日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

「テロとの戦い」を描いた映画 13.2.21

 さる役所の映像・メディアの審査員をやっている関係で、今年も何度か映画の試写会に足を運んだ。さらに、話題の映画も見ておこうと最近はちょっと「映画な日々」を送っている。「レ・ミゼラブル」、カミュの遺作を映画化した「最初の人間」、宮本輝原作の「草原の椅子」、本屋大賞をとった三浦しおん原作の「舟を編む」(写真)。そして、オサマ・ビンラディン暗殺の実話を映画化した「ゼロ・ダーク・サーティ」、CG映像の進化驚嘆する「ライフ・オブ・パイ〜トラと漂流した227日」。
 この中で特に好きな映画は「最初の人間」と「舟を編む」だったが、他の映画もそれぞれに製作陣の思いがこもった力作だった。手軽にいつでもどこでもメディアに触れられるのが“売り”の今の時代に、わざわざ出かけて行って暗い映画館の中で一人スクリーンに向き合う。こうした力作に出会うと、映画という独特な「老舗メディア」も意外にしぶとく逞しいものだと感心する。

 「舟を編む」の方は、これから多くの人が褒めると思うので、今回は特にアメリカの「テロとの戦い」を描いた映画「ゼロ・ダーク・サーティ」について取りあげて見たい。映画の迫力もさることながら、一方で、この映画が抱えている問題の方も結構複雑で大きいと思うので。

◆アメリカの“対テロ戦争”を描いた「ゼロ・ダーク・サーティ」
 この映画は、前作「ハート・ロッカー」でアカデミー賞(作品、主演女優など5部門)を獲得した女性監督のキャスリン・ビグローが製作。今年のアカデミー賞(2月24日)候補にも複数部門でノミネートされている。
 2011年5月の深夜(ゼロ・サーティ、午前零時半)に実行された、アメリカ海軍特殊部隊によるオサマ・ビンラディンの要塞のような隠れ家(パキスタン・アボッターバード)への急襲、そしてアメリカ本国で大統領たちが見守る中でのビンラディン殺害。そこに至るまでのCIAによるテロ組織との闘いの実態と、殺害成功の陰で英雄的?な役割を果たした、CIA女性分析官マヤ(ジェシカ・チャスティン)による執念の追跡劇を(事実に基づいて)描いた映画だ。

 冒頭から、ヨルダンの実際の刑務所を使って撮影されたと言う、(アルカイダの)捕虜へのCIAによる拷問が執拗に繰り返される。ビンラディンの居所を吐かせるためだ。追跡班に投入されたマヤがそれに立ち会う。しかし、テロ集団が張り巡らしている極めて巧妙で周到な壁の前にCIAが手をこまねくうちに、世界各地で爆弾事件や自爆テロが続いていく。
 やがて、敵の罠にはまった同僚が自爆テロで殺害されるのを見たマヤが、怜悧な刃物のような存在に変貌し、ビンラディン殺害に執念を燃やす。そして僅かな手がかりからビンラディンの隠れ家を突き止める。情報はCIAの官僚機構の壁も打ち破って、大統領に達し、ついに2011年5月2日深夜、作戦は決行される。10年の追跡劇を2時間37分の息もつかせぬ活劇に仕立て上げた

 その描き方は例によって徹底している。事実に裏打ちされ周到に練られたシナリオ、インドのロケ現場に造られたビンラディンの隠れ家とそっくりの要塞、ステルスのヘリコプターを何機も動員しての夜間の奇襲攻撃。広大な米軍基地を再現してそこに荒野のかなたから近づくジープ。それがCIAを騙して基地内部にまで侵入して巨大な自爆テロを起す。
 これには、常に3、4台のカメラが同時にまわっていて、しかも同じシーンを2回撮影したというから、様々な角度からの映像が現場に立ち会っているような臨場感を生み出す。緊迫したストーリー展開、撮影のスケール、ドキュメンタリーのような現実感は、金の掛け方からしてもちょっと今の日本映画では真似ができない

◆一口に「テロとの戦い」とは言うが
 この映画は捕虜への拷問、情報を得るための買収、CIA内部の官僚主義、女性担当官への差別など、アメリカの対テロ戦争の現実は描いているものの、基本的にはマヤという強烈な個性を持ったヒロインの(アメリカ側の視点に立った)英雄物語だ。ひょっとしたらビグロー監督も主役のジェシカ・チャスティンも、これでアルカイダの標的になるのではと心配になる位に。そこに、イラク戦争に参加したイギリス傭兵の暗部をドキュメンタリータッチで描いた「ルート・アイリッシュ」(ケン・ローチ監督)のような社会派的な問題提起はない。
 しかし、映画は、捕虜の虐待疑惑への抗議、機密情報問題、(映画がオバマ大統領を利するというので)大統領選前の公開に対する反対など、様々な物議をかもした。同時に、一口に「テロとの戦い」と言うけれど、私たちはそれについてどれだけ知っているのだろう、という素朴な疑問も呼び起こす。

 映画が描くように、今も米英などは様々なテロ組織と全知全能をかけた戦争を戦っている。監視衛星を使い、電話を盗聴し、膨大なメールからテロに関する言葉を抜き出す。その攻防は日夜続いていて、一瞬でも気を緩めると再び国内で惨劇が起きてしまうのだ。
 この映画はイスラム原理主義関連のテロに疎い私たち日本人に、ブッシュ前大統領が言いだした「テロとの戦い」とは本当の所何なのだろうか、お前はそれについて充分知っているのか、と問いかける。同時に、(イラクやアフガニスタンの場合のように)近年の日本の歴代首脳が簡単に「アメリカのテロとの戦いに賛同し、参加する」と言えるようなものなのだろうか、とも問いかけて来る。

◆イスラム原理主義の怪物、ビンラディン
 そう思って、図書館からイスラム過激派の本を借り出したり、ウィキペディアを探索したりしてみると、オサマ・ビンラディン(1957-2011)の生い立ちから死までのまでの詳しい経緯が分かる。身長194センチのビンラディンは、世が世ならまさに天才的なオルガナイザーとして歴史に残るような人物だったかもしれない。
 サウジの財閥の子として生まれて、やがてイスラムの鬼っ子、奇怪なモンスターのごとくに成長し、エジプトで無差別の外国人観光客の殺害事件を指揮したり、アフガニスタンではタリバンを助けるために住民5000人を虐殺したりした。そして、2001年、アメリカで9.11同時多発テロを引き起こす。


 しかし、その思想的変遷は複雑怪奇で私などにはよく理解できない。イスラム原理主義からくる異教徒への攻撃、聖戦(ジハード)に身を投じたが、アフガニスタンではアメリカと組んでソビエトと対抗した。その後、サウジへの米軍駐留を巡ってアメリカとの聖戦に。様々な派閥との離合集散あり、各国政権との協力関係ありで、その実態がつかめない。そして9.11以後10年間も、驚異的な用心深さでアメリカの執拗な追撃をかわしつつ、各地でテロ事件を引き起こして来た。

◆アメリカとの距離をどう取っていくのか
 目的のためには手段を選ばない彼らに対して、イスラム原理主義者から攻撃目標とされるアメリカやイギリスが、対テロ戦争に血道を上げるのは当然だと思う。また、彼らの残虐なテロに対して、日本など国際社会が人道的見地から(米英の)「対テロ戦争」に理解を示すことも良く分かる。しかし、両者の対立の淵源が多分に西欧キリスト教とイスラム教の宗教対立にあるような「根の深い問題」だとすると、正直な話、余り巻き込まれたくないと言う感じがする。

 それでなくとも、長年、中東で日本が築いてきた親日的感情もイラク戦争やイラン制裁への参加で、すでに地に落ちているというし、最近アルジェリアで起きた人質事件では、日本人はイスラムの敵として殺害された。近頃の日本は集団自衛権も含めてアメリカと一心同体になりたがっているが、米英の対テロ戦争に理解を示すのはいいとしても、一方で余りに無防備に首を突っ込んで、対テロ戦争を日本国内に引きずり込むような危険は慎重に避けて欲しいと思う。
 このアメリカ映画は、「対テロ戦争の半端でない大変さ」を私たち平和ボケの日本人に教えてくれると同時に、日本はこれからアメリカとの距離をどう取っていくのかという難しい問題を投げかけているようにも思う。(これは尖閣問題を契機ににわかに切迫してきた問題でもあるが、引き続き考えて行きたい)

レーダー照射事件の背後にあるもの 13.2.11

 東シナ海の公海上で海上自衛隊の護衛艦が1月30日に中国海軍のフリゲート艦から火器管制レーダーを照射された問題で、日中の激しい応酬が続いている。アメリカも(表向きには)盛んに自制を促しているが、尖閣を含む東シナ海では日米中3国の思惑がぶつかり合っていて、武力衝突を止めようとする力学がなかなか働かない心配な状況になっている。そこで今回は、一連の応酬を時系列的に並べて見ながら、事件の背景がどういうものか、また武力衝突回避の糸口がないかを探ってみたい。

◆レーダー照射事件の応酬の経緯
・2月5日夜、小野寺防衛相が事案を公表(その直前には外務省ルートで日本が中国に抗議)。レーダー照射は数分間に及び、防衛相は「現場に緊張感が走る事態だった。一歩間違えると大変危険な状況に陥る」と強調。同省幹部も「拳銃を向けられているようなもの。現場には相当な緊張感が走った筈だ」(朝日)と発言。
・7日、それにたいして中国政府は、「聞いていない、事実関係を調査する」と返答。
・8日、国会質疑の中で、小野寺防衛相が中国のレーダー照射は「国連憲章上、武力威嚇に当たる」と発言。同じく石破自民党幹事長も、「国際法上は反撃しても許されると言う説もあるが」と質問。
・8日午後、中国政府は日本側の抗議を完全否定し、「日本政府の説明は全くのでっちあげだ。今後は、二度とこういう小細工をしないように望む」と日本批判に転じた。これに対し、安倍首相が夜のTV番組で「認めて謝罪し、再発防止に努めて欲しい」と述べる。
・9日午前、小野寺防衛相が幾つかのTV番組の中で「照射の証拠を開示する用意がある」とする一方で、「レーダー照射を公表した5日以来、尖閣諸島周辺の動きが止まっている。公表が中国側の動きを押さえる効果があった」と強調した。

◆「砲身は向いていなかった」
 しかし、一触即発の危機を強調した防衛相だが、7日の予算委では
レーダーは向いていたが「砲身は護衛艦には向けられていなかった」と答弁。公平を期すならば、5日の公表時にこの事実も合わせて公表すべきだったと思うが何故黙っていたのだろうか。連日、大見出しで「中国挑発 危険域」、「日中 真っ向対立」(朝日)、「照射は武力威嚇」、「首相 中国に謝罪要求」(毎日)などと双方の応酬を取り上げてきた日本のマスコミも、レーダー照射時に日本側が「砲身は向いていなかった」と確認していたことについては、記事に埋没させたままで、見出しには使わなかった
 また、防衛相が持ち出した国連憲章の「武力による威嚇」も規定があいまいで、政府関係者は「著作権・小野寺」(防衛相の個人的な解釈と言う意味か。毎日)と言い、外務省筋も「(砲身が向けられていなかったのなら)防衛省は騒ぎ過ぎだ。あまり追い詰めない方がいい」と言っているらしい(朝日)。

