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  今週の鑑賞。定年後の身辺雑記

4年振りの「絵のようなもの」 15.7.9
 これまでより、一回り大きなスケッチブックを買って来て、およそ4年振りに「絵のようなもの」を描きあげた。前回書いたのは、東日本大震災に続く原発事故が、まだ収束を見せていないころ。日本全体が重苦しい雰囲気にある中で、落ち着かない気持ちで描いたことを覚えている(右の絵「絵?NO.4の紆余曲折」)。その後は、ふっつりと描かなくなって、あっという間に4年が経ってしまった。理由の一つは、原発事故の行方を見続けながら、急かされるようにして原発問題を考えて来たからである。原発問題に対する野田民主党の裏切りと自滅。そして安倍政権の登場で、とても絵を描いている気分ではなかった。
 しかし、もうすぐ70歳になろうとする頃、しきりともう一度(自分なりの)絵を描いて見たいと言う気持ちが起きて来た。今再開しなければ、絵とは無縁のまま人生を終えるだろうという、気持ちである。それほどの強迫観念ではないものの、何かやり残した感じがする。そこで、70歳を機に「日々のコラム」をどうするかも考えて、絵を再開することにした。他人から見れば稚拙な絵に過ぎないが、全く素養がない自分にとっては、コラムを書くのと同じくらいの集中力が必要だからだ。

◆アウトサイダー・アート
 私の場合、HPの「My ギャラリー」というページに、初めて描いた2006年からの絵とその時々の文章を載せているが、これを見ても殆どが抽象絵画だ。具象絵画に進もうと思っても、素養がなさ過ぎるのである。それなのに、何故絵を描きたいなどと思ったのか不思議だが、まあ昔から絵を鑑賞することは大好きだった。そしてある時、偶然に私のような絵は「アウトサイダー・アート」という範疇に入るらしいと言うことを発見した。似たような概念でフランス語では「アール・ブリュット」と言うらしい。
 ウィキペディアで調べると、これらは「特に芸術の伝統的な訓練を受けておらず、名声を目指すでもなく、既成の芸術の流派や傾向・モードに一切とらわれることなく自然に表現した作品のことをいう」とある。場合によっては、知的障害者の絵なども、この範疇に入る。それはともかく、私の場合は(以前「抽象画の世界」にも書いたように)最初は何も考えずに気が向くままに線を引く。何か具体的な形を描こうなどとは思わない。やがて、幾つかの線が自分の頭の中にある、ある種のイメージに結びつく瞬間がやってくる。まあ、そうなるまでやたらと線を引くわけだが、今回もそうだった。

◆地(背景)を五色に塗り分ける
 本当は、何もそういう具体的なイメージを見つける必要もないのだが、線を引いているうちに、中央に人のような姿が浮かんで来た。長い手足のようなものも見える。その他にも、様々な形やイメージが混在して見えて来た。そこで、今回は新しい工夫の一つとして、そうしたイメージとは全く別に、地(背景)を5つに分割して色分けすることを試みた。自分にとっては、初めての試みだが、(全く色も形も材質も違うが)実は身近な人の作品がヒントになっている。様々な線にアクリルガッシュで色をつけた後、いよいよその背景を5色に塗り分けることになった。
 その色を決めるのが、結構難しかった。頭の中でイメージしてもなかなかうまく行かない。ところがある朝、別の紙に地の形を引いて、そこに様々な五色を塗って比べて見ればいいじゃないか、と思いついた。そこで、何枚か白い長方形の紙に色んな配色で塗って見た。多分、原色がいいとは思ったが、青と黄色、赤と緑のような補色関係も生かして、それを配置した後、最後の一色(オレンジ)を決定した。その背景の色を塗った後に、細かい部分の色をさらに地の色に合うように塗り直して行く。そうした作業を繰り返して、やっと4年振りの「絵のようなものNO.25」が完成した。

◆「絵のようなものNO.25」の物語
  毎回、机に向かっているのは2時間程度に過ぎないが、絵が出来上がるまでに、一週間ほどかかっているのではないかと思う。昔は、もっと短かったが、今回は珍しく「時間はたっぷりあるのだから、ゆっくり楽しみながらやろう」と思いながらやった。それだけ、日常生活に時間的余裕が出来て来たのだろう。気持ち的には、3カ月から半年かけて一枚の絵を油絵で描くというのが夢なのだが、油絵を使う部屋も場所もないので、それは絵画教室にでも行かないと無理だろう。でも、その時は抽象画を描かせてくれるかどうか。
 描き終わった絵の楽しみ方はいろいろある。まず、FB(フェースブック)にアップしてみた。何人かから「色が楽しい」とか、「見ていて飽きません」などという過分の言葉を貰って、素直に嬉しかったが、もちろん、自分の絵の実力などは承知しているつもりだ。デザイナーの息子からは「なかなか良質なんじゃない。良く分からんけど」という極めてクールな批評が返って来た。まあ、それはそれとして、自分としては復帰第一作目にしては、これで満足。満足ついでに、自分なりに絵のタイトルを考えて見た。「カンブリアの海を泳ぐ」である。

