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  今週の鑑賞。定年後の身辺雑記

帰国後のフェースブックから 12.6.13

 5月27日から6月7日まで12日間、カナダを旅してきた。帰国早々、カナダ取材中に頭に浮かんだ番組企画のアイデアをまとめたり、溜まっていた宿題や家事(茂っていた垣根や庭木の剪定)に追われたりして、「メディアの風」をなかなか更新できない。
 少し落ち着いたらまた前のペースでじっくり書いて行きたいと思うのだが、こちらの方も原発再稼働問題など、動きが急すぎてじっくり構えているとタイミングを逸しそう。ヨーロッパ旅行の整理にも手が回らず、ちょっと情けない状況ではある。まあ、そんなわけで、お茶を濁すわけではないが、
帰国後フェースブックに書いたことを幾つか、こちらにも引用しておきたい。これから、「日々のコラム」の方で書いて行きたいテーマの芽出しでもあるので。

◆6月9日
 カナダのあちこちを旅して12日間。固いバイソンのステーキと格闘しているうちにインプラントした歯が取れたり(再生は可能らしい)、ゴムボートで行ったホエールウォッチングでパンツまでびしょぬれになったり。でも何とか北のユーコン、西海岸のバンクーバー、ウィスラーから、東海岸のケベック、その北のベイコモー、そして最後はモントリオール(写真)まで。
 長距離移動に耐えつつ、カナダ各地の観光局が前もって綿密に用意してくれた取材地をめぐり、相手と意見交換しながら、カナダの自然・文化の多様な素晴らしさをたっぷり取材できました。この結果は、カナダ観光局(日本)のブログにメディア向け番組企画のアイデア提供として書いていきます。

 それにしても、ユーコンでの会議(*)の後に用意された、日韓独(5人)のプロデューサーとカナダ担当者の方々との密度の濃い旅は、言葉のハンデを超えて、とても楽しいものでした。自称「老ジャーナリスト」につきあってくれた同行者の皆さん、機会を提供して頂いたCTC(観光局)に感謝です。


 これは、カナダ観光局が毎年、場所を変えながら世界のメディア関係者を招待する「GoMedia」という催し。カナダ各地から集まった観光担当者とメディア側が100以上のテーブルに分かれて情報交換を行う。双方合わせて参加者は300人以上。カナダの観光に賭ける意気込みが伝わって来る催しだ。私が参加したのは今年で3回目、各観光地のユニークな観光戦略については、日本でも参考になると思うのでいずれまとめて書いてみたい。

◆6月11日
 久しぶりに2回続けて「平清盛」を見ました。平安貴族社会の中で、犬のようにしか扱われなかった武士が、やがてその屈辱を超えて自分たちが統治する世の中を作っていく。しかし、清盛にはまだ貴族社会の中で一族が繁栄していくことしか見えていない。
 真に武士の世の中を作るのは源頼朝、ということになるのでしょうが、それにはなお30年以上の戦乱を経なければならない。明治維新も戦後民主主義もそうでしたが、時代はそのように大きな混乱の果てにしか変わって行かないものなのか?
 閉塞感ただよう私たちの時代もまた、変わるには大きな混乱を経なければいけないのか。また、その先にどんな時代が待っているのか。ふと、そんなことを思いながら。


 いつの時代もそうだが、時代の変化のさ中にあっても、国民の大多数は果たして今が新しい時代に向かって動いているものなのか、を自覚することは少ない(幕末の「ええじゃないか」)。また、(勝海舟のように)時代がどのような新しい時代に向かって動いているのか、を明確に見通している人はもっと少ない。
 まして、(歴史を動かした人々の伝記を読むまでもなく)時代の変革期にあって、変革の本質を知り、正しい方向に向かって行動できる人は極めて限られて来る(ド・ゴールの大戦回顧録)。
 では、世界的に金融グローバリズムの問題が噴出しようとしている今の時代、政治家はどのような時代認識を持っているのか。私は、彼らの口からそういうことを聞いたことがない。無理もないとも思うが。

◆6月12日
 月曜日。幾つかの仕事を終えた後、夜7時からの「科学ジャーナリスト塾」(東京駅の大学キャンパス)へ。先輩の小出五郎さんの原発報道の話を聞く(2回前には前座として私が話をした)。終了後、畑先生や塾を手伝ってくれている青学の学生たちと食事をしながら、これだけ、市民を愚弄した政治が白昼堂々と進んでいる時に、この状況を変える回路がどこにあるのかを、あれこれ考えていました。同時に、今、必要なジャーナリズムがあるとすれば、それはどんなものなのかを。
 いま、行動する人々が行動の中から発信する「行動するジャーナリズム」というようなものが、ネット上にあふれつつあります。そういう中で、既存のマスメディアとは一体何なのか。そんな素朴な問いが浮んできます。考えて行きたいテーマです。


 小出さんの話の中に出て来たのは、日本のマスメディアが抱えて来た問題の一つである、記者クラブでの発表をそのまま無批判に伝える「発表ジャーナリズム」。このところの野田政権の原発再稼働の動きを報道するマスメディアの姿勢はまさに、この「発表ジャーナリズム」の典型ではないだろうか。メディアの形が変わろうとしている今の時代、ジャーナリズムの概念も大きく変わるべき時なのかもしれない。そして、こういう時代に、真に国民に必要なジャーナリズムの形とはどういうものか。この問題は「日々のコラム」のテーマなので、そちらに書きたいと思います。

ヨーロッパツアーAライン川の記憶 12.5.15
 成田から12時間あまりでドイツのフランクフルトに到着し、そこから1時間ほどバスに揺られてリューデスハイムと言う町へ。ライン川に面した古いホテルにチェックインした。翌朝は肌寒い位の天候だったが、観光船に乗ってライン川を下る。他の旅行客も一緒に乗る観光船は、途中、幾つかの船着き場に寄りながら行くのだが、乗る前に添乗員さんから「違う船着き場で降りないように。間違っても反対側の岸には降りないでください」と念を押される。
 第二次世界大戦末期、ライン川では川を挟んでドイツと連合軍の攻防戦が繰り広げられ、長大なライン川にかかる1000本もの橋が破壊されたという。そのせいで、現在も橋が少なく、反対側の岸に降りてしまうと、バスで迎えに行くのに大変な遠回りになってしまうというわけ。

 観光船でゆったりとライン川を下って行くと、左右の丘の上に、古い城が次々と現れる。その昔、川を航行する船舶から通行税を取っていた領主たちの居城だ。やがて、左岸の船着き場で船が止まり、乗客が少し乗り降りした。船着き場の看板を見るとバッハラッハ(Bacharach)と書いてある。
 昔、半日ほどぶらついたことのあるバッハラッハはこんなところにあったのか。予期してなかっただけに、記憶の回路が突然フラッシュした感じ。船が動き出すとすぐに、町を見下ろす丘の上に見覚えのある古城が見えて来た。24年前に泊まった「シュターレック城」だ。(城の名は忘れていたので、帰国後ネットで確認した)

◆古城ホテルに泊まった記憶
 1988年、私はミュンヘンで科学番組プロデューサーの会議に出席した後、6時間かけてフランクフルトまで車で移動した。空港で当時私がプロデューサーをしていた「地球汚染」という番組の取材班2人と合流し、会議の通訳をしてくれたマリオンさんが住むバッハラッハ向かった。そして、その晩泊まったのが、中世の古城をホテルに改装した「シュターレック城」だった。

 もろもろ考えると、チェックインしたのはすでに夕暮れだったと思う。部屋を割り当てられると、他の2人はお城の中、私は城門のわきに立つ塔の中の一部屋。塔の方の客は他に誰もいない。部屋に行って、ここで一人夜を過ごすのかと想像した私は、とたんに臆病風を吹かせて、ディレクターのY君に部屋を代わってくれるように頼み込んだ。
 今思えば、中世の城の中で繰り広げられた薄気味悪い出来事が、子どもの頃読んだ物語の記憶とともに頭をよぎったからに違いない。うろ覚えだが、廊下には中世の鎧とか、何かを入れるのに使った大きな箱などが置かれていたような気がする。(当時撮った写真と比べると、中央の大きな塔はまだ上部半分が崩れており、私の言った塔は左端の小さな塔らしい)


 今回、ネットで調べてみると、この「シュターレック城」は12世紀頃に築かれ、その後、幾度となく闘いで破壊されたが、20世紀初めに昔の城のままに修復。現在は、ヨーロッパで一番人気のユースホステルになっている。私が泊まった時には宿泊客も少なく、そんな賑やかな感じではなかったのだが、24年前もユースホステルだったのだろうか。その夜、3人でホテルのレストランでドイツビールを飲みながら食事をしたが、古城での食事はなかなかの雰囲気だった。(何かシチューのようなものを食べたがやけに塩辛かった記憶がある)
 その翌日、私たちはライン川の難所で有名なローレライを見に行った。道路の端から川向うに見るローレライは、何ということもない岩山だった。そこで記念写真を撮った後、通訳のマリオンさんが住むバッハラッハの町に戻って昼食。そこは白壁に木組みの柱という家々が軒を並べている美しい町だった(現在は世界遺産)。私は数時間ほどそこで過ごした後、夕方にはもう取材班と分かれて機上の人となっていた。

◆もう一つのライン川の記憶
 ライン川については、もう一つ記憶がある。それから9年後の1997年6月、私はBS放送のある部署の責任者となって着任したが、着任早々の大きな番組が3日間にわたるライン川からの生中継だった。ライン川はドイツ国境にあるボーデン湖からドイツ国内698キロを流れて北海にそそぐ長大な川だが、そのかなりの部分を観光船に乗りながら生中継する。私は東京にいて番組を全部見ていた筈だが、個々の記憶は断片的にしか思い出せない。もちろん今回見た古城の数々や、ローレライも入っていたに違いないのだが。
 天候にも恵まれ、中継番組は無事終わったのだが、ほどなくして一つのトラブルが発覚した。もう時効だから書くが、番組にかかった費用を支払うために現金を持って現地に行ったディレクターがフランスの税関でその現金を没収されてしまったのである。持ち込み制限を越えた現金だったからだ。

 当時は、EC(欧州共同体)の時代で、ユーロに統一されるのは2年後になる。持ち込みはフランだったか、マルクだったか。フランスでの支払いもあったからフランだったかもしれない。最初は没収と聞いて青くなったが、正確には没収ではなく出国後に戻してくれる「預置」と分かった。ただし、その取り戻しには面倒な手続きと時間がかかると言う。
 事は上層部にも伝わり、お前のところはそんなことも知らないのか、何と言う杜撰な管理をしているのだと、油をしぼられた。大勢で行ったのだから、分けて持ち込めば問題なかったのに、一人で申告したのがいけなかった。それにしても支払いが出来なくなれば大変だというので、パリ支局にもお願いして解決にあたってもらうことになった。

 パリのH局長が親身になって動いてくれた。弁護士を雇って、持ち込んだ金の目的はドイツで雇いあげた人々への支払いだという事情をフランス財務省に説明して交渉、その結果、一週間と言う異例の早さでその現金を取り戻すことが出来た。私は、午前一時頃にパリからの知らせを受けて朝までかかって顛末書を書いた。
 「領置金」を取り戻すためにかかった弁護士費用などは、当然のこと番組費から出すわけにはいかないので、関係者何人かがポケットマネーから弁済し、最終的には支払いも事なきを得た。しかし、この事件を契機にBSに対する上層部の視線は一気に厳しくなり、次に予定されていた世界生中継も延期になった(それはそれで良かったのだが)。

 私はサラリーマン時代、この種のトラブルに幾度となく遭遇して、その都度、様々な人々に助けられた。パリでの「現金領置問題」は、私が遭遇したトラブルからすれば小さい方だったが、この事件は、この時初めて知った“領置”と言う聞き慣れない言葉とともに、ライン川の記憶として残っている。

