日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

今こそ「メディアと政治のリテラシー」を 13.8.8

 7月21日の参院選圧勝からまだ半月あまりだが、自民党による戦後体制への変革が始まっている。まず、憲法の現行解釈を変えて集団自衛権を容認させるために、内閣法制局長官に日米安保を重視して集団自衛権を容認する外務官僚(小松一郎)を当てるという異例の人事を行った。秋に予定されている政府の有識者会議での容認提言を受けて、年末の「防衛計画の大綱」に反映させるための布石だ。その防衛計画大綱には、専守防衛から一歩踏み出す?「敵基地攻撃能力」を盛り込むことも検討されている。
 集団自衛権によって日米同盟をより強固にする一方で、アジアの隣国を仮想敵とした有事対応能力を高める。参院選圧勝を機に、いよいよ「強い日本を取り戻す」という安倍と自民党右派の計画が動き出しているわけだが、これはもちろん、その先の憲法9条の改正を睨んだものである。そういう一連の高揚感の中で飛び出したのが、7月29日の麻生副総理兼財務相の、ナチスがワイマール憲法を変えた(本当は無力化したわけだが)「あの手口に学んだらどうかね」という発言だった。

◆麻生発言の本質
 マスメディアは、自民党はじめ国内右派勢力が総力を挙げて抑え込みに動いたせいか、麻生が3日後に発言を撤回したあたりから、腰が引けて正面きって麻生発言の重大性を指摘することがなくなっている。せいぜい、海外からの批判を伝える記事や社説でお茶を濁して来た。そんな中、麻生発言をしっかり取りあげた「サンデーモーニング」(4日)では、田中優子(法政大学教授)が胸のすくようなコメントをしていた。
 彼女はまず、「政治家の失言は常に本音だと思う」と指摘し、「ナチスとワイマール憲法のことなど、私たちの日常から遠い話なのに、これを引用するのは、(あの人たちは)日頃から、そうしたことを研究しているのではないかと疑ってしまう」と本質を突いた。言うまでもなく、ヒットラーのナチスが暴力と恐怖によって反対勢力を抑え込む中で、ワイマール憲法を無力化する「全権委任法を成立させた経緯は「ある日気が付いたら、誰も気がつかないで変わった(麻生)」というような生易しいものではなく、「あの手口に学んだらどうかね」という麻生の発言は、事実誤認としても到底許されない失言なのである。

 麻生発言があった「国家基本問題研究所」(櫻井よしこが代表者の公益法人)は、国内右派の一拠点だが、実際にネット上の録音を聞いてみると、くだんの発言にさしかかった時には、会場から大きな拍手と笑い声が起きている。「悪しき例としてあげた」などという麻生の発言撤回時の弁解は、会場の雰囲気からしてあり得ない詭弁だ。少なくとも、ナチスに対する違和感があまりないような人たちへの「受けねらい」だったか、百歩譲って、そんな右派勢力と思いを共有して作った憲法改正案をマスコミや反対勢力に邪魔されずに、すんなり通したいという身内的な本音が、あの不穏当な発言に現れたのだろう。
 メディアは、日本政府の枢要な地位にいる人物のこうした発言が、いかに(戦後日本が築いてきた)平和国家としての信用と国益を失わせることなのか、あるいは、その考えそのものがいかに民主政治からかけ離れた論外なものかを、日本の一連の右傾化の動きと関係づけて厳しくしつこく問うべきだった。それが出来なかったのは何故なのだろう。

◆主張がばらけるマスメディア
 最近のマスメディア(主として新聞)は、防衛力の強化、憲法改正、原発推進、アベノミクスなどの政策に関して、「政権に近い側」(実態的には政権の応援団)と、「それほどでもない側」にはっきり色分けされているために、その論調は互いを意識したものにならざるを得ない状況にある。一方で、テレビ(NHKなど)は両者の中間を取ろうとして曖昧な伝え方になりやすい。――というのは、うがった見方だろうか。
 安倍が進めようとしている「戦後レジームからの脱却」は、戦後政策の大転換とも言えるものだが、その問題提起の中でメディアの立ち位置が大きくばらけて、主張の違いから互いに足を引っ張り合うことも多くなってきた。権力への立ち位置や政局への思惑によって、個々のニュースの伝え方まで変えられるようでは、メディア本来の「権力の監視」機能は充分に果たせるのだろうか。

 これは、麻生発言の伝え方一つにも表れている。政権との距離や政権内力学、背後にいる右派勢力などの動きに影響されて事の本質からどんどんずれて行き、世界から批判されて始めてその重大性に気づくことになる。こうした厄介なメディア状況の中で、「戦後政策の大転換」に付き合わされる私たち国民は、どのように判断し身構えたらいいのだろうか。
 加えて、今や政治は一強七弱の状態で野党の抗議も届かない。ということでようやく今回の本論になるが、ここで言いたいのは、私たち国民は今こそ「メディアおよび政治に対するリテラシー」の重要性に気付くべきだということである。これからの日本ではこの2つのリテラシーを身につけて、国民の間でそれが常識になるように努めて行かないと、また再び道を誤るようなことになりはしないか。これが私の問題意識である。

◆メディアリテラシーとは何か
 リテラシー(literacy)というのは、ご存知のように文章などの読解能力を意味する。従ってメディアリテラシーとは単純に言えば、メディアが伝える情報を批判的に読み解く能力を身につけることである。モノの本にはさらに以下のように書いてある。
@ 市民がメディアを社会的文脈(つまり、その社会が持っている様々な価値観や文化)の中で批判的に分析し、評価する能力。
A 受け身だけでなく、主体的にメディアにアクセスし、メディアとの間で多様な形態でコミュニケーションを創りだす能力。
B 同時に、そのような能力の獲得をめざす取り組みや教育もメディアリテラシーと言う。

 つまり、主体的に様々なメディアを見比べたり、読み比べたりして情報(メディア)を選別しながら、より客観的で正しい情報を収集する能力を身につける。また、メディアリテラシーによって私たち国民が「知的で教養のある視聴者や読者」になってディアに働き掛け、メディアの側にもより良いものに変わって行って貰うという積極的な意味も含まれている。
 大学の講義では、視聴率の魔物性、ドキュメンタリーにおける事実と真実、戦争報道とメディア、ネットの登場とマスメディア、などなどを取りあげているが、中でも戦争報道については、権力側からのメディア操作が極端に現れるケースとして皆が知っておくべきテーマだと思う(*)。*ベトナム戦争からイラク戦争までのアメリカのメディア操作の変遷が面白い。

 メディア操作は戦争のときだけではない。戦前の日本にもあったように、権力による日常的なメディア操作や圧力、あるいはメディア自身の自己規制などが積み重なって、やがて引き返すことな出来ない状況に国民を追いやる怖さもある。「歴史は繰り返す」というように、名著「昭和史」(半藤一利)の2冊(*)を読んで見ると分かるが、私自身は、そうした歴史を知ることが最大のメディリテラシーだとも思っている。*@日本人はなぜ戦争をするのか、A日本人はまた戦争をするのか

◆政治リテラシーについて学ぶこと
 同じように、政治に対するリテラシーも必要だと思う。今の政治がどういう力学で動いているのか、過去はどうだったのか。そもそも政治家という人種はどういう人種なのか。政治家に求められる資質はどういうものなのか。騙されたり言いくるめられたりしないように、具体的知見の上に立って、現在の政治状況や政治家の言説を批判的に読み解くことである。
 こうした政治の基礎知識について、私たちは余りにも勉強する機会が少ない。メディアが政治の舞台裏から人物像までしっかりチェックして教えてくれればいいのだが、今のメディアはともすると目の前の政局ばかりを追いかけていて、時間軸を長く取った政治の本質やあるべき姿については教えてくれない。
 メディアと政治。この2つは互いに連動しつつ劣化したり、共犯関係になったり、立ち直ったりしているわけで、その意味でも「今こそ国民にメディアと政治のリテラシーを」と言いたいのである。

映画「風立ちぬ」の時代と戦争 13.7.30

 宮崎駿監督の最新作アニメ「風立ちぬ」を観た。宮崎駿の世界が凝集された切なくも美しい映画だった。プロデューサーの鈴木敏夫が「これをやろう」と言った時、監督は「アニメメ―ション映画はこどものためにつくるもの。大人のための映画はつくっちゃいけない」と怒ったらしいが、「こどもたちもいつか大人になって分かる日がくる」という意見に折れて、この「風立ちぬ」を製作したという。
 そのためか、映画を見た人たちのネット上の感想は賛否両論。「泣けて泣けて」というものから「腹立ちぬ」というものまである。確かにこの映画に感情移入するには、ある程度、戦前の時代背景が分かっている必要があるかもしれないが、書きこみ内容を読んでいると、そうした、つい昨日の日本の歴史さえ若い世代に全く共有されていないという現実にも愕然とする。

 宮崎監督については、最近の「憲法を変えるなどもってのほか(*)」と言う発言もあって、右派の軍事マニアからは彼にゼロ戦など描いてもらいたくない、という難癖がある一方で、左派的な人たちからは、戦争協力者とも言える「ゼロ戦開発者(堀越二郎)」を賛美したという非難もある。*スタジオジブリの特集「憲法改正」
 しかし、よく見るとあの映画の陰の主役は「戦争の持つ不条理性」だということも分かるし、戦争を批判するのは監督の一貫した姿勢でもある。そうした皮相的な批判を超えて、この映画にはいつの世にも普遍的に訴えるテーマがある。それはどういうことなのか。プロデューサーが「宮さんの遺言」と言っている、宮崎監督最初の「大人向けのアニメ映画」について書いておきたい。

