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一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。
“死活的に重要”で戦争に 14.7.22

 7月14、15日のたった2日間だけ行われた集団的自衛権の国会審議海外での武力行使によって自衛隊員(国民)に犠牲が出る可能性について、野党が最高位責任者としての自覚について質問したが、首相はまともに答えない。「(戦死者を出すかどうかの判断については)滅多にそういう判断はしないし、そうしなくてもいい状況作っていくことに、外交的に全力を尽くしていく」など、相変わらず(訳の分からない)本心からも、実体からもかけ離れた空虚な言葉を並べただけだった。
 首相はかつて、集団的自衛権が必要な理由として「軍事同盟は血の同盟だ。アメリカの若者は血を流す。しかし、日本の自衛隊は血を流すことがない」(2004年)と述べているが、「日米同盟を血の同盟にする」などと言ったら露骨すぎるので、その本心を出来るだけ隠そうとしているに過ぎない。しかし、その本心を反映した“解釈”は隠しようもなく、公明党の意見を入れて作ったという「武力行使の新3要件」も安倍にとっては何ら歯止めにならないことが見えて来た。そのキーワードが「死活的に重要」という言葉である。

◆「死活的に重要」で、歯止めにならない3要件
 7月13日に放送されたNスペ「集団的自衛権 行使容認は何をもたらすのか」によれば、武力行使の新3要件の重要部分「(我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し)、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」の後半は、公明党の北川副代表(写真)が自民党側に容認の条件として持ちかけた文言だった。これを読むと、一見余程のことがない限り武力行使は行わないように見える。
 しかし、国会審議の中で安倍はペルシャ湾のホルムズ海峡での機雷除去にこだわった。この海上交通路が封鎖されれば、国民生活に「死活的に影響が出る」と言い、3要件を満たすとしたのである。同時に、日米関係が揺らぐことについても「死活的に重要」として武力行使のケースになり得ると答えた。

 「死活的」とは、文字通り「生きるか死ぬか」ということだから、確かに言葉上は要件に入る。しかし、これらのケースが、直接的に国民生存の権利を根底から覆す明白な危険なのかどうか。安倍らの一直線な“風が吹けばおけ屋が儲かる”式の解釈は、(戦争を忌避する国民感情とは反対に)武力行使に相当入れ込んでいるように思える。
 同様に、他の様々な事象に対しても政府が「死活的に重要」と判断すれば、海外での武力行使は可能になる。これでは「歯止めは何もかかっていない。無制限に武力を使えることが浮き彫りになった」(柳沢協二・元内閣官房副長官補)と言われても仕方がない。公明党が、きちんと歯止めをかけたと胸を張る3要件も、(安倍たちにとっては)実質的に何の歯止めにもなっていないことが露わになりつつある。

◆日本近隣での戦争に巻き込まれるリスク
 結局、アメリカが海外で戦う時に、その戦争に付き合うように求められれば、日本は参加せざるを得なくなる。要求を断ることは日米関係を毀損することになり、それは日本にとって「死活的に重要な事態」だからだ。それが、(国際的に言えば)集団的自衛権というものの本来の意味であり、安倍たちが構想する「日米同盟を血の同盟にする」ということの内実である。先日のNスペが紹介したドイツの場合も、そのような集団的自衛権によってアメリカが始めたアフガン紛争に参加して55人の犠牲者を出した。そうした内実は同時に、日本にとって戦争を放棄した憲法9条の空文化を意味する。

 Nスペはドイツが集団的自衛権を決断する時には議論に4年の時間をかけたと紹介すると同時に、さらに重要な情報も伝えていた。それは「ドイツは近隣諸国との良好な関係を築いた後に、集団的自衛権の採択を決断した」と、ドイツ元高官が述べたくだりである。これは過去の歴史の反省もあるだろうが、一方で言外に、ドイツは(自国が戦場になり得る)ヨーロッパの近隣で戦うことはなく、仮に戦うにしても地球の遠隔地になる、ということを示唆している。そこが日本とはまるで違っている。
 日本は反対に、日本の近隣諸国の国際情勢の変化、つまり中国などの脅威への抑止力として、集団的自衛権の必要性を説いて来た。その近隣諸国と今の日本は緊張関係にあり、とても良好な関係とは言えない。そこがドイツと決定的に違う。そのことは同時に、日本の場合、集団的自衛権によって重大な戦争に巻き込まれるリスクは、むしろ日本の近隣において高いことを意味する。安倍がホルムズ海峡などといっているのは、煙幕なのではないかと勘繰りたくなるくらいだ。

◆近隣諸国と対立したままではかえって危険
 例えば、仮に今緊張が高まっている南シナ海で中国と周辺国が衝突し、アメリカが何らかの行動を起こして中国と小競り合いになった時、日本はどうするのか。あるいは、(1995年の時の第三次台湾海峡危機ように)仮に中国と台湾の間で緊張が高まり、アメリカ軍が出動した時はどうするか。アメリカが攻撃を受ければ、日本は日米同盟の維持や南シナ海の航路確保を「死活的に重要」として武力行使に出る可能性は高い。
 それが、要件の3項目目にある「必要最小限度」にとどまる保証はどこにもない。仮に日中の武力衝突を口実に中国が尖閣にまで戦闘行為を広げたらどうなるか。首相は「むしろ集団的自衛権の存在が抑止力になる」と言うが、日本近海での集団的自衛権の行使は、日本国内にまで戦禍を広げる恐れがある。国会は、ホルムズの機雷除去ばかりでなく、あらゆる角度から「日本近海での武力行使のハードルを下げるリスク」を論じるべきだと思う。

◆中国脅威論とどう向き合うか
 今の日本には「中国脅威論」が蔓延している。それには、もちろん中国の覇権主義的行動にも責任があるが、安倍政権はそれをより強調しながら、着々と武力行使の仕組みを整えてきた。それが抑止力につながるという考えだが、平和を追求し、戦争を避けることを最大課題にする限り、中国との関係改善を最優先で模索しなければならないはずだ。「近隣諸国と対立したままで、いくら平和を叫んでも、それは空念仏だ」(野中弘努氏)なのである。
 安倍は「対話のドアはいつでも開かれている」と言うが、中国からは「口先だけだ」などと言われている。その点では、中国と対話を続けているアメリカの方を見習うべきで、幾ら嫌な相手でも対話を続けて、いざと言うときに衝突を回避するルール作りだけでも急ぐべきではないか。その意味でも、歴史認識の違いや国粋的価値観に捉われずに、中長期的な中国の実像をリアルに見極めることが重要になる。そこで次回は、この厄介な中国脅威論とどう向き合うべきかを考えてみたい。

メディアの冬の時代に 14.7.16

 安倍政権によるメディアへの介入については、以前にも「自民党の中でも、特に安倍はこれまでも露骨なメディア介入を行う体質を持っており、言論機関に対して先進国の首脳が備えているべき自制や遠慮というものがない(*)と書いて来たが、これが2年目に入って一層露骨になっているらしい。実際には取材できないので伝聞で書くしかない上に、かつてメディア(NHK)で働いていた身としては、古巣の事情をあれこれ書くのに逡巡する部分もある。しかし、退職者有志による会長辞任を要求する署名活動も始まっていることもあり、今回は、(伝聞も含めて)最近の安倍政権による“メディア支配”について書いておきたい。「反省なき国家主義を問う」(13.5.8)

◆クロ現に菅官房長官が生出演して
 7月3日のNHK 「クローズアップ現代」では、集団的自衛権の閣議決定を受けて菅官房長官が番組に生出演、国谷キャスターと政治部の原記者が聞いた。菅と言えば今や政権NO2の権力者だ。私もこの番組を見たが、幾つかの感想を持った。一つは如何にクロ現と言えども、(政府広報になりかねない)こうした際どい企画を現場が考える筈がないから、これは明らかに政権側からNHKに持ち込まれた企画だろう。この前の高村副総裁の出演(「ニュースウォッチ9」6/26)といい、要求はここまでエスカレートして来ているのかと暗然とした。
 もう一つは、殆ど一方的に集団的自衛権を宣伝した菅に対して、最後の最後で国谷キャスターが食い下がった時の菅の“怖い”表情である。彼女の質問を即座に否定する菅の怒りを押し殺した目が死んでいる。三つ目は番組が尻切れトンボに終わった時の後味の悪さ。いつもなら笑ってすますハプニングだが、その前の緊張感漂う雰囲気からすると、ただでは済まない何かを予感させた。

 その答えの一つが11日発売のフライデーの「安倍官邸がNHKを“土下座”させた一部始終」だった。早速、書店でその部分に目を通してみると、番組終了後に待機していた秘書官が「一体どうなっているんだ」とつっかかり、NHKの上層部が平謝り、会長も菅にわびを入れたという。そればかりではない。その数時間後には、官邸からNHK上層部に「君たちは現場のコントロールも出来ないのか」と抗議が入ったらしい。
 これを受けてNHK上層部は、「誰が中心になってこんな番組作りをしたのか」、「誰が国谷にこんな質問をしろと指示したのか」などと、犯人探しのようなことを行ったという。この記事について、菅は「事実と全く違う。 ひどい記事だ」と否定し、フライデー(発行元、講談社)に抗議するかどうか検討すると言ったが、突けばヤブ蛇だろう。火のない所に煙は立たず。大方、殆ど似たような騒ぎがあったに違いない。特に今年1月に会長が代わってから、官邸からの注文、文句は日常茶飯事だからだ。

