日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

「日本会議の研究」を読む 16.6.25

 今、街中の書店に行くと新書売り場に「日本会議の研究」(扶桑社)という本が平積みになっている。若いサラリーマンだった著者(菅野完)が退職し、調査しながらネット配信した内容をまとめた本だが、書かれた方の「日本会議」が出版差し止めに出たことで話題になった。安倍グループの思想的母体である右派団体「日本会議」については、これまでもコラム「極右化する政治と日本の未来」などで取り上げてきたが、その内側は謎が多かった。著者は粘り強い綿密な調査によって、この団体を動かす人々の内実と来歴を解明し、今、安倍に密着して政権を操る「一群の人々」の驚くべき実体を暴いている。
 今回の参院選挙で、自民党は「アベノミクスの継続」を前面に打ち出す一方で、改憲は公約の最後に触れる程度に抑える姑息な作戦をとっている。問われた安倍は「改憲を争点にしないとは言っていない」などと言い訳しているが、彼らの真の狙いが「参院選挙後の改憲」にあることはまぎれのない事実である。特に、安倍を取り巻く(極右とも言うべき)「一群の人々」にとって、選挙で改憲可能な2/3を確保することは悲願達成への重要なステップと考えられている。この本は、ファナティック(狂信的)な集団に占拠された自民党の由々しき現状と、彼らの真の狙い(現憲法の全否定)を目から鱗のような明快さで示している。

◆日本会議の主張に沿って改憲を進める安倍政権
 日本会議の中には、国会議員で構成される「日本会議国会議員懇談会」がある。幹部には、麻生太郎(特別顧問)、谷垣禎一(相談役)、平沼赳夫(会長)、安倍晋三、石破茂、菅義偉など(副会長)、下村博文(幹事長)、萩生田光一(事務局長)などが名を連ねている。現在の第3次安倍内閣で言えば、閣僚19人のうち16人がメンバーであり、安倍内閣は「日本会議のお仲間内閣」(著者)とも言われている。さらに、安倍の盟友ともいうべき衛藤晟一(内閣総理大臣補佐官)や稲田朋美(党政調会長)なども主要メンバーだ。
 日本会議の主張は(私なりに)一言で言えば、占領政策の否定と戦前的価値への回帰である。平和憲法の否定と改憲、連合国による東京裁判の否定(従ってA級戦犯の否定)、自存自衛とかアジアの植民地解放という理由での太平洋戦争の肯定、靖国神社参拝の奨励、万世一系の天皇を中心とした国柄の強調などだ。日本会議は現在、改憲運動を盛り上げるための組織「美しい日本の憲法をつくる国民の会」を立ち上げ、改憲に賛同する市民1000万人の署名を集めようとしているが、これには櫻井よしこ、長谷川三千子(NHK経営委員)、舞の海、百田尚樹などの顔ぶれも参加している。

 この日本会議の運動を実質的に取り仕切っているのは、運動の立案、(運動員の手配などの)リソース配分、進捗管理などの事務局業務を行っている別動組織「日本青年協議会」だが、彼らの機関誌「祖国と青年」(2015年4月号)には、改憲にかける彼らの意気込みを示す漫画が掲載されている。そこに描かれているのは、「改憲まであと480日」という改憲へのカウントダウン。その時点から480日と言えば今年の参院選挙直後であり、この選挙での勝利をもって彼らは念願の改憲を果たすと宣言しているわけである。
 また、日本会議や「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が憲法改正のプロセスとして言っているのは、9条の改正からではなく、まずは緊急事態条項と家族保護条項の追加だという。これと口裏を合わせるようにして改憲への同じプロセスを提言している人物が、シンクタンク「日本政策研究センター」代表の伊藤哲夫である。伊藤は、安倍の盟友の衛藤晟一が安倍に引き合わせたと言うが、安倍政権の生みの親として今や安倍の最有力ブレーンと見なされている。この改憲プロセスは最近の安倍の主張とも一致しており、安倍は日本会議や伊藤らの提案に沿って改憲への動きを進めていると指摘されている。

◆政権を支配する「一群の人々」の由来は「成長の家」
 「日本政策研究センター」代表の伊藤哲夫(写真)は、まだ安倍が当選3回の幹事長時代から、安倍のプロモーターとして安倍に密着してきた。右寄りの論陣を張るCS放送「桜チャンネル」の開局記念番組で安倍と対談し、保守革命のリーダーたることを促している。それに答えて安倍が政権を握った今、伊藤や日本会議に関係する「一群の人々」(著者)が安倍政権中枢に深く関与するようになった。伊藤を安倍に紹介した内閣総理大臣補佐官の衛藤晟一、党政調会長で安倍のお気に入りの稲田朋美。そして日本会議を陰で支える事務総長であり、「日本青年協議会」会長の椛島(かばしま)有三
 さらには、集団的自衛権の合憲説を唱える憲法学者の百地章(日本大教授)。南京事件の記憶遺産登録反対意見を起草した高橋史朗(明星大学教授)。安倍政権を支えるこうした「一群の人々」とは、いかなる人物なのか。著者は、綿密な調査で彼らの過去を洗い、一つの事実に突き当たる。それは、(稲田朋美を除く)彼ら全員が日本会議や日本青年協議会の有力メンバーであると同時に、宗教団体「生長の家」のかつての学生信徒で、右翼学生運動(*)の闘士仲間だったことである。彼らは今も、「成長の家」の創始者、谷口雅春(1893-1985)の教えに忠誠を誓う「谷口雅春先生を学ぶ会」の同志であり、ここには稲田朋美も参加している。*主として長崎大学学園正常化闘争

 「谷口雅春先生を学ぶ会」に参加し、「生長の家」の根本経典である『生命の実相』を掲げながら、「これを祖母から受け継ぎ、ボロボロになるまで読んだ」と話す稲田朋美。ウィキペディアによると、戦前の1930年に新興宗教の「生長の家」を創始した谷口雅春は、第二次大戦を期に急速に右傾化し、全体主義、国家主義、皇国史観を説くようになる。彼の教えは「愛国聖典」と呼ばれ、「皇軍必勝」のスローガンの下に教団をあげて戦争に協力した。公職追放から復帰した敗戦後は、「戦争に敗れたのはあくまでも無明(まよい)と島国根性に凝り固まった“偽の日本”であって、本当の“神洲日本国”は敗れたのではない」と主張。占領軍が押しつけた憲法を破棄して、明治憲法(大日本帝国憲法)を復活すべきと「明治憲法復元運動」を展開した。

◆現憲法の全否定、明治憲法の復活が出発点
 これは、戦後教育で育った大部分の国民にとって唖然とするほどの時代錯誤の主張だが、学生の頃からこうした谷口雅春の教えに傾倒した「一群の人々」が、今の安倍政権を取り巻いているわけである。谷口の教えに従う限り、こうした「一群の人々」の改憲思想の根底にあるのは、改憲と言うより「反憲」(現憲法の全否定)ではないか。そう思えば、安倍が現憲法を軽視し、解釈を勝手に変えるなどは朝飯前のことかも知れない。著者によれば、安倍のブレーンである伊藤哲夫の「日本政策研究センター」は、その目的が「明治憲法の復活」にあることを漏らしているという。復古的な「谷口雅春先生を学ぶ会」(*)の周辺には、そうした極右人脈が集まっている。*現在の「生長の家」はこれと一線を画している
 例えば、園児に軍服まがいの服装をさせて教育勅語を暗記させ、靖国神社で「同期の桜」などの軍歌を歌わせる「塚本幼稚園」(大阪市)というのがある。ここの籠池園長なども「谷口雅春先生を学ぶ会」につながっており、発表会に出席した自民党の西村眞悟(衆議院議員)が祝辞を述べ、櫻井よしこなども園を訪ねて訓示している。さらに驚いたことには、安倍首相の昭恵夫人が幼稚園を訪ねて講演し、その教育方針に感激して「首相に伝えます」などとも言っている。ネット情報によれば、塚本幼稚園は最近、小学校教育(「瑞穂の國記念小學院」)にも乗り出したが、昭恵夫人は名誉校長を務めるという入れ込み方である。 

◆極右に乗っ取られた自民党
 「首相に伝える」までもなく、安倍は日常的にこうした「一群の人々」と接している。この「一群の人々」の外縁には、もっと危ない集団もいるらしいが、それは本を読んで頂くとして、こうしたファナティックな「一群の人々」に支えられる安倍政権は、これまで保守本流を自認してきた自民党の流れから見ても異質な流れで、メンタル的にも大方の日本国民とかけ離れている。著書「日本会議の研究」は、そうした安倍の本質や取り巻きの正体を暴いた力作だと思うが、改憲日程が迫りつつある今、私たちにとっての問題は、露わになった「極右に乗っ取られた自民党」というこの異様な現実を、直視し対処することが出来るかどうかだと思う。

世界を食い荒らす強欲経済 16.6.15

 入院手術やパソコンの突然死にあたふたとしているうちに、安倍政権は消費税増税の延期を決めて、7月10日の参院選に向けて走り出している。海外から経済学者を呼んで日本の経済状況を分析させたり、サミットで世界経済の危機説を持ち出したりと、アベノミクスの失敗隠しに懸命だった安倍だが、選挙が始まると、相も変わらず「効果が出ているアベノミクスの好循環を全体に押し広げる」、「アベノミクスをもう一段ふかす」などと、恥ずかし気もなく言っている。海外のメディアからは「消費税先送りのためにサミットを利用した」などと揶揄されているのもどこ吹く風。どういう神経をしているのだろうか。
 誰かが、これは戦争中の大本営発表と同じで、負けているのに「転進」などと言い換えているのと同じと言っていたが、まさにその通り。そこにあるのは、自分に都合のいい情報しか伝えようとしない知的無責任か、あるいは経済成長の幻影さえ掲げていれば何度でもだませるという、国民を見下した傲慢さなのだろう。ほころびた衣(経済)の下で「改憲隠し」のえげつない選挙戦略がはびこる現状には、つい無力感に襲われるが、どこかで踏ん張らなければという気にもなる。そこで今回は、最近話題のパナマ文書、タックス・ヘイブン、そして消費税といった税金にまつわるキーワードをつないで、その背後にある巨大な影の実体を探ってみたい。

