日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

戦争が忍び寄るとき 12.10.2

 「戦争が廊下の奥に立っていた」(渡辺白泉)――いわゆる戦争俳句の一つ。間もなく太平洋戦争が始まる1939年(昭和14年)の作だが、気がつかない間に、家の廊下の奥に不気味でリアルな戦争が入りこんでいた、という意味らしい。軍部や国家主義者たちが「国の生命線を守れ」とか、「国家の威信をかけて」などと勇ましいことを言っているうちに、あれよあれよと言う間に国民全体が戦争に巻き込まれて行く。
 当時の庶民は、戦争への流れが日々勢いを増して行くのをどのような思いで見ていたのだろうか。渡辺白泉も新興俳句弾圧事件(1940年)に連座して執筆禁止命令を受けているが、国家批判が許されない中で、人々は息をひそめるようにしてその先の不安と闘っていたのだろうか。それとも戦争を煽る新聞につられて勝利の報酬を夢見ていたのだろうか。尖閣を巡る最近の世情を見るにつけ、そうしたことがしきりに気になる。

◆戦争は誰かがやってくれるものなのか
 昨今の週刊誌や雑誌には、「中国をやっつけろ」(週刊文春)とか、「尖閣防衛・血を流す覚悟を」(月刊WILL、石原慎太郎)といった勇ましい見出しが躍っている。試みに「日中戦争の可能性」とか「日中もし闘わば」をキーワードにネット検索をして見ると、それぞれに700万件、20万件がヒットする。
 ネット上には、既に膨大な数の日中戦争に関する情報が溢れており、中には「日本が勝つ」としたアメリカの海軍大学校準教授の論文(「フォーリン・ポリシー」誌)を紹介した記事もある。元自衛隊の幹部たちのネット放送「日中もし闘わば」も(YouTube)。恐らく中国でも同じような状況なのだろう。

 あほらしくて一々内容を詳しく読んではいないが、今、勇ましく戦争を語る人たちは、どうも戦争になったら自分以外の誰かがやってくれると思っているように見える。戦争になったら、係(自衛隊やアメリカ軍)にやらせればいい、というようなレベルで軽々に戦争を煽るのは如何なものか。
 中国に対して挑発的な言動を続ける石原慎太郎のような人たちは、自分たちだけが危機意識を持っているつもりかもしれないが、真っ先に
自分や自分の息子たちを前線に送り出す覚悟でものを言っているのか。しかも、始めた戦争が一般市民を巻き込まないという自信でもあるのか。危機を煽ることによって「状況」を作りだそうとする彼らの思惑(いつかちゃんと分析しようと思うが)は、市民の立場から見ると実に危険で迷惑なものである。

◆日中の武力衝突にアメリカは参戦するか
 また今、週刊誌や雑誌、ネットで「日米共同なら中国に勝てる」などと安易に戦争を煽る人たちは、いざという時、アメリカは日米安保で日本を守ってくれると本気で思っているのだろうか。幾ら尖閣は日米安保の適用範囲と言っても、適用範囲と参戦することはまた別問題で、イコールではない。尖閣防衛は日本にとっては重要な国益かもしれないが、アメリカにとっても重要だと言えるか、ということである。しかも、アメリカは尖閣の帰属問題では中立の立場を表明している。

 素人考えかもしれないが、(アメリカの立場からは日中どちらのものとも言えない)遠隔地のちっぽけな島を巡って、あのアメリカが自分たちの血を流すかどうか、また重要性を増している米中関係を壊してまで参戦するかどうかは極めて疑わしいと思う。仮に米政府が日米同盟は大事だから参戦すると言っても、議会(ここが決定する)や世論が簡単に賛成するとは思えない。(まあ、アメリカの一部にも中国を叩きたくて仕方がないネオコンのような連中はいるだろうけれど)
 最近のアメリカのメディアも、尖閣の小さな島を表紙に掲げ、日本はこのために戦争するのか?と問いかけ、「哀しいことだが、やるかもしれない」と突き放した見方をしているという(サンデー・モーニング)。
こう考えると、今のアメリカには、自分たちが戦争に巻き込まれないためにも、(日米訓練で日中双方に存在感を示しながらも)尖閣で武力衝突が発生した場合には、拡大しないように後方から双方を説得することぐらいしか出来ないのではないか。

◆紛争解決の出口とは
 戦争は一旦始まればその展開は測りがたく、どこまで拡大するか分からない。また、収束するには始める時の何百倍もの努力と犠牲がいる。これは歴史の教訓である。幸いにして、今のところ日中両国とも尖閣問題は平和的に解決したいと表明している。他方で、中国は一歩も引かないと言っているので、様々な応酬が飛び交う中で、両国がナショナリズムに駆られて熱くならずに、冷静に解決策を見つけることが出来るかどうか、が問われる。
 その解決への出口は今の時点でかなり限られているというのが大方の見方だが、逆に言えば、難しさは別として幾つかに絞られて来ているのかもしれない。以下、その選択肢をまとめておきたい。


 例えば、一度宣言した国有化を取り消すことは出来ないので、国有化は続けながら、「尖閣に領土問題は存在せず」という政府見解の方を(あいまいな形で)引っ込めることである。それには、2つの方法がある。一つは、日中国交正常化(1972年)の時に両国で暗黙の了解にした「棚上げ論」に戻すこと。中国はそれを強く望んでいるという観測もある。
 事実、当時から日本側にも「尖閣問題は棚上げにする」という理解はあったらしい。しかし、2010年の漁船衝突事件をきっかけに民主党政権は、何故か、その暗黙の了解を棄てて「国内法で処理する」という態度に出た。中国はそれに怒っているらしい。何故そうしたのか、メディアにも解明して欲しいところだが、一方、この解決策には高度な外交交渉が要求される。「暗黙の了解」だからはっきり言うわけにはいかないわけで、それをどうあいまいな表現で収めるか、知恵を絞らなければならない。

 もう一つは、中国に国際司法裁判所への提訴を勧めることである。同様に韓国と領有権を争っている竹島問題では、日本が提訴しているのだから、整合性をつける意味でも、そうすべきだという意見がある。政府は、それを認めると「尖閣に領土問題がある」と認めることになると反対しているらしいが、これはむしろ「暗黙の了解」につながる方法かもしれない。中国が提訴に応じるかどうかは不明だが、こちらの方がハードルは低そうだ。
 ただし、2つともその前にやることがある。尖閣国有化の経緯を十分説明して中国側の不信感を払しょくすることである。どうも中国側は、今回の国有化は首相の野田と右翼政治家の石原が結託してやったことだと誤解しているらしい(毎日)ので、野田政権は石原などとは違うのだ、ということをきちんと説明しなければならない。そして日本と中国とでは国有化の意味が違うこと、安定的に管理していくためにやむを得ず取った措置だということを繰り返し説明して理解を求めて行く。

◆「チャイナリスク」を見極める
 問題は、最近まで強硬な姿勢を見せていた野田にこうした芸当が出来るかどうか、である。それが嫌なら三つ目は、「冷戦状態」を持続すること。国有化を続ける、領土問題の存在も完全否定する。同時に、話し合いの姿勢を見せつつ武力衝突が回避できるなら、それで時間を稼ぐのも一つの道かもしれない。何故なら、そのことによっていわゆる「チャイナリスク」がはっきり見えて来るからである。
 データによれば、ここ数年で日中の経済依存度は完全に逆転した(日本の輸出総額に占める中国は01年の7.7%から11年には19.7%に増えた。一方で、中国の輸出総額に占める日本の割合は01年に19.9%から11年に7.8%に減少)。それでも日本資本の中国への投資や雇用の問題などもあるだろうから、この際、経済面での「チャイナリスク」が双方にとってどの程度のものなのか見極める。経済界はとんでもないと怒るかもしれないが、今の冷戦状態は互いのリスクがはっきりするまで動かないかもしれないからだ。

 と言っても、いわゆる「チャイナリスク」は経済的なリスクだけではない。国家体制の不安定、デモの暴発、権力闘争、軍部の突出、膨らむ大国意識などの中国側の要因によって、また政治の右傾化、タカ派の安倍政権の誕生などの日本側の要因によって、予測不可能な事態に進む危険もある。その可能性については、また回を改めて書きたいが、このリスクに火がつかないようにするには、やはり現政権で思いきった解決策を急ぐ必要があると思うが、どうだろうか。

尖閣・武力衝突回避に全力を 12.9.23

 1972年、当時の困難な国際情勢、互いの厳しい国内事情、台湾問題、不幸な歴史を乗り越えて、交渉当事者の田中角栄、大平正芳、毛沢東、周恩来の日中政治家が日中国交正常化にこぎつけた。以来、40年。多くの関係者による地道な日中友好への努力がなされてきたが、この夏の尖閣問題で日中は一気に戦後最悪の関係に突入した。節目の年で、多くの記念イベントが用意されていたが、大半が取りやめになっている。平和を築くのは時間がかかるが、壊れるのは一瞬である。

◆日中最大の危機、冷戦状態の日中
 今の状況は日々動いているので正確なところは分からないが、海外メディアの報道などからすると、今両国は「最も深い危機」の中にある(朝日)。現時点での私見では、一時の激しい反日デモは抑え込まれたが、代わりに経済報復、国際的な宣伝から武力攻撃の示威まで、中国政府主導の本気の対抗措置が始まろうとしている。これは既に「冷戦状態」に近く、これをもとの「戦略的互恵関係」に戻して行くには相当な時間と互いの努力がいるだろうと思う。当然のことながら、この「冷戦状態」を「熱い戦争」に移行させないために、日中はあらゆる努力をして行かなければならない。

 だが、今回の日中危機には私の見るところ、(後述するが)双方合わせて少なくとも15位の背景、要因、きっかけがある。これを解きほぐし、相互の理解を深めて解決策を見出して行くのは並大抵のことではない。両国とも政治が不安定なのを考えると、40年前と同じか、それ以上の政治の知恵がいる。至難の業だが、何としても武力衝突を避けるために知恵を出し合わなければならない。

◆明治以降の日本の拡大政策と密接、複雑に関連する領土問題
 振り返ってみれば、1941年に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まった時、当時の日本(大日本帝国)の領土は広大だった。北は樺太の半分から千島列島全体、朝鮮半島、南は台湾まで。加えて広い南太平洋に委任統治領や租借地を持っていた。
 これは明治以降、
日清戦争(1895年)、日露戦争(1905年)、韓国併合(1910年)によるものだが、日本はさらに満州国傀儡政権を作り(1932年)、中国と戦争を始め(1937年)、あくなき権益を求めて東南アジアまで南進。これをきっかけに連合国と無謀で成算なき戦争に突入して敗戦した。
 その結果はご存知の通り。日本は戦争で国内300万人、アジアで2000万人の犠牲者を出し、ポツダム宣言受諾(1945年8月)によって明治以来広げて来た領土を放棄させられ、危うく北海道の北半分までソビエトに取られそうになった。

 現在、中国、韓国、ロシアと「国の威信」をかけて争っている島々は、敗戦で日本が放棄した広大な領土に比べれば、ほんの芥子粒みたいなものである。だからどうでもいい、というわけではもちろんないが、それで熱くなって仮に戦争でもなれば日本は敗戦の歴史から何も学ばない国として世界から呆れられるだろう。
 しかも厄介なことに、こうした領土問題は、(相手国の主張によれば)明治以来の日本の戦争(侵略行為)と密接に関連しており、日本は歴史の反省を忘れてそれを否定するつもりかと言われる。事実、こと尖閣に関する限り中国にも結構確かな論拠があり、必ずしも日本側の論拠で相手を説得できる状態でないことが分かる。

◆ぶつかり合う論拠、主張
 これまで、私たちが政府や評論家から聞かされて来た説明は以下のようなことである。1884年(明治16年)日本人、古賀辰四郎が尖閣諸島に目をつけ居住区を作ってアホウドリの捕獲などの事業を始めた。その後明治政府も調査を行い、いずれの国の主権も及んでいないことを確認して1895年に日本領であることを宣言した。
 以来、中国は何の異議申し立てもせずにきたが、1971年になって突如「尖閣諸島は台湾の一部であり、よって中国の領土である」と主張し始めた。この理由は、(その3年前に見つかった)海底油田の権益確保、漁業権の拡大、軍事的制海権の獲得と思われる。従って、中国には何ら領土を主張する根拠はない。(「日本国境の新事実」山田吉彦)

 しかし一方、中国側の主張によれば、魚釣島(尖閣)は最初に中国人が発見し、16世紀には中国の版図に入ったことは記録によって明確になっている。しかも、日本が領有を宣言した1895年は日清戦争の年で、魚釣島は敗戦後の下関条約によって放棄させられた台湾の一部なのだから、(太平洋戦争の)戦後処理の中で当然中国に返還されるべきものである。(「魚釣島に対する中国の主権は弁駁を許さない」1996年北京週報)
 しかし、戦後もアメリカはその主権の所在をあいまいにしながら、沖縄占領下に尖閣を組み入れて来た。その間、台湾政府(中華民国)は何度もアメリカによる沖縄占領が終わった時には、魚釣島は台湾に返還すべきだと主張してきたが、1971年、沖縄返還時に魚釣島が台湾に返還されないと見た中国が返還を要求したものである。(「日本の国境問題」孫崎享)

 このように、尖閣の所属を巡っては、明治以降の日清戦争、太平洋戦争、戦後のアメリカによる沖縄占領が密接、複雑に関連している。確かなのは、日本側が本気で自分の領土だと思っているのと同様に、中国も本気で中国の領土だと思っていることである。しかも、中国の主張には度重なる戦争で踏みにじられた深い恨みがこもっているということである。

◆ぶつかり合う疑心暗鬼、警戒論
 領土問題を複雑にし、大きくしているのはその背後にある互いの警戒心、憶測、疑心暗鬼でもある。日本では今、中国が「核心的利益」と呼んで島々を手に入れようとしている南シナ海と東シナ海の動きをセットにして中国脅威論が盛んに言われている。増大し続ける防衛予算を背景に、国内で発言力を強めて来た中国軍の存在も大きい。
 確かに中国は尖閣の外側に
第一列島線、さらにグアムやサイパンまで拡大した第二列島線を想定して太平洋への進出を目指している。ウクライナから中古で購入した中国初の空母も間もなく動き出す。中国脅威論を唱える人たち(例えば櫻井よしこなど)は、ここで中国を抑え込まなければ尖閣の次に沖縄(琉球)まで取られてしまうなどとまで言う。

