「風の日めくり」に以下のような文章を書いたのは、去年の夏の終わりだったことを考えると、今年はかなり早い産卵だったわけである。今年は4月中旬ごろから「しらこばと」がやって来て、母鳥が一日中じっと卵を温めていた。そして、つい先日の5月7日、母鳥が留守にしている時に巣を覗いたら、もう10センチほどに大きくなったヒナ鳥2羽がいた。去年より3カ月以上も早い孵化だった。それが、2羽のヒナの運命にどのような影響をもたらしたのかは分からない。だが、とにかく悲劇は起きてしまった。
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(去年の8月28日のブログから) 去年(今年から言えば一昨年)、我が家の戸袋の上の狭いスペースに、埼玉県の県鳥で越谷市の市の鳥にもなっている「しらこばと」が巣を作ろうとした。せっせと小枝を運んで並べていたが、何しろ狭すぎて枝がすぐに落ちてしまう。そこで、底の浅い四角の鉢を乗せてやったのだが、警戒したのかすぐにいなくなってしまった。ところが、その鉢をそのままにしていたら今年はそこに「しらこばと」が巣を作ったのである。
場所的には、目の前に金木犀の木があって目隠しになっているのがいいようだ。小枝を運び入れて2羽で仲良く並んでいる。雨戸の開け閉めで音が響いても慣れたのかぴくりとも動かない。母鳥はこの暑さの中でも辛抱強くじっと座りながら腹の下の卵を温めているのだろう。と思ったら、3週間も経った頃には2つの小さな頭が巣から外を覗いていた。
さらに10日もすると、2羽の小鳥のうち成長の早かった方が近くの枝に飛び移った。続いてもう一羽も。そうして母親が餌を運んで来るのをじっと待つという日が続いたら、もう連れ立って近所を飛び回るようになった。それでも暫くは、親から口移しで餌を貰っていた。うちのカミサンは、「しらこばと」の声にすっかり詳しくなり、今は子どもが親を呼んでいるだの、あれは親が子供を探しているだのと解説するようになった。空の巣は今でも戸袋の上に乗っているが、来年はこれをどうするか、相談しているところである。(終わり)
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さて今年。去年より3カ月以上早く「しらこばと」が卵を抱き始めたのは、先に書いたとおりである。巣を隠している金木犀は、春先に新緑の枝を伸ばす。伸びて来ると2階のベランダにも届いて見苦しくなるので、例年はそれを5月の連休中あたりに剪定する。しかし、今年はすでに抱卵に入っているので剪定は難しいと思っていた。枝が伸び放題で見苦しいが、ヒナが巣立つまで待とうと思っていたのである。しかし、5月に入ると母鳥が時々巣を留守にするようになった。後で考えると、それは生まれたヒナにやるための餌を探しに出かけていたのだった。
そこで、家の周囲のサザンカの生垣やハナミズキ、シモクレンなどの枝を切るついでに、金木犀の枝も目立つ所だけ一部剪定することにした。脚立を立てて母鳥が戻る前に切ってしまおうと思ったのである。ついでに、脚立から手を伸ばして植木鉢の巣を手に取り中を覗いたら、まだ卵かと思っていたのに、2羽のヒナがうずくまっていたのでびっくりした。慌ててもとに戻したが、まもなく何事もなく母親が巣に戻ってほっとした。その2日後、今度は小さな頭が巣からのぞくようになった。
雨戸の開け閉めにも動じない母親を真似たのか、ヒナ鳥の方も全く平気。昨日の朝は、雨戸をあけた時に背伸びして巣を見たら、顔中柔らかな毛で覆われたヒナ鳥と目があった。順調に大きくなっているようだった。座敷の窓から見ると、鉢から2羽の小さなヒナが首を出していた。小さな頭がひくひくと動いている。餌を運んでは口移しにヒナ鳥に与えていた母鳥が再び餌を探しに出かけて行った。それが、昨日の朝のことだった。