◆ローレライを通る
 それからも様々なトラブルを経験したが、3年前に無事サラリーマン生活を卒業した。今回は観光船に乗ってラインの川風を受けながら、そのローレライを間近に見る。右手に迫って来るローレライの岩山は横から見るとかなりの急角度で川から立ちあがっている。
 高さ130mの岩山だが、ライン川はここで大きくカーブしているうえに川幅が狭くなっている。昔から航行の難所と言われたが、最近でも貨物船が座礁したという。船内に「ローレライ」の音楽が流れるうちに、観光船はあっという間にそこを通過、川岸の乙女の像を見たのも一瞬だった。

 乗船から2時間後、予定の船着き場「ザンクトゴアスハウゼン」に到着。私たちはライン川下りの余韻に浸る間もなくバスに乗り込んでツアーの次の目的地、中世の雰囲気を残したハイデルベルクに向かった。(「ヨーロッパツアー」は書いて見ると、やはり内容がかなり私的なことになるので、続きもこの「風の日めくり」の方に書くことにします)
春の花の季節に 12.4.18

◆春を告げる花たち
 15年ほども前に今の家に引っ越した時、猫の額ほどの庭ができた嬉しさから、幾つか花が咲く木を植えた。冬の間は、生垣にした山茶花が咲いているが、春になると沈丁花を皮切りに、春の花が次々と花をつける
 去年3月の東日本大震災のすぐ後には、放射能が心配される雨の中でヒュウガミズキが黄色い小さな花をつけ、続いて、例年通りレンギョウ、シモクレン、海棠、ライラック、コデマリ、山吹、ハナミズキ、馬酔木、ドウダンツツジ、モッコウバラ、最後に金木犀と花たちが季節を告げた。

 これらは、一頃、植木屋に行って物色しては植えた木たちだが、やがて植える場所がなくなり、海棠やレンギョウなどは、大きな植木鉢を見つけて植えたりした。碌な手入れをしていないのと、私も興味が薄れたのとで、この15年の間にも、気に入っていた、つつじの一種のエゾムラサキや黄木蓮(これは大きくなりすぎて切らざるを得なかった)、クチナシなどが姿を消した。鉢植えの百日紅も花をつけなくなって久しい。

◆家の海棠が消えた!
 そして今年。近所を散歩していて、突然あることに気がついた。家々の庭にある海棠がピンクの花をたわわに咲かせているのを見て、「そう言えば、うちの海棠はいつ咲くのだろう」。そう思って、散歩から家に戻り、植木鉢を置いていた場所を見ると影も形もない。駐車場の入口のそばにあったのだが、どうしたのか。その海棠は背丈が2メートルほどの大きさに育っていて、去年は、結構見事な花を沢山つけていたのに。
 家に入ってカミさんに「どうも、うちの海棠は植木鉢ごと誰かが持って行ってしまったらしい。誰が、いつ持って行ったのだろう」と言った。それは持って行こうと思えば、簡単に持って行ける場所にあった。

 もう一度、植木鉢があった場所に行って、海棠に何があったか考えてみたが、何も思い浮かばない。「つぼみが膨らんで来たのを見て、持って行ったのかなあ」、「大きな植木鉢だから、車に乗せて行ったわけだよなあ」。
 カミさんも「でも誰が持って行ったのかしら。何か気持ち悪いわね」などと話していたが、突然、「でもあなた、あれは去年枯れたとか言って伐ったんじゃない?」と言いだした。「えぇ!そんな覚えはないけどなあ」ともう一度外に出て仔細に見渡したら、庭の隅に土だけが入った植木鉢があって、表面に雑草が生えている。それを見たとたんに、枯れてしまった海棠の根を苦労して引きぬいたことをおぼろげながら思い出した。

◆減退する記憶力
 空の植木鉢を見ながら、だんだん思い出した。去年の春、花をつけた後、何故かそれはみるみる枯れてしまったのである。そのころ、同じようにカエデの枝が枯れ始め、一瞬「これは、放射能雨に当たって枯れたんじゃないか?」となどとも思ったが、本当のところは、小さな葉が出る頃になって虫が付き、葉からの養分が取れなかったために一気に枯れてしまったのだろう。そんなことまで思い出した。
 カミさんにそう言うと、「やっぱりそうでしょ。私よりあなたの方がよっぽど心配よ。大丈夫?」と馬鹿にされてしまった。それにしても、他人の家の海棠を見て、「うちの海棠は去年枯れてしまって残念だ」とは思わず、「あれ、うちの海棠は何故咲いていないんだろう?」と思ったところが情けない。記憶力の減退がかくも急速に進んでいるのか

 記憶力の減退については、もう一つある。先日の日曜日、久しぶりにN響を聞きに行った。ロジャー・ノリントン指揮のヴェートーベン「交響曲第3番、英雄」。聞いた後、一緒に行った友人に「いい演奏で懐かしい感じがした。それにしても英雄を聞くなんて何十年ぶりだろう」、「多分、地方に転勤した独身時代以来じゃないかなあ。あの頃は、レコードでよくクラシックを聞いたから」などと、話しながら帰った。
 ところが、後日何気なく、私が持ち歩いているiPodを見たら、楽曲リストの中にちゃんと「英雄」が入っているではないか。先日「マーガレット・サッチャー」の認知症について書いたけれど、自分の方がかえって心配になってきた。

◆原発事故から一年経って
 話を春の花に戻す。去年の原発事故直後に、可憐な黄色い花をたくさんつけたヒュウガミズキだが、あれは、原発事故の先行きが全く見えていない頃だった。計画停電の暗がりの中で、こたつに湯たんぽを入れ「原発事故を心配し過ぎて体を壊すのは意味がない。それより生き延びて事故の行方を見届けたい」などと悲愴な気持ちになっていたのを思い出す。ヒュウガミズキの黄色い花が雨に打たれているのを見て、「来年、これが咲く頃にはどうなっているかなあ」などとも思った。

 嬉しいことに、家のヒュウガミズキは今年も沢山の花をつけてくれた。先日の「爆弾低気圧」で、一気に散ってしまったが、今のところ枯れるような心配はないようだ。ただし、一方の原発事故の方は、一年経ってもその余波が収まりそうもない。事故の収束はもちろん、日本の原発全体もどうなるか先が見えない。そして、少なくとも確かなのは、自分が生きている間に事故の完全な収束を見届けることは出来ない、ということである。
(しばらく旅行に出かけますので、更新をお休みします)

映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」 12.4.5

 2度目のアカデミー主演女優賞を受賞したメリル・ストリープの映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」を有楽町のマリオンで観ました。イギリスのサッチャー元首相は現在、86歳。首相退任から18年経過した2008年、娘のキャロルは2000年頃からサッチャーの認知症が進み、夫が死んだことを忘れたり、首相時代の出来事さえも忘れたりするようになっていると公表しました。
 映画は、その認知症が進んだサッチャーの日常生活を軸に、雑貨屋の娘としての少女時代、夫のデニスとの結婚。雑貨屋という下層階級出身にして女性というハンデから白い目で見られ続けた政界進出、保守党党首への立候補、そして首相へといった、政治家サッチャーの回想が挿入される形で展開します。

◆女優のメリル・ストリープが演じるサッチャー
 かつてNHKのBSに「アクターズ・スタジオ・インタビュー」と言う名番組があって、女優のメリル・ストリープが出演したのを見たことがありますが、その時の、彼女の受け答えが感嘆するほど知的でした。この映画でも、彼女は計算し尽くした演技を見せてくれます。政界進出した前後の発音の変化、また政治の修羅場をくぐり抜けて行くうちに、表情から身のこなし、演説の声質まで堂々として来て、実際のサッチャーそっくりになっていきます。

 そして、認知症を患い、栄光の首相時代とは別人のようになった現在のサッチャー。ハリウッドのメーク技術によって、顔から喉、そして手の皮膚まで、リアルな老人に変貌したメリル・ストリープは、記憶もとぎれとぎれになり、不自由に足を引きずり、死亡した夫のデニスの幻影と会話する日々です。
 認知症のサッチャーは頑固に老いに抵抗しようとしますが、症状の進行は如何ともしがたい。時にはかつての名演説のようなしっかりしたセリフが口を突いて出てくるけれど、それがかえって痛々しい。そこには、確かに「鉄の女の涙」が流れていて、こうした鮮やかな対比とち密に計算された演技が、彼女に主演女優賞をもたらしたのだと思います。

◆映画は何を描こうとしたのか
 しかし、この映画の読後感は、必ずしも良くない。苦いコーヒーを飲んだ時のような重苦しい感じが胃に残ります。過去の栄光に包まれた政治家の老残を、(事実とはいえ)ここまであからさまに描く動機は何なのか、それが素直に伝わってこないのです。あまりに真に迫っている認知症の姿を見て感じるのは、「人間はなかなか死ねないものだ。老いるということは、大変なことだなあ。」という重苦しい実感。それが観ている方の心を固くして、映画に必要なカタルシス(感情の浄化)が沸き起こってこない。

 とはいえ、強いてこの映画のユニークな点を挙げれば、認知症に悩む主人公が他の誰でもなく、過去にイギリスという国の運命を担った偉大な宰相政治家だということでしょう。彼女の頭の中には、政治家としての数々の栄光と汚辱の記憶が詰まっているわけです。それがまた現在のサッチャーを翻弄し、苦しめるのですが、そこにこそ、この映画のテーマが隠されているように思います。

◆サッチャーの栄光と汚辱
 ご存知のように、首相の座にあった1979年から1990年までの11年間、サッチャーは「鉄の女」に相応しい妥協のないリーダーシップで、当時「英国病」と言われたイギリスの改革にあたりました。サッチャリズムと呼ばれる、その経済政策は自助努力を全面に押し出した新自由主義的なもので、国有企業の民営化と規制緩和、消費税増税、教育改革などを断行します(レーガン、中曽根、小泉につながる流れですね)。
 彼女の強硬な経済政策は、一方で、労組のデモやストライキ(映画ではごみ収集が止まってロンドン中がゴミの山になります)など、国内に様々な軋轢を生み、失業率の増加などによって、弱者の切り捨て、血も涙もない政治家との批判も浴びせられます。

 そのサッチャーが支持率で息を吹き返したのが、1982年にアルゼンチンとの間に勃発したフォークランド紛争でした。この時、彼女は決断の重圧に苦しみながらも、断固とした反撃に打って出て領土を奪い返します。メリル・ストリープのサッチャーが栄光に包まれる瞬間です。
 その後も、その勢いを持続しながら専制的に政治をリードしますが、やがてさらなる増税(人頭税)やEUへの参加拒否などが周囲から批判されて孤立し、退位を余儀なくされます。その後を継いだ労働党のブレア首相は、サッチャーの政策を次々と転換したといいます。

◆過去の劇的な記憶の数々を引きずる
 英国内では毀誉褒貶、評価が相半ばする彼女ですが、国際的な評価を含めて、やはり彼女は偉大で輝かしい実績を残した政治家には違いありません。2007年には、チャーチルと並んで国会議事堂内に銅像を建てられるという栄誉も受けています。しかし、問題は、こうした過去の栄光の記憶が、認知症になった彼女の今を苦しめているということです。
 政治家としての数々の駆け引き、孤独で難しい決断、男性社会から受けた屈辱、IRAのテロによる宿泊先での爆破体験、断固たる開戦の決断、メディアからの批判、勝利の栄光。政治家がくぐり抜けて来た劇的な記憶の数々が、整理がつかない霧がかかったような認知症の頭に次々と現れる。政治家の老後は確かに一般人以上に、厄介なものだと思います。