◆税金を払わない超富裕層
 ご存じのように、税金は一般に課税対象額(収入)が多いほど税率が高くなる累進課税になっている。日本の場合、所得に対する税率の最高は昭和49年(1974年)の75%から徐々に下がって平成元年(1989年)には37%まで下がった。その後、45%まで是正されたが、富裕層が多くの税金を払っているはずという認識は知らない間に大分変わって来ている。富裕層の税負担がそれだけ軽減されたのである。しかも、実際に税務署に所得金額を申告した人の税負担率は、所得が1億円の人の28.3%をピークに、所得が増えるに従って税率が下がるという奇妙な実態になっている(「タックス・ヘイブン 逃げていく税金」)。
 所得100億円の超高額所得者に至っては、13.5%しか税金を納めていない。こうした所得はほとんどが株式の売却による収入だが、日本の税制では特別措置が適用されるからである。これだけでも不公平なのに、超富裕層には海外のいわゆる租税回避地「タックス・ヘイブン」に金を送って脱税や節税を行う抜け道がある。これは外国でも同様で、最近問題になっている「パナマ文書」にも出てくるような一握りの超富裕層が税金逃れで得た富で世界の半分の資産を手中にし、富裕層と貧困層の格差をさらに広げる原因となっている。 

◆租税回避地に流れた巨額の金行き先は?
 この4月に世界で一斉に暴露された「パナマ文書」は、そうした税金逃れの氷山の一角が現れたものである。パナマの弁護士事務所(モサック・フォンセカ)を通して世界の租税回避地「タックス・ヘイブン」にペーパーカンパニーを作っている顧客情報20万件がリークされ、その顧客だったアイスランド、中国、イギリスなどの政治家や取り巻きが窮地に陥っている。日本関連でも40以上の法人、450人以上の個人(中小企業の経営者、医者など)が含まれていた。こうした顧客は多くの場合、得た利益については秘密にして(本国に)税金を納めない。
 タックス・ヘイブンの特徴は、そこが無税ないしは極めて低い税率であることだが、最大の問題(顧客にとってはメリット)は取引の情報が表に出ないことである。タックス・ヘイブンを通して超富裕層が預けた巨額の金がどこで何に投資されているのか、幾ら利益を上げたのかつかめないようになっている。しかも、彼らの巨額の金はタックス・ヘイブンにはない。全世界のコンピュータネットワークを通して瞬時に英国やアメリカの金融街に集められ、そこでグローバルな投機に使われて行く。それが金融のグローバル化なのである。

 その金はどのくらい巨額なのか。国際税務専門家によれば、およそ30兆ドル(3300兆円)がタックス・ヘイブンがらみだという(毎日5/22)。これは、日米中3カ国の国内総生産(GDP)の合計に匹敵する額だ。こうした金の一部を使って為替取引に使われる金は、世界で一日あたり5兆3千ドル(580兆円)にもなる(遠藤乾、朝日5/26)。これは日本のGDPをしのいでおり、まさに実体経済とはかけ離れた巨額の資金が世界で暴れているわけである。また、そうした投機によって上がった利益は、脱税されて超富裕層を一層富ませていく。その脱税額は、もろもろ合わせて3兆ドル(330兆円)に上るという。
 そうした脱税をどう阻止するかもさることながら、問題は30兆ドル(3300兆円)に上るタックス・ヘイブンがらみの金の背後に誰がいるか、誰がその金を操っているのかだと、(私たちの勉強会の先生である)赤木昭夫さんが書いている(世界7月号「パナマ文書事件 国際錬金術師の影」)。赤木さんによれば、こうした金を使って多種多様なデリバティブ(金融派生商品)に投資しているのは、世界の金融を牛耳る多国籍のゴールドマン・サックス、シティグループ、JPモルガンと言った巨大投資銀行であり、彼らがその巨額の金を使って世界の経済を背後から操っている(食い物にしている)のが実態だという。 

◆世界を食い荒らす強欲な資本主義
 彼らの本拠地はアメリカとイギリスの金融街にある。為替から株、穀物から資源までのあらゆるデリバティブを考え出して金儲けの対象とし、先物が上がれば儲け、下がっても儲ける仕組み(金融派生商品)を考え出して投資する。ゴールドマン・サックスなどは、ギリシャの財政危機に際して借金の一時肩代わりを高利で持ちかけて巨額の儲けを手にしたりした。また、通貨危機や戦争のドサクサの価格変動で儲けたりする強欲ぶりである。昔の火事場泥棒のようなものだ。
 さらに、一日あたり580兆円に上る為替取引においても、世界の巨大投資銀行は談合して相場を決めていたという事実を3年前に暴露されている。談合で決めた取引額を密かに入力して相場を有利に操作、巨額の利益を上げていたことに対する罰金を課されている。彼らにとってはアベノミクスの異次元の金融緩和なども、集団で円安予想を共有すれば、先物取引で簡単に巨額の利益が得られる投機の対象だったに違いない。
 
 こうして世界の経済はあらゆる局面で、巨大投資銀行の金儲けの対象と化して行く。彼らにとって金儲けの機会は、世界の安定よりも不安定の方にあるため、
経済危機や戦争・紛争を望むという危険な傾向さえ指摘されている(「ショック・ドクトリン」)。彼らの投資活動や脱税支援は一国の税金収入を危機にさらし、社会維持のための資金的余裕を失わせているが、彼らに対する国際協調は穴だらけでなかなか進まない。
 EUなどは脱税阻止のための規制を強化しようとしているが、巨大投資銀行が集まる英国などは、非常に消極的だという話もある(英国のUE離脱の理由の一つだろうか)。一方、巨大投資銀行(ゴールドマン・サックス)とクリントン家の密着ぶりも指摘されていて(「世界」)、各国の政治家達は彼らの脱税指南によって首根っこを押さえられているのかもしれない。というわけで、タックス・ヘイブン問題は強欲なグローバル資本(巨大投資銀行)と主権国家とのせめぎ合いの場になっているが、当然ながら国際社会は劣勢に立たされている。

◆公平な税制とは何か。もっと税金に目も向けるべき
 では、こうした強欲な経済が幅をきかす世界情勢の中で、日本のアベノミクスや消費税問題を考えるとどうなるのだろうか。消費税は一律に10%を消費にかけるという点で低所得者層に厳しく、富裕層に軽いという性格がある。累進課税率の低下や株売買の特別措置などで、富裕層がより豊かになる今の税制を是正しないで、消費税の増税にばかりこだわるのは、果たして公平なのか。
 さらには、アベノミクスの異次元緩和で市場に流れ出した膨大な資金(結局は国民の借金)の行方である。それが実体経済のてこ入れには使われず、タックス・ヘイブンに流れていたならば、何のためのアベノミクスかということにもなる。アメリカ大統領選挙に限らず、世界各地では格差を巡る論争が激しくなり、貧困層の政治的不満が高まっていることを見ても、私たちはより公平な社会を目指すという理念を忘れずに、税金のことももう少しじっくり学ぶ必要があるのではないか。

民進党へのラブレターA 16.6.1
 民進党議員に提言のようなものを送ったいきさつについては、前回に書いた。@どういう党を目指すのか、A党のビジョン作りと2段構えの政権戦略だったが(「メディアの風」コラム5/14)、後編の今回はB具体的政策、C目指すべき政治家像について書いた。その後、送った相手から「賛同する点が多く興味深く読ませていただきました」旨の返事が来たが、参院選挙を前にして民進党にはじっくりと勝てる戦略を練ってほしいと思っている。
 いま巷では、衆参同日選挙はないとの観測が強まっているらしいが、首相は6月1日の会見で正式にダブル選挙と消費税増税について態度を明らかにするという。いずれにしても7月の参院選挙は、これから数年の政治状況を作っていく上でも大事な選挙になる。
安倍一強政治による間違った方向への暴走に歯止めをかける意味でも、民進党を中心とした野党には頑張ってもらわなければならない。以下、提言の続きだが、まずは具体的な政策を7つあげておいた。

◆B具体的政策
1)アベノミクスに代わる経済政策
 金融政策に頼るアベノミクスは挫折した。恩恵があったとしても、一部の大企業と富裕層のみ。
その一部の富裕層の余禄が、国民多数に滴り落ちる「トリクルダウン」は起こらない。無理を重ねて経済成長の幻影を追うアベノミクスは害(副作用)あって益なし。貧困層も含めて国民大多数の中間層を豊かにし、国民全体に活力を持たせるには、経済成長に頼らない新たな価値観による経済政策が必要。また、行きすぎた累進課税の軽減を見直すなどの社会的公正のあり方も検討する。(*累進課税の見直しで得られる財源は?)

