日々のコラム  <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

映画「桜田門外ノ変」のメッセージ 10.10.24
 わが故郷、茨城県が様々な協力をして出来た地方創生映画だというので、吉村昭原作の映画「桜田門外ノ変」を観て来た。水戸の千波湖わきに江戸城桜田門とその周辺の武家屋敷、井伊家の屋敷門といった巨大なオープンセットを作って撮影。監督は「男たちのYAMATO」などを作った、今年78歳になる佐藤純彌である。
 映画を見て感じたことは、まずこの映画が最近の奇をてらった映画と違って、意外に映画作りの王道を踏まえた本格的な映画だと言うこと。そして、本当はそこまで書ければいいと思うのだが、緊迫した歴史状況での政治的判断の難しさである。

 黒船が日本に来てから明治政府の誕生まで15年。日本開国を巡っての意見の違いから暴発あり、弾圧あり。国を思う心は同じでも、政治的立場の違いから実に多くの血が流れた。桜田門外で流れた浪士たちの血もその一部である。攘夷を掲げた彼らの思想が後世から見て的外れであったとしても、果たしてそうした試行錯誤の犠牲なしに明治と言う近代国家は生まれたろうか。
 歴史の波間に沈んで行った革命の先駆者たちの命は、状況が緊迫した中での政治的決断の難しさを感じさせる。その難しさは、70年前の太平洋戦争の開戦前夜も、そして現在のざわついている日中関係においても同じ。これは今につながるテーマでもある

◆衝撃的な斬り合い
 「桜田門外ノ変」は御存じ、1860年3月3日の午前9時、江戸城に登城する大老井伊直弼を水戸藩浪士17人と薩摩藩士1人の18人が襲撃した事件である。襲撃隊18人と大老の籠を守る井伊家の一隊20数名との壮絶な斬り合いは、雪が激しく舞う中で行われた。このシーンは冬、野外のオープンセットに人工の雪を降らせながら8日間かけて撮影されたという。
(写真『桜田門外ノ変』製作委員会)

 吉村昭の小説でもこの斬り合いは、それまでの武士たちの戦闘シーンとは全く様相の異なったものとして書かれている。まさに、刀を使った肉弾戦。間合いを取るなどの余裕もなく互いに相手に刀を押しあてながらの斬り合いだったと言う。
 斬られた指が飛んだり斬り落とされた腕が落ちていたりと、襲撃場所の凄惨な様子が描かれている。作家が様々な目撃資料に当たって再現した斬り合いの現実である。

 映画もその異様な状況を徹底的に再現した。斬り落とされた指までは出てこないにしても、斬られた武士たちの首から腹から頭から血が噴き出し、雪の上に血しぶきが飛び散る。カメラの角度や高さを変えながら、この戦闘シーンがかなりの時間続く。打ち取られた井伊大老の首、深手を負った水戸浪士たちが逃げる途中で自害したり互いに刺し違えたりして死ぬ時など、随所に血が噴き出すリアルな場面が出てくる。

◆映画のメッセージ
 人間の肉体が刀と言う武器で物理的に破断される、こうした生々しいシーンが、この映画の一つのメッセージになっているのだが、これはよくある残酷趣味の描写とは、似て非なる意図で作られたと思う。
 監督はその事件がわずか150年前に、今は、皇居一周ランニングの人々や車が行きかう平和なお堀端で、実際に起きた現実であることを思い起こさせ、そして、緊迫する歴史状況を変えようとする時には、往々にしてこうした血ぬられた現実が起きることを直視するよう観客に迫ったのだと思う。

 監督の意図はさらに、この戦闘シーンの置き方に現れている。吉村の512頁の小説では、戦闘シーンは300頁を過ぎたあたりから始まる。しかし、映画はこれをかなり前倒しして、その後で、この事件がなぜ起きたかと言う背景と、襲撃した人たちがその後どのような運命をたどったかを描いている。監督は、そのことによって「政治テロを美化したことにはならないだろう」
と思ったと言っている。

◆襲撃隊を待っていた過酷な運命
 実際、大老暗殺を成し遂げた後に襲撃隊を待っていた運命は過酷である。事件の指揮を執った関鉄之助が2年後に捕えられて斬首されるまで、逃げ延びた3人(うち一人は後に自害)を除き15人全員が死亡している。
 計画では、井伊直弼暗殺に呼応して薩摩藩が3000の兵を京都に送って幕府に尊王攘夷を迫る予定だった。襲撃隊もそれに加わる手はずだったが、薩摩藩では藩主が交代してこれを約束した西郷が島送りになって計画は挫折。逃げ延びた襲撃隊は行き場を失う。

 幕府への対面を重視した水戸藩は事件後、脱藩浪士の厳しい探索を全国に展開し、彼らを次々に捕えて行った。彼らの暴発を機に、以前は同情を示していた鳥取藩なども一気に保守化し、どこにも頼るところのない逃避行が続く。
 結局、襲撃参加者18人中、当日に戦死または傷を負って自害した者7人、捕えられて刑死した者8人(獄中死1)。うち12人が20代、30代の若者だった。

◆切迫した時代状況の中での政治的判断の難しさ
 幕末に幕府が決定した開国を巡っては議論百出、この日本をどうするかで、開国、尊王攘夷、公武合体、尊皇討幕、大政奉還などの思想が目まぐるしく変転し切り結んだ。議論の主導権を握るために血なまぐさい暗闘が繰り返えされた。
 尊攘派が行動を起こした桜田門外の襲撃だけでなく、京都で薩摩藩尊皇派が殺された寺田屋事件、長州と土佐の尊皇攘夷派が新撰組に殺された池田屋事件、土佐藩での土佐勤皇党の弾圧など、多くの殺戮があった。

 260年以上も続いた幕藩体制を終わらせるにはそれだけのエネルギーと試行錯誤が必要だったのかもしれないが、後から見れば随分と無駄な血も流された。それぞれが日本の行方を思い、状況を打破せねばと行動を起こしたのだが、中には暴発に近いものも多かった。そこが政治的行動の難しさでもあり、歴史の不思議なところでもある。

◆歴史の評価が難しい事件
 しかし、多くの過激な行動や暴発の中で、その時々に有効に時代を切り拓いて行ったのは、勝海舟にしろ、彼に触発された坂本竜馬にしろ、西郷隆盛にしろ、時代を見通していた者たちだったのではないか。
 彼らは、広く世界の動きを見ていた。歴史の潮流を見据えていた。そして、来たる時代にどんな日本が必要なのかもおよそ見当をつけていた。そこが革命の波間に消えて行った暴発組(竜馬は違うが)と違うところかもしれない。

 桜田門外の変から8年で江戸は終わり明治が始まる。映画のラストでは、東征大総督下参謀として江戸城に入る西郷に「あれ(大老暗殺)がすべての始まりだった」と言わせているが、歴史の評価は難しい。歴史のIFは意味がないのだが、仮に井伊が暗殺されずに権力をふるい続けていればどうなったか。幕府が延命し、日本の近代化は相当遅れたかもしれない。
 吉村昭の小説では、この事件を機に幕府の政治力は弱まり、水戸藩の尊皇攘夷は
そのまま薩摩、長州などの外様雄藩に根を下ろした、とある。

 その一方で映画では、事件の指揮を執った関鉄之助に「井伊一人の首を取るだけで、どの位の人間が犠牲になったのか」とも嘆かせている。凄惨な戦闘シーンがこんなところで効いてくる。その意味で、この映画は(桜田十八烈士というような)単純な賛美ではなく、むしろ、
歴史に翻弄される政治テロの悲劇性を浮き彫りにした映画だとも言える。

◆現代に通じるテーマ
 いずれにしても、明治維新の時のように状況が切迫してくると、実に様々な意見が生まれぶつかり合う。その中で人々はどのような考えを選択し、どのような行動をとるのかを迫られる。中にはより過激な意見に引きずられ、過激な行動に走る集団が出てきて、多くの悲劇も生まれる。

 これを現代に置き換えて考えたらどうだろう。日中がちょっと騒がしくなると、そうした教訓をすぐ忘れがちになるのも困ったものだが、今の状況を考えながらこの映画を見ると、政治的議論が沸騰する中で日々政治的判断を迫られる
ことの難しさを改めて感じる。いざとなると、私なども色々間違いを犯しそうだが、今の政治家たちだって結構危うい。
 ただ少なくとも、明治維新後150年の間に、私たちは未曽有の敗戦を経験し歴史から多くの教訓を学んだ筈である。偏狭なナショナリズムを排し、国家として自立しながら、世界的視野に立って国際融和を粘り強く求めて行く
 無駄な血を流さないためにも、様々な集団の暴発を防ぐためにも、このことを改めて確認しておきたい。(今の日中問題については別途稿を改めて)
「新聞週間」によせて  10.10.19

 前回、「風の日めくり」に新聞の切り抜き作業について書いたが、「新聞週間」(10月15日から)にちなんで今回はもう少し補足をしたい。
 既に書いたことだが、切り抜いた新聞記事は、日付と新聞名とを記入して、A4のクリアフィルに入るように折りたたむ。そして、暇な時に腰を据えて緑のマーカーを持ちながら、一つずつ丹念に読む。
 読み終わると◎、○、△、×のしるしをつけて、テーマごとに分けたクリアファイルに入れておく。◎、○については時々引っ張り出してマーカーのところを読み直す。

◆読んでいるようで読んでいない、頭に残らない
 これをやり始めて初めて気がついたのが、新聞記事の内容の濃さ、情報の豊かさである。それと、同じ新聞でも書かれる紙面、あるいは書いた記者、寄稿者によって実に多様な見方がされていると言うことである。
 これは見出しや記事を飛ばし読みしているときには絶対に分からなかったことである。自分は今まで新聞を読んでいたのだろうか、とさえ思ってしまう。

 今まで新聞は、ぱらぱらと各面の見出しを見て、興味のある前段の概説を読む。そしてさらに関心を引いたものは記事全体を流し読みする。それで分かったつもりになっていた。IT時代に取り残される新聞など、そういう読み方でいいのだと頭のどこかで思っていた。
 しかし、私の歳になると、そういう読み方では何も読んでいないのと同じということが、最近痛いほど分かって来た。「メディアの風」などというブログを書いているのに何だ、と言われそうだが、最近はマーカーを入れながら読んだ記事だって頭に蓄積されていないことが多い。情けないが情報の取り込み方を変えなければいけない。

◆切り抜き作業で初めて見えてくる新聞の充実度
 そう思ってなめるように記事を読んで行くと、ボリュームのある解説記事、企画記事、記者のコラム、政治学者、評論家、科学者の寄稿、専門家の対談などなどに出会う。同じテーマでも、多様な見方が出ていて、その多様さに感心する。
 同時に、誰もが分かりやすく明確に書こうとしているのに感心する。努力の跡が見えるのだ。A4の大きさがどの程度の文字の量になるのか知らないが、大体がこの範囲に入る量だし、特集企画でも2つ折りになる程度。文字数に制約があるのがかえっていいのかもしれない。内容が実に分かりやすく練られている。書く方に読者の顔が見えているのだろう。

 私は今、購読している新聞以外は新聞を置いているお気に入りのコース(各紙を揃えた喫茶店、ゴルフ練習場の待合室、市立図書館など)で読む。大きなニュースの時は、コンビニで幾つかの新聞をまとめ買いする。
 記事の充実度は新聞によってかなり違うはずだが、これまではあまりシビアに考えなかった。その時々の漠然とした印象に終わっていた。しかし、これもそれぞれの新聞を切り抜いて熟読してみれば、少なくとも自分の評価は歴然とするに違いない。むしろ一つのテーマを系統立って切り抜き、読みこんで見ないと明確な違いが分からないのかもしれない。

◆多様な記事がある方が
 切り抜き記事をとじ込むファイルは(前にも書いたが)「政治課題」、「メディア」、「経済」、「外交、対アメリカ」、「中国」、「小沢問題」、「社会事象、事件」、「地球環境」、「文化」などに分かれる。

 例えば経済記事。円高についても様々な角度から伝えられている。テレビで「円高、円高」と連呼されると心配になるが、世界全体ではドルの独歩安が起きていること。アメリカの金融緩和で余ったドルがまた世界のどこかでバブルを起す危険があること。円高と言うとすぐ 為替介入や金融緩和の手近な策に走ろうとするがそれは長期的な解決にはならないこと。素人にも分かるように書いてある。
 サブプライムローンやリーマンショックの時には、素朴な義憤に駆られていろいろ関連本を読んだりしたが、良く見れば手近にこういう便利な情報源がある。

 または日中問題。尖閣諸島で中国船長の逮捕に踏み切った経緯の詳細な記事を読むと、ごく少数の閣僚(岡田、前原、仙石)のやり取りで決まったいかにも危うい状況が見えてくる。政治主導などと言って(小泉政権の時に国外退去で処理した)2004年の時の日中の暗黙の了解を官僚に尋ねない危うさ、単純なスジ論がまかり通る危うさである。

 さらに小沢の強制起訴。相変わらずの小沢たたき記事の一方で、検察審議会の危うさを指摘する記事もある(しかし、これは週刊朝日の郷原信郎元検事の記事「議決は問題だらけ」が一番的を得ているのではないかと思うが)。
 また、注意すれば政治家・小沢の適格性を吟味する記事や、民主党の若い世代の政治家に期待する記事も見つかる。ここへ来てようやく政治記者たちも政権交代の現実に眼を開きつつあるのかもしれない。

 かつては、これだけバイアスのかかった政治記事が多いのだから、新聞は自らの立場を明らかにした方がいいと書いたこともあったが、多様な意見が一つの新聞の中で展開されている方が面白い。それを切り抜いて並べてみると、ある程度の全体像が浮かんで来るし、何が問題なのかにも気づかされる。

◆記事の分量による情報の質の違い
 さて、ここまで書いてきて、改めて思うのは「新聞記事の総体」が持つ「情報の質」とは何かと言うことである。
もちろん物事を深く理解するには、雑誌や単行本などからも知識を得る必要があるのだろう。しかし、本と新聞とでは情報の質と言う点で何か本質的な違いがあるように思う。

 それが、どのような違いなのか。また質の違いがあるとして、それは新聞記事のどういう性質から来ているのか。それは、書く人々の多様さ、文字数の制約、記事の練られ方のプロセス、時間経過など、新聞独特の記事の作られ方から来ているのかもしれないが、私にはまだよく分からない。もう少し切り抜き作業を続けないと見えて来ないのかもしれない。(新聞記者だった友人にも聞いてみよう)

 しかし、新聞というジャンルには一種独特の質の情報が詰まっているのではないか。切り抜き作業によって、そういう当たり前のようで当たり前ではないことに、初めて気がついたように思う。

「推定無罪」を無視するマスメディア
10.1.10

◆人権規約にうたわれた「推定無罪」
「刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する。」これが、いわゆる「無罪の推定」とか「推定無罪」と言われるもので、国際人権規約第14条2項に定められていて、日本も批准している。
つまり、「被疑者・被告人は有罪の犯人と区別し、むしろ無辜の市民として扱われるべき」というのが「推定無罪」の精神なのだが、この人権意識が日本では希薄で、ほとんど有名無実化している。

マスコミや国民には逮捕・起訴されたものは有罪、すなわち「容疑者(被告)=犯罪者」だという誤った認識が定着している。それどころか、法的には罪に当たらない行為や、軽微な罰則のみに留まるような事例においても、国民感情や憶測・推測だけで犯人(悪者)扱いするケースが後を絶たない。(ウィキペディア)

◆「推定無罪」を無視するマスメディア
10月4日、東京第5検察審査会が民主党の小沢元幹事長に対し、彼を強制起訴する「起訴相当」の議決をした。この件に関するマスコミの報道を丹念に読んでみると、首をかしげるような問題点が幾つも浮かんでくる。
特に気になるのは、冒頭に書いたような「推定無罪」の観点。検察によって2度も不起訴になった人物をわずか1年前(去年5月)に改正された法律で強制的に起訴にした今回のような場合にこそ、「推定無罪」の精神はより強烈に意識されなければならない筈なのに、マスメディアや政治家がここぞとばかりに公人・小沢の基本的人権を踏みにじっている。それは異常とさえ言える。

食うか食われるかの権力闘争をしている政治家たちのことは一応おくとして、問題はマスメディア。子細に読んで行くと同じ新聞でも2つの相反する意見が分裂気味に混在していることが分かる。
一つは、審査が密室で行われて決議後に何の説明もない検察審査会のあり方に疑問を呈する意見と、そんな審査会の議決に対して小沢の「推定無罪」を指摘する意見。
もう一つは、市民感覚に基づいて判断した審査会の意義を評価し、これをきっかけに政治家小沢の説明と退陣を迫る意見である。
2つの意見は多分、社会部と政治部が手分けして書いているのだろうが、全体で言えば、小沢嫌いのマスメディアでは前者の見出しは小さく、後者の見出しが圧倒的に大きい

◆典型的な記事
典型的なのが10月5日の毎日新聞の社説。社説枠の全段を使って「小沢氏は自ら身を引け」という大見出しが躍っている。内容を読むと、まず検察審査会の決議内容について解説し、「要するに市民感覚として小沢氏の不起訴は納得できないということだ」と市民感覚を刑事訴追に反映させたことの意義を強調する。
その上で、社説が問うのは小沢の政治的責任。「カネまみれの政治からの脱却」を訴えた菅首相に小沢の証人喚問を迫り、民主党にも自浄能力があるのか試される、と書く。

そして最後に以前からの主張を繰り返す。「古い体質を象徴する小沢氏が与党の実力者として影響力を持ち続けることは問題がある」として、「国会での究明と同時に、出処進退について、自らけじめをつけるべきである」。そして、もう一段飛躍して「小沢氏は自ら身を引け」という大見出しになる。

◆検察審査会の性格、考え方
この社説の中でも、市民による検察審査会が審査の過程について一切説明していないこと、また、小沢が裁判の入り口に立ったに過ぎず、今後も「推定無罪」の原則が働くということ、の二点について触れてはいる。しかし、それはそれぞれ2,3行で申し訳程度に触れているだけ。「小沢氏は自ら身を引け」と言う主張のどこに推定無罪の精神が生かされているというのだろう。

毎日の社説は一例だが、基本的には多くの新聞が同じ論調と言ってよい。しかし、私は、マスメディアが殆ど触れていない、この検察審査会の性格と「推定無罪」の担保という、二つの関連性にこそ、大きな問題があると思えてならない。

去年改正された(強制起訴に持ち込めるようにした)改正検察審査会法については、これまで検察にだけ起訴権限が独占されていたことに風穴を開ける、という点で評価する意見はもちろんある。
一方で、幾つかの危惧も呈されている。検察が法的に罪に問えないと判断した事件を市民感覚で見直す、という意義はあるにしても、一方でこれまで以上に無罪判決が増えること、つまり裁判終結まで長期間、無実の人間を被告の身におくという確率も、また高くなると言うことである。(密室の審査会は裁判員制度とは似て非なる構造を持っている)

特に、今回の審査会は、(疑わしい者については)「国民は裁判によって無罪なのか有罪なのか判断してもらう権利がある」と国民の権利を主張している点。そうなると、「疑わしきは罰せず」の以前に、「疑わしきはともかく起訴して、裁判で白黒つける」ということになる。
しかし、その「疑わしき」の内容は果たして法の知識から厳密に検討されたのだろうか、という心配も残る。市民感覚でいった場合、一般常識や人間感情、状況判断や傍証などといったあいまいなところから、安易に強制起訴になるケースがありはしないかとも思う。
取りあえず起訴して、法廷で決着をつけてもらう、というのでは仮に無罪を勝ち得ても被告になった人間はたまったものではない。

◆強制起訴と「推定無罪」はセットにすべき
私は、「疑わしきは法廷へ」という検察審査会の考え方そのものについて一概に否定するものではない。仮に検察の目をくぐった悪人がいるなら、それは罰せられるべきだし、昨今の検察の劣化をみるとこういう外部機能があってもいいように思う。
しかし、市民による検察審査会が「疑わしきは法廷へ」の考えを踏襲して行くならば、審査会が法廷に送り込む被告が無罪になるケースがこれまで以上に増えると言うことも頭に入れなくてはならない。これこそ、被告となる人間の人権を守る「推定無罪」の厳格な適用がなければならないという冒頭の課題に帰着する

こういう問題意識を踏まえて、今回のマスメディアによる小沢に対する報道を点検すると、その人権侵害は異常としか言いようがない。新聞によれば、小沢の場合、これから起訴までにも長い時間がかかるというし、さらに判決が出るまでには何年もかかりそうだ。この間に、小沢の政治生命は絶たれるというので、政敵たちは小躍りしているという。
小沢の方は、今回の決議に異議を申し立てるとも伝えられるが、いずれにしても、仮に検察審査会の議決を認めるならば、セットとして「推定無罪」の徹底を図らなければならないということである。

◆日本で「推定無罪」の厳格な適用は可能か
私は、これまで何度も言ってきたように政治家小沢を特別に擁護するつもりはない。ただ法治国家として、法の理念(人権の理念)に沿った扱いをするべきと言いたいだけ。
一部マスメディアは、強制起訴に乗じて今回も小沢を犯罪者扱いにし、「小沢には疑わしい部分が山のようにある」というあいまいなネガティブ報道をしている。そう書くなら、自らその証拠を取材によって暴くのが言論機関の責任ではないか。

マスメディアは過去何度も、警察や検察のリーク情報に乗ってさんざん無実の人間を犯人扱いにして報道し、そのたびに反省している。松本サリン事件の河野義行さん、最近では村木元厚労省局長もその被害にあっている。
最近のマスコミ倫理懇談会でも、「推定無罪」を徹底させる報道が求められるという指摘があったそうだが、その反省はこと小沢に関してはどこかに飛んでしまっている。
「推定無罪」を踏まえれば、今の段階で「小沢氏は自ら身を引け」とはならないと思うのだが、日本にはこれを許してしまう風潮がある。検察審査会のような新しい試みを導入する場合には、その検証と同時に、「推定無罪」のより厳格な適用を心掛けること。これが今回の問題提起である。

◆政治家の説明責任
最後にもう一つ。「(公人である)政治家には説明責任がある」という指摘については、私も同感。だが、その方法は言うほど単純ではない。偽証罪で告発される恐れがある証人喚問や、政争の具にされるのが目に見えている国会答弁を彼が引きうけるかどうか。
また、「推定無罪」の段階で、これを国会議員に強制することが出来るかどうか、については微妙な問題を含んでいると思う。免責などの証言法も取り入れられているアメリカの例なども研究しながら、もう少し政治家の説明責任の取り方を研究した方がいいと思うし、これについては(被告の身である)小沢自身の考えも聞いて見たいと思う。
 

危機管理が出来ない民主党政権 10.9.25

◆追い込まれた末の決断
尖閣諸島で逮捕された漁船の船長が処分保留のまま釈放された。この処理に関して民主党はごうごうたる非難を浴びている(もっとも当日の夜のニュース番組の激しさに比べて翌朝の新聞は不思議にかなり冷静。一夜明けて頭も冷えたのか)。
この問題は国の主権にかかわる重大問題。それをこのような稚拙な経過をたどった上での釈放は非難を浴びても当然だと思う。本来は菅内閣が吹っ飛ぶくらいのもので、戦前ならこういう「弱腰外交」一つで内閣が潰れたりした。

しかし一方、このまま日本が突っ張っても日本の失う部分が露わになるばかりで、覚悟のない日本に展望など最初から見えなかったのも事実。今回は追い込まれたあげくに、ぎりぎりのタイミングで矛を収めた感じだが、失ったものも極めて大きい。どうせ処理するならもっと早くにすべきだった。
問題なのは、「国内法に基づき粛々と」などと言って展望のないまま時間を浪費していた民主党(特に前原外相)の危機管理能力の欠如である。今回書きたいのはまさにこのことなのだが、その前に事件によって露わになった問題を1,2点、整理しておきたい。

◆中国に依存する日本経済
一つは、中国に対する日本の弱さが露わになったことである。小泉首相時代の2005年、靖国問題で中国と対立し「政冷経熱」から、経済まで冷えて来て「政冷経冷」などとも言われたが、そのころの日本経済はまだそれほど中国に依存してはいなかった。アメリカ経済もまだ堅調で世界を牽引していた。
しかし、この5年で世界の経済状況は大きく様変わりした。リーマンショックでアメリカが不況になり、かわって中国が台頭。今、日本経済は、拡大し続ける中国経済にかつてないほど依存している。
長い不況にあえぐ日本企業は活路を求めて多くが中国に進出している。日本経済は中国経済と切っても切れない関係になってしまった上に、レアメタルなどというアキレス腱まで握られている。かつて「アメリカがくしゃみすれば日本は風邪を引く」などと言われたが、今の日本は慢性的な風邪気味で、中国のくしゃみだって気になる位置にある。

その中にあって日本は、アメリカとはもちろんそうだが、中国ともまともにケンカできなくなっている。年率10%近くの経済成長を続けて5年前とは格段に経済規模も軍事的規模も大きくなって大国意識を強めている中国と、足踏みをして来た日本との違いである。今回の事件では、これまで日本が目をそらして来た、この現実を思い知らされたということである。

◆中国のカードと日本のカード
もちろん今回は行くつくところまでは言っておらず、単に大国中国の影におびえただけだったかもしれない。しかし、一連の脅しを予想してみて初めて、中国の方にこそ多くのカードがあることが分かったのではないか。
駐日大使の引き上げなどで敢えて「緊張関係」を作り、次々と脅しのカードを繰りだしてくる。東シナ海でのガス油田開発の再開、レアメタルの禁輸、中国からの観光客の差し止め、中国国内の日本企業への干渉、などやりたい放題が出来る。

一方の日本の対抗手段は何か。アメリカや国際社会への訴え、中国製品のボイコット、国内中国人の経済活動への干渉などに限られてくる。そうこうするうちに武力的な小競り合いの一歩手前にまで緊張が高まるが、その時アメリカが軍事的な圧力をかけてくれるかどうかは微妙なものだ。中国と上手くやりたいアメリカは中立を決め込むだろう。
最後の最後に武力衝突の可能性だって視野に入れる必要があるが、戦前などよりはるかに海外に依存した日本経済の脆弱さ、資源の乏しさを考えると、今の日本はとても戦争などは出来ない。日本は滅ぶのを覚悟でもしない限り、本気で武力を使える国ではなくなっている。

従って、大国に挟まれた日本は常日頃から、中国はもちろん、アメリカに対しても冷徹に彼我の力量(手持ちカードの有効性)を吟味しつつ、あらゆる対抗手段を備えておかなければならない。それが自立した国家への第一歩である。現実を直視することもせずに、「弱腰」だの「土下座」だのと言ってばかりもいられないということである。

◆中国を知らない日本政府
もう一つは、中国をもっと知るべきだと言うこと。超大国になりつつある中国は、以前(「中国はどこに向かうか」)に書いたように国内に深刻な矛盾を抱えた極めて特殊な国だと言うことである。
今回の事件で中国がいきなり強硬な手段に出て来た背景には、政権内部の権力闘争の影がちらついているという指摘(毎日)があったが、もともと中国は、国内に強硬なナショナリズム勢力を抱えている。

政府が対外的に弱腰になれば、その批判はすぐに政権に向かって権力闘争に発展する。それは国際国家として成熟出来ない、共産党独裁国家、中国の特殊なもろさなのだが、その最新の情勢を外務省は掴んでいなかったのではないか。従ってボタンの押し所も、話し合いのパイプも見つからない。
権力の構図が分からず、中国の出方が読めなかったとしたら、国の安全を担う政府、外務省の怠慢としか言いようがない。