◆新会長問題、政権からの介入を生む構図
 これまでのNHKは、外部から会長が来ても何とか現場が頑張って来た。始めは身構えていた会長も、職員が頑張って出した放送を見て、現場に任せる姿勢を出来るだけ貫いて来た。2代前の福地会長(元アサヒビール会長)は、文化人で放送文化に対する理解も深かったし、放送に対する外部からの文句に対しても毅然としていた。その後の松本会長(元JR東海社長)は、放送には殆ど口を出さなかったらしいし、政治家との付き合いも一切断っていたという。だから、送りこんだ側から嫌われ、1期で退任せざるを得なくなったという話もある。
 手前味噌ではないが、外部から来た会長たちも、(国民とともに歩んで来た)戦後の放送文化の歴史を理解しようと努め、現場の熱意や質の高さに敬意を払い、どこかで共感すら持っていたのだと思う。それが普通のトップのあり方だろう。だから、外部から会長が来てもそう心配することはない、というのが後輩幹部の意見だった。しかし、今度の会長はそうはいかない。放送に興味がない上に、番組を見てもいない。端(ハナ)からNHKは偏向していると思い込んでいる。

 放送を愛さず、関心を持たず、何かと言えば権力をかさにきて職員を恫喝する。そういう新会長のもとで番組を作り続ける職員も、辛いものがある。時々、頓珍漢な意見(例えば、消費税のいい面をもっと取りあげろ、どんな番組でも両者の言い分を公平に出してバランスを取れ、など)を言って顰蹙を買っているが、人事だけは露骨な論功行賞を行っている。放送の総責任者に経済部出身の理事を当て、秘書トップにもあり得ない特進で経済部記者を抜擢した。いずれも、あの国会答弁で失言会長の面倒を見た人々らしい。
 困ったことに、問題はどうもその人々だともいう。放送というものを熟知しない、本来ならそういうポジションにつくはずのない人間が、放送の総責任者と会長秘書になり、(立場上)官邸との窓口になっている。今や官邸筋からの注文は、彼らが送り込んだ会長にではなく、直接、彼らに来るらしい。防波堤になるべき人間がそれでは、現場は苦労する。今回のフライデー問題ではどうだったか分からないが、さもありなんという図式が、既に出来上がっているわけだ。

◆政治報道は終わった?
 官邸は今もニュースの一つ一つを監視している。そのせいかどうかは分からないが、最近のNHKの政治ニュースは、殆どが安倍番の政治部記者が書く自主規制が効きすぎた内容になっている。そして、それが頻繁にニューストップに来る。NHKの政治記者も内心忸怩たるものがあるのではないか。詳しくは書かないが、聞けば(安倍政権が目の敵にしているTBSの報道番組の現場も含めて)こうしたメディアへの締め付けは、他のメディアにも及んでいる。
 「官邸崩壊」を書いた上杉隆氏によると、今の安倍政権は、短命に終わった第一次安倍政権の失敗の原因を「メディア戦略の失敗」と捉えて、強硬なメディア戦略を取って来た。メディアのトップと会食を重ねるとともに、記者クラブを利用して政治記者を抑え込む。既に、元政治記者の間からは「日本の政治報道は終わったよ」という自嘲的な声も聞こえて来る状況らしい(*上杉隆のブログ

 これはいわば、日本における「メディアの冬の時代」の始まり。一方で、危機感を抱いたNHK退職者による「会長辞任・罷免要求申し入れ」の署名活動も始まっている。「第一に、籾井氏が会長にとどまることは、政府・政治権力から独立した放送機関であるべきNHKにとって、重大な脅威となっています」に始まる呼びかけである。私も署名した一人だが、今の会長はどんなことがあっても自分から辞めると言いだすタイプではないらしい。 
 8月の内閣改造に絡んでの、会長辞任の“希望的シミュレーション”もあれこれ聞いたが、ここでは触れない。むしろ、私はここで放送現場の人々に、こういう「メディアの冬の時代」だからこそ、それに耐えて“放送人”としての底力を発揮して貰いたいと願っている。その意味で最後に、先日放送されたNスペ「集団的自衛権 行使容認は何をもたらすのか」(7/13)について書いておきたい。

◆放送現場の意地を見せたNスペ
 この番組は、集団的自衛権の容認に至る自公のせめぎ合いを取材した。政治部長がキャスターを務めると言う異例の進行。反対の立場から見れば、もの足りないところもあっただろうが、見終わって、私はある種の感慨を持った。容認に至る事実を追いながら、ぎりぎりのところで踏ん張り、番組制作現場の意地を見せたと思う。「事実を持って語らせる」。そして、その事実に於いて他の追随を許さぬほどに食い込む。しかも、相手と距離を保ち、取り込まれまいとする姿勢も示した。
 内容についても見るべきものがあったが、詳しくは次回に書きたい。印象に残ったのは、安倍番記者が安倍にインタビューするシーン。行使容認が自衛隊員の犠牲を生むのではないかという質問を、安倍がはぐらかす。そのシーン冒頭のカメラワークは、インタビュー風景をカメラ越しに引いたところから始まる。敢えて距離感を作ったのはスタッフの意地だろう。それは昔、新聞メディアに怒った佐藤栄作元首相が、記者を退去させて行った無人の退任会見(1972年)の引いたカメラワーク(*)を思い出させた。そういう意味では、NHKは常に政権と微妙な関係にあった。そうした歴史を踏まえつつ、放送人としての志を持続しながら「冬の時代」を耐えぬき、真に国民のための放送を模索して欲しいと願う。YouTubeで始めの方だけ見られる

資本主義の終焉とアベノミクス 14.7.7

 7月に入って、安倍政権の支持率が落ちて来た。国民を蚊帳の外に置きながら、国民が頼みもしない「戦後レジームからの脱却」という自分たちの価値観を強引に押し付けようとしているのだから当然と言えば当然。読売新聞の調査でも安倍の支持率(48%)は初めて50%を割り、一か月前に比べて9%も下落した。これには与党も衝撃を受けているというが、あくまで集団的自衛権にこだわる安倍は必死のイメージ回復作戦を展開しようとしている。
 一つは、今回の支持率低下を「ネガティブ報道のせいだ」(萩生田光一総裁特別補佐)と言っている彼らの考えそうなことだが、メディアへの一層の締め付けである(これについては、回を改めて書きたい)。それに北朝鮮の拉致調査。これを11月頃(沖縄知事選がある)まで引っ張りながら、政権浮揚策に利用したい思惑がちらつく。担当記者を引き連れて行く頻繁な外遊もそうだ。そして、もう一つの頼みの綱が経済政策(アベノミクス)のアピールである。

 安倍政権はこれまでも、アベノミクスの効果を宣伝することによって高い支持率を作りだし、それを隠れ蓑に「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」などのきな臭い国粋保守路線を進めて来た。しかし、衣の下の鎧がこれだけ露わになった現在、果たして衣(経済政策)に騙される国民はどれだけいるだろうか。しかも一説には、その衣も既に綻(ほころ)びかけて来ているという。いわゆる「アベノミクスの旬過ぎた」(毎日5/16)だ。この先、日本経済はどうなるのか。経済に疎い私だが、今回はアベノミクスを取り巻く最近の論調を私なりに整理しておきたい。

◆株価依存政権の危うさ
 政府は6月24日の臨時閣議で、いわゆる「骨太の方針」(経済財政運営の基本方針)と「成長戦略」を決めた。経済政策の第三の矢だが、その内容は少子化対策、法人税の引き下げ、農協などの見直し、成果主義の導入(残業代ゼロ)、混合診療、女性労働の拡大、外国人労働者の受け入れ、年金資金の株式市場への展開など。岩盤規制に穴をあけるなどと言っているが、その多くは「市場の意向」や「企業の意向」に沿ったもので、本当の意味で新規の成長産業を育成するのに効果があるのかどうか。

 中でも問題は、年金資金の株式市場への展開。年金積立金(126兆円)の株式投資比率を増やすというものだが、これに国家公務員、地方公務員、私立教職員の3共済資金も追随する動きを見せているので、今後8兆円から10兆円に上る金が日本の株式市場に流れ込む計算だ。これが海外からの思惑買いも呼んで、去年末からじわじわと下がっていた株価が5月19日以降、一本調子で上がり始めている。国民の虎の子資金までリスクのある株式投資に回そうとする安倍政権のやり方は「官製相場」、「株価依存政権」などと揶揄されている(エコノミスト7/1号)。
 安倍政権がそこまで株価の動きを気にする理由は、株価上昇が支持率に連動していると思っているから。日々の値動きを気にする安倍が執務室に株価表示ボードを持ちこんでいるというので、町村信孝(元官房長官)から「あれ消しましょうよ」とアドバイスされたらしいが、外国人投資家(ヘッジファンド)がその“ABEの焦り”を虎視眈々と狙っていると言うから、笑えない話である。

◆アベノミクスの実体とその危険な副作用
 もっと笑えないのは、幾らアベノミクスで「異次元の金融緩和」をしても、それが実体経済の成長にはつながらない、という見方である。去年4月に2年間で2倍にするとした量的緩和だが、「市中のお金」はこの1年間に73兆円も増え、現在は220兆円にもなった。しかし、資金は肝心の企業の設備投資に向いていない。既に多くの日本企業が海外に生産拠点を移しているので、円安になっても国内企業の輸出増につながらず、投資意欲に結びつかないからだ。銀行に溜まった資金は、株式市場に流れ込むか、海外市場に流れ込んでいる。
 デフレ脱却を目指した消費者物価の上昇は+1.3%で、これも突き詰めれば円安の影響。円安が一段落すれば、2年間に2%の上昇という日銀方針は達成が難しいという意見も多い。肝心の経済成長率も、(いろいろな見方があって難しいが)思ったようには伸びていないらしい。むしろ増税後の物価上昇に比べて賃金は実質賃金指数で3.4%減。これでは個人消費も伸びず、今のところ、アベノミクスは円安と株高をもたらしただけで、実体経済は変わらないと言うことのようだ。成長戦略の第三の矢もどれだけ効果があるか分からない。