2)「縮む日本」を直視したダメージコントロール
 必ずやってくる
高齢化と人口減少の近未来日本の深刻な現実(2025年問題、2030年問題など)。これを直視し、そのダメージをいかに和らげソフトランディングを果たすかという「ダメージコントロール」こそが、これからの日本の最大課題の一つになる。持続する豊かな日本を次世代に残すために、国民全体で取り組んで行く。政策としては、道州制も含めた地域主権、地域経済圏の試み、農業の活性化、子育て支援、非正規雇用の若い労働者の正規雇用化など。

3)原発に頼らないエネルギー政策
 世界最悪の地震・火山列島である狭い日本において、再び事故が起きれば国と民族が滅ぶ。溜まる一方の使用済燃料の処理、廃炉技術も未確定。
日本の原発に未来はない。これに見切りをつけて、得意のイノベーションで世界をリードしながら、次世代が安心して暮らせる新エネルギーの開発に取り組むことこそ、原発事故の体験国としての日本が取るべき道である。

4)外交とセットにした専守防衛の防衛政策
 核保有のカルト独裁政権の北朝鮮、領土問題を抱える(覇権主義に駆られる)中国、ロシア、韓国を隣国とする日本の防衛政策はなかなかに難しい。しかし一旦、国家間戦争始まってしまえば、双方にとって破滅しか生まない現代において、
戦争はあらゆる方策を講じて避けるべきものである。日米同盟の変質を慎重に見極めながら、日本の「外交・防衛ドクトリン」を構築する。その時に重要なのはアメリカに引きずられる集団的自衛権ではなく、専守防衛と個別的自衛権だろう。

5)守るべき基本理念に基づく憲法の議論
 国家を上位に置き、国民の権利を制限しようとする自民党の国家主義的改憲案については厳しく批判して行く。同時に、(変えないことも含めて)現憲法が時代に合っているかどうかを議論して行くのは必要。その時には、
「日本国憲法が有すべき基本理念」を再確認していくことが重要になる。国民主権、象徴天皇、基本的人権、専守防衛、平和希求などの基本精神を分かりやすく書き変えたり、時代に合わせた項目(*)を付加したりする。*例えば、教育の全面無償化、道州制を明記した統治機構改革、憲法解釈を判断する憲法裁判所の設置(おおさか維新)なども参考に

6)世界に開かれた日本の推進
 グローバル化が進む中で、日本は地域と言えども世界と無関係には生きて行けない。日本が取り組む平和構築の報酬として、
ローカルがグローバルにつながって行く「グローカル」を積極的に推進して豊かさを得て行く。モノ作りと貿易、観光立国、高品質な農業、国際化する医療と介護、教育、エネルギーも含めた科学技術etc。こうした分野で、日本の都市部はもちろん、地域も創意工夫で国際化を進め、世界との結びつきを強めていく。

7)地殻と大気の大乱時代のリスクに備える
 3.11以降、日本の地下は大乱時代に入っている。必ずやってくる大地震や火山噴火に備えるための被害軽減策が急務である。そのために、アメリカのFEMA(合衆国連邦緊急事態管理庁)に匹敵する「災害管理庁」(仮)を設置し、
防災・減災のあらゆるノウハウと人員を結集すべきである。同じように、地球温暖化の防止策や適応策においても、実効ある炭素税の導入を含め世界をリードして行く。
 
 (ここには問題意識というか、政策の骨子だけを書いてみた。もちろんこれまでも各方面で指摘されてきた内容であり、具体化には専門家も含めた研究と肉付けが必要になる。特にグローバルに展開される新自由主義的経済がもたらす弊害については、心ある思想家、経済学者も警告を発しているところだが、
経済成長を唯一の指標として無理を重ねる現政権の思い込みは危ない。むしろ回り道でも社会各層が支え合う共生社会で安定した社会を作る方が、“結果としての経済成長”を生むといった指摘もある。格差が様々な社会的軋轢を生んでいる日本においては、是非、検討してもらいたいところである)

◆C目指すべき政治家像
○永田町の政治家が陥りやすい権力欲、過度の上昇志向、目立ちがり屋、内容のないパフォーマンス、エリート意識、上から目線、といった無意味な性癖を削ぎ落し、いま国民が何を望んでいるのかの庶民感覚に敏感であり、国民の声なき声に寄り沿いながらやるべきことに挑戦する政治家であってほしい。
国民と国家のために献身する高い志と真心(赤心)を持ち続けて欲しい。

○常にアンテナの感度を磨いて発信力を高めてほしい。国民感情(感覚)と波長を同じくしながら、
国民の心に届く力のあるメッセージを発信しなければならない。例えば、安倍政治の危険、弱点、欺瞞、空虚を突く「寸鉄人を刺すような」創造的表現を国民に届けられるようになってほしい。
 国会論戦においても、(例えば格差論議などで)都合のいい印象論や邪推・勘繰りを排し、しっかりしたデータに基づいて、安倍政治の本質と弱点・急所を突く厳しい論戦を展開して欲しい。

ブレーンを持つこと。現在は過去の経験だけでは乗り越えられない時代の転換点(入り口)にある。そのため、これからの政治は従来の価値観や政治家としての直感だけではやって行けない。穏健な改革を続ける「中道保守」に共感する専門性の高いブレーン集団を、党としても個人としても集める必要がある。政治理念、憲法・防衛政策、経済政策、外交政策、社会福祉の在り方、教育政策、科学技術政策など、ブレーンを使いこなしながら、(手順も含めて)安倍政治に対する対抗軸を打ち出して欲しい。

適切な歴史認識を持つこと。一方で、過去の歴史に学ばない政治はあり得ない。特に明治から戦前にかけての軍国主義の台頭、戦争へのプロセス、戦後のGHQ占領政策の功罪、高度経済成長とバブルの崩壊、経済成長が望めない少子・高齢時代の変化など。同時に冷戦終結後の世界認識も必要。これらの歴史認識の中で新たな日本の価値観、羅針盤を見つけ出す作業が必要になる。そうした大局観と歴史感覚を持った政治家であってほしい。

(最近、国会議員や自治体首長たちの唖然とする行動が問題になっているが、ここでは、政治家は何のために政治家を目指したのか、そのためにはどういう政治家であってほしいかを書いた。特に、反知性主義が横行する現状の中で、踏みとどまって初心を忘れず、政治の理想を追い求める政治家であってほしいと思って書いてみた。これがラブレターの所以である)

民進党へのラブレター@ 16.5.14

 7月の参院選挙が近づいて来た。今回の選挙では、安倍政権が相変わらず(既にメッキがはがれている)アベノミクスにしがみつきながら、他方で時代錯誤的な憲法改正へ議席数獲得を狙っている。普段は特定の支持政党を持たずに、状況の流れの中でよりましな政党に投票して来たのだが、こうした意図をくじくためにも野党の中核である民進党には頑張って貰わなければならない。しかし、外から見ている限り、今の岡田民進党はいかにも発信力が弱い。岡田氏以外の議員たちの声もあまり聞こえて来ない。野党連携が進んでいるというが、水面下の動きは良く見えないし、それがどこまで力を発揮できるか不透明だ。

 歯がゆく感じていた時、たまたま民進党の有力議員のブレーンのような関係にある知人にその思いをぶつけたら、一度会ってやってくれないかという。そこで、そうは言うものの果たして自分は、彼らに役に立つことが言えるのか、会う前にまずは、民進党に対する自分の思い(提言のようなもの)をまとめてみようと思い立った。タイトルを「民進党へのラブレター」とし、@どういう党を目指すのか、A党のビジョン作りと2段構えの政権戦略、B具体的政策、C目指すべき政治家像、の4項目に分けて書いて見た。
 「風の日めくり」に書いたように前立腺がんの摘出手術を受けた時期だったので、病院のベッドの上で骨子を書き、退院後練り直して知人に見て貰ったあと、その提言のようなものを民進党の2人の有力議員に郵送した。まだ言葉が十分練れていない感じもするが、内容そのものはこれまでも何度かコラムで書いて来たことがベースになっている。果たして読んでくれるかどうかは分からないが、せっかくなのでコラムの方にも2回に分けて載せておきたい。解説(カッコ内)は、こちらだけに付記したものである。 

◆@どういう党を目指すのか
A)穏健な改革を続ける中道保守
★平穏で豊かな社会を支える社会的インフラ(*)を持続的に発展させ、次世代に手渡して行くために国民多数の支持を得ながら穏健な政策を実施する。*宇沢弘文氏の言う「社会的共通資本」
★ただし、これからの日本は高齢化と少子化によって、急激な人口減少に直面する。その現実を直視し、深刻なダメージを回避するために「過去に捉われない大胆な改革」が必要になる。周知を集めて適切な改革を着実に実施し、ソフトランディングを果たしていく。
★国民の声を受け止め、国民主権を明確にすることで、国民より国家を上位に置く安倍政権の国粋主義的な「国粋保守」との違いを明確に打ち出す。

B)将来世代、社会的弱者を支える国民政党
★国民中間層を分厚くし、生活者全体の共通の利益を図りながら「分断の論理」を排して(*)、国民各層が共に支えあう共生社会を目指す「分断社会を終わらせる」(井出英策氏ほか)
★高齢弱者はもちろんだが、特に若い世代、子育て世代、子どもの貧困層など将来を担う世代を社会全体で支える国民政党を目指す。
★90%以上を占める零細・中小企業、あるいは地域共同体の維持を担う農業においても生産と経営の活性化を促すきめ細かい政策を実施するとともに、大企業・都市富裕層との連携も促しながら格差是正のための政策を導入する。

C)立憲平和主義、民主主義に基礎を置く政治
★一貫して国民主権を追求、「憲法は国家権力の暴走に歯止めをかけるためのシステム」という憲法観を基本に置き、国民の間に疑心暗鬼を生まない立憲主義に基づく民主的政治を行う。
★常に先の大戦の反省を踏まえて「非戦の誓い」を確認し、平和憲法の精神を守って専守防衛に徹する。同時に、国際間外交を積極的に展開しながら、国際平和の構築を能動的に追求する。
★数に頼って立憲主義、民主主義の手続きを軽視する安倍政権の政治手法に異議を申し立てる。同時に、民進党はその政治手法において、多少時間がかかっても、国民・政党間の議論を十分に行い、民主主義的手続きを踏まえた丁寧な政治を行うことを宣言する。

(現実を直視しながら穏健な改革を続けて、日本の豊かさを支えてきた社会的インフラを次世代に引き継いでいく政治を「中道保守」というかどうかは議論があるだろう。「リベラル保守」などという言い方もあるようだが、そんな定義を巡る“神学論争”はおいて、現在の安倍自民党があまりに右に寄りすぎたために、穏健な保守の広場が空いている。そこに民進党の旗を掲げるというのは枝野幹事長なども言って来たことである。
 ただし、かつての保守のように既得権や利権の上にあぐらをかき、着実に改革を進めないようでは未来は切り開けない。さらにその政治手法において、国民各層が支えあう共生社会を作る意味で、
「分断社会を終わらせる」(筑摩書房)は示唆に富む。こうした新しい政治手法の研究が必要だろう)