 一方、中国には中国の事情がある。ここ数年、世界第二の経済大国として世界経済をけん引する中で、急速に自信をつけ大国意識を強めている中国だが、足元には様々な矛盾、不満(拡大する一方の格差、特権階級の腐敗、共産党独裁への不満など)が渦巻いている。また国内には穏健派(国際協調派)と軍部を含む強硬派の権力闘争もある。(「中国は、いま」岩波書店)
 そういう時に、その弱みを狙って日本の右翼政治家が、中国にとって一番敏感な領土問題に揺さぶりと挑発をしかけて来る。彼らの背後にはアメリカがいるのではないか。日中が近づきすぎて日米同盟の影が薄くなるのを警戒する日米の右派勢力。彼らが共謀して同盟を強化し、中国封じ込めに動いているのではないか。中国の権益を侵すこうした外部勢力に少しでも弱みを見せれば、共産党政権の足元が崩れかねない。絶対に弱みは見せられないし、一歩も引くことは出来ない。

◆平和的解決のために努力せよ
 尖閣問題とは、本来は小さな群島の領有権の問題なのだが、双方にぶつかり合う論拠があり、問題を大きくする歴史的怨念、様々な憶測、疑心暗鬼が絡まっている。しかも両国民とも自分の国にとって都合のいい情報だけを聞かされて来て、こうした事情を知らされていない。そこを、国家主義者、右翼扇動家たちは巧みに利用して危機を煽り、揺さぶりをかける。相手の挑発を口実にして武力衝突に持ち込もうとする勢力は、日中双方にいると思わなければならない。

 彼らの思惑が何であれ、扇動に惑わされないためには十分な情報と意志疎通、戦争を回避する強固な意志が必要。武力衝突で多大な迷惑を被るのは、営々として築いてきた日中友好による国益であり、戦場に立つ国民だからだ。冒頭に直接、間接の原因は15以上もあると書いたが、この危機を平和的、建設的に収めるには、よほど冷静で緻密な戦略がいる。お互いに頭を冷やして必要な手立てを探ることである。

◆「毅然と」というなら
 長くなったが、このほか尖閣問題には、4月にわざわざアメリカで尖閣買い上げをぶちあげた石原都知事ら右翼政治家の思惑、彼らと気脈を通じるアメリカ保守勢力の思惑、中国を怒らせている民主党政権の政策変更。そして懸念される武力衝突の場合の展開、日米安保の中で米軍は尖閣で日本を守るか、といった重要な問題もあり、肝心の危機回避策も残っている。どれも難しい問題だが、私たちの運命に直接に関る問題である。勉強しつつ機会を見つけて書いて行きたい。
 いずれにしても今は、「毅然と」というなら日本国民の命を預かる政治家、大きな被害をこうむっている経済界、そしてメディアは、反日デモを煽って日系企業に大きな損害を与えた中国政府の暴挙を批判する(これは当然)と同時に、ことさら危機を煽ってことを大きくしようとする国内勢力にも毅然とモノを言うべきだと思う。

「原発ゼロ」へのシナリオ(2) 12.9.13

 9月11日の新聞報道によれば、政府は新たなエネルギー・環境戦略を「原発の稼働を2030年代にゼロにする」ことで最終調整に入ったらしい。その根拠とするのは、@原発の新増設は行わない、A40年運転制限を厳格に適用、B再稼働は原子力規制委員会の安全確認を得たもののみ、という三原則である。

◆欺瞞的脱原発であいまい決着を図る政府
 しかし、この三原則は一見分かりやすく、説得力がありそうに聞こえるが、Bが大問題で、新しい規制委員会に厳格な安全確認が期待できるかということ。仮に、「一次テスト」だけで再稼働を許可した大飯原発のようにいい加減だと、縛りがかかるのは40年寿命だけになってしまう(さもなければ、新しい規制委員会の最初の仕事は、大飯原発を停止させることになる)。仮に「40年寿命」の縛りだけを日本の原発(現在50基)に適用すると、10年後にはまだ33基が、20年後にも18基が動いている

 つまり、政府案では原発がなくても既に電力が足りているのに、これから20年間も日本は原発大国として危険で厄介者の原発を動かして行き、その間、私たちは過酷事故のリスクと、年々増えて行く使用済み燃料の問題と向き合って行かなければならなくなる。これは、原発ゼロと言いながら原発を続けて原子力ムラの利権構造を存続させ、問題を先送りにする「あいまい決着」に他ならない(前原なども「確実にゼロにするとはいってない」と言っている)。原発ゼロと言ったり引っ込めたり。遅かれ早かれゼロにせざるを得ないのだから、福島原発事故を経験した現世代で決着をつけるのが政治家の責任ではないのか。

◆半世紀の「負の遺産」をどう処理するか
 脱原発とは突き詰めれば、過去半世紀にわたって続けて来た原発という巨大な「負の遺産」をどう処理して行くかという問題である。安全で経費の少ない廃炉方針と使用済み燃料の処理方針を決め、国民にとって最も効率的な財政的枠組みを決める。そして、それを検証しつつ無理なく着地させるための期限を決めることである。
 これは結構難問で、経産省の役人も「課題が多すぎて、どこから手をつけていか分からない」などと言っている。考えれば考えるほど、「何と厄介なものを始めたものよ」と慨嘆したくはなる気持ちも分かるが、原子力ムラ(これにはアメリカも含まれる)の都合など考えずに、「原発ゼロ」で覚悟を決めてシンプルに考えれば、自ずとその方向は見えて来るはずだ。ということで、以下、「脱原発国家への道」(吉岡斉九大教授)なども参考に、まだ生煮えだが一つのたたき台として、私なりに考えた「原発ゼロ」へのシナリオを書いておきたい。

◆日本の全原発を国有化する
 まず、日本の原発を最終的にすべて国有化する。吉岡氏は、国が脱原発を明確にして様々な補助金、税金をすべて打ち切れば原発の経済性はなりたたないのだから、自由経済に任せた方が脱原発はスムーズに行くという。しかし、私は、その間の原子力ムラの抵抗などを考えると、はっきりと国有化を打ち出した方が、原子力産業の方向転換が上手く行くと思うのだ。
 よく言われることだが、原発を廃炉にすると決めた途端に原発が資産から負債に変わり、電力会社は債務超過になる。これを抱えて電力会社の経営は成り立たないので、電力会社は大反対する。それを国策として廃炉にすると、また国からの融資とか電力料金の値上げとかで複雑な形態になる。どうせ、国民が負担するのだから、ここはシンプルに国有化したほうが「負の遺産」の処理は利権が絡まず、透明で分かりやすいものになると思う。

 国有化の際は、電力会社が将来の廃炉に向けてこれまで積み立てて来た資金などもすべて国に吸い上げる。また、原発維持に必要だったすべての費用(核燃料サイクル予算、電源三法交付金など)を廃止する前提で、将来の廃炉に向けての予算計画を作る。国有化のスケジュールは、大まかに3段階くらい。30年超の老朽炉(11基)、津波対策が困難な場所、活断層が近くを走っている場所の炉、大都市圏が近く過酷事故対策が取りにくい場所の炉などから順次国有化して行く。
 廃炉の最終形も決めなければならない。解体して平地にするのが現在の国の方針だが、そうすると膨大な放射性廃棄物が生まれるので、燃料を取り出してそのまま管理する可能性もあるだろう。ただし、一方で今後10年くらいは、原発以外の電力が、(例えば震災や噴火などの天変地異の時にも)安定して供給できるかどうかを検証するために、保険として原発をすぐ稼働できる状態で一定規模残してもいいと思う。(稼働させるかどうかは別)

 原子炉を手放した電力会社は、身軽になって火力水力のほか、様々な形態の発電を行えばいい。最終処理まで計算に入れた原子力の経費は、火力とそんなに変わらない筈なので、そうすれば現行の電力料金でもやって行けるはずだ。発送電分離も行われるので、それでやって行くだけの経営努力をしなければ競争時代に生き残れなくなる。新エネルギーが相当量増えれば、徐々に価格を下げることになるので、国民に新たな(大きな)負担増を強いることにはならないだろう。

◆使用済み燃料の処分法、核燃料サイクルをどうするか
 原発ゼロにする以上、使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出す意味がない。従って、2兆円をつぎ込んでも完成しない再処理工場は必要なくなる。使用済み燃料は、経費的には、そのままキャスクに入れ地中深くに厳重に管理(10万年)するのが一番らしいが、これも場所をどこにするか日本では全く目途が立たっていない。
 狭くて活断層の多い日本では、その場所探しの困難さだけを考えても、使用済み燃料を増やし続ける原発再稼働は許されない筈だ。しかも、今の日本には既に1万7000トンが溜まっている。これを現行のように原発敷地内に仮保管するのは危険過ぎるので、取りあえず数百年でも保管できる場所を早急に見つけなければならない。青森県は反対しているが、それを押してお願い出来るか。かなりの金も積まなければならないだろう。まさに「負の遺産」で気が遠くなるが、
問題を先送りにして来たツケは国民全体で負わなければならない

 原発ゼロが決まれば当然、再処理施設やプルトニウムを燃やすための高速増殖炉「もんじゅ」などの商業化をめざす核燃料サイクルは、必要ないので廃止する。税金で原発を廃炉にして行くためには、こうした余計なものに大金を使っている余裕はないからだ。ただし、一方で核燃料サイクルは核兵器製造技術と裏表の関係にあるので、これを棄てることに抵抗する勢力は大きい。本来は、そんな技術もいらない筈なのだが、研究用として必要最小限を残すことはあり得るかもしれない。

◆原発を止めたまま、10年かけて、確実な答えを検証して行く
  税金での「原発ゼロ」の実行が決まれば、「国民負担(税金)を軽減するために、原発を動かす」と言う考えは通らなくなる。何故なら、再び福島のような事故が起これば、それこそ全原発を廃炉にする以上の金がかかって来るし、原発を続ければ、それだけ使用済み燃料が増えて行くからだ。従って、原発の稼働はよほどの緊急事態のとき以外にあり得ない。(一説に3兆円というが)燃料の輸入代が、もったいないなどと考えないことである。

 安定的な電力供給についても、原発を再稼働せずに、これから10年位かけて代替エネルギーを促進し、また災害時の火力発電のシミュレーションなどを検証して行けば、確実な答えが出るのではないかと思う。その間に、国民負担額も試算し、原発国有化法案など、脱原発関連の様々な法律を立法化して行く。
 さらにもう一つ、今の原子力産業を原発推進から脱原発に切り替えて行く必要がある。これも今後半世紀以上かけて日本の原発すべてを後始末する仕事は山のようにある。世界的にもこれから脱原発技術は多くの需要が見込まれるはずだ。雇用も含めて、その方向転換の青写真を描く作業も国に課せられてくる。

 ということで、私の「原発ゼロ」のシナリオは、リスクの高い大飯原発をまず停止して、そこから「原発ゼロ」を続けて行く。そして順次全原発を国有化し、2025年(13年後)までに、確実にゼロにできるように国が責任を持って施策を進めることである。これを今の日本で実現するには、第一にこうした「真の脱原発」案で政党、議員を仕分けて、その人たちを応援して行く。そして「原発ゼロ」のイメージを明確に示ししながら各層の力を結集し、最終的には国民投票で国民的合意を実現することである。民主主義の力が試される、その方法論についても、引き続き摸索して行きたいと思う。
*領土問題や政党問題なども書かなければと思っているが、取りあえず日中関係については2年前の「どつぼにはまる日中関係」を。基本的にはあまり変わらない。

「原発ゼロ」へのシナリオ(1) 12.9.8

 せっかく原発ゼロが見えて来たのに、放っておくと国は「2030年“代”にゼロ」などという「欺瞞的脱原発」でごまかそうとする。それにNOを突きつける意味でも、前回に引き続き(今回は私の)「原発ゼロ」への考え方を整理しておきたい。これまでも折に触れ書いてきたことの整理になるが、この時期、それを明確にしておくことが、自身の判断の基軸として欠かせないと思うので。

◆なぜ原発ゼロでなければならないか
 始めに、原発ゼロの理由を確認しておきたい。それは何よりも人類(特に日本人)は原発とその関連技術(核燃料サイクル)を制御できないということである。
 何故なら第一に原子力発電は過酷事故や廃棄物の問題から言って「未完の技術」だからである。万一、多重防護が破られるような過酷事故が起きてしまえば、どうにもならない。複雑で巨大な現代技術と言いながら、最終的には水をかけるなどの原始的な手段しかない。加えて、発電に伴って増えて行く使用済み燃料を処分する方法も場所も決まっていない使用済み燃料の有効利用として始まった、(リスクの大きい)再処理や高速増殖炉と言った「核燃料サイクル」も未完のままだ。
 いまや危険な使用済み燃料は、日本のどこにも引き受け手がなく、膨大な量が殆ど何の防護壁もないまま、原発敷地内に溜まり続けている。そのまま管理する場合には地中深くで厳重に管理しなければならないが、その期間は十万年に及ぶ。それは人類にとって永久と言っていい時間であり、使用済み燃料を増やし続けることは未来の人類と地球に対する罪と言っていい。

 第二に、日本は世界で起きる地震の2割が集中する地震大国だからである。狭い国土に、最近分かって来ただけで2千本の活断層が走っており、しかも3.11以降、日本は千年単位の地下の大乱時代にある。超巨大地震が予想されている時に、原発を50基も抱えているのは、体に時限爆弾を幾つも埋め込んでいるようなものである。
 第三に、日本は原発の安全を何よりも優先する社会的合意が作れないからである。それは、福島原発事故で嫌というほど思い知らされた。慣れ合い的無責任や経済性を重視して安全を軽視する体質は、情けないことに福島事故後も続いている。(「日本は原発を持つ資格があるか」に書いたように)日本には何ものにも影響されない独立した監視機関という思想がない。仮に欧米のような規制機関を作っても、たちまち腐敗してご都合主義に陥るのは目に見えている。

