日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。
COP15を乗り越える 09.12.27

 190カ国以上の国が参加したCOP15(コペンハーゲンでの国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議)が閉会した。結局のところ決裂を回避して、(留意するという)微妙な合意は作ったが、具体的な削減計画は決められずに終わった。今回のCOP15をどう見ればいいのか、またこの後、世界は温暖化に立ち向かえるのか、今回はこのテーマを考えてみたい。

「エコよりエゴ」だけでいいのか
 閉会の翌日、COP15の経緯を伝える新聞各紙を読み比べて見た。「何も生み出せなかった」(毎日)という否定的な見出しから「合意文書承認、採択見送り 決裂回避」(朝日)、「温暖化・政治合意を了承」(日経)と一定の評価を与えるものまでいろいろ。同じ紙面でもニュアンスの違う見出しが平気で混在する。会議の経過があまりに複雑怪奇で、記者によって受け止め方がマチマチなのだろう。

 環境先進国として会議をリードしたいEUや日本。国内に反対派を抱えて不十分な取り組みしかできないくせに会議をリードしたい姑息なアメリカ。先進国並みにCO2を排出しているのに発展途上国の立場を利用して徹底的に国益を貫いた中国やインド。そして、最も被害を受けやすい立場なのに発言権がまるでなく不満を爆発させたアフリカや島国。
 期間中、参加した国々の思惑の違いが浮き彫りになり、合意を見つけるのが難しい会議だった。それを、マスコミは「エコよりエゴ」などと揶揄して国家間の駆け引きを伝えるのに終始。結果、中国が得してEUと日本が損をしたというような短絡的な解説も目立つ。この機会に日本は25%削減という突出した目標を見直すべきだという意見も多い。

 しかし、本当にそんなことでいいのだろうか。ご存知のように地球温暖化問題は誰が勝って誰が負けたと言ってすまされる問題ではない。中国のように一時は勝ったと浮かれていても地球全体が荒廃の淵に沈んでいけば、自分たちだけが生き残るわけにはいかない。皆、同じ地球と言う船に乗り込んでいる以上、船が遭難すれば特等室も大部屋もない。しかも、人類に残された時間は既にかなり少なくなっているのだ。

COP15の成果と課題
 というわけで、(地球温暖化が人類最大の問題と思っている者としては*)まず、COP15の成果と課題を整理して、何とか次のステップにつながるヒントを探してみたいと思う。  *過去記事(「地球温暖化は防げるか?」ほか)

 最初に成果の方。これは会議が当初目指していた成果からは程遠いものだが、最悪のケースから見れば一応の前進と評価される類のものだ。
@ 京都会議(‘97年)では参加を拒否した中国などの途上国と、会議から離脱したアメリカが最後まで議論の土俵にとどまり、決裂が避けられたこと
A (首脳国合意案が「留意」されたことにより)各国が自主的な削減目標を来年1月までに決めると言う共通の認識が作られたこと
B 従って、全般的に言えば、地球温暖化問題は世界中の国々が、それぞれの責務を負って取り組むべき人類共通の課題だという認識が定着したこと
C 先進国が発展途上国の温暖化防止政策を支援するための資金(‘20年時点で1千億ドル)を拠出することにより、発展途上国の参加の枠組みが見えて来たこと

 一方、課題は山のようにある。
@ 先進国、主要途上国の削減計画の策定が来年1月末まで先送りとなり、しかもそれは各国の自主目標で法的拘束力のないものになってしまったこと
A IPCC(国連の政府間パネル)が打ち出していた、「2050年までに90年比で50%削減」と言う具体的な大目標も、また2020年までの中間目標も書きこまれなかった(認知されなかった)こと
B 従って、仮に世界各国が削減計画を出したとしても、それが温暖化防止に有効なものになるか保障の限りでないこと
C つまり、決裂は避けられたものの、この先どういう展開になるのか、全く予測不可能な状況にあること

 新聞各紙の見出しが微妙に違っているのも、こうした状況を「現在必要とされる目標には全く届かなかった」とみるか、「以前に比べれば少しは前進した」と見るかの違いだろう。
 しかし、何度も言うように、世界はこの問題から逃げることはできない。従って、ただ無力感を書きたてるような書き方や、だから日本も見直すべきだといった論調は不毛だと思う。「脱温暖化の流れは止まらぬ」(朝日)の記事のように、ここは不十分ながら何とか全地球レベルの議論が始まったことを前向きにとらえるべきではないか。そして、日本がリードしつつ次のステップへ進むための糸口を懸命に探すべきだと思う。

国家エゴを抑え込む論理はあるか
 COP15では国家エゴの衝突が目立った。途上国は、現在までに蓄積されたCO2は先進国の責任だから、まず先進国の削減が先だと言い(歴史的責任論)、先進国は排出量で50%を超える途上国の協力がなければ駄目だと主張する。その間にあってアメリカのように、20%も排出している先進国でありながら規制を受けるのは嫌だと主張する(温暖化には科学的根拠がないという主張も根強い)我儘な国もある。
 こうした国家エゴを抑え込んで、皆に参加を促すような公平で公正な論理はないのだろうか。

2人の経済学者
 実は最近、このような課題に取り組んで来た経済学者の講演を聞いて目からうろこが落ちるような思いをした。地球環境問題に貢献した世界の学者を表彰する、旭硝子財団の「ブルー・プラネット賞」の授賞式(10月19日)。今年の受賞者の宇沢弘文氏とニコラス・スターン卿(英国)は経済学者だが、2人とも地球温暖化問題で先進国と途上国が公平に参加できる理論を長年追求してきた。

 まず、宇沢氏は人類が共同で守るべき地球環境の経済的価値を定義し、各国が負担すべき「炭素税(広い意味での環境税)」を提案。それも、途上国と先進国が公平に負担するために、国民一人当たりの所得に比例する「比例的炭素税」の考え方を提唱した。さらにそれだけでは不足として、途上国を支援する国際基金の創設を提唱している。

 また、スターン卿は、2050年に50%削減という人類共通の目標を実現するためには、今なら世界のGDPの2%の費用で済むことを試算。これが、対策を取らずに行くと今後200年の間に、地球的損失は最終的にGDPの20%にも膨らむと警告した。その上で、先進国と途上国間で活発な排出権取引を行うこと、環境技術の移転、2015年までに先進国は途上国にGDPの0.7%を供与すること、などを提言している。

 2人とも、温暖化防止の国際会議でこうした提言を行ってきた。特にスターン卿は最近のCOP会議の理論的支柱になってきたという。私は、彼らの講演を聞いた時に、京都会議の時から随分と考え方が進んでいるという印象を持った。当時は、ただ危機感からお互いに政治的圧力によって削減計画を押し付け合っていた感じがしたからである。
 それに比べると今回のCOP15では、国際的な基金の創設や環境技術の提供など、先進国と途上国間の公平を図る一定の進展があった。私は、この背景には、科学的データの蓄積の他に、こうした学者たちの寄与があったのではないかと推測している。

 宇沢氏のいう国際的な「炭素税」の考えは、国の主権が壁になって受け入れられておらず、国際社会が納得する考え方を確立するには、まだ道は遠い。しかし、これまであまり伝えられていなかったが、国際会議の裏側では少しずつ論理的な補強が進められており、国家エゴを説得するための武器を手にしつつあることも事実のようだ。

我儘が通らない社会にするために
 さて、こうした学者たちの努力を踏まえて、次のステップを切り開くために何が必要なのかをおさらいしてみたい。
@ 2050年にCO2を半減する(それによって気候変動を2度以内に抑える)ということを人類共通の目標として認めること
A 先進国も途上国も公平に参加できる削減計画のガイドラインを構築すること
B 途上国支援のための(先進国が拠出する)国際基金を充実させること
C 温暖化を緩和するための技術開発を奨励し、人類で共有すること

 このうちやはりAが一番のネック。これは例えば、先進国が自ら大幅に削減する一方で、途上国に対しては経済発展を阻害しないような削減を促す「ガイドライン」を作ることである。このガイドラインがなければ無法地帯と同じで、発言力の強い者が我儘を押し通すことになる。
 従って、大方の賛同を得られる公平な考え方を早急に打ち出すことが必要で、COP16までの1年間がその勝負の年になるだろう。

マスコミの役割
 そのガイドラインが出来て、こうした認識が国際的に共有されれば、国益を貫いたなどと言っている中国やアメリカの横暴は世界的な非難の的になるはずなのだ。また、そういう状況を是非とも作っていかなければならない。

 というわけで、最後に強調しておきたいことがある。マスコミは単に勝った負けたではなく、少しずつ進化している「国際社会を説得する考え方」を出来るだけ分かりやすく伝えること、そして、(多少の不公平はあるけれど)日本の25%削減も2050年へ向けての先進国の役割としては避けられないものだということ、をしっかり伝えることに努めてもらいたいと思う。(なぜ、日本が地球温暖化問題で国際的なリード役を担うべきかは別途書きたい) 

