7月21日の参院選圧勝からまだ半月あまりだが、自民党による戦後体制への変革が始まっている。まず、憲法の現行解釈を変えて集団自衛権を容認させるために、内閣法制局長官に日米安保を重視して集団自衛権を容認する外務官僚(小松一郎)を当てるという異例の人事を行った。秋に予定されている政府の有識者会議での容認提言を受けて、年末の「防衛計画の大綱」に反映させるための布石だ。その防衛計画大綱には、専守防衛から一歩踏み出す?「敵基地攻撃能力」を盛り込むことも検討されている。
集団自衛権によって日米同盟をより強固にする一方で、アジアの隣国を仮想敵とした有事対応能力を高める。参院選圧勝を機に、いよいよ「強い日本を取り戻す」という安倍と自民党右派の計画が動き出しているわけだが、これはもちろん、その先の憲法9条の改正を睨んだものである。そういう一連の高揚感の中で飛び出したのが、7月29日の麻生副総理兼財務相の、ナチスがワイマール憲法を変えた(本当は無力化したわけだが)「あの手口に学んだらどうかね」という発言だった。
◆麻生発言の本質
マスメディアは、自民党はじめ国内右派勢力が総力を挙げて抑え込みに動いたせいか、麻生が3日後に発言を撤回したあたりから、腰が引けて正面きって麻生発言の重大性を指摘することがなくなっている。せいぜい、海外からの批判を伝える記事や社説でお茶を濁して来た。そんな中、麻生発言をしっかり取りあげた「サンデーモーニング」(4日)では、田中優子(法政大学教授)が胸のすくようなコメントをしていた。
彼女はまず、「政治家の失言は常に本音だと思う」と指摘し、「ナチスとワイマール憲法のことなど、私たちの日常から遠い話なのに、これを引用するのは、(あの人たちは)日頃から、そうしたことを研究しているのではないかと疑ってしまう」と本質を突いた。言うまでもなく、ヒットラーのナチスが暴力と恐怖によって反対勢力を抑え込む中で、ワイマール憲法を無力化する「全権委任法」を成立させた経緯は「ある日気が付いたら、誰も気がつかないで変わった(麻生)」というような生易しいものではなく、「あの手口に学んだらどうかね」という麻生の発言は、事実誤認としても到底許されない失言なのである。
麻生発言があった「国家基本問題研究所」(櫻井よしこが代表者の公益法人)は、国内右派の一拠点だが、実際にネット上の録音を聞いてみると、くだんの発言にさしかかった時には、会場から大きな拍手と笑い声が起きている。「悪しき例としてあげた」などという麻生の発言撤回時の弁解は、会場の雰囲気からしてあり得ない詭弁だ。少なくとも、ナチスに対する違和感があまりないような人たちへの「受けねらい」だったか、百歩譲って、そんな右派勢力と思いを共有して作った憲法改正案をマスコミや反対勢力に邪魔されずに、すんなり通したいという身内的な本音が、あの不穏当な発言に現れたのだろう。
メディアは、日本政府の枢要な地位にいる人物のこうした発言が、いかに(戦後日本が築いてきた)平和国家としての信用と国益を失わせることなのか、あるいは、その考えそのものがいかに民主政治からかけ離れた論外なものかを、日本の一連の右傾化の動きと関係づけて厳しくしつこく問うべきだった。それが出来なかったのは何故なのだろう。
◆主張がばらけるマスメディア
最近のマスメディア(主として新聞)は、防衛力の強化、憲法改正、原発推進、アベノミクスなどの政策に関して、「政権に近い側」(実態的には政権の応援団)と、「それほどでもない側」にはっきり色分けされているために、その論調は互いを意識したものにならざるを得ない状況にある。一方で、テレビ(NHKなど)は両者の中間を取ろうとして曖昧な伝え方になりやすい。――というのは、うがった見方だろうか。
安倍が進めようとしている「戦後レジームからの脱却」は、戦後政策の大転換とも言えるものだが、その問題提起の中でメディアの立ち位置が大きくばらけて、主張の違いから互いに足を引っ張り合うことも多くなってきた。権力への立ち位置や政局への思惑によって、個々のニュースの伝え方まで変えられるようでは、メディア本来の「権力の監視」機能は充分に果たせるのだろうか。