 そんな中で、今一冊の本が話題を呼んでいる。「資本主義の終焉と歴史の危機」(水野和夫)。水野はこの本の中で、すでに世界の資本主義は、その終焉を物語るゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレ時代に突入しており、それを認識せずにいつまでも経済成長神話に取りつかれていると、却って傷口を広げることになる。その意味でアベノミクスも時代に逆行した危険な政策だ、と言う。
 ゼロ金利、ゼロ成長時代の量的緩和によって市場は必然的にバブルになり、それが3年に1度の頻度ではじける。それに対処する国家財政は赤字を膨らませ、損害を被った中間層が没落して行く。あるいは残業代ゼロのように無理に成長の構図を作る政策(後述)は、必然的に格差を広げ、世界を一握りの富裕層と大多数の貧困層に分けて行く。それは国内でも同じ。そして価値観を共有する中間層の消滅は、民主主義を足元から崩して行く。それは、世界の実物経済(74兆ドル)をはるかに超える規模の金融資本が国家をも支配する「資本のための資本主義(グローバル経済)」の姿に他ならない。

◆資本主義の終焉、成長神話の崩壊
 水野によれば、利潤を生むべく定められた資本は常に周辺を拡大(蒐集)し、そこからの利潤を中心に集めて来た。利益を集める中心と搾取される周辺。この関係を空間的に広げて来たのが、(七つの海を支配した)イギリスに代表される16世紀以降の資本主義であり、それは国家(帝国)と手を携えて20世紀後半まで続く。
 しかしその後、世界は均一化して搾取すべき周辺を失い、思うように利潤を上げられなくなる。これが、ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレ時代の始まりで、資本主義の終わりの始まりと言われる。それを一時的に超克しようとしたのがアメリカが発明したグローバルな「電子・金融空間」による新たな周辺の創造だった。しかし、これも頻発するバブルの崩壊で壁に突き当たっている。これが、水野の言う「資本主義の終焉」である。

 16世紀以来の資本主義の歴史が終わろうとするのを認識せず、経済成長の幻影を追い続ければ、バブル崩壊や財政赤字、中間層の消滅といった“民主主義の荒廃”が待っている。こうして見ると、様々な規制緩和を追求するアベノミクスも、殆どが「マーケットはどう見るか?」を念頭に置いた政策であり、これこそ「資本が国家を支配する」姿ではないか、と思えてくる。
 水野の論には、もちろん反論も多い。5世紀以上にわたる文明論であり、10年先なのか、30年先なのか時間軸のとり方もあいまいだ。また、今の資本主義が終わった後にどのような世界が来るのかも見えていない。しかし、世界中でゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレに直面している現代のグローバル資本主義が、大きな「時代の転換点」に差し掛かっているのは間違いないように思える。大変だけど、考えようによっては面白い時代でもある。

 「文春7月号」によれば、既にEUなどの先進国ではGDP目標をやめて、経済成長率ではなく個人の福利厚生度、国の発展持続可能性度を重視する経済戦略に切り替えているという。こうした「時代の転換点」において、なおも無理筋の経済成長を求めて傷を大きくするのか、あるいは立ち止まって別の可能性を模索するか。水野はそれを模索する点で、今の日本は、世界中で最適の位置にいるとも言う。
 その意味でも、私たちは
「今の時代に、本当の豊かさとは何か」を追求し、その明確なイメージを描くべきだと思う。そして、「資本のための経済」ではなく、「人間らしく生きるための経済」(*)を国民全体で模索するべきだと思う。
*)例えば、宇沢弘文、内橋克人「始まっている未来」(岩波)の中に「人間らしく生きるための経済学」という言葉が出て来る

日本の何を守るのか 14.6.28

 大方の予想通り、結局は公明党が文言を修正した集団的自衛権を受け入れ、来週にも閣議決定が行われる見通しになった。これで自衛隊が他国のために日本の領土外や領海外で武力行使する道が開かれることになる。戦後日本の「国のかたち」を作って来た憲法9条を実質的に骨抜きにする拡大解釈だが、その実質は国民の間にどのくらい実感を持って理解されているのだろうか。
 集団的自衛権の内容は、現実に海外での戦闘のために自衛隊を派遣する時や、派遣した自衛隊員に戦死者が出た時にならないと、実感を持って受け止めることは出来ないだろう。それは政治家も同じ。今、「も」を「が」に変えるなどと、細かい字句の修正を巡ってやり取りしている議員たちも、本当に現実感を持っているわけではなく、自分たちを納得させるための言葉遊びをしているに過ぎないように見える。

◆日本の何を守るのか
 当事者の安倍は口を開けば「国民の命と暮らしを守るため」を強調する。また、旗振り役の高村正彦(自民党副総裁)なども「国際情勢が変わって来ているのを考えれば、外国に攻められないための必要な措置」だと、中国の脅威を匂わせながら言う(*1)。私も、中国の南シナ海への膨張を踏まえて、日本の安全を守るには日米が一体になるしか途はない、そのためにも集団的自衛権を、という外交評論家の岡崎久彦の言い分(「月刊文春」7月号)等を読むと、そうかなと思うこともある。
 しかし、「国民の命と暮らしを守るため」という安倍の決まり文句を、額面通り受け取ることは出来るのか。その主張の裏にどんな思惑が隠されているかを冷静に考えると、「待てよ、本当にそうなのか」と思う。一体、彼らは集団的自衛権によって日本の何を守ろうとしているのだろうか。そう自問すると、彼らはその言葉の陰でもっと別なことを考えているのではないか、という疑念が湧いて来る。

◆「国民の命と暮らしを守る」とは無関係
 まず防衛問題で直接、国民の命と暮らしに響く場合とは何か。それは、日本の国土が攻撃される事態しかない筈だ。例外的に、海外で紛争が勃発して、そこにいる日本人を助けると言う事態が生じても、事前の渡航禁止や一時引き上げなどで充分間に合ってきた。仮にそれが突発的であっても(前に書いたように)自衛権の範囲で対処すべき問題で、それ以上の規模の“戦争”は憲法を改正しなければ不可能。一方、国民が住む国土が直接攻撃される場合には、それに対応するためにこそ自衛隊があり、日米安保がある。
 百歩譲って、直接「国民の命と暮らしを守る」には響かないが、日本の領土(尖閣諸島)が武力攻撃を受ける場合はどうか。その場合でも「尖閣は日米安保の範囲内」とアメリカが言っている以上、集団的自衛権がなくとも機能するはずだ。従って、直接「国民の命と暮らしを守る」に結び付くような事態と、集団的自衛権は関係ないはずである。 

 では、直接には響かないが間接的脅威がある場合とは何か。閣議決定の「文言」には、直接「国民の命と暮らしを守る」ではないもう一つの言葉が、布石のように挟まれている。すなわち、「他国への攻撃で、国民の生命、自由、幸福の“権利”が根底から覆される明白な危険がある場合」というように、守るべきは「国民の命と暮らし」そのものではなく、その「権利」と微妙に幅を持たせている。
 「権利」が覆される事例ならば、例えば(アメリカへの攻撃で)国民生活に影響のある資源(例えば石油)の確保や食糧の輸入が困難になることなどまで、いかようにも拡大解釈できる。それに、公明党がこだわった「明白な危険」という文言も、明確な基準があるわけではなく、あくまで主観的なものだ。従って集団的自衛権は、本来は自衛権で守るべき「国民の命と暮らし」とは関係なく、結局は、どこまでも拡大解釈ができる「他国(アメリカ)への“義理だて”」ということに他ならない。

◆「国益を守る」の落とし穴
 集団的自衛権を進めている人々は、その義理だてによって日米同盟がより強固になることを、「国益」だと考えているのだろう。アメリカと一緒になって血を流すことがなければ、日米同盟が十分機能しないと考えているのだ。なら、「国民の命と暮らしを守る」などと綺麗事を言わずに、「日本の国益を守る」ためだと正直に言えばいい。しかし、それで国民を説得できないことは、彼らも承知している筈だ。何しろ「国益」ほど、あいまいで都合のいいものはないからだ。
 戦前の日本も「大陸は日本の生命線」とか、「満州の権益を死守する」、「南方へ進出は死活問題」などと言って戦争を拡大した。その名分に使われたのが、常に「国益」だった。武力行使の歯止めが外れれば、他国への攻撃を口実に「国益」を掲げて簡単に戦争に訴えようとする国粋主義者の声は、たちまち大きくなる。これは歴史の教訓。今の自民党が仮に「アメリカと日本は一体なのだぞ」という看板だけで隣国への抑止力になると思っているとすれば、それは単純過ぎる。

 私は、幾らなんでも今の自民党執行部が、戦争がしたくて集団的自衛権を持ちこもうとしているとは思わない。安倍も「国民の生命と暮らしを守る」と言っているが、それは建前で本当の所は、それで「国益を守る」のだと考えているのだろう。その主張の根底には「日本の国益を考えるのは我々しかいない」という自負もあるに違いない。しかし、「国益を守る」ための集団的自衛権には、(中韓に対する)ナショナリズムの暴発やアメリカの要請を断れないなど、幾つもの落とし穴が待っている
 さらに私は、彼ら政治家の頭の中には、「アメリカとの同盟強化のためには、多少の犠牲を払うのも仕方がない」、「それが日本の国益を守る代償なのだ」という、思考があるのではないかと密かに想像している。しかし、それが現実にはどういうことなのか。また、彼らが言うような限定的な武力行使などが可能なのか。今、武力行使で戦死者を出すというリアリティーを、どれだけの政治家が持っているのだろうかと危惧せざるを得ない。