◆政治家の老後に書かれた回想録
 政治の第一線を去った後も、過去の記憶が次々と蘇ってきて心が乱れる。それは、劇的な政治生活を経て来た偉大な政治家に共通の現象かもしれません。彼らが引退後に回顧録を書くのは、そうした記憶を整理する必要に駆られるからだと思います。
 私がまだ読書の体力がある若い頃に読んだ「ドゴール大戦回顧録」、ウォーターゲート事件で失脚した後のニクソン元大統領の「ニクソンわが生涯の戦い」、李登輝の「台湾の主張」、そして近年の中曽根康弘元首相の「自省録」など。それらは、単なる履歴書ではなく、政治家として自分がやってきたことを歴史の中で整理し、意味づけたいと言う欲求に突き動かされたものだと思います。そこには、自分の政治信条、歴史感覚や時代感覚、マスコミ批判、同時期に政治の世界にいた人物の批評などが書かれていて、第一級の読み物になっています。

 実は、(私は読んでいませんが)サッチャーも
「サッチャー回顧録―ダウニング街の日々」(上下、1993)を出版していて、偉大な政治家の仲間入りを果たしています。しかし、惜しむらくは、サッチャーはその後が長かった。政界引退から回顧録執筆、そしてその後に続く長い老後をどう生きるのか。
 映画では、机に積み上げたその回顧録に、彼女が次々とサインをするシーンが出て来ますが、認知症の彼女はそこに夫の名前を書いてしまいます。今や、回顧録に書いた内容さえも彼女の頭の中では定かでなくなっているのかもしれません。2004年に93歳で死亡したレーガン元大統領も晩年は認知症(アルツハイマー病)だったといいますが、超高齢化時代になって、偉大な政治家が平穏に死を迎えるのも容易ではない時代になったと思います。


◆日本にいま、回顧録を出せるような政治家がいるか
 そうした偉大な政治家の特異な終末を描いている点では、この映画はユニークだと言えます。しかし、このシナリオアを書いた作家は本当にこういう問題意識で書いたのか、あるいは単に偉大な有名人の栄光と老醜の対比を書きたかったのか。それが私には分からないのです。
 翻って、もう一つ感じることは、今の日本に回顧録を残すような政治家が一人でもいるかということ。歴史感覚と時代感覚を持って、自分の政治信条を語ることが出来て、しかも権謀術数の限りを尽くして大事をなす。そういう政治家が見当たらないのは、とてもさびしい気がします。

風邪を引いて考えたこと 12.3.15

 久しぶりに風邪を引きました。その直前に泊まりに来た1歳の孫娘が帰宅後にインフルエンザになったというので、それかと思って医者に行って体温を測ったら案外な低体温(35.5度!)。「多分、検査しても分からないでしょう。花粉症かもしれませんね」と言われ、風邪にも、花粉症にも効くという薬をもらって帰りました。
 しかし、喉の痛み、大量の鼻水、咳と一直線にたどって、ついに発熱。それが、体温にすれば37.6度が最高で、それより高くはならない。インフルエンザではないと思いますが、普段が低体温なので結構こたえます。心臓の鼓動が早くなって布団に横になっていてもなかなか寝付けない。頭痛もします。
 (私はずっと一人寝が習慣なので)豆電球の下でじっと横になっていると、普段はあまり考えないようなことまで色々と考える羽目に。今回は、その時の想念の幾つかを書きつけてみました。

◆時とともに明瞭になる、亡くなった人々の印象
 一つが、亡くなった人々の記憶についてです。自分の死はともかく(これはまあ、いずれゆっくり確かめて書きたいと思いますが)、これまでの自分の記憶に残っている亡くなった人々の印象について。考えてみれば、それなりに年を重ねて来たせいで、もう多くの友人、知人が鬼籍に入っています。近しい人だけでなく、報道や読書などから社会的にも、歴史的にも実に多くの死を記憶に蓄積したことになります。
 亡くなった友人、知人について言えば、近年折にふれて想うことがあります。それは、彼らはもうこの世にはいないけれど、時を経るに従ってレンズの焦点が合うようにくっきりとした一つのイメージ(印象)を記憶の中に結ぶ、ということです。それは、暗室の中で写真を現像する時のように、記憶という印画紙の上に次第にはっきりと定着して来る、と言ってもいいかと思います。

 そのイメージは、私にとっては、それだけ、と言った感じになって定着して行くのです。それもいつの間にか、知らない間に。そのようにして友人も知人も印象として残って行きます。印象と言っても、別に顔や姿の映像を伴うものではなく、むしろ、その人のエッセンスのような仕草や言葉が当時の自分の心に引き起こした波紋のようなものかもしれません。
 今の私と殆ど同じ年齢で死んだ父、世話になった先輩や友人、そして生前にそれほど親しくなかった知人でさえも、思い出す限りは一つの明瞭な印象として浮かんできます。それは時として、とても懐かしい気持ちを呼び起こします。

◆3.11の大震災。日本人の時間に流れる死者の記憶
 そんな風に思っていると、今自分を取り巻いて流れている現世の時間も、亡くなった人々の様々な記憶を溶かし込みながらゆっくりと流れている川のように感じて来ます。そして、去年の3.11のような大震災を経験した後では、日本全体に流れている時間も、同じように亡くなった多くの人々の記憶を引きずりながら、大河のように流れているのではないか。そんな風に感じるのは私ばかりではないように思います。

 去年の日本は、震災で2万人近くの人々が犠牲になるという、あまりにも多くの死を体験しました。それは単なる数字ではなく、幾つもの心を揺さぶるエピソードとして伝えられ、人々の記憶に強い印象を残しています。
 例えば、今年3月12日の毎日新聞の見開き2ページにわたる写真構成「それでも、生きる」には胸を突かれました。新聞中央に載っているのは、亡くなった母親の遺影を抱いてはにかむように立つ、5歳の佐々木舞凛(まりん)ちゃんの姿。「この1年、『ママに会いたい』と言わず、周囲の大人を困らせることをしなかったという」とあります。

 一つ一つのくっきりとした哀しみが報道されて、人々の記憶に印象を残していく。それが今の日本全体を流れる時間の中にも鮮やかな影を映している。こうした亡くなった一人一人の記憶が集合して、大量に集積した時に、その社会には何が生まれて来るのでしょうか。
 それは多分、「今までは確固としてあると思っていた人やものがもろくも崩壊して、はかなくなってしまったこと」に対する様々な心情的反応ではないでしょうか。例えば、「命のはかなさ」、「移りゆくもののはかなさ」を実感することから来る無常、あるいは現代の科学技術文明が砂上の楼閣だったという呆然とするほどの空しさ。
 今月の「文芸春秋」には「大震災・作家100人の言葉」が載っていますが、今の日本人の気持ちに見え隠れする様々な心の揺らぎも実は、亡くなった膨大な死者の記憶と無縁ではないように思います。

◆戦乱と天変地異の国、日本の心情
 さて、こうした心情は過去、天変地異や戦乱で多くの死を観て来た日本社会の底流に流れている普遍的な心情に通じるものかもしれません。12世紀末の日本で、度重なる地震(元暦の地震など)や大火、竜巻などの天変地異、4万人を超える餓死者などを見聞した鴨長明が「方丈記」の冒頭にご存知のような文章書いています。
 「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」
 ただし、鴨長明の無常観も堀田善衛にいわせると、その無常を慨嘆すると言うのとは違って、冷徹に突き放して観察すると言うのが真骨頂のようですが(「方丈記私記」)。

 その、堀田善衛の「方丈記私記」にも、67年前の3月9日の東京大空襲でやられた人々の凄惨な様子が描かれています。
 
「罹災者たちのほとんどが鼻の傍らに黒い砂、あるいは灰をため、目のふちはもっと黒く、灰や埃で目尻や口のまわり、顔の皺などもあらわに刻み込まれ、一様に、すべての人が涙を流してよろよろと歩いていた。泣いているのではない。火と煙で目をやかれ、痛めつけられたのである。」
 その時の死者10万人。さらに広島、長崎の原爆。本当に日本は多くの死を経験してきたわけです。意識するとしないに関らず、今この日本を流れる時間の中には、確実に多くの死者への記憶がまじりあっているだろうと思います。

◆自分の死について
 薄暗がりで目を開けながら、自分が死ぬと言うことについても考えてみました。しかし、その時の正確なところを思いだそうとしても言葉にするとどうも違うような気がします。
 「まあ、このまま死ぬと言うようなこともあり得るかもしれないなあ。それはそれで仕方がないのだろうなあ」とか、「死ぬと言っても、苦しむ苦しまないの違いはあるけれど、こんな風に寝ているうちに意識が混濁して消えていくのだろうなあ」とか。(まだ何の覚悟も出来ていないので)確実なことは何も言えないのが正直なところです。
 しかしそれでも、昔は、死ぬと言えば、平らなところを歩いていて突然、奈落の底に落ちるような極端な落差のように思っていましたが、最近はどうもそれほど大きな変化でもないような感じもしています。(もう少し、真面目に考えなければいけませんね)

老学者の人間賛歌と瑞々しさ 12.3.4

 (最近の読書から)
 厚くもなく読みやすい本だったが
「始まっている未来 新しい経済学は可能か」(宇沢弘文と内橋克人の両氏の対談)を読み終わって改めて今の日本が置かれている状況を知った感じ。私もこの先何年生きるか分からないけど、死ぬまでにこういう人たちが取り組んで来たことの一端でも理解することが出来るのだろうか、と思います。

◆「始まっている未来 新しい経済学は可能か」から
 例えば、これまでに、私がごく感覚的に書いて来た格差や地球環境の問題、アメリカの金融破たん、小泉改革や市場原理主義の弊害。あるいはTPPの問題。こうした問題が手に取るように明快に宇沢氏の人生の航跡の中に位置づけられています
 彼が歩んで来た歴史は、現在の経済学が良くも悪くも歩んで来た歴史であり、その中で彼は人間らしく生きるための経済学とは何かを模索し続けてきました。その功績がローマ法王、ヨハネ・パウロ2世に信頼されて100年に一度の世界の信徒に発するメッセージ(レールム・ノヴァルム)に関ったり、文化勲章をもらったりする所以だったのだと思います。

 宇沢氏のこうした真摯で明快な生き方と学問的実績の前では、今の日本のいい加減な経済学者たち(中谷巌のようにアメリカの受け売りの市場原理主義で時の政権にとりいる。しかも自分たちの行った結果責任も取らず変節する。竹中平蔵に至っては若い時に同僚を騙して学説を独り占めにする、など)は厳しく批判されても何も言えないだろうと思いますが、同時に、こうした不誠実な学者に引きづり回れて来た日本の不幸を思わざるをえません。

◆今の日本が引きずっている構造的欠陥
 私は、彼が地球環境問題に貢献した人に与えられる「ブループラネット賞」を受賞した時、その講演を聞きに行ったり、TPPに対する反対の論を読んだりして来ましたが、内橋氏との対談「始まっている未来」からもまた、幾つか考えてみたい日本にとって大事なテーマが浮かんで来るように思いました。
 例えば、以下のようなテーマは今の日本が抱えている構造的欠陥に関るものであり、これからの日本を考える上でも他の事象と関連付けながら真面目に検証すべきテーマだと思います。

@借金1000兆円の元をただせば
 現在の日本が抱えている1000兆円もの借金の大本は、1989年の「日米構造協議」でアメリカから押し付けられた内需拡大のための630兆円の公共投資だということ。それもアメリカから、その投資が日本の生産性向上に結びつかないようにするという理不尽な約束までさせられ、結果、全国にレジャーランド建設が流行し、さらなる借金につながったこと。これは日本がアメリカの植民地(搾取対象)になったと同様の象徴的政策だったこと。