日米関係をどうする? 09.12.12

 普天間基地の移設問題は、政権が「迷走」しているうちに、様々な可能性が浮かんでは消えている。それでいいのではないか。皆で悩むうちに、最後の落とし所が見えてくるかもしれない。(あくまで可能性だが)

グアムは狭すぎる?
 ところで、「日々のコラム」に「迷走大いに結構」を書いた後、日頃共感を持って覗いている「日本軍事情報センター」のコラムを見たら、私も触れたアメリカの「グアムの計画」について新しい見方(情報)が書かれていた。
 近年アメリカが、沖縄の海兵隊ヘリを含む大部分の部隊をグアムに移転し、ここに実部隊を伴う太平洋司令部を設ける計画を着々と進めていたのは事実。この中では一部に、普天間の海兵隊ヘリの訓練基地もグアムに作る、従って、辺野古に新しい基地は必要がない、という考えも出ていたらしい。

 しかし、ブログの主の軍事ジャーナリスト、神浦元彰氏が書いたものを読むと、ここへきて事態が急変したのだという。詳しくは彼のブログを読んでほしいが、グアムは狭すぎて十分な訓練用地がとれないということ。アメリカもそれが分かって来て、焦っているのだという。
 現在、アメリカが辺野古への移転を強く言う背景には、アメリカ軍のグアム移転計画にこうした杜撰な点が見つかってきたことが影響しているという。

我慢ができないマスコミ
 そういう背景があるのなら、アメリカが「言うことを聞かなければ、グアム移転も見直す」と恫喝したり、「普天間の一部部隊を他に移設してもいい」と普天間存続を模索している理由も見えてくる。
 だが、その神浦氏も日本の防衛族の主張や、アメリカの杜撰な計画の尻拭いのために拙速に物事を決めない方がいい。沖縄県民のことを考えれば、ここはじっくり検討する方が日米両国にとってもいいという論調だ。

 それにしても、なぜ日本のマスコミは揃いも揃って、「日米関係を危険にさらす民主党」とか、「日米関係がぎくしゃくしているときに、小沢が中国に行くのは慎重さを欠いている」だの、「鳩山政権は連立与党の攻勢にあって迷走、出口なしの状況」だのと一方的に決め付けるのだろうか。基地問題の複雑さや日米同盟の将来像を十分考えて言っているのだろうか。

 いずれにせよ、もう少し時間をかければ、いろんなぎくしゃくも含めて、この問題の様々な背景が浮かび上がってくるに違いない。その中で、「アメリカを怒らせたら大変なことになる」という日本のマスコミが金科玉条のように思い込んでいる「思い込み」も検証されるとすれば、それがこの普天間問題の大きな副産物かもしれない。

日米軍事同盟の機能とは?
 今、日本とアメリカはなぜ軍事同盟を結んでいるのか。なぜ日本にとって同盟関係が必要なのか。まず、軍事的な面で言えば、極東の安全問題がある。その点で言えば脅威となり得るのは、「北朝鮮のミサイルと核問題」、「中国の軍拡、尖閣列島問題、天然ガス問題」、「韓国の竹島問題」だろう。これらの問題が抜き差しならなくなって、本当にアメリカ軍が出動するような事態にまで発展する可能性はあるのか。

 新聞の論調は、そこには危険が迫っていて、何か起きた時にアメリカに見放されたら大変だという考えに基づいているのだろうが、本当にそうか。起きるまでには、それこそ幾つもの外交的段階が横たわっているはずだ(だからこそ中国、韓国とも話せる環境を作っておく必要がある)。あるいは、後ろにアメリカが付いているということが、彼らの自制心にどの程度効力があるのか。仮になければどうなのか。
 一方のアメリカから見たらどうなのか。アメリカはなぜ日本との軍事同盟を必要としているのか。日本との軍事同盟はアメリカの極東戦略、特に軍事力を背景に世界戦略を展開する中国への圧力として、なくてはならないものになっているに違いない。そうした双方にとっての意味も評価しなければならない

 軍事的ではなく世界的な問題ではどうか。経済的にはどうか。経済的には、(巨大な中国の登場もあり)日米関係は切りたくても切れない、より対等なものになっているのではないか。一頃、アメリカの基準を押し付けた時のように、もうアメリカが日本を脅すというような関係でなくなっているのではないか。或いは、地球環境問題ではどうか。(アメリカとのお付き合いという意味合いが強い)テロとの戦いではどうなのか。
 いずれにしても、軍事的、経済的、世界的問題の側面から、日米同盟の機能をもう一度多面的に再評価した方がいい時に入っているのだと思う。

日米関係を成熟させるために
 日本が、これからの多極化した世界を生きていくためには、日米同盟があるからと言って、何でもアメリカの言う通りにやっているというだけでは生きていけない。自主、自立の外交を模索しなければ、日本はますます影の薄い国になっていく

 私は、日本とアメリカが(中国と違って)民主主義、自由主義を共有している以上、日米関係の重要性を否定はしない。だが、日本とアメリカの間には「ペリー以来のいわく言い難い心理上の行き違い」も横たわっている(「日本がアメリカを赦す日」岸田秀)。
 親分であり、保護者であると思っているアメリカとそれに甘んじて耐えている日本。その関係は日本に国家としての主体性を捨てさせ、自立した国に当然備わっているべき様々な価値観(例えば、自分の国の平和は自分で守る。自分の国の国是で外交を展開する、など。)の崩壊を生み出してきた。日本がそうした立場にうっ屈を感じて自立しようとしたりすると、アメリカの怒りを買い、日米関係はぎくしゃくする。お互いに感情的になりやすい
業のようなもの(心理的トラウマ)を内在させているという説だ。

 それを頭の片隅に入れながら、冷静に粘り強く話し合って、新しい時代にふさわしい、お互いのメリットが明快な日米関係を模索する。そのためにはお互いに感情論を排しての、合理的かつ多角的な検討の積み重ねが必要になる。それには一定の時間も必要だ。その上で、また左派的反米主義にも、極右的国粋主義にも左右されない、揺るぎのない新たな関係を構築していければいい。
 日米同盟50年の来年に向けては、(日米関係の過去のトラウマを脱することも含めて)そうしたチャンスの時。新聞やテレビも近視眼的に大変だ大変だと騒ぐのではなく、こうした視野からも冷静に報道し、新しい時代を切り拓く手助けをしてほしいと思う。 

迷走大いに結構 09.12.8

 沖縄の普天間基地をどこに持っていくかについて、民主党の判断が遅れて年を越しそうだというので、日米合意(辺野古への移転)の早期決着を求めているアメリカの怒りを招いているという。アメリカ大使が激怒したとか、アメリカ側の専門家が、この決着が遅れれば、基地の見直しはまた10年も15年も先に伸びるだろう、というような恫喝に近い意見を吐いたとか、マスコミが伝えている。

あちら立てればこちら立たず
 この問題については、政府部内でも意見の相違が目立っている。年内決着を目指して来た防衛大臣(最近は軌道修正したというが)や外務大臣。基地の国外移転を要望して、沖縄の辺野古への移転に反対する社民党。社民党は政権離脱もちらつかせながら強硬に国外移設を主張している。社民党が政権離脱すれば、野党に参議院の過半数を握られていた前の自民党と同じで、政権運営はよれよれの状態になる。

 また、当の沖縄県民も県内移設には強く反対している。特に、移転予定地の名護市(辺野古)で市民の反対は強い。来年124日投票の市長選挙では受け入れ容認派と反対派の一騎打ちが予定されているが、このままではどうなるか分からない状況だ。
 ただし、その一方で普天間の方は「早く決めて欲しい。何時まで待たせるのだ、早く出て行ってくれ」という意見。
まさに、「あちら(アメリカ、自民党、普天間)を立てればこちら(民主党の一部、社民党、名護市)が立たず」の、針の穴を通すような政治的決断が求められる状況だ。その間に立って鳩山首相は年内決着を諦め、来年に判断を先送りした。

早期決着を迫るマスコミ
 首相が決断しないので、マスコミは「鳩山首相は人がいいばかりに決断力がない」、「問題を先送りしても状況は悪くなるばかりだ」、「民主党は誰が司令塔か分からない」と、言いたてる。
 さらに、「迷走する鳩山民主党」とか「遅れれば日米関係に重大な亀裂」とか言って早期決着を迫っている。(辺野古で決まればまた何かと文句を言いたい)新聞は立場を明確に言わないが、早期決着しろということはとりもなおさず日米合意の辺野古へ移転しろということ。マスコミが早期決着を言う裏側には、アメリカの機嫌を損ねたら大変という危機感、日米同盟が揺らげば日本はどうなるのかという(怯えにも似た)不安感があるのだろう。
 しかし、ちょっと待ってもらいたい。早く決めろ、アメリカを怒らせるな、と言うばかりでいいのか。そんな、単純に急かせるばかりの記事を書く前にマスコミはこの問題の本質をどのくらい国民に知らせているだろうか

