日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

脱原発・「無力感」を乗り越えて(2) 14.5.1

 日本の主要な体制が次々と原発推進に塗り変わる中で、脱原発を願う多くの国民の声はどこに向かうのか。「無力感」に捉われずに、脱原発を前に進めていくにはどうしたらいいのか。前回の終わりに、「それは多分、日本が破滅しかけた福島(3.11)の原点に常に立ち返ること。自分たちが生活する足元の現実を直視し、そこから日本の現状を問いなおしていくこと。そして、そうした思いを共有する人々同士の連携を強めて行くことなのだろうと思う」と書いたが、そのことをもう少し詳しく書いておきたい。

◆東海第二原発も危機一髪だった
 前東海村村長の村上達也氏はJCO臨界事故(1999年)の後、「もう原発の旗を振らない」と表明していたが、さらに村長として脱原発の意志を固めたのは、3.11の時の東海第二原発の“ゾッとして凍りつくような”状況を後になって知らされたからだと言う。ここでは2007年に茨城県が予想津波を計算し直したところ、防潮堤の高さが足りないと分かり、震災の1年半前から嵩(かさ)上げ工事に取り掛かかっていたのが幸いした。
 しかも、工事が完成したのは震災の僅か2日前だった。以前は3.3メートルの高さしかなかった防潮堤は6.1メートルに嵩上げされ、そこに5.4メートルの津波がやって来た。それでも押し寄せた津波は、まだ完全に塞ぎきれていなかった工事用の穴から侵入し、海水ポンプ3台を水没させ(うち2台は水深が浅かったので復旧)、非常用電源1台を停止させた。

 地震で外部電源を失う中、東海第二は残った非常用電源をやりくりして170回も圧力逃し弁を操作し、最終的には外部電源の復旧が間にあってようやく3日半後に冷温停止した。工事の完成がもう少し遅れていたら、あるいは津波があと70センチ以上高かったら、東海第二原発も福島と同じメルトダウンの悪夢に見舞われていたかもしれない。その時、30キロ圏内100万人の大避難は果たして可能だっただろうか。まさに危機一髪、天佑(天の助け)だったと、村上氏は言う。
 3.11の時は、同じような状況が東北の女川原発(宮城県)でも、福島第二原発でもあった。特に、海水ポンプと非常用電源が海水に没した福島第二原発では、3系統の外部送電線のうち1系統が生き残ったのと、たまたま金曜日で構内に2000人の作業員がいたのが幸いして、4日後に辛うじて冷温停止に持ち込めた(「カウントダウン・メルトダウン(下)」に詳しい)。所長は後に「福島第一と同じ事態になるまで紙一重だった」と証言している。

◆神の御加護を忘れる人々
 原子炉3基がメルトダウンした福島第一が何とか現状で止まっているのも、福島第二や東海第二がメルトダウンを免れたのも幸運としか言いようがない。今の状況が如何に薄氷の上に乗った危ういものか。福島事故の対応に当たった菅元首相も、「まさに神の御加護があったのだ」と述懐しているが、その意味で日本の原発は今、(徹底的な反省を迫られている)執行猶予期間中だとも言える。
 それなのに、その幸運の中身を知ろうとせず、福島原発で何が起きたのか見ようとしない人々がいる。事故の徹底的な解明を進めることもなく、「福島第一は津波さえ防げていれば起こらなかった。事故を経験した日本の原発は世界一安全だ」などと言う政治家、官僚、電力業界、技術者、評論家がいる。そのような驕った考えで原発の再稼働を進めるのは、あの時の天佑を忘れた罰あたりの行為と言えないだろうか。

 前述の「エネルギー基本計画」(4/11閣議決定)の中でもそうだが、彼らは原発の必要性についていろいろな理由を上げている。@エネルギーの安全保障のためにも化石燃料に頼らないエネルギーが必要、A原発が止まっているために年間3.6兆円の国富が海外に流出している、B安い原発を動かさなければ電力料金は値上げせざるを得ない、C二酸化炭素の削減にも原発は有力、などなどである。
 しかし、3.6兆円の国富流出説については、天然ガスの国際的な高騰とアベノミクスによる円安によるもので、「貿易赤字を原発停止に絡めるのは筋違い」とたしなめられている(毎日2/2)。原発コストが安いというのも既に神話の領域に入っている。(エネルギーの安全保障やCO2削減から言っても)原発ゼロで電力が足りている今こそ、ここを起点にスマートな節電システムを完璧に作り上げ、さらに自然エネルギーや石炭ガス化の技術で電力源の多様化を図るべきなのである。

◆NHKスペシャル「廃炉への道」シリーズを見て
 言うまでもなく、政府官僚のこうした「経済的」論点は、あくまで「原発が事故を起こさない」という仮定に立った理由であり、事故時の破滅的なリスクを考えれば成り立たないものばかりだ。その意味で、新しく始まったNスペのシリーズ「廃炉への道」も興味深い番組だった。これも、原発はひとたび事故が起これば際限のない負担を未来世代に負わせるということを如実に伝えていた。
 その第1回の「放射能“封じ込め” 果てしなき闘い」。今後40年にわたる廃炉の工程表が出て来るが、(私の印象から言えば)これが予定通りうまくいくとはとても思えない。圧力容器を溶かし格納容器にまで溶け落ちた「燃料デブリ」(*)を取り出す作業は、スリーマイル原発の担当者が言うように「福島の場合は人知を超えている」のではないかと思える。高レベル放射線で人が入れない建屋内は、次々と繰り出す新型ロボットの墓場になって行くだろう。*金属を溶かしこんで固まった高温の核燃料。それは、一説には格納容器さえ突き抜けていると言われる。

 福島の廃炉作業がうまく行かない限り、これから半世紀以上にわたって日本は放射能汚染の拡大に怯え、際限のない対策費をつぎ込み続けることになる。現在、電力会社やメーカーは、国際廃炉研究開発機構(IRID)を作って廃炉方法の研究を行っているが、その難しさを考えると、日本は工程表に捉われずに、(原子炉を鉛や鈴のセメントで石棺にしてしまうという大胆な案も含めて)あらゆる可能性を検討して行かなければならないだろう。
 同時に思うのは、もう日本には(それが如何に軽微な事故であっても)別の原発事故に対応する余力はないということである。国や電力会社の能力、作業員の確保や資金などから見ても、日本は福島だけで手一杯だということ。従って、原発再稼働のために、いくら過酷事故対策や避難計画を作っても、それは既に「いざという時に機能しない計画、絵に描いた餅」になっているということである。Nスペ「廃炉への道」は、その現実も教えてくれる。

◆脱原発勢力の再結集を
 国がこうした現実を無視し、経済や国力、安全保障といった“地(住民生活)に足のつかない議論”で原発の必要性を論じるのと違って、自治体首長たちは直接的に住民の生命・安全に関っているだけに、原発問題に敏感にならざるを得ない。村上達也氏が世話人の一人をしている脱原発をめざす首長会議(全国39都道府県の自治体の首長94名、元職27名含む)は、4月26日に小田原市で年次大会を開き、@新エネルギー基本計画の抜本的見直しを求める、A「実効的な避難計画・態勢が確保されなければ原発再稼働せず」の確認を求める、B九州電力・川内原発の再稼働に反対する、を決議した。

 一方の細川・小泉両氏は、一般社団法人「自然エネルギー推進会議」を設立して、5月7日に設立総会(全国町村会館)を開く。これには、梅原猛(哲学者)、瀬戸内寂聴、市川猿之助、田中優子、吉永小百合などが参加すると言うが、(以前にも書いたように)発信力のある文化人と戦略家のリーダーが手を組み、そこに国民、特に若い世代が結集する形態が理想だ。地震国・日本にとって、脱原発は既に理論的にはこれしか選択肢がないという政策であり、これから鋭意、現実的なものに育てて行くべき政策である。会議の全容が分かれば、また新たな脱原発の動きが始まるかもしれない。その行方に期待したい。

脱原発・「無力感」を乗り越えて(1) 14.4.25

 先日、友人と2人で茨城県東海村に村上達也氏(前村長)を訪ねた。友人が製作中の映画のインタビューに同行したものだが、村上氏は2012年4月に設立された「脱原発をめざす首長会議」の世話人の一人。運転開始から36年の老朽化した東海第二原発を抱える地元首長として、村長時代から「脱原発」を主張して来た。彼は私の高校の先輩で、1999年に東海村で起きたJCO臨界事故の時には、国や県の対応を待たずに独自に住民の避難に踏み切った人でもある。
 その村上氏は、原発を巡る今の状況について「原発推進の陣営に“危機バネ”が働いているのではないか」という。つまり、3.11の大震災で脱原発の流れが一気に進んだことに対して、原発推進側の危機感が高まり、以前よりさらに強固な原子力ムラの再結集が行われている、というのである。そして、それは何が何でも原発を続けるという政官財の焦りにも似た動きになって現れている。

 福島原発事故の教訓を生かさず、6割の国民が原発再稼働に反対(共同通信調査)している現状を無視して、着々と原発推進に舵を切る日本の原子力体制。詳しい話は後段に触れるが、村上氏は、(安倍政権のもとで進行する)原発推進の最近の動きを見て、脱原発を願う国民の間に「無力感」が広がることを憂慮していた。今の状況を前に、この「無力感」を乗り越えて行くことは可能なのか。乗り越える足掛かりはどこにあるのか。そのヒントを探すために、まず日本の原発をめぐる現状を整理しておきたい。 

