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  今週の鑑賞。定年後の身辺雑記

「伊勢畑ふるさと村」開所式 14.6.2
 長年勤めた会社から完全リタイアした頃、「風の日めくり」に「定年・会社的価値観からの解放」という題でこんなことを書いたことがある。『定年になる前は、有り余る時間をどう使うか悩むのではないかと思っていた。しかし、これが思いのほか忙しい。身辺の雑事や趣味の鑑賞、医者通いから孫の世話まで、様々なことが押し寄せてくる。しかもそれらはすべて等価値で優先順位が付けられない。それが不思議に思える』。 
 これは、仕事を言い訳に雑事から逃げて来た会社人間が、仕事から解放された時の率直な驚きでもあった。同時に様々な雑事に一つ一つ平等に付き合っていると、毎日があっという間に過ぎて行く。そこで、これはと思う項目を洗い出し、ジャンルごとにまとめてみた。そして、定年後の生活の中で自分が大事と思う価値を設定して、それを中心に「日常生活の見取り図」を作ってみたのである。

◆生活の見取り図を作る
 見取り図は、この4年の間にも少しずつ変化して来ているが、最近では中心に「Creativeな生活、Healthyな生活」と書いてある。つまり「健康を維持しながら出来るだけ創造的な生活を送りたい」と言う願望が置かれている。そしてその上部に、自分では創造的な生活のシンボルと考えている「メディアの風」の執筆と発信がある。これは既に生活の一部になっている。
 「メディアの風」の発信を、少なくとも後1年続けて2冊(合計3冊)の自費出版本にまとめ、国会と地元の図書館に寄贈する。それによって、この10年間、自分が時代と向き合って来た証(あかし)を残す。もちろん自己満足である。下部には、自分がこれまでメディアの現場で培って来た経験を生かすボランティア的お仕事がある。科学ニュースの編集長、制作会社の企画会議の座長、厚労省の審査委員などだが、これも強いて言えば、創造的な生活の一部になるだろう。

 以上を続けるためには充電(勉強)もしなければならない。それが左側にある新聞の切り抜き作業、読書や鑑賞。それに月に一回の先輩主宰の勉強会のほか、友人たちとの飲み会を兼ねた勉強会もある。また、「Healthyな生活」関連では、(ウォーキングや酒を控えるなどの)ごくささやかな健康維持の項目がある。この他に家族との旅行やイベントも大事にしなければ。。
 そして右側には、いずれボランティア的仕事からもリタイアして社会とのつながりが希薄になるのに備えて、地域とのつながりを摸索する項目がある。一つは、最近参加するようになった超党派の市議会議員らが主宰する「越谷政経セミナー」という勉強会や、長年続いている月一回のお寺の集い。そして、もう一つが先輩に誘われて、この3年ほど関って来た「伊勢畑ふるさと村」のコミュニティー作りである。

「伊勢畑ふるさと村」開所式
 「伊勢畑ふるさと村」は茨城県常陸大宮市にある。那珂川上流の栃木県との境、見渡す限りの広大な畑、水田、棚田、山林を持つ一軒の農家(Hさん)を拠点に面白いことをやろうという試みである。ここには、去年の暮れに一酸化炭素中毒になりかかったドームハウス(「死にかけた日の物語」)や、先輩と地元社長が去年の夏から取り組んで来たツリーハウス、そして昔、蚕小屋として使っていた大きな納屋などがある。
 Hさんと私たちは、そのいかにも昔の風情を残す真っ黒な納屋を中だけ改造し、そこで様々なイベントを行う計画を練って来た。その改修工事が完了。5月24日、地元や都会からの70人近くを集めて開所式が賑やかに行われた。広さ50畳の板敷の大広間、2か所のかまど、炊事場、囲炉裏。それに布団部屋もできて泊まることもできる。社長手作りの太陽電池とLED照明。かつての真っ暗な納屋が見違えるほど立派な集会場になった。

 開所式では、私が書いた「ふるさと村憲章」から一部を紹介した。
『伊勢畑には、豊かで多様な自然環境が残っています。森があり、里山があり、棚田があり、那珂川の清流があります。そこから豊かな自然の恵みを得ることが出来ます。
 自然環境ばかりではありません。伊勢畑には日本の伝統的な民俗文化があり、歴史があり、豊かな農産物を生かした郷土料理があります。自然と調和した人々の暮らしが息づいています。
 今や日本の各地から消えようとしている「ふるさと」。それが生き生きと息づいている伊勢畑は、ここに住む人々にとってだけでなく、周辺の人々、都会に住む人々にとっても貴重な財産、安心の拠点なのです』

 そうした能書きに続いて、ここでやって行くことを5項目にまとめた。
○豊かな自然の中で、のんびり、ゆったりと遊ぶ
   四季折々の農作業、季節ごとの行事と遊びの中で田舎の文化を学ぶ
○自然の恵みを学んで、ありがたく頂く
   自然食の様々な料理法を学ぶ、そばを打つ、食と酒を楽しむ
○人との交流、人の出会いを楽しむ
   様々な趣味仲間、メンバー同士、地元住民との交流を楽しむ
○伊勢畑を創造の拠点にする
   イベント(発表会、上映会)、勉強会、創作工房での製作など
○将来に備えて安心の拠点を作る
   災害時の避難所、介護&終末、食糧自給などの基地作りに挑戦する 

◆「伊勢畑ふるさと村」での楽しみ(シンプルになる見取り図)
 農家のHさんは、自然食の研究家でもある。また、Hさんと彼女を支える婦人部隊には介護士の有資格者も何人かいる。Hさんたちは、ここで自然食の勉強会なども開いて行く。また、文化的なイベントは先輩のNさんが色々企画中だ。開所式では、自然食の昼食を頂いた後、完成したツリーハウスからフォークシンガーの関島秀樹さん(関西から駆けつけた)が、歌を披露した。那珂川が見える斜面に人々が腰をおろし、ツリーハウスを見上げるようにして聞く。
 その後、流しそうめんのイベントなどもあり、「伊勢畑ふるさと村」は順調に滑り出した。その日は、歌手の関島さんを含めて5人が大広間で酒を酌み交わしたあと宿泊。今回は、残念なことにNさんが突発的な事情で参加できなかったが、いずれゆっくりと文化活動や、村の規約についても相談しなければならなない。いずれにしても、私たちは脇役で主役は女性陣たち。彼女たちが思うように運営すればいいと思っている。

 翌朝、一人残った私は農家が点在する伊勢畑地区を散歩した。近所のお年寄りたちに挨拶し、おしゃべりしながらのんびりとウォーキング。さらに、ツリーハウスの上で椅子に腰かけ、武田泰淳の文庫本「司馬遷」を読む。読みながら「時代を記録する」ことの醍醐味をわずかに想像した。まわりは、鶯とカエルの声が賑やかな以外は、全くの静寂である。
 私の方も70歳になれば、ボランティア的仕事や人とのお付き合いも減って行くだろう。「メディアの風」の発信からも自由になれば、勉強からも解放されて、生活の見取り図はいたってシンプルになる。のんびり、ゆったり。特別会員になった私は、これから「ふるさと村」にはもう少し長期に滞在する予定だ。絵の具を持って行って、このところご無沙汰の「絵らしきもの」の制作を再開するつもり。自然食と酒がうますぎて、「Healthyな生活」がいつまで続か心配ではあるけれど。
ああ無情! 14.5.13
 「風の日めくり」に以下のような文章を書いたのは、去年の夏の終わりだったことを考えると、今年はかなり早い産卵だったわけである。今年は4月中旬ごろから「しらこばと」がやって来て、母鳥が一日中じっと卵を温めていた。そして、つい先日の5月7日、母鳥が留守にしている時に巣を覗いたら、もう10センチほどに大きくなったヒナ鳥2羽がいた。去年より3カ月以上も早い孵化だった。それが、2羽のヒナの運命にどのような影響をもたらしたのかは分からない。だが、とにかく悲劇は起きてしまった。

◆◆◆
 (去年の8月28日のブログから) 去年(今年から言えば一昨年)、我が家の戸袋の上の狭いスペースに、埼玉県の県鳥で越谷市の市の鳥にもなっている「しらこばと」が巣を作ろうとした。せっせと小枝を運んで並べていたが、何しろ狭すぎて枝がすぐに落ちてしまう。そこで、底の浅い四角の鉢を乗せてやったのだが、警戒したのかすぐにいなくなってしまった。ところが、その鉢をそのままにしていたら今年はそこに「しらこばと」が巣を作ったのである。
 場所的には、目の前に金木犀の木があって目隠しになっているのがいいようだ。小枝を運び入れて2羽で仲良く並んでいる。雨戸の開け閉めで音が響いても慣れたのかぴくりとも動かない。母鳥はこの暑さの中でも辛抱強くじっと座りながら腹の下の卵を温めているのだろう。と思ったら、3週間も経った頃には2つの小さな頭が巣から外を覗いていた。

 さらに10日もすると、2羽の小鳥のうち成長の早かった方が近くの枝に飛び移った。続いてもう一羽も。そうして母親が餌を運んで来るのをじっと待つという日が続いたら、もう連れ立って近所を飛び回るようになった。それでも暫くは、親から口移しで餌を貰っていた。うちのカミサンは、「しらこばと」の声にすっかり詳しくなり、今は子どもが親を呼んでいるだの、あれは親が子供を探しているだのと解説するようになった。空の巣は今でも戸袋の上に乗っているが、来年はこれをどうするか、相談しているところである。(終わり)

