メディア時評             <メディア時評一覧>

テレビは社会的に有効なメディアであり続けられるのか。また、時代に適合した新しいメディアが備えるべき条件とはどんなものか。番組制作論、メディア論を通して「メディアの未来」を考えて見ます。
ネットVSマスメディア 10.3.25
 3月22日のNHK特番「激震マスメディア〜テレビ・新聞の未来」では、スタジオに関係者を集めて、次のような興味深いテーマが議論された。 インターネットに広告を取られて経営が苦しくなる中で、既存のマスメディアは果たして生き残れるのか。
 マスメディアが衰退したら、未来のジャーナリズムは誰が担うのか。マスメディアなのか。ネットなのか。その時、私たち市民社会は良質なジャーナリズムを確保できるのか。

◆先行する?アメリカで
 インターネットの影響をもろに受けているアメリカのメディア界では、2007年以降、経営難から150の新聞が廃刊になり、1万人のジャーナリストが失職したという。ネットを見る人が増える中で視聴者のテレビ離れも起きており、番組を打ち切るテレビ会社が出たり、危機に備えて記者のリストラを始めたテレビニュース会社(ABCニュース)も現れたりしている。
 
 こうした中、誰が次のメディアの指導権を握るのか、ネット側、マスメディア側双方の「生き残りを賭けた闘い」が進みつつある。 ネットの大会社(AOL)は、これまで新聞の提供した記事に頼っていたが、3000人もの記者を雇って独自のニュースサービスに乗り出した。また、「ポリティコ」というネットメディア(記者70人)は、ワシントンの政治報道に特化してスクープを連発、存在感を高めている。

 一方、既存の新聞(NYタイムズ)も、ネットに遅れまいと新聞の電子化に踏み切った。NYタイムズのネット記事は、膨大な付加情報(イラクで死んだ兵士の家族情報など)を盛り込んでいるのが特徴。紙の新聞では出来ない新しい「ネット新聞」を試みている。

◆日本はどうなる?
 さて、アメリカのこうした動きはやがて日本にもやってくるのか。出演のマスメディア側とIT関係者や学者の意見は真二つに分かれる。 内山斉(新聞協会会長)は、アメリカと日本は広告収入と購読料の割合が違うし、宅配のインフラがしっかりしているので、日本の新聞がすぐにアメリカのようになることはないといい、広瀬道貞(民放連会長)も、現在、テレビ離れは起きておらず、苦しいのは不況のせいという。案外なほどに危機感は薄い。

 対する佐々木俊尚(「2011年新聞・テレビ消滅」の著者、ITジャーナリスト)や川上量生(ITニュースのドワンゴ会長)、遠藤薫(学習院大学教授)たちは違う意見だ。 日本の若い世代は情報をネットから得ており、新聞も読まないしテレビも見ない。彼らはネットからの情報で満足しており、マスメディアからの押し付け的な記事やフィルターにかかった記事は、彼らのニーズとずれている。
 
 ネットから、一次情報を始めとして膨大な二次情報(解釈,解説)までが得られる時代に、マスメディアの役割は相対的に低下せざるを得ない。情報の市場原理は崩れているのに、価格が高すぎる。この高価格構造と硬直した組織では、今のマスメディアがネット時代に適応するのは難しい、とかなり手厳しい。両者の議論は平行線で交わらなかった。
 
  ジャーナリズムを担うのは、これからも我々だと言い張るマスメディア側。その姿勢に、佐々木らが批判的なのは分かる。私も、既存メディアの護送船団的取材体制や、気味悪いほどワンパターンな検察報道、小沢批判を見ていて、その構造的な欠陥を感じている一人だから。(この辺は別途書きたい) 自らを大胆に変えて行かない限り、激変する「情報の市場原理」の中でマスメディアがこのまま生き残っていくのは難しいと思う。

◆ネットの実力
 しかし一方で、ネットの側にも問題はある。私たち市民が必要としているジャーナリズム機能がネットに期待できるかとなると、楽観するには程遠い。 ネット側に彼らが言うほどの実力があるのか。「ブログ論壇の誕生」(佐々木俊尚)にいうように、高いレベルの言論があったとしても、それが世論に影響力を持てているだろうか。
 
  (主に政治・社会問題に関してだが)ネットの中でもジャーナリズムとして、なるほどと感心させられる高いレベルの記事は種々ある。その高レベル記事を分類すると以下のようになるのではないか。
 ・膨大な一般市民によるブログの中で(意見、解説が)高レベルのもの  
 ・学者、研究者、専門家のブログ
 ・アウトサイダー、フリーランスの記者たちのブログ

  私が注目するブログも数十にはなるが、これらのブログには、新聞、テレビではお目にかかれないような、ハッとする記事がある。とても自分などの出る幕ではないと感心しつつも、今のマスメディアがなぜこういう真っ当なことを言ってくれないのか歯がゆい思いもする。 番組の中でも、(かつての新聞記者で)ネット論壇に詳しい佐々木俊尚が「ろくな記者を育てていない」などと、過激にマスメディア批判を展開していた。

◆ネットの影響力は小さい?
 しかし問題は、一般市民がそうした良質のブログを見つけ出すのが難しいということ。玉石混交がネット空間の特徴なのだが、膨大な石の中から玉を見つけ出す仕組みが、いまのネット空間には構築されていないので、忙しい一般市民がいちいち探していた日には、時間がいくらあっても足りない。