◆平和国家のリアリティーをこそ
 一旦、集団的自衛権が成立してしまえば、いざという時に同盟国アメリカの要請を断ることは極めて難しくなる。折角、武力を使えるようにしたのに、あれこれ(公明党がこだわったような)理由をつけて派兵を断れば、逆に関係がこじれるからだ(*2)。その結果は、集団的自衛権によってアメリカと同盟を結ぶ国々がどのような犠牲を払っているかを特集した、朝日の記事を読むと良く分かる(6/18、6/19)。
 アフガンやイラク戦争に参加したイギリスが出した戦死者は、これまでに453人。のべ2万人を派遣したオーストラリアは、アフガンで40人の死者を出している。ベトナムでアメリカとともに戦って5000人の死者を出した韓国も、アフガンやイラクに軍を派遣して犠牲者を出している。以前、カナダに行った時に政府庁舎の上に(兵士が戦死したことを示す)黒い半旗が掲げられていたのを目撃したが、カナダもアフガンで158人の死者を出している。

 集団的自衛権を唱える政治家たちは、安倍が掲げるアメリカとの同盟強化や、「積極的平和主義」(*3)のためには、こうした犠牲を払うこともやむを得ないと考えているのだろう。自分たちが考える国益のためなら最悪、数百人規模の自衛隊の犠牲は仕方がない、と考えているのかもしれない。というより、それが集団的自衛権の本質であり、掛け値のない実体と言うべきだろう。それは、安倍が主張する「国民の命と暮らしを守る」とは別のことだ
 日本は、先の大戦の反省から「二度と戦争はしてはいけない」を国是として平和主義を貫いて来た(「今、不戦の誓いとは」)。そのためにこそ、万策を尽くして平和外交を模索しなければならないと考えて来た。それが戦後日本のリアリティーだった筈だ。日米同盟を堅持するのは結構だが、平和国家のリアリティーを無視して、武力行使に前のめりになる人々に口実を与えるような危険を冒してはならないと思う。集団的自衛権が次に、戦後日本の「国のかたち」を根本的に変える憲法9条の改正につながるのであれば、なおさらのこと。

*1)6/26のNHK「ニュースウォッチ9」。それにしてもNHKのニュース番組に高村が出て来て一方的に解説したのには驚いた。
*2)カナダはイラク戦争の際にアメリカの要請を断り、ひどい目に会った。
*3)政府がまとめた「想定問答」には集団的自衛権だけでなく、国連の決議による「集団安保に参加する」内容も含まれている。

「暴露」監視国家の驕りと腐敗 14.6.22

 駆け足でイギリスを旅して来た。スコットランド地方のエディンバラから湖水地方、ナショナルトラスト運動の走りにもなった「ピーターラビット」のふるさと、ビートルズの故郷リバプール、シェークスピアの生家(ストラッドフォード・アポン・エイボン)、コッツウォルズ地方の小農村バイブリー、ローマ時代の温泉跡バース、古代遺跡ストーンヘンジ。どこまでも広がる牧草地と緑豊かな田園風景に眼と心が洗われるようだった。
 そんな、のどかな旅の印象とは別世界の話になるが、今回は往復の機内で読んだ本「暴露 スノーデンが私に託したファイル」について書いて見たい。アメリカの地球規模の情報監視活動の実態を暴いて、世界に衝撃を与えたスノーデン事件。英国紙「ガーディアン」の記者グレン・グリーンウォルドが書いたこの本は、(イギリス政府も巻き込んだ)息詰まるような展開もさることながら、私たち日本人にとっても他人事とは思えない重大なテーマを幾つも含んでいると思われるからである。

◆スノーデン事件の衝撃
 ご存知のように、エドワード・スノーデン(現在31歳)はもとアメリカ国家安全保障局(NSA)の局員。去年6月、アメリカの情報収集に関する極秘ファイルを大量に香港に持ち出した人物である。その後、香港からモスクワに移動し、現在もロシアによって一時的な滞在を許されているが、アメリカから逮捕状が出ており、この先どのような運命が彼に待ち受けているか誰も分からない。
 スノーデンがこうした行動に出たのは、NSAが行っている情報収集活動に対する疑念だった。「祖国の安全保障」、「テロとの戦い」の名目で行われているNSAの情報活動が、多くの場合それとは何の関係もなく、最終的に世界中の人々のプライバシーを暴くような通信傍受、情報収集に乗り出していることを世界に知らせ、その是非を問うべきだと考えたからである。そして用意周到に選んだ記者にその内容をリークし、驚くべき実態を世界に知らせることに成功した。

 将来の過酷な運命をも見越した覚悟の行動だったが、それに応えたのが英国紙「ガーディアン」の契約記者だったグリーンウォルド(写真)である。それから1年後にグリーンウォルドが書いた「暴露 スノーデンが私に託したファイル」は世界24カ国で同時発売され、ベストセラーになり映画化も決まった。スノーデンとの出会いから記事発表までの劇的な展開、世界に与えた衝撃については本に譲るとして、問題はファイルから明らかになったNSAの活動である。
 NSAは膨大な国家予算を駆使し、国内はもちろん「ファイブ・アイズ」と呼ぶ国々(イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)の情報機関とも協力して、世界中の通信を傍受収集している。アメリカを通過するインターネットの結節点にアクセス(侵入)する。あるいは、フェースブック、グーグル、アップル、ヤフー、スカイプなどのソーシャルネットワークに情報提供を強要する。さらには、飛行中の機内メールまで傍受する。NSAの究極の目標は、地球全体を覆う(通信傍受の)完全なシステム構築だという。

◆法の濫用によって拡大する監視国家と秘密国家
 NSAはもっとあくどいこともやっている。世界の10万台の対象ユーザーのパソコンに不正プログラム(マルウェア)を混入させて監視下に置く、あるいは国外に出荷されるネットワーク機器を定期的に押収して監視ツールを埋め込み、再梱包して輸出する。またはターゲットにした人間になりすまして、偽のEメールを出したり、偽のブログを書いたり、そのパソコンを脆弱化して第三者の攻撃にさらされやすくしたりもする。
 NSAの通信監視プログラム(例えばPRISM)によるアメリカ国内外の通信記録の傍受は、一カ月でメール970億件以上、通話1240億件に上るというが、こうした傍受は、その根拠になっている米国愛国者法(2001年)や外国諜報活動監視法(2008年)による範囲を大幅に逸脱している。オバマ政権は法律を拡大解釈するとともに濫用し、歯止めのために作られた「外国諜報活動監視裁判所」が全く機能していないことも明るみになった。
 
 アメリカ政府は、スノーデンによってこうした「無制限の監視活動」が暴露されても、影響を受けるのは特定のグループであって普通の一般人ではないと言い張って来た。同時に「テロの恐怖」を必要以上に宣伝し、その活動を国民の眼から隠すためにあらゆる手を使って秘密主義の壁を築いてきた。それによって、「全世界を覆うシステム構築」という自分たちの野望にまい進してきたのである。監視国家と秘密国家はある意味で表裏一体、コインの裏表でもある。
 著者のグリーンウォルドは、「国家権力が濫用されても自分たちは安心だと考える無関心な人々や支持者らによって、権力が本来の適用範囲をはるかに超えて広がる土壌が生まれ、しまいにはその濫用をコントロールすることが出来なくなる」と言い、(権力にとって法の濫用は)「必然的なものだ」と書く。このことは、「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」の適用範囲を巡って議論が続いている今の日本にも、充分当てはまることではないだろうか。
 
◆民主主義の理念が崩されて行く
 こうした「国家権力による無制限の監視」によって崩されて行くのは、個人のプライバシー保護や報道・表現の自由といった民主主義の基本理念である。デジタル技術が進化した現在、確かに様々な分野でプライバシーは脅かされているが、一方で「プライバシーは隠し事のある人のためのものであって、何もない人にとってはそんなに心配することではない」という意見も多い。しかし、私たちは個人のプライバシーこそ人間の基本的な権利だということを再確認しておく必要がある。
 プライバシーとは個人的な領域であり、私たちが他者の判断基準に左右されずに、自分で考え、話し、書き、決めることが出来る場所だということ。その意味で、プライバシー保護は、自由な人間として生きるための核となる条件なのである。個人のプライバシーが侵され、秘密主義の権力側だけが大多数の国民の情報を握ると言うことは何を意味するのか。それが、監視国家=秘密国家の怖さなのである。

 大量監視国家は、国家の構造を@個人に関する膨大な情報を握っている国家権力、A監視されて委縮する被支配者(国民)の二極構造に変える。古来、圧政的な国家は大量監視活動こそが最も重要な支配ツールの一つと考えて来た。大量監視社会によって作られるのは、法を濫用してまで国民を監視するという「驕りと腐敗の国家権力」と、監視を恐れて委縮する「羊の群れ」の二極構造だ。中国のことならともかく、民主主義を標榜するアメリカもそこまで変質しつつあるのだろうか。
 そして、さらにもう一つ注目すべきは、この二極構造に異議を唱えるBアウトサイダーの存在と、彼らに対する体制側の脅しと圧力である。事実、極秘ファイルを持ちだしたスノーデンや、それを記事にしたグリーンウォルド、英国「ガーディアン紙」に対する米英両国政府の脅しと圧力はすさまじいものがあった。国家の安全を脅かすものとして、2人を逮捕すべきだと言う意見は、政府、国会議員、それに体制に近いメディア側からも沸き起こっている。

◆体制的ジャーナリズムVS反権力ジャーナリズム
 この場合のアウトサイダーとは、組織の無法を暴こうとする内部告発者や、報道の自由を武器に権力と対抗するジャーナリストである。政府側は彼らを人格障害者とか活動家と決めつけて非難し、体制的ジャーナリズムもそれに同調して来た。グリーンウォルドは、「暴露」の中で彼のような権力をチェックするジャーナリストと、体制に近いメディアとの具体的な違いを書いている。詳しいことは第5章「第四権力(メディアのこと)の堕落」を読んで頂きたいが、その指摘は今の日本のメディア状況にもぴったり当てはまる気がして耳が痛い。
 この本は、国家の安全保障の旗のもとにアメリカ政府が非道に及んでいること、監視国家=秘密国家は民主主義の基本理念を足元から崩すということを指摘している。今の日本にとっても様々な意味で重要なテーマを含んでいる本だと思う。