◆◆◆
 さて今年。去年より3カ月以上早く「しらこばと」が卵を抱き始めたのは、先に書いたとおりである。巣を隠している金木犀は、春先に新緑の枝を伸ばす。伸びて来ると2階のベランダにも届いて見苦しくなるので、例年はそれを5月の連休中あたりに剪定する。しかし、今年はすでに抱卵に入っているので剪定は難しいと思っていた。枝が伸び放題で見苦しいが、ヒナが巣立つまで待とうと思っていたのである。しかし、5月に入ると母鳥が時々巣を留守にするようになった。後で考えると、それは生まれたヒナにやるための餌を探しに出かけていたのだった。
 そこで、家の周囲のサザンカの生垣やハナミズキ、シモクレンなどの枝を切るついでに、金木犀の枝も目立つ所だけ一部剪定することにした。脚立を立てて母鳥が戻る前に切ってしまおうと思ったのである。ついでに、脚立から手を伸ばして植木鉢の巣を手に取り中を覗いたら、まだ卵かと思っていたのに、2羽のヒナがうずくまっていたのでびっくりした。慌ててもとに戻したが、まもなく何事もなく母親が巣に戻ってほっとした。その2日後、今度は小さな頭が巣からのぞくようになった。

 雨戸の開け閉めにも動じない母親を真似たのか、ヒナ鳥の方も全く平気。昨日の朝は、雨戸をあけた時に背伸びして巣を見たら、顔中柔らかな毛で覆われたヒナ鳥と目があった。順調に大きくなっているようだった。座敷の窓から見ると、鉢から2羽の小さなヒナが首を出していた。小さな頭がひくひくと動いている。餌を運んでは口移しにヒナ鳥に与えていた母鳥が再び餌を探しに出かけて行った。それが、昨日の朝のことだった。

◆◆◆
 そして、急に風が強くなったその日の夕方。仕事からもどって家の前の道路の差し掛かると、道路の中央に何やらネズミの死骸のようなものが見える。近づいて見ると小鳥の死骸だった。周りに灰色の小さな羽根が散乱している。ふいと後ろを振り返るとそこにカラスがいた。体全体が黒光りして大きく、太いくちばしのカラスだった。とっさに「しらこばと」のヒナがカラスにやられたと悟った。隙を見てヒナの死骸に近づこうとするカラスを追い払い、「大変だぞ〜」と言いながら玄関に入った。
 すると、カミさんも「そうなのよ。カラスがヒナをくわえて行った」という。午前中に一羽、そして残りの一羽はさっきまで伸びきらない羽根で周辺を逃げ回っていたが、強い風に吹き飛ばされて、とうとう掴まってしまったらしい。「大きなカラスが2羽もやって来て。布団叩きで追い払おうとしたけれどダメだった」と言う。私は、せめて散乱した羽根と死骸をまとめて埋めてやろうと思い、ビニール袋を持って外に出た。

 ところが、さっきまであったヒナの死骸がない。あたりを見渡すと、あの憎きカラスが隣の家の屋根にそれを運んで突っついている。肉片がのみ込まれて行くのを見て諦めた。散乱した小さな羽根をほうきでかき集め、ビニール袋に入れながら、私には一つの後悔が起きて来た。カラスに巣が見つかったのは、眼隠しになっていた金木犀を、一部とはいえ刈りこんだからではないか。もしそうだとすると可哀そうな事をした。
 「カラスにやられるとは、油断だったなあ」と家に戻った私はカミさんに言った。頭の中に何度も、産毛に覆われたヒナの顔が浮かんで来る。「私はヒナが襲われる所を2度も見たのよ。母鳥がギャーギャー鳴いているので何かと思って外を見たら、大きなカラスが2羽も飛んできて」とカミさんは、なおも興奮冷めやらぬ面持ちである。「分かったから、もうこの話はおしまいにしよう」と私は言った。
 振り返ってみれば、去年の巣立ちは全く平和だった。巣立ちの後、子どもの「しらこばと」たちは、夏の厳しい日差しを避けながら暫く家の周りで仲良く遊んでいた。私たちは、今年巣作りしたのは去年生まれた子供なのか、それとも親の方なのかなどと、話し合っていたものである。今年の災難は、ヒナの孵化が金木犀を剪定する時期と重なったのが良くなかったのか。それとも、他の原因でカラスに巣を発見されてしまったのだろうか。


◆◆◆
 夜、食事をしていると娘が帰って来た。私はカミさんがこの話をどう切り出すのか黙って見ていた。するとカミさんは、娘がテーブルに腰を下ろすなり、「もう“しらこばと”の子どもはいないよ」と言った。「どうして?」、「カラスがくわえて持って行ってしまった」。娘は「え〜っ!」と立ち上がり、座敷から空っぽの巣を見て「何と言うこと!」、「そう言えば、今朝は何か明け方うるさかったんだよね」と言った。カラスは明け方から、母鳥が留守にする隙をねらっていたのだろうか。自然の厳しさと言えばそれまでだが、こんなことが起こるとすれば、カラスが増えた昨今は「しらこばと」の子育ても容易なことではない筈だ。
 私は、
「今晩はヒナの弔いだ」と言って買って帰ったボトルのワインをいつもより多く飲んだ。座敷の窓から何度か戸袋の上を眺めたが、親鳥が戻ってきた様子はなかった。空になった巣が暗闇の中にぽつんと残っているだけだった。その夜、娘と息子の間には次のようなメールのやり取りがあったらしい。娘「家で生まれたハト2羽がカラスにやられたよ。T君(私のこと)はショックのあまりやけ酒です」。息子「それはしょっくだねぇ。ただ、思い入れるのも人間のエゴだからなぁ。そのカラスも子どもがいるかと思って立ち直るように言ってくれ!」。それにしても、もう、あの空の巣は取り払うべきなのだろうか。
しみじみとした会食 14.4.22
 その先輩に初めて会ったのは40年前になる。私が東京に転勤になって科学番組部の同じ班に配属されたのが縁で、酒とうまいもの好きの先輩とつき合うようになり、あちこちの飲食店で共に時間を過ごした。ちょうど10歳違いだったが、我々若いグループとも気さくに付き合ってくれ、会社から近いお宅にもよく誘われた。行くと、奥さんがおいしい手料理を食べさせくれた。当時、家には10歳と4歳の女の子がいた。
 先輩はその後3年ほどイギリスのBBCに行っていたが、帰国後も変わることなくお付き合いが続いた。酔っ払って家にお邪魔し、泊まったこともあるし、彼が科学ドキュメンタリー番組のプロデューサーで私がデスクの時は、ディレクターと私が家にお邪魔し、先輩が一杯やっている傍で番組のナレーションを推敲した。番組に出演した女性バイオリニストと意気投合して、彼の家の居間で演奏会を開くという贅沢な経験もした。それは冬の晩で、駅に出迎えた私が雪の降る中を彼女の大事な楽器(ストラディバリウス)を抱えて歩いた。

◆◆◆
 そんな楽しい交流が15年ほど続いた後に、先輩はがんになり、あっという間に帰らぬ人になった。まだ55歳の若さだった。それから私たちは、毎年10月の命日になると先輩の家に集まるようになった。生前からお付き合いのあった先輩のお姉さんや奥さんのお兄さんの家族、2人の娘たち、それに私たち会社の仲間。多い時で20人近くが、狭い居間にぎゅうぎゅうになりながら、奥さんたち女性陣が用意する手料理を楽しみ、酒を飲みながら賑やかに先輩を偲んだ。
 それは、奇跡のように一度も休むことなく22年も続いた。その間に、上の娘さんは結婚し2人の子供は大学生になった。初めて会った時に4歳だった下の娘さんは、結婚して1人の男児を授かったが、やがてシングルマザーとなった。私たちは年に一回の集まりで、残された奥さんと同居している母子を見守って来た。子供好きの私は行くと、私の子どもが小さかった頃を思い出しながら、随分とその男の子の相手をして遊んだ。

 先輩が亡くなって22年後、23回忌を迎えた一昨年には先輩がなじみだった小さなレストランを借り切って偲ぶ会を開いた。長い間私たちをもてなしてくれた先輩の家族を招待したのである。そのレストランはグルメだった先輩がひいきにしていた店で、シェフも腕によりをかけて旨い料理を提供してくれた。会の終わりには、先輩と付き合った仲間がそれぞれに先輩との思い出話を3人の孫たちに聞かせた。いい会だった。
 その23回忌のパーティーから僅か2カ月後の12月、今度は先輩の奥さんが突然に亡くなった。亡くなる直前まで元気で、電話で(23回忌のパーティーのことや、お孫さんたちの近況など)珍しく長い話をしたのが最後だった。死因は風邪から進んだ肺炎だった。告別式で弔辞を読みながら、私は先輩のご家族と出会ってからの40年近い歳月を思い、先輩があっけなく亡くなってしまった時と同じような喪失感に捉われた。下の娘さんは会社勤めをしながら奥さんと2人で一人息子を育てて来たのだが、先輩の家は急に寂しくなってしまった。

◆◆◆
 奥さんが亡くなった翌年の10月。仲間の間でこの集まりをどうするかという話が持ち上がった。このまま、年来の集まりを失うのは寂しいという気が起きて来たのである。そこで、私たちは青山にある会社施設の一室を借りて、立食の偲ぶ会を開くことにした。上の娘さんと2人の娘、下の娘さんと一人息子、それに先輩のきょうだいなどを招待し、いつものメンバーが参加した。息子さんは翌年の大学受験を控えていた。母親が「絶対浪人はさせない」というので、(彼からすれば大先輩のおじさんたちが)口々に「頑張れよ」などとプレッシャーをかけたりした。
 その息子さんが無事第一志望の大学に合格したという知らせが娘さんから届いたのは、今年の2月下旬だった。メールには「母も(その大学を)を受けることに賛成してくれていたので、喜んでくれていると思います」とあった。彼は小中高とずっとサッカー選手になることを夢見て選手としても活躍してきたが、第一志望の国内屈指の体育系の大学に入学できたという。私は早速、少人数でお祝いをしようと提案した。

