日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

脱原発・迷える民意に答えよ(2) 14.2.20

 前回に引き続き、「脱原発における迷える民意」にどう答えるかを書くのだが、今回は、少しより道をして最近の雪害の話から始めたい。2月15日(土曜日)の午前1時半ごろ。気になって窓の外を見たら、かつてない勢いで雪が積もっていた。既に優に30センチは超えている。ここは明け方には雨になると聞いていたのだが、その時の降り方は、この街の幹線道路まで雪に埋まるのではないかと思わせるほどだった。

◆足元の事実の把握。危機に対する想像力の欠如
 すぐにテレビとラジオをつけたが、肝心のNHKはオリンピック一色。これが台風ならば、オリンピック中継を教育テレビに切り替えて、総合テレビでは各地の情報や気象庁からの中継が入る所だったかもしれない。車のドライバーに情報を伝えるはずのラジオも同じで、かなりのもどかしさを感じた。少しでも外に出てこの激しい降り方を見れば、気象庁や道路管理者なら異常事態だと感じたはずなのに、日本はその時何故か、エアポケットに入ったような情報過疎に陥っていた。

 幸い当地は、午前3時くらいから雨に変わり始めたが、案の定、秩父地方や山梨県は大変な雪害になった。今回の記録的な大雪については、危機管理に当たる気象庁、政府や自治体、そしてメディアも対応の遅れが指摘されている結果論的で気の毒ではあるが、ここで問われていることは、油断した私たちもさることながら、関係機関の当事者たちの「想像力の欠如」ではないかと思う。目の前の現実を正確に把握しようとする努力と、危機に対する想像力が欠けていた。
 しかも、この「想像力の欠如」は何となく今の社会全体に広がっているようにも思われてならない。アベノミクスなら円安と株価上昇、デフレ脱却ならベースアップ、オリンピックならメダル獲得。社会全体が一つの単純化された見方に染められて、足元の多様な現実を見なくなっている。


◆不都合な現実を見ようとしない。新たな情報過疎の出現
 「人間はすべてが見えるわけではなく、多くの人は見たいと思う現実しか見ない」とは、かのジュリアス・シーザーの言葉だが、かつて原子力ムラの人々は、「世界一安全な原発」などという現実離れしたキャッチフレーズ(安全神話)にはまって思考停止し、不都合な現実を見ようとしなかった。そのため、危機が迫っている時に有効な対応が出来なかった。
 これは今、「経済成長のためには原発の再稼働が欠かせない」と思い込んでいる原発推進の政治家、官僚や電力経営者においても同じ。福島の事故処理は順調に進んでいると思いたいし、日々とんでもない高濃度の汚染水が海に流れ続けている影響についても、溶けた燃料が格納容器の底を突き抜けている可能性についても知りたくない。何より、福島は1000年に一度の大地震だったのだから、大事故がそう起こる筈がない。再稼働しても大丈夫だと思いたい。こうして見たくない沢山の現実が意識的、無意識的に隠ぺいされて行く。

 一方、正確な情報が得られない中で、脱原発を主張する人々の間にも、問題が広がっているように思う。特に都知事選を契機にして、脱原発の考え方における(いわば空中戦のような)観念的、イデオロギー的ぶつかり合いが強くなり、足元の事実の検証が脇に追いやられる傾向が強くなっている。レッテル張りと足の引っ張り合いの中で、以前は顔がはっきり見えていた信頼できる専門家たちの発信力がめっきり弱くなってしまった。
 事故後、間もなく3年が経つが、今福島で何が起きているのか、本当のところが見えなくなり、「情報の奇妙なエアポケット」が出来ているように感じる。そして、その間隙を突くように、このところ福島事故に関する怪しげな情報がネット上に飛び交うようになった。言うならばこれも、(反原発という)観念に走って事実を確かめようとしない同根の病理であり、こちらも困ったものである。

◆情報過疎の中、怪しげな情報が飛び交う
 その一つは、去年12月31日に福島第一原発の地下で核爆発が起きているので要注意とする情報。年明け早々に、ロシア大統領府からの情報だとしてネット上に流れた。一部には緊急避難を呼びかけるものさえあった。去年の同時期、福島の原子炉から大量の水蒸気が立ち上ったこと、近くで地震があったことなどを結びつけ、原子炉の地下に達した燃料が水と反応して水蒸気爆発を起こしたのではないか、とする情報も流れた。
 また、反原発を標榜するサイトからは、福島で生まれた新生児のうちかなりの数の奇形児が生まれているという情報もあった。それらは「拡散希望」と書かれて、私のメールにも転送されたりした。都知事に立候補した細川も、一時期このロシア発の「極秘情報」を引用したらしいが、こうした怪しげな情報が乱れ飛ぶ所に今の福島の問題がある。

 これらは、結局のところ出どころの曖昧なデマ情報だったが、背景には原子力業者の隠ぺい体質に対する不信がある。例えば、東電は去年7月に井戸水から500万ベクレル/Lという最高レベルの汚染を検出していた。それを今年になって発表するなど、相変わらずの隠ぺい体質が続く一方で、市民の側にも情報過疎を埋めるだけの信頼できる情報が届かないという現実がある。疑問が膨らんで行き、疑心暗鬼が生まれる。
 例えば、溶けた燃料が本当に格納容器の中に収まっているのか。仮に燃料が格納容器の底を突き破って(これをメルトアウトと言う)、コンクリートに達していたらどうなるのか。地下水との接触はないのか、充分冷やせるのか、再臨界はないのか。今の井戸水の高濃度ストロンチウムはどこからやって来たのか。こうした疑問に対して、東電も専門家も明確に答えていない。メディアの追及も極端に弱くなった。

◆真の福島ウォッチャーは誰か。イデオロギー抜きで運動を再構築する
 疑問や不安は他にもある。子どもたちの甲状腺がんは、原発事故後4〜5年で増え始めると言われているが、2月に発表された福島の子どもの甲状腺がんは疑いを含めて74人(確定33人)。これをどう評価するのか。この先どうなるのか。検診体制は充分なのか。海洋汚染はどこまで広がっているのか。海産物の検査体制は現在も充分維持されているのか、などなど。さらには、除染や使用済み燃料棒の搬出に関する疑問や不安もある。

 しかし、最近になってこうした疑問や不安に丁寧に答えてくれる情報がぱったりと途絶えている。脱原発には立場の違いや考え方の違いを超えて、事実の究明とそれに基づいたオープンな議論こそが必要だと思うのだが、情報が原発推進や脱原発のそれぞれのセクトの中で閉じられてしまっているように思う。その意味で、これから「迷える35%の民意」に答えて、脱原発の声を大きくして行くために大事と思うことを最後にまとめておきたい。
 一つは、福島の現実こそが脱原発の出発点にならなければならないということである。福島で何が起きたのか、今福島で何が起きているのか。その上に立って脱原発の主張を構築することである。二つ目は、その原点を踏まえて説得力のあるシナリオを構築することである。すなわち、原発なしでやって行けている現状を踏まえて「原発なしのエネルギーのベストミックス」(スマート電力網による節電、安くて高効率の化石燃料への転換、自然エネルギーの導入など)の可能性を、合理的に構築して行く。

 脱原発はイデオロギーとは関係ないのだから、脱原発を目指す人々は、再び小異を捨てて大同について欲しいと思う。福島ウォッチャーである強力な専門家グループをもう一度束ね直し、顔が見える形でこの情報過疎状態を埋めて欲しい。その周辺をさらに発信力のある文化人が取り囲む。その中心に、リーダーシップのある政治家グループを据えて行く。「脱セクト化、脱イデオロギーによる脱原発」の再構築こそが、「迷える民意に答えて行く」道ではないかと思う。

脱原発・迷える民意に答えよ(1) 14.2.14

 2月9日に投開票が行われた東京都知事選は、原発再稼働にはやる自民党政権に対して、異議申し立てを行う絶好のチャンスだったが、結果はご存知の通り。211万票を得た舛添に対し、脱原発、原発ゼロを掲げた宇都宮が98万票、細川が95万票だった。人間らしいというか、あるいは爽やかというか、2人の元首相による果敢なる挑戦は残念ながら不発に終わった。
 終わってみれば当然のようなあっけない結末だったが、これはこれで良く吟味してみると興味深い問題がいろいろ見えて来る。メディアによって様々な分析もなされているが、良くも悪くも、今の政治状況を如実に反映した選挙戦だったと言える。今後の脱原発の動きにも関係して来るので、今回の選挙の特徴と問題点について、2回にわたってまとめておきたい。