◆原発は非倫理的エネルギー
 もう一つ原発ゼロの理由を付け加えるなら、(言わずもがなだが)原発は一旦過酷事故を起こせば取り返しのつかない被害を出すからである。一基の原発だけでも制御不能に陥れば、致死性の放射性ガスが大都市を直撃して国を滅ぼす。日本では、その原発が一か所に5基、6基と集中していて、(一時、福島でも憂慮されたように)そのすべてが制御不能になるような最悪の場合、影響は地球規模にまで拡大する。
 放出された放射能は長期にわたって生命を脅かし、その影響は世代を越えて続く。汚染がヨーロッパ中に拡大したチェルノブイリの場合、25年経った今も発がんだけでなく、免疫低下、心臓障害、奇形などの様々な非がん性疾患が報告されている。

 原発事故は、生命や生活を脅かすだけではない。私たちの祖先が長い間かけて育んで来た美しい国土と歴史と文化を根こそぎ破壊する。放射能に汚染された東北や北関東の美しい田園風景、緑深き山々、渓流や湖、そして点在する古くからの神社仏閣など。原発維持を主張する経営者や政治家は、そういう所にじっと立って原発事故の罪深さを感じてみればいい。
 福島原発事故後、2020年の脱原発を決めたドイツでは、メルケル首相の諮問委員会(哲学者、宗教家、社会学者など17人からなる)が「原発は倫理的エネルギーではない」と答申した。原発を続けることは、民族の未来に対して顔向けできない状況を続けることに他ならない。今こそ日本も「原発ゼロ」の覚悟を決め、一つ一つ課題を乗り越えて行くべき時だと思う。

◆しかも、原発がなくても電力は足りる
 電力会社は去年、止まっている原発を動かさないと、夏の電力が足りなくなると言い、冬は乗り切れないと脅し、さらに今年の夏も大変だと言って関西の大飯原発3号機、4号機を稼働させた。3度の電力需要期(ピーク時期)を経験して明白になったことは、日本は、すでに原発なしでも楽にやって行けるだけの「体力」をつけているということである。その理由をいくつか上げる。

 一つには、これまで原発をフル稼働させるために調節用として使っていた火力発電をフル稼働に切り替えたからである。統計上、火力と水力をベースにすれば原発はなくてもピーク時に必要な電力は維持できる。各電力会社でばらつきはあるが、日本全体でならして見れば、原発は余計者なのである(「日本の脱原発はもう始まっている」去年6月)。
 二つには、節電意識の深化と節電システムへの切り替えで節電が一気に進んだことである。省エネ家電やLEDが家庭に浸透し、事務所や工場では徹底した節電努力がされている。セブンイレブンやローソンなどのコンビニでは全店で25%〜30%の節電を達成した。さらに、家庭や事務所、あるいは地域単位で電力使用を適切に管理するスマートグリッド化が進めば、節電はさらに進むだろう。

 この二つで既に原発がなくても十分やって行けるのだが、三つめは電力会社以外の電力が増えていることである。現在、電力料金の値上がりを見越して、多くの工場やオフィスビル、病院などが自家発電に切り替えている。そのデータは明らかになっていないが、一説には(過去1年の)自家発電の純増が600万kW、原発6基分ほどにもなるという。その上に、これから主役になる太陽光、風力、地熱、波力、潮流などの自然エネルギー(再生可能エネルギー)が控えている。

◆自然エネルギーをどう考えるか
 自然エネルギーについては、日本はまだ3.2%と出遅れていることもあって、相変わらずタメにする議論が多い。今や原子力ムラの広報マンになった感のある石原慎太郎は「世界第三の経済大国の日本が、太陽の光や風車でやって行けるか」などと言うが、これまで見て来たように日本は自然エネルギーなしでも十分やって行ける。
 では、日本における自然エネルギーの役割とは何か。それは第一にはCO2を減らし、温暖化を防ぐことである。また、輸入に頼っている石油や天然ガスなどのエネルギーをできるだけ自国のものに置き変えて行く効果もある。同時に私は、自然エネルギーにはもう一つ別の役割もあると考えている。

 それは、日本の電力構造を集中型から分散型へ、電力の地産地消へと変革することである。それが自然エネルギーの得意分野だ。安定した大電力を必要とする工場や公共交通機関、病院などは火力などの大電力でまかない、一方、住宅や集合住宅、小さいオフィスなどは自然エネルギーで作った地域の電力でまかなう。その方が柔構造で危機に強くなるだろう。そうした住み分けが可能になるためにも、発送電の分離が必要になって来る。それが出来れば、「固定買い取り制度」も出来たので、自然エネルギーは今後急速にシェアを伸ばして行く。

◆半世紀に及ぶ負の遺産(原発と原子力産業)をどうするか
 ここまで、脱原発の理由とそれが可能な理由を書いて来た。次に残された問題は、原発開始以来50年の「負の遺産」を誰がどのように始末して行くのか、その費用を誰が負担するのか、巨大な原子力産業をスムーズに方向転換出来るのか、などになる。いずれも難問だが、これらを検証し、実施する期限をつけないと「真の脱原発」にはならない。ということで、これからようやく本論(脱原発のシナリオ)に入るわけだが、長くなってしまったので次回に。

「原発ゼロ」への道筋を示せるか 12.8.26

 8月17日、遅ればせながら脱原発の国会包囲デモに参加した。日本人が見せた安保以来最大と言われる政治に対する抗議、主張のうねり。あるいは、国民からの意見聴取、討論型世論調査(写真)で明確になった「原発ゼロ」への意志。福島第一原発事故を経験して、いまや「脱原発」は明らかに国民の間で主流になり、異端から正当へと進化した(「脱原発国家への道」)。
 しかし、これで脱原発が国民の望むような形で進むかどうかと言えばそう簡単ではない。何より問題なのは一口に「脱原発」と言ってもその内容は、「中長期的には脱原発依存」などといういい加減なものから「すべての原発の再稼働反対、即脱原発」まで、実に多様な考えが混在しているからだ。

 その多様さの間隙を狙って、選挙を意識した政治家たちによる玉虫色の妥協案が画策され、メディアを含む原子力ムラの必死の巻き返しが行われている。国のエネルギー政策はこれから半月余りが正念場。「真の脱原発」がなるかどうかは、解散風が強まっている今が千載一遇のチャンスでもある。そこで今回は、デモから次のステップに進むための「脱原発の具体的な道筋」について書いてみたい。

◆国会包囲デモを見て来た
 まず、国会包囲デモについて。これは参加するというよりは、どんなものか見て来たというのに近い。夕方6時半、議事堂に近づくと既にデモは始まっていた。しかし、最近は規制が厳しくなったせいか、議事堂を取り巻く道路の歩道のうち、国会に近い方の歩道は立ち入り禁止で、遠い方の歩道だけが歩けるようになっている。
 道路脇には装甲車がずらりと並んでいて多くの警官が手持無沙汰にたむろしている。デモ隊を出来るだけ国会から遠ざける戦術だろうが、狭い歩道を2つに分けて、一方を通行用にして、片側だけにデモ隊を押し込める徹底ぶりだ。この大量の装甲車と警官による規制は民主的でない上に、明らかに過剰で税金の無駄使いにしか見えない。

 見たところ、デモの参加者は母親や若い女性、お年寄り夫婦が多い。主催者が呼び掛ける「再稼働反対」、「原発いらない」、「子どもを守れ」、「(原子力規制庁の)人事案撤回」といったシュプレヒコールに声を合わせているが、皆、やむにやまれぬ気持ちでここへ来たという表情をしているのが印象的だった。
 しかし、その歩道からだと装甲車の壁に阻まれ、広い4車線道路に隔てられ、さらにその先には誰もいない歩道があり、国会議事堂は遠くにしか見えない。これで集まった人々の思いが国会に届くのかと、デモ規制のあり方に文句の一つも言いたくなる(もっともこの時間、国会は閉まっていて暗闇の中にある)。

◆主流となった脱原発への意志
 デモの主催者の「首都圏反原発連合(反原連)」は、脱原発を目指す都内の様々な団体の連合体。代表者たちの顔ぶれが謎めいていることも手伝って、ネット右翼からは元赤軍派だとか、過激派だとか攻撃されているが、むしろそうしたレッテル貼りにつながることを極度に警戒していて、警察とのもめごとが起きないように自己規制しているらしい。
 最近はこの暑さで、一頃よりはデモの動員数も下降気味で、ネットでは権力と妥協した優等生でいいのか、「再稼働反対」(シングルイシュー)だけを言っていればいいのか、もっと議論を深めて多様な国民の声を結集すべきではないのか、といった様々な批判もされている。

 しかし、4月に始まって以降、デモは空前の動員数を記録し、最近では地方にも飛び火している。それだけ脱原発に対する国民の気持ちが切実ということだろうが、デモの主催者が国民の脱原発の意志を顕在化(見える化)した功績は大きいと思う。今ではメディアも政府、政治家もデモに集約される国民の声を無視できなくなっている。
 これまで野田首相は、将来のエネルギー政策について、「中長期的には脱原発依存を目指す」、「単なる脱原発は精神論」などと、国民を馬鹿にした言い方に終始してきたが、ここへ来て幾つかのメディアが「政府は2030年代に原発ゼロの線でまとめようとしている」と報道した。

◆意見聴取、討論型世論調査を巡る姑息な駆け引き
 ご存知のように、つい最近まで野田政権は2030年(18年後)に@原発ゼロ、A15%、B20〜25%の3つの選択肢を用意し、意見聴取や討論型世論調査で国民の意見を聞いて来た。電力利権派の仙谷由人などは、何とかAの15%に落とし込もうとちょろちょろ動いていた。しかし、どうやっても国民最多の意見が@と分かると、形だけでも「原発ゼロ」を表に出さないと選挙で戦えないと考えたのか、いつの間にか2030年“代”などという姑息な表現を使い出した。

 それにしても2030年“代”とは聞いて呆れる。限りなく後ろに解釈して2039年(27年後)ならば、私の孫でさえすでに中年にさしかかっている。決めた責任者は誰もこの世にいないのに、その間も、危険な原発を動かして末代まで管理が必要な使用済み燃料を増やし続けるのか。2030年“代”とはつまり、自分たちの代で解決したいという国民の声を無視した問題先送りに他ならないこれは、古川担当大臣あたりからの(観測気球的な)リークだろうが、メディアも特ダネのように伝えるだけで、全く無批判なのは相変わらずだ。

 野田政権は国民の原発ゼロの意向が強いことに泡を食って、8月22日に有識者会議(国民的議論に関する検証会議)を開いて、国民の声に答えないで済む屁理屈を考え出そうとしている。一方、民主党の方でも23日に「エネルギー・環境調査会」(前原会長)を作って24日から検討を始めた。
 エネルギー政策の決定は、既に去年から政策日程に上がっているのに、何もかもが泥縄式。国民の声に素直に答えたくない、経済界にもいい顔したい、という政府、そして原子力ムラの動き(読売は今日の社説で「意識調査はあくまで参考に」などと書いている)を見ると、(デモも含めて)攻防はこの先も続くと覚悟した方がいいかもしれない。

◆原発ゼロへの道筋を示せるか?
 政策として「脱原発」が決まって行くには、まず何よりも安全確保を最優先にした上で、「代替の電力をどのように確保するのか」、「その場合、電力料金はいくらまでなら許せるのか」、「廃炉にする原子炉を誰が管理して行くのか」、「核燃料サイクルをどうするのか」といった問題を吟味し、最終的に「いつまでにゼロにするか」を明示しなければならない。
 これらの内容と根拠が明確になり、国民の間で原発ゼロへの道筋が共有できるようになれば、脱原発はすぐにも出来る(それは、原子力ムラが利権を放棄さえすれば可能*)。しかし、その道筋をはっきり示せないでいると原子力ムラからの「電力が足りなくなったらどうする」、「電力料金が上がれば経済が成り立たない」、「廃炉が決まったとたんに電力会社は倒産する」などという脅しが続くことになる。

 脱原発への道筋を示すことについては、去年9月以来(「原発を看取るということ」)、ずっと問題提起して来た。正直、政府も民間も含めて取り組みが遅すぎるという不満はあるが、最近になって、ようやく幾つかの取り組みが始まっている。例えば、衆参議員有志の「脱原発ロードマップを考える会」では、遅くとも2025年(13年後)までに原発ゼロを目指すとし、その根拠・内容について検討中だ。
 また、大江健三郎氏を中心とする「脱原発法制定全国ネットワーク」(8月22日に発足)も、2020年〜2025年のなるべく早い時期にゼロを目指すための法案作成に向けて動き出している。出来るだけ早く緻密な提案を作り上げて欲しいと思う。(*今回は、私なりに整理した道筋も書くつもりだったが、長くなったので次回に回したい)

巨大イモ虫と原発 12.8.18

 以下に書くちょっと奇妙な話は、つい最近実際にあった話である。身辺雑記として「風の日めくり」に書くか、「日々のコラム」に書くか迷ったが、次回の予告編としてこちらに載せることにした。

◆◆◆
 8月14日の夕方、涼しくなった頃合いを見て、近所の遊水池公園にウォーキングに出かけた。夕方の6時半、日が短くなってあたりはすでに薄暗い。私は、公園のそばを走る道路の路肩にある歩道を歩いていた。すると、歩道の一方の草むらから這い出した一匹の巨大な芋(イモ)虫が、反対側の植え込みに向かっているのを目撃した。
 全身が黒っぽい色で、見たことがない位大きい。全長10センチくらいはあったと思う。その芋虫は、むくむくと体を動かしながら私が歩いている歩道の殆ど中央までやって来ていた。この芋虫は何の幼虫なのだろう。それにしても気持ち悪いほどに大きい。それはほんの瞬間、頭に浮かんだことに過ぎず、私は殆ど無意識のまま、ただその巨大な芋虫を踏まないようにまたいで歩き続けた。

 それだけなら、すごい芋虫がいるものだ、で終わっていただろうと思う。しかし、芋虫をやり過ごしてから十歩も行かないその時。前方からおばさんが同じ歩道を自転車に乗ってやってきたのである。歩道の中央を走って来る自転車。歩道の真ん中を横切っている巨大な芋虫。おばさんは何も知らない。私は歩道の脇によってその自転車をよけながら、振り返って自転車のタイヤが芋虫を踏みつぶすのかどうかを、確かめずにはいられなかった。芋虫の運命はどうなるのか。
 自転車が芋虫に近づいた時、一瞬芋虫の体が縮んだように見えた。自転車のタイヤは、殆ど芋虫の鼻先にある触角が触れる位のところを通りすぎたのである。おばさんの自転車は何事もなかったように過ぎ去った。再びむくむくと歩きだす芋虫。それは、得体の知れない災難が身をかすめた芋虫の気持ちを、思わず想像してしまうような出来事だった。

