「風」の日めくり

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2008年12月31日(水)
バブル時代の麻薬

 理不尽にも何の罪もない庶民を直撃している世界同時不況については、素人のそしりを恐れずに(義憤にかられて)しつこく続きを書くつもり。
 いま書店に行くと今回の金融危機をテーマにした様々な出版物が並んでいる。それらに色々目を通したが、サブプライムローンに端を発する今回の世界同時不況の原因は、「資本主義の暴走」、「癌化した資本主義」、「カジノ資本主義」などと指摘される「行き過ぎた金融資本主義」が原因だというのが今や定説のようになっている。

 しかし、アメリカの金融政策を進めてきた本家のグリーンスパン元FRB(アメリカの中央銀行)議長がさすがに失敗を認めたのに対し、その尻馬に乗って日本の「金融の自由化」や「規制緩和の構造改革」を進めてきた政治家(橋本、小泉)や経営者(宮脇オリックス会長)、エコノミスト(竹中平蔵)たちは、皆が口をつぐんで黙っている。これもいずれはっきり決着をつけなければならない政治的、経済的テーマに違いない。(元旦のNスペで天敵同士の金子勝と竹中平蔵が議論していたがこれについては、しっかり見直してから別途書きたい。)

金が金を生む金融資本主義
 この20年ほどの間に米英が進めた「金融の自由化」とは、ようするに投機の対象を増やすと同時に、資本家がうるさい規制を受けずに自由に金儲けが出来る仕組みを作ったこと。それによって金が金を生む仕組みを世界に広げてきた
 例えば、為替相場の変動を投機の対象とする為替取引の自由化、様々なリスクを何でも投機の対象にした金融商品(デリバティブ)の開発、少ない資金をもとに何倍もの資金を動かせるレバレッジ(てこ)の仕組み、銀行と証券会社の垣根を取り払ってうるさい監視の目が届かない投機に銀行も乗り出せるようにしたこと(陰の銀行)、などなどである。90年代以降、アメリカに習って日本もこの「金融の自由化」に追随した。

 しかし、このことで何が起こったかと言えば、実体経済が必要とする資金の何十倍もの金(一日に100兆円という)が投機の対象を求めてさ迷い歩くと言う、「世界的な金余り状態」である。それが次々にバブルを作りバブルを食いつぶす。
 実体経済からかけ離れたマネーゲームが住宅ブームのような虚構の実体経済を作り出し一気に破綻すると、今度は実体経済も崩壊する。前回、バブル崩壊から世界同時不況、円高までは一本道と書いたが、最近のバブル崩壊は金融市場と実体経済の収縮とが同時に起こる非常に怖い様相を呈していると言う(「閉塞経済」金子勝)。
 まるで、それまでの好調な歯車が一気に逆回転をし始めるような悪循環が始まる。今回のサブプライムローンでの例で見てみると。

世界同時不況への一本道
 まず、バブル崩壊によってサブプライムローン関連の様々な金融商品(金融デリバティブ)が値崩れした結果、普通ならそれと関連するとも思えないような金融商品まで値崩れが始まった。サブプライムローンが薄くスライスされて他の多くの証券と混ぜ合わされてきたので、どこまで損失が膨らむのか誰も分からず信用不安が一気に増大したからである。

 世界のファンドマネージャー(運用者)たちは、金融機関から運用のために預かっていた資金のほかにも、その資金をもとに何倍もの借金をして投機を行っていたために膨大な借金の返済を迫られることになった。この借金を返すために、彼らが手持ちの金目のもの(株、証券ほか)すべてを売り急いだために世界的な株安になり、これが株を持っていた銀行の自己資本比率や企業の資産評価を下げることになった。
 銀行の方では自己資本比率を上げるために、企業などに貸していた金を引き剥がしたり、貸し渋りしたりを始める。こうして、世の中が急激に金詰りになり実体経済にも大きく響いてくる。
 金融と実体の両方が絡んだ世界同時不況への一本道である。さらにこれが進むと、住宅ローン以外の各種ローンにも信用不安が広がるなどして、モノの需要が減少して生産も縮小するといった悪循環が加速する。

円高不況
 一方、この間の円高には2つの理由があるようだ。一つは、これまで日本がゼロ金利政策(金融緩和政策)を続けていたために、投機家たちは金利の安い円を借金して利ざやの大きい為替相場や金融商品に投資していた(円キャリー)こと。しかし、この金融危機で借金の返済を迫られた世界の投機家が返済用に多額の円を買ったために円が急騰したのだという。
 もう一つは、ごく最近、アメリカがドルの金利を下げたためにドルを売る動きがでて円が上がったこと。従って、この円高はアメリカ経済が破綻してドルが滅茶苦茶にならない限り、この先はそう急激に進むことはないだろう。
 いずれにしても、90年代のバブル崩壊から始まった日本のゼロ金利政策は、世界の金融危機の引き金になった「金余り状態」に一役かうと同時に、結果として円高を招いて日本の輸出産業の首を絞めるもとにもなっている。

繰り返されるバブルの悪夢
 実体経済から離れてマネーゲームをやっていた金融資本主義が実体経済に打撃を与え、絡み合って奈落の底に落ちていく。歯車の逆回転が始まっているわけだが、これを止めるにはどうしたらいいのだろうか。
 困ったことに、先の「閉塞経済」ほかの本を読むと、今各国で国際協調的に取られている金融緩和や財政出動などの応急処置は、再びバブルのタネを蒔いているようなものだ、というのである。
 バブルの崩壊→金融緩和と財政出動→金余り状態→バブルの発生→バブルの崩壊。「金融の自由化」が進んだ現代では、このバブル現象がますます世界規模になり、サイクルの時間も短くなって来ているという。

 現在、各国の中央銀行は金融危機で金詰りになった金融機関をすくう為に国の資金をつぎ込むと同時に、金利を下げる金融緩和策を取っている。そうすることによって、資金を必要とする企業にもお金が回り、低迷している株式市場にも投資が回るようにとの狙いからだ。
 しかし、一時はそれで資金不足が解消されるかもしれないが、金融資本主義の仕組みを放置したままだと、すぐにその資金がマネーゲームに使われて再び世界に「金余り状態」を作り出す。応急処置としての財政出動は、バブルの慢性病を一時緩和する麻薬(カンフル剤)のようなものだと言うのである。

どうすればいいのか
 こう見てくると今回の経済危機を教訓に、私たちは景気対策にどのような知恵を絞るべきかが少しは見えてくる。
 一つは、応急処置としての財政出動と金融市場の規制をワンセットに考えると言うこと。もう一つは、雇用対策など社会のセーフティーネットの修理と将来の成長産業と内需産業への投資を同時に考えること。そのためにはこの国をどういう国にしたいのかという、明確な「国のグランドデザイン」を持たなければならない。
 これらについては、情けないことに日本の政治は混迷を深めていて、一時的なその場しのぎ対策しか考えられていないし、世界に対しても何らの役割も果たせていない。この点については、日本の政治とも深く関係してくるので次回に廻したい。(取ってつけたようで申し訳ないが、「皆様、良いお年を!」)

2008年12月14日(日)
不況が長引くわけ

 世界の不況は大方の予想通り、ますます深刻な様相を見せ始めている。今回の金融危機で世界経済が受けた傷の深さに比べると、日本政府が考える財政出動やアメリカの自動車会社救済などは目の前の大出血に絆創膏を張る程度の応急処置に過ぎないように思える。

 この不況はいつまで続くのか。この不況から脱するためには何をすればいいのか。また私たち市民の方は今回の不況に一体どういう覚悟でのぞむべきなのか。
 こうした疑問にこたえる手掛かりを探ろうとするのだが、目の前の動きがあまりに急すぎて浮き足立ってしまう。政府の対応だって的を得ているのかどうかあやしいものだ。
 こういう時は円高や株安のニュースに一喜一憂せずに、まず出発点に戻って今回の危機の本質を直視する必要があると思う。というわけで今回もおさらいになるが、「アメリカの住宅バブル崩壊がなぜ世界同時不況につながったのか」、「世界の不況はなぜ長引くのか」と言う点について情報を整理しておきたい。

住宅関連金融証券バブルの発生
 ご存知のように、今回の金融危機はアメリカの大手住宅ローン会社が、低所得者層向けに貸し付けた住宅ローン(サブプライムローンという債権)を様々な金融商品(社債や住宅関連証券など)に仕立てて世界中に売り出したことから始まった。

 その金融商品はアメリカの住宅ブームのお陰で実際にはリスクがあるのにリスクが見えなくなり、市場では確実な利益を生む金融商品として人気を呼んだ(そこにいわゆる金融工学も寄与したらしいが)。また、住宅関連証券は単体のものだけでなく、細かく切り分けられて消費者ローンや自動車ローン、中小企業ローンなど他の金融商品にも組み込まれて売られたために、サブプライムローンに関連した金融商品(金融派生商品=デリバティブ)の規模はアメリカの住宅バブルをはるかに越えたものに膨らんでいった。
 住宅関連証券の市場に多くの資金運用者(ファンドマネージャー)が値上がりを求めてマネーゲームを行う、一種の証券バブル状態となって行ったわけで、中には莫大な国家資金をファンドマネージャーに預けて儲けようとしたアイスランドのような国まで現れた。

資本主義が作る新手のバブル
 その一方で、アメリカの住宅ローン会社は証券を売って早くに資金を回収、世界から吸い上げたその金をさらに多くの貧困層に貸付けて住宅をどんどん作らせた。本当ならローンを返す当てのない貧困層まで借金して住宅買いに走ったために、アメリカは住宅ブームとなり住宅は値上がりを続けた。いわば意図的効率的に膨張を仕組まれた新手のバブルの発生である。

 そもそも経済的なバブルとは、対象は何でもいい。そこに次々と資金が投入される結果、モノが値上がりし続けると同時に、いつでも転売、現金化が可能で、売った時に簡単に値上がり分を儲けることが出来ると思われたときに発生する。(「すべての経済はバブルに通じる」
 ひと頃の日本の土地や住宅もそうだったが、値上がりが続いていつでも転売できるとわかれば、仮にローンが返せなくなっても買った時以上の値段で売れるのだから、皆が気楽に借金して土地や住宅を買う。

 皆が争ってモノを買うようになるとモノの価格はさらに高騰し、売ったときに(買った時との差で)利益が期待できるようになる。そこに金儲け目当ての投資家も参加して、土地ころがしや住宅ころがしをしながらマネーゲームに走る。そうなると、そのモノの市場は巨大な泡(バブル)のように膨らんでいく。
 現代のマネーゲーム資本主義は、このバブルが膨らむスピードをより増大させて来ている。

バブルの崩壊と金融危機
 しかし、このバブルはいつまでも続かない。アメリカ国内に需要を限っている限り、やがて必ず需要は止まって価格上昇は止まる。そうするとバブルを維持してきたメカニズムが破綻してローンを返せなくなる人たちが続出する。
 絶対にローンを返せない層までをも巻き込んだアメリカの住宅バブルはまさにこの道筋を突き進み破裂した。住宅バブルが終わると、当然のことながら住宅関連証券にも波及する。隠れていたリスクが顕在化し、信用不安が起きて一気に値下がりする。住宅関連金融商品のバブルの崩壊である。

 世界中から資金を預かって運用していたファンド運用者たちはサブプライム関連証券の値崩れによって莫大な損害をこうむることになった。いわゆる「資本主義の暴走」というテーマは次の機会に廻すが、彼らは預かった資金のほかにも、その資金をもとにさらに莫大な借金をして(それを可能にした仕組みがレバレッジと言うらしい)運用していたために巨額の損害を抱えることになった。

巨額の損害を抱えたファンドマネージャー
 ファンドマネージャーたちは、サブプライムローン関連証券が危ないということには、黄色信号が点り始めた昨年の夏くらいから気づいていたという。しかし、危険なマネーゲームと知りつつ、最後の最後までゲームを続けて皆で傷を深くした。
 彼らは、資金を預かった政府系ファンドや銀行、年金基金、国家などのお堅い基金から常に少しでも高い利益を上げるよう競争を強いられていたために、破綻のぎりぎりまで利益があったこのゲームから誰も最初に降りることが出来なかったのだという。
 近年のマネーゲーム資本主義の登場によって資本家と資金運用者が分離した結果というが、これも現代の資本主義が抱える病理の一つなのかもしれない。

問題は損害の大きさ
 住宅バブルの崩壊→金融商品の値崩れ→金融危機→株安。そして世界同時不況までは一本道である。円高もその道筋の一つだが、それついては次回に譲るとして、問題は今回の金融危機で世界が抱えた損害の大きさである。

 本当はもっと正確に知りたいところだが、今回の金融危機でファンドマネージャーたちの世界はどうも戦争直後のような焼け野原状態らしい。手持ちの金目のもの(株や証券)を売り払っても借金が返せず次々と経営破綻し、マネーゲームの担い手が無一文になって職を離れている。
 ファンドマネージャーたちは衝撃の大きさから立ち直れず、新たに株式投資やバブルの目のありそうなものに投資しようという資金もない。株安や金融商品の値崩れで世界が失った金はおそらく2,3千兆円(世界の株だけで2000兆円消失したので、他の金融商品の下落などを入れるとそれ以上になる)にもなるだろう。

 世界の金融機関は凍りついたようになっていて、投資に回らない。こういうことを考えると、この不況は出口が見えないくらい長く続きそうな気がするし、日本の政府の打つ手もピントがずれているように思えてならない。
 では、どうすればいいのか。そのことについては長くなったので次回に。

2008年11月23日(日)
時代のマグマが動く

 世界的な金融危機と不況について引き続き情報の整理をして行きたいと思っているが、なかなか本編に進まない。というのも前回の「癌化した資本主義」の続きとして、「金融資本主義の病理」について書きたいのだが、「サブプライムローンに見るバブルの実体」、「住宅バブルを膨らませた金融商品のからくり」、「資本家と運用者(頭脳)の役割分離がもたらしたギャンブル」、「バブル崩壊から世界同時不況(株安、円高、不況)へのシナリオ」といった内容を2ページ程度に分かりやすくまとめるというのが意外に難しい。情けない。

