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一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

イスラム国という“癌”組織 14.10.14

 今年6月29日に、自らを「イスラム国(Islamic State)」と称したイスラム過激武装集団については、遠い問題のように考えていた。しかし、8月19日にアメリカ人ジャーナリストを斬首した衝撃的な映像が世界を駆け巡って以来、その残虐な過激派集団については、否応なく関心を引きつけられて来た。ネットにアップされている胸が悪くなるような画像の数々を見るにつけ、人間の無明(迷妄)の深さにつくづく考え込まざるを得ない。
 詳しくは書けないが、まるで人を殺すのを楽しむかのように捕虜の首を切り落とし、曝し首にして並べる。しかも、そうした残忍で過激な原理主義が世界の若者を引きつけ、数万に及ぶ兵力のうち海外からの義勇兵は6千人を超えると言う。彼らは、死ぬことを全く恐れない。そんな中、「人を殺してみたい」、「フィクションに身を投じてみたい」と言ってシリアに渡航する日本人(北大生ほか)まで現れた。世界は果たして、この“癌(がん)”組織のように増殖を続ける「イスラム国」を抑え込めるか。日本にとっても、他人事ではない問題である。

◆文明世界を否定する癌組織
 北大生(26歳)のシリア渡航を支援しようとした、イスラム学者の中田考(元同志社大学教授、54歳)は、イスラム国にはイスラム国なりの論理と正義があると擁護し、学生にイスラム過激派と日本のかけ橋になって欲しいと言うが(*)、欧米はこうした動きを最も警戒している。欧米を敵視するイスラム国で戦闘員としての経験を積んだ若者が、自国に戻って国内でテロ事件を起こすことである。ドイツでは既に400人が出国し、うち100人が国内に戻っている。(*インタビューおよびサイト)
 確かに、現代社会は様々な矛盾と腐敗を抱え込んでいて、そこに住む若者たちにとって希望のない(自殺したくなるような)世界に見えるかもしれない。しかし、そうかといってイスラム急進主義の増殖を許すなら、世界は一気に中世のような暗黒時代に連れ戻されることになるだろう。

 国民国家と国境を否定し、厳格な教義を押し付け、女性を虐げ、異教徒に残忍な刑罰を科す。民主主義と人道主義を無視するその性格は、現代(西欧)文明に対する挑戦であり拒否である。イスラム国は現在、シリアとイラクにまたがる各都市を線で結ぶように広がっており、その支配領域の合計面積は、イギリスより広くなっている。これがさらに拡大してイラクとシリアの大部分を支配すれば、世界は悪夢のような状況になるだろう。残酷で狂信的なイスラム国の情報に接すると、イスラム国は国際社会に取りついた異物であり、“癌”組織のようなものではないかと思えてくる。

◆複雑な情勢。癌治療にも似た壊滅策の成否は?
 何しろ、イスラム国は奪った油田の石油販売や、文化財の盗掘販売、人質の身代金などで潤沢な資金を得ている。その資金力を生かして、かつてのフセイン政権の残党や世界の若者を続々と戦闘員として呼び込む。ネット(SNS)を使った宣伝、テロの呼び掛けも巧みである。これは、たとえてみれば周囲の栄養分をどんどん吸収して増殖を続ける癌組織。9月に始まった空爆は、その癌組織に対する“放射線治療”のようなものだろう。
 
しかし、イスラム国は、カリフ制(イスラムの最高権威者)を看板にした強力な回復力を持っているので、空爆だけで根絶することは難しいと見られている。また、癌治療には放射線で患部を叩いて小さくし、それから“外科的手術”で除去する場合がある。これが地上軍の派遣に当たるわけだが、今回、アメリカはこの地上戦をためらっている。一旦、始めたらイラク戦争のように出口の見えない泥沼に陥る可能性があるからだ。

 一方、周辺の血管を塞いで栄養分を断ち、“兵糧攻め”によって癌細胞を死滅させる方法(血管塞栓術)もある。9月24日に国連安保理が決議した、各国による(テロ目的の出国者の処罰、資金面を断つなどの)イスラム国包囲網は、これに当たるだろう。要は、こうした包囲網を国際社会が一致して取れるかどうかなのだが、ご存知のように中東情勢は複雑怪奇。ちょっと読み誤ると、アメリカが反アサド勢力に与えた武器が同じ反アサド勢力のイスラム国に渡ったりする。
 シリアの中は、アメリカが潰そうとしているアサド政権とアメリカが支援する反体制派に分かれるが、その反体制派もイスラム国に対しては、近いものから反対のものまで様々だ。隣のイラクでは、現在のシーア派政権が弱体化していて、スンニ派のイスラム国に対処できていない。しかも、イラク国民は2対1の割合でシーア派とスンニ派に分かれている。そして、シーア派の大国イランがじっと成り行きを見ている。

◆何がイスラム国を生んだのか
 触手のように広がった支配地域の形状と、こうした複雑な情勢では、イスラム国という癌組織に対しての放射線療法も、外科的手術も、兵糧攻めも、なかなか決め手となりにくい。そこで当然のことながら、なぜ若者が過激派に走るのか。その土壌となっているそれぞれの国内問題に取り組み、「テロリストを生まない社会」を築く努力が必要だとする論調も登場する。(朝日社説10/6)。
 これは、さしずめ体全体の免疫力を高めて癌細胞の増殖を抑える“免疫療法”にあたる。医学的には実証されていないが、根強い人気を持つ考え方だ。しかし、なぜ北大生のような若者が過激派に走るのか、その原因を突きとめて不満を解消してやるのは、言うは易くだがなかなかに難しい。格差の少ない、若者も生きやすい社会を作るのは(正論ではあるが)、より広い観点から取り組むべきでそう単純なことではない。

 それより、ここで「何がイスラム国を生んだのか」、先進国自身の問題として、その原因を明確にしておいた方が、今後の教訓になるのではないか。それは、2003年のブッシュ大統領の誤った選択がきっかけだった。国連安保理の決議を経ないまま、大量破壊兵器(核と化学兵器)の存在と9.11を起こした国際テロ組織とのつながりを理由に、戦争を開始。それまで反米的、かつ独裁的ではあったが、比較的安定して国民を統治していたフセイン政権を倒した。
 しかし、結果的に大量破壊兵器と過激派とのつながりは虚構に過ぎず、戦争は10年以上に及ぶイラクの大混乱をもたらしただけだった。さらに、アラブの春の民衆の蜂起に際して、独裁的なアサド政権(*)が化学兵器を使ったという理由で、反政府勢力に肩入れ。イスラム国は、その混乱と権力の空白に乗じて勢力を伸ばして来たわけである。*ロシアは親アサド

◆戦争を始める論理「予防戦争」の結末
 超大国アメリカは圧倒的な武力を背景に、世界の警察として、民主主義の伝道者として性急な武力行使に踏み切り、その結果に苦悩している。9.11の同時多発テロの後、アメリカは「先制攻撃ドクトリン」を発表した(2002年)。その中で、ブッシュ大統領は差し迫った危険に対する「先制攻撃」を拡大解釈して、何ヶ月、あるいは何年も先に実現しそうな脅威に対する「予防戦争」までをもアメリカの採るべき戦争に含めた。
 その結果がイラク戦争だったわけだが、何ヶ月、あるいは何年も先に実現しそうな脅威に対する「予防戦争」が正しいかどうかを判断するのは、至難の業である。ある人は、ペリクレス(ギリシャの賢人)やソロモン(古代イスラエルの賢者)を合わせたような英知が必要だともいう。未来から歴史を評価するような「神の目」が必要であり、これは殆ど人知を超えている。(「アメリカの終わり」フランシス・フクヤマ)

 歴史に「もし」はないが、ではあの時、戦争をしなければ中東はどうなっていたのか。相変わらず、フセインはアメリカにとっての厄介者だったろうが、イラク国民の生活も安定していたはずである。この10年の中東の大混乱がなければ、イスラム国もなかった。そのイスラム国は、今やアメリカの究極の敵だという見方さえあるが、これらの経緯は、積極的平和主義を掲げてアメリカと軍事的共同歩調をとろうとしている日本にとっても重い教訓だと思う。

国会・野党の頑張りどころ 14.10.8

 9月29日から12月第一週までの70日間におよぶ秋の臨時国会が始まった。この日程が決まった6月末、産経新聞は『召集日は当初、10月3日も選択肢に上がっていたが、(政府は)安全保障法制の見直しに向けて十分な審議日程を確保し、国民の理解を深める必要があると判断し、前倒しした』とし、『集団的自衛権の閣議決定を7月1日に行うことを受け、臨時国会は安全保障法制の整備が焦点となる』と報じた。
 しかし安倍政権は、直後の世論調査の支持率低下にショックを受け、関連法案の提出は来年の5月に一括して提出するとして、議論を先延ばしにしようとしている。9月29日の首相の所信表明でも、今国会の目玉として「地方創生」や「女性が輝く社会」などを持ち出したが、肝心の安全保障政策には全く触れていない。年内の福島(10月)や沖縄(11月)の知事選、来年4月の統一地方選挙に影響が出ないようにという計算らしいが、あんなに急いで閣議決定をしたのは何だったのか。国民を愚弄する話である。

 これまでも、安倍政権はアベノミクスで稼いだ高い支持率を背景に、特定秘密保護法や集団的自衛権などのきな臭い「国家主義的な安保政策」を拙速に強行し、それがやり過ぎだと批判されると一転してアベノミクスの第三の矢(成長戦略)などを持ち出して国民の関心をそらして来た。しかし、そのアベノミクスもここへ来て、様々な副作用が指摘され始めた。そこで苦肉の策として登場したのが、「地方創生」や「女性が輝く社会」などという新規テーマ(第四の矢)だ。
 これらは話題性はあっても実体は殆どなく、国民の目を重要なテーマからそらすための「目くらまし」に過ぎない。問題は、こうした「目くらまし」に惑わされずに、野党が今国会でしつこく本来の重要テーマで論戦を挑めるかである。何しろ、今の安倍政権は、以下に書くように「攻めどころ満点」の状態だ。野党は国会での論戦を通じて安倍政策の弱点を国民に印象付けて存在感を示せるか、一強多弱状態を打開するための正念場を迎えている。