◆描かれた昭和と言う時代
 アニメに描かれた時代は、主人公、堀越二郎の幼少期は別として、彼が大学で航空機設計の勉強をしようと上京した日の関東大震災(大正12年、1923年)から始まる。卒業して三菱内燃機製造(現、三菱重工業)に入り、海軍の要求で、九六式艦上戦闘機(昭和10年)や、零式艦上戦闘機(ゼロ戦、昭和12年)など、世界の名機と言われる艦上戦闘機を次々と開発する。それは、戦争の気配が次第に濃厚になっていく昭和初期から10年代にかけてだった。
 日本の技術がまだまだ遅れていて、先進国のドイツからいじわるされながら教えて貰っていた時代でもある。アニメとしては画期的な関東大震災の火災の中を逃げ惑う大群衆の絵もさることながら、この映画の中には戦前のそうした時代背景、風景や人々の暮らしが丁寧に描かれている。同時に、その頃の様々な文学や事件からヒントを得たエピソードも脚色されて盛り込まれている。

 例えば、肺結核で婚約者を失う堀辰雄の同名の小説「風立ちぬ」(昭和12年)、スイス高地の結核療養所(サナトリウム)での体験を描いたトーマス・マンの「魔の山」(1924年)。堀越二郎の婚約者の菜穂子も、小説「風立ちぬ」のように、結核を病んで山の療養所で最期を迎える。さらに、戦前の有名なスパイ事件(昭和17年)で処刑されたゾルゲらしき人物も登場したりする。
 「魔の山」は読み終えたという達成感だけが記憶に残っている長編だが、こうした文学を読むまでもなく、戦前の肺結核が死に至る病だということは、私なども良く聞かされた。母方の一族は肺結核で没落したようだし、私の幼児期には、母も肋膜炎を患って微熱に悩まされており、寝る時も別にされた記憶がある。使用人に背負われて真っ赤な火を見たと言う、関東大震災の時の記憶も母から何度か聞かされた。

 死病と言われた結核。迫りくる戦争の足音。その中で懸命に生きた様々な人生。そうした時代の風景は、終戦の年に生まれた私の頭の中にもある程度は感覚として入っている。一人の力ではどうにもならない、そうした難しい時代を背景にして見れば、それだけで映画が伝えているものの大きさが分かって来るように思う。
 ただ、どの程度の基礎知識があれば、あの映画が心に響くのかと言えば、それは人それぞれではないだろうか。知識がなくとも想像は出来る。こういう時代があったのだと想像するだけで、感動出来るように映画は作られている。それに、描かれた技術者や恋人たちのエピソードは、時代を超えて心に響く普遍的なテーマでもある。

◆技術者たちの夢と戦争
 技術者と言えば、少年の頃から飛行機にあこがれて、飛行機の設計を目指した(俗なところが全くない)堀越二郎の若き天才ぶりがいい。東京帝国大学航空学科を首席で卒業し、入社した三菱では早速、ドイツ留学を命ぜられ、帰国後は設計チームのリーダーを任される。「美しい飛行機を作りたい」という一念で、世界最高性能の戦闘機の開発に没頭する。会社の上司もそんな若き天才にすべてを託す。年功序列も何もない、その分かりやすさが却ってすがすがしい。
 堀越を支えるユーモアたっぷりの個性的な上司が実にいい味を出している。戦時中とはいえ、開発チームはただ、独創と技術だけを追い求める純粋な技術者集団となっている。課長もその上司も堀越も、注文主の海軍将校たちの演説をテキトーに聞き流す。ひたすらに技術だけを追い求める堀越の姿には、飛行機好きの宮崎監督自身の姿が重なっているのだろう。その上司が、やがて堀越二郎の青春をかけた恋の見届け役を果たす。

◆切なく一途な恋
 技術一筋に生きて来た堀越青年が運命の恋人に出会う。それが映画「風立ちぬ」のメイン・ストーリーだ。細かい経過は書けないが、そこには互いに惹かれあう男女の一途な恋がある。しかし、運命のいたずらで婚約者の菜穂子は結核を病み、やがて吐血するまでになる。聞いて、名古屋から駆けつける二郎。列車の中で広げた二郎の研究ノートの上に涙のしずくが落ちる。
 ある晩、一旦は、山のサナトリウムに入った菜穂子が矢も盾もたまらずに病院を抜け出し、二郎が居候する上司の離れ屋を訪ねて来る。そこで、例の上司が2人の間を認めて粋な計らいをする。二郎と菜穂子、上司夫妻の4人だけの結婚式。これが泣かせる。それからのひととき、菜穂子は同居しながら二郎の設計の行方を見守る。一日一日をかけがえのない日と感じながら。

 そこに描かれているのは、現代人が忘れかけている一途な思いである。そして、花嫁姿の美しさ、凛々しさ、いさぎよさ、切なさ、はかなさ、がある。ようやく満足のいく設計を仕上げて疲れ果てて帰宅し、病床の菜穂子のそばで眠り込んでしまう二郎に、菜穂子が優しく自分の布団を掛けてやる。宮崎監督のアニメが実にこまやかだ。

◆戦争の大いなる空しさ
 堀越二郎が設計したゼロ戦は、戦争初期において世界の最高傑作だった。芸術品のようで量産が難しいと言われたが、それでも4年間に1万機が作られた。しかし、敗色濃厚な戦争の終わり頃には、「神風特攻隊」の体当たり機にも使用され、殆どが帰って来なかった。
 映画の終盤、二郎の回想シーンには、大群の鳥たちのように大空を飛んでいくゼロ戦の連帯飛行のシーンがあり、その後で地上や海底で累々と屍のように朽ち果てたゼロ戦の群れが描かれる。三菱の技術者集団と一人の天才技術者。彼らが命を掛けて開発したゼロ戦の末期(まつご)である。

 夢の中のシーンでは、既に亡くなった菜穂子も出て来るが、それも風の中に消えて行く。この回想シーンに描かれているのは、
大いなる空しさではないか。懸命に生きようとした人々の努力を押しつぶす戦争の空しさ。戦争は、当時の人々の日々の暮らしや思いを、竜巻の旋風のように根こそぎに吹き飛ばす。前出のスタジオジブリの「憲法改正特集」を読んでも分かるが、映画「風立ちぬ」には、甘く切ない恋の物語ばかりでなく、「戦争だけはしてはいけない」というスタッフたちの思いも込められているのだと思う。

既に始まっている「政治の現実」 13.7.21

 今日は、参院選挙の投票日。まだ結果も見ないうちに書くのもどうかと思うが、明日からも結構日程が詰まっているので取りあえず休日を利用して、今の政治状況について最近思っていたことを書いておきたい(21日16時記)。

◆幻想の二大政党制
 選挙が近づくにつれて、メディア(主に新聞)は野党に対して盛んに「自民党との政策の対立軸を示せ」と社説で書いて来た。しかし、これは一見正しい指摘に見えるが、(後述する)今の政治状況ではあまり意味がないように思える。というのも、一つには野党に対立軸を示せという場合、その対立軸は自民党が掲げる憲法改正や原発再稼働、TPPに関する公約、それにアベノミクスやねじれ解消の訴えに対するものになるのだろうが、これがなかなか難しいと思うからだ。
 憲法改正と言っても、どの条項をどのように変えるのかが明確なっていないのでは一括りで扱えないし、原発についても自民党は「規制委員会が安全と言ったら、再稼働を進める」と言っているだけで、エネルギー政策全体をどうするのか、(核燃料サイクルも含めて)原発政策全体をどうするのか、を明示していない。まして、アベノミクスとなると「デフレ脱却で景気回復」という掛け声だけで、その実体は見えない。これらに(国民に分かりやすく)反論するのは学者だって難しい

 そして何より、今の政治状況を見ると、多少とも野党に期待すべきは政策の違い云々ではなく、圧倒的な勢力の「自民党政治」に対して、野党がどれだけまとまって「異議申し立て」が出来るかだと言うことが分かる。今の衆院の勢力図を見ても分かるが、乱立する野党がどういう政策を掲げようが自民党には関係ない。まだ結果は見ていないが、参院も同じような状況が生まれるとすれば、憲法改正に関しては、他党(例えば維新)の助けがいるが、殆どの政策に関して理論上単独でも通せる。
 すると、衆院で3分の1以下になった野党の機能はせいぜい自民党にすり寄るか、国会で「反対政党」としての(多少の)存在感を見せるしかない。その意味で政治の現実は、すでに二大政党制が完全に崩れて、かつての自民党独裁とも言うべき時代に戻ったと見るべきだろう。メディアが対立軸を示せなどというのは正論ではあるが、(政権と政策が変わるかもしれないという)二大政党制の幻影を引きずった指摘ではないかと思う。

◆始まっている自民党型政治の現実
 二大政党制が終って自民党の天下がこの先10年位続くかもしれないとなった今、はっきりしているのは自民党政治に、どこがどれだけはっきりNOと言えるのかということになった。さすがに、この状況を踏まえて敏感な政党は自民党に対する「異議申し立て機能」を強調するようになった。公明党は「暴走した場合のブレーキ役」といい、民主党は「チェック&バランス(海江田)」と言い、共産党は「自共対決」と言う。個々の政策で言っているより、この方が余程分かりやすい。問題はその覚悟の程である。
 ただし、議員数の現実から言えば、今後の野党の「異議申し立て機能」は極めて限定的にならざるを得ない。野党の批判は自民党に届かず、存在感を示すにはこれまで以上に院外活動を強化して国民に訴えて行くしかないだろう。与党ボケ、二大政党ボケの民主党にこの覚悟があるかどうか。懸念するのは、野党の多くは圧倒的多数を占めた「自民党政治の現実」をまだ充分思い知ってはいないのではないか、ということである。

 というわけで、ここでは、(政策とは別の次元で)既に進行している「自民党型政治」の現実を3点ほど上げておきたい。野党も国民もそしてメディアも、これらの現実に対峙するのは結構覚悟が必要で、その意味でも「明確な意識化」が必要だと思うからだ。 