不可解な移転計画
 今、アメリカはグアムに太平洋司令部を作って極東アジアの防衛体制を大きく変えようとしている。それはアメリカの世界戦略の検討の中から出てきた計画で、日本が頼んだわけではないが、日本は沖縄からグアムへの部隊移転に関して多額の費用(61億ドル=約5400億)を出すことで合意している。ただ、金額は決まっているのに、その全体像がよくわからない

 普天間海兵隊(ヘリ部隊)の基地として辺野古への移転を日米で合意した1996年の「SACO合意」。沖縄のアメリカ軍のかなりの部隊をグアムに移転するとした「再編実施のための日米ロードマップ」(2006年)。また、すべての海兵隊ヘリをグアムに受け入れ可能とした「グアム統合軍事開発計画」(2007年)。
 これら一連の計画の推移をみると、辺野古移転を決めた1996年の日米合意の後、アメリカの計画は大きく変化していることが分かる。現在は、グアムに太平洋司令部を置くだけではなく、沖縄の兵力(空軍、海兵隊)の大部分をグアムに移転させる計画であり、その中には、問題の普天間の海兵隊のヘリ部隊も含まれている。
 その計画から見れば、辺野古に訓練用の基地などを作らなくてもグアムで十分対応可能だという。

 辺野古移設を決めた「SACO合意」(1996年)は、当時、米軍の不祥事が頻発して基地撤廃運動が高まったことを踏まえて、日米で合意されたもの。しかし、10年以上たった現在、その後のアメリカ軍の世界的な再編計画の中で、合意の背景は大きく変質、辺野古移設の必要性は薄まっている。それなのに、日米とも意図的にこれを認めず、マスコミも全く伝えて来なかったのである。
*これらの驚くべき情報については沖縄・宜野湾市の伊波洋一市長が11月下旬、与党の国会議員に述べた内容として、同市のHPにかなり詳しく載っている。私は伊波市長の説明が鳩山政権の認識にかなりの影響を与えているのではないかと思っている。

 なぜ、日米政府(アメリカと自民党)は厳密にいえば既に必要のなくなった「海兵隊ヘリの訓練用基地」を辺野古に置くことにこだわるのか。なぜ5000億円もかけて新しい滑走路を作るのか。この問題の背景には不可解な謎が多いのだ。

事実に基づいた踏み込んだ解説を
 これは一つには、アメリカからすれば、日本の金でいつでも自由に使える基地ができるのであれば、それは確保しておいた方が便利だということ。もう一つは、日本からすれば、出来るだけアメリカの気に入る案にして、いざという時に日本を守ってもらいたいという願望があること、そして、あわよくば沖縄に落ちる建設費5000億の利権を手にしたいということ。
 その上でアメリカは、日本側の入り組んだ思惑を利用して脅したりすかしたりしながら、グアム移転の費用を出来るだけ日本から引き出すために高等なパワーゲームをしている。大体こんなところだろうと思う。(以上は推測)

 というわけで、この問題は伝えられているほど単純ではなく、新しい世界的な潮流の中で日米同盟をどうするのかという大きな問題とも関係している。しかし、その中で日本はどうすべきなのか、というような本質的な疑問に新聞は答えてくれない。
 軍事問題は難しい。それぞれの陣営によって全く正反対の解釈がまかり通る。民主党を迷走だと決めつけて満足しているような政治記者では無理だろうが、そんなことを言う前に、新聞もちゃんとした軍事問題の専門家を育てておくべきだと思う。そして、推測ではなく事実に基づいた、分かりやすい解説をして欲しいと思う。

迷走大いに結構
 さて、ここまで普天間基地の移設問題について書いてきたが、それはそれとして、私の言いたいことは他にもある。それは、「アメリカを怒らしたら大変だ」というところで、すべての思考が止まってしまう日本人の性癖についてである。
 政権交代で鳩山首相が「対等な日米関係の構築」を言って以降、鳩山論文がどうの、海上給油の継続がどうの、普天間問題がどうのという時に、大新聞は(まるでアメリカの代理店のように)何かにつけて「アメリカが怒っている」と報道してきた。

 来年は日米安保50年。日米同盟を再点検すべき時に、時代は冷戦の終結後、テロとの戦い、中国、インド、ロシアの台頭による多極化と、激しく変化している。加えて唯一の超大国だったアメリカに不況が押し寄せ、一極主義から国際融和を目指すオバマ政権が登場して変化の兆しが現れている。そういう意味で今は、日本はアメリカと新しい平和の枠組みを模索していく絶好の機会でもある。そういう時に、「アメリカを怒らしたら大変だ」と言って思考が止まってしまったら、新しい世界平和の枠組みなど考えようがない。

 イラク戦争の失敗にしろ、リーマンショックにせよ、地球温暖化対策にしろ、アメリカの選択がいつも正義とは限らないことは既に実証済み。マスコミが常套句のように使う「アメリカを怒らせたら大変」は、水戸黄門の印籠ではなくなっている。
 そんなことで一々思考停止せずに、アメリカの怒りはどういう結果を生むのか、それに日本は耐えられるのか、冷静に吟味しながら、日本とアメリカの関係を時代に合った、より建設的なものに育てていく。そのためには、多少の軋轢を恐れずに、日米で率直な議論を続けなければならない。私は、これが鳩山政権の重要なマニフェストの一つだと理解している。

 とは言え、これは戦後60有余年(或いはもっとさかのぼってペリー来航以来)、日本の誰もがなし得なかったこと。そのために時間をかけること、大いに迷うことが必要で、「迷走」などという単純な批判には絶えるしかない。
仮に、新しい時代の枠組みを見つける強い意思があるのならば(つまり単なる優柔不断でないならば)、「迷走おおいに結構」だと言ってあげたい。 

事業仕分けについて 09.11.27

 現在、民主党ら与党が進めている「事業仕分け」について私なりの考えを書いておきたい。というのも、この作業が今後、どのように変わっていくのか、国の予算作りをどのように変えていくのか、これによって税金が有効に使われるようになるのか、納税者の一人として現時点での考えをまとめておきたいと思うからだ。

事業仕分けとは?
 ご存知のように、この事業仕分けとは、行政刷新会議(鳩山議長、仙石担当相)が選んだ評価人(国会議員と民間有識者)が、来年度予算の概算要求95兆円の3000事業の中から抽出した447の事業を評価し、それぞれ事業の廃止、予算縮減、継続の3種類に仕分けていく作業をいう。
 この作業によって、総額3兆円の予算縮減を目指しているが、前半を終わったところで縮減されたのは、約4千億円(その他に余剰基金から9千億)である。24日から残りの200余りの事業について、仕分け作業が再開された。(27日まで)
 この作業は政権交代で採用された初めての試みでもあり、公開で行われているために、連日マスコミで報道されて賛否を呼んでいる。評価する向きもあるが、もちろん批判も多い。

主な批判と政府の対応
マスコミなどで報道されている批判は、例えば。
@ 廃止、予算縮減、継続の基準が不明確である。
A 民間有識者の仕分け人(評価者)がどのような基準で選ばれたのか、彼らがどのような思想の持ち主なのかはっきりしない。
B 評価対象となる事業や組織は財務官僚が選定したものであり、これでは財務省主導ではないか。
C 取り上げた事業が小粒でとても3兆円に届かない。本丸の独立行政法人、特別会計をも対象にしなければ大きな実を上げられない。
D 現場を知らない、専門知識のない仕分け人によって短時間(1時間)で結論が出されるのは無理がある。例えば、スーパーコンピュータなどの科学技術について仕分け人はどれだけ理解しているのか。

 こうした批判を意識したのか、作業班は前半を終ったところで、以下のような見直し基準(9項目)をまとめた。
・複数の省庁で行われている類似の事業
・効果の検証のないままに継続している事業
・独立行政法人、公益法人向け支出(天下り法人の人件費としての中抜き)
・広報・啓発事業。各省庁のIT調達事業
・特別会計の事業。公益法人の基金               など

 これらの基準はおおざっぱで、とても精緻なものとは言えないが、すでに作業が進行中ということを考えれば、ないよりは余程いい。走りながら考えたにしては、まあ納得のいく線と言える。
 さらに鳩山民主党は、(本当にやれるかどうか分からないが)対象になっている447の事業ばかりでなく、残りの国家事業にもこうした見直し基準を適用し、各省庁で仕分け作業を行うとしている。また、民主党が作った予算を同じ民主党が見直すのは理論上、筋が通らないとして、仕分け作業は今期限りとしていたが、最近はこの作業の意義を評価し、来年度以降も継続して行きたい意向だという。

評価する点、改良すべき点
 以上がこれまでの情報の整理で、これからが私の感想。結論から言えば、条件付きでこの試みを評価したい。条件については後で挙げるとして、評価の理由はこうである。
 まず、公開でやったこと。人民裁判だとか、公開処刑だとか自民党はケチをつけているが、社会主義国や官僚国家では逆立ちしてもこうしたことは出来ない。今は国の借金が刻々と膨れている上に、不況で税収が大幅に減っている時。税金を1円たりとも無駄にせず、出来るだけ効果的な税金の使い方を考えなければ、日本を建て直すことはできない。
 そういう状況の中で、仕分け作業を公開することによって、国民にも税金がいかにいい加減に使われているか、官僚たちが如何に危機感を抱いていないかがはっきり見えてきた。つまり、国民の前にすべてをさらけ出すことによって、いままで偉そうにしていた官僚たちの資質が見抜かれる。(もちろん、攻める側の仕分け人の信頼性もまた見抜かれる)。これが公開の意義である。