◆@脱原発の争点隠し
 立候補表明時の衝撃に比べて、細川が案外伸びなかった要因は幾つかある。大雪の翌日で投票率が46%(前回より16%低い)にとどまったこと。この低投票率はむしろ自公の組織をフル動員した舛添、そして共産党系の宇都宮に有利に働いた。浮動票を期待した細川には不運だったが、それ以前に、周りの感想を聞くと、やはり細川が高齢(76歳)でいまいちパンチにかけたこともあったようだ。
 さらに細川・小泉コンビが起爆しなかった最大の理由は、何と言っても原発ゼロのいわゆる「シングルイシュー」選挙が、相手陣営に巧みにかわされてしまったことにある。舛添は「私も(将来的には)脱原発」といなしつつ、「オリンピックが重要」と言い、宇都宮も脱原発以外にも課題はいろいろある、とかわした。自民党も経産省がまとめたばかりの「エネルギー基本計画」を一時引っ込めて争点隠しに走った。これで脱原発が争点の首位から滑り落ち、選ぶ基準が曖昧になってしまった。

A深化しない脱原発論議
 同時に、細川も小泉も原発事故を契機に反原発に目覚めた「素朴な原発ゼロ論者」で、最近まで原発ゼロの訴えが入り口で止まっていて深化しなかったのが大きい。それだけ準備不足だったのだろうが、応援団も宇都宮陣営と細川陣営とに二手に分かれ、(後述するように、今それが誰か見えない状況だが)ブレーンに切れ味鋭いプロや論客が充分集まらなかったせいかもしれない。
 「原発ゼロを決めた後は専門家に考えさせる」は、政治家なら皮膚感覚で分かるが、選挙戦ではあまり説得力がない。日本のエネルギー状況を踏まえて原発ゼロがなぜ可能かを、具体的な数字で示して論戦を挑んで欲しかった。既に「原発ゼロ」である現状を踏まえて、この先も工夫を凝らして行けば、経済的にも“原発なしのベストミックス(*1)”で充分やっていけると言う議論をして欲しかった。そうした準備不足が政策討論会の回避にもつながったのだと思う。

Bマスコミの不作為
 ただし、仮に討論会が実現しても、メディアがそれを報道したかどうかはかなり疑わしい。政府の意向を受けて、多くのマスメディアが選挙の焦点が原発問題に集まるのを意図的に避けたからである。むしろ、選挙戦が盛り上がることそのものも避けたきらいがある。これが、今回の選挙最大の特徴かもしれない。
 街頭で2万人も集めた演説会の熱気は殆ど放送されず、ニュースでも敢えて原発政策に焦点を当てずに、福祉問題や防災、オリンピックを取りあげた。ニュースの時間量も少なかった。選挙後の記者会見で、細川が「原発が争点に取り上げられなかった。原発を争点にさせまいとする力が働いていた」とメディアに対する不満を語ったが、率直な感想だろう。

 思い起こせば、2005年9月の小泉の郵政選挙では、メディアは「刺客」や「反対派つぶし」、あげ句は女性候補者を「九の一」だのと言って、連日大騒ぎして顰蹙をかった(「選挙報道はなぜワイドショー化したのか」)。しかし、今回は奇妙なほどに静かだった。筑紫哲也、田原総一郎などが活躍していたあの頃は、まだテレビの報道番組も熱気があったと懐かしくなる位に、今のメディアは政治的な面でおとなしくなってしまった。当時の反省が効き過ぎたというより、陰湿な政治力学(*2)が働いているからだろう。

◆C脱原発40%の民意
 それでも、脱原発(宇都宮、細川)の票は合わせて193万票まで伸びた。得票総数では、40%ほどが原発ゼロに票を投じたことになる。これが舛添の票(211万票)を越えれば面白いところだったが、18万票ほど足りなかった。当選した舛添が「私も(将来的には)脱原発」と言っていたことから、脱原発の流れは大きいと見るむきもあるが、自民党の丸抱え選挙で当選した舛添が自民党の方針に逆らえるはずがない。
 都知事選での脱原発が40%という数字は、興味深い数字である。2月11日にNHKが発表した最新の世論調査によると、原子力規制委員会が安全性を確認した原発の運転再開を進めるという政府の方針に賛成かどうか聞いたところ、「賛成」が24%、「反対」が38%、「どちらともいえない」が34%。
 
1月は、賛成が21%で反対が42%だったから、再稼働反対(原発ゼロ)は、賛成派のおよそ2倍ということになる。従って、この40%の民意を一つの強固な意志にまとめ直し、さらに「どちらともいえない」層からも取り込んで、政治の場に浮上させられるかどうかが、脱原発を目指す陣営の大きな課題になる。

◆「どちらともいえない」層の疑問に丁寧に答えて来たか
 その意味で、自身の反省も込めて言えることは、原発事故からまもなく3年が経とうとしているが、この間、脱原発の研究、論理構築が充分深まって来たかということである。原発は確かに危険である。事故が起きれば取り返しがつかない。しかし、事故を教訓として世界一安全な対策を取り入れる、何より原発なしでは経済が成り立たない、無駄な燃料の輸入が年間3.6兆円にもなっている、といった推進側の主張に対しては、どれだけ有効に反論して来ただろうか。
 多分、その疑問を解消できていないところに、漠然とした「どちらともいえない」の民意34%が現れているのだろう。従って、脱原発の陣営に期待したいのは、(これまでも言って来たが)原発は危険だ、というだけでなく、「原発ゼロのシナリオ」を日々精緻にして行くことである。
迷えるどちらともいえない」層の疑問に丁寧に答えて行くことこそ、次の課題ではないだろうか。

 その点、私が最近不思議に思うのは、このところにきて脱原発のオピニオンリーダー、専門家の顔が一向に見えなくなっているということである。原理主義的に反原発を言うのではなく、現状を把握し、必要な研究を行って、「どちらともいえない」層の疑問にも丁寧に答える専門家は誰なのか。今回の選挙では、宇都宮陣営と細川陣営の足の引っ張り合いもあったようだし、また最近では、ネット上に福島原発に関する怪しげな情報(*3)も飛び交っている。こうした危うい状況を見ると、脱原発を目指す陣営の立て直しが当面の課題なのではないかと感じる。
 この先、民意が働く政治的場面は、原発を抱えた県の知事選になる。2月23日に山口県、3月16日に石川県、7月に滋賀県(現、嘉田知事)、11月には福島県知事と続く。その時、脱原発の民意はどう示されるのか。もちろん、選挙だけが民意反映の回路ではないとして、住民投票や裁判などを模索する動きもある。しかし、やはり脱原発40%の民意を生かすのなら、より広く「どちらともいえない」層も引き込めるような、信頼できる専門家による丁寧な説明が必要になってくると思う。(*1、2、3の具体的な話については、次回に)

日中は尖閣で戦争するのか 14.2.6

 今年1月、スイスのダボスで開かれた世界の政治指導者や経営者が集まる世界経済フォーラムでのこと。期間中の記者懇談(1/22)で現在の日中関係を聞かれた安倍首相が、今年で100年になる第一次大戦で戦った英独の関係を引き合いに出したというので、欧米メディアに衝撃を与えたという。これは、大戦前には経済的結びつきが強かった英独も、結局戦争が避けられなかったことを教訓としつつ、「偶発的な武力衝突が起こらないようにすることが重要だと思う」と言ったわけで、本来はそれほど問題になる話ではなかったはずだ。これを問題発言だとされたのは、本人も心外だったに違いない。

 しかし、今の日中関係を見る世界の目は想像以上に厳しいものがある。多くの欧米メディアが「日本の首相は日中の現状を100年前の英独と似ていると認識している」と報じ、特に、英国フィナンシャルタイムズの記者は「最も動揺させられたのは、安倍が日中の武力衝突の可能性を完全に否定しなかったことだ」と指摘した。実は、この記者(マーティン・ウルフ)は、去年12月3日の記事でも、日中の武力衝突に対する憂慮を第一次大戦前の英独関係になぞらえて論じていた。
 その中で彼は、「今中国を率いるのは自己主張心が強い国粋主義者の習近平であり、日本のリーダーも負けず劣らずのナショナリスト安倍晋三だ」と書き、「第一次大戦勃発の歴史から学ぶことは、一見大したことでない出来事がすぐエスカレートし、破滅的な大きさに進んでしまうことだ」と懸念している。この時の趣旨は、尖閣を巡る中国の挑発行動に対して自重を促すものだったが、安倍の発言は、海外で高まっているこうした懸念の文脈にすっぽりとはまってしまったわけである。