  従って、ネットの言論が一般市民の目に触れることは少なく、いいことを言っているネット言論があるのに、その影響力は極めて小さいと言わざるを得ない。特に、マスメディアが連日のように大合唱し始めたら、残念だが、ネットの影響力などゼロに等しくなる。 ネット空間でいくらマスメディア報道に疑問が出されても、世論はマスメディアの思い通りに形成されていくことになる。

◆健全なジャーナリズムが育つために
 情報の受け手としては、良質で多様な情報が適正な価格で入手できれば、それがネットからでもマスメディアからでも構わない。ただし、そのためには、ジャーナリズムとしてのネット側がもっと力をつける(影響力を持つ)必要がある。
 そのためには、例えば、高レベルの情報を発信しているブログを選別するシステムや、束にして紹介するような便利なサイトが欲しい。(「ヤフーみんなの政治」に良質ブログの頁を作るなど)
 あるいは、(なかなか経営難しいと思うが)日本にも独自に記者を抱えて、記者クラブなどに頼らないニュースや映像を取材する強力なネットメディアが現れて欲しいと思う。

  ネットジャーナリズムが影響力を持ってくれば、マスメディア側も黙ってはいられまい。刺激を受けて自己改革をせざるを得なくなるだろう。 (マスメディアがどう変わって行くべきかは別途考えたいテーマだが)例えば、新聞の方も全紙くらいを使ってブログ記事を採録するなどの大胆な(クロスメディアの)試みを始めたらどうか。後期高齢者ばかりの投書欄よりよほどいい。ネットの方でも束ねた多様なブログを新聞にしてもいい。
 そうなれば、今より多様な意見が市民に手軽に届くようになって、日本のジャーナリズムもより成熟していくのではないか。「激震マスメディア」と言うなら、そのくらいの可能性を期待したいと思う。
■映画「抱擁のかけら」など 10.2.12
 このところ映画をよく見るようになった。昨日の「フローズン・リバー」(サンダンス映画祭グランプリ受賞作品)に続いて、今日はスペイン映画「抱擁のかけら」。 特に「抱擁のかけら」は近年の大傑作だと思う。
 名女優ペネロペ・クルスと名監督ペドロ・アルモドバルのコンビによる、見ているこちらまで創造の喜びに浸れるような映画らしい映画だ。パンフレットも買って来たので、この2つの映画については後で触れるが、その前にちょっと寄り道して、なぜ2日も続けて映画を見に行ったか、ということから。

◆老後の時間
 本格的定年を迎えて8カ月。「秋の日はつるべ落とし」と言うけれど、歳を取ってからの時間の早さは本当にあっという間。毎日、時間はたっぷりあるはずなのに、あれ、もう一日が終わりかというような感じで時間が過ぎて行く。
  こうして「風に吹き飛ぶ日めくり」のように、パラパラと日々を過ごすうちに、気が付いたらもう人生の終点ということになるのかも、それでいいのかな、という思いも頭をよぎる。かと言って、もう焦ってジタバタする歳でもないし。

 定年後のそんな微妙な心理の中で、最近ふと心に浮かんだことがある。それは毎日の生活を、自分の出来る範囲で、ある程度“創造的に”過ごせたらそれでいいということ。そして、一日の終わりに“創造的に”過ごしたその時間を再確認出来れば、それだけで十分ということだ。

◆創造的生活のメニュー
 “創造的”と言っても、取り立てて言うほどのことではない。私の場合は日常生活のごく些細なことだ。
  例えば、映画や美術展を覗く、(たまには)音楽会に行く、(なかなか出来ないが)計画的な読書をする、絵を描く、(願望に近いが)英会話の勉強をする、新聞・テレビをチェックする、そして(頭に浮かんだことを)HP用の文章を書く。
 
 また、(テーマのある集まりを企画したり、参加したりして)友人・知人と会話する、初めての人と話す、(歩いている間に結構ものを考るし、健康にもいいので)ウォーキングをする、なども創造的な時間に入るだろう。
 これらは一日をなるべく無為に過ごさないように、最近になって思いついたメニューだが、欲張って多くを詰め込む必要はない。一日に一つでも、二つでも出来れば良しとする。そう思うことにしたのである。

  残された時間はたっぷりある(はず)なので、ごく平凡なメニューを日々こなして行って、これが五年十年続けば「何か」が違って来るのではないか。それが何なのかは未知の領域だが、毎日ただ何となく時間をつぶして時間の速さを嘆いているよりは余程いいかもしれない。

 そう思って、時間があれば展覧会や映画に出かけるこの頃。「土偶展」(東京国立博物館)、「早川良雄・顔と形状」(東京国立近代美術館)など。そして、冒頭に挙げた映画。「犬も歩けば棒に当たる」じゃないけど、傑作に当たることもある。

◆ 映画「抱擁のかけら」
 これは、男女の愛を描いた映画なのだろうが、その展開が息もつかせない。現在と過去が自由に交差するなかで、映画の中で別な映画の製作が進行し、主要な登場人物の時間的変遷が描かれ、その過程で謎の関係が明らかになっていく。
 サスペンス的要素も加味して進行する、練りに練ったストリー展開。細部が一つ一つ個性的で美しく、しかも現実感を微塵も失わない。その細部のち密な積み上げから、壮大な愛の物語に仕上げた小気味よさ。「芸術の香り」などとよく言うけど、本当にそんな香りが漂ってくる映画だった。

 閉塞感漂う日本の中でしばらく忘れていた、本物の芸術に浸るという快感と感動。まあ、こうして日々一つでも二つでも“創造的な時間”を持てれば、少なくとも精神のボケ防止くらいにはなるのではないかなあ。
■映画「アバター」を観た 09.12.31