@ 利益誘導政治の復活によって再構築される「政官財トライアングル」
 すでに、国土強靭化計画(10年間に200兆円)に名を借りた、財政再建を忘れたかのような「人からコンクリートへ」の大盤振る舞いが始まっている。自民党幹部の地元を中心にして、道路や新しい新幹線計画、リニア新幹線、それに巨大科学プロジェクトである国際リニアコライダー(ILC)の誘致など。地元の有力者たちが、おれの所にもカネを回せと働きかけを強めている。
 コンクリートばかりではない。観光政策、教育政策、科学技術政策、医療政策など、あらゆる所で、官僚を動員した利益誘導的な予算配置が行われ始めている。地元や支援者、経済界などがハゲタカのように自民党が支配する予算に群がり、政党の方は、その利益誘導の網を張り巡らせることで権力を維持する。いわゆる「政官財トライアングル」。その持ちつ持たれつの関係はいつか見たもので、こうした利益誘導型政治が1000兆円と言う財政赤字を生み出して来たわけだが、このカネのネットワークに入ることが権力機構(エスタブリッシュメント)の条件なのである。この状況の中で、果たして財政再建などは出来るのだろうか。

A 官僚に対するアメとムチ
 自民党は、既に自分たちの意のままになるように官僚の人事を造り変えつつある。そこは民主党などよりはるかに権力と言うものを知っている。民主党時代に取り入った幹部の首を挿げ替え、自分たちに近い幹部を登用する。官僚たちの動向を観察する「霞が関コンフィデンシャル」(月刊文春)を読むと、安倍政権は今、外務省、財務省、経産省、厚労省、防衛省などで、霞が関の完全掌握に動いている
 官僚たちは、自分たちの意向を無視された人事に仰天して、時代は変わったのだと縮み上がった。次官の人事で激震が走った経産省では、「元経産相で商工族、原発推進派で電力会社との関係も深い」甘利経済再生担当相の意向が働いたとも書かれている。このような人事をやられれば、もう経産省の中では間違っても原子力を軽視したエネルギー政策など出て来る訳がない。官僚と政治家が癒着とも言える関係でつながって行く。この状況下で、日本の重要課題の一つでもあり、かつて安倍が試みた官僚制度改革などはどうなるのだろうか。

B メディアに対する締め付け
 自民党型政治のもう一つの特徴は、メディアに対する締め付けである。一例をあげれば、6月28日放送の「NEWS23」(TBS)の内容が気に食わないと謝罪と訂正を求めて抗議する。そして反論されると取材拒否を言い渡す。これなどは、番組のアンカーを務めている岸井成格氏を標的にした嫌がらせに違いない。岸井氏は、脱原発を明確にしている毎日の主筆でTBSの「サンデーモーニング(関口宏)」のコメンテイターも務めている。難癖をつけて、これらに圧力をかけようというねらいがミエミエだ。
 自民党は今、議員すべての出演番組を録画してチェックしている。マスコミ対策でも、すでにメディアの詳細な色分けが出来ているに違いない。そのメディアの論調を自民党になびかせるために、あらゆる機会をとらえて締め付けを図って行くのだろう。振り返ってみれば、このやり口は自民党が単独過半数を謳歌していた時代の特徴的傾向でもあったが、そのやり方は野党時代の苦節を経てより直接的になっているかもしれない。その中で、メディアは絶対権力の自民党を相手にして、どこまで監視機能を果たせるだろうか。

◆若い世代に希望を託す
 参院選挙を経て、いよいよ自民党の政治が本格的に始まる。私たち国民は、この先、折りに触れこうした「自民党型政治の現実」に直面して行くことだろう。自民党が責任政党を自認している以上、そのすべての政策が悪いなどと言うつもりはないが、こうした政治の現実を知って警戒していないと、その政策が暴走し始めた時にはもう手遅れかもしれない。
 従って、野党も国民も、そして
権力の風圧にさらされるメディアも懸念を持って注視していくと同時に、「暴走に異議申し立てする機能」を強化して行く必要があると思う。その意味で、私は政党の中でも若い世代、あるいは今回の選挙で名乗りを上げた若い世代の政治参加に希望を託したいと思っているのだが、参院選挙後の動きについては、また別の機会に書いて見たい。

虚構と無理筋の原発政策 13.7.8

 前回触れた本(「カウントダウン・メルトダウン」)も書いているが、福島第一原発事故では幾つもの偶然が重なった結果、辛うじて「最悪のシナリオ」を避けることが出来た。何より、@たまたま隣のプールの壁が地震ではずれて、大量の水が(使用済み燃料が入っている)4号機プールに流れ込んでくれた、A2号機では、格納容器の圧力が高まって爆発が時間の問題になっていたが、どこかの局部的破壊で圧力が抜け、大破壊が避けられた(これが爆発したら、福島第一の6基、福島第二の4基の計10基を放棄せざるを得ない状況に陥っていた)。これが大きかった。

 加えて、B地震が金曜日の昼間に起きたために多くの作業員がいたこと、C風向きが11日〜14日は太平洋に向かって吹いていたこと(これが逆だったらさらに広範囲に深刻な汚染が広がっていた)、D1号機、3号機の水素爆発で原子炉建屋の屋根が吹き飛び、外から使用済み燃料プールに水を入れられる状態になったこと、などなども(今も避難している15万人の原発被災者の方々には申し訳ないが)不幸中の幸いだった。
 危機の間、菅元首相を支えた首相補佐官の一人が、後に「この国にはやっぱり神様がついていると心から思った」と述懐し、菅自身も「まさに神の加護があったのだ」と述べているが、実感だろう。日本はあの時、もう二度とはあり得ないような偶然に助けられて、国家の破滅を免れたのである。

◆原発推進に舵を切った安倍政権が進める原発輸出
 その現実を忘れて、経済のためなら何でもやると「成長戦略に原発活用を」などと言い出したのが安倍首相。去年の選挙公約では、「原子力に依存しなくてもよい経済・社会構造の確立」と言っていたのに、それをなし崩し的に変え、今や完全に原発推進に舵を切っている。「逆戻りは許されない」(6/16毎日)、「見過ごせぬ 議論なき原発回帰」(6/28朝日)などの批判もどこ吹く風である。
 その安倍はセールスマンよろしく世界各国を行脚して、(どこからそんなことが言えるのか分からないが)「世界で最も安全な原発技術を生かす」などと言いながら、原発輸出を可能にする原子力協定を結ぼうとしている。その相手は、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、トルコ、インド(交渉再開)、ブラジルなどに及んでおり、フランスとは連携して原発推進に当たることにも合意した。

 こうした官民一体の原発輸出については、以前のコラム「国策としての原発輸出はなぜダメか」にも書いたが、建設費が予定を超えて膨らむ傾向にある上に、事故が起きれば日本が国家として賠償責任を取らされる危険もある。相手国には地震国もあれば政情不安国もある。しかも、その本質は、「儲けは一部企業、リスクは国民」という不公平極まりない構図になっている。原発輸出で経済成長と言うが、原発輸出で企業が儲けても、その恩恵が国民に落ちて来ること(トリクルダウン)は殆どない。これこそ、大企業が「企業が国に何をするかではなく、国(国民)が企業に何をしてくれるかだ」と政府に迫るグローバル経済の象徴ではないか。
 その上、原発輸出は、危険な使用済み燃料を世界中に拡散させると同時に、核兵器開発を世界に拡大する危険もある。そもそも、(10万年も管理しなければならない)使用済み燃料は、日本でもその処理法が定まらない。原発だけを売り込んで、これをどう面倒見ようと言うのだろうか。原発輸出に関する限り、アベノミクスも一皮むけば単なるグローバル企業への奉仕であり、武器輸出にも通じる「倫理なき経済」にしか見えない。

◆電力会社VS規制委員会
 安倍政権の積極姿勢を受けて、国内では電力会社が大手を振って再稼働へ動き出している。先の株主総会では、原発を保有する9電力すべてが原発依存の経営計画を打ち出し、株主からの脱原発提案をことごとく否決した。7月8日には、電力4社が停止中の10基の原発の再稼働を原子力規制委員会に申請する。
 検査が始まると政治も巻き込んだ電力会社と規制委員会との激しい攻防が予想されるが、早くも関西電力などは規制委の足元を見て、活断層調査の要請を無視したり、対策を小出しにしたりする作戦に出ている。規制委は「新基準の最低線を探ろうと言う姿勢だ」と関電の引き延ばし作戦を批判しているが、安全より経済を優先する原子力ムラの文化は変わりようがないので、今後も露骨な抵抗が続くだろう。

 規制委の田中委員長はかつてのインタビュー(1/11朝日オピニオン)で「事業者が原発事故について、どこまで反省をしているか、いまだに確信が持てない」、「経営層が安全対策に責任を取る体制にあるかどうかも見えて行きたい」と述べているが、この初志をどこまで貫けるか。
 一方で新潟県の泉田知事のように、新しい規制基準にさえも(福島事故の解明が進んでいない段階での)「新規制基準そのものが不十分」という意見もある。事実、事故の解明で分かった水位計などの欠陥は新規制基準にも入っていない。「守るべき最低の基準」とされる基準についても、何だかんだと言って抵抗する電力会社の経営者たちを見ると、「日本の原発は世界一安全」だなどというのは思い込みに過ぎないことが分かる。

◆混迷深まる東電経営。福島の虚構?
 東電の方は経営立て直しの姿勢を示すために、地元に十分な説明もせずに見切り発車的に柏崎刈羽原発の再稼働申請を発表したが、地元新潟県の泉田知事の大反発を受けて断念。東電の思惑通り再稼働が進む状況では全くなくなった。現在の東電は、どこまで膨らむか分からない事故処理と廃炉費用、裁判と損害賠償、稼働しない原発の維持と安全対策のための巨額な費用、円安で膨大になる燃料代といった幾つもの難問を抱えている。
 また、5年後?の発送電分離も控えており、この先電気料金をどこまで上げ続けられるのかも分からない。と言うわけで、東電は既に実質的には、どう頑張っても経営が成り立たない破綻企業に近いという説もある。にもかかわらず、国が破綻をさせないのは、問題を引き受けたくないための保身と問題先送り。それに国民に負担を続けさせていくために虚構を続けているに過ぎない。

