「風」の日めくり                                           日めくり一覧     
  今週の鑑賞。定年後の身辺雑記

国立戦争博物館③ 16.8.30

 メモリアル・ホールで無名戦士の墓に差し込む一筋の光もそうだが、設計者のレイモンド・モリヤマ氏は、この建物に様々な工夫やメッセージを込めている。例えばこの写真、斜めになった壁の片側は、兵士たちが自分の戦闘機に描いた絵の一部を切り取って展示しているコーナーになっている。その照明の一部は反対側の壁にくりぬかれたスリットから差し込んでくるが、不思議な並びで開けられたそのスリットは、実はモールス信号。「忘れないで」という意味だそうだ。時間経過の中で、ともすると忘れがちになる戦争の記憶を、後の世代にまで継承していくという思いなのだろう。










 戦争の記憶を継承しようというモリヤマ氏の思いは、サメの背びれのように空に突き出ている三角形の「Regeneration Hall」(復活再生のホール)に凝縮されている。ここの壁も垂直ではなく斜めに立ち上がっている。ここを中2階の廊下から見下ろすと、壁面の床に5つの像が並んでいるのが見える。これらは第1次大戦時にドイツ軍との戦いで大きな犠牲を出したカナダ兵士たちを追悼するモニュメント(フランス)に設置されている像のレプリカ。それぞれ希望、犠牲、平和、正義、慈悲を意味するという。このホールは、戦争の記憶を継承しながら、人類平和と未来への希望を祈るために造られた。









 ホールの一番奥には、細長い三角形のガラス窓を背に「希望」を現す像が据えられている。中2階のある位置に立って、この像の背後に広がる景色をみると、窓越しに国会議事堂に付設された「平和の塔」が見えるように設計された。この「平和の塔」もカナダの戦没者を追悼するために建てられた塔だ。モリヤマ氏は、せっかく平和になっても油断するとすぐに平和を見失い、戦争が忍びよって来るので、努力して平和と希望を見失わないようにと、塔が見える位置に希望の像を据えたのだという。









 さらに、もう一つの特徴は、このホールの天井から流れて来る風の音である。BC州出身で、1929年生まれのモリヤマ氏は日系カナダ人と言うことで、第2次大戦中に両親と共に収容所で暮らした経験がある。戦争博物館の工事中に天井の壁の穴から聞こえてきた風の音が、収容所で聞いた音と同じに聞こえたというので、録音して常時その風の音がホール全体に響くようにした。死者を悼むような懐かしいような音。それを、見学者たちはどのように聞くのだろうか。

 博物館には、カナダ軍がドイツ軍に敗北した戦場の様子や、武器の進化によってその被害も大きくなってきたことを示す展示、さらには原爆の写真と共に時代は原子爆弾の時代に入ったことを伝える展示もある。第1次大戦の肉弾戦から、大量殺戮の兵器が使われる現代の戦争まで。戦争のありのままの姿を出来るだけ客観的に伝えるように心がけているように見える。

 そうした博物館には普段はオタワ地域の子供たちが中心だが、5月、6月の修学旅行の時期になるとカナダ全土から子供たちが見学にやってくる。5つの「Kids program」があって、戦争の歴史(英仏戦争、第1次、第2次世界大戦)、戦争と国民・女性、戦争と子ども、と言った内容になる。案内つきの見学だが、幼いと理解が難しいので最年少でも10歳以上と決められているそうだ。子供たちは元兵士のボランティアに「人を殺したことはあるか?」とか、「なぜ普通の人が兵士になるのか?」といった率直な質問をぶつけるが、元兵士は、「戦争になるのは普通ではない、異常な時だということ。特別なときに、国を守り、家族を守るために兵士になることを決めたのだが、殺してはいけない、殺したくない。そういう状況にならないようにすることが大事だ」などと、こちらも率直に答えるのだそうだ。

 案内のゴーバンさんも、「兵士になることは、犠牲になること。国がそういう状況になった時に自分を犠牲に出来るかどうか。戦争があったという悲しい事実、犠牲になってくれた兵士のことを知るとともに、二度と起きないように希望して欲しい」と言う。そして、博物館の見学で子供たちに何を一番感じて貰いたいか、という私の質問にこう答えた。「War is bad」。それは、世界でもユニークなこの国立戦争博物館が最終的に伝えたいメッセージなのかも知れない。(おわり)