◆世界が懸念する日中間の緊張
 今、東アジア周辺は戦後最悪と言われるほど緊張が高まっている。野田政権による国有化をきっかけにして、尖閣諸島への領海侵犯などの中国の挑発が続いていること。緊張が高まる中で、(離島奪還を想定した)日米合同訓練が行われたこと。また、中国が一方的に宣言した、日本の領空と重なる防空識別圏(ADIZ)を巡っても日米と中国との間で神経戦が続いている。
 この間、米偵察機に中国戦闘機が接近した際に自衛隊機がスクランブルをかけたり(去年1/19)、中国軍艦が日本の護衛艦にレーダーを照射したり(去年1/30)している。また、米軍戦闘機2機が敢えて中国の防空識別圏を告知なく飛行したり(去年11/26)、南シナ海で中国の航空母艦を偵察した米艦に中国軍艦が遮り91メートルまで近づいて睨みあったり(去年12/5)と、偶発的な衝突が懸念されるまでになっている。

 昨年暮れの安倍の靖国参拝に対しては、中国は43に上る世界各地の外交官が地元メディアで日本非難を行い、日本もその都度反論。ドイツでの安保会議や国連安保理の場でも日中首脳双方が非難の応酬を行っている。世界の衆人環視の中で行われているこうした日中の非難合戦に対し、東アジアの政治的緊張は世界経済にとってマイナス(リスク)との見方が広がっている。
 昨年末から2000円以上も値を下げている日本の株式相場も、直接的な要因はアメリカの金融緩和政策の縮小に伴う先行き不安だが、日本の下げ幅が突出している背景には海外投資家のアベノミクスに対する失望感と同時に、日中間の外交問題も影を落としているという見方もある(竹中平蔵、2/2)。

◆尖閣を巡る中国の思惑
 以前のコラムで、日中の緊張関係を生んでいる尖閣諸島の領有権問題には、双方合わせて少なくとも15位の要因、背景、きっかけがあると書いた。日本は「尖閣は日本固有の領土で、領有権問題は存在しない」、「1ミリも妥協しない」という明確な立場だが、中国側の領有権主張には明治以降の日清戦争、太平洋戦争、戦後のアメリカによる沖縄占領などの歴史認識が密接、複雑に関連している(「尖閣・武力衝突回避に全力を」2012.9.23)。
 同時に問題を複雑にしているのは、中国が経済的軍事的に力をつけて来た今、尖閣が中国にとって単なる岩礁の帰属問題だけではなくなっていることである。それは、日本も当然巻き込まれる、太平洋を巡る米中の覇権争いに関することだが、その中で尖閣はますます重要な戦略的「かなめ石(キーストーン)」になりつつある。見方からすれば、日米中3国の喉に刺さったトゲとも言える。それがどういうことなのか、中国側の思惑から見ておきたい。

 中国の広い海岸線と太平洋との間には、目と鼻の先に日本(南西諸島)、台湾、フィリピンが蓋をするように並んでいる。それらの国とアメリカは同盟や協定を結んで、いわば中国が広い太平洋に出て来るのを封じ込めている。このうっとうしい列島線を突破して海洋大国になるのが、台頭する大国中国の切なる願望だ。尖閣の外側に第一列島線、さらにグアムやサイパンまで拡大した第二列島線を想定して西太平洋への進出を目指している。
 その第一歩として、中国が尖閣の領有化を位置付けているふしがあり、尖閣を「核心的利益」と位置付けているのは、何も資源問題だけではないと思う。日本もそれを警戒しているし、またアメリカも許さないということで、尖閣で日米が共同歩調をとって中国に対峙していると私も考えて来た。しかし、地図で尖閣の位置をよくよく見ると僅かな疑念も湧いてくる。日本は領土問題だから一歩も引けないわけだが、今の中国には別な思惑もあるのではないか。

◆尖閣は、日米同盟を試すボタンか?
 尖閣の位置は、西表島から北に200キロほど。ここを抑えれば中国の領海は限りなく日本に近くなり有利になるが、太平洋進出と言う点ではそれほど大きなメリットはない。尖閣を得ても相変わらず沖縄本島と宮古の間を縫って太平洋に出るしかない。領海が広がると言う以上に、メリットがあるのかどうか疑問なのだ。(もし将来、台湾が中国に帰属すれば、太平洋進出はさらに簡単になる)
 それを考えると、いま中国がしきりに尖閣で危険を冒して日本を挑発してくる裏には、もう一つ別な意図があるのではないかと思えて来る。つまり、これは私の単なる推測に過ぎないのだが、尖閣周辺で緊張を高めた時、アメリカは尖閣をどのくらいの重さで見ているのか。あるいは、日米間で距離や温度差が生じないのか。尖閣はこうした「日米同盟を試す格好のボタン」になりつつあるのではないかということである。

 アメリカは、尖閣は日米同盟の範囲内だと言う一方で、このところは盛んに東シナ海で緊張が高まらないように日本の自重を促している。そして、中国との緊張を高めるような靖国参拝について「失望した」というシグナル日本に送っている。同時に、安倍の頑ななナショナリストぶりに嫌気がさして、アメリカでは「アメリカは、あんな岩のために自国の血を流すのか」という声がくすぶり出している。
 中国は、こうした動きを冷徹に見ながら靖国問題を機会あるごとに持ち出し、これからも計算ずくで尖閣での挑発をして来るだろう。しかし、その結果については誰も予測できない。国内強硬派が不測の衝突を仕組むことも充分あるからだ。英国とフランスの同盟関係を試そうとして、アフリカ・モロッコに砲艦を派遣したドイツの場合のように、逆に英仏の同盟を強化させ、自ら暴発して戦争に負けるということも100年前にはあった。

 こうした中で、今の日本は集団的自衛権を含め、どこまでも日米同盟の強化作戦で行こうとしているが、これもアメリカの思惑とずれていないかどうか。4月にはオバマ大統領が来日するが、多分いろいろと釘をさしに来るのだろう。当然のことながら、いまの時代に戦争などすれば誰も勝者にはなれないのだから、世界から「日中は尖閣で戦争するのか」と、懸念されるようなことは避けなければならない。日本は、熱くなって軍事力を強化するばかりでなく、“複眼的に”米中の思惑を計算し、高度でしたたかな(平和構築のための)外交戦略をとる必要があると思うがどうだろうか。

「安全規制が世界一」の実態 14.1.31
 衆参本会議で各党代表質問が始まった。原発について聞かれた安倍首相は、中長期的にこれを維持するとしたうえで、「日本は世界一厳しい基準で審査している。その安全規制を満たさない限り原発の再稼働はない」と答えた。原発再稼働の条件として世界一厳しい規制基準のクリアを上げているわけだが、それを審査する原子力規制委員会に、当の自民党筋(「原子力規制に関するプロジェクトチーム」など)が陰に陽に圧力をかけているのはご存知の通りである。
 安倍首相は、トルコやサウジアラビアへ原発を売り込みに出かけた際にも、「日本は世界一安全な原発の技術を提供できる」と、何かと“世界一”を連発しているが、原発事故の教訓を充分取り入れていない日本の原発が、どうして世界一安全と言えるのか。不都合な現実から目をそらさせて、耳触りのいい言葉に言い替えるのは安倍政治の特徴かもしれないと思う。 

 そもそも、日本は原発を運転するには世界一厳しい環境下にあると言っていい。日本の地下を走る活断層は知られているだけで2千本以上もあり、原発直下型の地震が心配されている。しかも、3.11以後の日本は、「地下の大乱時代」に入ったという地震学者も多く、マグニチュード9クラスの海溝型の超巨大地震がいつ起きてもおかしくない状況にある。最近では、火山噴火時の降灰量の研究から、噴火による原発災害まで心配されている。
 こうした状況を考えれば、日本の規制基準は当然、世界一厳しくあるべきであって、別に国民に向かって胸を張るようなことではないのである。しかも、その内実は(以下に見るように)問題山積で、とても世界一といえるようなものではない。「守るべき最低基準」というべきものである。それを忘れて、最近では規制委員会がお墨付きさえ出せば、それだけで再稼働OKという雰囲気になっている。以下、(かなりややこしい話になるが)そうではないことをここではっきりさせておきたい。