 このタイトルに即して思いきり想像を羽ばたかせながらこの絵をみると、中央の人らしきものが、地上に立っているようではなく、遊泳しているように見える。海底に住んでいるちょっと不思議な生き物たちもいる。さらに、色の違う背景の部分は、(見ようによっては)地球の大地を形作ったプレートのようにも見える。それぞれの色は、色の性質によって沈み込むものと、浮き出るものがあって、地球のプレートのように重なり合いっているのかもしれない。各プレートの上にいる生き物やその化石のようなものは、それぞれ違った時代に生息していた生き物たちにも見える。とすると、この絵にはカンブリア紀以降の様々な地球の時間が流れているのかもしれない。
 こんなふうに、下手な絵を想像で補いながら楽しむのは、邪道のような気もするが、そこが素人の自由さだ。そう言えば、ゴーギャンの「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」だって、絵の中に様々な時代の人々が存在し、物語になっている。ただし、その描き方は天と地ほども違うけれど、物語を考えた上で描くのと、描いた後に物語を思いつくのとでは、これも天と地ほども違うのだろう。絵以上の想像をふくらますのは、アウトサイダー・アーティストの特性かもしれない。

◆この後、どうするか
 それにしても、一見して、とても70歳の老人が描いた絵には見えないが、私としては次回作をどうするかが悩みだ。私のような素人は、自分のスタイルのようなものがない。毎回、ゼロから悩まなければならないのが、少し辛い。しかし、絵を描くということは、多かれ少なかれ、そういうことではないだろうか。それを乗り越える喜びもあるのだろう。
 それに、あと何作か描いた後に、油絵に転身するのかどうか。すでに前々から、自由に描かせてくれそうな絵画教室の当たりは付けていて、そこは描きかけの絵を教室に置いておけるのがいい。そこで、大きな画面に大きな造形を行い、油絵具で細部をものすごく細かく描いて見たいと言う欲求はある。ただし、そこまでたどり着くには、まだまだ時間がかかりそうだ。果たして年齢的に間に合うかどうか。まあ、もう少しの余生は許されると思って、焦らずに取り組むことにする。
58年振りの小学校同窓会 15.6.14
 5月23日に無事70歳の大台に乗ったことは前回書いた。今回は、その直後から風邪をこじらせ肺炎(?)になったことと、それから辛うじて脱して「58年振りの小学校の同窓会」に出かけたことを書いておきたい。この歳を過ぎると人生の下り坂の過程で体験することが多くなるわけだが、それは当然のことながら初体験のことも多く、考えようによっては、なかなか印象深いものである。つれづれなるままに、そんなことを書いて見たい。

◆肺炎の初体験
 元働いていた会社では、共済会の医療保険を利用することなく無事70歳で保険の終了を迎えると、何がしかの祝い金が出る仕組みになっていたらしい。知らせが来たので、その思いがけない祝い金で「瀬戸内美術館ツアー」という瀬戸内の島々を巡る、面白そうなツアーに出かけることにしていた。しかし、その一週間前くらいから急に喉が痛くなり、市販薬を飲んでいるうちに鼻水、咳、痰とどんどん症状が進行して行った。旅行の前日、週2日行っている会社で打ち合わせをしていたら、突然声が出なくなって何だか熱っぽい気もして来た。

 そこで、会社近くの診療所を教えて貰って、熱を測ったら8度6分。(多分、熱さましの)点滴をし、肺のレントゲンを撮ったところ「肺炎の心配があります」とCTまで撮られた。(何だか過剰医療の気がしたけれども)結果、「一部に肺炎の症状が見られます」ということで、抗生物質や解熱剤、感冒薬など薬を山ほど処方された。
 さすがに駅からは歩く気力がなくタクシーで帰宅し、そのまま寝込んでしまった。当然、翌日からのツアーはキャンセル。カミさんは口には出さないけれど、ちょっぴりご機嫌斜めの様子。70歳は肺炎の予防注射に補助が出る歳だと言うので、前から注射をするように言われていただけに、私は布団の中で小さくなっていた。

 2日ほど寝たら熱も下がって徐々に快方に向かって来た。しかし、痰や鼻水は血が混じってまだ赤い。念のために近所のかかりつけの医者にも行き、クリニックで貰った薬を見せたら「これで、いいでしょう。ただ、もう解熱剤はいらないです」。胸に聴診器を当て「肺はきれいですよ」と言うことだった。しばらくして赤い痰や赤い鼻水は治まり、5日目には声も出るようになった。咳の方はかなりしつこく続いたが、それも最近になってほぼ完全に治まった。やれやれである。
 仮に今回のが肺炎だったとしても、ごく初期だったので肺炎と言うものがどういうものか、まだ体験上分かったとは言い切れないが、肺炎は(免疫機能の弱くなった)年寄りにとっては命取りの病気である。注意するのに越したことはない。今回は、初期段階で手を打てたことを良しとして、来月あたりには予防注射をしてこようと思う。