 何しろアメリカが推し進めた市場原理主義(新自由主義、グローバリズム)の金融政策が世界で一日あたり100兆円もの巨額な投機マネーを生み出し、そのマネーゲームの果てに引き起こされた金融危機のために世界中の一般市民が苦しんでいるという理不尽な現実(これからもっと大変になる)がある。
 この現実を前にして、私たち市民は世界の首脳たちが集まって対策を協議したり、景気対策を巡って迷走したりしているのをただ遠巻きに眺めているしかないのだろうか。どうもそこのところが気にいらない。

世界はそれを正せるか
 先の主要20カ国・地域緊急首脳会合 (金融サミットG20)では、来年の4月ロンドンで、今回の金融危機に対する具体策について議論することになったが、多極化に向かう世界の中で誰が指導権を握るかも絡んで活発な駆け引きが始まっている。

 この期に及んでも市場の規制に抵抗を示すアメリカ(ブッシュ)に対して、新しく主導権を握ろうとしているフランス(サルコジ)やイギリス(ブラウン)、それに中国(胡錦濤)やロシア(メドベージェフ)、インド、ブラジルといった新興国。さらには、1月に登場するオバマ新大統領がどういう考え方を示すのか。
 世界が注目する中にあって日本(麻生)は「我こそ、公的資金投入による金融危機克服の先輩だから世界をリードする」などと胸を張って能天気にIMFに10兆円も差し出してみたが、世界の関心はすでに市場への監視策に移っていて哀しいくらい影が薄かったそうだ。

最良の方策を求めて
 この先世界はこの資本主義の暴走(行き過ぎた市場主義)をどうコントロールするのか。時間との競争の中で、世界が本当に最良の方策を取れるかどうか。
 まあ、難しい経済対策などは専門家に任せておけばいいという考えもあるが、この未曾有の世界同時不況に際して「市民の立場から見て何が望ましいのか」を考えていく視点もあるのではないか。
 というわけで冒頭に上げたような「金融資本主義の病理」についての理解を深めながら、何とか「市民の立場で」時代のゆくえに関心を持ち続けることにしたいと思う。

 そういう意味では、従来のように市場が人間を支配するのに任せるのではなく、また反対に国が市場を計画し支配するのでもない、第三の道、すなわち人間が市場を使いこなす道を探っている内橋克人の著作(「悪夢のサイクル」)なども参考になる。どうも世界では資本主義の新たな姿を探して様々な模索が始まっているようにも思える。

賞味期限切れの自民党
 それにしても、経済対策で右往左往している今の麻生政権を見ていると、本当に今回の経済危機の本質が分かっているのかと心配になる。このままでは、麻生政権は来春までも持つのかどうか。完全な死に体内閣になって総辞職による自爆的な解散に追い込まれるか、またぞろ首の挿げ替え(今度は直後に解散だろうが)しかないのではないか。

 今月の文春には「麻生総理と瓦解する自民党」(野中尚人)の論文が載っているが、最近の無能力ぶりを見ているとこの論文でさえ手ぬるい感じ。「金を全国にばら撒く自民党システム」、「二世議員と官僚政治家の集まり」、「既成の利益集団だけとのぬるま湯体質」、「政権維持だけが目的になっている」などなど、自民党は国民にとってとっくの昔に賞味期限が切れてしまっているのに、本人たちだけが気がつかない。
 世界的な同時不況を前にしてこれも日本の不幸の一つだが、この問題も整理しておく必要がある。何だか、時代のマグマが激しく動いていて追いつかない

2008年11月16日(日)
癌(がん)化した資本主義

 今回の金融危機では日本のJAバンクや大手銀行、或いは年金や政府系ファンドなど、結構お硬い金融機関が何兆円ものサブプライム関連証券を抱えて傷を深くした。前回、「サブプライムローンが危ないと分かった段階でなぜ早く手を打たなかったのか不思議で仕方がない」などと書いたが、その後いろいろ読んだりしているとことはそう単純なものではないということも分かってきた。

100年に一度の歴史的出来事
 むしろ今回の金融危機の本質は、21世紀の資本主義が誰も制御できない危険な怪物になってしまったことにあるらしい。ところが、現在の資本主義がどのような問題点を抱えているのか、その実体を理解するのは私のような素人にはものすごく難しい。
 ただ、問題の本質の「影」ぐらいは知っておく必要があるとは思うし、こういう問題に対して、私たち一般市民はどういう参加の仕方(意見の持ち方)ができるのか、ということも考えていく必要はあると思う。

 なぜなら、自分らの関知しないところで起きている資本主義の変化が、巨大資本のマネーゲーム(ギャンブル)をもたらし、結局のところ不況や失業と言った形で自分たちの生活に多大な影響を及ぼしてくるわけだし、これから先、G20で議論しているような世界の対策や、2兆円のばら撒きとか株に投資を引き込むための優遇策といった日本政府が取ろうとしている対策にもつながってくるのだから。

 難しすぎて時間がかかっているけれど、何しろ100年に一度という歴史的出来事を目の前にしているのだし、これから何年も影響が続くと言うことだから諦めずにゆっくりと考えていこうと思う。

まず、病気の根本原因について
 しかしそうは言っても、この金融危機、株安、円高の3点セットから来る世界同時不況に対してどういう対策を取ればいいのか、などということについてはちょっと無理。大体、今月の文春記事「世界同時不況・日本は甦るか(未曾有の経済危機の核心を7人のエキスパートが論じつくす)」を読んでも、皆いうことがバラバラで何が何だか分からない。
 金利を下げるのがいいのか、円高を是正するのがいいのか、専門家だって意見が分かれている。同時に発生した症状の様々な重病人たちにたいして医者がよってたかって「薬を飲ませたほうがいい」、「いや即効性の注射がいい」、「いや栄養のある食べ物でじっくり」、「むしろ部屋を暖かくするのが大事」などと言い合っている感じ。

 そんなことより素人の私には、まず何故何人もの重病人が同時に発生したのか、その根本原因は何なのか、を知りたいと思うのだが。一時的な風邪のようなものなのか、対症療法では根治で出来ない癌のようなものなのか。
 そういうわけで今回の金融危機の原因について明快に教えてくれるものがなかなか見当たらない中、読んでちょっと「目からうろこ」の本に出会った。「すべての経済はバブルに通じる」(小幡績)という新書本である。

すべての経済はバブルに通じる
 この本は、今回の金融危機を「21世紀型の新種のバブルの生成と崩壊」と意味づける一方で、それをもたらした現在の資本主義の変化を「癌化した資本主義」と名づけている。
 アメリカで進化した(金融)資本主義は、人間が作り出した増殖するためのメカニズムの元で今や大国のGDPの何倍もの巨額の金融資本を生み出している。その巨額な資本が増殖の場所(バブルの対象)を求めて世界中をさまよっている。

 アメリカの住宅バブルはたまたまその増殖の現場の一つであり、増殖した癌ががその臓器を食い尽くして死滅するように一挙にバブルが崩壊したのだという。
 巨大に膨らんだ(金融)資本主義は、宿命的にバブルを求めるし、バブルを作り出しさえする。これは文明史的にも歴史的にも明快で興味深い話だった。

 「バブルを作り、維持するための精緻に仕組まれた金融商品」、「利益率の高いファンドマネージャーに固い大口資本が金を預けた(役割の分離)」、「ファンドマネージャーたちも巨額の借金をして売買に参加、競争を強いられていた」
 そんな中で、誰も金融商品がどのようなリスクを実際に抱えているのか現実を見なくなっていた。そして数々の危険信号が点った後は、「アメリカの住宅ローン関連の証券市場がいつか破綻すると皆が分かっているのに投資をやめることが出来ない状況になっていた」などなど。
 その上で、著者はそういう状況を生み出した資本主義の変質に触れていく。

資本主義の変貌
 著者はバブルの生成と崩壊のメカニズムについては、殆どの経済専門家も誤りを犯していると断言しているくらいだから、素人の私なども多分いろいろ誤解しているに違いない。ただ、「この問題の本質は“そもそも資本主義とは何か”というところに直結する」と著者が言うとおり、この本は今迄全く考えてこなかったテーマに目を開かせてくれたと言うこともできる。

 「うーん、なるほど。金儲けしたい人々が勝手に制度をいじくっていたと思っていた資本主義も、(その資本家たちをも滅ぼすような)厄介な段階に差し掛かっているんだなあ」。
 そういう風に問題をとらえれば、G20の世界会議や日本での景気対策がどの位ピントがあっているのか、ピンとはずれなのか見えてくるようにも思う。難しすぎて手に負えない感じもするが、とりあえず、(前置きばかりが長くて申し訳ないけど)素人の私が理解できた範囲で引き続き情報を整理していきたい。

2008年10月27日(月)
アメリカ発の世界不況

 いやはや、このところのマスコミは世界的な株安と円高、そして不景気の話ばかり。恐慌前夜の様相に日本全体、いや世界全体が浮き足立っているようにさえ感じる。
 今回の世界同時不況は「100年に一度の大津波(グリーンスパン)」というが、むしろこれは大きなダムの決壊のようなもので(決壊する前に何故手を打たなかったかが不思議だが、決壊した後では)いくら世界の首脳が集まって対策を取ろうとしてもしばらくはダメかもしれない。

 月刊文春11月号の中の「恐慌前夜・ドル崩落が日本を襲う」によれば、サブプライムローンに端を発した経済危機はまだ始まったばかりだという。というわけで今回は(おさらいの意味で)まず、その危機の実態から始めたい。

巨額の不動産バブル崩壊
 アメリカ政府は9月にサブプライムローンの引き受け手で巨額の損失を計上した住宅ローン保証会社2社(フレディマック、ファニーメイ)に対して総額21兆円を投入して実質的に国有化したが、そんな程度では危機は治まらないらしい。
 住宅ローン保障会社2社のローン残高は540兆円もあるからだ。これは日本のGDP(560兆円)にも匹敵する額である。

 さらに驚くのは、全米の住宅ローン残高はこの2社のを含めて1200兆円にもなるということ。これまでアメリカ経済を牽引してきた住宅産業の大きさを物語る数字だが、そのローン回収にも危険信号が点り始めているらしい。
 不景気でローンが返せない人々が増えている上に、不動産バブルがはじけて住宅が軒並み値下がりして転売しようにも出来ないからだ。特に貧困層を相手にしたサブプライムローンが債務者の破綻によって次々と回収不能に陥っている。

世界に拡大するアメリカ発リスク
 問題はその影響がアメリカ国内に止まらないと言うこと。主にサブプライムローンを保障してきた2社の社債や証券が金融商品となって世界中にばら撒かれていて、その額がなんと160兆円
 中国や中東の保有額も大きいが、日本も民間(JAバンクなど)、政府(財務省や日銀)合わせて13.5兆円も持っている。日本の国家予算は83兆円だが、億でもピンと来ないのに、兆という巨額な単位の金が紙くずになるかもしれないという不安が世界のあちこちで発生している。

 さらに2社が発行した社債や証券だけでなく、それらを細切れにして組み込んだ多様な金融商品(その総額がいくらになるかは誰も分からない)も売られており、それらが信用不安から一挙に値崩れし始めて世界的な金融危機を引き起こしている。
 この一ヶ月ほどの金融危機と株安の影響で世界では2000兆円以上(現在ではもっと大きい)のお金が消えてしまった計算になると言う。

起きて初めて分かった?
 不思議なことにそんな危うい社債や証券が一頃までは米国債と並んで最も信用の高い利回りの確実な金融商品と考えられていたのだという。起きてしまってから分かったことだが、2社はかつて政府関係機関だったが、2,30年も前に株式を上場して政府保証などの義務はない株式会社になっていたのだと言う。
 今回はアメリカ政府が21兆円を投入して救済を決めたから少しは良かったものの、これで無事に済むかどうかは分からない。

 こんな初歩的なことを知っていればもっと早く、日本でもサブプライム問題がささやかれ始めた去年の段階で手放すべきだったと思うが、頭のいい人たちの集団が、後手に回って被害を大きくしてしまったのが不思議で仕方がない。

アメリカに対する信用不安
 さらにもう一つ大きな問題がある。それはアメリカが財政破綻して、アメリカが発行してきた膨大な米国債が値下がりしたり(極端な場合)紙くずになったりするという不安だという。
 というのも、今後アメリカ政府にのしかかろうとしている財政負担はちょっと想像つかないくらい巨額なものになりそうだからだ。まず、一連の金融危機でアメリカが既に支出を決めた財政出動は191兆円に上るが、これはアメリカのGDPの13%、国家予算の62%にも達する巨額なものである。

 すでにアメリカはイラク戦争で財政が悪化している上に、これから先さらなる財政投入の資金調達のために米国債を発行しても世界が買ってくれるかどうか。国債の発行ができなければ財政破綻だってありうる。
 すでに市場では米国債に対する信用が落ちてきているというが、米国債の値崩れが現実の不安になって来ている。

 困ったことに米国債を世界で一番保有しているのが日本(57兆円)、ついで中国(45兆円)。ヨーロッパは米国債を手放し続けていると言うが、皆が米国債を手放したらそれこそアメリカは破綻する。
 アメリカが破綻したら世界経済は崩壊する。そこで国としてはアメリカと心中するのか、アメリカと距離を置くのか、各国とも微妙な選択を迫られているらしい。

アメリカ型繁栄の終り
 ことほどさように、アメリカという巨大な虚構(バブル)が砕け始めた衝撃を受け止めることはそう簡単ではない。すでに先進国、新興国を問わず、金融危機が実体経済にも影響して深刻な景気後退に見舞われている。
 この先世界と日本がどうなるのか。円高や株安、そして不況がどこまで進むのか。アメリカ発の経済危機が短期的に世界にどのような影響を及ぼすのかは、色んな説が乱れ飛んでいて良く分からない。しかし、長期的にはキーポイントははっきりしている。