◆“目くらまし”に騙されない論点が見えて来た
 最近の新聞社説を幾つか読むと、この国会で議論すべき論点が見えて来たとする見方が多い(毎日10/2)。その最大のテーマは、アベノミクスが思うように行っていないとする指摘と、異次元の金融緩和による様々な副作用の指摘である。「消費税増税の判断を控え、アベノミクスへの評価が政治の一大論点にせり上がって来た」と書いたのは、朝日である(10/4)。このほかにも、運用面での見解が未だにあいまいな集団的自衛権、不十分な歯止め策のまま12月に法律が施行される特定秘密保護法、武器輸出三原則からの転換を図った防衛装備移転三原則など、安全保障政策上の重要問題がある。さらに、このところ連日国会で論戦が展開されている原発再稼働の問題もある。

 安倍政権は、今国会を「地方創生国会」と名付けることによって、これらの重要テーマ隠しに動いたが、(地方創生も大事だが)「アベノミクス」、「集団的自衛権などの安保政策」、「原発再稼働問題」の三大テーマが国民生活にとってより重要なテーマであることは明白である。国会でのテーマ選択権は論戦を挑む野党の側にあるのだから、野党は安倍政策のアキレス腱であるこれらの重要テーマをしつこく取りあげて質して行くべきだと思う。
 その点、今国会の民主党はようやく腰を据えて安倍内閣と対決しようとしている。読売の社説(10/1)は「民主党は対案示して論争せよ」と書いているが、私はそうは思わない。現時点で大事なのは「暴走する安倍政権」の懸念について、徹底したチェックと抑止機能を果たすことの方がまずは大事。そのために、以下に(野党側から)攻めるべき論点テーマ毎に整理しておきたい。

@ アベノミクスの誤算と深刻な副作用
 鳴り物入りで始まった異次元の金融緩和は、実体経済を上向かせることには何ら役に立っていない(経済学者、伊東光晴「アベノミクス批判」)。緩和マネーが市中に流れ込んで株価上昇と円安は起こした(*)が、株価によって潤うのは外国ファンドや一部の金融機関だけ。円安によって輸出型大企業は潤ったが、多くは海外に工場を移転しているので輸出は伸びない。却って輸入原材料の高騰で中小企業は苦しんでいる。労働者の名目賃金は上がったと言うが、消費税増税の影響も深刻で実質賃金指数は14カ月連続で下がっている。お陰で購買意欲は一向に回復しない。*「アベノミクス批判」によれば株高も円安もアベノミクスとは全く無関係だそうだ
 肝心の成長予測もIMFによって、たった0.9%と大幅に下方修正された(10/7)。頼みの第三の矢(成長戦略)も法人税の引き下げなど、大企業の意向に沿ったものが殆どで、庶民には実感しにくい。安倍は、富裕層が増えれば余禄がだんだんと下に拡大すると言うが、そうした「トリクルダウン(したたり)」は期待できないと言うのは、定説になっている(スティグリッツ「世界の99%を不幸にする経済」)。一方で、年収百数十万の不正規労働者は増え、賃金の不平等を示す「所得ジニ係数」もかつてない値になって、日本の中間層は崩壊しつつある。アベノミクスは、もはや安倍が胸を張れるようなものではなく、むしろ深刻な副作用に対処すべき時に来ている。

A 国家主義的な安全保障政策の危うさ
 国会では、集団的自衛権の議論も行われている。枝野(民主党幹事長)は、武力行使の新3要件の一つ「国民の権利を根底から覆すような“明白な危険”がある場合」の、“明白な危険”とは何かを巡って、それがあいまいだと指摘。これに対する安倍の答えは「明白な危険というのは明白なので、あいまいなものではない」と言った非論理的なもので、答えになっていない。しかも、それがホルムズ海峡の機雷除去などの具体論になると、自公の間でも見解が分かれている。
 公明党が歯止めをかけたという歯止めは歯止めになっていない、ということが明白になりつつある。さらに具体論をアメリカの要請を例に議論して行けば、安倍政権が考えている集団的自衛権の本質(アメリカのために血を流せる同盟強化)が浮かび上がってくるはずだ。同様に、枝葉の部分の修正だけで施行されようとしている特定秘密保護法や、軍産複合体(防衛省、経産省などと防衛産業)の強大化につながる防衛装備移転三原則の危険性についても、議論すべきだろう。

B 安全対策が不十分なまま再稼働を進める危険性
 川内原発の再稼働問題については、昨日の参院予算委員会で福山哲郎(民主党政策調査会長)が質問していた。「規制基準が世界一」の根拠に関して、規制基準のクリアが安全を担保したものではないこと、政府が再稼働の判断を原子力規制委員会に任せていることの矛盾点、さらには第五の防護壁である「避難計画」の不備などを突いていた。その論点は「原発・誰が責任を取れるのか」(9/23)や「安全基準が世界一の実態」(1/31)に書いたのと同じである。

◆しつこく議論し、政策の問題点を繰り返し国民に発信せよ
 当然のことながら、以上のような論争において政府が非を認めることはない。大体が、官僚が用意した答弁を一方的に読み上げるだけで、質問と答えはかみ合わない。安倍自身が論理的な受け答えが出来る人ではないのである。従って、安倍政権に対して野党が抑止力を働かすとすれば、そのやり方は限られて来る。その一つが、安倍政権のやり方を逆利用することだ。
 安倍政権はこれまで、国民に不安を与えるような安全保障政策を強行する際に、国民を見下したやり方を取って来た。@怒っていても時間がたてば忘れる、A他にテーマを与えれば気がそれる、Bウソでも繰り返し断定口調で叫べば信じてしまう、ということを基本にして来た(古賀茂明「国家の暴走」)。とすれば、野党はその反対のことをすればいい。すなわち、@いつまでも忘れずに蒸し返す、A目くらましのテーマに騙されない、B安倍政策の問題点を繰り返し叫ぶ、である。この意味で、(マスメディアが野党に冷淡な現状では)民主党を始めとする野党は国会論戦の内容を独自に国民に繰り返し伝える「発信力」もまた、求められているわけである。

映画「蜩(ひぐらし)ノ記」公開 14.10.1

 10月4日、待ちに待った映画「蜩(ひぐらし)ノ記」が公開される。何しろ完成は去年の秋だったから、一年経っての満を持しての公開になる。監督は黒澤明監督の“愛弟子”小泉堯史。1970年に黒澤組に参加して以降、「影武者」(1980年)から遺作となった「まあだだよ」(1993年)までは助監督として常に黒澤監督の傍には彼がいた。ついでに言えば、彼は私の高校の同級生。独立後の第一作「雨あがる」(2000年)から友人として何かとお付き合いして来た。
 彼がやりたい映画のシナリオの第一稿から読ませてもらって、一般人の目線からあれやこれやと感想を言わせて貰う。もちろん、彼のシナリオ能力は生前の黒澤監督に手ほどきを受けた位だから、毎回舌を巻くほどのレベルなのだが、彼は私のような一般人の感想も真面目に受け止めてくれる(*)。そうしたキャッチボールを重ねて、決定稿が仕上がる頃には、シナリオを読むだけで涙がにじむようになったことが何度もあった。*お陰で、私の方は随分と映画のシナリオを読みこむ勉強をさせて貰った

◆用意周到な準備が生みだす、たたずまいの美しさ
 「蜩ノ記」は、原作(葉室麟)がかなりの量なのに加えて、ミステリーの要素もあるので、2時間9分の映画に圧縮するのに苦労したようだ。筋立てを分かりやすく追う一方で、原作の持ち味である死を覚悟した人間の凛々しさや、夫婦、友、子弟、そして男女の愛の細やかさも伝えなければならない。従って、原作を大事にしながら原作にはないセリフやシーンを入れたり、物語の順序を入れ替えたりする工夫も行われた。だが、完成試写ではいつものことだが、私の予想以上の内容になっていた。
 静かな緊張の中でやり取りされるセリフは、筋を追う意味でも、心を伝える意味でも、間然するところがない。舌足らずの所もなければ、冗長なところもない。同時に、登場人物の所作(立ち居振る舞い)の美しさ、(後述するが)まるでそこに立ち会っているような緊迫した間合いの編集、そして季節の移り変わりを切り取った風景の美しさに出会って、新鮮な驚きを感じた。それは原作からもシナリオからも分からないものだ。細部まで丁寧に目配りした緻密な演出を積み上げながら、全体としてはまさに堂々たる映画に仕上がっていた。

 監督は今回も、200年前の江戸期の物語を描くのに、周到な準備を行ってから撮影に入った。出演者たちは事前に武士道に関する書籍や、武家の娘に関するもの、呼吸の本まで様々関連本を読みこみ、所作や馬術は小笠原流、剣の心は香取神道流居合、書道や舞の稽古まで行って、次第に江戸期の人々になりきって行ったという。まるで黒澤映画のように、映像では映らない日記や家譜の書物の中の文章まで、資料に基づいて丹念に書き込まれた。(詳しくは、「キネマ旬報」特集号)
 そうした準備を行った上で、それぞれのシーンを何台ものカメラを同時に回しながら、一気に撮って行く。一々カットを区切らないので、流れが自然に作られ、観客はその場に立ち会っているように、時間の流れを正確に体験することが出来る。その編集のリズムが何ともいえず心地いい。こうして出来あがった出演者たちの“作為的ではない美しさ”が、この映画を独特なものにしている。

◆命をかけることで、変わって行くもの
 物語のあらすじはこうである。『前代未聞の事件を起こし、10年後の切腹を命じられた主人公・戸田秋谷(役所広司)は、過酷な運命を静かに受け止め、妻、娘ととともに穏やかに残された日々を生きている。そこへ、秋谷の切腹の日までの監視役として檀野庄三郎(岡田准一)が派遣されて来る。最初は任務を全うしようとする庄三郎だったが、秋谷の揺るぎない生き方に感銘を受け、次第に彼を師と仰ぐようになる。そして、庄三郎は、秋谷が切腹に追い込まれた事件の真実を暴く重要な文書を入手する』。
 秋谷は、切腹までの10年の間に、先代の藩主から藩の歴史(家譜)をまとめるように命じられ、日々、その進捗状況を日記「蜩ノ記」に綴っている。蜩(ひぐらし)は、秋の気配が近づくと、一日が終わるのを哀しむかのように鳴く“ひぐらし”と、“その日暮らし”の身であることをかけて秋谷が名付けた。