◆◆◆
 夕暮れの中を歩く私の頭には、今見た光景がしきりに浮かんで来る。芋虫はすんでのところでぐしゃっと踏みつぶされるのを免れた。突然、得体の知れない巨大な物体(タイヤ)が鼻先を地響きを立てながら通り過ぎたわけだが、何故か死なずに済んだ。偶然と言えば偶然だが、考えてみればこういう偶然は、私たち人間の世界にも無数に存在するのではないか。
 運悪く、夏休みの行楽に行った家族が事故に会う。中には先祖の墓参りに行った帰りの死亡事故などもあるだろう。そうかと思えば、気がつかないままそう言う事故から間一髪で逃れている場合もあるに違いない。私が生まれた67年前の戦争の時は、そうしたことが日常茶飯事だった。決定的な災難に、ある人は遭遇し、ある場合は危機一髪で逃れる。そこにどんな力や偶然が働いているのだろうか

 この芋虫の場合、さらに不思議なのは、その瞬間の一部始終を見ている私と言う存在がいたと言うことである。あの芋虫の運命を分けた瞬間を目撃していた自分と言う存在は何なのだろうか。芋虫を人間に見たてた場合、人間に起こるこうした運命のいたずらを見ている存在は、この世にいるのだろうか。
 一番分かやすいのは、それが神なのかもしれない、ということである。それは、宗教のような意味合いの神ではないかもしれないが、この世に起こる様々な事象の一切を高みから見届けている存在である。芋虫の生死を分けた一瞬を見ていた私のように。
 その存在が、人間一人一人の運命を(この場合は助けてやれ、この場合は手を出さない、などと)左右していることはないだろう。しかし、あの不思議な一瞬を構図的に考えれば、この世に起こるあらゆる事象を透徹した目で見ている別の視点の存在を感じてもおかしくはないことになる。特に、生死を分けるような偶然に出会った時に、人間はその存在に敏感になるのかもしれない。そんなことを考えながら、私は夜の公園を歩き続けた。

◆◆◆
 「あれは何だったのかなあ」。それから2日後、原発再稼働反対の国会包囲デモに初めて参加した夜、一緒に行った人と食事をしながら、私はその目撃談を持ち出してみた。私が感じたことを話すうちに、その人は「多分、その芋虫を目撃したことは、今言っているようなことを君が考えるということで意味があったということではないかな」という。「そうかなあ。とすると、そこから何を引き出せばいいのだろう」。
 それからしばらく、私たちは脱原発とは今すぐなのか、10年後なのか。国民の声を政治に反映させるには、どうすればいいのかなどについて話をした。やむにやまれぬ思いでデモに参加していた人々の顔を思い浮かべながら、一方で焼き鳥屋で楽しそうに談笑する客たち、窓の外の街を歩く人々を眺めながら、その落差に脱原発の一筋縄でいかない難しさを感じていた。

 その時である。ふと私の頭の中で何かが光ったあの芋虫は私たち日本人ではないのか。巨大な災難が目の前を通り過ぎたのに、何が起きたのか分かっていない。わずか一センチでも違っていれば、踏みつぶされ、命を失った災難。芋虫と自転車の構図は、日本人と福島原発事故の構図そのままではないか。
 自分に何が起きたのかも分からない芋虫の姿。それは危機一髪で国の滅亡を免れながら、殆ど何の教訓も生かさないまま、危険な原発を再び動かしている日本の姿と何と似ていることだろう。福島原発事故の真の恐ろしさを見ようとしない政治家や経営者や官僚たちが原発を恣意的に動かしている日本。不気味なのは、すべてを見通しているもう一つの存在が、この日本の状況をじっと見ているということ。今の日本には、人知の及ばない時限爆弾が音もなく時を刻んでいるような恐ろしさがある。(国会包囲デモの詳細については、次回の「日々のコラム」に書きます)

Nスペ「メルトダウン 連鎖の真相」 12.8.8

 福島第一原発事故に関する調査については、2月27日の民間事故調査報告、7月5日の国会事故調査報告(写真)、7月23日の政府事故調査報告で一応の作業を終えた形になっている。しかし、共通して日本の原子力推進体制(原子力ムラ)がいかに意図的怠慢を繰り返して来たか、「人災」の要素は浮き彫りになってきたが、原子炉で何が起きたのか、損傷の具合がどうなっているかについては、殆ど未解明のままに終わった。そういう意味で、本格的な事故調査はこれからが大事になる。

◆安全政策のメルトダウン、NHKスペシャルの健闘
 国会事故調、政府事故調とも新たな機関で事故解明を継続すべきだと提言しているが、前回も書いたように動きは鈍い。国会事故調について、野党の一部は黒川委員長を国会に呼んで詳細を聞くべきだと言うが、再稼働問題に触れられたくない民主党、過去の原子力政策を詮索されたくない自民党は気乗り薄。興石幹事長などは「全会一致ならば、それは呼ぶでしょう」などと他人事のように言っている。
 このままでは、人事で揺れている原子力規制庁の発足も、次の事故調査機関の設置もいつになるか分からない。世界を震撼させるような大事故を起こしながら、なし崩し的に再稼働に踏み切った日本だが、原子力の安全対策そのものが極めて深刻なメルトダウン状態に陥っている。

 そんな中、独自の取材を続けながら「原子炉に何が起きたのか」を粘り強く検証しているのがNHKスペシャルの「メルトダウン」取材班だと思う。去年12月18日放送の「メルトダウン〜福島第一原発 あの時何が〜」で1号機の事故経過に迫り、今回は7月21日放送の「メルトダウン 連鎖の真相」で謎の多い2号機の事故経過と3号機の過酷事故対策の不備について検証している。「原子炉で何が起きたか」に迫るという点では、ともに政府や国会の事故調査の先を行く力作だった。
 
◆Nスペが指摘する構造的欠陥
 Nスペ「メルトダウン 連鎖の真相」は去年3月、事故発生時の現場で対応に当たった300人を超える人々にインタビューし、事実を一つ一つ積み上げながら、2号機と3号機で何が起きたのかを検証した。当事者たちの証言から、日本が破滅の寸前まで行った「恐怖の実感」が生々しく伝わって来る。

 2号機に冷却水を入れるためには、高くなった圧力容器内の減圧が必要になるが、8個ある減圧弁(主蒸気逃し弁:SR弁)すべてがいざという時になって動かない。高熱によって格納容器の気圧が高くなると弁が抑え込まれてしまうという、これまで見逃されていた構造的欠陥である。しかも、この欠陥は、日本の他の原子炉にも共通している。
 一方、2号機の格納容器の圧力が設計強度を超えてどんどん高くなる。破裂の危機が迫って来るが、今度は格納容器の圧力を下げるためのベントが働かない。コンプレッサーからベントに空気を送る配管に何らかの損傷が起きていた可能性があるという。この配管は直径5センチ、長さ70メートル。それも地震の力が一様にかかるような直線ではなく、各所で折れ曲がっている。

 政府や東電の事故調は地震の影響を否定したが、番組はこの配管が地震で破損した可能性を指摘した。これを見て思いだすのは、かつて私たちが作ったNHK特集「秘められた巨大技術 これが原子炉だ」。その中で、私たちは原発が複雑で巨大なシステムであることを示すために、スタジオに原発の巨大な模型を運び込み、その複雑に入り組んだ配管類を見せた。
 原発は膨大な部品の集合体で、一説に1500万個の部品と2万個を超えるバルブ、それに長大で入り組んだ配管類で出来ている。それらが一つ一つ重要な働きをしている時に、政府や東電の事故調のように地震の影響がないなどと断言できるか、ということである。

◆重大事故(過酷事故)の時の対策が何もない
 2号機は殆どなすすべもなく、崩れ落ちた高熱の核燃料によって圧力容器の底が抜け、ついには格納容器までも破損。今回の事故で最も多くの放射能を漏出した。もし、2号機が大きく破壊されたら、それこそ第一原発1号機から4号機まで近づけなくなり、そのすべてから大量の放射能が首都圏一帯まで放出されただろう。それが、3月25日に密かに政府が想定した最悪の事態である(或いはそれ以上もあり得た)。しかし、2号機が現場の誰もが心配した格納容器の大破壊につながらなかったのは、殆ど奇跡であり、今に至るも大きな謎である

 一方、3号機でも、非常用電源として必要だったSR弁開閉用のバッテリー(12ボルト)が間に合わないなど、過酷事故に対する備えが全くない現状が浮かび上る。同様の対策を取材したアメリカの原発は過酷事故に対して、フクシマを教訓に可能な限りの備えを始めている。それに比べて、日本がいかに遅れているかは呆れるばかりだ。まかり間違えば国家と国民を破滅させるような危険物を扱いながら、何も備えてない。フクシマ以前も以後も、日本の当事者(国と電力会社)の先送り体質と無責任さを痛感する。

 ◆それにしても恥ずかしくないのか?
 今回の2号機、3号機の検証で見つかったSR弁の欠陥や、地震による配管損傷の可能性。加えて、1号機の検証番組(去年12月)で見つかった水位計の欠陥、或いは報道ステーションの特別番組が指摘した水素ガスダクトの設計ミス。次々見つかる構造的欠陥は日本の他の原発にも共通した欠陥なのに、未だに何も改善されていない8月3日の新聞には小さく、大飯原発3号機が営業運転に入ったという記事が出ていたが、こうした欠陥を放置したまま、「暫定的な安全基準」などという屁理屈で野田政権は原発の再稼働を行った。

 国会事故調の黒川委員長も言っていたが、フクシマ原発事故は、当初も現在も世界中の専門家から注目されている。しかし、問題は日本政府にその意識が欠落していることだ。こういう番組を見ると、いま世界の原子力専門家たちが、日本政府の決定を侮蔑と憐みの目で見ているようにさえ感じる。
 政治や経済に妥協して再稼働にゴーサインを出した、原子力安全・保安院、原子力安全委員会、福井県の原子力安全専門委など、日本の専門家たちは、専門家としての良心に照らして恥ずかしくないのだろうか。

 幾つもの新事実を指摘したNスペは、政府や国会の事故調も殆ど手がつけられなかった「原子炉で何が起きたのか」という最も困難な検証において、着実な成果を上げている。政府と国会が調査報告をたなざらしにしようとしている状況では、こうした検証番組の価値は一層光って来る。制作陣に敬意を表するとともに、現在殆ど掴めていない原子炉損傷の状態を含めて、まだまだ解明すべきことは山のようにあるので、引き続き粘り強く検証して行って欲しいと思う。

3.11後の日本が問われていること 12.7.29

 前回の行きがかり上、国民の声を政治に反映する回路「熟議のプロセス」について書こうと思っていたのだが、忙しさに紛れて遅れているうちに、日本では(以下に上げるような)様々な出来事が進行している。いずれも、これから総選挙で大きな転換点を迎える日本にとって、将来を左右しそうな大きなテーマである。
 本当は、それぞれ回を分けて書くべきテーマだと思うが、じっくり構えていると激しい変化に取り残されそうな気がする。そこで(「熟議のプロセス」も大事なのだが)今回は、急きょ最近の動きについての“雑感”をまとめておきたい。そして、それらの根っこにあるものを探ってみたい。

◆7月一カ月の動き
 このひと月ほどの動きとは、例えば以下のようなことである。
@ 福島第一原発事故に関する国会事故調、および政府事故調の最終報告が出たこと。民間、東電も含めて4つの事故調が出たことによって、原発再稼働の欺瞞性が一層明確になる一方で、原発事故の論点が拡散する危険や事故調査の店じまいの危険があるようにも思えること。

A 大飯原発の3号機に続いて4号機もフル稼働した。関西電力社長などは、嵩にかかって「高浜原発3、4号機も再稼働したい。これは電力需給の問題ではなく、エネルギー・セキュリティーの必要性からだ」などと本音を言い始めた。その一方で、官邸や国会を包囲する再稼働反対、脱原発デモがかつてない盛り上がりを見せており、メディアも無視できなくなっている。

B 野田首相が「決める政治」に自己陶酔している一方で、(前回にも書いたように)野田を囲い込んで自分たちに有利な政策を決めさせようとする「既成勢力の意志」が一段と露骨になって来ている。消費税増税と公共事業拡大、エネルギーの選択、(オスプレイやTPPを含む)対米政策などに関して、既成勢力の連携がより強固に復活しつつあること。

C 民主党からの離党者が相次ぎ、残された民主党議員の間でも「自分たちは何をするつもりだったのか、民主党は何を目指すべき政党なのか」、あるいは「自民党と違うのか違わないのか」が、あやふやになってアイデンティティ・クライシス(自己喪失)が深刻になりつつある。それとともに、民主党の液状化が再び進行していること。

◆国会、政府の事故調査報告について
 他にも、オスプレイの配備問題(アメリカこそ日本の既成勢力にとって不可侵の意志)や、杜撰なやり方が問題になったエネルギー政策に関する意見聴取会、市民団体などから批判されている原子力規制庁の人事案などがある。これらのうち、国会と政府による福島第一原発事故の調査報告について、ざっとした印象を記すと以下のようなことになる。

@ 地震による原子炉への損傷の有無、非常用冷却装置の操作、官邸の現場介入、SPEEDIの活用、東電の全面撤退の有無など、個別の問題に関する見解は分かれており、メディアもこれを「薮の中」などと言っている。しかし、それにこだわることよって福島事故の論点を分散させてはいけないと思う。より重要で基本的な問題(A)は変わらないからだ。

A 原発を規制する国の機関が東電の意のままに操られ、有効な対策が先送りにされて来たこと。安全神話を利用して「過酷事故」(放射能が漏れる様な深刻な事故)に対する訓練も対策も怠って来たこと。避難対策も全くなく、その結果一つの病院(双葉病院)だけで50人もの人が亡くなったこと。原子炉の欠陥については十分な検証が出来ないので不明だが、当事者たちの安全軽視、無策無能、無責任が被害を拡大したことは確実である

B 一方、今回の事故を明確に「人災」とした国会事故調に対し、政府事故調は人災と言う言葉を使わずに、「対策が取られていれば、あの事故は防げた」(畑村委員長談話)という言い回しになっている。
 その論拠は事故を未然に防いだ福島第二原発との比較だが、畑中氏の談話には原子炉そのものは適切に運転すれば安全なのだと言う気持ちがにじみ出ていて、私などは強い違和感を持つ。失敗の教訓を生かして事故を防ぐと言う畑中氏の失敗学と、脱原発はもともと相いれないものなのである。