◆原発推進に舵を切った「エネルギー基本計画」
 村上氏の言う“危機バネ”の代表格が、4月11日に安倍政権が閣議決定した「エネルギー基本計画」である。これは、国の中長期的な電力のエネルギー政策の方向性を決めるもの。この中で政府は原子力を「重要なベースロード電源」と位置づけ、「依存度を可能な限り低減する」としながらも、一方で「確保して行く規模を見極める」とした。「確保して行く規模を見極める」とは、持って回った表現だが、要は「原発を確保して行く」というのが本音で、原発再稼働と同時に原発の新増設にも道を開いたというのが、新聞などの解説である。

 議論を主導したのは、あくまでも原発推進にこだわる経産省(資源エネルギー庁)である。民主党時代の「2030年代の原発ゼロ、新規着工は認めない」という方針を転換させるために、安倍政権になるとすかさず、検討会の脱原発派の委員の首をすげ替え、強引に軌道修正を図った。内容を見ると、いろいろと“言葉の目くらまし”はちりばめられているが、結局のところ国の原発政策は、福島事故の前と本質的には何も変わっていないことがわかる。以下、この「エネルギー基本計画」の問題点を3点ほどあげてみる。

◆本質的には何も変わっていない
 第一に、目標とする電源別比率の具体的な数字が書き込まれていないことである。原子力の他にも、再生エネ、石炭、天然ガス、石油、LPガスなど様々なエネルギーを上げているが、その比率をどうするかはどこにも書いていない。特にこれから力を入れるべき再生可能エネルギーについては、公明党が公約に掲げた30%を数値目標として盛り込むことを主張したが、自民党や経産省の抵抗に会って断念、脚注にぼやかして入れることで決着した。本文は「導入を最大限加速。その後も積極的に推進」とあるだけで、これでは原発推進の官僚の胸三寸に任され、どれだけ本気になって導入するのか分からない。

 第二に、問題山積の核燃料サイクル(六ヶ所村の再処理工場、高速増殖炉「もんじゅ」)を推進するとした点である。それぞれ建設費に2兆円、1兆円とかけながらトラブル続きでいつ完成するか分からない巨大システム。原発の先行きが不透明な中でこれだけ巨額の資金を投入する意味があるのか、と言われながら今回の計画でも、延命策が打ち出された。特に問題の「もんじゅ」に至っては、「高速増殖炉ではなく、核のゴミの減容炉」と言い換えての延命で、こうした “言葉の目くらまし”は安倍政権の得意技だが、官僚にもそれが伝染したのだろうか。

 第三に、国策として原発を推進しながら、原発保有や事故の責任は電力会社が負うという従来の「国策民営」方針を踏襲したことである。事故が起きた時の責任を電力会社が負うのか、国が負うのか。これをあいまいにしながらの原発推進を続けようとしていることである。これは、何かと「国が前面に立つ」などと言いながら、再稼働の判断を規制委員会にゆだねたり、汚染水問題を東電任せにしたりしているのと同じで、国は原発推進の旗を振りながら責任を民間におしつけ、民間は国の政策に従っただけと言い逃れる、無責任体制が続くわけである。

◆再び村上氏の言葉
 こうしてみると、政府は福島原発事故をどれほど深刻に受け止めているのかと疑問になるが、驚くべきことに自民党との協議の段階で一旦は、「エネルギー基本計画」の前文から、福島の事故に関する反省を表明した文章が削除されたという。最終的には「原発事故で被災された方々の心の痛みにしっかり向き合い、寄り添い」という文章になったが、もう反省の時期は過ぎたとでも言うのだろうか。
 安倍政権のこうした原発政策を踏まえて、先の村上氏(前東海村村長)の話に戻ると、村上氏は「汚染水問題は、完全にコントロールされている」とか、「日本の規制基準は世界一厳しい」と言う安倍首相の発言は、非論理的で危なくてしょうがないと言う。それは(オリンピック誘致や原発輸出、再稼働向けの)実体のない便宜主義的な言葉に過ぎない。それによって福島の人たちがどれだけ傷ついているか、心が折れてしまうのではないか、と言う。

 福島のような大事故を経験しながらその教訓を生かせず、(ドイツのような)大胆な政策転換も出来ない。ずるずると成算なき原発にのめり込む日本について、村上氏は「日本は原発のような巨大技術を扱うのが苦手な国なのではないか」と言い、「このまま行くと、日本は第二のノモンハンを経験することになるのではないか」とも言った。
 ノモンハン事件(1939年)とは、旧満州国の国境線を巡って日本の関東軍とソビエトが戦った事件。(詳しい事実関係は措くとして)一般には日本が装備の遅れから大被害をこうむったのに、その事実を隠ぺいし教訓を生かすことなく太平洋戦争に突入して敗戦したことを意味する。事故の教訓を充分生かすことなく、原発の再稼働に踏み切れば、再び大事故を経験するのではという心配である。

◆日本的システムの中で、無力感を乗り越えるには
 「日本は原発のような巨大技術を扱うのが苦手な国なのではないか」と言う点については、私も同感である(「日本は原発を持つ資格があるか」)。巨大システムを運営するには、性悪説に立った厳しいチェック機能と歯止め機能が必要なのだが、日本はそうした思想が希薄で、内向きの慣れ合いに堕しやすい。ムラ社会特有のシステム的欠陥である。そのような日本社会が、原発のような巨大システムを運営する資格があるのか、と言うわけだが、村上氏も同様に感じていたのだと思う。
 では、この変わらない日本的社会システムの中で「無力感」に捉われずに、脱原発を進めて行く方策はあるのだろうか。それは多分、日本が破滅しかけた福島の原点に常に立ち返ること。自分たちが生活する足元の現実を直視し、そこから日本の現状を問いなおしていくこと。そして、そうした思いを共有する人々同士の連携を強めて行くことなのだろうと思う。村上氏の「脱原発をめざす首長会議」や小泉・細川両氏の「自然エネルギー推進会議」などの動きにも触れたいが、それについては長くなったので次回に回したい。

戦争が坂道を転がり出す時 14.4.17

 安倍首相が執念を燃やす集団的自衛権の議論が佳境に入りつつある。3月31日には、安倍の前のめりの発言に異論が起こった与党自民党に対し、説得を任された高村正彦自民党副総裁が「国の平和を守るためには、平和外交努力と抑止力が必要」、「砂川裁判の最高裁判決でも必要な自衛権行使は当然、と出ている」などと言って自民党内の議論を鎮静化させたという。 
 昭和34年の砂川裁判の援用については、裁判を曲解したご都合解釈(朝日4/6)とか、論拠は暴論(毎日4/17)と批判されているが、安倍はこの他にも国際情勢の変化(近隣諸国との緊張)から、憲法25条で定めた国民の「生存権」確保にいたるまで、手当たり次第に牽強付会の理屈を持ち出している。憲法25条とはご存知のように「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」というもので、これがなぜ集団的自衛権になるのか。今や彼の頭の中は、すべてが集団的自衛権に結びついているとしか思えない。

◆「平和外交努力と抑止力の2本柱」、その実体とは?
 そもそも、高村が「国の平和を守るには、平和外交努力と抑止力(武力行使の備え)が必要」と言い、「だから抑止力としての集団的自衛権が必要」と言うのは、もっともらしく聞こえるが、これが曲者。実態を見れば安倍政権がそんな事を言う資格がないないことが分かる。何しろ平和外交努力は疎かにしながら、抑止力の方だけは安全保障の権限を首相に集中する「国家安全保障会議」の設置、それを機能させるための「特定秘密保護法」、国内防衛産業を育成する「武器輸出三原則の見直し」、そして現在の「集団的自衛権」と、矢継ぎ早に強化を目指して来た。

 こうした一連の抑止力強化の理由として使われたのが国際情勢の変化、すなわち中国を念頭に置いた近隣諸国との緊張である。であるなら、外交努力で緊張を和らげるかと言えば、そうではない。安倍にとってはむしろ隣国との緊張が高まっている方が、念願の「強い国作り」がやりやすいと言うことになる。その結果、中国が先か日本が先かは議論が分かれるにせよ、互いに軍備を強化し緊張を高める「緊張の再生産」が生まれて行く。
 2012年12月の衆議院選挙の時に安倍は、第一次安倍内閣で中国との関係改善(戦略的互恵関係)を作った実績を持ちだし、「自分こそが関係改善の適役」と言っていたのに、それを忘れたかのように外交努力を軽視している。現在は完全に冷戦状態で、習近平からは靖国参拝の後、「歴史修正主義者」と敵視され日本包囲網を敷かれつつある。従って、高村が言うような「平和外交努力」と「抑止力」の2本柱で国を守るという主張は、安倍政権に限っては説得力を持たない。どうして高村の説得に自民党の大勢が言いくるめられてしまうのか、首をかしげたくなる。

◆日本は「戦争が出来る国」に近付いているのか
 こうした実体を見ると、安倍の防衛政策は、近年の国際情勢の変化を口実にはしているが、実はそれとは別ものなのではないか。むしろ、「強い国家を作る」という彼の年来の国家観に基づいた政策と見る方が当たっているかもしれない。もともと自民党右派は平和憲法を改正し、自力で国を守るという「防衛大国」を夢見て来た。今の安倍政権もその独自の国家像に向かって突き進んでいると見るべきだろう。 
 そして、集団的自衛権の先には、投票権を18歳に引き下げて憲法を変えやすくする「国民投票法の改正」(4月17日審議入り)、次に「憲法改正」が待っている。これをやり遂げるまで、安倍政権は何かと言えば国際情勢の変化や近隣諸国との緊張の高まりを口実にするだろう。その先にどんな国家体制が待っているか。それを考えることが、今回の「戦争が坂道を転がり出す時」というタイトルにもなって来るわけである。
 つまり、明治以降4回も戦争を経験した戦前の軍事国家としての“ありよう(国家体制)”に比べて、今の日本はどこまで近づいているのか、ということである。戦後の日本は70年近く平和を享受して来て、自衛隊も含めて国民が「戦争で死ぬ」という経験も実感もない。平和慣れしていて、政治家も国民もリアリティーを持って戦争というものを考えていない。しかし、もし本当に9条を放棄して武力で国際的紛争を解決するために死者も出すとすれば、その先の日本にどういうことが待っているのか。私たちは、それを見極めるべき時に来ているのだと思う。