 それは、ここ何十年も世界経済を牽引してきたアメリカの役割が低下せざるを得ないとうこと。特にアメリカ経済の大きな部分を担って来た(虚構ともいうべき)アメリカ型金融システムとアメリカ型消費構造は間違いなく終りを告げるということである。
 そして、この先の世界を考えるにはこのことの意味を充分踏まえて考える必要があるということである。これについては次回。

2008年10月26日(日)
世界で何が起きているか

 つい半年前には、まだまだ対岸の火事のように話されていた、アメリカのサブプライムローン問題だが、その深刻な影響が世界中に現れ始めた。アメリカや(サブプライムローンをまぶした様々な証券を大量に引き受けていた)ヨーロッパの金融危機、世界同時株安、ドルとユーロの値下がり、そして円高、その影響は輸出主産業や観光などのいわゆる日本の実体経済にも深刻な影響を及ぼし始めているという。

100年に一度の大変化
 あまりに動きが急激で、我々市民には何のことやらさっぱりだが、あれよあれよと言う間に世界は同時不況の様相を呈してきて、その上、様々に飛び交う情報によれば、これはほんの序幕に過ぎないと言う。
 現在進行中の経済危機は「100年に一度の大津波のようなもの(グリーンスパン)」であり、世界がこれを乗り切れるかどうか、経済新興国の中国もインドも頼りにするにはまだ力不足で、少なくとも向こう10年は世界的な不況が続くかもしれないなどという情報もある。

 欧米各国ともパニック気味に巨額な国家財政をつぎ込んで中核の金融機関を救う対策を打ち出しているが、金融機関の体力は一時辛うじて出血を止めることは出来ても、とても実体経済にお金を回すという金融本来の機能を果たすには程遠いものになってしまっているらしい。そのために製造、サービスなどの実体経済の先行きにも不安が重なって世界的な株安がさらに進行している。

 そして日本。政治は総選挙への突入モードだったが、思うように上がらない支持率を見て麻生首相の腰が引けて急にあいまいになってきた。日本にも経済危機の影響は押し寄せて来るのだろうが、緊急の景気対策と称してばら撒かれている国の金は本当に日本の活力につながる有効なものなのだろうか。
 むしろ目の前の景気対策を口実に総選挙を先送りにして日本の抱える構造的な制度疲労を放置しておくことの方が日本の将来にとってマイナスになるのではないだろうか。マニフェストを示して国民の信を問うという大きな宿題を片付けないと本格的な政治などは出来ないと思うのだが。

本質的な変化とは?
 何はともあれ、今アメリカで起きていること、世界に起きようとしていること、そして日本への影響、さらには日本が独自に抱える宿題との関連、などなどについてもっと知らないといけないと思って、テレビ番組、新聞雑誌、インターネットの各種のコラムを見ているうちに、感じたことがある。
 それは、(株も持たない)我々庶民は株安や円高などの日々の情報に振り回されるより、明日の日本(と世界)がどうなるかのほうが大事な問題。そのためにも今世界で何が起きているのか、その背景にあるもっと本質的、根本的な変化を知っておく必要があるのではないかということ。
 「いったい世界には何が起ころうとしているのか。世界はいま何を経験しようとしているのか。日本は大丈夫なのか。」といった疑問の答えを探ることである。

 もちろん自分の乏しい知識で考えるだけでは到底無理というもの。そこで雑誌の記事やインターネットの幾つかのコラムを参考に、自分なりに情報を整理した「仮説」をこれから数回にわたって書きとめておきたい。
 仮説なので当たるも八卦、当たらぬも八卦。ただ、こうした仮説を踏まえていれば、少なくとも100年に一度と言う大変化をある種の心構えをもって、長期的な視点で見るということにつながってくると思う。

 と前書きが長くなったが、今回はこれまで。次回は「アメリカという虚構が崩れたことによる衝撃」、またその根底にある「世界は資本主義の暴走をコントロールできるか」といった問題について情報を整理してみたい。
 そしてその次に、「日本は大丈夫か、何をすればいいのか」、「今回の経済危機と日本の構造的な問題の関係」について整理してみたい。できるかなあ。

2008年10月16日(木)
絵の物語

 画家はどんなことを考えながら(飽きずに)絵を描き続けるのだろうか?もちろん純粋に絵の技巧的な上達を目指して頑張るという面もあるだろう。しかし一方、それとは別のもっと人間くさい物語(思い)を持ちながら絵の工夫を重ねていくようなこともあるのではないだろうか。
 「画家を突き動かしているのは一体何なのだろうか?」前回に続いて「絵NO.21」の話なのだが、こんな素朴な疑問にかこつけて書いてみたい。

ピカソ展
 月初め、ピカソ展を見に行って彼の「青の時代」の代表作である「自画像」「ラ・セレスティーナ」を間近に見ることが出来た。19歳の時に友人とパリに出てきた直後に友人が自殺、友人の死のポートレート「カザジェマスの死」を書いたころからピカソの「青の時代」は始まっている。
 友人の死がもたらした衝撃の大きさを物語るような
沈うつな青。この青にはピカソの悲しみや不条理への怒りと言った人間くさい思い(情念)が秘められているようにも見える。
 その一つ、深い青のグラデーションで描いた自画像は静かだが、一種動かしがたい実在感を漂わせている。画家が着ているコートの殆ど黒に近い青と背景の灰色がかった青のコントラスト。その中で僅かに唇のピンクとひげの茶色だけが青を脱していて、画家の顔に見る者の視線を集中させる。この絵の硬質な美しさからは、様々な形の実験を通して絵の概念を破壊しつくした後(のち)のピカソは想像できない。(ピカソ「自画像」)

ストーリーで絵を描く?
 それはともかくとして。その「ピカソの青」を見ているうちに、自分の絵の中にもこの青を使ってみたい気持ちが起きてきた。そこで家に帰るとさっそく、深く考えもせずに手近にある「絵のNO.21」の曲線を青に塗りなおしてみた。
 
 すると、(浅はかにも)塗ってみて分かったのだが「ピカソの青」は強烈過ぎた。強烈な分、前の絵のようなあっさりしたデザインぽい絵より、何故か情念のようなものが現れてきたような気もするのだが、曲線の青はいかにもうるさく重苦しい。
 それはクレーの色を閉じ込めている「牢獄の格子」のようにも見えて来た。ピカソの青にクレーの色が負けそう。やはり失敗だったか?

 


そのとき突然、 (大学紛争時代によく聞いたせりふのような)絵を描くこととはおよそ関係のない文脈が頭の中に浮かんだのが我ながらおかしい。
「パウル・クレーの色を開放するぞ!」

 というわけで、青の格子の一部を白で塗りつぶして牢獄を開放していく。






 さらに、そのあとをクレーの色彩で塗って、クレーの色彩の領地を増やしていく。ピカソの青の格子とクレーの色彩のバランスをどこで取るのか、いろいろやってみて決着したのが、「絵NO.21の修正版」
 これだと(絵として成功しているかどうかは別として、自分の感覚では)ピカソとクレーは引き分けに持ち込んでいるように見える。
(近々MYギャラリーに2つの絵を並べてみます)



絵に表れる情念と言うもの

 こんな馬鹿げたストーリーで絵を描くのは邪道のような気もするし、ピカソとクレーのような天才たちにも失礼な話だが、まあ、素人が絵を描くモチベーションを持続していくのはなかなか大変なこと。笑って許してもらいたいと思う。
 しかし、一方で(もちろんこんな低俗なものではないにせよ)案外、天才画家たちもそれぞれの「絵の物語(ストーリー)」を持って描いていたのではないかなどとも思えてきた。岡本太郎だって結構言葉で情念を語る画家だったし、ゴーギャンだって「我々はどこから来てどこへいくのか」といった物語を絵に込めて独特の世界を開拓したともいえるのだから。
 そしてピカソもそう。展覧会を見て感じたのは、ピカソの絵に表れている(言葉にならない)情念の強さである。どんな奇抜な形を描いていても、そこには単なるデザイン以上の強烈な情念があふれている。
 その情念が果たして気持ちのよいものかどうかは意見が分かれるところだろうが、絵である以上、(素人の描く絵においても)きれいなだけではない何かしらの情念と言うものが少しは必要なのかもしれない、ということも感じた。これが当たっているのかどうかは分からない。もう少し試してみようと思う。

2008年9月28日(日)
パウル・クレー賛歌

 いつものようにでたらめな曲線を引いてその間にうまく空間を作り、その空間を何で埋めようかと考えていた。(これがそもそもの出発点)
 その時ふと、息子から色の勉強をするようにとパウル・クレーの画集を貰ったので、ならばその色使いを取り込んで見ようかと思いついた。空間を細かい四角で区切ってクレーの絵を見ながら色をつけていった。
 と言ってもクレーの配色は独特でなかなか思うような色が出ないのだが、アップした絵NO.21はいわば「パウル・クレーへのオマージュ(賛歌)」というつもり。

 クレーはもちろん今回の絵のように四角に区切って色を乗せているわけではない。でも画集を見ながら描いてみると「なるほどなあ。こんな使い方もあるのか」と言うような素敵な色の使い方をしているのが良く分かる。

 結果はまあ、似て非なるもではあるが、それでも多少は色の使い方を勉強したことになるのだろう。それぞれの区分をそれぞれ違う絵から配色を抜き出して描いた後、全体に違和感がないように配色を手直し。(その途中経過)



 西洋の美術館などに行くと画学生たちが、よく有名画家の絵を模写しているのを見かける。あれも収穫の多い勉強に違いないなどと今回初めて思った。
 ただし、これを今の自分がやるかどうかとなると別問題。有名画家たちの絵といえばもう限りなく精密で、模写するにも気が遠くなるような時間もかかるだろうし技術もいるだろう。こちらの絵は全くの手遊びなのでそんな熱意も気力もない気がする。

 歳を取ってからでも何かに挑戦する人たちがいることはかねがね素晴らしいと思ってはいるが、絵もそうだが、そもそもこの歳で、自分が何か新たなことを勉強するなどということが想像できない。
 単なる怠惰なのだろうが、どこかでもうそんな時間はないような気もしている。(本当はそんなこともないと思うのだけれど)
 とはいえ残された時間の中で、これから先、何か一つでもいいから夢中になることが見つかるかどうか、ということも課題の一つ。いつもどこかで気にはなっている。

2008年9月21日(日)
総裁選とマスコミ

 自民党の総裁選挙については、(前々回に書いたように)候補者たちによる徹底した政策論争を期待したのだが、期待はずれに終わりそうだ。今の自民党は、次の総選挙で野党に転落するかもしれないという恐怖に肩を寄せ合うばかりで、この国をどうすると言う熱い論戦も出来ないエネルギーのない政党になってしまったのではないか。

 考えてみれば、かつては領袖を総裁にするために、語り草になるような権謀術数(その分、金も飛び交った)の限りを尽くした派閥も今はバラバラ。親の地盤を継いだ二世議員が多く、マスコミが作った人気度で候補者が決まり、我先に勝ち馬に乗ろうとするような今の自民党に、党が割れるほどの迫力ある論戦を期待するほうが無理なのかもしれない。

総裁選の実態
 辞めていく福田が自民党の議員総会で「近く行われる総裁選で、ぜひ国民がわくわくするような、エネルギーに満ちあふれた自民党を多くの皆さまに見せてほしい。この際、徹底してやっていただきたい」などと余計な注文をしたが、福田や自民党執行部の頭の中には、「政策論争などは二の次で、とにかく派手な総裁選をやる」ということしかなかったのではないか。

 (ヒラリーとオバマの戦いと比べると違いが分かるが)何が不思議と言って、総裁を巡って戦う候補者同士がろくな論争もせずに手をつないで壇上に上がり、互いを褒めあいながら口をそろえて民主党の悪口を言うばかり。(党執行部の筋書きに沿って)5人打ち揃って全国遊説をして回る様は、まるで総裁選に名を借りた総選挙の事前運動そのもの。
 14(日)の「真相報道バンキシャ!」では、コメンテーターの河上和雄(元東京地検特捜部長)も「(民主党の動きも含めて)これは公職選挙法違反なんだけど」と苦虫を噛み潰したような顔で言っていた。

 福田としては、派手な総裁選で国民の関心を引き付け総選挙になだれ込むというシナリオを考え、絶妙のタイミングで辞めてやったのだと言いたいのだろう。あわよくば3年前の「小泉劇場の再来」で自民党に恩を売るつもりだったのかもしれない。
 しかし、首相の責任を放棄したとも言えるその姑息な意図は、今や国民にすっかり見透かされている。むしろ、農水相も辞任した事故米の転売問題、世界的な金融危機、年金記録の改ざん問題などなど、次々に起こる問題を前にしてのんきに総裁選などやっていていいのかと身内からも批判が出る始末だ。(選挙結果がどう出るかは分からないが)そう思惑通りには運んでいない。

3年前の教訓は生かされたか
 問題はマスコミの方。国民はこうした内実にとっくに気づいて冷めた目で見ているのに(「サンデー・モーニング」は別にして)相変わらず軌道修正が遅すぎる。
 テレビ局には開始早々から「なぜ自民党ばかり取り上げるのか」という文句ががんがん来たそうだが、ニュースも申し訳程度に野党幹部の動静やコメントを付け足すだけで、毎日のように5人組の空疎な演説を垂れ流していた。
 昼のワイドショー(先週火曜日)に至ってはどの候補がどんな曲にのって登場したなどというたわいもない話題で時間を費やしていた。

 懲りずにこうしたことを続けるテレビ局の背景については3年前に「選挙報道はなぜワイドショー化したか」にも書いたが、現状を見る限り残念ながらその時の教訓が生かされているとは言いがたい。新聞も似たようなものだ。

ジャーナリズムも劣化?
 候補者たちを中身のある政策論争に引き戻し、その政策の違いや実行力のあるなしの判断材料を国民に提供するのはメディアの役割。政策論争の重要テーマを設定し、候補者たちに質問し、問い詰め、そこから逃げられないように監視する。こうした役割を果たせるのはメディアしかない。
 しかし、心配なのはメディアの能力が試されているこの時に、メディアの力が一頃より一層落ちてきている点ではないかと思う。

