日々のコラム <コラム一覧>

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巨大地震と脱原発のシナリオ 12.4.11

 4月1日と8日の2回にわたって放送されたNスペ「メガクエイクU」(「今日本の地下で何が起きているのか」、「津波はどこまで巨大化するのか」)をみると、今世紀に入って地球は巨大地震の連鎖時代に入っているらしい。2004年に起きたスマトラ島沖のM9.1の巨大地震をきっかけに、周辺でM8クラスの巨大地震が次々と起きている(11日にもM8.6の巨大地震が起きた)。
 あるいは、2010年のチリでのM8.8の巨大地震(この地震では地球の地軸が8センチずれたとも言われている)、M9を記録した2011年3月の東北地方太平洋沖地震。そして次に心配されているのが、日本の「東海・東南海・南海連動型地震」だが、これも起こればM9の巨大地震になると予想されている。

◆巨大地震の連鎖という「未知の領域」に入った日本
 番組は「世界は巨大地震が連鎖する“活動期”に突入したのではないか」と言うが、それは、超巨大な地震が起こった後では、地球規模でプレートの歪が影響し合うためらしい。特に日本は3.11の巨大地震をきっかけにして1000年、場合によっては2000年と言った周期で起こる巨大地震の活動期に入ったと見るべきだという学者もいる。
 そうなると、今の私たちは何の因果か、千年単位で起こる地球史の偶然、つまり歴史的記録も殆どない巨大地震の活動期に巡り合わせてしまったということになる。それは、日本が誰にも想像できない、巨大地震が連鎖する「未知の領域」に入ってしまったことを意味する。

 3.11以降、地震の活動期に入った日本で心配されているのは、北から北海道東部沖、宮城県沖、房総沖、震度7の範囲が拡大された東京直下型、それにM9規模の「東海・東南海・南海連動型地震」。また内陸部でも、3.11以後、活断層にかかる力(応力)が大きく変化した結果、思わぬところで直下型地震が起こる可能性がある。
 こうした中、浜岡原発では、現在建設中の津波防波堤を越えるような巨大津波が押し寄せる可能性や、大飯原発がある若狭湾では新たな活断層が見つかるなど、次々に新たな知見も報告されている。巨大地震の連鎖という「未知の領域」に入った日本では、原発についても、よほど慎重に多面的な検証をしないと何が起こるか予測がつかない。

◆原発再稼働の差し止め訴訟は?
 野田政権は今、理屈にもならない理屈を並べて「原発再稼働」に突っ走ろうとしているが、彼らは、今の日本がこうした状況にある恐ろしさを、幾らかでも想像したことがあるのだろうか。これだけ事前に地震学者たちが指摘し、また原発専門家も不十分と言っているのに、政府が安易にストレステストの一次評価だけで再稼働を強行したりすれば、法的にも問題を来すのではないかと思う。そこで、いろいろネットを見ると、今全国で「再稼働差し止め訴訟」が準備されているらしい。

 (素人考えだが)今度の差し止め訴訟は福島事故以前の原発差し止め訴訟と違って、それなりのインパクトを持って来るのではないかと思う。政府が強引に進めて来た再稼働の手続きは、先進国の政治決定とは思えないほどずさんで、重大な論理矛盾を来しているからだ。三権分立の原則から言えば、行政がでたらめをしたら、(国会がダメなので)司法で裁くしかない。
 当然、野田、藤村、枝野、細野、仙谷の関係閣僚の責任をはっきりさせる意味でも、再稼働を決めた時の議事録を公表するべきだと言う意見もある。しかし、ここでも公文書管理担当の岡田副総理は「記録を残す対象かと言えば、多分そうじゃないだろう」などと言っているらしい。(消費税増税のやり方もそうだが)国民に十分な説明もなく、あえて民意の逆をいくことが政治の責任だなどと思い詰めている、今の野田民主党は、ここへ来て何かが狂い始めているのだろうか。

◆巨大地震で心配される別なこと
 話をもどすが、巨大地震の「未知のゾーン」では、いろいろ複雑な問題も起こりうる。例えば、原発との関連で私が最近気になり出したのは、東京湾沿岸の問題だ。巨大地震の時、東京湾沿いの埋め立て地では液状化した地盤が海側に崩れ落ちる「側方流動」現象が起きやすい(「サイエンスニュース」)。
 そうなると、コンビナートの石油やガスのタンク群が壊れて爆発炎上し、場合によっては、流れ出した石油で東京湾が火の海になり、数か月にわたって東京湾が使えなくなる。

 問題は東京湾の埋め立て地に集中している火力発電所である。私はこれも、「側方流動」によって被害を受けると思うのだが、濱田政則早大教授は、(仮に損傷がなくても)「東京湾が一カ月使えなくなったら、首都圏の電力事情が極めて深刻な状態になる」と言う。
 首都圏が未曽有の大災害に陥っている時、そこで使える電力がなくなったらどうなるか。仮に原発を止めていた場合、原子炉内の燃料を冷やすための電力はどこから確保するのか。あるいは、その時止まっていた原発を動かすのか。動かせるのか。だからと言って原発再稼働に賛成するわけではないのだが、もし原発を止めるなら、こうしたことも前もって綿密に考えておかなければならないということである。

◆脱原発にも検討すべき問題が山積
 一口に「脱原発」と言っても、ことほど左様に、検討すべき課題が山のようにある。それは、単に原発なしで電力が足りるか、といった議論ではない。日本の54基をすべて廃炉にするとして、向こう30年から40年、何千人と言う労働者を抱えながら、全く金を生まない原子炉を誰がどのように管理して行くのか。その費用を電力料金に上乗せして既存の電力会社はやって行けるのか。
 やがて増えて来る新エネルギーの電力を誰に買わせるのか。新しく電力会社を認めるのか。その時、発送電分離はするのか。また、現在1万7千トンも溜まってしまった使用済み燃料は最終的にどう処分するのか。日本が脱原発を選択すれば、2兆2千億もつぎ込んでも完成しない再処理工場などは無意味になる。

 これらの議論は、直ちに脱原発に踏み切らないとしても、日本がすぐにも直面する問題ばかりである。原子力発電を始めてから半世紀の間、問題を先送りしてきた結果、原発は日本にとってとんでもなく大きい「負の遺産」になってしまった。私たちはそのツケを払わなければならない時に来ているのである。
 原発を続ける限り、この負の遺産はどんどん膨らんで行く。加えて、書いたような巨大地震の「未知の領域」を考えれば、日本は何とか知恵を絞ってできるだけ早期に脱原発を果たすべきだと言うのが、今の私の考えである。

◆脱原発のシナリオ作りを急げ
 ただし、それでも心配なのは、原発維持か、脱原発かの議論が極めて表面的にしか行われていないと言うこと。枝野経産相の諮問会議である総合資源エネルギー調査会では、原子力発電の割合を0%から35%までに幾つかに分けて議論しようとしているが、議論の立て方が電力需給にだけ偏っていて単純すぎるように思う。
 官僚たちは、原発問題を電力確保や電力料金に絞ろうとしているが、(これまで何度も書いて来たように)単に電力確保の問題ならば、電力会社や経産省が幾ら脅そうと、すでに日本は原子力がなくてもピーク時を含めて乗り切れる体力を作って来た。

 また、電力料金の問題ならば、(原発の新設が考えられない状況では)再稼働しても、せいぜい10年ほど問題を先送りするだけのことである。いつまでもその場しのぎをしていないで、いまこそ抜本的な解決策を検討すべき時なのだが、誰もそれに手をつけようとしない(それともどこかで密かに検討しているのか)。
 当然のことながら、再稼働へ向けての検証と、脱原発に向けての検証はデータの選び方一つとっても全く意味が違って来る。日本は脱原発依存を決めたのだから、ここで腹を据えて、上述したような脱原発への課題や問題をすべて洗い出し、それを一つ一つ評価し、脱原発へのシナリオと選択肢を出来るだけ早く作って、国民に示してほしいと思う。さもないと、原発を巡る議論が、思惑に引きずられる皮相で不毛な議論ばかりになって事態が一向に進まないからだ。日本に残された時間はそう多くはないかもしれない。

「原子力ムラ」の責任は問えるか 12.4.1

◆戦争責任を問うことの難しさと意義
 もう六年前になるが、日本人の戦争と戦争責任について幾つかのコラムを書いたことがある。無謀にも成算なき戦争に国を導き、一旦劣勢になったら後は無策と愚策の連続で国民の命を紙屑のように消耗し、挙句にもう終戦しか選択肢がない段階になっても執拗に戦争継続を主張して、東京大空襲、沖縄、広島、長崎とそれぞれ10万人単位の犠牲者を生んだ。(「日本人の戦争」、「日本人の戦争A」)
 戦争責任問題とは、その責任を誰にどのように問うかということである。戦争当時者たちが諸外国に与えた損害の責任は、戦勝国が裁いた「東京裁判」で一応の決着を見たが、日本国民に対する責任の方は、ついに問われることはなかった。

 日本が戦争当事者の責任を問えなかった理由の一つは、あの時は国民全体が戦争に賛成したではないかなどと「日本人総ざんげ」になったから。そうなると、まるでラッキョウの皮をむくように責任者が消えてしまう。しかし、責任をあいまいにしておくと、無自覚で無責任な連中やその系統が再び息を吹き返し、国民がまた同じような苦しみを味わうことになる。
 それを防ぐためには、たとえ気分的に嫌でも困難でも、日本人自らの手で戦争当事者の責任を追及すべきだった。ただし、これも欲張って当事者全員の責任を問おうとすると悪者が増え過ぎて、巨悪が誰だか分からなくなる。そこで、私なりの大雑把な「責任の線引き」を書いてみたわけである(「もう一つの戦争責任」)。

◆多くの国民を巻き込んだ原発事故、その責任は問えるのか
 さて、同じような問題意識から、福島第一原発事故の責任問題を考えるとどうなるか。この事故では、国土の相当部分が放射能で汚染され、10万人から15万人規模の家族が避難を余儀なくされ、農産物や海産物にも深刻な汚染が広がりつつある。しかも、この先、原子炉の放射能がどうなるか、環境中の放射能による健康被害がどう出るか、天文学的な経済損失が社会に何を引き起こすのか、未知の不安材料も山積している。

 福島第一原発事故は、(前回書いたように)いわゆる「原子力ムラ」の人々の悪質な無作為(人災)によって事故が拡大した。ならば、戦争責任の場合と同じように、責任の所在を明らかにし、その罪を問うことこそ、こうした大事故を2度と起こさないための必要条件だと思うのだが、それは果たして可能だろうか。
 何しろ日本の「原子力ムラ」は年間何兆円ものカネを動かして来た複雑で巨大な社会システムだ。一口に「原子力ムラ」の責任を問うと言っても、法律論もさることながら、何らかの考えで整理しないと、戦争責任の場合と同様、ラッキョウの皮をむくのと同じになって責任者を見失ってしまう。

◆複雑で巨大な社会システム「原子力ムラ」
 いわゆる「原子力ムラ」には、原発の運営に当たる電力会社はもちろん、大手電機メーカーやその下請け会社、ウラン燃料を扱う商社、燃料棒の加工工場、原発の建設や保守点検にあたる関連会社、再処理工場や高速増殖炉などを作っている建設会社などのほか、原子力産業会議や電気事業連合会などの業界団体も含まれる。
 中心には、日本の原子力政策を作って来た経産省や文科省など原子力の監督官庁と、幾つもの政府系外郭団体や研究機関、それらの審議会に入って来た多くの有識者たち(いわゆる御用学者)がいる。中には審議会に参加しながら平気で業界から寄付をもらっていた人も。

 また、当然のことながら電力会社から協力金をもらっている地元自治体、さらには、CM制作や調査を請け負っているPR会社やシンクタンク、電力会社から収入を得ているマスメディア。電力会社出身の政治家や電力会社の息のかかった(献金を受けている)政治家たち。同時に、日本のパワーエリートを自認する政官財の幹部やメディアの首脳陣たちまでが応援団として入っている。
 これらすべてが、巨額の原子力利権を分け合う「原子力ムラ」を構成し、原発存続、再稼働に向けて策を練っている。こうした複雑で巨大な「原子力ムラ」を敵にまわして、人災事故の責任者を絞り込み、その責任を問うのは容易なことではない。

