「風」の日めくり                                           日めくり一覧     
  今週の鑑賞。定年後の身辺雑記

「老人性イライラ」を笑う 2015.3.12
 かれこれ5年前になるが、友人の小泉堯史監督に読めと言われて「石を積む人」という翻訳本を読んだ。リタイアした老夫婦の話である。若い頃のように体が自由にならず、何かといら立ちがちな夫を妻が優しくなだめるが、妻は重い心臓病を抱えていて、残る夫の将来を心配している。妻は夫が生きがいを見つけてくれるようにと、家の周囲に石を積み重ねて塀を作ることを提案する。夫が営々とした、その作業を続けているうちに妻は亡くなってしまうが、死後、夫は妻が書き残した手紙を家の中など、思いがけないところから何通も発見することになる。亡くなった妻と残された夫との手紙を通じた生活が続いて行く。。

 これは、小泉監督がシナリオを書き、私も何度か読ませて貰って胸を打つ内容に仕上がって行った。彼は主役を高倉健さんにお願いしようと考えていて、健さんにも読んで貰ったのだが、権利を持っていたプロデューサーと予算規模などを巡って意見が一致せず、結局、映画は実現しなかった。その映画が別な監督とシナリオで6月に公開されるという。試写の案内が来たので近々観てこようと思うが、パンフレットを見ると、主役の夫婦は佐藤浩市と樋口可南子。タイトルは「愛を積むひと」になっていた。
 原作の中で私がリアルに感じて惹かれたのは、老人の不器用ないら立ちがこちらの身に迫って来るところである。読んでいて「ああ、歳をとって来ると、こういうことが良くあるよなあ」と思う。身体的なことで何かと思うようにならないことが増えて来る。そこに一々自分や周りに腹を立てていると、とても頑なで不機嫌な老人になってしまう。そうした硬直した心が妻が遺した愛情溢れた手紙や若者との交流によって少しずつほぐされて行くのだが、それがこの本の隠れたテーマのように思えた。

◆老人特有の感情暴走、暴走シニアの多発
 歳を取ると、ちょっとしたことが癇に障るようになって、自分でもびっくりすることがある。私などは気が小さいから、さすがにそれを周りにぶつけはしないが、元気で怒りっぽい老人は結構目にする。去年も、渋谷のある医療検査機関で順番を待っていたら、僅か30分くらいの間に私より少し上に見える老人が2人も大声を出して、受付嬢に食ってかかっているのを目撃した。一人は「私の方が先に来ていたのに、後から来た人が先に検査に入った。どうなっているのか」と大きな声で抗議している。スタッフが事情を説明しても納得せず、なおも怒りながら帰って行った。
 もう一人は、「クリニックの地図が分かりにくくて、えらい目に会った。もっと分かりやすい地図にしろ」と文句をつけている。「駅を降りてから1時間も迷ってしまった。どうしてくれるんだ」と、怒っている。確かに、そのクリニックの地図は分かりにくい。というより、分かりにくい所にクリニックがある。それでも、しっかり見てくれば辿りつくのに、自分の不手際を棚にあげて大声で怒っている。短時間に2人も老人が怒りをぶつけているのを見て、さすがに驚いた。これを「老人性のイライラ」というのだろうか。

 歳を取るとキレやすくなって、いい歳をした老人が駅員に暴力を振るったりするのは、老人特有の感情暴走とか暴走シニアなどと言われて問題になっているらしい。老境に入ってからの私は、これまでのところ対人関係や公共の場所で怒りを爆発させるようなことは殆どなかったが、問題は、むしろ一人の時の方にある。それは、自分の動作や行為が思うようにスムーズに行かない時に起こる、心のざらつきである。心の小さな波立ちである。一つ一つは小さくてもそれが積み重なると、「歳を取るのは嫌なものだ」という気持ちが、うっ屈した気持ちにつながって行く。爆発する怒りではないが、これも大きく言えば「老人性イライラ」の範疇に入るのではないかと思う。

◆小さな動作がうまく行かない、いら立ち
 例えば、スーパーなどに買い物に行って、レジ袋に物を詰めようとした時に、指先の皮膚が滑って袋がうまく開けられない。牛乳パックなどの重いものをすべり落とす。風呂に入るのに洗面所で着重ねた洋服を脱ぐのだって、スムーズに行かずにイラつくことがある。何枚か一緒に脱ごうとするが、昔のようにうまく脱げない。立ったまま靴下をはこうとしてよろけたり、風呂上がりに歯を磨こうとして、歯ブラシの上に歯磨き粉を出し、それを右手に持ってチューブのふた占め、いざ磨こうと口に持って行ったら歯磨き粉が洗面台の中に落ちてしまったり。こう言った小さなことが一々気に入らない。

 便利なために、最近はリュックを背負って外出しているが、リュックの小さなポケットに入れているボールペンやマーカーなどの小物を取り出そうとしても、一回でうまく目的のものを取り出せたことがない。電車の中で立ったまま、マーカーで線を引きながら本を読むのだって、昔はもっとスムーズに行ったのに、今では掛けている老眼鏡をどうするか、マスクから眼鏡にかかる息をどうするか、ページをどう抑えるか、マーカーのふたをどう開けるか、などなど、動作の一つ一つの手順をどうするのか、無意識には出来なくなった。それが疲れる。
 一つには、指先の細かい動きと脳の指令との間に、ちょっとしたズレが生じていることもあるのだろう。微妙な差ではあるが、想定の時間と位置に指も手足もピタッと行かないことがある。一番の違和感は指の乾燥で、これは新聞でも本でもページをめくるのに、指をなめないとめくれなくなった。ある時に、気心が知れた女性プロデューサーに「名刺をちょうだい」と言われて、名刺入れから一枚だけ取り出そうとしたが、指が滑って取り出せない。仕方がないので指をなめて一枚取り出したら、「なめないで!」と言われて冷や汗をかいたことさえある。

◆口角を上げて、ニッコリすると。。
 そうした小さな違和感が積もって来ると、一つ一つの動作が面倒になって、何だかとても嫌な気持ちになる。上手く対処しないと、「石を積む人」の主人公のような、不機嫌な心の頑なな老人になってしまう。そう思って駅などですれ違う高齢者の表情をそれとなく観察してみると、無意識のうちに不機嫌な表情が張り付いてしまった高齢者が案外多いことに気がつく。多くは口をへの字に曲げて、いわゆる仏頂面をして歩いている。多分、具体的に不満なことがあるわけでもないのに、そうなってしまうのだろう。とても他人事とは思えない。
 そういうことに気づいた私は、普段は意識してなるべく柔和な表情を作るように心掛けるようになった。このところ外出する時には、マスクをかけているので、そう思った時には、マスクの下でニッコリ笑う位の表情を作ってみる。それは、写真を撮られるときも同じ。もともと愛想が良い方ではなく、以前は、結構口をへの字にして映ることが多かったが、最近は意識してにこやかな表情で撮られるようになった。良く言う「口角を上げる」という表情である。

 さて、この「口角を上げる」表情のもう一つの効用に気が付いたのは、一年位前のことである。私にとって問題の「一人の時の小さないら立ち」を感じた時に、不機嫌になる前に、たまたまちょっと口角を上げてみた。自分の失敗の情けなさを笑うしかなかったからだ。そうすると不思議なことに、得も言われぬ心の変化を感じたのである。それは瞬間的な変化と言っていい。笑ってみると、瞬間的に時間の流れが変わり、同時に「もっとゆっくりでもいいじゃないか」と囁く声が聞こえたような気がした。そして、気持ちに小さな余裕が生まれたのである。
 風呂場で服を脱ぐときでも、歯を磨く時にも、スーパーで買った物を詰める時にも上手く行かなくて、心が波立ちそうになった時には、ほんの少し口角を上げてみる。そうすると、歳を取った自分を笑って客観視できる気になる。「仕方ないなあ」と許すしかない自分に気がついた。そこでネットで調べてみたら、この「口角を上げる」表情は、脳内にセロトニンという物質を発生させるとあった。セロトニンは、怒りや暴力につながるノルアドレナリンやドーパミンを抑えて、心のバランスを整える神経伝達物質だと書いてある。もうのんびり行くしかない自分だが、これには思わず笑ってしまった。
70歳になったら 2015.2.5
 終戦の年に生まれた私は、今年の5月に晴れて70歳の大台に乗る。若い時には、自分が70歳になるなどということを、少しも想像せずに生きていた。しかし、ようやく目と鼻の先に、まだ体験したことのない70歳代が迫って来た時に、ふと、その70歳代をどう生きてやろうかと考えるようになった。それがどういうものか、まださっぱり分からない。しかし、少なくとも今までの延長線上にはない生き方をしてみたい、残り時間を意識しながら未知の時間を面白く生きてみたいと思うようになった。この一年ほどの最近のことである。

◆サラリーマン人生の仕上げと、その余熱としての60歳代
 多分、その背景には、60歳台は自分なりにもう十分やれることはやったという気持ちがあるのだと思う。自分の60歳代は、大まかに言えば5年刻みになっている。60歳から65歳までは、親会社を卒業して2つの小さな株式会社に勤めた。サラリーマン時代と変わらない週5日の出勤である。その間に、前回「ストレスをやり過ごした日々」に書いたような難題にも直面したが、自分なりに会社の使命(ミッション)を明確に意識しながら、幾つかの新たな試みにも取り組んだ。ミッションの全く違う2つの会社でそれをやれたのは、サラリーマン生活の仕上げとして得難い経験だった。
 65歳の暮れに完全リタイア。その後の生活については、65歳が近づく頃から結構考えた。ポイントは、「できるだけクリエイティブな生活を送りたい」ということだった。考えても思う通りになるわけではないが、そうしたイメージをあれこれ思い描くことはできる。そして、たまたま先輩や友人に声をかけて貰って始めた科学ニュース制作のプロデューサー(週2日)とか、番組企画のアドバイザーとか、大学でのメディア論の講義、そしてカナダ観光局とのご縁で続いた毎年のカナダ行きなども、クリエイティブなイメージにぴったりで、大変ありがたかった。これらも既に終わったものもあるが、残りも大部分はこの1、2年で終了するだろう。