◆予測された事態と日本の危機管理能力
今回は、以上書いたような冷厳な現実を、突きつけられた事件でもあったが、これは今になって多少ともメディアも指摘していること。
もう一つ、ここで強調しておきたいことがある。
それは、4年前に民主党を揺るがした「偽メール事件」の時にも書いた(「民主党の危機管理能力」)が、民主党、特に前原(前の国土交通相、現外相)の危機管理能力の低さである。

大体、尖閣諸島周辺に中国の漁船がうようよしているときに、こういう拿捕事件が起きうることは前もって十分予測された筈である。それなのに、海上保安庁も含めて、全くマニュアルが出来ていなかったのではないか。漁船が故意に衝突して来たから逮捕したと言うが、追い詰めずに追い払うだけという対応も出来た筈である。今回、海上保安庁が一歩強硬な対応に踏み出した背景には何があるのか。
中国側の分析を踏まえてどういう選択肢があり得るのか、どうも様々なオプションの影響が真剣に検討されていた形跡が見られない。これは問題ではないか。


船長を拘束して国内に連れて来た時に、どのような結果を引き起こすかは、およそ一本道の経過しかない。中国の強硬手段は、十分予測された範囲に入っていたと思うのに、何の工夫もなく、拘束し取り調べに入った。
前原は、国土交通相時代にそれを容認し、中国から様々な警戒信号が送られてきてからも、外相として「国内法に基づいて粛々とやる」と言い続けるだけで、検察を見守ることしかしなかった。その先に何か成算があったのだろうか。

◆苦渋のない表情が気になる前原
その時の彼の「しらっとした表情」は、偽メール事件の時にも見せた最悪のケースを予想しない、苦渋を感じさせない表情を思い出させたが、結局は、無策のまま時間だけが経過し国の威信は大きく傷ついた。
政権与党になった民主党、特に「日本のネオコン」などとアメリカから子分扱いされている前原(田中宇の国際ニュース解説)らにこの先の国の安全が任せられるか。この事件もまた、民主党政権と前原の日頃からの危機管理が如何にお粗末かを知らしめた事件だった。自分たちの危機管理能力の不足を、政府は重大に受け止めるべきだと思う。
 

代表選終わる 権力闘争と路線闘争 10.9.18

14日に民主党の代表選挙が終わり、17日第2次菅内閣が発足した。熾烈な選挙戦だったが、小沢が政権を獲るという「一場の夢」は幻に終わった。17日に発足した新しい菅内閣の顔ぶれを見て、テレビも新聞も一様に「選挙で小沢に入れた閣僚は全員退任、新たに小沢支持の議員の入閣は3人だけ」と報じている。
メディアはどれを見ても今回の菅内閣を「脱小沢」をさらに徹底したものと性格づけている。

◆権力闘争の結末
選挙で小沢を支持して入閣した3人も、小沢陣営ではなく、鳩山グループから。要するに、多少は小沢支持グループに配慮したと言っても、これは小沢グループと鳩山グループの間にくさびを打ち込む意図が隠れているのではないか。今回の人事について、負けた小沢グループは「そこまでやるか」と、歯ぎしりしているだろう。

政治は権力闘争。今回の選挙はある面で、小沢嫌いの議員たちと菅に冷や飯を食わされた小沢派のドロドロした闘いだった。選挙を通じてのメディアの報道も、選挙後の組閣報道もここに重点を置いた報道に終始した。あるいは、せいぜい理屈をつけてもトップダウン、数を頼みにする小沢の「古い政治手法」に対する反感、という解説だった。

さて、熾烈な権力闘争を経た後、勝利者が取る戦術は2つしかない。一つは、この際「水に落ちた犬を徹底的に叩いておく」というもの。負けた側を徹底的に干し上げ、立ち上がる気力を削いでおきたい。世間にはこの意図をできるだけカモフラージュしながら、しかも当事者には思い知らせる戦術である。
もう一つは、相手の怨念をできるだけ和らげる融和策を取るというもの。具体的には小沢グループの中から2,3人を釣り上げ、相手のかっかした気持ちを静めるというものだろう。

しかし今回、執行部は前者を選んだ。小沢側の怨念が強すぎるか、結束が固かったかして、その微妙なさじ加減が読み切れなかったためだろう。従って、今は敗れた側の怨念がマグマのように地中に留まっている。それが冷めるのか再び活性化するのか、分からないけれど、菅執行部は敢えてそのリスクを選んだのだろう。
多くの政治記者が国会議員の票が拮抗した今回の権力闘争は、次の闘争の序幕かもしれないと言う。しかし、闘争の火ぶたがどのようにして切られるか、それがどんな展開を見せるのか。政治は一寸先が闇だから、誰も分からない。そういう不確かなことを、したり顔に占うのは本意ではない。

◆路線闘争こそメインテーマ
それより、ここで言いたいのはメディアが敢えて無視している別なことである。それは、今回の代表選は権力闘争だけではなく、もう一つ重要な民主党内における路線闘争だったと言うことである。

今回小沢がなぜ退陣後3カ月なのに、敢えて代表選に立ったのか。それは、後を託した菅がこれまでの鳩山、小沢路線をうやむやにし、これまでのマニフェストを捨て、消費税問題で自民党にすり寄り、また政治主導から官僚にすり寄る路線に走ったからである。
小沢から見れば、それは政権交代時の民主党に対する裏切りと映ったのだろう。菅を始め、前原、岡田、玄場らの路線は自民党の規制緩和、構造改革路線に近く、地域主権、民生路線(ばらまきとも言われるが)、脱官僚路線とは明らかに違った。

その意味で、今回の代表選は権力闘争でもあるが、一方で明確な路線闘争でもあったはずなのだが、メディアはどういうわけか、それにあまり触れなかった。
しかし、組閣後の「政権運営の基本方針」というのを見て、私は「おや?」と思ったのである。それは6月に菅政権が誕生した時の「内閣の基本方針」とは明らかにニュアンスが変わっている。
今回は、民主党が政権交代した時の原点に立ち返り、国民に約束したマニフェストを実行して行く。政治主導でやっていくことを改めてうたっている。

◆小沢に対する融和のシグナル
つまり、代表選後の菅内閣は、6月誕生時の浮ついた「鳩山時代の反省」から一転して民主党が約束した原点に戻っている。実は、これこそが代表選後の動きを占うポイントではないだろうか
選挙戦を通して、小沢が訴えた路線に菅が歩み寄ったということ。それはある意味で、小沢グループへの融和のシグナルかもしれない。それが見せかけに過ぎないのか、どの程度の歩み寄りになるかは分からないが、菅内閣の方針が去年の民主党の原点に帰るなら、小沢としても選挙に立った意義があったと言うことになる。案外、そのことを一番敏感に感じているのは今、小沢本人なのかもしれない。

組閣での「小沢外し」だの、「脱小沢」だのと、メディアはいつまでたってもステレオタイプな報道を続けている。権力闘争の面しか見えないのだろう。
しかし、「一兵卒」で民主党を支える、と言っている小沢の言葉の裏に何が隠れているのか、今回の代表選のもう一つの主要テーマだった「路線闘争」の面からも見るべきではないか。
財界、官僚、マスメディアからの圧力を抑えて、地域主権、政治主導、民生重視に向けて、互いに歩み寄りが出来るかどうか。路線闘争の第2幕が今後の菅内閣の命運を占う、もう一つのカギになるのではないかと思う。

民主党代表選挙・日本に運は残っているか 10.9.6


先月末、
9日間ほどカナダのトロントとその北のアルゴンキン公園に行って来た。「メープル街道」と呼ばれる公園内の道路の周囲はまだ紅葉が始まっていなかったが、肌寒いくらいの陽気だった。ここは800もの大小の湖と森の広大な公園。
近くのロッジに泊まったら夜は冷えて、セーターを着込むほどだった。






さて、そのカナダから帰国したら日本は連日の猛暑。その中、民主党の代表選挙が始まった。マスメディアの政治記者たちは、例によって政治と金の問題を忘れさせないように技巧を凝らした報道をしているが、その一方で最近ではさすがに「政策論議をもっともっとやれ」などとも言いだし、どっちが本音なのだと言いたいような揺れ方である。


◆世論調査の花盛り
今日は各メディア一斉に菅と小沢の支持率の調査結果をトップで発表、6817だとかやっているが、これも如何なものか。一部にはこの手の頻繁な世論調査にも批判の声があるのを承知なのか。マスメディアが実施する世論調査はいずれにしてもマスメディアの論調の後付けになりやすい。
小沢に対する意見の中に必ず「政治と金」をまぶして設問しているのであれば、それは無色透明な公平さを持った設問とは言えず、誘導された意見になるに違いない。

大体、菅のやろうとしている政策も小沢のやろうとしている政策もまだほとんど伝わらない段階で、どちらが首相に相応しいかを聞くと言うことは、2人に対しての漠然とした印象による回答にすぎず、それは裏を返せば、ようするに「政治と金」の問題に引っかけた世論調査にしかならない。
こういう調査を、あたかも国民の声のように奉じてこれ以外の選択をする者を大勢に逆らうへそ曲がりのように伝えるメディアの態度が分からない。

そもそも今回の代表選は国民に開かれたものではない。もし、それをやるなら民主党の有権者を対象に調査をすればいい話で、選挙によって首相が誕生すれば、それはそれで民主党の政党支持率になって現れること。先走りした報道の意図は、国民がこのように感じていると言うことで、民主党の有権者に圧力をかけようとする意図が隠れているのだろう。

頻繁な世論調査は何でも判断を国民に求めるというメディアの劣化を示すと言う意見もある。自分たちの深い取材に基づく判断、評価、見識に自信があるならまずもってそれを世に問うべきである。
メディアは2人の評価をどう考えているのか。政治家としての手腕、政策の考え方、人間性など、政治家の資質を総合的に評価し、どちらが今の日本と国民にとってベターなのかと言う検討作業をしているのだろうか。新聞の社説などを見ても、とてもそのようなことをしているとは思えない。

◆首相としての菅の適正能力は?
かく言う私だって必ずしも小沢でいいとは思っていない。仮に小沢になった時にどのような政治になるのか、怖いもの見たさで考えているだけ。先日書いたように(小沢問題の本質とは何か)、政治家としての資質についても大いに疑問がある。

だが、一方の菅も問題がもっと多そうだ。これがしっかりしていれば何も言うことはない。小沢になんか負けるなと言いたいくらいだが、どうもそうは見えないのだ。
新聞や国民は今になって菅を持ち上げているが、小沢が暫く影を潜めていた間は、散々「官僚に取り込まれた。政治主導を放棄した」と書いて来たではないか。それはどうなったのか。

何より、首相になってからの菅はあまりにふがいない。時に気色ばんだり、そうかと思うと変に低姿勢になったり、何とか野党を怒らせまいとするだけで、自分では何をやりたいのかが全く見えない。
一説によると彼は野党として相手を追及する時には、鋭く相手を追い込むが、首相として世界のこと日本のことを広い視野で見、いま何を優先して取り組むべきなのかと言うことには無能だという。

「視野30度の男」などと揶揄されていては、とても首相は務まらない。それに彼は、人を上手く使うことが出来るのだろうか。うしろにいる仙石などに使われているのがみえみえの感じもある。
少なくとも、今の菅政権で日本の重大な問題を押し破っていく力はないのではないか。そうなると日本はこのままずるずると衰退か破綻の道を歩んで行くしかない。

◆日本に運は残っているか
もっとも小沢だって、いざ首相になったら化けの皮が剥がれて無能をさらすかもしれない。しかし、そうなればなったで、日本の現実がはっきりする。日本に余計な政治の幻想がはびこらず、国民も日本の現実を見るようになる。一時日本がひどいことになるかもしれないが、少なくとも戦争に突き進むことはないように思う。
小沢が引っ込んでまた陰の権力者だの、二重権力などとあげつらわれるより、白日のもとにその能力をさらすことの方がすっきりするように思う。

まあ、極めて難しい選択だが、私が書いているようなことは「ごまめの歯ぎしり」。大勢に何の影響もない。
従って、10日後に日本の政治がどうなるか、政局がどう動くか。菅と小沢とどちらに転んだにせよ、それは日本の運のようなもの。日本にまだ運が残っているのか、やはりもう駄目なのか、その行方が見えてくるはずである。

◆マスメディアのやるべきこと
仮にマスメディアがそういう状況を思い描くのであれば、もっと真剣に日本の将来にとってどちらがベターなのかを多面的に論じてほしい。「政治と金」などと「何とかの一つ覚え」のように言ってないで、菅と小沢で日本の将来、俗に言えば日本の運がどう変わるのかを、もっと真剣に検討してみてほしい。

いずれにしてもこれは支持率などよりもっと重要なことである。世論調査などを使って民主党有権者に何らかの圧力にでもなればと言うような、そんなもって回ったことをするよりも、取材力を駆使して大事なことを報道すべきだと思うのだが。
 

消費税論議に騙されないために 10.8.8

 菅首相が選挙で消費税増税を言い出したから、民主党は大敗したのだと言われて、今菅首相は消費税に極めて慎重なもの言いになっている。それに対して、読売などを始めとするメディアは、日本がこれだけ膨大な赤字を抱えているのだから、新たな財源を求めるためにも、また財政再建を目指すにも、「消費税論議から逃げるな」と菅の尻を叩いている。

◆消費税論議が隠していること
 もちろん、前にも書いたように日本がこのまま膨大な赤字を蓄積して行ったら、国家財政が破綻してしまうのは目に見えているのだから、出来るだけ効果的な手を打つ必要はある。 それだけでなく、これから高齢化して行く日本では、黙っていても毎年1.3兆円も支出が増えるのだから、新たな財源の確保が迫られるという理屈も国民の耳に入りやすい論理のように思われる。

 しかし、
だからと言って単純に消費税を上げればいいのか。国民の方も消費税を上げることが唯一の解決策のように宣伝されていることに、何かしら胡散臭さをかぎつけているのではないか。 そこで、(全体の中では少ないが)少し注意して日本の税制の問題点を指摘している識者の記事などを丹念に読むと、消費税論議の裏にはもっと議論すべき大事なことが隠されていることに気付かされる。

◆消費税増税の前にやるべききこと、「無駄を省く」の欺瞞
 ざっくり言って、今の消費税論議には、その裏に2つの大事なことが隠されている。一つは、当然のことだが、増税の前にやるべきことがあるということ。
 菅首相が持ち出した消費税が不評だったものだから、民主党などは、今更のように「鼻血も出ないくらいに無駄を削減してからの話だ」などと言い訳しているが、では、
何をどう削るのか、その道筋を示してない。 無駄を省くと言っても、それは「事業仕分け」で様々な無駄を省くと言うだけでは、前にも書いたように全体の1%にも満たない枝葉を刈り込むようなもの。
 また、「みんなの党」のように議員の削減、官僚の20%削減などというのも、やることには賛成だが、その程度での削減は国の予算の構造的見直しとまでは言えない。

  国家予算を大胆に組み替え、全体で20%程度を削減するには、本当に国でやるべきことを限定して国と地方の仕事の重複、非効率を改革する。また、各省庁で重複している事業を整理するために省庁の再編をするくらいの
大手術が必要になる。このためにこそ、国家戦略局で作る「国の基本計画」があるべきだし、それに基づいた年次計画も必要になって来る。

 これは小沢の言うように
「霞が関を一旦壊して、新しい家を建てるくらいの覚悟でやらなければ駄目だ」ということなのだが、そこに手をつけないで「国家戦略局」構想を諦め、お経のように「無駄を出来るだけ省く」などと言っても空疎にしか響かない。
  それに、ものには後先がある。先に消費税アップが決まったら、政治家や官僚は、無駄を省くことなどすぐ忘れてしまうことを、国民皆が知っている。

◆消費税だけでなく、税制全体の中で考える
 第二には、消費税論議は、
その陰にある日本の直接税の歪み、不公平性を隠してしまうと言うこと。 税金には、ご存知のように消費税のような「間接税」の他に、所得税、相続税、法人税などの「直接税」がある。20年前は、この直接税の比率が大きすぎると言うので、「直間比率」を先進国並みに是正するというのが消費税導入の論理だった。
  しかし、消費税導入に伴って、この20年間に所得税の最高税率を下げる、相続税を軽減する(5千万円まで控除したために今では相続した人の4%しか払っていない)などの、金持ち優遇策を取って来たために、今日本の間接税の割合は先進国中でもかなりのものになっている。消費税を10%に引き上げれば、トップクラス。

 また、先進国に比べて高いので下げるべきだと言う日本の法人税も、実質的には様々な抜け穴によって収めない法人が増えている。要するに、
日本の直接税の体系は、この20年の間に「金持ち優遇」にシフトするとともに、様々な欠陥を抱えたものになってしまったと言うことなのである。
 私などは「日本が格差社会になってしまった」と言う背景の一つには、この歪んだ税制があると思っている。それなのに、今度は、貧乏人にも金持ちにも等しい税率でかかって来る消費税を上げると言う。消費税の割合が多くなれば、ますます格差は広がって来る。

◆消費税論議に騙されないために、もっと情報を
 消費税論議は、こうした税制全体の問題の中で議論が尽くされるべきなのに、
それが意図的に隠されている。それを承知の菅首相を始めとする一部の政治家たちやメディアが、何故「現実を直視すると消費税の議論を避けるわけにはいかない」などと言うのか。
 そこには、臭いものにふたをしながら、てっとり早く取れるところから取ってやろうとする財務官僚の陰謀を感じざるを得ないのだ。仮にそうだとすると、それは政治主導の放棄につながる。

 もちろん、国家財政の健全化は緊急の課題だからこの議論は急ぐ必要がある。マスメディアの方も、「消費税から逃げるな」などと単純に言う前に、日本の税制の問題点を整理した
様々な情報を提供するべきである。 そして、国民の大多数の納得を得られるような結論を導き出す「お手伝い」をするべきである。  

小沢問題の本質とは何か 10.7.29

 この何年も小沢ほど動向が注目されて来た政治家はいない。また、彼ほどマスメディアの執拗な批判にさらされて来た政治家もいない。れっきとした一般紙の客員編集委員(岩見隆夫)やニュース23のキャスターを務めた後藤謙治(共同通信出身)なども、様々な形で露骨な反小沢キャンペーンを張っている。
 特に右系雑誌に寄稿する政治記者、評論家たちは中立を装うことも忘れて、なりふり構わぬ感じだ。


 こうしたマスメディアの小沢批判に影響されているのだと思うが、最近の新聞アンケートでは85%の国民が「小沢の復権は好ましくない」と答えている。しかし、これとて印象論に過ぎず、本当の小沢を理解して答えているのかどうか。

小沢問題の本質とは
 マスメディアの政治記者たちは、なぜこれほどまでに小沢の息の根を止めたいと思っているのか。私は彼らが小沢批判に使う「政治と金」は口実で、彼らの根底にはもっと深い危機感や怨念があると思っているのだが、小沢の何がそんなに危機感を抱かせるのかについては、議論の深まりがない中でいまいち明確ではない。
 一体、小沢と言う政治家とは何者なのか。マスメディアや評論家がこだわる小沢問題の本質とは何なのだろうか

 「政治家小沢の本質」などというテーマを、私のように小沢を直接知らない素人が書くべきテーマかどうか。しかし、この数年の検察と小沢の攻防、「政治と金」の報道、反小沢の政治記者、評論家の意見、それに小沢に心酔している側の人々の意見などを読み比べて来て、私なりに感じたことを書いてもいいのではないかと思うようになった。

 いずれ詳しく小沢問題の本質に関わる「政治と金」、「政策および革命家としての顔」、「政治家としての資質」について書かなければいけないと思うが、各論は次回以降に譲って、今回は、その骨子のみを書いておきたい。

◆マスメディアの「政治と金」報道の病理
 第一に「政治と金」の問題について。この問題を政治家小沢の本質的欠陥だと言う人もいるが、そうだろうか。新聞もテレビも最初のうちは洪水のように、水谷建設の5千万円の裏金問題をあたかも見て来たように報道してきたが、今は煙のように消えている。文春8月号でも、野中広務、立花隆、後藤謙治がいろいろな金銭疑惑について言っているが、確実なものは何もない。
 反小沢陣営は、現在進行中の検察審査会に期待しているようだが、小沢を不倶戴天の敵と思っていた検察があれだけ大掛かりな捜査をしても起訴に持ち込めなかった事実をどう考えるのか。

 秘書の犯した「政治資金の虚偽記載」程度のことなら、小沢の金権体質が駄目といったところで説得力はない。現時点での捜査結果をもとにするなら、これが小沢の致命的欠陥とまでは言えないというのが私の考え。
 この程度のことで、小沢を抹殺しようとするのは、彼らが「政治と金」の問題を悪意的に使って、小沢のマイナスイメージを膨らませ、何とか小沢を抹殺したがっていることの証明に過ぎないと思う。自らの取材で事実をスクープするならまだしも、相変わらず説明が足りないと言っているだけのマスコミはどこかおかしい。

「政治と金」よりも
 このようなあやふやな「政治と金」よりも、今もっと真剣に議論されるべきは「小沢のやろうとしていること」、或いは「政治家としての資質」なのではないか。一部にまた小沢待望論が起きている現在、「小沢に日本の将来を託して大丈夫なのか」ということこそ、検証すべき重要テーマなのではないか。

 正面切って「政治家小沢の本質」を問い続けるのは本来マスメディアの責任なのだが、日本のマスメディアはその責任を十分果たしていない。
 てっとり早く「政治と金」で攻めれば何とかなると、事実を確かめないまま執拗に批判を繰り返す。検察の暴走があってもまるで一緒に暴走しかねない勢い。小沢に関する「政治と金」の報道は、肝心なことを伝えない、今のマスメディアの病理を示していると思う。

◆革命家と見なせば理解できる
 第二に、では政治家小沢の本質は何かということ。「剛腕、壊し屋」などと言われながら、小沢はこの10年以上、「政治改革、行政改革、地方分権」の3つの改革を目指して来た。小沢は敢えて言えば、様々な点で自立していない、ぬるま湯日本をあらゆる点で目覚めさせようとする「革命家」になろうとしているということである。
 今は、政権についてようやく、政治改革の次の行政改革が始まったばかり。これから霞が関の本丸に攻め込もうと言う時に、菅が官僚に妥協し、消費税アップを言いだしたことに小沢が怒り心頭だと言うのも分かる気がする。

 ただし、革命家と既得権益を守ろうとする既成勢力(霞が関、財界、政治部記者)との血みどろの戦いは、なまじの性格では出来ない。そのために、革命家は政治家とは違って革命家特有の性格を有する

 かのレーニンを見ても分かるが、革命家は革命の命題に直線的に突き進む、権力の維持や行使に異常な執念を持つ、猜疑心が異常に強く革命のために非情にもなる。それは、微温的な日本の政治風土の中では異質な存在だ。
 従って革命の命題が仮に今の日本に必要なものであっても、それを小沢流にやろうとすると、様々な軋轢を生まざるを得ない。そこに発生するのは、路線を巡る権力闘争と敗れたものの怨念である。そして、それは政治家小沢の資質にも深くかかわって来る。

政治家としての資質
 そこで、検証すべき第三の点は「政治家小沢の資質」である。一般に現代の政治家に必要な資質を小沢に照らして考えてみたい。まず、「時代を見通す見識」、「これはと言うテーマをやり遂げる、ぶれない信念」。同時に、政治家には政治信念をやり遂げるための「政治力」と言うものが欠かせない。
 一つ一つ詳しく点検しなければいけないのだが、結論を言えば(他の政治家がだらしないので)今これらの点で、群を抜いているのが小沢だと思う。その意味で一部に小沢待望論も出ているのだが、ただし、安心するのは早い。政治家の資質として重要な次の点ではどうなのか。


◆政治家小沢の不得意分野
 「物事を遂行して行くための人間力。敵を少なくしながら説得していく粘り強さ」。これについてはご存知の通り。かつては盟友と言われた側近たちがこれだけ次々と離れて行く政治家も少ない。これは革命家ならではの宿命なのだろうが、政治家としては欠点である。
 というのも、政治家は革命家と違って、実に多くのその時々の課題を解決していかなければならない。革命の命題ばかりではなく、様々な利害の対立を調整し、妥協点を探り、人々の安心を図っていく知恵と忍耐がいる。
 小沢は、こうした「人間力」の部分で、意外にもろいのではないか。「強面(こわもて)、剛腕」の裏側に潜む彼の実像は案外知られていない。それを知るには、古くは都知事選に強引に立てた候補(磯村)が敗れた時や、大連立が民主党内で否定された時、あっさりと身を引こうとするなど。そうした様々な局面での彼の行動分析を積み重ねなければならないだろう。

 さらに「説明能力、説得能力」。これは情報社会に生きる政治家にとって決定的に必要な能力である。国民、マスメディア、そして仲間の政治家たちのすべてに対して、現代の政治家は説明責任が問われる。この点で、小沢は致命的に資質を欠いていると言わざるを得ない。
 性格的に人見知りで、分かる人には分かると弁明しない、分からない奴は放りだす、では、今風の政治家とは言い難い。説明能力とは、まず、言語もそうだが、表情、人当たり、気遣いなど高度な人間力が要求されるのだが、残念ながら、ここが最大のウィークポイントではないか

「ブレーン」はどうか
 政治家の資質としてもう一つ付け加えれば、「良質なブレーンを持っているか」と言う点。小沢は「政治と金」でも追及されてきたが、一方で莫大な金を、一流の学者、専門家を集めた研究活動に使ってきたという証言もある。それが、安全保障、税制改革、官僚制度改革、地方制度改革、社会保障制度、地球環境政策などの小沢の様々な政策提言につながって来たのだという。
 小沢ほど政治課題についての様々な私的な研究会を作って来た政治家はいないというから、政策の中身は別として「ブレーンを持つ」と言う意味では、菅などよりはるかに上かもしれない。(ただし、周囲に彼を支える、何でも忠告できる有能な政治家グループがいるかどうかは分からない)

◆判断を迫られる国民と、マスメディアの責任
 以上骨子のみを書いて来たが、このように小沢問題を正面からとらえると、見えてくるものがある。それは、ざっくり言えば、政治家小沢を評価するには、彼が目指す「日本改革のための政策」と「小沢に権力を与えた時の混乱と軋轢」という二点のち密な検証が欠かせないということである。

 つまり、これからの日本が小沢を必要とするかどうかについては、この二点の評価結果を秤(はかり)にかけて判断しなければならないということである。そして、彼を否定するにも、用いるにも、それだけの覚悟がいるということである。
 日本がこれだけ破局の淵に沈もうとするときに、凡庸な政治家でこれを乗り越えることは不可能なのははっきりしている。日本に力のある政治家が払底してしまった今、日本は小沢と言う劇薬を用いるべきかどうか。その判断を迫られている。

 それを判断する具体的な材料が必要なのに、マスメディアは小沢本人に肉薄することもせず、「政治と金」ばかりで、肝心の検証をして来なかった。そして今度は「菅対小沢の最終戦争」だと。まさに、日本のマスメディアも「病膏肓(やまいこうこう)に入る」状態ではないのか。

唄を忘れたカナリヤ。民主党は政策を再構築できるか 10.7.18

 11日の参院選で民主党が大敗。問題は選挙後、菅政権はこの「本格的ねじれ」の政局を乗り切れるのか。この状況で国民の生活を守る政治が出来るのかだ。新聞各紙の解説記事を熟読して考えてみた。

◆選挙結果は国民の揺れ動く気持ちの反映
 今回の選挙で国民は、民主党にお灸をすえつつ、自民党には改選第1党の議席数を与えたが、どちらにも無条件の承認は与えなかった。
 その代わり「みんなの党」が10議席を獲得。しかし、これも参院でキャスティングボードを握る数とは言え、政策が支持されたと胸を張るほどの数ではない。二大政党への不満の受け皿になっただけで、これが代わりの政権政党に成長するような予感はまだない。