 考えてみればこの3年間に引退や高齢化で、筑紫哲也、田原総一郎、久米宏などのいわゆる個性派キャスターたちの影が薄れてしまった。しかも、その後を埋める大物キャスターが育っていない。(古館もなあ)
 そして、その隙間を埋めているのは、今やオリンピック報道で顰蹙を買ったのと同じタレントや芸人たち。政治問題を扱う番組でも彼らがしたり顔に跋扈(ばっこ)している。
 メディアの中に多少とも信頼できるキャスターが見当たらないのは寂しい限り。日本の将来を考えて心配になるのは私ひとりではないだろう。

 もっとも「ジャーナリズム崩壊」(上杉隆)のように、日本に悪名高き「記者クラブ制度」がある限り、今の日本で実力のある政治ジャーナリストが育たない、という悲観的な意見もある。記者クラブ制度によって、記者間の競争が成り立たず、皆で情報を独占しながらぬるま湯に浸かっているからだという。本当ならこれはこれで大問題だと思う。

メディアと市民
 ここでいくら強調しても強調しすぎることはないが、ジャーナリズムが機能しないのは国民の不幸の始まり。(マスコミがこぞって戦争を賛美した)戦前の例を見たって分かる。
 ようやく総裁選も終盤になって、メディア側も少し軌道修正を図っているように見えるが、これからいよいよ大事な総選挙を迎える。私たち市民の方も、ここぞと言う時にメディアが本来の役割を果たしてくれるように、もっと危機感を持ってメディアの動きに目を光らせていく必要があると思うのだが。

2008年9月15日(月)
政治と政治家の劣化

 前回、安倍、福田首相の辞任の背景について書いた本(「官僚との死闘700日」)を紹介したが、この中で安倍前首相は特に公務員改革について確固とした信念を持った政治家のように書かれている。安倍はむしろ官僚たちのしぶとい抵抗に合って苦労する改革派首相として描かれている。
 しかし、公務員改革についてはそうだったかも知れないが、他の政治課題についてはどうもそう持ち上げたものでもないのが実体だったのではないか。公平を期す意味でも、ここは「官邸崩壊〜安倍政権迷走の1年〜」(上杉隆)で補っておく必要がある。

「チーム安倍」の内実
 この本は、1年前の安倍の「政権投げ出し」を予見したドキュメントとして話題になった。安倍は就任早々、政策を実行するために、主に安倍が気を許した側近政治家、政策新人類と言われる政治家、あるいは今改革派と称している政治家たち、それに官僚たちから構成された「チーム安倍」を立ち上げた。
 安倍が意気込む「戦後レジームからの脱却」(そういえばそういうこともあったなあ)を政策立案、実行するための強力な官邸チームを作ったつもりだったのだが、その「チーム安倍」は結局無残な崩壊過程をたどることになる。本はその内実を克明に描いている。

 安倍を支えるべき面々が「俺が俺が」、「私が私が」で目立ちたがり、互いに手柄を競って暴走したり足の引っ張り合いをしたりして、当初からチームはバラバラ。お人よしの安倍はこれらの動きを制御できずに結束力を保てない。様々な意見のハザマに入って決断ができず、懸案を先送りにする状態が続くようになる。
 いよいよ政権が落ち目になると、いわゆる改革派も次々と泥舟から脱出。そのようにして年金対策も遅れ、松岡農水相も自殺。政権は当然のように行き詰ってしまった。

「俺が俺が」たちの政治力
 そして1年後、今度は福田首相が国民に何をやりたいのかさえ示せずに、またまた政権を投げ出すことになった。「政治の劣化」、あるいは「政治家の劣化」が言われて久しいが、これはやはり政治と何なのか、政治家とは何なのか、という基本的なことさえ見えなくなってしまったためだろうか。

 いま自民党の総裁選に立候補しているのは、麻生のほかにはいずれも総裁を目指して政治家としての研鑽を積んできたとは言いがたい人たちばかり。改革派と称する政治家たちも「チーム安倍」の時の「俺が俺が」、「私が私が」の人ばかりで、肝心の政治力はどうか。
 本命の麻生は「自分が総裁になったら、他の候補者たちにも重要ポストで働いてもらう」と言っているようだが、これは自民党を割れさせないための方便。この候補者たちが何か大きな国家目標をなし遂げる政治力を備えているかどうかは、これまたはなはだ疑問ではないか。

政治の基本と政治力
 「政治の基本は、現実の課題をどのように解決するかということである。そして政治と政治家に対する評価は、その解決の能力があるかどうか、また、その解決が、本当の意味で国民の生活を守り、その向上を図るものであるかどうかという観点から、厳しく行われるものなのである。」
 後藤田正晴はその「政治とは何か」という本の中で、こう書いている。(マスコミが作った人気などでなく)現実の課題を解決するための能力がなければ政治家とはいえない。

 そして、その課題解決のために、政治家は政治力の限りを尽くすドゴール(元仏大統領)も「真の政治家は、権謀の時と誠実の時を使い分けなければならない。権謀と誠実の政略を少なくとも千回繰り返すことによって、全権の掌握ははじめて可能になる。」というくらいだ。(ニクソン「指導者とは」
 台湾の民主化を成し遂げた、前総統の李登輝も自分の思う国民的課題を成し遂げるためには「問題に直面したとき決して直線で考えないこと。最短距離を見つけようとしてはならない。」と言って時間をかけて粘り強く取り組んだ。
 そのためには、議員一人一人がどのような人物なのか、何が好みなのかと言ったデータベースまで作りながら対話を重ねたという。(「台湾の主張」

日本は真の政治家を持てるか
 まあ2度もあっさりした政権投げ出しを見せられた今の日本で、これほどの大物政治家を期待する方が無理かもしれない。しかし、21世紀の日本は課題山積。これからどのような国になるのか、何度も言うように「国のグランドデザイン」を描く時に差し掛かっている。
 その日本の舵取りをする政治家には今こそ、時代の先を読む先見力とこうと決めたら万難を排して課題を解決する政治力が必要になる。果たして、日本はこうした真の政治家を持つことが出来るのだろうか。
(そこで、いまの総裁選挙とマスコミの問題についても書こうと思ったが、長くなったので、それは次回に。)

2008年9月7日(日)
日本の真の改革

 福田首相の突然の退陣で自民党は候補者が乱立。にぎやかしの一方で、考え方の違いについての論争も始まろうとしている。しかし、この論争が実りあるものになるまで深まるだろうか。

官僚国家の行き詰まり
 それを判断する一つのヒント。去年夏の安倍首相の辞任から今回の福田首相の辞任まで、その裏で何があったかを実に分かりやすく解説している本がある。いま話題の「官僚との死闘700日」(長谷川幸洋)、「さらば財務省」(高橋洋一)だ。
 安倍首相時代に「道路特定財源の一般財源化」、「公務員制度改革」、「財政再建策と埋蔵金問題」などで霞ヶ関の官僚たちから徹底的な抵抗と攻撃を受けた改革派が描いた内幕だ。

 今の日本に必要なのは、明治以来続いてきた中央集権的な官僚国家の構造的改革といえる。今のように、国益より自分たちの省の利益しか眼中になく、少しでも自分たちの権益が侵されるような改革に執拗に抵抗を続ける官僚国家を変えることである。
 しかし、官僚たちは自分たちの権益を守るために、謀略的な情報をマスコミに流したり、官僚出身の政治家を使って改革派を追放したり、時には一国の首相の足元をすくうような罠も仕掛ける、といったあらゆる手段を使って改革案をつぶしにかかる。

対立の構図
 良くも悪くも改革を断行した小泉改革のゆり戻しの中で、安倍も福田も断固した姿勢を示すことが出来ずに行き詰ってしまった。
 そして、今様々な立場の政治家が出馬を目指している。今、マスコミは出馬した7人について、それぞれ「財政出動による景気刺激派」(麻生)、「増税派、財政再建派」(与謝野)、「改革派、上げ潮派」(小池、石原)などと色分けをしている。
 (マスコミ人間で上に上げた話題の本を読んでいない人はいないだろうから)こうした分類にもこれらの本が影響しているように思うが、それが当を得ているのかどうか、どうもいまいち皮相的なレッテル張りのような気がしてならない。
 (もちろん、自民党のいわゆる改革派が真の改革派なのかどうかは議論のあるところだが)これらの本を読む限り、小さい政府によって官僚の権益を縮小することを目指す自称改革派と、増税によって税金の配分権益を守ろうとする官僚の代弁者である増税派(与謝野)の違いは明らかに闘いであって、単に景気対策の違いなどといった生易しいものではない。

真の構造改革のための議論を
 今の日本に必要なのは、国民の納める税金が本当に国民のために有効に使われるための「真の構造改革」だと思う。今の日本の税金で本当に必要なところに有効な形で使われているのは70パーセント程度ではないか。多くは、霞ヶ関、永田町の利権とその周囲に作られたぬるま湯的な組織の中に消えていく。
 この状況を変えるには、(地方交付税などといった国のひも付き税金をやめて)地域で有効に使うための地方管轄の税金と、国家のために必要な税金をもう一度大胆に整理し、節税に努めなければならない。道州制の導入など、地方に出来るものは地方に、という考え方が必要になる。

 しかし、巨大になった霞ヶ関はこれにあらゆる手段を使って抵抗するだろう。当然、税金の配分で権力を維持したい政治家も官僚といっしょになって抵抗する。そうしているうちに日本は世界状況に対応できない古い官僚体制から抜けられない。
 マスコミによっては、これからの党内論争の中で、彼らの考え方、立場の違いがこれからの自民党の分裂、政界再編につながるというような指摘をするものもあるが、果たして自民党のようなヌエ的な組織でそこまで深く議論が出来るかどうか。暫くは見守りたい。
そして
その次の来るのは、自民党と民主党では「どちらが真の改革派なのかという」論争になる。

2008年9月7日(日)
2つの絵の同時進行

 前回、紹介したように色相の環の反対側の色を混ぜ合わせながら作った色々な灰色をベースに絵を描いてみた。(NO.20)
 とてもパウル・クレーのような渋くて味わいのある色調にはならないけれど、これまでとはちょっと違った色使いになったとは思う。しかし、例によって手の赴くままに引いた線に沿って色を乗せているうちに、もっと滅茶苦茶に色を塗りたくってみたくなった

 そこで、こちら(NO.19)は絵の具を混ぜることもなく、殆ど原色のままにべたべたと塗っていく。30分もするともうやることがなくなって、2年前に絵を初めて描いた時のような具合になってしまったが、これはこれで気分が開放される。
 NO.20に比べてこちらは周りの評判もあまり芳しくないが、まあ、あれこれ配色を考えながら色を塗っていく絵(NO.20)とこんな滅茶苦茶な絵(NO.19)とを同時進行するのも気分的にはいいんじゃないか。それが素人絵画の気楽なところ。

 ただし、2つの色塗りを終わって写真に撮り、こうやってHPに並べてみるとこれから先が何となく思いやられる。
 次の絵がどうなるのか、先日、「新日曜美術館」で見た野見山暁治の抽象画のようなものを目指すのか、或いは今日の番組でやっていた「丸木スマ大道あや」のようなアウトサイダー・アートを目指すのか、自分でもさっぱり分からない。
でも、そんなに深く考えずとも、楽しければいいか。















           (NO.20)                           (NO.19)

2008年8月15日(金)
MYギャラリーの追加

 しばらくパスワードなどというしゃれた機能を使ってみたが、これを止めて代わりに「MYギャラリー」を項目として立てた。「MYギャラリー」のページにはこの二年ほどの絵?を並べると同時にその都度書いたコメントもリンクした。
 試行錯誤の連続の中で趣味としての抽象画を描いている。これがどこへたどり着くのかは分からない。そのうち飽きてしまうのか、あるいは壁にぶつかるのか、そういうことも分からない。ただ、次の絵が一向に進まないのは事実。

 息子が「色彩の研究のために、パウル・クレーの本を送るよ。」と言って画集を送ってくれたが、彼の絵の色彩はなかなか魅力的だ。息子に聞くと「色相の反対側同志の色を混ぜると色んな灰色が出来るよ。」というので、何十年ぶりに「色相」などという言葉を思い出した。
 インターネットで色相の色をコピーし、今色々な灰色を作ってみようとしている。そうすると、あのクレーのような渋くて味のある色が出せるのだろうか。


 HPの改修はしてみたものの、今年の夏も思いのほかいろいろな雑事が多くて本来のHPの充実に手が回らない。まあ焦らずに、文章を含めてぼちぼちと自分なりの「自己表現」にトライしてみようと思います。(その灰色を使って制作中)

2008年8月12日(火)
米寿の俳句

 今年12月に満87歳になる母親については、去年一回書いた。今年の夏も郷里に行ってその母親とあれこれおしゃべりをして来た。相変わらず頭の方はぼけるどころか、近所の年寄りたちとは話が合わなくなったと嘆くくらい。まわりの年寄りたちも大方は鬼籍に入ったり、車椅子になったりと寂しくなった。

 心臓に少し不安はあるものの、体調はまあまあ。毎日の食事の支度、部屋の掃除、洗濯、庭の草取り、風呂の支度と、背筋をきちんと伸ばして生活している。私が郷里に帰るとなると、布団を干して準備をしていてくれる。(妻も手伝うが)三度の食事も母親がこしらえてくれる。ありがたいことだ。
 寝るときは、夜中にトイレに起きてもつまずかないように、トイレまでの道筋に邪魔なものがないようにきちんと片付けてから寝床に入る。一人で生きるには、それなりの緊張感が必要というのを良く自覚している。もっとも、すぐ近くに弟夫婦がいてくれるのが何より安心ではある。

 月に2回ほどはバスに乗って街に出かけ、句会に参加する。「俳句をやっていて本当に良かった。」というのが口癖で、毎日何か俳句になりそうなことがあればメモしている。俳句の同人会から月に何句か出す宿題があるのが励みになっているようだ。