 60歳の5月からは、仕事の傍らで、このホームページ「メディアの風」の発信を始めた。メディア出身の端くれとして、定年後も時代と向き合って生きたいと思ったわけだが、「私たちは今、どういう時代に生きているのか」、「時代はどこに向かおうとしているのか」、そして「この時代をより良く生きて行くにはどうすればいいのか」というのが基本的な問題意識だった。「虚仮(こけ)の一念」のように、シコシコと書き続けて来た結果、これも今年の5月末には丸10年になる
 その間に原発事故が起こり、書き続けた45本のコラムを『「メディアの風」原発事故を見つめた日々』としてまとめ、自費出版した。さらに、この10年の区切りを機に、残りの210本余りを2冊の本にまとめたいと考えている。テーマ別に分けるのか、年代順にするのか、あれこれ悩んではいるが、これを何とか年内にまとめ、原発の本のように国会図書館と地元の市立図書館に寄贈すれば、自己満足を全うできるだろう。

◆70歳代への過渡的試み。新しいテーマへの願望
 そして近年は、70歳代に向けてもあれこれ模索してきた。例えば、伊勢畑ふるさと村作り超党派の市議会議員たちとの地元活動、先輩を囲む勉強会や高校の同級生たちとの勉強会などだ。しかし、こうした試みも時々のことであって、やがて毎日が日曜日になれば、その空白を埋めるものになるのかどうか。それはそれとしてキープしながら、もっと別のイメージを描けないだろうか。せっかく70歳に到達したのだから、70歳代はこれまでと全く違った生き方をしたほうが面白いかも。最近は、そう考えるようになった。
 それが何かを書こうと思うのだが、まだ霞のようでうまく捉えられない。漠としたイメージはある。例えば、当然のことながら残りの時間を意識したものにならざるを得ないだろう。いま70歳の人の平均余命を見ると85歳。平均的には、後15年生きることになるが、健康年齢の平均で見れば76歳でしかない。あと僅か6年、人生の幕引きもかなり迫っている。それも一応の目安であって、自分がどうなるかは分からない。従って、残りの期間は今までにやれなかったテーマを目指したほうがいいのではないか。それも5年と言うスパンで取り組めるものがいい。

 ただし、もう社会的に何者でもないのだから、群れずにじっくりと一人で取り組めるものがいい。それも、(絵は別として)良くある趣味の世界に入るには遅すぎると思うので、むしろ純粋に個人的なテーマの追求に向かった方がクリエイティブかもしれない。そんな中から浮かんできた一つの答えは、「老いゆく自分の観察」というテーマである。これなら、誰にも迷惑はかけないし、頭がぼけない限り死ぬまで続けることができる。家族を大事にし、友人や地域とのつながりを相応に維持しながら、残りの有り余る時間をじっくりと「自分と向き合うこと」に費やす。これを大袈裟に言えば、市中にあって出家するようなものではないだろうか。そうなれば、ただの自己観察ではなく、一応の修行のような取り組みも必要になって来る筈だ。それは、どういうことになるのか。

◆自分に向き合いながら、悠久の時間に触れる
 出来もしないのに、言葉遊びのように言うのは気が引けるが、目指す所は「自分と向き合いながら、その(肉体的)実感を通して、宇宙や地球といった悠久な存在につながる」ということ。出来るかどうかも分からないが、それに少しでも近づくことに憧れを抱くようになった。しかし、(宗教家も含めて)今も様々な人々が修行や座禅、ヨガなどでそうしたテーマを追求しているわけだから、あながち的外れでもないように思う。
 ただ、私の場合はそんな大それたことを考えているわけではない。取りあえず、ごく単純なことから始めたいと思っている。まず、心身の健康状態を維持するための極めて規則正しい生活を試みる。自分の体と対話しながら各種のストレッチから体操、ウォーキング、短時間の瞑想などを毎日決まったリズムで繰り返す。同時に(酒も含めて)食生活や睡眠を出来るだけ健康に保つ。自堕落な私にとっては、かなり高いハードルだが、心身を律して自分の内面に向き合うことで、一瞬でも地球や宇宙の悠久の時間を感じる時があれば最高だ。

 その感覚は多分、私が向き合おうとした時代をも超える大きなものに違いない。それがどういうものかは分からないが、それを求めてまずは、心身のコントロールのために70歳代の最初の5年間を生きてみる。そういう意味で、向き合う対象が時代から自分に変わることになる。「メディアの風」も「日々のコラム」は減って行き、身辺雑記の「風の日めくり」の方がメインになるだろう。まあ、すぐに変えられるかどうかは分からないが、ともかく70歳代は60歳代とは全く違った生き方を試みてみたい。もちろん、その前に癌や病気になってしまえば、心身の健康などは吹き飛んでしまうわけだが、それはそれで運命。今はその時節到来を、ちょっとわくわくしながら待っているわけである。
ストレスをやり過ごした日々 2015.1.15
 原発事故を起こした東電や、食品の安全が告発された日本マクドナルドなどのように、大きなトラブルや不祥事で激震に見舞われる企業は後を絶たない。そういう時に、組織の当事者や企業トップは長期にわたって多大なストレスを受けることになる。長いサラリーマン人生の中で私も何度か、そうした組織の激震を目撃したことがあるが、少なからぬ当事者がストレスで体調を崩したり、癌になったりした。多分、強いストレスによって免疫機能が低下し、癌を呼び込んでしまったのだろう。
 かく言う私も、そうした激震に見舞われたことが2度ほどある。1度目は連日新聞を賑わすような不祥事で、最後には組織トップが画面に出てお詫び放送までした。上司だった私も監督責任を問われて部長職を解かれ、(サラリーマンとしては首の一歩手前の)停職一カ月という処分を受けた。しかし、ここで書く出来ごとは、その1度目の時より長期にわたる強いストレスで、自分でも良く身体が持ったなあと言うようなトラブルである。

 そのトラブルに出会ったのは、10年前のちょうど今頃のことである。定年後に移った関連子会社が激震に揺れた事件で、私はその会社の責任者の立場にあった。先日、10年前の1月に何があったのかと思って、その頃のメモ帳を取り出して何気なく眺めていたら、当時のことが時を越えてよみがえって来た。2004年12月から2005年3月にかけて、強いストレスにさらされながらトラブルに対処する一方で、ストレスをやり過ごすための様々な努力を続けた日々である。もう時効になっていることなのでコトの概略を記しながら、その頃の私が試みた「ストレス対処法」の色々について書いて見たい。

◆放送衛星の国際調達と異議申し立て
 それは、私の会社が運営する次期放送衛星の国際調達の過程で起きた。外国の企業が応札した膨大な内容を会社の技術陣が評価し、最終的に一番適切な企業に決める。案件が巨額なだけに慎重に評価し、アメリカの大手衛星会社に決めたのだが、同じアメリカの別の企業がその調達に疑義があると申し立てたのである。異議申し立ては、国際調達規定によって設けられた日本の第三者委員会に提出された。
 その対応は、相手企業の弁護士や技術者の異議申し立てを一つ一つ論駁するという神経を使う作業だった。第三者委員会への意見書、委員会からの質問に対する答弁書などを作成する作業が続いた。小さな会社で、対処に当たるのは私を入れた取締役や調達と技術担当者の5人。ことの性質上、落札価格や技術内容などの企業秘密が外に漏れないように注意しながら、連日のように集まっては知恵を出し合った。調達の理論武装から、難しい技術的な各論まで、作った資料はゆうに1メートルもの厚さになったと思う。

 1月に入ると、さすがにアメリカ企業がやることは情け容赦がなく、厳密に言えば関係のないUSTR(アメリカ通商代表部)を巻き込むという脅しまで使って来た。外国訴訟に強い弁護士事務所に相談すると、相手企業が第三者委員会の裁定に納得せず、国際裁判に持ち込めば舞台はアメリカに移り、決着するまで3年位はかかるだろうとも言われた。仮に、裁判に負ければ調達は白紙になり、今度は落札した企業から訴えられる。そうなれば私の会社はつぶれて、日本の衛星放送事業は一時的に頓挫してしまう。責任者として、この戦いには何としても負けられないと自覚する一方で、負けたら大変だというストレスも感じる毎日だった。

◆ストレスをやり過ごした試みの数々
 もう一つ、留意したことがある。トラブルの解決がいつ終わるか分からない長丁場だったが、ここで体調を崩してはならない、ということである。小さな会社だけに仮に自分が体調を崩しても代わりはなく(*)、相手を利するだけで何の役にも立たない。万一国際裁判になったとしても、とにかく最後までこの事態を引き受ける覚悟で、自分の体調を管理しようと考えたわけである。夜遅くまで様々な事態に対処する一方で、ちょっとした時間を見つけては、ストレスをやり過ごすための様々な試みをやった。*ついでに言えばその頃、親会社のNHKも(紅白のプロデューサーの不祥事で)会長が辞任するという激震の最中で、とてもこちらを監督するどころではなかった。

 第一に、時間が許す限り(自宅から自転車で5分程にある)スポーツジム通いを続けたことである。それも、仕事が終わった後の、夜の9時から11時までの2時間。脈拍数も測れるウォーキングマシンを歩いている時に、相手企業が言って来た理不尽な主張を思い浮かべると、とたんに脈拍が上がったりしたが、黙々と歩いた。そこで体を疲れさせて、帰宅してすぐに寝てしまう。たまの休日には、近くの堤防の上をウォーキングした。寒かったが、気持ちは晴れた。