◆国際標準の「五層の防護」と日本の規制基準の違い
 現行の規制基準は去年7月に施行された。これは従来の安全基準ではない。事故はゼロにはならないとしたうえで、(例えば何万年に1回といった)「事故が起きる確率の目標値」を設定して、それを達成するための規制である。そのため、「安全基準と言うと、基準さえ満たせば安全(事故は起きない)という誤解を生む」として、新しく「規制基準」という呼称を導入したものである。
 従って、「規制基準」を満たしたからと言って、安全が担保されるわけではなく、電力会社による不断の改善が必要だとした。この規制基準は、福島原発事故の反省から、初めて幾つかの「過酷事故」対策も取り入れているが、それでも様々な問題点が指摘されている。その主な問題点については、国際原子力機関(IAEA)が再稼働の絶対条件としている「五層の防護」に照らし合わせてみると分かりやすい(黒川清国会事故調査委員長、文春2月号)。

 「五層の防護」とは、故障や誤作動を防ぎ、地震や津波などに襲われても炉心溶融のような重大事故にならないよう備えるのが一、二、三層目。全電力喪失などが起きないように予備電源を確保するのもその一つだ。四層目は仮に原発事故が起きてしまった場合、被害を最小限に食い止めるために、フィルターベントの設置や、免振重要棟を建設すること。さらに五層目は、地元住民を如何に安全に避難させるかと言う避難計画の策定や訓練の実施である。
 これら「五層の防護」のうち、日本の場合は四層目までが規制委員会の規制の対象だ。しかし、フィルターベントの設置が加圧水型では5年先送りになったほか、免震重要棟も申請と同時に義務づけるが、計画さえあれば出来ていなくてもOKとする。また、中央制御室の代わりになる「特定安全施設」などについては、5年間の猶予を与えることになっている。いわば、日本の現状に配慮した規制になっているわけである。 

◆6割の自治体で避難計画がなく、避難訓練もない
 最大の問題は、IAEAが絶対条件としている避難計画の策定である。アメリカでは原子力規制委員会が避難計画作りを担当するが、日本では、(規制委がガイドラインは作ったが)自治体任せになっていて進んでいない。しかも、避難計画がないと原発を動かせないアメリカと違って、日本では再稼働の条件にはなっていない。現在、事故の際に避難が必要になる原発周辺30キロ以内の市町村は、全国で135に上るが、このうち避難計画を作ったのは、まだ4割にとどまっている

 また、仮に避難計画を作ったとしても、それが実際に役に立つか確かめるには、訓練をしなければ意味がない。規制委員会と自治体が協力して避難訓練を行うアメリカに比べて、日本は一周も二周も遅れている。さらに、最近の民間調査(環境経済研究所)では、いざという時に、交通渋滞で避難に最長6日もかかるという試算も出された。
 日本の原発はこれまで、事故時の避難など考えずに辺鄙な岬の突端などを選んで作られてきたために、ひとたび事故が起これば悲惨なことになる。以前書いたように(*)、地震で橋が落ちたり路肩が崩れたり、またそうならずとも車線が少なく道路が大渋滞したりして、事故対応にも住民避難にも大混乱が必至。万一の場合の実効性のある避難計画を再稼働の条件にすれば、今の日本で稼働出来る原発はなくなるはずだ。*「脱原発を阻む日本と言うシステム

◆仮にOKが出ても安全とは言えない
 なお問題を付け加えれば、肝心の福島原発事故の解明は今も進んでおらず、福島原発事故で何が起きたのか、今どうなっているのかも殆ど分かっていないことである。これが未解明なままでは、不十分な規制基準しか作れない筈だという意見も多い。しかも、これまでの調査で明らかになった水位計や主蒸気逃し弁といった(他の原発にも共通する)構造的欠陥についても、新規制基準には取り入れられていない。
 この他にも、一か所に最大7基も原子炉が集中立地している日本の特殊事情をどう評価するのか、そもそも何万年に1回といった確率論的リスク評価(PRA)が、地震国日本で充分できるのか、といった難しい問題も残されている。これだけ問題山積なのだから、「日本の規制基準は世界一厳しい」などとは到底言えない状況にあるわけである。メディアも、政治家が「世界一だ」とか「これをパスすれば再稼働だ」などと言うことにもう少し抵抗して欲しいと思う。

 こうした中で現在、日本の電力会社のうち、7電力会社が9原発16基の審査を申請している。原子力規制委員会は、まず去年7月に申請があった10基について適合審査を続けているが、最近、インタビューに応じた田中委員長は、審査は「山を越えた」と言っているという。その結果がどう出るかは分からないが、さしあたって規制委員会には折角独立性が保障されているのだから、雑音に影響されず、徹底的に厳しい審査をして貰いたいと思う。
 同時に、私たちは審査で仮にOKが出たとしても、これで原発の安全が確保されたことにはならない、ということを肝に銘じたい。規制基準とは本来そういうものだからだ。再稼働にはやる原子力ムラは、今夏中にも再稼働出来るのではないかと期待しているらしいが、本当に地震国日本に必要な「世界一厳しい基準」を適応すれば、すべての原発を止めざるを得ない、という当たり前の現実を忘れてはならないと思う。

補足)
 以上の内容は、新聞、雑誌、ネットから集めた情報を私なりにまとめたもので、直接専門家に取材したものでないために、細かいミスがあるかもしれません。ご指摘いただければ幸いです。それにしても、国家防衛を掲げる安倍政権が、敵のミサイル一発を受けただけで、国家の破滅につながるような原発にどうしてこだわるのか、不可解です。
亡国のエネルギーと原子力ムラ 14.1.21
 既にメディアで詳しく報道されているが、「脱原発」を掲げた細川元首相(76歳)が小泉元首相(72歳)の全面的な応援を得て、都知事選に出馬することになった。選挙の結果はどうあれ、首相として国の命運を担った経験を持つ2人が、敢えて今「脱原発」を世に訴えることの意義は大きい。
 これまで何度も書いて来たように、3年前の福島第一原発事故で、日本は国家滅亡の瀬戸際まで行った。しかも福島では最近、過去最高濃度を毎回更新する謎のベータ線汚染が井戸水から検出されるなど、安倍が国際社会に向けて無責任に請け合った「アンダー・コントロール」などとは程遠い状況が続いている。深刻な事故の現実と今の原発再稼働の危うさを直視すれば、真に国を思う政治家が「脱原発」で立つことは勇気ある、ごく全うな決断だと思う。

 出馬表明に当たって、細川は「今の様々な問題、特に原発の問題は国の存亡に関る問題だという危機感を持っている」と言った。「声をあげる時には、はっきりあげなければならない。今こそ、脱原発の声をあげる時」とも言う。小泉の思いも同じだろう。2人の首相経験者が揃って脱原発に立ちあがると言うニュースは、原子力ムラが跋扈する国内はともかく、むしろ国際社会に向けて、改めて日本と言う国の姿を示す鮮烈なメッセージとなるだろう。

◆原子力ムラの攻撃@なりふり構わぬネガティブキャンペーン
 しかし一方、原発を維持したい勢力は黙っていない。「原発に対する危機感」をアピールする2人に対して、安倍政権下で勢いづいている原子力ムラは、早速なりふり構わぬネガティブキャンペーンを始めた。「佐川急便のカネの問題はどうした」、「脱原発は都知事選になじまない」、「オリンピックをつぶす気か」、「脱原発は安倍に対する小泉の嫉妬。政局ねらいだ」、「殿ご乱心、老人の反乱」などなど。公示後はさらに低次元の攻撃が始まり、細川は泥沼に足をとられるだろう。

 かつては小泉の子飼いの秘書だった飯島勲(現、内閣官房参与)なども、「亡国の輩(やから)よ“原発ゼロ”の話はやめよう」(プレジデント)で、(直接名指しはしないものの)2人を「亡国の輩」呼ばわりしている。その内容は、原発の“いいとこどり”と“たられば”だけを並べた言い分で、亡国と言うなら、原発こそ「亡国のエネルギー」と言うべきなのに。この飯島が今は安倍の軍師として(マスコミ対策、北朝鮮問題、靖国参拝問題などで)暗躍している。かつての恩義をあだで返す。それだけ、原子力ムラにとって細川・小泉共闘の衝撃は大きく、この選挙に危機感を持っているに違いない。

◆原子力ムラの攻撃A地方と中央で
 何しろ安倍の登場以来、日本の原子力ムラは、あらゆる手を使って原発再稼働に向けた策謀を巡らせて来た。一つは、「再稼働へ迫る包囲網 揺れる首長」(朝日、12/23)に見るような、地方の首長に対するアメとムチによる締め付けである。茨城の東海第二原発がある東海村では、脱原発の前村長の引退に伴う選挙(去年9月)で、原発推進に動く地元の自民党議員や日立労組出身の民主党議員、それに原子力関連企業に支援されている県議や村議などがよってたかって新村長を原発容認に変身させつつある。
 年初、6選を果たした茨城県知事の当選を祝う同窓会にも出席したが、話を聞いていると、地方選挙は相変わらずの義理と人情と損得の中で行われている。会合では原発の「ゲの字」も出ず、こんながんじがらめの政治風土の中で脱原発を言いだすには、よほどの覚悟がない限り不可能だと感じた。その意味で、柏崎原発(新潟県)の再稼働に反対している泉田知事に対する締め付けや攻撃はいかばかりかと思う。