 その母親が句集の二作目を作って、米寿の祝いのお返しに皆に配りたいという。前回は4年前に出した。母が鉛筆で書き出した年毎の300ほどの句をパソコンに入力して何回か母親との間で添削のやり取りをし、息子が描いた挿絵を挟んで本(といっても薄いものだが)にした。
 今回もこの夏、扇風機を廻しながら、母がこの4年間に作った句をパソコンに入力した。作業をしているうちに(歳が歳だけに)人生の最終局面に差し掛かっている一人暮らしの老親の心境が出ている句に幾つもぶつかって、それはそれで色々感じるところの多い作業ではあった。

 出来るまでは、まだやること(息子に絵も描いてもらわなければならないし)が山のようにあるから安心は出来ないが、何とか米寿の祝いに間に合わせたいと思っている。でもその前に、老いの心境が出た句を幾つか紹介しておく。
 やはり一日一日を地道に積み重ねて、87歳などという超高齢まで生きていると、それなりの感慨がにじみ出てくるものだなあ、というのが実感。

転ぶなと言うて帰る子寒の入り
 転んで寝たきりというのが一番多いからと、帰省した子どもたちが言っては帰っていく。
まだ当てにされし老いの身春厨
 子どもたちが帰ってくると、食事の世話はやっぱり母になる。
初雀身の行く末は思ふまじ
(ちまき)しみじみ母を恋ふてをり

 
老いてますます昔のことが思い出される。
ままごとの如き煮炊きや冬に入る
 一人暮らしの食卓は、いつも余ってしまうから気をつけてはいるが。
冬至風呂母の齢をとうに越し
(もず)鳴くや無為のひと日を悔いてをり

 そういえば、「毎日を前向きな気持ちで楽しいことを考える様にしている」というのが彼女のモットー。
着膨(きぶく)れていよいよ五感の鈍くなる
新聞のクイズに執す日永かな

百日紅(さるすべり)ふと目眩(くらみ)せる気の弱り
自立せる今が倖せ吾亦紅(われもこう)
ときめきて曾孫に会ひぬ山笑ふ
 去年は、4人の孫が次々と結婚し曾孫が3人増え、5人になった。

2008年7月19日(土)
ある島の風景

先日、ある島を訪ねてきた。世界的に有名な小説の中で「世界で一番きれいな島」と書かれた島。今回はそこで撮った写真の一部だけをアップする。
パッチワークのような牧草地や麦畑。その丘の上を流れる雲。吹き渡るさわやかな風。島の灯台。そして雄大な夕焼け。なんだか時間がゆっくり流れているような感じだった。その訪問記はいずれゆっくり。







2008年7月6日(日)
携帯VSパソコン

 ほんの20年前まではなかったけれど、今それがない社会なんて想像できないというものはそう多くはない。そして、その代表的なものがパソコンと携帯だろう。いま仮に世の中からこの2つが消えてしまったら世の中はパニック状態に陥るに違いないと思うほどだ。
 携帯がない時代は、家の電話を使ったり、公衆電話を使ったりしていてそれはそれで何とかやっていたのだが、今では電車に乗ると10人の乗客中、下手をすると7,8人もが携帯を開いて何やらやっている。座っている人がみんな携帯を開いて並んでいるのは、携帯のない時代が長かった私などには一種不思議な感慨を覚える光景だ。

巨大化する携帯市場
 今、携帯を忘れて外出すると、何となく落ち着かない。緊急時の連絡が取れないし、待ち合わせもよほど事前にきちんと打ち合わせていないと不安になる。
 家族や友人とメールのやり取りが出来ない。写真や動画が撮れない。撮った写真をメールに添付して送ることも出来ない。それに電車の中の退屈な時に孫たちの写真フォルダーを覗いたり、携帯サイトを覗いたりすることも出来ない。
 最近では、携帯にワンセグのテレビがついたり、アイポッドのような音楽を聴く機能がついたり、はたまたスイカやパスモのように携帯で買い物が出来たりするようになった。

 先日、日本最大の携帯サイト「モバゲー・タウン」を運営している南場社長の話を聞く機会があったが、彼女の運営している携帯サイトは、「タダでゲームが楽しめる」サイト、「オークションでものが買える」サイト、「会員同士が似顔絵(アバター)を使って会話を楽しむ」サイト、「携帯小説を公開する」サイト、「誰かの質問に皆が知恵を出す」サイト、などなど沢山あって、それぞれが広告や手数料などのビジネスモデルを持っている。
 今、若い人たちは携帯で小説を書くが、2000ページ(携帯サイズか?)もの小説を親指で書いてしまうという。
 彼女がサイトを始めて6年ほどで、売り上げ300億円、経常利益が120億円(40%!)の巨大ビジネスに成長し、株式を公開したら時価総額で3000億円にもなったそうだ。

携帯がパソコンを駆逐する?
 もう一人、別な社長に聞いたら携帯は近々もっとすごいツールになりそうなことを言っていた。何より、画面が3.5(今は最大3.2インチ)インチと大きくなる。高精細になって動画を見るのに殆ど不自由しなくなる。
 そうすると、携帯は文字情報から動画サービスの方に移行してアニメや音楽映像も、或いはテレビも映画も
すべての映像がやってくる。パソコンと同じ、ヤフーやグーグルの検索機能も携帯に入ってくる(もう入っている)。
 彼に言わせれば、「パソコンの機能の大部分は携帯に移行する。携帯が信じられないくらいの多機能ツールになって、パソコンはビジネス用の情報ツールに特化していくのではないですか」。

 「とすると、パソコンで成長してきたヤフーやグーグルは焦るんじゃないですか?」と聞くと、「そうなんですよ。いまグーグルは先行メーカーに占められている携帯市場に風穴を開けるために600億円を投じて携帯のソフトを開発して、タダでばら撒く戦略を進めていますよ。」、「それによって携帯のメーカー支配を壊してグーグルも携帯に参入しようとしています。」なにやら携帯を巡って深慮遠謀な大戦略が展開されているらしい。
 もちろんこうした戦略が進む背景には、パソコンと同じように携帯も一定料金での使い放題制になったことや電波帯域の確保などがある。

パソコン・インターネットの可能性
 私の場合はこれまでどちらかと言えばパソコン派で、携帯は必要最小限の使い方しかしてこなかった。日記をつけたり文章を書く。それをファイルに残す。インターネットを使って様々な情報を検索する。お気に入りのHPやブログを訪ねる。
 本や音楽の注文、あるいは(あまりやっていないが)オークションを利用したりして色んなものの買い物をする。ホームページにブログや絵をのせる。メールのやり取りをする。みんなパソコンだ。

 それが、こうしたビジネス以外の楽しみ方は携帯の方が主流になるかもしれないという。本当だろうか?パソコンはそう簡単に市場を携帯に明け渡してしまうのだろうか。
 しかし、梅田望夫「ウェブ進化論」(ほかに「ウェブ時代をゆく」、「ウェブ時代5つの定理」の3部作や茂木健一郎との対談「フューチャリスト宣言」)などを読むと、アメリカ・シリコンバレーの天才たちが50万台ものコンピュータを駆使しながら構築してきたパソコン・インターネット世界の可能性は携帯などよりもっともっと奥が深いような気もする。
 例えば、世界の図書館を全部検索できるようにする。世界中の知恵を集めながら高度なパソコン機能を開発していくオープンソースという仕組みなど。グーグルの天才たちはコンピュータの向こうに政界政府を作るような意気込みで世界をコンピュータに取り込もうとしているという。
 私などはとりあえずパソコンは画面が大きいぶん、「表現ツール(例えば絵だってそうだが)」としては分があるのではないかなどと思ってはいるが、次の機会にちゃんと考えてみよう。

2008年6月24日(火)
中国雑感

 中国・北京市に行ってきた。北京市は何しろ人口1540万(東京都は1260万)、日本の四国に相当する広さを持つ中国第三の大都市。少し見て回ったくらいで何が分かると言うものではないが、この大都市が今、経済成長の真っ只中で、かつての高度成長期の日本のように誰もがより豊かな未来を求めて走っている感じはする。

街に溢れる人々
 市内の住宅街や商店街は何処もかしこも工事中だ。北京独特の店と住宅がくっついた路地裏の胡同(フートン)も表に目隠し塀をめぐらして中を解体、建て替えている。オリンピックのメイン会場になる「鳥の巣」(写真)も見た。まだまだ仕上げの工事が続いているが周辺には高層ビルが立ち並んでいる。あと5年もすれば市街地の光景はまた一変するに違いない。

 街中はどこへ行っても人が溢れている。10年前に行った時には道路が自転車でいっぱいだったが、今は自動車がいっぱい。その間を縫うように人が歩き、自転車が走っている。
 相変わらず交通ルールなどあってなきが如し、赤信号でも人は悠々と道路を横断する。それでも車の運転の方は昔のカミカゼタクシーのようにけっこう乱暴で、車で市中を見学しているうちに何度か接触事故を目撃した。

 人が溢れている分、街は生活の匂いを色濃く残している。道路わきの歩道ではお年寄りたちが中国将棋を囲んでわいわいやっているし、緑の並木のある公園では人々がいわゆる太極拳をゆったりとやっている。市内の天壇公園(写真)では中年のカップルたちが社交ダンスなどを楽しんでいた。

 午後7時ごろ市内の大衆的な北京料理店に入ると、300ぐらいある席が満杯。家族面や友人たちが北京料理を囲んでわいわいやっている。
 なまこやあわびを軟らかく煮たこくのあるスープ(佛跳垣・フォーキョウチャオ)、かえるの足と野菜の入った辛い煮物など、残留農薬の心配さえ気にしなければ極上のうまいものが次々出てくる。そのうち、「スリがいるから持ち物に気をつけるように」というようなアナウンスが店内に流れるが、みんなそんなことに注意を払うより食べるのに忙しい。

だけど空気は汚い
 ただし、聞いていた通り北京の空気は汚れている。滞在中珍しく雨が降って万里の長城は霧に霞んでいたが、晴れの日が続くともういけない。
 車の排気ガス(だと思うが)で市内はたちまちスモッグに霞んでくる。高層ビル街も遠くのビルは薄茶色にかすんでおぼろげにしか見えない。
 帰り、離陸する機内の窓から北京市上空を眺めた。かすんだ大気を突き抜けて機体が上昇していくと眼下の北京市はすっぽりと黄色いスモッグに覆われていた。

 中国では、もう15年以上も年率10%を越える経済成長が続いている。Nスペ「激流・中国」を見ても分かるように、貧富の差や社会保障のほころびなど問題は山積しているが、街に溢れる人々を見ていると、この13億の人たちを食べさせていく大変さを思う一方で、人口が多いということは経済成長の一つの要因ではないかなどと思ったりする。

日本と中国
 そんな北京市から4時間ほどで成田に帰国。電車に乗って日本の薄暗い夜景を眺めていると、不思議なことに中国でかすかに感じていた何かがあっという間に薄れてしまう。
 人がごちゃごちゃいて、みんな生きるのに懸命でわんわんと活気付いていた中国に比べると、日本は景気がいいのか悪いのか、何だかひっそりしている。
 翌朝、電車に乗ったら耳に色んなピアスをくっつけて青白くやせ細った若者たち数人が気の抜けたように立っていた。彼らを見ていたらふっと、「日本も滅びに向かっているのかなあ」などという思いが浮かんできた。

 面積が日本の25倍、人口でいえば日本が10個以上もあるような巨大国家・中国。世界の人口の5分の1を占める桁外れに大きい国がいま、すごい勢いで勃興しようとしているのに、一方の日本は様々な過去の負債を抱えて呻吟している。
 「衰退しつつあるかつての経済大国・日本」「世界の覇者を目指して勃興しつつある巨大国家・中国」がすぐ隣り合わせにいて何かと問題を抱えつつ関係が深くなりつつある。

 巨額の私財を世界の慈善活動に投じている金融投資家のジョージ・ソロス「今後、世界における一番のチャレンジは、中国を世界に脅威を与えない形で大国へと発展させていくこと」だと言っているが、日本国内では感情的な「中国封じ込め論」や「中国脅威論」など様々な中国嫌いがマスコミを賑わしている。
 隣り合わせの日本と中国が平和的にやっていくにはどうしたらいいのか、中国問題には引き続き関心を持って行きたい。

2008年5月25日(日)
K君、何を見てるの?

 3月に生まれたK君(孫)。この世に生まれて2ヶ月あまり、まだ両親やら親戚やらの顔ばかりで世の中の風景も良く見てない。先日は、首も据わったというので品川の方に遊びに連れて行かれたそうだけど。
 両親から写真をメールしてきた。なにやら難しい顔をして遠くを見つめている。何を見ているのだろうか?