◆A党のビジョン(基本理念)作りと2段構えの政権戦略
★将来的には自民・公明に代わる政権与党を目指すが、与党時代の失敗(☆)を十分総括・反省して国民に示さない限り、現時点ではあらゆる意味で時期尚早であり、国民にも受け入れられない。従って、当面は暴走する安倍一強政権を抑えるために、効力ある野党として一定数以上の勢力を獲得することに全力を挙げる。そのための野党連携も柔軟に模索する。
☆財源の裏付けのないマニフェストに捉われて、政策が硬直化したり、あるいはそれが不評と見ると、マニフェストにもなかった思いつきの政策(TPP、消費税など)に飛びついたり、あまりに稚拙で準備不足だった。
☆各議員の考え方が右から左までバラバラで、それぞれが一匹狼のお山の大将なので好き勝手な発言や足の引っ張り合いで大混乱。政権与党になってもまとまることが出来ない学級崩壊状態だった。目指すビジョンと基本理念(根っこ)を定めて、この状態を何とかしないと政権獲得は夢物語に過ぎない。

★その上で、出来るだけ早く党員多数の賛同を得られるような(与党時代の反省に立った)「党のビジョン(*)と政策」を再構築し、新たな政権戦略を打ち立てて行く。*自由、共生、未来への責任は抽象的で訴求力に乏しい
★並行して、党としての存在感を高めるために、どうすれば発信力を高められるか(☆)を真剣に考えて行く。
☆国民感覚とずれない発信力、政治力、人間的魅力を持つリーダーを見極めて、まとまっていく。当面は野党として、そうしたリーダー群が連携して国会内外において、立憲主義を無視する安倍政権の危険性や、アベノミクスの挫折と深刻な副作用について、(国民の心に響く)分かりやすいメッセージを繰り返し発信して行く。
☆さらに何人かのリーダー同士の切磋琢磨で、国民の心を掴める魅力的な「力のあるリーダー」を選んで行く。誰が次代のリーダーなのかを見極めプロジェクトを組んで組織全体でプロデュースして行く。発信力のある人間的魅力のあるリーダーこそが政権党のトップ(顔)として相応しい。

(民進党幹部は、建前的に「自民党に代わる政権政党を目指す」と言うが、与党時代の民主党に落胆した国民の心を捉えられない。その反省の上に立ち、今は謙虚に安倍政権の暴走にNOを言えるだけの野党勢力を結集することこそ重要テーマではないか。そうした連携を模索することに対して、自民党は「野合」と批判するが、「野合で何が悪い」と開き直れるくらいの腹の据え方が必要。その上で、並行して新たな民進党のビジョンと政権戦略を構築すればいい)
 次回の
「民進党へのラブレターA」では、B7項目にわたる具体的政策、C(永田町の政治家が陥りやすい性癖を避ける)目指すべき政治家像、について示したい。

超高齢・多死時代の終末観 16.4.13

 今から34年前の1982年、NHK特集で来るべき高齢化時代の医療問題を扱ったことがある。タイトルは、「日本の条件・医療 あなたのあすを誰が看(み)る」。世界最速で高齢化時代を迎えつつある日本は、このまま行くと医療費が破綻する。これからの高齢者医療は「治す医療から、看取る医療へ」、「キュア(治療)からケア(介護)へ」どう舵を切って行くか、というのがテーマだった。この時は、治る見込みのない患者をかき集めて “高度な先進医療”を施して利益を上げる(患者数1000人の)巨大老人病院を取材する一方で、自宅で療養する寝たきりの患者を訪問し、家族を励ましながら地域医療を行っている良心的な病院も紹介した。
 その一つが京都西陣にあった堀川病院だった。私たちは「町は病院の廊下」と言いながら在宅医療を続けている早川一光医師について歩き、寝たきりのお年寄りを世話する家族の苦労を取材した。始めはカメラも持たずに、家族の了解を得るまで何回も通った。特に脳梗塞を起こして寝たきりになった老人の介護は大変で、その手足は釘のように硬く曲がっている。それを家族や看護師がさすり、体をふき、おむつを取り替え、床づれの手当てをして行く。ある家では、奥さんが寝たきりの男性の顔をタオルで丁寧に拭きながら「きれいになったねぇ」と話しかけていると、全く意識がないと思っていた男性の目尻から涙があふれて来て驚いたこともある。

◆超高齢化時代の医療の現実
 この番組は、高齢社会(65歳以上が全体の14%)の医療に焦点を当てた最初の本格的な番組だった。その後の日本は、増え続ける医療費を抑えるために様々な手を打って来たが、あれから33年後の2015年に、日本は超高齢化社会(65歳以上が全体の21%超)に突入し、問題はさらに深刻化している。そのことを痛感したのは、最近2泊3日で検査入院した大学病院でのことだった。入院する前々日、病院から「病室が満杯なので、男女混合の4人部屋でいいですか」という電話があり、「男女混合でいいのかなあ」と思って入院してみて驚いた。
 ナースステーション前のその病室には、私の他に男性2人と女性1人。いずれも、80歳を超えているようなお年寄りだった。それも、一人は何の病気なのか酸素マスクを付けて寝たきり状態。看護師が常時見回って熱や血圧を図り、歯を磨いてやったり、おむつを交換したり、時には風呂に入れたりと大変な努力をしているが、話しかけても殆ど会話にならない。他の2人も、時々「バカ野郎」とか、痰の吸引時に「痛い、痛い」と大声を出す。痴呆が大分進んでいる状態だ。点滴などの管を引きぬかないように、手には丸い大きなグローブをはめられている。

 その病棟は、夜中もひっきりなしにピーピーと警報音が響いていて、徹夜の看護師たちも忙しく動き回っている。この状態を観察しながら思ったのは、こうして目の前の病状を回復させても、寝たきりの痴呆状態は続いて行くという矛盾である。これでは医療資源がいくらあっても足りない。大学病院のような高度医療機関でさえこうなのだから、他の病院などではどんなことになっているのだろうか。もう一つは、こうして点滴の管につながれ、グローブをはめられているお年寄りは、治療である程度の延命をしたとしても果たして幸せと言えるのか、と言うことである。
 この状況を目の当たりにすると、自分なら(すべての医療を拒否して)死にたいものだと思うが、果たして医療機関はそれを許してくれるだろうか。前述のNHK特集の中では、当時始まったばかりの(痛みの緩和ケアが中心の)ホスピスも紹介したが、これは間もなく死ぬと分かっている“がん患者”がほとんどだった。痴呆で寝たきりで、応答もおぼつかないお年寄りに、どこまで積極的な延命治療を施すべきか。いつの間にか70歳を超えてしまった私は、「これは真剣に意志表示をしておかないと大変なことになる」と痛感したが、現実的には患者・家族・医師の間で未だに共通理解の得られていないテーマである。

◆来る「2025年問題」。どこまで延命を図るのか?
 特に議論になっているのは、口から食べられなくなった患者の腹に穴を開け、胃に直接栄養を送り込む「胃ろう」である。寝たきりで衰弱した患者も病院でこれを施すと、たちまち血色が良くなって自宅に帰れるというが、寝たきり状態は変わらないから、やがて家族が介護に音を上げ始める。それでも医師の中には、「胃ろう」を悪者扱いにしていいのか、単に医療費抑制のために患者をさっさと死なせるのが医療なのか。少しでも病状を改善させて家族の期待に応えるのも医療ではないか、と言った意見も多い。
 一方で、あるシンポジウムでは、医者自身が「私なら(胃ろうは)望まない。一週間食べなければ人間は死ねる」と言いきっていたし、「寝たきり」と言う言葉がない北欧では、「胃ろうは老人虐待だ」とも言われている。このように日本では、未だに国民の間で終末医療についての考え方が揺れている。その根底にあるのは「人間はどのようにして最期を迎えるのがいいか」という価値観、死生観(終末観)の希薄さである。この先の「多死時代」が迫っているのに、こんなに曖昧、バラバラでいいのだろうか、というのが私の率直な思いである。

 9年後の2025年には、団塊の世代800万人が後期高齢者(75歳以上)になる。いわゆる「2025年問題」と言われるものだが、日本社会は様々な局面でこれにどう対応するか迫られていく。その一つが、年間170万人に及ぶ膨大な数の老人をどう診取って行くかである。少し上の私などもこの「多死時代」の大波に巻き込まれて行く一人だが、この膨大な数の人々が自分も幸せに、送る方も納得し、さらに出来るだけ若い世代に負担を残さずに去って行くには、どうしたらいいのか。これが大問題になって来る。
 この問題については、既に各方面で模索が始まっていて、これまでも尊厳死、満足死、平穏死など様々な考え方が提唱されて来た。例えば奥野修司医師が唱えた「満足死」では、事前にリビング・ウィル(生前の意志)を作っておく。自分の疾病が現代の医学で不治であり、死期が近いと診断された時は、延命措置を断る。ただし、苦痛を和らげる処置はたとえそれで寿命が縮まってもやって欲しい。植物状態になって意識の回復が見込めないと2名以上の医師が判断し、家族の同意があれば一切の延命措置を止める。といったことである。これは事前に本人はもちろん、家族も納得しておく必要がある。

◆多死時代の「終末観」を模索して行けるか
 個人がこうした「死の選択」をするためには、その人の死生観(終末観)が明確になっていなければならない。仮に、家族がどんな形でも生きていて欲しいと願った時でも、家族を説得できなければならないからだ。平均寿命が延びた今の時代、60歳より若ければ自分にも家族にも何かと未練と葛藤は残るだろうが、70歳や75歳にもなれば、不本意な状態でただ生かされている状態を拒否する死生観があっていいと思う。その場合は、自分の人生を潔く諦める勇気も必要になってくる。
 少なくとも自分はそうありたいと思うのだが、問題は社会全体に(ある程度)こうした終末観が共有されて行かなければ、「2025年問題」を平穏に乗り切ることは出来ないということである。生きること、生かすことのみに執着して延命医療を続けると、上述したような状況が蔓延して日本は悲惨な事態になるからだ。これは日本全体の問題と言える。しかし、より豊かに、より贅沢に、より長生きにと限りなく欲望を肥大化させて来た現代社会が価値観を転換させて、死を受容しながら「満足死」を望むような社会に変わって行けるかどうか。
 もちろん死ぬまで元気でいるのは理想だが、油断するととんでもない終末がやってくるかもしれない。「良く死ぬためには、(それまでを)良く生きること」を共通の価値観に据えながら、団塊の世代だけでなく若い世代も含めた社会全体で、多死時代に相応しい終末観を探して行く必要があると思う。