 もう一つの策謀の舞台は中央である。原発再稼働、新増設を目論む経産省と自民党は去年3月、国のエネルギーの基本政策を決める審議会の学者、経営者から脱原発派の首を挿げ替え、12月には「原発は重要なベース電源」という答申にこぎつけた。そして、次の攻撃目標は原子力規制委員会だという。
 2〜5年の任期を持つ委員のうち、まず眼の上のたんこぶになっている地震担当の島崎邦彦委員長代理(今年秋に任期が切れる)の首を挿げ替える。さらに、規制委員会のお目付け役となる顧問会議の設置や電力業界との意見交換などを迫っている。原発事故の反省も忘れたかのように、ひたすら目の前の経済を追う日本の原子力ムラ。どうせ出るなら、細川・小泉の「脱原発」共闘が彼らに対する強烈なパンチになって欲しいと思う。

◆未来を切り開く低炭素都市への夢を語れ
 細川の都知事選立候補については、原発に対する姿勢を反映して新聞各紙の社説での評価も違っている。電力の最大消費地として、また東電の大株主(と言っても1.2%)として、脱原発を争点にするのはあり得るとする朝日、毎日、東京新聞に対し、日経、読売、産経新聞は原発政策などのような国の政策に関る問題を問うなら都知事選ではなく国政に打って出よ、と言う。
 もちろん、都政を預かる責任者としては防災、福祉、教育、オリンピックなどの政策についても議論する必要があるだろう。しかし、例えば大都市ロンドンは徹底した省エネや新エネ策によって、大型発電所に依存しないエネルギーシステムを導入し、CO2を60%も削減、未来型の低炭素都市を実現すると打ち出している(*)。私は、同じように東京も原発に頼らないエネルギーシステムを導入して、21世紀の低炭素社会を国に率先して作って行くべきだと考える。それを考えれば脱原発は、都知事選に相応しい重要な政策選択になると思う。ロンドン“低炭素都市”への挑戦(クロ現)

◆選ぶのは運命共同体としての国民
 東京都知事の投票日は2月9日。これからメディアも巻き込んだ激しい細川攻撃が始まる。私は、この選挙は一種の国民投票だと思っているが、選挙の行方は全く分からない。もし細川が勝つとすれば、それは政界、経済界、官界、電力業界、メディアなどからなる日本というシステム(原子力ムラ)が、原発に利害関係を持たない一般国民の声なき声に負けることを意味する。もし、細川が負ければ日本の原子力ムラはさらに嵩(かさ)にかかって来るだろうが、それでも以前、「安倍政権と原発政策の行方」に書いたように、原発がある限り、脱原発の動きは変わらないだろう。

 『日本が地震大国であること。原子力エネルギーが未完の技術であり、私たち民族と大切な自然や文化に甚大な被害を与えるリスクがあること。また、未来世代にまで負の遺産を負わせる一時しのぎのエネルギーであること。これらは政権の如何によって変わるものではなく、原発問題は政治家たちがどう言おうと、自分たち自身に降りかかる問題として、私たち自身が決めて行かなければならない問題だからである』――そのことに変わりはない。
“時代の潮流”と日本の立ち位置 14.1.8

 2014年になった。あるいは、(定年後の身辺雑記を書いている)「風の日めくり」の方に書くべきかも知れないが、年の初めなので、日頃この「日々のコラム」を書きながら感じていることをまとめておきたい。もともとこのHPは、人生の半分以上をメディアの現場に身を置いた“ジャーナリストの端くれ”として、定年後も「今という時代と向き合いながら生きたい」という思いで始めたものである。
 「私たちは今、どういう時代に生きているのか」、「時代はどこに向かおうとしているのか」、そして「この時代をより良く生きて行くにはどうすればいいのか」というのが、基本的な問題意識。そして、戦後68年を生きて来た歴史の実感も踏まえながら、子どもや孫たち世代の未来が確かなものであるように願って、一市民の自由な立場から大事と思うテーマを書き綴ってきた。

◆立ち止まって“時代の潮流”を考える
 書き始めて8年半になるが、その間に書いたコラムをテーマ別に分けると「政治・経済」、「社会」、「原発事故」、「震災」、「地球環境」、「戦争と平和」、「アメリカ、中国」、「メディア」、「文化」などになる。その時々のテーマと悪戦苦闘しながら、できるだけ本質に迫りたいという意識で書いて来たわけだが、テーマの幅も広いし浅学の身なので、それはそれで結構骨身にこたえる作業だった。ただし、これらのテーマも大括りにすれば「今という時代」そのもので、自分にとっては意味のある必要な作業だったと思っている。費やした時間にも悔いはない。

 問題はこれから先のことである。かねて考えて来たように、取りあえず10年の区切りまであと1年半このHPを続けるとして(その時はちょうど70歳になる)、その間、次々と目の前に迫って来る難問と格闘するだけでいいのだろうか。目の前のテーマに追われるばかりで、下手をすると振り回されてしまうのではないか。それを避けるためには、時には立ち止まり、もう少し長い目で時代の行方を見渡しておく必要があるのではないか、などと感じるわけである。
 そこで今回は、(年の初めでもあるので)「時代はどこに向かおうとしているのか」、私なりに“時代の潮流”を概観してみたいと思う。と言っても、そう簡単に描けるわけではないのだが、このところ私が重要な潮流ではないかと感じているテーマを思いつくままに5つ上げておきたい。これらは、(多くの識者も言っているように)これから先の世界で、何年にもわたって多面的に問われて行くテーマだと思う。

◆@資本主義のあり方、豊かさを巡る議論が始まる
 異次元の金融緩和で始まったアベノミクスもそうだが、グローバル化した資本主義経済の中で、私たちはあくまで目先の経済成長を求めて行くのかどうか。制御不能なインフレや財政破綻の不安に怯えながら、巨額な緩和マネーを麻薬のように市場に流し込む。そうした金融資本主義の弊害が露わになる中で、経済成長そのものが問われる時代に入って行くように思う。
 さしあたっては、(多くの疑問点、副作用が指摘されている)アベノミクスの成否も問題だが、それ以上に、「何をもって社会の豊かさを測るべきか」という価値論争が始まるだろう。一握りの富裕層と大多数の貧困層を生み出すマッチョな資本主義(新自由主義経済)がいいのか(*)。あるいは、社会全体が豊かであることを目指す北欧型の資本主義がいいのか。そこでは、「真の豊かさとは何か。誰がどのように豊かになるのか」という根本的な問題が検証されて行くだろう。「世界の99%を貧困にする経済」(スティグリッツ)、「里山資本主義」(藻谷浩介)など

◆A国力の大変動の時代に、世界は戦争を避けられるか
 世界の経済力と軍事力において、激しい変化が起きている時である。「新しい米中関係と日本」にも書いたことだが、緩やかに衰退に向かう国と急速に勃興する国がある時、その力関係の変化は摩擦と衝突を生みやすい。高まる緊張の中で、大国は戦争を避けることが出来るか。人類は(国連の機能強化も含め)戦争を避ける効果的なシステムを再構築できるか。
 国家間の緊張が高まる時、そこにまず現れるのは民族のアイデンティティ論であり、狭隘な愛国心であり、他民族への差別や蔑視である。世界各地で噴き出すこうしたナショナリズムの高まりを、国際社会はコントロールできるか。戦争の芽を抑え込むには、極端に振れる単一の価値観ではなく、相手の価値観も認める多層的な構造を社会の中に作る必要がある。そうした“成熟社会”を、私たちは作りだすことが出来るだろうか。

◆B “地球規模の成熟社会”への道筋を誰が描くのか
 大国とテロ組織との果てしない戦いが続く一方で、核兵器が拡散し、無人兵器が溢れる。そのような時代に、どのようにして戦争のない“地球規模の成熟社会”を作っていくかは、人類の歴史的課題でもある。これは、アメリカ一国の警察力によっても、それと一体になって武力行使を目指す(安倍の)「積極的平和主義」によっても、力ずくだけでは解決は無理だろう。
 むしろ、国連などの国際組織や多くのNPOやNGOによる、沢山の「小さな和解」を積み重ねていく中でしか平和は構築できないだろうと思う。ちょうど20年前に国内の2つの民族が殺し合ったルワンダでも、「和解のプロセス」によって奇蹟的な復興が実現した。では、そうした「和解のプロセス」を誰が担って行くのか。力によらない“地球規模の成熟社会”への道筋を描くことが求められる時に、日本を含めた大国はその役割を果すことが出来るだろうか。