 庄三郎が秋谷のもとにやって来たのは、切腹まであと3年を残す頃。既に秋谷は死を覚悟し、背筋を伸ばして悠然と毎日を生きている。様々な事件が発生するが、腹を切る(命を捨てる)という覚悟を揺るがせにしないことで、見事に事態を納めて行く。敢えて汚名を着ることで、一人の男が命をかけて家族を守り、藩を救う。藩の重鎮もその覚悟を前にして、結局は秋谷の意に応えようとする。
 「切腹」と言うものが持つ、この魔法のような力は日本文化に親しんだ者には素直に胸に落ちるものだが、今の若い人たちや外国人にはどうなのだろう。しかし、「命を捨てる」を受け入れることは、それだけで人間の生き方を律するものだと言うことは分かるだろう。しかも、これが同時に「命のはかなさ」ということと同義になってくれば、それはいつの世にも共通のもので、より素直に胸に迫ってくる筈だ。その「はかなさ」の上に、小泉監督が描きたかった美しい日本と日本人が浮かび上がって来る。

◆美しい日本と日本人
 この映画に流れている日本人の美しさは様々だが、常に主人公の秋谷があと数年で死んでいくと言う「はかなさ」の上に成り立っている。秋谷の自己犠牲は、悲嘆にくれるというよりも、淡々とした穏やかで静かな日常の中に隠されている。それが、秋谷の家族(妻、娘、息子)の凛としたたたずまいに現れ、庄三郎の一途な思いになり、村の人々との人間愛、息子たちの友情につながって行く。正義と恥の感覚、そして、美しさ、はかなさ、清らかさ、つつましさ、雄雄しさ、潔(いさぎよ)さ、寂しさ。。
 これは、かつて数学者の岡潔が「日本人は、これを育むのに10万年くらい要したのではないか」と言った、美しい「日本的情緒」の世界である(「憂国の数学者・岡潔」)。その日本的情緒の心でみると、秋谷が幽閉されている村の自然の何と美しいことか。監督は、巡って行く四季折々の風景を丹念に描き込むことで、秋谷の死が刻々と近づいていることを言外に伝える。しかも、それが「はかなさ」なのである。

 あの時代から200年、映画に描かれたゆったりした時間に比べると、今の日本は日々せわしなく過ぎて行く感じがするが、特に目を凝らさなくても、「命のはかなさ」は今の時代にも溢れている。少女が訳もなく殺され、災害の前に昨日まで元気だった人々があっけなく命を落とす。その哀しみは個々の家族の中に閉じ込められ、世間はあっという間に忘れて行く。そんな中で、命のはかなさをみつめ、それゆえの「美しい日本と日本人」の世界を描いた小泉監督の映画「蜩ノ記」が公開される。是非、観て頂きたい。

原発・誰が責任を取れるのか 14.9.23
 朝日新聞の従軍慰安婦報道に関する遅きに失した訂正記事、さらには福島第一原発事故の吉田調書の誤報問題で、雑誌、週刊誌、新聞による朝日新聞叩きが激しさを増している。この朝日たたきは、日本の右派陣営(新聞、雑誌、週刊誌、ネットの編集者、評論家、作家、研究者)の総力を上げた攻撃になっていて、最近では、その背後で成り行きを見守っていた自民党政治家(安倍、菅、石破、高市など)まで朝日批判に加わっている。
 確かにこれらの誤報問題は批判されても仕方がないし、謝罪の仕方も不徹底だ。本当は、もっと厳密に検証すべきとは思うが、訂正記事や社長の会見などを見ても、朝日新聞の組織的な病根は相当根深いように見える。この点で、朝日を擁護する気はないが、ここで懸念されるのは日本のメディア空間の中で、右派陣営の声がこれまでになく大きくなっていることである。このメディア空間の歪みの中で、いま何が起きようとしているのか。

◆メディアの空気が変わる中で勢いを増す「原子力ムラ」の動き
 今回の朝日の不祥事をきっかけに、右派陣営からの監視と締め付けがより強くなった結果、これまでと違った空気がメディア界を支配し、感覚的な表現だが、諦めに似た停滞と委縮が起こっているような感じさえする。例えば、NHKが日曜討論(9/21)での石破と小渕のコメントをそのまま昼のニュースのトップで流すというようなことである。特に、小渕(経産相)の場合は、原発再稼働が必要な理由を幾つも並べていて、その一方的な“耳にタコ”の意見が何のコメントもなく流された。
 小渕新大臣の意見がニュースだとする意見もあり得るとは思うが、石破の意見と並んで流されると、まるで政府広報を聞かされているような感じになる。従来の平衡感覚からすれば、既存のメディア空間がどこかで歪み始めて、奇妙な停滞、あるいは新しい流れに対する“小さな迎合”が生れているように感じる。そして気がつけば、そのメディアの停滞や迎合を見透かしたかのように、旧来の「政財官のトライアングル」が動き始めている。

 それは例えば、もう福島の事故など忘れたかのように原発再稼働を働きかける、「原子力ムラ」の大合唱だ。今年に入ってから、関西や九州の経済連合会は、「このまま原発が止まっていたら日本経済はえらいことになる」(石原進JR九州会長)と規制庁に圧力をかけ、自民党の塩崎恭久(前政調会長)は地震対策に厳しい島崎規制委員の更迭に動き、学者と経済界で構成する「原子力国民会議」(有馬朗人代表)も官邸を訪問して原発再稼働を要求した。
 9月に規制庁が川内原発に基準クリアのお墨付きを与えると、地元の鹿児島県知事(伊藤祐一郎、写真)、薩摩川内市長(岩切秀雄)も、再稼働に向けて動き始めた。地元の要求に応えて、国も「事故が起きた場合は政府が責任を持って対応する」と言う一文を両首長に与えた。原子力ムラは、この川内原発を皮切りに再稼働への動きを加速するべきだと、規制委員会に迫っている。

 原発の再稼働ばかりでなく、将来の原発の新・増設に向けた動きも始まっている。自民党の「電力安定供給推進議員連盟」(細田博之会長)は、計画中の上原原発(山口県)を進めるために、原発の新増設・建て替えに道を開く提言をまとめようとしている。新型炉の研究や核燃料サイクルの推進なども、息を吹き返した。
 また、廃炉や事故対策などの経費増によって、原発の低コスト神話が崩壊しているのを考慮したのか、経産省は2016年の電力自由化に向けて、原発で発電した電気に基準価格を設ける優遇策を打ち出している。基準価格を超えても下回っても原発が損しない仕組みである。「原子力ムラ」全体が結束して、あくまでも原発を維持したいと動いているわけである。

◆おなじみの言い分と、おなじみの指摘
 「原子力ムラ」が再稼働の必要性としてあげる理由は、天然ガスの輸入によって国富が流出している、電力料金の値上げが日本経済の足を引っ張っている、などの経済的リスクである。あるいはエネルギーの安定供給のため、地球温暖化対策にも必要などといった理由がある。(これまでにも言いつくされて来たが)これらのリスクは、代替エネルギーに本気で取り組むことでかなり低減できる上に、一旦、事故が起きた時の破滅的リスクには到底比べられない。
 その安全性についても、政府は「世界一厳しい基準に合格して、安全が確認出来たものから再稼働させる」と主張するが、なぜ規制委員会も言っていない世界一厳しい基準が、世界一安全になり、「再稼働しても(福島のような)事故は起きない」ということになるのだろうか。この現象は、皆で安全だと言い続けていれば、本当に安全だと思い込むようになる、という、かつての安全神話そのもの。それが事故後3年にして見事に復活している。

 以下のようなことは、書くのが嫌になる位に言われ続けて来たので、繰り返したくないのだが、それでも簡単に書いておく。つまり、規制委員会がお墨付きを与えたとしても、川内原発が安全と言うわけではないこと。これは田中委員長も言っている通りで、現時点で守るべき最低基準がクリアされたに過ぎない。政府は、これを「安全が確認出来た」とすり替えているだけなのだ。しかも、その基準は福島の事故で明らかになった構造的欠陥を充分取り入れていないし、(そもそも事故の解明がまだ出来ていない段階では)暫定的なものに過ぎない。*「安全規制が世界一の実態
 また、事故時に30キロ圏内の住民を避難させるという計画も不備だらけだし、アメリカのように実際の訓練も義務付けられていない。心配されている火山噴火に対し得ても、「原発稼働中に火山の噴火の可能性は低い」とする電力会社側の言い分をうのみにしただけ。原発の集中立地の危険性や、(10万年の未来に禍根を残す)溜まる一方の使用済み核燃料についても、問題を積み残したままだ。何より、田中委員長が指摘するように、当の電力会社が(金のかかる)安全対策に積極的でないという、構造的問題も改善されていない。

◆今、そこにある危機を直視すべき
 この状態で、再稼働を求める原子力ムラの大合唱は、まさに「赤信号、皆で渡れば怖くない」というに等しい。ここへ来て、安倍政権が「事故の時は国が責任を持って対処する」として、事故時に国の職員100人を派遣するとか、自衛隊を派遣すると言っているが、これは、単に地元首長の責任を軽くし、地元同意を取り付けるための方便として出された文書に過ぎない。
 福島の時の深刻な危機と大混乱を見れば、そんなことは気休めにしかならないのは、皆分かっている。しかも、被害が巨大になる原発事故において、誰がどう責任を取れると言うのだろうか。福島では、16万人を超える人々が今も避難生活を強いられ、1700人を超える人々が事故関連で亡くなっているのに、(結局、税金で尻ぬぐいしているだけで)原発を推進した原子力ムラの誰一人として責任を取っていない。それにも拘らず、「国が責任を持って進める」などという空疎なことばが横行しているのは、不思議なことだ。