 いずれにしても、(政権交代のお陰で)仕組みさえ作れば、国の予算だって削ろうと思えば削れるのだと分かったことは評価したい。ただし一方で、この仕組みはまだまだ改良の余地があると思う。従って、評価の条件としてはまず、この試みを来年以降も継続すること。そして、国民の批判に耐えられるようにさらに改良していくこと、である。
 例えば、事業仕分けを法的にも整備して折角決めたことが骨抜きにならないように責任と権限を与える。また、仕分け人が信頼されるように、人選方法を明確にしていく必要もある。(これはとりもなおさず、予算編成における事業仕分けの位置づけを明確にすることでもあるが、その点は以下に)
 また、後で述べる国家戦略、国家ビジョンに照らして、何をどう仕分けていくのか「見直し基準」をさらに明確にして行くべきである。


事業仕分けだけでは不十分
 もう一つ大事なことがある。それは、今は事業仕分けが注目されていて、何となくこれさえうまくいけば、立派な予算編成が出来ると思われている節があるが、事業仕分けは万能ではないということ。
 というのも、今は国家の緊急事態。限られた予算の中で、日本再生に向けたより重要な政策を始めるためには、場合によっては、一見必要かつ無駄のない多くの事業にもメスを入れなければならず、その場合は、仕分け作業では歯が立たないからだ。つまり、大胆な予算の組み直しを可能にするためには、政策の優先順位を決めるための、さらに上位の国家戦略、ビジョンがなければなない。「無駄な予算をカットする」ために導入された事業仕分けだけでは不十分だということ。そのことを認識することである。

 しかし、残念ながら今は明確な国家戦略がない。マニフェストもバラバラでとても国家戦略とは言えない。従って、個々の政策の優先順位が明確でない。また、そのために(事業仕分けの位置づけもあいまいで)無駄と判定された事業でも復活折衝など、様々な政治介入を招く要因にもなっている。
 国家戦略室担当の菅大臣は、来年には成長戦略も含めて国家戦略を作ると言っているが、今の段階では事業ごとにある程度の無駄をカットしても、それで
日本を再生させるための有効な税金の使い方(予算編成)が出来たとはとても言えないということなのだ。

ビジョンなき予算は海図なき航海
 国の再建に取り組む時には、まず日本をどういう国にするのか、どういう方向で国を元気づけるのかという国家戦略、国家ビジョンが必要になる。国家戦略、国家ビジョンがなければ、幾らエンジンを新しくしても「海図なき航海」のようなもので国民は船がどこに向かって走っているのか不安になるし、官僚たちの力も結集できない。
 こういう考え方は、これまでも様々な会社の建て直しや業務改革(CI事業)で取り入れられたものだが、これについてはいつか詳しく書いてみたい。しかし、残念ながら一連の報道をみていると、政治家にも仕分け人にも、また官僚にも、こうした考え方が共有されているとは思えない。

 仕分け人の方も、
個々の事業の有効性、効率性を追求するのに急で、ではそのテーマを国としてどうするのかという国家百年の大計を考えているとは思えないところが多い(もっとも批判の出た科学技術だって、専門家によるきちんとした評価は必要だと思うが)対する官僚たちの答弁はもっとひどい。自分の管轄からだけ発想した、つまらない事業にこだわり、その必要性を述べ立てるばかりで、国家の現状を踏まえた大局的な視点からの発言はない。管轄外の役所で行われている類似事業について知りもしない。

国家予算のあり方について根本的な議論を
 明確な国家戦略やビジョンがあり、(それを反映した)具体的政策が見えていれば、国家予算を編成するための様々な有効的手法が見つかるはずだ。もっと大胆な予算編成の考え方(本当はこちらの議論の方が大事)だって取り入れなければならないはずだし、その手法の一つである「事業仕分け」の役割も明確になるはずだ。言い換えれば、事業仕分けは、明確な国家戦略のもとで使われることによって初めて十分な機能を発揮するものである。
 もちろんその時、国家戦略の考え方は少なくとも与党の政治家や官僚たちに共有されていなければならないし、そして(賛否は別として)マスコミや国民にも明確に説明されていなければならない。そうでなければ、大胆な予算の組み直しなどはできない。

 事業仕分けという初めての試みによって、予算編成の様々な問題点が浮かび上った点は高く評価したい。しかし、上のような状況をみると、もっと根本的に「今の時代に即した予算編成のあり方」を問い直す必要があると思う。
 報道の方も個々ケースを煽りたてるばかりでなく、もっと冷静にこうした問題の本質をこそ掘り下げるべきだと思う。 

戦争を始める論理 07.8.31

 以前からの宿題である「日本を幸せにする5項目」の一つ、「戦争を回避する広範なシステム」について書かなければと思っていたのだが、テーマが大きすぎてなかなか手がつかなかった。しかし、最近は集団自衛権の行使を検討する動きなどもあって、そうのんびりもしていられなくなった。
 そこで、少しずつ小分けにしながら継続的に考えて行くことにした。今回はその手始めとして「戦争を始める論理」の愚かさ、危なさについて取り上げてみたい。
 
  どんな戦争でも、戦争が始まる前には様々な、もっともらしい「戦争を始める論理」が登場する。それがまず、戦争を始めたい政治家、軍関係者によって声高に論じられ、やがて国民を悲惨な戦争に巻き込んでいく。 それは戦前の日本だけでなく、アメリカのイラク戦争でも同じだった。

◆ 「アメリカの終り」
 アメリカの政治思想家、フランシス・フクヤマの「アメリカの終り」はイラク戦争に関するアメリカの失敗を考察した本である。全体230ページほどでそれほど厚い本ではないが、出版されると(宣伝文句だから多少割り引くとしても)世界で一大センセーションを巻き起こしたという。
 なるほどそうかもしれない。その内容は、イラク戦争の泥沼でもがいているブッシュ政権の心臓をえぐるような衝撃力を持っている。

  彼はアメリカのブッシュ政権の中枢を占めていた、いわゆる「ネオコン」(ネオコンサーバティブ=新保守主義者)たちと同じ思想を共有していたというが、イラク戦争をきっかけにネオコンと袂(たもと)を分かった。
 本の中で彼は、20世紀半ばから始まったネオコン思想の歴史と、その思想的特徴を整理し、その上で今回のイラク戦争ではいかにその思想がゆがめられていったかを一つ一つ指摘していく。

◆ブッシュ政権の予防戦争
 ネオコンはその思想的特徴の一つとして「アメリカの力を道義的目標に使うことが出来るという信念」を強く持っていたが、フクヤマによれば、ブッシュ政権内のネオコンたちは力と道義(正義)を結びつけることが可能であると考え、いつの間にか国家目標達成の手段として力、なかんずく軍事力を過大評価するようになってしまった、という。

 その端的な例が、2002年に発表された「先制攻撃ドクトリン」である。その中で、ブッシュ大統領は差し迫った危険に対する「先制攻撃」を拡大解釈して、何ヶ月、あるいは何年も先に実現しそうな脅威に対する「予防戦争」までをもアメリカの採るべき戦争に含めたのである。

◆イラクへの予防戦争
 ブッシュ政権の「予防戦争」論は、もちろん2001年の9.11同時多発テロ事件以後の「テロとの戦い」の中からで出てきたものだが、はじめから対イラク戦争を念頭に置いて唱えられ、実際にイラク戦争に道を開く論理として使われた。
 ブッシュ政権は、「ならず者国家(イラク)による核保有」「その核が過激派に手渡されて起こる核のテロ」とを一つの文脈で結びつけ、盛んにイラクの脅威を煽り立てて戦争に踏み切った。

 しかし、それは愚かな失敗だった。冷静に考えれば仮にフセインが核を持ったとしても自分がコントロールできない過激派に核を渡す可能性は小さかったし、肝心のイラクが核保有の意志はあったかもしれないが、本当に核を持っているかどうかさえはっきりしなかったのである。
 結果的に、イラクに大量破壊兵器(核と生物化学兵器)は存在せず、アメリカは中東にいつ終わるとも分からない混迷状態を作り出してしまった。

◆予防戦争の難しさと愚かさ
 何ヶ月、あるいは何年も先に実現しそうな脅威に対する「予防戦争」が正しいかどうかを判断するのは、至難の業である。ある人は、ペリクレス(ギリシャの賢人)やソロモン(古代イスラエルの賢者)を合わせたような英知が必要だともいう。
  未来から歴史を評価するような「神の目」が必要であり、これは殆ど人知を超えているということでもあるだろう。
 その難しさの第一は、たとえばフセインとその体制がこの先も不変なものなのか、特定することが極めて難しいということにもよる。その特定を間違えると、避けることが出来るはずの戦争が起きてしまう。
 アメリカはこの予防戦争の明確な基準を示すこともなく、軍事力を過信して外交努力を尽くすこともなく、「予防戦争」という言葉におされるように戦争に突入してしまい、今は世界中に失敗をさらしている。