C 民間、国会、政府の各事故調とも、事故を起こした原子炉で何が起きているのかの詳細は掴めていない。また事象を裏付ける再現実験も手がつけられていない。福島原発事故の解明はその意味で、まだほんの入り口過ぎず、解明すべきことが山のように残されている。つまり、事故報告は「福島のような事故は起こらない」などと言って大飯原発の再稼働に踏み切った、政府の欺瞞性をより明確に示すものなのである。

◆これから取り組むべきこと
 2つの事故調とも、今後も継続して事故調査を行うことを提言しているが、報告を受けた政府も国会も極めて動きがにぶい。原発再稼働に前向きな民主党、自民党とも、これらの事故報告書を神棚に上げて一件落着にしたい意図が見え隠れしているが、とんでもないことである。
 (今朝の「サンデーモーニング」でも言っていたが)彼らはそれが国民と世界にどれだけ恥ずかしいことで犯罪的なことかが分かっているのだろうか。私たちは、少なくとも以下の3点を政府および国会に迫って行くべきだと思う。

@ 大飯原発再稼働の欺瞞性を粘り強く追求すること。少なくとも事故調査を踏まえて、再稼働の条件を論理的にも科学的にも厳しく見直させる。それが、先進法治国家として当然の義務だと政府に認識させること。
A 徹底した事故調査を継続して行うこと。原子力ムラではない専門家や外国人専門家も入れて、分野別(原子炉の安全、過酷事故対策、健康被害追跡)の調査機関を立ち上げる。調査は今後10年以上に及ぶかもしれないが、分かったことを逐次世界に公表すること。
B 「人災」である以上、しっかりと刑事、民事の責任追及を行って行くこと。(「原子力ムラの責任は問えるか」に書いたように)それを行うことが、事故の再発を防ぐ最大の貢献になる。

◆3.11後の日本に問われていること
 今の日本には残念なことに、3.11で、あれだけ深刻な災害と原発事故を経験しながら、何もなかったかのように時計の針を3.11以前に巻き戻そうとする力が強く働いている。しかも最近では政権交代以前にさえ戻ろうとしている。そうした「老朽化したシステムの再起動」に反対する国民の声は強くなってはいるが、メディアでさえも一部を例外として何も変わろうとしない。

 こうした状況で、今の日本に何が問われているかと言えば、3.11の事故を経験して「日本は変われるか」だと思う。長い年月しみついた「お上意識」から脱却して、国民が主体的に政治に関り、政治を変えて行く「新しい日本」に変われるのか、ということ。
 さらにもう一つあげるとすれば、それは「3.11以後の日本は新たな思想を構築できるか」だと思う。3.11後の日本は、世界に何を発信すべきなのか。今、書店には膨大な3.11関連の書籍が並んでいるが、私たちはこの時代を的確に伝える思想を発見したと言えるだろうか。時代を方向付けるもっともっと力強いメッセージを期待したいと思う。

◆包囲せよ!
 さて、状況の深まりの中で、いま私の心をとらえているのは「包囲せよ!」という言葉である。市民は国会と企業を。目覚めた政治家は目覚めない政治家を。憂慮する科学者は反省のない御用学者たちを。互いの連携を強化しながら議論の場に何度でも引きずりこみ、その包囲網を狭めて行く。そうした国民的議論の高まり――脱原発を実現させていくには、それしかないと思う。
*7月21日のNスペ「メルトダウン 連鎖の真相」を見ても、畑中氏の談話が楽観的すぎることが分かるし、何より、これまでの番組で指摘されているような、他の原発にも共通するような様々な構造的欠陥は全く改善されていない。これについては、いずれ書く。

液状化した政治はどこに向かうか(2) 12.7.16

 6月26日に衆議院で消費税増税法案を通過させた後、野田首相が高揚感に浸っているのだそうだ。法案通過に政治生命をかけると言って大丈夫かと怪しまれ、難しいと言われていたのを3党合意の離れ業(と言っても内実は野党案の丸飲みだが)で、通過させたのだから野田が自信を深めるのも当然かもしれない。しかし、野田の高揚感の実体を良く吟味すると、そこには危うい兆候も見え始めており、政治家が陥りやすい根深い問題も隠れている。

◆高揚する野田
 今、野田が高揚した気分でいるのは、原発再稼働や消費税増税などで国民の強い反発を押し切っても「懸案を先送りにせず、政治決断できた」と自らを鼓舞する気持ちがあるのだろう。しかし、それ以上に彼をいい気分にさせているのは、毎日のように聞かされる周辺からの褒め言葉に違いない。
 財務省や経産省の官僚、自民党を含めた政治家、経済界の重鎮たちなど、日本の既成勢力(エスタブリッシュメント)が、あらゆる機会をとらえて野田に近づき、「良く決断して頂いた。もう一息ですね」とささやく。野田自身も6月30日には財界人を前に「再稼働は国論を二分していたが、決断させて頂いた」と胸を張って報告している。

 日本の既成勢力にとって、野田は鳩山、菅と続いた制御不能な首相の後にようやく陣営に取り込んだ大事な首相である。初めて民主党に使える首相が出来たわけで、日々褒めて励ますことに余念がない。
 日本の既成勢力の一翼を担うマスメディアも「決断する政治」と持ち上げ、「ブレない、決断力がある」、「嫌われても将来のために決断するのが政治家だ」などと褒めあげる。連日多くの人間がすり寄ってきておだてるのだから、自信を深めるのも不思議ではないが、一方で、野田は上手くすれば何でもできるのではないかと言う「万能感」さえ感じ始めているのではないか。

◆国民が見えなくなった裸の王様
 最近の野田は、決断好きになっている。「首相は決断する自分に酔いしれているのではないか」という皮肉な見方(五野井郁夫:政治学、朝日)もあるが、原発再稼働、消費税増税に引き続いて、今や尖閣諸島の国有化だの集団的自衛権だのと、これまで隠していた政治信条まで露わにし始めている。まるで、「戦後レジームからの脱却」を唱えて登場した安倍元首相のような高揚ぶり。頭の中には歴史的使命という言葉が点滅しているのだろう。次のテーマとしてTPPも膨らんで来ているに違いない。

 しかし、そこにこそ(一般的に言って)政治家の陥りやすい落とし穴がある。まず、褒めてくれる連中の方しか見なくなり、それを国民の声だと錯覚する。国民大多数の声が聞こえなくなる。さらには既成勢力の有力者たちに褒められるような政治を目指すようになり、敢えて民意に逆らうような決断に意義を見出すようになる。その結果、自分の決断に不都合な現実は見ようとしなくなる

 原発再稼働に関して言えば、野田は自分の決断をアピールするために「国論を二分するテーマ」などと都合のいい表現をしているが、それこそ彼が現実に目をふさいでいる証拠。安全対策が不十分なままでの原発再稼働にどれだけ多くの国民が反対しているかということなどは、見ようとしない。(官邸デモの声を「大きい音だね」と言ったらしいが)野田は今や民衆の声が聞こえない「裸の王様」状態になっているのではないか。

◆野田民主党の危うい足元と3党連立構想
 野田が既成の有力者と取り巻きの称賛の言葉に酔っている間に、民主党の足元は崩れ始めている。最近の世論調査で言えば、野田政権の支持率はずっと3割を切ったままで(27%)、不支持率はその倍(56%)になっている。これは政治評論家の常識から言っても危険水域であり、国民から不信任を突きつけられている状態なのだそうだ。

 一方、マスメディアの方は何とか、(国民からも36%と評価の高い)民自公連立を進める方向だが、そう上手く行くとは思わない。中央集権的な国のかたちは変えない、原発も核燃料サイクルも維持する、増税した消費税で公共投資を拡大する、TPPを推進して輸出大企業を優遇する、といった既成勢力が喜ぶような「老朽化したシステムの再起動」を目指す大連立では、日本の課題は解決しないからだ。

 民自公の大連立は、これまでの民主党と変わらない同床異夢。壊さないようにするだけでは政治は停滞するし(それは自公政権で実証済み)、前向きに何かやろうとすれば意見がまとまらない。理念なき野合の3党連立は結局バラバラになるだろう。それは日本の難問をさらに大きくして先送りすることにしかならない。マスメディア肝入りの政界再編だが、それはやるとしても総選挙の後になる。結果を見て動くことになるだろうが、それがどう出るか、それこそふたを開けるまで誰にも分からないだろう。

◆小沢新党の評価
 野田を持ちあげる一方で、マスメディアは今回も小沢の新党結成をけなすのに躍起になっている。「壊し屋のなれの果て」、「理念なき権力闘争」、「選挙目当て」などと書きまくり、何とか小沢の息の根を止めようと必死だ。しかし、私はこれまでもメディアの小沢報道を注目して来たが、問題の検察と一緒になって繰り広げて来た反小沢キャンペーンをマスメディアが真面目に反省しない限り、信用を取り戻すのは困難だと思っている(*)。彼らの主張には、小沢に対する既成勢力の異常なまでの警戒心と政治部記者たちの得体の知れない怨念しか感じない。*「小沢問題の本質とは何か

 少なくとも既成勢力に抗して日本を変えようしている点で、小沢は筋金が入っている。彼が掲げている、消費税先行反対、脱原発、地域主権は、私の意見と重なる以上、それに色々難癖つけて小沢は信用できないと言っても仕方がない。ここは素直に、そういう主張の勢力が増えることは今の日本にとって必要だと言うしかない。
 特に脱原発は私にとって最優先の課題。野田や、最近では橋下まで(どうもそうとしか思えない)抱きこもうとしている既成勢力のしぶとさを見ると、彼らにはっきりNOと言える小沢のような革命家が現時点では必要だと思っている。(もちろん、脱原発に対する小沢の本気度を確認しなければならないが)

◆小沢新党への注文
 ただし、一つ二つ注文はある。まず小沢新党は○○反対だけを言うのではなく、その先にある国家のビジョンを掲げて欲しい。地域主権による分散型社会、地方内需の拡大、もの作りを始めとするグローバル地域産業の育成、新エネルギーと脱原発での技術立国、地域社会をベースにした安全ネットの再構築など、(例えば)危機に強い柔構造の日本といった元気が出るビジョンを提案して欲しい。

 もう一つは、これからの日本の政治は国民に開かれた回路を持てるかどうかが問われるということ。脱原発にせよ消費税増税にせよ、国民的議論を政治に取り込む新たな民主主義のプロセスを導入しなければ、政治はますます国民から遠くなっていく。小沢新党に限らず、政党はそれを本気で取り入れる用意があるかどうか。それが、政党選択の重要な条件になると思う。
 もちろん、それは今民主党がやっている「エネルギー・環境に関する選択肢」に関する意見募集(私もネットで意見を言った)や、「意見聴取会」のような、形ばかりのいい加減なものではない。すでにヨーロッパ(ドイツなど)では、そうした「熟議の民主主義」のプロセスが実際の政策決定に生かされているが、これについては次回以降に書きたい。

液状化した政治はどこに向かうか 12.7.5

 民主党が分裂して、いよいよ政治が液状化して来た。現状では11日にも小沢新党が誕生するが、残った民主党の中も参院での消費税の法案採決を巡ってもう一波乱ありそうだ。野田首相には党内の異論を振り切ってでも自公の協力で採決に持ち込むしか道はない。しかしその結果は、さらなる分裂があるかもしれず、野田民主党は数から言っても自公べったりで行くしか何も決められない状況になるだろう。
 しかし、政権につきたい自公がそうした民主党にいつまでも付き合うことはないから、その先にあるのは解散と言うことになる。解散のケースは下記のようにいろいろだが、政治が流動化し、メディアが政局報道に血道をあげている間に、原発再稼働も原子力規制庁も国のエネルギー政策も官僚がいいように仕切って行く。こうした不毛な政治に私たち国民はどう向き合うべきなのか。難しい問題だけれど、取りあえず状況だけでも整理しておこうと思う。

◆解散総選挙をにらんだ駆け引き
 国会は9月まで会期を延長したが、審議さえ始まれば3党合意で決まった消費税増税は通過する。選挙制度改革、赤字国債を発行するための特例公債法案、公務員制度改革法案などの法案の取り扱いが残るが、これは状況次第。通らないと総選挙が出来ないということでもないので、国会が終わったら総選挙が秒読みに入る。

 解散のケースは3つ。@解散権を持つ野田首相が一方的に解散に打って出る。A消費税が通ったところで民自公3党の話し合いによる解散。もう一つは、B野田内閣に対する不信任解散。これには自公が不信任案を出し、それに小沢新党などが乗る場合。それともう一つ、(もう少し数が増えれば)小沢新党が不信任案を出し、それに自公が別の理由で賛成する場合の2つがある。
 これらのどれになるかは、つまるところタイミング。早いほどいいと思っている自公に対して、分裂後の民主党、小沢新党はできるだけ落ち着いて有利なタイミングで解散したいと思っているに違いない。熾烈な駆け引きが始まる。

 客観的に見て、今回の分裂劇で最もダメージを受けたのは野田民主党だ。分裂の傷も深いし、そもそも消費税増税が不評。選挙をすれば負けるに決まっているので、できるだけ解散を先送りにしたいだろう。しかし、あまり遅らせて自公と対立し、小沢新党も巻き込んでの不信任解散は避けたい。民主党としては、結局ギリギリのタイミングを見計らっての話し合い解散を目指すのだろうが、問題は、少しでも体勢を立て直せるか、自公がそこまで待つかどうかである。いずれにしても致命的なダメージは避けられない。

 一方の小沢新党も大急ぎで選挙準備をしなければならない。当面、民主と自公の対立をうまく利用しながら存在感を示す一方、「大阪維新の会」などとの連携を模索する。普通ならそのための時間稼ぎに出る。しかし、小沢新党が「大阪維新の会」などと連携したら大変だ。そんなことを民自公が黙って許す筈がない
 共通の敵である小沢新党をつぶしたいが、不信任成立のカギは小沢新党が握っているので、民自公3党はやはり話し合い解散でギリギリのタイミングを探すことになる。そのタイミングは、色々な日程を考えて11月だろうというのが園田氏の見立て(「立ち上がれ日本」、4日のニュースウオッチ9)だが、消費税法案が通ったら誰も他の政治課題のことなど考えないから、これはもっと早まるかもしれない。

