前回に引き続き、「脱原発における迷える民意」にどう答えるかを書くのだが、今回は、少しより道をして最近の雪害の話から始めたい。2月15日(土曜日)の午前1時半ごろ。気になって窓の外を見たら、かつてない勢いで雪が積もっていた。既に優に30センチは超えている。ここは明け方には雨になると聞いていたのだが、その時の降り方は、この街の幹線道路まで雪に埋まるのではないかと思わせるほどだった。
◆足元の事実の把握。危機に対する想像力の欠如
すぐにテレビとラジオをつけたが、肝心のNHKはオリンピック一色。これが台風ならば、オリンピック中継を教育テレビに切り替えて、総合テレビでは各地の情報や気象庁からの中継が入る所だったかもしれない。車のドライバーに情報を伝えるはずのラジオも同じで、かなりのもどかしさを感じた。少しでも外に出てこの激しい降り方を見れば、気象庁や道路管理者なら異常事態だと感じたはずなのに、日本はその時何故か、エアポケットに入ったような情報過疎に陥っていた。
幸い当地は、午前3時くらいから雨に変わり始めたが、案の定、秩父地方や山梨県は大変な雪害になった。今回の記録的な大雪については、危機管理に当たる気象庁、政府や自治体、そしてメディアも対応の遅れが指摘されている。結果論的で気の毒ではあるが、ここで問われていることは、油断した私たちもさることながら、関係機関の当事者たちの「想像力の欠如」ではないかと思う。目の前の現実を正確に把握しようとする努力と、危機に対する想像力が欠けていた。
しかも、この「想像力の欠如」は何となく今の社会全体に広がっているようにも思われてならない。アベノミクスなら円安と株価上昇、デフレ脱却ならベースアップ、オリンピックならメダル獲得。社会全体が一つの単純化された見方に染められて、足元の多様な現実を見なくなっている。
◆不都合な現実を見ようとしない。新たな情報過疎の出現
「人間はすべてが見えるわけではなく、多くの人は見たいと思う現実しか見ない」とは、かのジュリアス・シーザーの言葉だが、かつて原子力ムラの人々は、「世界一安全な原発」などという現実離れしたキャッチフレーズ(安全神話)にはまって思考停止し、不都合な現実を見ようとしなかった。そのため、危機が迫っている時に有効な対応が出来なかった。
これは今、「経済成長のためには原発の再稼働が欠かせない」と思い込んでいる原発推進の政治家、官僚や電力経営者においても同じ。福島の事故処理は順調に進んでいると思いたいし、日々とんでもない高濃度の汚染水が海に流れ続けている影響についても、溶けた燃料が格納容器の底を突き抜けている可能性についても知りたくない。何より、福島は1000年に一度の大地震だったのだから、大事故がそう起こる筈がない。再稼働しても大丈夫だと思いたい。こうして見たくない沢山の現実が意識的、無意識的に隠ぺいされて行く。
一方、正確な情報が得られない中で、脱原発を主張する人々の間にも、問題が広がっているように思う。特に都知事選を契機にして、脱原発の考え方における(いわば空中戦のような)観念的、イデオロギー的ぶつかり合いが強くなり、足元の事実の検証が脇に追いやられる傾向が強くなっている。レッテル張りと足の引っ張り合いの中で、以前は顔がはっきり見えていた信頼できる専門家たちの発信力がめっきり弱くなってしまった。
事故後、間もなく3年が経つが、今福島で何が起きているのか、本当のところが見えなくなり、「情報の奇妙なエアポケット」が出来ているように感じる。そして、その間隙を突くように、このところ福島事故に関する怪しげな情報がネット上に飛び交うようになった。言うならばこれも、(反原発という)観念に走って事実を確かめようとしない同根の病理であり、こちらも困ったものである。
◆情報過疎の中、怪しげな情報が飛び交う
その一つは、去年12月31日に福島第一原発の地下で核爆発が起きているので要注意とする情報。年明け早々に、ロシア大統領府からの情報だとしてネット上に流れた。一部には緊急避難を呼びかけるものさえあった。去年の同時期、福島の原子炉から大量の水蒸気が立ち上ったこと、近くで地震があったことなどを結びつけ、原子炉の地下に達した燃料が水と反応して水蒸気爆発を起こしたのではないか、とする情報も流れた。
また、反原発を標榜するサイトからは、福島で生まれた新生児のうちかなりの数の奇形児が生まれているという情報もあった。それらは「拡散希望」と書かれて、私のメールにも転送されたりした。都知事に立候補した細川も、一時期このロシア発の「極秘情報」を引用したらしいが、こうした怪しげな情報が乱れ飛ぶ所に今の福島の問題がある。
これらは、結局のところ出どころの曖昧なデマ情報だったが、背景には原子力業者の隠ぺい体質に対する不信がある。例えば、東電は去年7月に井戸水から500万ベクレル/Lという最高レベルの汚染を検出していた。それを今年になって発表するなど、相変わらずの隠ぺい体質が続く一方で、市民の側にも情報過疎を埋めるだけの信頼できる情報が届かないという現実がある。疑問が膨らんで行き、疑心暗鬼が生まれる。
例えば、溶けた燃料が本当に格納容器の中に収まっているのか。仮に燃料が格納容器の底を突き破って(これをメルトアウトと言う)、コンクリートに達していたらどうなるのか。地下水との接触はないのか、充分冷やせるのか、再臨界はないのか。今の井戸水の高濃度ストロンチウムはどこからやって来たのか。こうした疑問に対して、東電も専門家も明確に答えていない。メディアの追及も極端に弱くなった。
◆真の福島ウォッチャーは誰か。イデオロギー抜きで運動を再構築する
疑問や不安は他にもある。子どもたちの甲状腺がんは、原発事故後4〜5年で増え始めると言われているが、2月に発表された福島の子どもの甲状腺がんは疑いを含めて74人(確定33人)。これをどう評価するのか。この先どうなるのか。検診体制は充分なのか。海洋汚染はどこまで広がっているのか。海産物の検査体制は現在も充分維持されているのか、などなど。さらには、除染や使用済み燃料棒の搬出に関する疑問や不安もある。
しかし、最近になってこうした疑問や不安に丁寧に答えてくれる情報がぱったりと途絶えている。脱原発には立場の違いや考え方の違いを超えて、事実の究明とそれに基づいたオープンな議論こそが必要だと思うのだが、情報が原発推進や脱原発のそれぞれのセクトの中で閉じられてしまっているように思う。その意味で、これから「迷える35%の民意」に答えて、脱原発の声を大きくして行くために大事と思うことを最後にまとめておきたい。
一つは、福島の現実こそが脱原発の出発点にならなければならないということである。福島で何が起きたのか、今福島で何が起きているのか。その上に立って脱原発の主張を構築することである。二つ目は、その原点を踏まえて説得力のあるシナリオを構築することである。すなわち、原発なしでやって行けている現状を踏まえて「原発なしのエネルギーのベストミックス」(スマート電力網による節電、安くて高効率の化石燃料への転換、自然エネルギーの導入など)の可能性を、合理的に構築して行く。
脱原発はイデオロギーとは関係ないのだから、脱原発を目指す人々は、再び小異を捨てて大同について欲しいと思う。福島ウォッチャーである強力な専門家グループをもう一度束ね直し、顔が見える形でこの情報過疎状態を埋めて欲しい。その周辺をさらに発信力のある文化人が取り囲む。その中心に、リーダーシップのある政治家グループを据えて行く。「脱セクト化、脱イデオロギーによる脱原発」の再構築こそが、「迷える民意に答えて行く」道ではないかと思う。
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