◆C有限の地球とどう折り合って行くのか
 経済成長と資源・エネルギーをどうするかという問題は、既に40年以上も前にローマクラブが「成長の限界」(1972年)で指摘しているところだが、近年はますます切迫した問題となって来た。中国、インド、ブラジルといった巨大人口国家が経済的に離陸し、世界中が豊かさを求め始めた中で、爆発的に増える資源とエネルギーの需要をどうするのか。中国のように、あくなき成長と資源を求めて月にまで出かけて行くのか。
 今年3月には横浜市で国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告書が採択されるが、地球温暖化の影響も年々深刻化しつつある。地球資源を巡る争奪戦も世界各地で激しくなっている。これからの決定的な数十年、世界は協力して自分たちの欲望をコントロールする方策を見出して行けるか。原発を放棄して、地球と共存できる新たなエネルギー技術を確立できるか。それはある面で、一向に「足るを知る」に至らない“人間の本性”に関るテーマでもある。人類はそれを解決できるか。

◆D「課題先進国」の日本は世界に貢献できるか
 以上のような“時代の潮流”の中で、日本はどのような位置を占めるのだろうか。その点、今の日本は少子高齢化、膨大な財政赤字、原発事故とエネルギー問題、地方や農村の崩壊。加えて歴史認識を巡る隣国との緊張、巨大地震などなど。。世界に先例のない解決策を迫られる「課題先進国」などと言われている。その課題解決のためには、過去の成功体験に縛られない、全く新しい解決策を創造しなければならない。
 以前も書いたが(「政治につける薬〜政策立案能力を高める〜」)、そのためには高度な頭脳集団を幾つも組織し競わせる必要がある。そして“しがらみ”にとらわれない解決策を見出し実行できれば、日本は世界に大きな貢献を果たすことになる。そのカギは、真の豊かさと平和を確かなものにする“ 成熟社会の構築”だ。それを目指すことこそ、課題先進国としての日本の国際的役割に他ならない。その意味で、日本の立ち位置は世界の中心にあると言ってもいいのだが、とかく内向きになりやすい日本はこの大役を果たせるだろうか。

 以上は私なりの大雑把な“時代の潮流”だが、このところの私の問題意識でもある。急速に右旋回して行く政治状況では、なかなかそうはいかないが、せっかく戦後68年の長きを生きて来たのだから、時には少し長いスパンでものを見るようにしようと考えている。今年もよろしくお願いします。

靖国参拝によって失われたもの 13.12.29

 今年も残り少なくなった。(老骨に鞭打って?)今年も何とか書き続けて来た「メディアの風」も、年の終わりに相応しいテーマを書こうと考えていた。しかし、12月26日、安倍首相が(政権幹部、与党公明党、同盟国アメリカにも当日まで黙って)抜き打ち的に靖国神社を参拝したのを見て、急きょ靖国参拝について書くことにした。書きたいのは特に、首相の靖国参拝が引き起こした日本の国際的なイメージダウンとその深刻な影響である。
 書くに当たってタイトルをあれこれ考えてみた。「靖国参拝が発した国際社会へのメッセージ」、「自分で自分にレッテルを張る」、「個人の事情で国益を損なう」、「価値観外交とのチグハグ」、「“独りよがり”という病癖」などなど。新聞の見出しのようでもあるが、なかなか全体を表現するタイトルが見あたらない。それだけ安倍の靖国参拝がもたらす「安倍本人と日本国民への損失」は予想外に深く大きいのではないかと思う。

◆個人的事情で参拝という弱さ
 靖国参拝が政治的に様々な問題点(戦前の軍国主義との関係、政教分離原則の問題、A級戦犯の合祀問題、参拝が中国と韓国に与える反感など)を抱えていることは、周知のことである。この点で、安倍も麻生も(前回にあげた)新書の中で靖国問題を取りあげ、英霊への参拝の意義を強調している。
 しかし、最もセンシティブなA級戦犯の合祀問題については肩透かし的に、通り一遍に書いているだけで、とても説得力があるとは思えない。多分、意図的に論争を避けたい点なのだろう。メディアもA級戦犯問題をあげつらう割には、不思議にこの点を直接本人に質さない。靖国問題ではこの点を避けて通れない筈なのに、何故なのだろうと思う。

 私の考えは以前にも書いた通り、日本人が自らの手で先の戦争責任を問わなかったツケを今も引きずっているというもの(*)で、このA級戦犯問題に対して明快な説明ができない限り、地位のある政治家が靖国参拝を行うことは、国際的な説得力を欠くと言う意見である。(ここで詳細は省くが)その意味で、政治家が靖国問題を「純粋な内政問題」だと言い張るのは“独りよがり”に過ぎないと思っている。*「もう一つの戦争責任
 問題は隣国の反発も含め、こうした問題点を知っていながら、安倍が何故この時期に参拝したのか、ということである。新聞には、いろいろタイミングに関する解説が載っているが、一言で言えば「安倍個人の信条と政治的事情」だろう。一国の首相として、戦争で死んでいった兵士の霊に祈りをささげるべきだと言う信条と同時に、安倍が抱えるしがらみとして、一度参拝しなければ自分自身の政治的立場がなくなるという事情である。

 情報によれば、なかなか参拝しない安倍に対して、急進保守派から「安倍は経済ばかりで大丈夫か」という声が出ていた。ネット上では右翼から「裏切り」とか「腰ぬけ」などと書かれたりもして来た。安倍を取り巻く急進保守派については、安倍自身も「彼らは私の母体」と言い、根っこ(思想)が同じであることを認めているが、首相として冷静な判断が求められる時に、こうした急進保守派に配慮しなければならないところに、安倍の深刻なアキレス腱がある。
 今回の靖国参拝で露わになったのは、安倍の政治思想の実体と安倍が抱える政治的脆弱さである。幾ら安倍が談話で「戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代をつくる決意を込め、不戦の誓いを立てた」と言っても、国際社会は信用しない。むしろ、アジアの平和構築に動けない安倍の政治的基盤の弱さと、時代に逆行する危険性を見てしまっている。これは深刻な影響である。

◆靖国参拝が世界に発したメッセージ
 安倍の靖国参拝を受けて26日のニューヨーク・タイムズは、安倍の本当の狙いが「第二次世界大戦時代の日本の誇りを取り戻し、日本を軍事大国にすること」であることが明らかになったと書き、「日本はアジアの不安定化を招く『アジアの問題』になってしまった。参拝によって日本のリーダー(安倍)は平和主義から離脱する姿勢を明らかにした」と書いている。アメリカ政府も「失望した」と強いメッセージを出した。
 反発や懸念は、中国や韓国ばかりではない。EUやロシア、アセアン諸国、オーストラリアなどから安倍の行為に対する批判が起きている。それらは、世界の経済をけん引して行く立場にある日本が、日中韓の間の緊張を高めていることに対する不信である。首相の靖国参拝は、ただでさえ領土問題で緊張が高まる東アジアに、意図的に油を注ぐ愚かな行為とみなされているわけである。

 同時に、安倍の靖国参拝は、たとえ彼自身が意図せぬものであっても、自分に「戦前回帰を目指すナショナリスト」、「アジアで問題を起こすリーダー」という不名誉なレッテルを張る行為になってしまった。一度張りついた政治家のレッテルは容易に剥がすことが出来ず、安倍は世界の中で信頼を失うと言う、取り返しのつかない損失を招いたことになる。
 これはこの1年、「価値観外交」などと言ってアセアン各国と外交努力を重ね、ロシアと交渉してきた中国包囲外交を自らの手で台無しにする矛盾した行為でもあるが、さらに重大なのは、安倍自身が(大事な時に急進保守派に引きずられて)平和構築のリーダーシップが取れない弱い政治家であると言うメッセージを世界に発信してしまったことにある。それはとりもなおさず、東アジアの中で日本の立場を危うくし国益を損なうことにもつながる。