◆郷里で「58年振りの小学校同窓会」に出席
 その肺炎騒ぎも収まりかけの頃、久しぶりに郷里に帰ることになった。以前から約束していた小学校の同窓会に参加するためだ。同窓生も今年70歳。卒業以来58年が経っているというので、同級生が様々なツテをたどって連絡を取り、58年振りの同窓会を企画してくれたのである。私の郷里は茨城県日立市。その海辺にある会瀬小学校が母校になる。体力の回復が気になったが、前々から奔走してくれた同級生のためにも出席することにし、その日は早めに郷里に帰った。93歳の母と、同居してくれている弟夫婦とゆっくり話をするために。
 同窓会は夕方の5時から。弟が車で送ってくれることになり、ついでに我らが母校に案内してくれた。かつての木造校舎は、その後鉄筋の校舎になっていたが2011年の東日本大震災の被害を受けて取り壊された。現在は少子化を反映して小じんまりした3階建てのしゃれた校舎になっている。弟の解説では、庭の片隅にあった二宮金次郎の像も現在で3代目になるそうだ。我々4人の兄弟姉妹は皆、戦後のモノのない貧しい時期に、この小学校に歩いて通った。短時間だったが、58年の時間が僅かに縮まったように感じた。

 さて、同窓会の方である。場所は日立駅近くの酒場の個室で、集まったのは6年1組の卒業生45人のうち13人(ほかの組から飛び入りで1人)。うち女性陣は5人だった。卒業後、何回か話を交わした3人以外は、58年振りになる。会っても分からないのではと心配だったが、幹事のS君は、丁寧にも卒業生全員の名簿と卒業写真(*)や当時の校舎の写真などを刷り込んだパンフを各人に用意してくれていた。互いに名乗り合って幹事が用意した名札を付けて話しているうちに、それぞれに当時の面影がほのかに浮かび上がってきたから不思議である。*中央にいるのは12歳の私。その真上が当時36歳の母。
 やがて皆が「○○チャン」と下の名で呼ぶようになり、58年の時間が一気に逆回転し始めた。当時、校庭にあった砂場は年に2回ほど砂を補充した。その時は生徒総出で、列を作ってバケツを持って海岸まで砂を採りに行った。途中、常磐線の下をくりぬいた“洞門”を通る時に、生徒たちが口々に「あー」と声を出すと声が反響して楽しかった。そんなたわいもない思い出話に花を咲かせるうちに、今日集まった70歳の老人たちが、たちまち12歳の子ども帰って行くような感じがする。何だかしみじみとしてきた。

◆恵まれた時代を生きて来た世代
 中には既に伴侶を亡くした同窓生もいたが、集まった人々を見ていて、強烈に感じたことがあった。それは、(私のひいき目かも知れないが)全員がそれなりに、当時の田舎の貧しい小学生時代からは、とても想像できないような個性的で颯爽とした70歳になっていたことである。これは発見だった。小学時代の私は、ズック靴も履いてはいたが、大体は祖母のお下がりの下駄を履いて通学した。ランドセルなども、父が手作りで縫ってくれた袋のようなものだった。気にもしなかったが、パンフレットのグループ写真を見ると私だけが下駄を履いている。*前列右から2人目が私。
 それを考えると、やはり、この58年の間に日本が確実に変わったのは、経済的な余裕なのだと思う。それと、集まった同級生を見て感じるのは「日本の民度」の変化だ。皆それなりに知的でしっかりした生き方を持つ70歳になっていた。「そういう人が集まるのよ」とはカミさんの言だが、それにしても58年前の男子は(私も含めて)皆、鼻たれ小僧だった。「私たちは、幸せな時代を生きて来たなあ。ありがたいものだ」というしみじみとした実感が胸に押し寄せて来た。確かに戦後70年、人口は増えて経済は右肩上がり、戦争もなく、つい最近まで大きな災害もなかった。

