ジェームズ・キャメロン監督の最新作「アバター」を見た。3Dで見ようかとも思ったが、セリフが吹き替えになってしまうのと、あまりにめくるめく映像で年寄りにはちょっと刺激が強すぎるかと思って、普通の映画館でみた。
なぜこの映画を見ようとしたかと言えば、予告編を見てCG映像の進歩に目を見張ったのと、ひょっとすると(あの「201年宇宙の旅」のような)SF映画にふさわしい全く新しい価値観や世界観が込められているかもしれないと期待したからである。
文明人が持つ傲慢さと未開人抹殺の図式
地球から宝石のような希少物質を求めて、人間たちが「パンドラ」という惑星にやってきている。パンドラには未来の人間から見ると未開民族のような異星人(ナヴィ族)住んでいる。人間は彼らを青猿と呼んで蔑(さげす)んでいる。
希少物質が埋蔵されている場所はナヴィ族が聖地と崇める森で、人間は彼らを何とかそこから追い出したいと思っている。異星人の土地を奪う時の人間たちの論理はかつて白人がインディアンたちを追い出したときの論理と変わらず、また、言うこと聞かなければ容赦なく武力に訴えるというのも全く変わらない。
キャメロン監督は地球人たちが異星人を排除する傲慢な論理を、多少の誇張を響かせながら展開している。しかし、それは過去に人間が実際に行ってきた例を凝縮したもので、類型的ではあるが非現実な感じはない。
異星人が自然を崇める感情や彼らが信仰する神を野蛮人のものと馬鹿にする。自分たちが考える合理性(経済の損得)以外の価値観があることを理解しようとしない。自分たちの方が高度な文明を持っているのを疑わず、対等な関係など持ち得ないと思っていて、従わなければ武力で抹殺するしかないと思っている。
キャメロン監督は、先住民を抹殺する時にヨーロッパ人が常用してきた図式を意図的に投影している。まず、様々な餌(条件)をちらつかせて追い出しにかかる。言うことを聞かないと理性のない奴らだと軽蔑する。そして、相手が飲みそうもない条件を突きつけて期限を設けて「交渉」する。そして、期限切れだと言って武力に訴える。これは、アメリカ人が先住民を排除した時も、イラク戦争を始めた時も全く同じ。
異星人(先住民)の文化
一方、ナヴィ族の文化や生き方は、人間の傲慢さの対極にあるものとして描かれている。食べるためにやむなく殺す動物たちへの祈り、森の精霊たちへの思い、動物や植物と交信する感覚、自然界を司っている神への信仰、などなど。ナヴィ族の自然と共生する生き方が描かれている。これらには、自分たちが滅ぼして来た先住民の文化についての研究が下敷きになっているように見える。
その後のストーリー展開については詳しく触れないが、この2つの文化は結局相容れず、アメリカの場合と同じような経緯をたどって、ついには圧倒的な戦闘能力をもつ人間と弓矢の異星人の戦いが始まる。異星人たちは人間たちの高性能兵器によって容赦なく殺されていく。
びっくりする進歩
CG技術を駆使した、その戦いの映像がこの映画の見せ場。それはものすごい。今回は3Dを意識した動きの激しい映像がめくるめく展開する。
戦いのシーンばかりではない。惑星パンドラの奥深い森、そこに住む異形の動植物の営み、引力を超えたような空中の島々。その奥行きのある重層的な映像表現は、まさに想像力と映像表現の見事な一致を見せる。モーションピクチャーなどの様々な技術が駆使されているのだろうが、コンピュータで処理する情報量も膨大だったに違いない。
20年以上も前にアメリカ西海岸でCGの映像祭「シーグラフ」を見に行ったり、当時出来たばかりのピクサー社(シリコンバレー)を訪ねたりしたことがあるが、初期の短編アニメに比べると、はるけくも来つるものかな、という感慨を覚える。日本でもこのような映像表現(3Dも)は可能なものなのだろうか。
新しい世界観は?
その一方、CG映像の斬新さに比べて、期待していたような新しい世界観や価値観には出会えなかった。それがちょっと物足りない。私の方は異質な文化同士が共生できる新たな価値観や、武力を用いずに争いを解決する「全宇宙を統合する完全な善」といった仮想の倫理をキャメロン監督が提示しているかもしれないと期待したのだが。
映画は結局のところ、パンドラの異星人が森の生き物たちの助力も得ながら侵略者たちを撃退する(この辺は「もののけ姫」的でもある)。もちろん異星人を理解する主人公たちのような人間もいて、ともに傲慢な人間たちと戦う。
それも今まで何度も描かれた図式と変わらない。まあ、娯楽作品としては単純で分かりやすくていいのだろうが、物語としての新しさはない。最後に力と力の衝突ではない何か別な世界観の登場を期待していたのだが、なんだ、結局戦争シーンが見せ場かよ、という若干の違和感は残った。
アメリカのインディアン政策
しかしその代わり、この映画は私が最近何かと気になっているテーマに対する関心を刺激した。それは、アメリカが先住民であるインディアンの問題をどのように考えているのかというテーマだ。
アメリカ移住者はありとあらゆる方法を使って、1000万人いたインディアンの95%をせん滅させたというが、その(大虐殺ともいうべき)インディアンの排除は実際どのように行われたのか。それは現代アメリカ人の意識にどのような痕跡を残しているのか。現在のアメリカの先住民政策は(和解を進めている)カナダの先住民政策などとどのように違っているのか。
異質な文化との共生というテーマ
それは、アメリカ人が自分たちと異なる文化にどう向き合うかという問題につながる重要なテーマだ。岸田秀がいうように(「日本がアメリカを赦す日」)、アメリカの対外政策がこのトラウマを引きずっているとすれば、そのことをいつか調べてみたいと思う。
キャメロン監督の映画を見る限り、一部のアメリカ知識人は(先住民文化に対するように)異質な文化に対する認識を深めて来てはいるが、一方で認識の限界も示している。戦争の論理を超える「和解の方程式」を、まだ発見していないように見えるからだ。
異質な文化とどう付き合うかという問題は、いまや(アメリカや中国といった「超大国」と付き合わなければならない世界にとって)地球規模の大きなテーマにもなっているのだが、これについては、調べた上で別途書くべきかもしれない。
|