 予防戦争について、偉大なるドイツの宰相ビスマルクは20世紀初頭、協調路線を取らないロシアに恐れを抱き、力をつける前にロシアを叩こうと主張する人々に対し、「死ぬのが怖くて自殺するようなものだ」という名言を吐いている。

◆戦前日本の予防戦争論
  実は、これと全く同じような「予防戦争」論が戦前の日本でも軍人や政治家の頭に取り付いてしまったのである。その典型的な例が、昭和8年の「対ソ予防戦争論」「中国一撃論」の対立だった。(半藤一利「昭和史」)

 簡単に言えば、革命後のソ連が国力をどんどんつけてきていることに対して、「ソ連が強くなる前に叩いたほうがいい」と主張する一派と「その前に日本を敵視している蒋介石の中国を一撃をもって屈服させ、その後にソ連を叩く方がいい」という一派の論争だった。
  結果的には「中国一撃論」が勝って日本は日中戦争の泥沼に突入していくのだが、どっちもどっちだった。 目の前に危険が差し迫ったわけでもない段階での予防戦争論は、アメリカを始めとする世界列強が介入する可能性や広大な中国大陸での戦いの困難さなどについて、緻密なリスク評価もない勢いだけの「机上の空論」に近いものだった。

  太平洋戦争は総じてこのような安易な戦争論に引っ張られた感がある。「このままでは日本はジリ貧になる」と言って自存自衛や八紘一宇の名分のもとに開戦を主張する東条たちに対して、良識派の米内光正は「ジリ貧を避けようとしてドカ貧になったらどうするか」と言ったというが、戦争によって日本はまさに悲劇的な「ドカ貧」に陥ったのである。

◆あらゆる戦争論を警戒せよ
 戦争を始めたい勢力は常に耳障りのいいスローガンや、まだ差し迫ってもいない脅威を差し迫っているかのごとく言い立てる。 残念ながら(戦前は全部だったが)一部のマスコミもそれに同調して煽り立てる。
 「戦争に道を開く論理」は予防戦争であれ何であれ、それがもっともらしく言われ始めたら要注意。威勢のよさに気おされることなく、その危険性を冷静に見抜いて論破しなければならない。
 「戦争は万策を講じて回避しなければならない」・・・これは核時代に生きる我々現代人が多大な犠牲を払って得た歴史の教訓なのである。  

憲法を考える 07.5.20

 憲法改正問題は憲法改正の手続法である「国民投票法」が制定されて、いよいよ具体的な議論の時期に入った感がある。そこで今後、憲法改正問題を考えていくにあたり、まず日本国憲法制定の経緯についてまとめておきたい。
 大筋は「風の日めくり・敗北を抱きしめて(2)」に書いた通りだが、(これは大事だと思うので)憲法の歴史的重みについても若干付け加えた。

◆制定経緯のポイント
  1947年5月3日に施行された日本国憲法は従来、「GHQ(連合国軍総司令部)による押し付け」とか、「たった一週間で作られた」とか言われて、「自分たちの手で憲法を作り直そう」という改憲派の口実となってきた。
 しかし、その経緯を見てみるとそうした表面的な言いがかりが当を得ているとは思えない実態があったことが分かる。  
 
 つい最近(4月29日)のNHKスペシャル「日本国憲法誕生」でもその制定の経緯が放送されたが、ワシントンの「極東委員会」での議論が詳しくなっているだけで、基本的にはアメリカの戦後史研究家のジョン・ダワーが詳述している「敗北を抱きしめて(下巻)」と同じ内容である。大体これが現時点での定説なのだろう。  
 憲法制定の経緯についてのポイントは幾つかあると思うが、その主な点は次のようなものだと思う。

◆GHQの押し付け?
 一つは「主権在民」、「象徴天皇制」、「戦争放棄」、「基本的人権」などの新憲法の基本理念が「GHQによる押し付けだった」という点。これはある意味当たっているが、一方でそうならざるを得ない理由もあった。

 GHQは終戦から2ヶ月も経っていない段階で、日本の軍国主義、封建主義を根底から解体して日本に民主主義を根付かせるためには、大日本帝国憲法(明治憲法)を廃止して新憲法を制定すべきだと判断、日本側にもその検討を促していた。
 これに対して日本政府は憲法問題調査会(松本委員会)を設けて検討を始めたのだが、その内容がいかにも時代遅れだったのである。

 憲法改正の動きが伝えられると、政府の憲法問題調査会とは別に、12もの団体やグループが次々と独自の憲法草案を発表した。中には今の憲法に近い「象徴的天皇制」、「言論の自由」、「男女平等」といった新しい理念の提案も含まれていて、GHQも注意深く見守っていたという。
 しかし肝心の調査会はそうした動きに全く無関心で、天皇が絶対君主として政治・軍事のすべてを統括するという「明治憲法の基本的精神」を何とか維持しようと独りよがりな努力を続けていた。
 すなわち、天皇条項を「神聖」から「至尊」に変えるなどの、10程度の修正で切り抜けようとしてGHQに見放され、GHQが独自に憲法草案を作るという動きにつながったのである。

 「GHQの押し付け」とはいうが、こうした経緯をみると、政府の委員たちの方こそ世界情勢や国民の意向からかけ離れており、古い考えに囚われた政府委員会には新しい日本を作るという発想も能力もなかったことが分かる。

◆議論の時間は足りなかった?
 二つ目は、憲法が「たった一週間で作られた」という点。確かにGHQによる草案作成作業は1946年2月4日に始まり、6日後の2月10日にマッカーサーに手渡され、2月13日に日本側に伝えられた。

 GHQがこれだけ草案作成を急いだのは、ソビエトや中国を含む11カ国が参加した「極東委員会」の動きを警戒したからである。「極東委員会」を構成する国の間では、天皇の戦争責任を追求すべきだと言う不穏な空気が漂い始めていた。
 これに対し、マッカーサーは2月下旬に予定される「極東委員会」の発足前に何としても民主的な憲法を制定して、天皇の責任追及の矛先を和らげようとしたのだという。GHQの占領政策をスムーズに行うためには天皇制の維持が欠かせないというのがマッカーサーの政治的判断だったからである。

 しかし、誕生は一週間だったが議論の時間はたっぷりあったように思う。3月6日に素案が国民に公表されたあと、6月20日には国会が召集されて本格的な議論が始まり、「義務教育の延長」や「国民の生存権」、「戦争放棄条項の修正」など、様々な修正や追加が行われた。
 これらはもちろんGHQの承認が必要だったが、公表から8ヵ月後の11月3日に新憲法は大々的に公布され、半年後の1947年5月3日に施行された。

◆憲法と戦後の日本
 それから今年で60年。日本国憲法はその理念に沿って新しい日本の骨格を作ってきた。当然のことのようだが、私はこのことに改めて感心する。
 主権を国民に置き(主権在民)、天皇を象徴として政治から切り離したこと、中学までの義務教育の延長、男女同権などは、国民にとってもう後戻りの出来ない常識になっている。
 修正の過程で、自衛力の保持は許されるのか、自衛のための戦争は許されるのかといった、あいまいさを残した第9条「戦争の放棄」も、何とか踏ん張って戦争の抑止力の働きを果たしてきたと言える。

◆憲法は国家百年の大計
 今、安倍政権は憲法改正を政治課題に掲げて準備を着々と進めているが、実際のところ、憲法改正についての国民の関心はどこまで高まっているのだろうか。何をそんなに急いでいるのだろうか。
  改憲派の中には、一部を書き加える「加憲派」や9条の修正を目指す「修正派」のほかに、一から自分たちの手で書き換えるという「全面改訂派」まで様々いるらしいが、今のところ明確な考えは伝わってこない。

 しかし、憲法改正派が「押し付けられたものを自分たちの手で書き直そう」などといった単純皮相な理由で、戦後60年以上続いてきた日本の歴史を無視しようとするのであれば、それは傲慢と言うものだろう。
 誕生の経緯はどうあれ、当時の日本国民は新憲法を持って新たな出発を誓い、60年以上にわたってその基本的精神を大事にしながら戦後の日本を作ってきた。その国民の思いと、60年と言う歴史の重みを忘れてはならないと思う。

 従って憲法改正の議論は、日本国憲法が作ってきた戦後の日本をどう評価するかに裏打ちされなければならない。評価すべき点と評価できない点を明確にして、どこをどう変えるのか、それはどんな理念によるものなのか、それによって国民生活はどう変わるのか、時間をかけて納得行くまで議論する必要がある