◆徹底的な責任追求こそ、事故の再発に必要
 現在、ネットで調べると原発事故の責任を問う動きは一部で既に始まっている。例えば、反原発で鳴らして来た廣瀬隆氏らは、放射線のリスクを過小評価して小学生の健康を危険にさらしたと言うので、文科省大臣や何人かの科学者を業務上過失死傷罪で、また、未失の故意によって大事故を起こした責任者として原子力安全委員長(前、現)、東京電力幹部、原子力・保安院長などを業務上過失致傷罪で告発している。この他にも、原発差し止め訴訟を闘って来た弁護士らによる「福島原発告訴団」も告訴を検討しているようだ。

 しかし、一方で、法律の専門家からは現段階での刑事告訴の難しさを指摘する声もでている。業務上過失致死傷罪の成立には、過失行為と死傷の結果との因果関係が明確にならないとダメだというわけだが、私の方は法律に全く無知なので、残念ながらこの議論に加わることは出来ない。
 しかし私としては、多くの人が「人災」と言っているこの事故によって、これだけ深刻な被害が出た以上、原因究明と同時に徹底的な責任追及をしてほしいと思う。さもなければ、再び同じことが起きる。特に、最近の「原子力ムラ」の人々の無反省な言動を見るにつけ、彼らの責任をうやむやにすることだけは、やめてほしいと思っている。

◆「原子力ムラ」のスポークスマンたちの言い分と論法
 手元に切り抜いた新聞を見ると、現在、原子力ムラのスポークスマンとして、せっせと原子力エネルギーの必要性、再稼働の必要性を訴えているのは、原子力専門の大学教授や政府系研究機関や民間シンクタンクの研究員たちである。
 彼らは「再稼働しないと電気料金があがり、企業が国際競争力を失う」、「原発をなくすのは手っ取り早いが、それで日本がやって行けるのか」、「原子力は素晴らしい技術。人類がそれを手放すのはもったいない」などという。

 さらには、「コストより安全だと言うが、経済やエネルギー確保の面での大きなリスクを避けるには、安全上のリスクを含むもの(原発)でも使う必要がある」、「どこかで線引きしなければ世の中はなりたちません」などと、事故前に班目(原子力安全委員長)が「だからどっかで割り切るんです」と言って批判されたのと同じことをまだ言っている人もいる(工藤和彦九大教授)。

 彼らに共通するのは、当事者意識の薄さである。(「東大話法」というのが話題になっているが)福島原発事故の現実を傍観者的にしか見ていないので、反省もしない。加えて、自分たちがやって来た分野を手放したくないという身勝手な論理である。建前的に「将来は脱原発が理想」などと言いながら、出来る限りそれを先送りする論法である。

◆本当の敵、責任者を見失うな
 しかし、私は、軽薄な彼らの背後で糸を引いている、もっと悪賢い連中が別にいると思う。それが、現在、東電と熾烈な覇権争いをしている官僚たちではないか。彼らは、東電と一緒になって原子力行政を支配してきたのだから、事故の責任を問われて当然の存在である。しかし、その経産相の役人たちが、東電を悪者にして、原子力を含めた電力全体の支配を目論んでいる。
 いまや経産省(その親分の枝野)が率先して東電をバッシングしていることから分かるように、彼らにとって東電は、世間の怒りを集中させるには都合のいい「いけにえ」になっている。もちろん、東電(特に幹部連中)はバッシングされて当然の存在なのだが、それが、官僚たちの隠れ蓑になっている面も見逃してはならないと思う。原発事故の責任を問う時は、東電幹部と同時に監督官庁の幹部、それに国の原子力行政に深く関って来た有識者たちをまず俎上に挙げなければならない。

 さらにもう一つ蛇足として。今、電力利権を巡っては、東電を支配しようとする経産省、それに横やりを入れようとしている財務省、対抗して自民党に働きかけを強めている東電、その間を調整しようと動いている仙石由人(民主党政調会長代行)、などなど、胡散臭い動きが目立っている
 かつて、東京地検特捜部まで動員して、原発に反対する佐藤栄佐久(前福島県知事)を追い落とすなど、これまでも伏魔殿と言われてきた「原子力ムラ」だが、私たちは余程しっかりと目を見開いていないと、日本にとって真に必要な「脱原発」を見失ってしまう。(ということで、次回は「脱原発の工程表」について)

息を吹き返す「原子力ムラ」 12.3.24

 去年12月16日に野田首相は、福島第一原発事故について「冷温停止状態」という奇妙な呼び方で収束宣言を出した。それ以降、野田の頭の中からは原発事故が姿を消してしまったように見えると、首相側近が「文芸春秋」に書いていた。今、彼の頭を占めているのは消費税増税なのだろう。
 同じ「文芸春秋」の4月号には、渡邊恒雄(読売グループ会長、主筆)が寄稿しているが、その中に野田のことをほめて次のようなことを書いている。
――野田氏は総理に就任した日に電話をかけて来て「『文芸春秋』(9月号)に書いたことは必ず実行しますから」というので、「それなら、僕はあんたを応援するよ」と伝えた――

◆「原子力ムラ」は旧体制そのもの
 野田が首相になる直前に書いたこととは、財政健全化(消費税増税)、日米同盟の深化(普天間の辺野古移転)、そして原発再稼働である。野田はこの既定路線に向かってしゃにむに突き進もうとしている。特に原発問題で言えば、彼は日本の経済界にいい顔しようとすることしか頭になく、一方の日本の保守層はあらゆる機会をとらえて野田を旧体制に引き戻すべくケツを叩く。
 2年半前に民主党が政権交代を果たした時は、こうした政治の転換を期待して、日本の空が一気に青空になったような晴れ晴れとした気分を味わったものだが、あれは一瞬の幻だった。今や、原子力ムラと同質の旧態依然のなれ合い構造と利権による腐れ縁が、再びどんよりと日本の空を覆い始めている。

 私が危機感を持つのは特に原発問題なのだが、野田による「旧システムの再起動」路線はいま確実に原子力ムラを勢いづけている。福島の事故がなお深刻な様相を見せているのに、しかも事故で指摘された欠陥(現時点で30項目)の対策が全く進んでいないのに、安直に原発再稼働を許せば、再び無責任な原子力ムラが復活して、すべてがうやむやになる。祖国を破滅の瀬戸際に追い込みながら、彼らは事故に対して何の反省も痛痒も感じていないからだ。まるで、戦争責任を問われた旧体制と同じように。
 政府が原発再稼働に突き進もうとしている今、原発推進にこだわる原子力ムラの論理とは何か、彼らの責任は問えないのかを、(2回にわたって)書きたい。

◆事故を招いた「人災」の確認
 その前に、(ご存知のことが多いと思うが)福島第一原発事故が人災である理由を再確認しておきたい。去年の4月に、3回にわたって私なりに考えた「原発事故はなぜ人災なのか」を書いた。この時は事故の先行きが見えない中でのコラムだったが、その後の調査で、この原発事故は(影響の大きさから考えると)犯罪的とも言うべき人災によることは一層明白になっている。まとめると次の2点になるだろう。

@ 事前に様々な指摘があったにもかかわらず手を打たなかった
・事故直後、東電や国は「想定外」の津波だなどと言い抜けようとしたが、これは事前に巨大津波が警告されていたにもかかわらず、仲間内で勝手に「想定」を作ってそれ以上の対策を否定した意図的な手抜きだった。
・アメリカのシミュレーションや日本の研究所の計算で、全電源喪失の致命的な危険性が国にも報告されていたのにもかかわらず、原子力安全委員会は、日本では長時間の電源喪失は起こらないとして手を打たなかった。また、冷却水喪失が極めて短時間にメルトダウンにつながると言う事前の情報についても無視した。
・アメリカから事故を起こしたGE社製の「マークT」型原発の格納容器が小さすぎて圧力に弱い、ベントを取りつけるように言われて電力会社がしぶしぶつけたのはいいが、原子炉建屋の空調ダクトと一緒にするという致命的なミスを犯して水素爆発の原因を作った。
・以前から、炉内の水位を測定する水位計の欠陥が指摘されていたにもかかわらず、改善を怠ったために水位を誤解し、事故後も燃料が冷やされていると思い込んでいて、メルトダウンを見逃した。などなど。

A 「過酷事故」時の対策を全く考えて来なかった
・多重防護という安全神話に胡坐をかいていて、安全神話が崩壊する「過酷事故」が起きた時の対策を全く考えてなかった。例えば、電源車が来てもコンセントが合わないなどの初歩的ミス(GE社製のため電圧が違うなど)、ポンプ車が来ても冷却水がない、などの混乱が事故を拡大した。
・何より、国家非常時における指揮命令系統、国の各機関(官邸、安全委員会、安全・保安院など)の関係、国と電力会社の役割分担が全くできておらず、適切な事故対応が出来なかった。現地の事故対策室(オフサイトセンター)も、放射線防護策が考えられてなかったために、現地対策室はすぐに福島市まで引き上げざるを得ず、情報の大混乱につながった。
・2006年、原発事故時の防災計画を国際基準並みにしようとした原子力安全委員側の提案に対して、経産省の原子力安全・保安院の広瀬研吉保安院長が「寝た子を起こすな」と強く反対して導入が見送られた。
・こうした悪質な怠慢の結果、放射能が漏れ出した後の避難指示、放射能影響予測(SPEEDI)の活用、甲状腺がんを防ぐためのヨウ素剤の配布など、
すべてが後手にまわったこれは、国民の健康被害に深刻な影響を及ぼす可能性がある。

◆事故後も続く、原子力ムラによる人災
 以上は、(推進と規制の組織を同じ経産省の中に置いて)反対論や異端分子をあらゆる手を使って排除しながら、慣れ合いの中で原子力を進めて来た人々による人災である。私は刑法に全く無学なのだが、これだけの被害を出した以上、福島原発事故の刑事責任を問う動きがあるのは当然だと思う(福島原発告訴団)。
 しかも現在は、国の前のめりの「収束宣言」が、根拠のない楽観論に結びついて取るべき対策を遅らせている。事故の過小評価と情報の隠ぺい、びほう策(一時的な取り繕い)による時間稼ぎ。これらが将来の被害につながる可能性も指摘されているが、その意味で
原子力ムラによる人災は今も続いている

・例えば、最も懸念されている4号機の使用済み燃料プール。事故後、東電は国に言われて補強工事をしたが、プールの耐震性は本当に大丈夫なのか。ここには、厚さわずか4ミリのステンレス製のプールに1500本という膨大な使用済み燃料体(燃料棒の集合体)が入っていて、プールが破損したら全くなすすべがない。致死量の放射能が首都圏まで飛んで来る。
・国は膨大な税金を投入して、東京23区より広い面積の放射能除染を行おうとしているが、その現実性をどこまで本気で考えているのか。また、仮に除染によって(帰宅を認められる)年間20ミリシーベルト以下になっても、その基準は将来の健康被害を引き起こさないのか。

◆ストレステストの欺瞞性と原子力報道のスタンス
 問題は現在、国が原発再稼働を目指して進めている大飯原発のストレステストの1次評価。これは、まだ事故の検証も始まらない去年の7月に政治的妥協で決まったもので、3.11のような津波と地震、電源喪失についての対策(@の中の僅か2項目)でしかない。原子炉がメルトダウンした時の対策(A)などは2次評価の方だし、事故調査の途中で明らかになった改善点30項目にいたっては、法律を改正しなければならないので、来年まで待たなければならない。
 どう考えても、1次評価などは(ないよりあったほうがまし、という程度の)お粗末なものに過ぎない。内閣府の班目(まだらめ)原子力安全委員長までもが「一次審査だけでは不十分」と言っているのに、野田が思い込みの「政治判断」で再稼働を決めたりすれば、それは原子力ムラだけに通用する悪い冗談であり、(万一実現すれば)人災の最たるものになるだろう。