 こうした結果を「国民は非常に的確な判断をした」という識者(古川貞次郎 朝日)もいるが、この後に待ち受ける政治の停滞と混乱を考えれば、そう簡単に評価も出来ない。
 ただ、この結果が良くも悪くも、今の政治に対する国民の気持ちを正直に反映したものだとはいえる。民主党にもがっかり、自民党も変わってない、ではどこへ投票すればいいのか。そんな思いの一部が(以前の民主党の主張と変わらない)「消費税反対、官僚制度改革」を訴えた「みんなの党」に流れた。

◆国民を忘れた民主党、唄を忘れたカナリヤ
 民主党が大敗した原因は、菅の消費税問題もさることながら、一にも二にも民主党に対する幻滅、疑心暗鬼である。
 まず民主党の統治能力(ガバナンス)不足の問題。鳩山首相は民主党が掲げた政策に愚直に向き合うのではなく、試行錯誤をそのままに発言して、マスコミに「迷走だ」、「ブレる」とはやし立てられた。閣僚たちも勝手にバラバラな意見を言って、「学級崩壊状態」などと言われた。

 次に国民軽視。政権について以来、民主党は政治と金の問題、基地移転問題に悩まされ、マスメディアに叩かれ続ける中で、肝心の国民に直接訴えることを忘れて来た。「国民の生活が第一」などと言いながら、国民と向き合わず、十分な説明責任を果たしてこなかった
 極めつきは、菅首相がついこの前のマニフェストをあっさり捨てて消費税アップを言いだしたこと。向こう4年間は上げないと約束していたのだから、国民に十分な説明がなければならない筈だった。
 政治的に未熟なために、マスメディア(これは国民ではない!)や支持率ばかりを気にして、国民との対話(これが政治の原点)を疎かにして来たつけが回ったのである。

 国民を忘れた菅はさらに深刻な幻滅を生んでいる。消費税アップで自民党にすり寄る。政治主導を諦めて、官僚にすり寄る。それは、言ってみれば民主党が自民党と変わらなくなったと言うことである。
 識者の中には二大政党の政策が似通って来たことを評価する向きもあるが、今の日本では当たっているとは思わない。自民党の積年の機能不全が政権交代をもたらしたのに、その自民党の政策に民主党が近づいてどうするのか。
 政治的信念を見失った民主党は、唄を忘れたカナリヤと同じ。菅政権は国民のこの深刻な幻滅に気が付いているのか、極めて疑わしい。

「ねじれ国会」の深刻さ
 「混乱に耐え、新たな連立政権の枠組みを探りながら改革を進めよという民意である」(朝日、政治部長)という意見もあるが、本当にそうだろうか。
 今の民主党が「ねじれ国会」を乗り切るには、あっちの党、こっちの党の政策に妥協しながら部分連携の道を探ることしかない。しかし、自民党も「みんなの党」も勝利におごって嵩にかかって来るだろうし、他の党も民主党の足元を見ているから、またぞろ政治ゲームが始まり、停滞と混乱が続く。

 そんなことより、自分たちの政策の足元を固められない民主党に部分連携を模索するような芸当が出来るかどうか。その前に今、民主党がやるべきことは、自分たちの政策を再構築すること。「国民の生活が第一」という原点に立ち返って政策を固められるかどうかが大問題なのだが、これが難しい。

菅民主党は政策を再構築できるか
 民主党内では明らかに路線の違いが存在し、さらにこれらグループ間の権力闘争が始まっている。一つは前原や野田、玄葉に代表されるような規制緩和の小さな政府路線。もう一つは小沢、鳩山グループの福祉介護などの国民福祉重視(必然的に大きな政府)路線。ただし、両グループとも、税金の無駄排除、官僚制度改革、地域主権などでは一応手を組んで来た。

 民主党内の路線闘争、権力闘争をまとめるべきは菅なのだが、種をまいた張本人でもあるし、リーダーとしての器がなさそうなので、その可能性はかなり低い。見ていると菅は選挙の失敗で孤立を深めているし、政治家としての熟練度が低く、支えてくれるブレーンもいなさそうだ。
 一番の問題は、菅が目指す政治と言うものが伝わってこないこと。国民と直接向き合う気があるのか。国民の知恵を結集して、根本から政策の再構築をする気があるのか。どうも、一度は袖にした小沢にすり寄ろうとしたり、国家戦略局を断念して官僚のご機嫌を取ろうとしたり、彼の政治信念が見えない。

政治を弄んで来た日本の不幸
 路線闘争を抑え、民主党の政策を再構築することが出来なければ、民主党は分裂となるが、国民からすると、実に困ったことである。これまでも書いて来たように、日本の難局は一刻も待ってくれないからだ。
 政治家もマスメディアもいつでも代わりがあるかのように、政治ゲームにうつつを抜かし、政治を揶揄し、足の引っ張り合いをして来たが、政治を弄んで政治家を使い捨てにしているうちに、難局に立ち向かえる政治家などとっくに払底してしまった。

 こんな状況の中、最近になって小沢の動向に注目が集まっているが、政治家小沢ほど毀誉褒貶の激しい存在はない。一度情報を整理したいとは思うが、そんな彼に日本の未来を託すのはいわばギャンブル。そんなギャンブルが話題になるほど日本の政治は追い詰められて来た。(この問題は次回に)
 政治が停滞し、混乱を続ける中で、日本は確実に破滅の瀬戸際に近付いている 

菅民主党の「現実路線」とは何か 10.6.22

◆今、政治が見えない、分からない
 鳩山から菅に代わった直後に支持率が回復したのは、政治的に未熟な鳩山に代わって菅がもう少し上手く民主党が目指したものをやってくれるかもしれないと言う期待だったろう。しかし、その菅が去年の民主党のマニフェストを簡単にうやむやにして、代わりに自民党と同じ消費税増税を言い始めた。

 鳩山辞任後、マスメディアは相変わらず民主党の中で小沢支配は続くのか、脱小沢は出来たのか、などのステレオタイプの報道ばかりを続けて、政権を引き継いだ菅が何をやろうとしているのか報道しなかった。肝心の政策、政治路線の変化について、背景まで掘り下げた情報が少ない。
 マスメディアの方も、菅の「現実路線」(強い経済、強い財政、強い福祉)に安心したのか、様々な疑問点を解明せずに取りあえず参院選挙だというムード。我々庶民には選挙を前にして、何故か急に政治の実体が霧に包まれたように見えなくなっている

◆数々の疑問・これで選挙が出来るのか
 今度の参院選挙はこれまでに増して、日本の未来を占う重要な選挙になる。しかし、選挙によって我々国民は何を選ぶことになるのか。新しい菅民主党は何を目指しているのか。脱官僚、政治主導、生活第一といった民主党が目指していた政策はどうなったのか。
 民主党の「現実路線」はどういう経緯からから出て来たのか。そもそも菅はなぜ急に消費税増税を言い始めたのか。民主党内の力学の変化とどういう関係があるのか。などなど分からないことが多い。
 支持率動向や消費税問題ばかりが取り上げられてこうした背景説明の情報が極端に少なく、まるで、郵政改革一本やりで国民を選挙に駆り立てた小泉選挙の時のような状況になってしまっている。

 また民主党ばかりでなく、各党はどうなのか。様々な日本の政治課題にどのような路線を取ろうとしていのか。キーになりそうな公明党、みんなの党がどちらに着くのか。選挙後に政界再編は起こるのか 。それぞれの政策や政治路線の違いが分からないから、選挙後の連立や政界再編の可能性についても予測ができない。
 マスメディアも含めて政治全体が、支持率の動向に右往左往するばかりで肝心の政策論議の深まりがない。こんなことで選挙になるのだろうか。

 小沢の力を削ぎたいマスメディアは、今回の民主党の政変が脱小沢の動きだと盛んに解説していたが、一方で、ネットの方には別な見方をするのもある。 それを見ると、小沢側はまだ参院の重要ポストを占めているし、国対委員長と議院運営委員長という重要ポストも樽床を配置しているので、小沢の力は全く削がれていないという。 (田中良紹の「国会探検」
 小沢消滅というマスメディアの希望的観測よりは余程奥が深いが、同時に、そうして裏方に回った小沢の次の狙いは参院選挙後の政界再編にあるという説もある。もっとも、こういう解説がなくても、このまま軌道修正をしなければ、参院選挙後に政界再編に近い何かが起こる確率は高いと思う。

  参院選挙後、仮に民主党が過半数を取った場合、民主党の中で路線を巡る対立が激しくなって党分裂の危機が高まるのではないか。党内の勢力争いから、民主党の一部が自民党や公明党と組む動きが出ないか。もちろんその時は自民党も分裂する。さらに公明党やみんなの党など第3極を含めた小勢力はどう出るか。

◆菅政権の「現実路線」の実体
 そうした参院選後の政治の動向を占うカギはたったひとつ。党内の議論も十分経ないまま、去年のマニフェストから大きく舵を切った菅民主党の政治路線の実体である。 財政再建を掲げての消費税増税。法人税の軽減。ただし、金持ち優遇の累進課税の是正などは言わない。
 現実路線と称して消費税増税の自民党案の丸のみに走った民主党は何をねらっているのだろう。それは菅が言うような「ギリシャの財政破たんのようになってはいけないと思った」というような単純なものではないだろう。

 一説には、消費税増税を争点化することによって、基地移転問題や「政治と金」などの争点を隠すのが狙いだとも言うが、国民はむしろ民主党の現実路線の背後にもっとうさん臭いものを感じているのではないか。
 はっきり言えばそれは、菅民主党が強大で強固な日本の官僚システムの前に、ついに白旗を掲げたということではないか。「官僚主導から政治指導へ」を諦め、官僚制度改革なしの増税路線へ舵を切ったということ。そのことが国民には透けて見えている。このところの支持率に陰りが見ているのもそのためではないか。

◆官僚の高笑い
 謎を解くヒントは、消費税増税、法人税の軽減などの動きを霞が関の官僚の立場から見ることだろう。民主党が政権を取ってから何かと気に触っていた事業仕分けだが、結果的には強大で強固な官僚機構のほんの1%にも満たない部分にちょんちょんと鋏が入ったようなもの。
 その過程で、脅したりしかしたりしながら、結局のところ官僚機構は民主党を飼い慣らしてしまった。少し時間がかかったが、いまや、官僚からすれば自民党だって民主党だってどっちでもいい。プライドだけ高い自民党より、うぶな民主党を使いこなす方が楽かもしれない。

 今回、菅民主党の中核を占める前原、岡田、仙石、玄葉、枝野などはむしろ小泉政権が進めた規制緩和路線による「官から民へ」路線(新自由主義路線)だという。小泉時代の「官から民へ」路線は、実は官の力をそぐのではなく、民と官の癒着した利権構造をさらに緊密にした点で官の受けが良かった。官僚たちが民の世界に乗り出すチャンスが増えることだった。

  しかし、だとすると、去年秋の政権交代で民主党が掲げた「国民の生活が第一」、「国と地方の関係の見直し」、「政財官の癒着構造を断ち切る政治主導」、「国連主義の外交」、「地球環境政策重視」などの政治路線はどうなってしまうのか。
 菅の「現実路線」によって官僚との妥協が復活し、これらの政策がかすんでしまうとしたら、菅民主党は多くの国民の期待を裏切ることになるし、選挙後の政変に大きな火種を残すことにもなる。

◆民主党は原点を忘れるな
 菅は首相になった後、「民主党の目指した原点に戻ってじっくりやる」と言っておけばよかったのである。それを政権に抱き込んだ前原や枝野に同調して、急に路線を変更した。 マスメディアや官僚と手を握った感のある菅民主党の現実路線と、小沢や鳩山らが掲げた旧民主党路線。この対立から参院選挙後の政局が動き出すかもしれない。民主党の分裂、政界再編、連立の組み替えなど、選挙後の政局へのタネを播いたのは菅自身である。

 私自身の希望を言えば、なかなか難しくなったとは言うが、仮に参院選挙で民主党が過半数を取って安定したら、消費税云々で大騒ぎする前に、国民第一の原点を忘れずにじっくりと日本の大課題に取り組んでもらいたいということ。中でも前回書いたように、官僚制度の改革は根幹の問題だと言うことを忘れてもらっては困る。さもないと日本の未来はない。

日本の難問C問題山積の官僚機構 10.5.5

 宿題になっていた「日本の難問C」。機能不全に陥っている日本の官僚機構について、そのポイントだけ見ておきたい。政権交代によって戦後体制が大きく変わろうとする中で、様々な過渡的混乱を経験している日本。
 しかし困ったことに、かつては政治的混乱があっても陰でしっかり国を支えてきた日本の官僚機構が今や頼りにならない。戦後65年、国を動かして来た優秀な官僚機構が制度疲労を来たして、日本の重大な難問、政治課題になりつつある。

◆問題その@国益より省益優先の縦割り組織
 日本の官僚機構は戦後に何度か省庁再編があったにも関らず、強固な縦割り組織を維持して来た。その結果、次のような弊害をもたらしている。
  「
幾つかの省庁にまたがる大きな課題に有効に対処できない。谷間にある面倒な課題を互いの省が押し付け合ってたらい回しにする。同じ課題を幾つもの省庁が重複して取り組むという無駄を生む

 さらに、よく言われるように
「国益より省益を追求する」という大きな弊害もある。 「法案作りや許認可権を利用して特定の政治家や財界と癒着する。管轄の外郭団体を多数作って天下りポストを確保する。それを維持するために無駄な仕事を作り税金から補助金を回す」と言う、(自民党時代から引きずって来た)利権構造である。 この利権構造を守るために、自分たちの省庁のなわばりを広げる争いに身をやつして来た。

◆問題そのA官僚組織の非効率、専門能力の欠如
 官僚の世界では、民間会社ならとっくにつぶれているような信じられない非効率がまかり通っている。例えば、ある幹部が国会議員にわずか15分の説明をしに行くのに、想定問答を100も用意させ、部下を10人もぞろぞろと連れて行く。
費用対効果の概念や、労働コストという意識がないからだ。

 何が国家にとって優先事項なのかと言う国家ビジョンが見えないから、日本の官僚組織全体が、リスクを負わないように重箱の隅をつつくような袋小路に入り込んでいる。 労力の非効率な消耗の中で、
外国と競争して行くために本当に必要な専門分野の超エキスパートが育たない。皆が皆、「良く知らなくても問題にならない程度に上手くあしらう能力」を持ったジェネラリストばかり。優秀な人材を採っているのにもったいない話だ。

◆問題そのB国と地方の役割分担の未整理
 もう一つ大きな問題が、
地方と中央の役割分担が出来ていないことによる非効率である。少子高齢化問題、介護や福祉の問題、幼稚園や保育所の幼児教育問題、地域振興などの経済問題、などなど。これらの問題は、地域の実情をよく知る自治体が取り組む方が効率的なテーマでもある。
 しかし、中央省庁の方はなかなか権限を離したがらない。関係省庁が幾つもあり、一つの課題に国の様々な機関が口を出す。地方自治体も幾つもの省庁窓口に申請しなければならない。その調整だけでも膨大な労力だ。

 
本当に国に残すべき機能は、突き詰めるところ何なのか。外交、防衛、エネルギー、法務、財務などの他に何があるのか。それが整理出来れば地方に権限と財源を移行し、かなりの無駄が省ける。
 地方に人材がいないと言うのであれば、中央の官僚を地方に再配置する。そうすれば地方の活性化にもつながる。 しかし、これが出来ないために、膨大な税金の無駄遣いと行政の非効率が続いているのである。

◆政治主導と言いながら
 以上のような官僚制度の弊害を是正すると言う意味では、民主党が掲げた
「官僚主導から政治主導へ」は正しい。 政治が国家の大事な戦略を決めて官僚を主導して行けば、優先順位も分かり、効率的な業務が出来る。政治家に国会答弁の責任を持たせれば、官僚を瑣末な仕事から解放して、本来の仕事にまい進させることができる。

 しかし、新聞報道を見る限り、民主党の政治主導は混乱の中にある。政治家が官僚を敵視してきたおかげで、本来優秀な官僚を使いこなせていない。政治家の能力も追いついていない。 最近では、些細なことまで自分たちでやろうとして、政治家自身が小役人になってしまったのではないか、とさえ見える。どうも
膨大な国家課題の迷路に入り込んで、政治家の方が方向を見失っているのではないかと心配だ。

 官僚制度改革(国と地方の役割分担、中央省庁の規模、人的資源の再配置など)は、明治以来の大改革だから、ある程度の試行錯誤も仕方がないが、それも程度問題だ。このままでは官僚に足元を見られてしまう。
 政治主導とは、自分たちで何でもやると言うことではなくて、ビジョンを掲げながら、官僚をその方向へ奮い立たせることだということに、早く気づくべきである。(意欲ある官僚も随分といるのだから)

◆数々の難問に立ち向かう勇気と覚悟を
 
「@少子高齢化、A巨額の財政赤字、B地方の疲弊、C官僚機構の機能不全」以外にも日本の難問はある。例えば、教育現場の荒廃。さらには、外部から日本を直撃する難問もある。
 それが「
経済のグローバル化、日米関係を含めた防衛問題、地球温暖化問題」だ。 経済のグローバル化による影響はリーマンショックやギリシャの例を見るまでもなく現代では避けえない課題だ。しかも、その影響は国の一番弱いところを突いてくる。的確な安全ネットの構築がなければ社会がぼろぼろになる。(これらのテーマについては随時書いて行きたい)
 
 こうして見てくると、今政治が取り組むべき課題の多さ、大きさに呆然とする思いだ。内閣が幾つあっても足りないくらい。しかも、これらの難問への対処を誤れば国の未来が危うい。
 その解決のためには、「
難問の本質を見誤らない理解力、解決に取り組む戦略的思考、高度な専門能力を備えた人材の確保と組織化、そして何より課題を先送りにしない決意と覚悟」が必要。これらが一つでも欠ければ解決は難しい。

 こうした、「ことの重大さ」を直視すれば、今政治が何をしなければならないかが見えてくる。「政局報道よりも政策報道を」。今の日本には、あるかないかも分からない「政治と金」などの瑣末な問題にこだわって(政治記者の大好きな)政局遊びをしている余裕はない。
 日本が直面する難問の数々を十分に理解した上で、政治にも、(第4の権力と言われる)マスメディアにも真剣に取り組んで貰う以外に日本の未来はない。また、それが分かれば、政治もマスメディアも変わるはずだと思う。
 

「警察庁長官を撃った男」の衝撃 10.5.3

 衝撃的な本を読んでしまった。その本について書く。
 今から15年前の1995年3月30日午前8時30分、全国警察のトップ、国松孝次警察庁長官が自宅マンションから出たところで何者かによって狙撃された。オウム真理教教徒による事件ではないかと噂のあった
地下鉄サリン事件の10日後のことである。 警察トップへの挑戦というべきこの事件は、オウム真理教に対する警察の追究が一気に動き出すきっかけにもなった。(そこがこの事件のポイントでもあるが)

 事件の起きたのは東京都荒川区南千住の高級マンションの一角。ここを管轄する南千住警察署に設けられた特別捜査本部は、事件の犯行グループをオウム関係者とにらんでこの15年、膨大な人数と税金を投入して捜査に当たって来た。 しかし、結局、オウムのグループについては確たる証拠も見いだせないまま、15年後の
今年の3月30日、事件は時効を迎えることになってしまった。

◆警察の自己弁護
 時効を迎えた日、捜査を率いて来た警視庁の公安部長が記者会見。そこで展開された主張や警視庁のホームページでの主張は、多くのマスコミが指摘したように、実に弁解がましいものだった。 犯行をオウム真理教の組織的、計画的犯罪と断定し、実行犯グループをイニシャルで表すことまでしながら、結局公判に持ち込めるだけの証拠がないので断念したという内容だった。(公安部長の記者会見内容

 罪に問うことが不可能と判断した相手を、公的機関の警察が犯人グループと決め付け、公表するという矛盾。マスコミの多くが警察の態度を批判した。マスコミだけでなく、法治国家として不適切として日弁連も、また犯罪グループと名指しされたアレフ(オウム真理教の後継組織)もホームページの削除を申し入れた。(そのHPを探したがもう見つからない)

◆ノンフィクション「警察庁長官を撃った男」
 こんな弁解をすれば「理解しがたい異例の会見。言い訳だ。潔く失敗を認めよ。法治国家としておかしい。」などと批判されるのが分かっているのに、なぜ、警察(警視庁公安部)は自分たちのやって来たオウム捜査を敢えて正当化しようとしたのか。その裏には何か別の理由でもあるのではないかと、彼らの主張に違和感を持った人も多かったはずだ。
 
 実は、そんな疑問に答える本が時効直前の3月20日に出版されていたのである。
「警察庁長官を撃った男」(鹿島圭介著、新潮社)。この本を読むとなぜ、警視庁がそんな弁解をしなければならなかったか、本当の理由が分かる。
 事件の真犯人は他にいて、オウムとは関係ないこと。公安部が最後までオウムにこだわって、その情報を握りつぶしたこと。そして、誤りを犯した警視庁幹部の面子を守ろうとして、異様な弁解に追い込まれたことなど、驚くべき事実が次々と登場する。

◆異常な状況での異常な事件
 それにしても、事実は小説より奇なり。事実としても奇々怪々。本当にこんなことがあり得るのだろうかと思う。しかし、冷静に考えれば、当時、東京上空からサリンをまいて100万人もの都民を殺そうとヘリコプターまで買い込んでいたオウム真理教の異常さを思えば、それに対抗しようとした真犯人の(こんな人間がいるのかというような)異常さも納得できるように思う。
 少なくとも、本の中で警察別働隊が突き止めた様々な状況証拠、足跡の確認の内容が事実とすれば、オウムなどよりこちらを本命として捜査を固める必要があったのではないかと思う。

 この事件は、極左や極右集団によるクーデターや革命、カルト教団によるテロなどという極限状況の時には、どのような謀略や異常事態も起こり得ることを示している。 同時に、そうした真犯人に結びつく情報を黙殺し、最後には握りつぶす原因になった、「警察という組織の独善、自己保身、階級意識、なわばり争い」もまた異常と言えば異常だ。

 本の中で指摘された人間が真犯人だとすると、
時効はなお300日延びると言う。この本が出た後、警察はどのように動くのだろうか。それにしても、こんな衝撃的な事実を書いた本を、他のマスコミは読んでないのだろうか。(そんなはずはないと思うのだが)
 関連記事を見てみると、マスコミはこの本で真犯人とされた男については、警察の「風体、身長が目撃情報に会わない」などという公安部長見解をうのみにし、それ以上の追及をしていない。或いはマスコミにはそれ以上追及しない何か特別の理由があるのだろうか。
 

事業仕分け第2弾 国家戦略はどうした? 10.4.24

 4月23日から始まった、枝野行政刷新担当大臣らによる「事業仕分け」の第2弾は、(全体で104のうち)47の独立行政法人(独法)の事業を対象に行われる。「事業仕分け」は大向こう受けのするテーマだけに、これからしばらくマスコミを賑わすことだろうと思う。

◆ある独立行政法人の日常
 私の友人で、定年後、ある独立行政法人に契約で雇われた人がいる。いわゆる天下りではなく、民間企業で培った能力を買われたものだ。もう働き始めて5年にもなるが、会うたびに「
いやあ、独立行政法人の人たちと言うのは何を考えているのか全く分からない。民間企業じゃ考えられないよ」という。

 面倒な仕事は全部外部の人間にやらせる。本来彼らがするはずの実務も給料の格段に安い派遣の人たちがやっている。自分たちはと言えば、毎日何かと言えば会議ばかりやっている。 しかも、その会議は職員だけで、本当に実務をやっている外部の人間には参加させない。何やらひそひそとやっていて、契約社員や派遣の人間には会議で何が議論されたかも知らされない。

 管理職も担当の業務に習熟する間もなく、1,2年でころころ変わる。つい4月にも、また新しい課長が異動して来たのだが、実質的にその業務の責任者である友人には何の挨拶もないという。自分たちの業務がどのように運営されているのか知ろうとしないのだろう。
 彼らを見ていると、
自分たちの仕事は外部の人間に仕事を割り振ることだ、くらいにしか考えていないとしか思えない。監督官庁への報告や組織内の力学しか視野に入っておらず、実際に仕事をやっている外部の人間など視野に入っていないらしい。
  「自分たちの仕事についてどういう考えを持っているのか、何をやりたいのかさっぱりわからない」と友人は不思議がるが、それでも国からはちゃんと税金が回って来る。

◆政府の非効率は国の官僚機構全体をむしばむ病
 この独立行政法人は104ある独法の中でも有数の、大規模に国の税金を扱っている機構だが、他の法人も推して知るべしだろう。都心の一等地に立派なビルを構え、外部業者に仕事をさせて、天下りの幹部も生え抜きの職員も優雅に暮らしている。 国からの補助金事業を外部の業者に丸投げし、(管理監督業務と称して)税金の何十%も中抜きしている所も多い。

 こういう事例を見たり、聞いたりするにつけ、私などは、これは独立行政法人ばかりでなく、中央官庁も同じではないかと思ってしまう。本当に税金が有意義に使われているのは全体の7割程度で、後の3割は、膨大な霞が関官僚の維持費、独立行政法人、政府関係公益法人の維持費に意味もなく消えているのではないかと思っている。
 霞が関の若手官僚たちが書いた
「霞が関維新」には、日本の国際競争力のデータが出ている。それを見ると総合順位は9位(これも年々落ちている)だが、「政府予算の無駄遣い」という項目では108位。政府の仕事の競争力のなさは世界の中でも劣等国並みの情けない状態なのである。

◆独法の事業仕分けなど小さい。大事な国家戦略はどうなっているのか
 枝野行政刷新担当大臣は、今回の事業仕分けは「金ではなく、事業構造の見直しだ」と言うが、金からすれば千億円に届かない小さな話だ。一罰百戒、「事業仕分けで」独法が俎上に登れば他も「無駄をカットする」という意識が働くと言う意味ではやらないよりはやった方がいい。 しかし、国民受けはするけれど、こんなものは、
国の全体からすれば大木の葉先を切りそろえているようなもの。はさみは枝にも幹にも届かないということを忘れてはならない。

  国民の関心が高い「事業仕分け」だが、問題は何度も言うように
「国のグランドデザイン」、「国家戦略」が欠かせないということ。それがなければ、どんな改革も海図なき航海と同じになる。前回の「事業仕分け」が終わった時にマスメディアも口をそろえて国家戦略が必要だと言っていたのに、もうすっかり忘れている。 (「事業仕分けについて」)

 
国の官僚機構を、省益に走りがちな構造からどう変えるのか。官僚たちの意識を「省庁を超えた国益、国民」の方にどうしたら向けられるのか。また、「本当に国でやる仕事と地方に回すべき仕事」とをどう仕分けして行くのか 官僚制度については、こうした明確な国家戦略を下敷きにして、抜本的な官僚機構の改革を打ち出すことこそ、本当の意味での「事業仕分け」。独立行政法人の無駄をカットする位のことで満足しているようでは、枝野もいけないだろう。

◆ある不吉な考えが頭に浮かんだ
 そう思って、仙石国家戦略担当大臣がやっているHPを覗いて見た。「公務員制度改革」や「予算編成の基本方針」、「財政運営」などいろいろ検討会が重ねられているが、これも何が骨太の検討課題が良く分からない。 進め方も何となく官僚のやり方を踏襲している。
それを見ていて、ふとある不吉な考えが頭に浮かんだ

  「民主党の言う政治主導だが、
いまや政治家が小粒の官僚になってしまっているのではないか」。そして、「どうやら、民主党も膨大な国家的難問を前にして骨太のビジョン(道筋)を作れず、国家と言う巨大な『迷路』に迷い込んでしまったのではないか」。 期待が高かっただけに外れて欲しい観測だが、実態は果たしてどうなのか。このことについては、引き続き点検して行こうと思う。  