◆無事、肺炎を切り抜ける
 何十年振りかで小学校の同窓会に参加した心境には、独特のものがある。お酒を酌み交わしながら、やがて一人一人の近況報告などもあり、さらにお互いに当時を確認し、写真を撮り合ったりしているうちに、甘酸っぱい感情も湧きあがって来た。女性陣から「一度会いたかったー」と握手を求められたりしたが、互いに当時では考えられないようなさばけた感じになったのは年の功だろうか。ただし、病み上がりの私は、できるだけ羽目を外さないように、酒も控えめにしながら過ごした。
 理由を言って一次会で引き上げる事にし、近所の幼馴染みのYチャンと一緒にタクシーで母の待つ実家に帰った。Yチャンはこれまで、ずっと独身で来たらしい。今は毎日スイミングクラブで泳いで体を鍛えているという。震災で被害を受けて補助金で自宅を新築。「90歳まで生きることにしたのよ」と一人暮らしを頑張っている。私の方は、まだ若干の咳こみは残っていたが、58年振りの同窓会に参加した余韻に浸っていた。この調子なら肺炎の初体験も無事やり過ごすことができそうだ。少し手前で車を降り、二人で崖の上から海を見たら、ちょうど水平線から見たこともないような大きく真っ赤な満月が上って来るところだった。
70歳の大台に乗って 15.5.27
 5月23日に、無事70歳の大台に乗った。これまでも人生の幾つかの節目を経てきたが、感謝すべき事柄には違いない。ただ、事前にあれこれ思っていたことがすぐできるわけではなく、かと言ってこれまで通りの生活をきちんとこなしていくと言った律儀さも持てず、少しの間茫然としながら過ごしているのが現状だ。これは多分、70歳の誕生日を迎える直前に、次男の所へ孫の世話に駈けつけ、そのまま2連泊した予想外の出来事が響いているせいでもあるだろう。

◆老夫婦が頑張った日々
 先週の月曜日の朝、次男の奥さんが腎臓結石で緊急入院した。彼の所は前回も書いたように、小学2年の長男、幼稚園児(5歳)の長女、そして生まれたばかり(40日)の次男という構成で、奥さんが入院すると次男一人では手が回らない。私たち夫婦は急きょ、次男と孫3人をこちらの家に引きとるつもりで出かけたのだが、良く考えてみると、私たちが先方の家に泊まって世話をした方が便利なことが分かった。最初の晩は着の身着のままで一泊、翌日は私が着替えを取りに家に戻った。
 上2人は大丈夫だが、問題は生後40日の次男である。急きょ、母乳からミルクに切り替えることになった。幸いにあまり抵抗もなく、ミルクを飲んでくれたので、カミさんは昔を思い出しながら、哺乳瓶を温めたり、ミルクを人肌並みにさましたりと授乳に余念がなかった。感心したのは次男である。かいがいしくおしめを取り換え、風呂に入れ、幼稚園児の弁当をこしらえ、我々の分まで朝食や夕食を作ってくれる。乳児が寝付く時は寝るまで抱いているし、夜中にも乳児が泣くとすぐに起きて来ておしめを替えたり、ミルクをやったりしていた。

 昼間、一向に泣きやまないので、私はまだ首の座らない乳児をこわごわ抱きながら、暫くその泣き顔を眺めていた。その時にふと、「こんなに小さな赤ちゃんを、自分がこんなに風に抱いたのは、あまり記憶がないなあ」と言う気がして、それをうっかりカミさんに言ってしまった。そうすると藪蛇で「みんな私一人でしたんだから」と切り返されて冷や汗をかいた。それを言われればグーの音も出ない。私にも3人の子供がいるが、私はそうした日常の育児には殆どタッチしなかったからである。
 毎晩、カミさんが3人の幼子を風呂に入れるのにてんてこ舞いしているのを横目に見ていたばかりで、赤ちゃんを風呂に入れた記憶も数回程度しかない。子育てのことになると、昔の記憶が蘇るのか、カミさんは俄然言うことがきつくなる。40年近く経っても、「子どもが風邪を引いた時には3人連れて病院に行ったり、大変だったのよ」と言われる。もちろんこちらにも、夜中に長男を救急病院に連れて行って病院の待合室で夜を明かしたり、救急車に同乗したり、つてを頼って小児がんの検査をしたり、などなど、節目節目で子育てにちゃんと向き合った記憶はある。しかし、それはカミさんの記憶ではあまり意味をなさないらしい。

 3日間、私はもっぱら上2人の孫と遊びながら過ごした。こうして孫の勉強を見てやるのも悪くないなあ、などと思いながら。幸いなことに、次男の奥さんは応急処置をして3日目には退院。日を改めて手術ということになった。短期間ではあったが、我々夫婦は息子たちが若いのにしっかりと生活を築いていることに安心して帰って来た。帰宅後、カミさんが哺乳瓶で授乳している写真など、アイパッドで撮った一連の写真を娘が「共有」にあげてくれた。タイトルは「老夫婦が頑張った日々」とした。
 それに対して退院した奥さんからは、「ありがとうございます。頼りになる旦那さんと支えてくださるお父さんお母さんのお陰で、毎日素晴らしい生活を送ることが出来て幸せ者です。今度お呼びする時は、是非くつろいで頂けると嬉しいです。こどものお世話抜きで。。」と、泣かせるコメントが届いた。既に、それぞれの家族の生活が自立してあり、私たちに出来ることはどんどん少なくなってはいるが、それでも体が言うことを聞くうちは駆けつけたい。それが家族と言うものなのだろう。彼女の手術が無事に終わることを祈っている。