 その一方で、原発再稼働に向け息を吹き返しつつある原子力ムラはこうした政府の動きを大歓迎。放射線被ばくの影響について報道したNHK番組にいちゃもんをつけたり、夏の電力不足や電力料金の値上げの苦しさを訴えたりと、キャンペーンに余念がない(次回に詳しく)。原発推進の立場をとる読売も今日の社説で政治決断を促している。
 ワンマン渡邊主筆に逆らえない読売は論外として、他のメディアも物足りない。大方のメディアは、まずは1次評価があたかも評価に値するかのような意見を紹介し、その後でそれでは不十分という声もあると、両論併記に逃げ込んでいる。報道機関として何を考えているのか、そのスタンスが感じられない。

 それが客観報道というものだとすれば、報道機関としてあまりに説得力がなくはないか。日本は人類史上最悪の原発事故を経験しつつあって、その全容はまだ明確になっていない。こうした状況で、国民の信頼に応えるために原子力報道はどうあるべきか、ということである。(いろいろ難しいことはあるにせよ)今や日本の報道機関も、どこかで原子力報道(さしあたってストレステストのお粗末さ)に関して明確なスタンスを決めない限り、報道機関としての信頼を保てないところにまで来ているのではないだろうか。(本論の「原子力ムラの論理とその責任」については次回に)

「低線量放射線被ばく」の影響 12.3.9

 福島第一原発事故によって東北から関東一帯に放出された放射能は77万テラベクレル(1兆の77万倍)。これはチェルノブイリ原発事故(1986年)で放出された520万テラベクレルの7分の1だ。しかし、以前にも書いたように日本の77万テラベクレルは、ヨーロッパ全体に拡散したチェルノブイリに比べれば相当狭い面積(私の概算では25分の1*)に降下したので、場所によって汚染量はチェルノブイリを超えるだろう、というのが私の推測だった。*3月に文科省が8分の1という数字を出したが、これは148万ベクレル以上/uの範囲だけを比較した数字要するに居住禁止区域が8分の1ということ。

◆チェルノブイリとの比較
 事実、(その後分かってきたことだが)チェルノブイリで居住禁止とされる、放射能が1uあたり148万ベクレル以上のところは、福島県内で(東京23区の面積に匹敵する)600平方キロに及んでいる。しかも、原発近くの浪江町や双葉町、飯館村などでは1uあたり300万ベクレルを超えていて、これはチェルノブイリの2倍以上だ。
 さらに、チェルノブイリで移住必要区域とされる15万〜55万ベクレル/uの汚染地域は、原発から80キロ離れた福島市や郡山市にまで及び、軽度の汚染地域である5万〜15万ベクレルに至っては千葉、群馬など首都圏にまで及んでいる。こうした日本の汚染地域には、チェルノブイリ地区よりはるかに多くの人口(人口密度で15倍)が住んでいる。(*1)

 東北、関東に拡散した膨大な量の放射能が、
これから長期にわたって私たちにどのような影響を及ぼすのか、これはまだ誰にも分からない。本当は、事故から25年経った今、チェルノブイリで何が起きているのか、特に日本と同じような汚染地帯で何が起きているのか、被ばく量と症状の疫学的研究が分かれば一つのヒントになると思うのだが、これが一筋縄には行かない。
 というのも、(後述する)海外の科学者たちが指摘するような深刻な症例については、その科学的根拠や疫学的評価について疑問や批判がある一方で、本当のところを取材しようとしても、肝心のベラルーシ共和国では独裁的なルカシエンコ大統領が「わが国にチェルノブイリの被害はない」と宣言し、医療現場の取材に圧力をかけているからだ。現場の医者たちも一様に口をつぐんでいる。

◆「低線量放射線被ばくの影響」世界を二分する論争
 それでもネット上の文献や資料を詳しく調べていくと、チェルノブイリ原発事故による長期間の「低線量放射線被ばく」の影響については、今、世界を二分する論争が起きており、日本でも同様の論争が政府の放射能対策を巡って続いていることが分かる。
 事故後一カ月余りたった去年4月15日、日本政府は「チェルノブイリとの比較」という官邸ホームページを発表した。これは一言で言えば「チェルノブイリでは原発内で被曝して急性の放射線障害で亡くなった作業員と、汚染された牛乳を飲んで甲状腺がんになった子どもがいるが、これらを除いて住民の健康に影響は認められない。」、「従って、チェルノブイリより被ばく量が小さい福島では放射線の影響は起こらない。」という驚くほど楽観的なものだ(長瀧重信、長崎大名誉教授)。

 この時、用いられたデータはWHO(世界保健機構)、IAEA(国際原子力機関)
などのデータだが、その後も日本政府による様々な放射能対策(*2)には、基本的にはICRP(国際放射線防護委員会)も含めた、こうした国際機関のデータが使われている。
 しかし、ご存知のように、こうした国際機関に対しては原子力産業寄りだと言う国際的な批判があり、例えば、チェルノブイリでの症例を研究してきた海外の科学者団体IPPNW
(核戦争防止国際医師会議)からは去年4月と5月に、それぞれ「官邸ホームページは間違っている」、日本政府の「子どもたちの被ばく許容量は危険だ」、と抗議されている(年間20ミリシーベルトは、その後改善)。(*3)

 国内でも論争が続いている。例えば、先の「チェルノブイリとの比較」(官邸)は、民間の医師(松崎道幸)からコテンパンにやられているが、その一方で、山下俊一(福島県立医科大学副学長)などは「100ミリシーベルトまで放射線を浴びても大丈夫。今まで通り子供を外に出して下さい」などと言って、「Mr.100 ミリシーベルト、原子力ムラの御用学者」などと揶揄され抗議されながらも、頑なに行政寄りの言動を続けている。しかし、今のところ政府の放射線対策を立案している専門家グループが、内外からのこうした批判に配慮する気配は全く見られない。本当のところはどうなっているのだろうか。

◆IPPNW(核戦争防止国際医師会議)の報告書
 チェルノブイリ事故から25年後の2011年、日本政府の楽観論を一気に吹き飛ばすほど衝撃的な内容を持った分厚い報告書が公表された。現在、ネット上に公開され翻訳が進んでいる「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の報告書」だ。報告書は2種類。300ページに上る「チェルノブイリ事故の人体への影響」(翻訳が進んでいてこの夏、岩波書店から出版予定)と、60ページの「チェルノブイリの健康被害、原子炉災害の25年後」(IPPNWドイツ支部版)である。

 (まだ一部だが)これを読むと、チェルノブイリの影響は時間が経過するに従ってますます深刻になっているように見える。増加する甲状腺がん、乳がん、子どもの脳腫瘍、血液のがん、前立腺がん、などの様々ながん。また、遺伝子の異常による奇形児(先天異常)、免疫力の低下など、影響は広くヨーロッパ地域にまで及んでいる。
 特に、ウクライナでは避難者のうち、健康な人の割合が事故後9年の間に59%から18%まで低下。がんにならなくても(非がん性疾患で)「実質的に健康と言えるこども」の割合が減り続けているという。

 このIPPNWの報告書は、(彼ら自身に言わせれば)「チェルノブイリが人々の健康と環境に及ぼした悪影響に関するデータ」を、最も広く包括的に集めたものだという(*4)。そして、当然ながら、彼らは日本政府が頼りにしている国際機関(IAEAとWHO)のデータについても間違いを指摘し、それが訂正されていないと厳しく批判している。
 ドイツ支部版の結論は、「福島の原子力事故によってもたらされる苦難は、(チェルノブイリと)同等の規模であり、将来的に同様の展開となることは予想される」というものだ。IPPNWは去年8月22日、菅総理に対し、詳細な汚染地図の作成、被ばく総量(外部被ばく、内部被ばく)に基づく管理体制の徹底などを要望している。福島原発事故の影響は国内よりもむしろ海外の科学者から重大な懸念が寄せられている。

◆「低線量放射線被ばく」の影響・5つの論点
 この他、ネット上にはチェルノブイリ原発事故の様々な情報(文献も映像も)が溢れている。中には、ぎょっとするような奇形児(先天異常)の報告もあって暗澹とした気持になる。事故後25年経ってもその影響は終わることなく、かえって静かに広がっているのではないかとさえ思えてくる。
 日本は狭い範囲とはいえ人口の多いところに、チェルノブイリと同レベルの汚染を抱えている。今の段階で素人の私には、「日本政府、原子力ムラの専門家」対「憂慮する科学者たち」の、どちらが正しいかは分からない。しかし、私はここで、以上のような資料を眺めながら、「低線量放射線被ばくの影響」に関して、自分なりに整理した「5つの論点」をあげておきたい。(*5)
 政府には、国際的な科学者たちも指摘している
この「5つの論点」謙虚に向き合いながら、国民の健康管理について、長期計画で取り組み、正確な情報を世界に逐一公開する体制を作ってもらいたい。それが、世界最悪レベルの原発事故を起こした日本の世界に対する責任であり、私の要望。子どもを持つ父兄も同じ気持ちだろう。マスメディアも父兄の不安に寄り添いつつ継続的に監視して行ってほしい。

5)5つの論点
@ がんの発生が認められるのは、生涯被ばく100ミリシーベルト以上というが、100ミリシーベルト以下の場合の影響は無視していいのか。(閾(しきい)値の有無)
A 低線量放射線被ばくの影響は「がん」だけか。現在は、がんだけが言われているが、チェルノブイリでは様々な「非がん性疾患」が指摘されている。
B 除染による避難解除の目安を年間20ミリシーベルトにしているが、それと生涯被ばく100ミリシーベルトとの整合性をどう図るのか。特に放射線の影響を受けやすい子どもたちへの影響をどう考えるか。
C 政府の基準は、外部被ばくと内部被ばくを同等に扱っているが、それでいいのか。もともとICRPやIAEAの基準は、広島、長崎の被曝研究から導かれたものだが、これを内部被ばくに当てはめるのは無理があるのではないか。
D 積算被ばく量が同じである時、一時的な大きな被ばくと、長期間に低線量の被ばくを蓄積するのと、同じに考えていいのか。

1)チェルノブイリの汚染地図と日本の汚染地図を正確に比較することは、なかなか難しい。(日本はベクレル、向こうはキューリーと)単位が違っているからだが、これを換算して色分けも縮尺も合わせて分かりやすく見せてくれるサイトがあるので感じがつかめる(「早川由紀夫の火山ブログ」)。
2)住民の避難指示、除染計画とそれによる避難区域の見直し、食品の暫定規制値、住民の健康調査など
3)IPPNWは1980年創立。全世界63カ国の医師団体と2万人を超える医師で構成。1985年ノーベル平和賞受賞。
4)2005年にIAEAやWHOが取りあげた英文の文献は350点。それに対し、IPPNWは文献リスト1000本、スラブ系言語の5000の印刷物を内容に反映

議事録不在は何を意味するか 12.3.1

 2月28日、民間の福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)が当時の関係者300人から聞き取りして作成した調査報告書を公表した。原発事故直後から官邸が半ば機能不全に陥った原因について、危機管理に対する日頃からの準備不足、原子力安全委員会や原子力・保安院が全く機能しなかったこと、官邸と東電や専門家との間の不信の連鎖、菅首相のリーダーシップの功罪などについて指摘している。
 この報告書が示唆している問題は様々だが、中でも浮き彫りになったのが
事故直後の官邸の深刻な危機感である。

◆危機感は共有されているか
 3月14日に福島第一原発の吉田所長から「炉心の溶融が進み、燃料が溶け落ちる可能性が高まった」という連絡が入る。その時、枝野官房長官(当時)は「核燃料が露出する状態が続けば、多くの放射性物質が漏れて作業員が立ち入れなくなる。近くの福島第二原発など、ほかの原発にも影響が広がって最終的には東京でも避難が必要になるという『悪魔の連鎖』が起きるおそれがあると思った」という心境を明かしている。

 この危機感は、3月13日に私が「最悪に備えてあらゆる対策を」に書いた内容と殆ど同じ。枝野のその時の危機感が、現在の(まあ、どこまで頑張りきれるか分からないが)東電に対する厳しい注文や、原発再稼働に対する慎重さにつながっているに違いない。しかし一方で、当時の政府中枢の危機感は今どのくらい国民に共有されているのだろうか。枝野の感想をもとに、NHKが街頭インタビューをしていたが(東京まで避難範囲に入ると聞いて)「え!そうだったんですか?」というのが答えだった。