基地と黒船 意識下の反米感情 10.4.19

 前政権との協定を盾に辺野古への基地移転を迫るアメリカ。受けて立つ鳩山民主党政権は国内の反対で身動きが取れない。このままいくと5月末には国民とアメリカ双方に約束した決着期限が守れずに、鳩山政権は倒れるかもしれない。

◆アメリカは当然ことながら国益最優先
 アメリカとしては、沖縄に海兵隊基地を置いておくことは、
日本の防衛と言うよりは対中国などアジア防衛構想の要である。国益のためならば、日本の政権の一つや二つが吹き飛んでも構わないという露骨な姿勢が見え隠れしている。 むしろ内心は鳩山政権が倒れることによって、上手くいけば社民党のような反基地政党が排除され、親米の自民党が復活することの方が望ましいと思っているに違いない。

 従って、オバマ大統領には鳩山政権の苦渋を思いやって妥協するような仲間意識は微塵もない。逆に日本の言うままに沖縄から撤退したらオバマ自身が弱腰と非難されてしまうだろう。 国益を貫くことは大国アメリカの一貫した姿勢で、アメリカから見れば、ワシントンポストではないが、「同盟国同士、核の傘で守ってやり、車も買ってやりしているのに鳩山は何を言っているか」と言うことだろう。

◆黒船を思わせる構図
 この図式は、アメリカが江戸幕府に
黒船を差し向けて開国を迫った時と何やら似てなくもない。アメリカの国益のためなら江戸幕府が倒れようが一向に構わない。代わりの政府ができて言うことを聞くならそれでよし、混乱のままなら植民地化もという魂胆だったろう。
 結局、明治以降、そしてアメリカと戦争して負けた後も、いざという時には日本がアメリカのいいなりにならざるを得ないという図式は未だに続いている。

 当時の日本は、「竜馬伝」にみるように「攘夷論」から「開国やむなし」まで様々に世論が分かれて沸騰し、結局、幕府が倒れる騒ぎになった。 今の日本も同じ。
 「日本に海兵隊基地はいらない」、「せめて沖縄県からは出て行くべきだ」から、「中国、北朝鮮に対する抑止力として必要」、「ともにアジア防衛を担う同盟国なのだから当然必要」まで、世論はバラバラに分かれていて、アメリカに足元を見透かされている。

 こうした中で、決着の条件として(ありそうもない)
沖縄、アメリカ、移転先の「三者合意」を言いだした鳩山の真意が分からない。冷徹に国益を貫くアメリカに対して余りに無邪気過ぎる。

◆日本の主権はどうなる?
 もちろん基地を移設するには、移設先の説得が高いハードルにはなる。しかし、国内で決着させるにしろ、国外に出て行ってもらうにしろ、それは
日本国の主権にかかわる問題だ。
 内閣の命運をかけるのなら、日本政府はもっと重大な決意を持って地元にもアメリカに立ち向かわなければならない。そのどちらの反対をも押し切る覚悟がなければ、(どんな政権だって)この問題を解決することはできないだろう。

 これから民主党政権がどういう結論を出すのかは分からないが、仮にアメリカの反対にあって民主党内閣が倒れたらどうなるか。小さな基地問題一つで政権が吹き飛ぶ。(外交の拙劣さはともかく)
日本の国家主権が余りにも軽いことに国民は愕然とするはずだ。

◆行き場のない鬱屈が反米感情になる時
 今のところ、日本の世論は反米には向かわず、批判はむしろ出来もしない約束をした鳩山政権に向かっている。これは、黒船を見てしまった日本人の攻撃先がアメリカに向かわずに、(開国を約束した)幕府に向いたのと同じことだろう。
 しかし、
その批判の対象が倒れてなくなったらどうなるか。アメリカは、これは日本政府の責任だと言い張るだろうが、内閣が倒れれば日本の命運を握っているアメリカの真の姿が見えてくる。その時にも、日本のマスメディアはいつものように、アメリカの肩をもつのだろうか。

 いずれにしても、
基地を巡る議論は再び振り出しに戻り、混乱と落胆が日本を覆う。批判の対象がなくなり、行き場を失った日本人の鬱屈が直接アメリカの国益と向き合うことにもなる。 それが反米感情という形になるのかどうか。その意味で、一ヵ月後、仮に鳩山政権が倒れた後の日米関係の行方を注目しなければならない。  

民主党政権 壊すか、我慢するか 10.4.17
 このところずっと、マスメディアあげての集中豪雨的な「民主党けなし」にかみついてばかりいたので、お前は民主党に甘過ぎるのではないかと言われるかもしれない。しかし、自分の中では必ずしも甘いとは思っていない。今回はその理由について。

◆壊すか、我慢するか
 もちろん、民主党だって何だって批判すべきは批判すべきだと思う。ただ、問題は何のために批判するのか、メディア側にはっきりした考え(覚悟)があるかどうかだと思う。 再び自民党的なるものの復活を考える一部メディアが、「民主党政権を早く崩壊させるべきだ」という思惑的報道をしているが、それに引きずられるように、他のメディアが付和雷同的に「民主党けなし」に走るのが気に食わないのだ。

 誰もはっきり言わないから、この際に極言すれば、今、メディアも含めて国民の民主党政権への関り方は、大きく言って次の2つしかない。すなわち
「壊すか、我慢するか」である。
 今、マスコミ報道の影響もあって、多くの国民が
「そんなに頼りない政権なら壊れてもいいか」と民主党政権を見限り始めている。しかし、民主党を批判、非難し続けた結果、民主党政権が崩壊した後はどうなるのか。今より良くなる展望が描けるのか。

◆壊したあとに何が見えるのか
 政権崩壊が国や国民にとって、より良い結果を生めばいいが、再び政治の混迷と混乱に舞い戻るだけと言うのでは困る。あるいは、仮に政治が安定してもまた
一昔前の政財官のなれ合いによる利権構造に逆戻りするのは、もっと困る。 現在は多少の混乱を伴っても、戦後の密室談合的政治を清算し「国民の方を向いた新たな政治のあり方」を摸索する過程にあると思いたいのだ。
 単なる逆戻りでは、目の前に迫っている様々な
「日本の難題」(少子高齢化、膨大な財政赤字、地方の疲弊、官僚機構の機能不全など)に対処し、グローバル化した世界の中で生き残って行くことはできない。これらの「難問」の多くは、それこそ自民党政権の長年の不作為によって悪化した問題だからだ。

 自民党が、去年の総選挙での敗因を受け止めて過去を清算し、こうした「難問」に対処できる新しい国民政党に生まれ変わるというなら、それは歓迎すべき選択肢になる。 しかし、今の自民党がどういう党に生まれ変わろうとしているのか、政策の柱に何を打ちたてようとしているのか、が全く見えていない。
自民党もまた混迷と漂流を重ねているとしか見えないし、過去から脱皮が出来ていないとすればもっと悪い。

◆どこまで我慢できるか
 一方の民主党も、
どこまで我慢できるかが問題になって来ている。このまま我慢を続けてどうなるのか。国民が民主党政権を選んだ時の期待はもう消失したのか。
 首相の言葉が軽すぎてリーダーシップが見えない、政権内がバラバラで皆勝手なことを言っている、財源問題に切り込めずにマニフェストが後退している、経済の成長戦略がない、「政治と金」がボディーブローになって浮足立っている、などなど。政権運営能力に大きな疑問符が付き始めている。

 しかし、一方で「週刊朝日」ではないが、不評の中でも少しずつ変わって来ているところはある。 少しずつだが政治主導が動き始めていること、官僚の税金の無駄使いに国民の目が届くようになったこと、記者クラブの公開による多様な意見が発信されるようになったこと、社会的弱者(派遣、子供手当、高校の無償化)への配慮、地方への財源移譲、無駄なダム工事の廃止、などなど。
自民党政権時代には考えられなかった政策が少しは動き始めている
  しかし、国際的な問題、外交問題では国内政治に足を引っ張られてふがいない。環境問題でさっそうと登場した当初の勢いは完全に失われている。普天間基地の移設問題も政権のアキレス腱になりそうだ。

◆メディアの選択肢としての「壊すか、我慢するか」
 ということで、私たち国民(当然メディアも)は、今の政治を考える時には民主党と自民党それぞれの、現時点での「政権担当能力、政策内容の評価」を常に多角的に吟味する必要がある。その上で、民主党政権を「壊すか、我慢するか」 の2つのうち、どちらが国民にとって得策なのかを秤にかけて判定しなければならない。
 つまり、「今の政権を壊して、もう一度ゼロから政治の枠組みを模索し、政治を立て直すのか」、「代わりが見つからない間は我慢して、今の政権を叱咤しながら育てて行くのか」の2つである。

 その考えを、明確に据えながらの批判ならば、自ずと批判の仕方も変わって来る。新聞もテレビも
付和雷同的な「民主党けなし」に組みすることなく、この2つのどちらが国民のためになるのかを十分吟味して、その判断の根拠も明確にしつつ批判して行くべきではないか。 (そう言っているうちにも、基地移設問題が引き金になって政権が倒れるかもしれない。そのことについては次回に)  
政治とマスメディアB自己変革は出来るか 10.4.11

 以前、自民党が末期的になってどうにも人気回復が望めなくなった時に、選挙対策の奇手としてこんな策を書いていた人がいた。それは自民党から幾つかのグループを分離して別働隊としての新党を作り、自民党への不満層の受け皿を作るというものである。そうすれば自民党単独よりは得票が増えるので、選挙後、連立を組めば野党(民主党)に政権を渡さずに済むという、かなりの高等戦術だった。

◆自民党別働隊の高等戦術か
 結局、末期の自民党にはそういう奇手に打って出る勢いもなかったわけだが、皮肉なことに、ここへきて野党になった自民党から与謝野などの少数グループが離党して新党を作ることになった。 続いて舛添も離党のタイミングを図っているというが、彼らの離脱には、自民党の谷垣執行部の硬直した人事や、カリスマ性のなさに対する不満が積もっていたのと、このままでは展望が描けないという焦りがあるのだろう。

  しかし、政策的にも大きく違う与謝野と平沼を結びつけているのは、取りあえず
「反民主。民主党に参議院で過半数をとらせない」という共通の思いだけ。それなら別に自民党でもいいのにと思ってしまう。ただ、反民主勢力にとっては、夏の参院選挙で民主党を過半数割れに追い込むことが唯一のチャンスであり、 それが出来なければ、後何年も展望のない野党暮らしをしなければならなくなる。
 それだけに必死なのだろうが、「非自民」などと言っても本音は結局、「自民党的なるもの」の復活であり、これでは、誰が見ても明らかなように、大局的に見れば彼らが「自民党の別働隊的役割」を果たすのと変わらない。
  それは、仮に過半数割れが実現した後のことを考えればわかる。勢力として新党が存在感を示すには自民党と連立する以外に道はないからだ。 自民党も残念だなどと言いながら除名は避け、裏では案外、あうんの呼吸でやっているのかもしれない。 もしそうなら、(成功するかどうかは別だが)これまた相当高級な戦術と言える。

◆マスメディアの「反民主、自民党的なるものへの回帰願望」
 一方のマスメディアは、当初からそういう(身も蓋もない)冷たい言い方は控えて、離党組を
「第三極作りか、政界再編の起爆剤か」などと持ち上げつつ連日大げさに取り上げて来た。しかし、ここまでは新党の思惑通りだったが、さすがに最近は(あまりの不発ぶりに、マスコミの思惑も外れて)冷めた報道をせざるを得なくなっている。

 ただ私は、マスメディアはこの先も様々な動きをとらえながら、
民主党を見限って自民党的なるものへ回帰するという「見果てぬ夢」の路線を、暫くは追い続けるのではないかと思っている。 というのも、マスメディアの中枢を占めている政治部記者や論説委員には、多かれ少なかれ「反民主、自民党的なるものへの回帰願望」があるように見えるからだ。
 そんなのウソだろうと言われそうだが、一連の報道を注意深く追っていると(かつて自民党の派閥記者だった)彼らの「潜在的意識」があぶりだされてくる。
 例えば、政権交代以来(現在もだが)、マスメディアの政治報道が果たした役割は、(前回書いたような
「民主党けなしの修飾語」を連呼することによって)結果的に民主党の支持率を下げることだった。しかし、一方の自民党も駄目で、支持率は思うように上がらず。彼らは「このままでは危ない」と自民党の保守勢力と同じ危機意識を共有しているに違いない。

◆ 「自民党的なるもの」とマスメディア
 現在のメスメディアの「反民主、自民党的なるものへの回帰願望」はどこから来ているのか。良く分からないが多分、それは戦後の
政・財・官の密接な関係で作って来た「日本のパワーエリート」の一角を自分たちマスメディアも占めて来たという自負だろうと思う。
 民主党(特に小沢)は、
その既得権にメスを入れることを掲げて登場した。官僚主導の政治を見直し、自民党と財界の関係に手を突っ込み、そしてマスメディアに対しては「日本ではマスコミが最大の守旧派になっている。記者クラブというギルド組合を解体しなければ、日本に本当の言論の自由は成り立たない」(小沢)などと過激なことを言って来た。今の民主党がそうした「(旧)パワーエリート」から猛反発を食らっているゆえんである。

 
「小沢一郎 嫌われる伝説」、「わが友 小沢一郎」などの親・小沢の本を読むと、記者懇談会や記者クラブを巡っての政治記者と小沢との暗闘はもう20年近くも続いている。また、竹下時代には、自民党を離れた小沢を攻撃するための、マスコミ幹部も入った小沢包囲網(「三宝会」)が作られ、その流れが今なお反小沢で動いているという。
  すでに一部のマスコミは反・民主、反・小沢で動きつつあるが、彼らにとっては、「より自民党に近い民主党議員が小沢批判をする。その結果、小沢の力が削がれたり民主党に亀裂が入ったりする。民主党の支持率が下がって、民主党がメディアにすり寄る。参議院選挙で民主党の過半数割れが起こる」といったことは、すべて歓迎すべきことなのだ。そしてその結果、「小沢批判記事は、書き得」とばかりに事実を確かめないような横並び情報が溢れることになる。(「嫌われる伝説」)

◆ 二大政党時代のメスメディアの政治報道
 私は、「小沢一郎は死んだ」や「政治家小沢一郎の小さな器量」(月刊文春)といった小沢批判記事にも目を通しているが、正直、どちらが正しいかはまだ整理できていない。多分どちらにも理があるのだろう。 しかし、今のようにマスメディアの政治報道が様々な思惑を秘めていることを考えると、
受け止める側もかなりのメディア・リテラシー(解読能力)が必要な時なのだと思う。
 また、 こうした状況がこの先も続くことを考えると、これからのメディア(特に新聞)は、アメリカの新聞のように(政治的立場に関しては)
自らの立場、主張を明確にして報道すべき時に来ているのではないかと思う。その方が国民をミスリードしないで済むし、それが2大政党時代の政治報道のあり方ではないか。なかなか難しい提案だと思うが、本格的な2大政党時代を迎えてメディアの方も様々な自己変革の道を探って行くべきだと言うのが私の意見である。

◆マスメディアは変われるか
 以前の「ネットVSマスメディア」にも書いたが、特に政権交代以降、マスメディアの政治報道については、かなりの不信感が寄せられているらしい。 「新聞は真実を伝えていないのではないか」、「記者は優越的地位にあるのに勉強不足」、「ニュース選択や記事の展開が恣意的」、「記者クラブが新規参入を阻み報道の質を低下させている」とは、毎日新聞の双方向サイトに寄せられた批判だそうだ(3月31日)。

 マスメディアの中枢には、今なおかつての自民党担当の政治部記者が居座っている。その意味で政権交代後の意識改革に一番遅れているのが彼らかもしれない。 (それで何が悪いという声も聞こえそうだが)かつて自分たちを「日本を動かすパワーエリート」の一員とみなして来た記者たちが、どう自らを変革するのか。
 こうした耳の痛い批判もきちんと受け止めて、真に国民の利益にたった報道ができるかどうかが、マスメディアに問われていると思う。 (取りあえず、「政治とマスメディア」はこれで一旦店じまい)

政治とマスメディアA官僚は支持率をうかがう 10.4.4

 最近のマスメディアは民主党に対して、決まり文句のように「政治と金の問題を抱える」、「迷走と混乱が続く」、「支持率低下に悩む」、「小沢幹事長と閣僚の溝が深まる」、「首相の指導力が見えない」などという修飾語をつけて報道する

◆安易に使われるレッテル
 
一旦こうしたレッテルを貼られると、そこから浮上するのは大変だ。色々頑張っても、すべてのマスメディアが思考停止状態になっているから、何かと言えばこうした修飾語を安易に使う。実態を検証しなくなり、「皆で渡れば怖くない」式に安心して使いまくる。
 
これをやられると議員たちも浮足立ってくる。軽挙妄動する議員が目立ち始め、執行部は落ち着いて目の前の課題や政策に取り組めなくなる。(今の自民党も全く同じだが)

 メディアの方は「権力批判こそが我々本来の仕事」と、こうした決まり文句を気分よく使っているのだろうが、マスメディアの集中豪雨的(繰り返し)報道は、意外なところにも影響をもたらす。
 例えば官僚たち。マスメディアによる、
連日の「民主党けなし」によって当然のように支持率は下がるが、その行方を固唾を飲んで見守っているのが彼らである。
 この先、民主党の「政治主導」はどうなるのか、次の「事業仕分け」はどうなるのか、天下り先の「特殊法人の整理」はどうなるのか。自分たちの運命に直接かかわって来るのだから、当然と言えば当然だ。

◆「政治主導」現場の密着ドキュメント
 3月28日に放送された
「ノンフィクション 激突!民主党VS官僚」(フジ)は、民主党が進める政治主導の舞台裏に密着したドキュメントだったが、これを見ても、一連のマスコミ報道がいかに官僚たちの態度に影響するかがわかる。
 去年暮れの予算作成過程での「医療費の見直し」、「保育所設置基準の国と地方の管轄」、「成長戦略の作成」などのテーマを巡って、これまでのやり方を変えようとする大臣、副大臣、政務官など民主党側議員。対する官僚たちの戸惑い、しのぎあいをカメラが追う。

  番組は、こうした「政治主導」の政策決定過程を追いながら、間に、同じころ発生した検察捜査と政局の動きを挿入するという構成になっている。 政務次官(民主党)の方針で、官僚たちも新しいやり方に変えようと動き始めた矢先に、例の検察捜査が始まる。
 政策決定の現場でも、にわかに動きが慌ただしくなる。担当大臣が変わったりして、民主党の議員たちもそれぞれの現場で難しい対応を迫られる。 同時に、マスコミの「政治と金」の集中豪雨的報道を見て、官僚たちの態度が微妙に変わっていくのが分かる。支持率の低下によって政権の勢いはどう変わるのか、
官僚たちが様子見を始める

◆官僚たちは支持率をうかがう
 昨年、小林和男氏(ジャーナリスト、ロシア問題の専門家)の講演を聞いた時のこと。「ゴルバチョフがソビエトの外交を転換するために、それまで全く無名のシュワルナゼ外相を登用できたのはなぜか。抵抗する外務官僚たちを押し切れたのは何故か」という質問が受講者に出された。
 
「国民の支持が高かったから」と言うのがその答え。長年、社会主義国家ソビエトの官僚主義にうんざりしていた国民が変化を求めてゴルバチョフに高い支持を与えた結果だと言うのである。 つまり、政治が官僚機構を変えられる条件は、国民の支持が高いこと。国民の高い支持があれば、頑として動かない官僚機構も動かざるを得ない

 逆に支持率が低ければ動きが遅くなり、何を言っても変わらない。面従腹背、笛吹けど踊らず、官僚得意の時価稼ぎが始まる。 このままだと、民主党のいう政治主導も足元を見られかねない。
 始めの勢いはどこへやら、(真偽のほどは分からないが)大臣が官僚たちに取り込まれてしまったというような報道も現れる始末だ。

 そんなわけで、一連のマスコミ報道によって助長された政治不信、支持率低下は、一面で確実に官僚たちの抵抗を強めている。  民主党の未熟さを棚に上げていうのだが、マスメディアの方も決まり文句(レッテル)を安易に連呼するのはほどほどにして、もっと個々の事実の検証に基づいた報道(もちろん批判でもいいが)をするようになってほしい。(「政治とマスメディアB自己変革は出来るか」に続く)
 

政治とマスメディア@誰が国益を考えているか 10.4.2

 次の宿題になっている「日本の難問C」は、「機能不全の官僚組織」と言うテーマで書きたいのだが、なかなかその気になれない。マスコミをにぎわす目の前の政治状況があまりに不毛で元気が出ないのだ。多分、日本の国民みんなが同じような気持なのではないだろうか。

◆誰が国益を考えているのか
 閣僚も議員も野党もてんでんばらばら。皆が好き勝手なことを発言して足の引っ張り合いをしている。一体誰が本気で日本のことを心配しているのか。例えば米軍基地の移転問題。お互いがお互いを批判してまとまらないのは、外国(アメリカ)から見れば、
実に脅しやすい、組みしやすい国に見えるだろう。
 
 国会では、自民党の谷口総裁が「5月までに基地移転の決着がつかなければ退陣せよ」と迫る。あれだけ鳩山が5月中の決着を言っていたのだから当然のようにも聞こえるが、
少し視点を変えればこうしたメッセージは(沖縄に固執する)アメリカの立場を強めるだけだと気づく。
 これを聞けばアメリカが「鳩山政権の命運を握っているのは我々だ」と思うのは当然で、アメリカはどんどん強気に出始めている。(問題が極めて難しいことは誰でも分かっているのだから)自民党も国益を考えれば、こうした傍観者的迫り方ではなく、まず自分たちはこう考えるという姿勢を明示して、国民と苦渋をともにするべきだと思う。
 (自民党の行き方についての卓見だと思う記事が田中良紹のブログ「国家探検」にのっている)

◆マスコミの政治報道も疑問
 一方、マスコミも評論家も国益を考えているかと言えば、似たようなものではないか。この何カ月も「民主党のツートップが政治と金の問題を抱えている」、「まだまだ説明が足りない」という決まり文句で、民主党批判を繰り返えしてきた。
 「サンプロ最終回(3月28日)」で国民新党の亀井が「毎日毎日、駄目だ、辞めろを聞かされれば、支持率が下がるのは当たり前」とごく常識的なことを言っていたが、マスメディアの方は、支持率を天の声のように捉えて「民主党は国民の声が聞こえないのか」とまた批判する。

  新聞社説も(近頃はヒステリック状態に)「まだまだ説明が足りない」を繰り返しているが、どう説明したって彼ら(政治記者たち)が満足することなどあり得えず、「まだまだ説明が足りない」は単に「小沢も鳩山も辞めさせたい」というマスメディア側の本心を隠した姑息な言いまわしに過ぎない。そんなことは当事者たちも分かっているから答えないのだ。

 日本が平和で国民の暮らしに心配がない時なら、半年だって1年だって「政治と金」にこだわり続けるのもいい。しかし、今は誰もが認める国難の時。「日本の難問」に書いているように、この国は未曽有の難局に向かっていて、やるべきことは山積している。
 敢えて言うが、(検察があれだけ大掛かりな捜索をした挙句に、罪を問えなかった2人について、「道義的責任」を問うというだけの)平和ボケしたテーマで時間を空費するのは、国民の不幸ではないか。今こそ、本気で
「この日本を救うには何が必要なのか」の政策議論をするときではないのか。

◆江戸末期のような人材払底と混乱期?
 今の日本は不幸なことに、国難が迫って来ていると言うのに、国の未来を託せそうな人間も政党も見当たらない。話は飛躍するが、こういう状況は黒船がやって来た
江戸末期も同じだったと思う。 260年も平和が続いた江戸末期に開国を迫る黒船がやって来た時、幕閣は小役人ばかりになっていて、(勝海舟は別として)時代を切り開く人材は払底していた。
 統治能力を失った幕府に代わって、
日本が新政府の担い手を見出すまでに15年かかっている。 その間、日本では血で血を洗う対立抗争や内戦を繰り返す大混乱が続いた。そのことを考えると、日本の戦後システムの大転換が迫られている現在についても、(政治学者の御厨氏は4年と言っているが)本当はもう少し長い目で見る必要があるのかもしれない。

 しかし、グローバル化が進む現代で
何年も混乱が続いたら日本は間違いなく没落してしまう。だからこそ、江戸時代にはなかったマスメディアの責任は重くなる。混乱の時期を出来る限り短縮して日本を浮上させるための、真に国民の利益にたった報道を期待したいのだ。(「政治とマスメディアA官僚は支持率を注視する」に続く)  

■これも難問・巨大地震 10.3.14

 これを「日本の難問」に加えるかどうか悩んだが、番外編として書いておきたい。なぜ番外編なのかについては最後に書くが、考えようによってはこちらの方が日本の病巣の根深さを物語る問題かもしれない。

◆東海地震説が始まり
  1976年(昭和51年)、石橋克彦氏(現神戸大学教授)が地震学上、重大な研究発表を行った。駿河湾沖に、
マグニチュード8クラスの巨大地震を引き起こす地震の巣(空白域)があると言う仮説である。

 その理由は、1944年に起きた三重県から愛知県にかけて起きた巨大地震(東南海地震)の時に駿河トラフあたりの地殻は動いておらず、地震のエネルギーが溜まっているというのである。
 これが世にいう
「東海地震」であり、以来、御前崎の地殻変動を精緻に観測して地震の前兆現象を捉えようとする、国をあげての地震予知研究が始まった。同時に、静岡県を中心に大規模な防災・非難訓練が毎年のように続けられて来た。

◆ 南海トラフで起きる巨大地震
  その後、フィリピン海プレートが
(日本列島が乗っている)ユーラシアプレートに沈み込む「南海トラフ」(海底の活断層。駿河トラフもその一部)上で起きた巨大地震についての研究が進むにつれて、他にも巨大地震の可能性が浮かび上がる。

 南海トラフとは、駿河湾から西へ、東海、紀伊半島、四国、九州沖にまでつながる長大な海底の活断層。そこでは、過去に、それぞれ「静岡」、「愛知・三重」、「紀伊半島から四国沖」を震源地とする巨大地震(
東海地震、東南海地震、南海地震)が起きている。
  これらの巨大地震は、それぞれ80年から150年の周期で起きており、いつ起きてもおかしくないと言われる東海地震を始めとして、今世紀中にも起こり得るとされた。

◆超巨大地震「東海、南海、東南海連動型地震」
 さらに深刻なのは、最近ではこれらの3つの巨大地震が同時にあるいは数年の間に連動して起きる可能性があると言われ始めていることだ。それが
「東海、南海、東南海連動型地震」。これが一気に起きると、断層破壊が700キロにも及び、最大でマグニチュード8.7という超巨大地震になる。
  南海トラフで起きる巨大地震の確率は今後30年で60から70%、今後50年では90%にまで高まって来るというが、これがひとたび起こると、超巨大な「東海、南海、東南海連動型地震」に拡大する危険が指摘されて来たのである。

 国や地方自治体は、出来る限り被害を少なくする
「減災」を目指して、様々な防災対策を取りつつある。しかし、最近では人災ともいうべき恐ろしい難題が次々と明らかになり、地震国日本の命運も危うくなりつつある。

◆首都圏を襲う巨大地震の長周期地震動
 3月6日のNHKスペシャル
「メガクエイク 巨大都市を未知の揺れが襲う〜長周期地震動の脅威」をご覧になったろうか。何やらおどろおどろしいタイトルだが、要は最近指摘され始めた、巨大地震の時に東京首都圏を襲う「長周期地震動」の話である。
 
「長周期地震動」とは、盥(たらい)の中の水が振動して壁にぶつかり、反射した波が複雑に重なったりして長い間揺れているような震動をいう。その波は最初の波より周期が長く、波同士が重なって増幅されたりする。