 第二にやったことは、今思い返しても不思議なことに、仏教書を読むことだった。委員会からの沙汰を持つ間、会議と会議の間、電車の行き帰りなどに沢山の仏教書を読んだ。弘法大師の密教関係、法華経、座禅の本、仏教の入門書や解説書など、トラブルを抱えている間に読んだ本は30冊を越えた。厚さ2センチほどの分厚い「自由研究ノート」と言うのを作り、様々なフレーズを抜き書きした。追い詰められるような気持でいた時に、それは心の支えとして大変貴重なものになった。
 その要点の一つは、「私の仏教探究」に書いたように、今目の前にあって重くのしかかっている苦悩も、仏教的な観点からすれば実体のないもの(空)に過ぎない。時間がたてば煙のようになくなってしまうということである。さらに、仏教的な広大無辺の世界に比べれば、今自分の目の前にある悩みなどは、ほんの芥子(けし)粒のような小さなものに過ぎない、ということだった。読み続けるうちに仏教世界の深さと大きさに魅了されて行き、しまいにはこうした仏教書との出会いを作ってくれた、現在のトラブルに感謝したい位にもなった。

 第三に、同僚や友人、家人の支えがありがたかった。(衛星調達などという)分野では、自分の専門能力などは全くないに等しかった。それでも、ある程度の対処が出来たのは、多くの人々に支えられた結果だと思う。秘密を守るために少人数で額を寄せ合って対策を考えてくれた会社の4人組。彼らが、私のストレスを分かち合ってくれた。また、第三者委員会の先生たちも日本の衛星放送を続けるために、逃げずに困難な裁定に当たってくれた。そういう人々には感謝してもしきれない位お世話になった。
 また、私が第二の就職先で困難に直面していることを知った前の会社の同僚たちも、折に触れ食事に誘ってくれた。あまり酒を飲む気分にはなれなかったが、気の置けない友人たちと話しするだけで気持ちが軽くなった。それと、家人も休日には時々は私を誘い出して、一緒に堤防の上を歩いてくれた。そこで、愚痴をこぼしながら、歩いたこともいい気分転換になった。

◆極限の中で平静を保った先人の本
 最後にもう一つ。その頃、友人の映画監督は後に「明日への遺言」という映画になるシナリオを練っていた。主人公は、戦争責任を問われて絞首刑になった岡田資(たすく)中将である。彼が巣鴨刑務所で書いた「毒箭(せん)」という本を監督から読むように言われて読んだこともある。独房内で鉛筆で書かれたその本は、彼の死後、まだ紙質も良くない時に出版されたものである。
 岡田中将は、死刑宣告を前にして同じ刑務所にいた(死刑宣告に怯える)若い兵士たちを教え励ましていた。岡田が書いたその本は、そういう境遇にあってなお、こうした高い精神性を示した先人がいたことに感動を覚えるような精緻な「法華経の解説書」だった。そういう本を読みながら、彼にならって私は家で座禅を組むようになっていた

 私の体調は途中風邪をひいたり、体重が少し減ったりはしたが何とか保たれていた。そして、異議申し立てから4カ月後の3月14日、調達結果を覆すには当たらないという第三者委員会の裁定が下った。その1週間後、アメリカから裁定を受け入れる手紙が委員会に届いて、私の長いストレスの日々が終わりを告げたのである。
サバの寄生虫に当たる 14.12.28
 年の瀬も押し詰まったある日、思わぬ腹痛に見舞われて胃カメラを飲む羽目になった。ベッドで内視鏡が映し出す自分の胃の映像を見るともなく見ていると、女医が「いましたよ」という。胃壁に白い半透明の糸のようなものが首を突っ込んでいる。女医は先が二股に分かれた細い器具を内視鏡に沿って入れて、その細い糸をつまみだした。サバに寄生するアニサキスである。この何日かの胃痛はこれが原因だった。あまり珍しい出来事ではないのだろうが、自分にとっては生まれて初めての経験だったので、その経緯を書いておきたい。

◆朝から真夜中まで、盛り沢山の一日
 その日は、朝から盛り沢山の一日だった。起床は朝の6時。寒さ対策をして駅まで自転車をこいで行き、電車でゴルフ場に向かった。埼玉県比企郡(坂戸駅からクラブバスに乗って20分)の山すそにあるゴルフ場で、その日は快晴だったが、寒風が吹き荒れていた。成績は散々だった。何しろ年に5回くらいしかやらない怠け者なのに加えて、この寒風である。
 風が強いと私のような未熟者は何となく気持ちが急(せ)いてしまう。クラブをゆったり振ることができずに、リズムが狂う。崖下に落としたり、斜面に打ち上げたりと、ボールを追い掛けて、結局、スコアはゴルフを始めた頃に戻ってしまった。かなりの運動量だったが、それに耐えて回りきったのが収穫と言えば収穫。何とか午後3時半頃には上がることができた。

 ゴルフクラブを宅急便で送り、4時のクラブバスに乗る。坂戸駅から池袋経由で赤坂のサントリーホールに向かった。その日は先輩のNさんと待ち合わせして7時からのクラシックを聞く予定になっていた。疲れていたら私の方はキャンセルすると言ってあったが、思いのほか体力に余裕があった。この日の演目はシャルル・デュトワ指揮、ピアノは中国生まれのユジャ・ワンによるラヴェル「ピアノ協奏曲」や、ストラヴィンスキー「バレエ組曲『火の鳥』」など4曲。あまり詳しい方ではないが、多彩な楽器の華麗な演奏が楽しかった。同時に聞いている合間に、これから北千住の酒場で飲む酒が浮かんできたりした。

 北千住では、行きつけの店が10時でおしまいと言うので、近くの居酒屋を見つけて入った。初めての店だった。そこで各地の地酒を選んで楽しみ、刺身を食べた。店主は毎日築地に買い出しに行っているとかで、新鮮な刺身の盛り合わせを造ってくれた。マグロ、ホタテガイ、赤貝、タイ、そしてしめ鯖があった。厚く切った生きのいいしめ鯖で、それを3切れほど食べた。新鮮で脂が乗ってはいたが、それが却っていけなかったらしい。Nさんと話が弾み、帰宅したのは夜中の12時だった。この日は、朝六時に起きて、就寝は1時半過ぎ、万歩計をチェックしたら2万歩(およそ14キロ)になっていた。さすがに疲れたが、運動した後だけに気持ちは何となく高揚していた。

◆胃痛発生。おかゆで過ごした2日間
 急に胃が痛くなったのは、翌日の金曜日の午後だった。仕事で週2回通っている会社に行き、昼飯抜きで友人とコーヒーを飲んだ。会社の喫茶店はコーヒーが少なくなると、お代わりを注いでくれる。午前中に飲んだのも合わせて、都合3杯ほどのコーヒーを空き腹に入れたことになる。考えてみれば無茶なことだった。その後、別の会社に向かって歩いている最中に急に胃が痛くなり、私はもうてっきりあのコーヒーのせいだと考えた。牛乳を腹に入れて、手持ちの胃薬を飲んだ。会社で番組企画について議論した後、そうそうに帰宅。その晩は近所のコンビニで買ったレトルトのおかゆを温めて食べた。

 その日の夜中はずっと激しい胃痛で、明け方まであまりよく寝られなかった。それから土日の2日間、ずっとおかゆで過ごした。土曜日は孫たちが遊びに来て泊って行った。買い置きの胃薬を飲みながらおかゆで過ごしているうちに、大分痛みも軽くなって来たが、それでも孫たちと散歩している間、急に差し込むように胃が痛くなったりした。あの日、ちゃんと昼食を食べて、コーヒーも控えていたら、などと何度か後悔した。
 一瞬だけ「待てよ、ひょっとしてあのしめ鯖に当たったのかな」と思ったこともあった。そこでネットで「しめ鯖とアニサキス」について調べてみた。しかし、そこには「食べて3〜4時間後に、突然、激しい腹痛、吐き気・嘔吐が襲います」と書かれている。私の場合は痛くなったのは翌日の午後で、吐き気、嘔吐もなかった。それで、頭の中からアニサキスは消えて、専らコーヒーで荒れた胃の回復を願っておかゆ生活を続けたわけである。お陰で日曜の夜に体重を計ったら2キロも減っていた。

◆アニサキス発見。自己診断は禁物
 日曜日の夜、まだ時々胃が差し込んだが、このまま回復して行くのではないかと「自己診断」していた。しかし、カミさんは、おかゆを続ける私に「自己診断していないで、病院に行って診て貰えばいいのに」と盛んに言う。仕方がないので月曜日の朝、朝食を抜いて病院に行った。近所の内科医で胃薬を貰うか、胃腸科でちゃんと診て貰うか迷ったが、以前もその場で胃カメラで診てくれた胃腸科を選んだわけである。まあ、それが正解と言えば正解だった。
 問診時に刺身は食べましたかと聞かれて、食べたけれどコーヒーが原因だと思う、などと生意気に答えていたが、女医は「念のために胃カメラで診ましょう」と言った。2時間くらい待たされたけれど、横になって胃カメラを入れたら、冒頭のようにアニサキスが見つかったわけである。寄生虫をつまみだした後、「一匹いると他にも見つかる場合があるので」と言って丹念に周囲を見てくれた。胃壁が荒れているようだったが、他には見つからなかった。「腸に行ってしまうと、寄生虫が腸壁に入り込んでコブを作り、たまに腸閉そくを起こすことがあるけれど、まあ大丈夫でしょう」と言ってくれた。