 そのお祝い会が先月末に実現した。母子と私たち3人。友人が選んでくれた雰囲気のいいレストランで会は始まった。息子さんはジュースで、私たちは友人が特別に持ち込んだ赤と白の高級ワインで乾杯をした。赤ん坊の時から見て来た彼が、今や晴れて大学生になる。それも話を聞くと、しっかりと将来を見据えて進路を考えている。彼は高校の時にサッカー選手になることに見切りをつけ、体育の指導者になるための勉強をするという。逞しい青年になっていた。
 毎年10月の偲ぶ会で仲間の間をうろちょろしていた彼もまた、物心ついてから、私たち仲間の馬鹿な会話や、酔っ払いぶりを見聞きして育って来たわけである。「行く度に随分と遊んであげたんだよ」と言うと、彼は「覚えていますよ。膝の中で遊んでいたことも記憶にあります」と嬉しいことを言ってくれた。おいしい料理を食べながら、私たちは彼にお爺さん(先輩)のこと、そして大学での生活などについて話をした。

◆◆◆
 話に熱が入るうちに私は酔いも手伝って、いつの間にか社会に出てからの心構えまで話を広げてしまったらしい。友人から「今日は大学入学祝いで、就職祝いではないのだから」などと冷やかされる始末だった。最後に友人が店に頼んでおいた特製デザートが出て来た。ガラスのプレートの上に様々なスイーツが並んでいて、チョコレートで「合格おめでとう!」の文字が描いてある。そのプレートに立てられたろうそくを嬉しそうに吹き消す息子さんをみて、こちらも胸が熱くなった。
 先輩と知り合ってから40年、亡くなってから24年の歳月が流れた。知り合った時に29歳だった私は古希を迎え、仲間たちも定年退職をしてそれぞれの道を歩んでいる。月日の記憶も今や茫々たるものになってしまった。その中で、先輩やその家族とのお付き合いが、かくも長く続いたのは、集まる人々がみんな気持ち良い人だったからだと思う。私たちをもてなす家族の方は大変だっただろうが、そのお付き合いはこの上なく楽しかった。亡き先輩の娘さんとお孫さんと別れて渋谷の街を駅に向かって歩きながら、私は会をアレンジしてくれた友人に「今日はどうもありがとう。お陰で最近になくしみじみとした気分になったよ。いい会だったね」と礼を言った。
92歳の春「今が一番幸せ」 14.3.21
 今年の正月は会えなかったので、お彼岸には母のところに一泊すると伝えておいた。ところが、最近になって「医者に行って血液検査をしたら、首をひねられて、今度はエコーや検便もしましょうと言われて。気ぜわしいから日帰りにしてくれない?」と言って来た。どこがおかしいのかと聞くが、医者は詳しく教えてくれないらしい。
 92歳の老人に説明しても分からないと思っているのだろうが、母の頭はいたってはしっかりしている。「貧血らしい自覚症状もないし、トイレで注意していても潜血らしいものもないし」などと不思議がっている。母は震災後、弟夫婦と同居しており、毎朝、弟の奥さんと仲良くラジオ体操をしている。20年程も前に大腸がんの手術をしたが、その後は元気に暮らして来た。

 ◆◆◆
 では、お彼岸は皆で食事をしてから墓参りをしようということになり、先日、菩提寺のある水戸に集まった。母と弟夫婦、姉、我々夫婦とで賑やかに昼食をとった。そこで、新しい補聴器を何にするかという話になった。母は半年前くらいから少し耳が遠くなって、いろいろ補聴器を試しているが、なかなか満足のいくものに出会えない。今は、かなり値の張る2種類のどちらにするかで悩んでいるらしい。
 2日後に病院の検査を控えている母は、「自覚症状は何もないのよ。でも、検査で癌が見つかったら補聴器を買うのは止めにする」などと言う。私は「血液検査で首をひねったということだから、癌なんかじゃないよ」と言いつつ、内心「母も、いざというときの覚悟はしているんだなあ」と思った。食事会を終えて一行は弟の車で菩提寺に向かった。

 寺は水戸の偕楽園の近くにある。早くに死んだ父が眠る墓前で、全員で般若心経を唱えたあと、恒例の観梅に。春一番が吹いた日だったが、偕楽園には大勢の観光客が来ていた。中には、ボランティアに付き添われた車椅子のお年寄りも沢山いる。その多くは、おそらく母より年下の人たちだろう。比べて母は、弟の奥さんや妻と手を組んで歩いてはいるが、まだ足元もしっかりしている。
 背筋もピンと伸びていて、「この前、施設を訪問した時に、年下の友人の車椅子を押してあげたのよ」などと言っている。趣味は俳句だが、去年、5歳になるひ孫(弟の孫)が母に対抗して五七五をやり始め、それを俳句の先生に話したら彼女の同人誌に2ページにわたって載せてくれたそうだ。その句もちゃんと記憶している。彼女のひ孫は小学校4年生を筆頭に、10人を数えるまでになった。

(5歳のひ孫の句)
「モミジのは さむくないのに あかいいろ」(赤い種類のモミジを5月に見て)
「コスモスに ちょうよりにあう あかとんぼ」
「そらちゃんが かしこみかしこみ おがまれる」(そらちゃんのお宮参りで)

 ◆◆◆
 偕楽園の梅は風が強かったせいだろうか、殆ど香りがしなかったが、満開だった。去年は可愛らしい梅娘たちに両脇から手を組まれて写真に収まったが、今年は見当たらず、それは叶わなかった。私はちょっと離れたところから、交代で弟の奥さんと妻と手を組みながら歩いている元気な母の姿を眺めながら、ありがたいことだと感謝した。近年の母の口癖である「今が一番幸せよ」が伝わってくるような気がした。
 母の口癖には実感がこもっている。一度、電話で話してくれたが、とにかく自分が健康であること、震災後、同居してくれている弟の奥さんとも仲良く暮らしていること。4人の子どもたちも歳はとってきたが、全員が無事で暮らしていること。何かと難しい世の中だが、孫たちもそれぞれに問題もなく育ったし、結婚した孫たちには毎年のように子ども(ひ孫)が生まれている。これらすべてが、ありがたく「今が一番幸せよ」となるわけである。

 母も私たちも、この状態が一日でも長く続くことを願っているのだが、それが奇蹟に近いことも分かっている。例えば、あと10年のことを考えれば、この家族全員の状況にやはり色々な深刻なことも起きて来るだろう。それに母の人生は、過去、戦争での疎開や、疎開先での出産や子育て、戦後の貧困、夫の死などなど、様々な試練を乗り越えて来た。それだけに、今この時の状態が貴重なものだという実感は強いと思う。
 そういうこともあって、水戸で別れた後も私は2日後の母の検査結果がずっと気になっていた。そして2日後の夕方。帰宅すると妻が「お母さんから電話があって、どこも悪いところはなかったって」と言う。早速、家に電話すると「ちょっとどこかに炎症があったかもしれないけれど、今は何ともないと言われた」と言うのでほっとした。「良く分からないけど、多分白血球がふえていたのかなあ。でも良かった、良かった」と私。万一の癌宣告を覚悟していた母もほっとしていた。

 ◆◆◆
 そういうわけで、ありがたいことに母の「今が一番幸せはよ」は、まだ暫く続きそうだ。なにしろ、夜中にトイレに起きる時にけつまづかないように、寝る前に炬燵のコードをきちんと片づけてから布団に入るような母である。毎日ラジオ体操をして、散歩をし、句作に頭を絞る。新聞もニュースもちゃんと見て批評もする。頭が下がるほどに自立的な92歳である。
 むしろ心配は自分の方である。このところ、1カ月に2度も風邪をひき、まだ本調子ではない。古希を迎えたとたん、体力に自信がなくなったような気もする。去年は横着して人間ドックをパスしたが、体のあちこちにガタが来て、4月始めに人間ドックを受けることにした。とにかく健康に留意して、母より先に逝って母を悲しまるようなことがあってはいけないと思うこのごろだ。
古希と、大学卒業と 14.1.22
 年が明けたら古希を迎えた。もうちょっと先だと思っていたが、数えで言うのでそうなるらしい。実感はわかないが、「人生七十古来希なり(杜甫)」というのだから、こうしてまあまあ健康で古希を迎えられたことに感謝したいと思う。また、それとは直接関係ないが、1月16日の最終講義をもって大学講師の仕事を終えた。まだ、250人の学生の成績をつけるという大仕事も残っているが、これからは、時折4年制や大学院生の卒業研究のアドバイスをするだけに。先輩に誘われて始めた大学通いも一応の卒業となった。

◆3つのジャンルの授業内容
 ほぼ3年間の大学講師だった。メディア学部の学生を相手に、年に20回ほどの授業(90分)を持もったが、講師を務めるにあたって自分のテレビ番組制作の経験をベースに今のメディア界を俯瞰できたことは、ありがたい機会だった。内容は大きく3つ。「ドキュメンタリー構成」、「番組制作論とメディア産業論」、「メディア・リテラシー」になる。
 「ドキュメンタリー構成」の中では、構成のノウハウの他に、かつて私が責任者として処分を受けた“やらせ問題”(NHKスペシャル「奥ヒマラヤ 禁断の王国・ムスタン」)を題材にしながら、反省も込めて「ドキュメンタリーにおける事実と真実」と題する講義をした。また、「番組制作・メディア産業論」では、企画に関った「プロジェクトX」や懐かしい「夢用絵の具」を例に、アイデアの集め方や企画会議の持ち方などを。そして、「コンテンツ・プロデューサ―の仕事」では、前の会社で関ったウェブサイト「みんなのきょうの料理」など様々なコンテンツ展開の例を見せながら。それは自分が携わってきた仕事のメディア論的意味づけにもつながった。

