5月23日に無事70歳の大台に乗ったことは前回書いた。今回は、その直後から風邪をこじらせ肺炎(?)になったことと、それから辛うじて脱して「58年振りの小学校の同窓会」に出かけたことを書いておきたい。この歳を過ぎると人生の下り坂の過程で体験することが多くなるわけだが、それは当然のことながら初体験のことも多く、考えようによっては、なかなか印象深いものである。つれづれなるままに、そんなことを書いて見たい。
◆肺炎の初体験
元働いていた会社では、共済会の医療保険を利用することなく無事70歳で保険の終了を迎えると、何がしかの祝い金が出る仕組みになっていたらしい。知らせが来たので、その思いがけない祝い金で「瀬戸内美術館ツアー」という瀬戸内の島々を巡る、面白そうなツアーに出かけることにしていた。しかし、その一週間前くらいから急に喉が痛くなり、市販薬を飲んでいるうちに鼻水、咳、痰とどんどん症状が進行して行った。旅行の前日、週2日行っている会社で打ち合わせをしていたら、突然声が出なくなって何だか熱っぽい気もして来た。
そこで、会社近くの診療所を教えて貰って、熱を測ったら8度6分。(多分、熱さましの)点滴をし、肺のレントゲンを撮ったところ「肺炎の心配があります」とCTまで撮られた。(何だか過剰医療の気がしたけれども)結果、「一部に肺炎の症状が見られます」ということで、抗生物質や解熱剤、感冒薬など薬を山ほど処方された。
さすがに駅からは歩く気力がなくタクシーで帰宅し、そのまま寝込んでしまった。当然、翌日からのツアーはキャンセル。カミさんは口には出さないけれど、ちょっぴりご機嫌斜めの様子。70歳は肺炎の予防注射に補助が出る歳だと言うので、前から注射をするように言われていただけに、私は布団の中で小さくなっていた。
2日ほど寝たら熱も下がって徐々に快方に向かって来た。しかし、痰や鼻水は血が混じってまだ赤い。念のために近所のかかりつけの医者にも行き、クリニックで貰った薬を見せたら「これで、いいでしょう。ただ、もう解熱剤はいらないです」。胸に聴診器を当て「肺はきれいですよ」と言うことだった。しばらくして赤い痰や赤い鼻水は治まり、5日目には声も出るようになった。咳の方はかなりしつこく続いたが、それも最近になってほぼ完全に治まった。やれやれである。
仮に今回のが肺炎だったとしても、ごく初期だったので肺炎と言うものがどういうものか、まだ体験上分かったとは言い切れないが、肺炎は(免疫機能の弱くなった)年寄りにとっては命取りの病気である。注意するのに越したことはない。今回は、初期段階で手を打てたことを良しとして、来月あたりには予防注射をしてこようと思う。
◆郷里で「58年振りの小学校同窓会」に出席
その肺炎騒ぎも収まりかけの頃、久しぶりに郷里に帰ることになった。以前から約束していた小学校の同窓会に参加するためだ。同窓生も今年70歳。卒業以来58年が経っているというので、同級生が様々なツテをたどって連絡を取り、58年振りの同窓会を企画してくれたのである。私の郷里は茨城県日立市。その海辺にある会瀬小学校が母校になる。体力の回復が気になったが、前々から奔走してくれた同級生のためにも出席することにし、その日は早めに郷里に帰った。93歳の母と、同居してくれている弟夫婦とゆっくり話をするために。
同窓会は夕方の5時から。弟が車で送ってくれることになり、ついでに我らが母校に案内してくれた。かつての木造校舎は、その後鉄筋の校舎になっていたが2011年の東日本大震災の被害を受けて取り壊された。現在は少子化を反映して小じんまりした3階建てのしゃれた校舎になっている。弟の解説では、庭の片隅にあった二宮金次郎の像も現在で3代目になるそうだ。我々4人の兄弟姉妹は皆、戦後のモノのない貧しい時期に、この小学校に歩いて通った。短時間だったが、58年の時間が僅かに縮まったように感じた。