 アニサキスは人間の体内では生きられない。しかし、腸壁に穴を開けられたりすると開腹手術が必要になる事もあるらしい。術後ベッドに横なっていると看護士が小ビンに入ったアニサキスを持って来て「記念に持って帰りますか?」と言う。長さ2、3センチくらいの糸状の寄生虫である。私はいらないと言いながら「こんなものがいたとはなあ」とちょっと唖然とした。その日は取りあえず、ストレスからか胃壁が荒れていると言うので薬を貰って帰った。
 あれから一週間経過したが、その後忘年会が続き回復しつつあった胃壁がまた荒れたらしい。未だに多少の胃痛は残っている。腸の方もお付き合いで渋ることがあるが、これはアニサキスのせいではないだろう。体重はまだ1キロしか戻らないが、このままでいいと思っている。ただし、今回の経験で幾つか学んだこともある。一つは、自己診断で勝手に思い込んではいけないと言うことである。

◆歳も考え、体のサインを見逃さないで
 様々な体の自覚症状(不定愁訴)の中にも、いろいろ隠れた原因が潜んでいることがある。それを勝手に素人判断であれこれ理由をつけているうちに、病が進行することがある。癌などもそうだろう。歳を取ってくればなおさらで、あちこち不具合がない方が珍しい位の日常になる。その中から、ちゃんとサインを見つけて適切な医者に行くこと。これは出来るようでなかなか出来ないことである。
 さらにもう一つは、歳を取って来たのだから、あまり調子に乗らないことである。アニサキスに当たるか当たらないかは運不運に過ぎないけれど、考えようによっては、早朝から真夜中まで遊んでいたバチが当たったのかもしれない。当日、夜遅くまで飲んでいたら娘から「いい老人が、朝から晩まで遊んでんじゃない!」などという(カミさんの代理のような)叱責のメールを貰ったが、歳を考えなければいけない。もっとも、去年の今頃も「死にかけた日の物語」を書いているくらいだから、この懲りなさ加減は直らないかも。
健康長寿の先輩に学ぶ 10.10.28
 10月21日、先輩が26年も続けてプロデュースと司会を務めているシンポジウムに出かけた。毎年秋にヤクルトホールで行われる「国民の健康会議」である。今回のハイライトは何と言っても今年103歳になる日野原重明さんの講演。1時間の講演中、立ちっぱなしで、これまでの歩み、地下鉄サリン事件の時の対応、平和憲法の大切さ、そして平和の尊さを次世代に伝える取り組み、などについて熱っぽく話をされた。
 さらに、健康で長生きするために大事なことは自分を大切にして人のために生きること、今でもヨーロッパやボストンなど海外にも足を延ばして活動していること、最近はフェースブックまでこなしていること、なども。103歳の今も、何年も先まで予定が埋まっているというが、(もちろん遺伝的な要素もあるだろうが)心身ともに健康であるための努力を怠らないからだろう。日野原さんは、心掛け次第で健康は維持できることを理解してもらうために、「成人病」に代わって「生活習慣病」という言葉を普及させた人でもある。

◆超元気な先輩たちと私たち世代
 シンポジウムはこの他に、「人が消える地方危機」というタイトルで、今話題の消滅可能性都市、東京への一極集中の問題について、日本創生会議座長の増田寛也氏の講演と対談などもあった(このテーマについては別途書くつもり)。この盛り沢山なシンポジウムを企画・プロデュースし、司会までこなしているのは大先輩の行天良雄さん(88歳)である。こちらも高齢だが、日野原氏の講演を直立不動で聞き、ユーモアを交えながら的確に司会していた。そのかくしゃくたる姿と頭の回転の速さには驚くばかりで、「今年で最後にしたい」などと言っていたが、まだまだ続きそうな感じだ。 
 私の周りには、こうした超元気な高齢者が多い。一カ月に一度10人程が集まる勉強会の先生(先輩)は82歳。外国の文献や英字新聞を読みこなして最新の世界情勢について詳細なパワーポイントを用意しながら講義してくれる。25日の勉強会では、まだ翻訳本も出ていない分厚い「Political Order and Political Decay」(フランシス・フクヤマ著、464ページ)を基に、今の香港情勢について講義してくれた。参加している先輩たちも皆私よりはるかに歳上の人たちで、その旺盛な好奇心と知的レベルの高さに毎回刺激を受けて帰って来る。

 一方、年に4回ほど定期的に会食している高校のミニ同窓会。毎回お茶の水の蕎麦屋の2階で、気のおけない仲間6人が酒を飲みながら自由に談論していたが、誰言うとなく新趣向を取り入れることになった。乾杯の後、毎回2人が短時間の話題提供をする。話のテーマは自由。それを肴に酒を飲みながら議論をしてみようと言うわけである。27日の会合では、一人が(最近の高校生が同級生を殺害した事件をきっかけにして)戦後の教育問題、ソニーの研究者でもあったもう一人が、日本の製造業の凋落の原因について話をした。
 酒の肴にしてはちょっと重い内容ではあったが、ただ飲んだくれているよりはいいかもしれない。なるほどと思うような話もあった。次回の2人も決まったので、だんだんと程良いところが見えて来るだろう。お陰で、いつものような病気の話も出ず。これはこれで大変役に立つ情報ではあるが、それだけでは寂しいので、30分に時間を限ることにしてある。そういうわけで、ちょっと遅いかもしれないが、私たち世代も頭と体の老化を防ぐためにささやかな努力を始めようとしている。 

◆すべてテレビの健康番組から取り入れた。「私の健康法」
 ことのついでに私の最近の健康法についても書いておきたい。と言っても、まだ始めたばかりで胸を張れるようなものではないのだが、何かの参考になるかもしれないので。まず、休みの日には、夕飯前に出来るだけウォーキングする。時間にして90分。自宅から歩いて3分の遊水地公園は、真ん中に元荒川の堤防があって、ここを歩くと空が広くて気持ちがいい。途中でテレビでやっていた様々な内容を取り入れた独自のストレッチ、ベンチを利用した膝周りの筋肉の運動、軽い腕立て伏せもする。
 最近の「ためしてガッテン」を見て、3分の早歩きとゆっくり歩きの組み合わせを5セット行い、帰ってから牛乳を飲むことも始めた。そうすると、脚まわりの筋肉が付くのだそうだ。それに100メートルのスロージョギング。万歩計をつけているが、これでおよそ8千歩になる。週に2、3回、都心に出る時には、日野原さんに習ってなるべく駅の階段を歩いて上る。それで大体8千歩。「ためしてガッテン」の健康法を見ると、殆どこのウォーキングで生活習慣病の大体は解消しそうな感じだが、考えてみれば、これらの知識はすべて健康番組から来ていることに気付く。

 問題は食生活かもしれない。ウィークデーの朝は生野菜(オリーブ油のドレッシング)とハムとバナナと牛乳とヨーグルト(蜂蜜入り)。土日の朝食は日本食(味噌汁、納豆、魚の干物ほか)になる。これも健康番組の内容には合っているのではないか。問題は夜で、友人たちとの外食は、往々にして暴飲暴食になる。昔に比べて大分酒量は減ったが、つい調子に乗って飲み過ぎるのは相変わらず。これが尊敬する大先輩たちと違う所で、凡人の哀しさだ。
 従って、(つい最近のことだが)家では出来るだけ酒を控えるようにしている。ウォーキングしている間から旨いビールが頭に浮かぶが、最近はスルー出来るようになった。このウォーキングと食事のお陰で、体重もほぼ一定に保たれているし、中性脂肪は高いが、血圧は正常値に入っており、一つの薬(*)を除いて世話にはなっていない。*催眠導入剤(これについては、面白い話があるので別途書く)

◆心の欲するところに従えども、矩を超えず
 今から30年程前、私が科学ドキュメンタリーのデスクをしていた頃は、編集に付き合って毎週のように徹夜をしていた。内外の噴火や地震災害、日航機事故などの緊急特番でも良く徹夜した。当時は、目の前の仕事を手加減して健康に留意するなんて考えられなかった。生活は不規則で、タバコは既に30代半ばでやめていたが、酒は飲み放題。仕事の合間に先輩とカラオケに行ったり、深夜に焼肉店でたらふく食べたりしていた。ある年の健康診断でデータを見た医師から「あなたの体は成人病の巣」だと言われたこともあった。
 当時の組合の統計でも、ディレクターの平均寿命は大体、定年後5〜6年などと言われていて、なんとなく自分もそうなるのか、と思っていた。それも遠い先の事として。。しかし、ちょうどその前後からだと思うが、世の中が徐々に「健康志向」に変わってきた。私たちもそうした健康情報番組を扱うようになって行き、それにつれてずいぶんと健康を気にするようになってきた。タバコもやめ、時々は近所の市民プールなどにも行くようになった。「健康志向」の始まりである。

 現在では、民放でも健康情報のバラエティー番組が花盛り。社会が高齢化したせいもあるだろうが、昔のことを思うと「生活習慣病」の知識の普及については隔世の感がある。しかし、ライフスタイルに関わる病気は、脂質異常、高血圧、糖尿病、肥満などだが、これが正常値であっても突然の発ガンや心筋梗塞、脳梗塞を防ぐものではない。事実、あの人がと思うような人が倒れて驚くことがある。いろいろな健康番組の知識をもとに運動法や健康法を取り入れていても、こうしたリスクを少しだけ低減しているに過ぎないのかもしれない。
 事実、同年輩でも亡くなっている人たちが増えつつある今、明日何がわが身に起こっても不思議ではない年齢であることは確か。まあ、時々ハメをはずして後悔することもあるが、(超元気な先輩たちにあやかるには)普段からリスクを減らす健康生活を心掛けるべきだろうと思う。それには、こうした健康法を続けることが苦にならずに、出来ればそれが快適になることがまずは大事。その意味でも、孔子が70歳のときの心境として言った「心の欲するところに従えども、矩(のり)を超えず」の境地に近づくことかもしれない。
「伊勢畑ふるさと村」便り 14.10.4
 8月22日にカナダから帰国してから、はや一カ月あまり。旅の余韻を味わいながらも、この間様々な予定をこなして来た。サイエンス映像学会発表会(8/30法政大学)、越谷市議会の超党派の議員たちによる「政経セミナー」への参加(9/20)、ある役所の映像・メディア関係の審査委員会とそれに関連する幾つかの映画の試写会、2017年カナダ建国150年に向けてのお手伝いの相談、そして最近では「伊勢畑ふるさと村」でのイベントへの参加(9/27)などである。
 「政経セミナー」については、市議会議長の1年ごとのたらい回しや、集団的自衛権への議決に際してツイッターで経緯を公開した市議に対するけん責処分など、古い議会体質への問題提起。あるいは、財政難の中で老朽化した市の施設やインフラをどう更新していくのか、などなど。今何かと問題になっている地方政治も今や時代の変革期にある。いずれコラムの方に「いま地方議会で何が?」を書こうと思っているが、今回は、過去何度か登場している「伊勢畑ふるさと村」でのイベントについて報告したい。