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そして、急に風が強くなったその日の夕方。仕事からもどって家の前の道路の差し掛かると、道路の中央に何やらネズミの死骸のようなものが見える。近づいて見ると小鳥の死骸だった。周りに灰色の小さな羽根が散乱している。ふいと後ろを振り返るとそこにカラスがいた。体全体が黒光りして大きく、太いくちばしのカラスだった。とっさに「しらこばと」のヒナがカラスにやられたと悟った。隙を見てヒナの死骸に近づこうとするカラスを追い払い、「大変だぞ〜」と言いながら玄関に入った。
すると、カミさんも「そうなのよ。カラスがヒナをくわえて行った」という。午前中に一羽、そして残りの一羽はさっきまで伸びきらない羽根で周辺を逃げ回っていたが、強い風に吹き飛ばされて、とうとう掴まってしまったらしい。「大きなカラスが2羽もやって来て。布団叩きで追い払おうとしたけれどダメだった」と言う。私は、せめて散乱した羽根と死骸をまとめて埋めてやろうと思い、ビニール袋を持って外に出た。
ところが、さっきまであったヒナの死骸がない。あたりを見渡すと、あの憎きカラスが隣の家の屋根にそれを運んで突っついている。肉片がのみ込まれて行くのを見て諦めた。散乱した小さな羽根をほうきでかき集め、ビニール袋に入れながら、私には一つの後悔が起きて来た。カラスに巣が見つかったのは、眼隠しになっていた金木犀を、一部とはいえ刈りこんだからではないか。もしそうだとすると可哀そうな事をした。
「カラスにやられるとは、油断だったなあ」と家に戻った私はカミさんに言った。頭の中に何度も、産毛に覆われたヒナの顔が浮かんで来る。「私はヒナが襲われる所を2度も見たのよ。母鳥がギャーギャー鳴いているので何かと思って外を見たら、大きなカラスが2羽も飛んできて」とカミさんは、なおも興奮冷めやらぬ面持ちである。「分かったから、もうこの話はおしまいにしよう」と私は言った。
振り返ってみれば、去年の巣立ちは全く平和だった。巣立ちの後、子どもの「しらこばと」たちは、夏の厳しい日差しを避けながら暫く家の周りで仲良く遊んでいた。私たちは、今年巣作りしたのは去年生まれた子供なのか、それとも親の方なのかなどと、話し合っていたものである。今年の災難は、ヒナの孵化が金木犀を剪定する時期と重なったのが良くなかったのか。それとも、他の原因でカラスに巣を発見されてしまったのだろうか。
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夜、食事をしていると娘が帰って来た。私はカミさんがこの話をどう切り出すのか黙って見ていた。するとカミさんは、娘がテーブルに腰を下ろすなり、「もう“しらこばと”の子どもはいないよ」と言った。「どうして?」、「カラスがくわえて持って行ってしまった」。娘は「え〜っ!」と立ち上がり、座敷から空っぽの巣を見て「何と言うこと!」、「そう言えば、今朝は何か明け方うるさかったんだよね」と言った。カラスは明け方から、母鳥が留守にする隙をねらっていたのだろうか。自然の厳しさと言えばそれまでだが、こんなことが起こるとすれば、カラスが増えた昨今は「しらこばと」の子育ても容易なことではない筈だ。
私は、「今晩はヒナの弔いだ」と言って買って帰ったボトルのワインをいつもより多く飲んだ。座敷の窓から何度か戸袋の上を眺めたが、親鳥が戻ってきた様子はなかった。空になった巣が暗闇の中にぽつんと残っているだけだった。その夜、娘と息子の間には次のようなメールのやり取りがあったらしい。娘「家で生まれたハト2羽がカラスにやられたよ。T君(私のこと)はショックのあまりやけ酒です」。息子「それはしょっくだねぇ。ただ、思い入れるのも人間のエゴだからなぁ。そのカラスも子どもがいるかと思って立ち直るように言ってくれ!」。それにしても、もう、あの空の巣は取り払うべきなのだろうか。 |