 巨大地震や大噴火は再稼働の1年後かも知れず、あるいは30年後、50年後かも知れない。だから、皆無責任になる。声を揃えて安全だと言えば言うほど、また、原発が利益を生むのに必要だと言えば言うほど、自分に都合のいい現実しか見えなくなり、取り返しのつかない大事故が起こる。それが福島の教訓でもある。津波対策をしたではないかと言うが、過酷事故を生む想定外のリスクはなくなってはいない。たとえ九州の火山噴火がなくても、中国からのミサイル一発が川内原発に命中すれば、日本の西半分は壊滅してしまう。
 原発は、一旦過酷事故を起こせば、制御不可能な巨大な熱と放射能のかたまりと化す。その影響は最悪の場合、地球規模になる。いかに安全と思い込もうが、地震国、火山国、そして隣国との緊張を抱えた日本にとって、原発が「今、そこにある危機」だという“冷厳な現実”は変わらない。何か、これまでの再確認のような内容になってしまったが、原発問題に関しては右も左もないはず。メディアも今一度、この目の前の現実を虚心に直視すべきだろうと思う。
アメリカが作った世界システム 14.9.11

 9.11から13年。アメリカのオバマ大統領は今、様々な国際的な試練に直面している。ウクライナに手を突っ込んで東部の分離独立を目論むロシア、非民主主義的な弾圧を続けるシリアのアサド政権と反政府勢力との内戦、そのシリアとイラクの混乱に乗じて台頭してきた残虐な反米組織「イスラム国」などなど。東に目を転ずれば、経済制裁に苦しむロシアと手を組んでアメリカを牽制しようとしたり、南シナ海で摩擦を起こしたりしている大国・中国がいる。
 これらの動きを一口で言えば、多極化する世界の中で、戦後のアメリカが作って来た「アメリカを盟主とする国際秩序(世界システム)」が脅かされる動きである。これを黙って見過せば、アメリカのみならずアメリカの友好国全体の不利益になるというわけで、オバマ大統領は、財政悪化や国内に広がる厭戦気分の中、どうやってこれらの脅威を抑え込むかに苦慮している。

 共和党などからは弱腰などとも批判されているが、オバマも手をこまねいているわけではない。EUや日本とともに経済制裁によってロシアをじわじわと締めつけ、曲がりなりにもウクライナでの停戦にこぎつけた。また、懸命の外交努力で中東各国を説き伏せ、「イスラム国」包囲網を構築して空爆の準備をしつつある。それが国益の追求でもあるが、アメリカは立場上も国際秩序(世界システム)の維持に懸命にならざるを得ないのである。
 問題は中国の覇権主義的動きだが、こちらは一筋縄にはいかない。8/6のコラム「“中国脅威論”とどう向き合うか」の最後にも、今の中国を如何に平和的に「世界システム」にソフトランディングさせるかは、21世紀世界にとって最大の課題だと書いたが、アメリカはこの難問を解決するために中国との長期の神経戦に入っている。その行方を占う意味でもまず、戦後のアメリカが作って来た世界システムとはどういうものか、そして、その中で日本はどうすべきかを考えてみたい。

◆アメリカが作った世界システム
 池内恵(さとし)東大準教授は、今の国際秩序を作った世界的転機の年について、第二次世界大戦が終わった1945年と、冷戦が終結した1989年の2つをあげている(文春7月号「アメリカの世界戦略と現代史」)。その中で、アメリカが作った今の国際秩序については、プリンストン大教授で、アメリカを代表するリベラル派の論客、ジョン・アイケンベリーの「1945年秩序」説を取りあげている。彼はオバマ政権の外交政策のアドバイザー的存在らしい。
 引用の引用で恐縮だが、アイケンベリー教授の言う「1945年秩序」とは、アメリカが作りだしたシステムに、他の国々が自発的に参加していることに特徴があるという。イギリスなど19世紀型帝国主義による世界支配が、軍事力を背景に植民地などを直接支配した(それゆえにカネもかかる)のに対し、戦後のアメリカは様々な国際的なルールやシステムを設定し、それを各国が納得して参加することによって「アメリカ主導の世界秩序」を作って来た。

 その世界システムが正当性や有効性を持っていたからだと言うが、一体どういうものなのか。端的に言えばそれはアメリカが提示する立憲的な民主主義や法の支配、資本主義や自由貿易に関するルールやシステムだ。例えばNATOなど自由主義諸国の安全保障政策、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)、自由貿易を主導する世界貿易機関(WTO)、国際通貨基金(IMF)、あるいは国連の理念の運用もそう。さらには、アメリカが始めたインターネットのルールや制度も世界標準になっている。
 そう言われればなるほど。今の世界が当然のように受け入れている様々なルールや価値観も多くの場合、戦後アメリカの主導によって作られたシステム(理念)だと思い当たる。それが超大国アメリカの実力なのだろう。ただし、アイケンベリーは、アメリカが時には軍事力や経済力を背景にしたアメとムチを使ったにせよ、基本的には各国が参加したくなるものだったからこそ、今の世界システムが維持されているのだと主張する(「リベラルな秩序か帝国か」)。

◆挑戦を受ける1945年秩序
 このアメリカ中心の世界システムは、1989年の冷戦終結によって、それまで異なる価値観を掲げていたソ連とその衛星国が崩壊したために、ある面では一層強化されたと言える。しかし暫く経つと、今度は別の脅威にさらされることになった。それが冒頭に書いたような復活したロシア、成長著しい中国、或いはイスラム国など、多極化した世界からの挑戦である。
 しかし、アメリカが作った世界システムは、今や多くの国々が依拠する共通理念にもなっているわけで、これが崩壊するとアメリカのみならず国際社会が迷惑する。放置するわけにはいかないと言うので、国際的な秩序維持グループ(日米、EUほか)と挑戦をしかける国々との間で複雑な対決が展開されている。私たちは今、そうした現代史の大きなうねりに直面しているのだと池内氏は言う。

 一方で、世界システムに挑戦を仕掛ける国々の方にも限界はある。自国のエゴを主張するだけでは、世界システムに代わるような新たな理念を提示できないからである。彼らは自国民に対し、中華民族の大国(習近平)とか大ロシアの復活(プーチン)とか、あるいはイスラムの神の国といった壮大な夢を語るが、それが世界の国々に支持される理念や価値観を生み出すわけではない。従って、今の世界システムにとって代わることは出来ない。力でそれを押し付ければ、周辺国や世界が迷惑するだけだ。
 というわけで、今の「世界システム」が世界の安定を支える唯一のものになるわけだが、一方のアメリカ側にも問題がある。世界システムをリードする民主国家としての顔のほかに、もう一つ別の顔(*)があるのを忘れてはいけないと私は思っている。それは、あくまでも自国の利益を追求する横暴とも映る大国の顔である。アメリカが作った世界標準(スタンダード)を世界中に広げるのも国益にかなうからに他ならないし、時には、国家エゴを追求するあまり、自身が作った世界システムのルールを破ることさえある。*「アメリカの2つの顔」(民主主義と資本主義の2つの顔)

◆アメリカに協力しつつ、日本独自の方法で
 その一つが、ブッシュが国連の安保理決議のないままに踏み切ったイラク戦争だった。結果として大量破壊兵器は見つからず、中東の大混乱を引き起こし、ついには鬼っ子のような「イスラム国」まで生み出して世界中が迷惑している。あるいはアメリカ主導のIMFのように、自由主義的な経済ルールを強引に発展途上国にも押し付け、格差社会を作りだす。かつての日本も貿易摩擦などで痛い目に会ったが、そうした過剰な国家エゴとダブル・スタンダードぶりが、世界に反米的な空気を生み出してもいる。
 そうした(ある面では)横暴で傲慢なアメリカの下に付くのが嫌で、習近平やプーチン、あるいはイスラム国は独自の価値観でアイデンティティを確立し、アメリカ中心の理念に対抗しようとしているのだろう。こうしたアメリカ中心の世界システムと新興国のアイデンティティのぶつかり合いの中で、世界の安定と共存共栄を図るにはどうすればいいのか。世界はこの文明的な問題に直面しているわけである。

 この状況認識に立てば、日本の選択肢は自ずとはっきりして来る。多くの国々の共通利益につながる世界システムの安定的維持に、アメリカをはじめとする民主主義国とともに努力すること。独自のアイデンティティを持つのはもちろん自由だが、中国にもロシアにも平和的ルールでもある世界システムに自制心を持って加わってもらうよう説得すること。そして、アメリカにはダブル・スタンダードと言われないように、出来る限り自国のエゴを抑えて、自ら提唱した世界システムをより公平に運用することに取り組んでもらうことである。これらのことに努力することが、日本の選択肢(役割)になって来る筈だ。
 問題は、「積極的平和主義」を掲げる日本が、世界システムに反抗する勢力に対してアメリカと共同して武力行使をするのか、ということである。私としては、日本は基本的にはアメリカと協力しつつも、戦後の日本が国際貢献で培って来た得意技である「平和主義的な力」を発揮する方が得策だと思っている。その方が、見て来た現代史の文脈に合っているようにも思うし、日本と言う国のユニークな存在感を世界に示せると思うからだ。

地方の争奪戦が始まった 14.9.4

 外国に行ったりすると、普段は思いつかないような考えが浮かんだりするものだが、先日カナダに行った折にもそんなことがあった。それは、カナダの地方都市の人々の暮らしが何とも豊かそうに見えたことによる。人口73万の地方都市(ウィニペグ)にしては考えられない位に広大で、綺麗に手入れされた公園で多くの庶民がのんびりと楽しそうにしている。目が合えば、笑顔で返してくれる人も多い。詳しい実体は知らないが、こうした日々の暮らしこそが「真の豊かさ」というものではないだろうか。*写真は世界初の国立人権博物館(ウィニペグ)
 当たり前のことだが、カナダの庶民の暮らしは日本の政治的課題などとは全く無関係に成立している。それを見ていてふと、日本の庶民だって同じではないか、と思ったのである。庶民の暮らしはどこも一緒。日本の庶民の暮らしも、(特に地方に於いては)今の政治家やマスメディアが騒ぎ立てている政治問題などとは無関係に、しっかりと心豊かに営まれているのではないか。もしそうだとすると、その心豊かな生活を成り立たせているものは何なのだろうか。