◆深まる秋の「ふるさと村」
 茨城県、伊勢畑地区は栃木県との県境にある常陸大宮市の農村地帯。すぐそばを那珂川の清流が流れている。N先輩と私は、9月27日の夜8時ごろに受け入れ先の農家、Hさんのドームハウスに入った。去年の12月、私たちはこの密閉されたドームハウスで、一酸化炭素中毒になりかかった(「死にかけた日の物語」)。その時の思い出話などをしながら、早速、Hさん手作りの自然食のおつまみで酒を酌み交わす。明日のイベントでは介護の経験のある地元の主婦たちやその伴侶20人近くが参加するらしい。
 Hさんが考えたイベントのテーマは「百歳までの心掛け」。高齢化が進む共同体の中で、いかに助け合って元気に暮らすか、ということだが、メインはNさんが“ある日記”を朗読しながら、介護の経験者にインタビューするものだ。日本酒が終わると焼酎。室内には、焼酎に梅、柿、ニンニク、菊の花、イチジク、マタタビの実などを漬けた瓶がずらっと並んでいる。Hさんが効能を説明しながら、少しずつ注いでくれる。月明かりのない外は真っ暗、静かな夜だった。

 翌朝5時半、いつものようにウォーキングに出かけた。雲ひとつない快晴で、ピンクのコスモスが青空に映えて美しい。空気はひんやりしていて、柿の木には柿の実がなり、道端には栗の実が落ちている。さすがに秋の深まりを感じる。村では、このところ天気が悪く、稲刈りが進んでいないらしい。Hさんの棚田でも、まだ稲刈りが終わっていなかった。深まる秋の風情を肌身に感じながら、車にも人にも会わない畑や森の間を2時間ほどもテクテクと歩いて、朝食に戻った。精米したばかりの新米をかまどで炊き、それに黄身がたっぷりした生卵をかけて食べる。Hさんの家の煮炊きはすべてかまど。味噌汁も野菜のおかずも何でも新鮮に感じる。

◆介護の日々を語る、聞く
 イベントは、10時半から始まった。今年5月に改修なった元納屋の大広間に座布団を敷いて、NさんとK子さんを囲む気楽なスタイルだ。子ども連れや男性陣は邪魔にならないように、ちょっと離れたところに固まる。Nさんが、2年前に亡くなったK子さんの義理の母親が書いたと言う日記を朗読する。その日記は、アルツハイマー病の進行を少しでも遅くしようと、K子さんが母親につきっきりで毎日書かせたものだが、殆ど判別不能な字体で書いてある。それを、前もって読みこんでいたNさんがゆっくりと朗読する。
 「さ」が「ち」になったり、「わ」が「れ」になったり、「に」が「2」になったりしている。「どうしていいか、わかりません」とか「だめですね」など、自分の症状に悩む義母の生の声も綴られている。さらに、毎日の食事の内容が必ず書かれていて、「K子さん、ありがとう」、「けうのごはん、おいしかったよ」などの言葉で結ばれている。Nさんは、「ありがとう」が3回も綴られているところを、それぞれに違った感情を込めながら読み分ける

 時々、Nさんは「ここのところはどうだったの?」とK子さんに聞く。Kさんは、そのころの義母の状態やエピソードについて、記憶をたどりながら答えて行く。「どうしていいか、わかりません」の時は、「実は、この時は義母が布団の上でやってしまって」。義母は昔の人で、症状が進むうちに洋式トイレを受け入れなくなってしまったらしい。
 K子さんは仕方がないので、布団にビニールシートを敷いてやってもらっていたと言う。そうかと思うと、突然家の外に出て見えなくなり、10キロも離れたところで発見されたりした。K子さんは、介護の資格を持って周辺の老人の介護をしていたが、さすがに義母の介護にかかりきりになったそうだ。その状態が何年も続いた後で、義母は亡くなった。その義母の日記には、最後までたどたどしいひらがなで「ありがとうね」の感謝の言葉が綴られていた。

◆着実に進みつつある「ふるさと村」作り
  Nさんが、2冊になった日記をたどりながら読んでインタビューして行くうちに、K子さんは様々なことを思い出したのだろう。それを聞いている周りの人たちも、自分の体験を重ね合わせて涙ぐんでいる。このイベントの企画(というほど大袈裟なものではないが)は、もともと前回7月に訪れてHさんの妹であるK子さんの介護士としての経験を聞くうちに、思いついた。彼女の義母が書いた日記が出て来て、それならこの日記を題材に、NさんがK子さんにインタビューしながら地元の人たちに聞いてもらう会を開いたらどうかと、提案したものである。
 私は、朗読の名手であるNさんの朗読と巧みなインタビューを聞きながら、これはラジオで放送しても充分感動が伝わるドキュメントになっていたなあ、録音機を持ってくればよかった、と思った。集会場でのイベントが終わると、庭でアユや肉、野菜を焼くバーベキューが始まった。主婦たちが力を合わせて作った寿司と、おでんもある。ふるさと村づくりも徐々に形になって来ている。参加した男性陣と一緒にビールを飲みながら、こうしてHさんやK子さんが伊勢畑でのネットワークを作りだしているのを頼もしく思った。

 イベントの中で私は、集まった人々にもう一度、ふるさと村でやろうとしている5項目(その中には、今回のような創造的なイベントなども入っている)を紹介し、私たちもお手伝いしたいと言った。それは多分、地元の人たちと一緒に作って行くものだが、主役はあくまでもHさんやK子さんたち地元の人々、Nさんが舞台回し、私は陰のプロデューサー的な役割になるのだろう。まあ、昔のNさんと私の関係そのままだが、アイデアも出揃って来たので、ぼちぼちと色んな試みをしてみようと思っている。

◆ツリーハウス完成間近
 さて次回は、Nさんが一年以上をかけて取り組んで来た、ツリーハウスの完成式。これから、一カ月ほどかけて窓を取りつけ、ベニヤ板を塗装して完成式は11月下旬になる。それにしてもNさんの根気には頭が下がる。ドームハウスに50畳の広さの集会場、そしてツリーハウス。すぐ近くには温泉もある。Hさんの思いも、良くここまで形になって来たものだと感心する。ふるさと村の基礎も大分しっかりしてきたと思うので、これからは互いの友人たちにも声をかけて一緒に楽しんで行きたい。
たかが5分、されど5分 14.9.15
 メディアの冬の時代に」に書いたような、安倍政権による言論機関への締め付け、あるいは政権に対する「東京、朝日、毎日」VS「産経、読売、日経」と言ったメディア(新聞)の2極化と、それを受けての、特に右側からの朝日への攻撃。そこに勃発した朝日新聞の従軍慰安婦の証言や福島原発事故の吉田調書に関する誤報問題。今、日本のジャーナリズムに激震が走っている。これらの問題については、いずれ何らかの形で書かなければと思っているが、今回、ここに書くことは、それとは全く次元が違うごくささやかなジャーナリズムについてです。

◆ジャーナリストとしての勘
 4年前に完全リタイアした時に、肩書のない名刺を作ろうとして裏面に一行だけ「ジャーナリスト」と書いたことがある。ジャーナリストは特に資格があるわけでもないので、願望を込めて勝手に作ってしまった。その後、友人の誘いで、ある独立行政法人が運営する5分のネット動画配信(「サイエンスニュース」)の編集長になった。また、こちらは先輩の口利きで、テレビドキュメンタリーを作っている制作会社の企画アドバイザーにもなった。
 編集長の仕事は週に2回。企画アドバイザーの方は週に一回。企画会議で、プロデューサーや若いディレクターの皆さんから出た企画アイデアを私が座長になって議論し、それを私なりに整理して全社員にメールで打ち返している。また、この「メディアの風」で、9年あまりも時代の動向をウォッチングしているのも、どこかで常にジャーナリストであり続けたいという願望があるからだと思う。いずれも現役時代に比べれば、責任は軽く随分と気楽なものだが。

 そんな中で最近、自分のジャーナリストとしての勘もまだ幾分かは残っているかと、ちょっぴり嬉しくなったことがあった。「サイエンスニュース」の「日本はどうなる?地球温暖化への適応策」という5分のニュースである。このサイエンスニュースの企画は外部の編集委員5人とともに企画会議を経て決めているが、その時にちょっとした勘が働いた。「地球温暖化の影響については、これまで地球規模のシミュレーション(*)は沢山見ているけれども、日本への影響に限定した研究も始まっているはずだ。今回はそれをやろう」と指示した。*いちばん最初は、私たちが25年前にやったN特「地球汚染」