原発・司法が責任を果たす時 14.6.7

 5月21日、福井地放裁判所(地裁)は、関西電力の大飯原発(福井県)3号機、4号機に対する住民側の訴えを認め、運転の差し止めを命じた。原発を巡って住民側が勝訴したのは「もんじゅ」(福井県)の設置許可を無効とした判決(名古屋高裁金沢支部、03年)と、志賀原発2号機(石川県)の運転差し止め判決(金沢地裁、06年)の2件以来である。これらの2件は、いずれも上級審で判決が覆っているので、今回の判決も上級審で覆る可能性は多分にある(関電は翌日に控訴)。
 しかし、福井地裁の判決は、日本が深刻な原発事故を経験した後に初めて運転差し止めを命じたものであり、事故の教訓をきちんと踏まえて骨太で力強い考えを打ち出したという点で、画期的だと反響を呼んでいる。もちろん、原発推進側(読売社説など)からは随分と批判もされているが、私もネット上に公開されているその判決文を読んで、司法がその責任から逃げずに本来の使命を果たそうとした「勇気ある姿勢」に心打たれた。そのポイントをまとめておきたい。

◆司法の責任に正面から取り組んだ裁判
 これまでは、司法が原発の安全性に正面から向き合い、その責任を果たすのは極めて困難とされた。伊方原発(愛媛県)の設置許可の取り消しを求めた住民側が、最高裁で敗訴が確定した裁判(1992年)。その時の最高裁は「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断にゆだねられている」とし、原発の審査に関し司法は抑制的であるべきだとした。(読売社説も、これを妥当だとした)
 また最近でも、別の住民が同じ大飯原発の再稼働差し止めの仮処分を求めた裁判では、大阪高裁が申し立てを却下(5月9日)。その時の理由は、現在は規制委の安全審査が続いていることを考慮し、「その結論の前に差し止めの必要性を認めるのは相当ではない」というものだった。この裁判では、大阪高裁は原発の安全性については触れておらず、原告団から「司法の逃亡」だと批判されている。

 そうした中で福井地裁は、原発の安全性は裁判所が正面から取り組むべき最も重要な案件だと明確に述べた。すなわち「原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通じて充分明らかになったといえる。本件訴訟においては、本件原発において、かような事態を招く具体的危険性が万が一にもあるかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断をさけることは裁判所に課せられた最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる」とした。

◆万一にも「人格権」が脅かされるかどうか
 その上で、裁判所は原発の安全性を、主に「地震対策」と「使用済み燃料」の問題から吟味して行くのだが、最初に原発の運転によって、万一にも脅かされてはならない最も重要な、ある価値を設定した。それが個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益などの総体としての「人格権」であり、憲法上の権利である(13条、25条)人格権は、日本の法制下においてはこれを超える価値が見出せない最高位のものとした。
 そして原発は電気を生み出すための一手段であり、その経済活動の自由は憲法上も人格権より劣位に置かれるべきだとし、人格権が広範に奪われるような具体的危険性が万一にもあれば、差し止めが認められるのは当然とした。さらに、原発の安全問題は、原子炉規制法や新規制基準の内容に左右されるのではなく、当該の電力会社の安全対策そのものについて、実際に人格権に危険が及ぶかどうかを裁判所が判断すべきとしたのである(大意)。

◆地震時の冷却機能の維持について
 判決の中での重要部分を占める地震対策について。事故時に放射能が漏れだすのを防ぐためには、「止める、冷やす、閉じ込める」が出来なければなない。福島の場合はこの冷やすことが出来なかったために炉心溶融、放射能汚染と言う大事故につながった。判決は福島の教訓を踏まえて地震の時に大飯原発では、この「冷やす」機能と「閉じ込める」構造に次のような欠陥があると指摘した。

@この規模の地震が起きた時には、打つべき有効な手がないと電力会社も認める1260ガル(揺れの強度)を超える地震について。これまでも、4022ガルの地震が日本の内陸でも起きており、大飯原発で1260ガルを超える地震が起きないとする電力会社の主張は科学的根拠がない。また実際に、この10年足らずの間に全国4つの原発に5回にわたって電力会社の想定を超える地震が起きている。電力会社の想定を超える地震が起きているというこれらの事象は、地震という自然の前における人間の能力の限界を示すものとしかいいようがない。

A700ガル〜1260ガルの地震について。電力会社は、1260ガルを超える地震が来ない限り、様々な事象が起きても「イベントツリー(事故対策の手順)」に基づいて的確に手を打って行けば、炉心損傷には至らず大事故に至らないと主張する。しかし、(福島事故に見るように)混乱と焦燥の中で的確かつ迅速にこれらの措置をとることを従業員に求めることは出来ない
いかなる事象が起きているかの把握自体が困難であるうえ、原発の非常事態を作ってのテストは出来ないので、普段からの訓練になじまない。何より、全電源喪失から炉心損傷までの時間は5時間余り、炉心損傷の開始からメルトダウンの開始まで2時間もないなど、(事故時に)残された時間は限られている。

Bこの地震大国日本において、基準地震動を超える地震が大飯原発に到来しないというのは根拠のない楽観的見通しにしかすぎない上、基準地震動に満たない地震によっても冷却機能喪失による重大な事故が生じ得るというのであれば、そこでの危険は、万が一の危険という領域をはるかに超える現実的で切迫した危険と評価できる。このような施設のあり方は原子力発電所が有する本質的な危険性についてあまりに楽観的といわざるを得ない。

◆本当の「国富」とは何か
 判決は、次に原発建屋内のプールに保管されている1000本を超える使用済み燃料の危険性を指摘。このような危険なものが、堅固な設備によって閉じ込められていないままいわばむき出しに近い状態になっているのは、「国民の安全が何よりも優先されるべきであるとの見識に立つのではなく、深刻な事故はめったに起きないだろうという見通しのもとにかような対応が成り立っていると言わざるを得ない」と断じている。そして、最後に今回の判決で話題になった、いわゆる「国富論」を展開する。

 『被告(関西電力)は、本件原発の稼働が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人々の生存そのものに関る権利と電気代の高い低いの問題等を並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことと考えている。
 このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字がでるとしても、これを国富の流出や喪失というべきはなく、豊かな国土とそこに根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失と当裁判所は考えている』

 最後に、大飯原発から250キロ圏内に居住する者は、原発の運転によって直接的に人格権が侵害される具体的な危険があると認められるから、これらの原告らの請求を容認すべきである、と結論づけた。裁判長裁判官 樋口英明、裁判官 石田明彦、三宅由子。原子力ムラの歯ぎしりが聞こえてきそうな明快な判決である。
 (蛇足ながら、司法のこのような三権分立の自負と責任は、同じく「国民の生命と暮らしを守るために」を理由にする安倍の集団的自衛権の憲法解釈にも機能できるのだろうか、などと思ってしまう)

政治家・安倍の実像を語れ 14.5.28

 今の政界では、自民党が他党を圧倒する「一強多弱時代」に加えて、その自民党の中で他の議員が安倍首相に逆らえない「安倍一強時代」が始まっているらしい。国際環境を顧みず靖国神社参拝に踏み切り、憲法96条の改正が無理と見るや、憲法9条を骨抜きにする集団的自衛権にまい進する。「決めすぎる政治」とか、「前のめりの暴走」とか揶揄されてもどこ吹く風で、思いつめたように「戦後レジ―ムからの脱却」に向かって突き進む。あるいは、「(憲法解釈の)最高責任者は私なんです」と言ってはばからない。既に、党内の良識派(ハト派)や、(靖国の時には)実力派の菅官房長官の意見も聞き入れない、独裁者的存在になりつつあるという。一体、政治家・安倍とは何者なのか。

◆安倍の応援団と取り巻きたち
 政治家・安倍の人物像が具体的にどういうものなのか。彼がどういう情念の持ち主なのかについては、確かなことは分からない。良く言われるのが、(格は違うが)祖父・岸信介への憧憬だ。岸の自主憲法への想いを受け継ぐとか、岸も同様の判決を受けたA級戦犯に対する名誉挽回とかが言われるが、それだけではないだろう。根元のところでは、岸のかつての満州経営にも通じる、国粋主義的思考まで受け継いでいるのではないか(「絢爛たる悪運 岸信介」)。
 既に独裁者的状況にあるらしい安倍だが、独裁者の例にもれず、現在の彼の周囲には彼にすり寄り、彼を持ちあげ、彼を鼓舞し、思想を共有する“取り巻きたち”が幾重にも層をなして集まっている。そして、彼の思想的背景に就いては安倍が日々接している、そうした取り巻きたち(応援団)の言動から伝わる仕組みになっている。

 安倍の応援団は多岐にわたる。例えば、政治家としては番頭格の菅官房長官のほかに、お友達集団の衛藤晟一(首相補佐官)、萩生田光一(総裁補佐官)、高市早苗(政調会長)、山本一太(内閣府特命大臣)、世耕 弘成(官房副長官)など。経営者グループではNHK人事にも口を出している葛西 敬之(JR東海名誉会長)、古森重隆(富士フイルム会長)などの「四季の会」メンバーなどが、取り巻いている。
 学者・文化人としては、右派論客の中西輝政(京大名誉教授)、八木秀次(麗澤大教授、新しい教科書を作る会会長)などの5人組。そして、NHK経営委員の長谷川三千子(埼玉大名誉教授)、作家の百田尚樹など。メディア関係では、産経系(新聞、雑誌「正論」)、読売新聞の経営者(渡邉恒雄)、櫻井よし子なども安倍の応援団だ。この他に、もちろん安倍にすり寄る官僚たちがいる。