「無難」な報道機関、必要か 16.4.3

 毎週末、溜まった2つの新聞から関心のあるテーマをはさみで切り抜き、マーカーで線を引きながら電車の中や喫茶店で熟読する。そして、テーマ毎に分類してファイル化する。その他に幾つかの報道番組をチェックしたり、ニュースのネット情報や月刊誌を読んだりしながら、関心のテーマをフォローする。そんな、ごく普通の「メディア・ウォッチング」の生活をしながら最近漠然と感じていることがある。それは、近頃のマスメディアの伝え方が現実の政治と同じように、国民感覚から随分と“かい離”しているのではないかと言うことである。
 タイトルの『「無難」な報道機関、必要か』は、2月25日の朝日新聞に載った小熊英二(慶応大学教授)の寄稿だが、報道機関を医者にたとえて分かりやすく解説していた。その内容は後述するとして、最近のマスメディアが伝える政治関連情報は、(一部の頑張っている現場を除いて)あまりに「毒にも薬にもならない」ものが目立つ。それで「権力の監視役」としてのメディアの役割は果たせていると言えるのだろうか。最近、古館伊知郎が降板した「報道ステーション」を例に、報道機関としてのマスメディアのあり方について、日頃感じていることを書いておきたい。

◆問題を掘り下げた「心に響く報道」が少ない
 その前に、メディアが伝える最近の政治・経済の動向を概観する。例えば、米大統領選における動き。共和党候補のトランプや民主党候補のサンダースの主張は、それぞれにアメリカが抱えている「極端な格差や人種的偏見」などの社会的矛盾を反映したものだが、それによって次第にあぶり出されて来たのは本命クリントンの内実だろう。ウォール街から多額の政治献金を集め、軍や経済界としっかり結びついた彼女の既存体制(エスタブリッシュメント)的な匂いが、社会の疎外された層から嫌われている。それは様々な意味で、グローバル経済の一員である日本の既存体制にも共通するものだが、マスメディアはトランプ現象のみに目をやっていて、クリントン陣営が抱える問題の分析は案外に少ない。

 あるいは、最近の安倍政権による、緊急事態条項や憲法9条を狙いにした憲法改正の動きである。改正を目指すために7月の参院選挙で2/3以上を確保しようとする、なりふり構わぬ策謀が目立つ。例えば、安保法制下で海外に派遣された自衛隊の戦闘行動(駆けつけ警護)を参院選後まで凍結する。予算の裏付けのない子育て支援策や保育士の給料アップなど、“にわか仕立ての対策”で高まる批判をかわす。さらにはアベノミクスの失敗を隠すために、「一億総活躍社会計画」と銘打った新たな財政出動(選挙対策)を行う。そして、口では否定しながら裏では、10%消費税増税の先送りを名目に、衆参同時選挙の策謀が巡らされている。それをメディアが無批判に言い立てる。
 この他にも、3.11から5年を経ても一向に反省のない原発への執着と、まかり通る理不尽な原発政策。故意に分かりにくくした電力自由化の制度と、その陰で進んでいる再生可能エネルギーいじめ。あるいは、相変わらず内向きで、一向に膿を出しきらない民進党の発足もある。こうして戦後の歴史上でも稀にみる安倍一強体制の中で、“政治・経済の激変”が起きようとしているのだが、それを十分に掘り下げた報道はどれだけあるだろうか。また、異次元の金融政策の失敗の陰で進行している深刻な副作用についても、踏み込んだ報道はされているか。

◆「報道ステーション」のエッジの効いた特集から
 国民が知るべき重要テーマは山積しているのに、大体は日常的に淡々と伝える発表報道か、あるいは無批判で興味本位の報道ばかりで、問題の核心を掘り下げた「心に響く調査報道」が少なくなっている。日々そうしたニュース報道に接していると、だんだん虚しくなって、ついチャンネルを気楽な番組に切り替えてしまう。虚無的になってはいけないと思うのだが、何だか元気が出ない。そんな中、3月31日には何かと話題になった「報道ステーション」の古館伊知郎が降板した。
 8分間に及ぶ最後の挨拶はYouTubeでも見られるが、やる気をかき立てる何かが失われて来たのだろう。いろいろ好き嫌いはあるにしても、「報道ステーション」は報道番組の中で気を吐いていた番組の一つだった。特に、あのエッジの効いた特集には時々うならされたが、これが個性派キャスターの交代でどうなるか。この春にキャスターが交代した「クローズアップ現代」や「ニュース23」などと同様に気になるところだが、その変化を占う意味で、最近の「報道ステーション」から、印象に残る特集を上げてみる。(*)

@極秘文書入手…核燃料サイクル 幻の“撤退”計画(3月3日)
 日本の核燃料サイクルの主軸である高速増殖炉「もんじゅ」と再処理工場は、それぞれ2兆2千億円の税金を投入してもなお先が見えない状況にある。特集は、この核燃料サイクルから日本が撤退することを摸索した「撤退計画」(2003年)を入手。それが国と電力会社のメンツの張り合い、責任のなすり合いの中で立ち消えになった経緯を追った。自民党商工族の大物議員は「核燃料サイクルは、原発を維持するための(実現しない)神話でいい」と言い放つ。幻の核燃料サイクルのために税金は投入され続け、また仮に稼働したとしても、さらに15兆円〜19兆円が必要になる。日本の無責任体制の実態を暴いた、極めて説得力のある特集だった。

Aワイマール憲法の教訓…古館キャスターがドイツ取材(3月18日)
 安倍政権が憲法改正で加えようとしている「緊急事態条項」(大災害や動乱時に首相に法を超える全権を与える法)。それと同様のものが、かつて世界一民主的と言われたワイマール憲法下でナチスのヒトラー独裁を生んでしまったドイツの教訓について、古館が現地からリポートした。その中で、「強いドイツを取り戻す、この道しかない」、独裁を「決断できる政治」、戦争の準備を「平和と安全の確保」と表現したヒトラーの(今もどこかで聞くような)演説を紹介。ワイマール憲法の中に埋め込まれていた「国家緊急件」という時限爆弾が、ヒトラーに悪用されてナチス独裁の「全権委任法」につながった経緯を詳細に伝えた。自民党の改憲草案を見据え、監修に専門家を加えた力の入った報道だった。

◆「無難」な報道機関、必要か
 この他に、古館の降板間際の3月には「原発事故と関係ないのか…福島の子どもたちの甲状腺がん」(3月11日)、「緊急事態条項 激論の肉声…岸時代の憲法調査会」(3月24日)といった刺激的なテーマを矢継ぎ早に特集した。こうした特集に対しては週刊誌(新潮)を始めとして様々な言いがかりもあったが、メディアが政治的テーマをタブー視せずに、国民に様々な角度から事実を知らせることは極めて重要なことだと思う。翻って最近のマスメディア報道を見ると、こうした政治的に面倒なテーマを無難に両論併記的にしか報道しなくなっている。そこには、安倍政権による介入に委縮して、必要以上に空気を読む組織内の「同調圧力」が働いているのかもしれない。
 冒頭に上げた『「無難」な報道機関、必要か』(小熊英二、慶応大学教授)の中で筆者は、医者の見立て(診断)に関して、単に見えている症状を言うだけの医者は失格で、「症状を総合すると、△△病と考えられます」、「症状を抑えるにはこの薬が効きます」といった提言を求められる。それと同じように、報道機関も「政府はこう述べています」、「野党はこう主張しています」と言った報道姿勢は、無難ではあるが、(国民から求められている)報道機関の役割を放棄していると言えないだろうかと書いている。

 国民も愚かではないのだから、疑問を感じればセカンドオピニオンを求めて、他の報道に接するだろう。その判断をするのは政府ではなく国民だ。従って、報道に携わる人々は自信と自覚を持ち、委縮せずに職務に当たることを期待すると書いている。時代が激変に向かう時に、権力やトップの顔色を窺い、保身的な「毒にも薬にもならない」無難な報道を続けていると、やがて今の政治と同じように報道機関も国民感覚からずれて行く。(偉そうなことを言うようだが)権力を監視する「ウォッチドッグ(番犬)」としての役割を忘れて、国民の素朴な疑問や疑念に答えることを放棄した、そうした報道機関はやがて心ある国民から見放されて行くことになるだろう。
*)以前の報道ステーションのホームページでは、こうした特集の内容が詳細に載っていたが、新しいHPでそれが消えている。

人工知能の衝撃と人類の未来 16.3.22

 私も主催者の一人としてソウルや北京に出かけて観戦した「テレビ囲碁アジア選手権」(日中韓の放送局主催)では、天才的な棋士を何人も目にしたが、その一人が韓国のイ・セドル(33歳)だった。「囲碁の長い歴史の中で、もしかしたら一番かもしれない」(井山裕太名人)と言うくらいの世界最強の棋士の一人で、韓国のスター選手である。日本人棋士はこの10年で一回しか優勝していないが、彼は4回も優勝している。3月12日、そのイ・セドルが人工知能「アルファ碁(AlphaGo)」と対決して破れるという“事件”があった。専門家の誰もが、まだイ・セドルの敵ではないと思っていた人工知能が、開始から3連勝するという予想外の展開だった。
 チェスや将棋と違って終局までの手順数がけた違いに大きい囲碁は、人工知能が追い付けない最期の砦(とりで)と言われて来たが、そこで人間が破れた衝撃は大きい。対局後、イ・セドルは「今日の敗北は私の敗北で、人間の敗北ではないのではないか」と言ったが、その衝撃波はこれから人間世界を深く揺すって行くに違いない。日本の井山名人は「恐ろしいことが起こっている」と語り、依田紀基九段は「アルファ碁は明らかに強くなっている。それどころか、李(イ)九段との5番勝負でも一局ごとに強くなっているような気がする」と驚いた。今回は囲碁に限らず、人工知能が人類に与える衝撃について考えたい。