 最近読んだ「脳は美をいかに感じるか」と言う本によると、「視覚は、この世界についての知識を得ることを可能にするために存在する」ものであり、人間の視覚は目が感じるものではなく、脳のある特定の部分(視覚脳)の働きによることが分かってきた。
 見ると言う行為は、受動的というより極めて能動的な行為であり、例えば画家は、眼から入ってくる光線を視覚脳で処理しつつ既に脳の中に彼が作り上げたイメージと比較・参照しながら、彼の脳内に浮かんだイメージをもとに絵を表現していく。それは、写真のようなただの見えるものとは全く違う。

 また、肖像画のジャンルが長く続いている理由の一つでもあるが、視覚を司る脳細胞は人の表情に最も強く反応する。様々に変化する表情から人は多くの情報を掴み取れるように脳細胞を組み立てているらしい。
 最近の脳機能の解明から見ると、画家は無意識ながら脳機能の働きに極めて忠実に画法の追及をしてきたという。
 人が何を美しいと思うか、どんな絵に魅力を感じるのか。永遠の謎ではあるが、それはどうも、脳(視覚脳)の働きと密接な関係を持つことらしい。そういう意味ではまさに「美術は脳機能の延長」なのだ。

 こうした視覚脳の機能が形成されるのは幼少期。失明などでこの時期を逃すと後で目が見えるようになっても人間はものを見ることが出来ないという。
 思うに、彼の小さな頭には今、目を通して日々ものすごい量の視覚情報がインプットされ、それが脳細胞を刺激して彼独自の視覚脳を形成しているのだろう。
 こう考えると、何かを見つめる彼の真剣さを分かってやりたい気もする。K君、6月に遊びに来ると言うが、楽しみ。

 さて、その「脳は美をいかに感じるか」に刺激されて、絵のNO18をさらに改良してみた。(右が最新版。ずっとしっくり行かない絵?だったが、これでちょっとは気持ちが休まったのかな)

2008年5月10日(土)
中国の環境汚染

 前回、中国を取り上げたついでに、現在の中国が抱えるとんでもない問題を例の「危うい超大国・中国」(前回説明)から紹介してみたい。今回はその一つ、中国の公害問題
 中国ではこの20年間、環境保護などというものは経済成長の足を引っ張る厄介者という扱いだった。その結果、現在の中国は世界最悪の大気汚染と水質汚濁の国になってしまった。
 その実体を示したデータを次にあげる。この裏側にある実際の風景や姿を想像すると頭がくらくらするくらいのものすごいことになっている。

 まず水。中国国土の三分の一で酸性雨が降り、河川と湖の7割以上、都市部の地下水の9割以上が汚染されている。七大河川を流れる水の半分が完全に使用不能、中国人の四分の一がきれいな水が飲めない。
 また、都市部のゴミのうちきちんと処理されているのは五分の一にしかならないというから、これらも川などに捨てられているのだろう。

 次に空気。石炭火力に頼る工場や木炭ストーブが出すばい煙、それに自動車の排気ガスのせいで道路の反対側が見えないなどという都市も中国には無数にある。
 都市人口の三分の一が汚れた空気を吸っており、世界で最も空気の悪い都市を上から20並べるとそのうち16は中国にある。北京もその一つ。北京の空気はスモッグでねっとりしていてオリンピックでも問題視されている。
 また、中国の300の都市で空気を検査したら、WHO(世界保健機関)が定めた(呼吸器と肺の疾患をもたらしかねない)大気中の微粒子の許容基準をクリアできない都市は三分の二近くもあった。

 そのほか化学物質による汚染もある。2005年には、中国東北部を流れる川に100トン以上のベンゼンが流れ込み周辺部の農民10万人が一週間も水を使うことが出来なくなったが、このとき政府はこの事実を10日間も隠していたという。
 最近では廃液を垂れ流している工場に対して農民が起こすデモが頻発している。

 本来住民側に立って公害監視を行うべき地方政府の役人たちの動きも鈍いらしい。中央政府が環境法を定めて規制を公布しても、地方政府の役人たちはこれをすべて無視してしまう。それも当然で、彼ら役人の出世は経済成長率と雇用創出の成績で決まるからだ。
 民主主義国家である日本からはなかなか想像できないことなのだが、このように中国では政府や官僚が国民に眼を向けにくい構造になっている。これは共産主義国家中国の権力構造、国家の成り立ちに由来するという。例の本ではなかなか興味のある解説をしているのだが、これについては次の機会にとりあげたい。

 とまあ、そんな環境汚染に悩む中国ではあるが、実は来月、北京に行くことになっている。どういう感想になるかはまた。

2008年5月6日(火)
中国はどこに向かうか

 中国の胡錦濤国家主席が来日して、日中間の様々な懸案について話し合いが行われる。今回は、まず当たり障りの無い地球温暖化問題での話し合いを入り口に、お互いの友好関係を確認するといったところ(戦略的互恵関係)が主なテーマになるらしい。

日中間の懸案
 しかし、日中間には経済の協力関係という最大のテーマのほかにも、例えば、日中戦争に関する歴史認識の問題、尖閣諸島に関する領土問題、その領海付近での天然ガス掘削問題、毒ギョウザ事件にみるような輸入食料の安全の問題、著作権侵害の海賊版の取締まり問題などなど、様々な懸案がある。
 その他にも直接的ではないが、例えば公害や砂漠化などの環境問題、地球温暖化問題への取り組み、チベット問題、台湾問題などといった課題もある。

 中国は人口13億。人口で日本の10倍以上、面積で25倍以上の巨大国家だ。もう15年以上、年率10%前後の経済成長を続けており、GDPで3位のドイツに肩を並べ、やがて日本を追い抜くのは時間の問題だろうと言われている。
 世界は間もなく超大国・アメリカと新興の巨大国家・中国との競争の時代に入っていく。その両国に挟まれた日本は否応無くこの2つの大国とうまくお付き合いをしていかなければいけない。うまくやらないと最悪の場合、米中戦争に巻き込まれて国家の存亡にも関わってくる。

「危うい超大国・中国」
 最近のチベット問題についての中国人(漢民族)の抗議行動や、3年前に吹き荒れた反日デモなどのように、今の中国は何故、ナショナリズム(愛国主義、民族主義)に走るのか。何故、対外的に必要以上に強硬な態度に出ざるを得ないのか。そういう中国の政治的動向に関する疑問について、明快に解き明かしてくれる本に出会った。
 「危うい超大国・中国」(NHK出版)。著者はアメリカ政治学界きっての中国政治の専門家で、クリントン政権では国務省幹部として対中折衝を担当した、スーザン・シャーク氏(カリフォルニア大サンディエゴ校大学院教授)である。

 彼女によれば、いま中国は国内に都市と農村の大きな貧富の差、放っておくと国家がバラバラになりかねない民族問題、世界に類を見ない公害問題など幾つもの難問を抱えている。それは年間7万件以上の暴動となって吹き出している。
 リストラされた労働者たち、公害の被害に苦しむ住民たち、開発のために土地を奪われた農民、地方為政者の汚職に怒る住民たち、新興宗教・法輪功の信徒たち、そして自治や独立を求める少数民族などなどによるデモや暴動だ。数千人から何万人もを動員したこうした暴動が一日200件以上というから日本の常識から言えば桁外れの規模だ。

国内安定に苦慮する中国政府
 何でもありの市場経済を目指した中国では、もはや共産主義は国民を締め付けるタガにはならなくなっている。共産主義という国民共通の価値観が崩れてしまったために、あの天安門事件の時のように、国民の不満はいつ共産党政府に対する不満に変わるか分からない状況なのだという。

 中国の権力者たちは国民の反乱が自分たちに向かうことに常に怯えている。国内不満層の暴発を押さえ込んで、国内を安定させることこそ13億の人口を抱える中国政府の最大のテーマなのだ。
 それには、年率7%以上の経済成長が必要になるとともに、国民の不満の捌け口を外部に向けるのが手っ取り早い方法だ。しかし同時に、その不満行動が高まりすぎてテーマを変え共産党政権に向かうのは防がなければならない。
 かつてのように権力基盤が磐石でない為政者たちは、「綱渡りのような政治」を強いられているのだという。

ナショナリズムは両刃の剣
 そういう状況下で、ナショナリズムは国民の一体感を作るのに最も都合のいいもの。しかも日本はそうしたナショナリズムが向かう先として一番無難である。
 何しろ日本は先の日中戦争で多大な被害を中国に与えたにもかかわらず充分な反省をしていないし、この抗日戦線の中から今の共産党政権が生まれたのだから反日ナショナリズムは共産党への共感を呼び覚ますと言う効用もある。

 しかし、中国が巨大になるにつれ、このナショナリズムの向かう先はどんどん広がっているともいえる。チベット問題に同情的なフランス、台湾に同情的なアメリカなど次々と目先を変える。
 そうした時に中国政府としては外国に対して弱腰と見られるような態度は取れなくなる。民衆のナショナリズムが自分たちに向かうのを避けるためにも、外国に対して強く出ざるを得ないというのだ。

中国との付き合い方
 なかなか厄介な構図だが、この問題の処方箋も含め「危うい超大国・中国」はかなり説得力のある論を展開している。
 強い中国より弱い中国の方が危険であること。付き合う方は、こうした中国の抱える問題(御家の事情)を充分理解して付き合うことなどを提言している。
 その詳しい論点については、近々、暫くぶりに「楽しい読書生活」欄にまとめてみたいと思っている。

2008年5月3日(土)
絵NO.18の完成版

 
 暫く例のモチーフを使ってみようと書き出した絵?だったが、どこまで色を塗れば完成なのかさっぱり分からなくなった。きりがないのでひとまずトップページにアップしたものを完成版とする。

 これも元をたどれば画面いっぱいに無意識に線を引き回し、あとで色で区切りをつけて塗りだしたものである。




 こんなのが絵と言えるのかどうか分からないが、ともかくやってみた。



 出来上がりをみると最初に薄く区切りを入れた時のものから進歩しているのか退歩しているのか。どうにも心もとない。



 これまでは、変な絵なりに何となく絵の「意味」を見つけようとしていたが、今回ばかりはこの形が何なのか途中までさっぱり見当がつかなかった。

 でも最後の段階になって、
「まあ、見ようによっては宇宙の創世時のバブル(泡)のようにも見えるなあ」と無理やり納得させて見た。




 カミさんはこれを見て「うーん。分からない。」と言っているが、これからも暫くは、例のむちゃくちゃな線に基づく「塗り絵」を楽しんでみる。まるで孫のお絵かきといっしょだが。
(さらに手を入れて、5月17日の完成版。これで諦める。)

2008年4月29日(火)
東山魁夷展

 汗ばむほどの陽気になったが、カミさんと国立近代美術館に行って「東山魁夷展」を見てきた。画伯生誕100年を記念した展覧会。70年の長きにわたって描き続けた106点の絵画と53点のスケッチが並んでいる。

 見ていて本当に圧倒された。当たり前のことだが一つ一つ、どれもこれもうますぎる!自然の風景を形作っている山や木々、湖や流れ、紅葉や桜。これらがどこまでも緻密で揺るぎの無いリアルさで描かれるているのと同時に、独特の省略化された様式美に昇華している。

 しかも絵がうまいだけではない。すごいのはこれらの絵がすべてもっと奥深いメッセージを発していることだ。
 その絵には描かれた土地の名がついているので、その風景の一部を切り取ったものには違いない。しかし、切り取られた風景は、単なる風景ではない。こちらの心に響く深い精神的なメッセージを発しているのだ。

 自然の風景がもつ深い精神性。あるいは見る側のこころに響く情緒。それは、日本人が自然との長い交流の中ではぐくんできた美しい情感なのだろうが、それが一枚の絵に切り取られた風景の中からあふれ出している。
 彼は自然からある構図を切り出し、緻密で圧倒的な技法で描きながら、究極のところ彼の心の中にある「自然と感応する精神、情感、情緒を描いたのだろうと思う。

 晩年になると、彼の絵はさらに驚くべき進展を示す。彼が選んだ題材や構図がますます独創的になり、彼の描こうとする「精神性」と不思議なほどぴったりと一致してくるのだ。
 それはまるで、その「精神性」を描くために構図を選んだようにも見える。写生をもとにしているのだろうが、まるでその「精神性」を描くために創作された風景のように見えてくる。それが彼の独創的な構図となって現れてくる。

 91年の生涯。自然を見つめ格闘するうちに、彼は自然の風景を題材に日本人の心そのものを描いてきたのだろう。(絵は「花明り」)

2008年4月20日(日)
総選挙のススメ





 暫くこのモチーフを続けたいと思って絵?NO18を描いている。まだ描き始めたばかりだが、何だかでんでん太鼓のようになってきた。完成版になるにはまだ暫くかかると思うが、どうなるか。(左)





 さて、今月号の
「文春」のなかに京大教授の中西輝政氏が「堕ちる日本。政治が何も決められない異常事態。危機を直視せよ。」という一文を寄せている。

堕ちる日本
 いわゆる「ねじれ国会」のなかで、政治が機能不全を起こして何も進まない。これを解消するには総選挙をするべきだという声があるが、それは期待できない、という。
 現在の小選挙区でも自民党はボロ負けせずに自公両党で過半数は取れるだろうが、今のように衆議院で3分の2を抑えているという状況にはならない。そうなると、何も決められない「ねじれ現象」がさらにひどくなるだけだという。
 ではどうすればいいのか。彼は政治学者らしく、過去の英国国会などの例を引きながら「ねじれ国会」をそれないりにうまく運営する知恵(どこかで妥協を図る情の政治)が必要だと言う。

 そして、最後にこういう。『「もはや経済が一流ではなくなった」この国にとって、政治が三流以下に堕ちることは到底許されない。「政治なんか我々に関係ないよ」と言っていた時代が、いかに幸福だったことか。本格的な政治の混迷期に入った日本には、あの幸福な時代にやっておくべき大切なことを怠ったのかもしれない。』
 政治の仕組み、官僚制度の両方がどん詰まりに来て制度疲労を起こしている今の日本は誰が見てもかなり深刻だが、彼の一文も半分諦めと嘆息で終わっている。

日本の三重苦
 難しいのは、今の日本は責め苦が何重にも重なっていることだ。例えば、@歴史上例の無いスピードで少子高齢化(つまり超高齢化)が進んでいること。Aこれから金が要るというときに、過去の放漫経営が祟って国も自治体も膨大な借金を抱えて身動きが取れなくなりつつあること。Bその一方で弱体化し資源の無い日本には、原油高、穀物高騰、資源獲得競争など、経済のグローバル化による大波が否応無く押し寄せてくること。

 こうした激変を前に、政治も官僚も自分の利権や癒着にしがみついて自分たちのことしか考えない。様々な議論が政争の具に使われて迷走を続けている。政治も官僚制度も戦後体制の中で制度疲労を起こし、機能不全に陥っている。これを入れると四重苦。
 まるで、「世界貿易時代の幕開け」を促す黒船来航を前にして、右往左往しながら小田原評定を重ねている当時の幕藩体制のような感じ。当時の幕府も平和に慣れきって防衛力はなし、国の方針を決める制度も時代遅れ、人もいないし、国内に朝廷、外様を抱えて議論百出だった。