 もちろん、レーダー照射は公表すべき事案だとは思うが、公表後の経緯を見ると、(安倍と呼吸を合わせた)小野寺防衛相の動きが突出している。10日の「サンデーモーニング」でも河野洋平氏が、この案件で、(中国側の首脳が表に出ていないのに)首相と防衛相が前面に出て中国とやり合っている構図は慎重さを欠くと言っていた。
 そして、ここへ来て、レーダー照射は「中国軍の独断」だったという見方が日本政府内にも強まっているという(産経)。その背景には、どうやら去年の12月以来のアメリカを巻き込んだ(以下のような)日中の緊張関係があり、レーダー発射が行われた先月末頃には、中国で日本との軍事衝突は避けられない、という見方が広がっていたと言う(毎日)。「軍の独断」が本当だとしたら恐ろしい話だが、日本はどの程度、戦争の危険性を把握していたのだろうか。

◆レーダー照射の背景
 昨年12月、中国の国家海洋局所属の航空機が尖閣の領空を侵犯した。これを契機に、沖縄の在日米軍がAWACS(空中警戒管制機)を尖閣地域に投入、中国軍の監視を強めて来た。これに中国側が「米軍の介入だ」と強く反発、中国軍機がスクランブル(緊急発進)したり、それに対して自衛隊機がスクランブルをかけたりする緊迫した状況が続いて来た(朝日)。
 そんな中、尖閣強硬派で知られる小野寺防衛相が1月15日の会見で航空機の侵犯に対して「国際基準に照らして間違いない対応をする」と答え、この発言が「曳光弾発射の可能性」を示唆したと中国に伝わったことから中国側が猛反発。これが、前々回に書いた、中国の軍関係者(元少将)の「日本が曳光弾を発射すれば直ちに反撃する」という発言(16日)につながり、今回のレーダー照射にもつながったという見方である。

 中国側は特に、日米連携による東シナ海での圧力を深刻に受け止めており、中国軍の一部には武力衝突やむなしの空気が生まれていたらしい。中国メディアも「中国国民の多くは、既に一戦を交える心理的な準備が出来ている」(環球時報)と報道。レーダー照射事件の前から日本国民の知らないところで、双方の挑発と武力衝突の危機が続いて来た。
 しかし、こう見て来ると日本政府もメディアも中国非難を合唱するのはいいが、果たして武力衝突の危険性にきちんと向き合っていたのだろうかとも思う(*)。万一、日中戦争にでもなれば世界はまた第2次大戦の時のような闇の時代に突入し、国民はあの時以上の苦しみを味わうことになる。だからこそ、まずは日中両国の不戦の意志、平和的解決への確固たる意志が問われるわけで、備えを万全にしながらも、相互に「火遊び」(挑発)を避ける慎重さが求められるのである。

◆言っていることと、やっていることが違う?中国の疑心暗鬼
 この点で、安倍首相がレーダー照射は「極めて遺憾だ」としながらも「対話の窓口を閉ざさないことが一番大切で、中国は戦略的互恵関係(*)
の原点に立ち戻って欲しい」というのは一見正しいように見える。しかし、困ったことに、こんな言い方で中国側が納得するとは思えない所まで状況は来つつある。中国側から言わせれば、そう言う安倍こそ「言っていることと、やっていることは違う」ではないか、というのである。
 安倍政権こそ、尖閣を巡る緊張を利用して(あるいは意図的に高めて)、集団自衛権による日米軍事同盟の強化、自衛隊の軍備拡大、国防軍の創設、そして憲法改正まで狙っているではないか。さらに、日米は結託して東シナ海での軍事的プレゼンスを高め、中国封じ込めに動いているではないか、と中国は疑っている。(「日本側は中国の脅威を誇張して緊張を作り出し、国際世論を間違った方向に導いている」中国外交部報道官。8日)

 口では「戦略的互恵関係を」と言いながら、腹の中は「アメリカと連携して中国を封じ込める」戦略なのではないか。しかも、日本の右派勢力(石原など)とアメリカのネオコンは日米が協力して中国に圧力をかければ、中国は内部から崩壊するなどと公言している。その右派勢力と安倍は裏でつながっているのではないか。中国は安倍の本心が読めずに疑心暗鬼にかられて
いる

◆挑発をせず、挑発に乗らず。安倍政権の決意を示せるか
 従って、もし安倍首相が真剣に事態を打開する意志があるのなら、平和構築への決意(最低でも、戦争回避への決意)をこれまで以上に明確に相手に伝えなければならない。そのためにも、まず自分がどういう日中関係を目指すのか、自身の腹を固めることだと思う。その上で、日中が互いに利益を享受できる方策を最重要課題として粘り強く議論して行く。それに時間をかければ、やがて尖閣問題なども相対的に小さく
できる知恵が見つかる筈だ。
 少なくとも東シナ海では「挑発をせず、挑発に乗らず」。それを基本に平和外交の主導権を握るべきだと思うのだが、問題は日本がアメリカの西太平洋戦略構想に組み入れられようとしている時に、どこまで自立的にそれをやれるかだろう。

*)すでに、中国のネット上には(真偽のほどは不明だが)「中国海軍の張召忠少将が、もしも日中が開戦になっても米国は軍事行動を起こすまでに議会の承認などで半年は必要となるが、中国は30分以内にケリをつけることができる」と主張したという情報が流れている。それを受けて、「日中が開戦になれば30分でわが国が勝利する!」という掲示板(スレッド)も建てられているらしい。尖閣での局地戦が一気に拡大し、中国が保有するミサイルを一斉に日本に打ち込めば、そういうことになる。しかし、仮にそれで日本を滅ぼしても、それは中国にとって極めて愚かな選択になるだろう。
*)2006年。政治的相互信頼の増進、人的、文化的交流の促進及び国民の友好感情の増進、互恵協力の強化、アジア太平洋への貢献

チャイナ・セブンの中国(2) 13.1.29

 安倍首相の親書を携えた公明党の山口代表が25日、ようやく習近平総書記と会談。習総書記は「中日関係の発展はアジアも世界も歓迎している。関係を改善して行きたい」と語り、尖閣問題については「双方にとって緊急性を持つ問題だ。立場も意見も違うが、対話と協議で解決すべきだ」とした。山口代表の報告に安倍首相は、山口氏の訪問を評価した上で、「対話が重要だ。今後、政府・与党でその対話を重ねて行きたい」と述べた。
 これが新聞情報だが、この先どう展開して行くのかは良く分からない。中国は、ボールは日本側にあり、前政権の尖閣国有化をどういうふうに収めるのか、何らかのサインを送れと言っているのに対し、ボールは中国側にあるというのが日本側の考え。領土問題は存在しないのだから、対話するなら領海侵犯などの挑発行為をまず止めるべきだという意見である。両者の主張はぶつかり合い、歩み寄るべき溝は依然として広い

◆政治は利害の調整。覚悟と力量が問われる日中首脳
 かつて、(私が尊敬する政治家の)後藤田正晴は「政治とは何か」の中で「政治とは個人や集団や国家間に生じる利害の衝突を調整することである」と言い、「この調整を的確に行って紛争を解決に導き、新しい方向に踏み出させることが政治そのもの」だとした。
 政治は(近年のアメリカなどがおし進めて来た、人権や民主主義といった)理念や価値観の問題ではなく、高度な調整技術のなせる技であり、それこそが政治力と言う認識だ。これは、結構古くからある考えで明治維新を幕府側から手伝った勝海舟なども政治をそのように見ていた。

 この考えに立つと、国と国の利害がぶつかる尖閣問題などは、まさに両国首脳の政治力が試される問題。そこで相手の価値観が許せないとか、1ミリも妥協できないなどと頑なになって、戦争になったりすれば政治家として失格だ。この点、体制の違いや価値観にこだわる傾向のある安倍が本当の政治家に脱皮できるかどうか。また、3月に国家主席になる最高指導者、習近平の方はどうなのか。平和解決のためには、双方の固い意志と相互理解、自分が傷つくのを厭わない強いリーダーシップが必要だが、新首脳にとってはこれからが正念場。それぞれに覚悟と力量が問われることになる。

◆習近平を取り巻く緊張@チャイナ・セブンを巡る緊張
 前回、中国の最高指導者が対日政策を考える時には、3つの緊張を強いられると書いた。その第一が、人口13億の巨大国家中国を動かす7人の中央委員会政治局常務委員会(チャイナ・セブン)の中での緊張。何事も多数決で決まる集団指導体制の中での熾烈な権力闘争(パワーゲーム)による緊張である。
 ご存知のように、政治局常務委員会のメンバーは一枚岩ではない。上海閥の江沢民と利権を共にする「江沢民派」、中国共産党青年団あがりの「団派」(胡錦濤国家主席の流れ)、共産党幹部の子弟の「太子党」の3つに大別される。
 それぞれに、
「先富」(先に富める者から富む。どちらかと言うと保守派)とか、「共富」(まだ富んでいないものを富ませて、共に富む。どちらかと言うと改革派)と言った、思想的傾向の違いを主張しながら、互いに自分たちの勢力拡大を図ろうとしのぎを削っている。従って、(特に微妙な日中関係において)相手に付け込む口実を与えるような少しのミスも許されないのだ。

 その意味で、25日に行われた公明党の山口代表と会談した時の習近平の表情を思い出してほしい。にこやかに挨拶する山口氏に対して彼は口の端を僅かに上げて軽くうなずくだけ。柔和ではあるが殆ど無表情に近い。これが実は、熾烈な権力闘争を生き抜いてきた中国幹部に共通の流儀なのだそうだ。
 熾烈な権力闘争をしてのし上がって来る政治局員たちは、手の内(腹の中)を決して見せない。だからみんな能面か蝋人形のような「不動」の表情を保っている。感情を表に出した方が負けとなる。全人代で映っているテレビ画面などを見ると、「まばたき」の瞬間を見つけない限り「静止画像」と思ってしまうほどだ。あれは「静かに勝負している」のである』「チャイナ・ナイン」)。

◆A中国人民解放軍との緊張
 緊張の2つ目は、中国共産党の軍である中国人民解放軍との緊張関係。江沢民、胡錦濤と続いた国家主席は、それぞれ軍の掌握には腐心してきた。上海からぽっと出て来た江沢民は、自分の息のかかった人間を幹部として送りこみ、予算と利権を与えて巧みに軍の取り込みを図って来た。2003年に国家主席を退いた後も、しばらく軍事委員会主席にとどまって軍の人事と利権を握って来た。
 この間、軍は潤沢な予算を使って近代化に努めると同時に発言力も強め、外洋展開のための「第一列島線」(日本列島から沖縄、台湾へとつなぐ防衛ライン)や、「第二列島線」(グアムやサイパンまで拡大)を主張し始めた。これに対しアメリカも、中国の軍事力増大を相殺するために、軍事力の直接行使がないだけの激しい心理的バトルを展開している状況だと言う(「中国は、いま」)。