さて、同窓会の方である。場所は日立駅近くの酒場の個室で、集まったのは6年1組の卒業生45人のうち13人(ほかの 組から飛び入りで1人)。うち女性陣は5人だった。卒業後、何回か話を交わした3人以外は、58年振りになる。会っても分からないのではと心配だったが、幹事のS君は、丁寧にも卒業生全員の名簿と卒業写真(*)や当時の校舎の写真などを刷り込んだパンフを各人に用意してくれていた。互いに名乗り合って幹事が用意した名札を付けて話しているうちに、それぞれに当時の面影がほのかに浮かび上がってきたから不思議である。*中央にいるのは12歳の私。その真上が当時36歳の母。
やがて皆が「○○チャン」と下の名で呼ぶようになり、58年の時間が一気に逆回転し始めた。当時、校庭にあった砂場は年に2回ほど砂を補充した。その時は生徒総出で、列を作ってバケツを持って海岸まで砂を採りに行った。途中、常磐線の下をくりぬいた“洞門”を通る時に、生徒たちが口々に「あー」と声を出すと声が反響して楽しかった。そんなたわいもない思い出話に花を咲かせるうちに、今日集まった70歳の老人たちが、たちまち12歳の子ども帰って行くような感じがする。何だかしみじみとしてきた。
◆恵まれた時代を生きて来た世代
中には既に伴侶を亡くした同窓生もいたが、集まった人々を見ていて、強烈に感じたことがあった。それは、(私のひいき目かも知れないが)全員がそれなりに、当時の田舎の貧しい小学生時代からは、とても想像できないような個性的で颯爽とした70歳になっていたことである。これは発見だった。小学時代の私は、ズック靴も履いてはいたが、大体は祖母のお下がりの下駄を履いて通学した。ランドセルなども、父が手作りで縫ってくれた袋のようなものだった。気にもしなかったが、パンフレットのグループ写真を見ると私だけが下駄を履いている。*前列右から2人目が私。
それを考えると、やはり、この58年の間に日本が確実に変わったのは、経済的な余裕なのだと思う。それと、集まった同級生を見て感じるのは「日本の民度」の変化だ。皆それなりに知的でしっかりした生き方を持つ70歳になっていた。「そういう人が集まるのよ」とはカミさんの言だが、それにしても58年前の男子は(私も含めて)皆、鼻たれ小僧だった。「私たちは、幸せな時代を生きて来たなあ。ありがたいものだ」というしみじみとした実感が胸に押し寄せて来た。確かに戦後70年、人口は増えて経済は右肩上がり、戦争もなく、つい最近まで大きな災害もなかった。
◆無事、肺炎を切り抜ける
何十年振りかで小学校の同窓会に参加した心境には、独特のものがある。お酒を酌み交わしながら、やがて一人一人の近況報告などもあり、さらにお互いに当時を確認し、写真を撮り合ったりしているうちに、甘酸っぱい感情も湧きあがって来た。女性陣から「一度会いたかったー」と握手を求められたりしたが、互いに当時では考えられないようなさばけた感じになったのは年の功だろうか。ただし、病み上がりの私は、できるだけ羽目を外さないように、酒も控えめにしながら過ごした。
理由を言って一次会で引き上げる事にし、近所の幼馴染みのYチャンと一緒にタクシーで母の待つ実家に帰った。Yチャンはこれまで、ずっと独身で来たらしい。今は毎日スイミングクラブで泳いで体を鍛えているという。震災で被害を受けて補助金で自宅を新築。「90歳まで生きることにしたのよ」と一人暮らしを頑張っている。私の方は、まだ若干の咳こみは残っていたが、58年振りの同窓会に参加した余韻に浸っていた。この調子なら肺炎の初体験も無事やり過ごすことができそうだ。少し手前で車を降り、二人で崖の上から海を見たら、ちょうど水平線から見たこともないような大きく真っ赤な満月が上って来るところだった。 |