのタンクが一つでもあったら、とても落ち着いてはいられない。その安全は厳重に管理されなければならない筈なのだが、タンクにセンサー(水位計)が取り付けられていないなど、福島ではあまりにも杜撰な管理になっている。既に、東電は次々と起こる目の前の難問に対処するだけで精一杯であり、長期的な対策など考えられない状況になっているのではないか。

◆真っ暗なトンネルの中で手探りする東電、及び腰の国
 汚染水対策は、これまで政府の原子力災害対策本部(本部長は安倍首相)の下の廃炉対策推進会議で東電と経産省が協議して決めて来た。それが機能していないというので、今月7日には安倍が「東電任せでなく国としてもしっかり対策を講じる」となった。地下凍結計画についても、税金(廃炉研究費)を投入することになったが、新聞には「国の関与も及び腰」などと書かれている。東電も相沢副社長(写真右)が「ありがたい話で、身が引き締まる。全力で取り組む」などと神妙に言っていたが、これでうまくいくとはどうしても思えない。
 と言うのも、今の東電はとても一社で対応できない位の膨大な課題を抱えているからだ。例えば、廃炉作業に汚染水問題、周辺一帯の除染計画、事故に対する賠償と幾つもの裁判。それに、本来業務である発電業務と経営計画である。それぞれ、費用が天文学的にまで膨らんでいる上に、人員も要する。その一方で人材流出も続いている。昨年度の依願退職者は700人を超え、ある役員などは今の東電を「真っ暗なトンネルを手探りで進んでいるようなもの」とまで言っている(毎日、1日)。

 福島原発が直面する廃炉計画の破綻と放射能汚染の危機。事故後4年〜5年で発症する甲状腺がんの方も心配だ。この重大危機に立ち向かうには、内外の知恵を結集して、国を挙げて取り組む必要がある。それにはまず、東電を解体して@廃炉処理機構、A除染と賠償のための機構、B発電会
、の3つに分割し、@とAは国が責任を持って取り組む。その位の荒療治が必要だと思うのだが、これが出来そうもない。
 一つには、東電を解体して国が前面に出るということは税金を事故処理に充てると言うことであり、国民に納得してもらうためには、これまでの東電と国の責任を追求しなければならないからだ。原子力ムラはそれをうやむやにしようとするだろう。もう一つは、国(官僚)もこれから先の事故処理に自ら進んで責任は取りたくないからだ。かくして、フクシマは日本特有の無責任体系の中で漂流して行くことになる。危機に直面させられるのは私たち国民である。

◆日本特有の無責任体系
 この指摘は、私の専売特許ではない。白井聡(文化学園大助教)は、16日の毎日新聞のオピニオンで、こう書いている。問題が生じると、政府は「原子力発電は民間企業の事業」という態度をとり、電力各社は「原子力利用は国の政策であってわれわれは付き合わされているだけ」という態度を取ることが出来た。この体制はエリートたちが責任のなすり合いをする絶好の体制なのだ、と。
 この体制こそが重大事故を招いたのに誰も責任を問われることなく、事故後もこの無責任体系が生き残っている。それは、(国民が自らの手で戦争責任を問うことがなかった)あの太平洋戦争の構造と全く同じ。このようにして日本は再び国を滅ぼすような重大事を引き起こす。白井の意見は敗戦について考えるものだったが、原子力を引き合いに出して説得力がある。
 私は福島の現場で懸命に働いている方々に敬意を表するが、日本のフクシマ問題は、(頑張りたいと言っている東電幹部の)当事者意識がどうあれ、こうした
日本特有の無責任体系の中で展開されている。国民の方は、それが最悪のケースに至らないことを祈るだけなのだろうか。(また回を改めて、その突破策を考えてみたい)