 民間事故調の聞きとりでは、誰かが「やはりこの国には神がいた」と言ったそうだが、国家の破滅が避けられたのは奇跡的という現実。劣化した原子炉の崩壊によるさらなる放射能漏れなど、この先に憂慮される事態。まだ分かったのは一部に過ぎないが、福島で指摘された構造的欠陥は他の原発にも共通なこと。これから現れるかもしれない長期にわたる低線量放射線被ばくの影響。そして、除染作業の困難さ。
 このように、原発事故の危機はまだまだ終わるどころではないのに、原発事故に対する危機感が国民全体に共有されずに、今や何となく風化しているようにさえ見えるのはなぜか。それは、国民が事故の真相から遠ざけられているからであり、政府の意図的な楽観論に惑わされているからに他ならない。

◆議事録がないことの重大さ
 情報が隠されているという意味では、震災直後から政府に設置された「原子力災害対策本部」での会議の議事録が全く残されていない、という事実も同様。聞いた時には開いた口がふさがらなかった。官僚機構に詳しい友人は、「役人がメモを取っていないことなどあり得ない。記録はどこかにあるはずだ」というが、その後の調査ではどうも本当らしい。信じられないことだが、国家存亡の時と言ってもいい経験をしながら、災害対策本部なども含めた15の対策本部のうち10の会議で、その時の国家中枢の議事録がない

 NHKの報道(1月22日)をきっかけに、民主党の岡田副総理は事後でもいいから2月中に概要を作るよう指示したが、間もなく公表される「概要」は実際の生々しいやり取りとは似て非なるものに違いない。概要が出たら、メディアはまた政府や官僚たちの救い難い劣化を書きたてるだろうが、議事録がないことの意味は想像以上に深刻だと思う。

◆歴史の検証に耐えられない
 議事録不在の意味を考える時に、私が思い浮かべるのは日本が無条件降伏を決めた1945年8月9日と14日の御前会議(最高戦争指導会議)の事細かな記録である。この中には、敗戦を目前にした閣僚、軍人たちの白熱した議論、天皇がついに自分の意見を述べるくだりなどが、肉声を聞くように逐一記録されている(*)
 基になったのは、出席していた海軍軍務局長ほかの記録。戦争末期の大混乱の中でも、記録を残していた官僚はちゃんといたわけである。御前会議のこの記録は正式な議事録ではないというが、記録が残っていたおかげで、終戦に至る経緯も歴史上の教訓も、様々な角度から検証され民族の歴史として後世に引き継ぐことが出来る
 「聖断 天皇と鈴木貫太郎」半藤一利、「宰相 鈴木貫太郎」小堀桂一郎

 しかし、今回の大震災の場合は、多くの会議で議事録も官僚の記録もないために、歴史の検証に耐える第一級の資料を永久に失ってしまった。チェルノブイリと同等の人類史上最悪の原発事故を起こしながら、その詳細な記録を歴史の教訓として残すことが出来ない。
 現在、原発事故の調査委員会には政府、国会、民間の3つが動いているが、議事録がないことが分かって、国会事故調(黒川委員会)の方は、報告延期に追い込まれている。依然として、ことの重大性を分かっているようには思えない政府だが、この空白を埋めるためにはどうしたらいいか、余程真剣に考えなければならないと思う。

◆危機感の国民的共有が出来ない
 議事録がないことの深刻な影響はもう一つある。当時の生々しいやり取りを記録した議事録があれば、国民はそれを繰り返し様々なメディアを通じて知ることが出来る。事態がいかに危機的だったか、国民全体に正確な危機感が共有されるだろう。
 私が思うに、その人の「原発に対する姿勢」は、あの危機をどれだけ現実のものとして想像し感じたかによって決まって来るのではないか。それは、ある意味、戦争を体験した人々が持ち続けた「不戦の誓い」と同じような、「理屈を超えた確信」に近い。そして、その確信は悲惨な現実を繰り返し知ることによってのみ歴史の風化をまぬがれる。

 しかし、議事録がなければそうした繰り返しもならず、国民の間で危機感を共有することも出来ない。結果、国民の原発に対する意識はバラバラになり、分断に追い込まれる。それは、原発再稼働を目論む人々にとっては都合のいい状況かもしれないが、それでいいのだろうか。
 脱原発のような重要政策を選択する時には、(ドイツのように)国民的議論が必要であり、国民は知るべき情報から遠ざけられてはならないはずだ。以上のような文脈で考えると、仮に議事録が公開された時のインパクトは極めて大きいだろうし、また、議事録が永久に失われたことの重みが想像できると思う。

◆日本は巨大システムを管理できない?
 ところで、関係者300人へのインタビューを基にした民間事故調の報告書からは、官邸、専門家(原子力安全委員会)、規制機関(原子力・保安院)、東電のそれぞれの役割分担がはっきりせず、それが大混乱を招いた様子が浮かび上がる。メディアの関心も、各人の能力やリーダーシップなどに向きがちだが、実は「真の問題」はそこにあるわけではない。
 それは、最近公開された(福島原発事故対策を議論した)アメリカのNRC(原子力規制委員会)の3000ページに及ぶ議事録を見ても分かる。そこには、国家としての危機管理の思想と関係機関の機能分担が明確に反映されている。

 アメリカにあって日本にないもの。それは原子力やNASAといった「巨大システムを管理運営する思想や体制」そのものだと思う。議事録一つとっても、アメリカと日本とではよって立つ思想が違う。政財官による閉鎖的な原子力ムラを作って異なる声を排除し、持たれ合いの中で原子力を運営して来たことを考えると、日本は果たして原子力のような巨大システムを管理できるのか、と考えざるを得ない。
 さらに大げさに言えば、政治も官僚機構も劣化し、代替機能がない中でいよいよどん詰まりになった「戦後日本の構造的欠陥」。それが今回の原発事故によって露わになったのではないか、とも思う。このことは、より深くて広がりのあるテーマなのでまた回を改めて書きたい。

理念なき「国家経営」の時代に 12.2.19

 会社は法人だが、そこには大きくなりたい、もっと儲けたい、生き残りたい、という、ある意味で動物の生存本能のような、目に見えない「法人の意志」が働いている。規模が大きくなればなるほど、またグローバル化すればするほど企業は熾烈な競争にさらされ、生き残るための「法人の意志」をむき出しにして行く。経営者も従業員も無意識のうちにそれを絶対と思いこみ、奉仕することが善だと考えるようになる。

 しかし、「法人の意志」(「資本の論理」と言い換えてもいいが)は、人間社会の倫理などとは無縁の、市場原理に勝ち抜くことだけをめざす意志である。従って、経営者は日々「会社は何のためにあるのか」、「自分は何のために会社を経営するのか」を問い続けていないと、自己を律すべき経営理念や価値観を見失い、「法人の意志」に沿って喜々として「倫理なき経営」に走ってしまう。
 これが前回書いた「理念なき会社経営の落とし穴」の要約。今回はこの「会社経営」の問題を、(野田や前原などがめざす)「国家経営」に置き換えて考えてみたい。国家にも目に見えない「国家の意志」があるのか。倫理なき「国家の意志」に支配されないためには何が必要なのか、ということである。

◆「国家の意志」に操られる倫理なき「国家経営」
 もちろん近代国家になってからの話だが、国家にも目に見えない「意志」が働いているように思う。それは一言で言えば「大国になりたい」という欲求。戦前なら軍事的、経済的、領土的に大国をめざす。軍事的、領土的な意図を放棄した戦後は、経済大国をめざす。それが明治以降の日本を陰で支配して来た「国家の意志」だと思う。
 しかも、「法人の意志」と同じように、この「国家の意志」も人間社会の倫理を超越した存在であり、目的達成のためには国際社会のルールも国民の幸福も平気で踏みにじることがある(今の中国を見ると何となくわかる)。そのことを日本の戦前と戦後で見てみる。

 明治期の「国家の意志」がめざしたのは富国強兵。それでもこの時期においては、世界の列強になりたいという「国家の意志」と、一等国になって豊かになりたいという国民の幸福は辛うじて一致していた。しかし、大正から昭和に入ると「国家の意志」は、国民の幸福を踏み台にしてひたすら軍備を拡大し、中国大陸への進出(侵略)をめざすようになる。
 そして「国家の意志」を体現する国家主義者たち(軍部、政治家)が、熱に浮かされたように仮想の大東亜共栄圏構想に突き進み、国民の方もその仮想に乗せられた。自己の強大化をめざす「国家の意志」は、軍部と国民を倫理なき「国家経営」の熱狂に巻き込み、結果として、アジアの人々や日本国民を悲劇のどん底に突き落として破綻したのである。

 戦後の日本はどうか。軍事的、領土的拡大の道を閉ざされた「国家の意志」が次に向かったのは、経済大国になること。これも高度経済成長期までは、(公害や過疎化など様々な問題を抱えてはいたが)豊かになりたいという国民の希望と概ねは一致していたと思う。しかし、この「国家の意志」も倫理と無縁の性格ゆえに、すぐに欲に目がくらんで暴走し始める。
 アメリカに仕込まれた投機的資本主義に染まって、日本列島全体を投機の対象にした土地バブルを作り、やがて一気に破綻した。この間、政府も民間も経済大国を志向する「国家の意志」に踊らされ、本気でGDPでアメリカを追い抜き、アメリカを買い占めるなどと妄想していたわけである。

◆「国家の意志」に対抗する「国家の経営理念」はあったか
 こうした度重なる「国家の意志」による破綻は、なぜ止められなかったのだろうか。それは、「会社経営」のところでも触れたのですでにお分かりのように、暴走する「国家の意志」を制御すべき、健全で正しい「国家経営の理念」がなかったからだと思う。それがあれば制御できた筈なのに、明治以降の日本は大体においてそれがなかったか、あるいは間違っていた。
 戦前、植民地を棄てよと言ってただ一人、日本の膨張主義に反対の論陣を張ったジャーナリストの石橋湛山。彼の考えの根底にあったのは平和主義であり、平和主義でも守って行ける「小日本主義」だった。これこそが、当時の日本に必要な「国家経営の理念」だったはずである(「戦う石橋湛山」)。

 倫理なき「国家の意志」に対抗するには、人類が積み上げて来た守るべき価値(人道主義、民主主義、平等主義など)の上に国民の幸福を据えていくという、正しい「国家経営の理念」を打ち立てなければならない。それが出来なければいつの世も、政治家たちは状況に流されて、危うい道を選択してしまう。
 (丸山眞男はこれを歴史の流れにうまく乗ろうとする歴史主義と言ったが)「バスに乗り遅れるな」とばかりに、日独伊三国同盟を結んで大陸侵略に乗り出したり、(現在のように)成長神話を引きずったTPP参加や原発推進、原発輸出に血道をあげたりしてしまうのである。

◆野田と前原の裏切りと危うさ
 さて、あのバブルの崩壊から既に20年。かつて松下幸之助から「政治は国家の経営であります」と教わった松下政経塾出身の野田(首相)や前原(政調会長)は今、どんな「国家経営」をしようとしているのか。失われた20年の中で、彼らは果たして「国家の意志」に対抗できる、明確な「国家経営の理念」を見つけることができたのだろうか。

 折しも世界は、ソ連邦の崩壊やイラク戦争を経て、共産主義やそれに対抗したアメリカのネオリベラリズムが弱体化し、イデオロギーの空白時代を迎えている。その中で、どの先進国でも政治家やエリート層が依拠すべき価値観(イデオロギー)を失い、(国家の目標を作れずに)国家のかじ取りをする意欲を失っているという(エマニュエル・トッド「自由貿易は、民主主義を滅ぼす」)。
 由々しきことだが、これが日本も含めた先進国共通の問題。そういう状況の中で、さらに恐ろしいのは、経済危機後、様々な問題が明らかになったにもかかわらず、政治が従来のシステムを再起動させようとする動きだという。これは様々な問題を先延ばしするだけで、より一層大きな破綻を招くことになる。