◆何故書くのか、何を書くのか
 さて、そうした“事件”はあったが、70歳を機に今までの生活を見直すと言うテーマは残っている。それがどういうものになるかについては、以前(「70歳になったら」)にも書いたようにまだ漠然としている。そこで、例によって生活全体の見取り図を書きなおしてみた。中心テーマである「クリエイティブな生活」というのは、変わらない気がする。その端的な現れである「メディアの風」については、少し変えたいと思っている。これまで7日から10日で更新して来た「コラム」は、月に2回程度の更新になるだろう。
 そもそも、この「コラム」は、ジャーナリストの端くれとして生きて来た自分が、定年後も時代と向き合って生きたいと考えたために始まった。6月末でちょうど10年になる。自分が生きている時代を見極めたいというのが動機だったが、そのうちに、考えた内容を人々と共有したいという欲求が出て来て、更新のお知らせもするようになった。これらは、おそらく(自分の頭と気力が続く限りは)続くだろう。更新頻度が変わるのは、以下のような理由からだとおもう。

 7日から10日で更新ということは、実態的に言えば、目の前の事象を追いかける作業になりやすい。もちろん、自分なりに原発、地球環境、政治、戦争と平和、メディア、時事(その時々の社会問題)、科学の動向などを、テーマとして追いかけて来たわけだが、70歳を機にそんなに欲張らずに、目の前の事象を追うばかりの(ジャーナリスト的)性癖を脱却したいと思っている。具体的には、もう少し “長いスパン”でテーマを考え、書くべき内容が得られれば書く。そのためには、これまで以上に読書もしなければならないが、それでいいのではないかと思う。
 というのも、今は私のような者が、目の前の事象について「ごまめの歯ぎしり」のようなことを書いても、無力感を覚えるだけだからである。原発推進だの、安保法制だの、改憲だの。そうした「赤信号、皆で渡れば怖くない」と言った浮かれた現体制が作る時代状況に対して、既に言うべきことは言ってしまった感があるからである。そこから先は、その体制と(特に若い世代の)国民とメディアに結果責任を負ってもらうしかない。老兵の私は、そこから少し距離を置いて(孫たちも生きることになる)時代の行く末を私なりに考えてみたい。そのためには、月に2回がせいぜいではないだろうか。

◆自分を見つめる生活
 見取り図の中心には「クリエイティブな生活」と合わせてもう一つ、「自分を見つめる生活」と書き入れてみた。5年刻みを2回で、あと10年。心身が持つかどうかは分からないが、これを持って「死出への旅路」の準備としたい。と言っても、やることはごくシンプルなことだ。まず、早寝早起き。規則正しい生活を心がけながら、心身の状態に五感を研ぎ澄ます。これは、単純なことであっても、怠惰な自分にとっては、「メディアの風」を10年続けるより難しいに違いない。
 家族との関係、友人たちとの交流、そして幾つかの社会的なつながり。こうしたことも大事にしながら、限られた人生の「残りの時間」から目を離さずに、シンプルに生きて行く。誰かが言っていたが、外部の事象に振り回されるのではなく、自分が自分の時間の主人公になると言うこと。そうして手探りした感触を、少しずつ「風の日めくり」の方に記録して行こうと思う。ともかく何とか元気で70歳の大台に乗れたのだから、残りの時間を大事にして行きたいと思う。
桜と始まりの4月 15.5.2
 桜の開花に付き合って始まった4月も、あっと言う間に終わり。4月は年度の始まりに相応しく、様々なスタートの月でもあった。「年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず」。老境に入って、ますます時間の流れが速くなり、それゆえの一年の重みも感じる。月の終わりに、桜にちなむ出来ごとも含めて、心に残った近況の幾つかを順不同で上げておきたい。 

 某日。神奈川県に住む長男一家と小田原で落ち合って城址公園で花見。今年の正月は、直前になって長男がインフルエンザになり、来られなかったので去年の夏以来の再会になる。孫娘たちは、それぞれ6年生と4年生に進級したが、久しぶりに会って、その成長ぶりに驚嘆した。長女は手足がすらりと伸びてすっかり大人びた少女になっていたし、次女もあれこれ会話が弾む優しい子になっていた。次女は公園内を散歩している間、ずっと手をつないでくれながら「おじいちゃん、千歳まで生きてね」などと言う。
 長女は今や、「ハリーポッター」全巻を読破するような文学少女になっているらしい。(小学校も半ばまでは、決して平坦ではなかっただけに)私たちは、両親にそれぞれの個性でしっかり繋がっている様子の孫娘たちを見て感慨深く、2人の成長を見守って来た息子夫婦の様子にも感心して、何だかすごく安心して帰って来た。5月の連休には、一家でこちらにやって来るというので、彼女たちにプレゼントする(とっておきの)本をAmazonから入手したところである。