 東京首都圏はご存知のように、厚さ何キロにも火山灰が降り積もった軟弱な地盤の上にある。そこへ、南海トラフで起きた巨大地震の波が到達すると、地震波が周辺の岩盤(たらいに当たる)に反射しながら、軟弱地盤(水に当たる)を揺すり、この「長周期地震動」が起きる。
 周期が2秒ほどのゆっくりした震動で、これが超高層ビルを直撃すると、共振作用を引き起こす。地上40階で、揺れ幅が2メートルにもなり、時に10分、20分も続くというのだ。

 また、東京湾沿いの埋め立て地では、揺れによって地盤の流動化現象が起きると同時に、この「長周期地震動」によって地盤が横に押し流される
「側方流動」という現象が起こることも分かって来た。
 埋め立て地には、石油タンクやガスタンクが並んでいる。これが倒壊、破壊されると
東京湾に重油が流れ出したり、引火して火の海になる

◆破滅を防ぐには手遅れか
 こうした危険性は、一部には以前から警告されていたのだが、当事者たちの無作為で十分な対策を取らずにきた。そして、いまようやく実験やコンピュータ・シミュレーションでその実態の恐ろしさが分かって来たのだが、分かった時にはもう遅い。
  危険が分かっても、対策には膨大な費用がかかるので、遅々として進んでいない状況だ。 「側方流動」で東京湾に重油が流れ出すと2カ月は使い物にならない。巨大地震による首都圏の被害想定額は200兆円にも上る。

◆番外編にした理由
 昔から日本人は、大地震ですべてを失い、ゼロからまた作り直すということを繰り返して来た。しかし、原発、石油タンク、ガスタンクなどの危険物の他にも修復困難な巨大な構造物が集中している現代の日本では、深刻な影響が残り、ゼロにすることさえ簡単にはいかない。一度巨大地震が襲えば、長い間立ち直ることが出来ないかもしれない。

 そういう破滅的な事態を避けるために、一時は群馬県や栃木県に
首都機能を移転する計画もあった。しかし、政治の無策で先送りにされて来た現在、日本は「難問A」で書いたように膨大な財政赤字を抱えている。そんな計画は夢のまた夢になってしまった。
 抜本的な対策については、もう手の打ちようがない、と言うわけで、政治に期待出来ないこのテーマは、もはや天命に任せるしかない。政治の課題としての「日本の難問」になりにくいので、残念ながら番外編にせざるを得ない。
 

■日本の難問B地方の疲弊 10.3.7

 「少子高齢化」、「膨大な財政赤字」に続く日本の難問B。今回は、都市と地方の格差問題、食糧自給率に関る農業問題、地域産業の空洞化、地域共同体の崩壊、伝統文化の消滅など、日本の様々なひずみの象徴ともなっている「地方の疲弊」について考えてみたい。

◆東京一極集中の陰で、高齢化が進む地方
 「月刊文春」2月号の中の
「知られざる東京人口爆発1300万人」によれば、東京の人口はバブル期以後、一時減少に転じたが、ここ10年で再び増加に転じ、1300万まで増えているという。 その人口供給源は地方。地価の下落でマンション購入がしやすくなった東京に、地方から若者たちが流入している。

 その一方で、地方では若い世代が減っている。地方に留まろうにも、グローバル経済の直撃で地域産業の空洞化が進み、これといった産業がなくなっている。勢い、
地方の高齢化は都市部以上に急速に進んでいる。
 農業も同じ。平成の始めに600万人を超えていた農業従事者は年々減り続け、現在およそ200万人、全就業人口の3.7%にまで減った。
  しかも、
農業従事者の半数以上が、普通の企業ならとっくに定年の65歳以上。若い後継者が少ないために、この先さらに高齢化が進み、日本の農業従事者は減り続ける。このままでは、とても食料自給率をあげることなどムリな話だ。

◆ 地方行政サービスの低下
 また、都会に比べて、地方の行政サービスが低下しているのも問題。現在、地方自治体の多くは国と同様、多額の借金を抱えている。その総額200兆円。 中には、借金が財政規模の20%(県などの場合は5%)を超えて、夕張市のような
「財政再建団体」に転落寸前の自治体も多い。

 加えて、小泉政権の中途半端な
「三位一体改革」によって、地方に回る金が減っているという。「三位一体改革」とは、小さな政府を目指す小泉構造改革の一つで、国庫補助負担金、税財源の移譲、地方交付税の一体的見直し、を目指したもの。
  しかし、肝心の地方分権改革より、国の財政改革が優先されたために、差し引きで地方財政がかえって窮屈になったという。(このへんは各種制度に関るだけに難しくて良く分からない)

 借金苦にあえぐ地方自治体は、
行政サービスを低下せざるを得ない。その結果、教育機関の設備、バスなどの地方交通機関といった日常生活レベルの不便だけでなく、医療や生活保護など住民の安全ネットが脅かされている。 ない袖は振れない、と言う自治体側の言い分がまかり通り、様々な行政サービスがカットされて来た。

◆消えて行く地域共同体
 さらに、農業や産業の空洞化による人口減、高齢化、行政サービスの低下が地方の集落を直撃すると、
冠婚葬祭などの社会的共同生活も維持できないところが出てくる。それが、(人口の半分以上が65歳以上の)「限界集落」や(半分が55歳以上の)「準限界集落」である。
 
 2006年の調査では、人口の半分以上を65歳以上が超える集落は7800(全体の13%)、その中で共同体としての機能維持が困難な集落は3000近くに上る。 限界集落がさらに進むと
「消滅集落」となって、住む人が誰もいない廃村になる。

◆地方の疲弊が生む様々なひずみ
 こうした地方の疲弊、地域社会の崩壊は、日本の様々なひずみを生み出す原因ともなっている。いわゆる「一票の格差」問題や「都市と地方の格差」問題。あるいは、さらにもっと深刻な問題、すなわち山林・農地の放棄による
国土の荒廃、日本の伝統文化の消滅などにもつながっていく。

 つまり、地域社会の崩壊によって
日本人の精神的基盤ともなっている、「心の故郷」が消えて行くのだ。これは哀しい。 かつては、田舎から都会に出て来た人が挫折した時には、迎え入れてくれる故郷があった。しかし、今は帰りたくとも、帰るべき田舎がすでになくなっている。番組「無縁社会」でもそのことが如実に描かれていた。

 地方の疲弊はまた、都市部をも問題に巻き込む。月刊文春「知られざる東京人口爆発」でも触れていたが、これまで、首都圏に人口を供給していたのは地方だった。しかし、地方の人口減少のスピードが早まっている今、地方がいつまでも人口の供給源であり続けることは不可能になる。そうすると何が起こるか。
 一つには、地方と都会との関係が希薄になり、両者の格差がますます広がる。これまで辛うじて保たれて来た都市と地方の共生関係が崩れて、
いびつな人工国家が出現する。 そして、次に若い世代の流入を失った都市部で、今度は少子高齢化の様々な矛盾(高層団地の姥捨て山化、小学校の定員割れなど)が一気に噴き出すことになる。

◆地方の崩壊を食い止めるために
  都市部への一極集中の巨大な潮流を何とか食い止めて、逆の流れを引き起こすことはできるだろうか。すなわち、地方に産業を起こし、農業に若者を呼び込み、地方の人口を増やして地方に活力を取り戻す。 その実現のために、地方分権化を進め、地方自治体の裁量を増やし、財源を増やす。(出来たら夢のようだが)果たして、そんなことが出来るだろうか。

 このような問題意識が、いま
「国から地方へ」の分権化を提起している。しかし、日本の場合は、その前に立ちはだかる巨大な障害がある。 それが、明治以来の強固な中央集権的官僚システム。これを変えられるかどうかがいま問われている。
 ということで、次回は「日本の難問C機能不全の官僚制度」を考えてみたい。(今の政治に「喝を入れる」目的で始めたのだが、結構、難問が続く)
 

日本の難問A膨大な財政赤字 10.2.28

 だいぶ間が空いてしまったが、「日本の難問」を続けたい。前回は、年金制度の崩壊や医療費の増大、経済成長の足かせにつながる「少子高齢化」をあげた。今回も日本の前に立ちはだかる難問を概観しておきたい。

 その前に何故、(素人の私が)こんなことを書こうとしているのかだが、単純に子も孫もいる一市民として、日本の将来が大変心配だから。それに、難問の深刻さに比べて、今の政治もマスコミも時に絶望したくなるほど、もどかしく頼りない。そんな
素朴な危機感をなるべく多くの人と共有したいと思うからだ。

◆政治の停滞は国益の損壊
 今の日本が直面している難問の深刻さを考えると、日本は(鳩山民主党が言うように)本当に
百年に一度の大変革を迫られているように思う。しかし、最近の政治(民主党も自民党もマスコミも)は、その深刻な現実から目をそむけている。
 すぐにも的確な対策を実行していかないと国が没落してしまうのに、国民そっちのけで政局にうつつを抜かし、日本は推力を失った船のように深い大きな渦の周りで漂流している。

 日本を救うためには、
まず、その難問を直視すること。その深刻さが見えてくれば、少なくとも、真偽不明の裏献金疑惑などで、政治が何カ月も停滞している余裕などないことも分かるはずだ。政治の停滞が如何に日本の国益を損壊しているか、日本を没落の淵に追いやっているか、だ。

 その意味では、小沢を共通の敵として、検察と一体になって明けても暮れても「政治と金」ばかり報道しているマスコミ(政治部)も、組織防衛を図って独善的な正義感を振りかざす検察も、真の国益を見失っているという点で同罪である。
  (検察とマスコミの問題、小沢と民主党の問題については、難問が整理された時点で改めて取り上げたいが、
「小沢一郎・嫌われる伝説」などを読めば、その異常さが良く分かる)  

◆難問のA「膨大な財政赤字」
 前置きはさておき、日本の難問。まず、
「日本が抱える膨大な財政赤字」である。ご存知のように、日本国家の財政赤字は、国債の残高625兆円(地方を合わせると850兆円、借入金などの借金を会わせると国全体で1千兆円超)という天文学的な数字になる。これは日本のGDPの1.8倍にも達する借金。平均的な一家族当たりの借金に換算すると1500万円を超える。

  あまりに大きな借金でピンとこないが、今、国家の財政赤字から賃金カットなどの緊縮財政を取り入れ、ゼネストや暴動が続いているギリシャでさえ、GDPの13%弱だというから、180%の日本がどうして「のほほん」としていられるのかが分からない。 来年度予算を見ても、国家予算92兆円の中で新たな借金は44兆円に上る。
こんな借金生活がいつまで許されるのか

◆問題を先送りする政治
 
迫りくる「国家破たん」を避けるためには、日本はすぐにも、財政規律(緊縮財政や増税)と経済成長の両面作戦を実行しなければならない。しかし、こんなことは誰もが分かっているのに、政治は掛け声ばかりで尻込みするばかり。
 実際にやろうとすると、
政権が幾つあっても足りないくらいの難しい綱渡り的国家運営になるからだろう。しかし、問題を先送りしている間に、国の借金は1日当たり1千億円!ずつ増えている

  日本の国債を国内法人や国民が買い支えているうちはいいが、買い支える余裕がなくなったらどうするのか。その時に外国資本が手持ちの国債を売りに走ったらどうするのか。日本の国債が暴落したらどうするのか。その時はどのように国の予算を組むのだろうか。その引き金はよくわからないけれど、国家破滅へのカウントダウンは始まっているのだ。

◆ 「日本の難問B」へ
 今回は、このほかにも
「地域社会の崩壊」、「格差社会と教育の荒廃」、そして最大の問題「官僚制度の機能不全」について触れたかったが、長くなってしまった。残念だけど次回に回したい。
 次回はまた、その難問山積の日本を
「外から直撃する難問」(「グローバル経済」、「地球温暖化問題」、「安全保障問題」)についても概観したいと思っている。

 そんなの良く分かっていると言われそうだが、最初に書いたように、この難問をリストアップして常に直視する必要があると思っている。そうしないと、今、政治が如何に大きな変革を求められているのかをすぐに忘れてしまう。
  また、難問を意識すれば、目の前で起きているつまらぬ政争や、それを興味本位で煽るマスコミ報道の無責任さも良く見えて来るはずだ。素人には手に負えない疲れる作業なので、誰かがやってくれればいいのだが。
 

無縁社会の闇 10.2.5

 年末年始で、忘年会やら新年会に随分と参加した。誘われたら出来るだけ参加する。一度誘いを断ると次からは来なくなるから、と定年になった友人が言っていたことを思い出す。そんなことを自分も肌で感じるようになった。
 あるいは、会合を企画して集まる。やってみて余程詰まらなければ、放っておいても自然に消滅するのだから、集まることが何になるなどとは考えない。

 何だか最近、人とのつながりに敏感になって来た。この先、有り余る時間の中で一人時間をもてあますようになることに、怯えているのだろうか。
 定年になって、仕事らしい仕事がなくなると、人とのつながりも自然に減っていく。面倒がって放っておくと、あっという間につながりは消えて行き、自然と家に引き込もこもりがちになる。そんな怖い状況が、この先にうっすらと見えるような気もする。

◆ Nスペ「無縁社会」
 1月31日(日)、Nスペ
「無縁社会〜無縁死、3万2千人の衝撃」と言う番組を見た。様々な状況から人とのつながりを失った人々が、誰にもみとられない中で「無縁死」している。
 アパートの一室などで孤独に暮らしていて、死後何日も発見されない。しかも遺体や遺骨の引き取り手も現れない。無縁死(行旅死亡人)と呼ばれる、その数、年間3万2千人!無縁死した人の遺品を整理する業者や、引き取り手のない遺骨を専門に引き取るお寺も現れている。

 
人々がつながりを失った理由は様々だ。会社人間で来て熟年離婚された人、田舎から都会に出てきて、生活に追われて結婚できずに一人老後を迎えている人、あるいは年老いて伴侶を失った独居老人、などなど。 皆、近所との付き合いもなく、都会の片隅でひっそりと生きている。

◆孤独死予備軍
 無縁死を恐れる人々の話を聞いていると、他人事とは思えない。私はカミさんと一緒にこれを見ていて、今現在伴侶がいるのはありがたいと思うと同時に、我々も死に別れれば、(無縁死にはならないまでも)似たような状況になるかも知れないと思う。 女性は、結構地元に溶け込んでいるので切迫感はないようだけれど、これだって体を壊してしまえば出歩けなくなる。

  実は、隣のご老人も奥さんに先立たれて、心臓病を抱えながらの独り暮らし。近所付き合いもあまりなく、子供も遠くに住んでいるらしく人の出入りは殆どない。カミさんは、毎日、少しの洗濯物が干してあるのを見て安心するという。
 体が不自由だと言うので、冬は火の元が心配だが、どうすることもできない。こちらは気楽に、時々声をかけてみたらどうか、などというが、カミさんには、最近越してきた身で付き合いもないのに、と言われてしまう。

◆無縁社会の根深い背景
  Nスペ「無縁社会」は、
日本が(田舎も都会も)地域の共同体を失ったことに対する問題提起だ。近所付き合いも無くなり、人と人のつながりが希薄になる。 最近では若い世代まで派遣切りやリストラで、人とのつながり、絆を失い、孤立しながら貧困や失業に苦しんでいる。

 日本人がなぜ共同体を失ったかは、戦後60年の歴史に関わる根の深い問題だと思う。敗戦後、国民の40%以上もあった農業人口が、現在は4%程度に激減。多くの人が故郷での生業を失い、出て行った都会で(会社以外の)地域の共同体を作ることが出来ずにきた。
 その上に近年は
人との絆を失わせるような、様々な社会現象が押し寄せている。他人を競争相手としか見ない新自由主義経済、短期で職場を変わる派遣社員の増大。また、情報化社会の仮想現実の中で他人とのつながりが作れない若い世代も増えている。

◆NPOの活動をどう支援するか
 この傾向は、目前に迫る「超のつく」少子高齢化でさらに加速されていく。独居の人々がかつての故郷に帰ろうとしても、故郷は既に超高齢化の中で崩壊している。対応すべき行政の方も積年のシステム疲労や財政赤字で機能できない。
 まさに、
日本人はどこに行くのか、だが、そんな中で僅かな救いがあるとすれば、こうした社会の安全ネットの破れに何とか対処しようとする、「目覚めた人々」の活動だろう。

 これまでは、点でしかなかったNPOなどの活動が、横のつながりも持ち始めている。行政もこうした活動を支援することが出来ればいいと思う。 ただし、これはとても中央官庁の上から目線の対策では機能しない課題。地方分権が必須のテーマでもある。(近々の「日本の難問A」で考えたいが)日本もやることが山積してますね。

 それにしても、Nスペ「無縁社会」は、長期間の取り組みが生かされていた。このようにじっくりと今の社会を直視すれば、自ずと社会にインパクトを与える独自の問題提起ができる。 それが社会派Nスペの醍醐味でもあり、大事な機能の一つ。
 数年前の問題提起番組「ワーキングプア」に続くものとして評価したいが、次はぜひ課題解決の道(NPOネットワーク化の問題など)にも取り組んでほしいと思う。
 

なぜ書くのか、何を書くのか 10.1.29

 民主党の小沢問題については、世の中でこんなに騒がれているのだから、一市民の「メディアの風」としても何か書かなければと思っていた。しかし、確実な情報もない中で何を書けばいいのかが悩ましい。情報も日替わりのように目まぐるしく変わるし。

◆複雑怪奇な情報戦  
26日に書いた「小沢事件を巡る構図」の後も、27日のTBSニュースが小沢側(石川議員)に金を手渡した水谷建設元幹部の知人のインタビューを流していた。ホテルでのやり取り、5千万を入れた紙袋のようす、などなど、生々しい証言だった。
 この裏献金問題のきっかけは、水谷建設の前社長の証言だと言われるが、その人物は現在服役中。新たにこうした証言が出てきたのは初めてではないかと思う。(違うかな)

 これが本当だとすると、いくら知らなかったと言っても小沢もアウト、小沢の首を取りたい検察が躍起になるのも分かる。また、仮にこうした証言が嘘だとすれば、そこには信じがたい謀略が渦巻いていることになる。
 水谷建設の前社長は、もともとはタイでの贈収賄事件で浮上した人物。別の前福島県知事への贈賄事件では、金を渡したと「嘘の証言」をしていたことも分かっている(これは検察のでっち上げと批判されている)。
 どうも水谷建設と言うのは、暴力団やら北朝鮮やら何でもありの会社らしい。

 この事件の背景にはもう一つ、小沢の秘書を辞めた人間たちの間のドロドロした怨念も絡んでいる。何が何だか分からない。検察もその点で慎重に捜査を進めているのだろう。
 しかし、どっちに転ぶにしろ、今回の1億円の裏献金については、もうすぐに結論が出るはずだ。仮にこれを夏の参院選挙前まで延々と引き延ばすのであれば、そこには明らかに政治的な意図が隠されていることになる。

 また、この事件は、新聞やテレビの報道だけでは分からないことも多い。その点で、今の検察のやり方とマスコミ報道を批判しているジャーナリストたちの存在が興味深い。
 彼らは、新聞・テレビではお目にかかれない意見をブログに書いている。例えば、田中良紹(たなか・よしつぐ)の「権力闘争の構図」や上杉隆のブログ「検察という国家権力にすり寄る記者クラブメディアの醜態」などの主張にも目を向けておかないと、今のメディアの大合唱に惑わされることもあるのではないかと思う。
(http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2010/01/post_206.html)
(http://diamond.jp/series/uesugi/)

◆なぜ書くか、何を書くか
 今は検察と小沢側の必死の攻防が続いている。これは国民不在の戦いだが、それによって政治が停滞し、国民の政治不信を招いているのは、まさに日本の不幸。
 その点で小沢問題は、一市民としても書くべきテーマだろうとは思う。しかし、考えさせられるのは、こういう何が事実かはっきりしない状況の中で、直接取材ができない一市民が書くことにどんな意味があるのか、ということ。

 あるとすれば、検察と小沢の、どっちかに味方して一喜一憂するのではなく、様々な立場の情報を落ち着いて整理しつつ、今の日本に何が必要で大事なことなのかを、少し長い目で俯瞰的に見て行くことだろうと思う。
 これだけ複雑怪奇な事件が、これだけ社会の変化の激しい状況の中で起こっているのだから、出来る限り確実な見方の中で自分の考えを整理しておかないと精神的にも落ち着かない、ということだろうか。

 その点、私には1月20日の日経新聞に載った、御厨貴(みくりや・たかし、東大教授)の論文が一番ぴったりくる。
 今は混乱と迷走を続けている民主党政権だが、安定して歴史的課題(制度変革)に取り組めるようになるには、明治維新や敗戦後といった変革期の例を見ても、なお4年くらいかかるだろうということ。
 今必要な「官僚制度の変革、政治家主導の政治」をやり遂げるまでには、抵抗も強く、抗争もスキャンダルも頻発するだろう。しかし、そういう流れの中で、小沢のような金権的、強権的体質も脱却しなければならない(いずれ小沢は退場する)、ということ、である。

◆歴史の流れの中に位置づけて
 今は日本の政治が様々なシステムの変革を迫られる時。社会学者・宮台真司が言うように、自民党的な「密室談合的な利益配分」構造は、歴史的な役割を終えている以上、もう昔の「自民党的なもの」への揺り戻しはないだろう。そんなことになれば、それこそ問題の先送りにしかならない。

 私としては、小沢を失った民主党を誰がまとめるのか、という懸念もあるが、いま日本が抱えている宿題は、仮に小沢がどうなろうとも、消えてなくなるわけではない。
 逆にいえば、小沢問題もそうした大きな流れの中の一事象(局地戦と書いたが)でしかない。その先に来る日本の将来を少し長い目で見据えつつ、その都度、自分の頭で考えを整理して行くこと。一市民が書く「メディアの風」としては、そんな所かなあと思う。
 

小沢事件を巡る構図 10.1.25

◆様々な既成勢力
 去年の3月に小沢の秘書の大久保が逮捕された時に、私は「政権交代の衝撃」という一文を書き、その中で、「こういうことが起きてみると、民主党も政権交代が生易しいことで出来ることではないと思い知ったのではないか」
 「それだけ政権交代の衝撃力は大きく、いま、
民主党による政権交代に恐怖に近い危機感を抱いた既成勢力が総力を挙げて小沢をつぶしにかかっている。まさに生きるか死ぬかの闘い。いやなことだが、これから暫くは何でもありの状況が続きそうだ」と書いた。

 そこで挙げた
既成勢力とは、政権交代で権力の座から滑り落ちる自民党ばかりではない。自民党とともに戦後体制を作り上げて来たすべての勢力。具体的には、既得権益を奪われる霞が関の官僚組織(当然、この中には官僚組織の検察も入ってくる)、また小沢民主党の中国重視の政策に危機感を抱く右派のマスコミ、論壇、右翼。
 さらには自民党とのパイプを築いて来たアメリカ政界や軍のロビイストたち。こうした戦後日本を動かしてきた既成勢力が反小沢、反民主党で連携を強めているのではないか、と書いた。

◆日本の強固な官僚機構
 しかしその後、小沢が代表を辞任し、9月の総選挙で民主党が圧勝。この政権交代そのものは、自民党の機能不全によるもので自民党が歴史的役目を終えたことが国民の目にも明らかになっていたからだが、それだけで日本の構造が変わるわけではないのも事実。
 自民党の方は全く勢いがなくなっているが、これまで社会を動かして来た旧体制の強固な構造は、そっくりそのままに残っている。

 特に、
日本の名だたる官僚機構は全く変わっていない。予算の中身を決めるのは新政権(官僚も事実上決めている)だろうが、予算を執行するのは官僚以外にないからだ。中央官庁とその出先機関、政府系独立法人が相変わらず予算配布の窓口権を握っていて、それが力の源泉になっている。
 少なくともこれまでは、官僚機構にとって内閣などは頭にかぶる帽子のようなものだった。政権が変わったからと言って、官僚機構も変っていくと考えるのは無邪気すぎると思う。

◆官僚たちの不満がたまっている
 民主党や小沢は政権交代が出来て、これで日本は変えられると少し有頂天になっていた感じがする。
「官僚指導から政治家主導へ」などと無神経に官僚を見下し、事業仕訳けなどを仕掛けてきたが、政権交代から100日、旧勢力(旧体制)の方も、かなりの不満をため込んでいるように思う。
 先日も、大学の同窓会に久しぶりに出てみて、その感を強くした。同窓生の中には役人の天下りが問題になっている「政府系公益法人」のトップにおさまっている人間が何人もいる。彼らは公共工事の予算が大幅にカットされたこと、官庁からの人材が期待できないことを理由に、口を極めて小沢を罵っていた。「小沢を粉砕しなければならない」と言う人間までいた。

◆旧勢力の反撃が始まった
 そういう官僚たちは今、民主党の支持率が低下しつつあることを見て、
そろそろ反撃に転じる時と見ているのではないか。田中真紀子を追い出した外務省のやり方を見ても分かるが、彼らは自分たちを守るとなると、週刊誌などへの謀略情報の提供からマスコミ操作まで、実に高度な(彼らは本当に頭がいい)戦術を駆使する。(佐藤優「国家の罠」
 
反撃の第一のターゲットは小沢だ。良かれ悪しかれ、今の民主党で力を持っているのは小沢だからだろう。 去年12月の小沢が率いた中国大訪問団、その後の中国副主席の天皇謁見に関する小沢発言、正月に民主党議員を大勢招いたこと、などなどに対する広範囲からの批判、攻撃。そして、ここへ来ての小沢の政治資金規正法違反容疑と裏献金容疑を巡る一連の動き。

 これらを見ていると、年明け以降、小沢を敵と見定めた旧体制が一斉に反撃を開始したように見える。もちろん、旧体制には官僚だけでなく民主党政治に危機感を抱いた右派論壇やマスコミ(特に自民党担当の政治記者や論説委員)も含まれる。
 その反撃は始まったばかりだが、官僚組織と一部マスコミ、論壇、右翼などの連携プレーが出来つつあるようにさえ見える。

◆マスコミの狙いは何?
 そこで現在進行中の小沢問題。一市民としての私は残念ながら直接的な情報に触れる機会がない。新聞、テレビ、雑誌と情報をかき集めて読んでいるが、どこまでが確かな事実なのかが、不明確なことが多い。
 事実関係を抑えないままの推測、意見、批判のオンパレード。それは新旧勢力の戦いという現在の政治状況を考えると、かなり慎重さを欠いたメディアスクラム状態と言っていい。 旧体制(検察)からの選別的情報リークによって意図的に作られたメディア間の競争状態の中で、踊らされている面もある。

 中には(産経、読売、毎日のように)、検察が思い描いた(裁判で否定された「天の声」などの)「小沢利権の闇の構造」をさんざん書いたあと、検察が捜査を開始すると「党幹部が検察に疑われる民主党の異常」、「自浄作用が見られない民主党」、「小沢にものが言えない民主党」などと書いているスコミも多い。機を見るに敏な彼らは、ここへ来て小沢の排除に転じると同時に、鳩山民主党も見限ったのだろう。

◆道義的責任と犯罪との違い
 そんな中、今週発売の「週刊現代」で
立花隆と元東京地検特捜部長の宗像が対談している(「小沢逮捕へ、わたしはこう読む」)。宗像によれば検察は、政治資金規正法の虚偽記載だけでなく、土木工事にからむ小沢の利権構造の全容を解明しようとしているのだという。
 そこに立件できるような巨悪な犯罪が潜んでいるのならば、是非解明してもらいたいところだ。