 一方の胡錦濤は、国家主席になってからも暫く軍に力を持てなかったが、2007年ごろから巻き返しを図り、ようやく2012年の薄熙来事件をきっかけに軍部の腐敗を洗い出し、これをカードに軍の掌握に成功したという。チャイナ・セブンの中で権力の所在が明確でない時には、政治と軍との関係もまた混乱し緊張する。こうした複雑な緊張関係の中で、次期主席の習近平が軍をきちんと掌握しコントロールできるかどうかが問われる。
 
◆B権利意識が高まる国民との緊張
 そういう意味で、去年の日本の尖閣国有化はまさに次期政治局員を選ぶ権力闘争、軍部掌握のしのぎ合いの最中という、「最悪のタイミング」で行われた。そのために、政治局の中は大混乱に陥って、かねて日本との融和を模索して来た胡錦濤に対し「軟弱外交」という批判が高まり、その権力闘争の中で、一部勢力(人民武装警察部隊?)によって反日デモがカードとして使われたという説もある。
 その激しい
反日デモの主役になった若者たちは、インターネットやツイッターを駆使して、ある時は「日本の漫画大好き」若者であり、ある時は愛国教育で醸成された「反日的」若者に簡単にスイッチする。しかも、中国のネット・ユーザーは5億人。政府は3万人からなる「万里の防火長城」(グレート・ファイア・ウォール)と呼ばれるネット監視体制で情報を遮断したりして管理しているが、彼らはそれをくぐり抜ける。

 ただし、「チャイナ・ナイン」によれば、反日デモの裏には中国政府の「やらせ」があると言う説は間違いだと言う。この点で、著者が中国政府高官と議論した結論は「今の若者が政府の言うことを聞くようになったら、われわれは苦労しませんよ」ということらしい。しかも、1年に10万件の抗議行動を行っている中国国民の権利意識の高まりから言っても、「反日デモ」は最終的に「反政府デモ」に変身することを中国政府は知りつくしている。
 社会主義体制を堅持して行
くことを至上命題としながら(これについては、チャイナ・セブンも一枚岩)、この国民感情をどう扱って行くかに習近平の中国も苦慮して行くに違いない。

◆中国を知りつくした上での戦略を
 以上みて来たように中国政府の対日政策は、こうした複雑な権力構造の中で緊張を強いられ、手足を縛られるという性格を持つ。江沢民らが始めた愛国教育、反日教育の影響で、国家主席でさえも下手に日本に譲歩すれば国民から「売国奴」と激しくののしられ、政治局員の中での立場が弱くなり、軍も押さえることが出来なくなるということだ。
 日本政府もこうした中国側の内実を熟知した上で、対中戦略を立て、
対話のボタンを探すべきなのだが、これまでは結構読み間違いをして来た。その読み間違いと肝心の「尖閣問題のボタン」については、近々また機会を見つけて書きたいが、大事なのは中国のこうした複雑な権力構造と内情を日本側の政治家も国民も共通理解として持つべき時代に入っていると言うことだと思う。

チャイナ・セブンの中国(1) 13.1.23

 尖閣諸島を巡る日本、中国、アメリカ間の緊張が高まっている。年明けには中国人民軍総参謀部が「戦争思想を強化し、危機意識を高めよ」、「戦争にしっかり備え、部隊を厳しく訓練せよ」、「戦争能力を高めよ」などと指示(14日)。
 また、軍関係者(元少将)が「日本が曳光弾を発射すれば直ちに反撃する」と発言(16日)。これは先に中国外務省が「日本側の行動拡大には高い警戒心を持っている」と控えめな表現をしたことに対し、ネットで「弱腰」、「売国奴」といった批判が殺到したことを受けての強硬発言らしい。

◆尖閣を巡ってヒートアップする日中
 一方の安倍内閣は「国際法上日本は尖閣諸島を所有し、実効支配している。交渉の余地はない」という立場である(去年12月17日)。最近(16日)、中国を訪問した鳩山元首相が、「係争が起きていることは事実だ」「(中国側が主張する)棚上げの方向に戻ることが大事だ」と発言したことに対して、菅官房長官は「我が国の立場と明らかに反する発言で極めて遺憾」と批判(17日)。
 尖閣問題の強硬派で知られる小野寺防衛相はテレビ番組の中で「理解できない。『国賊』という言葉が一瞬、頭をよぎった」と発言し(17日)、改めて「(尖閣に)領土問題は存在しない」という立場を明確にした。

 緊張が高まる中で行われた日米外相会談(18日)では、クリントン国務長官が「(尖閣諸島は)日本の施政下にあり、それを侵害するするいかなる一方的な行動にも反対する」と中国をけん制する一方で、「日本と中国が対話を通じてこの問題を平和的に解決することを望む」と話した。
 これに対し中国は21日の記者会見で、日本に肩入れするアメリカを強く非難し「強烈な不満と断固たる反対を表明する。言動を慎むよう促す」と発言。「売国奴」とか「国賊」という言葉が飛び交い、日中双方のナショナリズムが高揚し事態がエスカレートしているようにも見える。国粋主義者(極右)の台頭という「いつか来た道」を思わせる嫌な雲行きである。

◆尖閣を巡る日中双方の主張を3つに仕分けると
 尖閣を巡って飛び交う発言は、日中とも大きく分けて三種類。一つは国としての公式的な発言で、互いに自国領土だと主張して激しくぶつかり合っている。これは相手国に対すると同時に、(特に中国の場合は)自国民を意識して強硬にならざるを得ない性質を持っている。二つ目は武力衝突も辞さずという好戦的なナショナリストたちの発言で、売り言葉に買い言葉で相手国をののしり、自国政府や融和派を誰彼となくやり玉に挙げて「売国奴」、「媚中派」などと叩く。例えば、ネットに「宣戦布告」という公式サイトを立ち上げ、丹羽前中国大使などを批判している石原慎太郎のような人たちで、これは日中双方にごまんといる。
 三つ目は、この事態を何とか鎮静化しようとする意見。頭を冷やして問題収拾の糸口を探り、平和的解決へ向かうべきだと主張するが、(中国はもちろん日本でも)言えば、すぐさま威勢のいい声に叩かれる状況だ。そして、この3種類の声の周囲に「声なき声」の国民がいる。このまま行って戦争にでもなったら大変だと心配している多数の国民である。

◆面積で日本の25倍、人口で10倍の巨大で複雑な国
 日中双方でこうした声が飛び交う喧噪の中で、武力衝突に発展するのを防ぐには、よほど確固とした「平和への意志」を持ち続けなければならない。相手の実情を知ろうともせずに、単純に相手の言動が気に食わないと熱くなるだけでは、喧嘩や戦争になるばかり。今、中国の挑発や反日的言動を見て「戦争も辞せず」と憤激している「嫌中派」の人々は、どの程度、今の中国の内実を知ろうとしているのだろうか。
 何しろ、日本と中国は接近した隣同士。文春2月号に丹羽宇一郎前中国大使が書いているように、互いに嫌いだからと言って住所変更は効かない。かつて周恩来は「(日中は)和すれば共に利し、争えば共に傷つく」と言ったそうだが、今時、日中が戦争でもすれば両国はもちろん、世界全体が傷つく。悲惨で愚かな戦争を避けるには、日本は今こそ中国の研究を深め、その内情を充分知った上で、(身動きが出来ない中国に代わって)日本が主導権を持って「平和構築のための戦略」を練るべきだと思う。

 そのためには、今の中国の実態をつぶさに研究しなければならない。それが分かれば、何とか戦争を避けて、かつての「戦略的互恵関係」に戻すボタンのありかも見えて来る筈だ。ただし、そうは言うものの、以前のブログ(「中国はどこに向かうのか」、「中国雑感」)にも書いたが、中国は面積で日本の25倍、人口で10倍以上(13億人)もある。この巨大で複雑な国を理解するのは、私たち日本人には大変難しい。
 日々激しく変化している改革開放後の中国は今、どこへ向かおうとしているのか。私も人並みに興味を持って、これまで何冊かの本(写真)を読んで来た。クリントン政権時代の国務次官補として中国問題を扱って来た、スーザン・シャーク女史が書いた「中国・危うい超大国」(2008年)なども興味深かったが、最近では、中国を動かす9人(今期は7人)の政治局常務委員会の顔触れと彼らの暗闘を描いた「チャイナ・ナイン」(2012年、遠藤誉氏)が大変面白かった。これからの日中関係を考える上でも参考になることが多い。

◆中国の為政者が国内に抱える3つの緊張
 ご存知のように、今の中国は改革開放後ひたすら経済成長を追い求めて来た結果、極端な貧富の差、支配階級の汚職、富裕層の腐敗が蔓延。国民の権利意識の高まりも相まって各地で国民の不満が噴き出している。日本で言えば暴動に近い抗議行動が年に10万件、1日平均270件も起きている。それだけ中国は国も大きければ、抱えている内部矛盾もけた外れということだろう。
 その巨大で複雑な国家を動かしているのが、チャイナ・ナインと呼ばれる9人(現在は7人)の中国共産党中央委員会政治局常務委員会のメンバーだ。国家主席も首相もこの中のメンバー。ただし、そこでの決定はすべて多数決の「集団指導体制」が鉄の掟で単独行動が許されない。従って、世界の関心は2012年秋の全国人民代表大会で誰がこのメンバーに選ばれるかに集まっていた。

 そのメンバーの7人は既に決まって、3月には習近平が次の国家主席になり、李克強が首相になる。本「チャイナ・ナイン」では、そうしたメンバーたちの人物像、派閥関係、候補者たちの熾烈な権力闘争が描かれていて「三国志」を読むように面白い。これはこれで日本の政治家なら十分知っておくべき大事な情報だろうが、問題は、そうした熾烈な戦いの中で誕生した新しい政治体制の中国が、日本とどう向き合って行くのかということである。
 (私が本から得たところで言えば)中国の為政者(習近平)は日本と向き合う時に、国内に以下のような3つの緊張を抱えることになるように思う。
@ 中央委員会政治局常務委員会(チャイナ・セブン)の中の緊張
A 共産党の軍隊である中国人民解放軍との緊張
B 5億人のインターネット・ユーザー(網民)をコアとする国民との緊張


 いずれも、下手をすれば命取りになるような緊張関係であり、胡錦濤国家主席を始めとして中国の為政者たちは(最近は特に)この緊張にさらされて来た。このことを日本人は十分理解して「平和構築のための戦略」を考えて行く必要があるのだが、本を読むと民主党政権も殆ど読み間違って来た。これらを充分研究して行けばボタンのありかも見えて来るのではないかと思うのだが、3つの緊張の詳しい内容とボタンのありかについては、長くなるので次回にまわしたい。