国立戦争博物館② 16.8.28

 国立戦争博物館には一般人はもちろんのこと、様々な見学者がやってくる。13歳から17歳の子供向けの見学プログラムもある。訪ねた当日は、たまたま若いカナダ兵士の一団にも出会った。迷彩服を着た二十歳代の若い兵士たちだ。入隊してからまだ間もない兵士たちなのだろうが、博物館に来て戦争とはどういうものなのか、先人たちはどのように戦争に関わったのかを感じ取っていくのだろう。ここには、子供たちの質問に答える元兵士のボランティアもいる。
 実は、カナダは国連の平和維持活動(PKO)の提唱者で、「国連平和維持活動の父」と呼ばれるレスター・B・ピアソン(第14代首相、ノーベル平和賞を受賞)を生んだ国で、積極的にPKOに参加してきた。死者を出すたびに様々な議論を重ねてきたが、それでも続いてきたのは、世界の縮図のような多民族国家を束ねる価値観の一つに、国連重視と国際主義を掲げてきたからだろう。博物館にはそうした活動中に被害に遭った生々しい展示物もある。

 これは、PKOでユーゴスラビアとクロアチアの中間地点で監視に当たっていた兵士が銃撃された時のジープ。兵士は国連軍を示す白い色の車に乗っていたが、1994年12月31日、大晦日のパトロール中に銃撃を受けた。兵士は背中と頭を撃たれたが、運転を続けて監視所までたどり着き助かったという。銃弾を受けたガラスや座席に食い込んだ弾痕が生々しい。








 さらには、2005年にアフガンで展開中に地雷に触れて破壊されたジープも展示されている。これには、2人のカナダ兵が乗っていたが、ヘリコプターで運ばれて助かったという。負傷した兵士がカメラに向かってOKサインを出す当時の写真も展示されている。この2つのケースは死者を出さずに済んだが、カナダは50人以上の犠牲者を出したアフガンも含めて、現在までに119人の兵士が国連平和維持活動で亡くなっている。若い兵士たちも、こうした戦争の現実を見学しながら、国際平和に貢献する意味を自分に問うことになる。








 アフガニスタンでの平和維持活動は、カナダの歴史の中でも最も長く続いた戦争と言われるが、その傷はまだ癒やされておらず、博物館にはアフガンで息子を失った女性も来る。設計者のモリヤマ氏は、そうした戦争の傷を癒やすヒーリング・ポイント(癒やしの場所)として、この博物館を設計したというが、戦争で傷ついた人々や家族が会話し、悲しみを分かち合う事が出来るように様々な工夫を建物に凝らしている。
 その象徴的場所が、博物館の中心にある「メモリアルホール」だ。まるでピラミッドの内部に足を踏み入れたような感じがする、斜めになった石壁の間をすり抜けるようにして曲がると、天井が高く、四方をコンクリート壁で囲まれた大きな空間に出る。床の片側に水面が設けられているが、残りは厳粛なまでにシンプルな四角の石の部屋である。この全体が一つの大きな墓をイメージしていると言うが、ここが戦争で亡くなった兵士たちを追悼するホールになっている。









 案内のゴーバンさんは、その奥の壁面に一つの墓石が埋め込まれているのを教えてくれた。フランスで死亡した兵士の墓で、無名戦士の墓として置かれていたものをここに移設したのだという。カナダでは、第1次大戦以降、第2次大戦、朝鮮戦争、そして国連平和維持活動で、現在までに11万6千人の戦没者を出している。この無名戦士の墓はその全員を代表する墓としてここに設置された。
  墓の反対側の壁の上部に、外につながるスリットが開けられている。毎年、戦没者追悼記念日「Remembrance Day」の11月11日午前11時になると、そのスリットから一筋の光が射し込み、無名戦士の墓を照らす。設計者のレイモンド・モリヤマが考えた荘厳な演出である。そして、その一筋の光が差し込むホールで、毎年、戦没者の遺族、関係者を招いての記念式典が行われるのだそうだ。その光がまっすぐに無名戦士の墓に向かって差し込む感動的な映像は、戦争博物館のサイトを見て頂きたい。
 








 展示で戦争の現実を知ると同時に、建物に込められた戦争に対する様々なメッセージも受け取る。設計者のモリヤマ氏が、この博物館に込めたそのメッセージは、戦争で傷ついた人々に対する「癒やし」だけではない。この博物館は、未来に希望を見いだしていくためのさらなる工夫も用意している。次回は、それを見ていきたい。(つづく

国立戦争博物館① 16.8.28
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 国立博物館巡りの2カ所目は、オタワ市にある国立戦争博物館を訪ねる。カナダ国立博物館の見所の一つは、その建物にあると前にも書いたが、この戦争博物館も例にもれず、建築家の熱い思いが込められたユニークな建物である。周りを軍事用の土手に見立てた外壁で囲まれ、周辺と屋上は一面の草地になっている。
 平べったい低層の建物で、一カ所にサメの背びれのように大きな三角形の構造物が空に向かって伸びている。設計者の名はレイモンド・モリヤマ。1929年生まれの日系カナダ人で、第二次世界大戦の時には両親がカナダで収容所生活を体験したというが、こうした戦争体験から来るメッセージが建築の随所に取り入れられている。
 