◆「戦争で勝てる国」を目指した戦前の国家体制との比較
 戦前の大日本帝国は、明治維新から太平洋戦争が始まる73年の間に、「戦争が出来る国、戦争で勝てる国」を目指して来た。富国強兵をめざす明治憲法があり、軍国主義的、国家主義的な教育があり、治安維持法のような思想統制があり、検閲などのメディア統制もあった。さらには、政党を解体して戦争遂行に当たる大政翼賛会があり、戦時に運命を共にする軍事同盟(三国同盟)があり、国のすべてを戦争につぎ込む国家総動員法もあった。
 また、その根幹には戦争の道具として強制的に若者を集められる「徴兵制」があり、軍部が都合よく利用した天皇制があった。こうした軍事的体制を備えた国が、いったん戦争の坂道を転げ出した時には、それを止めることがいかに難しいか。それは例えば、開戦直前に戦争を止めるために一身をなげうって努力した外交官、重光葵(まもる)の「外交回想録」などを読むと、良く分かる。(重光葵については回を改めて書きたい)

 問題は、いま安倍ら自民党右派の「強い国作り」によって進められている国家改造が、戦前日本の“ありよう”に比べてどうなのかと言うことである。坂道にすれば、まだ殆ど平地に過ぎないのか、それとも少しは坂道に差し掛かっているのか。安倍自身はそういうこと(軍国主義)は全く考えていないと言うだろうが、一連の防衛政策の急展開を見ていると、こういうトータルな視点から、安倍政権の取り組みを監視しておくことも必要ではないかと思えるのだ。

◆戦争のリアリティーのない国
 安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を掲げて、アメリカから押し付けられたとする現在の平和憲法を否定し「憲法を国民の手に取り戻す」と言う。教育を首長(政治家)の意向に沿わせるための制度改革を行い、美しい国への誇り教育や領土教育を強めようとしている。また、公共放送への人事介入を通してメディア操作も図ろうとしている。武器輸出や軍事技術の国際共同開発は、結果として軍需産業の発言力を強めるだろう。
 天皇制について言えば、現在の天皇陛下はむしろ平和憲法の象徴のような存在であり(*)、今のままなら戦前のようなことにはならないだろう。しかし、自民党の憲法改正試案によれば、天皇を「元首」と表記する案になっており、そのことで彼らが何を意図しているのか、それも視野に入れておかなければならない。いったん作られた流れは(よほどの歯止めがない限り)政治家たちの意図を超えて拡大し始めるからだ。
*去年12月23日の誕生日の記者会見で天皇が平和憲法を評価し、遵守して行くとした発言部分をNHKが削除して放送したことが話題になっているくらいだ

 こうして見ると、安倍の「強い国作り」も戦前の大日本帝国に比べれば、まだよちよち歩きの幼児程度で、そう神経をとがらす必要はないかもしれない。しかし、生まれて僅か一年ちょっとでここまで来たことを考えれば、まだ子供だと見くびるわけにはいかない。また、戦争のリアリティーのない国が実際に戦争で戦死者を出す事態になれば、今の日本で命を落とすために自衛隊に入る人は少ない筈だから、たちまち次の課題(徴兵制)が議論に上って来る。そして徴兵国家になれば、日本は立派に(中国や韓国、ロシアが警戒する)軍事国家になる。
 集団的自衛権が、今の国際情勢の中で戦争に直結するのかどうかは別途研究すべきテーマである。しかし、一連の防衛政策の発想が、良く言われるように安倍の戦前回帰的な国家観に基づいているとすれば、書いて来たような大局的な(軍事国家への道筋としての)「戦争が坂道を転がり出す時」を視野に入れておくことも必要になって来ると思う。

STAP細胞・小保方会見とメディア 14.4.10

 昨日(4月9日)、午後1時からSTAP細胞に関する小保方氏の記者会見があった。このところSTAP細胞について書いて来たので、行きがかり上、多大な関心を持って見た。さらに、その会見に関するメディアの報道について、TVニュースや翌朝の新聞各紙も見た。しかし、全体に釈然としない点が多い。釈然としない点は(自分では)はっきりしている。そこで、今回は同時進行だけに生煮えの感もあるが、自分の考えを記録にとどめておく必要があると考えた。STAP細胞についてのコラムは3回目になるが、少なくとも今回の事象は科学をどう読み解くかという「科学リテラシー」の格好の教材には違いない。

◆まずは、「故意(悪意)」の有無が争点
 9日の記者会見は、理研調査の「最終報告」に対する不服申し立てについての会見で、@冒頭の小保方氏の挨拶、A弁護士による理研調査委の裁定に対する反論、B不服申し立てに関する質疑応答、Cその他の質疑、という構成で2時間半にわたって行われた。その殆どを見たが、私の印象から言えば、理研の調査委による「最終報告」は、(時間に追われていたにせよ)結論を急ぎ過ぎた不十分な調査だったのではないかと言うことである。
 前回も書いたように文科省(理研も準じる)の「科学研究の不正行為に関する定義」によれば、たとえデータを操作して加工(改ざん)したり、存在しないデータや研究成果を作成したり(ねつ造)しても、そこに「故意(理研の場合は悪意)によるものではないことが根拠をもって明らかにされたものは不正行為には当たらない」としている。従って小保方側の反論は、当然のことながら、この定義を意識したものになっている。

 ここで頭に入れておくべきは、4月1日の調査委員会の「最終報告」は、小保方論文がSTAP細胞の存在を適正に論証しているかどうかという、真っ向勝負の調査ではないということである。STAP細胞の有無についての判定ではないと繰り返し、なぜか疑惑をもたれた6点についてのみ「不正行為」があったかどうかを判定することに限定した。そして、その中の2点について「故意(悪意)」と認定し、「不正行為」だと判定したわけである。
 小保方氏の不服申し立ては、この「故意(悪意)の認定」に対して反論を行っている。しかも、その反論は(後述するように)調査委の論拠に対するかなり有力な反論になっていると思われる。これに対して、理研が門前払いをすれば、小保方氏の「不正行為」に対して何らかの処分をしなければならず、その場合は裁判になる可能性が高い。理研は極めて難しい判断を迫られているはずだ。

◆「故意(悪意)」を巡る、理研の論拠VS小保方側の論拠
 調査委と小保方側の2つの記者会見を見比べた上で、両者の論拠について(素人ではあるが)私なりの捉え方を書く。まず、改ざんとされた電気泳動の画像の切り張りに関し、調査委は概略、「他の画像を挿入してみたが、大きさが合わないので拡大して合わせたという説明を受けた。そこで単位を合わせて拡大してみたが、画像がずれてしまう。これはそのずれを修正した“故意的”な改ざんであり不正行為だ」とした。
 これに対し、小保方側は挿入した元画像を示し概略、「元の画像が2度斜めになっていたので、傾きを修正した上で単位を合わせて切り張りしたものである。こうすれば挿入画像と一致する。従って(こういう操作をやってはいけないとは知らなかったが)そこに改ざんの“故意(悪意)”はない」というものだ。問題の画像は、調査委が独自に調べたものだが、小保方氏に充分聞き取りをして確かめていれば、避けられた判定だったのではないか。

 次に、ねつ造とされた画像は小保方氏が犯した画像の取り違えである。これを調査委はなぜ「故意(悪意)」と判定したかについて言えば、こうである。「ネーチャーに提出された画像は、彼女の(今回のSATPとは関係ない)博士論文から引用したものだから、ねつ造にあたる。しかも、提出された画像は元の画像から表題の文字を除くためにトリミングしたもので、こうした操作は“故意(悪意)”なしには出来ず、不正行為である」とした。
 対して、小保方氏は画像の取り違えは未熟さゆえの間違いで、調査前(2月18日)に理研にも自己申告し、ネーチャーにも真正な画像を送っている。トリミングの故意性については、「この画像は、以前に部内の勉強会のために準備したパワーポイントの写真であり、その後何回も使ってきたものだ。今回のためにトリミングしたものではないので、そこに“故意(悪意)”は存在しない」という。

 両者の言い分を聞くと、小保方氏の説明に充分耳を傾けずに、できるだけ独自の調査に頼ろうとした理研調査の問題性が浮かんで来るように思う。小保方側の主張を吟味して、もしそれが真実とすれば、理研はいかに組織的なダメージが大きかろうが、再調査を否定することは難しいのではないか。その場合、理研の再調査は「小保方論文がSTAP細胞の存在を適正に論証しているか」という本来のあるべき姿に戻るべきである。これを徹底してやっていれば、今回のような拙速で中途半端な調査にならなかった筈だというのが現時点での私の感想だ。

◆メディア報道の解せないポイント
 問題は小保方会見後のメディアの報道である。不正行為の定義の中での「改ざん」や「ねつ造」の意味、さらには書いて来たような「故意(悪意)」の条項について、充分理解しているのだろうか、という報道が殆ど。多くのメディアは、今回の不服申し立ての性格を無視して上記のような対立点に触れず、調査委の論拠は不服申し立てに耐えられるのか、という問題を検証していない。
 (彼女の身分保障に関る)不正行為の判定問題をすっ飛ばして、「結局のところ、STAP論文の疑念は晴れたのか」、「STAP細胞の存在は科学的に証明されたのか」に終始している。会見で、STAP細胞の存在は200回以上確認している、研究ノートは2冊でなく4、5冊ある、理研内の第3者が実験に成功している、といった衝撃的な発言があったせいで、関心がそちらに流れたのかもしれないが、そこが私には解せないところである