 「メディア・リテラシー」の授業では、「視聴率の魔物性」というタイトルで、視聴率に一喜一憂する制作現場の実態や、インターネットと既存メディアの競争など、今のメディア界が抱える様々な問題・課題について話した。特に、「戦争報道とメディア」の回では、アメリカのベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争の3つの戦争における権力とメディアの相克を描いたNHKの番組を題材に、権力とメディアの攻防について話した(NHKの番組はメディアを学ぶ学生にとって大変良質な教材となっている)。
 そこでは、戦争を遂行する権力(国、軍部)は常にメディアを自分の都合のいいように操作するということ。その操作テクニックも時代とともに進化していること。さらに、戦争報道は権力によるメディア操作の究極の場面だが、権力によるメディア操作は平時から行われていること。そうしたメディア状況の中で正確な情報を得るには、多様な情報を比較しながら批判的に読み解くこと(これがまさにメディア・リテラシー)が必要になることなどを話した。

◆最終講義の冒頭で話したこと
 「戦争報道とメディア」の最後に私が話したのは、歴史を勉強することの大切さだった。戦前の日本で如何にメディアが戦争を煽りたてたか。中国東北地方への侵略戦争では、ラジオに負けまいとする新聞が連日号外を出して部数を伸ばし、満州事変は新聞が後援したとまで言われた(半藤一利「昭和史」)。そんな講義の最終日、私は私の子供と孫の中間にあるような若い学生たちに向かって、冒頭、以下のような話をした。

 私が生まれたのは、終戦の年の5月。私が「おぎゃあ」と言って生まれた時の日本は、日々激しくなる空襲で国民みんなが明日生きているかどうか、という生活を送っていた。それが私の人生の長さと同じ、たった68年前のことなんだね。それ以前の日本は明治維新以来、日清(1894)、日露(1904)、日中(1937)、太平洋戦争(1941)と50年ほどの間に4度も戦争を繰り返して来た。アメリカだって、50年前のベトナム戦争(1960-1975)以後、4回も戦争や紛争を経験している』

 『そういう意味で私は戦後68年、戦争のない平和な時代に生きて来て大変幸せだったわけだが、この平和が当たり前と思ってはいけないのではないかと思っています。よほど平和のありがたさを噛みしめていないと、平和は脆くも崩れてしまう。皆さんは、自分の問題として、戦後68年以上続いた平和をこれからどう維持して行くのかを考えて欲しい。メディア・リテラシーの授業でお話ししたことを少しは思い出してね』

◆終戦の年に生まれた私たちの役目
 さて、こうして考えてみると、「古来希なり」というのは人生のことだけでなく、「平和が持続する長さ」にも当てはまるような気がする。自分の人生を振り返って70年というのはあっという間だったが、歴史的に見ると70年も平和が続くというのは、確かに稀(まれ)で貴重なことかもしれない。地球が狭く一つになってからも、世界は第一次世界大戦(1914-1918)、第二次世界大戦(1939-1945)だけでなく、世界各地で様々な戦争を経験してきたわけだから。

 いま、戦争を防ぐには、戦争と戦争の間の期間(戦間期*)の研究を充実すべきだと言う意見がある。束の間の平和な期間にも様々な戦争の種がまかれて行く。あるいは平和な間に、前の戦争の後遺症から次の戦争の芽が出る場合もあるからだ。今、日本と中国、韓国との間は、安倍政権になってから俄かに緊張が高まっているが、それも前の戦争の遺物である領土問題が原因になっている。*本来は第一次世界大戦の終結(1918)〜第二次世界大戦の開始(1939)までの21年間を指す
 そうした中で、この平和が出来るだけ長く続くようにするには、どうすればいいのか。戦後の平和と同じ時間を生きて来た私も、ありがたいことに古希を迎えた。平和の持続のためには、まず私たちが過ごして来た戦後からの記憶を出来るだけ詳細にたどりながら、平和のありがたさを噛みしめる必要があるかもしれない。そうした中から、今が第二の戦間期にならないように、平和が持続する歴史的ヒントを探って行くのもまた、終戦の年に生まれた私たち世代の役目かもしれないと思う。まだまだ元気な戦前生まれの世代とともに。
死にかけた日の物語(2) 13.12.31
 その晩は、(中にいる間には分からなかったが)外は風が冷たく凍てつくような寒さだった。しかし、中は囲炉裏の火だけで十分暖かかった。このドームハウスは何年か前に、地元のF社長が購入して自分たちで組み立てたもので、ネットで調べてみると、厚さ20センチもの発泡スチロールの壁で出来ている。断熱に優れていて、地震や火事にも強いとある。
 図面には2つの入り口があるが、ここの場合、一方の入り口の外側にはトイレと風呂と台所がついている。そこに小さな換気扇がついていたが、それは止まっていた。冬なので2つある小窓も閉まっていた。と言うわけで、もう一つの入り口が閉まっているとドームハウスは完璧な機密性を保つ。その心地よい暖かさの中で、私たちは自然食料理を楽しみながら、酒を酌み交わしていた。

 ここで、私たちが危うく命を落としかけた一酸化炭素中毒について触れておく。製鉄会社に勤めていた友人が教えてくれたところによると、炭は酸素が充分なら青白い炎を出すが、不十分だと真っ赤になって一酸化炭素の供給源になる。12グラムの炭が燃えると、約45リットルの一酸化炭素を出すというから換気が悪い状況で炭を燃やすのは危険だ。
 なにしろ、一酸化炭素は臭いも色もない。頭痛がするなどの前兆もあるらしいが、大抵の場合は気付かずに気を失う。そうすると、一酸化炭素を吸い続けて体内に酸素が回らなくなり、死に至る。濃い一酸化炭素を一呼吸でも吸うと意識を失うので、過去には製鉄会社でもそうした事故死が何度かあったらしい。その晩、私たちも赤い炭火を見ながら酒を飲んでいた。

◆愉快な宴に調子に乗って
 午後5時半に始まった食事は8時を回っていた。料理の最後に、農家のHさんが打ったそばの椀ものを食べ、さらに私たちは自家製のピーナッツなどをかじりながら彼女を交えて話に花を咲かせた。部屋の周囲には、何十という焼酎の大きな瓶が並んでいる。中には梅やカリン、ショウガ、イチジクなどなどの果物が漬けてある。それをお湯で割って飲みながら、大農家に嫁いできた彼女の苦労話に耳を傾けた。
 酔って上機嫌になった私たちは、小豆島に住んでいるNさんの妹さんにも電話をかけた。彼女は定年退職後、海辺から後ろの山まで続く広大な敷地を見つけて移り住み、毎日、海に沈む夕陽を眺めながら暮らしている。Nさんはそこの山にもツリーハウスを作りたいと言っている。私たちは、来年の瀬戸内国際芸術祭に合わせて、そこを訪ねる約束をした来年の楽しみがまた一つ出来た。

 調子に乗った私は、2か月前に購入したiPadミニを取り出して写真を撮り、囲炉裏を囲む風景をフェースブックにアップした。『今回もまた、先輩と一緒に那珂川上流のふるさと村に。囲炉裏を囲んで酒やワインを飲みながらおいしい手打ちのそばも頂いています。のんびりと。これからの構想もいろいろ膨らんで来ました』などという能天気なコメント付きで。
 私はiPadを見せながら、タダでダウンロードできる夏目漱石や森鴎外、宮沢賢治などを読んだ話をした。森鴎外の「舞姫」については、朗読の名手で「舞姫」を劇場で読んだこともあるNさんに、その一節を読んでもらった。ドームハウスは反響が良く、そこで聞く舞姫の一節は素晴らしかった。そして何を思ったか、iPadで賢治が妹の死を悲しんで書いた「永訣の朝」という詩をネットで検索し、一部を読むようにNさんにせがんだりした。私は、こんな朗読会をHさんの納屋が修復されたら開いてみたいと思っていた。

◆辛うじて異変に気付く
 それから暫くして、別棟で寝ることになっていた元大学教授のKさんが引き揚げていった。出て行く時に彼はよろめいていて、農家のHさんは「おかしいわね、酔うほど飲む人ではないのに」と言った。それから、1時間も経たない頃である。私は自分の心臓がどうしようもない位早く打っていることに気がついた。普段の3倍くらい早い。「今日は早起きして寝不足だったし、酒を飲み過ぎたせいだろう」と思って、我慢しながらお湯に切り替えて飲んでいた。
 しかし、心臓の脈拍は速くなる一方。私は少し酔いを覚まそうとトイレに立った。その時、一瞬目の前が暗くなりかけたが持ちこたえた。戻って、「どうも飲み過ぎたらしい。調子が悪いので寝ます」と私は言って、囲炉裏の傍に敷かれている布団に入ろうとした。まだNさんとHさん、それにHさんの娘さんも加わって話が続いていているので、催眠導入剤を飲んで寝てしまおうと思ったのである。

 ところが、私がそう言った直後にHさんが「私もおかしい」と言い出したのである。立ち上がるなり、ドアの方によろよろと歩きだした。そしてドアの外にあった椅子に苦しそうに倒れ込んだ。その時に至って初めて皆が「これは一酸化炭素中毒だ」と気がついた。急いで小窓を空け、ドアを開放し全員が外に逃れた。そとは真っ暗で風が冷たかった。私はふるえながら深呼吸を何度もした。
 椅子に倒れ込んでいたHさんが、あの囲炉裏を外に出さなければと言ってハウスの中に入って、移動式の囲炉裏を下の絨毯ごとドアの方に引っ張ろうとした。多分、その時にさらに濃い一酸化炭素を吸ったのかもしれない。今度は本当に倒れてしまった。椅子の上に引っ張り上げて、背中をさすったり声をかけたりしたが、苦しそうにうめくばかり。しまいには地面にうずくまってしまった。脈をとろうとするが、慌てているのか探せない。ものすごく弱かったためだろう。「救急車を呼ぼうか」と私はNさんに言った。