これは、麻生発言の伝え方一つにも表れている。政権との距離や政権内力学、背後にいる右派勢力などの動きに影響されて事の本質からどんどんずれて行き、世界から批判されて始めてその重大性に気づくことになる。こうした厄介なメディア状況の中で、「戦後政策の大転換」に付き合わされる私たち国民は、どのように判断し身構えたらいいのだろうか。
加えて、今や政治は一強七弱の状態で野党の抗議も届かない。ということでようやく今回の本論になるが、ここで言いたいのは、私たち国民は今こそ「メディアおよび政治に対するリテラシー」の重要性に気付くべきだということである。これからの日本ではこの2つのリテラシーを身につけて、国民の間でそれが常識になるように努めて行かないと、また再び道を誤るようなことになりはしないか。これが私の問題意識である。
◆メディアリテラシーとは何か
リテラシー(literacy)というのは、ご存知のように文章などの読解能力を意味する。従ってメディアリテラシーとは単純に言えば、メディアが伝える情報を批判的に読み解く能力を身につけることである。モノの本にはさらに以下のように書いてある。
@ 市民がメディアを社会的文脈(つまり、その社会が持っている様々な価値観や文化)の中で批判的に分析し、評価する能力。
A 受け身だけでなく、主体的にメディアにアクセスし、メディアとの間で多様な形態でコミュニケーションを創りだす能力。
B 同時に、そのような能力の獲得をめざす取り組みや教育もメディアリテラシーと言う。
つまり、主体的に様々なメディアを見比べたり、読み比べたりして情報(メディア)を選別しながら、より客観的で正しい情報を収集する能力を身につける。また、メディアリテラシーによって私たち国民が「知的で教養のある視聴者や読者」になってディアに働き掛け、メディアの側にもより良いものに変わって行って貰うという積極的な意味も含まれている。
大学の講義では、視聴率の魔物性、ドキュメンタリーにおける事実と真実、戦争報道とメディア、ネットの登場とマスメディア、などなどを取りあげているが、中でも戦争報道については、権力側からのメディア操作が極端に現れるケースとして皆が知っておくべきテーマだと思う(*)。*ベトナム戦争からイラク戦争までのアメリカのメディア操作の変遷が面白い。
メディア操作は戦争のときだけではない。戦前の日本にもあったように、権力による日常的なメディア操作や圧力、あるいはメディア自身の自己規制などが積み重なって、やがて引き返すことな出来ない状況に国民を追いやる怖さもある。「歴史は繰り返す」というように、名著「昭和史」(半藤一利)の2冊(*)を読んで見ると分かるが、私自身は、そうした歴史を知ることが最大のメディリテラシーだとも思っている。*@日本人はなぜ戦争をするのか、A日本人はまた戦争をするのか
◆政治リテラシーについて学ぶこと
同じように、政治に対するリテラシーも必要だと思う。今の政治がどういう力学で動いているのか、過去はどうだったのか。そもそも政治家という人種はどういう人種なのか。政治家に求められる資質はどういうものなのか。騙されたり言いくるめられたりしないように、具体的知見の上に立って、現在の政治状況や政治家の言説を批判的に読み解くことである。
こうした政治の基礎知識について、私たちは余りにも勉強する機会が少ない。メディアが政治の舞台裏から人物像までしっかりチェックして教えてくれればいいのだが、今のメディアはともすると目の前の政局ばかりを追いかけていて、時間軸を長く取った政治の本質やあるべき姿については教えてくれない。
メディアと政治。この2つは互いに連動しつつ劣化したり、共犯関係になったり、立ち直ったりしているわけで、その意味でも「今こそ国民にメディアと政治のリテラシーを」と言いたいのである。
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