A熟議の国会とは何か、そのモデルケース
 地球環境問題では、1991年にスウェーデンが宇沢氏も提唱していた「炭素税」を導入。その時の議論のプロセスが、これぞリベラリズムの理念に適った国会運営の結果だったことです。
 まず、税制の全体を議論する本委員会を国会に設置、本委員会には議員数に比例させてメンバーを割り当てる。委員会の下に作られた専門委員会は、各関係省庁の官僚、NPO、一般市民代表、研究者で構成され、それが2年かけて専門家としての議論を続け、2つの案にまとめて本委員会に上程。本委員会ではまた1年かけて、是正の抜本改革を実現させた。

 3年の熟議の末に、世界に先駆けて「炭素税」が導入されたわけですが、ドイツも1999年に、税体系全体を環境に配慮した税体系(グリーン化)にして、環境税の一つ「エネルギー税」を導入しています。脱原発もそうですが、社会全体の価値観の転換(パラダイムシフト)を図るためには、一朝一夕にはならずに、この位の熟議が必要だと言うことです。日本でも最近は良く「熟議の国会」などと言われますが、理想からは程遠い状態。民主主義を機能させる一つのモデルがここにあるのではないかと思います。

B諮問委員会、似て非なる日本の政策決定プロセス
 アメリカの経済諮問会議のあり方は、小泉内閣が恣意的に展開した経済財政諮問会議などとは似て非なるものです。メンバーはフルタイム、大学教授などもその間はワシントンDCに住んで仕事に専念する。会議はホワイトハウスの中におかれているが、大統領はもちろん政治家も委員会に口出すことは一切ない。委員会の基礎的な資料、方針をまとめるスタッフ・ディレクターには学者として最高の人がなる。
 ところが日本は、全く片手間に、官僚が用意した書類をそのまま、あるいは総理に言われたことをその通り実行に移す。以前に私が書いたように、諮問委員会がアリバイ作り、隠れ蓑になって官僚や政府がやりたいようにやるのが日本なのです。これは、国家の仕組みそのものが問われる問題で、原子力の規制委員会(NRC)などの成り立ちにも関係して来る問題だと思います。

◆大学者の青春時代
 以上のようなテーマはまた勉強しつつ書いて見たいと思っていますが、それにしても印象的なのは、宇沢氏が若い時に留学したスタンフォード大学でのエピソードです。日本の同僚学者によって論文剽窃の疑いをかけられるような立場に追い込まれて、その疑いを晴らすために猛烈な勢いで次々と論文を発表したこと。その中で本物の学者たちに助けられ、人間的な信頼関係を築きながら貴重な学術的成果を挙げて来たことなどが、実に人間味あふれる言葉で述べられています。

 学者が若い時を回想した本と言えば、有名な免疫学者で文化功労者にもなった多田富雄氏の本「ダウンタウンに時は流れて」。最近読みました。2009年の出版ですから、脳梗塞で体の重い麻痺を抱えてからすでに8年経っている時の著作です。その不自由な体で、若い時にアメリカ、コロラド州デンバーに留学した時の思い出を瑞々しい感覚で綴っています。
 彼のドキュメンタリー「脳梗塞からの“再生”〜免疫学者・多田富雄の闘い」(NHKスペシャル)を見て以来、寡黙なる巨人を読み、彼の創作能「花供養」などを観たりしてきました。その彼がデンバーでの下宿暮らしや、通っていた下町のバーでの人間模様について書いたものですが、そこに流れている青春時代特有の輝き(彼の言う「青春の黄金の時」)にある種の羨望を覚えました。

◆瑞々しい感覚を持ち続ける
 感心することは、宇沢氏にしろ、多田氏(脳梗塞で倒れた後も、反核の創作能を作り、厚労省が決めたリハビリ日数期限制度への反対運動を展開した)にしろ、功なり名を遂げた大学者ですが、その人柄の芯にあるのは、極めて人間的な曇りのない優しさ、瑞々しい感覚だということです。貧富や地位や組織に捕らわれることなく、まっすぐに優しく人間を見つめるということ。そういう人々の幸せのために学問をするということを、自分の学問の根底においていることです。

 宇沢氏は経済学に人間の心を取り入れることに苦心してきた学者ですが(「経済学と人間の心」)、そのもとになっているのは、人間に対する優しさや信頼、弱者への配慮など。それが老年になってからもなお、瑞々しい感覚で息づいていることが稀有なことに思えます。それは、何もかもを金もうけの対象にして人類が大事にして来た「社会的共通資本」(自然環境、社会的インフラ、制度資本)を破壊して来た市場原理主義の申し子たちには、毛ほども見られない特質だろうと思います。

老人性モラトリアム? 12.2.15

◆老人性モラトリアム?
 このところの心境としては、様々な方面に思いが行くけれど、結局目の前の雑事に追われて、自分が本当にやりたいことが分からなくなっている感じ。心のどこかでは、市井の隠遁者として井戸の底から覗くように孤独に時代の行方を見つめて、見えて来たことを「コラム」に書いたり、あるいは自分なりの感覚で絵を描いたり、したいと言う思いがあります。(気恥かしいのですが)できれば自分を「市井の表現者」と規定して、ごくシンプルに生きていければと言う思いがあります。
 しかし、現実はそうはなっていません。現役時代、自分なりに「これが仕事だ」と思ってやって来た次元から言えば、(ボランティアと言ってもいいような)ごく気楽で責任のない業務に従事して結構忙しく暮らしています。それはありがたい一方で、自分が想像する表現者としての生活からは、かなり隔たりがあります。この中途半端なもやもやした感じはいつまで続くのでしょうか。

 「そういうのを初老性うつ病というのでは?」と友人に言われましたが、自分としては原因は分かっている気がしています。多分、定年で社会的には何者でもなくなって「自分が何者かはっきりしなくなったこと」が大きいのではないか。それで気持ちが揺らいでいるのだろうと思います。
 もう残りの人生も少ないのだから 、思い切って何からも自由になって好きなことを突き詰めてみたい、と思う一方で、いざそうなったら孤独に耐えられるか、少しは社会ともつながっていた方がいいのではないか、などという思いの間で揺れているのでしょう。次のステージに落ち着くまでのあいまいな心境なので、私はこれを勝手に
「老人性モラトリアム」と呼ぶことにしました。

 前回の冒頭に垣添さんが最愛の奥さんを亡くすと言う過酷な体験をした話を書きましたが、この「老人性モラトリアム」は、(若者の「モラトリアム」と同じで)覚悟を決めるべき現実に直面すれば必然的に脱しなければならない、一時(いっとき)だけ許される心の状態かもしれません。

 私の方は幸いに、そういう過酷な現実を体験せずに済んでいるのは、ありがたいと思いますが(大体、私の方が先に死ぬ確率の方が高いと思いますし)、先輩たちもこうした心境をどこかに抱えながら、残りの人生とどう折り合うのか模索しているのだと思うのです。「老年の自分探し」とも言うべき、この中途半端な心境がいつになったら消えて行くのか、少し注意して観察して行きたいと思います。

*16日のFBから
 きょう試写会で観た映画「オレンジと太陽」。1970年まで続いていたイギリスとオーストラリアを舞台にした、幼児たちの大量移送。実の親たちにも内緒で里子として送られた子供たちが成長して「自分は誰なのか」と疑問を持ち、まだ見ぬイギリスの母親たちを探す。その事実に気づいた一人の英国のソーシャルワーカー(エミリー・ワトソン)が身を挺して事実の追求に乗りだす。
 送りこまれた子どもたちの数は13万人。2009年と2010年にイギリス、オーストラリア両国の首相が正式に謝罪したこの歴史的汚点を映画化。ジム・ローチ監督(ケン・ローチの息子)の初めての映画ですが、これぞ映画!という圧倒的技量と、子どもたち一人一人がたどった物語に涙しました。主役のエミリー・ワトソンが素晴らしい!いるんですねぇ、こういう女性が。(4月15日岩波ホール公開)

サイゼリアの片隅から(3) 12.2.15

 今朝の4時過ぎでしたか、ユラリと揺れを感じてラジオを入れると、懐かしい石澤アナのラジオ深夜便。その時、たまたま垣添忠生さん(国立がんセンター名誉総長)が話をしていて半時ほど引き込まれました。40年も連れ添った最愛の奥さんが、1995年に最初のがんが見つかってから2007年12月31日に亡くなるまでの経緯を、一つの見逃しもないような明晰で、しかも情感のこもった話ぶりで話されていました。

 去年11月16日の講演会での元気な話ぶりからは想像できませんでしたが、最愛の妻を亡くした後、(お二人に子どもがいなかったこともあるのでしょうか)垣添さんは孤独の中、暗いどん底にいるような気持で食事ものどを通らず、眠れず、何カ月も酒びたりの夜が続いたそうです。やがてその「砂をかむような」毎日から、一筋の光を得て立ち直って行く。その話は明朝だそうです。垣添さんは4歳年上ですが、様々な死が決して遠い存在ではなくなった自分にとってもいろいろと考えさせられる話でした。

◆サイゼリアの片隅での読書
 さかのぼって昨日は、天気が悪く寒々とした日。切り抜いた一週間分の新聞記事、芥川賞作品が載っている「月刊文芸春秋」、読みかけの本などを持って暖房がききすぎる位のサイゼリアに行きました。最近はちょっと体重が増え気味なので休日には昼食を抜く実験をしているのですが、この時間になるとどうもいけない。コーヒーなど飲み放題の「ドリンクバー」だけでは物足りず、何か腹にたまるものも頼むから結局、体重は減らない。まあ、それはいいとして、そこでぼーっとしている間に読んだ本や最近の鑑賞のことなどを。

 まず、先日発表された芥川賞と直木賞。(発表の前から読んでいて)映画化を考えていた友人に感想をと言われて「蜩(ひぐらし)ノ記」(葉室麟 直木賞)を読んで見ました。江戸時代、幽閉の身で藩の歴史を編纂しつつ、10年後の切腹を命じられた武士の話。全編に流れている「人を思いやる気持ち」は美しく感動的です。
 ただ、連載ものらしくその都度、話を引っ張って行く小道具はいろいろと工夫されているけれど、難点は、全体通して見た場合に、武士が幽閉される原因が決定的に重要とは見えないこと。それをどうするか、というのが(もし彼がやるとしてですが)友人の悩みになりそう。
 芥川賞の2作は、目を通し始めましたが、中々先に進まない。去年の「きことわ」は読めたのですが、(石原氏ではないけど)もう共感できない賞になったのか。

◆最近の映画鑑賞から
 友人の映画の企画(いい企画が幾つもあるのですが)はだらだらと交渉が続いているのですが、話を聞いてみると今、全国展開の映画会社が乗る企画は、出版社が金を出して当てたい作品か、人気のコミックから翻案した作品か、人気のある俳優を使えるか、と言った企画ばかり。
 結局、企画の貧困でヒット作がなく金を回収できない。悪循環になっているようです。それ以外は予算の低い単館ロードショーになる。これまでの作品で赤字を出したことのない友人の企画が何故進まないのか、私も一緒に首をひねる日々です。

 そういう状況の中、「はやぶさ 遥かなる帰還」以後、(ある映像部門の審査委員をしているので、半ば義務で見ていますが)最近見た映画を列挙しておきます。「しあわせのパン」(ほのぼのとします。2月11日〜)、「風にそよぐ草」(86歳でアラン・レネ監督が製作、岩波ホール)、「金星」(下北沢トリウッド)、そして近々は「オレンジと太陽」(16日試写会)、「アンネの追想」、「汽車はふたたび故郷へ」(岩波ホール)など。それぞれに、評価すべき点が多い映画だとは思いますが、こういう状況でヒット作となるかどうか。