◆小さなトラウマのその後
 それから暫くしてHさんは復活した。その間、10分か15分程だったように思う。彼女は「もう大丈夫。吐けば何とかなる」と言って吐こうとしたが、何も出なかった。私たちは2つの小窓を開け放ち、ドアを何度も開閉して中の空気を入れ替えた。そして、寒くなったドームハウスの中に入って、震えながら茫然と時間を過ごした。危なかった、という思いが胸に押し寄せて来た。
 囲炉裏の残り火は娘さんが外に運び出した。やがてHさんも母屋に引き上げ、私とNさんはドームハウスの中に残った。「亡くなったおばあちゃんが助けてくれたんだよ」とNさんは繰り返した。私は私で内心「今日の朝、お寺にお参りしたこともあるかもしれない」と思っていた。充分に換気が出来たかどうか、神経質な私は気になったが、思い切って催眠導入剤を1.5錠飲んで寝てしまった。心臓の脈拍は起きている間に元に戻ることはなかったが。

 あの時、Hさんが気付かずに引き上げ、2人であのまま布団にもぐりこんでいたら。あるいは、中途半端にドアの開け閉めがあって前兆のような症状が起きなかったら。一晩中部屋を閉め切って、囲炉裏の傍に寝ていた私たちは、朝には冷たくなり、それこそ「永訣の朝」になっていただろう。場合によっては、一酸化炭素のひどい後遺症に苦しんだかもしれない。幸い、Hさんも含め全員が元気で朝を迎えることが出来た。私とNさんは朝のウォーキングにでかけ、遠くからH家の墓にお辞儀をした。あたりは一面、霜で真っ白だった。

 その後、この出来事を振り返って、暫くは落ち着かなかった。それは一種のトラウマだったかもしれない。夜などは、あの時死んでいたらと思うと、やはり相当哀しくも暗い気持ちになった。あの出来事の直前の楽しい気持との落差があまりに大きかったせいでもある。そして、自分の楽しみに調子に乗って、家族を悲しませてはいけないと思った。
 さらにしばらく経つと、私はあの晩、何かによって生かされた、と言う気がしてきた。そうならば、せっかく命拾いをしたのだから、やはり少しでも人のためになるようなことをしなければ、などとも思った。どういうことが、それに当たるかは全く分からないのだが、それはおいおい考えて行くことにする。(終わり)
死にかけた日の物語(1) 13.12.23
12月15日の日曜日、私は時々出かけている「ふるさと村」(茨城県常陸大宮市)で、機密性の高いドームハウスで仲間と気持ち良く飲んでいる時に、囲炉裏の炭火による一酸化炭素中毒で死にかかった。一人が倒れて暫く動けなくなり、私の心臓も警報を発していた。幸い、症状としては全く問題ない程度のものではあったが、状況としては危なかった。幾つかの偶然が重ならなかったらあの経過はたどらず、私たちは囲炉裏の傍に敷かれた布団にもぐり込んで朝には冷たくなっていただろう。
 危うく命拾いをしたわけだが、暫くは、ひょっとしたら今はもうこの世にいない自分を考えて、言いようのない複雑な気持ちに襲われた。同時に、あの出来事は自分にとって一体何だったのだろうと考えざるを得なかった。何が幸いして自分は死を免れたのか。そこから自分は何をくみ取るべきなのか。しかし、そんなことが簡単に分かる筈もなく、思いは行きつ戻りつした。そしてふと、あの日の朝からどのように過ごしたのか、死にかけた日の出来事をつぶさに書いて見たいと思った。

◆「朝の集い」を終えて、「ふるさと村」へ
 その日は、朝6時に起床した。月の第三日曜日は、近所のお寺で恒例の「朝の集い」があり、12月からの3カ月は6時半から始まる。冷気に身が縮んだが天気は良かった。寺の本堂でいつものように御本尊の大日如来の前に座り、一カ月分のご挨拶をする。ついで、20人程の参加者とともに、住職に合わせて光明真言、観音経、般若心経などを唱える。終わると、住職が用意したコピーを見ながら法話を聞く。
 その日は観音様の話だった。来年は、各お寺の観音様が12年ぶりに御開帳になる年ということで、七観音のお役目とそれぞれの真言を教わる。それが終わると本堂の好きな所に座って座禅を組む。息をゆっくりと吸って吐きだす。僅かな間だが本堂に静かな時が流れる。座禅が終わると、座敷に移って皆でおかゆを頂く。終わるまでおよそ1時間半のお勤めだが、この「朝の集い」は私にとってもう20年近く続いている生活リズムの一つになって来た。

 家に帰ったのは8時すぎ。いつものように「サンデー・モーニング」(TBS)を見た。特定秘密保護法、猪瀬東京都知事の問題などを見ながら時間を過ごし、10時前に家を出た。茨城県の那珂川上流、栃木県との県境にある農家を訪ねるためである。先輩の紹介でここに通い出してから3年近くになる。受け入れ農家の奥さんのHさんは、広大な水田、畑、棚田、山林を有する自然食の研究家で、ここを様々な文化活動の拠点にしようと構想して来た
 水郡線の常陸大宮駅でHさんに迎えてもらって伊勢畑の農家へ。その日は、朝からもちつき行事があって、東京から2人の主婦も参加したという。着くと早速、いつも私たちが寝泊まりしているドームハウスで、一足早く着いていた元大学教授のKさんとともに、おこわと野菜の煮物などの昼食を頂いた。気がつくと、以前は木造の母屋の方にあった移動式の囲炉裏がそこに持ち込まれていた。中の炭火は灰に埋もれて殆ど消えかかっていたが、このドームハウスで囲炉裏を囲むのも悪くないなと、その時は思っていた。

◆「ふるさと村」の構想膨らむ
 食べ終わると早速、先輩のNさんと地元社長のFさんが取り組んでいるツリーハウスの進捗状況を見に行った。それは、ドームハウスから百メートルも離れていない、那珂川を見降ろす斜面に作られている。栗の大木を利用して、今年の夏から作り始めたものである。床が地上4、5メートルはあるので、最初の頃は2人とも命綱をつけて作業していた。
 高所恐怖症の私は時々はしごで登ってみるだけだったが、今回行ってみると、周りの手すりも出来、部屋の骨格も立ち上がっていた。凝り性のN先輩は、詳細な設計図を何枚も書いて実に丁寧な仕事をしている。上に登ってみると、8畳ほどの床に広くとったベランダが、格好の憩いの場になっていた。部屋は敢えて2畳と狭くし、Nさんはここを「二畳城」と名付けると宣言した。ここに都会の子どもたちを招待するのが夢だ。

 午後に入ると風が冷たくなり、2人がドームハウスに戻って来た。ツリーハウス作りの2人、東京の主婦2人、受け入れ農家のHさんを交えて、K元教授の入れてくれた本格的なキリマンジャロを飲みながら、これからの構想をあれこれ話をする。ツリーハウスの2人は、栗の木の背後にある杉林にもあと2つほどツリーハウスを作って空中回廊で結ぶのだと夢を膨らませている。
 農家のHさんは、庭にある昔ながらの大きな納屋を修復して、そこで自然食の教室や朗読会など様々なイベントが出来るようにしたいと考えている。前回、私も入って図面を書いたが、修復は既に着手されていた。Hさんはさらに、今ある井戸を昔ながらの“つるべ井戸”に改造し、その水を沸かして入る露天風呂も計画している。女性陣のリーダーシップによって「ふるさと村」構想も次第に具体的になって来た。

◆棚田を散歩して、一族の墓をお参りする
 東京からの主婦2人と地元のF社長が引き揚げたあと、私とNさん、K元教授の3人でウォーキングに出かけた。Hさんの土地はものすごく広い。向こうに見える山から、それにつながる棚田、平地の水田、畑と広がっている。私たちは、この5月に東京の子どもたちが田植えをした棚田にも行ってみた。夕景の中、冬枯れの耕地がどこまでも広がっている。山の上に十三夜の月が白くかかっていた。
 小一時間も歩いた後、私とNさんの2人はH家のお墓をお参りすることにした。H家では、今年初めにおばあちゃんが亡くなっていた。そのお墓をお参りしたかった。杉林の一角を切り開いた墓所に50基程の墓が並んでいた。殆どがH家一族の墓である。H家はこの辺一帯の大地主だったらしい。私たちは、その墓の間を本家のお墓を探して歩いたが、確証が得られず、墓全体に手を合わせて帰路に着いた。すでに夕闇が迫っていた。

◆ドームハウスでの宴
 ドームハウスに入ると、囲炉裏に大きな墨が何段にも重なっていた。私とNさん、K元教授の3人がその囲炉裏の火を囲んで座った。まずビールで乾杯し、次々と運ばれて来る奥さんの手料理を頂く。新鮮な野菜のサラダや煮物など、無農薬の自然食である。奥さんも座って話に加わり、私たちはワインに切り替えてよもやま話やふるさと村の構想について話に花を咲かせた。この間に炭火は次第に赤くなり勢いを増し、部屋はエアコンを消しても充分暖かくなっていた。
 その時、私の頭に一瞬だけ、この囲炉裏の炭火は大丈夫かという考えがよぎったのは事実である。でもこのドームハウスは天井が3メートル以上もありそうだし、直径も10メートルはあるだろう。この広い空間なら酸素不足は起きないのではないか。それに、この囲炉裏は今日が初めてではないのだろうし。そう考えたのは時間にして僅かに数秒だったと思う。私はその不安を口に出すこともなく、再びおいしい料理と楽しい会話に戻って行った。一本目のワインはたちまち空になり、奥さんが二本目のワインを持って来た。(つづく)
2013年の夏の終わりに 13.8.28
 暑い夏も、ようやく一段落する気配。考えてみれば、68歳の夏と言うのも生涯に一度きりしかないわけで、若い頃のような鮮明な記憶は残らないまでも、何がしかはあったには違いない。前回の「レイヤー化する私」に書いたように、様々な出来事は日々起きているわけだが、それ以外の日常でこの夏の記憶に残るようなことをまとめておきたい。いずれも、ごく身の回りのささやかな事ではあるが、一度きりの68歳の夏の出来事には違いない。