◆天皇の“お言葉”にも難癖をつける安倍応援団
 これらの応援団は頻繁な会食やゴルフで安倍と親しくしており、安倍が進める政策にお墨付きを与え励ましている。そして時々、彼らの考えが公的な発言となって問題化する。例えば、靖国や歴史認識で関係国の神経を逆なでした衛藤晟一、萩生田光一、高市早苗等の政治家。安倍の思想に近いNHK経営委員の長谷川三千子、百田尚樹などである(「問題発言のウラにあるもの」2/27)。
 最近では、産経の雑誌「正論」のメンバーの一人でもある八木秀次が、去年の記者会見での天皇の“お言葉”に難癖をつけたことが話題になった。これは、去年12月の天皇誕生日に天皇が述べられた感想のうち、憲法に関する次のような言葉に対して、八木(52歳)が「正論」5月号の巻頭コラムで「違和感」を書き立てたものである。

 この記者会見で、天皇陛下は「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました」、「また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」、「今後とも憲法を順守する立場に立って、事に当たって行くつもりです」などと述べられた。
 これに対し、八木は「両陛下のご発言が、安倍内閣が進めようとしている憲法改正への懸念の表明のように国民に受け止められかねない」、「憲法は対立のあるテーマだ。その一方の立場に立たれれば、もはや『国民統合の象徴』ではなくなってしまう」、「宮内庁のマネジメントはどうなっているのか」などと書いている。天皇のお言葉は事前に十二分な推敲を重ねている天皇の思いの筈である。それをいくら権力に近いからと言って、そこまで傲慢になるのかと、背筋が寒くなる。

◆独裁者になりかかっている安倍の実像とは?
 こうした身内的な応援団によって、囁やかれる追従や励ましに日々とっぷりと浸かりながら安倍は政治を行っていると見ていい。その特質は、以前にも書いたように、先の戦争を半ば肯定する歴史認識(中韓への蔑視と反感)、国家主義的傾向、同盟国アメリカに対する屈折した思い、いわゆる自虐史観の持ち主たちへの容赦ない攻撃、を共通のものとする。
 しかし、ここまでは、安倍を取り巻く人々から見えて来る思想的傾向であり、依然として周辺を、考えの近い“お友達”で固めてはいるが、肝心の安倍の実像は見えて来ない。彼がどういう性格なのか、政治家としてどういう長所を持っているのか、どういう短所を持っているのか。プーチンのように冷酷・冷徹なのか。熱血的なのか、シニカルなのか。大胆なのか、小心なのか。バランス感覚はあるのか、意固地なのか。気は短いのか、長いのか。頭はいいのか、悪いのか。

 何より、権力者の安倍には国家の運命ばかりでなく、私たちのような名もなき庶民の安寧や幸福は、どの程度、視野に入っているのか。そういう政治家としての実像になると、案外具体的なことは分からない。これは一つには、(前回とは違って)今回はしっかりした官房長官が脇を固めているからだろう。失言の機会が少ない上に、演説や言葉使いを指導する(有能な?)スピーチライターもついているらしい。だから、広告コピーのような耳触りのいい言葉に騙されやすいとも言えるが、彼に運命を託す国民は、何となくふわーっとした彼のイメージ戦略(虚像)に惑わされているのではないかと思う。掛け値のない実像はどうなのか。

◆政治家・安倍の実像が知りたい
 彼の人物像については、一時期、色々なことが書かれた。安倍の政治的未熟さを描いた「官邸崩壊」(上杉隆)では、「安倍には得体の知れないモノに対して、第三者に強い姿勢を見せることで、自らの恐れを隠すという習性があった」などと書かれている。また、毒舌で知られる同郷の芥川賞作家、田中慎弥には、「安倍氏は明らかに政治家としての自分を強く見せようとしている」。「強くあろうとしているのは、安倍氏が弱い人間だからだ」などとも書かれている(週刊新潮)。しかし、これらも断片的情報に過ぎず、独裁者的な権力を得るようになった最近の安倍にも当てはまるのかどうかは分からない。

 話は飛ぶが、戦後のドイツは独裁者ヒトラーを生み出した反省から、首相に権限が集中しないような「連邦制度」を取り入れたと言う。今の日本は、そうした権力の過度の集中に対する防護策を持っているのだろうか。自民党が多数を占め、しかも自民党内の派閥の影が薄くなる中で、これだけ首相に権力が集中する事態は案外、想定外かもしれない。その意味では、(誰かにきちんと分析して欲しいと思うが)今の日本は戦後初めてという位の特異な政治状況にあると言っていいのではないか。
 というわけで、安倍一強体制が出来上がり、安倍が独裁色を強めている今だからこそ、私たちは「政治家・安倍の実像」について知りたいと思う。どういう些細なことでも判断の手掛かりになるような情報を得たい。安倍の実像は、そうした小さな情報の積み重ねから浮かび上がってくる筈だ。日々の隠れたエピソードの報道には、安倍に近い記者ほど適任だが、(取り込まれることなく)睨まれるのを恐れずに、国民のために是非頑張ってもらいたいと思う。

「集団的自衛権」のその先に 14.5.22

 戦後70年近くの間、戦争放棄を宣言した憲法9条の存在は、単に戦争しないと言うことだけではなく、(後述するように)目に見えないところで平和国家と戦後民主主義という「この国のかたち」を作って来た。それが大きく変わるきっかけになるのか。5月15日、安倍首相は私的な懇談会(安保法制懇)の報告書を受けて、集団的自衛権を容認するとし、与党内の協議を経て閣議決定を目指す考えを表明した。
 集団的自衛権とは読んで字のごとし、自国と密接な関係にある国が他国から攻撃を受けた場合に日本が共に戦うことを意味する。密接な関係にある国とは現時点では(この50年間に5回の戦争や紛争を戦って来た)アメリカだ。安倍特有の国家観に基づいて、日本が世界の中でより戦争しやすい国に変貌して行く時、その先に何が待っているのか。戦争で自衛隊や国民が血を流すのとは別な意味で重要な、「この国のかたち」の変化について考えてみたい。

◆大事なことを変えるのに、その本質を矮小化し、情緒化する
 集団的自衛権の議論はもともと、同盟国のアメリカが日本のために血を流しているのに日本が血を流さなくていいのか(安倍の「この国を守る決意」)、という安倍の思いから出発している。(金は出すけど軍隊は出さないという)現在の片務的な関係をできるだけ対等に近づけ、日米軍事同盟を強化したいという思惑からである。
 この集団的自衛権は憲法9条によって禁じられているというのが歴代内閣の見解だったが、安保法制懇は、従来許されるとされた(個別的自衛権の)「必要最小限度の実力行使」の中に、幾つかの限定条件をつければ集団的自衛権も含まれるとした(限定容認論)。これを受けて安倍は、15日の記者会見でも「限定的」、「必要最小限」を連発して、集団的自衛権の容認を国民に訴えたのである。

 同時に、こどもや赤ん坊を抱いた母親を描いた説明図を使って、紛争地の外国からアメリカ軍が日本人を乗せて運ぶ途中に攻撃されても、今の自衛隊はアメリカ軍を助けられない、などという情緒的説明を多用して国民の心情に訴えた。しかし、アメリカ軍が海外の日本人を軍艦で運ぶというようなケースが実際にあり得るのか、また(公明党からも)こうした事例は日本が独自に行う「個別的自衛権」で充分対応できるなどと反論もされている。
 集団的自衛権は、戦後の安全保障政策の大転換である。もともと無理筋のその容認を憲法改正をせずに行うというので、論理矛盾と論理のすり替えを見透かされないように、的外れな情緒的説明を持ちだす。また、抽象的な「国民の命と暮らしを守る」を20回以上も連呼したり、容認しても大事(戦争)にはならいと矮小化したり。堂々と理詰めで説得するのではなく、その態度そのものが胡散臭く、姑息で情けない。

◆戦争がいったん始まったら、コントロール出来ない
 そうした“まやかしの説明”の最たるものが、集団的自衛権の「限定容認論」と言ってもいい。その行使を「我が国の安全に重大な影響を及ぼす」ケースなどに限定すれば、「日本が再び戦争をする国になるといった誤解がある。しかし、そんなことは断じてない」と安倍は言う。しかし、他国軍(アメリカ)に加勢するということは、相手から自分も敵とみなされ(場合によっては)自国が攻撃される戦争に発展する。
 戦争は一旦始まればその展開は測りがたく、どこまで拡大するか分からない。また、収束するには始める時の何百倍ものエネルギーと犠牲がいる。これは歴史の教訓である。安倍たち為政者が幾ら「必要最小限」だとか「限定的」などと考えても、それが出来ないのが戦争というものである。こちらの都合に合わせて、「必要最小限に」戦争するなどと言うことそのものが、現実無視の無責任というものである。

 それでもなお集団的自衛権を容認すれば、「能動的に国を守る」という安倍たちのイメージがどうあれ、その先には「戦争が出来る国」、「進んで戦争に加担する国」ができあがる。これは、戦争放棄を掲げた憲法9条の形骸化であり骨抜きであり、憲法9条改正のハードルを下げることにもつながっていくだろう。そして憲法9条の否定は、戦争で自衛隊や国民の命が失われるということとはまた別の、深刻な影響をこの日本に及ぼすものと思われる。それは端的に言えば、平和憲法が作って来た「この国のかたち」を破壊することだが、具体的にはどういうことなのか。