 外部の制作会社が取材したのを見ると、案の定、今年になって地球規模の影響予測(IPCC)をもとに日本への様々な影響調査がまとめられていた。それによると、影響はデング熱などの感染症をもたらす蚊の北上のほかにも、農業、水産業、都市、運輸、果ては金融に至るまで広範囲に及ぶ。さらに、影響予測はダウンスケーリング手法という新たな技術を使って、東京のような都市部に絞ってのシミュレーションも行われている。そして、今や研究の主眼は地域ごとに異なる“適応策”に移っていた。取材しながらデング熱のニュースも入れられたし、適応策と言う新しい切り口も見つけたわけで、私のジャーナリストとしての勘もまんざらではないわいと気分が良かった。

◆ジャーナリスティックな感覚が分かってもらえない
 ニュースと言っても僅か数人の外部スタッフがいるだけなので、マスメディアの科学部と早さを競うわけにはいかない。編集長としては、周回遅れでもいいから、テーマの選定、取材時の最新情報、背景や課題にまで掘り下げた情報などにこだわりながら、一般の人にも興味を持ってもらえるように分かりやすく伝えることを目指して来た。制作会社もCGなどを上手く使うなど、熱心に取り組んでくれている。
 そのようにして、最近も話題になっている「太陽のスーパーフレア」、「アルツハイマーの最新診断技術」、「宇宙ゴミから身をも守る、スペースガード」、「コンピュータへのサイバー攻撃監視」、「ES細胞を使った網膜再生医療(この時は、自殺した笹井氏を取材した)」、「メタンハイドレード掘削」、「進行する海の酸性化」、「解明!超新星」などなど、就任以来150本のニュースを出して来た。

 テーマを並べてみると、科学の最新情報を5分で過不足なく伝える、こうした科学ニュースが希少だと言うことは、分かる人には分かってもらえると思う。しかし、運営している組織や監督官庁にはこれがなかなか分かってもらえないのが、悩みでもある。テレビに比べればかなりの低予算なのだが、この数年の事業仕分けで本数が一気に減ってしまった。
 最新の研究成果を公平に客観的に伝えることによって、日本の科学技術に対する理解を深め、科学を目指す人々の底上げを図る、そして、伝えていく上では、ジャーナリスティックな感覚で人々の関心にこたえることが大事だということが、役所にはすんなり分かって貰えない。最近では、このジャーナリスティックな感覚というのは、案外、狭い業界的な感覚なのではないかとさえ思うようになった。

◆分かる人には分かるが、分からない人には分からない
 長年、それでメシを食って来たわけで、私などにはその感覚はごく身近なものだ。そして、それを反映して作られた番組や記事に接している一般の人も、充分分かっている筈だと簡単に思い込んでいるが、案外そうではないらしい。特に税金で運営されているような組織では、そうした感覚や大事だと思う信念は続けるうえでの説得材料にはならず、アクセス数やアンケート調査のデータが評価に使われる。むしろそれしかないのである。
 もちろん、そうした客観的な(?)データが必要と言うのは分かるが、こんなにも本数が減ってしまった中で、データと言われてもなあ、というのが正直なところ。独りよがりにならないために外部の編集委員もいるのだから、できるだけ目指すところや志を大事に考えて貰いたいと思うのだが、これは制作者側の勝手な言い分なのかもしれない。

 先日もこんなことがあった。8月30日、私が副会長をしている同好会のような学会(サイエンス映像学会)で、このサイエンスニュースがどのようにCG表現を取り入れているかを制作会社の人に頼んで発表してもらった。今はCGソフトが進んでいる上に、彼(ディレクター)がものすごく優秀であっという間にCGを作ってくれる。そのCGがニュースの中でどういう機能を果たしているかについて、彼が上手に分類して発表してくれた。実践的で役に立つ発表だった。
 ところが、会場のある映像作家から「こういう科学ニュースをネットで配信するのにどういう意味があるのか」という、監督官庁が聞くようなちょっと意地悪な質問が出た。発表者は、多いニュースで15万回ほどのアクセス数があること、無料でテレビなどにも貸し出されて利用されていることなどを上げたが、こういうネットメディアの評価について答えるのはかなり難しい。分かる人には分かるが、分からない人には分からない。編集長の私はもう少し別な答え方をした。

◆一寸の虫にも五分の魂(ジャーナリズム)
 「テレビや新聞のニュースは断片的にしか科学情報を伝えていない。5分と言う長さはその点、過不足なくテーマの内容と背景や課題まで伝えることができる。もちろん、これで充分とは言えないが、関心を持ってもらって次への入り口にして貰うのにユニークで有用な存在だと考えている」というものだった。ただし、これもテレビ、新聞や雑誌など今の科学メディア全体の俯瞰図が視野に入っていないと、容易に分からないだろう。
 本当は、アクセス数とか利用実態も大事だろうが、そういうデータ的なものよりも、まずはジャーナリストとしての信念が大事なのだ、と言いたいところだがこれはなかなか言いにくい。自分が携わっているメディアの特性をわきまえた上で、今取りあげるべきテーマを吟味し、分かりやすく伝える。それが、サイエンスニュースにおけるジャーナリズムなのだ、という密かな信念を持って逆風に耐えるしかない。余談だが、これは視聴率がコンマ以下のEテレや、成果主義を取り入れた科学研究などにも通じる話だと思っている。

 年々予算が減る中、このニュースはこの先いつまで続くだろうか、などとも考えるが、今の仕事は大変ささやかなものであり、定年退職後の私にとって言わばボランティア的なものなので、悲壮感はさらさらない。しかし、タイトルと組織の名を上げれば大抵の研究者が取材に応じてくれるし、最先端の研究を分かりやすく教えてもくれる。そういうやりがいのあるメディアだということを、少なくとも制作陣は意識している。これをアーカイブ化すれば、その時々の日本の科学技術の動向が俯瞰できる。「たかが5分、されど5分」である。
 同時にこうも思う。ジャーナリズムがすんなり理解されない世の中では、こうした思うようにならない状況の中で自分たちが目指す表現の可能性を探って行くのが、ある意味ではジャーナリズムに課せられた宿命なのかもしれない。今、マスメディアを揺るがしている激震に比べれば、天と地ほどの小さな問題ではあるが、制約の中でもやれるうちは、伝えるべきテーマにこだわり、事実に謙虚に向き合い、自己を律しながら信念を持ってやる。それが、(このところ大分希薄になってしまったが)「一寸の虫にも五分の魂(ジャーナリズム)」ということなのかもしれない。
夏のカナダ、チャーチル探検 14.8.24
 カナダ政府観光局が毎年主催するGoMedia会議に出席した。今年の主催地は東西に伸びたカナダとアメリカの国境線の中ほどに位置するマニトバ州の州都、ウィニペグ。人口73万人の都会だ。そこに、カナダ内外のジャーナリスト120人程が集まってカナダ各地からの観光担当者と個別に面談、メディアで取りあげる様々な情報やアイデアを得る。日本からは10人のテレビや活字のジャーナリストが参加した。そして、もう一つ。この催しには会議の前後に様々な「カナダをよりよく知るためのツアー」がついている。

 今年、私が選んだのは、ウィニペグから北に飛行機で2時間半のチャーチルへの3泊4日のツアーだった。チャーチルはハドソン湾に面した人口900人の町で、ツアーのタイトルは、「Churchill Summer Explorer with Frontiers North Adventures」というもの。海岸の岩場をハイキングしたり、クジラの仲間のベルーガをボートやカヤックで見に行ったり、シロクマを観察したり、うまくすればオーロラも見るという盛沢山の計画だった。
 一行8人のうち、日本から参加したのは4人。それぞれ民放の旅番組やNHKの自然番組担当者で、最年長の私は好奇心旺盛な若い人たちから元気を貰いながら、この体力勝負のツアーを乗り切ることが出来た。旅の間で感じたこと(テレビの現状や伝えることへの意欲について)は、近々「日々のコラム」の方に書きたいと思っているが、ここでは、そのツアーの“あらまし”を記録しておきたい。

◆ハドソン湾のベルーガに接近遭遇
 ハドソン湾は日本よりも面積の大きな湾だが、そこに流れ込むハドソン川も川幅が広い。まるで海のよう。ここには毎年、4千頭のベルーガ(白イルカ)が繁殖にやって来る。体長は4〜5メートル、イルカより2回りほど大きなクジラの仲間だが、彼らをまずゴムボート(ゾディアック)に乗って見に行った。波をかぶってもいいように上下の防水服を着こんで出かけたが、波は案外に静かだった。特に濡れることもなく間近に沢山のベルーガを見ることが出来た。私は、それをアイパッドのカメラで撮影した。

 さらに夕方からは、カヤックに乗って彼らを見に行った。カヤックを漕ぐのは初体験で転覆するのが怖く、さすがにアイパッドは諦めて小型のデジカメをビニール袋に入れて持って行った。慌てなければ大丈夫と言うのを信じて沖に漕ぎ出す。水が手元にかかるがそれほど冷たくない。やがてベルーガの群れが現れた。彼らは、特に人間を怖がることもなく、却ってからかうように近づいて来る。親子連れが、時にはカヤックの底にどんどんと当たる位に近づいて来た。カヤック漕ぎにも慣れた所で、防水服の胸ポケットからカメラを取り出して撮影しようとするが、中々タイミングが合わない。
 カヤックを漕ぐこと2時間、疲れてきたので岸を目指して漕ぎ始めた。しかし、向かい風で容易に近づけない。腕が疲れて来た。斜め上を向いて漕いでいたので首の筋肉も痛くなってきた。後で聞いたら、その体勢が間違いで、垂直に座って漕げばよかった。必死で漕いでやっと到着。まあ、初体験のカヤックだったが、次はちゃんとした姿勢で楽しんで見たい。自然番組のY君などは水中カメラでベルーガの顔のアップまで撮っていた(以下、写真はY君)。