 もう一つ、この事件についての記事は本来、純粋な犯罪捜査とは切り離すべき「小沢への好悪や評価」、また「民主党に対する好悪や評価」をベースにしていることが多い。評価の違いによって、(「検察の暴走」から、「利権政治の大掃除」まで)捜査に対する評価が180度違ってくる。
 だが、
「小沢や民主党への評価」は、突き詰めれば日本の政治のあり方、政治家のあり方、政治と金のあり方といった政治哲学の問題で、犯罪捜査とは関係ない。 伝えられるように、仮に政治家小沢の資質に問題があるとしても、政治家に対する評価を法の運用に絡めるのは、犯罪捜査を歪めることにならないかと思う。そんなことを許せば、いずれは検察の政治的介入を許すことにもなる。

◆小沢問題の構図を頭に入れつつ
 このように、進行中の小沢問題をどう見るかは、様々な見方が入り混じって本当に難しい。一市民としても悩むところだ。
 この問題を民主党VS検察の戦いと見る見方もあるが、私としては、むしろ
民主党政権と旧体制との間で行われている熾烈な戦いの中の局地戦と見た方がいいように思う。
 つまり、この事件は検察の意図はどうあれ、極めて政治的な状況下で進行している事件だということ。そして、様々な陣営の人間が、この問題を最大限利用しようとしていることだけは常に頭の片隅に入れておく必要があるように思う。

 さらにもう一つ付け加えるなら、この戦いは
仮に小沢が退場しても民主党が政治の仕組みを変えていく限り、長く続いていく。政治的混乱は国民にとって不幸なことだが、見方を変えれば日本が新しい政治システムを模索する、産みの苦しみなのかもしれない。

◆冷静に事実を、批判的な目を忘れず
 ということで今回の結論としては、少なくとも一部マスコミのバイアスのかかった記事には踊らされないこと。淡々と冷静に検察の捜査結果を見ながら、「分かっている事実は何なのか」を見極めていくこと。
 一方で、検察が政治家の誰でも狙い撃ちできる(政治資金規正法という)強力な武器を持っている以上、
捜査の公平性をも批判的にみていくことが必要だと思う。

 さらに、政治家小沢に対する評価については、今回の犯罪捜査とは切り離して考えること。それは、小沢が生き残ったら別途考えるべき重要なテーマになる。次回は、小沢の逮捕があるかどうか分からないが、肝心の事実関係(捜査のポイント)について整理しておきたい。
 

小沢と検察の対決 10.1.17

 「日本の難問@」の次は、難問Aとして「今日本はいかに多難な状況に直面しているか、それに対応していくために、政治も国民もいかに変わらなければならないか」を書くつもりだった。しかし、ここへきて急転直下、検察が民主党の小沢幹事長の元秘書たち(一人は現職議員)を逮捕する事態になって政治が大混乱に陥る気配。それどころでなくなってしまった。これは一体どういうことなのか。

◆捜査は入り口
 新聞各紙は小沢の全面対決に対して厳しく、説明のないことや幹事長職への居座りを非難しているが、今日の田原総一郎の「サンデー・プロジェクト」を見ると、どうもそんな単純なことでもないようだ。
 新聞各紙は、小沢が真っ黒のような書き方だが、検察の狙いが本当に小沢の立件、逮捕にまで行くのかどうか、その場合の起訴内容が何になるのか、まだ捜査は入口だと言う。

 現時点ではっきりしているのは、秘書たちの容疑も、これまでは収支報告の修正で済んでいた微罪の、政治資金規正法の記載ミス以外にまだ何も確かなものはないということ。それで、現職議員の逮捕までやるのは検察の暴走であり、焦点になっているゼネコンからの裏金が立証されなければ検察の完敗だという指摘もあった。

◆ゼネコンからの裏献金が焦点だが
 新聞は土地代金の中にゼネコンからの裏金が含まれているという検察の疑いを前提に、小沢非難を強めている。しかし、検察との関係で分からないのは、仮に裏金が小沢側に渡っていたとして、それがどういう犯罪に当たるのかだ。
 小沢には職務権限がないのだから収賄罪は適用できないという。また、裏献金があったとして、本当にそれを小沢本人が受け取ったということを立証できるのかどうか。(秘書たちが勝手に受け取っていたらどうなのか) この先、小沢本人の立件起訴にまでたどり着くには、検察はかなり難しいハードルを越えなければならないということで、この先はまだ全く予断を許さない。

 もちろん、そんな裏金を土地代金に使用したことはないと、小沢が明言している以上、検察によってそれが覆されれば(犯罪にならずとも)小沢の政治生命は断たれる。幹事長職はもちろん、場合によっては議員も辞めなければならない。
 しかし、裏金の実証が出来ず、仮に小沢の罪が政治資金規正法の虚偽記載の共犯や監督責任ということだけの場合、政治的にはどういう責任の取り方になるのだろうか。これも今一つはっきりしない。

◆国家権力の乱用?
 検察は今、最高の国家権力を使って、死に物狂いで小沢の裏金問題を立証しようとしている。それは、善意に解釈すれば、何とかして、政治資金の流れ(裏金の存在)をはっきりさせ、それによって記載ミスが悪質な意図的隠ぺい、虚偽であることを立証しようとしているのかもしれない。

 しかし、もう一つ別な見方も成立する。もともと収賄罪などの重罪には問えない裏献金の捜査で、検察が最終的に何をねらっているのかだ。それは、裏金の存在が仮にあったとしても、犯罪として成立しないならば、検察は結果として、小沢の道義上の責任を問う(首を取る)材料を、社会に提供するだけのことではないかということだ。それは犯罪捜査以上に政治的な行為になるので慎重に当たらなければならないはずだ。しかし、今はお互い、メンツも絡んで生きるか死ぬかの権力闘争の様相だ。

 そういう状況の中で、もし検察が、自分たちこそ正義の審判者で、今小沢の首を取っておかないと日本の将来は駄目になるなどと思っていたらどうか。あるいは、今小沢の首を取っておかなければ、自分たちの身が危うくなると思っていたらどうか。
 そんなことがあれば、検察は民主党が言うように極めて特別な意図を持って政治に介入したということになる。それは明らかに権力闘争のための捜査であり、検察の国家権力の乱用。由々しきことだ。小沢が説明を拒否しているのも、これは民主党(小沢)と官僚(検察)の権力闘争だと思い込んでいるためで、どう説明しても検察は最後までやると思っているのだろう。
 いずれにしても、この対決は、当事者たちにとっては生死をかけた戦いだろうが、国民にとっては大迷惑。国民不在の権力闘争で政治がまた停滞する。そんな余裕はないのに。

◆検察批判も視野に入れるべき
 私個人としては、小沢擁護派ではない。小沢が何を考えているのかは多少分かってきたし、その意味するところも見えて来たが、人物がわからないのだ。これからの民主党政治に害になるのか益になるのか、見えないところが多すぎる。
 しかし、今回の事件については、上に書いたような現状なので、今のところ捜査の行方を見守るしかないと思う。どうせ近々結論は出るだろう。

 ただ一方で、新聞が小沢民主党の非だけを大々的に書きたてることにも少し違和感がある。毎日の岸井記者などは「マスコミの役目は権力のチェックだから」と言うが、検察だってそれ以上の強力な権力のはず、小沢批判だけでは、バランスが取れていないと思う。
 民主党大会を取材したTBSの後藤キャスターなども「小沢批判が全く出ない。まさにもの言えば唇寒し民主党だ」などと言っていたが、現状ではバランス上、検察への批判も常に担保して(視野に入れて)おかなければ、「もの言えば唇寒し警察国家」になってしまうのではないか。

 そういう意味では、田原総一郎の「サンデー・プロジェクト」は出演者に元検事の郷原を入れてバランスを取っている。私はマスコミ政治記者の(小沢も含めた)民主党批判についてはもう少し裏があると思っているが、長くなってしまったので次回。次は、検察の小沢ねらい打ちとは別に、最近顕著になって来た事象について書きたい。

 それは、選挙でひっくり返ったと思っていた旧勢力の反撃開始である。自民党政治家たちがしゅんとなっている間に、民主党的革命に反対する旧体制全体が反撃を開始した気がする。その狙いは第一に小沢だ。それがどういうものか、整理してみたい。なかなか「日本の難問A」に行かないけれども。
 

日本の難問@少子高齢化 10.1.12

 鳩山首相は今年の年頭会見で、「100年に1度の大きな改革をやるために政権交代を実現した」と述べ、「マニフェストなどで約束した子ども手当、高校無償化、農業者戸別所得補償制度を今年はスタートさせていきたい」と語った。
 しかし、「100年に1度の大きな改革」というが、国民の方は「そもそも日本がなぜ100年に一度というような大改革を必要としているのか」、また「その改革がどうしてマニフェスト(例えば子供手当)なのか」についてはまだ十分ピンと来ていないのではないだろうか。

急を要するけど難しい
 鳩山首相の方は分かってくれていると思っているかもしれないが、国民の方は、何となく今の日本が浮かぶか沈むかの瀬戸際にあることは感じるが、それがどの程度のことなのか、を突き詰めて考えたことがない。つまり、国民と政治家の間で問題意識が十分共有されていない(落差がある)のが現実ではないか。

 だからこそ、今民主党が早く作れと迫られている「国家戦略、国家ビジョン」とは、まず「今の日本がどういう難局にあるのか、課題は何なのか」という状況認識があって、その上で「課題解決のためには政治は何が出来るのか、何をすべきなのか」を明確にしなければならない。
 さらには、「それを実現する政治のあり方はどうあるべきか」ということまで提言して初めて、民主党が政権交代で目指す政治の実像が見えてくるのだと思う。

 実は、この作業は「21世紀に適応するための、全く新しい国家像」を模索するものだけに、批判に耐えるようなものを作ろうとすると、結構大変だ。時間もかかる。(何年かに一度の会社の経営計画や経営ビジョンを作る作業だって、半年、一年はかかる)
 しかし、何度も言うように、国家戦略がなければ政権運営も海図なき航海に等しい。マニフェストの優先順位も付けられず、いざ利害が対立する難問に会うと意見がまとまらず、閣内不一致などとマスコミの格好の餌食になってしまう。

もっと活発な議論を
 識者やマスコミは、対案も出さずに早くしろと急がすばかりだが、作業の難しさを分かっている人は案外少ない。できたらできたで文句を言おうと手ぐすね引いている感じ。民主党も時間がないという言い訳は効かず、辛いところだ。

 まあ、こんなところがおよその現状ではないかと思うが、こうした現状を見るにつけ、私は、早く決めろ、迷走するなと、よちよち歩きの民主党を批判しているだけでは駄目なのではないか、と思うようになった。
 これから書こうと思うが、日本が抱える問題がちょっとでも見えてくれば、今の日本には(別に民主党に義理はないが)代わりの政党を見つけて育てる余裕はなさそうだ。あるのは政界再編だが、これもどうだろうか。

 従って今、何より大事なのは、(意見の違いや手段の違いがあってももちろんいいが)日本の状況について、国民一人一人がしっかりした認識を持つこと。政党を代えるにしても、政界再編するにしても、今の日本の状況を認識していなければ議論のしようがないからだ。
 そのためにも、国民は今までのように政治家任せにせず、自分たちの問題として「この日本をどうするのか」について、もっと活発な議論を巻き起こして行く必要があると思う。

◆日本の難問@待ったなしの少子高齢化
 ということで前置きが長くなったが、今回はその手始め。まず、(私なりの素人考えだが)「今の日本が抱える難問とは何か」という状況認識から始めてみたい。

 今の日本を取り巻く難問は、国内的、国際的の2つがある。国内的には第一に少子高齢化。ここ10年ほどで日本は世界トップの超高齢化国家になってしまった。平均寿命が延びて年寄りが死ななくなったのはいいが、子供が増えない。労働人口の補充が効かないので(データは省くが)、将来、働き手一人が面倒みる年寄りが1.2人にもなって来る。

 これは、年金制度の崩壊、独居世帯の増加、医療費の増大など、日本の様々な難問にも直結する問題だが、一番の問題は経済成長の深刻な足かせになることだ。中国やインドほど多くなくていいが、日本の過去の団塊世代の例を見れば分かるが、人口が増えるということはとりもなおさず確実な需要増が見込めると言うこと。カナダだって経済成長のために多くの移民を入れている。

 日本の少子高齢化は来るのが分かっているのに、有効な手を打たなかったために招いたものだ。今、若い世代は経済的にもますます子供を作りにくい状況になっている。これで、どうして社会の活力が保てるのか、豊かで安定した社会を維持できるのか。これはもう目前に迫った、待ったなしの難問といっていい。

 さて、長くなったので次回に。崩壊に瀕する地方、膨大な財政赤字、官僚制度の機能不全などなど、いずれも大きな国内的難問だが、そこへ外から押し寄せる難問もある。
 これらを整理すると、日本が生き残るために、どれだけ政治も国民も変わらなければならないか、その大変さが少しは見えてくると思うのだが。
 

COP15を乗り越える 09.12.27

 190カ国以上の国が参加したCOP15(コペンハーゲンでの国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議)が閉会した。結局のところ決裂を回避して、(留意するという)微妙な合意は作ったが、具体的な削減計画は決められずに終わった。今回のCOP15をどう見ればいいのか、またこの後、世界は温暖化に立ち向かえるのか、今回はこのテーマを考えてみたい。

「エコよりエゴ」だけでいいのか
 閉会の翌日、COP15の経緯を伝える新聞各紙を読み比べて見た。「何も生み出せなかった」(毎日)という否定的な見出しから「合意文書承認、採択見送り 決裂回避」(朝日)、「温暖化・政治合意を了承」(日経)と一定の評価を与えるものまでいろいろ。同じ紙面でもニュアンスの違う見出しが平気で混在する。会議の経過があまりに複雑怪奇で、記者によって受け止め方がマチマチなのだろう。

 環境先進国として会議をリードしたいEUや日本。国内に反対派を抱えて不十分な取り組みしかできないくせに会議をリードしたい姑息なアメリカ。先進国並みにCO2を排出しているのに発展途上国の立場を利用して徹底的に国益を貫いた中国やインド。そして、最も被害を受けやすい立場なのに発言権がまるでなく不満を爆発させたアフリカや島国。
 期間中、参加した国々の思惑の違いが浮き彫りになり、合意を見つけるのが難しい会議だった。それを、マスコミは「エコよりエゴ」などと揶揄して国家間の駆け引きを伝えるのに終始。結果、中国が得してEUと日本が損をしたというような短絡的な解説も目立つ。この機会に日本は25%削減という突出した目標を見直すべきだという意見も多い。

 しかし、本当にそんなことでいいのだろうか。ご存知のように地球温暖化問題は誰が勝って誰が負けたと言ってすまされる問題ではない。中国のように一時は勝ったと浮かれていても地球全体が荒廃の淵に沈んでいけば、自分たちだけが生き残るわけにはいかない。皆、同じ地球と言う船に乗り込んでいる以上、船が遭難すれば特等室も大部屋もない。しかも、人類に残された時間は既にかなり少なくなっているのだ。

COP15の成果と課題
 というわけで、(地球温暖化が人類最大の問題と思っている者としては*)まず、COP15の成果と課題を整理して、何とか次のステップにつながるヒントを探してみたいと思う。  *過去記事(「地球温暖化は防げるか?」ほか)

 最初に成果の方。これは会議が当初目指していた成果からは程遠いものだが、最悪のケースから見れば一応の前進と評価される類のものだ。
@ 京都会議(‘97年)では参加を拒否した中国などの途上国と、会議から離脱したアメリカが最後まで議論の土俵にとどまり、決裂が避けられたこと
A (首脳国合意案が「留意」されたことにより)各国が自主的な削減目標を来年1月までに決めると言う共通の認識が作られたこと
B 従って、全般的に言えば、地球温暖化問題は世界中の国々が、それぞれの責務を負って取り組むべき人類共通の課題だという認識が定着したこと
C 先進国が発展途上国の温暖化防止政策を支援するための資金(‘20年時点で1千億ドル)を拠出することにより、発展途上国の参加の枠組みが見えて来たこと

 一方、課題は山のようにある。
@ 先進国、主要途上国の削減計画の策定が来年1月末まで先送りとなり、しかもそれは各国の自主目標で法的拘束力のないものになってしまったこと
A IPCC(国連の政府間パネル)が打ち出していた、「2050年までに90年比で50%削減」と言う具体的な大目標も、また2020年までの中間目標も書きこまれなかった(認知されなかった)こと
B 従って、仮に世界各国が削減計画を出したとしても、それが温暖化防止に有効なものになるか保障の限りでないこと
C つまり、決裂は避けられたものの、この先どういう展開になるのか、全く予測不可能な状況にあること

 新聞各紙の見出しが微妙に違っているのも、こうした状況を「現在必要とされる目標には全く届かなかった」とみるか、「以前に比べれば少しは前進した」と見るかの違いだろう。
 しかし、何度も言うように、世界はこの問題から逃げることはできない。従って、ただ無力感を書きたてるような書き方や、だから日本も見直すべきだといった論調は不毛だと思う。「脱温暖化の流れは止まらぬ」(朝日)の記事のように、ここは不十分ながら何とか全地球レベルの議論が始まったことを前向きにとらえるべきではないか。そして、日本がリードしつつ次のステップへ進むための糸口を懸命に探すべきだと思う。

国家エゴを抑え込む論理はあるか
 COP15では国家エゴの衝突が目立った。途上国は、現在までに蓄積されたCO2は先進国の責任だから、まず先進国の削減が先だと言い(歴史的責任論)、先進国は排出量で50%を超える途上国の協力がなければ駄目だと主張する。その間にあってアメリカのように、20%も排出している先進国でありながら規制を受けるのは嫌だと主張する(温暖化には科学的根拠がないという主張も根強い)我儘な国もある。
 こうした国家エゴを抑え込んで、皆に参加を促すような公平で公正な論理はないのだろうか。

2人の経済学者
 実は最近、このような課題に取り組んで来た経済学者の講演を聞いて目からうろこが落ちるような思いをした。地球環境問題に貢献した世界の学者を表彰する、旭硝子財団の「ブルー・プラネット賞」の授賞式(10月19日)。今年の受賞者の宇沢弘文氏とニコラス・スターン卿(英国)は経済学者だが、2人とも地球温暖化問題で先進国と途上国が公平に参加できる理論を長年追求してきた。

 まず、宇沢氏は人類が共同で守るべき地球環境の経済的価値を定義し、各国が負担すべき「炭素税(広い意味での環境税)」を提案。それも、途上国と先進国が公平に負担するために、国民一人当たりの所得に比例する「比例的炭素税」の考え方を提唱した。さらにそれだけでは不足として、途上国を支援する国際基金の創設を提唱している。

 また、スターン卿は、2050年に50%削減という人類共通の目標を実現するためには、今なら世界のGDPの2%の費用で済むことを試算。これが、対策を取らずに行くと今後200年の間に、地球的損失は最終的にGDPの20%にも膨らむと警告した。その上で、先進国と途上国間で活発な排出権取引を行うこと、環境技術の移転、2015年までに先進国は途上国にGDPの0.7%を供与すること、などを提言している。

 2人とも、温暖化防止の国際会議でこうした提言を行ってきた。特にスターン卿は最近のCOP会議の理論的支柱になってきたという。私は、彼らの講演を聞いた時に、京都会議の時から随分と考え方が進んでいるという印象を持った。当時は、ただ危機感からお互いに政治的圧力によって削減計画を押し付け合っていた感じがしたからである。
 それに比べると今回のCOP15では、国際的な基金の創設や環境技術の提供など、先進国と途上国間の公平を図る一定の進展があった。私は、この背景には、科学的データの蓄積の他に、こうした学者たちの寄与があったのではないかと推測している。

 宇沢氏のいう国際的な「炭素税」の考えは、国の主権が壁になって受け入れられておらず、国際社会が納得する考え方を確立するには、まだ道は遠い。しかし、これまであまり伝えられていなかったが、国際会議の裏側では少しずつ論理的な補強が進められており、国家エゴを説得するための武器を手にしつつあることも事実のようだ。

我儘が通らない社会にするために
 さて、こうした学者たちの努力を踏まえて、次のステップを切り開くために何が必要なのかをおさらいしてみたい。
@ 2050年にCO2を半減する(それによって気候変動を2度以内に抑える)ということを人類共通の目標として認めること
A 先進国も途上国も公平に参加できる削減計画のガイドラインを構築すること
B 途上国支援のための(先進国が拠出する)国際基金を充実させること
C 温暖化を緩和するための技術開発を奨励し、人類で共有すること

 このうちやはりAが一番のネック。これは例えば、先進国が自ら大幅に削減する一方で、途上国に対しては経済発展を阻害しないような削減を促す「ガイドライン」を作ることである。このガイドラインがなければ無法地帯と同じで、発言力の強い者が我儘を押し通すことになる。
 従って、大方の賛同を得られる公平な考え方を早急に打ち出すことが必要で、COP16までの1年間がその勝負の年になるだろう。

マスコミの役割
 そのガイドラインが出来て、こうした認識が国際的に共有されれば、国益を貫いたなどと言っている中国やアメリカの横暴は世界的な非難の的になるはずなのだ。また、そういう状況を是非とも作っていかなければならない。

 というわけで、最後に強調しておきたいことがある。マスコミは単に勝った負けたではなく、少しずつ進化している「国際社会を説得する考え方」を出来るだけ分かりやすく伝えること、そして、(多少の不公平はあるけれど)日本の25%削減も2050年へ向けての先進国の役割としては避けられないものだということ、をしっかり伝えることに努めてもらいたいと思う。(なぜ、日本が地球温暖化問題で国際的なリード役を担うべきかは別途書きたい) 

日米関係をどうする? 09.12.12

 普天間基地の移設問題は、政権が「迷走」しているうちに、様々な可能性が浮かんでは消えている。それでいいのではないか。皆で悩むうちに、最後の落とし所が見えてくるかもしれない。(あくまで可能性だが)

グアムは狭すぎる?
 ところで、「日々のコラム」に「迷走大いに結構」を書いた後、日頃共感を持って覗いている「日本軍事情報センター」のコラムを見たら、私も触れたアメリカの「グアムの計画」について新しい見方(情報)が書かれていた。
 近年アメリカが、沖縄の海兵隊ヘリを含む大部分の部隊をグアムに移転し、ここに実部隊を伴う太平洋司令部を設ける計画を着々と進めていたのは事実。この中では一部に、普天間の海兵隊ヘリの訓練基地もグアムに作る、従って、辺野古に新しい基地は必要がない、という考えも出ていたらしい。

 しかし、ブログの主の軍事ジャーナリスト、神浦元彰氏が書いたものを読むと、ここへきて事態が急変したのだという。詳しくは彼のブログを読んでほしいが、グアムは狭すぎて十分な訓練用地がとれないということ。アメリカもそれが分かって来て、焦っているのだという。
 現在、アメリカが辺野古への移転を強く言う背景には、アメリカ軍のグアム移転計画にこうした杜撰な点が見つかってきたことが影響しているという。

我慢ができないマスコミ
 そういう背景があるのなら、アメリカが「言うことを聞かなければ、グアム移転も見直す」と恫喝したり、「普天間の一部部隊を他に移設してもいい」と普天間存続を模索している理由も見えてくる。
 だが、その神浦氏も日本の防衛族の主張や、アメリカの杜撰な計画の尻拭いのために拙速に物事を決めない方がいい。沖縄県民のことを考えれば、ここはじっくり検討する方が日米両国にとってもいいという論調だ。

 それにしても、なぜ日本のマスコミは揃いも揃って、「日米関係を危険にさらす民主党」とか、「日米関係がぎくしゃくしているときに、小沢が中国に行くのは慎重さを欠いている」だの、「鳩山政権は連立与党の攻勢にあって迷走、出口なしの状況」だのと一方的に決め付けるのだろうか。基地問題の複雑さや日米同盟の将来像を十分考えて言っているのだろうか。

 いずれにせよ、もう少し時間をかければ、いろんなぎくしゃくも含めて、この問題の様々な背景が浮かび上がってくるに違いない。その中で、「アメリカを怒らせたら大変なことになる」という日本のマスコミが金科玉条のように思い込んでいる「思い込み」も検証されるとすれば、それがこの普天間問題の大きな副産物かもしれない。

日米軍事同盟の機能とは?
 今、日本とアメリカはなぜ軍事同盟を結んでいるのか。なぜ日本にとって同盟関係が必要なのか。まず、軍事的な面で言えば、極東の安全問題がある。その点で言えば脅威となり得るのは、「北朝鮮のミサイルと核問題」、「中国の軍拡、尖閣列島問題、天然ガス問題」、「韓国の竹島問題」だろう。これらの問題が抜き差しならなくなって、本当にアメリカ軍が出動するような事態にまで発展する可能性はあるのか。

 新聞の論調は、そこには危険が迫っていて、何か起きた時にアメリカに見放されたら大変だという考えに基づいているのだろうが、本当にそうか。起きるまでには、それこそ幾つもの外交的段階が横たわっているはずだ(だからこそ中国、韓国とも話せる環境を作っておく必要がある)。あるいは、後ろにアメリカが付いているということが、彼らの自制心にどの程度効力があるのか。仮になければどうなのか。
 一方のアメリカから見たらどうなのか。アメリカはなぜ日本との軍事同盟を必要としているのか。日本との軍事同盟はアメリカの極東戦略、特に軍事力を背景に世界戦略を展開する中国への圧力として、なくてはならないものになっているに違いない。そうした双方にとっての意味も評価しなければならない

 軍事的ではなく世界的な問題ではどうか。経済的にはどうか。経済的には、(巨大な中国の登場もあり)日米関係は切りたくても切れない、より対等なものになっているのではないか。一頃、アメリカの基準を押し付けた時のように、もうアメリカが日本を脅すというような関係でなくなっているのではないか。或いは、地球環境問題ではどうか。(アメリカとのお付き合いという意味合いが強い)テロとの戦いではどうなのか。
 いずれにしても、軍事的、経済的、世界的問題の側面から、日米同盟の機能をもう一度多面的に再評価した方がいい時に入っているのだと思う。

日米関係を成熟させるために
 日本が、これからの多極化した世界を生きていくためには、日米同盟があるからと言って、何でもアメリカの言う通りにやっているというだけでは生きていけない。自主、自立の外交を模索しなければ、日本はますます影の薄い国になっていく

 私は、日本とアメリカが(中国と違って)民主主義、自由主義を共有している以上、日米関係の重要性を否定はしない。だが、日本とアメリカの間には「ペリー以来のいわく言い難い心理上の行き違い」も横たわっている(「日本がアメリカを赦す日」岸田秀)。
 親分であり、保護者であると思っているアメリカとそれに甘んじて耐えている日本。その関係は日本に国家としての主体性を捨てさせ、自立した国に当然備わっているべき様々な価値観(例えば、自分の国の平和は自分で守る。自分の国の国是で外交を展開する、など。)の崩壊を生み出してきた。日本がそうした立場にうっ屈を感じて自立しようとしたりすると、アメリカの怒りを買い、日米関係はぎくしゃくする。お互いに感情的になりやすい
業のようなもの(心理的トラウマ)を内在させているという説だ。

 それを頭の片隅に入れながら、冷静に粘り強く話し合って、新しい時代にふさわしい、お互いのメリットが明快な日米関係を模索する。そのためにはお互いに感情論を排しての、合理的かつ多角的な検討の積み重ねが必要になる。それには一定の時間も必要だ。その上で、また左派的反米主義にも、極右的国粋主義にも左右されない、揺るぎのない新たな関係を構築していければいい。
 日米同盟50年の来年に向けては、(日米関係の過去のトラウマを脱することも含めて)そうしたチャンスの時。新聞やテレビも近視眼的に大変だ大変だと騒ぐのではなく、こうした視野からも冷静に報道し、新しい時代を切り拓く手助けをしてほしいと思う。 

迷走大いに結構 09.12.8

 沖縄の普天間基地をどこに持っていくかについて、民主党の判断が遅れて年を越しそうだというので、日米合意(辺野古への移転)の早期決着を求めているアメリカの怒りを招いているという。アメリカ大使が激怒したとか、アメリカ側の専門家が、この決着が遅れれば、基地の見直しはまた10年も15年も先に伸びるだろう、というような恫喝に近い意見を吐いたとか、マスコミが伝えている。

