かれこれ5年前になるが、友人の小泉堯史監督に読めと言われて「石を積む人」という翻訳本を読んだ。リタイアした老夫婦の話である。若い頃のように体が自由にならず、何かといら立ちがちな夫を妻が優しくなだめるが、妻は重い心臓病を抱えていて、残る夫の将来を心配している。妻は夫が生きがいを見つけてくれるようにと、家の周囲に石を積み重ねて塀を作ることを提案する。夫が営々とした、その作業を続けているうちに妻は亡くなってしまうが、死後、夫は妻が書き残した手紙を家の中など、思いがけないところから何通も発見することになる。亡くなった妻と残された夫との手紙を通じた生活が続いて行く。。
これは、小泉監督がシナリオを書き、私も何度か読ませて貰って胸を打つ内容に仕上がって行った。彼は主役を高倉健さんにお願いしようと考えていて、健さんにも読んで貰ったのだが、権利を持っていたプロデューサーと予算規模などを巡って意見が一致せず、結局、映画は実現しなかった。その映画が別な監督とシナリオで6月に公開されるという。試写の案内が来たので近々観てこようと思うが、パンフレットを見ると、主役の夫婦は佐藤浩市と樋口可南子。タイトルは「愛を積むひと」になっていた。
原作の中で私がリアルに感じて惹かれたのは、老人の不器用ないら立ちがこちらの身に迫って来るところである。読んでいて「ああ、歳をとって来ると、こういうことが良くあるよなあ」と思う。身体的なことで何かと思うようにならないことが増えて来る。そこに一々自分や周りに腹を立てていると、とても頑なで不機嫌な老人になってしまう。そうした硬直した心が妻が遺した愛情溢れた手紙や若者との交流によって少しずつほぐされて行くのだが、それがこの本の隠れたテーマのように思えた。
◆老人特有の感情暴走、暴走シニアの多発
歳を取ると、ちょっとしたことが癇に障るようになって、自分でもびっくりすることがある。私などは気が小さいから、さすがにそれを周りにぶつけはしないが、元気で怒りっぽい老人は結構目にする。去年も、渋谷のある医療検査機関で順番を待っていたら、僅か30分くらいの間に私より少し上に見える老人が2人も大声を出して、受付嬢に食ってかかっているのを目撃した。一人は「私の方が先に来ていたのに、後から来た人が先に検査に入った。どうなっているのか」と大きな声で抗議している。スタッフが事情を説明しても納得せず、なおも怒りながら帰って行った。
もう一人は、「クリニックの地図が分かりにくくて、えらい目に会った。もっと分かりやすい地図にしろ」と文句をつけている。「駅を降りてから1時間も迷ってしまった。どうしてくれるんだ」と、怒っている。確かに、そのクリニックの地図は分かりにくい。というより、分かりにくい所にクリニックがある。それでも、しっかり見てくれば辿りつくのに、自分の不手際を棚にあげて大声で怒っている。短時間に2人も老人が怒りをぶつけているのを見て、さすがに驚いた。これを「老人性のイライラ」というのだろうか。
歳を取るとキレやすくなって、いい歳をした老人が駅員に暴力を振るったりするのは、老人特有の感情暴走とか暴走シニアなどと言われて問題になっているらしい。老境に入ってからの私は、これまでのところ対人関係や公共の場所で怒りを爆発させるようなことは殆どなかったが、問題は、むしろ一人の時の方にある。それは、自分の動作や行為が思うようにスムーズに行かない時に起こる、心のざらつきである。心の小さな波立ちである。一つ一つは小さくてもそれが積み重なると、「歳を取るのは嫌なものだ」という気持ちが、うっ屈した気持ちにつながって行く。爆発する怒りではないが、これも大きく言えば「老人性イライラ」の範疇に入るのではないかと思う。
◆小さな動作がうまく行かない、いら立ち