◆液状化の原因・消費税増税の勘違い
 今は政党も政治家も選挙にいつ、どういう形で打って出るのが一番得かしか考えない。これからまた半年近く政治の空白が続くのは、重要課題が山積している日本にとって極めて不幸なことである。野田自身は、どういう混乱があっても、たとえ民主党が選挙に惨敗するようなことになっても、消費税増税を実現することが自分の歴史的使命だと思い込んでいるのだろう。しかし、本当にそうだろうか
 消費税増税は確かに大きな政治的懸案ではある。彼が良く言う孫子の代まで借金を負わせていいのか、ギリシャのようになっていいのか、というのはその通りだが、果たして消費税増税はそれを避ける切り札なのか。私も日本はこれだけの借金大国なのでいずれは増税に踏み切らざるを得ないと思うが、それは第一のアプローチなのかと、常々疑問に思ってきた。

 まず21世紀の国の基本計画(グランドデザイン)を描き、それに沿って「国家のかたち」を変えることこそ、民主党が政権交代で掲げたものではなかったのか。国と地方の関係を大胆に見直して地方に権限を委譲する。省庁を簡略化して官僚の構成を組みかえる。国の構造を筋肉質に変える中で、税金のあり方を議論し、消費税も上げると言うのでなければ(赤字体質を増長させるだけの)10%の消費税など焼け石に水に過ぎない。増税しても赤字は増えて行くばかりだ。
 政治生命を賭けると言うのであれば、「日本という国のかたち」を変えることにこそ命をかけるべきだろう。それが民主党の歴史的使命だったはずだ。しかし、それは官僚たちが許すはずがないから、まずは消費税増税というのでは、あまりに志が低い。あれだけ議論した「国家戦略室」なども今や立ち消え状態なのを見ると、やはりこれは重大な約束違反だと言われても仕方がない。(「消費税論議に騙されないために」)

◆精神分裂状態のマスメディア
 百歩譲って今、消費税増税をやる利点を上げるとすれば、外国に日本は財政健全化に努力しているというサインを送れることだが、これも野田が海外に出かけて鳴り物入りで約束しなければ時間稼ぎが出来たはずだし、何より赤字構造を変えるプロセスを丁寧に説明した方が効果的だったと思う。

 マスメディアはこぞって社説で「決められる政治を」などと野田を後押しし、邪魔になる小沢を叩いているが、こういう根本のところには全く触れていない。大体、今日明日の政局報道に追われる政治部記者は「国のかたちを変える」というような発想が苦手な体質なのだ。
 将来につけを残すなという決まり文句だが、その一方で、決まった翌日には「増税、縮む暮らし」と題して「法案が成立すれば、私たちの家計に負担増が押し寄せる。一方、社会保障の充実には道筋かつかないまま、増税を見込んで大型の公共事業が復活し始めた」(朝日27日)などと書く。一方で消費税増税を煽っておきながら、決まったら高みからケチをつけ、読者を惑わす。原発再稼働報道と同じで、(あちらにもこちらにもいい顔をしようとして)紙面が殆ど精神分裂状態(統合失調症状態)に陥っている

◆これからの政治の選択肢について
 こういう不毛な状況で選択を迫られる総選挙。私たち国民には果たして未来に希望が持てる選択肢があるのだろうか。小沢新党は消費税先行反対、脱原発、地域主権を掲げるらしい。これは、橋下大阪市長の率いる「大阪維新の会」の政策とも重なる。彼らが多数を占め、日本の政策がそのように変わって行くなら歓迎だが、果たして革命家気質の彼らを額面通り信用していいのか。

 以前にも書いたが、小沢の本質は革命家だと思う(「小沢問題の本質とは何か」)。日本の閉塞状況を切り開くには大胆な変革が必要で、これを担うには革命家的資質が必要だとは思う。小沢や橋下は確かにその匂いを持つが、革命家には猜疑心と権力欲と言う抜きがたいマイナス要因もあり、これを見極めるまで私は判断を保留している。
 一方、戦後ドイツの連邦制度、脱原発への道筋などを調べてみると、(ちょっと遠回りだが)別な選択肢もありそうな気がしている。自民党、民主党に期待できないからと言って小沢、橋下連合を選んで痛い目を見るのも困るので、次回はその選択肢も含めて比較検討をして見たい。

脱原発を阻む「日本というシステム」 12.6.24

 前回、かつて「陸の孤島」と呼ばれていた若狭湾・大島半島の原風景について書いた。大飯原発はその突端に位置するが、再稼働の根拠となったのは、原子力安全・保安院が審査したストレステストの「一次評価」だ。福島のような地震と津波が来た時に原子炉冷却用の非常用電源が確保できるか、というのが主な評価項目である。
 政府はそれが確保できるとして再稼働を決めたわけだが、これはまさに「暫定的な安全対策」に過ぎない。ヨーロッパなどが当たり前に取り入れている「二次評価」は「今後の課題」として残されている。というわけで、しつこいようだが今回も若狭湾に集中する原発の危うさと、それを無視する「日本というシステム」について書いてみたい。

◆生かされていない福島の教訓・過酷事故対策
 ストレステストの「二次評価」とは、簡単に言えば福島のような過酷事故が起きた時の対策である。原子炉から放射能が漏れだした場合の拠点になる(放射能対策も施した)免震重要棟の設置、指揮命令系統などの防災計画、(甲状腺がんを防ぐための安定ヨウ素剤の備蓄など)住民の安全確保や避難計画、あるいは原子炉が破損した場合の(対策チームの人員確保、外部からの機器の搬入、敷地の確保などの)復旧策などなど。
 こうした
「二次評価」を後回しにしたのは、日本の原発でその議論を始めたら(対策の手だてがないことが明らかになって)、再稼働が出来ないからである。

 福島原発事故の最大の教訓は、日本の原発が安全神話にあぐらをかいて「過酷事故」を起こした時の対策を全く考えて来なかったことだ。
まかり間違えば国を滅ぼすような危険なものを扱いながら信じられない話だが、これは今の大飯原発も同じ。何も改善されていない。
(大体、写真を見ても分かるが、ここで過酷事故が起きても、福島のような汚染水タンク群や浄化装置を作る敷地の余裕は全くないことが分かる。ぞっとするほどの狭さだ)

 原発の安全とは原子炉の構造上の問題だけではない。例えば福島第一原発事故の際、原子炉がメルトダウンしたのは、津波で原子炉冷却のための非常用電源をすべて喪失したからだが、直接の原因は他にある。それは、原発に電力を送り込む送電線の鉄塔が震度6強の揺れで、倒れたりショートしたりしたことである。
 原子炉をいくら丈夫に作っても、原発を支えている外部要因が脆弱では何もならないのだが、これは大飯原発にも当てはまる。つらつら地図を眺めネットで調べてみると、むしろ若狭湾の大飯原発の方が福島原発などより、よほど致命的な弱点を抱えているのではないかと思われる。

◆若狭湾・原発銀座の致命的脆弱性
 前回も書いたが、若狭湾には種々の活断層が見つかっていて、いつ大地震が来るか分からない。それでも原子炉は壊れないと言うのが関西電力の言い分だが、原子炉へつながる送電線の鉄塔は大丈夫なのか。また、原発までの唯一のルートである道路や橋は大丈夫なのか。
 大島半島はかつて細長い三角形の島だったが、その一角が砂州によって本州とわずかにくっついて半島になった。地震の時、液状化しやすい砂州の上の道路は使えず、半島突端の原発に行くには1973年に完成した「青戸の大橋」(全長743m)を渡るしかない。しかし、橋とそれに続く道路は左右2車線の細いもので、いざという時には渋滞して避難する住民の車や事故対策車などで大混乱になると心配されている。

 さらに、懸念されるのは40年近く経過した「青戸の大橋」の老朽化だ。新しい耐震基準も満たしていないこの橋が仮に落下して通行不能になれば、原発の保全や事故対策はお手上げになる。また、半島の山と海岸の間をぬって作った道路もがけ崩れなどで遮断される恐れがある。
 かつて陸の孤島と言われた半島の最奥部に原発を作っただけに、大地震とそれに伴う原発事故が起きた時、原発に駆けつけるにも交通の手段がない、あるいは時間がかかりすぎるという地政学的な欠陥を大飯原発は抱えている。

◆若狭湾の原発集中は日本の「脆弱な急所」
 若狭湾の他の原発も似たような状況にある。そこに11基(敦賀を含めると14基)の原発が集中することを考えれば、福島などより、もっと真剣に過酷事故対策を考えなければならないはずなのだが、それは先送りにされた。再稼働を決めた政府が「青戸の大橋」や道路、鉄塔の耐震性まで検討したとはとても思えない。いったん検討すれば、想定外だと言い逃れ出来ないからだろうが、質問されても十分な説明をしない不誠実な態度である(「なぜ急ぐ大飯原発再稼働」)。

 大飯原発には4基の原子炉がある。そのうち1基でもお手上げ状態になれば、4基全部が管理不能となって原爆何万個分もの放射能が関西から首都圏まで拡散。福島の初期に想定された悪夢のような事態になる。
 いわば「裸の核」同然に、日本海側に原発が無防備に集中している若狭湾は、国の責任者なら当然、日本の「脆弱な急所」だという認識を持つべきところだ(北朝鮮のミサイル問題もある)。慎重な再稼働というより、むしろ脱原発に向けて真剣に方策を考えるべきだと思うのだが、国も経済界もこうした現実を見ようとしない。これは一体何故なのか。

◆脱原発を阻む「日本というシステム」
 何が何でも原発を再稼働させたいという動きは、去年12月の野田の「冷温停止宣言」から始まった。勢いづいた「原子力ムラ」は、最近はやりたい放題。原発推進派だけが集まった会議で脱原発の専門家を嘲笑し(東京新聞)、核燃料サイクルの秘密会で「もんじゅ」の不利案を書き変え(毎日新聞)、40年で廃炉というのを骨抜きにし、原子力基本法に「安全保障上の目的」を滑り込ませる。原子力ムラの、この「奢りと姑息さ」こそが福島事故を招いたはずなのに。
 一方、大飯原発の再稼働に慎重だった大阪府や市の首長たちに対しては、料亭に招いて説得したり(朝日新聞)、滋賀県知事に抗議したり脅したり、あらゆる手を使って撃破した。自治省出身の西川福井県知事に対しても、様々なルートを使ってすり合わせが行われたのだろう。

 こうした動きを見ていると、問題は「原子力ムラ」といった特殊な分野だけの問題ではないように思えて来る。それは、マスメディアも含めて(ウォルフレンが言うような)日本の旧体制がつくる「日本というシステム」そのものの問題だと思う。相も変わらずバブル期の成功を夢見る、アメリカの鼻息をうかがう、既得権益を手放したくない、新しいものへの想像力がない、変わりたくない、という保守的な旧体制が再び鉄板のように日本社会を覆っている。
 「日本というシステム」を変えようと登場したはずの民主党も、野田になってすっかり取り込まれた。福島原発事故のような深刻な事故を経験しながら、脱原発に舵を切ることが出来ずに、なおも「旧来のシステムを再起動」しようとしている。

◆「日本というシステム」は変われるか、問われる民主主義
 変われない「日本というシステム」の問題は何も原発に限ったことではない。赤字体質を引きずったままの消費税増税も、原子力協定で縛られている対米関係も、輸出企業重視のTPPも同様。古いシステムにしがみついても日本は早晩行き詰ることは目に見えているのだが、既得権益集団は過去の成功体験を忘れられず、目の前の危機を直視できない。果たしてこんな政治がいつまで持つのだろうか。
 いま、原発再稼働反対の動きや、橋下新党に期待する動きなど、鉄板の下では熱いマグマが出口を求めて膨れ上がりつつある。このまま行って日本が破綻するのが先か、それとも「日本というシステム」は変われるのか、日本の民主主義の実力が試される状況が続く。その中で、原発問題は日本の未来を占う大きな「座標軸」の一つになって行くに違いない。

若狭湾・原発銀座の原風景 12.6.19

 福井に勤務していた1970年(昭和45年)から4年間、私は何度か若狭湾各地を取材して歩いた。当時、美浜原発(1970年、72年開始)はすでに稼働していたが、大飯原発は1、2号機ともまだ建設が決まったか、始まった頃だったと思う。原発建設のために1973年に作られた「青戸の大橋」が完成するまで、原発がある大島半島は陸の孤島とよばれ、半島東側の集落に行くには渡し船で行くしかなかった。

◆陸の孤島にやってきた原発
 その頃、一緒に若狭湾周辺を取材して歩いた写真家の柳澤一郎さんに聞くと、青戸の大橋が出来るまで、半島の中には錆びついたオート三輪が一つあるだけで、動く自動車は1台もなかったという。集落を結ぶ小道はあるにしても、道から離れた家々を結ぶ道路はなく、人々は庭や畑を伝い歩いて行き来していた。
 一本道の両側には稲わらを掛けるハサ木が立ち並び、集落の境界には道の両側の立ち木を結んでしめ縄のようなものが張られている。そこに正月に請願文を記した「勧請板」をぶら下げる習わしである。

 今、大飯原発がある大島半島の突端にはタブの木が生い茂り、その森は古来、ニソの杜の信仰、祭祀が継承されてきたところでもある。陸の孤島の暮らしは厳しく、半島の山陰には年貢を逃れるために苦労して開拓した「隠し田」があった。関西電力はその「隠し田」周辺の土地を買収し、「橋が出来れば、船で行き来しないで済む」、「各集落を結ぶ立派な道路ができる」と言って原発誘致を持ちかけた。
 反対運動もあったが、「本州につながる橋と道路」という長年の悲願の前に、結局誘致が決まり、私が福井を離れた1974年に2基の原子炉、その12年と14年後にさらに2基の原子炉が運転を開始する。

 福井県の原発は、当時の都会の人たちが想像するのも難しいような隔絶した場所を選んで建設されている。出来たばかりの美浜原発にも行ってみたが、そこも昔は陸の孤島と言われた敦賀半島のさらに裏側の入江にある。人々がひっそりと昔ながらの風習を守りながら生きて来た岬の突端。若狭湾の優しい風景の中から突如現れた原発は、何やら恐ろしいほどに異質で巨大な構造物に見えたことを記憶している。