 私は、今の野田政権もまた、明確な「国家の経営理念」を持てないまま、かつての経済成長路線を再起動させようとしているのだと見ている。(バブル崩壊とリーマンショック、それに福島の原発事故という)三度の破綻を経てもなお、何の反省もなく成長神話にしがみついて失敗の路線を走ろうとしている。
 問題なのは、その野田や前原たちと手を汲もうとしているのが、倫理なき「法人の意志」に従うグローバル企業の経営者であり、「国家の意志」に奉仕して来た財務省などの官僚機構(一部の御用学者も)だということ。(少子高齢化時代の今もなお)成長路線にこだわる彼らには、「国民の生活が第一」という民主党のマニフェストなどは関係のない話である。

◆問われる民主主義
 野田政権が進めようとしている「従来のシステムの再起動」は、成長神話という「国家の意志」への奉仕に他ならない。それは再び破綻するに違いないのだが、私個人としては、この難しい状況の中でも、日本は国民の幸福を第一義に据えた、正しい「国家経営のビジョン」を何とか作るべきだと思っている。正月以来、(稚拙ではあるが問題提起のつもりで)いろいろ書いて来たのもそのためである。
 そうしなければ、一部の富裕層と国民大多数との格差はますます広がり、その不満のはけ口が思わぬ方向に向かって暴発する危険がある。そうなるとまた(あの戦争のように)多くの人々を不幸に巻き込むことになる。最近の中東からEU、ウォール街までの動きを眺めると、時代はより不安定な方向へと不気味に動いているように見える。日本だけは例外といつまで言っていられるだろうか。

 日本が(心配されているような)国家の破局を避けるにはどうしたらいいのか。野田や前原に期待できないとすると、国民にはどういう選択肢が残されているのか。様々な新しい政治の胎動も起き始めている今、(世界もだが)日本はまさに、戦後民主主義のあり方そのものが問われる時代に入りつつある。その時はまた、メディアも大きな岐路に立たされることになるだろう。(松下政経塾の「国家経営」から話が大分進んでしまったが、続きはいずれ回を改めて考えて行きたい。次回は放射能の問題を)

理念なき「会社経営」の落とし穴 12.2.12

◆「紙一重」だった日本の破滅
 日本原子力発電会社が経営する東海第2原発は、茨城県の津波想定の要請に基づいて2010年9月に防波堤を4.9mから6.1mにかさ上げした。翌年の3月11日に押し寄せた津波は5.4mで大浸水は辛うじて逃れたが、まだ一部工事中の防波堤の穴から海水が浸水。外部電源喪失の中、非常用ディーゼル発電機が1台、海水ポンプも1台が使えなくなった。
 機器をやりくりしながらやっと3日半かかって冷温停止に持ち込んだが、もし、防波堤のかさ上げが半年遅れたり、津波があと1m高かったりしたら、東海第2も福島第1原発と同じく炉心溶融を起こしていたかもしれない。

 同じようなことは、福島第2原発でも起きていた。ここには4基の原子炉があったが、外部電源が一系統だけ残ったこと、非常用電源も一部残ったこと、それに平日で2000人の作業員がいて仮設ケーブルを突貫工事で引けたことなどが幸いして4日後に冷温停止、第一原発のような大事故を免れた。「紙一重だった」とは、最近会見した所長の感慨だが、聞かされたこちらもぞっとする話である。

◆電力会社に「脱原発」が期待できないわけは?
 福島第一原発事故が幾つかの偶然によって(まだ予断は許さないが)現在程度に収まっていることもそうだが、あの時、日本は壊滅の危機に瀕しながら、なお幸運の女神に護られていたと言えるのではないか。現場で懸命に取り組んだ原子力関係者は身にしみてそのことを感じているはずである。

 しかし、原発の危険性を思い知らされた社員個人がどう思おうと、電力会社は今も原発推進の姿勢を崩していない。(建設後34年経過の)老朽化した東海第2原発に対しては現在、再稼働反対、廃炉に向けた活発な市民運動が続いているが、運動に参加している知人がこんなことを書いている。
「電気卸業者の日本原電は、その名前のとおり原子力発電だけを生業としている。会社の存立がかかるため、なんとしても再稼動しようと努力するだろうから、言ってみれば、非常に危険な性質の会社ではないか」
 全くその通りで、扱っているものが幾ら危険と分かっても、電力会社の方から脱原発を言い出すことはあり得ない。これは一見当然のようだが、考えてみれば実に迷惑な話である。何故こういうことになるのか、私が考えた(屁?)理屈は次のようなものだ。

 会社は法人というが、そこには事業を拡大して、利益を最大化するのを何よりも優先する、目に見えない「法人の意志」が働いているように思う。しかもこれは、個々の社員を超越した存在であって、経営者でさえも無意識のうちにその意志に支配されてしまう。反抗すれば首になってしまうからだ。法人を監督する「会社法」という法律もあるが、これは最低限の縛りに過ぎず、株主や労働組合も、大抵の場合この「法人の意志」の前には無力。

 従って、事業存続が問題になるような時には、それがいかに無道なものであっても(法律に触れない限り)NOと言う力は存在しない。つまり、原発がいかに危険で、万一事故を起こせば社会に大迷惑を及ぼすことが分かっていても、こうした「法人の意志」の支配下にある電力会社が、自発的に脱原発を言い出すことは期待できないのである。

◆経営者に大事な価値を忘れさせる、目に見えない意志
 大きくなりたい、もっと儲けたい、生き残りたい、という「法人の意志」は、言ってみれば動物の生存本能のような、人間社会の善悪を超えた欲求である。本来は人間社会と適合するように飼いならすべきものだが、これに経営者が支配されると時に企業犯罪にまで走ってしまうことがある。最近のオリンパスの損失隠しも、(経営者たちの保身もあったろうが)莫大な損失が明るみに出て会社存続が危うくなるのを避けようとする「法人の意志」が働いた結果ではないか。
 経営者本人は(上から目線で)会社のかじ取りをしているつもりでも、油断していると「法人の意志」と同化して、何故会社を経営しているのか、という大事な価値を忘れてしまう。「法人の意志」に操られているのに気がつかない。これが「会社経営」の落とし穴なのだと思う。

 こうしたことは、原発に固執する電力会社だけの問題ではない。国内の従業員を簡単に見捨てて海外に生産拠点を移す。自分たちだけに都合のいい輸出入政策(TPP)を政治家に働きかける。安い電力を求めて原発の再稼働を要求する。そういう大企業の経営者も同じように、ただただ繁栄したいという「法人の意志」に支配されているのだろう。
 「法人の意志」は、経営者の意識下に潜り込んで彼らを操つり、それに寄り添うことが善だと思いこませようとする。そうなると、(かつて松下幸之助が言っていたような)日本社会や従業員の幸福への貢献などという企業理念は忘れ去られてしまう。経営者たちは口では、日本のため、日本経済の成長のためになどと言いながら、企業利益の最大化だけが優先して「何のために経営するのか」、「何を大事にするのか」と言った大事な価値観を忘れているのである。

◆メディアも例外ではない
 同じことがメディアについても言える。メディアも今や企業存続が不透明な時代。その中で、メディアも生き残りを図るために、事業の多角化、拡大、視聴率(NHKで言えば接触率)アップに血道をあげている。「法人の意志」に支配された経営者が「何のためにメディアを経営するのか」という根本理念を忘れるからである。
 民間から来た経営者が中枢(経営委員長、会長、放送総局長)を占めているNHKも例外ではない。特に「法人の意志」に同化しやすい彼らは「NHKは何のためにあるのか」という大事な使命が分からない。(聞くところによると)受信料の収納率や値下げ問題ばかりが関心事の彼らのもとで経営目標(数値目標)が作られ、上を見る社員も次第にそれに染まって行く。放送の現場では接触率を上げよという掛け声が大きくなり、結果、(この大事な時期に)ドキュメンタリーも含めて多くの番組が「30代、40代の女性視聴者を獲得せよ」などと言っているという。

 もちろん、こういう困難な状況の中でも使命感に燃えていい番組を作っている人々はNHKにも民放にも沢山いる。私なども時々頭が下がるような番組に出会えて嬉しくなる。しかし、それを超えて深刻なのはジャーナリズムや放送文化の奥深さについて、殆ど考える機会のなかった民間企業の経営者がいきなりメディアの中枢を占めるという異常事態である。その中で、いつの間にか(民間企業の場合と同じような)「法人の意志」が社員の意識の中にもじわじわと浸透しているのではないかと心配になる。

◆国家経営の落とし穴
 さて、原発問題から思わぬ方に話が行ったが、実はこうした「会社経営」の落とし穴を書こうと思ったのは、その理屈を「国家経営」にまで広げようと思ったから。前回、私は(野田と前原の「国家経営」)で、上から目線のエリート政治家意識で行う「国家経営」がなぜ時として「倫理なき政治」に結びつくのか、その論理はまだ十分解っていない、と書いた。これを考えようと思っていたのである。

 つまり、上に書いたような「会社経営」の理屈を「国家経営」に当てはめるとどうなるか、ということ。国家にも目に見えない「国家の意志」というものがあるのだろうか。その場合の「国家の意志」とは何か、今それに対抗する政治理念はあるのか、などなど。国家の場合は歴史や時代認識、時代の転換点における政治理念なども含めて考えなければならないだろう。長くなりそうなので、それは次回(理念なき「国家経営」の落とし穴)に。

野田と前原の「国家経営」 12.2.5

 ご存知のように、松下政経塾は松下幸之助によって1979年に作られ、卒業生から多くの政治家を輩出して来た。特に民主党では、1期生の野田首相を始めとして、樽床伸二(3期生)、原口一博(4期生)、前原誠司(8期生)、玄場光一郎(8期生)など、政権中枢を卒塾生が占める
 2010年8月現在で、ここを卒業して国会議員になった政治家は、衆議院31名、参議院7名。この他にも地方の首長や議員がいる。政治を志す青年たちの夢をかなえて来た松下政経塾だが、出身者たちがここまで日本の政治に影響力を持ってくると、そこでどんな教育がおこなわれているのか、卒業生たちはどんな思想的傾向を持っているのか、もっと突っ込んだ報道があってもいいと思う

 松下政経塾については、様々な本(「松下政経塾とは何か」「松下政経塾憂論」など)が、『彼らは日本の政治を変え得るエリートなのか、それとも単なる野心家の集団か』、『松下政経塾出身者は、なぜ口だけ達者でひ弱なのか?』などと書いている。本来はこれらを読んでから書くべきだろうが、時間がないので今回は(特に野田と前原を中心に)日ごろ私が感じて来たことを書いてみたい。もちろん、直接本人に確かめたわけではないので、以下はあくまで一つの見方、仮説である。

◆「政治による自己実現」志向が強い政治家たち
 第一には、彼らの「政治による自己実現」志向についてである。松下政経塾は、日本におけるエリート政治家を育てるという明確な目標を持って設立された。従って、若くしてこの特異な教育機関を選んだ政治家たちには、始めから「政治家で自己実現を図る」という、かなり強い志向があったに違いない。こうした志向は政治家を志す誰もが持つ志向だろうが、この思いが強すぎると時として困ったことになる。

 例えば6年前、民主党党首だった前原(野田はこの時国対委員長)が偽メール事件で落とし穴にはまった時のこと。国民に大見えを切りながら期待を裏切った挙句に、事の重大さが分からずになおも党首に居座ろうとしたことがある。呆れた私はその時、「国民が見えない政治家」と書き、「彼らは今風の自己実現、個人的な野心や権勢欲から国会議員という職業を選んだのではないか」と書いた。(「国民が見えない政治家」)
 普段から自己実現の思いが強すぎると、肝心な時に国民よりも自分のことを考えてしまう。自分の経歴に傷がつくかどうかを先に考えてしまって「国民がどう考えているか」が目に入らなくなる。これでは政治家失格と言われても仕方がない。こうした傾向は、松下政経塾でエリート意識を刷り込まれたあと、あまり苦労もせずに(弁舌や論客ぶりで)政権中枢に登用された結果かもしれない。