安倍政権と脱原発の行方 13.1.13

 自民党圧勝を受けて、安倍政権は原子力政策についても民主党の「2030年代の原発ゼロ」を全面的に見直す方針だ。安倍は選挙中には「再稼働については向こう3年以内に結論を出す」と言っていたが、終わると早々に「安全が確認された原発から再稼働する」と言い始めた。
 さらに、12月30日の会見では「原発の新設や増設についても認めて行く」と踏み込んだ発言をしている。現在、国内には未着工の原発建設計画が9基あるが、これらは「事故を起こした福島第一原発とは全然違う。どこが違うのか、国民に理解を得ながら新規に作っていくことになる」としている。

 加えて、「簡単に『脱原発』『卒原発』とやや言葉遊びに近い形で言ってのける人たちは(衆院選で)信用されなかったのだろう」と、自分たちの原発推進路線こそが国民の声だと言わんばかりの言いぶりに変わって来た。しかし、国民の脱原発の意志をそう簡単に見くびっていいものだろうか。もっと謙虚に国民の声に耳を傾けないと、自民党はどこかでまた足元をすくわれることになるのではないか。

◆勝者なき選挙と自民党の勘違い
 ご存知のように、今回の総選挙での得票数と得票率を仔細に見ると、自民党は小選挙区制度のお陰で勝たせて貰っただけで、とても圧勝などとは言えないことが分かる。(投票率が低かったせいもあるが)小選挙区、比例区とも惨敗した2009年に比べて得票数をさらに減らしているし、比例区の得票率(27.6%)も殆ど増えていない。
 それが小選挙区では43%の得票率で79%に当たる273議席(2009年の4倍近く)を獲得している。自民党の勝利は、選挙制度と民主党の自滅や第三極の乱立に助けられた結果であり、支持を増やした結果ではない。今回の選挙が、(自民党が相対的に浮上しただけの)「勝者なき選挙」といわれる所以である。

 しかも、原発政策について言えば、自民党の原発推進政策が国民から支持されたなどとは、とても言える状況ではない。今回の選挙で自民党がとった戦術は、原発政策を争点から外すことだった。「原発再稼働については、向こう3年以内に結論を出す」などと曖昧にしながら、争点を「デフレ脱却による景気回復」一本に絞り、結果、福島県民も含めて国民の関心を原発政策から経済政策にそらす形で勝利した。
 一方、今回の選挙で「卒原発」や「脱原発」を政策として掲げた、未来の党、民主、公明、みんな、共産、社民の6党の比例票は合計で約3000万票になる(毎日10日)。これは自民の1600万票を優に超えており、この実態を見れば、選挙で勝ったからといって自民党の原発政策が国民に支持されたとは、とても言い難い。まして、安倍が上から目線で「ことばの遊びに近い脱原発や卒原発が国民から信用されなかった」などと馬鹿にするのは勘違いも甚だしい。

◆脱原発政党の怠慢
 ただし、私は「脱原発」を掲げた政党に対しても不満を感じている。彼らは何故、揃いも揃って自民党の術中にはまってしまったのか。どうして、脱原発こそが日本の未来にとって取るべき道だと、もっと説得力ある形で主張できなかったのか。そこにこそ「脱原発政党の怠慢」とも言うべき問題があったと思っている。
 私はかねてから、一口に脱原発と言っても、実現するためには検討すべき課題が山積しているので、それらを研究して出来るだけ早く「脱原発への行程表(シナリオ)」を作るべきだと言って来た。そして、幾ら待ってもそれが出て来ないのに業を煮やして、去年の9月には私なりの「原発ゼロへのシナリオ」を書いたりして来た(*1)。

 しかし、選挙まで1年以上の時間的余裕があったのに、結局のところ各政党とも本気で取り組まなかった。単に国民の間に広がった脱原発の声に乗って脱原発を掲げれば支持されると安易に考えたのか。官僚たちの協力が得られない中での行程表作りが手に余ったのか。
 民主党などは(今になっても仙石などは脱原発に動いた鳩山や菅を非難していると言うが)最後まで腰が定まらずに、選挙間際になってようやく原発ゼロを打ち出すというお粗末さ(*2)だったし、未来の党も、「10年で充分」という小沢の一声で「卒原発」の期限が決まるなど、大雑把なシナリオしか示せなかった。そのために、メディアには十把一絡げで「手法、行程あいまい」と書かれ、自民党にも「今の段階で原発ゼロは無責任だ」などと附け込まれたわけである。これでは脱原発を掲げた政党として怠慢と言われても仕方がない。

◆「原発のない社会」の姿を提示できるか
 冒頭に書いたように、選挙で大勝した安倍政権はこれからしゃにむに「原発再稼働と新増設」を迫って行く。差し当たっては、7月に新たな安全基準を作って時間をかけて全国の原発の安全審査を行いたいという原子力規制委員会と、審査を急がせて3年以内に終えさせようとする政府の綱引きが焦点になって来るだろう。
 しかし、いくら安倍政権が焦っても、「新たな安全基準」と「使用済み燃料の処分問題」が原発推進にとって、「前門の虎と後門の狼」である現実は何ら変わらない(*3)。新たな安全基準が出来るのはちょうど参院選挙の頃になるが、脱原発政党はその時までに体勢を立て直し、説得力のある行程表を用意することができるだろうか。

 しかも、(アベノミクスが国民の主要な関心となっている現状を考えると)脱原発を重要争点として再浮上させるためには、野党はより高級な戦略を考え出す必要があるように思う。単に脱原発に向けての行程表を示すだけでは不十分で、それによって実現する「原発のない社会」の姿を経済政策とも絡めて明快に描くことが必要になる。
 「原発のない社会」が世界をリードするカギになり、新たな経済成長のカギにもなることを示して、返す刀でアベノミクスの反時代性(*4)を突いていかなければならない。それを説得力のあるイメージとして伝えることが出来るかどうか、が問われてくるだろう。

◆国民自身の選択としての脱原発
 いずれにせよ、私たち国民の立場で考えれば、安倍政権の原発政策がどのような展開を見せようと、また野党の脱原発政策がどうなろうと、国民の中に定着してきた脱原発の流れが消えるわけではないこともまた明白である。国会を取り巻く脱原発の動きは、自民党の原発推進の内実が明確になるにつれて一層高まって行くだろう。
 日本が地震大国であること。原子力エネルギーが未完の技術であり、私たち民族と大切な自然や文化に甚大な被害を与えるリスクがあること。また、未来世代にまで負の遺産を負わせる一時しのぎのエネルギーであること。これらは政権の如何によって変わるものではなく、原発問題は政治家たちがどう言おうと、自分たち自身に降りかかる問題として、私たち自身が決めて行かなければならない問題だからである。

*1)「原発を看取るということ」、「巨大地震と脱原発のシナリオ」、「原発ゼロへのシナリオ(2)
*2)民主党は、@原発の新増設は行わない、A40年運転制限を厳格に適用、B再稼働は原子力規制委員会の安全確認を得たもののみ、という三原則で「2030年代の原発ゼロ」を打ち出したが、これも行程表からは程遠い。
*3)「拡大する原発問題をどう捉えるか
*4)今、国家の債務に悩む地中海国家では、「無限の経済成長」を追い続けることが国民にとって真の幸せにつながるのか、アベノミクスのような見せかけの経済成長策への疑問が起きているらしい。そうしたことについても、脱原発と関係するテーマとして考えて行かなければならないだろう。「資本主義の“終わりの始まり”」(新潮選書)

安倍政権の予期せぬ?リスク 12.12.27

 「不確実性とリスクの本質」について書かれた本「ブラック・スワン」に、感謝祭に食べられてしまう七面鳥の話が出て来る。その七面鳥の身になって考えてみると、生まれてからの1000日間は毎日たっぷり餌をもらって来て、この平穏な暮らしが、これから先もずっと続くと思い込んでいる。しかし、1000日と1日目。七面鳥には、それまで思ってもみなかったような厄災が降りかかる。つまり、昨日までの1000日の状態からは、明日起こる災難(黒い白鳥=ブラック・スワン)を予測することが出来ないということである。

◆ブラック・スワン(黒い白鳥)は素早くやって来る
 予測できない大衝撃は、それがいい方の黒い白鳥(たとえばコンピュータ社会の到来など)の場合はゆっくりくるけれど、悪い時にはとても素早くやって来る。起こる前も直後も、それがどのような衝撃に発展するのか誰も予測できない、というのだ。

 黒い白鳥の例は歴史上様々なところで起きている。例えば、1934年にヒトラーが国家元首になった時、ヨーロッパ、特に(ヒトラーは一過性の現象だと思っていた)フランスなどはそれが5年もしないうちに全ヨーロッパを巻き込む戦争に発展するとは思っていなかった。同時に、それ以前にドイツ社会に溶け込んで暮らしていたユダヤ人も、自分たちの身に降りかかる黒い白鳥について予測できなかった。
 著者のナシーム・ニコラス・タレブの故郷であるレバノンでも同じようなことが起きている。3000年間、様々な宗教が共存して平和に暮らしていたのに、1970年代、宗教的対立から内戦が勃発。平和は煙のように消えてしまった。しかも、その時は誰もその内戦が17年も続くとは思ってなかったという。これはアメリカの9.11も、日本の3.11も同じ。想定外の衝撃は後からいろいろ意味づけは出来るが、事前にどこで何が起こるかは予測不可能なのである。

◆安倍政権後の日本を取り巻く3つのリスク
 黒い白鳥は予測不可能なだけに“付き合い方”が難しいというが、こうした想定外の衝撃は、これからの日本でも起こり得る。それに、(これは個人的な感想に過ぎないけれど)黒い白鳥はどうも閉塞した社会が煮詰まって、国民の間にもやもやした気分が高まっているような時にやって来そうな気がする。そういう時には、何かが引き金になって、まるで豆腐のにがりのように、一瞬にして社会をそれまでとは全く違う様相に変えてしまうこともある。
 日本にとっての黒い白鳥がどういうものかは、まさに予測不可能なだけに明確に指摘することは出来ない。しかし、そうは言っても、もし起これば今の日本に最大級の衝撃を与えるような(そういう意味では絶対起きて欲しくない)リスクをリストアップすることは出来そうだ。例えば、そのうちの3つを以下にあげてみる。

@ 日本国債の暴落と金利上昇から来る国家財政の破綻
A 尖閣諸島を巡ってのアメリカを巻き込んだ日中の武力衝突
B 再稼働した原発を見舞う巨大地震

 これらは、これまでも取り沙汰され、心配されて来たものだが、このの3点は特に安倍新政権がやろうとしている経済、防衛、エネルギー政策と深く関っており、安倍の登場がその引き金になりはしないかと心配されているリスクでもある。しかし、国民の多くはそうした心配を気にしつつも自民党圧勝の前に声高に声を発することもなく、日本の社会には今、気の抜けたビールのような行き場のない空気が漂っている。