 加えて福島第一原発の現場からは、海に近い地下水が極めて高濃度の放射能に汚染されているという深刻な情報が伝わって来た。これは一体何を意味するのか。東電は2年前に漏れ出した汚染水が地下に溜まっているのではないかと説明しているが、本当にそうだろうか。
 それに関して、私が気になっているのは、溶けてドロドロになった原子炉の燃料のありかである。これまでは、メルトダウンした燃料が圧力容器を溶かしてメルトスルーしたものの、格納容器の底にあるコンクリートにめり込む形で、中に収まっているとされてきた。しかし、すでに格納容器も突き抜けてその下のコンクリートに沈み込んでいるのではないか、という指摘もある(「原発報告書の真実とウソ」塩谷喜雄)。
 そうなると、外から幾ら水を注入しても、放射能を洗いだした汚染水はコンクートを通過して地下にしみだしてしまうのではないか(*)。あの汚染水はひょっとすると?仮にそうであれば、作業工程は極めて困難になる。一か月前に政府の要請で燃料取り出しの計画を一年前倒ししたばかりなのに、これも単なる机上のプラン、虚構ということになる。*コンクリートがどの位水を通すかは諸説あって分からないが。

◆虚構と無理筋で混迷する原子力政策
 東電の例を見るまでもなく、日本の原子力政策はこの期に及んでも、虚構と無理筋を強引に続けようとしている。それを支配しているのは、「自己保身と問題先送り」、そして「現実を直視しない虚構性」である。その最たるものが核燃料サイクル(使用済み燃料の再処理と高速増殖炉)なのだが、これは別の機会に譲るとして、言えるのは、原子力政策を担う日本の中枢はメルトダウンしたまま、ますます混迷を深めているということである。「神の加護」を忘れて、このまま原発推進に突き進んだら、将来どんな天罰が下るか分かったものではない。

日本中枢のメルトダウン 13.7.2

 去年の12月、福島原発事故に関する2つのノンフィクションが相次いで出版された。いずれも今年5月に発表された「大宅壮一ノンフィクション賞」の候補作となり、うち一つは受賞した。それが受賞作の「カウントダウン・メルトダウン(上下)」(船橋洋一、文芸春秋)と候補作の「死の淵を見た男」(門田隆将、PHP)である。
 私はと言うと、出版後にこれらの本が話題になっていることは知っていたが、本屋で山積みになっているのを見ても頁をパラパラめくるだけで買うまでには至らなかった。というのも、福島第一原発事故に関しては事故発生直後から様々な情報をウォッチし、コラムにも書き続けて来たために、2011年の3月に何があったのか、ほぼ分かったつもりになっていたからである。

◆歴史に残すべき「組織と人間のドラマ」
 それが、月刊文春で賞の選考過程を読み、これだけ選者が揃って褒めているのだったら、読んでおかなければと言う気になった。それによれば、最終的には船橋洋一氏が受賞したが、選考会ではこの2つを同時受賞とすることも議論されたという。それなら、2つとも読んで見ようと思ったわけだが、動機はそれだけではなかったように思う。その理由は読み終わって、より一層明瞭になった。それはこういうことである。
 今の日本は2年前の事故を忘れたかのように、原発再稼働に向けて走り出している。ほぼ一年前の政府、国会、民間の事故調査報告がさらなる調査の必要を訴えていたのに、その後の調査は殆ど進んでいない。解明すべき疑問を放置したまま、政治家も電力会社も官僚も問題を原子力規制委員会が作る(再稼働のための)新たな規制基準に丸投げして、それさえクリアすればいいという雰囲気になっている。今の日本は何を忘れているのか。2つの本を読もうとした背景には、あの原発事故の原点をもう一度確かめておきたいという気持ちがあったのだと思う。

 2つの著作のうち「カウントダウン・メルトダウン(上下)」は、福島原発から膨大な放射能が東日本全体に拡散する危険が高まっていた頃の、ほぼ一カ月に及ぶ日本の官邸、官僚、東電、アメリカ政府、米軍、自衛隊の動きを追った。電源喪失で冷却機能を失い、燃料が空焚きになって溶けだし、水素爆発、放射能漏れと、なすすべもなく事故が進行する中で、ようやく最後の最後で放水と注入が間に合い、「人間のやることが事故の進行に追いついた」と関係者が感じるまでの詳細な記録である。
 選者の一人、関川夏央はこれを「恐るべき戦後史」と評し、「歴史とは何かを考えたい人は、みなこの本を読んだらよい」と書いているが、ここには日本が文字通り「国家消滅の危機」にあった時の、歴史に残すべき「組織と人間のドラマ」が描かれている。

◆2つの本が扱った事故後の一カ月
 一方の「死の淵を見た男」は東電本社の的確な指示も支援もない中で、高濃度の放射線を浴びながら、死に物狂いで原発事故と闘った現場の人たちの凄絶な記録である。その同じ頃、私はコラムで「最悪に備えてあらゆる対策を」、「国を挙げて取り組め」、「危機管理体制の情報を」、「国家の危機は政治家を映す鏡」などを書いていた。2つの本が扱っている内容の多くも、私がこの時期抱いた問題意識にこたえるものになっている。「神(真実)は細部に宿る」というように、実際にはその細部を読んで頂かないと伝わらないのだが、ここではポイントのみを上げておきたい。

@ 最悪のシナリオ
 1号機(12日)と3号機(14日)が水素爆発し、3月14日夜には2号機の圧力容器の圧力も高まって来る。官邸は危機感を深め、細野豪志首相補佐官を中心に極秘に「最悪のシナリオ」作りの議論が始まる。実際には、近藤俊介(原子力委員会委員長)を中心としたチームが22日から25日にかけて徹夜でコンピュータを駆使して作り、菅首相に報告した。それが、その年の年末に明らかになった250キロ自主避難に至るシナリオだった。
 仮に250キロ自主避難となれば首都機能は維持できない。官邸は首都を脱出する国民のパニックを抑えるための「総理大臣談話」まで検討していた。首都脱出につながる最悪のシナリオはアメリカNRCも、自衛隊も独自に行っていた。メディアが東電や保安院の発表を垂れ流していた頃、日本は文字通り「国家消滅の危機」に瀕していたわけである。

A 国家消滅の危機に逃げることを考えていた人々
 この「国家消滅の危機」の時に、東電社長が(一部を残してという説もあるが)現場からの撤退を官邸に打診し、菅首相に一喝されている。また、保安院も全く機能せず逃げ回り、本来はアドバイザーの原子力安全委員会にゲタを預ける作戦に出た。また、放射能の拡散をシミュレートするSPEEDIを持っていた文科省(原子力安全技術センターに委託)もこれを避難に役立てて責任を取ることから逃げまくり、結果として多くの被爆者を出した。
 東電、経産省、文科省、そして警察や消防庁の間にも、責任から逃げまくる幹部たちや縦割り意識に縛られる幹部たちがいて、いたずらに時間を空費した。極め付きはこの期に及んで自己保身に走る東電幹部たちである。安全さえも下請けに丸投げして来たツケが回って、有効な対策を打ち出せない。官邸の意向を気にするあまり、早とちりして海水注入の中断を現場に指示したりしている。

B 危機の中で人を得る
 そうした中で逃げずに一貫して危機感を持って事故に立ち向かった政治家、官僚(ほんの一部だが)、自衛隊の人々がいる。その人間ドラマこそが、国民の財産になる話なのだが、残念ながらここに細部を書く余裕はない。だがやはり、危機に際して人を得ることが出来たのは、日本の不幸中の幸いだった。それがなければ、あの事故は間違いなく最悪のシナリオをたどっていただろう。
 特に、印象に残ったのは自衛隊の貢献だ。危機に立ち向かう覚悟と組織的使命の強さが普段から鍛えられている感じがした。そして何より福島の現場で対処に当たった吉田昌郎所長(*)と配下の人々、そして共に闘った関連企業、下請けの人々の献身的な作業である。東電の本社は過酷事故対策を全く考えて来なかったために備品もなく、必要な現場支援も出来なかった。にも拘らず、彼らは、野戦病院のような劣悪な環境で、血の小便を流しながら頑張った

◆日本中枢のメルトダウンは今も続いている
 現場で悪戦苦闘した吉田たちフクシマ・フィフティ(実際はもっといたが)の人々のことを思うと、大本営は無能だったが、現場の兵士はよく戦ったという、先の大東亜戦争のことを思い出す。ただし、来日して支援に当たったアメリカ原子力規制委員会(NRC)のカストー(日本サイト支援支部長)は著者(船橋)とのインタビューで、フクシマ50や福島第二原発の事故を食い止めたダイニ1200を称えた上で、こう言ったという。「より大切なことは、原子力産業という特殊な産業においては、ヒーローは必要ないと言うことだ」。
 また、アメリカの支援についてはこういう話も書かれている。「トモダチ作戦」で日本を支援したアメリカ軍だが、一時は情報を出さない日本に対する不信と最悪の想定から、日本からの全面引き上げを検討している。実際に空母ジョージ・ワシントンは放射能汚染を恐れて横須賀から東南アジアに向かって出港した。日本の自衛隊は、事故が最も深刻な一時期、「同盟国は助けてくれるが、運命をともにはしない」(ド・ゴール)という現実を知ることになる。