 小保方論文を不正行為と判定した調査委は、その時点で「STAP細胞の存在は限りなくクロ」と見たのだろう。従って、もし調査委の判定の論拠が崩れて不正行為でないとなれば、次は「STAP細胞の存在証明」が大きなテーマとなる。これについての様々な疑念があるのは分かる。しかし昨日の会見で彼女から新しい事実が出て来たのだから、今度は真正面から彼女の実験も視察するなどして、予断を持たずにあらゆる角度から検証して欲しいと思う。
 それにしても、(たとえ自分の未熟さのせいであっても)渦中に投げ込まれた30歳の若い科学者が300人の報道陣を前に、言葉を丁寧に選びながら失言の一つも見せずに対応した姿には感心した。その受け答えは、猪瀬前都知事や渡辺喜美代表などの下劣な会見と遠く隔たっており、何か厳粛な人間ドラマに立ち会っているような感じさえした。

 今回は同時進行の事象なので(思い違いもあるかもしれないが)、取りあえずの個人的な感想を記した。さしあたって理研が小保方氏の不服申し立てを門前払いするかどうか。門前払いの場合に彼女は裁判に訴えるのか。STAP細胞を巡る科学ミステリーが今後どう展開するかは皆目分からないが、この問題は徐々に日本の様々な現状をあぶり出す衝撃になりつつあるように思う。暫くはその観客に徹したいと思う。(*)
*)6月16日のNHKニュースの段階で、STAP細胞はほぼ100%、人為的にES細胞とすり替えたものということになりつつある。これが本当なら、これをこそ「ねつ造」と言うべきで、「画像の加工」だけで幕引きを図ろうとした理研の調査は本質を外した安易な調査だったと言える。始めから本筋を検証していれば、こうした回り道をせずに済んだ筈だ。残るはその確証と動機である。その「闇」の解明がない限り、日本の科学不信はぬぐい去れない。

STAP細胞・組織が震えた日(2) 14.4.3

 4月1日、STAP細胞の論文に関する調査委員会の「最終報告」があった。これについては多くのメディアが詳しく報道し、喧々諤々の議論が今も続いている。そこでは、当然のことながらSTAP細胞は存在するのかしないのか、研究論文の欠陥がどのくらい致命的なのか、或いは故意にねつ造したとして、その理由は何なのか、調査は充分だったのか、など様々な疑問が指摘されている。
 専門外の私に詳しいことは分からないし、当の小保方氏が近々記者会見を行うと言う報道もあるので、経過を観察した方がいいかと思うが、前回の行きがかり上、現時点で私が感じている疑問点と問題点を整理しておきたい。それは端的に言えば、この「最終報告」は全容解明の入り口に過ぎない、ということである。

◆ねつ造の定義のややこしさ
 理研が組織した調査委員会は、疑惑が指摘されていた論文中の6項目のうち、2項目について「ねつ造、改ざん」という厳しい判定を下した。文科省のHP「研究活動の不正行為等の定義」を見ると、科学研究における「ねつ造」とは、「存在しないデータ、研究結果等を作成すること」だという。これら「ねつ造」や「改ざん」が“故意に”行われれば不正行為とみなすわけで、これに準じる形で理研も小保方論文には不正があったと認定したわけである。
 HPでは、さらに「ただし、(改ざんやねつ造であっても)故意によるものではないことが根拠をもって明らかにされたものは不正行為には当たらない」とも書いてある。ということは、委員会は小保方氏のデータの「改ざん」や画像の「ねつ造」が、(後述する理由から)故意ではないと明確には証明出来ないと判定したのだろう。しかし、この“不正行為に関する定義”のややこしさは(伝えるメディアも含めて)一般の人々にどのくらい理解されているのだろうか。

 広辞苑で見ると、一般に言う「ねつ造」とは「事実でないことを事実のようにこしらえること」。そこに“作為”がなければ成立しない行為である。従って、判定は、小保方氏がSTAP細胞の存在を無理に証明しようとして、“事実を意図的にでっちあげた”という印象になる。これに対して、STAP細胞の存在を信じる小保方氏が、「驚きと憤りの気持ちでいっぱいです」と反論し、不服申し立ての意志を表明したのも当然と言えば当然と言える。

◆心証は“限りなくクロ”
 ここで仮にSTAP細胞が存在する前提に立てば、小保方氏の反論のように、“故意に”そうした画像の加工や画像の使いまわしをする必要はないのだから、間違いは単なる間違いで「不正行為」ではないという言い分も成り立つ可能性がある。しかし、調査委の方は、今回の調査はSTAP細胞の存在そのものを判定したものではなく、「論文の欠陥」に対してのみ行われたものだとしている。つまり、彼らはSTAP細胞のあるなしに関らず、論文に“故意の”「改ざんやねつ造」が行われているとしたのである。

 調査委が、「ねつ造」を故意と認定した根拠(画像の処理過程における故意性など)は示されているが、そこまで踏み込むには、背景に調査委がSTAP細胞の存在を疑うかなりの心証があったのではないかと思う。それが、一言で言えば「論文の体をなしていない」という研究の杜撰さだった。研究ノートが3年で2冊しかなく、書かれていることも断片的で研究過程の追跡も出来ない。あまりに杜撰な研究態度に不信感が募ったのだろう。
 つまり、“故意のねつ造”と判定した段階で、調査委員会の心証は「STAP細胞の存在は限りなくクロ」だったのだと思う。そうなると今度は、結局は存在しないSTAP細胞を、小保方氏が故意に「ねつ造」した理由は何なのか、という謎が残る。それは、とても今回の調査が「最終報告」では終わらない深い闇である。その意味で、調査を論文の欠陥に限定し、小保方氏一人に不正行為の罪を負わせて幕引きを図った理研の姿勢は果たして適当だったか、という疑問も残る。

◆「最終報告」は全容解明の入り口に過ぎない
 前回のコラムで、私は「日本の科学に対する信頼を取り戻すためにも、今回の不祥事の根本的な原因から全体像まで徹底解明される必要がある」と書いたが、STAP細胞“事件”には、今回の調査以外にも解明すべき問題が多々ある。それは例えば、小保方氏個人のキャリアや資質の問題、14人の共同執筆者の役割やチェック機能、理研の組織としてのチェック体制の問題。
 さらには、研究室の壁紙をカラフルにしてまで発表会見を盛り上げようとした理研の思惑(国の「特定国立研究開発法人」への格上げ問題)、新発見などの成果主義に追われる科学者と科学界の問題。そして、研究論文に関する倫理教育の問題から、美談を作ってセンセーショナルに持ち上げたメディアの問題まで、実に多くの問題が含まれる。

 その一つ一つを検証し、それぞれの関係者が教訓として生かさなければ、日本の科学技術に対する信頼は回復されない。特に重要なのは、科学研究に関する倫理教育だろう。前回書いたように、画像の加工や論文のコピペが自由自在にできるデジタル時代の危険な誘惑の中で、科学研究において何が許され、何が許されないのか。厳密なルール作りと徹底した倫理教育が必要になる。ドキュメンタリーの場合も、事件後「ドキュメンタリーとは何か」といった特集が組まれて議論が深まり、現在のようなルール(ディレクターの自律、再現、資料などの表示)が定着してきた。
 もう一つ検証が避けられないのは、科学者や研究機関を検証が充分でないまま「疑惑や拙速の成功発表」に駆り立てる構造である。それは小保方氏、上司、理研上層部、科学界、マスコミなどに共通する構造でもある。1日、「最終報告」を受けた文科省は組織検証が不十分として突っ返したが、「最終報告」はこうした問題解明と対策を考えれば、入り口に過ぎない。

◆STAP細胞は存在するのか
 さらに最大の難関は、STAP細胞の実証実験である。理研は1年に期限を区切って、「ゼロから検証する」ことになった。小保方氏の研究の杜撰さから、その存在が限りなくクロと見られているSTAP細胞は、本当に存在するのか。文春4月号で若山教授(山梨大)は、哺乳類の体細胞クローンの発表の場合も、若山教授が世界で初めて確認したのは1年半後だったと言う。
 さらに、小保方氏の直接の上司の笹井芳樹副センター長は「(今回の間違いを抜きにしても)他のデータは、STAP細胞を前提としない説明は容易に出来ないものがある」とコメント。理研内の複数の研究者によっても、弱酸性の溶液に浸して刺激を与えた細胞が変化し、万能性を示す遺伝子の一つが活発に働く所までは確認している。STAP細胞の発想が、全く根も葉もないところから生まれたのではないことは確かなようだ。

 近々あるかもしれない小保方氏の反論にも注目したいが、この先は歴史の審判ということになる。小保方論文の欠陥を “故意”と厳しく判定した調査委の判断は、現時点では(組織防衛から言っても、これ以外にとりようがない)妥当なものに思えるが、仮にSTAP細胞の存在が実証できれば、小保方氏の名誉は回復され、彼女の反論通り判定は覆ることになるだろう(*)。
 反対に、1年後も存在が確認出来ないとすれば、STAP細胞は過去にも沢山あった「消えた幻の科学」の一つとして記憶されることになるだろう。それがどちらに転ぶにせよ、全容解明の継続とそれを教訓とした研究倫理の徹底などは、理研と日本の科学界に課せられた責務として残る。今後の見通しは不透明だが、杜撰な研究論文を見逃した理研の「組織が震えた日」は、まだまだ終わりそうにない。
*それでも、彼女がやったことは科学者としてあるまじき行為で、到底許されることではない、とする批判はある