あちら立てればこちら立たず
 この問題については、政府部内でも意見の相違が目立っている。年内決着を目指して来た防衛大臣(最近は軌道修正したというが)や外務大臣。基地の国外移転を要望して、沖縄の辺野古への移転に反対する社民党。社民党は政権離脱もちらつかせながら強硬に国外移設を主張している。社民党が政権離脱すれば、野党に参議院の過半数を握られていた前の自民党と同じで、政権運営はよれよれの状態になる。

 また、当の沖縄県民も県内移設には強く反対している。特に、移転予定地の名護市(辺野古)で市民の反対は強い。来年124日投票の市長選挙では受け入れ容認派と反対派の一騎打ちが予定されているが、このままではどうなるか分からない状況だ。
 ただし、その一方で普天間の方は「早く決めて欲しい。何時まで待たせるのだ、早く出て行ってくれ」という意見。
まさに、「あちら(アメリカ、自民党、普天間)を立てればこちら(民主党の一部、社民党、名護市)が立たず」の、針の穴を通すような政治的決断が求められる状況だ。その間に立って鳩山首相は年内決着を諦め、来年に判断を先送りした。

早期決着を迫るマスコミ
 首相が決断しないので、マスコミは「鳩山首相は人がいいばかりに決断力がない」、「問題を先送りしても状況は悪くなるばかりだ」、「民主党は誰が司令塔か分からない」と、言いたてる。
 さらに、「迷走する鳩山民主党」とか「遅れれば日米関係に重大な亀裂」とか言って早期決着を迫っている。(辺野古で決まればまた何かと文句を言いたい)新聞は立場を明確に言わないが、早期決着しろということはとりもなおさず日米合意の辺野古へ移転しろということ。マスコミが早期決着を言う裏側には、アメリカの機嫌を損ねたら大変という危機感、日米同盟が揺らげば日本はどうなるのかという(怯えにも似た)不安感があるのだろう。
 しかし、ちょっと待ってもらいたい。早く決めろ、アメリカを怒らせるな、と言うばかりでいいのか。そんな、単純に急かせるばかりの記事を書く前にマスコミはこの問題の本質をどのくらい国民に知らせているだろうか

不可解な移転計画
 今、アメリカはグアムに太平洋司令部を作って極東アジアの防衛体制を大きく変えようとしている。それはアメリカの世界戦略の検討の中から出てきた計画で、日本が頼んだわけではないが、日本は沖縄からグアムへの部隊移転に関して多額の費用(61億ドル=約5400億)を出すことで合意している。ただ、金額は決まっているのに、その全体像がよくわからない

 普天間海兵隊(ヘリ部隊)の基地として辺野古への移転を日米で合意した1996年の「SACO合意」。沖縄のアメリカ軍のかなりの部隊をグアムに移転するとした「再編実施のための日米ロードマップ」(2006年)。また、すべての海兵隊ヘリをグアムに受け入れ可能とした「グアム統合軍事開発計画」(2007年)。
 これら一連の計画の推移をみると、辺野古移転を決めた1996年の日米合意の後、アメリカの計画は大きく変化していることが分かる。現在は、グアムに太平洋司令部を置くだけではなく、沖縄の兵力(空軍、海兵隊)の大部分をグアムに移転させる計画であり、その中には、問題の普天間の海兵隊のヘリ部隊も含まれている。
 その計画から見れば、辺野古に訓練用の基地などを作らなくてもグアムで十分対応可能だという。

 辺野古移設を決めた「SACO合意」(1996年)は、当時、米軍の不祥事が頻発して基地撤廃運動が高まったことを踏まえて、日米で合意されたもの。しかし、10年以上たった現在、その後のアメリカ軍の世界的な再編計画の中で、合意の背景は大きく変質、辺野古移設の必要性は薄まっている。それなのに、日米とも意図的にこれを認めず、マスコミも全く伝えて来なかったのである。
*これらの驚くべき情報については沖縄・宜野湾市の伊波洋一市長が11月下旬、与党の国会議員に述べた内容として、同市のHPにかなり詳しく載っている。私は伊波市長の説明が鳩山政権の認識にかなりの影響を与えているのではないかと思っている。

 なぜ、日米政府(アメリカと自民党)は厳密にいえば既に必要のなくなった「海兵隊ヘリの訓練用基地」を辺野古に置くことにこだわるのか。なぜ5000億円もかけて新しい滑走路を作るのか。この問題の背景には不可解な謎が多いのだ。

事実に基づいた踏み込んだ解説を
 これは一つには、アメリカからすれば、日本の金でいつでも自由に使える基地ができるのであれば、それは確保しておいた方が便利だということ。もう一つは、日本からすれば、出来るだけアメリカの気に入る案にして、いざという時に日本を守ってもらいたいという願望があること、そして、あわよくば沖縄に落ちる建設費5000億の利権を手にしたいということ。
 その上でアメリカは、日本側の入り組んだ思惑を利用して脅したりすかしたりしながら、グアム移転の費用を出来るだけ日本から引き出すために高等なパワーゲームをしている。大体こんなところだろうと思う。(以上は推測)

 というわけで、この問題は伝えられているほど単純ではなく、新しい世界的な潮流の中で日米同盟をどうするのかという大きな問題とも関係している。しかし、その中で日本はどうすべきなのか、というような本質的な疑問に新聞は答えてくれない。
 軍事問題は難しい。それぞれの陣営によって全く正反対の解釈がまかり通る。民主党を迷走だと決めつけて満足しているような政治記者では無理だろうが、そんなことを言う前に、新聞もちゃんとした軍事問題の専門家を育てておくべきだと思う。そして、推測ではなく事実に基づいた、分かりやすい解説をして欲しいと思う。

迷走大いに結構
 さて、ここまで普天間基地の移設問題について書いてきたが、それはそれとして、私の言いたいことは他にもある。それは、「アメリカを怒らしたら大変だ」というところで、すべての思考が止まってしまう日本人の性癖についてである。
 政権交代で鳩山首相が「対等な日米関係の構築」を言って以降、鳩山論文がどうの、海上給油の継続がどうの、普天間問題がどうのという時に、大新聞は(まるでアメリカの代理店のように)何かにつけて「アメリカが怒っている」と報道してきた。

 来年は日米安保50年。日米同盟を再点検すべき時に、時代は冷戦の終結後、テロとの戦い、中国、インド、ロシアの台頭による多極化と、激しく変化している。加えて唯一の超大国だったアメリカに不況が押し寄せ、一極主義から国際融和を目指すオバマ政権が登場して変化の兆しが現れている。そういう意味で今は、日本はアメリカと新しい平和の枠組みを模索していく絶好の機会でもある。そういう時に、「アメリカを怒らしたら大変だ」と言って思考が止まってしまったら、新しい世界平和の枠組みなど考えようがない。

 イラク戦争の失敗にしろ、リーマンショックにせよ、地球温暖化対策にしろ、アメリカの選択がいつも正義とは限らないことは既に実証済み。マスコミが常套句のように使う「アメリカを怒らせたら大変」は、水戸黄門の印籠ではなくなっている。
 そんなことで一々思考停止せずに、アメリカの怒りはどういう結果を生むのか、それに日本は耐えられるのか、冷静に吟味しながら、日本とアメリカの関係を時代に合った、より建設的なものに育てていく。そのためには、多少の軋轢を恐れずに、日米で率直な議論を続けなければならない。私は、これが鳩山政権の重要なマニフェストの一つだと理解している。

 とは言え、これは戦後60有余年(或いはもっとさかのぼってペリー来航以来)、日本の誰もがなし得なかったこと。そのために時間をかけること、大いに迷うことが必要で、「迷走」などという単純な批判には絶えるしかない。
仮に、新しい時代の枠組みを見つける強い意思があるのならば(つまり単なる優柔不断でないならば)、「迷走おおいに結構」だと言ってあげたい。 

事業仕分けについて 09.11.27

 現在、民主党ら与党が進めている「事業仕分け」について私なりの考えを書いておきたい。というのも、この作業が今後、どのように変わっていくのか、国の予算作りをどのように変えていくのか、これによって税金が有効に使われるようになるのか、納税者の一人として現時点での考えをまとめておきたいと思うからだ。

事業仕分けとは?
 ご存知のように、この事業仕分けとは、行政刷新会議(鳩山議長、仙石担当相)が選んだ評価人(国会議員と民間有識者)が、来年度予算の概算要求95兆円の3000事業の中から抽出した447の事業を評価し、それぞれ事業の廃止、予算縮減、継続の3種類に仕分けていく作業をいう。
 この作業によって、総額3兆円の予算縮減を目指しているが、前半を終わったところで縮減されたのは、約4千億円(その他に余剰基金から9千億)である。24日から残りの200余りの事業について、仕分け作業が再開された。(27日まで)
 この作業は政権交代で採用された初めての試みでもあり、公開で行われているために、連日マスコミで報道されて賛否を呼んでいる。評価する向きもあるが、もちろん批判も多い。

主な批判と政府の対応
マスコミなどで報道されている批判は、例えば。
@ 廃止、予算縮減、継続の基準が不明確である。
A 民間有識者の仕分け人(評価者)がどのような基準で選ばれたのか、彼らがどのような思想の持ち主なのかはっきりしない。
B 評価対象となる事業や組織は財務官僚が選定したものであり、これでは財務省主導ではないか。
C 取り上げた事業が小粒でとても3兆円に届かない。本丸の独立行政法人、特別会計をも対象にしなければ大きな実を上げられない。
D 現場を知らない、専門知識のない仕分け人によって短時間(1時間)で結論が出されるのは無理がある。例えば、スーパーコンピュータなどの科学技術について仕分け人はどれだけ理解しているのか。

 こうした批判を意識したのか、作業班は前半を終ったところで、以下のような見直し基準(9項目)をまとめた。
・複数の省庁で行われている類似の事業
・効果の検証のないままに継続している事業
・独立行政法人、公益法人向け支出(天下り法人の人件費としての中抜き)
・広報・啓発事業。各省庁のIT調達事業
・特別会計の事業。公益法人の基金               など

 これらの基準はおおざっぱで、とても精緻なものとは言えないが、すでに作業が進行中ということを考えれば、ないよりは余程いい。走りながら考えたにしては、まあ納得のいく線と言える。
 さらに鳩山民主党は、(本当にやれるかどうか分からないが)対象になっている447の事業ばかりでなく、残りの国家事業にもこうした見直し基準を適用し、各省庁で仕分け作業を行うとしている。また、民主党が作った予算を同じ民主党が見直すのは理論上、筋が通らないとして、仕分け作業は今期限りとしていたが、最近はこの作業の意義を評価し、来年度以降も継続して行きたい意向だという。

評価する点、改良すべき点
 以上がこれまでの情報の整理で、これからが私の感想。結論から言えば、条件付きでこの試みを評価したい。条件については後で挙げるとして、評価の理由はこうである。
 まず、公開でやったこと。人民裁判だとか、公開処刑だとか自民党はケチをつけているが、社会主義国や官僚国家では逆立ちしてもこうしたことは出来ない。今は国の借金が刻々と膨れている上に、不況で税収が大幅に減っている時。税金を1円たりとも無駄にせず、出来るだけ効果的な税金の使い方を考えなければ、日本を建て直すことはできない。
 そういう状況の中で、仕分け作業を公開することによって、国民にも税金がいかにいい加減に使われているか、官僚たちが如何に危機感を抱いていないかがはっきり見えてきた。つまり、国民の前にすべてをさらけ出すことによって、いままで偉そうにしていた官僚たちの資質が見抜かれる。(もちろん、攻める側の仕分け人の信頼性もまた見抜かれる)。これが公開の意義である。

 いずれにしても、(政権交代のお陰で)仕組みさえ作れば、国の予算だって削ろうと思えば削れるのだと分かったことは評価したい。ただし一方で、この仕組みはまだまだ改良の余地があると思う。従って、評価の条件としてはまず、この試みを来年以降も継続すること。そして、国民の批判に耐えられるようにさらに改良していくこと、である。
 例えば、事業仕分けを法的にも整備して折角決めたことが骨抜きにならないように責任と権限を与える。また、仕分け人が信頼されるように、人選方法を明確にしていく必要もある。(これはとりもなおさず、予算編成における事業仕分けの位置づけを明確にすることでもあるが、その点は以下に)
 また、後で述べる国家戦略、国家ビジョンに照らして、何をどう仕分けていくのか「見直し基準」をさらに明確にして行くべきである。


事業仕分けだけでは不十分
 もう一つ大事なことがある。それは、今は事業仕分けが注目されていて、何となくこれさえうまくいけば、立派な予算編成が出来ると思われている節があるが、事業仕分けは万能ではないということ。
 というのも、今は国家の緊急事態。限られた予算の中で、日本再生に向けたより重要な政策を始めるためには、場合によっては、一見必要かつ無駄のない多くの事業にもメスを入れなければならず、その場合は、仕分け作業では歯が立たないからだ。つまり、大胆な予算の組み直しを可能にするためには、政策の優先順位を決めるための、さらに上位の国家戦略、ビジョンがなければなない。「無駄な予算をカットする」ために導入された事業仕分けだけでは不十分だということ。そのことを認識することである。

 しかし、残念ながら今は明確な国家戦略がない。マニフェストもバラバラでとても国家戦略とは言えない。従って、個々の政策の優先順位が明確でない。また、そのために(事業仕分けの位置づけもあいまいで)無駄と判定された事業でも復活折衝など、様々な政治介入を招く要因にもなっている。
 国家戦略室担当の菅大臣は、来年には成長戦略も含めて国家戦略を作ると言っているが、今の段階では事業ごとにある程度の無駄をカットしても、それで
日本を再生させるための有効な税金の使い方(予算編成)が出来たとはとても言えないということなのだ。

ビジョンなき予算は海図なき航海
 国の再建に取り組む時には、まず日本をどういう国にするのか、どういう方向で国を元気づけるのかという国家戦略、国家ビジョンが必要になる。国家戦略、国家ビジョンがなければ、幾らエンジンを新しくしても「海図なき航海」のようなもので国民は船がどこに向かって走っているのか不安になるし、官僚たちの力も結集できない。
 こういう考え方は、これまでも様々な会社の建て直しや業務改革(CI事業)で取り入れられたものだが、これについてはいつか詳しく書いてみたい。しかし、残念ながら一連の報道をみていると、政治家にも仕分け人にも、また官僚にも、こうした考え方が共有されているとは思えない。

 仕分け人の方も、
個々の事業の有効性、効率性を追求するのに急で、ではそのテーマを国としてどうするのかという国家百年の大計を考えているとは思えないところが多い(もっとも批判の出た科学技術だって、専門家によるきちんとした評価は必要だと思うが)対する官僚たちの答弁はもっとひどい。自分の管轄からだけ発想した、つまらない事業にこだわり、その必要性を述べ立てるばかりで、国家の現状を踏まえた大局的な視点からの発言はない。管轄外の役所で行われている類似事業について知りもしない。

国家予算のあり方について根本的な議論を
 明確な国家戦略やビジョンがあり、(それを反映した)具体的政策が見えていれば、国家予算を編成するための様々な有効的手法が見つかるはずだ。もっと大胆な予算編成の考え方(本当はこちらの議論の方が大事)だって取り入れなければならないはずだし、その手法の一つである「事業仕分け」の役割も明確になるはずだ。言い換えれば、事業仕分けは、明確な国家戦略のもとで使われることによって初めて十分な機能を発揮するものである。
 もちろんその時、国家戦略の考え方は少なくとも与党の政治家や官僚たちに共有されていなければならないし、そして(賛否は別として)マスコミや国民にも明確に説明されていなければならない。そうでなければ、大胆な予算の組み直しなどはできない。

 事業仕分けという初めての試みによって、予算編成の様々な問題点が浮かび上った点は高く評価したい。しかし、上のような状況をみると、もっと根本的に「今の時代に即した予算編成のあり方」を問い直す必要があると思う。
 報道の方も個々ケースを煽りたてるばかりでなく、もっと冷静にこうした問題の本質をこそ掘り下げるべきだと思う。 

戦争を始める論理 07.8.31

 以前からの宿題である「日本を幸せにする5項目」の一つ、「戦争を回避する広範なシステム」について書かなければと思っていたのだが、テーマが大きすぎてなかなか手がつかなかった。しかし、最近は集団自衛権の行使を検討する動きなどもあって、そうのんびりもしていられなくなった。
 そこで、少しずつ小分けにしながら継続的に考えて行くことにした。今回はその手始めとして「戦争を始める論理」の愚かさ、危なさについて取り上げてみたい。
 
  どんな戦争でも、戦争が始まる前には様々な、もっともらしい「戦争を始める論理」が登場する。それがまず、戦争を始めたい政治家、軍関係者によって声高に論じられ、やがて国民を悲惨な戦争に巻き込んでいく。 それは戦前の日本だけでなく、アメリカのイラク戦争でも同じだった。

◆ 「アメリカの終り」
 アメリカの政治思想家、フランシス・フクヤマの「アメリカの終り」はイラク戦争に関するアメリカの失敗を考察した本である。全体230ページほどでそれほど厚い本ではないが、出版されると(宣伝文句だから多少割り引くとしても)世界で一大センセーションを巻き起こしたという。
 なるほどそうかもしれない。その内容は、イラク戦争の泥沼でもがいているブッシュ政権の心臓をえぐるような衝撃力を持っている。

  彼はアメリカのブッシュ政権の中枢を占めていた、いわゆる「ネオコン」(ネオコンサーバティブ=新保守主義者)たちと同じ思想を共有していたというが、イラク戦争をきっかけにネオコンと袂(たもと)を分かった。
 本の中で彼は、20世紀半ばから始まったネオコン思想の歴史と、その思想的特徴を整理し、その上で今回のイラク戦争ではいかにその思想がゆがめられていったかを一つ一つ指摘していく。

◆ブッシュ政権の予防戦争
 ネオコンはその思想的特徴の一つとして「アメリカの力を道義的目標に使うことが出来るという信念」を強く持っていたが、フクヤマによれば、ブッシュ政権内のネオコンたちは力と道義(正義)を結びつけることが可能であると考え、いつの間にか国家目標達成の手段として力、なかんずく軍事力を過大評価するようになってしまった、という。

 その端的な例が、2002年に発表された「先制攻撃ドクトリン」である。その中で、ブッシュ大統領は差し迫った危険に対する「先制攻撃」を拡大解釈して、何ヶ月、あるいは何年も先に実現しそうな脅威に対する「予防戦争」までをもアメリカの採るべき戦争に含めたのである。

◆イラクへの予防戦争
 ブッシュ政権の「予防戦争」論は、もちろん2001年の9.11同時多発テロ事件以後の「テロとの戦い」の中からで出てきたものだが、はじめから対イラク戦争を念頭に置いて唱えられ、実際にイラク戦争に道を開く論理として使われた。
 ブッシュ政権は、「ならず者国家(イラク)による核保有」「その核が過激派に手渡されて起こる核のテロ」とを一つの文脈で結びつけ、盛んにイラクの脅威を煽り立てて戦争に踏み切った。

 しかし、それは愚かな失敗だった。冷静に考えれば仮にフセインが核を持ったとしても自分がコントロールできない過激派に核を渡す可能性は小さかったし、肝心のイラクが核保有の意志はあったかもしれないが、本当に核を持っているかどうかさえはっきりしなかったのである。
 結果的に、イラクに大量破壊兵器(核と生物化学兵器)は存在せず、アメリカは中東にいつ終わるとも分からない混迷状態を作り出してしまった。

◆予防戦争の難しさと愚かさ
 何ヶ月、あるいは何年も先に実現しそうな脅威に対する「予防戦争」が正しいかどうかを判断するのは、至難の業である。ある人は、ペリクレス(ギリシャの賢人)やソロモン(古代イスラエルの賢者)を合わせたような英知が必要だともいう。
  未来から歴史を評価するような「神の目」が必要であり、これは殆ど人知を超えているということでもあるだろう。
 その難しさの第一は、たとえばフセインとその体制がこの先も不変なものなのか、特定することが極めて難しいということにもよる。その特定を間違えると、避けることが出来るはずの戦争が起きてしまう。
 アメリカはこの予防戦争の明確な基準を示すこともなく、軍事力を過信して外交努力を尽くすこともなく、「予防戦争」という言葉におされるように戦争に突入してしまい、今は世界中に失敗をさらしている。

 予防戦争について、偉大なるドイツの宰相ビスマルクは20世紀初頭、協調路線を取らないロシアに恐れを抱き、力をつける前にロシアを叩こうと主張する人々に対し、「死ぬのが怖くて自殺するようなものだ」という名言を吐いている。

◆戦前日本の予防戦争論
  実は、これと全く同じような「予防戦争」論が戦前の日本でも軍人や政治家の頭に取り付いてしまったのである。その典型的な例が、昭和8年の「対ソ予防戦争論」「中国一撃論」の対立だった。(半藤一利「昭和史」)

 簡単に言えば、革命後のソ連が国力をどんどんつけてきていることに対して、「ソ連が強くなる前に叩いたほうがいい」と主張する一派と「その前に日本を敵視している蒋介石の中国を一撃をもって屈服させ、その後にソ連を叩く方がいい」という一派の論争だった。
  結果的には「中国一撃論」が勝って日本は日中戦争の泥沼に突入していくのだが、どっちもどっちだった。 目の前に危険が差し迫ったわけでもない段階での予防戦争論は、アメリカを始めとする世界列強が介入する可能性や広大な中国大陸での戦いの困難さなどについて、緻密なリスク評価もない勢いだけの「机上の空論」に近いものだった。

  太平洋戦争は総じてこのような安易な戦争論に引っ張られた感がある。「このままでは日本はジリ貧になる」と言って自存自衛や八紘一宇の名分のもとに開戦を主張する東条たちに対して、良識派の米内光正は「ジリ貧を避けようとしてドカ貧になったらどうするか」と言ったというが、戦争によって日本はまさに悲劇的な「ドカ貧」に陥ったのである。

◆あらゆる戦争論を警戒せよ
 戦争を始めたい勢力は常に耳障りのいいスローガンや、まだ差し迫ってもいない脅威を差し迫っているかのごとく言い立てる。 残念ながら(戦前は全部だったが)一部のマスコミもそれに同調して煽り立てる。
 「戦争に道を開く論理」は予防戦争であれ何であれ、それがもっともらしく言われ始めたら要注意。威勢のよさに気おされることなく、その危険性を冷静に見抜いて論破しなければならない。
 「戦争は万策を講じて回避しなければならない」・・・これは核時代に生きる我々現代人が多大な犠牲を払って得た歴史の教訓なのである。  

憲法を考える 07.5.20

 憲法改正問題は憲法改正の手続法である「国民投票法」が制定されて、いよいよ具体的な議論の時期に入った感がある。そこで今後、憲法改正問題を考えていくにあたり、まず日本国憲法制定の経緯についてまとめておきたい。
 大筋は「風の日めくり・敗北を抱きしめて(2)」に書いた通りだが、(これは大事だと思うので)憲法の歴史的重みについても若干付け加えた。

◆制定経緯のポイント
  1947年5月3日に施行された日本国憲法は従来、「GHQ(連合国軍総司令部)による押し付け」とか、「たった一週間で作られた」とか言われて、「自分たちの手で憲法を作り直そう」という改憲派の口実となってきた。
 しかし、その経緯を見てみるとそうした表面的な言いがかりが当を得ているとは思えない実態があったことが分かる。  
 
 つい最近(4月29日)のNHKスペシャル「日本国憲法誕生」でもその制定の経緯が放送されたが、ワシントンの「極東委員会」での議論が詳しくなっているだけで、基本的にはアメリカの戦後史研究家のジョン・ダワーが詳述している「敗北を抱きしめて(下巻)」と同じ内容である。大体これが現時点での定説なのだろう。  
 憲法制定の経緯についてのポイントは幾つかあると思うが、その主な点は次のようなものだと思う。

◆GHQの押し付け?
 一つは「主権在民」、「象徴天皇制」、「戦争放棄」、「基本的人権」などの新憲法の基本理念が「GHQによる押し付けだった」という点。これはある意味当たっているが、一方でそうならざるを得ない理由もあった。

 GHQは終戦から2ヶ月も経っていない段階で、日本の軍国主義、封建主義を根底から解体して日本に民主主義を根付かせるためには、大日本帝国憲法(明治憲法)を廃止して新憲法を制定すべきだと判断、日本側にもその検討を促していた。
 これに対して日本政府は憲法問題調査会(松本委員会)を設けて検討を始めたのだが、その内容がいかにも時代遅れだったのである。

 憲法改正の動きが伝えられると、政府の憲法問題調査会とは別に、12もの団体やグループが次々と独自の憲法草案を発表した。中には今の憲法に近い「象徴的天皇制」、「言論の自由」、「男女平等」といった新しい理念の提案も含まれていて、GHQも注意深く見守っていたという。
 しかし肝心の調査会はそうした動きに全く無関心で、天皇が絶対君主として政治・軍事のすべてを統括するという「明治憲法の基本的精神」を何とか維持しようと独りよがりな努力を続けていた。
 すなわち、天皇条項を「神聖」から「至尊」に変えるなどの、10程度の修正で切り抜けようとしてGHQに見放され、GHQが独自に憲法草案を作るという動きにつながったのである。

 「GHQの押し付け」とはいうが、こうした経緯をみると、政府の委員たちの方こそ世界情勢や国民の意向からかけ離れており、古い考えに囚われた政府委員会には新しい日本を作るという発想も能力もなかったことが分かる。

◆議論の時間は足りなかった?
 二つ目は、憲法が「たった一週間で作られた」という点。確かにGHQによる草案作成作業は1946年2月4日に始まり、6日後の2月10日にマッカーサーに手渡され、2月13日に日本側に伝えられた。

 GHQがこれだけ草案作成を急いだのは、ソビエトや中国を含む11カ国が参加した「極東委員会」の動きを警戒したからである。「極東委員会」を構成する国の間では、天皇の戦争責任を追求すべきだと言う不穏な空気が漂い始めていた。
 これに対し、マッカーサーは2月下旬に予定される「極東委員会」の発足前に何としても民主的な憲法を制定して、天皇の責任追及の矛先を和らげようとしたのだという。GHQの占領政策をスムーズに行うためには天皇制の維持が欠かせないというのがマッカーサーの政治的判断だったからである。

 しかし、誕生は一週間だったが議論の時間はたっぷりあったように思う。3月6日に素案が国民に公表されたあと、6月20日には国会が召集されて本格的な議論が始まり、「義務教育の延長」や「国民の生存権」、「戦争放棄条項の修正」など、様々な修正や追加が行われた。
 これらはもちろんGHQの承認が必要だったが、公表から8ヵ月後の11月3日に新憲法は大々的に公布され、半年後の1947年5月3日に施行された。

◆憲法と戦後の日本
 それから今年で60年。日本国憲法はその理念に沿って新しい日本の骨格を作ってきた。当然のことのようだが、私はこのことに改めて感心する。
 主権を国民に置き(主権在民)、天皇を象徴として政治から切り離したこと、中学までの義務教育の延長、男女同権などは、国民にとってもう後戻りの出来ない常識になっている。
 修正の過程で、自衛力の保持は許されるのか、自衛のための戦争は許されるのかといった、あいまいさを残した第9条「戦争の放棄」も、何とか踏ん張って戦争の抑止力の働きを果たしてきたと言える。

◆憲法は国家百年の大計
 今、安倍政権は憲法改正を政治課題に掲げて準備を着々と進めているが、実際のところ、憲法改正についての国民の関心はどこまで高まっているのだろうか。何をそんなに急いでいるのだろうか。
  改憲派の中には、一部を書き加える「加憲派」や9条の修正を目指す「修正派」のほかに、一から自分たちの手で書き換えるという「全面改訂派」まで様々いるらしいが、今のところ明確な考えは伝わってこない。