 ジェームズ・キャメロン監督の最新作「アバター」を見た。3Dで見ようかとも思ったが、セリフが吹き替えになってしまうのと、あまりにめくるめく映像で年寄りにはちょっと刺激が強すぎるかと思って、普通の映画館でみた。
 なぜこの映画を見ようとしたかと言えば、予告編を見てCG映像の進歩に目を見張ったのと、ひょっとすると(あの「201年宇宙の旅」のような)SF映画にふさわしい全く新しい価値観や世界観が込められているかもしれないと期待したからである。

文明人が持つ傲慢さと未開人抹殺の図式
 地球から宝石のような希少物質を求めて、人間たちが「パンドラ」という惑星にやってきている。パンドラには未来の人間から見ると未開民族のような異星人(ナヴィ族)住んでいる。人間は彼らを青猿と呼んで蔑(さげす)んでいる。
 希少物質が埋蔵されている場所はナヴィ族が聖地と崇める森で、人間は彼らを何とかそこから追い出したいと思っている。異星人の土地を奪う時の人間たちの論理はかつて白人がインディアンたちを追い出したときの論理と変わらず、また、言うこと聞かなければ容赦なく武力に訴えるというのも全く変わらない。

 キャメロン監督は地球人たちが異星人を排除する傲慢な論理を、多少の誇張を響かせながら展開している。しかし、それは過去に人間が実際に行ってきた例を凝縮したもので、類型的ではあるが非現実な感じはない。
 異星人が自然を崇める感情や彼らが信仰する神を野蛮人のものと馬鹿にする。自分たちが考える合理性(経済の損得)以外の価値観があることを理解しようとしない。自分たちの方が高度な文明を持っているのを疑わず、対等な関係など持ち得ないと思っていて、従わなければ武力で抹殺するしかないと思っている。

 キャメロン監督は、先住民を抹殺する時にヨーロッパ人が常用してきた図式を意図的に投影している。まず、様々な餌(条件)をちらつかせて追い出しにかかる。言うことを聞かないと理性のない奴らだと軽蔑する。そして、相手が飲みそうもない条件を突きつけて期限を設けて「交渉」する。そして、期限切れだと言って武力に訴える。これは、アメリカ人が先住民を排除した時も、イラク戦争を始めた時も全く同じ。

異星人(先住民)の文化
 一方、ナヴィ族の文化や生き方は、人間の傲慢さの対極にあるものとして描かれている。食べるためにやむなく殺す動物たちへの祈り、森の精霊たちへの思い、動物や植物と交信する感覚、自然界を司っている神への信仰、などなど。ナヴィ族の自然と共生する生き方が描かれている。これらには、自分たちが滅ぼして来た先住民の文化についての研究が下敷きになっているように見える。
 その後のストーリー展開については詳しく触れないが、この2つの文化は結局相容れず、アメリカの場合と同じような経緯をたどって、ついには圧倒的な戦闘能力をもつ人間と弓矢の異星人の戦いが始まる。異星人たちは人間たちの高性能兵器によって容赦なく殺されていく。

びっくりする進歩
 CG技術を駆使した、その戦いの映像がこの映画の見せ場。それはものすごい。今回は3Dを意識した動きの激しい映像がめくるめく展開する。
 戦いのシーンばかりではない。惑星パンドラの奥深い森、そこに住む異形の動植物の営み、引力を超えたような空中の島々。その奥行きのある重層的な映像表現は、まさに想像力と映像表現の見事な一致を見せる。モーションピクチャーなどの様々な技術が駆使されているのだろうが、コンピュータで処理する情報量も膨大だったに違いない。

 20年以上も前にアメリカ西海岸でCGの映像祭「シーグラフ」を見に行ったり、当時出来たばかりのピクサー社(シリコンバレー)を訪ねたりしたことがあるが、初期の短編アニメに比べると、はるけくも来つるものかな、という感慨を覚える。日本でもこのような映像表現(3Dも)は可能なものなのだろうか。

新しい世界観は?
 その一方、CG映像の斬新さに比べて、期待していたような新しい世界観や価値観には出会えなかった。それがちょっと物足りない。私の方は異質な文化同士が共生できる新たな価値観や、武力を用いずに争いを解決する「全宇宙を統合する完全な善」といった仮想の倫理をキャメロン監督が提示しているかもしれないと期待したのだが。

 映画は結局のところ、パンドラの異星人が森の生き物たちの助力も得ながら侵略者たちを撃退する(この辺は「もののけ姫」的でもある)。もちろん異星人を理解する主人公たちのような人間もいて、ともに傲慢な人間たちと戦う。
 それも今まで何度も描かれた図式と変わらない。まあ、娯楽作品としては単純で分かりやすくていいのだろうが、物語としての新しさはない。最後に力と力の衝突ではない何か別な世界観の登場を期待していたのだが、なんだ、結局戦争シーンが見せ場かよ、という若干の違和感は残った。

アメリカのインディアン政策
 しかしその代わり、この映画は私が最近何かと気になっているテーマに対する関心を刺激した。それは、アメリカが先住民であるインディアンの問題をどのように考えているのかというテーマだ。
 アメリカ移住者はありとあらゆる方法を使って、1000万人いたインディアンの95%をせん滅させたというが、その(大虐殺ともいうべき)インディアンの排除は実際どのように行われたのか。それは現代アメリカ人の意識にどのような痕跡を残しているのか。現在のアメリカの先住民政策は(和解を進めている)カナダの先住民政策などとどのように違っているのか。