STAP細胞・組織が震えた日(1) 14.3.30

 科学の常識を覆す新発見として世界を驚かしたSTAP細胞のニュース(1月28日会見)から2ヶ月。発表を行った小保方晴子ユニットリーダーの好感を持てるキャラクターや、身につけた割烹着、ムーミンの絵を貼り付けた冷蔵庫、研究室のカラフルな壁紙、女性だけの研究室など、すべてが熱狂を持って伝えられたが、その華々しい発表が今やスキャンダルと化しつつある。 
 論文の共同執筆者の一人である若山照彦氏(山梨大教授)は、月刊「文春」(4月号)のインタビューを受けた段階では、STAP細胞の存在について、(厳しい目を向けられているが)「今回の結果に揺るぎない自信を持っている」と言っていた。しかし、3月25日には、彼が小保方氏から手渡された細胞が、彼が検証のために提供したマウスのものとは別の細胞だったことも判明。STAP細胞の存在自体の信頼も崖っぷちに立たされている。

◆「科学論文とは何か」の認識のギャップ?
 小保方氏が所属する理化学研究所(理研)は発表の一週間後から、激震に見舞われることになった。論文に対する様々な疑惑が指摘され、3月14日の記者会見では野依良治理事長以下、幹部が並んで沈痛な面持ちで頭を下げ、小保方氏を「未熟なリーダー」、指摘された論文の欠陥を「極めてずさんで、あってはならないこと」と厳しく批判した。しかし、今回の不祥事(といってもいいと思うが)は一度の記者会見で済むようなものではなく、理研の激震は収まりそうもない。
 華やかな発表会見から突然の暗転。なぜこういう疑惑の論文が生まれたのか。なぜ欠陥は見逃されたのか。単なるミスなのか、或いはねつ造なのか。論文の欠陥は枝葉の部分なのか、STAP細胞の根幹に関るものなのか。そのあまりの不可解さに頭の整理がつかず、固唾をのんで見守って来たが、ここまで来ると、日本の科学に対する信頼を取り戻すためにも、今回の不祥事の根本的な原因から全体像まで徹底解明される必要があると思う。

 小保方論文に対する疑惑の指摘は多岐にわたる。異なる細胞の提供疑惑のほかにも、画像の取り違えや不適切な使いまわし、他の論文との類似、画像データの加工などである。その中で衝撃的だったのは、小保方氏が(データの切り貼りを)「やってはいけないという認識がなかった」と答えたことだった。野依理事長は小保方氏について「徹底的に鍛え直さなければならない」と言っていたが、私はここに案外、根本的な問題が潜んでいるように思われてならない。
 つまり、「研究論文とは何か」を巡って小保方チームと大御所の科学者たちの間には埋めがたい認識のギャップがあるのではないか、ということである。研究論文が備えているべき厳密性とは何か、その中でやっていいことと、いけないこととは何か。研究論文の性格やルール、作法に関して、小保方チームは何かとんでもない迷路にはまりこんでいたのでいたのではないか、ということである。

◆「ドキュメンタリーとは何か」が問われたNスペ
 それは、事の性質は全く違うけれど、現象的には(21年前に私が関係した)NHKが今回の理研と同じような激震に見舞われた“不祥事”とどこか似ているようにも思える。その時問われたのは「ドキュメンタリーとは何か」ということだった。ドキュメンタリーが伝えるものは何なのか、やっていいことと、やってはいけないこととは何か。ドキュメンタリーそのものが持つ性格と、その制作作法やルールが問われた事件だった。
 番組は、Nスペ「奥ヒマラヤ 禁断の王国・ムスタン」(1992年放送)。A新聞が放送から4カ月後に、一面トップで「主要部分やらせ・虚偽」として取りあげた事件である。記事をきっかけにメディアの取材競争が始まり、(管理責任者の私も知らないような)問題が次々と指摘された。NHKは大慌てで調査委員会を立ち上げ、事実の究明と釈明に追われた。最終的には、私も含めた関係者の処分と、会長のお詫びと訂正放送をすることになった。まさに組織が震えた日々だった。

 この事件で、どうしてこのような撮影方法になったかを、担当者にヒアリングするうちに、私たちは「ドキュメンタリーとは何か」という根本問題に突き当たることになった。A新聞が指摘した「やらせ」や「虚偽」のシーンの多くについては、映像表現のベテランからは許容範囲にあると言う意見も多かったが、今から振り返れば不思議なことに、当時はドキュメンタリーの表現方法について明確に定まったルールはなかったのである。
 もちろん事実のねつ造などは問題外だが、映像メディアと活字メディア間の認識のギャップはもちろん、制作者の間でもギャップがあった。私など、科学のドキュメンタリー番組に携わってきた人間からすると、問題の表現手法には随分と違和感があったが、ドキュメンタリーが制作者の主観を大事にし、制作者が感じ取った“真実”を伝えるという性格を持つ以上、そういう表現手法も過去にはずいぶんと用いられたわけである。

◆デジタル時代の落とし穴。急速な技術進化に倫理がついて行かない
 「ドキュメンタリーとは何か」が問われたこの事件に深入りすると、一冊の本にもなるが、ベテランディレクターが制作したそのNスペの場合は、ある意味、ドキュメンタリーが技術的な制約を受けていた時代の産物だったかもしれない。私の駆け出し時代もそうだったが、ドキュメンタリーでさえも限られた高価なフィルムを使うため、前もって照明を仕込み、セリフや演出も決めてから撮影した。しかし、急速なデジタル技術の進化によってぶっつけ本番が可能になると、再現や演出はやらせと見られるようになった。そこにアナログ時代に育った制作者と時代とのギャップがあったのかも知れない。

 今回の小保方論文の場合は、科学者向けの海外の「論文検証サイト」への匿名の投稿が発覚のきっかけになった。その後、ツイッターも含めてネット上で様々な指摘が行われ、メディアが後追いする状況になった。私たちの時もそうだったが、メディアの取材競争が始まると、思わぬ問題が次々と明るみに出る。(STAP細胞とは関係ない)小保方氏の博士論文で冒頭の20ページがそっくり引用だったことなどもその一つだ。
 論文の共同執筆者たちはなぜ、指摘された数々の間違いに気づかなかったのか。あるいは、理研はなぜ若い小保方氏をチームリーダーにしたのか、などなど。回答を迫られる理研は、そのつど対応に追われることになる。現在、小保方氏がどこでどのように隔離されているのかは分からないが、(私たちの経験から言っても)幹部で構成される調査委員会から厳しいヒアリングを受けるうちに、当事者は(自分がやったことが間違いだったと分かって)みるみる憔悴して行く。

 一方、理研幹部の方は、(小保方氏の)「やってはいけないという認識がなかった」という認識のギャップに愕然としたに違いない。それは「科学論文とは何か」に関る根本問題でもあるが、一方でデジタル時代の落とし穴だったかもしれない。今や論文のコピペも含めて、画像の加工、切り貼りなどが、自由自在にできる時代だ。その中で科学論文としてやっていいことと、やってはいけないことのルールが、曖昧のままになっていたのではないか。
 今回、論文の欠陥を指摘したのが、画像の盗用や論文コピーをチェックする不正チェックソフトだった、ということもデジタル時代の皮肉だが、小保方チームの欠陥論文は、ドキュメンタリーの場合とは逆の形で、急速な技術進化の中で、表現の倫理的側面が追いついて来なかったことを示しているように思う。
ただし、画像の加工や論文コピーがデジタル時代に潜む危険な誘惑だったにせよ、それと本当にSTAP細胞が存在するかどうかという問題は別である。真実と論文の間に何があるのかについては、依然として闇に包まれている。(今回の事件で何を教訓とすべきなのか、そしてSTAP細胞の今後については次回に)

Nスペ「メルトダウン File4」 14.3.20

 3年前の3月、福島第一原発の1号機から3号機までの原子炉で何があったのか。3機の原子炉が同時にメルトダウンすると言う、人類史上初めての大事故を起こしながら、事故の解明は遅々として進んでいない。国会の事故調査報告(黒川清委員長)は、独立調査委員会を設けてさらに解明を続けるべきだと提言したが、それも止まっている。事故の解明もせずに、何が“世界一厳しい安全規制”か、と思うが、国は(例えば泉田新潟県知事などの)「原発の再稼働より事故解明が先だ」という正論に耳を貸そうとしない。
 そういう中、NHKスペシャル「メルトダウン」班はこれまでも独自の調査報道を続けて、この分野で一人気を吐いて来た。4回目にあたる番組「放射能“大量放出”の真相」(3月16日放送)は、これまで謎とされてきた2号機の事故経過について、綿密な取材と実証実験を行い、原子炉に共通の欠陥について重要な問題を提起している。Nスペ「メルトダウン」については、これまでも取りあげて来た(*)が、その力作ぶりに敬意を表すると同時に、私なりに感じた点を幾つかまとめておきたい。

@ 危機一髪だった2号機格納容器の大破壊
 ご存知のように、3年前の事故で環境中に漏れ出した放射能のうち、最大のものが2号機からのものだった。1号機や3号機のように水素爆発しなかったのに、なぜ最大の放射能が漏えいしたのか。今回の番組は、その謎に挑んだものである。2号機も同様に、停電によって原子炉に水が循環しなくなり、高熱の燃料がメルトダウンして圧力容器を溶かして行く。
 熱によって格納容器の圧力が設計限度を超えて高まり、このままでは破裂するというので、1号機や3号機のように「ベント」で中の空気を抜き、圧力を下げようとするが、どうやっても弁が開かない。手動で弁を開けるために建屋内に突入すると、そこには既に高レベルの放射線と蒸気が充満していた。原因は非常用冷却装置(RCIC)の欠陥。(本来は気密性を担保する)4重のパッキンが停電で機能せず、原子炉内の汚染された蒸気が建屋内に噴き出したのである。