例えば、スーパーなどに買い物に行って、レジ袋に物を詰めようとした時に、指先の皮膚が滑って袋がうまく開けられない。牛乳パックなどの重いものをすべり落とす。風呂に入るのに洗面所で着重ねた洋服を脱ぐのだって、スムーズに行かずにイラつくことがある。何枚か一緒に脱ごうとするが、昔のようにうまく脱げない。立ったまま靴下をはこうとしてよろけたり、風呂上がりに歯を磨こうとして、歯ブラシの上に歯磨き粉を出し、それを右手に持ってチューブのふた占め、いざ磨こうと口に持って行ったら歯磨き粉が洗面台の中に落ちてしまったり。こう言った小さなことが一々気に入らない。
便利なために、最近はリュックを背負って外出しているが、リュックの小さなポケットに入れているボールペンやマーカーなどの小物を取り出そうとしても、一回でうまく目的のものを取り出せたことがない。電車の中で立ったまま、マーカーで線を引きながら本を読むのだって、昔はもっとスムーズに行ったのに、今では掛けている老眼鏡をどうするか、マスクから眼鏡にかかる息をどうするか、ページをどう抑えるか、マーカーのふたをどう開けるか、などなど、動作の一つ一つの手順をどうするのか、無意識には出来なくなった。それが疲れる。
一つには、指先の細かい動きと脳の指令との間に、ちょっとしたズレが生じていることもあるのだろう。微妙な差ではあるが、想定の時間と位置に指も手足もピタッと行かないことがある。一番の違和感は指の乾燥で、これは新聞でも本でもページをめくるのに、指をなめないとめくれなくなった。ある時に、気心が知れた女性プロデューサーに「名刺をちょうだい」と言われて、名刺入れから一枚だけ取り出そうとしたが、指が滑って取り出せない。仕方がないので指をなめて一枚取り出したら、「なめないで!」と言われて冷や汗をかいたことさえある。
◆口角を上げて、ニッコリすると。。
そうした小さな違和感が積もって来ると、一つ一つの動作が面倒になって、何だかとても嫌な気持ちになる。上手く対処しないと、「石を積む人」の主人公のような、不機嫌な心の頑なな老人になってしまう。そう思って駅などですれ違う高齢者の表情をそれとなく観察してみると、無意識のうちに不機嫌な表情が張り付いてしまった高齢者が案外多いことに気がつく。多くは口をへの字に曲げて、いわゆる仏頂面をして歩いている。多分、具体的に不満なことがあるわけでもないのに、そうなってしまうのだろう。とても他人事とは思えない。
そういうことに気づいた私は、普段は意識してなるべく柔和な表情を作るように心掛けるようになった。このところ外出する時には、マスクをかけているので、そう思った時には、マスクの下でニッコリ笑う位の表情を作ってみる。それは、写真を撮られるときも同じ。もともと愛想が良い方ではなく、以前は、結構口をへの字にして映ることが多かったが、最近は意識してにこやかな表情で撮られるようになった。良く言う「口角を上げる」という表情である。
さて、この「口角を上げる」表情のもう一つの効用に気が付いたのは、一年位前のことである。私にとって問題の「一人の時の小さないら立ち」を感じた時に、不機嫌になる前に、たまたまちょっと口角を上げてみた。自分の失敗の情けなさを笑うしかなかったからだ。そうすると不思議なことに、得も言われぬ心の変化を感じたのである。それは瞬間的な変化と言っていい。笑ってみると、瞬間的に時間の流れが変わり、同時に「もっとゆっくりでもいいじゃないか」と囁く声が聞こえたような気がした。そして、気持ちに小さな余裕が生まれたのである。
風呂場で服を脱ぐときでも、歯を磨く時にも、スーパーで買った物を詰める時にも上手く行かなくて、心が波立ちそうになった時には、ほんの少し口角を上げてみる。そうすると、歳を取った自分を笑って客観視できる気になる。「仕方ないなあ」と許すしかない自分に気がついた。そこでネットで調べてみたら、この「口角を上げる」表情は、脳内にセロトニンという物質を発生させるとあった。セロトニンは、怒りや暴力につながるノルアドレナリンやドーパミンを抑えて、心のバランスを整える神経伝達物質だと書いてある。もうのんびり行くしかない自分だが、これには思わず笑ってしまった。 |