◆芸術のシャワー、江戸の情緒と音楽と
 その他の鑑賞としては、1月28日のFB(フェースブック)にも書きましたが。
『江戸春寿噺(えどのはることぶきがたり)。港区の区民センターで長いお付き合いの西松布咏師匠の小唄、端唄、新内と、春風亭正朝師匠の江戸の人情話をたっぷりと聞いて来ました。ブラタモリでもやっていた「吉原」を舞台にした唄と落語。
 落語は「文吉元結」ですが、普段ははしょる内容をたっぷりと一時間以上。老人性涙もろさで、情けないことにハンカチ片手に聞きました。恒例の打ち上げにも参加しましたが、こうして自分が選んだ芸一筋に打ち込んでいる人たちの心に触れることが出来るのは素晴らしいと思います。』

 クラシックや美術展も入れなければならないと思いますが、こちらの方は分かっても、分からなくても、とにかく聞いたり見たりして「芸術のシャワー」を浴びているうちに、何となく良さが分かって来ると言った程度でしょうか。カミさんの高校時代の恩師の娘さん(バイオリン、戸田弥生)が出ると言うので、「日本音楽コンクール80周年ガラ・コンサート」(2月5日)、それに「チャイコフスキーの7番、悲愴」(1月29日)などを聞きました。
 美術展からは足が遠のいています。以前に始めた「絵らしきもの」も、描こうという気持ちはあるのですが、もう一年以上取り掛かれていない。現役時代の仕事からは完全にリタイアしたのに、気持ちの上で何かが足りないのか。考えてみると、ごく個人的なことながら案外に普遍的な問題かもしれません。(次回に続く)

映画「はやぶさ 遥かなる帰還」 12.1.24

 1月19日、映画監督の友人と「はやぶさ 遥かなる帰還」の試写会に。渡辺謙主演、上映時間2時間16分の大作です。小惑星探査機「はやぶさ」については、この映画の他にすでに2本の映画が公開されているようですが、(ネットで荒筋を見る限り)この映画が一番まともにプロジェクトの使命や困難、科学者たちのドラマを描いているように思います。
 もちろん一般向けの映画としては、単に科学技術の成功物語にせず、危機に直面した時の科学者たちの葛藤や、町工場の父と新聞記者の娘との人間ドラマなども組み込んでいます。さて、こうした工夫が成功しているのかどうか。それを考えるために、去年放送されて私が大変感心したNHKのドキュメンタリー「大冒険!はやぶさ〜太陽系の起源を見た」を見直してみました。「はやぶさプロジェクト」の全容を知るには格好の番組です。

◆地球帰還までの数々のドラマ
 ご存知のように「はやぶさ」は、小惑星「イトカワ」に着陸して、そのサンプルを地球に持ち帰る「サンプルリターン」に挑戦した探査機です。「イトカワ」に到着した時は、地球から3億キロかなたの、電波の往復で40分近くもかかる距離。そんな遠くのしかも大きさが500メートルしかない小惑星からサンプルを持ち帰るのは、世界初の最高難度の挑戦でした。

 打ち上げから2年余りで「イトカワ」に到着。しかしその後、はやぶさは数々の危機に遭遇します。着陸の不調、再挑戦、46日間に及ぶ行方不明、姿勢制御不能、予定より3年も伸びた帰還、そして絶体絶命とも言えるイオンエンジンの停止。その危機を科学者たちが懸命の努力で奇跡的に乗り越えて行きます。
 文字通り満身創痍になった「はやぶさ」が地球に戻ってきたのは、打ち上げから7年以上も経過した2010年6月13日午後10時51分。夜のオーストラリア砂漠の上空、大気圏突入の熱で燃えてバラバラになり幾筋もの光になって消えて行く探査機本体と、その横を一筋の光跡を引きながら降りて来るカプセル。日本中に感動を与えた「はやぶさ」帰還のシーンです。

◆ドキュメンタリー「大冒険!はやぶさ〜太陽系の起源を見た」の感動部分
 はやぶさの使命である「サンプルリターン」は何のためかと言うと、それを調べると太陽系が出来た頃の岩石の組成や温度が分かり、さらには、どのようにチリが集まって岩石になり、惑星になって行ったかが見えてくるから。「イトカワ」のサンプルは、46億年前の太陽系誕生のなぞを解くいわばタイムカプセルというわけです。さて、使命を見事にやり遂げた宇宙科学研究所の「はやぶさプロジェクト」ですが、そのドキュメンタリーを見ていて、私がいたく感心したところは以下の点です。

・科学者たち一人一人の証言が実にいい
 科学者たちの証言がエピソードごとに出てきます。彼らの少年のような探究心と、求めているものについに出会った時の喜びが素直に伝わってきます。たとえば、着陸の手順に失敗したために一時は諦めたサンプルですが、回収した空っぽのカプセルを顕微鏡で見て行くうちに、100分の3ミリの小さなチリが見つかって来る。イトカワのチリです。カプセルを開ける時の緊張と発見した時の嬉しさ、未知のものに出会った感動。探究心とはこういうものか、と心打たれます。

・日本の科学技術のすそ野の高さ
 カプセルの中から見つかった数千個のチリは世界の科学者に配られて研究が続いていますが、研究レベルで日本は世界のトップクラス。その一つ、北大の同位体顕微鏡などは「はやぶさ」が宇宙に出かけている間に改良を重ねて、今や世界一の性能に。イトカワのごくごく小さなチリを分析することによって、イトカワの生成時期や温度まで分かって来ています。こうした世界最高水準の科学技術がはやぶさプロジェクトを支えていことが見えてきます。これにも感心しました。

・技術的困難を乗り越えるために、ありったけの知恵を絞る
 技術的山場は幾つもあるがその一つ。地球帰還に欠かせないイオンエンジンが停止した時、それを解決する妙案を見つけ出す。あるいはもう一つの山場、行方不明になった「はやぶさ」に向かって地球からひたすら電波を出し続けて、46日目についに発見する。一つ一つのピンチにプロジェクト全員の力が結集されます。そして、そこはさすが科学ドキュメンタリー、その技術的困難と解決策をCGなどで実に分かりやすく描いてくれるので、それが知恵の限りを尽くした危機脱出だったことが如実に伝わってきます。

最後を迎える「はやぶさ」に地球の姿を見せてやる
 7年以上の宇宙の旅の末にようやく地球に近づいた「はやぶさ」。大気圏突入の直前、科学者たちは「はやぶさ」のカメラを地球に向ける。最後にふるさと地球の姿を見せてやろうとするわけです。残った力を振り絞って地球にカメラを向ける「はやぶさ」。連続写真の8枚目に丸い地球が写っていました。撮られた地球はまるで涙でかすんでいるようにぼんやりしています。その直後、「はやぶさ」は、カプセルを地球に向けて生み落とし、自らはバラバラになって燃え尽きます。

◆人間ドラマを取り入れた映画「はやぶさ」
 7年に及ぶ「はやぶさ」の大冒険には、現実の話と思えないほどの感動的なエピソードがぎっしり詰まっていますが、90分のドキュメンタリーはそれを過不足なく伝えています。さて、話を映画「はやぶさ 遥かなる帰還」に戻しますが、こうした「はやぶさ物語」を映画化するのは結構難問だったと思います。そのミッションの困難さをリアリティーを持って描かなければならないし、劇場用映画としては科学ドキュメンタリーのように微細な解説も採用しにくい。しかも人を感動させなければならない。

 そこで映画が採った方法は、幾つかの人間ドラマを織り込むことでした。まず中心に据えたのが、山口駿一郎というプロジェクトのリーダー(川口淳一郎教授のモデル)。現実の川口教授は、数々の危機に出会っても動じずに「後で全く後悔しないようにしておきたい」と言う強い思いでプロジェクトをまとめ上げ、成功に導いた人。今の日本において稀有なリーダー像として、日本人の多くが感動したと思います。渡辺謙扮する山口駿一郎は、かなりその川口教授をうまく演じていると思いました。

 もう一つ、冒頭に書いた町工場の父と新聞記者の娘がいます。日本の科学技術の底辺を支えているのは、中小企業の技術力だとよく言われることですが、その視点を入れたのだろうと思います。しかし、こちらはどうだったでしょうか。はやぶさの高度なミッションに組み込むには、酒飲みのおやじと言い、あまりに類型的だったかもしれません。

◆「はやぶさ」プロジェクトの本質は何か。人は何に感動するのか
 結局、大事なことは映画の制作者が、あの「はやぶさ」プロジェクトの何に感動したか、と言うことだと思います。多分、制作者の主たる関心は、困難なプロジェクトに立ち向かった人々の人間ドラマ、それも意外に人間臭いドラマにあったのでしょう。
 その人間ドラマが成功したかどうかを判断する以前に、果たしてあの「はやぶさ」物語の感動のポイントは、そうしたことだったのだろうか、というのが私の感想です。(ドキュメンタリーの内容で詳しく書いたように)どうもポイントの置き方が違うかもしれないと思うのですが、それは人それぞれなのかもしれません。では、どうすれば私も(友人の映画監督も)感動する映画になったのか。(もちろん一見の価値はある映画ですが)難しい問題ですね。

しつこく書き続けると言うこと 11.12.9

 今年ももう師走。振り返ってみると、大震災直後の3月13日に「最悪に備えてあらゆる対策を」を書いて以来、この9か月間に書いた原発事故関連の「日々のコラム」は30回「日々のコラム一覧」)。1回は400字の原稿用紙にすると、およそ12、3枚なので原発関連のコラムを300枚以上は書いたことになります

◆時代に向き合いながら考える
 原発問題以外でも、時には目先を変えて「TPPを安全保障に結びつけるまやかし」、「ずるずると旧体質に戻りつつある民主党の変節」、「経団連(輸出企業)は国民に何をしてくれるのか」、「ネット時代に適応できないマスメディアの構造」、「接触率という数値目標を掲げたNHKの迷走」、「状況(バス)に飛び乗ると大事な理念を忘れる」、などなど。タイトルまでは出来ている、こうしたテーマについてもあれこれ考えているのですが、どうしても原発事故に戻ってしまう。一体どうしたことでしょうか。

 もともとこの「メディアの風」は、定年を迎えた私がこれから先、生きて行く上で考えなければならないテーマについて取りあげ、自分の考えを整理するために始めたもの(「開局宣言」)。「市民の立場で、時代の風を読み、生き方を考える」とあるように、一市民の立場からというのを言い訳に、気楽にマイペースでやって来ました。また、人生の半分以上をメディアの仕事で過ごした身としては、それがジャーナリストの老後として適しているかもしれないと考えて来ました。
 ところが、3月の大震災とそれに続く原発事故です。あまりに急な展開に、刻々と変化する事象の意味を探るので精一杯の日々が続きました。それは今も続いています。それだけ、この原発事故が未経験の深刻な問題を次々と投げかけているからだと思います。

◆原発事故に関して何を書いて来たか
 この9カ月、自分なりにしつこく、福島原発事故について書いてきました。事故の状況については、「国を挙げて事故処理に当たれ」ということから、「原発事故は何故人災なのか」、「原子力はトイレなきマンション、欠陥システム」を考える中で、「ハードで頑張っても人災で事故はまた起きる、脱原発しかない」、「エネルギー的に見ても脱原発はすぐにもできる」、「むしろこれからは、原発をどう看取って行くかだ」「事故調査で責任は明確になるのか」などを。

 同時に、放射能汚染の懸念についても書いて来ました。「漏れ出した放射能は77万テラベクレル。これはチェルノブイリと比較しても深刻」、「放射能汚染問題を直視せよ」、「放射能・正しく恐れるために。内部被曝とは何か」、そして最近は、「低線量被曝の影響はがんだけではない」などを。
 原発事故については、この先も「事故の全体像から目をそらさずに」、原子炉事故終息と廃炉に向けての取り組み、陸と海の放射能汚染の実態、除染の問題、被曝の影響と健康管理などを監視していくことが重要。それが日本の原子力政策の出発点になるべきだと思います