◆お金がなくても地方は豊かだ
 折しも9月号の月刊文春では、「里山資本主義」の著者、藻谷浩介氏と同志社大学の浜矩子教授との対談が載っており、その中で藻谷氏は「地方は給与水準が低いが暮らしやすい(お金がなくても地方は豊かだ)」と言っている。また別の所(毎日、オピニオン8/20)では、過疎問題に取り組む明治大学の小田切徳美教授が、今、地方での暮らしやすさを求めて若者が田舎に行く「田園回帰」現象が静かに進行していると言う。こうした流れは、イギリスやドイツ、フランスではもう40年も前から始まっているらしい。
 もちろんこの流れは、むしろ消滅の危機感を強めている地方自治体の中でもまだ一部の現象だろう。しかし、今地方では地球に優しいエネルギーを使い創意工夫によって様々な生産形態を模索する、あるいは若い人たちと高齢者の協力で子育てや介護を支えて行く、そうした試みが先駆者たちによって切り拓かれている。この「田園回帰」現象の背景には、成長志向から脱・成長への価値観の変化があると言うが、これはアベノミクスなどとは真逆の流れである。

 さらに、こうした地方の取り組みは(藻谷の言葉では)「多様性と包摂性が両立した空間が、むしろ地方都市や過疎地に再建されつつある」と表現される。「多様性と包摂性の両立」とは、私の解釈で簡単に言えば「多様性の受容」。高度成長期のような画一的な考え方を排して、(都会からの若者や、場合によっては外国人などの異文化も含め)幅広く多くのものを大らかに懐に抱きとめることだと言う。
 確かに地方には、豊かな自然、土地、安い家賃などに加えて、人々のつながりがまだ生きている。しかも地方の有力者から庶民に至るまで、まだ「公共心」というものが残っていて安心できる。そうした多様なセイフティー・ネットの存在は、これから子育てをする若い世代にとっても魅力の一つだろう。というわけで今、若い人たちが引っ越して来て転入超過になったり、出生率が上がったりしている地方都市(長野県下條市など)が静かに増えているのだそうだ。

◆心豊かな暮らしとは「システムの豊かさ」
 ところで、こうした地方での地道な取り組みは、中央の政治家や経営者たちが振りかざす政治的、経済的思惑とは無縁に、むしろそれから見放された所で、地道に摸索されて来たものである。その意味では、カナダの地方都市で私が感じたことは当たらずとも遠からずだったわけだが、今、地方都市で摸索されている「真に豊かな暮らし」とは、一体どういうものなのだろうか。
 そのイメージはまだ漠然としているが、「多様性の受容」のほかにも幾つかのキーワードはある。一つは、「脱・成長」である。特にあくなき経済成長を追求するグローバル経済とは全く違う方向の経済である。仮にグローバル経済が地方都市にまで入ってきたら、あっという間に地方の豊かな暮らしは崩壊してしまう。その悲惨さは格差にあえぐ南アフリカの庶民の暮らしを見ればいい。あるいは、日本の都会で働く(生活の不安定さから容易に結婚に踏み切れない)非正規労働者の暮らしを。。

 もう一つのキーワードは、「脱・モノ主義」。今の日本には、「もうこれ以上、何を買う?」(毎日、風知草)と言う位にモノがあふれている。金があれば人間はモノを買う、という経済の大前提が今や崩れ始めている。モノの過剰は幸福どころか苦痛をもたらす、という認識である。その上、モノはエネルギーを消費する。地球にやさしい「足るを知る」生活こそが、田舎暮らしの真骨頂なのだ。
 さらに、より俯瞰してみれば、それは「システムの豊かさ」の追求とも言えるのではないか。「システムの豊かさ」とは、地方都市の人々の暮らしを支えている豊かなシステムの集合体である。人の優しさ、人々のネットワーク、恵み豊かな自然、人々の公共心、学校や役場が近くにある便利さ、三世代同居の家族。こうした様々な目に見えるもの、見えないものの全体を合わせて「システムの豊かさ」と呼びたい(宇沢弘文氏の「社会的共通資本」に近いかも)。その豊かさの価値を自覚し、大事に維持しながら次世代に引き継ぐことである。

◆「真に豊かな生活」を目指す価値観の確立こそ重要
 地方における「真に豊かな生活」を持続するには、そのための価値観と強固な意志が必要になってくる。さらに、ちょっと飛躍しているかもしれないが、私はこうした心豊かな暮らしを大多数の庶民が自覚的に追求することこそが、今の日本を救うのではないかと期待している。先日、若いプロデューサーに「日本はどうして戦争を始めたのか」とまともに聞かれて戸惑ったが、大多数の庶民の間に、画一的でない、多様性を受け入れる自立した価値観が確立されれば、戦前のようなことにはならないのではないかと思うのだ。
 つまり、庶民の間に「真の豊かさとは何か」という、しっかりした価値観が確立されていれば、戦前のように庶民がたやすくナショナリズム一色に染まって軍国主義に走るようなことはないのではないか。まして地方が兵隊の供給源になるようなことにはならないのではないか、と密かに思っている。

 同時にこんなことも考えた。中央の政治家やマスメディアがあまり関心を持たない地方にこそ、いま新たな脱・成長の価値観が芽生えようとしている。そこでの可能性を模索し、そこから日本の将来も見つめる。これは、このところ通っている「伊勢畑ふるさと村」作りにも通じるテーマだ。安倍政治などの、一時の政治的思惑とは別の次元でこうしたテーマを考えることは、政治に異を唱える従来の「日々のコラム」とはちょっと違って楽しい作業になるかもしれない。そう考えて来た。
 その一方で、今のマスメディアについて言えば、政治家にも見捨てられたこうした地味なテーマを積極的に取り上げることはないだろうから、このテーマに取り組むメディアがあるとすれば、それはどんなメディアになるのだろうかとも考えていた。言ってみれば、もっぱら1%の一握りの人々が作りだす事象を追うメディアではなく、残り99%の庶民に寄り添う新しいメディアの形である。

◆地方にまで手を伸ばす安倍政権
 しかるにあにはからんや(意外にも)、このところの安倍政権は、次の政治課題として「地方創生」を掲げ始めているではないか。昨日の内閣改造では石破がその担当大臣に就任した。これは来年4月の統一地方選挙が目当てだとも言われるが、上記の文脈を踏まえると何とも怪しい動きに思える。安倍は同じ月刊文春9月号に「アベノミクス第二章起動宣言」という仰々しいタイトルで寄稿していて、その中では「農業全体の所得を倍増する」などと言っている。
 そのために、また莫大な金を農村につぎ込む腹だろうが、カネで引きずり回すこうした政治をいつまで続けるのだろうか。何より、経済成長とは別の価値観で、お金では計れない豊かさを追求しようとしている今の地方にとって、危うい誘惑である。再び地方は政治とカネに翻弄されてしまうのか。成長と脱・成長――いわば、2つの価値観が地方の争奪戦を始めた感がある現在、しばらくは「政治とは別次元のテーマ」を楽しもうと思っていたが、闘いの行方を見極めるために、このテーマでも無力な抵抗を続けざるを得ないように思う。

外プロから見たテレビ局 14.8.28

 これから2回にわたって書く内容(特に次回)は、言ってみればまだ星雲状態なので、手探りしながら書いて行くことになりそうだ。いずれも今のテレビメディアに関することだが、これがすべてなどと言うつもりはない。テレビ番組の制作会社は従業員数100人以下の零細なところが大部分で、その数500とも1000とも言われるが、もちろん、今のメディア状況の中で頑張っている制作者も多く、敬意を抱いている。以下の話は、私の狭い個人的な体験や見聞に基づくものなので、あるいは極論かもしれないが、一つの見方として読んで頂ければありがたい。

◆外プロとのお付き合い
 今から20年近く前に、私はNHKの番組制作のシステムを変えるプロジェクトに責任者として携わったことがある。それまで外部の番組制作会社(いわゆる外プロ)は、NHKの関連会社を通してしか番組を作れなかったのを、直接NHK本体にも番組企画を提案して作れるようにしたわけである。その時、私たちにはかなり実験的な番組を作ろうという意図があって、関連会社を通さず直接、外部の制作会社と意志疎通を図る必要があったからである。
 この時の試みでは、NHKの全職員からと、外プロからの445本の企画提案を読みこんで絞り込み、5本の試作番組を制作して毎晩同じ時間に放送した。最終的には、全職員参加のアンケートで評価を行い、その中から2本、「夢用絵の具」と「誰もいない部屋」を定時番組として採用した。いずれも外部の制作会社との共同制作で、それが私の外プロとのお付き合いの始まりになった。

 企画提案から番組制作や番組評価法まで、番組制作システムを大胆に変えようとしたこの時の試みは、NHKの業務改革(CI活動:その時に今の卵型のロゴも作った)の一つで、いろいろ苦労もあったがやりがいもあった。機会があれば書きたいテーマだが、それはそれとして。お付き合いして見ると、外プロの方々が優秀でNHKのディレクターたちよりよほど真面目なのに驚いたりもした。その方々とのお付き合いは、今も続いている。
 その後、暫く番組現場から離れていたが、定年後に縁あって民放やNHKの番組を作っている外プロの番組企画アドバイザーとして関るようになった。前とは反対の立場になったわけである。さらには、(前述のように)かれこれ5年続けて参加しているカナダ観光局の催しを通して、民放の外プロの方々との付き合いも始まり、旅の間に彼らの番組に対する思いや悩みも聞くことになった。今回書く内容は、そうした個人的な経験をベースとしている。

◆クライアント(局Pたち)に泣かされる
 番組企画が通れば、通常、外プロのディレクターやプロデューサーは、注文主である民放局やNHKのプロデューサーや関連会社のプロデューサー(いわゆる局P)の指示のもとに番組を作る。彼らがクライアントなので、その指示は時に絶対的である。その局Pが優秀で番組が分かり、外プロのディレクターたちと充分意思疎通が図れるようなら問題はないが、そうでないと外プロのディレクターたちは死ぬ思いをする。
 もちろん番組も熟知し、制作意図を明確に伝えられる局Pもいる。しかし、聞けば、民放の場合は編成からまわって来た経験の少ない若いプロデューサーが担当になったりする。そうすると外プロは泣かされる。周りの意見に揺れ動いて方針がコロコロと変わり、他局の当たっている番組の真似をしたがる。口を開けば、視聴率をと言う局Pも多い。熾烈な視聴率競争にさらされている民放の局Pなどは、先週より今週、少しでも数字を上げろなどと無茶を言ったりするらしい。