 某日。次男のところに無事3番目の赤ちゃんが生まれた。男の子である。母子ともに健康なのが大変にうれしい。今は便利になったもので、生まれたばかりの写真をiPadの「共有」に上げると、互いにコメントを入れながら楽しむことができる。生後3日目の写真を見てびっくり。生まれたばかりの自分に会っているような、不思議な感じがする。「こちらでも埼玉のお父さんに似ていると話しています」と奥さんのコメントがついている。6日目に病院に会いに行ったら、私と言うよりは、やはり兄と姉に似て綺麗な顔をしていた。
 次男の所はこれで5人家族になった。長男は小学校2年生、長女は5歳。デザイナーの息子は、長男はダンス教室に通わせ、長女は近所のインタナショナルの幼稚園に通わせている。2年ほどしたら、一家でNYに移住するなどと言っているが、どうなることやら。私たちはもう見守ることしかできない。孫たちを見ていると、この子たちが大きくなる頃に世界はどうなっているのだろうという思いに捉われる。そのために自分が出来ることはもう殆どないが、この先の世界が何とか平和であって欲しいと切に思う。

 某日。近所のお寺の「朝の集い」に参加した。真言宗のお寺で、毎月第三日曜日の朝の6時から、本堂に集まって住職と一緒にお経を上げ、法話を聞き、座禅を組む。終わると皆でお粥を頂く。この日は25人程。今月は、新しい参加者が何人か増えた。男性も女性もいる。見たところ、年齢は団塊の世代くらいだろうか。住職が「お粥は便利で、人数が増えてもお湯を加えれば幾らでも増やせます」と笑いながら言う。幼稚園生の時から通っていて、皆のアイドル的存在の鈴ちゃんも、この4月から6年生になった。
 床の間には、御釈迦様誕生の様子を描いた掛け軸が掛けられていた。「4月8日は御釈迦様の誕生日なのでね」と住職。御釈迦様が、右手で天を指しながら「天上天下唯我独尊」と言われている図である。いつもはお粥が終わると、誰かが最近の出来事などを披露したりするが、今月はなし。表に出ると、寺の境内はしだれ桜が終わり、代わりにシャクナゲや牡丹が鮮やかな花をつけている。隣の幼稚園は八重桜が満開。春爛漫と言った風情である。

 某日。先輩と久しぶりに「ふるさと村」に出かけた。常陸大宮の駅で待っていてくれたのは、受け入れ農家のHさん姉妹。そのまま妹さんの運転で、太平洋が見晴らせる阿字ヶ浦温泉に浸かり、近くの「那珂湊おさかな市場」で魚を買い、ふるさと村に戻った。先輩が精魂傾けて作ったツリーハウスを点検した後、Hさんの敷地の中にあるドームハウスで、自然食を頂きながら酒を酌み交わす。翌朝は先輩とのどかな里村をウォーキングした後、仲の良い姉妹に付き合って、車で山一杯に咲くボタン桜を見たり、道の駅を訪ねたりした。
 どうも、彼女たちは私たちが訪ねるのを口実に、楽しい姉妹のピクニックを企画した感じだった。私は、2人のおしゃべりを楽しみながら、密かに創作意欲をかき立てられてもいた。何しろ田舎の人間関係は濃密で、あの人この人の噂話の内容がとんでもなく面白い。また、その見て来たような話しぶりが何とも言えない。私は先輩に、彼女たちの話すエピソードの数々を書き起こし、その千変万化の人間模様を「ふるさと村短編」として書いて見たらどうか、などと提案したりした。

 某日。定年後に関っている業務でも幾つか新しいスタートがあった。私が週1回、企画会議の座長として通っているテレビ制作会社にも新人ディレクターたちが入社、さっそく番組アイデアを出してくれるようになった。この時期、新人ディレクターたちの新鮮な感性をどう受け止めるかに悩むところだが、その彼らもすぐに忙しくなり、2,3年も経つと別人のようにたくましくなる。
 一方、私が編集長をしているサイエンスチャンネル(ネット動画サービス)では、平成27年度の科学ニュースを制作する外部プロダクションを選ぶ企画審査会があった。こちらの会社は日本の科学技術を背負っている国立研究開発法人。大組織ゆえのもどかしさを感じることもあるが、科学技術の最先端情報に触れられるのが魅力の一つでもある。今年は守備範囲が広がり、気心の知れた制作会社が選定されたので、幾つかの構想にトライしたいと思っている。2つの会社を合わせて週2日の都内通勤だが、こうした生活も今年5年目に入る。