◆“独りよがり”という病癖
 安倍側近は中国と韓国からの反発は織り込み済みだと言うが、そこに平和構築の意志と戦略は見られない。(中韓の指導者も困ったものだが)中国にも韓国にも、このまま行けば東アジアに戦争の火の手が上がりかねないと心配する良識派はいるはずで、何とかこの緊張を鎮めたいと願っているはずだ。しかし、首相の靖国参拝はそうした良識派の長年の努力を無にし、彼らを窮地に陥れ、逆に為政者やナショナリストに格好の反撃のチャンスを与えてしまっている。
 21世紀のグローバル化した現代において、国の指導者に求められる資質とは「脅しには屈しない」などと喧嘩腰で相手国とやり合うことではない。過去の歴史や内政上の矛盾をナショナリズムに転化することなく、冷静で強い自制心で平和を構築し、国民に安心と繁栄を与えること以外にない。その意味で、相手国のナショナリズムに油を注ぐような行為を首相自ら行うことは、日本の国益を損なうことでしかないと思う。

 この夏のNHKスペシャル「緒方貞子 戦争が終わらないこの世界で」(8/17)の中で、緒方が戦前の日本の中国侵略(満州国の建設)について「当時の日本は内向きで独りよがりだった」と言っていたのが印象的だった。日本が繰り返して来た、その「独りよがりという病癖」を再び繰り返すことは、平和を追求してきた戦後日本の歴史を否定することにもつながる。
 説明すれば国際的にも分かってもらえると言いながら、内向きの個人的信条と事情から国際的に反発の強い行為を敢えて行った安倍首相。個人の信条を批判するつもりはないが、国の代表である首相には自分の行為を国際的な視点から吟味し、個人の信条や事情で大事な国益を損なうことのないようにする義務と責任があるはずだ。(2014年の日本を取り巻く状況が、少しでも平和で穏やかものになるように祈りたい)

安倍政治の危うい“落とし穴” 13.12.21
 12月6日深夜、特定秘密保護法が混乱の中で採決された。安倍首相は9日のたった30分の記者会見で「もっともっと丁寧に時間をとって説明すべきだった」と反省して見せたが、そんな言葉がうつろに響くほどに、安倍政権は強行採決を連発して強引に成立を図った。強行採決は最初からの腹積もりだったに違いなく、内心は「良くやった」と満足しているのだろう。
 今、安倍政治は何かと言えば「国民の安全を守るため」を口実にして、時間のかかる民主主義的手続きを忌避し、数を頼んで性急に自分たちの思い描く政治を実現しようとしている。そこには、どのような思想的背景があるのか。その先に何が待っているのか。未知の領域に突入して、結果的に国民を危険にさらしかねない「安倍政治の“落とし穴”」について書いておきたい。

◆安全保障、防衛政策を前面に打ち出した「強い国」作り
 このところ、安倍陣営が何を考えているのか知りたくて、安倍の他にも麻生や石破など政権幹部が書いた新書(*1)や、安倍の応援団(*2)が書いた雑誌や本に目を通して来た。さらには、自民党の機関紙に連載され、麻生や河野太郎まで推奨している「“常識”としての保守主義」(櫻田淳)なども読んで見た。
 しかし、一口に保守主義と言っても、櫻田のように「共産主義に反対だからと言って、彼らの体制が内包する排他性や硬直性に引きずられることなく、穏健や中庸にこそ保守の美徳はある」と解く穏当な意見の持ち主(これは共感するところも多い)から、中国、韓国に対する警戒感や嫌悪感を露わにしながら、(戦争の反省の上に立って)平和的、友好的に彼らと付き合おうとする人々を自虐史観だと罵倒する者まで、いろいろだ。

 その中でも、安倍や安倍の応援団に共通するのは「国を守る」という強い思いだろう。外敵から領土を守り、自立自存の国家を作って国民の生命と安全を守る。そのためには、日本の軍事力を増強しながら、一方でアメリカと一体になって外敵に備える体制を作る。いわゆる「強い国家を作る」という考え方である。
 具体的には、アメリカと情報を共有しながら軍事行動が出来るように特定秘密保護法を作り、互いに助け合える集団的自衛権も行使できるようにする。そして最終的には、軍事行動の手足を縛っている平和憲法を変えて行く。端的に言えば、安全保障、防衛政策を前面に打ち出して、いざという時に戦える強い国を作って行く。これが安倍政治および今の自民党政権が目指すメインの柱である。問題はその思いの強さとは裏腹に、安倍のこうした「強い国作り」の政策が様々な副作用を伴っており、却って国民を危険にさらしかねない幾つもの“落とし穴”を抱えていることである。その全容は未解明だが、以下に幾つかを上げてみたい。

◆@緊張を高めて外交を軽視する、アメリカ依存の落とし穴
 問題の一つは、安倍が書いた「新しい国へ」(文春新書)などにみる、アメリカに対するほぼ全面的な信頼である。日本がおかれている東アジアの国際環境から言ってアメリカと共同戦線を張る、という選択肢は基本的には間違いではいないにしろ、アメリカを信用してどこまでもアメリカと行動を共にするということだけで、日本の安全は守れるのか。却ってアメリカの戦争に付き合わされる危険はないのか。

 アメリカから見れば、日本は中国を封じ込める防波堤としてきわめて重要な位置にある。しかし、それもこれもアメリカの国益から見た利用価値に過ぎない。日本は対中国の重要なカードではあるが、国益によっては日本の頭越しに中国と軍事的・経済的取引をする局面がないとは言えまい(*3)。そうならないように、日本は「積極的平和主義」の名のもとに日米同盟を強化し、言われるままどこまでもアメリカについて行こうとしている。しかし、それだけでは「世界の警察(アメリカ)」の補完役など、アメリカにいいように利用されるだけの国になってしまう。その意味で、日本はアメリカと中国の両方を睨んだ独自の外交戦略を練る必要があると思うのだが。*)「新しい米中関係と日本(1) (6.19)」、「新しい米中関係と日本(2) (6.25)」も読んで頂きたい。

 それともう一つ。以前にも書いたことだが、日米同盟の強化は当然のことながら、隣国(中韓)との緊張を高め、その緊張がさらなる日米同盟の強化につながって行くという「緊張の再生産」がある。安倍政権はこのサイクルに自らハマって、自らにも国民にも(隣国に対する)危機意識を煽ることになる。当然のことながら、そこには平和・友好の外交努力を意図的におろそかにする力学が働くことになる。韓国との関係は別として、日中間に溝があることはアメリカも密かに望むところだが、それは日本の真の国益となるのか。

◆A安全装置を無視する、強権国家の落とし穴
 もう一つの問題は、危機意識が先に立つあまり、政治の場で自分たちの価値観を性急に強引に押し通そうとすることである。当然、政治は強権的になり、自分たちに異論を唱える勢力に対して排他的、拒否的姿勢が強くなる。今回の国会運営に見るように、その強権政治は「穏健や中庸にこそ保守の美徳はある」(櫻田)という“保守主義の常識”とかけ離れた政治手法にならざるを得ない。
 例えば、
「反対する人間は、どうせ自分たちとはハナから価値観が違うのだから、いくら説明しても無駄だ」という「拒絶の論理」「彼らは、国家の大事が分かっていない」といって、異を唱える政党やメディアを馬鹿にし、操作しようとする「異論に対する蔑視と抑圧」「数を頼んでやれるうちに、自分たちの価値観に沿った政治をやりきってしまおう」という「一直線の性急さ」これらは、自分たちの価値観を押しつける政治が陥りやすい落とし穴である。

 今回の特定秘密保護法の国会審議で、安倍政権は「これ以上丁寧に説明していると、ますます反対が多くなるから」と言った理由(ある議員)で強行採決に持ち込んだ。これは、民主主義とは本来非効率なもので、議論を重ねて互いの理解を深め、妥協点を見出すといった煩雑な手続きの上にかろうじて成り立つということを否定する動きだ。
 国家(政治家、軍部、官僚)でも原子力でも、暴走しかねない巨大システムを運用するには、様々な手続きと独立した監査機関といった安全装置、歯止め策が必要なのだが、強権国家はそれを無視する。自分たちの価値観だけが有効だと思いこみ、目的を遂げるための効率を重視するからだ。安全装置がないまま突き進む時の危険は、戦前の軍部や政治の暴走、原発事故の教訓が教えてくれているはずなのに。