◆自己実現と結び付く「国家経営」志向
 そしてもう一つは、彼らの「政治観」である。彼らが政治をどうとらえているかということだが、私の頭に浮かんで来るのは「国家経営」という言葉である。松下政経塾を作る時に、日本の政治の経営感覚不足を憂いた松下幸之助は「政治はすなわち国家の経営であります」と言ったそうだが、これを「政治による自己実現」志向と結びつけて考えると、より明確に彼らに特有の政治観が見えて来るように思う。
 彼らは政治というものを「国家経営」として考え、会社を経営するのと同じように捉えているのではないか。会社をうまく経営して利潤をあげたり、規模を大きくしたりするように、国家の経済を発展させ、財政的にも軍事的にも強固な国を作る。そのために、まずはトップ(首相)になる。政治家としての彼らは、そんなトップの目線で政治を考えて来たのではないか。

 しかし、政治エリートを育成して会社経営をするように国家の経営をする、という考え方が、果たして今の時代に合っているのかどうか。卒業生たちは「政治による自己実現」を目指して、社長にでもなったつもりで国家経営をしようとするかもしれないが、今の日本は、かつてのように右肩あがりの経済成長は期待できず、むしろ大きなパラダイムシフト(価値の転換)が迫られている。そういう時代に、上から目線のエリート意識で国家経営をしようとすると、時として思わぬ落とし穴に落ちることがある。

◆「誰のために経営するのか」が見えなくなる
 一つは、「誰のために国家を経営するのか」と言う大事なことを見失ってしまうことである。誰のための政治かと言えば、もちろん「国民のため」のはずだが、それが見えなくなる。
 野田も前原も調べてみると、(鳩山や小沢とは大違いで)意外に経団連など財界との付き合いが深い。米倉会長やその仲間の竹中平蔵などとは、しょっちゅう会っているし勉強会もしている。政府の諮問委員にも任命している。そうなると、(かつての自民党もそうだったが)「日本経済の牽引車である大企業の業績がよくなることが、すなわち国の経済発展と同じ」と言う古い観念からどうしても抜け出られない。

 今の経団連のメンバーは殆どが輸出関連の大企業の経営者たちだが、彼らは今やグローバルな競争にさらされていて、一頃のような「従業員のために経営する」といった経営理念を持てなくなっている。今話題の本(「自由貿易は民主主義を滅ぼす」)によれば、彼らは国際競争に勝ち抜くのに必死で、従業員の給料は「ただ単にカットしなくてはならないコスト」としか見なせなくなる。その結果、先進国の人件費は低賃金国並みに下がり続け、日本もそうだが世界全体の需要が縮小して行く。これが世界的な金融危機の真の原因だという。

 そうした輸出大企業の要望に沿うような(例えばTPPのような)経済政策は、仮にそれで大企業の業績が上がっても、利益は国民には回らない。貿易黒字は企業の海外資産を増やすだけで、却って円高を誘発する(「TPP亡国論」)。
 今や輸出主導の成長戦略は破綻しているというのに、輸出大企業の経営者と同じ意識にたって国家経営を考えていると、時代の転換点に対応できない。国民が見えなくなり、「誰のために経営するのか」が見えなくなる。「国民の生活が第一」という国民の方さえ見えていれば、国民の豊かさにつながる別な手段(例えば内需拡大)が見えてくるはずなのだが。

◆「何が正しい政治なのか」が見えなくなる
 もう一つは、「何が正しい政治なのか」が見えなくなること。国家経営的に上から目線で政治をしようとすると、(ともすると)それによって影響を受ける人々の視点が抜け落ち、人間として大事な倫理観や価値観を忘れてしまうことである。例えば、アメリカのイラク戦争や、古くは戦前の日本陸軍の大陸侵略。特に戦前の陸軍は「国家経営」の熱に浮かされて様々な軍事的謀略を仕掛けた。状況をうまく支配しようとして、人間としての大事な倫理観や価値観を忘れて政治を行うと、結果として国家、国民を危険にさらすことになる。これは歴史の教訓でもある。

 「国家経営」がなぜ「倫理なき政治」に結びつくのかという論理はまだ十分解っていないのだが、敢えて言えば、「国家経営」的感覚で政治をするうちに政治家は、
人間の倫理などを超越した「国家の意志」に支配されてしまうのではないか(*)。そのために、人間として守るべき倫理を見失ってしまうのかもしれない。そこで私の懸念は、「国家経営」を重視した松下政経塾出身の野田や前原も、(多かれ少なかれ)こうした危うい傾向を持ってはいないだろうかということである。(*)この詳細については次回に考察したい。

 彼らはこれまでも、戦争責任とか集団自衛権について(自民党と変わらない)保守的な考えを表明して来た。また、「アジアの成長を取り込む」とか「中国にだけ儲けさせないように」とか言って、国策としてリスクの大きい原発輸出を進めようとしている。これはある意味、前原の持論でもある武器輸出三原則を外して武器輸出に乗り出すようなもの。状況にうまく乗ろうとして、忘れてならない倫理を捨てるのと変わらない。
 こういうことを考えると、2人の思想的基盤というのは、「国民の生活が第一」と言って国民目線から政治をやろうとしていた民主党政治家のイメージからかなり外れた、意外に国家主義的なものかもしれない。これが杞憂なのか、あるいはいずれ本質を現すのか、メディアにも注視して行ってもらいたいと思う。

国策としての原発輸出はなぜダメか 12.1.30

 現在、世界に原発は幾つ位あるだろうか。ネットで調べると1位アメリカの104基を筆頭に、フランス59基、日本54基と続く。全部で440基あまり。注目すべきは日本の近隣諸国だが、これがやたらと原子力に力を入れようとしている。韓国が25基(ほかに建設中1、計画中6)、中国が14基(ほかに建設中29、計画中4)、台湾6基(建設中2)など。特に中国が猛烈な勢いで原発を建設していることが分かる。この3地域だけで、今後42基の新規原発が増えることになる。
 心配なことにこれらの多くが地震地帯にある上に、一旦事故が起きれば日本にも深刻な影響が及びかねない日本海側や東シナ海側にある。大丈夫だろうか?

◆原発輸出のための地ならし「原子力協定」
 日本の近隣以外では、新規に11基の原発を増やそうとしているインド(操業中20基)のほか、トルコ、ベトナム、ヨルダン、リトアニアなども新規原発を計画中。こうした需要を当て込んで、日本政府は去年暮れに自民党と手を組んで、原発輸出を可能にするための「原子力協定」を国会承認した。
 すでに発効済みのリトアニアに続いて、ベトナム、ヨルダン、ロシア(燃料関係)、韓国(技術提携)に、国家プロジェクトとして原発関連技術を輸出するための地ならしをしたことになる。

 野田首相は去年10月に来日したベトナムのズン首相とも原発建設受注で合意している。国際的な約束を守るというのが表向きの理由だが、こうした動きは国内原子力産業を勢いづけることと同義であり、原発推進なのか、脱原発なのか、相変わらずあいまいな姿勢を取り続ける野田政権を象徴するものだ。というわけで、今回のテーマは原発輸出。3.11以後に見えて来た「原発輸出」の危険性について、また、国策として「原発輸出」を成長戦略に位置付けようとすることの非倫理性について書いておきたい。

◆国策でやる原発輸出のリスク
 原発輸出について賛成の十市勉(日本エネルギー経済研究所顧問)は、「日本は原発技術で国際的な責任を果たして行くべき、原発輸出でアジアの経済発展を取り込め、ベトナムでの原発受注は対中国カード上も重要、原発輸出はトップセールスが必要なので国がリスクを負う態勢で取り組むべき」などと言う(毎日、去年11月)。また読売の渡辺主筆は日本が輸出しなくてもどうせ他の国がやるのだから、日本がやった方がいい、という。

 一方、反対の飯田哲也(環境エネルギー政策研究所所長)は、「最大の問題は政権が事実と現実を知らないこと」と言い、「世界で建設されつつある原発は、コストの急騰と建設期間の遅延で、大きな投資リスクとなっている。さらには、輸出先の原発事故で製造者責任を問われるリスクもある」と言う。そうしたリスクの大きいプラント輸出を国策として税金を使って進めるのは、「もうけは一部企業、リスクは国民」という不公平極まりない構図であり、許されない、と言う。

 「アジアの成長を取り込む」、「このままでは中国の思うままになる」などと言って自分たちに都合のいい状況を作り、リスクの大きい博打で国家を危険にさらす。そしてその結果責任を取らない。原子力村(政治家、監督官庁、電力会社、メーカー、学者、一部メディア)のやり口は相変わらずだが、飯田の言う事実を踏まえれば、誰が考えても理は後者にあると思う。

◆原発事故、最悪の場合は影響が地球全体に及ぶ
 その上、原発輸出はさらに重大な倫理的問題を含んでいる。例えば、チェルノブイリ事故による様々な非がん性疾患について調べた「チェルノブイリ事故の人体への影響」(IPPNW編)には、次のようなことが書かれている。
 「(事故後の25年で)原子力発電には核兵器より大きな危険が潜んでいることが明らかになった。チェルノブイリのたった一つの原子炉からの放射性物質の排出は、広島と長崎に投下された爆弾による放射能汚染の数100倍以上。一つの原子炉だけでも地球の半分を汚染することができるのだ。」

 福島原発事故はこのチェルノブイリと同じ「レベル7」。事故の重大さが見えて来るに連れて、私も同じような実感を持ちつつある。福島原発事故で環境中に漏れ出た放射能は福島第一原発全体のわずか1%に過ぎないと言われているが、それでも東北、関東の広範囲が汚染され、(先日のNスペが報道したように汚染が広がり始めた東京湾など)海の汚染も次第に深刻になりつつある。仮に放出量がもっと多かったらどうなっていたか。

 政府が意図的に封印した「最悪のシミュレーション」によれば、「原発から半径250キロの範囲、東京都のほぼ全域と横浜市までが避難しなければならなくなる」。こうなれば、もちろん日本は滅亡だろうが、私はその影響(様々な健康被害、環境汚染)はさらに地球規模にまで拡大しただろうと推測する。何故なら、1500キロ離れた北欧を含め、ヨーロッパ全体が汚染されたチェルノブイリ事故でも、漏れた放射能で言えば、1号機から6号機まである福島第一全体の何十分の一だからだ。

◆世界に放射能汚染のリスクを増大させる原発輸出
 つまり、2度の世界的事故によって私たちが学んだことは、原発事故にはチェルノブイリや福島を大きく超える場合があるということ。(例えばテロや戦争で原発が大きく破壊されるような)最悪の場合には、国を破滅させるだけでなく地球を何十年にもわたって汚染するということである。しかも、放射能汚染がどんな影響を人類に引き起こすかについては、実はまだ良く分かっていないのだ。(チェルノブイリ事故の健康被害については、日本政府が言うような単純なものではなく、現在も世界を2分する論争が続いている。そのことについては近々に)

 原発輸出にはもう一つ、深刻な問題がある。それは、仮に事故が起きなくても、未来永劫人類の重荷となる「核廃棄物(使用済み燃料)」を地球上に際限なく増やすことである。高レベル廃棄物で数万年、使用済み燃料のままなら10万年の厳重な管理が必要となる「核廃棄物」。福島第一で4号機の使用済み燃料プールからの放射能漏れが最も憂慮されたように、核廃棄物からの(大気中への)放射能漏れは原発事故並みの影響をもたらす。こうした危険な放射性物質を10万年も、安全に管理するなどと言うことが今の人類に可能だろうか。日本だけでも既に1万7千トンもの使用済み燃料を抱えて、途方に暮れていると言うのに。

◆原発輸出の非倫理性といつか来た道、日本が進むべき道
 原発輸出はおととし、成長戦略がないと野党から攻められていた民主党が飛びついたものだが、こうした潜在的リスクが極めて大きい原発を輸出することは、核兵器以上の危険を世界に拡散するようなものではないか。特に、日本が原発輸出を目論む国には地震国もあれば、必ずしも政治が安定しているとは言えない国もある。長期的に見ればテロや戦争だって起こるかもしれない。
 それなのに前原(政調会長)などは、不確実な博打のような利益を求めて、国策として原発輸出を後押ししようとしている。世界の危険を増やすようなビジネスを率先してやろうとしている。それは極端に言えば、非人道的な武器を売り込む武器商人と同じ。その非倫理性をどのように考えているのだろうか。