 これらの本を読めば誰でも、あの事故でメルトダウンしたのは原子炉だけでなく、後に菅が国会で答弁したように「自己保身と事無かれ主義(問題の先送り)」を重ねて来た日本の中枢そのもの(原子力ムラもその一部)だったことに気付かされる。しかも、それは今も何一つ変わらずに続いていることに思い至る。幾ら無責任でも、まるで事故を忘れたかのように「原発再稼働で経済成長を」などとは言えないはずなのだから。

新しい米中関係と日本(2) 13.6.25

 6月8日からの2日間にわたって行われた米中首脳会談。そこから僅かに見えて来たのは、アメリカと対等の関係を求める習近平の「新型大国関係」と、中国への警戒を念頭に置いたオバマの「アジア回帰政策」との攻めぎ合いだった。既存の大国と台頭する新興国が、互いに緊張が高まっていることを認めながら、会話を続けて共存と共栄の道を探ろうというわけだが、果たしてうまくいくのか。米中両国は将来の衝突を避けることが出来るだろうか。
 同時に、力関係が微妙に変化してきた米中関係の中で、日本はガキ大将のアメリカや周辺国とどう付き合って行くのか。例えば、北朝鮮の核問題や日本との領土問題を抱える韓国は、朴大統領になって早速、中国と接近し始めた。日本はこのクラスの中でどう生きて行くのか。これが前回の問題提起だった。

◆アメリカに迫る日本に始まった“いじめ”
 このことを考えるために、(ちょっと回り道になるが)一つの興味深いグラフを見てみたい。「グーグルのPublic Data」というグラフだが、これが面白い。左の国名にチェックを入れると例えば、日米中3国のGDPの推移を一目で見ることができる。これで見ると、20年前、経済力で1位のアメリカを激しく追い上げていたのは日本だったことがわかる。
 その差が最も縮まった1995年、日本のGDPはアメリカの73%にまで迫っていた。この勢いで行けば、日本が世界一の経済大国になるのも夢ではないような時代が確かにあったのである。その頃の中国のGDPはまだ僅かに、日本の7分の1に満たない。隔世の感があるが、これがたった18年前の状況である。

 当時の日本が浮かれるのも無理はない。調子に乗って、1989年には三菱地所がカネにあかせてNYの象徴でもあるロックフェラーセンターを買収。これが、ガキ大将アメリカの神経を逆なでし、日本は日米貿易の不均衡を口実にした徹底的な“いじめ”に会う。1980年代後半の「ジャパンバッシング」から「日米構造協議」(1994)、「年次改革要望書」(1994〜2008)へと続く、アメリカによる執拗な日本改造(日本の骨抜き)である。
 日本市場への参入を図るための、牛肉とオレンジの自由化や大型店舗の進出を可能にする大店法に始まり、建築基準法の改正、郵政民営化、労働者派遣法改正、著作権の強化、裁判員制度導入など、アメリカの規制緩和要求によって、日本が変えられて行った。極め付きは、「日米構造協議」による10年間に400兆円(後に630兆円に増額)という巨額の公共投資である。

◆アメリカの植民地と化す?日本
 しかもこの公共投資には、アメリカによって「決して日本経済の生産性を上げるために使ってはいけない。全く無駄なことに使え」という条件が付いたというから驚きだ「始まっている未来」経済学者の宇沢弘文氏)。その結果、地方にレジャーランドのような無駄な箱モノがあふれ、後の膨大な財政赤字やバブル崩壊の要因にもなって行く。成長目覚ましかった日本は、ガキ大将の“いじめ”によって、その原動力を徹底的に削がれる結果となった。これを内政干渉とも言い、また属国以下の搾取を目的とした植民地のような扱いだという意見さえある。

 こうした日米貿易戦争を背景に、もう一度日米のGDPの推移を見ると、1995年を境に低迷している日本に比べ、アメリカは日本が失ったGDPの分まで吸い取る勢いで伸びているように見えるのは、ひがみだろうか。当時の政府が受け入れたとはいえ、日本はアメリカが要求するグローバル化という構造改革によって既得権を奪われたわけだが、それで経済的に強くなったと言えるのか。この関係は今もTPPの形でアメリカから日本に押し寄せようとしている。
 もちろん見方を変えれば、この位の“いじめ”は、アメリカと商売をして行く上で我慢しなければならない代償だった、と言うことも出来る。しかし、新しい米中関係が動こうとしている時代になっても、日本は相変わらず「下駄の雪」のように、踏まれても踏まれてもついて行く関係をいつまで続けて行くのだろうか。

◆新しい日米関係は作れるか
 というわけで、私などは、「戦後レジームからの脱却」をいうならまず、この20年間の対米従属的な植民地体制からの脱却が先だと思うのだが、これをやろうとした首相たちは軒並みアメリカにつぶされて来たと言う説もある(「戦後史の正体」孫崎享)。では、見て来たような日米関係、米中関係の中で、安倍内閣はどう見られているのだろうか。全くの私見だが、何かと言うと「世界のトップ」や「世界一」を連呼する安倍の国家主義的傾向と歴史認識は、中国ばかりでなく、アメリカの神経にも障る存在になって来ているかも知れない、ということである。

 アメリカに言わせれば、我々が対中国戦略を練って緊張を避けつつ上手くやろうとしている時に、なぜ日本は中国を挑発するのか。日米韓の三国共同で中国に圧力をかけようとしている時に、なぜ韓国と仲良くできないのか。あるいは、アメリカの真似をして「異次元の量的緩和」を始めたが、これが我々の金融政策に影響をもたらさないか。さらには、「戦後レジームからの脱却」などと言っているが、我々が育ててやった戦後の民主主義を否定するのか。子分は子分らしくしていればいいのに、再び世界一を目指すなんて本気で言っているのか、という具合だ。

 安倍に対してアメリカのメディア(ワシントンポストなど)からも「ナショナリスト」という冷ややかな評価が聞こえるようになってきたが、安倍自身は(集団的自衛権によって)日米同盟を強化するのだから、日米関係は揺るがないと思い込んでいるふしがある。しかし、尖閣で日中が衝突すれば、(集団的自衛権によって)引きずり込まれて迷惑するのはアメリカの方である。それで安心するほど国と国の関係は固定的ではない。
 一回目にも書いたように、その関係は力関係の変化、嫉妬や羨望によっても微妙に変化するのだから、単純に固定的に考えているわけにもいかない筈だ。日本はアメリカの虎の尾を踏まずに、そこそこの防衛力を備えながら、真に自立的で「平和で豊かな国」を作って行くことは不可能なのだろうか。

◆豊かな先進国として普通に生きる
 そういう意味で、もう一度、グラフを見て貰いたい。今度は英独仏のGDPの推移を加えたグラフだが、このところの日本は英独仏などの先進国よりかなり上にあり、しかもそれらと同じような曲線で少しずつ伸びて来ているのが分かる。むしろ異質なのは、ひたすら巨大化するアメリカと急激に上昇する中国の方なのである。これをつらつら眺めていると、日本はアメリカの顔色を窺っているばかりでなく、英独仏のような先進国のグループのトップとして着実に生きて行けばいいのではないかと思えて来る。

 そのためには今こそ、2つの帝国(アメリカと中国)に挟まれた島国日本が、翻弄されることなく自立して豊かに生き残って行くための、新しい時代の国家経営ビジョンと緻密に練り上げた外交政策を早急に用意することである。異次元の金融緩和などと言ってバブルを作り、見せかけの景気回復に走るのではなく。グローバル企業や一握りの富裕層によって支配されるアメリカの真似をすることもなく。国内に差別と格差と混乱を抱えた中国を必要以上に恐れることもない。
 じっくりと成長の芽を育てながら世界に誇れる日本の良さと強みを磨き、確実に自然や文化、社会的インフラの豊かさを次世代に繋いで行く。間違っても背伸びしてガキ大将に肩を並べるなどという危険な幻想を抱かず、「一億総中流」でいいから、身の丈に合った「本当の成熟」を着実に平和的に追求して行くことだと思う。

新しい米中関係と日本(1) 13.6.19

 終戦の年に生まれた私の小中学校時代は、一クラスが45人位だった。弟たち団塊の世代は60人位だったから、かなり少ない。そういう個人的経験から、かねがね思って来たことがある。それは、何かと難しい国と国の関係も、どこかガキ大将がいるクラスの中の人間関係に似ているものだということ。例えば、小学校高学年から中学校にかけては、体格が大きく変化する時だが、急に大きくなった生徒が、それまでのガキ大将に対抗意識を見せ始めたりする。

◆クラスの人間関係に似ている?国と国の関係
 2人の間で緊張が高まって小競り合いが起きたり、時にはそれぞれがおもちゃやマンガなども使って取り巻きを増やそうとしたりして、互いに相手を意識した神経戦が始まる。クラスの中の力関係が不確実になると、これまでガキ大将にくっついていた取り巻きたちも、2人の力関係がどうなるのか、状況判断に頭を使うことになる。このゲームに参加するのはクラスの中でもせいぜい10人程度で、残りは観客だが、ガキ大将を続けるには常に新興勢力の動向に注意を払い、取り巻きに気を使い、観客の目まで意識しないといけない。勢力関係の行方にクラス中が注目しているからだ。

 今の国際関係も似たようなものである。クラスには世界の主だった国々がいて、経済力や軍事力を背景にしたあからさまな力関係が支配している。それが気に入らないからと言って勝手に教室を出て行くわけにはいかないし、席を変わるわけにもいかない。ここでは、ソ連崩壊後、唯一の超大国になったアメリカが突出したガキ大将で、ヨーロッパ先進国(特にイギリス)を味方につけ、アジアの日本や韓国を子分にして新興勢力に睨みを利かせて来た。
 しかし、ここへ来て一気に力をつけて来たのが中国である。何しろ中国は核保有国の上に、この20年、年率10%前後の高い成長率を続けて来て、GDPが16倍にも増えた。アメリカのGDPはこの間に1.6倍にしかなっていない。中国のGDPはまだアメリカの半分程度だが、今世紀半ばにはアメリカを抜いて世界一になるのという観測(*1)もあり、両国の関係は緊張を孕んだものになっている。ちなみに、第3位の日本は2010年に中国に追い抜かれた後も差を広げられている状況だ。