 さらに、圧力容器を溶かして落ちた2000度の(およそ100トンの)核燃料が格納容器の壁に向かって広がって行く。これが壁に達したら、厚さ数センチの格納容器などあっという間に溶けて穴があいてしまう。しかし、燃料は壁から僅か1メートルのところで奇蹟的に止まってくれた。ただし、核燃料の輻射熱(600度)で格納容器の底辺部は歪んで壊れてしまう。結果的に、そこから放射能とともに圧力が抜け、大破裂だけは免れた。
 今、2号機の格納容器の底に溶け落ちた燃料は、水深が僅か60センチの水で冷やされていると言うが、開いた穴からは常時、高濃度汚染水が原子炉建屋内に流れ出している。もしあの時、僅かなシナリオの違いから格納容器が大きく破壊されたり、溶かされたりしたら、東日本は広く汚染され住めなくなっていただろう。まさに危機一髪。そうなれば日本は破滅だった。改めてその現実に恐怖せざるを得ない。

A 原発には充分な過酷事故対策が取れない
 Nスペ「メルトダウン」はこれまでも、核燃料がメルトダウンするような異常時(過酷事故時)には、原子炉に様々な構造上の欠陥が現れることを指摘して来た。高熱と高圧では機能しない炉内水位計や主蒸気逃し弁。非常用冷却装置(RCIC)のパッキン。さらには、従来、水に通せば放射能を千分の1までに抑えるとされていたベントも、パイプ内の水が熱いと半分も抑えられないという事実も発見した。
 これらはすべて予想外の欠陥であり、過酷事故のような異常事態では、複雑な原子炉システムの中で何が起こるか、私たちはまだ殆ど分かっていないと言うことを示している。しかも、こうした他の原子炉にも共通の欠陥は、現在の規制基準に生かされていない。何らかの原因(それは津波だけではない)でいったん過酷事故になってしまうと、私たちは放射能を封じ込める手段を持ちあわせていない、というのが現実なのである。

B 哀しいほどに、空々しい当事者の答弁
 Nスペ「メルトダウン」は、こうした重大な欠陥を指摘するために、膨大な取材と実証を積み重ねて来た。データと事実の収集、関係者の聞き取り、専門家集団による評価、仮説の実証実験。取材は、国内だけでなく海外の専門家にも及んでいる。その上で、分かりやすいドラマ化やCGによる説明を加えた。こうした緻密な検証によって指摘された問題は重いはずだ。
 番組では、掴んだ事実をもとに東電の幹部と原子力規制委員に質問をぶつけている。しかし、東電は格納容器に開いた穴については、「どういう事象であれ、これから対策を取って行く」。規制委員の方は見つかった欠陥について、「仮に見落としがあっても、継続的な規制の改善をして行く」と、いずれも緊迫感のない、官僚的でおざなりな答弁だった。質問は言い訳的に入れたものだろうが、その哀しいほど空々しい答弁は、(当事者の実態を示していて)ある意味、効果的だったかもしれない。

C 献身的な協力者に支えられている限り
 一方、番組には今回も多くの専門家や元作業員が取材に協力している。この協力がなければ、東電も規制委員会も知らない構造的欠陥など指摘出来ないわけだが、こうした専門家の献身は、何を意味しているのだろうか。思うに、そこに働いているのは、(事故の直接の当事者ではないにせよ)あれだけの大事故を引き起こして世界を震撼させた日本の科学者、技術者としての責任感であり、事実に真摯に向き合おうとする決意だと思う。
 その姿勢は、今、「福島の事故は津波さえ防げれば起きない事故だった」と決めつけ、政府の(原子力を重要なベース電源と位置付けた)「エネルギー基本計画」を後押しする科学者たち(*)と対極にあるものである。大勢が原発再稼働に向かう中でなお、献身的に事実の解明にあたる専門家がいる限り、日本はまだ希望が持てそうに思う。*先日、私はそうした原発推進のシンポジウム(「新たなエネルギー基本計画の強力な実行と将来展望」)に参加した

◆番組を持続することは世界への責任であり、人類の財産
 Nスペ「メルトダウン」は4回目。これまで、かなりの事実を究明したことについては敬意を表したいが、当然のことながら、分かって来たことはまだ全体の一部に過ぎないと思う。さしあたっては、原子炉内で溶けた燃料がどこにどういう状態であるかについては、全く分かっていない。こうした福島第一原発事故の解明は、メディアも含めた日本の関係者全体の「世界に対する義務」であると同時に、得られた知見は「人類の大きな財産」になって行くに違いない。

 しかし、NHKはこれからもこうした地道な取り組みを続けることが出来るだろうか心配なのは、このところのNHK上層部である。メディアが伝える所によれば、前会長は時の政権からのNHK批判に嫌気がさして引退したが、その批判の一つに原発報道があったという。もしそうだとすると、新体制の中で「メルトダウン」シリーズも影響を受けるのだろうか。特に、(自分の不見識を棚にあげて、何かと締め付けを図ろうとしている)M会長はどう出るか。
 原発事故関連の報道は他にも、放射能による環境汚染、汚染水問題、廃炉への道筋、被災者の救済、健康被害など多岐にわたり、“番組は”それぞれに頑張って来たと思う。こうしたテーマは、国民の不安に答える義務や広く人類への責任を考えれば、一時的なNHK上層部の思惑や時の政権によって左右されるほど、軽いものではない。そのことを放送の現場は充分に分かっていると思うが、(老婆心ながら)是非、謙虚に脇を固めつつ、今後も長期にわたって取り組んでほしいと思う。放送人の底力というものを見せ続けて欲しいと思う。 

*)これまでも取りあげて来たが、「福島第一原発 あのとき何が」(2011年12月)、「連鎖の真相」(2012年7月)、「あれから2年 原子炉“冷却”の死角」(2013年3月)

日本にとって福島(東北)とは何か 14.3.13

 3月11日で3周年を迎えた東日本大震災。この1週間ほど、震災関連の報道を見続けて来た。3月11日午後2時46分の追悼式典での黙とう。宮城県気仙沼市の中央公民館の屋根に避難した446人の児童と先生を救助したエピソード(これは、NHKのドラマにもなった)を追跡したTBS「テレビ未来遺産 震災直後 生死を分ける72時間になすべきこと(10日)」。巨大堤防が津波で破壊された岩手県宮古市(田老地区)から生中継したTBS「サンデーモーニング」(9日)。
 原発関連では、Nスペ「避難者13万人の選択〜原発事故から3年〜」、ETV特集「ネットワークで作る放射能汚染地図〜福島原発事故から3年〜」(8日)。かねて疑問だった子供の甲状腺がん33人の意味について、チェルノブイリ取材も踏まえて、緻密に報道した「報道ステーション(11日)」などなど。16日のNスペ「メルトダウン4、放射能“大量放出”の真相」も見るつもりだ。

◆他人事とは思えない
 特に、Nスペ「避難者13万人の選択〜原発事故から3年〜」は、原発事故で避難を余儀なくされ、家族と地域が引き裂かれて行く状況を丹念に追った。避難指示の解除が決まった福島県田村市(都路地区)の人々は、やっと帰れると言う家族と、本当に帰還できるのかと悩む家族に引き裂かれる。特に幼子を抱える若い夫婦の悩みは深刻だ。福島と山形県に分かれて住みながら、将来の選択を何度も話し合うが答えは出ない。3年間の悩みの深さが刻み込まれた家族の表情は涙なしでは見られない。番組に出て来た多くの家族の苦しみは、たまたま難を逃れた私たち自身のものだったかも知れない。そう思うと、とても他人事とは思えないのだ。

 3年前。3月12日15時36分に1号機が水素爆発、続いて14日11時1分に3号機が閃光を発しながら巨大な噴煙を上げて爆発した。前日の昼に配信した「メディアの風」の中で、私は「最悪のケースになれば、極めて広範囲で日本は国土が汚染され、居住不可能になり、大量の避難民が狭い国土をさまようことになる(最悪に備えてあらゆる対策を)」と書いたが、3号機の爆発を見ていよいよダメかと思い、娘と息子家族を東京から避難させることにした
 息子家族は京都へ、娘は小田原に住む長男一家に身を寄せた。その時息子には、場合によっては関西で仕事を見つけることになるかもしれない、その覚悟をするようにと伝えた。小田原に住む長男からは、私たちも早く来るようにと言って来たが、私は茨城県日立市に母親(当時89歳)を残す身なので、同居している弟とまず母親の避難をどうするかを様々に議論した。これは3年前の生々しい記憶だが、福島の人たちは、この現実が時が止まったように続いているわけである。

◆深まる苦悩。年間20ミリシーベルトで帰還?
 政府は4月1日から、原発から20キロ圏内で初めて福島県田村市の一部を避難指示解除にすると決めた。除染によって、毎時3.8マイクロシーベルト、年間被曝20ミリシーベルトを超えない見通しが出来たからだと言う。しかし、年間20ミリシーベルトとは、国際放射線防護委員会(ICRP)が「事故後の日常生活の目安として年間1〜20ミリシーベルトの範囲の下方から選ぶべき」としたものの“上限”である。あのチェルノブイリだって、今は年間5ミリシーベルト以下を採用している。幼子を抱える親たちが悩むのは当然だろう。
 当初、政府は年間被曝1ミリシーベルト(毎時0.23マイクロ)を目標に除染するとしていたが、とても無理と分かって20ミリ(毎時3.8マイクロ)に引き上げた。このへんの分かりづらさが疑心暗鬼を生む一方で、政府の支援金の線引きによって、また住民が分断される。親子3代が狭い仮設住宅で暮らす家族、母子と父親が別な県で別れて暮らす家族など。その多くは充分な情報もなく、家族一緒に故郷に戻るかどうかを巡って悩み続ける。