 ともあれ憲法は国家百年の大計。憲法こそ国の骨格を作り、国の未来を決め、国民生活の基底をなすものだということは何度強調してもし過ぎることはない。  

■日本を幸せにする5項目 07.3.11

 景気回復に取り残されて荒廃する田舎や地方、忍び寄る地球温暖化の影、格差やワーキングプアの実態、毎日のように新聞をにぎわす異常な事件の数々。
 そんな閉塞感ただよう日本社会の中で、私たち日本人が未来に希望を持って生きるためには、この日本をどこからどう変えていけばいいのだろうか。ある日、不意にこんな疑問が頭に浮かんだ。
 もちろん、財政再建や教育の再生といった政治上の大きな課題もあるだろうが、政治だけに任さずに私たち市民も取り組めるようなテーマはないのだろうか。あれこれ考えていたら以下の5つのテーマにたどり着いた。

◆日本を幸せにする5項目
@ 地球温暖化の進行を少しでも遅らせるための「環境機軸社会への転換」
A 日本を真に世界に開かれた社会にするための「精神のグローバル化」
B 日本の環境的、精神的拠りどころとなる「荒廃した田舎・地域の再生」
C 日本文化の世界発信を支えるための「日本の財産・江戸文化の再認識」
D 日本を再び戦争に向かわせない「戦争回避の広範なシステム」

 仮にこれがうまく行けば、日本の未来が少しは明るくなりそうな「日本を幸せにする条件」とでも言おうか。それぞれ大きなテーマばかりだが、どこかで私たち市民が参加する余地もありそうに思える。
 いずれも日頃から問題意識をもって少しずつ勉強して行こうと思っていたテーマでもあるので、手始めに、(まだその段階なので)企画提案風にその「こころ」をテーマごとに書いて行きたい。

■日本を幸せにする5項目 @環境機軸社会への転換 07.3.11

 地球温暖化が人類の未来の立ちはだかる最大の難問であることは、「温暖化対策の岐路年」でも書いた。もちろん日本もその影響から逃がれることはできない。
 耐え難い暑さの夏が長く続いて(真夏日が3ヶ月以上!)、冬が無くなる。四季折々の美しい自然がなくなるということは、日本が日本でなくなってしまうことでもある。
 加えて、竜巻や瞬間的豪雨、巨大台風、旱魃や食料不足、沿岸漁業の激変、熱帯性病原菌の進入、大規模な海岸侵食など、深刻な人的、経済的被害を受ける。

 この破滅的な地球温暖化の被害を少しでも食い止めるために、日本が何かやれることはあるだろうか?あるとすれば、私は次の3点だろうと思う。

◆温暖化を食い止めるために日本が出来る3つのこと
 第一には、温暖化の原因物質である二酸化炭素の排出を抑える「国際的枠組み」(温暖化防止の国際条約、京都議定書)を率先して実行していくことである。
 自国の達成だけではなく、ヨーロッパ先進国と協力して、参加を拒否しているアメリカ、中国、インド、ブラジルが枠組みに入るよう説得する。同時に、こうした国に様々な技術的、経済的支援を行いながら、温暖化対策で世界をリードしなければならない。

 第二に新エネルギーの開発である。太陽光、風力、バイオマス、燃料電池などの新エネルギー技術で世界をリードし、できるだけ石油を燃やさない社会を作っていく。ドイツのように技術が普及しやすい様々な助成制度を設けて、その成果を国内ばかりでなく、世界にも広げていく。
 
◆環境機軸社会への転換
 そして第三のアプローチが、今回のテーマの「環境機軸社会への転換」である
 地球環境と人類が共存して行くには、私たちの社会をいわゆる「環境に優しい社会」に作り変えていく必要があるが、こうした環境に優しい社会は従来、「持続可能な社会」とか、「循環型社会」とか呼ばれて来た。
 しかし、「持続可能な社会」はちょっと抽象的だし、「循環型社会」は普通、単に様々な製品のリサイクルを行ってゴミを少なくする社会的取り組みと捉えられている。

 これらの言葉には、「環境を最優先にして社会全体で省エネ、省資源を徹底し、地球環境の許す範囲内で暮らす社会に変えていく」と言う強い意志が感じられないのが難点だと言えば言える。 
 そこで私は新たに、「環境機軸社会」という言葉を考えてみた。造語だが、「環境問題への取り組みを社会的価値観の中心(機軸)にすえる社会」という意味である。

 地球温暖化という人類最大の難問を食い止めるには、前の2点も重要だが、とりわけこの「環境機軸社会への転換」というパラダイムシフト(価値の転換)がなければ不可能だと思うのだ。

◆便利、快適を追求する消費者天国
 しかし、一口に「環境機軸社会への転換」と言っても、実はこれが大変。便利さ、快適さ、物の豊かさに慣れてしまった私たちは、自分たちの暮らしのどこをどう変えれば、環境に優しい社会を作れるのか、想像できないからだ。

 今の日本は史上最も物の豊かな時代。試みにコンビニやスーパーを覗いてみると、 トレイやラップに丁寧に包まれた大量の野菜、肉、魚が並んでいる。そして様々な容器の弁当も。人々がレジ袋に詰め込んでいる様子を見ると、必要なもの以外に実に多くの石油化学製品(ゴミ)が付随して来るのが分かる。
 私も時々弁当を利用するが、一回の食事で出るゴミの量にびっくりする。こうした石油製品のゴミも結局は燃やされて二酸化炭素になる。
 
 日本は基本的に消費者天国の競争社会であり、買う方もそれがサービスであり、売る方もそれが付加価値だと考えてきた。顧客獲得のためにメーカーが商品の便利さ、快適さ、見かけの贅沢さでしのぎを削っている現状では、日本の「環境機軸社会」への道のりは遠いと言わざるを得ない。

◆緑の消費者(グリーンコンシューマー)
 一方、ドイツなどでは既に様々な製品について、生産から廃棄までのエネルギー消費量やゴミとなる量を評価し、ランク分けしてラベル表示しているという。そうした表示を参考に、環境に優しい商品を優先して選んでいる消費者を「グリーン・コンシューマー(緑の消費者)」と呼ぶ。

 詳しくはネット検索すると出てくるので見てもらいたいが、多少面倒で不便でもゴミの少ないもの、リサイクルのできるものを買う。必要なものだけを買う。生産、流通、使用、廃棄の各段階を通して、環境にかける負荷の少ない製品を選ぶ(「グリーン・コンシューマー10か条」)。
 こうしたことを心がける「緑の消費者」がドイツでは半数以上いるのに対して、日本はまだ1%だという。
 家族の環境教育を含めて、市民一人一人の消費行動を変えることはもちろん、メーカー、行政への働きかけなど、環境機軸社会へ向けて私たちがすぐにも取り組むべき宿題は山ほどある。

◆環境に優しいライフスタイルの模索
 同時に、そうした消費行動を含めた「環境に優しい生活」(エコライフ)というものもあるに違いない。環境機軸社会では市民のライフスタイルどう変わって行くのだろうか。

 今、いわゆる「田舎暮らし」や「スローライフ」が人々の共感を呼んでいるが、これも、物の豊かさ、便利さ、快適さよりは、ゆったりした時間の流れ、自然との共感、人付き合いといった「心の豊かさ」を求めているのだろう。「物の豊かさ」から「心の豊かさ」への変化はとりもなおさず、環境に優しいライフスタイルの一つでもある。

 しかし、そうはいっても皆が皆田舎暮らしをすることはできないし、私たちの生活を単純に2、30年前に戻せばいいということではないだろう。
 省エネ、省資源だが、美的感覚にフィットし、心も満たされるライフスタイル、一方どこかで情報化時代の快適さや便利さといった成果も享受できる生活。新しいライフスタイルの模索はこれからの市民社会の大きなテーマになると思う。
 すでに「環境に目覚めた人々」の様々なライフスタイルが人々の関心を呼ぶ時代に入っていると思うので、今後折を見つけて取り上げて行きたい。

◆経済発展との両立は?
 最後に、環境機軸社会は経済発展が可能か?このテーマは実はつい最近、二酸化炭素20%削減と言う厳しい政策をまとめたEUでも切実な課題である。できれば環境機軸社会であってもゆるやかな経済発展が望ましい。
 大きなテーマだが、環境と経済の両立が可能になる様々な兆候は主に技術的な発展の方から現れているように思う。また、環境機軸社会への転換の中で新たな産業が生まれつつあるとも言う。
 但し、日本はまず、遅れている「環境機軸社会への転換」にすぐにも手をつけるべきだと思う。何しろ地球温暖化の経済的影響は待ったなしに迫っているからだ。

■地球温暖化は防げるか? 06.5.27

 平成元年(1989年)の3月に、私たちは以前から企画していた地球の大気汚染と海洋汚染に関する特別番組を放送した。17年も前のことである。
 アメリカ環境省から入手した、まだ議会に報告する前の最新データや、大型コンピューターを使った地球温暖化のシミュレーションをもとに、地球の未来を描いたものである。これが本格的に地球温暖化を扱った日本で最初の環境番組になった(と思う)。
 海面上昇による海岸侵食、巨大台風の発生、熱帯性病原菌の北上、砂漠化による食糧危機などなど。私たちは地球環境に負荷をかけ続ける現代文明のあり方に警告を発したつもりだった。