 その他、私がボランティア的に関係している「カナダ建国150年(2017年)プロジェクト」も進んでいる。4月に入って、その一つであるドラマの完成試写があった。去年の夏からシナリオを読んでいろいろ口を出させて貰ったドラマ(*)だが、出来の良さにほっとした。日本人が多文化主義のカナダを理解するというテーマを肩ひじ張らずに描いている所がとてもいい。先日は、去年ウィニペグで開かれた会議「GoMedia」で一緒だった若い人たちとの同窓会もあったが、今年は9月に参加する。これが10回目のカナダ取材になるわけで、考えてみれば、カナダ観光局とのお付き合いも随分と長くなったものである。*7月にCSで放送。同時にプロジェクトのサイト「Canada Theatre」でも紹介。写真は、私が寄稿した大陸横断鉄道物語。 
 
 某日。越谷市議会の議員選挙。私も参加している超党派の「埼玉政経セミナー」では、現職市会議員は全員当選し、新人で立候補した3人のうちの一人も当選した。これから4年、私たちが作ったマニフェストをもとに、新たな取り組みが始まるわけだが、それへの参加の仕方を模索する年にもなりそうだ。
 29日。私たち家族にとっては、大事なイベントがあった。長らく気をもんだ娘の結婚相手のご両親と初めての会食。現在、娘たちが入居する予定の2世帯住宅を新築中で、間もなく完成するそうだ。娘の一大決心でもあったが、穏やかで暖かそうなご家族との新たなお付き合いに感謝したい。こうして書いて見ると4月は色んなことが始まる月だという感じがする。これらのスタートが幸せで実りのあるものになって欲しいと思う。
何かと忙しかった3月 15.3.31
某日。春の陽気に誘われて、カミさんと近所の元荒川の堤防の上を散歩した。いつもウォーキングで歩いているコースだ。遊水池のほとりの柳の木が芽吹いて水面に緑の影を落としている。見ようによっては、イギリスの湖水地方のような趣がある。ちょっと下ると、川の両岸に綱を張って何百と言う鯉のぼりが泳いでいた。このあたりは、「ぴんころ地蔵尊」で知られた大聖寺があるところで、川にかかる橋は不動橋という。その橋を渡って、市内をぐるっと巡って途中でドリップコーヒーの喫茶店で休んで、帰って来た。およそ1万歩。桜はまだ3分咲きだったが、周辺はすっかり春の気配である。

某日。お彼岸に入ったこの日、恒例の「きょうだい会」。93歳の母を囲んで我々きょうだい(男女4人)が、連れあいを伴って水戸に集まり会食の後、墓参り。父の墓前でお経を上げながら、お陰さまで母を始めとして、全員が何とか元気でやっていることを感謝した。その足で、お寺近くの偕楽園を散歩したが、母は今年も元気で、園内を時に梅の枝に鼻を寄せたりして散策。ひ孫たちも今年は11人に増える。最近は弟に連れられて、いわき市の白水阿弥陀堂(国宝)を訪ね、ライトアップされたお堂の美しさを40句もの俳句に作り、そのうち12句が同人誌に発表されたと言う。

某日。毎月一回、先輩の講義を聴きに集まる勉強会。3月は房総の岩井保養所で合宿だった。83歳の先生を筆頭に経済記者の大先輩やドキュメンタリーの大御所、ロシア情勢の専門家など8人が参加した。今回の講義は「日銀の金融政策を斬る」。経済に詳しい先生だけに、経済学理論の2つの流れ(新古典派とポストケインジアン)をもとに、様々なグラフを用意しながら日銀の金融政策の先行き不安を解説してくれた。面白かったのは、会食後の談論。ウクライナ情勢からドキュメンタリー論まで幅広いテーマで盛り上がったが、特にドキュメンタリーの大御所の話は漫談のようで、いつものように痛快この上ない。

某日。先に「今、地方議会で何が?」に書いた、越谷市の超党派の市議と市民の集まり「埼玉政経セミナー」の発表会(市民会館)。統一地方選挙向けの新しいマニフェスト作りに参加した私は、(このような活動とは無縁だっただけに、ちょっと不思議な感じがしながら)パネラーとして内容を説明した。その後、参加した60人ほどが6つのテーブルに分かれて議論。マニフェストの内容もかなり浸透して来た感がある。数日後、頼まれて「マニフェスト作りに参加して」というタイトルで、以下のような文章を機関誌に寄稿した。