◆「戦争できる国」の“落とし穴”
 それは、「国を守るためには武力行使を辞さない」という考え方が生み出す政治的、社会的影響と言っていい。口では「国民の命と暮らしを守る」と言いながら、国家や同盟国を守ることを最優先に考え、戦争で負けないための価値観を国民に強制的におしつける。そこに具体的にどんな“落とし穴”が待っているかを、戦前の軍国主義の日本や最近の日本、そして民主国家を標榜する一方で軍事大国でもあるアメリカを例に列挙してみると。。

1つは、「国民の知る権利」を侵す秘密国家への変身である。国防、外交に関るすべての情報が秘密扱いになって国民に知らされない。民主主義の基本である国民の知る権利が、政治、軍、官僚の恣意的な裁量によって、歯止めなく侵される。日本の「特定秘密保護法」も、もともとはアメリカとの共同軍事作戦を可能にするために作ったものだが、本家アメリカの秘密保護政策に比べて一段とひどいものになっているのは、どうしてだろうか。

2つは、日常的な人権侵害である。実際に「戦争をする国、戦争に勝てる国」を目指すとなれば、国を守ると言うことが最優先になる。それが国民一人一人の権利より優先されるために、自国民への監視、思想的介入、敵国市民(場合によっては自国民)の超法規的な拘束や拷問が日常的に行われて行く。これは戦前の日本ばかりでなく、アメリカの市民監視を可能にした「愛国者法」などの特徴でもある。

3つは、軍部の政治的発言力が増すことである。軍部の横暴、横やりがまかり通ることである。これは(今の自衛隊からは想像しにくいが)平和憲法のもとで軍のシビリアンコントロールを厳しく律して来た戦後の日本の方が例外的で、現在も軍部の発言力が強い国々は多い。この歯止めが効かなくなった時の最悪のケースは、戦前の日本だった。軍が暴力を振りかざして政治に介入し、国民は軍を恐れて暮らすようになる。

4つは、戦争をしたがる冒険主義者の登場である。軍部と産業の利害が密接に絡んで来ると政治家と癒着し、国の危機や国策・国益を煽りながら戦争をしたがる輩が必ず現れる。国の運命を弄ぶ冒険主義者はどこにもいて、戦前は天皇や政府の意向に逆らって戦線を拡大したり、謀略を仕掛けたりする軍人が続出した。これはアメリカも同じ。戦争を起こしたがる人々(軍産複合体、ネオコンなど)はどこの国にもいる。

◆平和憲法が支えて来た戦後民主主義
 以上は、平和憲法が骨抜きになったり、改正されたりした場合の「戦争できる国」の“落とし穴”だが、特に日本は歯止めの効かない国という自覚と反省がない。武力行使への機会が増えれば、あっという間に勇ましい「国防論議」が満ちあふれ、戦前のように「日本は神の国」といった誇大妄想や、中国に飲み込まれるといった被害妄想が社会にはびこる。メディアも一緒になってそれを煽る。
 そうした日本の性格を考えると、単に戦争を放棄したというだけでなく、上に書いたような弊害を抑えて、戦後の民主主義的な国のかたちを作って来たという意味で、憲法9条の功績をもっと評価すべきではないかと思う。「戦争が出来る国」を目指すことはそうした役割を破壊し、戦後日本の「国のかたち」を再び根底から覆すことにもつながる。それが、安倍たちが考える「戦後レジームからの脱却」なのだろうか。

自民一強時代と漂流する野党 14.5.15

 いよいよ安倍政権による集団的自衛権が政治日程に上がろうとしているが、政治状況は相変わらずの「一強多弱」状態が続いている。おさらいになるが、議員数で言えば、衆院では自民党(295人)が野党第一党の民主党の5倍強、参院でも約倍の議席を持ち、国会運営も思いのままだ。自民党も民主党も衆参のねじれ現象があった頃は「決められない政治」などと揶揄されたが、今は「決めすぎる政治」、「前のめりの暴走」などと危惧されている。
 そういう中で野党の現実は悲惨の一言。5月のNHK世論調査で、自民党の政党支持率は41.4%だったのに対して、2位の民主党は僅かに5.6%(4月からさらに1.8%下落)しかない。現在、野党再編の動きが報じられている「みんなの党」、「日本維新の会」、「結いの党」など、全部合わせても支持率1.5%だし、これに民主党を加えても7.1%にしかならない。国民には今、野党が何をしているのかさっぱり見えない状況が続いているからだろう。

安倍政権の巧妙なメディア戦略と沈黙の野党
 野党の発信力が低下する一方で、逆に安倍自民党の発信力は高まるばかり。例えば、安倍が「地球儀を俯瞰する外交」を掲げて毎月のように出かける海外歴訪である。これは一回1億円以上かかるとも言われるが、メディアへの発信力から言えば効果抜群だ。安倍に近い各社の政治部記者が大挙随行するために、現地での安倍談話が連日ニュースの冒頭を飾る。
 今回の欧州6カ国歴訪(4月29日〜5月8日)でも、ニュースは外交的成果はそっちのけで、さながら「集団的自衛権」の広報宣伝のようだった。毎時ニュースのトップで集団的自衛権の見通し、スケジュールが繰り返される。巧妙なメディア戦略だ。安倍が就任後に歴訪した国の数は43にも上るというが、(外交的成果はさておき)安倍は外遊を重要なメディア戦略の一環と位置付けているに違いない。こうした安倍のパフォーマンスを、野党は指をくわえて見ているばかりでいいのだろうか。

 存在感を失う野党に対して、メディアは去年の参院選以降、社説で「野党の惨状 与党をよろこばせるな」、「混迷する野党 のたうち回ってでも」、「変わらぬ民主党 多弱に甘んじるな」、「代表質問 野党は論戦力を磨け」などと、様々な形で野党の尻を叩いて来た。最近では、業を煮やしたのか「あるべき野党の姿は」、「私が野党ならこう攻める」などの特集記事を企画したり、(野党には期待できないと見たのか)自民党内のハト派に焦点を当てる記事や、公明党の山口代表へのインタビューを仕込んだりしている。
 安倍の独走(暴走)を止める勢力はいないのかと言うわけだが、困ったことに、これらの記事を読んでも野党がどうすればいいのかが良く分からない。自民党にすり寄っていた「維新」も「みんな」もはじけてしまった今となっては、安倍政権にとって(表向き)気にする政党は公明党しかない。国会審議も低調で、安倍政治に不安を持つ国民にとっては、政権の受け皿となるような有力な野党が見あたらない状況は不幸なことに違いない。

◆安倍政治の本質が見えて来る中で、現れた“空白域”
 メディアは良く、野党勢力の再編は政策がバラバラなのでハードルが高いと言う。政党の立ち位置を区別するものとしては、集団的自衛権や憲法改正に対する政治的立場に加えて、小さな政府や大きな政府、保守やリベラルと言った分け方もある。これらを座標軸にして各党の考え方をプロットするとバラバラに分かれて、「野党再編 高い壁」(毎日)となるわけだ。しかし、ここへ来て安倍政治の本質が隠しようもなく見えて来たために、それに対抗すべき政治的立場が少しずつ見えて来ているようでもある。(私にはまだぼんやりとしか見えないのだが)そのことを書いて見たい。

 そのためにはまず、安倍政治の本質を規定する必要がある。安倍ら自民党右派は、もともと(岸信介の流れをくむ)保守傍流と言われたタカ派グループだった。しかし、安倍が権力の中枢に座ると、アベノミクスの衣の下からたちまち鎧が現れ始めた。その本質は先の戦争の誤りを認めない復古的な歴史修正主義であり、そのための靖国参拝であり、中国・韓国との軋轢である。それは、結果的にアメリカの占領政策の否定にも反米にもつながる。こうした安倍政治を“国粋保守”という人もいる(津上俊哉「中国停滞の核心」)。
 一方、これまで親米的で穏健な保守本流と言われるグループ(宏池会)は、今は政権に体よく取り込まれ、本来の力を発揮できていない。加藤紘一、古賀誠などの長老たちが退陣して人数的にも劣勢をかこっている。その結果、彼らが退場した場所を何と名づけていいか分からないが、そこに一つの「空白域」が生まれている

◆民主党が保守本流に?大胆に3つの政治的枠組を考えてみる
 新聞によると、民主党の枝野幸男(元官房長官)がそこに保守本流の旗を掲げようとしているらしい(朝日2/9)。安倍自民党があまりに右に傾きすぎた影響なのだろうか、民主党幹部が保守本流を目指すと言うのである。かつての保守本流(宏池会)は、軽武装、経済重視、国民総中流を目指した所得再分配、アジアとの友好などを政策に掲げてきた。アメリカから様々な経済的圧力をかけられながらも、基本的には親米路線でやって来た。自民党の中で、その保守本流の影が薄くなった今、民主党の一部がそこに活路を見出す可能性はあるかもしれない。
 ただし難しいのは、今のアメリカがかつてのような超大国ではないことである。加えて、台頭してきた中国という問題もある。その中で自国の防衛をどう考えて行くのか、その説得力のある答えを持たないと、単純に保守本流は名乗れない。しかし、答え次第では安倍政治に対抗できる政治的枠組としては充分あり得ると思う。試みに、こうした発想で日本の政治グループを大胆に大括りにしてみたい。

 一つは、安倍自民党のような「国粋保守」政党である。アメリカには面従腹背しながら、いずれ機会が来たら自主独立の防衛国家をめざす。アメリカが決めた戦後民主主義を清算して、民族の誇りと国家への忠誠を軸にした強い国家を目指す。そのために、中国や韓国と対立(場合によって武力衝突)するのはやむを得ないし、心理的には反米になっても仕方がない。

 二つは、かつて自民党の長老の後藤田正晴などがいた穏健保守」政党。それを「中道保守」ともいうが、私はこれに後藤田なども言っていた「戦争だけはしていけない」と言う民族の誓いを担わせたい。「国粋保守」との違いは歴史認識で、中国韓国などのアジア諸国と和解する。できれば「反戦保守」と言わせたい位だ。憲法改正をしてもいいが専守防衛とし、集団的自衛権はNO。国際協調の平和政策、活力のある経済を進めながら国民総中流を目指す。出来れば脱原発も掲げさせたい。