 高揚する安倍内閣はそうした一部の心配をよそに、(特に経済政策では)敢えてリスクを無視した大胆な政策に打って出ようとしているが、本当にそれで大丈夫なのか。私たちは選挙前に安倍が言っていたような都合のいいシナリオを素直に信じていていいのだろうか。「安倍政権の原発政策」については次回に点検するとして、今回は@に関る、いわゆる「アベノミクス(経済政策)」について情報を整理しておきたい。

◆「アベノミクス」とは何か
 ご存知のように、今の日本は、GDPの2倍、1000兆円の借金と、700兆円に上る国債残高を抱えている。景気の低迷によって税収が落ち込む一方で、高齢化による社会保障費が増大し続け、年々赤字幅は「ワニが口をあけたように」大きくなっており、その赤字分を国債の発行で穴埋めして来たからだ(Nスペ「日本国債」12月23日)。現在は、国債の9割を国内の金融機関と日銀が買い支えているが、金融機関のお金は国民の貯金と企業の金なので限りがあり、国内資金でいつまで買い支えて行けるかは分からない。

 この現状の中で、安倍が公約として掲げているのが、名目3%の経済成長と、2%のインフレ目標による「デフレ脱却」であり、その手段が金融緩和と公共事業の2本柱である。金融緩和と言っても色々あるらしいが、この場合は日銀に「ぐるぐる輪転機を回してもらって、どんどんお金を刷り(安倍)」、その金で銀行が抱えている国債などを日銀が買い上げてやる。そうすると、銀行には資金の余裕が出来て、市中におカネが回って来る(量的緩和)。
 さらに、10年間で200兆円と言う大規模な公共事業を行う。その資金調達のために国は建設国債を発行して日銀に買わせると同時に、建設事業者を中心に雇用確保と景気回復を図る。安倍によれば、量的金融緩和と公共事業で景気を刺激し、企業の業績を良くして税収の増加を期待する。同時に、市中に大量の資金が出回ることによって2%を目標としたインフレも促す。国内で円が潤沢になり、インフレで円の価値も下がるわけだから、円高も是正されるという目論みである。

◆賭けが裏目に出る時、アベノミクスへの懸念
 もちろん、安倍内閣の内閣官房参与に就任したイェール大学の浜田宏一氏のように、積極的にアベノミクスを応援する経済学者もいる。彼ら「リフレ派」(*)がアベノミクスの黒幕と言っていい。一方で、こうした刺激策は一時的なカンフル剤のようなもので、長期的な経済再生にはつながらず、却って副作用の方が心配だという専門家も多い。

 例えば、先に書いた国の借金財政の問題である。公共事業のために建設国債を大量に発行すれば、国の赤字はこれまで以上のスピードで膨らんで行く。国は、日銀に輪転機を回させてその金で国債を買わせるわけだが、全部を日銀が買うわけではない。国内銀行も海外のファンドも買うわけだが、赤字をどんどん増やす日本の財政運営に対して不安が高まると、その国が発行する国債の信頼が低下する。そうすると、国債の買い手が思うように集まらず、国債の金利が高騰する
 むしろ海外のヘッジファンドは日本国債の金利上昇を虎視眈々と狙っていて、ある時期が来たら国債を売り浴びせる。そうすると、国債の金利はますます上がって、日本は金利を払うことが出来ずに財政破綻を来す。問題は、アベノミクスによる景気回復が先か、副作用による財政破綻が先か、という時間との競争になってくる。

 これは一種の賭けのようなものだが、それが裏目に出た時の状況は恐ろしい。ハイパーインフレや財政破綻による大恐慌が到来して、大戦前のドイツや日本のようにその混乱の中で国粋主義者(ヒトラー、極右)が台頭し戦争になったりする(藤井裕久元財務相)。一般的に言って戦争は財政赤字解消の手段の一つに上げられるが、これは、まさに国民にとっての大衝撃、黒い白鳥そのものになる。
 アベノミクスは早くも年明けから始動する
安倍政権は少なくともそれが黒い白鳥を招かないのか、インフレで暮らしはどうなるのか、国民に丁寧に説明していくべきだと思う。メディアも浮ついたムードに便乗するのではなく、腰を据え、徹底的に噛み砕いて分かりやすく伝えて行って貰いたい(*)。

 *これまでの日銀政策を批判し、デフレ脱却のためには緩やかなインフレを促すマクロ経済政策(主として金融緩和、時に財政出動)が必要だとする(ウィキペディア)
 アベノミクスを批判する経済専門家による日本経済再生の考え方(けっこう地道な取り組みになる)には見るべきものも多いと思うので、別の機会にそれをまとめてみたい。

総選挙Bリベラル消滅後の日本 12.12.13

 前回に引き続き、(「戦争と原発事故の回避」を基準にする分け方で)「Bグループ」に入る政党(民主党、公明党、みんなの党、社民党、共産党、日本未来の党、新党大地、新党日本)について書かなければならないのだが、これがさっぱり意気が上がらない。各種世論調査を見ると自民党の圧勝で、公明党を入れても、あるいは維新と組んでも「絶対安定多数」の320を越える勢いだそうだ。
 共同通信の最新予想をみると、「Aグループ」の自民が300、維新が50。「Bグループ」では公明が微増の27、民主が1/3以下の激減で70、期待した未来も激減の15、みんなが倍増で15、共産8、社民2といったところだ。自民と連携の可能性がない民主、みんな、未来、社共は、あわせても衆院の1/4に満たない

◆安倍自民党の思いのままの政治が始まる
 これで年明けからの政治は一変し、これまで見たこともない様相を呈することになるだろう。仮に自公で320を越えると、参院で法案が否決されても衆院の2/3で可決出来るので、安倍自民党の思いのままの政治が展開されることになる。自民党は権力の使い方に慣れているし、使うのにも遠慮がない。日本は一気にかつてのような権力構造と利権構造に塗り替えられていくだろう。これまで、安倍自民党に批判的な姿勢を見せていたメディアや関係機関も、(安倍はこれまでも平気で露骨な介入をして来たので)戦々恐々としているに違いない
 安倍の軍備増強や改憲、原発推進の動きに対しては、公明党が「Bグループ」に入るので一定の歯止めがかかることを期待したいが、それもどうなるかは分からない。「Aグループ」には同
急進保守派の維新がいて、いざとなったらこちらと手を組めば良く、それをちらつかせれば公明党も(これまでもそうだったように)ついて行かざるを得ない。その意味で安倍はフリーハンドで好みの政策を進めることが出来るようになる。

 ということで、前回に続いてその他大勢の「Bグループ」について、選挙後の連携はあるのか、また、政党としての「政権担当能力」はどうか、について書こうと思ったが、選挙の予測を見ると惨憺たる有様で書きようがない。それもこれも「現実的で穏健な保守主義、しなやかな保守」(文春1月号)などと言いながら、自民との連携を目指して第二自民党になってしまった野田の責任は重い。
 
自民党との立ち位置で言えば、「改革的リベラル」こそ民主党の生き残る道だったのに、敢えてTPPまで持ち出して党内からそういう人たちを追いだし、松下政経塾的な国家経営を目指す純化路線に走った。これでは、自民党の保守派と変わらず、民意の受け皿にはなれない。どこで間違えたのだろうか。

◆「課題解決型の政治」はどこへ行った?
 もう2年近く前(2011年の正月)になるが、新聞社説が政治の混迷を反映して社会の閉塞感や停滞を嘆くものばかりだったので、日本に元気を出してもらうつもりで、2回にわたってコラム(「政治につける薬」)を書いたことがある。民主党が政権について1年4カ月、菅が首相になって7カ月ほどしたころのことである。その中で私は、自民党が時代遅れの「利益分配型政治」から変われなかったために、国民の信頼を失って政権交代が起きたこと。従って、今の民主党に求められるのは、新しい「課題解決型の政治」だと書いた。

 日本が抱える少子高齢化、膨大な財政赤字、地方の疲弊、硬直化した官僚制度などの様々な課題をどう解決して行くのか。それには、シンクタンク機能が充実しているアメリカ並みのしっかりした政策立案能力と実行力が問われて来ると書いた。同時に、自民党も野党の間に、こうした課題解決型の政党に生まれ変わることが出来るかとも。
 それから2年たった今、日本が抱える課題は殆ど改善されず、加えてエネルギー政策(原発)や外交(国防)、それに経済政策(デフレ脱却)までが重要課題として登場している。民主党は当初、国の重要課題を解決して行くために、政策を立案する「国家戦略局」を鳴り物入りで作ろうとしたが、官僚の抵抗で尻つぼみになってしまった。

 3年前に民主党が掲げたマニフェストの成績表(毎日、11月24日)を見ると、55項目にわたって政策が網羅されており、中には予算の検証、子育て、地球温暖化対策、雇用政策(派遣労働の改善)などで一定の成果は見られるものの、成績は5点満点中2.2。
 財源が捻出できずに思うような成果を上げられなかったこともあるが、何より不思議なのは、マニフェストの中になかった消費税増税(菅、野田)やTPP(野田)が唐突に持ち出されて党内が抗争と混乱に陥ったことである。そして、国民の間に「もう政治のごたごたはうんざり。次は自民党に多数を得させてとにかく政治を安定させたい」という気分を作ってしまった。今から思えば、官僚たちがしかけた(民主党崩壊の)罠に、まんまとはまってしまったのだろう。

◆石原の仕掛け、野田の勘違い
 しかし、仕掛けた官僚の方も、仕掛けに乗った野田も安倍の登場まで想定していたかどうか。今回の選挙はまだ結果は出ていないが、つらつら思うに、日本の右傾化は今年の5月に石原がアメリカで仕掛けた「尖閣諸島を都が買い上げる」が始まりだった。それを受けて野田が尖閣を国有化し、日中がにわかに緊迫。その中で自民党穏健派の谷垣が引きずりおろされ、急進保守の安倍が総裁に躍り出た。それを見て、石原が維新の橋下を抱き込んで安倍を側面援助する。この状況をせっせと作りだした石原はほくそ笑んでいるのではないか。
 石原は、口では「官僚制度をぶち壊す」などと言っているが、
本心は憲法改正と軍拡、核保有であることがミエミエだ。それを最後の自己完結と思い込んでいるように見える。野田は政権の座にありながら、この危険な兆候を見抜けずに解散の駆け引きに時間を費やしながら谷垣を見殺しにし、憎き小沢の準備不足を突く形でこの時期の解散に打って出た。安倍の登場を招いた野田の責任もまた重いと言わざるを得ない。

◆「改革的リベラル」の復活はあるのか
 前回、お手並み拝見と書いた安倍の経済政策は、文春1月号では
市場原理主義を一応否定した「瑞穂の国の資本主義」などと言っているが、抽象的で良く分からない。取りあえず公共事業への大型出動で名目GDPを大きくし、デフレを脱却しながら税収も大きくすると言っているが、それで日本の財政危機は改善するのか。ますます国の借金が膨らむことにならないか。その時、国民の暮らしはどうなるのか。
 野党時代の3年間に自民党は
「課題解決型の政治」に脱皮出来たのか、それとも再び様々な利権団体を対象とした、時代遅れの「利益分配型の政治」に戻ってしまうのか。(怖いもの見たさもあるが)安倍の大胆な経済政策の性格と、その行方を注意して見て行かなければならない。