◆シロクマを見に行く
 次の日。タイヤの直径が1.5メートルもあるツンドラバギーという大型車に乗りこんで広大な自然保護区内の動物を探しに行った。ここには車の外に一切の食べ物を持ちだしてはいけないという厳しい規則がある。冷戦時代、軍事訓練用に作られたでこぼこ道をゆっくりと走りながら、動物を探す。カナダガンや鶴などの野鳥の群れ、北極キツネなどを観察した後に、遠くの岬にシロクマを発見した。
 そのシロクマが、水中を泳いでこちら岸にやって来た。さらに、ゆっくりと歩きながら数十メートルまで近づいて来る。大型車の中では、皆が一斉に望遠レンズを構える。私のアイパッドでは、点にしか見えないが、同行者はフルサイズの動画で捉えていた。もっとも、(後で結構ちゃんと撮れているアイフォンの写真を見せて貰って知ったことだが)私は情けないことにアイパッドでもズームアップ機能があると言うことを知らずにいた。ついでに言えば、連写機能も。これを事前に知って知れば、水中からベルーガが頭を出す瞬間を捉えられたのに。

 ここチャーチルは、冬にハドソン湾が最初に凍り始めるところで、それを知っているシロクマはチャーチルに集合して、ここから氷海に出る。いわば、シロクマの通り道になっているところで、そこに人間が町を作ったために、シロクマとの様々な軋轢も出ている。私たちはシロクマが出没する海岸もハイキングしたが、その時にはライフル銃を持ったガイドが付いた。町に出て来たシロクマを一時保護する施設もある。近づいて来たシロクマは、ゆったりと歩いていたが、やがて丘の向こうに姿を消した。

◆念願のオーロラを見る
 夜が長く天候も安定している冬、チャーチルはオーロラを見に来る観光客でにぎわう。私たちは、運が良ければ夏の今でもオーロラが出るかもしれないと聞かされていたが、2日間ともダメだった。そして最後の晩。遅い夕食を取ってホテルに歩いて帰ろうとすると、夜空がほのかに輝いている。「あれは、オーロラでは?」と皆が指をさす。すると、ツアーの主催者が「そうだ」と言い、車で町明りの届かない海岸まで連れて行ってくれた。初めて見るオーロラだった。空の端から端まで幾筋かの光の帯が光っている。
 光は、少しずつ形を変えて行く。時間を見ると夜の10時半。外気は震えるほどの寒さだ。通常なら出ても12時過ぎだと言うのに、幸運だったのだろう。もちろん冬のような盛大なものではなかったが、この季節には珍しくはっきりと見えた。動物を見てもそれほどではなかった私も、これには結構感動した。しかし、私のカメラでは全く写らない。Y君は三脚を立て、30秒露光でうまく撮影して私に写真を転送してくれた(手前の石の構造物はイヌクシュク、先住民のモニュメント)。

◆若いテレビ屋さんたちに触発されたこと
 チャーチル・ツアーの後はウィニペグに戻り、GoMediaの会議に参加した。10日間の旅だったが、今回も興味深い情報やヒントを幾つか得ることが出来た。会議では、去年のプリンス・エドワード島のツアーでお世話になったイザベル(*)にも会うことが出来た。彼女は現在妊娠中で、来年1月に母親になるという。「生まれたら私の赤ちゃんを抱いてね」などと嬉しいことを言ってくれた。考えてみれば、私のカナダとのお付き合いも随分と深くなったものである。*「島を食べ歩いた日々
 最後に幾つか心に響いたことを上げておきたい。一つは、自分の体力である。行く前は足首が痛いなど、色々小さな故障が気になったが、何とか無事に乗り切ることが出来た。歳を取ると自分の限界に注意が向くようになる。若い人たちに混じりながらも、一足早くホテルに戻ったり、お酒を控えたり。要するに調子に乗って無理をするということがなくなる。それに精神的には旅に出た方が解放されて元気になる。今更ながら、それを確認できたことがちょっぴり嬉しかった。

 もう一つは、若いテレビ屋さんたちから元気を貰ったことである。取材で世界中を飛び回っている彼女たちが仕事にかける熱意は、半端ではない。過酷な制作条件の中でも堂々と自立して頑張っている。そのタフさを見ていると、こちらも久しく忘れていた表現への意欲を触発される思いがした。と言っても、今の自分がテレビの番組を作れるわけではないが、その時に湧いて来た思いの正体を見てみたい気がした。そのことについては少し考えて「日々のコラム」の方に書こうと思う。
人生の下り坂を生きる 14.7.23
 4年前に、40年以上勤めた会社と関連会社を完全リタイアした。その時の心境は、「さあ、これからだ」という気持ち。サラリーマン人生としては、まあそこそこ生きて来て、自分の能力からすれば65点から70点程度の達成感もあったので、別に思い残すこともなかった。そんな過去を振り返らず、これから残された時間をどう充実して生きるかを考えよう、という気持ちが強かった。
 様々な出会いと偶然から、その後もこれまでの経験とノウハウを生かしたボランティア的な仕事に携わっているが、それも流れのままに、退屈もせず、むしろ創造的な部分が多いことに感謝したい気持ちでやっている。そうして4年が過ぎた。やがて、これらの業務も店じまいの時が来れば、本格的な「毎日が日曜日」の老後が始まって行くだろう。

◆70年生きて来た時間の重さ、記憶の重さ
 そういう時期に備えて、新しい生活にシフトして行く“生活の見取り図”については、前々回に書いた(「伊勢畑ふるさと村開所式」)。まだ漠然とした構想段階だが、それはそれで老後の生き方としては楽しいかもしれないと思っている。その一方で、このところ、この年齢に特有かもしれない“ある感覚”が時々頭をもたげて困ることがある。それは、一言で言えば「記憶の重さ」の感覚だろうか。あるいは過ごして来た「時間の重さ」の感覚だろうか。 
 人生70年も生きて来ると、自分が過ごして来た時間の長さが、手に負えない位に長く思える時がある。別に波乱万丈でもなく、記録に残すような実績があるわけでもない。むしろ、そんなものとは無縁にごくごく平凡に生きて来た。なのに、生きて来た時間の長さに圧倒される感じがする。特に、幼少期の自分に流れていた時間や、小学校の往き帰りの時間。その濃密で遥かな時間は、戦後日本が過ごして来た時間とオーバーラップして、ものすごく遠くに思える。(写真は伊勢畑の虹7/20)

 何しろ、自分が小学校の頃は、家にあった「少年少女世界文学全集」で外国の物語を読んではいても、自分が外国に行くようなことは想像もしなかった。当時はそれが普通の日本人の感覚だったと思う。自分の幼少期を振り返ると、ただ田舎の環境の中で無心に遊んでいただけのように思う。しかし、この半世紀で日本は世界に冠たる経済大国になり、大きな変化を遂げた。自分の来し方を考えると、そうした戦後日本の変化と重なって、自分の人生も遥か遠くの事のように感じられるわけである。
 それが時として、漠とした時間の重さ、記憶の重さとなってのしかかって来る。これは、写真や日記を手掛かりに、自分で何とか整理出来る類のものでもない。ただ、記憶の中に遥かな時間の長さとしてあり、時々漠然とした重さとなって心を弱らせる。それを感じると「すべては、これから」と思った定年直後とは打って変わって、「結構、もう充分生きたよな」という感じになって、前に進む気力が失せて来る。その、時間の重さを引きずりながら前進するには、かなりの力がいるような気がする。

◆人生の下り坂のサインの数々
 その時間の重さに加えて、今度は体のあちこちに故障が始まる。その都度、修理しながらやってはいるが、身体の部品がガタついて来る。先日も、右腹と右の背中が痛くなって、ネットで調べたら「最悪のケースは胆肝がん」などとあった。ここは医者に言わせると、すい臓、肝臓、胆のう、腎臓が集まっているところ。その痛みがなかなか消えないので、慌てて医者に行き、超音波を当て、ついには腹部のCT画像まで撮った。
 これは、何事もなくて済んだが、この内蔵の異変は嫌な気がした。膝の痛みや歯の具合の悪さ、睡眠障害(これはかなり面白い話なので別途書きたい)、耳鳴りなどは日常的だ。身体の老化は確実に進んでいる。そう考えると、自分の身体はこれ以上良くなることはなく、後は下り坂。急坂なのか、緩やかな坂なのかは分からないが、この先は、次々とやって来る小さなトラブル、大きなトラブルに出会うだけで、良くなることはない。人生の下り坂を生きる段階に差し掛かっている。

 漠然とした時間や記憶の重さ、抱えて行く身体の故障の数々。そして、目の前に広がる下り坂の風景。それを思うと、「すべては、これからだ」と考えた定年直後の前向きの気持ちを忘れがちになる。別に思い出を数えるように過去を思い出しているわけではないが、70年という時間の長さがもたらす漠とした億劫さである。90歳を超えた年寄りがよく「後は死ぬるだけ」などと冗談に言うが、それに似て来た。まだ自分はそこまでではないにせよ、果たしてこれでいいのだろうか。

◆あるがままの世界を受け入れ、前向きに生きる
 そこである晩、夜中に目が覚めて布団の上に座ってつらつら考えた。そしてその時、ふと思ったわけである。これから先、人生の下り坂の自分に起きて来る様々なことを、そのまま受け入れるしかないではないか。体力の衰えも、身体の不調も、記憶力の減退も、現実をありのままに受け入れるしかない。今は、人生90年などと言って驚くほど元気な老人も、まだ社会的に活躍している老人も沢山いるが、そんなことと比べる必要もない。他人の人生と比べたりせず、今の自分のあるがままを受け入れる。
 まるで、「アナと雪の女王」の歌みたいだが、「ありのままの自分でいいのよ」だ。その上でなお、今こうしていられることが充分幸せだと思えるようにしたらいい。それは何だか、突然降ってわいたように起きて来た想いだった。下り坂なら下り坂でもいいではないか。それは、自然なこと。故障でも病気でも、そして要介護の状態だって、死ぬことさえも、あるがままに受け入れる。それでいいではないか。