 しかし、憲法改正派が「押し付けられたものを自分たちの手で書き直そう」などといった単純皮相な理由で、戦後60年以上続いてきた日本の歴史を無視しようとするのであれば、それは傲慢と言うものだろう。
 誕生の経緯はどうあれ、当時の日本国民は新憲法を持って新たな出発を誓い、60年以上にわたってその基本的精神を大事にしながら戦後の日本を作ってきた。その国民の思いと、60年と言う歴史の重みを忘れてはならないと思う。

 従って憲法改正の議論は、日本国憲法が作ってきた戦後の日本をどう評価するかに裏打ちされなければならない。評価すべき点と評価できない点を明確にして、どこをどう変えるのか、それはどんな理念によるものなのか、それによって国民生活はどう変わるのか、時間をかけて納得行くまで議論する必要がある

 ともあれ憲法は国家百年の大計。憲法こそ国の骨格を作り、国の未来を決め、国民生活の基底をなすものだということは何度強調してもし過ぎることはない。  

■日本を幸せにする5項目 07.3.11

 景気回復に取り残されて荒廃する田舎や地方、忍び寄る地球温暖化の影、格差やワーキングプアの実態、毎日のように新聞をにぎわす異常な事件の数々。
 そんな閉塞感ただよう日本社会の中で、私たち日本人が未来に希望を持って生きるためには、この日本をどこからどう変えていけばいいのだろうか。ある日、不意にこんな疑問が頭に浮かんだ。
 もちろん、財政再建や教育の再生といった政治上の大きな課題もあるだろうが、政治だけに任さずに私たち市民も取り組めるようなテーマはないのだろうか。あれこれ考えていたら以下の5つのテーマにたどり着いた。

◆日本を幸せにする5項目
@ 地球温暖化の進行を少しでも遅らせるための「環境機軸社会への転換」
A 日本を真に世界に開かれた社会にするための「精神のグローバル化」
B 日本の環境的、精神的拠りどころとなる「荒廃した田舎・地域の再生」
C 日本文化の世界発信を支えるための「日本の財産・江戸文化の再認識」
D 日本を再び戦争に向かわせない「戦争回避の広範なシステム」

 仮にこれがうまく行けば、日本の未来が少しは明るくなりそうな「日本を幸せにする条件」とでも言おうか。それぞれ大きなテーマばかりだが、どこかで私たち市民が参加する余地もありそうに思える。
 いずれも日頃から問題意識をもって少しずつ勉強して行こうと思っていたテーマでもあるので、手始めに、(まだその段階なので)企画提案風にその「こころ」をテーマごとに書いて行きたい。

■日本を幸せにする5項目 @環境機軸社会への転換 07.3.11

 地球温暖化が人類の未来の立ちはだかる最大の難問であることは、「温暖化対策の岐路年」でも書いた。もちろん日本もその影響から逃がれることはできない。
 耐え難い暑さの夏が長く続いて(真夏日が3ヶ月以上!)、冬が無くなる。四季折々の美しい自然がなくなるということは、日本が日本でなくなってしまうことでもある。
 加えて、竜巻や瞬間的豪雨、巨大台風、旱魃や食料不足、沿岸漁業の激変、熱帯性病原菌の進入、大規模な海岸侵食など、深刻な人的、経済的被害を受ける。

 この破滅的な地球温暖化の被害を少しでも食い止めるために、日本が何かやれることはあるだろうか?あるとすれば、私は次の3点だろうと思う。

◆温暖化を食い止めるために日本が出来る3つのこと
 第一には、温暖化の原因物質である二酸化炭素の排出を抑える「国際的枠組み」(温暖化防止の国際条約、京都議定書)を率先して実行していくことである。
 自国の達成だけではなく、ヨーロッパ先進国と協力して、参加を拒否しているアメリカ、中国、インド、ブラジルが枠組みに入るよう説得する。同時に、こうした国に様々な技術的、経済的支援を行いながら、温暖化対策で世界をリードしなければならない。

 第二に新エネルギーの開発である。太陽光、風力、バイオマス、燃料電池などの新エネルギー技術で世界をリードし、できるだけ石油を燃やさない社会を作っていく。ドイツのように技術が普及しやすい様々な助成制度を設けて、その成果を国内ばかりでなく、世界にも広げていく。
 
◆環境機軸社会への転換
 そして第三のアプローチが、今回のテーマの「環境機軸社会への転換」である
 地球環境と人類が共存して行くには、私たちの社会をいわゆる「環境に優しい社会」に作り変えていく必要があるが、こうした環境に優しい社会は従来、「持続可能な社会」とか、「循環型社会」とか呼ばれて来た。
 しかし、「持続可能な社会」はちょっと抽象的だし、「循環型社会」は普通、単に様々な製品のリサイクルを行ってゴミを少なくする社会的取り組みと捉えられている。

 これらの言葉には、「環境を最優先にして社会全体で省エネ、省資源を徹底し、地球環境の許す範囲内で暮らす社会に変えていく」と言う強い意志が感じられないのが難点だと言えば言える。 
 そこで私は新たに、「環境機軸社会」という言葉を考えてみた。造語だが、「環境問題への取り組みを社会的価値観の中心(機軸)にすえる社会」という意味である。

 地球温暖化という人類最大の難問を食い止めるには、前の2点も重要だが、とりわけこの「環境機軸社会への転換」というパラダイムシフト(価値の転換)がなければ不可能だと思うのだ。

◆便利、快適を追求する消費者天国
 しかし、一口に「環境機軸社会への転換」と言っても、実はこれが大変。便利さ、快適さ、物の豊かさに慣れてしまった私たちは、自分たちの暮らしのどこをどう変えれば、環境に優しい社会を作れるのか、想像できないからだ。

 今の日本は史上最も物の豊かな時代。試みにコンビニやスーパーを覗いてみると、 トレイやラップに丁寧に包まれた大量の野菜、肉、魚が並んでいる。そして様々な容器の弁当も。人々がレジ袋に詰め込んでいる様子を見ると、必要なもの以外に実に多くの石油化学製品(ゴミ)が付随して来るのが分かる。
 私も時々弁当を利用するが、一回の食事で出るゴミの量にびっくりする。こうした石油製品のゴミも結局は燃やされて二酸化炭素になる。
 
 日本は基本的に消費者天国の競争社会であり、買う方もそれがサービスであり、売る方もそれが付加価値だと考えてきた。顧客獲得のためにメーカーが商品の便利さ、快適さ、見かけの贅沢さでしのぎを削っている現状では、日本の「環境機軸社会」への道のりは遠いと言わざるを得ない。

◆緑の消費者(グリーンコンシューマー)
 一方、ドイツなどでは既に様々な製品について、生産から廃棄までのエネルギー消費量やゴミとなる量を評価し、ランク分けしてラベル表示しているという。そうした表示を参考に、環境に優しい商品を優先して選んでいる消費者を「グリーン・コンシューマー(緑の消費者)」と呼ぶ。

 詳しくはネット検索すると出てくるので見てもらいたいが、多少面倒で不便でもゴミの少ないもの、リサイクルのできるものを買う。必要なものだけを買う。生産、流通、使用、廃棄の各段階を通して、環境にかける負荷の少ない製品を選ぶ(「グリーン・コンシューマー10か条」)。
 こうしたことを心がける「緑の消費者」がドイツでは半数以上いるのに対して、日本はまだ1%だという。
 家族の環境教育を含めて、市民一人一人の消費行動を変えることはもちろん、メーカー、行政への働きかけなど、環境機軸社会へ向けて私たちがすぐにも取り組むべき宿題は山ほどある。

◆環境に優しいライフスタイルの模索
 同時に、そうした消費行動を含めた「環境に優しい生活」(エコライフ)というものもあるに違いない。環境機軸社会では市民のライフスタイルどう変わって行くのだろうか。

 今、いわゆる「田舎暮らし」や「スローライフ」が人々の共感を呼んでいるが、これも、物の豊かさ、便利さ、快適さよりは、ゆったりした時間の流れ、自然との共感、人付き合いといった「心の豊かさ」を求めているのだろう。「物の豊かさ」から「心の豊かさ」への変化はとりもなおさず、環境に優しいライフスタイルの一つでもある。

 しかし、そうはいっても皆が皆田舎暮らしをすることはできないし、私たちの生活を単純に2、30年前に戻せばいいということではないだろう。
 省エネ、省資源だが、美的感覚にフィットし、心も満たされるライフスタイル、一方どこかで情報化時代の快適さや便利さといった成果も享受できる生活。新しいライフスタイルの模索はこれからの市民社会の大きなテーマになると思う。
 すでに「環境に目覚めた人々」の様々なライフスタイルが人々の関心を呼ぶ時代に入っていると思うので、今後折を見つけて取り上げて行きたい。

◆経済発展との両立は?
 最後に、環境機軸社会は経済発展が可能か?このテーマは実はつい最近、二酸化炭素20%削減と言う厳しい政策をまとめたEUでも切実な課題である。できれば環境機軸社会であってもゆるやかな経済発展が望ましい。
 大きなテーマだが、環境と経済の両立が可能になる様々な兆候は主に技術的な発展の方から現れているように思う。また、環境機軸社会への転換の中で新たな産業が生まれつつあるとも言う。
 但し、日本はまず、遅れている「環境機軸社会への転換」にすぐにも手をつけるべきだと思う。何しろ地球温暖化の経済的影響は待ったなしに迫っているからだ。

■地球温暖化は防げるか? 06.5.27

 平成元年(1989年)の3月に、私たちは以前から企画していた地球の大気汚染と海洋汚染に関する特別番組を放送した。17年も前のことである。
 アメリカ環境省から入手した、まだ議会に報告する前の最新データや、大型コンピューターを使った地球温暖化のシミュレーションをもとに、地球の未来を描いたものである。これが本格的に地球温暖化を扱った日本で最初の環境番組になった(と思う)。
 海面上昇による海岸侵食、巨大台風の発生、熱帯性病原菌の北上、砂漠化による食糧危機などなど。私たちは地球環境に負荷をかけ続ける現代文明のあり方に警告を発したつもりだった。

  そして、(別にそれに合わせたのではなかったのだが)タイミング良くその年の7月にパリでのサミットで、9月に地球環境保全に関する東京会議で、11月にオランダの大気汚染と気候変動に関する閣僚会議で、地球温暖化問題が取り上げられ、1989年は後に「地球環境元年」と呼ばれるようになった。

◆地球環境キャンペーンは大嘘だった!?
 しかし、浮上してすぐに地球温暖化問題には様々な思惑が渦巻く。私も思いがけず、その一端を経験することになった。
 放送直後、一人の週刊誌記者(「週刊ポスト」)が取材にきた。その若い記者はいろいろ聞いた後、すまなさそうにこう言った。 「私も個人的には番組の指摘は正しいと思うのですが、正直、もう筋は出来ているんです。ただ、あなたの発言はカッコつきで正しく伝えますので。」
 そして翌々日の朝刊を開いてみると、「大マスコミの地球環境キャンペーンは大嘘だった!」という週刊誌の大きな見出しが躍っていた。

 当時は、環境対策で主導権を握りたい環境庁と、それで経済成長が鈍化することを嫌った通産省とが激しく対立していた。その間に立って最新情報に疎い気象学者がそれぞれ勝手な意見を述べている状況(日本で温暖化の研究はまだ始まっていなかった)で、記事の背景も容易に想像できた。
  さすがにこの記事については後追いもなく他のマスコミも無視したが、事ほどさように地球温暖化問題はこれまでも様々な力学に翻弄されてきた。

 そして「地球環境元年」から17年たった今も、世界の温暖化対策は一向に進んでいない。問題はどこにあるのだろう? 取りあえず、科学、経済、政治の三つの側面から私なりに地球温暖化の問題点を整理して見たい。

◆ 科学的側面について
 人間活動による大気中の二酸化炭素が、この半世紀で急増していることは事実である。しかし、これが地球温暖化にどの程度影響するのかについては、科学者の間でも意見が分かれている。
  理由は、水や大気が循環する地球のシステムが複雑すぎて、まだ十分解明されていないからだ。さらに、地球気温には太陽活動の周期的な変動も関係してくるが、これが良く分からない。温暖化問題の前は、地球は氷河期に向うと言われた時もあったくらいだ。

  しかし現在、世界最大のスーパーコンピュータによる最新のシミュレーションは、温暖化の影響をよりはっきりと描くようになっている。また、地球上で不気味に進行する、海面上昇、巨大ハリケーン、氷河の後退なども、温暖化の前触れと考える科学者は多い。
 従って現時点では、地球温暖化問題はいろいろ不確実要素があるにしても、国際的に対策を講じるべき人類共通の課題として認知されているはずである。

 ところが地球温暖化については、いまだに難癖をつける科学者があとを絶たない。科学が厳密さを求めるのは当然のことだが、厳密さの故に温暖化対策にまで疑問を呈する。そこに、経済的、政治的思惑が付け入ることになる。

◆政治的側面について
 温暖化対策のために二酸化炭素の排出量を抑えるには、まず石油消費量を抑えなければならないが、これはその国の経済成長にとって大きなリスクとなる。 だから温暖化防止の国際条約を巡っては、各国のエゴが激しくぶつかり合うことになる。(「ウィキペディア」の「京都議定書」「気候変動枠組み条約」など)

  温暖化防止条約は、(1997年の京都会議からようやく7年後にロシアが批准して)去年発効したものの、人口が多く経済発展が目覚ましい中国、インド、ブラジルなどが途上国扱いで免責されている上、最大のエネルギー消費国のアメリカが参加を拒否している。
 これらの国々をどう枠組みに参加させるのか、国際政治の駆け引きは第2段階に入っているが、国家エゴが絡んで先が見えない状況が続いている。

◆経済的側面について
 国家エゴのぶつかり合いを避けて、経済的誘導によって温暖化防止を進めるアイデアもないではない。例えば、耳慣れない「排出権取引」。防止技術や資金の提供で途上国の排出量を削減してやる代わりに先進国の排出量を認めてもらう。最近、この排出権取引市場が妙に活気づいていると言う。
 しかし、私はこうした市場経済主義が温暖化防止にどれだけ有効かはわからない。直感的に言えば、この程度の利益誘導で抑制される排出量は全体のごく一部でしかなく、防止条約の厳しい要求を実行していくにはもっと根本的な発想の転換が必要になるだろうと思う。

◆持続可能な社会(循環型社会)への転換
 むしろ私が注目しているのは、ドイツなどヨーロッパで試みられている地球環境にやさしい「循環型社会」への動きである。製品を徹底してごみが出にくい設計に変えたり、ごみ発電や風力発電などの代替エネルギーに補助金を出したりと、法律や税制の改革も含めて国を挙げて「持続可能な社会」への転換に取り組んでいる。 (環境先進国「ドイツ」
 二酸化炭素の削減も環境政策全体の中で考えられており、私は、温暖化防止は地球をこうした「循環型社会」に変えることでしか達成できないのではないかと思っている。

 私は時々、このドイツの原動力が何なのか不思議になる。二酸化炭素の削減だけに振り回される視野の狭い日本の取り組みや、市場原理主義を突き進むアメリカなどとは、まるで違う価値観を目指しているように見えるからだ。
  いろんな見方があるだろうが、私が大胆に仮説を立てるとしたら、「ドイツは石油文明以後の世界を見て、次世代エネルギーの主導権を狙っているのではないか」ということである。ゲルマン民族の深謀遠慮説である。
 石油が枯渇し世界が次のエネルギーを探し始めた時、果たしてドイツがエネルギー大国として浮上する日がくるのだろうか?

 ともあれ温暖化問題は、人類の価値観が何らかの形で変わらなければ前進しない。国家エゴのぶつかり合いで時間を浪費すれば、温暖化は取り返しのつかないところまで進行していくだろう。
  当たり前のことだが、地球は人間の思惑など待ってくれないからだ。(この問題は今後も考えて行きます)

■人類は宇宙に出るか? 06.5.2

 以前、友人たちと酒を飲んでちょっと浮世離れした論争をしたことがある。将来人類は地球を脱出して宇宙へ移住して行くのかどうか。
 つまり、月や火星、或いはその先の惑星、そして遠い未来に他の恒星の惑星群へ、人類はそのフロンティアを開拓して行くことがあるのだろうか、ということである。皆さんはどうお思いだろうか?

◆地球温暖化問題のプロローグとして
 私たちの意見は2手に分かれた。地球脱出派と脱出不可能派(私)である。
 脱出派はこう主張する。人類が未知のフロンティアに乗り出すのは、いわば人類のやむにやまれぬ性(さが)である。 過去にも人類はこの性によってアフリカのサバンナを出て未知の世界へ乗り出して行き、北米から南米突端にまで、そして全地球へと拡大して行った。宇宙への移住は人類の当然の帰結なのだ。
 現に人類は巨費を投じて宇宙開発にあくなき意欲を示しているではないか、と言う。

 一方、不可能派は、地球脱出の前に人類は乗り越えられない様々な難問を抱えて科学技術文明を衰退させてしまうに違いない、と主張。
 いわく、地球温暖化、テロや戦争、核戦争、人類の精神的荒廃などなどによって、人類の文明は疲弊し衰え、宇宙開発どころではなくなるのではないか。中でも地球温暖化は人類の未来に立ちはだかる最大の難問になるだろうと。

 2世紀、3世紀も先の雲を掴むような、たわいもない論争である。しかし真面目な話、地球温暖化問題がこれからの私たちの生活、あるいは子供たち、孫たちの生存に直接響く大問題であるという私の確信は変わらない。
 実は次回は、(私の経験も含めて)「現実の」地球温暖化問題を取り上げたいと思っているのだが、今回はそのプロローグとして、多少想像を膨らませながら人類の未来を覗いてみたい。

◆アーサー・C・クラーク「3001年終局の旅」
 SF映画に金字塔を打ち立てた「2001年宇宙の旅」の著者アーサー・C・クラークには、続編として「2010年宇宙の旅」「2061年宇宙の旅」、そして「3001年終局の旅」のオデッセイ4連作がある。(静止衛星の発明者でも知られる彼のSFには、最先端の科学的知見が様々に生かされている)
 その「3001年終局の旅」を読むと、千年後の人類はすでに月や火星、金星、そして木星の惑星ガニメデにも居住地を持ち、さしわたし100光年の範囲にロボット探査機を放っている。未来の人類は宇宙に進出しているわけだ。
 と言っても人類の大部分は地球上空3万6千キロの静止軌道上に広がる天空の人工都市に住んでいる。

 一方、千年後の地球上は、すでに人類が観光で訪れるだけの遠い存在になっている。温暖化によって生物相が変わり風景は一変している。
 天空の人工都市からアフリカに降りると、「彼を襲ったのは溶鉱炉並みの熱風だった。ところが時刻はまだ朝なのである。正午にはどうなることやら。」と言う状況である。 とすると、地球温暖化は人類を宇宙に進出させる原動力になったのだろうか?

◆人類が宇宙に行けない悲観的要因
 「2001年宇宙の旅」が映画のために書かれたのは、1964年。実際その頃には月面の恒久基地や人類の火星着陸が1990年ごろまでに実現すると考えられていた。しかし、ベトナム戦争やウォーターゲート事件によってアメリカの宇宙政策は変更され、彼の小説の予言は外れてしまった。

 同じように、1985年レーガン大統領の提唱で始まった国際宇宙ステーションも、当初2003年頃には完成する予定だったが、今もって完成の見通しがつかない。設計はすでに時代遅れになりつつある。この間、アメリカは湾岸戦争、同時多発テロ、アフガン戦争、イラク戦争を経験し、宇宙開発は二の次になってきた。  
 巨費を投じる宇宙開発は、戦争を戦いながら出来るようなものではない。また国際的な協力も必要で、世界平和がない限り発展は望めない。宇宙開発にとって、平和と戦争はアクセルとブレーキなのである。  

 さらに難問は地球温暖化問題。当初は科学的な予告に過ぎなかった温暖化も近年、毎年の異常気象、海洋国の水没、熱帯性病原菌の脅威など現実のものになってきている。
 さらに近い将来、砂漠化や水飢饉、干ばつによる食糧難、陸地の侵食などによって何億人と言う環境難民を生み出し、世界中に紛争の種を作り出す。それによる人類の精神的荒廃も心配だ。

  この温暖化を止められない場合、人類の宇宙進出はどうなるか。考えられるのは、一時期のNASAに対してあったように、地上に貧困が満ちている時に金食い虫の宇宙開発とは何事か、という非難が出てくることである。また、食糧難や紛争の多発によって経済的余裕がなくなれば、宇宙開発技術も停滞してしまうだろう。
 温暖化が進んでしまって人類の生存が危機に瀕しているときに、人類に地球脱出の余力が残されているかどうか、(私は)現実はかなり厳しいと思わざるを得ない。

◆宇宙開発は地球的課題解決のバロメーター
 私は、むしろ宇宙開発を(戦争や温暖化などの)地球的課題解決のバロメーターと捉える方がより正確なのではないかと思う。
 言い換えれば地球規模の問題を解決することが、宇宙への可能性を切り開くと言うことであり、その答えは、まさに人類の英知にかかっている。(そういえば、小説では人類が気候コントロールの技術を手に入れるのは五百年後らしい)
 その人類の英知が目前に迫った「現実の」地球温暖化問題を解決できるかどうかについては、次回に考えたい。

■世界を読み解く鍵 06.4.21

 この「日々のコラム」を書き出してから10ヶ月近く。最初に掲げたテーマ「日本と世界はどこに向かっているのか」に結構こだわりながら、そのつど頭に浮かんだテーマを書いてきた。 悲しいことに知識の蓄積は無に近い。書くために、少しは関連の本を探したり、ネット検索したり、様々なブログをサーフィンしたりと、言わば手探り状態でやってきた。
 そんな中、自分なりにあれこれ考えて来たその延長線上に、最近ふっとある考えが浮かんで妙にわくわくした。それは、今の世界を読み解く「鍵」を探すと言うことである。そんなのがあるのかどうかも分からないし、単なる妄想かもしれないのだが、今回はそんな「鍵」探しの誘惑について書いてみたい。

◆世界を動かしている様々な考え方を整理する
  「日々のコラム」で取り上げてきたテーマは?と言うと、「グローバリズム」、「不戦の誓い」、「アメリカの2つの顔」、「小さな政府」、「格差社会」、「若い世代」、「保守対リベラル」などなど。それぞれホットなテーマだが、これらのテーマを仔細に見ると、多くの場合、その背後で何らかの「2つの対立する考え方」がぶつかり合っているように思える。

 例えば、経済関係では(これまでも何回か登場した言葉だが)「市場原理主義」VS「格差是正主義」。これは「ハイエク型」VS「ケインズ型」と言い換えてもいいし、経済面における「グローバル・スタンダード」VS「ユニバーサル・スタンダード」と呼ばれることもある。
 国際平和の問題としては「アメリカ主導の軍事同盟」VS「国連の集団安全保障」
 国民国家のあり方としては「コミュノタリスム」VS「ユニバーサリズム」(後述) の2つがあり、これは単純に「アングロサクソン型」VS「フランス型」などと言われることもある。
 その他「一極主義」VS「多極主義」などなど。それぞれ対立する考え(世界観)とそれを信奉している勢力がぶつかり合っている。

 同時に面白いことに、(関連の書物を読むと)こうした考え方は結局のところ、おおまかに2つの対立する潮流、世界観にまとめられるらしい。

◆対立する2つの価値観
 それが何なのか。試みに、一方の考え方をまとめてみると、市場原理主義=グローバル・スタンダード=アメリカ主導の軍事同盟=一極主義=アングロサクソン型「コミュノタリスム」となって、これはアメリカ現政権の価値観、世界観そのものになる。
 つまり、民主主義は建前ばかりで、世界中で(大資本の価値観と同じ)弱肉強食の市場原理主義を押し通しているアメリカの現実の姿が見えてくる。(「アメリカの2つの顔」)

  一方、これに対抗する価値観、世界観をまとめてみると、それは、イラク戦争でアメリカに断固反対したフランス政府の理念である「ユニバーサリズム(普遍主義)」に収斂する。(「アメリカにNOと言える国」竹下節子)

◆「ユニバーサリズム」と 「コミュノタリスム」
 どちらも聴きなれない言葉だが、著者によれば、フランス型「ユニバーサリズム」とは、宗教やコミュニティーの違いを超えて、個人の自由と平等を保障していくという普遍的な理念である。EUや世界政府に通じる理想としてとらえられており、実際に戦後のフランスはこの理想を掲げて営々としてヨーロッパ統合に努力してきた。

  一方、アングロサクソン型「コミュノタリスム」とは、社会統治の現実的対応として、個人の自由よりも(人種、民族、宗教などの)様々なコミュニティーの共存を優先する。コミュニティー間の平等には気を配るが、あるコミュニティー内での個人の不平等や差別については無関心。個人をいずれかのコミュニティーに押し込めることになり、真の自由を保障するものとは言えない。
 著者は、アングロサクソン型「コミュノタリスム」は、特にアメリカにおいて民主主義は建前で、実際は白人特権階級のエゴむき出しのダブル・スタンダード(二重基準)だという。

◆「コミュノタリスム」に対抗する理念の模索
 この 「コミュノタリスム」は、利益の論理、権力の論理が働くために、自動的に(世界中に)拡大していく性格を持つ。これに対し、「ユニバーサリズム」は、絶えず各人のエゴを抑え、犠牲にして追求しなければならない理想であるために、苦戦を強いられている。
 東西冷戦当時は、世界は資本主義と共産主義という2つの世界観が対立していたが、冷戦終結後、気がついたら世界中に市場原理主義のアメリカ型「コミュノタリスム」が浸透していたというわけだ。最近の日本も中国、インドもそう。  
 
 「コミュノタリスム」は、拝金主義や弱肉強食によって、一握りの特権階級(勝ち組)を作り出し、かつ(国連を無視して自国の利益のためにイラク戦争を始めるなど)世界を混乱させる要因にもなる。だから日本も、人類普遍的な理想であるフランス型「ユニバーサリズム」にもっと目を向けるべきだというのが著者の意見である。

◆世界を解く鍵
 一方、アングロサクソン型「コミュノタリスム」は、最近もっとすごいことになっているという説もある。国境を越えて巨大になった世界資本は今、世界中から富を得ようとするあまり、アメリカの弱体化を狙っている、と言うのだ。(サイト「田中宇の国際ニュース解説」)
 アメリカ一国の経済成長に頼るには限界があり、それよりアメリカを弱体化させて世界を多極化させ、成長の可能性を世界に広げる方が儲かると言うのだ。そのため、彼らはネオコンなどと結託して、故意にアメリカを弱体化させるような世界的混乱を作り出しているという。(本当なら怖い話だ)

 いずれにしても、今世界は弱肉強食の市場原理主義を進める「コミュノタリスム」の席捲にあっているが、一方でそれに対抗する価値観を掲げる動きもあるということだ。
 その中で日本はどうするのか。単に経済だけでなく、社会的文化的にどういう価値観を模索していくのか。
(それは日本の2大政党の政策選びにも当てはまる)
 その対抗軸が見えてきたとき、それがこれからの世界を読み解く重要な鍵になってくるのではないか。

◆「深読み」せずに
 私としては、これまで取り上げたテーマと方向は、手探りの割にはそう的外れでないとは感じている。しかし、鍵探しの誘惑に駆られてそのことばかりを考えると、いわゆる「深読み」や「陰謀説」(これはこれで面白いのだが)の落とし穴にはまる危険もありそうだ。
 そんなわけで、いまのところは分相応にあまり飛躍せず、地道に個別的なテーマを積み重ねながら、「世界を読み解く鍵」について勉強して行きたい。一市民の立場を忘れずに。(これが今回の結論)