フクシマ・今そこにある危機(1) 13.8.15

 東日本大震災の1年前の2010年1月12日、カリブ海のハイチ共和国でM7の地震が発生当初20万人とも言われた犠牲者は最終的には31万6千人にも達する大災害となった。この地震に対しては世界各国が支援の手を差し伸べたが、惨状は長期間にわたって続き、やがて「Haiti fatigue」(ハイチ疲れ)という言葉が国際社会の間で使われだした。惨状が今も続いており、援助の必要性は分かるのだが、余りに何度もそのことを聞かされると、人々の間に現実を見たくない、忘れたいという気持ちが起きて来てしまうということである。
 同じようなことは程度の差こそあれ、東日本大震災にも起き始めている。被災に逢わなかった人々が「被災者の身になって考えよう。なんて気の毒なんだろう」と思い続けるうちに「共感疲労」(香山リカ)とも言えるような疲労感や罪悪感に悩まされる。長く続く災害後遺症をどう一体感を持って乗り切って行くかは人類共通の課題なのかもしれない。

◆常に全体像をチェックするべき
 それはこれから先、半世紀も続くことになる福島の原発事故処理についても同様である。私の気持ちのどこかにも、不安な現実を知りたくないという気持ちはあるが、一方で当事者たちが「福島の本当の危機」を直視しているのか、それを掛け値なく公表しているのか、という心配もある。
 安直に「福島を忘れるな」とか、「福島はまだ終わっていない」などお題目的に唱えるだけでは済まない状況が続いているのに、いまや福島原発を観光地化する「ダークツーリズム」などというものまで現れている。その心は「事故の記憶の継承」だというが、これも福島を既に終わったこととして捉えているように思える。それでいいのだろうか。

 事故後3カ月経った頃、アメリカの高名な日系物理学者のミチオ・カクが「Fukusima's still a ticking time bomb」(フクシマは依然として動いている時限爆弾だ)と言っていたのを記憶しているが、これに対しては「大袈裟すぎる」という声もあった。私自身は、(もちろん事の重大性から言って厳しくではあるが)「過大評価」でもなく「過小評価」でもなく、事故の全体像を出来る限り正確に見ようとしてきたつもりである。
 事故の状況がこれ以上悪化することなく収束に向かってくれれば、こんないいことはないと思う一方で、事故の現実を直視せずに、打つべき手が打たれずに事態が悪化することは、何としても避けなければならない、と言うのが率直な気持ちだからだ。そういう意味で、いたずらに怯えることも、安直に安心することもなく、常に全体像をチェックしながら自分なりに評価しようと心掛けて来た。しかし、そういう心構えにも拘らず、今の私は福島の事態を憂慮せざるを得ない。特に最近の状況を見ると、福島の時限爆弾は依然として時を刻んでいるのではないかとさえ思えて来る。

◆増え続ける汚染水の現実
 グーグルの航空写真で見ると、事故を起こした福島第一原発の1号機から4号機の原発施設は、海岸に沿って並んでおり、原子炉建屋も含めると幅100メートル、長さ450メートルほどの長方形をしている。その施設群に向かって、山側から海に向かって一日1000トンの地下水が流れ下って来る。1000トンと言えば地中をじわじわ流れるちょっとした川のようなものだろう。流れる地下水から見れば、原発施設は海岸から僅か100メートルのところで立ちはだかる壁のように建っている。

 1号機から3号機の原子炉には、それぞれ今も莫大な熱を発する100トンの核燃料がある。ただし、核燃料が原子炉の中でどのようになっているのか、溶けて一か所に固まっているのか、バラバラになっているのか、格納容器の中に収まっているのか、あるいは格納容器の底も突き破って下のコンクリートまで達しているのかは、未だに全くつかめていない
 どこにどのような状態であるか分からない核燃料を冷やすために常時外から水を流し込んでいるが、格納容器が壊れているために汚染された冷却水は原子炉建屋の方にも流れ出して来る。言ってみれば、中の核燃料の放射能を少しずつ外に洗い出しているようなもので、この高濃度の汚染水をろ過するための巨大な装置が動いているが、そこからはフィルターについた大量の放射性廃棄物が日々生まれてくる。