◆息子の部屋を第2の書斎に
  猛暑に突入した8月始め、4日ほどかかって独立した時のままになっていた息子の部屋を整理した。私の名ばかりの書斎はエアコンもないので、エアコンがついて物置のようになっていた息子の部屋に目をつけたのだ。まず便利屋を呼んで、息子が置いて行った家具や照明器具を引きとってもらい、大量のマンガや本をブックオフに持ち込み、古紙や古雑誌をまとめて町内会の回収に出した。
 ついで、ネットで大型の本棚を探して発注。届いた所で汗だくになりながら組み立てた。私の狭い書斎に積み上がっていた本をこちらに移動させ、息子の机の上を整理したら、ようやくエアコンが効く第2の書斎に変身した。へとへとになったが、続く猛暑を何とかこのエアコンの書斎でしのぎながらHPのコラムを4本書き上げたわけである。もっとも、それも飽きて来るといつものように歩いて3分のサイゼリヤに行ってコーヒーを飲みながら切り抜いた新聞や本を読む。その意味でサイゼリヤは私の第3の書斎と言えるかもしれない。

◆戸袋の上で、埼玉の県鳥「しらこばと」がヒナをかえす
 去年、我が家の戸袋の上の狭いスペースに、埼玉県の県鳥で越谷市の市の鳥にもなっている「しらこばと」が巣を作ろうとした。せっせと小枝を運んで並べていたが、何しろ狭すぎて枝がすぐに落ちてしまう。そこで、底の浅い四角の鉢を乗せてやったのだが、警戒したのかすぐにいなくなってしまった。ところが、その鉢をそのままにしていたら今年はそこに「しらこばと」が巣を作ったのである。
 場所的には、目の前に金木犀の木があって目隠しになっているのがいいようだ。小枝を運び入れて2羽で仲良く並んでいる。雨戸の開け閉めで音が響いても慣れたのかぴくりとも動かない。母鳥はこの暑さの中でも辛抱強くじっと座りながら腹の下の卵を温めているのだろう。と思ったら、3週間も経った頃には2つの小さな頭が巣から外を覗いていた。

 さらに10日もすると、2羽の小鳥のうち成長の早かった方が近くの枝に飛び移った。続いてもう一羽も。そうして母親が餌を運んで来るのをじっと待つという日が続いたら、もう連れ立って近所を飛び回るようになった。それでも暫くは、親から口移しで餌を貰っていた。うちのカミサンは、「しらこばと」の声にすっかり詳しくなり、今は子どもが親を呼んでいるだの、あれは親が子供を探しているだのと解説するようになった。空の巣は今でも戸袋の上に乗っているが、来年はこれをどうするか、相談しているところである。

◆2回の小旅行。箱根キャンプ場とふるさと村
 8月は2回ほど家を空けた。一つは、息子家族が箱根のキャンプ場に泊まると言うのでお付き合い。小学4年と2年の孫娘と遊覧船に乗って、ふれあい動物園でいろんな動物に触って、キャンプ村で一緒にバーベキュー。息子一家はキャンプ場のロッジに泊まったが、私たちは近くの温泉ホテルに。翌日は箱根ガラスの森でペンダント作りを体験した。
 遊覧船の中では、小4の孫娘が夏休みの自由研究のレポートを見て貰いたいと言うので、彼女の話を聞きながら文章を見てあげた。「家の2階は1階よりなぜ暑いのか」というのが彼女の研究テーマ。パソコンを上手に使って実験の写真入りのレポートにしている。実験には両親も立ち会い、小さな熱気球のようなものを作って暑い気体が軽いことを調べている。それにしても、昔、遊んでやった息子が、今度は自分たちの子どもを色々工夫して遊ばせているのを見て、「一世代分(およそ30年)の時の流れ」とはこういうものかと感じたことだった。

 もう一度は、先輩と久しぶりに那珂川上流のふるさと村へ。先輩は今、そこにある栗の大木を利用して、樹上4メートルの高さに作る本格的なツリーハウスに夢中。この暑さの中、仲間数人と命綱をつけながら、ツリーハウスの土台作りに奮闘していた。先輩のことなので、設計はまさに本格的。7畳ほどの土台の上に4畳半ほどの家が出来る。家の中にはソファーを置き、バーカウンターまで出来る予定。周囲は眼下に那珂川の清流を眺めるベランダになる。
 高所恐怖症の私は、地上から眺めているだけ。自然食で一杯やりながら、受け入れ農家の奥さんから、現代の話とは思えないような田舎の噂話をたっぷり聞いて帰ってきた。このツリーハウスは数カ月で完成するという。それと同時に、古い納屋を改造して自然食の体験教室を開いたり、講演をしたりの様々な活動も考えられているらしい。そうするとまた訪ねる楽しみが出来る。

◆「番組企画と構成案」。大学生の成績つけ
 8月の半ばからは第2の書斎と第3の書斎を行き来しながら、大学生たちの「ドキュメンタリー構成」のリポート(番組企画と構成案)を採点した。学生は260人以上もいるので、さすがに企画はびっくりするほど多彩。若者のネットでの犯罪自慢、若者の選挙意識、ある地域の復興計画、ネトゲ廃人問題、アニメの聖地巡礼、中国の小役人(中国の学生もいる)の学生らしい関心事から、具体的ですぐにも番組化できそうなものまで。
 学生の視線で作った番組を見てみたいけど、これはこれで難しい。私が関係している番組プロダクションの社長に見せたら、「面白いのがあるねぇ」と言ってくれた。まあ、こういう素直な企画が通らないテレビ局の現状も問題と言えば問題だけれど、もっと気軽にネットにアップするような手立てがないものか、とも思う。宿題として考えてみよう。

 というわけで、私の暑い夏もようやく終わろうとしている。9月に入ったら、「コラム」に書いたように、10日間ほど涼しいカナダに出かける。その報告も9月下旬には出来るだろうと思うが、それまでは暫時更新をお休みにしたい。
定年後3年、レイヤー化する私 13.7.27
 定年で、世間一般に言う「サラリーマン生活」から完全に足を洗って3年になる。退職前は、あり余る時間をどう使えばいいかとも考えたが、お陰さまで健康を維持しながら、(後述するように)考えようによっては、むしろサラリーマン晩年の頃より忙しく暮らしている。何しろ都内に出かける場合もすべて電車と歩き。せっせと数か所を移動すると1日で歩数計が1万歩を超えることもしばしばだ。
 ただ、この生活も毎日の業務(仕事らしきもの)に追われるようになると、どこかで、残り時間が少ないのにこれでいいのだろうか、本当にやりたいこと、やるべきことがやれているのだろうか、などと反省したりもする。そういうわけで、会社の仕事だけを考えていれば良かったサラリーマン時代に比べて、定年後は何かと自分の生活のあり方を点検する機会が多くなったように思う。そんな最近、「なるほど。こういう観点から今の生活を振り返って見るのも有りかもしれないなあ」と思わせた本に出会った。自分に合っているかどうかはともかく、定年後3年の今の生活をその観点からちょっと眺めてみようと思う。

◆「レイヤー化する世界」、「レイヤー化する個人」
 その本、「レイヤー化する世界」(佐々木俊尚)によれば、今世界は国境を超えて広がるインターネットの「場(或いはその所有者たち)」によって支配されつつある。その「場」は、従来の産業のあり方はもちろん、国家の構造までを解体しながら、どこまでも広がって行く。バラバラになった産業や国家の要素が国境や会社組織を超えて外へ流れ出し、「場」と結び付いた超国籍企業(多国籍企業)に抱きとられながら、その「場」の上に幾つものレイヤー(層)になって積み重なって行く
 モノや情報がその「場」の上を自由に行き来するために、例えばアップルやグーグルのようなアメリカの会社でも、生産拠点は中国などの国外にあり、国外で作ったものが母国を通らずに海外に売られて行く。雇用は国内より海外の方が圧倒的に多く、しかも利益は税金の低い「タックス・ヘイブン(税金の避難所)」に貯め込まれて企業が母国に払う法人税はほんのわずかだ。「場」の上を層になってどこまでも広がって行く超国籍企業群は、国民国家のあり方や民主主義の制度まで壊して行く

 こうした見方が的確かどうかは別として、これまでウチとソトを分けていた国境や会社組織が崩れ出す。そして、この傾向は個人のあり方まで変えて行く。会社がそうなって行けば個人もまた、会社のウチとソトの枠を超えて「場」の上を自由に広がって行く。そうした個人の上には、個人の様々なレイヤーが層になって積み重なって行く。例えば、民族の、職業の、出身地の、趣味の、恋愛の、健康状態の、等の様々なレイヤーとして。それは、従来のように会社や組織の枠組みで仕切られておらず、「場」の上に広がって、場合によっては世界のレイヤーともつながって行く。
 問題は、今自分の上にどのようなレイヤー(層)があるのか。そして、そのレイヤーの重なりは、自己像(アイデンティティ)とどのような関りを持つのか、ということだ。これまでなら、自己像は会社や国によって規定されていた。サラリーマンは会社の中で自己像を完結していれば、それで事足りていた。しかし、レイヤーがそんなところを超えて広がるとすれば、どう自己像を規定したらいいのか、というような内容である。