◆台頭する中国とアメリカの戦略
 台頭する中国に対して、アメリカはこの20年、様々な対中国戦略を練って来た。その戦略は、歴代政権によって大まかに言えば、「中国と会話しつつ、中国を国際社会の価値観に引き入れるという親中国的な政策」と、「同盟国と歩調を合わせながら、中国の人権問題や覇権主義的傾向を警戒する中国封じ込め政策」との間で揺れ動いて来た。
 例えば。クリントン大統領は、天安門事件(1989年)の影響もあって中国の人権問題に厳しい態度を取って来た。しかし、1997年の江沢民主席の訪米を機に互いに「建設的な戦略的パートナーシップ」の構築を目指すことになる。その後のブッシュ政権は、中国の影響力の増大を警戒して「封じ込めと関与」という硬軟取り混ぜた「競争的共存」政策に変わり、さらに、中国を「責任ある利害共有者=レスポンシブル・ステークホルダー」とみなす政策を打ち出す。「米中百年戦争」春原剛)

 オバマ政権になってからは、成長著しい中国市場の魅力と、アメリカ国債の最大保有国である中国の立場を重視して、大胆な「米中G2体制」の提案を行う(2009年)。米中首脳が定期的に会談して世界の重要課題について協議し、それ相応の責任を負ってもらうと言う提案である。つまり、中国の顔を立てつつ中国を国際社会に引き込み、CO2削減などの世界的課題で共に責任を分担。そこから自国の利益を引きだそうとねらったものである。

◆アメリカに対抗する中国の戦略
 中国の方は、この「米中G2体制」で過剰な責任を負わされることを警戒して、「米中共同統治論は間違っている」(温家宝)と突き放す一方で、目立たぬように慎重にアメリカに対抗する戦略を進めて来た。その基本になったのは、ケ小平の「決して親分になろうと思うな」という戒めだった。
 1990年代初頭、ソ連と東欧の社会主義国が崩壊した後、中国では残った社会主義国を率いて中国がアメリカと対峙すべきだと言う対米強硬論が起こったが、彼はこの動きを一喝。これは、その後の中国の方針「能力を隠して力を蓄え、力に応じて少しばかりのことをする」(韜光養晦、有所作為)になった。
 しかし、国力をつけるにつれて中国は、既成の国際秩序に挑戦する姿勢を強めるようになる。胡錦濤時代の2009年には国内の利権集団の声に押される形で対外強硬論が台頭し、海洋資源、海洋国土の防衛が叫ばれるようになった。

 中国側から見れば、今は広い海岸線の目の前をアメリカの出城のような韓国、日本南西諸島、台湾、フィリピンに塞がれており、国土防衛上極めてうっとうしい状況になっている。何とか突破口を見つけて広い太平洋に防衛線を確保したいと言うのが、第一列島線と第二列島線構想である(*2)。これはアメリカの「太平洋一極支配構造」と包囲網打破を狙ったものであり、「海洋大国」を目指す中国の悲願でもある。
 2007年には、中国海軍の高官が「我々が空母を開発するから、太平洋のハワイから東を米国が、その西を中国が管轄するというのはどうか」(太平洋二分割論)と提案してアメリカ側を仰天させたというが、中国はその後も米軍の封じ込めを打破すべく戦略を練って来た。それが2010年に明らかになった中国の「接近拒否、領域拒否」(A2AD)戦略である。中国に近づく米軍に対して、独自の空母と中距離弾道ミサイル(ASBM)で対抗する計画で、これが完成すると、アメリカの誇る空母も重大な脅威を受けることになる。

◆米中関係の新局面。その時日本は?
 こうした中国の軍事力の増強や、南シナ海や東シナ海への進出などを見て、オバマ政権も政策の「戦略的旋回」をする。中国の「接近拒否、領域拒否」に対抗して「エア・シー・バトル(ASB)」という(空海一体運用の作戦で戦う)戦術を明らかにする同時に、これまで以上にアジア太平洋地域を重視する「アジア回帰政策」を打ち出した。これはある面で(同盟国も動員した)「対中国封じ込め」政策への回帰という意味合いを持つ。
 と言うわけで、『現在のところ、
アメリカは中国との正面衝突を避けると同時に、中国の軍事力を相殺するために、軍事力の直接行使がないだけの激しい心理的バトルを展開しているのである』(「中国は、いま」岩波新書

 先の6月8日からの米中首脳会談は、米中のこうした緊張関係と、互いに重要パートナーになりつつある経済関係を背景に始まった。会談の冒頭に習近平国家主席は、(「太平洋二分割論」を想起させるような)「太平洋には中米両大国を受け入れる充分な空間がある」と意味深な発言して、「米中G2体制」にも等しい対等の「新型大国関係」を求めている。これに対し、アメリカ政府高官は「両国首脳は、新たに台頭して来る国と既存の大国との間で、衝突が起き得る危険があることを認識している」(*3)と言い、だからこそ率直な話し合いの場が必要だと牽制している。

 このことは、冒頭のクラスの中の力関係の話に戻れば、アメリカというガキ大将に対して、肩を並べる位に力をつけて来た中国が堂々と自己主張を始めた図式である。こうした両大国間の新しい局面の中で、日本はどうすればいいのだろうかこれまでのようにガキ大将にくっついて歩いていればいいのか。あるいは、ガキ大将の意向を読み違えて、中国と角突き合わせていてもいいのか。あるいは、都合よく対中国カードの一つに使われて利益を頭越しにさらわれてもいいのか。
 言えるのは、余りにも思い込みの強い硬直した対中、対米戦略しか持っていない日本が、このクラスの中でうまく生きて行くためには、自律的に(アメリカに負けない位の)より柔軟で用意周到な対米、対中国、そして対アジア(特に韓国)戦略を練る必要があると言うことである。そのためには、まず日本自身がクラスの中でどういう位置取りをして行くのか、そして何より、どういう国として生きて行きたいのか、ということが分かっていなければならないと思うのだが。。。(このことは大事なテーマだが、長くなったので回を改めて書きたい)

*1)「中国台頭の終焉」のように、そうはならないと言う見方もある。
*2)まず、日本列島、沖縄、台湾、フィリピンを結ぶ第一列島線の内側の制海権を確立して「内海化」を図る。次に独自の空母打撃軍を編成して、小笠原諸島、グアム島、インドネシアを結んだ第二列島線の内側の制海権を確立する。
*3)これは、「覇権循環論」(ジョージ・モデルスキー:米)、あるいは「ツキディデスの罠」(グレアム・アリソン:米)に基づく認識であり、歴史の一つの見方でもある。

「原発再稼働で経済成長」の欺瞞 13.6.9

 異次元緩和の厚化粧で始まったアベノミクスだが、化粧がはがれつつある中で安倍が頼みの綱とする成長戦略(第三の矢)が打ち出された。しかし、今の日本で成長戦略を言うなら、基礎体力をつける地道な政策を腰を据えて着実にやって行くしかないわけで、効果が出るまでには何年もかかる。やらなければならないことだが、すぐにも景気が良くなるなどと期待を煽っても無理。しかも打ち出された政策も薬のネット販売などは、既存業者の利益をネット業者(楽天など)に有利に移転するだけの典型的なレントシーキング(ルールの変更)で成長戦略とはいいがたい。
 新聞の見出しには「成長戦略 大胆な目標」(朝日)とあるが、10年後に所得を150万円増やすと言ってもその道筋は見えない。首相が演説している最中に市場は「中身が乏しい」と「失望売り」に転じて、株がまた500円以上下がった(6月5日)。この2週間ほどで、市場では63兆円が消えてしまった計算になるらしい。参院選まであと一ヶ月半、鳴り物入りで始まったアベノミクスの厚化粧がいつまで持つか、微妙な情勢となって来た。

 アベノミクス・バブルがはじけた時にどういうことが起こるのかについては、諸説あって分からない。今は世界中で巨額な緩和マネーが日々激しく動いていて、その影響は誰にも予測できないというのが正直なところではないか。しかも、一旦始めた異次元の量的緩和は(景気に急ブレーキをかけることになるので)簡単には止められず、その時から日本は未知の領域に突っ込んで行くことになる。この恐怖感がなりふり構わぬ「第三の矢頼み」になって表れているのだろう。
 しかし、見逃せないのは安倍政権が成長戦略の一つに「原発再稼働の推進」を掲げて、「政府一丸となって最大限取り組む」としていることである。これがどうして成長戦略なのか。先行き不透明の原発にずるずると付き合って国民に負担を押しつけることが、なぜ成長戦略になるのか。既にコスト優位性が揺らいでいる危険な原発にいつまでもしがみつくことこそ、日本の成長を阻害する要因になるという、その現実を自民党は見ようとしない。

◆先行き不透明の原発で国民に負担を強いる
 そのことを言うためにまず、日本の原発が今、どういう状況にあるかを概観しておきたい。現在日本にある原発は50基(福島の4基は廃炉)。うち稼働しているのは、大飯原発の3号機と4号機の2つだけだが、これも今年9月には定期点検に入って7月18日(*)に発表される新しい安全基準の審査を受けることになる。日本のすべての原発はこの審査を受けてパスしなければ再稼働できないので、日本は当面原発ゼロが続く。*7/8に前倒しになった
 7月の新基準発表を待って、現在4電力6基程度の原発が再稼働の申請をするとみられているが、原子力規制委員会による審査は一基当たり半年位かかるという。また、仮に新基準をパスしたとしても、再稼働するには地元自治体の了承などのハードルもあり、万事順調に行ったとしても、来春までに再稼働出来る原発は数基にとどまるだろうと見られている。