異質な文化との共生というテーマ
 それは、アメリカ人が自分たちと異なる文化にどう向き合うかという問題につながる重要なテーマだ。岸田秀がいうように(「日本がアメリカを赦す日」)、アメリカの対外政策がこのトラウマを引きずっているとすれば、そのことをいつか調べてみたいと思う。
 キャメロン監督の映画を見る限り、一部のアメリカ知識人は(先住民文化に対するように)異質な文化に対する認識を深めて来てはいるが、一方で認識の限界も示している。戦争の論理を超える「和解の方程式」を、まだ発見していないように見えるからだ。

 異質な文化とどう付き合うかという問題は、いまや(アメリカや中国といった「超大国」と付き合わなければならない世界にとって)地球規模の大きなテーマにもなっているのだが、これについては、調べた上で別途書くべきかもしれない。

■番組企画B表現者として 06.5.14
 すっかりサボってしまったが、久しぶりにテレビ番組企画Bを書きます。このテーマは一回目に書いたように、今のテレビに対する要望でもあるので、テレビ関係者向けの狭いものにならないように気をつけながら、何とか予定の6回くらいまでは続けたい。
 今回はテレビ制作者=表現者としてみた時の「心構え」のようなことについて書いてみたいと思います。(取り合えずかつての自分のことは棚に上げて)

◆表現者のサラリーマン化  
 番組企画のアイデアが生まれ、番組のコンセプト(ねらいや目指すもの)がはっきりしてくると番組のフォーマット(基本形)作りに取り掛かる。例えばスタジオ番組ならば司会者やレギュラー出演者の名前、スタジオの構造(司会者、出演者、観客などの役割や配置など)、番組の中に取り込むコーナーの内容、見せ方、ナレーションのスタイルなどなどを決めていく。  
 しかし、いったん決まったフォーマットで番組が始まると、今度はなかなかそれを壊せないという、厄介な問題が発生する。フォーマットに沿って作る方が悩まなくて済むし、一々元から議論すると時間もかかるからだ。そうなるとすぐに番組のマンネリ化が始まる。

 もちろん、「笑点」や「水戸黄門」、「サザエさん」のように“偉大なるマンネリ”の長寿番組もあって一概に言えないが、テレビ番組の80%は可もなく不可もない位置に安住して、決まったフォーマットを(変えられない憲法のように)後生大事に守っていると言っていい。
 「テレビの新しい表現に日々挑戦する」というのは、ディレクターの本分のはず。しかし、表現者としての不満は好きな映画を見たり、芝居を見たり、音楽を聴いたりして解消し、(視聴率には頭を悩ますものの)仕事は仕事と割り切って淡々と番組作りをこなすようになる。
 気がついた時には何となく冷めたサラリーマンになっている。こうなると企画力などどこかへ消えてしまう。

◆頑張っている番組を探す  
 こういう時は、(数は少ないけれど)熱く頑張っている番組を探して刺激を受けるのが一番だ。中味云々よりも、テレビの表現者とは何かを考えさせてくれるきっかけになるからだ。  
 例えば、テレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」。看板番組としてもう10年以上続いているが、私などは当初、英国BBCの番組にアンティークの値段を専門家に鑑定させる似たような番組があって、その真似ではないかと思っていた。

 しかし、この番組はその後次々と新規コーナーを開発。スタジオに持ち込むお宝の鑑定以外に、「出張鑑定」、「蔵ごと鑑定」、「ご長寿鑑定」、「私のお宝売ります」、「もめてるお宝鑑定」などなどの面白いコーナー企画を取り入れた。
 そこには、単なる値段の興味だけでなく、お宝にまつわる人間ドラマ、ご当地の歴史風土、あるいは日本や世界の歴史や美術の高度な(?)薀蓄(うんちく)まで入っている。この番組を他の局にはないユニークな教養娯楽番組に育て、番組寿命を支えてきたのは、番組フォーマットにとらわれない旺盛なチャレンジ精神ではなかったかと思う。(伸び盛りの頃は特にそうだった)    

 もう一つは、英語の分からないうちのカミさんや娘も見ているNHKの「英語でしゃべらナイト」。当初はゲストの英語体験談などを軸にしていたが、次々に新規企画を取り入れ始めた。
  英語初心者の尺由美子と松本アナによるハリウッド大物スターへの体当たりインタビュー、カルロス・ゴーンに運転させての箱乗りインタビュー。最近ではアメリカ駐在日本大使館を巻き込んで、松本アナのアーミテージ前国務次官補へのインタビュー、米ラジオ番組出演などにも挑戦している。

 この番組の良さは2つ。一つは、担当者が従来の語学番組のお堅い発想から全く自由に、面白がって新しいコーナー企画にトライしていること。 もう一つは、「英語による異文化コミュニケーション」という、これも独創的な番組コンセプトを発見したことである。
 二回目の「企画に意味を与える」にも書いたが、これは時代的可能性を秘めたコンセプトである。(褒めすぎ?)

