◆人権規約にうたわれた「推定無罪」
「刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する。」これが、いわゆる「無罪の推定」とか「推定無罪」と言われるもので、国際人権規約第14条2項に定められていて、日本も批准している。
つまり、「被疑者・被告人は有罪の犯人と区別し、むしろ無辜の市民として扱われるべき」というのが「推定無罪」の精神なのだが、この人権意識が日本では希薄で、ほとんど有名無実化している。
マスコミや国民には逮捕・起訴されたものは有罪、すなわち「容疑者(被告)=犯罪者」だという誤った認識が定着している。それどころか、法的には罪に当たらない行為や、軽微な罰則のみに留まるような事例においても、国民感情や憶測・推測だけで犯人(悪者)扱いするケースが後を絶たない。(ウィキペディア)
◆「推定無罪」を無視するマスメディア
10月4日、東京第5検察審査会が民主党の小沢元幹事長に対し、彼を強制起訴する「起訴相当」の議決をした。この件に関するマスコミの報道を丹念に読んでみると、首をかしげるような問題点が幾つも浮かんでくる。
特に気になるのは、冒頭に書いたような「推定無罪」の観点。検察によって2度も不起訴になった人物をわずか1年前(去年5月)に改正された法律で強制的に起訴にした今回のような場合にこそ、「推定無罪」の精神はより強烈に意識されなければならない筈なのに、マスメディアや政治家がここぞとばかりに公人・小沢の基本的人権を踏みにじっている。それは異常とさえ言える。
食うか食われるかの権力闘争をしている政治家たちのことは一応おくとして、問題はマスメディア。子細に読んで行くと同じ新聞でも2つの相反する意見が分裂気味に混在していることが分かる。
一つは、審査が密室で行われて決議後に何の説明もない検察審査会のあり方に疑問を呈する意見と、そんな審査会の議決に対して小沢の「推定無罪」を指摘する意見。
もう一つは、市民感覚に基づいて判断した審査会の意義を評価し、これをきっかけに政治家小沢の説明と退陣を迫る意見である。
2つの意見は多分、社会部と政治部が手分けして書いているのだろうが、全体で言えば、小沢嫌いのマスメディアでは前者の見出しは小さく、後者の見出しが圧倒的に大きい。
◆典型的な記事
典型的なのが10月5日の毎日新聞の社説。社説枠の全段を使って「小沢氏は自ら身を引け」という大見出しが躍っている。内容を読むと、まず検察審査会の決議内容について解説し、「要するに市民感覚として小沢氏の不起訴は納得できないということだ」と市民感覚を刑事訴追に反映させたことの意義を強調する。
その上で、社説が問うのは小沢の政治的責任。「カネまみれの政治からの脱却」を訴えた菅首相に小沢の証人喚問を迫り、民主党にも自浄能力があるのか試される、と書く。
そして最後に以前からの主張を繰り返す。「古い体質を象徴する小沢氏が与党の実力者として影響力を持ち続けることは問題がある」として、「国会での究明と同時に、出処進退について、自らけじめをつけるべきである」。そして、もう一段飛躍して「小沢氏は自ら身を引け」という大見出しになる。
◆検察審査会の性格、考え方
この社説の中でも、市民による検察審査会が審査の過程について一切説明していないこと、また、小沢が裁判の入り口に立ったに過ぎず、今後も「推定無罪」の原則が働くということ、の二点について触れてはいる。しかし、それはそれぞれ2,3行で申し訳程度に触れているだけ。「小沢氏は自ら身を引け」と言う主張のどこに推定無罪の精神が生かされているというのだろう。
毎日の社説は一例だが、基本的には多くの新聞が同じ論調と言ってよい。しかし、私は、マスメディアが殆ど触れていない、この検察審査会の性格と「推定無罪」の担保という、二つの関連性にこそ、大きな問題があると思えてならない。
去年改正された(強制起訴に持ち込めるようにした)改正検察審査会法については、これまで検察にだけ起訴権限が独占されていたことに風穴を開ける、という点で評価する意見はもちろんある。