◆2つの保守主義の中で。安倍政治に対する徹底分析を
 この点、安倍の「新しい国へ」には、戦前の政治や軍部が暴走したことに対する反省が不思議なくらいに抜け落ちている。むしろ、GHQ政策によって平和憲法を押しつけられて日本が骨抜きになったことに対する怨念、戦争を過度に反省しているとする「自虐史観」に対する嫌悪が目立つ。こうした安倍政治の特徴は、自民党政治の中でどのように位置づけられるのだろうか。
 自民党の中の保守主義には二つの流れがあるという。一つは吉田茂(1946-54首相)などの保守本流が進めて来た「戦前の反省を踏まえた平和主義としての軽武装・経済成長路線」。現在の自民党ではこの保守本流がなりを潜め、逆に鳩山一郎(1954-56首相)や安倍の祖父の岸信介(1957-1959首相)などのタカ派的な「自主憲法制定、独立自尊国家を目指す路線」が勢いを増している。

 そういう意味で、安倍グループは久々に登場した国家主義的価値観の追求者なのである。彼らは、その価値観を性急に実現しようとして思いつめたように未知の領域に突き進もうとしている。しかし、効率を追求して民主主義的手続きや情報公開という安全装置を省こうとする、そのやり方の先に戦争と国家破滅の危険はないのか。動きが急な今こそ、メディアには安倍政治の本質についての、(連続特集を組む位の)徹底した分析を期待したい。
*1)「新しい国へ」(安倍)、「真・政治力」(石破)、「とてつもない国」(麻生)
*2)百田尚樹(作家、NHK経営委員)、櫻井よし子、田母神俊雄(軍事評論家、元航空幕僚長)
*3)最近、外務省がアメリカで行った世論調査では、アジアでの最重要パートナーに中国を上げる人がトップに(12/19)
世界と時代に逆行する秘密国家 13.12.5

 特定秘密保護法の強行採決が目前に近づいている(*1)。この法案の欠陥と危険性については、すでに天下にさらされており、(一部の翼賛的なメディアや機能不全のメディアを除き)多くのメディア、法律や科学を含む各分野の専門家、ジャーナリスト、市民が法案に反対している。最近の新聞(朝日、毎日、日経)の世論調査では国民の1/4強が賛成、半数が反対、8割が慎重審議を、と変わって来た。にもかかわらず、政府与党が強行採決しようとしているのは、これ以上審議を長引かせれば、どんどんボロが出て来て反対が増えると思っているからだろう。
 短期決戦に持ち込めば、多くの国民は何やら危険なにおいを感じるものの、それが身近に差し迫ったものとは思わない。あるいは将来、この法律がどのような魔性を顕わすのか、想像ができない。かくして、明らかに時代の転換点に差し掛かっていながら、当事者である国会議員も含めて、国民がうかうかと目の前の危険を見逃してしまう状況は、法律の性格は違うけれど、1925年(大正14年)に悪名高き「治安維持法」が成立した時と同じように思える。
*1)12月5日午後16時、参院特別委強行採決。6日深夜、参院本会議で強行採決

◆私たちはどういう国家と向き合うことになるのか
 安倍政権がこの法案の成立を目指す背景については、「積極的平和主義とアメリカ依存」に書いた。しかし、本家のアメリカでさえ国家機密の指定や解除については、それをチェックする強力な監察機関(国立公文書館・情報保全監察局)がある。また、(後述するように)世界では国家機密の保護の必要性は認めながら、(国民の権利と人権を守る)情報公開とのバランスを図るべきだとする新しい原則(ツワネ原則)も作られている。
 しかし、日本の場合はこの世界の流れにも逆行している。法案成立後の明日から、私たちは一体どういう国家と向き合うことになるのか。(杞憂に終わることを願っているが)様々な情報の中から、私なりに以下の二点に絞って懸念を指摘しておきたい。

@最も危険な時に、国家の暴走を止められない
 特定秘密保護法は、国の安全保障に関る4分野(防衛、外交、スパイ、テロ)の秘密を保護するためのものだ。行政機関(官僚と一部閣僚)が国会を関与させずに、基準があいまいな秘密を設定し、それを漏らしたり入手しようとしたりするものに対して、懲役5年から10年の厳罰を科す。何を秘密にするかの監査機関については、(安倍がここへ来て泥縄式にあれこれ持ち出しているけれど)まだ何も具体的に決まっていない。裁判では、何が秘密でその何に違反したのかも不明確なまま量刑が科せられるおそれがある。
 これは、どんな行為が犯罪か、どんな刑罰を科すかは議会が定める法律に明記しなければならないという「罪刑法定主義」の趣旨に反しているという(ジャーナリスト、吉田俊浩氏)。このことは、憲法31条に基づく刑事法の人権保障、人身の自由を侵害する怖れさえ含んでいるというが、もしそうなら法の精神に反する法律と言える。

 問題は国家機密という名のもとに、こうした恐怖の網が恣意的にかけられることの弊害である。仮に、国家が極めて危険な戦争と言う方向に暴走をし始めたとしても、外交戦略、軍事力の評価、軍事作戦、国民の動員など、最も国民の生命安全に関る情報が完全に遮断される。国益の名のもとに公益が抑え込まれ、メディアはもちろん国会さえも政府の暴走をチェックできないという事態が到来する。
 特に戦争は、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争と「メディア操作の技術」を磨いて来たアメリカの例を見ても分かるとおり、国家秘密と報道の自由が最も先鋭的に衝突する場面である。このことを考えると日本の法案はあまりに不備で、充分な議論もない。スパイ、テロへの脅しだけが突出していて国民が知るべき情報が遮断される。これでは国家が再び戦争への道を歩み始めても、国民は判断材料もないないまま国に付き合わされ、ついには生命を失うことにもなりかねない。

A黒塗りだらけの秘密国家と官僚天国
 もう一つは平時から起こり得る問題である。よく言われるように、これまでも情報は官僚が握り、都合のいい時に都合のいい相手にだけ情報を与えて政治家をコントロールして来た。この法案は、秘密指定に関与する官僚の立場を一層強くし、これまで以上に「官僚主導」を進めることになる。さらに悪いことには、この法律を盾に、官僚が自分たちに都合の悪い情報を隠せることである。説明責任を果たさなくなる。
 月刊「SAPIO」三井直也編集長が言うように、秘密保護法が成立すれば、マスコミや国会に堂々と「それは特定秘密です」と隠せるのだから、もはや官僚に怖いものはなくなる。仮にメディアが情報を得ようとしても、戦時中のように「黒塗りだらけ」の資料が来て、なぜそうなのか聞いても「秘密だから」としか言わない。この「黒塗りだらけの秘密国家」こそ、日本の将来を蝕む元凶になるのではないか。

 この秘密主義は、官僚の都合のいいように、どこまでも拡大解釈される危険がある。原子力技術や科学技術の発明・発見のための情報公開、軍事技術の民間応用から、国の資源開発にまで網がかけられる恐れがある。ノーベル賞受賞の科学者まで反対と言う意味は、そうした人間の文化科学活動が妨げられる懸念である。
 そういうことがないようにすると下村文科省大臣はいうが、その大臣だって官僚にいいようにコントロールされて行くだろう。その情報コントロールは、時には、小沢一郎のケースのように、検察が自分の都合の悪い人物を抹殺する手段にも使われる。こうした官僚主義のはびこる国は、かつてのソ連のように発展の可能性を失って停滞して行く。将来の日本がそうならない保証はあるのだろうか。

◆世界の流れからも逸脱する安倍政権
 国家機密の保護については、今年の6月に国連や専門家たちによって「国家安全保障と情報への権利に関する国際原則」という指針(ツワネ原則)が作られた。それによると情報公開が規制される対象は国防計画、兵器開発、情報機関の作戦や情報源などに限定し、以下の原則が設けられているという(毎日、社説)。
@ 国際人権、人道法に反する情報は秘密にしてはならない
A 秘密指定の起源や公開請求の手続きを定める
B すべての情報にアクセスできる独立監視機関を置く
C 情報開示による公益が、秘密保持による公益を上回る場合には内部告発者は保護される
D メディアなど非公務員は処罰の対象外とする

 これに比べると日本の特定秘密保護法は、いかにも遅れていて、上にあげた2つの懸念からも分かるように、「知らしむべからず、依らしむべし」、「もの言えば唇寒し」といった戦前の封建主義や強権主義にも通じる古い体質を持っていると言える。国連の人権機関のトップも成立を急ぐべきではないと言い、アメリカの元NSC(国家安全保障会議)高官も日本の法案は国際基準を逸脱していると言っている。
 にも拘らず、今の自民党政権は何故、こうした世界の先進的な潮流に耳を貸そうとしないのか。何故、時代に逆行した古いままの法案を急いでいるのか。それを考えるにつけ、今の自民党政権の中で、明らかに欧米の先進国とは異なった政治感覚、精神構造が勢いを増しているように思えて来る。