国のビジョンの大事さ
 さて、そういうときに大事なのは、「この国をどういう国にするのか」という国のグランドデザイン、あるいは、国のビジョンを示すことである。いまほどそれが必要な時はないのに、それがない。江戸から明治の激変期だって、時代を曲がりなりにも切り開き、変えていったのは「尊皇攘夷」やら「開国による富国強兵」といった明快な思想のバトルだった。
 それがいま何なのか、さっきの三重苦を乗り越えて国民が一体になって目指すような国のビジョンが見つけられるか。安倍は「美しい国」と言って挫折したが、福田は何も示せていないだけもっとわからない迷走状態。

 マスコミも道路暫定税、後期高齢者保険、年金問題などなど、目の前の具体的な政治や政策に対して噛み付くばかりで、どういう国を目指すべきなのかはあまり言わない。それだけ、価値観が多様化していて単純に言えないのかもしれないが、本当はあるはずなのだ。
 カミさんがテレビで政治をけなす評論家を見るたびに、「そんなに分かっているなら、自分でやればいいのに」と言うが、評論家と政治家の役割は自ずと違う。しかも今は日本のダメなところや、そのダメなところでぬくぬくしているダメなやつらについても庶民の皆が分かっている。それなのに政治家のほうは過去のしがらみにとらわれて、発想も身動きも停止したまま。

総選挙をすべき
 そうした日本の煮詰まった制度疲労を変えて新しい枠組みを作るには、あと何回か総選挙をやってどういう国にするのか、もっともっと議論する必要があると思う。選挙をすれば、少なくとも政党はどういう国にするのかぐらいは考え、国民にそれを問う筈だ。
 中西教授が言うように総選挙が仮に、もっとひどい「ねじれ現象」を起こすとしても、それがきっかけで新しい枠組みの模索につながるかもしれない。
 日本は座して「堕ちて行く」よりは、新しい国を作るための前向きな産みの苦しみ(それはそれで大変だとは思うが)を意識して経験するべきなのだ。目指す方向さえ見つけられれば、その苦しみには耐えることが出来ると思うのだが。

2008年4月13日(日)
春の命の芽吹き


遅ればせながら絵の
NO.17の完成版をアップした。息子によれば、こういうスタイルを何枚か描くうちに自分の一つのオリジナルスタイルが見つかると言うのだが。まあそんなわけで今、次回作はそういう方向でトライしている。

それにしても、自分のこんなちんけな遊びと比べるのもおこがましいが、本当の芸術家が見据えている世界はすごい。昨晩の「美の巨人たち・東山魁夷」(テレ東)を見て、画家が自分の画風を見出すまでの血のにじむような苦闘に圧倒された。その苦闘の果てに行きついた境地から代表作「残照」(右下)が生まれた。

小説家もすごい。私も学生の頃、ドストエフスキーに入れ込んでドストエフスキーの5部作といわれる「罪と罰」、「白痴」、「未成年」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」を読んでいる。
しかし、ドストエフスキー研究家・亀山郁夫の「ドストエフスキー・謎とちから」を読んでみると、自分が何も読んでいなかったのを思い知る。芸術作品にかける人間の偉大な能力は究極的にはこの宇宙の偉大さにも匹敵するほどに大きいのではないか(このことは真面目に書いてみよう)。

さて、その宇宙の一角、地球の日本では春の到来とともに宇宙に満たされている命の循環が大きく動き始めた。木々たちが劇的に目覚める。その命の発露に触れたいために、こちらもあちこちに出かけることになる。
毎年これがないと気持ちが収まらない気のする花見もその一つ。木々たちの生命の息吹に触れないと何となくこちらの季節の体内時計も動きださない様な気がして、出かける。

そうすると、意外な大木がこれまた浮世の騒ぎをよそにどっしりと命を巡らせているのに出会う。3月9日の梅林花見の時、3月29日の桜の花見、4月12日の川べりウォーキング。その時見かけた木々たちの写真をアップする。寺のしだれ桜はもう葉桜になっている。

2008年3月29日(土)
真夜中のメモノートから

 毎日のように真夜中3時ごろに一旦目が覚める。布団の上に起き上がって暫くボーっとしていると、来し方行く末を想って何故か気持ちがしみじみとして来る。
 時には布団脇においてあるノートを開いて、(徒然草のように)心に浮かぶ「よしなしごと」を書き付けたりする。多くは半分眠ったような頭から繰り出される支離滅裂なメモだ。以下は、そんなメモの一部。

◆◆◆
定年から5年経って、63歳。いま何を欲しているか。
理想的には、世の極く普通の老人のように。
あと15年から20年、できれば健康に生きて、あれやこれやと様々に模索しながら人生の実感を深めていく。

それを手触りとして感じつつ
(岡潔の言うように)長い「向上の一日」を終える。

その間に、多分、放っておいても、ごく普通の人生のドラマがあるだろう。
平穏な日々のほかにも。
病気、家族の不幸、経済的問題、あるいは社会的、地球的異変。

しかし、それとは否応無く向き合っていく。できるだけ善き方に向かうべく努力しながら、その運命を生きていく。

これからは、何か確実なものがあるわけではないが、あれこれ手探りしつつ。
15年から20年の「時の長さ」を頭に描きながら11年を生きていく。
結果として狭い、瑣末な世界であっても、身辺のあらゆるものに関わっていく。
それは、老後の「未知との遭遇」の数々。
白紙の上で、常に手探りしていることが、これから15年の日常生活の状況。

それも過ぎてしまえばあっという間。
定年後、すでに5年も経った。これを4回繰り返せば人生は終わる。
だが、この5年間に、自分は歳を取ったのだろうか?
体力的にはあまり変わらない。運動もしている。眼も耳も髪の毛も。顔にしみが増えたか。
精神は?何かを追求するという意味では変わっていない。
人の付き合いも。別に増えてもいないし、減ってもいない。

但し、子どもたちの生活はそれぞれに変化した。2人は結婚し、新しい命(孫)が3人。これが大きいか。(生後4日目のK君)                           
もっと細かく見ていけば、いろいろある。

日々の変化、人とのやり取り、自己表現、発信。行きつ戻りつの、この微妙なゆらぎ。
これが毎日の味わい。

おかげさま。老母も元気。家族、皆元気。ありがたい、ありがたい、ありがたい。
まあ、あとは人生の退場への日々ではあるが。
すべての人生のドラマを淡々と受け入れて、やがて「すぐ隣に行く」ような気持ちで。
感謝しつつこの世を去る。
けっこう欲張りな願いだなあ。
(電気を消して、再び眠る...)

2008年3月23日(日)
ウェブ上の「もう一つの世界」

900万人のブログ発信
 ネットで検索すればたちどころに分かることだが、世界でインターネットを利用している人の人口は7億人!を越えている。そして日本では今、900万人もの人たちがインターネットを利用してブログを書いている。
 自分もその一人に違いないが、900万人もの日本人が日々自分の意見や作品をネット上に発信していると思うと、あらためて私たちはその意味をまだ充分把握していないのかもしれないなどと思う。

 ちなみに、我が友、小泉監督の制作した映画「明日への遺言」をYahoo検索で調べて見るとこの半年ばかりの出来事なのに、何と450万件もの情報がひっかかって来た。
 私は映画の評判を知りたくて、その中から次から次へと個人ブログを探して映画を見た人たちの感想を読んでみた。映画専門の高度なブログから、80歳の高齢者のブログまで実に多様で雑多なブログがそれぞれに映画について書いている。
 今ネットの向こう側には、まるでかつてフィリピンのミンダナオ島で見たように、情報の果てしのない山なみが幾重にも連なっているのを垣間見た思いがする。

ウェブ時代を占う3部作
 そんな思いから、ネット時代の本質を思索する
梅田望夫の3部作「ウェブ進化論」、「ウェブ時代をゆく」、「ウェブ時代 5つの定理」を読み、そして彼と茂木健一郎との対談「フューチャリスト宣言」も読んでみた。
 この何年かの間に、人類(Googleなど)はネット上に世界のあらゆる情報を取り込み、整理し、検索に供するシステムを営々と築く一方で、膨大な人々の発信を可能にするシステムを構築してきた。インターネットは、人類の未来を変える。そして、一部の人々の生き方までをも変えようとしている。

 ウェブ上に築かれた情報の「もう一つの世界」は、いわば生身の人間からすべての情報を剥ぎ取って集めた仮想世界だが、情報はときに生身の人間以上の重みを持ってくることがある。だからこそ、急速に進化するインターネットの意味を問い続ける必要があるのかもしれない。(彼の本については、別途書いてみたい)

絵のNO.17
 さて、その自己表現の900万分の一に過ぎないが、私の絵のNO.17を、まだ途中経過だが表紙にアップする(右)。例によって鉛筆で滅茶苦茶に線を引いたものに色を乗せたもの。今回は少し細かく同系色を乗せて見たのが新しいといえば言える。

 ただ、途中経過(左)までは、結構新しい表現になりそうだなどと気持ちが高揚したのだが、描き終えてみると何故かその気分がしぼんでしまった。青など使わずに全体を茶色の同系色で仕上げた方が良かったのか。難しいものだ。
 そんなわけで、この先少しは改良できるかどうか思案中なのだが、自分の気持ちにしっくり来ない抽象画はなにかと始末に悪いものだと初めて分かった絵でもある。


2008年3月3日(月)
抽象画の世界

 息子からは「ダリっぽいね」なんて言われたり、娘には「オリンピックのポスターみたい」(そう言えば走り高跳びのバーを越える足のようにも見えるか)なんて言われたりしたが、絵のNO.16(トップ頁)をアップした。

絵?のNO.16
 さて、芸術のジャンルの中に「超現実主義(シュールレアリスム)」というのがあって、何も考えずに無意識に詩や文章を書く「オートマティスム=自動筆記」という方法があるらしい。最近の私の場合も絵と文章の違いはあるが、これに近いのではないかと思う。
 最初は何も考えずに手の赴くままに線を引く。何かを描こうなどとは思わない。むしろ従来の自分が引きたい線に逆らうように、全くでたらめに線を引いていく。ゆっくりだったり、勢いをつけたり、気ままに何も考えずに。

 やがて、幾つかの線が自分の頭の中にある、ある種のイメージに結びつく瞬間がやってくる。まあ、そうなるまでやたらと描くわけだが、今回もそうだった。
 まず、沢山の線の中に人体の腰のような曲線をみつけて、それがヒントになった。それから開脚した両足などが、空中にばらばらに浮遊するイメージが浮かんできた。
 後は、そのイメージ通りに色と形を付け足していく。相変わらず稚拙な絵だが、自分ではグラデーションをつけた空間の感じと、様々な人体パーツたちの無秩序な浮遊感がちょっと気に入っている。このイメージは暫く続くかもしれない。

抽象画の世界
 息子からアクリルガッシュの絵の具を貰って「絵らしきもの」を描き始めて間もなく1年半になる。大抵は一週間もたたないうちに描くところがなくなってしまうくらいの簡単なものだ。
 絵と呼ぶのはちょっと気が引けるくらいのしろものだが、描いている間は、形をどうするか、色をどうするか、などとかなり真面目に考えるのだから自分なりの創作活動には違いない。同時に私は、自分が目指しているのは抽象画だと勝手に思い込んでいる。

 問題は、この先自分の絵(抽象画)がどこに向かうのかである。同じようなものを描いていても飽きがくるし、かといって新しい方向を見つけるのには手掛かりが足りない。そこが悩みといえば悩みである。
 先日も、市民会館で絵画愛好家たちの美術展を見たが、不思議なことに日本画でも洋画でも舌を巻くほどうまい具象の絵はあるのだが、抽象画は殆どない。抽象画というのは、素人が真面目にやるには適してないのかどうか、良く分からない。

躍動する抽象
 そこで、ふっと思い出して35年も前に買っておいた講談社「現代の美術(12巻)」の中の一冊、「躍動する抽象」を引っ張り出して読んでみた。その始めに大仰なことが書いてある。
 「人は何のために生きるか?抽象絵画もまたこの問いに無縁ではあり得ない。それどころか、人はこれらの絵に、苦悩、激情、叙情、偶然、拒絶、無秩序、行為、混沌、生成、恍惚、絶望などのことばで辛うじて暗示することのできる、生のもっとも根源的な諸様相を見出すことだろう。」

 「抽象作用と言うものは、人間精神の最も基本的な能力である。(中略)これらの絵は、そういう世界に呼吸している画家の眼と手、思索と感覚のダイナミックな作業をとおして、精神の流体”の多様な姿を私たちの前にくりひろげる・・・。」
 画集の中には、なるほど、抽象画の巨匠たちの迫力に満ちたダイナミックな絵が並んでいる。これを見ると、私の絵などはとても抽象画のジャンルにも入れてもらえない気がしてくる。

アウトサイダー・アート
 そんな時、昨日の「新日曜美術館では、正規の美術教育をうけていない人のアート作品を取り上げていた。これらをアウトサイダー・アートというのだそうだ。作者は主に知的障害を持った人たちだが、彼らが自分の内なる思いに動かされて自分のためだけに作り上げたアートだ。
 番組では、彼らを「描かずにはいられないから描く、絶対唯一の表現者たち」と言っていたが、その絵はどんなジャンルにも属さない不思議な絵。でも見ているものたちの気持ちを自由にし、様々な固定観念を開放してくれるアートでもある。

 自分の絵は、まだそこまで突き動かされて描いているわけではない。でも、以上のようなことを模索しながら道なき道を歩むのも、楽しいと言えば楽しい。そんなへ理屈先行の私に、デザイナーの息子からのメール。
 「なかなかいい線いってますな。芸術はでも、難しく堀り下げるのも楽しいし、衝動的に楽しむのも粋でっせ。」うーん、奥が深い世界だなあ。

2008年2月10日(日)
2回目の「明日への遺言」

 「歳を取ると涙腺が緩んで涙もろくなる」なんていうけど、近年とみに涙もろくなった感じがする。
 外出して寒風に当たると右目の方から余計に涙が溢れてくる。冷気に対するアレルギーなのだろうが、物理的に右目の涙腺が緩んでいる証拠ともいえる。
 しかし、感情が揺れて涙が出るということについて言えば、どうもそればかりではない気もする。涙腺も緩んでいるのだろうが、単に歳を取るのとは別な理由もあるのではないか。今回はそんな話。