 そう思うと何故か、過去の時間の長さ、時間の重さからも幾らか解放されて、ゆっくり下り坂を歩き始めよう、前に向かって進もうと言う気が起きて来た。あるがままの今を受け入れ、今を生きる。他人の人生とあれこれ比べることもない。そういう風に思うようにした。――と、ここまではこの数カ月前に漠然と考えたことである。それが、文芸春秋7月号の中の「難病と闘う夫婦の対話 篠沢秀夫“ALS介護五年”の全記録」を読んで驚いた。
 あの「クイズダービー」で一世を風靡した篠沢教授が難病のALSにかかって筋肉が委縮し、いまや僅かに指がパソコンにようやく触れるだけで執筆を続けているという。その教授が同じような心境を綴っている。教授はそれを「ネオアルカイスム」と名づけたらしい。つまり、古代の人たちのように何かを自分と比較したりせずに、あるがままの世界を受け入れ、前向きに生きること。教授は大変な不自由さを生きる中で、その心境に到達したという。人生には、いろいろと大先輩がいるものである。

◆「人生を生き抜く」と言う言葉
 今、自分はちょっとした想いを持っている。70歳を過ぎたら例の“生活の見取り図”をシフトする。老後の楽しみもさることながら、「創造的」ということを中心に置くならば、出来ればコラムに一区切りをつけ、今度は「風の日めくり」をメインに書いて行くのはどうだろうか。そして、老後の日々の心の動きを綴って行く。私小説家の尾崎一雄が書いたように、日々の出来事を微細に書いて、生きることのリアルを自分なりに“意識化”し、記録して見たい。
 それを、幾らかの歳月でも続ければ、「人生を生き抜く」ということに少しは近づくかもしれない。あと何年生きられるか知れないが、今は、その「人生を生き抜く」と言う言葉にちょっと憧れているわけである。
大英帝国の残り香を探す 14.6.29
 6月9日から足掛け8日間のイギリス・ツアーに参加した。カミさんの希望だったが、私もイギリスのスコットランド地方や湖水地方は行ったことがなかったのでお付き合いすることに。かれこれ15年振りのイギリスである。その時の頭の片隅には、今のイギリスはどうなっているのだろう。かつての大英帝国の名残(なごり)を感じる旅も悪くはないかと言う思いがあった。
 ツアーのコースは、初日に飛行機でスコットランドのエディンバラまで行って、そこから順次、湖水地方〜ピーターラビットの故郷〜リバプール〜陶磁器のウェッジウッド工場〜シェークスピアの生家〜ローマ時代の温泉跡バース〜古代遺跡ストーンヘンジ〜ロンドンとバスで移動するというもの。大英帝国の名残と言えば、途中、シェークスピアの生家に近いコッツウォルズでは、かつての貴族の館「マナー・ハウス」に泊まった。それもツアーのセールスポイントの一つだった。

◆◆◆
 ビートルズの故郷のリバプール。ここで私たちは、ツアーガイドからリバプールが、かつて「三角貿易」の拠点港だったと説明された。聞き覚えのある言葉だ。三角貿易とは、リバプールの港から繊維や武器、ラム酒を西アフリカに輸出し、西アフリカからは黒人をアメリカ大陸の西インド諸島に運ぶ。そして西インド諸島からは、黒人奴隷が作った綿をリバプールに持ち帰る、という三地点を結ぶ貿易である。
 16世紀から18世紀にかけて、リバプールには繊維産業が栄え、それが莫大な富を大英帝国にもたらしたが、一方で、この奴隷貿易で3世紀の間におよそ2000万人の黒人がアメリカ大陸に送られたという。しかし、かつてはロンドンに次ぐ「帝国第二の都市」といわれたリバプールも、その後は寂れて今はビートルズの故郷として観光に力を入れている。街には、「ビートルズ・ストーリー」という記念館があって、ビートルズゆかりの品々や歴史が見られるようになっている。

 大英帝国と言えばイギリス王室。私たちは期せずしてツアーの間に、6月10日にエディンバラ公(エリザベス女王の夫君)の誕生日、6月14日にエリザベス女王の“公式”誕生日(*)に出くわした。エディンバラ城では、その祝典の準備が行われていたし、(群衆が詰めかけていたので、観光バスは時間をずらしたが)女王のパレードが終わった後のバッキンガム宮殿では、(ガイドの話では幸運にも)鮮やかな色の王家の旗がなびいているのを見ることが出来た。

 ロンドンの市内観光では、ウェストミンスター寺院にも行った。この教会にはイギリスの歴代の王室の墓があると同時に、各時代の著名人の墓が床下に設けられていて、参拝者はその上を歩いて見て回るようになっている。ニュートンやダーウィン、探検家のリビングトンの墓もあって、改めてイギリスの伝統文化の奥深さを感じさせる。シェークスピアの墓もあったが、墓の本体は彼の生まれ故郷のストラッドフォード・アポン・エイボンにある。
 ストラッドフォード・アポン・エイボンはエイボン川が流れる街。そこで彼の生家と、墓のある「ホーリー・トリニティ教会」を訪ねた。生家は木骨の変哲のない古い家だが、墓には行ってみたかった。教会の奥に祭壇があり、その手前に彼が遺したという言葉「墓石に触れぬものに幸いあれ、我が骨を動かす者に呪いあれ」が刻まれている。とすると、ウェストミンスター寺院の彼の墓に、本物の骨はないのだろうか?私は、彼の才能のオーラを少しでも感じたくて、しばしそこに佇んだ。

◆◆◆  
 大英帝国の文化の奥深さもさることながら、いちばん印象に残ったのは何と言っても
田園風景の美しさと、どこまでも続く広大な農地、牧場の緑だった。ツアーの期間中、天候に恵まれたので鮮やかな緑が目に沁みた。特に今は、夜の10時くらいまで明るい。明るい西日を受けた牧草地で、羊や牛たちがのんびりと草を食んでいる。面積は日本の3分の2と狭いが、高い山がないイギリスは農地が広い。北海道の富良野のような眺めが延々と続く。様々な地平線まで次々に現れる。







 「ピーターラビット」の絵本作家ベアトリクス・ポターが晩年を過ごした湖水地方のヒルトップ農場。そこにもイギリスの美しい田園風景が広がっていた。彼女が印税で買いとった周辺の広い土地は、自然保護の「ナショナルトラスト運動」の走りになった。綺麗な花々が植えられ、丁寧に石積みした仕切り壁が道路端に続いている。それは、コッツウォルズ地方の「ハチミツ色をした石壁の家」が建ち並ぶ村(バイブリー)も同じ。澄んだ小川が流れ白鳥や水鳥たちが悠々と遊んでいた。

 古い遺跡も見た。「風呂=bass」の語源にもなったと言う古代ローマ時代の温泉跡バース。イギリス唯一の温泉で昔は湯量も多かったらしい。若い頃に一人で訪ねたことがあったが、その時の記憶がよみがえって来た。あの時は、何であんな所を訪ねようと思ったのだろうか?それが中々思い出せない。古代遺跡は人を引き付ける何かがあったに違いない。その意味で、まだ見ぬストーンヘンジ(ストーンサークル)は楽しみの一つだった。
 地平線まで見渡せる牧草地の少し小高くなったところに、遺跡はあった。海岸から離れたここまで、どのようにして石を運んだのか、何のために作られたのか。未だ謎の多い建造物だが、巨大な石が無言のままに立ち並んでいる光景には圧倒される。周囲にはこの遺跡しかない。敢えて観光客を離れた所に降ろし、専用のバスで近くまで運ぶ。人々は思い思いに遺跡の周囲を円を描くようにして巡るだけ。遺跡から聞こえて来る声に耳を澄ますように、無言で。日差しがきつかったが、草原をわたる風は爽やかだった。

◆◆◆
 ほんの一瞬に過ぎなかったが、大英博物館も見た。ここでも若い時にエジプトのミイラを見てびっくりした記憶がよみがえった。そういうわけで、駆け足のツアーでかつての大英帝国の残り香を探す旅もあっという間に終わった感じ。ツアーの間中、イタリアやパリの時と同じように、ガイドさんから「スリに気をつけて。カバンをしっかり前に持って」と耳にタコが出来る位に聞かされた。最近は、警官の服装をしたスリ集団がパスポートやカードを見せてと話しかけて来るそうな。移民の流入でイギリスも大分変わったのだろう。

 自由行動時間にはカミさんと2人で、バッキンガム宮殿からトラファルガー広場まで歩き、ナショナルギャラリーを観た。そして買い物をするために、東京で言えば銀座通りに当たるような目抜き通りを歩いている時のこと。沿道の人々が歓声を上げるので見ると、100人を超える自転車の集団がゆっくりと走っている。男性はもちろん女性も、殆どが生まれたままのすっぽんぽんの裸だ。後で聞くと、これはヌーディストたちが地球環境保護などを訴える、年に一度のイベントらしい。
 日本では考えられない光景がしばらく続いた。自転車集団の後ろは車の大渋滞だが、警官が止めるでなく。まあ、これも多様な文化の共存を認め合うヨーロッパの奥の深さかもしれない。帰国後、高齢にもかかわらず海外旅行に良く出掛ける人と話すことがあったが、彼女いわく「海外に出て帰って来ると元気になる」のだそうだ。やはり、海外に出ると、どこかで気持ちが解放されて若返る所があるのかもしれない。その点、自分はどうだったのだろうか。

*)本当の誕生日は4月21日だが、英連邦全体で祝うために毎年、5月下旬から6月上旬の都合のいい日が「公式誕生日」になるらしい。