 さらに厄介なことは、流れている1日1000トンの地下水のうち、400トンがどこからか原子炉建屋にも流れ込んでいて、これが原子炉で汚染された循環冷却水と混ざり合って汚染水の量を増やしていることである。増える汚染水をある程度浄化してタンクに溜め続けているが、既に容量1000トンのタンク940基が敷地を埋めている。このタンクも僅か2日半で一杯になると言うので、この先の展開が危ぶまれている。冷却は少なくともこの先、中の燃料を取り出すまで7年以上は続くからだ。
 しかも、原子炉内の核燃料がどこにあるのか、格納容器の穴がどこにあるのか、それを塞げるのか。これが分からない限り、いつまで経っても燃料を取り出すことも出来ず、このダダ漏れ状態の冷却をその先も続けなければならない。従って、汚染水の量を減らすにはまず、少しでも原子炉建屋に流入する400トンの地下水を減らす必要がある。これが、今年4月頃までの情報だった。

◆新たな問題。一日300トンの汚染水が海へ
 この他に、つい最近(7月22日)、東電が認めたところによれば、地下水のうち、別の300トンが「原子炉建屋から周囲に漏れ出している汚染水」と混じって海に流れ込んでいるという。海への流入がいつから続いているのか分からないが、1日300トンもの高濃度汚染水が流れ込んでいるとすれば、港湾内はもちろん、新たな海洋汚染の拡大が心配になる。しかも、この原子炉建屋の周辺の汚染水というのが、いつ発生したものか。事故時に漏れ出した汚染水なのか、今も原子炉建屋から漏れ出しているのか、も分からない。
 原子炉の状態も、配管類の状態も、建屋の壁にひびが入っているかどうかも、分からない。従って、核燃料を冷却している循環水がどこからどのように漏れ出しているのかも分からない。分かっているのは、水を流し込んでいるお陰で、核燃料の温度が一定に抑えられているということだけ。福島原発は、あちこち水漏れしながら地下水の川の上に浮いている難破船のようになっている。(この汚染水の問題の詳細は、次回以降に)

◆事故処理の全体像を記録し、公開することの重要性
 福島原発事故の処理は汚染水の問題一つとっても、その困難は東電が当初考えていたよりもさらに拡大しているように見える。この状況を踏まえれば、メディアにとっては「事故当時、原子炉で何が起きたのか」を追跡する番組や記録も大事だが、同時に「廃炉工程は、どこまでどのように進んでいるのか」を監視、記録、公開していくことがより重要なテーマになりつつあると思う。(これから私も順次整理して行きたいが)廃炉問題の全体像は現時点では、例えば以下のようなものになるだろう。
@ 本丸である原子炉状態の把握、廃炉工程はどこまで進んでいるのか
A 本丸攻撃の前に立ちはだかる汚染水の問題とその影響
B 当事者能力を失いつつある東電、何故か及び腰の国
C 無責任体制の中で悪化する事態。解決策はあるのか

 福島第一原発の事故処理は、これから半世紀も続くことになる長い闘いだ。うまく行かなければ、それは人類のとっての厄災にもなるというので、海外の関心も高い。従って、その記録は大河小説にも匹敵する長大なものになって行くだろうが、記録し続けることは人類の貴重な財産になって行く筈だ。
 ただし、
肝心の東電は現在、廃炉の他にも実に様々な難問を抱えており、既に当事者能力を失いつつある。実は、
危機の本質はここ(東電と国の事故処理体制)にこそあると私は思っている。加えて、常に国や関係者の顔色を見ながら情報開示をためらう彼らに、事故処理の正確で詳細な記録は期待できそうにない。メディアには是非、国民に代わってその詳細な記録と公開に取り組んで欲しいと思う。