◆ディープラーニングが人工知能を進化させる
 人工知能「アルファ碁」(英グーグル・ディープマインド社開発)の強さの秘密は、いま様々な分野で猛烈な勢いで進化している「ディープラーニング」という学習機能を取り入れたことにある。(私が編集長をしている)サイエンスニュースの「ディープラーニング 最先端の人工知能アルゴリズム」を見て頂くと分かりやすいが、人間がコンピュータに一つ一つ対応ルールを教え込んでいた従来の人工知能(それは人間が教え込んだ以上には賢くならない)と違って、「ディープラーニング」の人工知能は、自分で学習しながら上達のルールを見つけ出し進化する。
 これが可能になったのは、人工知能に人間の脳の神経系をモデルにした「ニューラル・ネットワーク」と呼ばれる学習アルゴリズム(計算方法、手順)を採用したから。達成すべき目標を与えて、それが出来れば報酬を与えるように条件づけると、人工知能は自ら学習しながら、より確実に目標に近づく方法を見つけて進化する「アルファ碁」の場合、まず既存の10万の棋譜を入力し、さらに自己対局を3000万回もこなしながら勝利の法則を磨いて来た。その結果、「アルファ碁」は解説者たちも理解できない(定石を離れた)手や、大局観の確かさを見せつけた。プロ棋士たちもさぞ驚いたことだろう。

◆適応世界を広げる人工知能
 こうした「ディープラーニング」を組み込んだ人工知能は、他の分野にも適応世界を広げようとしている。例えば人工知能を搭載した車。壁や他の車にぶつかると罰が、速く走れると報酬を、と条件づけられると、最初はぶつかり合っていた何台もの車がたちまち複雑なコースをスムーズに走ったり、交差点で互いを認識しながら衝突しないように走ったり出来るようになる。将来、輸送や介護などのサービス業では、こうした人工知能によって人間の仕事の半分が置き換えられて行くという説もある。
 人工知能を搭載して目的地まで飛んで行き、テロリストの顔を識別してピンポイントで殺す無人飛行機(ドローン)なども既に実用化されているが、兵器の無人化は「ディープラーニング」を組み込むことによって、さらに高度化して行く。アメリカでは、企業の決算報告などの経済記事を年間に1万2千本も書く人工知能が既に動いているという。このように人工知能が適応範囲を広げている背景には、コンピュータ技術の驚異的な進化があるのはもちろんだが、問題はこの先に何が待っているかである。

 何しろ、難しい政策決定に関して「目的に合致した選択肢」を幾つか提案する人工知能の研究まで行われていて、こうなると将来は「SFの世界」に出て来る人工知能(電子頭脳)のようなものにつながっていくだろう。手塚治虫の「火の鳥 未来編」には人間が伺いをたてる「ハレルヤ」という電子頭脳が登場する。こうした人工知能には、どのような目標や価値観を与えるかが問題になるが、やがて国別の目標を託された人工頭脳同士が戦う時代が実際に来るかもしれない。あるいは、「2001年宇宙の旅」の「HAL9000」のように、その目標を逸脱して人類に反乱を起こす人工知能が出現しないとも限らない。

◆爆発する技術進化。人類は特異点に向かっている?
 こうした人工知能の進化を「人類最悪の恐怖」(宇宙物理学者のホーキング)と危険視する見方や書物は沢山あるが、人類が人工知能と共存できるのかどうかの議論は、まだ深まっているとは言えない。何とか共存を図っていくためには、人工知能の将来像を見極めていく必要があるわけだが、その点で興味深い一冊の本がある。以前にも紹介した未来学者レイ・カーツワイルの「ポストヒューマン誕生」コラム爆発する技術進化」)。これからの技術革新がどのような道筋をたどって行くのかを考える上で、示唆に富む本だと思う。
 彼は本の中で、現在のコンピュータ技術を含めて、遺伝子工学、ナノテクノロジー、ロボット工学は今、近未来の「特異点」に向って急速に進化しつつあるという。特異点とは、技術的進化がある段階を過ぎると驚異的な立ち上がりを見せる段階のこと。技術進化の効率、加工技術、測定技術、コスト、開発知能などの「進化を加速させる様々な要素」が一斉に急速進化するために、特異点を過ぎると、こうした技術はほぼ垂直に性能を高めることになる。

 この特異点の時期は意外に早く、今世紀の中ごろには12万円(千ドル)のラップトップコンピュータの処理能力は、地球上すべての人間の脳を合わせたよりも大きくなるという。そうなると、人間の脳や身体はこうした技術的進化を取り込みながら劇的に変化していき、その未来図は驚くべきものになる。まあ、確実にそうなるかどうかは分からないが、今の人類はその特異点の入り口に向かってスピードを速めていることは確かなような気がする。
 この5年ほど、私は科学動画サイトの編集長として、最先端の科学ニュースを監修して来たが、苦労するのは個々のニュースがどういう意味を持っているかを見極めることだった。政府は盛んに「経済成長にはイノベーションを」と言うが、今の時代に相応しい「イノベーション」とは何なのか。あるいは、この科学技術がどこに向かうのか。特異点を含めた進化段階のどこに位置するのか。急速な技術変化に立ち会っている今は、常にこうした未来図を頭に入れながら(人工知能を始めとする)科学技術の問題を考えて行くべき時代だと思っている。

◆人工知能の厄介な問題。人間はその進化に追いつけるか
 目覚ましい進化を見せる人工知能だが、一方で厄介な問題(弱点)も抱えている。一つは、人工知能が「ディープラーニング」で習得した方法論(プロセス)がブラックボックス化しているために、間違いを起こしたとしてもどこに間違いがあるのか、すぐには原因を突きとめられないということだ。普通の技術なら「ソフトの不具合」を見つけ出して改善できるが、それが難しくなる。自動運転などで事故を起こしても原因が突き止められないとしたら、かなり厄介だ。
 もう一つは(それと裏腹のことだが)、人工知能が結果的に正しい(勝てる)判断をしても、人間にはその理由が理解できないということである。例の「アルファ碁」が、その手をどうして差したかについて、プロ棋士たちが理解出来ないのと同じことだ。人工知能は、人間が与えた目標に忠実に進化を遂げるが、その進化のプロセスを人間が理解できるかどうかはこれからのテーマになる。それが間に合うかどうか。人工知能の進化は、私たち人類に一筋縄では行かない難しい問題を突きつけている。

原発の「終わりの始まり」 16.3.16

 福島第一原発事故から5年の今年。年明けから原発を取り巻く重要な事象が次々と起きている第一に、原子力規制委員会の認定を受けて今年1月と2月に再稼働した関西電力高浜原発(3、4号機)は、4号機が再稼働直後にトラブルで停止。おまけに3月9日には大津地裁が再稼働差し止めの仮処分を決定し、2機とも停止する事態になっている。一方、同じ関電の高浜原発の1号機、2号機については、2月24日に原子力規制委員会が、これまで40年として来た運転期間を60年まで延長することを事実上認める審査合格証を出している。これについても、いずれ市民から運転差し止めの提訴が行われるだろう。
 また、2月29日には福島原発事故の責任を巡って、東電の旧経営陣3人(勝俣恒久元会長、石黒一郎元副社長、武藤栄元副社長)が、業務上過失致傷罪で強制起訴された。9日の大津地裁の判決では、5年経過しても福島原発事故の原因究明が「今なお道半ば」であることを指摘。この状況で新規制基準を定めた原子力規制委員会の姿勢に疑問を呈している。これまで政府が原発再稼働の拠り所としてきた「世界一厳しい安全基準」などというのは、新たな安全神話に過ぎないということだ。事故後5年、原発を取り巻く一連の事象から見えてきたことを整理しておきたい。

◆原発政策の末期症状・原発の「終わりの始まり」
 現在、日本各地で起こされている原発訴訟は29件に上るというが、原発を取り巻く国民や司法によるこうした監視状況をみていると、原発の「終わりの始まり」が確実に進行している感じがする。福島原発の収束作業は遅々として進まない。国は肝心の事故の解明をこれ以上進める気がなく、規制委員会は、これまで明らかになった構造的欠陥の対策さえ基準に取り入れようとしない。原発寿命を60年に延ばすのだって、(後述するように)科学的根拠が危ういものだ。こうした実態が裁判で次々と暴かれ、裁判で勝ったり負けたりが続く。
 一方で、「もんじゅ」や再処理工場などの核燃料サイクルも、巨額の税金をつぎ込みながら一向に先が見えない。ブラックホールのように金を吸い込みながら、原発維持の口実に使われているだけだ。使用済み核燃料や放射性廃棄物の行き場はない。原発が重荷になる一方で、足元には電力自由化の波が迫る。いくら電力会社が安倍政権の後押しで進めようとしても、原発政策が迷走する状況では、原子力は経営的に成り立たなくなる。国民の合理的で強い意志がある限り、日本の原子力に未来はない。そういうことがはっきりして来たのではないか。

◆Nスペ「原発メルトダウン 危機の88時間」
 3月13日(日)放送のNスペ「原発メルトダウン 危機の88時間」は、これまでのNスペ「メルトダウン・シリーズ」で積み上げてきた事実や関係者のインタビュー、データを基にした迫真のドラマ(90分)だった。適切な所で当時の映像や関係者のインタビュー、分かりやすい説明CGなども挿入。安易な情緒に流れずに、解明された事実の裏付けを徹底的に貫いてドラマを構成した。これまでの成果を集大成した福島事故の「決定版」になっていたと思う。事故現場の驚くべき再現やCGなど、随所にプロの技が光り、久々にNHKの底力を見た思いがする番組だった。制作スタッフに敬意を表したい。
 この番組から受け取るメッセージは人様々だろうが、個人的な受け取り方を書かせてもらえば、一つはやはり、原子炉がメルトダウンに向かうような緊迫した過酷事故時に、人間は適切な対応が出来ないということである。前にも何度か書いて来たが、そういう事故時に原子炉は秒単位、分単位で予想外の現象が進行する。まして全電源喪失というような異常事態では炉心で何が起きているのかさえ掴めない。炉心の水位計も非常用冷却装置もベントの設計も水素を逃がす構造でも原子炉は欠陥品だった。それは事故を経験して初めて分かったことである。そして、これらの構造的欠陥の殆どは、新しい規制基準にも取り入れられていない。

