5月27日から6月7日まで12日間、カナダを旅してきた。帰国早々、カナダ取材中に頭に浮かんだ番組企画のアイデアをまとめたり、溜まっていた宿題や家事(茂っていた垣根や庭木の剪定)に追われたりして、「メディアの風」をなかなか更新できない。
少し落ち着いたらまた前のペースでじっくり書いて行きたいと思うのだが、こちらの方も原発再稼働問題など、動きが急すぎてじっくり構えているとタイミングを逸しそう。ヨーロッパ旅行の整理にも手が回らず、ちょっと情けない状況ではある。まあ、そんなわけで、お茶を濁すわけではないが、帰国後フェースブックに書いたことを幾つか、こちらにも引用しておきたい。これから、「日々のコラム」の方で書いて行きたいテーマの芽出しでもあるので。
◆6月9日
カナダのあちこちを旅して12日間。固いバイソンのステーキと格闘しているうちにインプラントした歯が取れたり(再生は可能らしい)、ゴムボートで行ったホエールウォッチングでパンツまでびしょぬれになったり。でも何とか北のユーコン、西海岸のバンクーバー、ウィスラーから、東海岸のケベック、その北のベイコモー、そして最後はモントリオール(写真)まで。
長距離移動に耐えつつ、カナダ各地の観光局が前もって綿密に用意してくれた取材地をめぐり、相手と意見交換しながら、カナダの自然・文化の多様な素晴らしさをたっぷり取材できました。この結果は、カナダ観光局(日本)のブログにメディア向け番組企画のアイデア提供として書いていきます。
それにしても、ユーコンでの会議(*)の後に用意された、日韓独(5人)のプロデューサーとカナダ担当者の方々との密度の濃い旅は、言葉のハンデを超えて、とても楽しいものでした。自称「老ジャーナリスト」につきあってくれた同行者の皆さん、機会を提供して頂いたCTC(観光局)に感謝です。
これは、カナダ観光局が毎年、場所を変えながら世界のメディア関係者を招待する「GoMedia」という催し。カナダ各地から集まった観光担当者とメディア側が100以上のテーブルに分かれて情報交換を行う。双方合わせて参加者は300人以上。カナダの観光に賭ける意気込みが伝わって来る催しだ。私が参加したのは今年で3回目、各観光地のユニークな観光戦略については、日本でも参考になると思うのでいずれまとめて書いてみたい。
◆6月11日
久しぶりに2回続けて「平清盛」を見ました。平安貴族社会の中で、犬のようにしか扱われなかった武士が、やがてその屈辱を超えて自分たちが統治する世の中を作っていく。しかし、清盛にはまだ貴族社会の中で一族が繁栄していくことしか見えていない。
真に武士の世の中を作るのは源頼朝、ということになるのでしょうが、それにはなお30年以上の戦乱を経なければならない。明治維新も戦後民主主義もそうでしたが、時代はそのように大きな混乱の果てにしか変わって行かないものなのか?
閉塞感ただよう私たちの時代もまた、変わるには大きな混乱を経なければいけないのか。また、その先にどんな時代が待っているのか。ふと、そんなことを思いながら。
いつの時代もそうだが、時代の変化のさ中にあっても、国民の大多数は果たして今が新しい時代に向かって動いているものなのか、を自覚することは少ない(幕末の「ええじゃないか」)。また、(勝海舟のように)時代がどのような新しい時代に向かって動いているのか、を明確に見通している人はもっと少ない。
まして、(歴史を動かした人々の伝記を読むまでもなく)時代の変革期にあって、変革の本質を知り、正しい方向に向かって行動できる人は極めて限られて来る(ド・ゴールの大戦回顧録)。
では、世界的に金融グローバリズムの問題が噴出しようとしている今の時代、政治家はどのような時代認識を持っているのか。私は、彼らの口からそういうことを聞いたことがない。無理もないとも思うが。
◆6月12日
月曜日。幾つかの仕事を終えた後、夜7時からの「科学ジャーナリスト塾」(東京駅の大学キャンパス)へ。先輩の小出五郎さんの原発報道の話を聞く(2回前には前座として私が話をした)。終了後、畑先生や塾を手伝ってくれている青学の学生たちと食事をしながら、これだけ、市民を愚弄した政治が白昼堂々と進んでいる時に、この状況を変える回路がどこにあるのかを、あれこれ考えていました。同時に、今、必要なジャーナリズムがあるとすれば、それはどんなものなのかを。
いま、行動する人々が行動の中から発信する「行動するジャーナリズム」というようなものが、ネット上にあふれつつあります。そういう中で、既存のマスメディアとは一体何なのか。そんな素朴な問いが浮んできます。考えて行きたいテーマです。
小出さんの話の中に出て来たのは、日本のマスメディアが抱えて来た問題の一つである、記者クラブでの発表をそのまま無批判に伝える「発表ジャーナリズム」。このところの野田政権の原発再稼働の動きを報道するマスメディアの姿勢はまさに、この「発表ジャーナリズム」の典型ではないだろうか。メディアの形が変わろうとしている今の時代、ジャーナリズムの概念も大きく変わるべき時なのかもしれない。そして、こういう時代に、真に国民に必要なジャーナリズムの形とはどういうものか。この問題は「日々のコラム」のテーマなので、そちらに書きたいと思います。
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