◆表現者としての冒険を  
 探せばこのほかにも、表現の可能性を追求している熱い番組は見つかるかも知れないが、現実は、バラエティー番組だけ見ても、視聴率ねらいの似たような騒がしい番組ばかり。お寒い限りだ。
  かつて(30年前)は「ゲバゲバ90分」、「ウィークエンダー」(日テレ)のような「テレビの一時代を画した番組」が、気鋭のプロデューサーたちによって作られた時代もあった。しかし今、独創性でテレビ文化史に残るようなバラエティー番組はどの位あるだろうか。

 今のテレビはいろんな意味で曲がり角にあることは、先の「メディア・私の問題意識」で書いた。そうした状況の中、私が今のテレビに期待するのは、マンネリ化した発想を突き抜けた、全く新しい番組の出現である。テレビの可能性を改めて感じさせるような独創的発想である。
 それがどんな番組かは分からない。しかし、今のテレビマンたちには是非、こうしたテレビの新しい可能性の開拓を目指してもらいたいと思う。

◆テレビの可能性を広げるために
 そのための心構え。まず、表現者としての気概を持って日々、試行錯誤の冒険に挑戦すること。決まったフォーマットに安住せずに、新たな発想を大胆に試みること。そして番組に、よりユニークな番組コンセプト(時代的意味)を与えていくこと。
 もう一つは、表現者としてのこうした冒険を楽しみ、面白がることである。その日々の実践がディレクターのDNA(創造性)を鍛えていくに違いない。
 そのためには、テレビ局もそうしたディレクターのDNAを大事に育てる土壌、環境作りをしなければならない。これが5年続けば、間違いなくそれが勢いになって面白い番組が幾つも登場するだろう。
■メディア・私の問題意識 06.4.5
 10年後のテレビ(メディア)がどうなっているか。今はメディアを取り巻く環境の変化があまりに激しくて、誰にも正確な予測はできないだろうと思う。
 メディア同士の統合や通信との連携、それによる収入形態の変化、規制をめぐる行政との綱引き、さらに新興のネット側からの侵食、などなど。何だか大変化の予感だけはする。
  そこで今回は、メディアの未来について私が漠然と感じている「問題意識」を取り上げてみたい。これから個別に問題を考えて行くために、まずはおおざっぱな見取り図を作っておきたいということなので、多少乱暴で問題意識が先行するかもしれないが、お許しを。

◆メディアは第一の権力?  
 メディアはこれまで(司法、立法、行政の三権を監視する)第四の権力などと言われて来たが、最近では三権の上を行く、「第一の権力だ」と言う人まで現れた。(「国家の品格」藤原正彦)

  私もマスコミ全体をひっくるめて見ればそうかなと思う。例えば、去年の国政選挙。小泉劇場に乗ったメディアの大騒ぎと、それに煽(あお)られた国民の熱狂は、国民にとっても予想外の「自民党の勝ち過ぎ現象」をもたらした。(私は今回の民主党の自滅騒ぎもこの現象の余波だと思っている)
  メディアが社会全体を劇場型に変え、メディアが作るイメージが国民の思考を左右し、メディアが作る世論に政治が迎合していく。メディアは国民と政治の双方に劇場を提供しながら、かつてない増幅機能(影響力)を持つようになった。 これを“第一の権力”と言いたい気持ちも分からないではない。

◆影響力に見合った実力を備えているか?
 ただ問題は「それが国民にとって幸せなのかどうか」である。第一、肝心のメディア側に巨大な影響力を持ったという自覚はあるのだろうか。また、その力に見合った内実をメディアは備えているだろうか。
  「選挙報道はなぜワイドショー化したか」でも書いたが、(自分こそメディアの良心と思っている)ニュースキャスターたちにさえ、十分な自覚があるとは思えない。暴走気味のテレビを制御できないでいる。

 本来ならば影響力の大きさと同時にその怖さも自覚して、それに見合うだけの内実を備えたり、自制したりすべきなのに、どうも今のメディアは余りに自覚がなさ過ぎる。
 見ているのは自分の番組だけ、それが集まって全体でどんな力になるのかは誰も考えない。政治問題を興味本位に扱うワイドショーも花盛りだ。
 そんなメディアに対して、陰からその力を利用したり、コントロールしようとしたりする動きが出て来るのも当然だろう。権力側のメディア・コントロールの手法も年々高度になっている。(「小泉自民党の9.11メディア戦略」)
 
◆第一の権力をめぐる綱引きが始まった
 また、現在進行中の「放送と通信の融合」を目指す行政側の動き。これもうがった見方かもしれないが、許認可権限でメディアをコントロールしたり、規制緩和によってメディアの発言力を低下させたりという「無意識の狙い」が働いているのではないかと私は思っている。
 
 この点で、公共放送の存在理由を巡って長年議論して来た英国BBCが言っている、(広告、有料、受信料といった)「収入の形態が放送の内容を決める」という指摘は正しいし重要だと思う。
 すなわち、すべての放送が民営化されると、市場原理によって放送内容が一律に商業的なものに変質していく。その結果、放送の多様性は失われメディア全体の言論機能は衰退する。
 うるさいマスコミの言論機能が衰えることは、権力が(無意識であれ)常に望んでいることに違いない。
 
 というわけで今、メディアの巨大な力をめぐって、政治、国民、メディアの見えない綱引きが始まろうとしている。 私たち市民も、メディアの暴走を制御しその力を国民に奉仕させるために、メディアの質をより厳しく監視していくべき時代に入ったのだろうと思う。 (ということは、国民が第五の権力になるということだろうか?また市民がメディアを監視するための有効な手段を手にすることは可能だろうか?)