  そして、(別にそれに合わせたのではなかったのだが)タイミング良くその年の7月にパリでのサミットで、9月に地球環境保全に関する東京会議で、11月にオランダの大気汚染と気候変動に関する閣僚会議で、地球温暖化問題が取り上げられ、1989年は後に「地球環境元年」と呼ばれるようになった。

◆地球環境キャンペーンは大嘘だった!?
 しかし、浮上してすぐに地球温暖化問題には様々な思惑が渦巻く。私も思いがけず、その一端を経験することになった。
 放送直後、一人の週刊誌記者(「週刊ポスト」)が取材にきた。その若い記者はいろいろ聞いた後、すまなさそうにこう言った。 「私も個人的には番組の指摘は正しいと思うのですが、正直、もう筋は出来ているんです。ただ、あなたの発言はカッコつきで正しく伝えますので。」
 そして翌々日の朝刊を開いてみると、「大マスコミの地球環境キャンペーンは大嘘だった!」という週刊誌の大きな見出しが躍っていた。

 当時は、環境対策で主導権を握りたい環境庁と、それで経済成長が鈍化することを嫌った通産省とが激しく対立していた。その間に立って最新情報に疎い気象学者がそれぞれ勝手な意見を述べている状況(日本で温暖化の研究はまだ始まっていなかった)で、記事の背景も容易に想像できた。
  さすがにこの記事については後追いもなく他のマスコミも無視したが、事ほどさように地球温暖化問題はこれまでも様々な力学に翻弄されてきた。

 そして「地球環境元年」から17年たった今も、世界の温暖化対策は一向に進んでいない。問題はどこにあるのだろう? 取りあえず、科学、経済、政治の三つの側面から私なりに地球温暖化の問題点を整理して見たい。

◆ 科学的側面について
 人間活動による大気中の二酸化炭素が、この半世紀で急増していることは事実である。しかし、これが地球温暖化にどの程度影響するのかについては、科学者の間でも意見が分かれている。
  理由は、水や大気が循環する地球のシステムが複雑すぎて、まだ十分解明されていないからだ。さらに、地球気温には太陽活動の周期的な変動も関係してくるが、これが良く分からない。温暖化問題の前は、地球は氷河期に向うと言われた時もあったくらいだ。

  しかし現在、世界最大のスーパーコンピュータによる最新のシミュレーションは、温暖化の影響をよりはっきりと描くようになっている。また、地球上で不気味に進行する、海面上昇、巨大ハリケーン、氷河の後退なども、温暖化の前触れと考える科学者は多い。
 従って現時点では、地球温暖化問題はいろいろ不確実要素があるにしても、国際的に対策を講じるべき人類共通の課題として認知されているはずである。

 ところが地球温暖化については、いまだに難癖をつける科学者があとを絶たない。科学が厳密さを求めるのは当然のことだが、厳密さの故に温暖化対策にまで疑問を呈する。そこに、経済的、政治的思惑が付け入ることになる。

◆政治的側面について
 温暖化対策のために二酸化炭素の排出量を抑えるには、まず石油消費量を抑えなければならないが、これはその国の経済成長にとって大きなリスクとなる。 だから温暖化防止の国際条約を巡っては、各国のエゴが激しくぶつかり合うことになる。(「ウィキペディア」の「京都議定書」「気候変動枠組み条約」など)

  温暖化防止条約は、(1997年の京都会議からようやく7年後にロシアが批准して)去年発効したものの、人口が多く経済発展が目覚ましい中国、インド、ブラジルなどが途上国扱いで免責されている上、最大のエネルギー消費国のアメリカが参加を拒否している。
 これらの国々をどう枠組みに参加させるのか、国際政治の駆け引きは第2段階に入っているが、国家エゴが絡んで先が見えない状況が続いている。

◆経済的側面について
 国家エゴのぶつかり合いを避けて、経済的誘導によって温暖化防止を進めるアイデアもないではない。例えば、耳慣れない「排出権取引」。防止技術や資金の提供で途上国の排出量を削減してやる代わりに先進国の排出量を認めてもらう。最近、この排出権取引市場が妙に活気づいていると言う。
 しかし、私はこうした市場経済主義が温暖化防止にどれだけ有効かはわからない。直感的に言えば、この程度の利益誘導で抑制される排出量は全体のごく一部でしかなく、防止条約の厳しい要求を実行していくにはもっと根本的な発想の転換が必要になるだろうと思う。

◆持続可能な社会(循環型社会)への転換
 むしろ私が注目しているのは、ドイツなどヨーロッパで試みられている地球環境にやさしい「循環型社会」への動きである。製品を徹底してごみが出にくい設計に変えたり、ごみ発電や風力発電などの代替エネルギーに補助金を出したりと、法律や税制の改革も含めて国を挙げて「持続可能な社会」への転換に取り組んでいる。 (環境先進国「ドイツ」
 二酸化炭素の削減も環境政策全体の中で考えられており、私は、温暖化防止は地球をこうした「循環型社会」に変えることでしか達成できないのではないかと思っている。

 私は時々、このドイツの原動力が何なのか不思議になる。二酸化炭素の削減だけに振り回される視野の狭い日本の取り組みや、市場原理主義を突き進むアメリカなどとは、まるで違う価値観を目指しているように見えるからだ。
  いろんな見方があるだろうが、私が大胆に仮説を立てるとしたら、「ドイツは石油文明以後の世界を見て、次世代エネルギーの主導権を狙っているのではないか」ということである。ゲルマン民族の深謀遠慮説である。
 石油が枯渇し世界が次のエネルギーを探し始めた時、果たしてドイツがエネルギー大国として浮上する日がくるのだろうか?

 ともあれ温暖化問題は、人類の価値観が何らかの形で変わらなければ前進しない。国家エゴのぶつかり合いで時間を浪費すれば、温暖化は取り返しのつかないところまで進行していくだろう。
  当たり前のことだが、地球は人間の思惑など待ってくれないからだ。(この問題は今後も考えて行きます)

■人類は宇宙に出るか? 06.5.2

 以前、友人たちと酒を飲んでちょっと浮世離れした論争をしたことがある。将来人類は地球を脱出して宇宙へ移住して行くのかどうか。
 つまり、月や火星、或いはその先の惑星、そして遠い未来に他の恒星の惑星群へ、人類はそのフロンティアを開拓して行くことがあるのだろうか、ということである。皆さんはどうお思いだろうか?

◆地球温暖化問題のプロローグとして
 私たちの意見は2手に分かれた。地球脱出派と脱出不可能派(私)である。
 脱出派はこう主張する。人類が未知のフロンティアに乗り出すのは、いわば人類のやむにやまれぬ性(さが)である。 過去にも人類はこの性によってアフリカのサバンナを出て未知の世界へ乗り出して行き、北米から南米突端にまで、そして全地球へと拡大して行った。宇宙への移住は人類の当然の帰結なのだ。
 現に人類は巨費を投じて宇宙開発にあくなき意欲を示しているではないか、と言う。

 一方、不可能派は、地球脱出の前に人類は乗り越えられない様々な難問を抱えて科学技術文明を衰退させてしまうに違いない、と主張。
 いわく、地球温暖化、テロや戦争、核戦争、人類の精神的荒廃などなどによって、人類の文明は疲弊し衰え、宇宙開発どころではなくなるのではないか。中でも地球温暖化は人類の未来に立ちはだかる最大の難問になるだろうと。

 2世紀、3世紀も先の雲を掴むような、たわいもない論争である。しかし真面目な話、地球温暖化問題がこれからの私たちの生活、あるいは子供たち、孫たちの生存に直接響く大問題であるという私の確信は変わらない。
 実は次回は、(私の経験も含めて)「現実の」地球温暖化問題を取り上げたいと思っているのだが、今回はそのプロローグとして、多少想像を膨らませながら人類の未来を覗いてみたい。

◆アーサー・C・クラーク「3001年終局の旅」
 SF映画に金字塔を打ち立てた「2001年宇宙の旅」の著者アーサー・C・クラークには、続編として「2010年宇宙の旅」「2061年宇宙の旅」、そして「3001年終局の旅」のオデッセイ4連作がある。(静止衛星の発明者でも知られる彼のSFには、最先端の科学的知見が様々に生かされている)
 その「3001年終局の旅」を読むと、千年後の人類はすでに月や火星、金星、そして木星の惑星ガニメデにも居住地を持ち、さしわたし100光年の範囲にロボット探査機を放っている。未来の人類は宇宙に進出しているわけだ。
 と言っても人類の大部分は地球上空3万6千キロの静止軌道上に広がる天空の人工都市に住んでいる。

 一方、千年後の地球上は、すでに人類が観光で訪れるだけの遠い存在になっている。温暖化によって生物相が変わり風景は一変している。
 天空の人工都市からアフリカに降りると、「彼を襲ったのは溶鉱炉並みの熱風だった。ところが時刻はまだ朝なのである。正午にはどうなることやら。」と言う状況である。 とすると、地球温暖化は人類を宇宙に進出させる原動力になったのだろうか?