 福島の放射能汚染に関して最近気になっているのは、事故後25年経過したチェルノブイリ(ベラルーシ)で、様々な放射線障害が起きているという報告です。それは、日本の福島市と同じ程度(3万7千ベクレル以上/u)の「軽度の汚染地帯」でも起きているといいます。がん以外の様々な症状(非がん性疾患)については、朝日の「プロメテウスの罠」でも取りあげた、ベラルーシのパンダジェフスキー教授の報告書とか、「チェルノブイリ事故の人体への影響」(IPPNW編)といった、憂慮する科学者たちの報告も、ネット上ではすでに話題になっています。

 4月25日に日本の官邸は「福島とチェルノブイリの差は明らか」であるとして「放射能の影響は起こらない」と発表したけれど、チェルノブイリからのこうした報告はそうした見方を覆すもの。疫学的に見て、これらの問題提起をどの程度深刻に受け止めるべきなのかを巡っては、世界を二分した論争が続いています。では、お前はどうなのか、と聞かれれば、それも勉強しながら自分の考えを整理し、「書くべきだ」と思ったら書いて行く。それしかないと思っています。

◆しつこく、しつこく?
 「君、これは泥沼だよ」――「日々のコラム」の更新をメールでお知らせしている先輩と久しぶりに飲んだ時に言われました。原発問題は際限がないと言う意味かもしれないし、それにばかり深入りしている私を気遣ってくれたのかもしれません。TVドキュメンタリーの名作を作って来た、敬愛する先輩は「良く書いている」と励ましてくれたのですが、本当に際限がないかもしれません。あるいは、あまり原発ばかり書いていると、(説得力を疑われるようになって)却って損だというようなこともあるかもしれません。もう何のしがらみもない自由の身なのですが、難しいところです。
 その一方で、「しつこく、しつこく、です」と激励のメールをくれた先輩もいます。しつこく追求し続けなければ、原発問題の本質は分からない。あるいは、原発推進を目論む連中がすぐに息を吹き返してしまう、と言う意味でしょう。

 そう言えば、8月頃の新聞の切り抜きと今のを比べてみると、このところの雰囲気があまりに違うのに愕然とします。今にも脱原発が始まるかというような、その頃の雰囲気と違って今はそんなことを忘れたような。大事故などなかったように、
原子力の輸出に道をつけるための原子力協定を採択したり、原発は安全保障上必要だと言ったり。
 自分たちの利益しか考えない経済界や、その仲間の官僚や政治家たちは、「大事故だと言っているけれど、死者は一人も出ていないじゃないか」などと思っているのかもしれません。この人たちは、フクシマの現実をどこまで知ろうとしているのか。見ようとさえしなければ、環境中に広がった放射能は消えてなくなるとでも思っているのでしょうか。

◆何故書くのか、何を書くのか
 そこで話は戻って、この先自分は「何故書くか、何を書いて行くのか」ということです。一市民として、時代に向き合いながら、考えなければならないテーマについて、自分の考えを整理するために書く。それを親しい仲間に伝えて「まだ何とかやってます」というシグナルにしたい。これがHPを立ち上げた最初の動機でした。この「時代に向き合って生きる」という視点で、今自分が考えるべき最大のテーマは何かを考える時には、どうしても現に目の前にある「原発問題」にならざるを得ない。
 もちろん、戦争の危険や、国家破綻の危機が迫ってくれば、それも考えなければなりませんが、原発問題は間違いなく、日本の将来や子どもや孫の時代にも関る大きなテーマであり、地球や人類にとっても最大のテーマの一つだと、そう思うからです。
特に、先に挙げた「チェルノブイリ事故の人体への影響」(IPPNW編)の「序:チェルノブイリについての厄介な真実」の中の以下の言葉は重く響きます。(翻訳プロジェクトから)

 「(チェルノブイリ原発事故後の)この23年間で、原子力発電には核兵器より大きな危険が潜んでいることが明らかになった。チェルノブイリのたった一つの原子炉からの放射性物質の排出は、広島と長崎に投下された爆弾による放射能汚染を数100倍も上回った。どこの国の市民もだれひとりとして、自分が放射能汚染から守られ得るという確証を得られなかった。一つの原子炉だけでも地球の半分を汚染することができるのだ。チェルノブイリの放射性降下物は北半球全体を覆った。」

 福島第一原発では、3基もの原子炉で史上最悪のメルトダウンが起き、広島型原爆の168個分の放射性セシウムが放出されました。阿武隈川からは、地上に降った放射性物質が毎日500億ベクレルも海に流れ込んでいる。海への放射能汚染は北太平洋全体に広がりつつあります。それがフクシマの現実。いまだに苦しみが続いているチェルノブイリを見ても分かるように、その影響はこれから10年、20年、場合によっては50年と続いていく可能性があります。
 ジャーナリストの端くれとしては、こうした日本の歴史に残るような事象に立ち会っている以上、また身近に迫る憂慮すべき状況が進行していることを考えれば、やはり
「原発事故の全体像」から目をそらすことは難しそう3月13日以来9カ月。老骨に鞭打って書き続けて来て少々疲れ気味ですが、一市民の立場で、肩に力を入れずに、マイペースで。そして時々はもっと元気が出るテーマも書きながら、結構しつこくやって行こうと思っています。

サイゼリヤの片隅から(2) 11.11.27

 久しぶりの休日。午後のすいている時間を見計らって、読みかけの本と切り抜いた一週間分の新聞記事を持って近所の「サイゼリア」に。コーヒーを飲みながら、2時間ほどのんびり。最近の記事を丹念に読んでいると、何やら時代の転換点に立ち会っているような気がします。(まあ、いつの世も世界は何かしら動いているものでしょうが)そこで、幾つか目にとまった記事を拾い出してみます。

◆一週間分の新聞記事から
 例えば、ヨーロッパのギリシャに端を発したユーロ危機。浜矩子氏(同志社大教授)は、「危機は必ず中心部へ」という記事の中で、大きな危機は必ず周辺部から中心部に向かって裂け目を切り開いて行く、という卓見を述べています。今、危険な兆候は最強と思われていた中心部(ドイツ)に及ぼうとしていますが、今度はどこに向かうのでしょうか。
 今朝の「サンデーモーニング」では、田中秀征氏が「(自由主義経済の信奉者たちは)グローバル経済のいい点ばかりを強調して来たけれども、負の側面も見る必要がある」と言っていましたが、国内の足腰を鍛えずに、前のめりにTPPに参加したがっている日本にも通じる話だと思います。

 原発事故関連では気になる記事が。京大、筑波大、気象研究所が調べたところによると、東北の阿武隈川から海に一日当たり500億ベクレル!もの放射性セシウムが流れ込んでいる、と言います。500億ベクレルというのは4月に東電が海に放出した低濃度汚染水の総量に匹敵する量。あの時は漁協や韓国まで騒いだと言うのに、それが1日で流れ込んでいるわけです。さらに川の中流ではもっと多く、1日1700億ベクレルものセシウムが検出されている。
 その後はどこも後追いしていませんが、こういう記事を見ると、陸上もそうだけど、この先、海はどうなるのかと思いますね。海の汚染推計(1.5京ベクレル 日本原子力機構)も出ているけれど、私の見立てでは海の放射能はもっと多いはず。これも事故の全体像の一つとしてしっかり把握して行かなければならない問題だと思います。

◆明るい記事はあまりない
 さらに、野田首相が決めて来たベトナムへの原発輸出に関する賛成意見と反対意見の記事も。原子力はまだ必要、温暖化への貢献もある、技術の蓄積を生かす、アジアでの政治力学上必要など、無理無理、国が進める意義を強調している賛成意見(十市勉 日本エネルギー経済研究所顧問)。
 それに対して、建設コストの上昇、事故の賠償責任など、原発輸出の投資リスクは極めて大きい、国民の税金をこうした事業リスクにさらして儲けは一部企業にというのは不公平極まりない、政府も原子力ムラも事故から何も学んでいない、というしごくまっとうな反対意見(飯田哲也 環境エネルギー政策研究所長)。
これを読むと野田は何を考えているのかと思います

 その他、チェルノブイリ(ベラルーシ)の現地ルポ、TPPを巡る様々な意見、高速増殖炉「もんじゅ」の予算に関するいい加減な政策仕分け(これもいずれ書かなければ)、円高で苦境の自動車メーカー、などなど。あまり明るい話はありません。この手の記事に長い時間付き合っていると、次第に腹も立って来るので適度なところで切り上げて、本を読むか、何かいい話はないものかと考えます。

◆日本の良さを感じさせるいい話
 いい話で言えば、「釣瓶の家族に乾杯」ですね。前回は、高橋英樹と行った「愛媛県大洲市」。その中に出て来た手づくりのパン屋さんがありますが、創業者のおじいさんが素晴らしい。事故で寝たきりになりかかり、呼吸不全で声もまともに出なった彼は懸命にリハビリに努め、いまでは曲がった指で文字も書けるようになり、ハーモニカも吹けるようになる。3代の家族がそれを暖かく励ましてきた様子がじんじんと伝わって来ます。そのものすごく明るい様子に、本当は家族全員が励まされているのかもしれない。彼がハーモニカで吹いた曲が「ふるさと」なんですね。

 その2回前は、中村貫太郎と出かけた広島県安芸高田市。地元高校にこの地の伝統芸能を守り続ける神楽部があって、若者たちが稽古に打ち込んでいます。そのひたむきさに貫太郎も感激していたけれど、若者の一人が父親たちから受け継いだこの伝統芸能を守るために、地元に残るという話がまたいい。この番組は、地方にはまだまだ奇跡のような人々が沢山いることに気付かせてくれます。地方で暮らしが成り立ち、若者たちも増えるような、そんな地域活性化政策はないものか。

◆日本の良さを伸ばす地に足がついた政策がほしい
 今日の「サンデーモーニング」でも「時代の変革は若者から」と、東北に出かけて地域の活性化に取り組んでいる若者たちの活動を特集していました。地域が若者たちを引きつける元気を得れば、日本は立ち直るのではないか。地域主権と言って登場した民主党ですが、すっかり霞が関のいいなりで何も進んでいない。この欺瞞性(これも書きたい)を吹き飛ばすような元気な風を地方から播きあげてもらいたいですね。
 大風呂敷を広げて海外のあやふやな投資話に乗るのではなく、日本の強さ(財産目録)をきちんと把握して足元を見つめながら、それを生かして行く地に足の着いた政策こそ今求められているように思うのです。

 さて、サイゼリアで2時間ばかりぼーっとした後は、すっかり日の落ちた川沿いの土手をウォーキング。日本の良さ、強さをいろいろ数え上げる話はまたいずれ機会を見て書きたいと思います。

母の卒寿の祝い 11.11.13

 前日と打って変わって穏やかに晴れた小春日の一日。3月の震災で延び延びになっていた母の「卒寿の祝い」を無事に挙行することが出来ました。90歳で元気な母、母の妹達、いとこ、我々きょうだい、(母の)孫たち、ひ孫たち大勢が打ち揃って、まず35年前に死去した父の墓参り。3月の大震災で寺の墓所は多くの墓が倒れ散乱していまたしたが、お陰さまで我が家の墓は被害が少なくて済みました。
 全員が墓前に参列して(父が毎朝と唱えていた)「般若心経」をあげた後、墓所で母を中心に記念撮影。それから市内の割烹に移って食事会が始まりました。我々は4人きょうだいですが、それぞれの家族が母にお祝を述べながら近況報告をしたり、ひ孫たちが花束を渡したりと賑やかに進行しました。