一方で、幾つかの危惧も呈されている。検察が法的に罪に問えないと判断した事件を市民感覚で見直す、という意義はあるにしても、一方でこれまで以上に無罪判決が増えること、つまり裁判終結まで長期間、無実の人間を被告の身におくという確率も、また高くなると言うことである。(密室の審査会は裁判員制度とは似て非なる構造を持っている)
特に、今回の審査会は、(疑わしい者については)「国民は裁判によって無罪なのか有罪なのか判断してもらう権利がある」と国民の権利を主張している点。そうなると、「疑わしきは罰せず」の以前に、「疑わしきはともかく起訴して、裁判で白黒つける」ということになる。
しかし、その「疑わしき」の内容は果たして法の知識から厳密に検討されたのだろうか、という心配も残る。市民感覚でいった場合、一般常識や人間感情、状況判断や傍証などといったあいまいなところから、安易に強制起訴になるケースがありはしないかとも思う。
取りあえず起訴して、法廷で決着をつけてもらう、というのでは仮に無罪を勝ち得ても被告になった人間はたまったものではない。
◆強制起訴と「推定無罪」はセットにすべき
私は、「疑わしきは法廷へ」という検察審査会の考え方そのものについて一概に否定するものではない。仮に検察の目をくぐった悪人がいるなら、それは罰せられるべきだし、昨今の検察の劣化をみるとこういう外部機能があってもいいように思う。
しかし、市民による検察審査会が「疑わしきは法廷へ」の考えを踏襲して行くならば、審査会が法廷に送り込む被告が無罪になるケースがこれまで以上に増えると言うことも頭に入れなくてはならない。これこそ、被告となる人間の人権を守る「推定無罪」の厳格な適用がなければならないという冒頭の課題に帰着する。
こういう問題意識を踏まえて、今回のマスメディアによる小沢に対する報道を点検すると、その人権侵害は異常としか言いようがない。新聞によれば、小沢の場合、これから起訴までにも長い時間がかかるというし、さらに判決が出るまでには何年もかかりそうだ。この間に、小沢の政治生命は絶たれるというので、政敵たちは小躍りしているという。
小沢の方は、今回の決議に異議を申し立てるとも伝えられるが、いずれにしても、仮に検察審査会の議決を認めるならば、セットとして「推定無罪」の徹底を図らなければならないということである。
◆日本で「推定無罪」の厳格な適用は可能か
私は、これまで何度も言ってきたように政治家小沢を特別に擁護するつもりはない。ただ法治国家として、法の理念(人権の理念)に沿った扱いをするべきと言いたいだけ。
一部マスメディアは、強制起訴に乗じて今回も小沢を犯罪者扱いにし、「小沢には疑わしい部分が山のようにある」というあいまいなネガティブ報道をしている。そう書くなら、自らその証拠を取材によって暴くのが言論機関の責任ではないか。
マスメディアは過去何度も、警察や検察のリーク情報に乗ってさんざん無実の人間を犯人扱いにして報道し、そのたびに反省している。松本サリン事件の河野義行さん、最近では村木元厚労省局長もその被害にあっている。
最近のマスコミ倫理懇談会でも、「推定無罪」を徹底させる報道が求められるという指摘があったそうだが、その反省はこと小沢に関してはどこかに飛んでしまっている。
「推定無罪」を踏まえれば、今の段階で「小沢氏は自ら身を引け」とはならないと思うのだが、日本にはこれを許してしまう風潮がある。検察審査会のような新しい試みを導入する場合には、その検証と同時に、「推定無罪」のより厳格な適用を心掛けること。これが今回の問題提起である。
◆政治家の説明責任
最後にもう一つ。「(公人である)政治家には説明責任がある」という指摘については、私も同感。だが、その方法は言うほど単純ではない。偽証罪で告発される恐れがある証人喚問や、政争の具にされるのが目に見えている国会答弁を彼が引きうけるかどうか。
また、「推定無罪」の段階で、これを国会議員に強制することが出来るかどうか、については微妙な問題を含んでいると思う。免責などの証言法も取り入れられているアメリカの例なども研究しながら、もう少し政治家の説明責任の取り方を研究した方がいいと思うし、これについては(被告の身である)小沢自身の考えも聞いて見たいと思う。
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