◆人類が宇宙に行けない悲観的要因
 「2001年宇宙の旅」が映画のために書かれたのは、1964年。実際その頃には月面の恒久基地や人類の火星着陸が1990年ごろまでに実現すると考えられていた。しかし、ベトナム戦争やウォーターゲート事件によってアメリカの宇宙政策は変更され、彼の小説の予言は外れてしまった。

 同じように、1985年レーガン大統領の提唱で始まった国際宇宙ステーションも、当初2003年頃には完成する予定だったが、今もって完成の見通しがつかない。設計はすでに時代遅れになりつつある。この間、アメリカは湾岸戦争、同時多発テロ、アフガン戦争、イラク戦争を経験し、宇宙開発は二の次になってきた。  
 巨費を投じる宇宙開発は、戦争を戦いながら出来るようなものではない。また国際的な協力も必要で、世界平和がない限り発展は望めない。宇宙開発にとって、平和と戦争はアクセルとブレーキなのである。  

 さらに難問は地球温暖化問題。当初は科学的な予告に過ぎなかった温暖化も近年、毎年の異常気象、海洋国の水没、熱帯性病原菌の脅威など現実のものになってきている。
 さらに近い将来、砂漠化や水飢饉、干ばつによる食糧難、陸地の侵食などによって何億人と言う環境難民を生み出し、世界中に紛争の種を作り出す。それによる人類の精神的荒廃も心配だ。

  この温暖化を止められない場合、人類の宇宙進出はどうなるか。考えられるのは、一時期のNASAに対してあったように、地上に貧困が満ちている時に金食い虫の宇宙開発とは何事か、という非難が出てくることである。また、食糧難や紛争の多発によって経済的余裕がなくなれば、宇宙開発技術も停滞してしまうだろう。
 温暖化が進んでしまって人類の生存が危機に瀕しているときに、人類に地球脱出の余力が残されているかどうか、(私は)現実はかなり厳しいと思わざるを得ない。

◆宇宙開発は地球的課題解決のバロメーター
 私は、むしろ宇宙開発を(戦争や温暖化などの)地球的課題解決のバロメーターと捉える方がより正確なのではないかと思う。
 言い換えれば地球規模の問題を解決することが、宇宙への可能性を切り開くと言うことであり、その答えは、まさに人類の英知にかかっている。(そういえば、小説では人類が気候コントロールの技術を手に入れるのは五百年後らしい)
 その人類の英知が目前に迫った「現実の」地球温暖化問題を解決できるかどうかについては、次回に考えたい。

■世界を読み解く鍵 06.4.21

 この「日々のコラム」を書き出してから10ヶ月近く。最初に掲げたテーマ「日本と世界はどこに向かっているのか」に結構こだわりながら、そのつど頭に浮かんだテーマを書いてきた。 悲しいことに知識の蓄積は無に近い。書くために、少しは関連の本を探したり、ネット検索したり、様々なブログをサーフィンしたりと、言わば手探り状態でやってきた。
 そんな中、自分なりにあれこれ考えて来たその延長線上に、最近ふっとある考えが浮かんで妙にわくわくした。それは、今の世界を読み解く「鍵」を探すと言うことである。そんなのがあるのかどうかも分からないし、単なる妄想かもしれないのだが、今回はそんな「鍵」探しの誘惑について書いてみたい。

◆世界を動かしている様々な考え方を整理する
  「日々のコラム」で取り上げてきたテーマは?と言うと、「グローバリズム」、「不戦の誓い」、「アメリカの2つの顔」、「小さな政府」、「格差社会」、「若い世代」、「保守対リベラル」などなど。それぞれホットなテーマだが、これらのテーマを仔細に見ると、多くの場合、その背後で何らかの「2つの対立する考え方」がぶつかり合っているように思える。

 例えば、経済関係では(これまでも何回か登場した言葉だが)「市場原理主義」VS「格差是正主義」。これは「ハイエク型」VS「ケインズ型」と言い換えてもいいし、経済面における「グローバル・スタンダード」VS「ユニバーサル・スタンダード」と呼ばれることもある。
 国際平和の問題としては「アメリカ主導の軍事同盟」VS「国連の集団安全保障」
 国民国家のあり方としては「コミュノタリスム」VS「ユニバーサリズム」(後述) の2つがあり、これは単純に「アングロサクソン型」VS「フランス型」などと言われることもある。
 その他「一極主義」VS「多極主義」などなど。それぞれ対立する考え(世界観)とそれを信奉している勢力がぶつかり合っている。

 同時に面白いことに、(関連の書物を読むと)こうした考え方は結局のところ、おおまかに2つの対立する潮流、世界観にまとめられるらしい。

◆対立する2つの価値観
 それが何なのか。試みに、一方の考え方をまとめてみると、市場原理主義=グローバル・スタンダード=アメリカ主導の軍事同盟=一極主義=アングロサクソン型「コミュノタリスム」となって、これはアメリカ現政権の価値観、世界観そのものになる。
 つまり、民主主義は建前ばかりで、世界中で(大資本の価値観と同じ)弱肉強食の市場原理主義を押し通しているアメリカの現実の姿が見えてくる。(「アメリカの2つの顔」)

  一方、これに対抗する価値観、世界観をまとめてみると、それは、イラク戦争でアメリカに断固反対したフランス政府の理念である「ユニバーサリズム(普遍主義)」に収斂する。(「アメリカにNOと言える国」竹下節子)

◆「ユニバーサリズム」と 「コミュノタリスム」
 どちらも聴きなれない言葉だが、著者によれば、フランス型「ユニバーサリズム」とは、宗教やコミュニティーの違いを超えて、個人の自由と平等を保障していくという普遍的な理念である。EUや世界政府に通じる理想としてとらえられており、実際に戦後のフランスはこの理想を掲げて営々としてヨーロッパ統合に努力してきた。

  一方、アングロサクソン型「コミュノタリスム」とは、社会統治の現実的対応として、個人の自由よりも(人種、民族、宗教などの)様々なコミュニティーの共存を優先する。コミュニティー間の平等には気を配るが、あるコミュニティー内での個人の不平等や差別については無関心。個人をいずれかのコミュニティーに押し込めることになり、真の自由を保障するものとは言えない。
 著者は、アングロサクソン型「コミュノタリスム」は、特にアメリカにおいて民主主義は建前で、実際は白人特権階級のエゴむき出しのダブル・スタンダード(二重基準)だという。

◆「コミュノタリスム」に対抗する理念の模索
 この 「コミュノタリスム」は、利益の論理、権力の論理が働くために、自動的に(世界中に)拡大していく性格を持つ。これに対し、「ユニバーサリズム」は、絶えず各人のエゴを抑え、犠牲にして追求しなければならない理想であるために、苦戦を強いられている。
 東西冷戦当時は、世界は資本主義と共産主義という2つの世界観が対立していたが、冷戦終結後、気がついたら世界中に市場原理主義のアメリカ型「コミュノタリスム」が浸透していたというわけだ。最近の日本も中国、インドもそう。  
 
 「コミュノタリスム」は、拝金主義や弱肉強食によって、一握りの特権階級(勝ち組)を作り出し、かつ(国連を無視して自国の利益のためにイラク戦争を始めるなど)世界を混乱させる要因にもなる。だから日本も、人類普遍的な理想であるフランス型「ユニバーサリズム」にもっと目を向けるべきだというのが著者の意見である。

◆世界を解く鍵
 一方、アングロサクソン型「コミュノタリスム」は、最近もっとすごいことになっているという説もある。国境を越えて巨大になった世界資本は今、世界中から富を得ようとするあまり、アメリカの弱体化を狙っている、と言うのだ。(サイト「田中宇の国際ニュース解説」)
 アメリカ一国の経済成長に頼るには限界があり、それよりアメリカを弱体化させて世界を多極化させ、成長の可能性を世界に広げる方が儲かると言うのだ。そのため、彼らはネオコンなどと結託して、故意にアメリカを弱体化させるような世界的混乱を作り出しているという。(本当なら怖い話だ)

 いずれにしても、今世界は弱肉強食の市場原理主義を進める「コミュノタリスム」の席捲にあっているが、一方でそれに対抗する価値観を掲げる動きもあるということだ。
 その中で日本はどうするのか。単に経済だけでなく、社会的文化的にどういう価値観を模索していくのか。
(それは日本の2大政党の政策選びにも当てはまる)
 その対抗軸が見えてきたとき、それがこれからの世界を読み解く重要な鍵になってくるのではないか。

◆「深読み」せずに
 私としては、これまで取り上げたテーマと方向は、手探りの割にはそう的外れでないとは感じている。しかし、鍵探しの誘惑に駆られてそのことばかりを考えると、いわゆる「深読み」や「陰謀説」(これはこれで面白いのだが)の落とし穴にはまる危険もありそうだ。
 そんなわけで、いまのところは分相応にあまり飛躍せず、地道に個別的なテーマを積み重ねながら、「世界を読み解く鍵」について勉強して行きたい。一市民の立場を忘れずに。(これが今回の結論)