 それでも「日本は事故の教訓を生かして世界一安全な原子力技術で世界に貢献すべき」というなら、それこそ道は別にあると思う。日本の原子力産業が向かうべき方向は、これから長く直面しなければならない福島の事故処理や放射能封じ込め、陸と海の汚染の除去、そして54基の解体、廃炉など。これらを研究材料として世界最高の事故収拾技術と「脱原発」技術を開発することではないだろうか。
 再生可能エネルギーの開発と同時に、そうした「脱原発」へ向けての先端技術(これは少なくとも百年は需要がある)で世界をリードすることこそ、フクシマを経験した日本の原子力産業がとるべき道ではないか。国策としてやるなら、これをこそ国は本腰を入れて支援すべきだと思う。

未来の世代を支援するために 12.1.20

 年明けなので去年に引き続き、日本が抱えている難問や課題を整理して、司馬さんにならって「この国のかたち」に思いを巡らせてみた。しかし、こちらは足元にも遠く及ばない浅学非才。2回にわたって(危機に強い「柔構造の日本(1)(2)」)を書いたら、頭の芯がすっかり疲れてしまった。内容の多くは日頃から考えてきたことでもあり、新聞、雑誌などで識者が様々な形で言っていることでもあるのだが、それでも十分な確信があって書いているわけではない。

 書いて行くうちに、本当に内需中心で経済成長が出来るのか、地方への権限移譲と言っても地方の行政単位はどの位がいいのか、権限移譲で中央の官僚機構は大幅な縮減ができるのか、地方はこれで本当に活性化するのか、などという疑問が起きて来る。十分な確信が持てないことを、あまり断定的に書くのもなあ、などという気持ちも起きて来て、コラムをアップしてからも(主旨は変わらないが)行間を少しずつ補足し、自分の気持ちに大体しっくりくるまで2、3日もかかった
 一市民の立場からと開き直っているつもりでも、素人の私がこんな大きなテーマを書く資格はあるのだろうかと、自分の足元まで問いなおす羽目になる
。ということで以下は、もう一度、自分の足元を確認しつつ考えたことである。

◆一市民とはどういう市民なの?
 定年退職した私が、日本の国のあり方を書いたり、原発やTPPについて書いたりするのは、「しつこく書き続けるということ」にも書いたように、一人の市民として時代と向き合って生きる時に、考える必要のあるテーマについて自分の考えを整理し、それを同じような思いの人々と少しでも共有して行きたいと思っているから。ただし、それは何も自分がよりよく生きて行くとためとか、ジャーナリストの端くれでいたいから、というだけではない。自分がいなくなった、もう少し未来のためにも考える必要があるから。そう思うようになったのは、老齢になったほかに、特に原発事故が大きかったように思う。

 例えば、正月に1歳から8歳までの孫たち4人がやってきたが、彼らを見ながら考えたこと。この子たちが次の世代を育てるようになる40年後位には、果たして日本はどうなっているのだろうか。美しい自然や田園風景はその頃にもまだ残っているだろうか。自分の子どもたちについては、教育とか結婚とか、もっと身近で直接的なことを心配していたが、孫やその子どもたちの世代となると、やはり「日本の将来」にまで思いが広がって行かざるを得ない
 そう思うと、私が気楽に考えて来た「一市民の立場から」というのも、(原発事故などを契機に)また少しずつ変ってくる。未来の世代と言っても抽象的なものではなく、実は可愛い孫やその子の世代。彼らが暮らす将来の日本について、(あるいは彼らが暮らす地球の未来についても)私のような一市民が真面目に考える権利は十分にあるということである。いくらそれが大テーマであり、(専門家でないので)考えが未熟であっても。

◆未来世代に対する現世代の責務として
 というふうに自分を励ましたところで再びテーマを「日本の未来」にもどして、前回の「柔構造の日本」で書き残したことについて書きたい。それは、「持続する日本」のベースになる「未来世代への責務」という思想についてである。以下、私のメモ書きからそれを抜き書きする(ちょっと生な文章ですが)。

『現在、時代を共有している世界の人々を支援するのと同じように、我々は未来の子孫を支援することができるだろうか。また、そういう思想をどう表現すればいいのか。これから40年後50年後の日本が豊かな自然と豊かな文化を維持し、住みやすい平和な日本であるように、我々世代でやれること。そういう「未来への計らい」を何と表現すればいいのだろう。未来世代への責務と言うべきか。

 今の日本人は自分たちの欲求ばかり考えていて、あそこに行きたい、あれを食べたい、あれを見たいと言うばかり。経済的豊かさを追求し、贅沢を夢見てきた。その中で、(特に子育ての終わった)現在の世代が、まだ見ぬ未来世代を支援して行く、責務としてそれを果たしていく、という思想を我々はあまりに忘れているのではないか。
 我々の先人が苦労して残してくれた日本と言う財産を、未来の世代のために損なうことなく継承する。そういう未来への責務という思想こそ、大事な価値観として広げて行くべきではないか。

 いま我々が享受している自然環境、道路や鉄道、水道や電力などの社会的インフラ。教育、医療、金融、司法、ジャーナリズムといった社会制度などの蓄積(社会的共通資本)は、幾らかは現世代が努力して築いてきたものではあるが、その多くは何世代にもわたって先人が蓄積してきた日本の財産でもある。
 これをより良くして未来に継承して行くことこそ現世代の大事な責任。われわれ世代で食いつぶすことのないように欲望を押さえて行くこと。その価値をうまく表現すると、この先の日本のあり方が見えて来るのではないか。

 グローバル経済などと言って無国籍的に生きても何の意味もない。それぞれの国の文化と「社会的共通資本」を尊重し合う同士が地球メンバーとして生きて行けばいい。弱肉強食の強欲な資本主義の時代には時代錯誤かもしれないが、こうした思想をこそ深めて行くべきではないか。』

◆政策立案能力を高めよ
 孫たちの顔を見ながら、こういう思いで書いたのが「危機に強い柔構造の日本」。これだけの難問や課題を抱えている日本が、どうしたら次の世代に安心して心豊かに暮らせる日本を残していけるのか、と言う提言だった。しかし、自分の浅学非才を棚に上げて言うのも何だが、今の政治家はどれだけ深く日本の将来を考え、未来に対する重責を果たそうとしているのか
 原発だって、未来世代の幸福を考えれば即、脱原発に向けてのシナリオ(「原発を看取ると言うこと」)を検討し始めなければならないはず。あるいは、消費税増税やTPPにしろ、ギリシャのようにならないためにとつい去年に思いついたような政策や、財界や官僚やたちが要求する通りの案でいいのか。また、消費税増税に反対する小沢グループにしても莫大な財政赤字をどうするのか、深く突き詰めて考えているのか。

 こういうことを考えると、去年の年明けにも書いたこと(「政治につける薬(1)(2)」)だが、日本の政治に決定的に欠けていることをまた指摘したくなる。それが、日本の政治の政策立案能力。私が挙げたような国難に対して、それこそ日本の英知を集めて多面的、重層的にあらゆる方策を検討し、政策として構築していく政策立案能力。日本にはそれがない。
 利権を持った人間たちが、それぞれ自分たちに都合のいいような政策を要求する。それに反対する側も思いつきや感じでものを言う。今日明日の政局ばかりで、誰も、50年後の未来世代のことなど考えていない。本当は、現世代の責務として「持続する日本」を未来世代に継承して行くという視点から、真に合理的な政策を立案する能力こそが必要なのに。

 元はと言えば、自分にその能力がないことが問題なのだが、幾ら勉強しても一介の素浪人に過ぎない自分が自分の足場以上の高みからものを言う辛さもあるわけで。私は私で、一市民と言う立場に固執しながら書いて行くつもりだが、ここで改めて日本の政治家に「政策立案能力を高めよ」と訴えたい。そして、政局にうつつを抜かすのをやめて、大いに政策論を闘わせながら、日本に「課題解決型の政治」を確立していってほしいと思う。

危機に強い「柔構造の日本」(2) 12.1.16

 前回は、巨大地震、経済恐慌、財政赤字、少子高齢化、肥大化した官僚制度など、内と外から迫る危機に対して日本はどう対処すべきなのか。日本がとるべき7つの方向性をリストアップしてみた。2回目の今回は、これらの方向がどうして「柔構造の日本」になるのか、これで日本はやって行けるのか、そして、今の野田政権はこうした政策を担って行けるのかを書いて見たい。

◆地域主権で「柔構造の日本」を作る
 7項目のめざすところは要約すれば次のようなことである。国家の権限を可能な限り地方都市に移譲し、地域が裁量権を持って地方経済を活性化する。そこに絆の強いコミュニティーを再構築してセーフティーネットにし、若い世代の子育ても社会的弱者も支えて行く。
 権限を移譲することによって、肥大化した中央集権的な官僚機構を解体。無駄を省いて財政再建への入り口にする。また地方に機能を分散させて迫りくる巨大地震を何とかしのいで行く。これがつまり、危機に強い「柔構造の日本」。今となってはこうした改革を着実に実行して行く以外に、日本が生き残る道はないのではないか。そういう思いである。

 最後の2項目に世界に開かれた地域をめざす、持続する日本を次世代に引き継ぐ、とも書いたが、ここで地域経済の活性化(内需拡大)だけで日本はやっていけるのかと言う疑問も当然出てくるだろう。経済には全く素人の私だが、経済危機にも強いとした「柔構造の日本」の心は以下のようなこと。今多くの国民が感じていることとさほど変わらない。

◆成長か、脱成長か。日本の経済をどうする?
 戦後の日本は、今の中国のように息せき切って経済成長の坂を駆け上って来た。世界に負けないようにと、「木に竹を接ぐように」様々な無理を重ねながら、経済の規模拡大と効率化を追求してきた。しかし、その結果がバブル崩壊の20年であり、膨大な財政赤字であり、原発事故だとも言える。経済大国日本の足元はいつの間にかボロボロに崩れかかっているのではないか。
 おまけにこれからの日本は、急速な少子高齢化と人口減に向かう。バブル期以前のような成長を夢見るのはどう考えても無理。この辺で、足元を見直しておかないと再び大きな間違いを犯しそうな気がする。先の見えないグローバル経済を相手に、これまでのような成長路線を追求するのでなく、一度、国内経済(内需)の足元を固めたうえで、そこから新たな成長の可能性を模索する時ではないか、と思うのだ。

 減りつつあるとはいえ、まだ日本には1億2700万人の国民がいる。日本の内需は、(色々見方はあるが)GDPの80%を超える。従って、国民の一人一人が地に足の着いた、より豊かな生活を求めて行けば、これからも内需による一定の成長は見込めるのではないか。
 もちろん大企業の輸出による経済効果を否定するものではないが、国としてこれを優先すると色々な弊害が国内に及ぶ(「TPPは日本の何を壊すのか」)。まずは国内経済の足元を固めるのが先。もの作り職人の技術力や高度なデザイン力を育成して国内で競争力を高め、その高付加価値のブランド力で海外と勝負する。これは多国籍化した大企業より、日本の大部分を占める中小企業の得意分野。そのように地場産業を育てて行けば、十分世界と勝負して行けるに違いない。

 こうした議論は、朝日が今年3回(1/8〜1/10)にわたって特集した、いわゆる「成長か、脱成長か」にも通じる。すなわち「これからの日本は、あくまで経済成長を追求するのか(前原政調会長)、それとも成長にこだわらない暮らしに移るのか(枝野経産相)」という議論だ。
 しかし、問題は「成長か、脱成長か」ではなく、その前に
私たちは日本の何を大事にして行くか、国民生活の「真の豊かさとは何か、それを何で実現して行くのか」という価値観こそが問われなければならないと思う。そこにこそ、経済の安定的な需要も生まれて来るのではないか。(原発輸出を成長の切り札にするというような前原の危険な価値観については、回を改めて書きたい)