 何しろ1923年の関東大震災(当時東京にいた2歳の母は、乳母に背負われて逃げたそうな)、太平洋戦争、そして3.11の大震災(その時は日立にいて、たびたびの余震にも見舞われ)を生き延びて来たわけで、全くおめでたい。ここまで長生きするとそれだけでありがたくなって、孫たちも母を人生のお手本というか、「守り神」のように思っているらしい。「いつまでも長生きしてください」などと神妙に挨拶しています。

 母の存在がなければ我々もこの世にいないわけで、そう考えると今日の集まりも感慨深いものがあります。80を超えた母の2人の妹たちも来てくれて、一人は福島から。疎開先の母の実家(福島県須賀川市)に身を寄せていた時、2歳位の私は一人で出かけて行方不明になったらしく「みんな青くなって探しまわったのよ」と叔母たちが言う。大分経って知らない人が届けてくれたそうな。こういう大御所が元気でいるのが奇跡のようで、まだ66歳の私などは、これから先なお90まで生きることを考えると気が遠くなります。

 9本のロウソクを立てたケーキを母とひ孫が一緒に吹き消して、皆で食べました。司会をした弟が今年の年頭に母が作った俳句を披露。「読み初めは 白寿の詩集 暾(ひ)が眩し」暾(ひ)は朝日の意、正月の朝日の中での読み始めでしょうか。白寿の詩集とは今話題の百歳の詩人、柴田トヨさんの詩集。弟の解説によれば、この句は「私も白寿をめざすという意欲が現れたもの」だそうです。
 今朝電話したら、会の終わりごろには出来たんだけど出しそびれて、と言いながらその時できた句を教えてくれました。
 
「小春日や 孫子(まごこ)が集う 卒寿会」。なんだかそのままのような気もするけど。

10月のフェースブックから 11.06

 文春11月号の「中小企業の海外進出おおいに結構」(中沢孝夫氏)の中に、こんな文章を見つけて思わず笑ってしまいました。『現実のグローバル化を生き抜いている中小企業は、国際競争力を身につけており、「悲観論の発生源」としての「非貿易部門」、すなわちマスコミ、金融、批評家(エコノミスト)、大学、行政、そして政治、といった領域で生きる人々とは異なった日々を送っている。』
 日々マスコミに登場しては悲観論を振りまいている、こうした「上澄みの人々」が如何に本当の現実からかけ離れて生きているか。実際に多くの中小企業を見て来た氏は日頃から腹立たしく思っていたのでしょう。

◆「上澄みの人々」と「大地に根差した人々」
 こうした現象は、どうも中小企業のことばかりではなさそうです。注意して見れば、「上澄みの人々」が作りだす浮ついた世情とは距離を置きながら、大地にしっかり足をおろして大事なことに取り組んでいる人々が沢山います。特に地方に行くとそういう「まともな人々」に出会ってほっとすることがあります。
 私なども時々、市井の隠遁者のように孤独に暮らしながら「何か根源的なこと」を考え、「井戸の底から声を発するように」書いてみたいと思ったりするのですが、根が軟弱でとても無理。せめて、そうした「まともな人々」に接することが出来ればと願うばかりです。ということで(?)、今回は、そういうことに関係あるかもしれない「10月のフェースブック」から選んでみました。

(10月23日)
 いつものメンバーで
「伊勢畑ふるさと村」(私たちが勝手にそう名づけた茨城と栃木の県境、常陸大宮市伊勢畑地区)に一泊。隣町の市貝町で行われた文化イベントに参加したり、ふるさと村の村長になって頂いている社長さんと酒を酌み交わしながら、地域おこしや日本の課題について議論して来ました。
 「円建てで仕事をしていれば、円高は恐れるに足らず」、「海外に出て行きたいならどうぞどうぞ」、「もの作りこそ日本技術の命なのに、大企業は技術者を大事にしない」などなど、世界に冠たる技術力を磨いて頑張っている地元中小企業の社長さんの話に感嘆しきりでした。そこは今時珍しい、派遣社員が一人もいない、全員が正社員の会社なのです。

(10月19日)
 BSプレミアムで放送のドキュメンタリー映画
「マザー・テレサ 母なることの由来」。1988年公開のものを2007年にデジタル化したもので、リバイバル放送ですが、5年もかけて取材しただけにその内容に圧倒されます。ひたすら神の声に耳を傾けながら、悲惨な現実に立ち向かう彼女は何ものをも恐れない。シンプルかつ揺るぎない信念で、愛を必要とする人々に手を差し伸べ続けた一生でした。
 同時に、様々な要素が複雑に絡み合った病める現代社会を前にすると、彼女のように
「物事をシンプルにとらえ直すこと」の今日性も感じます。それは今の社会にあって、愛を提供する人と愛を求める人たちなのか。富める者と貧しい者なのか。あるいは一部の支配者と支配される市民なのか。
 いまアメリカから世界に広がろうとしている
「We are the 99%」運動も、そうした「世の中をもう一度シンプルにとらえ直して、病んだ社会を変えたい」という欲求の高まりなのかも知れません。それがどういう社会的変革(あるいは革命)を生むのか、注目したいと思います。

(10月16日)
 「We are the 99%」運動が世界中で広がりを見せていますが、日本の場合は貧困層(99%)と一部富裕層(1%)の格差問題よりも、もっと深刻な状況があるように思います。それは
1%の人間が99%の国民の運命を左右している状況ではないでしょうか。 旧態依然の政官財(それにマスメディアも)の1%が、十分な議論もせずに国民の運命を勝手に決めている状況です。原発問題しかり、TPPしかり、財政再建策しかり。国民の声が分断され、有効に機能しない。日本の場合、「We are the 99%」はその99%の側に立って、直接民主主義を求めるうねりになっていかなければならないのでは、と思います。

(10月17日)
 昨晩のBSTBS。日本に帰化した日本文学研究者のドナルド・キーンと作家の平野啓一郎との対談
「果てしなく美しい日本」は、芭蕉の「奥の細道」や、兼好の「徒然草」など、日本人の美意識について。また、最近手にした彼と小池政行氏の対談「線上のエロイカ・シンフォニー」(藤原書店)は、キーン氏が見た日本人の戦争の話。
 世界にもまれな文学を残した、たおやかで繊細な美意識を持った日本人が、なぜあのような残酷で狂気に満ちた戦争に向かったのか。極端から極端に、振り子のように変わる
「わが民族の不可解」に、改めて大きな「?」マーク。 私たち日本人の精神に(たとえばヒューマニズムのような、あるいは個の確立のような)「棒のように貫く確固とした芯」が欠けているからなのでしょうか。日々目の前の事象に追われるばかりでなく、時にはそういう根源的なことを問いなおすことも必要ではないかと感じさせられます。

(10月27日)
 昨晩のサントリーホール。2千人の観客が水を打ったように一人のバイオリン奏者の演奏に聞き入っていました。会場の一人一人が、そしてN響の他のメンバーも一心にスポットライトの中の女性バイオリニストの超絶技巧に耳を傾けています。
ショスタコーヴィチ、バイオリン協奏曲第1番、第4楽章ブルレスカ。没我の境地でソロを縦横に奏できったのはソウル生まれの若いバイオリニスト、チェ・イェウン。ちょっと不思議な時空を体験しました。

◆そうだ!デモに行こう
 それにしても、(冒頭の)いつも私たちを受け入れてくれる中小企業の社長さんが、突然「私も脱原発のデモに行きたいのですが」と切り出したのにはちょっと驚きました。「実は私もそう思っているのですよ」と思わず答えてしまいましたが。私の故郷の知人も、東海第2原発の廃炉を求めて、9.19に行われた東京での大集会に参加してきたようです(ブログ「日立大好き」)。昨日の毎日(夕刊)でも評論家の大御所、柄谷行人氏が「デモでノーと言おう」と言っています。

 今心ある人々は、日本の支配層(政治家、財界、官僚、マスコミ)が大震災と原発事故から何も学ばないこと、むしろ以前の惰性に戻ろうとしていることに、怒りと危機感を抱いている。民主党も政権交代の理想からずるずると後退して、自民党と変わらない第二自民党になりつつある。ならば、怒りの抗議という直接民主主義で社会を変えるしかない。多くの人々がそんなふうに感じ始めているのではないかと思います。

スティーブ・ジョブスの演説 05.6.27

 以前にも書いたことですが、家にいて夏の暑さ、冬の寒さに我慢できなくなると、近所のサイゼリアに出かけます。すいている店で午後のひととき1杯220円のコーヒーを飲みながら、切り抜いた新聞を読んだり、読書をしたり、ぼーっとしたり。そんな時に持ち運べる小型のノートパソコンが欲しいと思っていました。そこで文章を書いたり、ネットを見たりしたいので。

◆圧倒的に美しいiPad2
 そこである日の午後、郊外のビックカメラに行き、手持無沙汰の店員相手にいろいろ聞いてみました。当然、パソコンだけでなくタブレット型PCについても見せてもらいました。近々発売予定の富士通、サムソンのものも。これらは、私の家のパソコンがウィンドウズ系なので互換性と言う点で惹かれます。しかし、こちらは店員が「まもなく発売になるので、今予約するより、それを見てから考えた方がいいですよ」。

 アップル社のiPad2も見ました。他のタブレットより重いけれど「それは、電池の重さで、もつ時間が全然違います」。「私はこれが断然使いやすいと思いますよ」と店員。機能としては、私が使うマイクロソフト・オフィスのソフトがなくて文章を家のパソコンに移すには、ワードへの変換機能を入れる必要があるなど、そこが難点のような気もします。
 しかし、デザインは圧倒的に美しい。薄くてシャープ。背面の曲線の形、表面の象牙のような滑らかさ。これがスティーブ・ジョブスのこだわりなのですね。私はIT音痴で、彼がiPhoneやiPadで切り拓いたIT世界の可能性についてとんとなじみがない。それでもそれらの機器の美しさは衝撃的だと思います。

◆ウォールがジョブスで埋め尽くされる日
 
今月5日はそのスティーブ・ジョブスが亡くなった日。それからしばらく、多くのメディア、ネット上で彼の功績をたたえる記事が流れました。若い知人もF.B.で「本当、偉大だったね。便利という目的への距離を縮めるプロダクトというより、寄り道一杯させられるプロダクトが素晴らしかったです。それがビジネスとして成功したんだろうなぁ。」と書き、その日を「ウォール(F.B.の掲示板)がジョブスで埋め尽くされる日」と表現。暫くはスティーブ・ジョブスのこれまでの言動が全世界で社会現象になった感がありました。

 私もYouTubeで彼の話題の演説を見ました。
2005年、スタンフォード大学での卒業式に招かれた時の演説です。私生児として生まれ、養子にもらわれた彼の生い立ち、人生の点と点のつながりの大事さ、失った時に見えて来る大切なもの、がんの宣告を受けてからの人生の生き方、そして最後に今や有名になった「Be hungry. Be foolish.」(ハングリーであれ、愚かであれ)で結ばれる、感動的な演説。
 特に、私の心に残ったのは彼が毎朝鏡を覗きながら自問してきた言葉。「今日が人生最後の日だとしたら、今日やることは本当にすべきことだろうか」「NOの答えが何日も続くようなら何かを変えなくてはならない」というもの。この言葉は彼の限られた人生を「自分が本当にやりたいこと」から外れないように導いたのだろうと思います。

今日が最後の日だとして
 彼は、この言葉を若い卒業生たちに送りました。前途洋洋の彼らだって残された時間はある意味ではそんなにたっぷりはないのだよ、と言いたかったのかもしれません。しかし、この言葉は一方で私のような、本当の意味で残された時間が少ない年齢の人間にも、重く響く言葉のような気がします。「今日が最後の日だとして、あなたは本当に自分のやりたいことに時間を使っていますか?」と問われているように思うのです。
 定年後、折角自由になって自分のやりたいことが出来ると思っていたのに、あれやこれやと抱え込んで毎日忙しくしている私。まあ、その多くは自分にとって楽しく意味もある仕事だとは思っているけど、果たして今日が最後だとしたらどうだろうか。そんなことを考えさせられます。