 反対に自分を優秀と思い込んでいる局Pにも困ることがある。自分がやって来た方法や自説にこだわって、外プロがどれだけ過酷な制作条件でやっているかが分からない。自分がディレクターのようになって、一から過剰に関って徹夜をしたり、再取材を命じたりする。それで番組予算が増えるわけではなく、外プロ担当者は予定外の出費に泣くことになる。それがいい番組につながればいいが、どうもそうでもない場合がある。
 本当に優秀な局Pは、番組の可能性を見切ることが出来るが、恵まれた番組資源でやってきた局のディレクターにはなかなかそれが出来ずに最後まで試行錯誤を繰り返す。私が尊敬している外プロのディレクターなどは私より年上で、数々の賞を貰うほどの大ベテランだが、その彼でさえ局Pに付き合わされて3日も徹夜した。結果、「あの局Pが担当の間は、当面提案は控える」などと言うことになる。

◆個人の資質の壁とテレビ局の組織の壁
 そうした生々しい話を聞くにつけ、立場が違う局Pと外プロ担当者との間には、結構深い溝があると気付かされる。理想的には番組の性格や目指す方向が共有されて、互いに同志になれればいいが、よほどしっかりした考えを持った局Pでない限り、両者の間には本質的な壁が立ちはだかっている。一つは、立場的な力関係である。
 クライアントの局Pの方が圧倒的に強いわけで、局Pの主張に外プロのディレクターは従わざるを得ないことが多い。しかも、(自分の反省も含めて言えば)外プロの実情を知らない局Pほど、それに思い至らない場合が多い。これらは、どちらかと言えば個人的な資質に関る問題だが、一方でもっと大きな壁もある。それが、あくなき視聴率を追求する組織の論理と企業(資本)の論理だろう。

 最近は、視聴率を取るタレントやテーマに関る種々のデーが揃っており、優秀な局Pほど、それらのデータを駆使して視聴率を追求しようとする。この“データ主義”は、最近はNHKのEテレにまで及んでいるらしい。こうなると、番組で何を伝えたいのかと言うよりも、番組はより派手に、より過激に、より一部のタレントに寄りかかるようになり、また、どの局も当たった番組の後追いの似たような演出になって行く。

◆99%の庶民の実体が抜け落ちて行く
 こうした事象の背景にあるのは、視聴率がテレビ局の売り上げに直結することから来る企業(資本)の論理である。また、それを局Pにも陰に陽に押し付ける組織の論理である。一方、外プロのディレクターも局Pの意向をより強く意識せざるを得ない立場だから、必要以上に視聴率を気にするようになって、自分が何を伝えたいのかを後回しにするようになる。もちろんこの中でも、しぶとく自分たちのやりたいテーマを貫いている外プロはあるが、こうした状況の中で、抜け落ちて行くのは何なのだろうか。
 そして、これからが私の独断と偏見になるが、今のテレビはますます一握りの人々の話題を扱うメディアになって行き、99%の庶民は置き去りにされて行くのではないかと言うことである。タレントの離婚や薬物スキャンダル、セレブの住居訪問、党内対立の政局報道などなど、一握りの人々の話題の方ばかりに目が行き、それに振り回されて、99%の庶民が直面している問題が抜け落ちて行く。

 もちろん、かつてのNスペ「ワーキングプア」(2007年)のように、庶民の暮らしの潮流の変化を捉えた優れた番組もある。しかし多くの場合、視聴率アップを狙う局Pにとって、今庶民がどういう変化の中にいるのかと言った地味なテーマは、目に入らない。多分、それは都心の高層ビルで働いていて、あまり取材に出歩かない局Pには、遠い世界のことなのかもしれない。
 しかし私は、今のテレビの世界とは一見無縁のように見える99%の庶民の方にこそ、今新たな変革の動きがあるようにも感じている。そこに心を寄せて目を凝らせば様々な動きが始まっているし、そこに新たな価値観が生まれつつあるようにも思う。組織と資本の論理に支配されるテレビメディアは、果たして99%の庶民に寄り添うメディアとして存続できるか。あるいは、一握りの人々に関する話題を提供するメディアとしてやせ細って行くのか。こうした問題意識とメディアの可能性については次回に模索したい。

テレビ制作者は今でも放送人か(再) 14.8.25
 8月13日から22日までの10日間、制作会社の企画アドバイザーの肩書で、カナダ内外の若いジャーナリストたちとカナダを旅し、カナダ観光局が主催するGMedia会議に出席した。その“あらまし”については、「風の日めくり」の方に書いたが、過酷な制作条件の中でタフに頑張っている民放の旅番組の担当者の皆さんを見て、私もこのところ忘れかけていた「表現への意欲」を触発された感じがした。それについては、私にとっても、きちんと考えるべきテーマのようにも思う。
 そこで今回は、それを考える上での足掛かりになるような過去のコラムを再録して次回につなげたい。4年ほど前に書いたコラムだが、その問題意識は今も私の中に生きている。次回は、彼女たちから聞いたテレビメディアの現状も踏まえて、今の私にしっくりくる“メディア的表現”とはどういうものなのかを探ってみたい。

「テレビ制作者は今でも放送人か」(10.12.30)
◆全国放送の重圧
 もう35年も前の話だが、私は6年の地方勤務を終えて東京勤務になり、全国放送の番組を担当することになった。30分の科学ドキュメンタリー番組である。それまでは、15分のローカル放送番組をどこか気楽に作っていたのだが、全国放送となると緊張の度合いが全く違っていた

 何カ月もかけて取材した素材を30分に編集するのだが、仕上げはしばしば徹夜になり、朝一番で現像所に届けることになる。それからコメントを書く。一つ一つ事実を確認しながら書いて行くのだが、これも往々にして徹夜明けで台本印刷に回す。
 時折、時間に追われてあいまいな記憶のままにコメントを書いてしまうと、収録してから放送までの間、それがずっと嫌な感じで心に引っ掛かった。駆け出しのディレクターとしては、番組の出来不出来よりそういう時の方が、全国放送の重圧がずっしりと響いた。また、これが嫌で、たかが30分の番組だったが、これでもかと言うくらい事実の確認に気を使うようになった。

◆放送と言う仕事は、この苦労に見合うのか?
 このようにして作った番組が初めて全国に放送された時のことである。ふとある思いが浮かんできたことを、今でも鮮明に覚えている。それは、「自分がこんなに苦労して作った番組は何かの役に立ったのだろうか」、「番組作りと言う仕事は、事前の苦労に見合うのだろうか」と言う思いである。あんなに苦労して作った番組があっと言う間に終わって、ちょっとあっけない感じがしたためかもしれない。

 苦労と言っても、それはあくまで主観的なものである。ドキュメンタリーを作ることは、当時の自分にとってはその位大変だったのだと思う。企画から提案、取材先との交渉、番組構成作り、ロケ日程の作成まで、全部一人でやらなければならない。明日からロケが始まるというのに、取材先がまだ決まらないなどと言うことが何度もあった。

 しかし、「番組作りと言う仕事は、事前の苦労に見合うのだろうか」という疑問が浮かんだのは、最初の一度だけだったように思う。へとへとで死にそうになっても、放送が終わると再び「次は何をやろうか」という思いがどこからか浮かび上がって来る。「これって、一種の麻薬のようなものじゃないか」などと思ったこともある。自分が番組を作ることに、ある種の手ごたえのようなものを感じ始めていた。

◆梅棹忠夫「情報の文明学」から
 その「手ごたえ」の内容が何だったのかは、後で書くが、こういう昔のことを書いたのには実は理由がある。今から50年も前に書かれた「情報の文明学」(元国立民族博物館館長、梅棹忠夫)の中に、全く同じことが書かれていることに、最近になって出くわしたからである。
 テレビ草創期の当時、放送業界と付き合いが深かった梅棹は、「放送人の誕生と成長」という考察の中で以下のような文章を書いている。

 「番組制作者たちの仕事ぶりをみていて、わたしは、ときどき、ふしぎな感じにおそわれることがある。それはこういうことである。かれらは、まことに創造的であり、また、まことにエネルギッシュである。しかし、かれらのつくっているものが、かれらのはげしい創造的エネルギーの消耗に、ほんとうにあたいするものなのであろうか。」
 「まったく、ラジオもテレビも放送してしまえばおしまいだ。どんなに苦心してうまくつくりあげた番組も、一回こっきり、あとになんにものこらない。そのために、何日も、何週間もまえから、ひじょうな努力をはらうのである。これはひきあうことだろうか。」

◆「放送人」の誕生
 梅棹は、彼ら(放送に携わる人間)がむだな努力をしているということではない、と断りながら、無駄と思わない彼らの論理をはっきりさせることが、放送人というものの性格を明らかにすることだと言う。
 その論理を彼は「その番組の文化的効果に対する確信みたいなものがあるからではないか」とし、「放送の効果が直接的に検証できないという性質を、否定的にではなしに、積極的に評価した時に、放送人
は誕生したのである」と書いた。

 梅棹によれば、「その効果が直接的に測れないという点で、放送人は教育者と同じであり、教育者が、その高度の文化性において聖職者とよばれるならば、放送人もまた一種の聖職者である」。ただし、「かれらのエネルギー支出を正当化する文化的価値というのは、もっとひろい意味での「情報」の提供ということであって、倫理的、道徳的な価値とはまるで尺度がちがうものである」とした。

◆社会と深くかかわる感触
 放送は、梅棹が言うように具体的な効果が測れない。にもかかわらず、制作者は一見過剰とも思えるエネルギーを番組に注ぎ込む。視聴率と言うものもあるが、仮に視聴率が高くてもドキュメンタリーなどの評価とは本質的に違うものだ。
 梅棹は、制作者のよりどころを「文化的効果に対する確信」と書いたが、私の場合は何だったのか。苦労を厭わずに番組を作り続けた理由である。

 私の場合、それは、番組が持つ社会とのかかわり、インパクトへの手ごたえではなかったかと思う。社会に対して新しいメッセージを伝えること。それによって社会の何か(それは単にものの見方であってもいいが)が変わるかもしれないという期待。そのために、社会の何をテーマとして取り上げるのか。さらに、それを、どのように効果的に伝えるのか、という工夫のし甲斐だったように思う。
 こうしたことが、梅棹の言う「文化的効果に対する確信」かどうかは分からないが、そう考えた時、社会的にある種の特権も与えられた番組制作者とは、極めて魅力的な職業でもあった。