 自分たちに全く落ち度がないのに、放射能によって故郷を奪われる。今や、それをことさら声高に言うこともなく、ただ故郷の放射線量の高さにため息をつく。住宅周辺は除染されても、草地の間を通る通学路は線量が高いままだし、生活の糧だった山林は除染もされていない。今では皆、線量計を持っているだけにごまかしが効かない。
 故郷に戻るかどうかの悩みは、避難指示区域から避難してきた人々ばかりではない。比較的線量が高い福島や郡山などから自主的に全国に避難した家族も悩んでいる。あるいは、津波で住む所を奪われた東北各地の沿岸の人々もそう。仮設住宅を出る期限が迫っているのに、地域の復興計画が遅れている、仮に戻っても仕事がない、などなどで、原発避難13万人を含め現在26万人が全国47都道府県に散らばって不自由な生活を続けている。

◆「福島(東北)の復興なくして日本の再生なし」?
 もちろん、3年経っても廃炉に向けての道筋が見えない福島第一原発事故の現状も深刻で、この1年、これらについてもいろいろと書いて来た。しかし、3周年の今、集中的に報道された福島と東北の現状を見るにつけ、人々の苦悩が一向に晴れない現実を思い知らされる。この原因の一つは、9日の「サンデーモーニング」の中でも言っていたが、政治のリーダーシップがないということである。この3年、(民主党時代も含めて)顔の見えないリーダーや縦割りの役所によって復興計画や除染計画が立てられ、何兆円と言う金がつぎ込まれて来たのだが、その結果がこれである。政治と行政の劣化――このことに改めて気付かざるを得ない。

 もう一つ、考えさせられるのは「日本にとって福島(東北)とは何か」と言うことである。3月8日、安倍首相は福島や東北の現地を視察してシラスやカキを食べて見せた。また10日の記者会見では、「(この一年)、復興を加速するため実行したことは二つ。現場主義を徹底し、役所の縦割りを打破すること」と言い、数々の成果を列挙した。そして、「福島と東北の復興なくして日本の再生なし」と繰り返した。
 しかし問題は、それがどうしても震災を言う場合の「お題目」のように聞こえて来てしまうことである。今の安倍政治で日々話題になっているテーマと言えば、円安と株高誘導のアベノミクス、中韓とぶつかり合う歴史認識、集団的自衛権、そして原発再稼働だ。そこに東北も福島もない。今の安倍政治の内実は、彼がどう言おうと、福島や東北の人々が見捨てられていると感じるようなものになっている。

◆日本にとって福島や東北とは?
 今、日本にとって福島や東北とは何なのか。それを考える時に思うのは、福島と東北の現実からは目をそらして、国家の繁栄や民族の誇りを考えたとしても、国民の意識は否応なく2つに引き裂かれてしまうということである。福島と東北の現実を突きつけられる時、多くの日本人は幸福になれず、それを忘れて自分たちだけが幸福になればいいとは思えないからだ。あるいは、日本の一部の繁栄のために、福島や東北を踏み台にするのか、と言われてしまう。無理に忘れようとすれば、国民の間で意識の分断が始まる。

 福島も東北も、その深刻な現実は魔法のように消えてなくならない。原発事故の処理や避難生活の困難な現実はもちろん、日本の縮図のような、高齢化が進む東北沿岸部の問題も深刻化する一方だ。これを忘れようとしても今は無理。それは、今では風化しつつある敗戦の現実や広島、長崎、沖縄などが持っていた意味と同じなのではないか。言うならば、それはその後の日本人の意識を方向づける「民族の記憶」である。
 戦後の日本が、敗戦の現実と反省を踏まえて国民の意識を平和主義のもとに統合して来たように、今の日本は東北、特に福島の現実をしっかりみつめ、それを自分たちの問題として捉えて、ともに歩むべきなのだろうと思う。「あの大事故・大災害を経験しても日本は何も変わらない」と言われないように、福島や東北の現実を踏まえて議論を深め、ともに生きる。どういう選択をするにしろ、これ以外に今の私たち日本人が共通の価値観と意識を持って生きる道はないように思う。

ウクライナ・21世紀最大の危機 14.3.9

 財政再建を迫られているアメリカは、向こう10年でおよそ5000億ドル(50兆円)の国防費削減をすることになっているが、それでも今年のアメリカの国防費はほぼ横ばいの52兆4千億円。これはもちろん世界のダントツで、2位の中国の4倍であり、アメリカは一国で世界の総軍事費のおよそ半分弱を占める軍事超大国である。
 2位の中国は、(2010年を除き)連続20年以上も二桁の伸びで増えており、今年は12.2%増の13兆4千億円。3位はロシアで、5兆1千億円だ。4位から6位まではフランス、日本、イギリスがほぼ肩を並べていて、日本の防衛費は今年2.2%増の4兆7800億円で、大体GDPの1%程度になっている。この6位までの国が世界の軍事費の65%を占めており、しかも、日本以外の国はすべて核保有国である。

 それにしても、こんなにも巨大な軍事力を持ってしまった米ロの大国同士が大統領のメンツを賭けた瀬戸際外交をしているさまは、人類の危機以外の何物でもない。世界がソチオリンピックに気をとられているすきに、突如「21世紀の欧州で起きた最大の危機(イギリス外相)」として浮上したウクライナ情勢は、日々、深刻さを増している。冷戦終結から25年、忘れた頃にやって来た核保有の大国同士のにらみ合いは、事前の準備もない手探り状態の中で急展開しているだけに、一層の危険を感じさせる。果たして、世界はこの危機を乗り越えることが出来るのか。

◆理論上、戦争が出来ない時代になっているのに
 何しろ上にあげたような国々は核兵器も含めて、実際の戦争では使いきれないほどの軍事力を持ってしまっている。それが、正面からぶつかり合うような戦争は合理的な感覚からすれば、あり得ない状況になっている。仮にそうした大国同士の戦争が起これば、平和の仮説の上に辛うじて成り立っている、グローバル経済などはたちまち崩壊し、実際に核兵器が使われれば21世紀は人類の滅亡もあり得る暗黒の世紀になってしまう。
 従って、世界は既に、局地的な紛争の解決に武力は使えても、大国同士が保有戦力を使って戦争することなど不可能な時代に入っている。世界は今や「不戦時代」に入っている、というのが専らの説だったはずだ(「新・戦争論」伊藤憲一)。そのことを、世界の軍事大国は充分に知っているはずなのだが、それでも核を頂点に精密な大量破壊兵器を革新し積み上げて来た。広島、長崎で最後に核兵器が使用されてから、すでに70年近く経ってしまって、どこかに記憶を置き忘れてしまったのだろうか。

 例えば3月6日アメリカは、今回のウクライナ問題でクリミア自治共和国に正体不明の勢力を派遣して軍事圧力を高めているロシアに対し、関係者の資産凍結やビザ発給禁止などの制裁を発動した。同時に、イージス艦をウクライナの隣のルーマニアとの軍事演習を名目に黒海に派遣。これに対して、ロシアは「制裁という言葉や脅し派受け入れられない」と反発して、UEがエネルギー源として30%依存しているロシアの天然ガスを、対抗措置として用いる可能性を示唆している。制裁と対抗措置の応酬だけでは、解決するものも解決しないのではないかと思うのだが、オバマもプーチンも弱腰を見せればたちまち立場が弱くなると言う問題を抱えているのが難しいところだ。

◆手を突っ込むと火傷しそうなウクライナ問題
 今回のウクライナの混乱は、私などが解説(石川一洋NHK解説委員)を読んでも容易には理解できない位複雑な背景を持っている。ウクライナ系とロシア系の民族間の不信と憎悪がもう後戻りできない位のところに来ているのに加えて、ウクライナ自身が抱えている財政破綻の深刻な経済問題もある。一朝一夕に解決できない複雑で厄介な問題を抱える国であり、同時に核施設や原発もある。見方を変えれば、この複雑な事情を抱えるウクライナによって大国アメリカとEU、ロシアが振り回されているという側面さえある。(*)
 さしあたって、クリミア自治共和国は、3月16日にロシア帰属を決める住民投票を行うとしている。革命を起こしたウクライナの暫定政権は、もちろんこの動きに大反対だし、アメリカも認めない。しかし、ロシアは暫定政権を認めない立場だし、クリミアの住民投票の結果も受け入れる構えだ。このままの流れを辿った場合、まず革命を起こした親欧米のウクライナ暫定政権と、(分離独立してロシア帰属を求める)クリミア自治共和国を支援するロシア軍との間で戦争になるだろう。その時、アメリカやEUはどう出るのか。残された時間は少ない。
 (*)もっと突っ込んだインサイドストーリーとしては「プーチンを強め、米国を弱めるウクライナ騒動」が面白い。

 今回のロシアとアメリカという核を保有する軍事大国同士の対立は、かつてのキューバ危機(1962年)を思い出させるが、冷戦終結後で言えば、初めてと言っていい位の深刻なものである。今回の危機の背景には冷戦終結後、唯一の超大国になったアメリカが財政難から軍事費を削減しつつあると言う一連の変化が、両国指導者の心理に微妙な影を落としているのかもしれない。例えば、ロシアのプーチン大統領は去年、シリアに対する制裁の時は優柔不断のオバマを助けた経緯があるので、今回もオバマの警告を甘く見ているのかもしれない。
 しかし、オバマも(共和党からの弱腰批判を受けて)強硬姿勢をとらざるを得ない状況が出てきており、状況を甘く見るとアメリカの虎の尾を踏むことになる。そうなれば、世界中が不幸になる。ロシアもアメリカも危険な火遊びをやめて、ウクライナを国際的な軍事監視団のもとに置き、問題の解決策を議論する国際的なテーブルに戻るべきだろう。