◆既存メディアがネットに侵食される  
 さらにもう一つ、メディアの権力をめぐるそんな思惑も吹き飛ばしそうな大きな「台風」が成長中らしい。メディア側は今、遅ればせながらネットとの連携を模索しているが、その前に、急速に進化するインターネットが独力で既存メディアの基盤を侵食していくというのだ。
 新たな主役の登場!というところだが、既存メディアの側から見た危機を私なりに三点挙げてみたい。

@ 広告費が奪われる
  全世界のウェブサイトにきめ細かく広告を貼り付ける画期的な方式が急成長。グーグルが開発した、こう
  したネット広告が世界の広告市場で金の流れを変えるかもしれないという。(「ウェブ進化論」梅田望夫)
  広告側もより売り上げに直結するネット広告を重視し始めているらしい。
A ジャーナリズムとしての地位が脅かされる
  今は玉石混交といわれるネットだが、近い将来、ネットが進化して、既存メディアに負けない良質なソフトを
  独自に発信したり、ネットジャーナリズムとも呼ぶべき言論機能を発揮したりするようになる。
B 視聴時間が奪われる
  生活にネットが入り込んだライフスタイルが定着。ネットとテレビで時間の奪い合いが起こり、テレビ視聴
  時間が減っていく。  

 テレビも第一の権力などとおだてられて安閑としていると、ネットの急激な波に飲み込まれてしまいかねない。テレビとネットの攻防の中で、テレビ自身が自己像(アイデンティティ)を見失うような憂慮すべき事態も起きるだろう。

◆どのようなメディア像を求めていくべきか?
 私が心配するのは、メディアがビジネスチャンスにうまく乗れるかどうかというようなことではない(それはいやでもメディア自身が考えるだろう)。日本の平和、国民文化の存続、社会的価値観が脅かされるような時に、テレビでもネットでもいいから、メディアが日本の社会の中で健全に機能するかどうかである。
 そういう事態に備えて、私たちは今後どのようなメディア像を求めていくべきなのか。 かつての仕事の行きがかりで設けた「メディア時評」だが、最近は「日々のコラム」と肩を並べるくらいに大事なテーマだと思うようになった。(今後は随時、個別テーマを考えていきます)
■こころの時代(画家・野見山暁治) 06.3.16
◆戦没画学生慰霊美術館「無言館」
 去年の暮れ、信州の別所温泉に行った帰りに上田市にある戦没画学生慰霊美術館「無言館」を訪れたことは「風の日めくり」に書いた。
 この「無言館」には太平洋戦争中に志半ばで絵を断念して出征し、フィリピンや中国などの戦地で倒れた画学生の絵が展示されている。没年を見ていくと多くはまだ20代の若さである。
  コンクリートの館内は照明を落としていて薄暗く、冬の冷気が足元から這い上がってくる。自画像や家族、故郷の風景などを描いた一枚一枚の絵にスポットが当たっており、皆粛然として彼らが遺した絵に見入っていた。

  外に出て見ると、雪を被った信州の山々が冬晴れの中で輝いていた。館内での重い気持がその美しい風景の中に溶けていく。「平和な時代に生まれてよかった」その時はそんな風に思いながらも、私は誰がどんな思いでこれらの絵を集めたのか、深くは知らないまま「無言館」を後にした。

◆86歳の老画家・野見山暁治
 それから数ヵ月たった先週日曜日の昼下がり。こたつにもぐりこみながら眠気半分でテレビのリモコンをいじっていたら、大きな画布と格闘する一人の老画家が目に飛び込んできた。描いているのは灰色や暗い青を主とした荒々しい抽象画だ。塗ったそばからまた別な灰色を何度も何度も塗り重ねていく。まるで憑かれたように。
 その画家が今年86歳だというナレーションにまず驚いた。甘さをそぎ落とした精悍な顔つきと明晰な話ぶり、どう見ても70歳ぐらいにしか見えない。
 見ていくうちにこの番組が彼の波乱に満ちた人生をたどりながら、「描く」という情熱と画家がどう向き合ってきたか、インタビューを通して探り出そうとしていることに気がついた。
 
 画家の名は野見山暁治。現代絵画では日本を代表する画家の一人らしい。
 大正9年(1920年)生まれの彼は、東京美術学校(今の芸大)を卒業後、23歳で応召する。配属された先は冬にはマイナス30度にもなる極寒の中国東北部だった。油断するとたちまち凍傷で手足を切り落とすことになる寒さの中、間近に迫るソ連軍と対峙した。
 冬のある日、彼は凍った道で鮮やかな赤い色を見つける。良く見るとそれは何層もの氷の下に閉じ込められたミカンの皮だった。その時「生きて、もう一度絵を描きたい」という強烈な思いがこみ上げてきたという。

◆過酷な運命
 しかし、彼はその極寒の地で肺を病み40度の熱が続いて死線をさまようことになる。生きて終戦を迎えられたのは奇跡的だったが、戦後しばらくは虚脱感から絵を描けなくなる。
  若くして死んだ友人の画家に励まされての絵の再開、パリでの絵の修行、呼び寄せた妻が29歳の若さで他界、深い喪失感の中でまた描けなくなる。そして再開。12年のフランス滞在を切り上げて帰国。1968年からは母校の芸大で教える。さらに再婚した妻との死別。そして86歳の今、絵本などの新しい試みにも挑戦している。 

  「画家というのは長生きだなあ」などと気楽に見始めたのだが、とんでもない。壮絶な画家人生である。人生への絶望と立ちはだかる創作の壁。描く対象に迫るための模索と葛藤。野見山はそれらを血のにじむような思いで乗り越え、独自の画境を切り開いてきた。
 番組はそのつど「変貌」していく彼の絵を見せながら、過酷な運命の中で、彼が「描く」という情熱の火を86歳の今までどのように絶やさずにきたのかを具体的に聞き出していく。

◆画学生の一途な思い
  最後になってもう一つ、あっというようなエピソードが出てくる。母校の芸大に戻った野見山がそこで、戦死した同窓生たちの遺作に出会い、美術館を作ることを思い立つのだ。作家の窪島誠一郎氏と遺族を探し歩き、亡くなった画学生たちの絵を展示する了承を一つ一つ取り付ける。それがあの「無言館」になった。
 (これは知る人ぞ知る話だろうが、番組がこの話になったとき、私の頭の中でぼんやりしていた幾つかの断片が突然一つにまとまり、何かの声を発したような気がした。)