 三つは、「民主リベラル」政党。市民生活を重視して国のあり方を決めて行く。平和憲法、国際協調、地球環境保護、脱原発、市民が主役になる政治活動といった理念で新しい国と政治のあり方を模索して行く。平和憲法を世界にアピールすると同時に、「国粋保守」に対する異議申し立て機能を徹底して果たしていく。いまここに結集するのは、「共産党」、「社民党」、「生活の党」、「民主党」の一部といったところだろうか。

◆国の将来を賭けた活力ある論戦を
 二つ目の「穏健保守」が安倍の「国粋保守」にとって代わるためには、自民党ハト派と民主党のかなりの部分、それに公明党が手を組まないと難しいだろう。しかし、(海江田が党首でいる限り難しいと思うが)民主党がその気になって国民の支持を集めれば可能かもしれない。以上は、雑駁過ぎる試論なので、これからも時々考えて行きたいが、明治維新のときだって、外敵から国を守るために日本は勤皇佐幕、尊王攘夷、佐幕開国、尊王開国などに入り乱れて激しい路線闘争をした。今の日本も、中国やアメリカとの関係が激変する中で、再び戦禍に会わないためにはどうすればいいのか。野党はいつまでも漂流を続けず、是非、国民を巻き込んで活発な論戦を闘わせ、大同団結のシミュレーションを検討して欲しいと思う。

多極化する世界とウクライナ 14.5.7

 「21世紀最大の危機(英外相)」と言われるウクライナ情勢が切迫、混とんとして来た。東部や南部の各州でロシア系民兵とウクライナ系の政府軍が戦闘を繰り返し、民族同士の憎しみが高まっている。この状況に世界はどう対処するつもりなのか。この2カ月、先輩が主宰する勉強会(私は去年2月から参加)では、ウクライナ問題を取りあげて来た。その歴史、民族構成、経済、ロシアの電撃的なクリミヤ併合のやり口、そしてプーチン大統領の野望などがテーマになった。
 にわか勉強ではあるが、今回は混迷を深めるウクライナ情勢の行方はひとまず措いて、ウクライナを巡る主要な国々の複雑な利害関係を理解するための相関図を作ってみた。これを眺めていると、現在の世界がアメリカの一極支配から多極化へという新たな局面に入っていること。そして良かれ悪しかれ、今の世界が、それらの国を率いる指導者たちの強烈な個性や野望によって振り回される時代に入ったことが見えて来るように思う。 

◆ウクライナを巡る(アメリカ+EU)対(ロシア)
 ウクライナは、人口4560万人、面積がフランスくらいの大きさである。国家財政は破綻寸前で、5月25日に予定されている大統領選挙の前に借金返済用の30億〜40億ドルが用意できなければ、破綻してしまう状態だ。苦しい経済状況で、一人あたりのGDPはロシアの半分、EUに参加して経済が好調な隣のポーランドの3分の1にも満たない。ロシア系住民に同情的なロシア側も、EUヨーロッパ側も、経済的に大変なウクライナを自分たちの陣営に組み入れてもお荷物にしかならないと思うのだが、防衛上の観点から見るとそうではない。

 まず、EUヨーロッパから見た場合。今はEUに属している東ヨーロッパは、かつてのソ連から随分と虐げられてきたために、ロシアの西への拡大(かつてのソ連邦を復活させる動き)を極度に警戒している。ウクライナがEUの方を向いてくれるのはいいが、反対にロシアの支配を許したりすれば、ロシアの拡大路線に道を開くことになり、軍事的に深刻な脅威になる。
 それはもちろん、ヨーロッパと軍事同盟(NATO、北大西洋条約機構)を結ぶアメリカも同じである。ヨーロッパ防衛上の問題でもあるが、何より冷戦後、世界秩序の監視役として君臨して来たアメリカにとっては、(それがどこの国であれ)武力で国境線を変えるような動きを許すわけにはいかない。それを黙認すれば、アメリカの国力低下を天下に曝すことになるからである。

 一方のロシアは、仮にウクライナがEUに加われば、クリミヤ半島にあるロシアの軍事施設や、ウクライナ東部のロシア系軍事産業をNATOに近づけることになる。これは黙認することは出来ない。ロシアはソ連崩壊(1991年)後、旧ソ連邦からは周辺の14もの国が分離独立したこともあって、経済的にも軍事的にも停滞して来た。このため超大国アメリカに盾着くことなど出来なかったが、最近になってこれが変わって来た。
 ロシアは、アメリカがアフガニスタンとイラクでの戦争で疲弊している間に、かつてのソ連邦の諸国(ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタンなど6カ国)との間で「ユーラシア経済共同体」を構築し、経済的結びつきを強めてきた。そして、最近のアメリカの影響力低下を睨んだ新たな動きを見せ始めている。そのきっかけは、プーチン大統領が2013年9月のシリアのアサド政権問題(*1)でオバマの弱腰を見透かしたというのが専らの説だが、ウクライナのEU接近を阻止するために、電撃的にクリミヤ併合を仕掛けたわけである。 

◆対ロ制裁を巡っての各国の思惑と相関図
 ここまではウクライナを挟んで、アメリカ+EUがロシアと対峙している構図だが、いざロシアに制裁を加えるとなると、各国は一筋縄ではいかない難しさを抱えている。第一に、アメリカと違ってEU主要国のドイツ、フランスはロシアと経済的結びつきが強いことがある。ドイツは天然ガスの4割弱をロシアから輸入しており、ロシアに進出しているドイツ企業は6000社(従業員25万〜30万人)に上る。フランスもロシアに戦艦2隻を輸出する国だ。トータルで見ると、EUの対ロシア貿易は、アメリカの対ロシアの10倍と言う額。これでは、ロシアのウクライナ政策に反対でも、対ロ制裁に意気込むアメリカと温度差があるのは当然である。

 一方、アメリカと常に理念と行動をともにしなければならない日本も複雑だ。北方四島の領土問題を前進させたい日本は、当初は対ロ制裁に腰が重かった。しかしアメリカから、ロシアによるクリミヤ独立を認めたら中国の武力による尖閣攻撃にも影響すると脅され、(アメリカがいらつくほどしぶしぶと)「力による現状変更は、国際法上も許されない」とロシア制裁に賛成した。しかし、尖閣問題で日本と共同歩調をとると言ったアメリカも、ウクライナ問題を控えて、中国に対しては慎重な配慮を見せざるを得ないところにいる。

◆ウクライナ問題で存在感を高める中国
 ご存知のように、中国は国内に(ウイグル、チベット族などの)民族問題を抱えていている。従って、建前上はクリミヤが分離独立することに賛成できない筈なのだが、国連安保理でのクリミヤの分離独立を否定する決議に対して棄権し、態度を明確にしなかった。中国とロシアとは互いにアメリカを睨んで、新たな「重要な戦略的パートナー」関係を築こうとしている。これは、アジアの安全はアジアの国々で解決できる、とする中国の強い意欲の表れでもある。
 関連して中国とロシアは、5月末にプーチンも出席して上海で開かれる「アジア信頼醸成措置会議」で「アジアの新しい安全保障観を打ち立てる」と打ち上げた。アメリカ抜きの安全保障体制をアジアで築くという宣言である。これを築くために、中国はクリミヤ独立に目をつぶってロシアに貸しを作り、手を組みたいと思っている。しかし、アメリカもこうした中ロの動きを警戒し、間に割って入ろうとしている。

 中国とアメリカの間には先に習近平が呼び掛けた「新たな大国関係」のビジョンがある。アメリカはこれを慎重に見極めて来たが、ウクライナ問題をきっかけに両国関係をより強化する方向に動き出した。何しろ、軍事面はともかく経済面では、中国とアメリカはもう切り離せない関係にある。中国の輸出相手国の1位はアメリカ(17%)であり、中国は既に1兆3千億ドル(130兆円)の米国債を保有しているという現実がある。EUも経済的には中国との結びつきを強めようとしている。
 こうして中国の存在感は、ウクライナ問題をきっかけに高まりつつある。ウクライナ問題の行方をじっと観察しながら何が自国の利益になるか“漁夫の利”を探っている。このように、多極化する世界の中ではそれぞれの国が何枚の強力なカードを持っているかで、発言力が決まって来るわけだが、この点でアメリカに頼って中国とやり合っている日本はどうなのだろうか。「尖閣は日米安保の範囲内」などというお墨付きをもらって安心していたら、その裏で米中が手を握っていたなどということはないだろうか。

◆多極化する世界とプーチンの野望
 さらにもう一つ、ここへ来てプーチン大統領について驚くような情報が流れている。いわく、彼の一連の政治行動の底流にあるのは「偉大なるロシアの復活」という夢(ネオ・ユーラシア主義)であり、道徳的に堕落した欧米との対決であり、そのためには独裁者であることを辞さないという思考(プーチン・ドクトリン*2)だという。仮にそうとすると、多極化した世界は戦前のような、幾人かの指導者の強烈な個性と野望によって動く時代に戻るのかもしれない。その点では、相関図の国旗の代わりに、それぞれの国の指導者の顔を描いた方が良かったかもしれないなどと思っているが、プーチンを始めとするリーダーたちの野望については、また回を改めて書きたい。
*1)化学兵器で自国民を殺害したアサド政権に対して、武力攻撃を行うとしたオバマが結局はプーチンの助言を入れて諦め、制裁策にもどった件
*2)BS世界のドキュメンタリー「“帝国”への郷愁〜プーチン政権と拡張路線」、元外交官の東郷和彦氏の論文などが参考になる

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