◆私と言う人間の現時点でのレイヤー、それを通してみる自己像
 なんか、分かったようで分からない話だが、ある「場」の上に自分が幾つものレイヤーになって重なっている、というのは今の自分にとって結構分かりやすい“たとえ”のようにも思う。その広がりは別として、定年後3年経った自分のレイヤーを数え上げてみると、これがサラリーマン時代には考えられない位多様で、結構な数にもなるからだ。
 例えば。仕事的なもの(と言っても毎日ではないが)で言えば、ある独立行政法人でのネット動画サービスの編集長、テレビ番組制作会社での企画会議のとりまとめ役、メディア論を教える大学講師。それとボランティア的なものだが、親睦団体のようなある学会の副会長、ある官庁の映像メディアの審査員、カナダ観光局にお世話になっているブロガー。また時々訪ねている構想段階の「ふるさと村」、それに地元とのお付き合いもということでお寺の「朝の集い」や、「地元を考える」的なお付き合いもある。

 この他、レイヤーとしては人並みに家族や出身校、元の会社の人たちとの会があり、もう生活の一部になっている「メディアの風」での発信がある。これらは、重なり合いながらもそれぞれ別の広がりを持っているが、こうして見ると、なるほど、もう自分には、かつてのサラリーマン時代のような枠は何もないのだと気付かされる。
 しかも、レイヤーはこの1、2年でぐっと減るだろうし、また新しいレイヤーが加わって来るかもしれない。問題は、その時の自己像をどうイメージするかだが、「レイヤー化する世界」によれば、まず一枚一枚の層を半透明のようにイメージする。それに、上から光を当てると幾重にも重なった層の中に、プリズムの光を集めたような光の帯が出来る。それが自己像だと言うのである。

◆先輩からの言葉。存分に、自由に遊ぶ
 そしてまた、「こうした時代に個人は常にその光の帯の位置を確かめること。その絶え間ない確認作業の中でこそ、自分の立ち位置への愛着が生まれ、自分とレイヤーごとにつながっている他人に対するいとおしさが生まれて来る」のだそうだ。そう言われて見ると、自分がこの何年か、自分の立ち位置を確認しようとあれこれ模索して来たことの意味が分かるような気がする。
 時には、そのレイヤーが自分の守備範囲を超えているかもしれないという疑問、あるいは幾つものレイヤーに追われて本当にやりたいレイヤー(例えば「メディアの風」の発信や絵を描くこと)に専念出来ない悩みなども感じて来た。しかし、様々なレイヤーを通して収束する光の帯にそれほど大きな違和感がないようなら、もう少しそれぞれのレイヤーでの業務や、人々とのお付き合い、そして、そこから見えて来る世界を楽しんでもいいかもしれない、とも思う。既にないはずの組織的な枠などから自由に、創造的に

 定年後3年経つが、この間、ある先輩から定年を機に頂いたハガキの言葉にずっと肯いてきた。そこにはこう書いてある。
 『定年のお知らせをいただきましたが、人生、これからが一番おもしろいのです。現役時代に見えていなかったものが、鮮明に見えて来るのは、実にたのしいことです。(学生、サラリーマンに次いで)人生の第三ステージを、存分に、自由に、遊ぶことをおすすめします』
 先輩は有名人で、私などよりはるかに多く広いレイヤーの中で、現在も元気に創造的に生きておられる。その先輩の達筆のハガキは、今も写真立てに入れて机の前に置いてある。言われるように、やはり定年になってみないと分からないことが実に多いことに今更ながら気づく毎日だ。
最近のフェースブックから 13.6.16
 今日は6月の第3日曜日。朝6時から近所のお寺で行われる「朝の集い」に参加した。本堂に近在の人々25人程が集まり、住職についてお経をあげ、法話を聞き、座禅をする。その後、皆でおかゆを頂く。ここに越して来た時、看板に「どなたでもご自由に参加下さい」と書いてあるのを見て出るようになった。新年の護摩焚きも含めて、生活のリズムのようになっていて、気がつくともう15年以上続いている。

◆巡礼中のちょっといい話など
 食事が終ると毎回、誰かのちょっといい話を聞いて帰る。今日は、75歳になるIさんの「会津三十三観音札所めぐり」で体験した話を聞いた。四国八十八箇所札所巡りを5回もやり遂げたIさんは、秩父や佐渡の札所めぐりも経験した大ベテラン。いつも寝袋持参で、旅の半分は野宿するという。しかし、6月初旬に行った会津若松は猛暑で、初日、2つ目の寺に向かっている途中で、気分が悪くなり熱中症になったらしい。倒れそうになって理髪店に入ったところ、そこの人が親切であれこれ世話をしてくれた。
 探してくれた近くの宿に車で連れて行ってもらい、さらに医者で点滴をしてもらってやっと元気になった。以後は、紹介された農家兼民宿に厄介になりながら、朝は元気に農作業を手伝い、昼は民宿のおばさんに車でお寺まで送ってもらうという日々を過ごして、8日間で三十三か所を巡り終わったという。多くの人から受けた親切の数々をしんみりと話してくれた。

 すがすがしい気持ちになって帰宅すると、子どもたちから父の日のプレゼントが届いていた。この歳になると、いつ何があるか分からない、という気持ちも強いけれど、今のところ、あれやこれやで日常生活は平凡にもつつがなく続いている。ありがたいと思う一方で、ちゃんと思考に集中しないといけないなあという気持ちにも駆られる。ちょっと、気を緩めると書かなければならないテーマがするりと手の間から抜け落ちてしまって、いつの間にか時間だけが過ぎて行く。これが老境の日常というものなのだろうか。
 というわけで前置きが長くなったが、書きあぐねている反省の意味も込めて、このところフェースブック(FB)に書きつづって来た近況を幾つか抜き出しておきたい。もっとも書きだしてみるととりとめがなく、こういうことを書いているから、まとまった思考が出来ないのかと反省もするが、FBを開くたび、近況欄に「今どんな気持ち?」と出るので、ついつい書いてしまう。

◆久しぶりに、絵?のようなもの
 先日、BS朝日でスペイン在住の画家、堀越千秋氏のドキュメンタリーをみて、忘れていた絵心を刺激された。人物の魅力もさることながら、彼の絵をネットで見るとその色彩の美しさにほれぼれする。そこで、画用紙に描いていた下書きに色をつけてみることにした。これまでの水彩(アクリルガッシュ)は時間がかかるので、近所の画材屋でパステル絵の具を買って来て2時間ほどで色をつけてみた。淡い色にしかならないパステルは初めて。FBには一度、途中経過を載せたが、その続報として。
 (6月11日)『おはようございます。起きぬけにちょっと手を入れてみましたが、違いはでているでしょうか。ボールペンの方は、寝る前の布団の上でノートに。それに遊水地の立ち葵。みんな夢に出てきそう』










◆電車の中で席を譲られた話
 (6月8日)『昨日、都内に出かけて帰宅する夕方の電車の中で。読みかけの本を読みたいなあと思っていると、目の前の若い女性に席を譲られました。びっくりして「まだ年寄りではないけど」と言うと、「でも、いいです」というので「ありがとう」と言って座らせてもらった。他人から席を譲られるのは初めての経験。帰宅後さっそく家人に報告すると、「あなたは十分年寄りよ」と言われて重ねてショック。昨日は都内3か所をめぐって10500歩も歩いたのに』

 これには、同年配の人々からいろいろ書き込みがあった。「譲られたらショックだろうと思って、そういう事態にならないように極力避けています」という人から、「Aさん(私のこと)が他のお年寄りに席を譲れますか、どうですか、譲れなくなっていませんか。席を譲られたら、相手がびっくりするでしょうね」というのまで。
 それに対して、『私はまだ譲る気満々ですよ。でも最近、優先席が空いているときには座るようになってしまって。以前は座らなかったのにね。だいたい若者が座っているんだからと。この前、優先席で本を読んでいて気が付かずに、降りるときに(目の前ではなかったけれど、80歳くらいの)お年寄りが立っているのに気が付いて。情けない。。。』――最近、心身の色々な点で分岐点に差し掛かっているような気はする。

◆ちょっぴりクリエイティブな生活?
 定年退職から4年、自由の身になってずいぶん経った感じがするが、縁があって大学の授業でメディアについて教えたり、テレビの制作会社の企画会議に参加したりしている。また僅かな回数に減ってしまったが、ネットで伝える科学ニュースの編集長や、ある学会のお世話などもしている。これらは、これまでの仕事の緩やかな延長のようなものであり、クリエイティブと言えなくもない日常だが、果たして本当のところはどうなのだろうか。

 (6月12日)『今日は、八王子の大学で「ドキュメンタリー構成」の授業。と言っても、NHKの敏腕プロデューサーを招いての授業です。「社会派ドキュメンタリーの要点」というテーマですが、原発事故のような社会的に影響の大きいドキュメンタリーを作る場合の留意点などについて。些細な間違いが命取りになるような、胃が痛くなるような番組も作らなければならない訳で。
 私の方は、いま原発がメルトダウンするまでの詳細なインサイドストーリーを記録した「カウントダウン・メルトダウン(上下)」を読書中。下巻の終わり近くまで来ました。手元のもう一冊「死の淵を見た男」を読んで、福島原発事故の原点を再認識しておきたいと思っています』

 この授業では、聞いている私の方も久しく忘れていた(社会的にインパクトの大きい)番組を作る時の緊張感を思い出した。この重圧に耐えながら原発シリーズを作り続けている制作陣にエールを送りたいと思う。250人程の生徒たちも熱心に聞いていた。FB中の「カウントダウン・メルトダウン(上下)」は、読み終わり、現在は「死の淵を見た男」を読書中。いずれ、これらの本が問題提起している日本中枢の劣化について書いて見たい。