◆原発が集中する若狭湾の危うさ
 現在、関西電力が有する原発は、美浜(3基)、大飯(4基)、高浜(4基)の計11基。そのすべてが若狭湾に集中している。そこは日本海側には珍しいリアス式海岸。その入り組んだ海岸線にある森を切り開き、陸地から見て山の裏側の人目につかない場所に原発は作られている。
 ただし、陸地からは隠されているように見える原発も海から見れば無防備な状態にある。今回、改めてグーグルの航空写真と地図で原発の位置と周辺の状況を確認して見たが、陥没した若狭湾全体が津波を抱きとめるような半円形をしているのが分かる。しかも、原発の幾つかは局地的に津波の波高が高くなるような、入り組んだ入江の奥に設置されている。

 近年、この若狭湾周辺には様々な活断層があることが分かって来た。関西電力は、その活断層が動いても原発は大丈夫だと言っているらしいが、本当にそうだろうか。原発直下にある活断層が上下に動けば、原子炉が水平を保てないことだってあり得るし、湾内に延びている活断層が動けば津波も起きる。実際、天正大地震(1586年)の時には、若狭湾沿岸に押し寄せた津波で大きな被害が出たという記録も残っている。

◆再稼働を容認した構図
 野田首相は16日、西川福井県知事の同意表明を受けて関係閣僚会議を開き、大飯原発の再稼働を決定した。ストレステストの「一次評価」だけで暫定的に安全を確認したというが、肝心の堤防の嵩上げや福島事故後に指摘されている機器類の改善、あるいは事故時に対策センターとなる免震棟の建設も全く着手されていない。
 再稼働に慎重だった関西の首長たちも電源供給地の福井県に配慮したコメントを出しながら結局、再稼働を認めてしまった。再稼働容認に転じた嘉田滋賀県知事には、関西電力や関西経済界、国(官僚)から「このまま再稼働せずに、停電が起きたら責任が取れるのか、会社が倒産したらどうするのか」といった恫喝が続いたと言う。

 しかし、私は(愛着を持っているのだが)電力供給地の福井県を持ち上げるのもいい加減にしろといいたい。国は原発なしでは経済が立ち行かないと訴える福井県やおおい町を上手く使って再稼働にこぎつける図式を作り上げた。電力供給地と電力消費地を分断する狡猾な戦術に、関西の首長たちはうまく乗せられたわけだが、冒頭に書いたように、陸の孤島から脱するために原発に依存し、国や電力会社の与える麻薬のような金づるにどっぷりとつかりながら、そこから一歩も抜け出せなかった地元も問題ではないかと思う。
 これまではお世話になったかもしれないが、原発立地県に配慮している限り脱原発は出来ないわけで、一旦事故が起きたらそれこそ、「電力供給地の福井県に感謝」などとは言っていられない筈だ。

 何らかの原因で、若狭湾の原発に(福島クラスの)放射能漏れが起これば、大飯原発から直線距離で40キロほどしか離れていない琵琶湖の水が汚染されるのは必至。そうなると、琵琶湖の水を飲んでいる滋賀県や京都府、大阪府など、近畿圏の1450万人が行き場を失う
 明日ではないかもしれないが、一旦過酷事故が起これば長期にわたって国土が汚染され、場合によっては国そのものが滅んでしまう。それが福島原発事故が私たちに与えた教訓であるはずなのだが、原発再稼働を容認する人々はその教訓を学ぼうとしない。

◆原発立地の地元は覚醒せよ
 一方、「(政府の)決断に深く感謝」などと言っている西川福井県知事も問題。(矢面に立たずに再稼働を認めさせ)上手く立ち回ったつもりでいるかもしれないが、喜んでいる場合だろうか。それは事故後の福島県、あるいは汚染地域の飯館村や双葉町などを見れば分かるはずだ。
 いま汚染地域の住民に広がっているのは「私たちは国に見捨てられた」という悔しい思いである。先日も、汚染のひどい双葉町から練馬区に避難してきた(70歳くらいの)Oさんと話をする機会があったが、「私たちは、もう故郷に戻るのを諦めている。代わりに新しい町を作りたいのだけれど、どこも相談に乗ってくれない。国は私たち世代が死ぬのを待っているのだろう」と言う。

 核燃料税や電源三法交付金などなど、国も電力会社も気前よく地元に金をつぎ込むが、それは都合よく利用できる間だけのこと。事故が起これば、真っ先に放射能汚染の影響を受けるのは地元であり、原発が維持できないと決まれば結局は見捨てられ故郷も失う。そのことを、原発立地の人々は冷徹に見るべきだと思う。
 前にも書いたが、この先、脱原発が決まって行っても廃炉をやり遂げるまでには、十分な仕事が地元には降りて来る筈だ。目の前のニンジンに惑わされて、下手に原発再稼働にこだわってすべてを失うより、脱原発を選択する方が地元にとっても余程賢明な選択だと思う。事故が起きてからでは遅いのだから、今こそ原発立地の地元は率先して、脱原発に向けた模索を始める時だと思うのだが。

原発再稼働と発表ジャーナリズム 126.13

 6月11日、東京駅のサピアタワーであった「科学ジャーナリスト塾」(サイエンス映像学会主催)に出席。先輩の科学ジャーナリスト、小出五郎さんの話を聞いた。日本の原子力がどのように、いわゆる「原子力村」を形成して行ったか、原子力村の構成員である「官界、政界、業界、報道、学界」の5つが構成する五角形(原子力ペンタゴン)がどのような利権で結びついているかについて。とりわけ、同じ報道界に身を置く立場として原子力に関する報道がいかに原子力村の構造に絡め取られていたか、という話だった。

◆発表ジャーナリズムとは?
 「原子力村」については、これまでも折に触れて書いて来たが、報道の在り方に関して言われたのが「発表ジャーナリズム」と言う言葉。これは何も原子力報道に限らないが、明治以来の日本の記者クラブ制度のもとでは、記者発表を自分たちが得た情報としてそのまま報道する、という体質が抜きがたく残っている。
 会見に出られる記者を限定して仲間内で情報を効率的に分け合い、発表された情報を伝える仕事をジャーナリズムと思って、そこで止まっている状態。それが「発表ジャーナリズム」で、その対極にあるのが、自ら問題意識を持って調査し、事実を検証して行く「調査ジャーナリズム」だということである。

◆典型的な発表ジャーナリズム
 福島第一原発事故のマスメディアの原発報道については、様々な批判がある。特に政府と東電の発表だけを垂れ流していた事故当初の報道は「発表ジャーナリズム」と言われても仕方がないものだったが、さらに、その典型とも言うべきものを、今国民は見せられている。それが、6月8日の野田首相の原発再稼働に関する記者会見以来続いているマスメディアの報道である。
 あの夜、NHKは午後6時からの野田の記者会見を30分ほど中継してあっさり切り上げてしまったが、会見場での質問もお粗末極まりないものだったらしい。野田の脱原発の欺瞞性を突いた1人目の記者の質問を野田ははぐらかし、2人目の記者は「原発も非常に重要ですけれども」と言いながら、質問を再稼働から消費税増税の政局に話を切り替えてしまった(「何のための記者会見か」13日、毎日)。

 首相会見に出席しているのは主に政治部記者なのだろうが、彼らは政治家同様、福島原発事故の教訓を知らず、原発再稼働の問題点についても勉強していないのか。首相の原発政策について糺すべき絶好の機会なのに、記者が全く機能せず、野田の一方的な儀式にしてしまった。それを許したメディアも責任を果たしているとは、とても言い難い。

◆原発再稼働は既定路線か
 しかも、もっと驚いたことは、その日のNHKニュースや翌日の新聞が一斉に、原発再稼働があたかも既定路線であるかのごとく、政府の再稼働に向けた手順を無批判に報道していたことである。朝日の一面トップの見出しは「大飯原発再稼働へ」。「首相安全を強調 福井県、同意へ手続き」というものである。
 その中で、首相の記者会見→福井県原子力安全専門委が安全宣言→福井県議会が知事一任→大飯町長が再稼働に同意表明→福井県知事が同意表明→政府が関係閣僚会議で正式決定→7月上旬3号機、下旬4号機フル稼働、といった政府発表のシナリオを詳しく報じている。

 新聞の一面トップは政府方針ばかりで、異論、反論は別面に追いやられていて、まるで単なるアリバイ証明のようだった。当日のNHKニュースも、政府のシナリオに対する異論を報道はしていたが、住民の賛成の声と反対の声を2つ紹介しただけ。この会見報道は、まさに政治部記者を中心とした「発表ジャーナリズム」の典型のようなものだった。
 それにしても、多くのまともな専門家が疑義を呈している大飯の原発再稼働について、野田が「私が安全を確認しました」と言えば、もう再稼働への流れは決まったのか。その後の再稼働の動きに関する報道ぶりは、「調査ジャーナリズム」とは無縁の腰の引けたおざなりの報道ばかりが続いている。

◆白昼堂々の茶番劇を追認するマスメディア
 特に、今福井県で行われている原発再稼働への茶番劇。これを無批判に報道しているメディアの神経はどうなっているのだろう。福井県では、11日に県の原子力安全専門委会(中川英之委員長、福井大学元副学長)が、政府の暫定的な安全基準を「ハード面、ソフト面とも十分な対策がされていると判断した」と報告。
 それを受けて、12日には知事が大飯原発を視察するなど、再稼働へ向けてのスケジュールをせっせとこなしているが、これこそ茶番と言っていい儀式、出来レースでしかない。拙速な原発再稼働に反対の国民(新聞によって違うが50%〜70%)は、こうした空疎な儀式を無批判に報道するマスメディアにいら立っている。

 例えば、福井県の原子力安全専門委会の答申に意味があるとするならば、専門委員会とは何なのか、メンバーが誰でどういう議論をしたのか、その客観性についてもっと突っ込んで報道するべきではないのか(福井大学は原子力研究を行っている大学だが、一方でこれまでも原子力村の一員として学長などが原子力の安全神話を盛んにPRしてきた大学でもある)。
 野田の言い分もそうだったが、中川委員長の言い分も、「仮に福島のような震災が起きても大丈夫」ということは言えても、それ以外(想定外)の災害や事故で過酷事故(メルトダウン)が起きた時にどうするかについては、全く触れていない。

 これは、官僚が将来の責任逃れのために用意した言い回しと同じ。全体の安全を保障しているように言いながら、実は部分的。仮に想定外の事故が起きたら、「あの時点で安全と言ったのは、3.11のような震災でも事故は起きないと言っただけ」と言い逃れるのである。皆が口裏を合わせたように同じ言い方をしながら進めているわけで、陰で経産省の役人たちが一連のシナリオを書き、野田にも福井県にも伝授しているのが容易に想像出来る。
 一方のマスメディアも、政治部や経済部の記者がダメなら社会部や科学部の記者が力を発揮すればいいのだが、(一部のメディアを除いて)経営トップの意向や社内力学はそうはなっていないのが実情。国民の命に関る重大決定に関して、国民を愚弄するような茶番劇が白昼堂々と続いているのに、それを追認している状態は異常ではないのか。

◆真に機能するジャーナリズムとは?
 (原発再稼働のニュース報道に関して言えば)「発表ジャーナリズム」の構造をいまだに引きずっているマスメディアとは、国民にとって何なのだろうという素朴な疑問が起きて来る。今のようなマスメディアは果たして国民にとって真に必要な存在なのだろうか。あるいは、いま国民に必要とされるジャーナリズムとはどのようなものか、という疑問である。
 この疑問は一方で、一度はバラバラになりかかった「原子力ムラ」が形状記憶合金のように復活し(「息を吹き返す原子力ムラ」)、報道も含めた5つの既成勢力がさらに強力に連携を強めつつある今、この国民無視の閉塞状況を変える回路はどこにあるのか、という問題とも結びついている。その回路が見えて来た時に、新しいメディアの姿も見えて来るのだろう。

 ヒントの一つは、行動する人々が行動の中から発する情報の中にあると思う。それは(中東のオレンジ革命のように)インターネットと深く結び付いたものになるのだろうが、私にはまだ良く分からない。市民とともに時代を変えて行く新しいメディアが何なのか。皆がそれを求める時代に入っているのだが、まだそれが見えないうちは、(一市民の立場から)既存のマスメディアにあれこれ注文をつけて行かざるを得ないわけである。

日本は原発を持つ資格があるか 12.5.25

◆まだ見えていない福島事故の実態
 最近のニュース(5/22)で、福島第一原発の1号機の格納容器の水深がわずかに40センチ、2号機の水深が60センチしかないという解析結果が報道された。格納容器に毎時6トンもの水を流し込んでいるが、水は底から40センチ(2号機では60センチ)のところに開いた穴からどんどん外へ流れだしており、東電は流れ出した水を巨大な浄化装置を通して、再び炉内に流し込む作業を続けている。
 この僅かな水深で、莫大な崩壊熱を出す核燃料が充分冷やされているのか、という心配に加えて、目前に迫りつつある別の問題もある。大量の水を循環させていることは、原子炉内の高レベル放射能を少しずつ外に洗い流しているようなもので、出て来る汚染水の処理がまた大量の高レベル放射能廃棄物(使い棄てフィルターなど)を生むと言うことである。これから何年もこうした作業を続けるとすると、それはピラミッドのように溜まり続け、やがて敷地からあふれ出す位になるだろう。

◆再稼働ありきで動いた野田政権
 一方、5/24の東電発表では福島原発事故で漏れた放射能は90万テラベクレルとさらに上方修正された。その大部分は2号機と3号機から出たと言うが、その理由も未だに謎である。事故から1年2か月を経過しても、福島の1号機から3号機までの原子炉の状態はまだ殆ど解っていない。この解明は、6月に報告が予定されている3つの事故調査(政府、国会、東電)でも無理だろう。(*77万テレベクレルの放射能
 炉内の深刻な実態が徐々に見えて来るのに対し、事故の解明は殆ど進んでいない。にもかかわらず、野田首相は先日のNHKのニュースウォッチ9に出て、関西電力の大飯原発の再稼働問題について、「最後は私のリーダーシップで決めたい。判断の時期は近い」などと発言。彼の頭の中は一体どうなっているのだろうか。

 前にも書いたことだが、野田は去年9月に首相になった時から原発再稼働を決めていた。経済界や経産省の官僚から、電力を安定的に確保しなければ日本の経済が立ち行かない、と徹底的に言い含められていたのだろう。彼は頭から福島の現実を振り払い、どうしたら原発再稼働にこぎつけられるか、それだけを考えて来たに違いない。仙石に枝野を説得させ、原子力に対して中立であるべき原子力安全・保安院を動員して再稼働へ向けての理屈を考えさせてきた。