 私の方は基本的に、今の日本に必要なのは、様々な分野で制度疲労を起こしている日本を、国民の立場に立ちながら、より国民のために動くように変えて行く「改革的リベラル」だと思っている。いたずらに武力による発言力や経済的繁栄を追求して(戦争や原発事故で)国家を危険にさらす政治ではなく、先人の努力で築いてきた、世界に誇る「日本の社会的共通資本(自然環境、農業、教育、医療制度、社会的インフラなど)」をより豊かにして、次の世代に継承して行く政治。それこそが求められていると思っている。

 混迷を深める「Bグループ」だが、(小沢の影は別として)女性政治家の可能性を感じさせる嘉田知事の「日本未来の党」は消えずに踏みとどまることが出来るのだろうか。「みんなの党」はどう動くのか。あるいは、公明党はいつ自分たちの寄って立つ基盤に気がつくのだろうか。場合によっては、自民党内の良識派が声を上げることがあるのだろうか。いつの日か、再び日本のリベラルがまとまって、政策立案能力も備えた「課題解決型の政治集団」が生まれることが期待できるだろうか。日本からリベラルと名のつく政治集団が消えようとしている今、私たちは先祖から受け継いだ日本の良さ、素晴らしさをもう一度認識し、記憶にとどめておく必要があるかもしれない。
 

総選挙A乱立する政党と政策を仕分ける 12.12.9

 ここ4、5年、選挙のたびにマニフェスト、マニフェストと言われて来たせいで、各党とも(数字を示さないものや、アジェンダと言い換えたものまで様々だが)曲がりなりにもマニフェストを掲げて選挙戦に入っている。メディアの方も12もある政党の政策を並べて比較し、有権者の選択に役立てようと特集記事に力を入れているが、ここへ来てマニフェスト選挙も一つの壁にぶつかっているような気がする。

◆マニフェスト選挙というけれど
 というのも現在、各党が掲げる政策項目は、主な争点であるエネルギー(原発)、消費税増税、TPPのほかにも、経済政策(金融緩和、デフレ脱却)、官僚制度改革(地域主権、道州制)、外交(対中国、韓国、アメリカ)、安全保障(集団自衛権、国防軍の創設)、憲法改正から社会保障、教育、子育て支援などまで、実に多岐にわたっているからだ。
 それだけ、今の日本が抱えている課題が山積しているとも言えるが、その一つ一つの妥当性を吟味して優先順位をつけ、さらに総合的に評価して政党選びに結びつけるようなことが果たして一般市民に可能なのだろうか。(7年前のコラムに書いた「政権選択は政策の総合評価で」と矛盾するようだが)これだけテーマが多くなると、専門家でも難しいのではないか。

 しかも、それらの政策は、例えば脱原発、消費税増税、TPPだけをとっても、各党の間で賛否が「ねじれ現象」を起こしていて単純には仕分けられない。これに官僚制度改革、集団自衛権や憲法改正まで加わると、まさに複雑怪奇。こうなると、マニフェスト選挙も手放しでいいとも言えず、マニフェストを評価する新たな方法論を見つけないと壁にぶつかってしまう。
 また私たちは、この数年で政党選びの要素はマニフェストだけではないということも学んできた。前回も書いたが党首の人物評価(指導力、性格、思想)や、党としてのまとまりや実行力の評価も重要になってくる。こうした点まで加えると、ますます判定要素が多くなる。この複雑さを乗り越える、何かもっとシンプルな考え方はないだろうか。

 ということで、あれこれと自問自答した結果、取りあえず今の私に一番ピンとくる、ごくシンプルな判断基準(仕分け方)にたどり着いた。もちろん、これですべてが割り切れるものではないし、これによる選択が正しいかどうかも定かでない。しかし、自分なりの判断基準を持っていれば、選挙後の政治を占う意味でも役に立つ。以下は、その考え方である。

◆まず、「戦争と原発事故」に対する姿勢で2つに分ける
 今の日本に生きている人々の中に、まだ現実感覚として残っている民族の苦い記憶とも言うべきものがある。それが日本を破滅の瀬戸際まで追いやった「戦争の悲惨さと原発事故の恐怖」の記憶だと思う。アジアに2千万人の犠牲を強いた上に、300万人の同胞の死を招き、さらには人類史上初の核爆弾による悲惨を経験した太平洋戦争。
 そして、奇蹟的に東日本全体の居住不能(すなわち国家の破滅)を免れた人類史上最悪レベルの福島第一原発事故。この2つの不幸をまとめて経験した日本にとって、戦争と原発事故は何があっても二度と起こしてはならないという、民族共通の教訓になっているはずである。

 しかし、いずれも「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、放っておけば記憶は時間とともに風化する。民族の教訓と考える人がいる一方で、ある人々にとっては、むしろ消し去りたい記憶になる。戦争も原発事故もやり方が下手なだけで、上手くやればあんな結果にはならなかった。だから、この2つのトラウマをいつまでも引きずって、必要以上に手足を縛られていたら、日本の繁栄は築けないと考える政治家も出て来る。そこで今、政党や政治家の立場としては次の二つに分かれてくる。

A)「戦争と原発事故のトラウマ」に捉われない政治
 自主憲法制定、集団的自衛権の容認、国防軍の創設と、原発再稼働容認、原発維持。戦争や原発事故のトラウマから自由になって国家の繁栄を目指し、経済的にも軍事的にも世界の一流国家としての存在感、発言力を高める。

B)「戦争と原発事故の回避」を原点に据える政治
 国家・民族の破滅につながる戦争と原発事故のリスクを最小にする政策を政治の原点に据える。端的に言えば、平和憲法と脱原発。その前提の上に、エネルギー政策、経済政策、外交、安全保障の考え方を構築しながら、国民・国家の真の豊かさを追求して行く。

 各党政策を見ると、「Aグループ」には自民党、日本維新の会、国民新党などが入る。中でも次期首相の可能性が高い安倍や、維新の石原はバリバリの「Aグループ」に入るだろう。その安倍が経済政策に掲げる金融緩和によるデフレ脱却、公共事業復活などについては、バブルの再発や財政破綻、或いは彼らの弱者に厳しい政策(社会保障や生活保護費の見直し)によって格差が拡大するといった懸念がある。しかし、これらについては専門家の間でも意見が分かれているし、民主党の経済政策だってあってないようなものだから、私はどこかで、お手並み拝見という気持ちもある。その一方で、安倍の「戦争や原発事故を招きかねない姿勢」には重大な懸念を持たざるを得ない。

◆安倍と石原、その国家主義的志向の危うさ
 例えば原子力政策。原発を存続させ、核燃料サイクルも続けると言う安倍や石原の姿勢は、息をひそめていた原子力ムラを一気に勢いづけることになるだろう。原子力関連の予算が復活し、自然エネルギーの開発は遅れて、原子力に頼らざるを得ない状況に戻る。それは、福島原発事故の以前の危険な「なれあい構造」を再び作ることになる。
 彼らの本音は、エネルギー自立もさることながら、原子力を維持することでいつでも核の保有国になれると言う国際的な発言力を維持したい点にあるらしい。もっともらしく聞こえるが、そこにこそ彼らが捉われている武力を背景にした大国志向が影を落としている。

 そうした安倍の強硬姿勢(*)によって、(海外メディアも心配しているというが)尖閣を巡って中国との際限ない意地の張り合い(チキンレース)になれば、日本も世界も様々なレベルでのチャイナリスクの損害を覚悟しなければならない。その上、こうした日中間の緊張を利用して、結託した右派勢力が日米軍事同盟の強化、集団自衛権、憲法改正、国防軍の増強を目論んでいく。やがて肥大化した軍産複合体は、(戦前の日本やブッシュ時代のアメリカのように)それ自身が戦争への意志を持つようになる。
 憲法の歯止めが取れて、一度その方向に流れが出来てしまえば、これをもとに戻すことは極めて困難。現在の安倍がどう考えようと、二度と繰り返してはならない民族の教訓がそれによって破られる可能性が生まれてしまう。これは歴史の反省でもあるが、メディアも問題意識を持って、次期首相と言われる安倍や自主憲法で自民党と連携する石原の政治がこの危険な方向に進まないように監視して行かなければならないと思う。

◆「Bグループ」の政党はどうか?
 一方の「Bグループ」。こちらには例えば、民主党、みんなの党、社民党、共産党。そして、脱原発を掲げてはいるが、憲法改正については記載のない日本未来の党、公明党、新党大地、新党日本などもこちらに入るだろう。今の私は少なくとも、「戦争と原発事故」のリスクを小さくする政策を掲げる政党の中から選んでいきたいのだが、(本心では集団自衛権を容認する野田民主党も含めて)こちらはこちらで課題が多い。「Bグループ」の問題と各党連携の可能性については長くなったので次回にまわしたい。

*)「領土問題で話し合う余地はない。領土問題はないのだから、1ミリも譲る気はない」、 「憲法を改正して自衛隊を国防軍とする」、 「まずは物理力で(中国船による領海侵犯を)阻止しなければならない」、 「尖閣諸島に船だまりも含めて、公務員常駐を検討する」

総選挙@野田民主党と安倍 12.12.1

 投票日の12月16日まであと半月余り。ここへきて嘉田滋賀県知事が「卒原発」を掲げて「日本未来の党」を立ち上げ、小沢グループが合流。やっと「原発」が(各党とも逃げられない)重要争点の一つに浮上してきた。原発問題は日本の既成勢力(旧体制)とアメリカのくびきに抗して、日本が新たな「国のかたち」を描けるかどうかを占う、重要な座標軸の一つメディアも既成政党も何とかの一つ覚えのように「小沢の影」などと言ってないで、この際、原発問題を含めた日本の将来像を巡って大いに議論を盛り上げて欲しいと思う。

 そのメディアも、政党の離合集散が一段落したのを受けて、各党の政策の違いや評価に熱を入れ始めた。もちろん、こうした政策評価も大事だが、今回の選択のポイントはもう少し別なところにあるように思う。それは端的に言って党首の人物評価。というのも、つまるところ政治は人が行うものであり、(安倍、野田、石原・橋下、嘉田・小沢などの顔ぶれを見ても)今回の選挙ほど、選挙後の政治が党首の「性格と思想」に左右されることはないだろうからだ。
 メディアにも
党首の人物像を掘り下げる記事を期待したいのだが、週刊朝日の事件に懲りたのか、なかなかお目にかかれない。そこで、私の方は各党の政策評価はさておき、(ごく表面的な印象に過ぎないけれども)何回かに分けて主に「党首の人物」に焦点を当てて私見をまとめてみたい。