 雑誌「世界」(4月号)では、事故対応の現場責任者の吉田所長が原発の補修専門(補修屋)で、原子炉内部が分かる専門家(炉心屋)ではなかったことが指摘されている。過酷事故時に非常用冷却装置がどう動くかなどの専門知識を持った人間でなかったことが致命的で、吉田所長たちは「まず冷やす」という手順を飛ばして「格納容器のベントや海水注入」を優先したことが問題だという。それは重大な手順書違反だったという指摘だ。そのことが頭にあって、番組の時間経過を注意深く見ていたのだが、1号機は余りに早くメルトダウンが進行し、果たして手順書を見ても的確に対応できたかどうか。しかし、多少持ちこたえていた2号機、3号機で手順書通りに冷却を優先していたらどうだったか、という疑問は残る。福島事故については解明すべき疑問はまだ残っている。

◆2号機の格納容器が爆発しなかった謎
 最大の疑問は、2号機の格納容器の圧力が設計基準を何倍も超えていたのに、なぜ爆発しなかったかである。1号機や3号機のようにベントや水素爆発がきっかけで圧力が下がったのと違って、2号機は圧力を下げる手段がすべて失われ、爆発の危機が刻々と迫っていた。仮に2号機の格納容器が爆発すれば、飛び散る放射能で第一原発はもちろん、隣の第二原発まで人が近づけなくなる。合計10機の原子炉と使用済み燃料プールが放棄されて、そこから広島原爆の何百個分に及ぶ莫大な放射性物質が長期間にわたって放出され続けたはずだ。
 その影響は、番組で言っていたような関東地方に人が住めなくなると言った程度に止まらない。遠く1500キロも離れた北欧まで汚染したチェルノブイリ原発事故に比べても、それを遥かに超える大事故になっていたはずだ。それは地球的規模の汚染につながる、人類史上初の大事故になっていただろう。そうなっていたら日本人は世界に顔向けできない民族になっていたはずだ。その瀬戸際にあった2号機が3月15日の朝になって、格納容器の圧力が突如低下し、爆発を免れたのは「奇跡」としか言いようがない。その謎は依然として残っている。その時の日本には天の助けがあったのだろう。

 大津地裁は、こうした福島の現実を直視せずに再稼働を進めることに疑問を呈した。福島原発の過酷事故はこれまで想定されなかった(とされる)原因から起きた。ならば津波や電源喪失といった直接的原因にだけ備えても、次に想定を超える別の原因で過酷事故が起きたらどうするのか。その時の対策は十分取れているかということを大津地裁は問うたわけである。Nスペ「原発メルトダウン 危機の88時間」を見た後の率直な感想は、「これだけの危機を経験してなお原発を続けるのか」だった。事故の現実を知れば知るほど、大津地裁の判決は当然のことだと思う。

◆原子炉の寿命60年延長問題・劣化進む原発行政
 原子力規制委員会は2月24日に、近く40年を迎える高浜原発1号機(1974年)と2号機(1975年)の運転期間をさらに60年まで事実上延長する審査合格証を出した。ご存知のように、鋼鉄製原子炉は運転中に出る中性子線を浴び続けることによって脆くなる(脆性遷移)。鉄の粘りがなくなって非常時に冷却水を入れたりすると、熱衝撃によって大破断を来す危険がある。そのために炉内に試験片を置いておき、定期的に脆性を検査するのだが、これまでの状態はチェック出来ても、この先20年の脆性遷移を正確に予測できるのか。
 この問題に関しても原子力規制委員会の姿勢が厳しく問われている。20年先までの予測式が正確でないと指摘されているのである(井野博満:原発老朽化問題研究会、東大名誉教授)。規制委員会内部の議論では、電力業界寄りの日本電気協会によって反対意見が封じ込められたというが、こうした経過で寿命延長基準が出来ているとすれば老朽化した原発など危なくて見ていられない。

 このところ、政府から独立した機関のはずの原子力規制委員会(田中委員長)については、公文書も作らず情報公開に後ろ向きだとか、原子力ムラ(特に事務方の官僚たち)の影響を受けているのではないかといった意見が強い(黒川清「規制の虜」)。こうした規制委員会がどういう判断をしようと、原発の危険性はなくならない。事故後5年。国民の強い意志と司法の監視がボディーブローのように効いて、日本の原発の「終わりの始まり」がより確実になることを願いたい。

電波停止発言と表現の自由A 16.3.5

 高市総務相のテレビ電波停止発言については、その後も、憲法学者たちによる「放送法4条を根拠に処分を行うことは憲法違反に当たる」という見解(3/2)や、テレビで活動するジャーナリストたちの「私たちは怒っている」声明(2/29)などの波紋が続いている。それらの趣旨は殆ど前回書いた内容に尽きているが、今回は少し論点を広げて、私たちが憲法に保障された「表現の自由」を守って行くために必要な、“成熟したメディア環境”について書いてみたい。メディアを取り巻く環境において、「権力」―「メディア」―「国民」の三者の関係がどうあるべきなのか、どうあることが健全なのか、である。

◆敵だから潰すわげにいかねのだ
 まず、最近見たテレビ番組で、メディアと権力の関係について特に印象に残った話があったのでそれから始めたい。1月31日、たまたまBS-TBSの「関口宏の人生の詩」というインタビュー番組を見ていたら、今年101歳になったジャーナリストの武野武治(むのたけじ)が出演していた。彼は戦前に記者として朝日新聞にいて戦意高揚の記事を書いた責任を感じて退社。1948年にふるさと秋田県横手市で「たいまつ」という週刊新聞をはじめた。その彼がしばらくして、それまでの言論活動をまとめた「たいまつ16年」という本を出版した時のことである。
 横手市の地元有力者たちが集まって出版祝賀会を開いてくれるという。それは、日頃厳しく批判して来た対抗勢力の市長や市議会のメンバーたちだった。いぶかしく思いながら会場に行ってその訳を尋ねて見ると、「“たいまつ”はおらだちの敵だ。敵だから潰すわげにいかねのだ」と言う。敵だからこそ学ばなければならない、殺すわけにはいかない、という考えだった。価値観や利害を同じくする者たちだけで政治をしていると間違うこともある。その間違いに気づかせてくれる意味で、耳の痛い意見に耳を傾けることは必要だ、それも厳しい批判であればあるほど。そういう考えだったのだろう。

◆メディアの批判を封じる国の未来は危うい
 この話は、戦後民主主義の理念が息づいていた時代を感じさせる。同時に、人々がメディアに寄せていた信頼や敬意というものまで感じさせる。今はどうか知らないけれど、かつてのアメリカなどでもそうだった。メディアの地位はかなり高く、私が30代半ば(1980年ごろ)に欧米先進国を取材して歩いた数少ない経験でも、政府や民間の様々な機関がよくここまでと思うくらい取材の要求に答えてくれたものである。一般の人々の反応もそうだった。行く先々でメディアが信頼され、場合によっては尊敬されているようにさえ感じた。それはアメリカで言えば、ベトナム戦争が終わって5年頃のことである。
 そのベトナム戦争(1964−1975)は、戦争の後半にジャーナリズムが健全に機能したことによって、ようやく終わることが出来た戦争だった。アメリカ軍は「戦争で負けたのではなく、テレビ(お茶の間)に負けた」と悔しがったが、戦争の泥沼から国民を救ったのはある意味でジャーナリズムの力だった。「ジャーナリズムを鍛えた戦争」とも言われたベトナム戦争は、ウォルター・クロンカイト(写真1916−2009)やデイビッド・ハルバースタム(1934−2007)のような多くの名物記者を生んだが、私がアメリカで取材したのも、そんな記憶がまだ残っていた時代。政治家にも国民の間にも「メディアの批判を封じる国家の未来は危うい」という共通認識が出来ていたのだと思う。

◆「権力―メディア―国民」の理想的な関係
 しかしその後のアメリカ軍は、ベトナム戦争の反省からメディアコントロールを綿密に研究して、湾岸戦争とイラク戦争を戦うことになる。戦場における代表取材と事前検閲、同行取材といったメディア操作の方法論を磨き、自分たちに都合のいいように世論の誘導を図った。ブッシュ大統領もテロとの戦いを掲げて愛国心を煽り、イラクとの開戦時にアメリカのメディアは殆ど開戦一色に染まった。しかし、その結果はご存知の通りで、アメリカは大義なきイラク戦争で世界の信用を失い、深刻な荒廃をもたらすことになる(NHK「世界潮流2003イラク戦争とジャーナリズム」2003.9.14)。
 まさに「メディアの批判を封じる国家の未来は危うい」を地で行く結果となったわけだが、こうしたメディア抑圧やメディア操作は、戦争時に限らない。戦争報道は日常報道の延長線上にあるからだ。それはイラク戦争時のアメリカに限らず、戦前の日本やドイツ、現在の中国やロシア、北朝鮮も同じ。国家権力がメディアの批判を封じこんで保身に走り、為政者の価値観を国民に押し付けるような国はやがて大きな過ちを犯す。そんな国の未来は危うい。

 そうした国家の過ちを避けるためには、『権力はメディアによる多様な批判を容認する度量と自制心を持ち、メディアは自己を厳しく律しながらに国民のためと信じる報道を行い、国民は多様なメディア報道を読み解く力(メディアリテラシー)を持つ』ことが必要になる。これこそが、成熟した民主主義社会のメディア環境と言える。しかし、実際の所はなかなかそう行かずに、メディア自身もあれやこれやと間違いを起こす。だからこそメディアを巡る法制度や監視制度もあるわけだが、その制度と運用において日本は胸を張れるのか。