 野見山は無言館の絵について(かつての自分の絵もそうだったように)「多くは下手くそな絵だ」という。しかし同時に、「無言館でそれらの絵に向き合っていると、館内一杯に、一つの思いのようなものが立ち上ってくる気がする」という。それは「絵を描きたい、生きてもう一度絵を描きたい、という画学生たちの一途な思い」だと野見山は言う。
  戦時中の画学生たちは親から反対されたり、世間から白い目で見られたりする存在だった。それでもなおかつ、絵を志した青年たちの一途な思い。一枚一枚の絵にこめられたその思いが「無言館」の絵をかけがえのないものにしている。

 軍靴の足音の中で死と向き合った画学生たちの一途な思いは、過酷な運命と闘いながら、戦後60年の長きにわたって野見山の創作への情熱を支えて来たものともどこかで通じているに違いない。
 最後に来て、「芸術家を表現へかきたてるもの」と「死(者)を背負った者の情念」との秘められた関係がわずかに見えたような気がした。
 番組は「こころの時代」(NHK教育)。何気なく見始めた番組だったが、見終わった時、私の脳裏には去年の暮れに訪れた館内のあの雰囲気がもう一度激しく浮かんできた。
■一級の娯楽作品(ドラマ「氷壁」) 06.2.8
このところ、取り上げる番組が見当たらなくてこのコーナーも随分とご無沙汰した。およそ2ヶ月ぶり。自分が怠惰なのか、放送が不作なのか。何かないかと探して(まだ6回シリーズのうち4回しか放送してないが)NHKのドラマ「氷壁」を取り上げることにした。

 このドラマは、去年10月に石原軍団を総動員して作った倉本聰ドラマスペシャル「祇園囃子」(テレビ朝日)に匹敵するような、豪華で重厚な一級の娯楽作品になっていると思う。以下、「一級の娯楽作品の条件」とも言えるだろうが、このドラマのいい点を上げてみる。

一級の娯楽作品の条件
 まず、
ドラマの要素がいい意味で通俗的、かつ舞台装置が豪華である。例えば、ニュージーランド氷河地帯で敢行されたというド迫力の冬山シーン。美貌の社長婦人を巡る、社長と主人公(登山家)の愛憎劇。豪華な社長室で練られる非情な企業防衛戦略。野心家の息子の暗躍。主人公を巡る友人の妹、零細企業の社長など純情派の人間模様など。

 配役がいい。老練で複雑な社長、未熟だが野心家の息子、様々な板ばさみに悩む美貌の妻、世間から距離を置いて自分を貫く登山家の主人公、彼を見守る零細企業の社長、嗅覚の鋭い週刊誌記者、対照的な2人の弁護士、主人公に想いを寄せる友人の妹。随分と工夫して選んでいるのが分かる。

 細部の描き方が凝っている。企業本社のガラス張りの廊下、社長室、社長宅の豪華な調度品、オーディオ装置、社長の妻がやっているネイルサロン、対比して零細企業家の自宅、会社、主人公のアパート。もちろん道具立てばかりでなく、人物像の作り方、せりふ回しもである。
 「ドラマだから筋はどんなに荒唐無稽でもいいが、細部の描き方にはリアリティーがなければならない」というのが私の意見。この点からもこのドラマは結構いい線を行っていると思う。
 
 NHKのドラマにしては珍しくテンポがいい。脚本がいいのだろう。(これはうんざりするが)金がかかったシーンだからといってだらだらと見せたりしない。編集に切れがあって小気味いい。

もっと見られるにはどうしたらいいだろう?
 いい点ばかりを上げてきたが、聞くところによると視聴率が低いらしい。「いいものが売れるとは限らない」のがテレビの世界だが、もったいないことである。問題はどこにあるのだろう?

 一つは編成。確か2回目は不規則で10時半からだった。シリーズなので一度離れた視聴者は余程のことがないと戻って来ない。残念なことである。
 さらに検討課題は、6回と言うシリーズの考え方だろうか。見る方から言うと大宣伝で大騒ぎするなら、せいぜい3回以内の短期決戦かもしれない。今の視聴者は本当に飽きっぽいから。仮に6回シリーズでも、毎週やるのがいいのか、集中編成するのがいいのかも検討課題だろう。

 以上は問題提起。何度も言うようだが、私の見るところ、このドラマ番組は一級の娯楽作品になっている。まだそう決めつけるのは早いかもしれないが、出来れば「敗者復活の方法」(見つかれば新発見なのだが)もじっくり研究してもらいたい。 
■映画「博士の愛した数式」の謎解き 06.2.7
 映画「博士の愛した数式」は作家小川洋子の同名の小説を映画化したものである。監督(友人)からこの小説を映画化したいと聞いた時、私は最初小説としては面白いけれど映画化はどうかなあと密かに心配した。
 小説の中で大きな意味を持つ「数式」の不思議さ、面白さまで伝えなければならないし、博士と家政婦親子との交流もほのぼのとはしてるが、何かすごいドラマが起こるわけでもない。 しかしその後、彼の考え出した幾つかの工夫を聞くにつれ、なるほどこれなら面白くなるかもしれないと楽しみにしていた。

 完成後、2度この映画を見た。温かく優しさあふれるストーリーや美しい映像に引き込まれてみているうちに心が洗われるような気持ちになる。インターネットでの感想を読むと、「何故か分からないが自然に涙が出てきてしまう」という感想も多い。 見る人によって泣ける場面や心に残る場面も様々で、これはこの映画が奥の深い芸術作品にまで達している証(あかし)だろう。               (C)「博士の愛した数式」製作委員会