◆テレビの現状、2つの懸念
 「放送人」というのは、梅棹が初めて使った言葉である。別なところで、彼は放送人について、「いつまでたっても偉大なるアマチュアである。絶対にスペシャリストにならない。それがかえって魅力なのだ」と言い、その理由として「まず第一は技術革新がはげしい。いつも社会の変化の最先端にいる」と言った。
 梅棹の「情報の産業論」は全体に、現在の情報産業(情報産業というのも梅棹の造語だった)の発展を見事に言い当てていて、その卓見には驚くばかりだ。しかし、放送産業については、このフロンティアとしての自由さがいつまで続くかは分からない、とも言っている。

 この論文が最初に世に現れてから、すでに半世紀が過ぎた。この論文を読んで今のテレビを見るとき、私は2つのことを懸念せざるを得ない。一つは、テレビ制作者はその草創期のように「文化的効果に対する確信」を持って番組を作っているだろうか、という懸念である。
 彼の論文の頃には、それほど重視されなかった視聴率や接触率が今や、番組効果のすべてを測る指標となった感がある。制作者たちが、自分が何を伝えたいのかと言う思いを離れてひたすら視聴率をねらう傾向はますます強くなっている。それが放送の質を落とし、テレビの社会的役割を低めることにつながっていないだろうか
 毎日、どのチャンネルをひねっても同じ顔ぶれのタレントが飽きもせずに似たようなことをやっている創造性の貧困。ワイドショーでは、歌舞伎役者の暴行事件が長時間報道され(まさに
「ジャンクフード・ニュース」の典型)、それと殆ど同じレベルで民主党の内紛が日課のようにニュースになる。テレビはかつての情熱を置き忘れて惰性に流れ、自分で自分の首を絞めているようにしか見えない時がある。

 もう一つは、常に技術的革新の中心にいたテレビが、いまやその中心から外れて来ているのではないか、と言う懸念である。梅棹が予見したごとく、情報産業はますます社会の中心に位置するようになった。しかし今や、その技術革新は主に、インターネットの世界から生まれるようになっている。
 多種多様な情報機器が出現し、それに向けて多くの人々をひきつける新しいコンテンツが生まれている。その変化の中心からテレビがはずれつつある時、テレビにはどんな運命が待っているのだろうか。若い世代のテレビ離れが進む中で、テレビ制作者たちはさらに過酷な視聴率競争に追い立てられて行く。その時、放送人たちはいつまで創造的な情報の伝達者であり続けられるのだろうか。

◆自己崩壊を避けるために
 気付かないうちにオールドメディアになったテレビは、若い時の惰性でチープなジャンクフードを無茶食いして肥満になり、様々な成人病を抱える中高年のような存在になりつつある。だが、その現実を直視して自己を律し、果敢に可能性に挑戦して行けば、まだまだ独自の存在感を発揮できるはずだと思う。
 放送に携わる人間たちが、その存在意義の低下に妥協し、かつて冗談で卑下したように自らを「虚業家意識」に堕してしまったら、放送人は職業人として自己崩壊してしまう。放送人のはしくれだった私は、テレビにまだ質の高い情報の伝達者として「どこかで踏みとどまってもらいたい」と、願っている者の一人ではあるが、この先、テレビはどうなるのだろうか。
「中国脅威論」とどう向き合うか 14.8.6

 今の日本には、「中国脅威論」という妖怪が徘徊している。5日に閣議決定された日本の防衛白書は「日本周辺の安全保障環境は一層緊迫化している」などと「中国脅威論」を強調し、それへの抑止力としての「集団的自衛権」の必要性を説いている。こうした「中国脅威論」は、必然的に日本のナショナリズムを刺激し、今巷(ちまた)では「中国脅威論」とともに、その裏返しのような中国内部崩壊説や中国蔑視論、嫌中論まで花盛り。書店に行けばそういう類の雑誌や単行本が山積みになっている。
 書いている方は感情のおもむくままに書いているのだろうが、当然こうした国民感情は相手国にも伝わり、歴史認識も加わって反日感情を高める。これは韓国についても同じ。今や日中、日韓の非難の応酬は日常的になり、誰も止められない状況になって、西太平洋の不安定要因となっている。これでは、アメリカならずとも不安になる。私たちはこういう時こそ冷静になって、状況に流されずに、少なくとも「中国脅威論」の実体についてだけでも、情報を整理しておく必要があると思う。すなわち、現時点での「等身大の中国」とは一体どのようなものなのか、ということである。

◆大国意識を高める中国の壮大な世界戦略
 確かに、今の中国は付き合うのにはかなり厄介な国である。この20年ほど目覚ましい経済成長を遂げ、GDPが世界第2位になったこともあって、国民も為政者も急速に大国意識(中華思想への先祖がえり)を強めている。それが今、防衛、経済、資源エネルギー、宇宙までの壮大な世界戦略となって現れている。

 まず防衛戦略としては、世界第2位の国防予算を今年も12.2%も増やした。アメリカに対抗する海洋大国を目指して、南シナ海の8〜9割を占める海域に「九段線」と呼ばれる領海線を引いて実効支配し、東シナ海では尖閣諸島を含む「第一列島線」から、グアム島を含む「第二列島線」まで太平洋に進出する防衛構想を持つ。また、2010年に明らかになった中国の「接近拒否、領域拒否」(A2AD)戦略では、中国に近づく米軍に対して、独自の空母と中距離弾道ミサイル(ASBM)で対抗する計画だ。(軍事技術に強い先輩によれば)中国の空母技術はまだまだだが、仮にこれが完成すると、アメリカの誇る空母も重大な脅威を受けることになる。(*1)

 経済戦略も世界規模だ。その一つが中国主導の経済圏を新たに構築する「シルクロード経済ベルト」構想。去年9月に習近平国家主席が打ち出した。中国の西方の国々(カザフスタン、ウズベキスタン、キルギスなど)との経済的結びつきを強め、それを西のEU経済圏までつなぐ。ユーラシア大陸全体に及ぶこの地域の、豊富なエネルギー資源、鉱物資源、観光資源、文化資源、農業資源を活用する構想だ。習近平は、こうした経済、資源・エネルギー戦略をアフリカ、中南米にも広げようと各国を歴訪して経済援助やインフラの共同開発を約束しており、中国外交の柱にもなっている。
 さらに、7月に発表されたBRICS銀行の設立構想がある。これは、既存の世界銀行(アメリカ主導)、アジア開発銀行(日本主導)に対抗して、中国が音頭を取って始める途上国支援のための銀行。BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南ア)5カ国で共同出資する。アジアのインフラ建設を支援する「アジアインフラ投資銀行」の準備も進めている。急速な経済成長を背景に、世界規模で経済、資源・エネルギー戦略を展開する大国・中国の姿がここにある。

◆足元に巨大な内部矛盾を抱える中国の実体
 こうした軍事・経済の世界戦略は、国民の大国意識をくすぐる一方で、国内に抱える巨大な矛盾から外に目をそらせる効果も果たしている。ご存知のように、中国は人口が日本の10倍強の13億、国土が25倍の巨大国家だ。それだけ国内に抱える矛盾は日本とはけた違いに巨大で根深く、そこは、とても私たち日本人の想像が及ぶところではない。ただ、この巨大な人口と国土を一つに束ねることが、為政者にとって至難の業だということは、理解する必要がある。

 巨大な内部矛盾の一つが、急速な経済成長による歪である。人口の1%の富裕層が国民全体の30%の富を独占する状態で、共産主義と言いながら、社会の格差がとんでもなく拡大している(先日、摘発された共産党幹部の周永康は横領によって1兆7千億円も蓄財したという)。経済政策、開発政策によって土地を追われたり、農村から都市に流れ込んだりした何億人もの貧困層の間にも、行き場のない不満が高まっている。拝金主義がはびこり、空気や水、食の安全も管理できない。
 もう一つは、共産党一党独裁の矛盾。どんなことがあっても、共産党一党独裁の現体制を維持することが最優先で、民主主義の根本である表現の自由も法治主義も二の次だ。習近平の独裁的権力を高めるために綱紀粛正の締め付けと汚職摘発が続いており、それが体制の不安定要素ともなっている。また、民族自立を求めるウィイグル族やチベット族の抵抗もテロと決めつけられて、容赦のない弾圧にさらされている。今の中国は一日に200件以上の“暴動”が起きている国でもある。

 そして、何より問題なのは、一見順調に見える中国経済の先行きである。内需拡大のために地方政府によって過剰に投資された高層アパート群がゴーストタウンのようになって売れ残る。地方政府は、そうした投資がこげつき膨大な債務を抱えている。年率7.5%などという成長率も実はごまかしで、様々な操作が加えられており、今や5%以下ではないかなどとも言われている。この状況でバブルがはじければ、経済成長に急ブレーキがかかる。
 「中国停滞の核心」(津上俊哉)によれば、むしろこれからの中国経済は(少子高齢化も手伝って)停滞して行くだろう。そして、中国の大国意識は実質を伴わない幻想に終わるだろうという。アメリカの防衛専門家ラルフ・コッサ氏(ハワイの戦略国際問題研究所長)も「私はアジアの人々に『オズの魔法使い』効果に注意するように言っています。皆が巨大な魔法使いを恐れていたが、スクリーンの裏側を覗いたら小男が大きな影を映していたという、あの物語です。今の中国は『巨大な姿に見せかけている小男』です」などと言っている(毎日インタビュー、7/30)。

◆中国の影に対抗する安倍政権の世界戦略
 こうした見方が当を得ているかどうかは分からないが、今の中国は膨れ上がる大国意識と国内矛盾への怯えとの2つの間で揺れているのだと思う。同時に、(よく言われることだが)政府内にも大国意識をもとにした覇権主義と、国際社会とうまくやって行くという国際協調主義の2つの路線がせめぎ合っている。だが、こうした中国の二面性に対して日本はどうなのか。