 さて、冒頭の話に戻りますが、タブレット型PCにするか、ノートパソコンにするかは、まだ決めていません。いずれにしても自分がそれで何をしたいかを整理しないといけないのではと思います。本当にやりたいことは外での文章書きか。「そんならワープロでいいじゃん」と家人には馬鹿にされるけど、近々決めようと思います。

カナダからの帰国報告 11.9.25

 カナダ各地50か所ほどから集まった観光担当者と世界のメディア関係者が一対一で面談して情報交換するイベント、「GoMedia Canada Marketplace 2011」に参加して来ました。それにしても、カナダの豊かな自然、豊かな観光資源には驚嘆せざるをえません。しかも、そこに自然環境を生かした、至れり尽くせりの観光施設があります。

◆カナダの観光資源の豊かさ
 中でも印象に残ったのは、ロッキーの山々と、氷河から流れる大河、先住民の文化が堪能できるユーコン。もともとは隕石が衝突して出来た直径20キロのクレーター上にある東海岸のシャルルボア(写真)。ここでは山裾を通る豪華列車が左右に断崖、滝、大河のパノラマを見ながら走ります。

 そして、世界的に有名なジャズフェスティバル、世界花火審査会など、年間を通して様々なイベントがある
モントリオール。ジャズ祭典の最中は200万人もの観光客で街中が埋まります。それも半分近くはフリーの演奏会。
 また、バンクーバーから車で半日、毎日美しい日没が見られるブリティッシュ・コロンビアのサンシャイン海岸。クジラが泳ぐこの海は豊かなシーフードの産地ですが、その海岸の村々には日本人を含めて様々なジャンルの芸術家が住んでいるといいます。白クマがすぐ近くまで顔を見せる北の白夜の街、チャーチル。先住民イヌイットの村もあり、ここにも夏にはクジラが子どもを産みにやって来ます。

 それぞれに、適切なホテル、BB、ロッジあり。夏は自然観察、ハイキング、カヌー、カヤック、ゴルフ、乗馬。冬はスノーモービル、凍った湖面での釣りなどなどの定番の楽しみが。そんな話を2日にわたって聴取しましたが、旅番組の担当者にとってはこたえられないところでしょうね。

◆人類のテーマに挑戦した博物館
 その中で、私の方はカナダの国立博物館に興味を持っています。首都オタワの戦争博物館(写真)、文明博物館、自然博物館。あるいはいまウィニペグに建設中の人権博物館。特にイベント直前に取材したオタワの戦争博物館では様々なことを考えさせられました。
 「文明と戦争と人権」。人類の共通課題でもある壮大なテーマに正面から取り組んだ興味深い挑戦。これらの博物館については、これから少しずつ「カナダ観光局のブログ」に書いて行きますが、TV番組の企画としても知人のディレクターと構想を練っているところです。(もっとも私はもうディレクターとしてはお払い箱ですが)


 それにしても、カナダ経済の堅実性は羨ましい。街も綺麗で活気があります。それぞれの観光地が知恵を絞った年間通じてのフェスティバルを考え出し、観光客を呼び込む。(雑駁な印象ですが)それはバブルなどではなく、自然を大事にしながら、地域に根差してじっくりと練った計画。それが実を結んでいるように思います。

カナダ・博物館巡りに出かけます 11.9.13

 15日から9日間ほど、カナダに出かけますので、しばらく更新はお休みになります。今回は、オタワにある4つの国立博物館(文明、自然、航空宇宙、戦争)を取材してきます。カナダにはユニークな博物館があって、現在、人権博物館というのも建設中です。 日本の国立民族学博物館の元館長、梅棹忠夫氏によれば、「博物館はメディアだ」ということですが、そこからどのような情報が発信されているのか、(カナダ観光局、登録ブロガーとしては)興味があるところです。

 特に、カナダは世界で最も進んだ多文化主義政策を掲げている国。その国の思想を反映しての戦争博物館や人権博物館(来春完成)が何を伝えようとしているのか、その下調べでもあります。

(9/13FBから)
 先に「原爆投下 活かされなかった極秘情報」(Nスペ)について書いたけれど、広島、長崎の原爆投下が迫っているときに日本政府が何をしていたか、ということをもう少し知る必要があったかと思っています。
 「聖断 天皇と鈴木貫太郎」、「宰相 鈴木貫太郎」などを読むと、日本政府はその前後、戦争終結派と戦争継続派(陸軍)とが国家存亡をかけた(実際は天皇制護持を賭けた)連日の暗闘を繰り広げていて、政府は原爆から国民を守るどころではなかったということが分かります。残念ですが。
 このような歴史も繰り返し伝えていく必要がありますね。日本こそ(壮大な)戦争博物館を作るべきだと思います。


 もう一つ、カナダにはヨーロッパ印象派の影響を受けて1920年代に活躍した「グループ・オブ・セブン」という画家集団がいます。オタワでは国立美術館も訪ねますので、その幾つかに出会う予定です。
 一昨年、トロント近郊にあるマクマイケル美術館に行きましたが、そこもこの「グループ・オブ・セブン」を中心とした美術館でした。カナダの大自然と共鳴した、その独特な絵画群についても一度ご紹介したいと思います。

 その後、アルバータ州の州都エドモントンへ。気温は6度から20度ということですので、セーターがいりそうな気候。東部の紅葉はもうどんどんメープル街道などへのツアー予約が入っている頃ですが、こちらはどうか。更新遅れをとりもどすべく月内にはご報告します。

過去を振り返るということ 11.9.3
しばらく「メディアの風」の更新をさぼって月刊ジャーナリズムという雑誌に「NHKは原発とどう向き合って来たか」というタイトルで原稿を書いていました。400字で25枚。3月11日に、恐れていた原発事故をとうとう目の当たりにした時の衝撃をきっかけにして、私が関った全部の原発番組を振り返った内容です。
 今回の事故が起きた時、自分の原発に対する今の考えと過去の番組経験との間に、きちんと折り合いをつけておかなければと思っていたので、これはいい機会になりました。色々と反省もありますが、過去を振り返ることで少し整理が出来たと思います。

◆過去を振り返るということ
 さて、今回はその
「過去を振り返るということ」についてです。去年の暮、完全リタイアを果たした後の心境は「すべてはこれから」。自分の過去など一切振り返らずに前にあることだけを見て楽しみながらやっていく。そういう心境でした。
 ところが最近、どうもそう言う感じばかりでないのです。自分が生きて来た66年という歳月が、それなりの長さで迫ってくる感じ

 今年の夏、番組で大空襲や原爆の生々しい証言を聞いた時のこと。その悲惨な事実が(わずか3カ月とはいえ)自分がこの世に生れていた時のことであるのになぜか愕然としました。
(8月7日のFSから)
 『ETV「ことばの力」。86歳になる歌人が、戦争中の空襲(4月14日)で東京の満開の桜が熱風によって赤く染まりやがて炎上していく様を語っていました。兵士であった彼は、その後多くの焼死者の片づけを修羅のようになって続けたと言います。昨日のNスペでも広島、長崎で焼けただれて死んでいった人々を看取った、生々しい体験談が出てきました。66年前、私が生まれた年のことです。』

◆戦争がないだけ恵まれていた?
 幼少時の貧しい時代、高度経済成長の時代、そしてディレクターとして世界を見聞きした時代。その後、日本は混迷の時代を迎えていますが、それでもこれまでの自分の人生は、戦争を経験せずに済んだだけ恵まれたものだと単純に考えて来ました。

 しかし、3.11の後ではそうではない。この先、いつ(東海、東南海、南海地震などの)大災害が起きるとも限りません。それに、考えてみれば、ほんのちょっとさかのぼっただけで、悲惨な戦争がありました。かすっていたようなものです。
 つまり、自分のこれまでの人生はたまたま、そうした大きな不幸と不幸の節目の間にあったにすぎないのかも知れない。しかし、66年と長くなると、そのどちらにも触れずに生きることは難しいかもしれない。3.11以後はそんなふうにも思うのです。

◆心の変化を楽しむ
 過去を振り返らず、未来の楽しい可能性だけを見て生きる。定年後の生活をそのように単純に考えていたのですが、このように、自分の生きて来たそれなりの長さを思い知るようになりました。何故か、小学校からの下校時、普段は20分もかからない通学路を道草を食いながら2時間もかけて帰った時の記憶などが蘇って来るのです。
 それだけ、残りの時間が少なくなってきたのかもしれませんが、この心の動きを今しばらく楽しんで見ようと思います。
日本の中小企業の底力 11.8.25

 「是非一度、見て確かめて欲しい」とFさんに誘われて、栃木県岩船町にあるその研究所を訪ねました。会社の名前は「グローバルエナジー」。従業員7名の小さな会社です。
 訪ねてみると、敷地の中に沢山の風力発電機が並んでいます。垂直軸型の風車やプロペラ型の風車です。研究所の中にもものすごい数の試作品が。これには正直驚きました。

 この会社のオーナーが並外れた情熱を傾けて研究して来たのは、いかに効率よく風を捉まえる風車を作るかということ。これまでとは全く違った発想をもとに、特殊な断面を持つ高い効率の風力発電機や、これが空を飛ぶのかと思うような翼のない飛行艇などを開発してきました。写真は会社のHPから)

◆これまでと全く違った発想から?
 まず、研究所の中で開発者の鈴木政彦会長(写真)から、熱のこもった話を3時間ほど。もともとはレーシングカーのボディ設計をしていたそうですが、風力発電の研究に転進。水鳥が着水する時に羽根の先端を内側に折り曲げることに着目した鈴木さんは、数々の試作品を作って実験し、風を最も効率よく捉える先端の傾きを見つけ出したと言います。

 さらには、水の中を猛スピードで泳ぐマグロの体型から発想した、翼のない飛行艇も。鈴木会長いわく「水の中でも空気の中でも原理は同じ」だそうで、空中を自由自在に飛び回る飛行艇のユニークな形を見つけ出しました。
 その空気力学や流体力学の理論は、正直言って私には難し過ぎましたが、百聞は一見にしかず。会長の話の後、開発した風車の性能実験、そして近くの川の河原での飛行実験を見せてもうことに。

◆翼のない飛行機が空を飛ぶ
 風車は垂直軸型とプロペラ型の2種類。僅かな風で回り出し、風が止まっても回り続ける不思議さ。プロペラ型の風車は、先端が広がる形で、よく見る3枚羽根とは違う5枚羽根。風車の欠点とも言える風切り音も殆どなく静かです。

 驚きは長さ2メートルほどの飛行艇。マグロが3本並んだような機体で羽根がないのに、その両脇のマグロの下に風をうまく抱え込むのだそうです。僅かな滑走であっという間に上空に。空中でヘリコプターのように止まることも出来れば、プロペラを止めて滑空もできる。(写真は会社のHPから)

 それは驚きの連続でしたが、正直頭の中ではまだ十分消化しきれていません。いずれにしても、独創や発明は大企業からというより、こうした中小企業から生まれることが多い、ということが妙に納得できたように思います。
 今求められている自然エネルギー技術も、いつもテレビに出て来るあの巨大な3枚羽根の風車ばかりでなく、制度や資金の仕組みを変えて、こうした発明をどんどん育てて行けばあっという間に進むはずです。

 日本の中小企業の底力を感じた日。この会社は、他にもこの原理を応用した様々製品を開発中ですが、詳しく書くと企業秘密に触れる恐れもあるので、取りあえず風車と飛行艇については、動画を見られる会社のHPをご紹介します。