◆ 映画の登場人物と博士の記憶障害
 映画は、交通事故の後遺症で80分しか記憶が保てない初老の数学博士の世話をするために、家政婦がやって来るところから始まる。 主な登場人物は5人。
 博士(寺尾聡)、博士の義姉(浅丘ルリ子=夫の死後博士と愛し合っていた)、家政婦(深津絵里)とその息子ルート(博士がつけたあだ名)、成人したルート(吉岡秀隆=数学の先生)である。

  80分しか記憶が保てないと言う設定は不思議な世界をかもし出す。毎朝、訪ねてくる家政婦に博士はそのつど同じ初対面の挨拶をする。その子ルートについても、自分の家に連れてくるように言ったのは博士だが、毎回「そうか!君には息子がいたのか」と言う。
  博士にとっては、自分が昨日何をしたのか、誰と会ったのか、何一つ確かなものはない。ひょうひょうとした博士だが、根底には言いようのない哀しみが流れているに違いない。(*)

◆「時間」という視点から見る
 監督はこの映画で、小説にはない設定を取り入れている。息子(ルート)が成長して中学の数学の先生になり、教室で生徒を前に、博士と過ごした時間について回想するという設定だ。この設定は映画全体にもう一つの「時間的奥行き」を与えることになったと思う。
 もしかすると、この映画の隠れたテーマは「時間」なのではないか、「時間」という視点から映画の謎解きをしてみたらどうだろう、という考えが浮かんだのは、多分この設定のせいだろうと思う。

  「時間」という視点から見ると、この映画の登場人物はそれぞれ実に様々な「時間」を抱えている事に気づく。
 博士は80分で無になってしまう不確かな時間と、10年前に義姉と薪能を見た日より前の彼女と愛し合った時間(その日彼は交通事故にあった)。義姉は博士との子供を失った後悔と、事故後も一人孤独に自分と博士の老いを見つめてきた哀しみの時間。
  一方、家政婦と息子には博士との交流によって、輝くような温かい時間が日々積み重ねられていく。

  もう一つ、忘れてならない「時間」があると思う。「数式」が持っている「永遠」という時間である。 成人したルートは生徒たちに「数はこの世が出現する前からすでに存在し、人間はそのほんの一部をことば(数式)として表現できるに過ぎない」と教える。
 映画の中の「数式」は、絶対不変の「真理」=「永遠」を感じさせる。それは、 「人間の移ろいやすい時間」の対極にあるものとして、神秘的な光を放っている。友愛数、完全数、「オイラーの公式」。みんなすごい存在感だ。

 そして成人したルート。彼は「博士と過した(美しい)時間」を忘れずに数学の教師になった。教室のルートには今、その「20年間抱えてきた美しい時間」が流れているはずだ。(彼はこの難しい役どころを完全に理解し、自然に見事に演じている!)

◆ばらばらな時間を統一するもの
  これらの様々な時間は、映画の中であたかも「陰の主役」のように登場人物を動かしていく。登場人物はそれぞれの時間を抱えて人間関係を模索し、時に誤解したり、衝突したり、様々なドラマを重ねていく。
 
 そのクライマックス。
義姉と家政婦がやりあうシーンで、義姉が「(博士は)私のことは一生忘れないが、あなた達を覚えることは一日たりともできない」というのに対し、家政婦は「わたしに大切なのは、生きて分かる、“この今”なんです」と言う。
 悲しそうに黙って2人の諍いを聞いていた博士が突然立ち上がって言う。「ただあるがままを受け入れ...ひととき、ひとときを生き抜こうと思う」。 そしてテーブルに、一つの数式(永遠の真理)が残される。

 これは様々な解釈が可能な意味深いシーンである。あえて言えば「すべての時間も永遠から見れば一瞬だし、その一瞬がなければあらゆる時間(永遠も)も存在しない。今この瞬間を大事に生きることにこそ意味があるのだ。」ということだろうか。
 このときを境に、ばらばらな時間を引きずっていた登場人物たちが、(美しい)「時間」を共有して生きるようになる。

 それから20年。成人したルートは深い思いを込めて「博士と過ごした時間」を生徒たちに伝える。授業が終わると一人の女生徒が「先生、ありがとうございました!」と言う。
 「博士と過した美しい時間」が時空を越えてまるで波紋のように広がっていく。

◆時間の意味
 ここに出てくる「時間」は見る人によっては「思い出」であり、「愛」であり、また「存在そのもの」かもしれない。監督がこの映画に仏教の禅に通じる思想を取り入れているのは十分考えられるが(何しろ彼が読む本はすごいので)、いろんな解釈があっていいのだろう。(これ以外にも、監督は能の語りやブレイクの詩、それに湖面に映った月などに隠し味を施しているらしい。)
 私としては、できるだけ多くの人がこの上質な映画を見てくれること、そして沢山のリピーターが現れて様々な解釈を巡る話題で盛り上がることを願っている。

(*)
 実は、こうした記憶障害については過去に実例がある。かつて胃潰瘍などの手術後、点滴だけで栄養を補給した患者たちの中に同じような記憶障害が現れて問題になった。その点滴には、記憶を蓄積する脳のある部位を維持するのに欠かせない養分が入ってなかったのだ。
 彼らも博士と同じように、日が変わると何もかも忘れてしまう。毎朝目覚めるたびに自分がどこにいて何者なのかを確かめなければ動き出せない。家中にメモ用紙を張りながら暮らしている。深刻な医療事故である。(このドキュメンタリーについては監督も見ている)