◆民主党の失敗
 まずは民主党。民主党は3年前の政権交代後あまりにだらしなくて、国民の期待にこたえることが出来なかった。妥協を忘れて内部抗争を繰り返し、政党として一枚岩になれず、折角の貴重なチャンスを生かすことが出来なかった。良く言われることだが、民主党は寄せ集めの党で何を目指すのかが、今一つ明確でなかった。非自民として自民党の欠陥をあげつらっている間は良かったが、いざ政権を獲得してみるとその弱点が露呈した。
 議員がそれぞれ勝手な考えと思惑で動いているうちに、党としてのアイデンティティを構築する間もなく崩壊してしまったのだと思う。小沢問題でも、マスメディアや(小沢を切れば連携するなどという)敵対政党の声に惑わされて処理を誤り、結局、党としての結束を作ることが出来なかった。

 中でも最大の原因は、皆が初めての経験で舞い上がってしまったことだと思う。小沢は小沢で「アメリカ軍は第七艦隊だけで十分」などと言わずもがなのことを言い、議員を大勢引き連れて中国詣でをしてアメリカの逆鱗に触れた。アメリカに潰された田中角栄を見て来たベテランの小沢なら、そんなことは百も承知のはずだが、どうしてそんなことをしたのか。明らかに舞い上がっていたのだとしか思えない。
 鳩山もそうだが、アメリカとの関係などはじっくり様子を見ながら慎重にやれば良かったものを、結局そのことが命取りになった。政権交代を果たしただけで有頂天になり、政権交代がいかに貴重で、かつ脆いものか、という現実を直視しなかった結果である。

 脱官僚と政治主導も同様。政権交代したのだから4年計画でじっくり戦術を練って進めれば良かったのに、拙速にやって失敗した。鳩山は首相就任時に「民主党は百年に一度の大改革をやる」と大見えを切ったが、当時は国民もメディアも過大な期待をして、すぐにでも答えが出るものと錯覚した。
 今から思えば、アメリカとの関係にしろ、官僚制度の改革にしろ、財政改革にしろ、国家の根幹に関るテーマを改革するのがいかに困難なことかという、その認識が足りなかった。幾ら野党時代が長かったとは言え、少しはその困難を乗り越える方法論について研究しておくべきだった。残念と言えば残念である。

◆野田民主党の立ち位置
 鳩山、菅の失脚の後を受けて登場した野田はある意味、喜劇的な存在である。「あつものに懲りてなますを吹く」ように、当初の民主党の政策とは全く反対の方に向かって走り出した。官僚主導の消費税増税、経済界が求める原発再稼働とTPP、アメリカの言うなりの基地とオスプレイ。
 今の野田は、11月25日の「サンデー・モーニング」で田中秀征がいみじくも言っていたように、「官僚と経済界とアメリカの言うことを聞いていれば怖いものがない、と考えている」。失敗の経験を生かしてやり方を変えるのではなく、失敗におびえて180度方向を変え、既成勢力が望む「古いシステムの再起動」路線に転換してしまった。

 何故そうなるのか。それは一つには、(前にも書いたように松下政経塾出身の野田が、企業経営者に似た発想で国家経営(国家の統治)を考える性向の持ち主だからかもしれない。あるいは、その性向を見抜いて近づいて来た経済界や官僚、親米勢力といった日本の既得権益集団(既成勢力)の甘い囁きに取り込まれたためかもしれない。あるいはまた、政権維持のためはこれしかないと単純に思いこんだ結果かもしれない。
 ただ、野田の本質は未だに漠然としていて、よく分からないところがある。個別のテーマについては耳触りのいい言葉で話すが、政治家としての野田がどういう「国のかたち」を目指すのか、聞いたことがないからだ。多分、彼には政治家に必要な歴史観や文明観、世界観が欠けているのではないだろうか。(野田が、側近の言う「中道」を否定して、「中庸」を選んだなどと伝えられたが、それで次の時代を切り開けるとは思えない)

 いずれにせよ、今の野田民主党は支持母体の連合も意識して政策の味付けをしているが、基本的には既成勢力に尾を振るポチになっている。本人はそんな自覚もなく、「(安倍を選んで)昔の古い自民党政治に戻っていいのか」などと言っているが、実態は既に日本の既成勢力の利益を代弁する「昔の自民党」と何ら変わらなくなっている

◆安倍の危うさ
 一方の安倍自民党。再登場した安倍は2007年に退任して以降の5年間に、何か変わったのだろうか。本人の記憶では、政権を投げ出したのは「病気のせい」になっているらしいが、その時の安倍政権は数々のスキャンダルと失策を重ねてすでに末期症状だった。退任に追い込まれた安倍の稚拙で危うい政治運営をドキュメントした「官邸崩壊」(上杉隆、2007年)を再読すると、やはり安倍の政治的未熟からくる危うさに改めて危惧の念を抱かざるをえない
 最大の危惧は、政治家としての「軟(やわ)さ」と「甘さ」である。周りをお友達で固めて友達感覚で側近政治をおこなう。政敵や気に入らないメディア(朝日やNHK)に対して恨みを忘れることが出来ない。一流の政治家が持つべき懐の深さや自制心がなく、極端な方向や手段に走ってしまう

 上杉の本には、「安倍には得体の知れないモノに対して、第三者に強い姿勢を見せることで、自らの恐れを隠すという習性があった」と書かれているが、小泉について訪朝する前には、「北朝鮮なんて、ぺんぺん草一本生えないようにしてやるぜえ」、「ふざけんじゃねえ」などと子どものように強がっていたという。
 選挙前の大方の予測によれば今回の選挙で政権は安倍自民党に戻ることになっているようだが、安倍のもつ政治家としての未熟で極端な性格が、選挙後にどのような形で現れるのか。日本にとっての悪夢にならないように望むが、それらのことと、石原、橋下たちにも共通する国家主義的(右翼的)性向については次回にまわしたい。

歴史を下敷きにして今を見る 12.10.16

 10月8日、あまりの天気の良さにどこかに出かけようということになって、電車で1時間ほどの渡良瀬遊水池に出かけた。以前にも2度ほど訪ねているが、今回は遊水池に最も近い東武日光線の柳生駅(埼玉県加須市)で降りて谷中湖畔まで歩いていき、出来れば谷中湖の反対側にある旧谷中村の跡地にも行ってみたいと思っていた。
 しかし、湖畔に着いて見るとその谷中湖(遊水池の一部)もあまりに広く、とても向こう側まで歩く気力が起きない。汗ばむくらいの暑さでもあり、早々に諦めて大きな木の影に座り込んで景色を楽しむことにした。広々とした湖面にはセーリングボートが軽やかに走り、上空には秋の雲がゆったりと流れている。その光景を眺めながら、今から100年以上も前の谷中村強制廃村の悲劇を考えるともなく考えていた。

◆田中正造と谷中村の人々
 ご存知のように、この渡良瀬遊水地は古川鉱業(現・古川機械金属)が経営していた足尾銅山からの鉱毒をせき止めるという名目で、旧谷中村の村民を強制的に追い出して造った人工の遊水池である。鉱毒反対運動が始まったのは、1890年(明治23年)頃からだが、政府が谷中村を廃村にして遊水池にすると決めたのは1902年(明治35年)。鉱毒反対運動の拠点だった谷中村をねらい打ちにし、20年近くをかけて国家と栃木県が執拗に村民を追い出した。

 衆議院議員だった田中正造(1841-1913)は国会で鉱毒反対の活動をしていたが議員を辞職し、1904年からは谷中村に移住して死ぬまで鉱毒反対運動と谷中村の復活に一身を捧げた。日本の反公害運動の草分け的存在の田中正造の生涯については、天皇直訴未遂事件とともに人々を惹きつけ、数多くの小説や記録が残っている。
 作家、城山三郎の小説「辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件」もその一つ。巻末の解説によれば、昭和36年に中央公論に初めて掲載されたこの小説は、その頃には殆ど忘れられていた田中正造の壮絶な反権力の生涯と、彼の遺志を引き継いだ谷中村民の悲劇的な抵抗を再び世に知らしめたものになったという。

◆小説「辛酸」に見る公権力の理不尽と庶民の不屈の抵抗
 鉱毒がない頃には豊かな農村地帯だった谷中村は、遊水池を作るために廃村が決まった時、戸数385戸、人口2500人だった。国の意向を受けた栃木県は故意に谷中村側の渡良瀬川の堤防を壊して何度も洪水を起こして村民を困窮させ、脅しと金をちらつかせた懐柔で次々と反対農民を切り崩していく。1906年には土地収用法による強制廃村、さらに抵抗して残った農家の強制破壊という強硬策に出る。
 しかし、16戸の農民たちは穴倉に近い仮小屋を作って田中正造とともに谷中村に踏みとどまり、国や県を相手取って裁判を続けて行く。満足な食べ物も栄養も取れない中で倒れる農民が相次ぎ、ついに1913年(大正2年)には正造までが病を得て死ぬ。しかし、彼の遺志は若い宗三郎らに引き継がれて行く。小説の後半はむしろ、正造亡き後の谷中村民の泥をはうような抵抗運動を描いたものになる。

 時代は、明治の日清、日露戦争をへて大正に移ろうという時。国は戦争遂行のために足尾銅山の操業を続け、二酸化硫黄の鉱毒ガスや銅イオンなどの鉱毒が渡良瀬川流域を広く汚染した。その鉱毒は100年以上経った現在も渡良瀬川流域を汚染している。
 まだ公害などという言葉がなかった頃に、田中正造や谷中村の農民を最後の最後まで抵抗に駆り立てたものは何だったのだろうか。公害の原因を作った古川鉱業が罰せられずに、企業側に立った国や県などの公権力によって、何の罪もない農民が追い立てられるという不条理。人権意識など不十分な明治憲法のもとで裁判を闘った彼らを突き動かしていたのは、多分、そうした不条理に対する「人間の尊厳をかけた抵抗」だったのだろうと思う。

◆企業と国と農民の三者関係。歴史は繰り返す?
 私は谷中湖の岸に座って上空に漂う秋の雲を眺めながら、こうした谷中村の悲劇を思うと同時に、もう一つ別なことも考えていた。それは田中正造や谷中村の農民がなめた「辛酸」の構造は、いま福島の人々が原発事故の放射能によって経験している(あるいはこれから経験するかもしれない)「辛酸」にも、どこかで通じているのではないかと言うことである。

 現在、福島第一原発事故によって故郷を追われた人々は15万人以上、避難途中や避難先で亡くなった人は600人以上になる。人災によって放射能を放出した大企業の東京電力や監督官庁の国が何らの責任も取らずに、全く罪のない飯館村や南相馬市の人々が仮設住宅や遠く離れた親せきの家などで不自由な生活を強いられている。
 その人々を故郷に帰すために国が始めた「放射能除染事業」については前回も触れたが、日本のような山がちで複雑な地形の国土での除染事業は、世界でも例のない事業だ。果たしてこうした除染によって、汚染が深刻な原発周辺の人々は本当に故郷に帰れるのだろうか。巨額の国家予算を使って仕事をした大手ゼネコンだけが潤うことになって、最終的には農家の人々は十分な補償もないまま見捨てられたりしないだろうか。