 それ以外の原発では、全体の半数以上の26基が活断層の調査や防波堤の設置など重要項目が残っており、この審査や対応には数年以上はかかる。その間は再稼働できないし、中には敦賀原発のように廃炉を迫られる原発も出て来るだろう。また原発の寿命を原則40年とすると、再稼働の原発の数はさらに減って行く。この状況を要約すれば、この先、日本の原発は最大限見積もっても電力の10%がせいぜいで、基幹エネルギーとしては期待できないと言うことである。
 こうした状況の中で、日本の電力会社は発電量ゼロの原発維持のために年間1.2兆円、安全対策費にさらに1兆円をかけようとしている。これらは、すべて電力料金から出費されるが、それでも年間1.6兆円の赤字だと言うので、電力料金を値上げしようとしている。安全対策費はこの先どの位膨らむか分からないし、この先どう頑張っても先細りにしかならない原発のために、膨大な出費を国民に押し付けようと言うわけである。

◆原発は虚妄のエネルギー。方向転換できない自民党
 電力会社は、原発が止まっているせいで年間3.8兆円の燃料代が余計にかかると言うが、これも原発というお荷物を抱えているためで、原発に頼らなければ別に赤字など出さないで済む話だ。これは中部電力が、浜岡原発の安全対策に巨費を投じているにもかかわらず、原発に頼る割合が13%と少ないために値上げをしないで済んでいることからも分かる。
 ビルや工場でも充分ペイできる自家発電や売電が増えている。電力需要から言っても既に日本は、原発がなくても十分やって行けるし、(後述するが)価格の安い石炭やシェールガスに換えれば、燃料代の3.8兆円も減らすことが出来る。何より、すでに原発の経済優位性は崩れていることを考えれば、この先も危険で厄介な原発にしがみつく合理性はほとんどなくなっていると言っていい。

 こうした状況を直視すれば、日本の原発はすでに経済性、安全性、将来性から言って(実力の伴わない)「虚妄のエネルギー」と言わざるを得ない。にもかかわらず、方向転換が出来ずに、莫大な維持費や(稼働できなければ)意味のない安全対策費をずるずると国民に押しつけて行く。今、「成長戦略のためには、原発再稼働が必要」、「成長戦略を作っても低廉な電力が提供できなければ机上の空論になる」(甘利大臣)などの、安倍政権や自民党の一部議員連盟の論拠こそ、原発の殆どが動かなければ成り立たない机上の空論なのである。あるいは、彼らは電力会社と一体になって福島事故以前の利権の再来でも夢見ているのだろうか。
 危険なのは、彼らが原発再稼働を焦る余り、安全性を軽視して強引に再稼働に走ろうとすることである。表向きは「規制委員会が安全と判断した原発については再稼働を進める」と言うが、一方では審査のスピードアップを強制し、さらには規制委員会の陣容にケチをつけ、守るべき最低限の基準とされる安全基準や審査方法にまで文句をつけようとしている。

◆成長戦略と言うならば
 6月4日、都内で「資源エネルギー政策の焦点と課題」(一橋大学と経済産業研究所の主催)というシンポジウムがあった。相変わらず原発の必要性を声高に言う専門家がいる一方で、印象に残ったのはロシアの天然ガス利用やアメリカのシェールなど安い燃料へのシフトの話と、最近の石炭利用技術の進展だった。
 特に、石炭は発電単価が原子力や天然ガスの半分以下、石油の4分の1ほども安いうえ、効率的に熱を取り出す技術やCO2を減らす技術が劇的に進化している。埋蔵量も日本に近いオーストラリアでは数百年から数千年もある。高効率での燃焼とCO2削減技術では、日本が世界の最先端を走っており、CO2を地下に貯留するCCSという技術も実験中だ。これらは、古い技術で石炭を利用している世界各国への技術貢献、世界のCO2削減への貢献として期待されている。

 問題は原発にこだわることによって、日本がアドバンテージのある、こうした新技術や新エネルギーの開発が遅れることである。「脱原発依存にこそ成長戦略の道あり」(朝日、6/1)というのは、誰にでも分かる道理なのに、安倍政権や自民党の一部議員は、旧態依然の電力利権の負のサイクルから抜け出せないでいる。その結果、どういうことになるのか。
 方向転換が出来ないまま、ずるずると先行き不透明の原発にこだわり、問題を先送りする。その間、費やさなくてもいい原発維持費や核燃サイクルの研究費や不必要な安全対策費で、国民に負担を強いて行く。その間にテロや千年に一度という巨大地震に見舞われて、国家を失うかもしれない。
 従って、何度も書いてきたが、いま真に重要なのは大胆な方向転換と、原発収束のスキーム作りである。活断層が見つかった敦賀原発も含めて廃炉が現実のものとなって来た時に、原発をどう始末して行くのか、「廃炉の道筋」を真剣に検討し始めることである。

「衣の下の鎧(よろい)」とは? 13.5.23

 参院選挙まで2か月となって、政治は選挙モードに入っている。安倍は成長戦略(第三の矢)の一つに取りあげた女性登用に関連して、横浜市の待機児童解消の取り組みを視察。子どもたちと遊んで見せたりして、相変わらずメディアを上手に使っている。野党の方はというと、従軍慰安婦に関する発言問題で、維新とみんなが選挙協力を解消したという報道はあったが、他の野党は全くと言っていいほど発信力がない。政権与党でないので無理もないが、何を考えているのか殆ど伝わってこない。

◆衣(アベノミクス)の下の鎧(よろい)
 その安倍は、ここへ来て執念を見せていた憲法96条改正が学者やメディア、公明党、中韓などから不評と言うので「まだ国民の理解が得られていない」と引っ込めて、参院選挙はアベノミクス中心で戦うと言い出している。衣の下の鎧を一旦は見せたが、また衣(アベノミクス)を着直した感じ。しかし、それも参院選挙が終わるまでで、終わればむしろ積年の思いであるアベノイズム(鎧)に向かってアクセルを踏む筈だ、と多くのメディアが報じている。
 また、先に安倍が衣の下の鎧(憲法96条改正などのアベノイズム)を一瞬見せたのは本人の執念だけでなく、彼の応援団に対する「本来の目的を忘れていないよ」というサインだったと言う見方もある。何しろ安倍の応援団の中には、経済政策なんかより「戦後レジームからの脱却」に期待する人々が圧倒的に多いからだ。

 そういう事情ならばこそ、メディアは「参院選後には安倍色が強まるだろう」などと傍観者的に言っていないで、選挙の前に彼の本質であるアベノイズム(鎧)について、詳しく吟味し問い糺す必要があると思うのだが、安倍が憲法改正を引っ込めたら安心したのか、それ以上を追求しない。
 アベノイズムについては、毎日が「国づくり 譲れぬ安倍色」(5/17)で、憲法改正、靖国参拝、歴史認識、教育再生、日本版NSC(国家安全保障会議)、集団的自衛権などといった“メニュー”を羅列している。いずれも、戦後の日本政治に大きな転換を迫るものだが、そもそも、このアベノイズムとは一体どういうものなのか。

◆「戦後レジームからの脱却」とは? 
 こうした“メニュー”の出どころでもある安倍の「国家観」について、安倍自身は一言で「戦後レジームからの脱却」と言っているが、その内容については別冊「正論」(ふたたび「戦後レジーム」からの脱却へ 安倍信三、“救国”宰相の試練)が分かりやすい。この中には、2008年から2010年にかけて安倍が行った幾つかの対談が採録されている。彼が第一次安倍政権を降りた後で、しかも対談相手が気心の知れた櫻井よしこや金美齢、日下公人といった右派論客なので、比較的率直に思いを吐露している点で分かりやすい。

 安倍によれば、「戦後レジーム(体制)」とは「日本が戦争に敗れた昭和20年8月15日から独立を回復するまでの期間にGHQ(連合軍総司令部)の主導で形成された、日本の骨格、あるいは考え方」だという。この占領期に日本はGHQによって二度と欧米に立ち向かうことが出来ないようにされた、また、米国民主党の一部の人々による実験的な試み(例えば、平和憲法のような)を押しつけられた(*)、というのが彼の考えだ。
 その結果、普通の国の憲法ならば、自国の独立と安全は、自らの手で守るという決意が表明されている筈なのに、日本の場合は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書かれている。いわゆる平和憲法だが、これはいわば戦争のわび証文のようなものだ、という。従ってまず、憲法を変えて「自国の独立と安全は、自らの手で守るという決意」を持てるようにしたいと言うのが、「戦後レジームからの脱却」の主眼になる。その上に、安全保障や行政システム、教育、経済等の枠組みを変えて行く。(*私の意見は「憲法を考える」)

◆アベノイズムの特徴とは?
 同時に安倍自身の政治姿勢について、保守の本質、強い国を目指す安全保障、民主党の反米親中国姿勢への批判、靖国参拝への思い、北朝鮮の拉致問題、教育基本法などを語っている。全体に「戦後レジームからの脱却」の思いが強いぶん、反対する勢力、無理解者に対する反応も激しくなる。それが狭量さや性急さ(説明不足)につながらないようにというのが、前回の反省点だった筈だが、生かされているだろうか。以下、そのアベノイズムの是非論と言うより、私が感じた特徴について4点ほどあげておきたい。

@ 「戦後レジームの脱却」は戦前の反省が抜け落ちている
 アベノイズムの基本は、戦後のGHQが作った「国のかたち」の対する反発である。それはそれで一理あるにしても、意外なのは、(GHQ政策とも関連する)戦前の歴史についての反省が希薄なことである。戦前の国家主義、軍国主義が犯した日本史上最大の愚行に対する反省が殆ど見られない。
 むしろ、(安倍を代弁しているつもりの)高市早苗の「それでは、当時、資源封鎖され、全く抵抗せずに日本が植民地になる道を選ぶのがベストだったのか」と言った被害者意識に近いのではないか。戦前の愚行(海外はもちろんだが、なかんずく日本国民に対して軍国主義が犯した罪)の無反省と、「戦後レジームからの脱却」が安直に結び付くと、(安倍が幾ら否定しても)それは戦前の国家主義の復活につながる恐れがあるのではないか。