『定年後、少しは地元のことも知らなければと参加したのが「埼玉政経セミナー」です。市民と市会議員の皆さんが力を合わせて、越谷市政をより時代に即したものへと変えて行こうという集まりですが、超党派の幅広い議員さんが参加しているユニークさに惹かれました。今回私は、4月の統一選挙に向けて訴えて行く「みんなの越谷マニフェスト2015」作りの一員として参加しました。3項目で成りたつマニフェストのうち、主に「新しいしくみ」の検討を行いましたが、これらは、越谷市議会をより市民に開かれたものにし、市民の声が市政により反映しやすい“しくみ”にしようというものです。
 キーワードは、市議会での議論の「見える化」です。市議会のライブ中継(ネット)の拡大、市民による議会傍聴の報告などから、若い世代の投票率アップへの取り組みまで、市民の多様なニーズに応えて行くためのごく当然の改革と言えます。ただし、これらの改革に対しても、越谷市議会の中では議論が中々前に進まない旧態依然の状態にあるようです。残念ながら、まだ頭の固い議員さんたちが多いのでしょう。
 少子高齢化や財政難が急速に迫っている今、越谷市政も様々な新しい課題に取り組まなければ、時代に適応できません。市民と議員が知恵を出し合って、力を合わせて行かなければならない時です。そういう意味で、新しいマニフェストを掲げて選挙に取り組んでいる候補者の方々には全員当選して欲しいと思います。また、選挙後の市議会においても賛同者が増えるように、そしてマニフェストが一つ一つ実現していくように、市民の側からも応援していくことが大事だと思っています。皆さまのご健闘をお祈りします。』

某日。久しぶりに映画館をはしごした。ある省の映像メディアの審査委員長をしている関係上、試写会やDVDで映画を見る機会が結構あるが、今月はいつもより映画館で見る機会が多かった。「アメリカンスナイパー」、「愛を積むひと」、「妻への家路」、「愛して飲んで歌って」。話題の「アメリカンスナイパー」は、84歳の老監督、クリント・イーストウッドの最新作。イラク戦争で160人の敵を射殺した実在の人物を描いたもので、人物の内面に迫る点では今一つだったが、戦闘シーンの描き方などは心臓がドキドキする位に圧巻だった。
強い印象を残したのは、中国の文化大革命の後遺症を一組の夫婦を通して描いたチャン・イーモウ監督の「妻への家路」。人間がしっかり描けているかどうかが、映画の評価を決める一つだと言うが、この映画はまさにそれである。特に、歴史に翻弄される人々の場合に、映画は一層際立って来る。切ない終わり方だった。

某日。映画「蜩(ひぐらし)ノ記」を製作した友人が今年度の芸術選奨の監督賞を受賞したので、ささやかな祝いの席を設けた。高校の同級生と先輩に加えて、長年、女性映画祭のプロデューサーをして来たOさんの4人。日比谷のプレスセンターの和食店で公園を見下ろしながら、友人たちと映画の話しに花を咲かせた。後日、その友人の監督と今度は、岩波ホールでアラン・レネ監督の遺作「愛して飲んで歌って」を観た後、蕎麦屋で一杯やった。上手く行けば、彼の次回作は初の“女性を描いた作品”になる予定だが、構想も大分膨らんで来ているらしい。娘にも原作を読んでもらっているので、主役の女優について電話で候補を上げて貰ってあれこれ品定めしたり。今が一番楽しい時かもしれない。

某日。週に一回通っているテレビ制作会社の飲み会。この日は創立記念日で、ことし27回目になるそうだ。この会社では、4月3日に近所の公園を借り切って、恒例の花見大会も行われる。ここも含めて2つの会社に週2日通っているが、今月も飲み会が何回かあった。もう一つの会社では送別会。年度末の異動時期になると、こうしたイベントがあって、サラリーマン時代を思い出す。ただし、この2つの会社に通いだして丸4年になるが、気分はもう完全に自由人になっていて、組織に縛られることは全くない。ただ、若い世代に少しは何かを伝えられれば、と思っているだけ。で、都内に出かけるのにかこつけて、何やかやと今月も週2回は飲んでいる。

そして3月31日。こうした、日々を過ごしながら、ある日、鼻水をかんだら鼻の奥が妙に痛くなった。それを花粉症のせいだと思って放置していたら、だんだん痛くなり、今日ついに耳鼻科に行った。診て貰ったら蓄膿症だという。1週間分の薬を貰って来たが、去年「サバの寄生虫に当たる」にも書いたが、自己診断は禁物の例である。歳を取ると、こういうプチ症状を幾つか抱えることになるが、放置するうちに治ってしまうものもあって、病院に行くかどうかは、なかなかに難しい。
午後、カミさんが「桜が満開よ」というので、毎年歩いている“花見コース”を散策した。元荒川の土手沿いにある一本の桜が見事なまでに花をつけている。枝もたわわに咲いているのを見て、赤ちゃん連れの主婦が「ずっしり」と言った言葉が、ぴったりの感じだった。それにしても、桜と言うのは散る時の潔さは良く言われるが、咲く時もあっという間に満開になるものだ。

以上のような日々を過ごしながら、今月は4本の「コラム」と2本の「日めくり」を書いた。来月に入るとすぐに、長男の家族と花見をしながら食事会の予定がある。同時に、その頃には次男のところに第3子が生まれることになっている。この歳になると、日々は音を立てて流れて行く感じがするが、もう少し、手元に引きとめておきたい気もする。どうすればいいのだろう。