◆戦争回避のシステム、国際的な議論の場に戻るべき
 現在、クリミアへの軍事介入の正当性、革命を起こした暫定政権の正統性、クリミア自治共和国の住民投票の正統性などを巡って、米ロの主張は真っ向から対立している。しかし、対立点が明確な時こそ、それを議論し解決するための国際機関(国連安保理、国際調査団、国際監視団、国際司法裁判など)の役割がある。これらこそ、戦後何十年もかけて国際社会が受け入れた「戦争回避のシステム」を支える国際的なツール、機能だった筈である。今こそ、これを有効に使うべきである。
 今回のロシアの性急なクリミア自治共和国への軍事介入や、それに対抗するためのアメリカの対ロシア制裁の決定などを見ていると、かつて軍事専門家によって様々にシミュレーションされていた冷戦時代の米ソの対立に比べて、現代の「戦争回避のシナリオ」の錆びつきを感じざるを得ない。これは、つい最近までアメリカの一極時代があまりに長く続いたツケと言うべきものかもしれない。それが崩れつつある今、米ロ、EUなどの大国は、ウクライナの複雑な国内事情や自国の利益やメンツに引きずられることなく、戦争回避の議論の場に戻れるか。世界の命運は、オバマとプーチンの2人、そして英国、フランス、ドイツの首脳の肩にかかっている。

 ところで、テーマを最初の軍備競争の実態に戻すと、中国の軍拡路線の異常さと相対的に力を落として行く超大国アメリカの姿が見えて来る。これをどう考えて行くのか。核兵器時代に軍拡競争にしのぎを削ることが、どれだけ意味があることなのか。あるとすれば、どういうシミュレーションのもとに防衛を考えて行くのか。また、戦争の結末が、あまりに不毛であることが分かっている時に、むしろ戦争を避けるシナリオを国際社会がどう再構築して行くのか。――突如浮上した大国同士の危機をきっかけに、世界は“多極化時代”を視野に入れた、新しい「戦争回避のシステム」の構築を迫られているのかもしれない。

“問題発言”のウラにあるもの 14.2.27

 安倍首相と思想的に近い公人の問題発言が続いている。例えば、首相補佐官の衛藤晟一(自民党議員)、内閣官房参与の本田悦朗(静岡県立大学教授)、NHK経営委員の百田尚樹(作家)、長谷川三千子(埼玉大学名誉教授)、そして経営委員が任命した籾井勝人(NHK会長)などなどである。
 彼らの一連の発言は、内外のメディアから安倍政権の国家主義的性格を示す発言として、強い関心を呼んでいる。それらは、どういう思想的土壌から生まれて来たのか、どのような政治的意図を持っているのか。また、連日メディアに取り上げられて天下に恥をさらしているNHK会長の発言問題は、この先どういう展開を見せるのだろうか。

◆問題発言の数々
 安倍側近の衛藤晟一は、昨年12月の安倍首相の靖国参拝について、“失望”声明を出したアメリカに対し、「むしろ我々のほうが失望した」と逆批判。安倍の経済ブレーンである本田悦朗は、ウォール・ストリート・ジャーナルとのインタビューで、神風特攻隊を引き合いに出しながら安倍の靖国参拝を高く評価し、同時にアベノミクスは賃金上昇と生活向上のほかに、より強力な軍隊を持って中国に対峙できるようにするためだと語った。
 NHK経営委員の長谷川三千子は、20年前に朝日新聞に乗り込んで拳銃自殺した右翼団体幹部への追悼文(去年の10月に発行)で、その自殺をたたえながら、「今上陛下(現在の天皇)が再び現人神(あらひとがみ)となられた」と、象徴天皇制を否定するかのように書いた。百田尚樹は、先の都知事選で田母神候補を応援した際に、「日本がアジアを侵略した、これは大ウソ」、「南京虐殺はなかった」、「東京裁判はアメリカの大空襲の原爆投下の大虐殺をごまかすための裁判だった」と演説。同時に、他の主要候補を「あんなのは人間のクズ」と批判した。

 一方の籾井NHK会長は、就任会見で「慰安婦問題はどこにでもあった」、「国際放送については、政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」、「秘密保護法は通ったこと。あまりカッカする必要はない」と言い、首相の靖国参拝を容認し、尖閣問題で日本の立場を主張すると発言。「(NHKの組織の)ボルトとナットを締め直す」などと語った。こうした一連の問題発言について、衛藤は菅官房長官に言われてそのYouTubeの動画を削除し、本田も釈明に追われたが、安倍に直結する経営委員2人の発言について、政府は個人的な発言として責任を問わない構えである。
 その一方で、国会に呼ばれて追及された籾井会長は、就任会見での発言5項目(従軍慰安婦問題、特定秘密保護法、靖国参拝、番組編集権、国際放送)を「個人的な発言だった」として取り消した。しかし、NHK会長は、その後の経営委員会で「私は失言したのでしょうか」と開き直ってさらに批判されている。

◆問題発言を生む思想的土壌
 しかし、こうした批判は彼らにとって心外の筈だ。日常的に慣れ親しんだ正しい思想であり、それを言ったまでだと思っているに違いない。むしろ、安倍の胸の内を忖度して、それを代弁しているという気持ちもあるのだろう。ただし、その政治信条が身内や右派メディアの中で如何に日常的なものであっても、いざ公の発言となれば様々な反発と批判を受ける。それなのに、なぜ彼らはあえて問題発言をするのか。
 確実に言えるのは、こうした問題発言はこれからも一層頻繁に出て来るに違いないということである。右翼的思想風土は安倍の登場によって今後も強まることはあっても弱くなることはないからである。その思想風土とは、端的に言えば国家主義、国粋主義などとも訳されるナショナリズムである。強い国家をめざすと同時に、民族の誇りを第一義に考え、それを犯す者たちへの攻撃を旨とする。右派(右翼)を自認する人々にとっては、ごく当然の思想である。右派系雑誌(「正論」、「WILL」など)をもとに、もう少し具体的に見ると、その思想にはおおよそ以下のような特徴がある。

@大東亜戦争を正当化する歴史認識
大東亜戦争(第二次世界大戦)は大東亜共栄圏という思想のもとに日本を中心とした王道楽土をアジアに作るためのものであって、侵略戦争ではない。あるいは、アメリカの策謀の前にやむにやまれず立ち上がった自立自存を目指す戦争だった。そうしたことを抜きに戦争を反省しまくるのは、自虐史観である。その延長線上で、靖国神社参拝問題、従軍慰安婦や南京虐殺の見直し問題も進めなければならない。日本民族(特に国のために戦った軍隊)の誇りを傷つける韓国、中国の歴史認識とも闘っていく。

A交戦権を持った軍事強国
特に尖閣をうかがう中国に対する警戒が強い。中国の膨張政策をはね返せるだけの軍備を増強し、領土を守り抜く。韓国の竹島も同様である。自衛隊を国家防衛の中心に据え、増強した軍隊を有効に機能させるために、他国との交戦を禁じている憲法9条を改正。いざという時に戦争できる強い国家を取り戻す。

B同盟国アメリカへの屈折した思い
大国の中国と張り合うためには、アメリカとの同盟関係を強固にして行かなければならない。そのために、特定秘密保護法も作り、集団的自衛権も進める。しかし、中国との関係を重視する現在のアメリカ政府に対しては、同盟国としてかなりのいら立ちも感じている。それに、先の大戦に関するアメリカの仕打ちには、どうしても納得いかない感情を抱いている。原爆や大空襲などの無差別大量虐殺、勝者の裁判としての東京裁判、憲法と戦後民主主義の押し付けなどなどに対する心情的反感である。アメリカに対しては、頭と心がかい離した状態にある。

C思想を共有しない者たちへの攻撃と蔑視
自虐史観の持ち主、戦後民主主義に過度に染められたとする左翼的メディアやリベラル知識人に対する攻撃心が強い。あるいは、それらを「人間のクズ」とよぶ蔑視である。特に彼らかすると、朝日新聞やNHKなどは、偏向報道の筆頭株になる。「NHKよ、そんなに日本が憎いのか」(正論別冊)などのように、容赦ない攻撃を加える。同時に、中韓との和解を説く人々や、安倍批判をする人々に対する攻撃も激しい。彼らにとって、安倍はようやく現れた右派政治家の象徴だからだ。
*天皇を中心とする国家家族主義の主張については、愛国心教育もあるが、まだ充分姿を現してはいないように見える。


 こうした戦後右翼の思想は、これまで社会の片隅に逼塞していたが、安倍の登場によって、ようやく大手を振って表舞台に出られる時代になった。従って、これから日本国内では、こうした右翼思想とリベラルの2思想が天下分け目の戦いを繰り広げることになる。また、勢いを増している日本の国家主義が米中韓の間で、容易ならざる化学反応(これが今後の東アジアの安定を脅かす最大のテーマになって行く)を生んで行くことにもなる。

◆真の狙いはNHKの弱体化
 現在の安倍の支持率は50%弱。これは殆どがアベノミクスの幻影によるもので、その右翼的性格への支持率は、(田母神の得票率13%などを見ても)せいぜい20%程度ではないかと思う。従ってこの先、安倍がその政治信条を実現して行くには、その思想的土壌を国民の間に広げて行くことが重要な課題になるはずだ。
 その意味でも、今のNHKの混乱は安倍政権にとって“思うつぼ”に違いない。右派雑誌が繰り広げる“NHK叩き”から想像するに、安倍周辺の真の狙いはNHKの弱体化(ないしは解体)ではないかと思う。送り込んだ経営陣が仮にNHKの軌道修正に成功しなくてもいい。新会長が無能と傲慢をメディアに曝し、(安倍政権に批判が向かずに)NHKに批判が集まって受信料不払いが増え、NHKが弱体化すればそれでいい。籾井らはそうした権力の意向をバックに、出来る限り居座ってNHKを揺るがし続けるだろう。NHKもいよいよ正念場を迎えるが、それについては、また機会を見つけて書きたい。