A 中国、韓国との間に緊張を作りだす
 安倍が進めるのは、中国を取り巻くアジアの国々(東南アジア、インド、オーストラリア、ロシア)と親交を進めて対中国カードにする、いわゆる価値観外交(中国包囲)だ。同時に、いつまでも謝罪を要求する韓国に対する反発も変わらない。これは第一次政権の時から一貫した傾向だが、当然のこと隣国(中国や韓国)との緊張関係を作りだす。その根底には、多分に安倍の歴史認識が反映しているのだろう。
 これらは安倍から見れば当然のことであっても、国際的には日本がいつまでたっても隣国ともめている内向きの国だと言う印象を与え続ける。また、中国や韓国と緊張関係を維持することは、よりアメリカ依存にならざるを得ない状況を生む。しかも最近では、日本を対中国のカードにしながら、頭越しに中国と関係改善をしたいアメリカに利用されやすい国になる心配もある(詳しくは別途)。

B メディアに対する被害者意識と怨念
 第一次安倍政権では、「戦後レジームからの脱却」を持ち出したとたんにマスコミに叩かれた。「戦後レジームに固執する勢力は沢山いる。特に一部のマスコミ。私はマスコミに対しては必死で抵抗を試みたが、まだ共に闘う人が少なかった」。「私が取り組もうとしたこと、その意図についてマスコミがもう少し正確に伝えてくれれば、また違った展開があったかもしれない」。
 これはマスメディアに対する怨念に近い発言だが、一方で彼が好意を持って言及するのは産経新聞だ。同じ別冊「正論」には、安倍への応援歌としての「東シナ海の制空権を確保せよ(元空将)」、「朴槿恵への幻想――韓国の反日は変わらない」、「東電叩きの愚行がもたらした日本の危機(原発推進)」などの論考もあるが、安倍の思想的空間はこれらを見ても分かるように、日本の歴代首相としては特異的に右寄りと言っていい

C アベノミクスは、グローバリズムに向かうのか?アベノイズムと折り合えるのか?
 安倍の保守主義と強欲な資本主義(グローバリズム)。この2つは必ずしも路線が一致しているわけではないと思うが、グローバリズムは一国の保守政治など簡単に飲み込んでしまう位に強力な世界的潮流だ。グローバリズムの中では安倍が大切にしたいと言う「日本という美しい国」までが解体されてしまう(「壊れゆく日本という国」内田樹5/8朝日)。大胆なマクロ経済、TPP、原発輸出(「国策としての原発輸出はなぜダメか」)、工場の海外移転の支援、などを進めるアベノミクスと、グローバリズムは何が違うのか、アベノイズムとはどう折り合うのか。これらはかなり深いテーマになりそうなので、次回以降に書きたい。

第三の矢・成長戦略に期待できるか 13.5.16

 アベノミクスの第一の矢が異次元の量的金融緩和だとすると、公共事業の大型財政出動が第二の矢、そして真価が問われる成長戦略が(参院選挙用でもある)第三の矢になる。間もなくその第三の矢がまとまる6月を迎えると言うので、メディアの関心も安倍政権がどのような成長戦略を打ち出すのかに集まっている。第一の矢が実体の伴わないカンフル剤的な景気づけ、第二の矢が財政赤字を膨らます従来型のバラマキであり、勝負は第三の矢にかかって来る、というのが大方の見方になりつつある。

◆第三の矢も方向が違えば
 しかし、これも評論家の中野剛志に言わせれば、安倍政権に入り込んでいる新自由主義的な経済学者(竹中平蔵)や経営者(三木谷浩史)が考える規制緩和や労働者の流動化、法人税の軽減などの成長戦略は、現在の市場の富をより強者に移行させるルール作りに過ぎず、経済成長にはつながらない。却って超格差社会を生むだけだというから厄介だ(竹中平蔵「成長戦略」という毒の矢、月刊文春)。
 むしろ、資源のない日本が成長して行くために必要な一つの戦略は、2日にわたってNスペが放送した
「メイド・イン・ジャパン 逆襲のシナリオ」(5/11、5/12)の中にも出て来た、「技術立国としての日本再生」だろう。しかし、これも「消費者のニーズにこたえるモノづくり」、「新たな市場を作りだす」、「(独創的な新技術を)市場に出せ」と言った提言は、これまで何度も言われてきたことではある。

 この提言を生かす土壌を作って行くためには、大学の教育研究制度、いわゆるポスドク問題の改善、ベンチャー企業の支援策、また医療や介護、環境やエネルギーなどの成長分野に対する国家戦略など多岐にわたり、制度改革には相当な時間もかかる。こうした成長戦略は過去の内閣が何度も作ってきて、メニューは揃っているが、プロセスに手をつける前にいずれも短命に終わっている。
 安倍政権は、日本が決定的に遅れているところであり、永遠の課題でもある「独創技術を育てて市場に出す土壌づくり」に本気で取り組む気があるのか。この意志がなく、手っ取り早い大企業優遇策に走るようだと、第三の矢の成長戦略も問題を抱えることになり、第一の矢、第二の矢の副作用に加えて、さらに第三の矢の副作用で日本経済は取り返しのつかないことになる。

◆独創技術は生まれるか、育てられるか
 日本の独創技術については思い出がある。今からちょうど30年前の1983年5月、私たちはNHK特集「日本の条件 技術大国の素顔」という番組を放送した。半導体や自動車で日本がアメリカを追い抜き、巷に技術立国や技術大国と言う言葉があふれていた時代。その一方で、アメリカを追い抜こうとする日本を叩くために先端技術を対象とした日米貿易摩擦が深刻化し始める時代でもあった。
 日本の技術力は本当に強いのか、半導体と自動車でその秘密を調べた「強いのか、メイド・イン・ジャパン」(第一部)、日本技術が世界でのし上がった歴史を鉄と自動車に見た「国際競争力の秘密」(第2部)、そして第3部が私の担当した「破れるか模倣技術の壁」だった。日本が強みを発揮していた自動車もロボットも半導体も、元はと言えば外国生まれ。モノマネと言われ、特許戦略でいじめられている現状を跳ね返すためにも、
これからの日本に必要なのは独創技術をどれだけ育てられるかだと、具体例をあげて問題提起した番組である。

 それから30年。先日のNHKスペシャルを見てつくづく思ったのは、技術力の凋落と言うのはあっという間だということ。半導体も家電も世界に冠たる技術を誇っていたのに、今や韓国や中国に追い抜かれて巨額赤字に悩んでいる。わずか20年で転落してしまった。
 番組でも言っていたが、そこには品質で世界を圧倒して来た日本製造業の油断とおごりがあったのだろう。得意の品質改善で「いいものを作れば売れるはずだ」と言う思い込みが、「客が何を求めているのか」という所からずれてしまった。しかもその間、日本は世界に誇れる独創技術を生み出して来たかと言えば、とてもそうとは言えない現実がある。従って、Nスペ第2夜の提言「(独創的なアイデアを)市場に出せ」は哀しい位に、古くて新しい提言なのである。

◆独創的なアイデアで「他の追随を許さない」
 これからの日本に必要なのは、日本が得意として来た製造工程のカイゼンによる「プロセス・イノベーション」ではなく、(iPhoneやiPadを創った)アメリカのアップルのような、新しいものを生み出す「プロダクト・イノベーション」だと言われる。つまり、独創的なアイデアを生み育て、市場に出すという技術革新が求められている。そのアップルだって、最近は韓国のサムスンに追い上げられているようだが、日本はその
頂上決戦をふもとから眺めているような劣勢に落ち込んでいるのが哀しい。
 そんな中、独創技術でインターネットの世界で世界最大のインフラ会社に急成長したアカマイ・テクノロジーズ社の記事を読んでいたく感嘆したので紹介したい。設立者でMIT(マサチューセッツ工科大)のトム・レイトン教授のインタビューである。独創的なアイデアをいかにビジネスとして立ち上げるか、そのユニークな挑戦もさることながら、彼らの独創技術が築いている圧倒的な自信が印象的だ(「知の逆転」NHK出版)。

 アカマイ・テクノロジーズ社は、レイトン教授たちの高度な数学の専門知識を武器に、日々加速度的に増加しているネット上の情報をさばく分散型インフラ(大規模サーバー)を世界700か所に展開し、最高度のセキュリティ技術を編み出した。2004年に初めて実利を上げてから、あっという間に年商10億ドル(2010年)に急成長。
世界の大手メディア、検索サイト、通販サイト、銀行の殆どを顧客とするまでになった。その、独創の強みは文字通り「他の追随を許さない」ものだ。レイトン教授は言う。
 
「我々のビジネス分野では、裾野の方には沢山の競争相手がひしめいていますが、それでも当社のサービスにはどれも及ばないと自負しています。そのうえ、たとえば信号の加速化やセキュリティ、確実性などを提供するという上位のサービスになってくると、われわれがやっているような内容を提供できるところは(世界の)どこにもないわけです。その内容の主要部分は数学で、われわれがここに到達うるために研究してきたものです。(彼らには)そういう基礎研究が重要だと言う意識もないでしょう。」

 教授たちのアイデアが実を結ぶまでには、大学の懸賞金競争制度やベンチャー支援の様々な環境、そしてあのスティーブ・ジョブスの応援までがあったが、何より
「どこもやっていないこと(独創)」にこだわって挑戦し続けるンチャー精神がすごい。教授たちは、次は年商50億ドルを目指して壮大な世界展開を練っていると言うが、日本の企業には「他の追随を許さない」と豪語出来るこうした独創技術が幾つあるのだろうか。