◆日本の憂うべきメディア環境
 放送法4条2項の「政治的公平」を誰が判断するかについて、高市は「総務大臣である私が責任を持って判断する」などと言っているが、靖国参拝の常連で、日中戦争を「セキュリティー(自衛のため)の戦争で侵略でない」と公言するような国粋保守の高市が政治的公正を判断する資格があるのか、甚だ疑問だ。それも恫喝まがいに「一つ一つの番組を見ながら判断する」などと答弁し続けているのは、メディア先進国ではあり得ない状況である。
 こうした日本に比べて、欧米先進国の放送監視制度はさすがに整っている。アメリカ(連邦通信委員会:FCC)、イギリス(放送通信庁:オフコム)では政府から独立した監視機関が設けられているし、ドイツでも各州で州政府から独立した機関がメディア監視に当たっている(2/22、毎日)。こうした国々では、(色々問題は抱えているにしても)権力―メディア―国民の間に「メディアの批判を封じる国家の未来は危うい」という基本的な考えが共有されているからだろう。また、それが共有されているかないかでメディア環境の成熟度も決まって来るのだと思う。

 日本は、先の戦争の反省を踏まえて憲法21条(表現の自由)とそれに準ずる放送法を作ったのだが、国は段階的にメディアに対する締め付けをきつくして来た。そして、最近は政府による“行政指導”が頻発するという情けない状況にある。山田健太(専修大教授)によると、こうした変化は、様々なメディアの不祥事に乗じて、政府が国民の後押しを受ける形で進めた側面もあるという。だからこそテレビ局は自律的な倫理規範を儲けて放送事業を行っているのだが、日本の場合には制度の不備に加えて、政治の介入を招きやすい憂慮すべきメディア環境がある。
 その一つが、メディアによるメディアに対する攻撃だ。いまや社会の主流になりつつある右派メディアが、一方のメディアを「反日」だの「売国奴」などと攻撃する。去年11月に読売、産経が載せた全面広告(「放送法遵守を求める視聴者の会」)のように、学者、ジャーナリストによるテレビキャスター(岸井成格)への攻撃などもその一例だ。こうしたメディア環境は、虎視眈々とメディア介入のチャンスを狙っている権力に、つけ入る隙を与えることになる。

 当の岸井はその広告について「低俗だし、品性どころか知性のかけらもない。恥ずかしくないのか」と答えたが(2/29の会見)、当然だと思う。メディア同士が意見を戦わせることはあって当然だが、言論の抹殺につながるレッテル貼りや脅迫を行うことには抑制的でなければならない筈だ。成熟したメディア環境を作って行くためにも、権力(政治)もメディアも国民も「メディアの批判を封じる国家の未来は危うい」と「敵だから潰すわげにいかねのだ」という言葉の重みを、今一度噛みしめてもらいたいと思う。

電波停止発言と表現の自由@ 16.2.24

 去年のNHK「クローズアップ」の“過剰な演出問題”に対する呼び出しや厳重注意などの行政指導、あるいは政権に批判的とされるキャスターたちの相次ぐ降板など。安倍政権のこうしたメディア介入が議論を呼ぶ中、今度は高市早苗(総務相)がテレビ局への「電波停止の可能性」に言及した国会答弁が波紋を呼んでいる。しかし、メディアへの恫喝ともとれるこの発言に対して、民主党などの攻め方はいま一つパンチがない。その違和感は、どこから来るのか。そもそもこの問題の本質はどこにあり、どう攻めるのが本筋なのか。今回は、政府がここへ来て言及したテレビ局の「電波停止の可能性」問題について考えて見たい。

◆「電波停止」をちらつかせて、メディアを委縮させる
 今回の問題の発端は、2月8日に行われた高市早苗に対する民主党(奥野総一郎)の国会質問だった。政府に批判的な番組を念頭に、「政治的に公平であること」を定めた放送法(4条)を恣意的に運用すれば業務停止(放送法174条)や電波停止(電波法76条)もあり得るのではないかと質したのに対し、高市が免許取り消しなどの罰則規定を定めた電波法の適用について、「放送事業者が極端なことをして、行政指導をしても全く改善されない場合に、何も対応しないということは約束できない」と答弁したわけである。
 同時に、電波停止に至る「政治的公平」については、高市も安倍首相も「一つ一つの番組を見ながら全体的に判断する」とし、電波を停止するかどうかの判断は総務大臣(総務省)が行うとした。その根拠として、政治的公平を定めた放送法4条は、「単なる倫理規定ではなく法規であり、担当官庁が法にのっとって対応するのは当然」との立場を繰り返した。

 民主党は引き続き、9日に「憲法9条改正に反対する内容を相当時間にわたって放送した場合、電波停止になる可能性があるのか」(玉木雄一郎)などと質問、同様の答弁を引き出しながら、安倍政権のメディアに対する抑圧的な姿勢を印象付けようとしている。しかし、互いに極端なケースを上げながらのこうした議論は問題の矮小化に過ぎず、どこか隔靴掻痒で本質に触れていない歯がゆさを感じる。(後述するように)この問題の本質は、電波停止に至るような極端なケースは何かという論争より、放送法や電波法の認識そのものにある。
 同時に、何かと言えばしたがる“行政指導”も問題だ。現政権の抑圧的な姿勢を考えると、「電波停止」をちらつかせることによって、より露骨にメディアに圧力をかける意図が透けて見える。もっと抑制的な答弁もあり得た筈なのに、安倍も高市も敢えてそれをしていない。こうした政府答弁を聞いて、メディアの方も「一つ一つの番組をチェックして来るのか。その上で電波停止の可能性につながる“行政指導”をやられたら、放送の現場は確実に委縮する」と憂慮する。今回の政府の電波停止発言に関して、メディアはともかく、民主党の追及が歯がゆい理由を2つに絞って情報を整理してみたい。

◆法律の本質論に踏み込んでいない
 言うまでもなく、言論、出版に関しては、表現の自由を保障した憲法21条が最高位にある。その理念を踏まえた上で、放送法の「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、また規律されることがない」(第3条)、および「放送事業者は、放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない」(第4条)と「政治的に公平であること」(同2項)がある。
 この意味で放送法第4条2項の「政治的に公平であること」は、放送事業者が努力目標として目指すべき「倫理規範」であり、国家権力がより下位の法(例えば電波法)を適用して罰するというようなものではない。放送番組がそれに違反したという理由で、政府が電波法76条の「電波停止」を適用するのは憲法違反だというのが大方の憲法学者の見解である。

 そもそも、この放送法の第4条に関しては、改善命令の規定も罰則の規定もない。高市たちが「電波停止」の根拠としてあげる電波法76条は、技術的基準や登録要件などを満たさない時を対象としたもので、「政治的公平」のような番組内容を対象としたものではない。従って、法理論上「政治的公平」に関する行政の介入は「電波停止」であれ「行政指導」であれ、憲法上も放送法上もしてはならないことなのである。特に「政治的公平」といった番組内容に関して、(曖昧な「行政手続法」を適用して)安易に行政指導を行うことは、憲法違反の恐れが十分にある。
 こうした法理論をしっかり踏まえれば、民主党ももっと生産的、効果的に高市発言を追求できるのに何故しないのか。歯がゆく感じているのは私ばかりではないと思う。一つには、(ニュアンスの違いはあるにしても)放送法4条と電波法76条に関して、過去の民主党政権(総務省)も高市などとほぼ同様の説明をして来たことがあるのだろう。しかし、安倍政権によるメディア介入がこれほど危惧されているタイミングでは、従来の曖昧な解釈を変更するまたとないチャンスなのだから、民主党も本腰を入れて議論すべきではないのか。

 こうした問題意識のもとに、「高市早苗のHP」を覗いて見るとびっくりするようなことが書いてある。もし民主党が高市らの答弁を問題視するなら、従来の民主党解釈を変えて、党内で一致して改善案を提案すべきだと言うのである。そして、具体的な変更案についても言及している。例えば、放送法第4条の「放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない」というところを、「定めることに配慮するように努める」と倫理規範と分かるように変更する。同時に「電波法」第76条が規定する「総務大臣による無線局運用停止命令」の部分を廃止するという案である。
 単に挑発しているのか、本気なのか分からないが、これなら「報道の自由度ランキング」で世界61位に甘んじる日本も、少しはマシになるだろう。総務大臣の高市が折角ここまで言ってくれるのだから、民主党も本気でメディアの表現の自由を担保する改正法を提案すべきだと思うがどうか。

◆「表現の自由」は誰が守るのか
 もう一つの歯がゆさは、民主党などの野党が「政治的公平」を誰が判断するのかと言う問題を追求しないことである。百歩譲って放送法第4条が倫理規範でなく、安倍たちが言うように(罰則規定を有する)法規だとしても、その適用を誰が判断するのか。このことを考える上で留意すべきは、メディアの重要な役割の一つが「権力の監視」にあるという理解である。特にテレビのように(国民の財産である)電波を割り当てられているメディアは、国民の側に立って「権力の監視」に当たることは当然のことになる。
 それは、自ずと政権に批判的にならざるを得ない。なぜなら、権力は時として間違いを犯して国民を苦しめるからであり、時として国民を上から目線で抑圧したがる傾向にあるからである。そう言うメディアの役割の特性を理解せずに、時の政権が恣意的に「政治的公平」を判断することの危うさは常に付きまとう。短絡的に自分たちに批判的かどうかで判断されやすいし、それを許せば政権が変わるたびに公平性の基準も変わることになる。従って、放送内容の「政治的公平」の判断を政府(と一体の総務省)が行うことは、たちまち表現の自由に抵触することになるはずで、これも問題だ。

 以上のような問題を含む「電波停止」発言に対して、自民党も野党もあまり本気で取り組んでいるように見えないのは何故なのだろう。私は与野党を問わず、政治家はおしなべて心のどこかにメディアに対する支配欲と警戒感を抱いているからではないかと思う。であるならば、私たちが「表現の自由」に対する権力の介入を防ぎ、これを守って行くためにはどうしたらいいか。表現の自由と民主主義を守って行くためには、メディアの自律的努力は当然のこととして、国民、権力、メディアの間により深い理解と成熟した関係が必要なのだが、これらの議論については次回にまわしたい(続く)。