◆二転三転する政府の再稼働の理屈
 野田が再稼働に向けて最初に取った戦略は、安全確保に配慮したような姿勢を見せることだった。ヨーロッパでは、メルトダウンが起きた時のような過酷事故への対策まで含む「ストレステスト」。これを便宜的に一次、二次に切り分け、福島の場合のような地震と津波対策だけをチェックする「一次テスト」で安全を判断しようとした。
 そして、大飯原発について「ストレステストで安全を確認した」と言って突破しようとしたが、地元知事たちから「一次だけでは不十分」、「福島事故の解明も出来ていないのに時期尚早だ」と一斉に反論される。

 次に持ち出したのが「大飯が止まったままでは、関西での夏の電力需要が持たない。大変なことになる」という、これまで何度も聞かされた脅しだった。それも「電力会社や国の電力見積もりは信用できない。仮に足りないのであれば、政府がそれを乗りきる知恵をだすべきだ」と反論される。
 最近の野田や枝野は、また理屈を変えて「このまま再稼働しなければ電気代を上げざるを得ない」と脅している。安全確保→電力需要→電力料金と、再稼働の論拠を二転三転させる中で、論理破綻を来してすっかり信用を失っている。

◆安全の原理原則を無視する日本の原子力行政
 福島のような重大事故を起こした国の政治家が目先の利益に捕らわれて、原子力安全の原理原則をころころ変えて行く様は、外国からどのように見られているのだろうか。いまネットで評判の「フクシマの嘘」(ドイツ・ZDF制作)などを見ても分かるが、日本政府(原子力行政)の悪評は世界に知れ渡たりつつある。
 土曜日(5/19)のNHKスペシャル「原子力の安全とは何か」は、福島以後のアメリカ原子力規制委員会が徹底的な安全の見直しを図っている状況や、スイスの原子力安全検査局が「私たちは安全のことしか考えない。エネルギー政策や電力供給も、まして電力会社の事情など考慮しない」と言って徹底的に安全をチェックし、福島事故を受けてスイス政府が脱原発を決めた経緯をリポートしていた。

 一方の日本は、あの斑目原子力安全委員会委員長までが「一次テストだけでは不十分。ぜひ二次までやってほしい」と言っているのに、それを完全無視。経産省に属する原子力安全・保安院は上層部の意向(プレッシャー)を受けて、ひたすら一次テストにこだわり、原発再稼働への道筋を考えて来た。
 番組は彼らへのインタビューを積み重ねて、日本の「ストレステスト」がいかにいい加減か、日本の原子力行政がいかにご都合主義か、を浮き彫りにした。番組の指摘は歯がゆい位に慎重だったが、自ずと日本の原子力行政の犯罪的安直さが浮かび上がる構図にはなっていた。(写真:深野原子力安全・保安院長)

◆日本の監視機関は原子力を制御できるか
 こうした日本政府の姿勢を見ていると、私はつくづく、日本は「原子力のような危険で巨大なシステム」を制御するのに不向きな国だと思わざるを得ない。日本は原発を持つ資格があるとはとても思えないのである。

 ご承知のように、原子力の安全とは原子炉の構造の問題だけではないハード的には、使用済み燃料の処理の問題、再処理工場や「もんじゅ」を含む核燃料サイクル全体の安全、さらには巨大地震の連鎖、未知の活断層への対策もある。
 同時にソフト的(社会システム)には、国(規制機関も)や自治体と電力会社との癒着の構造、企業の隠ぺい体質、技術者の劣化、故意やミスによる過失、テロやミサイル攻撃など、実に多岐にわたっている。
(写真は原子力産業側との秘密会議で問題の近藤原子力委員会委員長、東大名誉教授)

 だからこそ最低限、高度な専門性を持った、どこからも独立した規制機関が必要なのだが、私が思うに日本には巨大な「原子力ムラ」から独立して、それを監視するような原子力規制機関が可能とは思えないのだ。数から言っても、(新規の原子力規制庁に移行する)原子力安全・保安院は300人足らず、しかも、生え抜きの専門家がいないので、電力会社からも見下され、電力会社のデータに頼った仕事しかできなかった。彼らもまた「原子力ムラ」に絡め取られている。独立性はもちろん、人数的にも専門性の点でも、アメリカ原子力規制委員会(NRC、3千人)とは比較にならない。

◆日本には独立した監視機関の思想がない
 さらに、根本的な問題は、日本には企業や行政、技術者や科学者さえも癒着し、腐敗するという「性悪説に基づいた監視システム」を持つ思想がないことだと思う。皆が一つの共同体の中で異論を排除しながら居心地良く慣れ合いでやっていく。これはもう日本の伝統文化に沁み込んだもので、それが経済性を追求して安全を軽視する巨大な「原子力ムラ」を作ってきた背景でもある。

 過去の歴史を見ても、日本には危険で巨大なシステム(かつて軍部もそうだった)を制御する社会システムを作る文化が希薄だった。監視役のメディアでさえも時流に合わせて主張をころころ変えて行く。良くも悪くも慣れ合いに基づくムラ社会。そこから完全に独立した「性悪説」に基づく監視機関は日本になじみにくい。
 日本の原子力規制庁も政府からの独立を担保する「三条委員会」にするべきだという意見が出ているが、基本的に独立・監視・権限の文化がないことからくる違和感が、がいつまでたっても発足出来ない要因だろうと思う。また仮に出来たとしても、それが機能するかどうかについては、悲観的にならざるを得ない。

 ということで、いつもの結論になるが、「日本の原子力は、これから到来する巨大地震時代も考えれば、ハード的にもまたそれを支える社会システム的にも、どんなに頑張っても過酷事故が起きた時の(国そのものが破滅するような)深刻なリスクに見合う高度な安全を確保することは不可能」ということになる。福島の教訓を生かすなら、日本は社会的に管理不能な危険な巨大システム(原子力)を放棄し、身の丈にあった(性善説でも管理できる)安全で未来的なエネルギー体系の中で生きることこそ取るべき道だと思う。
 (マスメディアの原発再稼働に関する姿勢のあいまいさについても触れたかったが、長くなったので次の機会に。しばらくまた旅に出ますので更新をお休みします)

原発ゼロの日 12.5.6

 5月5日深夜、北海道泊原発3号機が定期検査のために停止し、日本の原子力による発電はゼロになった。日本は今、原子力を有する世界の国々の中でも類(たぐい)まれな状況にある。
 3基の原子炉が同時にメルトダウンし、圧力容器を溶かして格納容器にまで燃料が溶け落ちていると言う、人類史上最悪レベルの原発事故を起こし、事故から1年以上経過した現在もなお、その原子炉損傷の詳細も、正確な事故原因も、収束の先行きも、放射能汚染の除去についても、また、事故の責任についても、何も明確になっていない状況なのだから当然と言えば当然なのだが、正直、これは歴史的事件だと思う。問題は、当事者である政府が適切な状況認識を決定的に欠いているということである。

◆脱原発のシナリオを明示にする以外に、再稼働の理解は得られない
 野田政権は、経済界の声に押されて、あいまいで、まやかし的な再稼働条件を作って、なし崩し的に原発を再稼働しようとバタバタ動いたが、(これまでも書いて来たように)状況認識がいかに甘かったかを示している。福島原発事故以後の状況を直視すれば、再稼働のためには少なくとも嘉田滋賀県知事が言っている「福島原発事故の検証結果が出てから、新たな安全対策を考えるべきだ」と言う指摘の方が誰が見ても素直。
 一方、橋下大阪市長が言っている「安全基準を作りなおす、独立した原子力規制庁を作る、電力需給の徹底的な検証、使用済み燃料の最終処理体制の確立」など8提言は、限りなく再稼働のハードルを高くすると言う意味を持たせたのかもしれないが、これが結構“くせ球”の要素も含んでいる。
 その主張は、基本的に原発継続を前提にしており、政府(藤村官房長官)に、今できることと将来の課題に分けて考えるなどとかわされると、両刃の刃になる可能性もある。橋下市長が関電に申し入れている「脱原発」路線の方とどう関連してくるのか、これだけでは分かりにくい。

 事ここに至っては、これから野田政権が(恐らく夏場以降も続くことになる)原発ゼロの状況を打開するには、脱原発依存への姿勢を明確にし、国のエネルギー政策と脱原発への工程表を明示するしかない。その政策の中で原発再稼働を位置付けなければ、再稼働の入り口にさえたどり着くことは出来ないだろう(それでもかなり難しいと思うが)。それを、政府は理解しているだろうか。
 いずれにしても、脱原発の方向性をあいまいにしたまま、なし崩し的に再稼働し、その中でエネルギー政策を考える、などというまやかしはもう通じない。脱原発に向けて、エネルギー政策の大胆な方向転換が出来るかどうか。これは、既成勢力に絡め取られて経済的にも、政治体制的にも「旧来のシステムを再起動」することしか考えられない野田首相には、かなり無理な相談かもしれない。

◆いま、メディアの役割は?
 しかし、このまま原発ゼロの状況を続けて行けば、日本全体が否応なく脱原発へ向けての課題に直面せざるを得なくなる筈だ。脱原発への検討課題が明確になり、これに答えを見つけて行く主役は、政治家ではなく、国民であることもだんだん見えて来るだろう。その意味では、私は、この状況をむしろ好機としたいと思う。
 今日の新聞を幾つか読んだが、どの新聞も要するに「再稼働への条件をもっと厳しく考えるべきだ」ということは書いているが、原発再稼働には脱原発へのシナリオが不可欠だと明確に指摘している新聞は少ない。朝日新聞はいつものように、(電力需給からだけの)原発の段階的漸減説なのだが、どのように減らしていくのか(単純に寿命が来たら止めると言うことなのか)、どうすれば、その間、原発の安全を確保できるのか、そもそも本当に電力は(どう頑張ってもしのげないほど)足りないのか、と言ったことがあいまいなままだ。

 私の方は「どのような安全基準を採用しても、日本社会の場合は救い難い慣れ合い体質になる上に、未知の巨大地震が控えているので、原発事故の重大リスクに見合うだけの安全を日本は確保できない」と考えているので、出来る限り早く脱原発すべきだという考えである。しかし、一方で、これまでも書いて来たように「脱原発」には検討すべき課題が山積していることも確かである。
 その課題を整理して選択肢を出し、国民的議論をして行くことこそ、今必要なことなのである。そのためにこそ今、朝日も含めてメディアの役割は、単に電力需要の面だけから自説を説くのではなく、もっと様々な角度から脱原発へ向けての検証項目を提示し、シナリオの選択肢を提案して、国民的議論を巻き起こして行くことだと思う。(最後に、これまで模索しつつ書いて来た、脱原発に関するコラムをあげておきたい)

日本の脱原発はもう始まっている
(11.6.23)
「再稼働延期」と「脱原発」、何が違うか(11.7.8)
原発を看取るということ(11.9.10)
日本は「脱原発」の実験中(11.12.31)
巨大地震と脱原発のシナリオ(12.4.11) ほか(日々のコラム

ヨーロッパ・ツアー@まえがき 12.5.4

 しばらく更新をさぼってヨーロッパツアーに出かけていた。4月24日に成田を発ってドイツ、スイス、パリを回り5月1日に帰国。旅先で、小沢一郎の無罪や、関越道での大きなバス事故を知ったが、小沢裁判についての私の意見は、過去の「日々のコラム」に書いたことに尽きるような気がする(「推定無罪」を無視するマスメディア」、「小沢切りの真相と深層」、「小沢問題の本質とは何か」)。
 留守中に溜まった新聞をまだ詳細には読んでいないのだが、(これまで書いた上記コラムを基にして言えば)政治的怨念や思い込みに任せて小沢問題を扱って来たマスメディアの政治記者たちは、この3年以上に及ぶ報道の在り方をどう考えているのだろうか。政治家小沢の資質については、私も幾つかの疑義を呈してきた一人ではあるが、これと小沢の裁判は別問題である。この点はネットとマスメディアで立場が大きく分かれたテーマでもあったが、事実のねつ造を図った検察も、それに悪乗りしたマスメディアも一度厳しく検証されるべきではないかと思う。

◆まえがき
 それはそれとして旅行の方。これは、カミさんの希望で決まった「中世の宝石箱ローテンブルクに泊まる、ドイツロマンチック街道とスイスアルプス・パリ8日間」という、一般受けのするツアーで、一行9組のうち3組は新婚さんだった。所々は以前に行ったこともあり、こちらはひたすらお任せ気分で、行く前にどういうコースを回るのかも碌に調べずに出かけたのだが、行ってみるとそれなりにいろいろ感じることがある。

              

 ライン川下りの船から思いがけずに見つけた昔泊まった古城のホテル、ドイツ南部の城塞都市群の成り立ちとその中心にある教会の美しさ。ドイツの環境政策を伺わせる緑豊かな田園風景とそこに点在する太陽光発電施設。添乗員の解説で知ったドイツの連邦制度の仕組み。あるいは、ドイツ・ロマンチック街道の目玉になっているノイシュバンシュタイン城やパリのベルサイユ宮殿の贅沢さ。そこに見る王侯貴族と民衆とのかい離、あるいは王侯貴族と芸術との関係などなど。

             

 また、ツアーの添乗員さんに聞いたドイツのバス運転手に適用されている厳格なルール(それは日本と大違い)や、ジュネーブからパリまでの新幹線の中で製薬会社に勤める新婚さんに聞いた、製薬会社を取り巻く新しい動きなども勉強になった。旅の間に見聞きしたことの気になる点を、帰国してからネットで補足しているうちに、これらも忘れないように一度整理しておいた方がよさそうな気がして来た。

                                                 

   海外に出ると、(日本での感じ方に否応なく縛られている)自分の感覚が幾らかは解き放たれる感じがする。私の場合はごく一般的なツアーで、特段のことはないのだけれど、束の間でも原発問題や地震の心配を忘れて、外国で見聞きして感じたことを、(多少の時事的話題も入って来そうなので、「日々のコラム」の方に)これから何回かに分けて書いてみたい。ユーロ危機など世界的な経済危機が忍びよろうとしている時に、何をのんきなと叱られそうだが、書くべき重大問題が出てくるまではのんびりとやって行きたい。(何か、まだ旅行気分が抜けません)。