◆歴史を下敷きに今の事象を見る
 日本最初の公害問題と言われる足尾銅山鉱毒事件を始めとして、戦後の水俣病などの公害問題、それに今回の原発事故による放射能汚染。そこには共通して、汚染を発生させた企業があり、被害に苦しむ人々(大抵は農民や漁民)がいて、監督官庁の国や自治体がある。多くの場合、後手にまわった国がようやく救済に乗り出すが、それまで人々は長い間放置される、あるいは最終的に見捨てられるという歴史がある。しかも、公害の原因を作った企業や国が自ら責任を認めることは殆どない。
 「歴史は繰り返す」という言葉があるが、全く同じではないにしろ、人間が織り成す事象である限り、公害を起こす企業、政府や官僚、被害を受ける庶民の三者の間には似たような関係が繰り返えされる可能性がある。そういう過去の不幸な歴史を下敷きにしながら今の放射能汚染問題をみると、除染作業のもどかしさも、農家の人々の悲しみもまた見え方が変わって来ると思う。少なくとも一市民としての私は、三者の中では、罪のない市民(福島の人々)の側に立って見て行きたいと思っているが、果たして今のメディアはどこに立とうとしているのだろうか。

 今の渡良瀬遊水地は人々が暮らしていた痕跡も消え果て、今年7月には水鳥が飛来する有数の湿地として「ラムサール条約」にも登録され、熱気球やスカイダイビング、トライアスロン大会なども催されている。周辺の平和な風景を見ていると、100年前の悲劇など忘れがちになるが、谷中村の歴史は「歴史を下敷きにして今を見る」時の貴重な事例として現代にも生き続けて行くべきだと思う。
 今は情報が日々消費されて過去の出来事などあっという間に忘れられてしまうが、公害でも放射能汚染でも戦争(*)でも、悲惨な目に会うのはいつの世も庶民である。過去の悲劇を繰り返さないためにも、歴史の教訓を忘れずに今に生かす知恵が今ほど必要な時はないのではないか。さすがに高くなった秋の空を眺めながら、そんなことを考えた散策だった。

* 「歴史を下敷きに今を見る」という意味で言えば、それは現在の尖閣問題にも当てはまる。こういう時には「国家の威信をかけて」とか、「戦争も辞せず」などという勇ましい言葉を使いながら、自分たちに都合のいい「状況」を作ろうと血気にはやる人間が必ず現れる。しかし、これも歴史を振り返ってみれば、戦前にも同じようなことを言いながら、様々な謀略を仕掛けて日本を無謀な戦争に駆り立てた人間が幾らでもいた。彼らの本質については、また回を改めて書きたい。

拡大する原発問題をどう捉えるか 12.10.11

 毎週日曜日になると、溜まった新聞2紙から関心のあるテーマの記事を切り抜く。その一週間分の記事を、電車の中や行きつけの喫茶店(サイゼリヤ)でマーカーで線を引きながら読んだ後、テーマ毎に分類してクリアファイルに保存する。テーマは色々だが、何と言っても去年の3.11以降は圧倒的に原発問題が多い。
 (新人時代の一時期を除いて)現役時代にもやっていなかったのにと、我ながらおかしくなるが、ファイルを眺めていると原発問題のテーマがここへ来てどんどん拡大・拡散していることが分かる。それだけ、あの事故が引き起こした波紋は巨大で深刻だということだろう。未曽有の原発災害から1年半。原発問題の様々な側面について大量の記事が報道されて来たが、今回はその新聞の切り抜き記事から見えて来る「日本の原発問題の全体像」を整理し、現時点での原発ゼロへの闘いの土俵を探ってみたい。

◆拡大し、拡散する原発問題
 私が今現在テーマ分けしている原発関連記事は以下の12程にもなる。それぞれ結構な量になっているが、どれ一つ取っても原発政策の根幹に関る大問題、下手をすれば私たちの生活にも重大な影響を与える大問題だということが分かる。
@ 福島第一原発事故の実態
A 事故調査の内容(民間、政府、国会)
B 東電の情報公開と責任問題
C 放射能汚染の実態と除染事業
D 低線量放射線被曝と健康問題
E 政府の「原発ゼロ」政策、脱原発への動き
F 原子力規制委員会
G 原発の新規建設、再稼働問題
H 使用済み燃料問題と核燃料サイクル
I 電力需給と電力行政
J 再生可能エネルギー
K その他(日米原子力同盟、ドイツの脱原発、原発輸出、文明論など)

 これらは大きく、A)福島事故の後処理、B)放射能汚染問題、C)原子力行政、D)その他、の4つに分類することもできるが、解決に向けて少しずつ進んでいる項目もあれば、逆に後退しているものもある。全体としては、日本の原発問題はやることがどんどん拡大する中で焦点がぼやけて来ており、今の政治と同じように迷走と漂流を始めているように見える。

◆国は除染作業の現実を直視しているか
 先が見えないという点で言えば、例えばCの放射能の除染問題。国の本格的な除染作業がようやく始まったが、その実態が見えて来るにつれ、その計画が持つ途方もない現実に暗澹としてくる。10月7日に放送されたNHKスペシャル「除染 そして、イグネは切り倒された」は福島県南相馬市の除染作業を一年にわたって追った番組だったが、福島第一原発から放出された放射能は、家の屋根はもちろん庭土や庭木、そしてイグネと呼ばれる東北独特の屋敷森(防風林)の木々まで汚染している。
 屋根を洗浄し、その汚染水を回収し、土壌をはがし、庭木を刈り取り、代々大切に守って来たイグネまで切り倒す。そうまでして人が住める毎時0.2μシーベルト まで近づけようとするが、思うように減らない。しかも汚染は杉木立に覆われた見渡す限りの阿武隈山系にまで広がっている

 国の放射能除染計画は12年度、13年度の1.6兆円規模で始まったが、対象地域は国が直轄で行う福島の「汚染特別地域」(11市町村)だけでなく、自治体が国の支援を受けて行う8県(福島、茨城、千葉、栃木、群馬など)にも広がっている。はぎ取った土壌や草木など、高い放射能で汚染されている廃棄物の量たるや最終的にどのくらいの量になるか想像もつかない。
 しかも、それを平積みにして貯蔵する広大な土地が見つからない。その仮置き場も最終的な処分場も見つからず、除染に要する最終的な費用(ゼネコン筋の見込みでは40兆円ともいう)も見通しがつかない。巨額の事業予算を当てこんで大手ゼネコン3社(鹿島、大成、大林)が多くの下請け事業者を抱き込んで参加しているが、早くも予算のバラマキや無駄を批判されている。この除染事業は本当に効果があるのか、誰が責任を持ってチェックして行くのか。国(環境省)はどこまでその困難な現実を直視しているのだろうか。

◆それぞれのテーマが互いに足を引っ張り合う状態
 原発問題の難しさは、一つ一つ困難な12のテーマがそれぞれ独立したものではなく、互いに関連しているところにもある。例えば、福島原発事故の解明は、3つの事故調査が引き続き調査の必要性を訴えたにもかかわらず、政府、国会ともにやる気がないために全く進んでいない。事故の詳細な解明が進まなければ、廃炉に向けた的確な処理も進まず、国や東電への責任追及もできない。事故の解明が不十分であれば、原子力規制委員会がいくら安全基準を厳しくすると言っても十分なものになるわけがない。

 また、2030年代に原発ゼロを目指すとした、政府の「革新的エネルギー・環境戦略」(9月14日)も、内外の圧力を受けて「原発ゼロ」を閣議決定できなかった。「原発ゼロ」が宙に浮いた格好となって確信を持てなくなり、必要のない核燃料サイクル(使用済み燃料の再処理、もんじゅの建設)を続けるとしたり、建設中の原発については建設再開を認めたりするなど、恥ずかしげもなく矛盾する政策が進行している。停止中の原発の再稼働についても原子力規制委員会と政府で判断の責任を押し付け合っている。
 「原発ゼロ」の大方針がふらつく中、関連する個々のテーマ同士が互いに足を引っ張り合って、国の原発政策が漂流し始めている。しかも、肝心の野田政権がこのところヨレヨレ状態。既成勢力の「原発ゼロ」への批判、巻き返しが激しさを増す中、政権の行方も原発政策の行方もどうなるか分からなくなったというので、電力会社や官僚機構も一斉に様子見に入っているという。

◆原発ゼロへ、闘いの土俵の再構築
 こうした「賽ノ河原のような状況」にため息も出かかるが、やっと見えて来た「原発ゼロ」を前に進めるには、拡散するテーマの中から、重点項目をしっかりと見据えて、闘いの土俵を再構築する必要があるのではないか。

 そう考えると、これからの重要テーマは一つには、新しい「原子力規制委員会」が来年に向けてどう安全基準を作るかになる。そこで、現在停止中の原発の再稼働問題がどうなって行くのか。これが一つの重要な岐路になるだろう。
 もう一つは、安全問題と並んで「原発ゼロ」政策に直結する、
使用済み燃料問題をどうクローズアップして行くかだ。原発ゼロへの切り札としては、むしろこの先10万年も厳重に管理して行かなければならない使用済み燃料の問題の方が大きいと言える。すでに、行き場のない使用済み燃料は全国の原発敷地で溢れそうになっている。六ヶ所村のプールも殆ど満杯状態だ。アメリカNRC(規制委員会)でさえ、使用済み燃料の処分法が決まらないというので、原発建設を凍結している位なのだから、この問題の解決なしに原発再稼働など出来るわけがない。
 「新たな安全基準」と「使用済み燃料の処分問題
は原発を再稼働させたい原子力ムラにとっての前門の虎と後門の狼になるだろう。「原発ゼロ」への運動としても、そこに新たな闘いの土俵をしっかりと構築することだと思う。

◆文明論の座標軸としての原発問題
 さらに、もっと大きなテーマは、原発問題がこれからの日本のゆく道を決めて行く座標軸の一つになって行くということ。これからの日本がどのように生きて行くのか。民族の歴史も住む場所も失いかねない危険なものを抱えながら、砂上の楼閣のような経済成長を追い求めて行くのか。あるいは、原発を棄て、新たな国家の生き方を模索するのか。
 言い換えれば、すべてを金に置き変えて投機の対象とし、あくなき経済成長を追求するのか、あるいは、金に換えられない社会的共通資本(自然環境や教育・医療制度など)を守りながら次の世代に引き継いでいく持続的な社会を追求するのか、という2つの選択肢を巡る闘いでもある。それはある意味、世界を二分しながら議論されている資本主義を巡る文明論にも通じる。切り抜いた記事ではK「その他(文明論)」に入るが、原発が問いかける文明論的側面についても、引き続き市民の立場から考えて行きたい。