 (6月15日)『昨日の番組企画会議では、若い世代のディレクターさんたちの企画を議論。中にロシア・バレエの企画を出してきた若い女性ディレクターがいて「私も16歳までボリショイバレーで勉強してました」というのでびっくり。「私もバレエをやってました」などと言う人や舞台に詳しいPDなどもいて、面白いディレクター集団だなあ、と感心しながら議論しました。企画が日の目を見るといいですね。その企画会議のメインテーマは「夢」。いくつになっても、夢は人の生き方を決める大事な要素なんですね』

 朝にこれを書いた日には、こういうこともあった。
 『今日のN響「スターバト・マーテル」(ロッシーニ)は、十字架に磔になったキリストの傍らで嘆き悲しむ聖母マリアの心情を歌った楽曲。2人のソプラノ、テノール、バス、それに東京混声合唱団の迫力ある合唱の全10曲。初めて聞く曲でしたが、前の座席の親父さんの頭が邪魔だったので、目をつむってステンドグラスの大聖堂の中にいるかのように想像しながら聞いていたのが良かったのかも。最近になく感動しました。その後は、北千住の居酒屋で。なんだかんだ言ってもこれが楽しい。庶民ですねぇ』

◆自分にとってFBとは?
 多くのFBも普段は、トリビアルな近況報告で埋まっている。それを眺めているのもいいけれど、時々飽き足らなくなって、FBの空間に異質で誰も見向きもしないような、ちょっとハードなものを投げ込んで見たくなる。そうすると、ただでさえ少ない「いいね」ボタンが、余計に少なくなるので、FB空間の特徴をかいま見るような気がする。

 (6月6日)『憲法9条について。現在のような国際情勢の中で相手国の平和主義に頼るなどは幻想だ、という考えと、核も含めてこれだけ武器が進んだ時代に武力で問題が解決できるという考えの方が幻想だ、という意見。
 同じく、原発について。エネルギー資源がない日本が原発なしでも経済成長を図れるというのは、幻想だという意見と、後始末の見通しもないまま、危険で、結局高くつく原発を維持することで成長を図るなどというこそ幻想だ、という意見。どちらも一理あるように見えますが、結局、何を最も重視するかという価値観が問われてくる問題だろうと思います。それがどう違うのか、それを言うために、今も膨大な言葉が生み出されているのだと思います。私は後者の意見ですが』


 以前は、FBに次に「日々のコラム」に書くエッセンスの芽出しを書いていたこともあったが、今はない。どうも、他人はいざ知らず、自分にとってFBは、明日の試験勉強のために読まなければならない教科書を前にして、鉛筆を削ったり、時に小説を読みだしたりするのと、あまり違わない状況になっている気もする。それほど真剣に考えるようなことではないけれど。
時代の目撃者として 13.5.26
 以前にも書いたが、つい先日68歳の誕生日を迎えて父の年齢を越えることが出来た。素直に感謝したいと思う。同時に、定年後60歳の還暦を迎えた時から始めたこの「メディアの風」も満8年が過ぎ、9年目に入った。当時の「開局宣言」もあるように、一市民として、そして少しはジャーナリストとして、その都度考えるべきテーマについて書いて来た。この時代を生きるための、自分にとっての「道しるべ」のようなものである。
 扱って来たテーマは、日本の政治、経済、原発事故、メディア、戦争と平和、地球環境、尖閣問題、中国やアメリカ、憲法問題などなど。自分の手に余るような大きなテーマもあったが、考えてみれば、これらは自分が生きている時代だけでなく、子供や孫の世代の将来にとっても大きな影響を持つテーマでもある。特にそれを専門に勉強したわけでもなかったが、新聞、テレビ、雑誌、本、ネット情報などを手掛かりに、素人なりに考えたことを書いて来た。時々読み返すこともあるが、(いい悪いは別にして)余りぶれずに書いて来たように思う。

◆個々のテーマを超えて、大きく何かが動き出している
 特に2011年3月の大震災以来、原発事故については将来世代に関るテーマとして重点的に考えて来た(トップ頁のPDF「原発事故を見つめた日々」)。そして、このところの尖閣問題、憲法改正の動きや歴史認識、安倍政権が賭けに出た経済政策である。その一方で、自分にもよく分からないのだが、いま時代は様々なテーマを巻き込みながら、勢いを増して滔々と一つの方向に流れ出した感じがしてならない。
 それは、野田民主党に始まり、安倍自民党で勢いを増しつつある。その行きつく先がどういうものになるのか、私には分からない。しかし、個々のテーマを取り上げ、個々のテーマについての自分の考えをまとめるのに追われている間に、気がついてみれば、その大きな流れは私などの小さな力ではどうにもならない位に大きく動き出していたような感じがする。

 この3年ほど、日本が抱える課題を整理しては書いて来た。少子高齢化問題、財政赤字問題、地方の活性化、官僚制度改革。さらにはそれらの課題を解決するための「課題解決型政治」とそれに欠かせない政策立案能力などについて提案して来た。震災後は、危機に強い柔構造で分散型の日本についても。
 また目の前には、原子力規制委員会は果たしてどこまで頑張れるのか。参院選挙はどうなるのか。野党は自民党に対して有効な対抗軸を作れるのか。米中関係の中で日本の立場はどうなるのか。憲法改正問題はどう動いて行くのか。東北シリーズの宿題としての復興計画はどうあるべきか。などなど、考えるべき、書くべきテーマが山積している。

 しかし、こうした個々のテーマを書いて行く一方で、その(見えない)大きな流れを想像すると、自分が書いていることなどとてもじゃないが、屁のツッパリにもならないような無力感も感じる。その流れははっきりとは見えないけれど、日本は確かに時代の転換点に差し掛かっているようにも感じる。このままの流れで行った場合、日本はどういう国になって行くのだろうか。一体、この動きをどのように捉えたらいいのだろうか。その一つの仮説のような論考が、内田樹(たつる)が書いた「壊れゆく日本という国」(朝日オピニオン5/8)では、ないだろうか。この論考に私は様々な意味で衝撃を受けた。

◆内田樹(たつる)の「壊れゆく日本という国」
 内田によれば、今私たちの目の前で展開しているのは「国民国家としての日本」が解体過程に入ったということである。国民国家とは平たく言えば、国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である。こうした国民への「身びいき」の上に成り立つ国が、今や「国民以外のものの利害」を優先するようになってきた、という。
 「国民以外のものの利害」とは、端的に言えばグローバル企業のことである。このグローバル企業は、国境や国民生活などはお構いなしに、自分の利益を追求する。本来は企業が負担すべき電力料金も人材育成も環境保護のコストも国におしつけ(コストの外部化)、あるいは円安のような自分にとって有利な政策を国民に強いつつ、自分たちはあくなき利益を吸い上げて行く

 国家(政府)は、「日本企業が強くなるために」という名目のために、グローバル企業のために様々な費用を負担して行く。そこでは、国籍を越えたグローバル企業が得る利益が大きくなりこそすれ、日本国民の生活は視野に入らない。それが、「企業の利益は、国の利益」の名目で国民に犠牲を強いる詭弁であり、政権与党が後押しする政策である。それが今進行している、国民国家の解体過程である。
 しかも、その本質的な虚偽性を糊塗するためには、過剰な「国民的一体感」が必要になる。サムスンに勝つために、LG(中国)やアップルに勝つために、一億心を合わせて(実態はグローバル化した)日本企業を支援する。そのためにはナショナリズムにも火をつけなければならない。グローバル化とナショナリズムはコインの裏表なのだという。国が国民よりもグローバル企業に奉仕するこうしたあり方は、アベノミクスで誰(グローバル企業と海外ヘッジファンド)が儲けているかを見れば分かることだろう。

◆グローバル化が先行したアメリカで起きていること
 内田がいうような、グローバル化によるこうした世界の構造変化は、実はアメリカで先行して起きている。国家の富は、グローバル企業に置き換えられて、最後にはアメリカの超富裕層の懐に入る仕組みになっている。その結果、どうなるのかは、内田のこうした論考の基礎になっていると思われるノーベル経済学賞を受賞したジョゼフ・スティグリッツの本に詳しい。
 彼の本「世界の99%を貧困にする経済」、「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」によれば、この30年、企業のグローバル化が進んだアメリカでは、上位1%の富裕層がアメリカ全体の富の30%弱を占めるまでになっている。超格差社会が進行している。その結果、アメリカのような国で飢えに苦しむ貧困層が増え、病気でも医者にかかれない状況になっている。(「貧困大国アメリカ」堤未果)

 内田は、今は「グローバル企業が君に何をしてくれるかではなく、グローバル企業のために君が何をできるかを問いたまえ」と企業が国や国民を脅す時代になっている、という。そして、日本のメディアがこの(グローバル企業の)詭弁を無批判に垂れ流していることにいつも驚愕する、とまで書いている。いわく「国民国家の末期を、官僚もメディアもうれしげに見ている」というわけである。
 アメリカにおけるグローバル化による社会変化は、スティグリッツによって詳細に検証されているが、仮に、同じような流れが今の日本にも起き始めているとすれば、これは、私などには、とても立ち向かえるものではない。その時、自分にできることは、この大転換の時代にあって、せめて「時代の目撃者」になる位のことでしかないのではないか。

◆時代の目撃者として
 (日本におけるグローバル化の正体については、勉強しながら書いて行くのだろうが)出来ることならば、自分なりの言葉で「この時代の変化」の意味を考えて行きたいとは思う。思えば、8年前のコラムの第一回目に(今読んで見ると大分稚拙ではあるが)「言葉の持つ力について」を書いた。稚拙ではあるが、この混とんとして、しかも大きな変化が起きようとしている現在こそ、この初心を思い起こしてみるべきかもしれない。70歳まであと2年、体力気力、そして頼みの頭の方は持つだろうか。