◆誰が改革を担うのか
 さて問題は、今の日本で誰がこうした変革を担うのかと言うこと。「柔構造の日本」を作るには、明治以来続いて来た中央集権国家のかたちを変え、経済成長の発想さえも変えて行く必要がある。実行するには発想の大転換と、巨大なエネルギーがいる。
 2年半前の民主党は、(準備不足と論理不足ではあったが)およそこうした改革を掲げ、その担い手になるべく登場した。一昨年の年頭会見で当時の鳩山首相が「我々は100年に1度の大きな改革をやるために、政権交代を実現した」と言った時にはまだその熱気が残っていたと思う。

 しかし今や、どれほどの政治家が当時の熱気や理念を持続しているだろうか。民主党はついに国家ビジョンも作れずに方向性を見失い、2年半も無意味な漂流を続けている。そして現在の最大の政治課題は、マニフェストには影も形もなかった消費税増税やTPPだという。幾ら政治は生きものだと言っても、どうしてこうもあっけなく変わってしまったのか。

◆改革を阻む「経済成長神話と既得権益集団の抵抗」
 民主党に政策の見直しを迫り、改革から引き戻した最大の原因は何か。私に言わせれば、それは、寄せ集めでバラバラな民主党の未熟さもさることながら、それ以上に、経済成長神話から牢固として発想の転換が出来ない「日本の既成勢力(エスタブリッシュメント)」があの手この手で改革に抵抗したからだと思う。
 「日本の既成勢力」とは、巨大な既得権益を離したがらない霞が関の官僚機構、自分たちに都合のいいように政治家を操ろうとする財界、権力の側に立つことにアイデンティティを感じる一部学者やマスメディアの幹部たちである(何となく、あの「原子力村」の構造と似ているが)。旧態依然のその既成勢力が吐き出す強力なクモの糸に絡め取られて、改革を掲げた政治家たちが次々と身動きできなくなり、代わりに操縦しやすい幹部たちが登場した。

 例えば、今の民主党を動かす野田首相と前原政調会長。2人はともに松下政経塾出身だが、野田は首相になるときに財務次官に「私の後任(の財務相)に据えるべきはだれか?」と聞いてその通りにした(政治主導など爪の垢ほどない)し、前原は小泉時代の経済指南を務めた市場原理主義者の竹中や経団連と頻繁に勉強会を開いているという(月刊文春、朝日)。
 財務省や財界の言うままなら、かつての自民党と変わらない。野田や前原にとって、2年半前に民主党が掲げたマニフェストなどは、早く忘れたい存在になっているのではないか。だが、野田が政治生命をかけると言っている消費税増税やTPP、それに原発輸出を切り札にするような前原の経済成長戦略で、果たして日本の危機は乗り切れるのか。

◆中途半端な「税と福祉の一体改革」
 野田の言う消費税増税は「税と福祉の一体改革」などと聞こえはいいが、増税のうち福祉に回るのはせいぜい1%程度。公務員の給料削減や議員定数削減なども議論されているが、地域への権限移譲などを掲げた民主党のマニフェストから言えば極めて中途半端
 (官僚機構の中枢でもある財務省が作る案にそんなことは期待できないが)それこそ地域への大幅な権限移譲と省庁再編、独立行政法人の見直しなどとセットにしなければ、慢性化した赤字体質を引きずるだけである。このままでは5%の増税など焼け石に水になる。

 ということで、野田政権にも期待できず、未だに何のビジョンも提言出来ない自民党にも期待できないとすれば、この閉塞状況を打ち破るのは誰かということになる。道州制を次のテーマに中央に攻め上ろうとしている大阪の橋下か?
 先日の「サンデーモーニング」では、金子勝(慶大教授)が1000兆円もの財政赤字を解決するには(過去の例から言っても)「戦争か革命によってしかできない」と言ったそうだが、富裕層を自認する既成勢力だっていつ標的になるかも分からない。彼らが民主党を骨抜きにしたなどと喜んでいるうちに、日本に「民主主義の崩壊につながる不穏な動きが芽生えないと誰が言えるだろうか。

危機に強い「柔構造の日本」(1) 12.1.9

 年明けなので、一時原発問題を離れて「この国の明日」に思いをめぐらしてみたい。考えてみれば、去年の年明けも元気の出ない日本にカツを入れるつもりで4回にわたって「日本の元気」見えて来た改革の方向性成長戦略としてのジャパンブランド政治につける薬1,2)を書いた。
 しかし残念ながら、その直後に東日本大震災と原発事故に見舞われ、これまでも書いて来た(巨額の財政赤字、少子高齢化、地方の疲弊、旧態依然の官僚制度、変われない政治、といった)日本の課題は解決されるどころか、原発事故の重荷も加わって、より一層深刻さを増しながら現在に至っている。

◆危機にある日本
 加えて、3.11の巨大地震を契機ににわかに現実味を帯びて来た「宮城県沖、茨城県沖地震」や「東京直下型」、「東海・東南海・南海連動型」などの大地震。最近分かって来た長周期地震動や側方流動、巨大津波などが、(今の状態の)超高層ビル、湾岸コンビナート、原発などを直撃したら、日本は壊滅する(「これも難問 巨大地震」)。
 また今年は、ヨーロッパ発の経済恐慌が日本経済を直撃する可能性も心配されている。これも底流にあるのは世界的な金融資本主義の行き詰まり現象の一つ。グローバル経済の中で、日本も否応なく変革の影響を受けざるを得ない。

 そんなわけで、どうみても2012年の日本は内憂外患。いわゆる「累卵の危うき」(積み上げた卵のように不安定で危険な状態)にある。まるで、幕藩政治の行き詰まりの中で黒船の来航(1853)や安政の大地震(1855)を経験した江戸末期のよう。今の日本を救うには、明治維新のような大きな「国の方向転換」が必要になって来ていると思う。

◆危機に強い国としての「柔構造の日本」
 前置きが長くなったが、問題は、このような内からと外からの危機をやり過ごして行くためには、日本と言う国をどの方向へ変えて行くべきなのか、また誰がその舵を切るのか、ということである。そこで今回はまず、日本がめざすべき改革の方向をリストアップし、その中から見えて来る「日本の国のかたち」を探してみた。もちろん各項目そのものは、これまでも書いて来たことなので(「日本の難問」、「東北の元気を日本の元気に」)新しいものではないが、それらをくくる新しいキーワードが何か考えてみた。

 結論から先に言うと、それは「地域分散によって柔構造の国を作る」ことになる。つまり、国の機能をできるだけ地域に分散させることによって、災害にも経済危機にも社会構造的にも強い日本を作る。それが、日本が抱えている難問を減らし、当面する様々な逆境や危機をしのいで行くことにつながる。個人的にはその国のかたちを「柔構造の日本」と呼びたいと思っている。素人の思いつきである「柔構造の日本」という言い方が、これからの国作りの方向を言い得ているかどうかは分からないが、とりあえずは以下、そのための各論をリストアップし、また点検することにしたい。

◆日本がめざすべき方向
@ 災害に強い日本を作る
 来るべき巨大地震に備えて、日本は出来る限り「防災と減災」の取り組みを加速させる必要がある。超高層ビルや交通機関などのハード的な地震対策とともに、救助や避難、情報、救急支援などのソフト的な対策を進める。加えて脱原発。震災後も深刻な後遺症を残す原発や湾岸のタンク群などの危険物を止めたり、補強したりしなければならない。
 さらに有効な対策は「東京一極集中から地方分散」。東京がやられても地方が代行できるように危険を分散して、国としての生命を維持して行かなければならない。

A 地域主権の拡大で地方を活性化する
 思い切った権限を地方に与え、地方を活性化して行く。国と地方の役割分担を大胆に見直し、経済、教育、福祉、などの分野で競争関係を作りだし、地場産業を育成して地域経済を活性化する。日本の輸出依存度(韓国40%台、日本10%台)については色々議論があって、日本は輸出に活路を見出すのか、内需拡大に活路を見出すのか、考えが分かれているが、一定規模の経済成長を確保する上からも内需経済の活性化は欠かせないと思う。
 この点、民主党の小沢一郎のいう「内需を拡大するために、地域に思い切って権限を委譲すべきだ」という主張は依然として正しいように思う。

B 国家機能の地域分散によって官僚制度改革を行う
 地域主権は中央官庁の大胆な改革とも連動している。カナダやアメリカは州に大幅な権限を与えていて、カナダなどは州によって就学年齢まで違っている。そこまで行かなくとも、何でも中央にお伺いを立てなければ動かない体制は時代遅れになっている。中央官庁の役割を外交、防衛、法務、資源エネルギー、財務などに大胆に見直した方がいい。(「日本の難問C問題山積の官僚制度」)
 しかもそうすれば、(私の感じでは)税金の30%程度はカットしても現行の行政サービスは可能。税金の無駄使いの多い独立行政法人なども整理され、国の財政再建の入り口にもなる。消費税増税などはその後にして貰いたい。

C コミュニティーを再構築してセイフティーネットを強化する
 東日本大震災で気付かされた東北の人々の粘り強さ、逆境への抵抗力は地域に根付いているコミュニティーの絆の強さだった。こうした地域コミュニティーの再構築こそが、高齢化や災害や経済不況に強い柔構造国家のカギになる。
 これまでの政治は地方から人々を引きはがして、そこを高齢者中心の限界集落にして来た。次の政治はその逆をやらなければならない。また、社会全体で子育てを支援するという理念は、絆の強い地域コミュニティーにこそ相応しい地方都市を活性化して若者を呼び込めば、少子高齢化の歯止めにもなって行く。

D 再生可能エネルギーの地産地消でエネルギー先進国をめざす
 災害に強い日本にするためには脱原発。代わりに再生可能エネルギーの基地を土地が余っている地方に作り、地域で作ったエネルギーはできるだけ地域で使うようにする。最先端のエネルギー技術の研究拠点を最適地に設け、その成果を世界に輸出して行く。一方、都市のエネルギー消費もスマートグリッドや太陽光発電などでとことん効率化し、国際公約であるCO2の25%削減をめざして行くことは可能だと思う。

E 地域から世界へ。開かれた日本をめざす
 地域主権だからと言って内向きではやって行けない。以前にも書いたように、日本の地域は自然や歴史・文化の豊かなところ。観光、農業、漁業、地場産業、人材交流、国際会議の誘致などなど、あらゆる可能性を捉えて世界につながることを模索すべきである。ローカルとグローバルの交流(グローカル)、ローカルとローカルの交流(インターローカル)がこれからの流れ。地方と言えども、世界に開かれることで活性化を図って行かなければ時代に取り残されてしまう。

F 「持続する日本」を次の世代に残す
 先人から受け継いだ日本の貴重な財産である「社会的共通資本」(宇沢弘文氏「TPPは日本の何を壊すのか」)をより良く保ちながら、次の世代に引き継いでいくのは、これまで生きて来た私たち世代の責務だと思う。子どもたちの教育や生活環境を重視しながら、若い世代に「持続する日本」の未来を託す。これは、これからの日本の社会的価値観にもなって行くべきだと思う。同時に、食糧やエネルギーも含めた安全保障政策も、日本の社会的共通資本が持続するためにこそあるべき。TPPについても当然、この観点から吟味する必要があるのだが、前にも書いたように現時点では反対せざるを得ない。

◆野田民主党政権は期待できるのか(次回予告)
 以上の7項目がなぜ危機に強い「柔構造の日本」につながるか。また、地方分散で日本の経済は大丈夫なのかなど、もう少し詳しい内容については長くなったので次回に回したい。そこには、経済成長に関する価値観の変化や道州制などといった今日的な問題も絡んでくるので、政策の革命的転換が必要になって来るだろう。
 では肝心の、こうした政策を誰が担うのかということも考えなければならない。項目の多くは政権交代時の民主党のマニフェストとも関連するのだが、相変わらず無意味な漂流を続けている民主党政権に期待できるのか。それにしても、2年前の年頭会見で鳩山首相が「100年に1度の大きな改革をやるために政権交代を実現した」と言ったことを今誰が記憶しているだろうか。いつの間にか旧態依然の価値観と政財官の談合政治に逆戻りしようとしている今の野田政権。彼らにこんなことが期待出来るのか、についても次回に書きたい。