 この点、安倍政権は成立以来、一貫して中国の大国意識に対抗する形で政策を決めて来た防衛の面では、「中国脅威論」を強調しながら、 “抑止力強化”のために集団的自衛権の導入を図った。また、ASEAN(東南アジア諸国連合)各国を歴訪して、軍事技術の供与や支援を約束し、オーストラリア、ニュージーランドとも防衛連携を強めて来た。これらは、中国包囲網の構築に躍起になっているわけで、却って中国の強い反発を招いている(*3)。
 安倍首相はまた、中国に対抗するように、アフリカや中南米を舞台に経済協力や資源・エネルギー外交を展開してきた。隣の中国や韓国を抜きにしたこうした外交は、周辺ばかりを行く「ドーナツ外交」などと揶揄されているが、果たして日本の対中国戦略は、こうしたむき出しの対抗意識でやるのがいいのか。中国脅威論を利用して防衛政策の強化を図る安倍のやり方は、却って互いの緊張を高める効果しかないのではないか。

 見て来たように中国には幾つもの顔がある。強面(こわもて)だけでなく弱点もある。その点、安倍の対中国戦略は、余りに一面的すぎ、むしろ中国国内の覇権主義者(対日強硬派)を勢いづかせる結果になっているように思える。ではどうすればいいのか。私は、少なくともこれから10年、日中間で武力衝突が起きないように一度頭を冷やしてほしいと思う。中国の多面的な要素をしっかり冷静に見極め、衝突回避策を構築しながら、何とか中国を国際社会にソフトランディングさせる「21世紀世界の最大課題」に貢献する道を(アメリカとともに)模索して欲しい。これを考える上でカギになるのはアメリカの動向なのだが、この重要テーマについては、次回以降に考えたい。

*1)「新しい米中関係と日本(1)」(13.6.19)。中国の空母技術のカラクリについては、次回に書く。
*2)中国国営新華社通信は日本の防衛白書について、「中国を標的にし、非難する高圧的な態度を続けている」、「日本政府は中国の脅威を理由に平和憲法や専守防衛といった理念から逸脱し、特に安倍政権発足後は軍事大国の道を再び歩み始めている」と非難した。

STAP細胞・研究不正の闇 14.7.30
 今回は予定を変更して、7月27日放送のNスペ「STAP細胞 不正の深層」によって、かなり具体的になって来た研究不正の闇について書きたい。STAP細胞への疑惑が持ち上がった頃の3月30日から4月10日にかけて、同時進行で事態の推移を見守りながら3回のコラムを書いた。その中では、理研の調査が画像の切り張り問題に終始し、肝心の論文全体を調査せずに不正と決めつけたことに、疑問を投げかけた。調査が、文科省や理研の「不正の定義」を厳密に踏まえていない安直なものに見えたからである。
 その一方で小保方氏に関しては、「論文のミスは未熟さゆえの単純ミスで、STAP細胞は本当に存在するかもしれない」と頭のどこかで思っていた。しかし、その後の調査で、論文の欠陥は単純ミスなどではなく、より重大な犯罪的とも言うべき「ねつ造」であることも見えて来た。我ながら、人を見る目がないことに呆れるばかりだが、今では、小保方氏や理研がどうしてこのような“犯罪的不正”を引き起こしたのか、研究不正の(魔界のような)闇の深さに驚いている。

◆Nスペ「STAP細胞 不正の深層」の背景
 小保方氏がSTAP細胞として論文投稿した細胞については、すでに6月16日のNHKニュースのスクープによって、ほぼ100%、(STAP細胞とは無関係の)ES細胞だったことが明らかになっていた。一連の不正疑惑を多大な関心を持って見て来た私としては、このニュースを受けて4月10日のコラム「STAP細胞・小保方会見とメディア」の末尾に次のように付記しておいた。
 『6月16日のNHKニュースの段階で、STAP細胞はほぼ100%、人為的にES細胞とすり替えたものということになりつつある。これが本当なら、これをこそ「ねつ造」と言うべきで、「画像の加工」だけで幕引きを図ろうとした理研の調査は本質を外した安易な調査だったと言える。始めから本筋を検証していれば、こうした回り道をせずに済んだ筈だ。残るはその確証と動機である。その「闇」の解明がない限り、日本の科学不信はぬぐい去れない

 今回のNスペは、そのニュース報道から40日後の放送であり、ニュースの内容を様々な事実によって肉付けし、STAP細胞の不正により緻密に迫ったものだった。驚くべきことに、NHK取材班の手元には、小保方氏が理研に提供した実験ノートのコピー、混入されたと思われるES細胞が入った冷凍庫の写真があり、小保方氏の上司の笹井芳樹氏(CDB副センター長)と彼女のメールまでがある。
 また、取材に協力した科学者たちには、共同研究者の若山照彦氏(山梨大教授)のグループ、理研の遠藤高帆氏(上級研究員)、日本の専門家たちがいる。資料の提供や取材協力がここまで徹底しているのは、NHKの取材力はもちろんのことだが、一方で、如何に研究不正に対する危機感と今の理研への反発が強いかを物語っていると思う。日本の科学者の間には、これだけ不正の実態が明らかになりつつあるのに、その解明を先送りにし、小保方氏を実験に参加させるという政府と理研の姑息な“政治的判断”への怒りが渦巻いているのだろう。

◆番組が提起した主な三点
 この番組が言わんとしていることは、主に3点ある。
 一つは、小保方氏のSTAP細胞が全くの別物だということである。若山研から提供された実験マウスとは別のマウスの細胞を使って行われたこと(理研の遠藤氏の調査)。そして若山研に戻された細胞は、STAP細胞ではなく、ES細胞だった可能性が高いこと。さらに驚くべきことには、ES細胞を扱っていないと主張していた小保方氏の冷凍庫からES細胞が見つかったこと。そのES細胞は別の実験のために若山研の留学生が作ったもので、引っ越しのどさくさに行方不明になっていたものだったことである。

 二つ目は、小保方論文を指導した笹井氏が、科学者として気付くべき点に何故か目をつぶっていたことである。若山研から提供されたマウスの細胞と最終的にSTAP細胞になった細胞との間には、遺伝的な「目印(TCR再構成)」が共通に確認できる筈なのだが、ベテランの笹井氏はその最終確認をしていない。本来ならここで踏みとどまって、再確認すべきところだが、笹井氏はこの「引き返すべきポイント」を超えてしまった。番組は、特許申請の期限が迫っていたという事情を上げるが、そこに謎がある。

 三つ目は、理研の官僚的体質への疑問、日本の科学技術はこれでいいのかという問題提起である。理研の調査報告以後も、小保方論文には様々な疑惑が持ち上がって来たが、理研はそれ以上の調査を行わず、トカゲのしっぽ切りなどとも言われてきた。しかし、今や不正の本質はそんな所を超えている。論文の70%が科学的批判に耐えないものであること、論分不正には理研の幹部も重大な責任があること、が見えて来た。その上、小保方氏の不正は犯罪的な行為と絡む可能性も出て来た。
 であるのに、この段階でも理研は文科省の意向のままに問題のあいまい決着を図ろうとしている。これは、科学技術を成長戦略の柱にしようと目論む政府と監督官庁の文科省、そして巨額の資金の受け皿となっている理研との三者三様の思惑があるからだ。その中で不正の解明を後回しにして、小保方氏を実験に参加させるという(今やピント外れの)判断が続いている。その構造に対する疑問である。

◆番組が示唆する研究不正の闇
 今の段階で、科学的良心に基づく調査は、小保方氏や笹井氏の最終的な証言を待つところまで証拠固めを行っている。これらの証拠を覆すには、余程のサプライズがなければ難しいものと思われる。これら科学的証拠の前では、検証実験でSTAP細胞が出来る可能性は限りなくゼロだろう。万一あったとしても、それは小保方論文とは別の成果である。しかし、肝心の両者の証言は得られないので、番組はかなり強い“示唆”で終わっている。
 その示唆をもとに、私なりに推測して見る。一つは、既にネット上では、小保方氏が引っ越し前の若山研から留学生が別の用途のために作ったES細胞を「盗んだ」とささやかれているが、本当かもしれない。もう一つは、笹井氏が小保方論文の欠陥(TCR再構成など)に論文撤回などの厳しい処置が取れなかった背景の一つに、(あのメールの出し方には若干の違和感があったが)小保方氏との親密な関係があったのではないか。あくまで個人的推測に過ぎないが、こうなるととても真理を追求する科学の世界とも思われない。

 しかし、仮に科学の世界にも(一般社会と同じような)こうした闇があったにせよ、科学研究の不正はいつか必ず分かってしまうものである。それなのに、なぜ跡(あと)を絶たないのか。4月9日の涙の会見で「こういう騒ぎになって、研究が遅れることが悔しい」とまで言っていた小保方氏。そのことを考えると、彼女の犯した犯罪的不正がまだ信じられない思いだが、どうしてなのか。一匹オオカミ的存在で日々具体的な成果を求められていたこと、理研が彼女を期待の星として扱ってしまったこと、同時に、そうした役回りに自己同化させてしまう特異なキャラクターもあったのかもしれない。

◆組織と人間に魔が差す時
 笹井氏については、京大の山中伸弥教授に対抗して、理研を中心とする再生医療プロジェクトのリーダーだったことも大きなプレッシャーだったと思う。私が見聞きしてきた経験から言うと、そうした状況が作られている時、組織にも人間にも、一つの摩訶不思議な魔力が働く時があるということである。それが「魔が差す」ということ。世界に波紋を投げかけた今回の論文不正事件では、理研にも、笹井氏にも、当の小保方氏にも言葉では説明できない「魔が差す瞬間」があったに違いない。
 あの時、引き返していれば、などと思う瞬間に魅入られたように間違いを犯してしまう。その魔力から組織も人間も逃げることが出来るのか。過去の研究不正の例を見るにつけ、その闇は深く、そこを解明することが次の「魔が差す瞬間」を食い止めることにつながるのだと思う。今月2日に雑誌「ネイチャー」も論文を撤回し、日本に対する深刻な科学不信が続いている中、STAP細胞の今後の動きを(静かに)注目して行きたい。
*5日、笹井氏がCDB内で自殺したという衝撃的なニュースが入って来た。悲劇的な結末を迎えてしまったわけだが、科学不正の闇の解明はこれから。残された科学者はその闇の解明に全力で取り組んでほしい。それが再びこういう悲劇を生まない教訓にになる。ご冥福を祈りたい。(8/5、11時半)