「明日への遺言」で泣く
 先日、小泉尭史監督の映画「明日への遺言」を見た。去年9月の試写以来2回目だが、今回は何故か見終わって呆然とするほどの感動を味わった。
 映画の冒頭、加古隆の美しい音楽が流れ始めたらもう涙がじんわりと溢れてきた。どうなっているのだろう。
 法廷での息詰るやり取りが展開される間は辛うじて涙が乾いたが、後は涙が出っぱなし。最後にはみっともないけどハンカチを引っ張り出してごしごし拭いていた。

 それでなくとも、この映画には感動する要素が詰っている。どうも、そのシーンに差し掛かると、こころが先回りして涙が出るように準備しているような気さえする。
 まず事実の重さが感動を呼ぶ。アメリカの無差別爆撃を戦争犯罪だとして法の戦い(法戦)を貫くと同時に、一人で責任を負って部下を救った岡田資中将の稀有な生涯。
 法廷で見守る家族と岡田との無言の愛。無差別爆撃の悲惨さを証言する目撃者たち。岡田に共感しつつも裁判を厳正に進めようとするアメリカの裁判官、検事、弁護士たちの姿勢。

 それぞれが泣かせ所ではあるが、この映画にはもっと大きなメッセージが含まれている。それは戦争の悲惨さと平和の貴さである。
 冒頭、ドイツによる、イギリスによる、日本による、そしてアメリカによる無差別攻撃で傷ついた民衆の映像が次々に映し出される。広島、長崎の原爆もある。
 岡田が彼のいう「法戦」を通して訴えたのは、どのような戦争でも正義の戦争はないと言うことである。そして一命を賭してそれを言いえた満足感を持って、悠然と死刑台の階段を上っていく。彼の平和への願い、遺言が彼の後姿に重なって涙が出る。

アメリカで大絶賛
 その上、今回はもう一つ泣ける要素が加わっていた。「明日への遺言」が2月始め、アメリカ・カリフォルニアのサンタバーバラ国際映画祭で上映されたという情報である。
 この映画には、引き据えられたアメリカ兵に日本兵が日本刀を振りかざす処刑写真が出てくるし、その処刑方法を巡って検事と岡田との激しいやり取りがある。また、アメリカの空襲や原爆によって死に、傷ついた日本人の悲惨な映像が出てくる。

 下手をすれば、これはアメリカ人の神経を逆なでする話である。それなら日本軍はどうだったのか、と言われそうな話でもある。
 現地入りした監督も緊張したらしい。しかし、映画が終わった時、アメリカ人観客は全員立ち上がって拍手をし始め、その拍手は暫く鳴り止まなかったという。

もう一つの視点
 この話が頭にあったために、今回は何か余計に涙が出たたように思う。自分の感情にアメリカの観客の感動まで加わった感じだ。
 まず、戦勝国が主導した裁判で、戦勝国の戦争犯罪について一歩も引かずに激しい論戦を戦わせる、その裁判の公平さに感動する。そのことに、心からの感謝を述べる岡田の言葉が胸を打つ。

 また、岡田が長男夫婦をアメリカ人弁護士に紹介するシーンで「彼は特攻隊だったが、今は教員で文学と演劇を教えている。妻の方は教育に舞踊を取り入れたいと考えている。」というような何気ない会話も生きてくる。
 野蛮な民族と思って無差別に殺した敵の市民にも高い教養と文化があったということが伝わるからだ。

涙の引き出しが増える
 2回目の試写はこうしたことも加わって新たな感情移入が起きたのかもしれない。というわけで、思い当たったのは「年取って涙もろくなる」のは、涙を生み出す感受性の引き出しがそれだけ増えたということ。
 もちろんただ歳を取るだけが能ではないが、経験を積み重ねて、物事の見方や感じ方が多様に豊かになれば、それだけ涙もろくなる。別に恥ずかしがることもないか。
 小泉監督は、こうしたことまで周到に計算に入れてシナリオを書いている。映画が普遍性を持っていて、様々な人が様々なところに感動する。そこがこの映画のすごいところである。(3月1日公開)

2008年2月3日(日)
ご先祖探しの効用

 前回の続きのようなことになるが、自分のご先祖たちがたどってきた道のりに思いをはせていたら、何か不思議な感情が沸き起こってきた。今回は、手探りしながらそれを書いて見たい。
 前回、400年続く茶道の家元とか、もっとずっと昔にまでさかのぼる皇族のことに触れたが、自分のご先祖をいきなり「アメーバのような微生物」というところまで行かずに、もう少し具体的にどこまでさかのぼれるのか調べてみた。

ご先祖探し
 それにしてもネット検索は便利。ちょっとした手掛かりを複数キーワードにしてインターネットで検索を続けるうちに、様々な歴史文献や研究資料が引っかかって来た。
 ご先祖の築いた戦国時代の平城の跡(こんなことを写真にとって調べ歩いている人がいる!)とか、鎌倉時代の主従関係の様子、さらには藤原何某まで行くとウィキペディア検索でどんどんさかのぼれてあの藤原鎌足にまでつながっていく(本当かなあ)。
 もちろん、その間、幾つか苗字が変わっている。役職が苗字になったり、或いは先祖の中に気まぐれの人がいて、同じ音の他の字を当てたりしているからだ。

 これもどこまで確かか分からない。しかも、藤原鎌足の子孫と言っても、現在までざっと40代も世代を重ねているのだから、現在の日本で彼の子孫は計算上少なく見積もっても一千万人くらいいるに違いない。
 その子孫の一人が江戸時代、関東のある県で刀剣関係の工芸家になった。わが家はどうもその子孫らしい。

ご先祖が生きた時間
 さて、そんなことをしているうちに不思議な感慨が起きてきた。つまり、そのご先祖たちは今の時代にまでつながる「命の悠久の時間」のほんのいっときを担って来たに過ぎないのだが、それぞれが生きた時間は時代時代で随分違っていたのだろうなあという感慨である。
 いろいろ悩みながらも、あるいは苦労しながらも各人各様、平安時代は平安時代の、戦国時代は戦国時代の、江戸時代は江戸時代の時間を生きていたに違いない。

 とすると、こんなことも言えるのではないか。つまり、人がその一生を生きる時間(の質)は、何も一つである必要はないということだ。私などは時代に取り残されまいと、情報の洪水に流されているような、誠にせわしない時間をあくせく過しているが、そんな必要はないのだ。
 別にそんな矢のような時間の流れに乗らなくても、ご先祖たちの生きた多様な時間を思えば時間の過し方はもっといろいろあっていいはずだ。長い目で見ればみんな大して有名になることもなかったが、そうして何とか生き残ってきたのだから。

自由気ままな時間
 社会経済を担う年齢層がみんなそういう意識では日本は没落してしまいそうだが、特に年金生活者になったら今のマスコミと世情が作り出す、あわただしい時間の流れに付き合うのは疲れるばかり。
 自分がこの世に生きるのは一回限り、などと思うから有意義に生きようなどと思うのだがそう焦ることはない。

 こう考えると、この先にある時間はこれまでとは一味違う、どんな使い方をしてもいいゆったりした時間が流れているように思えてくる。これって別に無理に頑張らなければ、生まれて初めて自由気ままな時間を得たということかもしれない、ということ。(それなりに工夫もいるが)
 世間には、自分のご先祖のことを調べたがる人々がいてかねがね不思議に思っていたのだが、案外こんなところに理由があったのかも。

2008年1月26日(土)
命の時間

 先日、あるお茶の御宗家と食事をする機会があった。400年続いた家柄。何をやるにしても「ご先祖で流儀を始めた○○さんだったらどうするかと言うのをいつも考える」という。やはり自分の体の中に一つの芸術文化を打ち立てた歴史上の人物の血が流れていると言うことは、それなりにその人の背骨を形作るものなのかもしれない。

日本文化の継承
 その御宗家が「日本と言うのは素晴らしい国だと思う」と言うわけは、様々な文化が代々受け継がれながら洗練され深まっていく、その仕組みである。そういえば茶道ばかりでなく能、歌舞伎、狂言などの様々な芸道も継承という仕組みに工夫を凝らしてきた。
 明治以降に発明された家元制度もいろいろ問題もあるが、お茶に限らず華道や踊り、行儀作法にまで取り入れられてその流儀の継承に役立っている。

 一つの技能として始まったものが、先達の工夫によって一つのジャンルとして成立すると、さらに幾つかの派に分かれながらも洗練されて精神(こころ)が深まり、日本文化を形成していく。お茶でも生け花でも何でも「道」になっていく。こんなことは外国には見あたらないそうだ。
 千利休の流れを汲むお茶の世界には、茶碗、茶器、釜、表具などの道具を作る千家十職というのがあるが、それも江戸中期から代々続いているという。

文化継承の家柄、血筋
 そういう時の流れを経るうちにも、後継者は先祖の流儀をただ守るだけでなく、その時代、時代の工夫を御付け加えたりしながらその文化を豊かに洗練していく。日本独特の不思議でユニークな文化継承法である。
 一方で庶民もそうした歴史ある家柄に一種の憧れを抱く傾向がある。元はと言えば歌舞伎などは身分の低い芸能集団から生まれたものだが、やがてそれが時代を経るうちに特別な家柄のように見られて大事にされていく。

 家柄とか、血筋とかいうものは不思議なものだが、それはこうして文化や歴史の担い手としての名声を伴うから独特の響きを持ってくるのだろう。
 私などは目の前に400年の歴史を持つ名家の当主を見てもあまりピンと来ない方だが、その昔、同年代の皇族の一人と話をした時には、「世の中に家柄と言うのが様々あるけれど、この人ほどはっきりとさかのぼれる家柄の人はないなあ」と不思議な感慨を持った記憶がある。

我が血脈
 ところで、お前は?と聞かれれば、「自分のご先祖はアメーバのような微生物」と答えるしかない。この命は地球上に生命が発生してから気の遠くなるような時間を経て受け継がれてきた命だというのが一番ぴったりくる。

 それも考えてみれば不思議なことである。自分の血脈をさかのぼっていけば、戦国時代を生き延び、弥生、縄文の飢餓に耐え、さらにはアジア大陸から海を渡る冒険を成し遂げ、アフリカにまでさかのぼる。
 さらには人間から類人猿、ねずみのように小さい猿、そしてもっとづっと昔の海中の生き物時代を経て微生物の時代までさかのぼる。その間、一度も途切れることなく子孫を残してきたから、今の自分がいる。

つないできた命
 私の祖先が日本人になってからでも、ひいばあさんの実家は帰化人系の姓で「秦の始皇帝からの系図があった」などというとんでもない話が残っているくらいだから、大陸から波状にやってきた民族の血なども混じっていることだろう。
 自分の血脈がどんな文化や歴史を残してきたのかは分からないが、こうして生き延びてきただけでも大したものかもしれない。

 その上、もっとさかのぼれば?・・・現代の科学は生命の起源に必要な物質(重い元素)が宇宙の生成を繰り返す過程で生まれることも知っている。さらに惑星や太陽系を作った宇宙の始まり137億年前の「ビッグバン」にまでさかのぼる。
 私たちは、この宇宙の物質の生々流転、生命進化、そして人類誕生の歴史までの壮大な物語を知り得る時代に居合わせた。宇宙誕生から生命進化の長大な時間は、今この世に生きている人々すべてに平等に流れている。この命もみんなの命もできるだけ大事にしなければね

2008年1月20日(日)
HPの改修

 「何で?」と息子には尋ねられたが、HPの表紙を改修して見た。トップページから、「日々のコラム」と「私の番組批評」を削除し、「風の日めくり」をパスワードで見られるようにしたことである。
 特にこれと言って大きな理由はないが、強いて言えばあまり気兼ねなく「風の日めくり」を描いて見ようと思ったこともある。

 最近特に感じるのだが、日本の非生産的な、せちがらい風潮が嫌になった。 (私のことではないが)出る杭は打つ、人々の嫉妬心を煽って小さなことで足を引っ張る、何もリスクを犯さない人々が自分を高みにおいて批判する、誰もが自分が一番賢く、正しいと思っている社会になった。
 かく言う私もその一人だが、一億総批評家、知的レベルも高く?情報も豊富なだけに誰もが一家言持って論評し、批判する。そうこうするうちにリスクを取って行動する人々が少ない、元気のない社会になっているのではないか。
 
 日本は今、経済的、国力的に衰退に向かっていると言う意見が多くなりつつある。政治を見ても、互いに足を引っ張り合っているうちに貴重な時間を空費して日本と言う船が沈んでいく。昔は「知行合一」という言葉があったが、今は言葉だけがわんわんと飛び交うばかり。

 時代の閉塞感」にも書いたが、いまは日本がどういう国を目指すべきなのか、価値観のしっかりした「国のグランドデザイン」を描くべき時。地球温暖化に対しても、環境対策で世界をリードしようとしているドイツを始めとするEUに比べても、日本は国の方向を定めることが出来ずに、漂流しているとしか見えない。
 国の方向、目指すべき価値観がバラバラな中で、ちょっと頭が働く人々は悪知恵を働かして法を犯す。それが社会の日替わり的な大騒ぎになる。

 何か事件があるとすぐ感想めいた批評をしたくなるのだが、そういう目の前の事象に絡んでみるだけのことはできるだけ避けて、少し思考を深めてみたい、という思いも強くなった。
 というわけで、今回の改修はトップページに掲げたように「市民としての生きかた」を考えるということに忠実にありたいため。多くの人に読んでもらうと言うより、何がしかの生きかた、行動に役に立てようという自分の思考のため。

 思考がある程度まとまったと思える内容については、「日々のコラム」に格上げしてリンクを張る日も来るかと思うが、当面はこれで。
 お役に立つことは少ないとは思いますが、お付き合いをして下さる方々は、このページを「お気に入り」に登録していただければ幸いです。

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