 広報担当のロバート・ゴーバン(Robert Gauvin)さんは「ここを案内するのは初めて」と言いながら、建物の裏側にある草地に案内してくれた。この草地の小山やうねりは第1次世界大戦時に連合国側について戦ったニューファンドランドの兵士が戦ったフランスの丘を模している。ロバートさんは、その草地に身を伏せながら、多くの若者が戦死した悲惨な戦争の様子を語ってくれた。そこから続く屋上の草地には、季節になると一面にポピーの花が咲くそうだ。ポピーの花は、カナダでは11月11日の「Remembrance Day」(戦没者追悼記念日)にカナダの人々が胸につける花でもある。

 博物館の内部に入ってみると、これが普通ではない。内部が複雑に入り組んでいる。迷路のような通路、斜めに傾いた壁、一部は床さえ傾斜している。これは、「博物館が出来ただけで意義がある」と言われる位、戦争に対する様々な考え方がぶつかり合ったことを設計者が表現したとも、戦争が日常とは違った緊迫感をもった事象であることを表現したとも言われる。


 この博物館は、もちろん戦争を物語る様々な展示品を並べている。例えば、沢山の戦車や戦闘機を並べた広い展示場やヒトラーが使っていた車(寄贈品)の展示もある。戦争博物館の定番とも言える品々だ。それはそれで見学者にとっては魅力的だろうが、ここの特徴は大人から子供にまで戦争というものが普通ではない(unusualな)事象だということを知って、感じて、祈って貰うようにしている事ではないかと思う。それは決して戦争を美化したり、兵士たちを英雄視したりすることではなく、出来るだけ戦争のありのままを感じて貰うことだと考えているようにも見える。








 館内に入ってしばらく進むと、カナダが連合国の一員として参加した第1次世界大戦のコーナになる。暗がりの中に当時の兵士が過ごした塹壕(ざんごう)の実物大のモデルが現れる。塹壕戦が繰り広げられたヨーロッパの西部戦線では、こうした塹壕は通常3列に掘られていて、兵士たちはローテーションで移動、時には2週間以上も塹壕の中で生活した。砲弾が飛び交う中での塹壕生活は暗く非衛生的で、底には膝くらいの水もたまっていたり、ネズミが出たりした。その塹壕の暗闇の中を歩きながらこうした説明を聞いて、見学者は戦争の非日常性、異常性を感じることになる。









 その隣には、同じ西部戦線、ベルギーのパッシェンデールの戦場の大きな写真が展示されていた。砲撃を受けて一面の荒れ地となったパッシェンデールの戦場で、死亡した兵士が沼地にうつぶせになっている。ここは1917年に、ドイツと連合国との死闘が展開されたところで、沼地で戦車も足を取られて動けず、ドイツ軍の猛攻にさらされ、最も多くの血が流された戦場となった。カナダ軍は第1次大戦で6万6600人の死者を出している。

 戦争博物館では、ありのままの戦争を知るこうした展示の他にも、(このあと紹介する)戦没者を追悼するメモリアルホールや、希望の像などの洗練された仕掛けを各所に取り入れている。見学者たちに戦争とは何か、亡くなった兵士をどう悼むか、また、戦争を起こさないためにはどうすればいいかを、感じたり考えたりしてもらう工夫を凝らしている。(つづく

カナダ国立博物館巡り 16.8.27
 去年の秋に、カナダ国内を取材して歩いた。内容については、日本のカナダ観光局のサイト「カナダシアター」にグループ・オブ・セブンの画家たち①~③」、「森の魂を描いた女性画家エミリー・カー①~④」として載せるとともに、こちらの「風の日めくり」にもアップした。その時は、カナダの5つの国立博物館も取材したのだが、書くのが延び延びになっていた。これもようやく7月から「カナダ国立博物館巡り」シリーズとして書き始め、「カナダシアター」に「自然博物館①~②」、「戦争博物館①~③」を載せた。9月に入ったら、「歴史博物館」、「人権博物館」についても書く予定だ。
 「戦争博物館」と「人権博物館」については、5年前の2011年、人権博物館がまだ建設中に『戦争と人権をどう伝えるか〜カナダ・国立博物館のユニークな挑戦〜』というテレビ番組企画として提案したこともある。戦争博物館にやってくる多様な人々、人権博物館建設を巡る様々な議論の過程などを追うドキュメンタリーだった。その時は残念ながら採用にならなかったが、去年、カナダ観光局の好意で5つの国立博物館を取材することができた訳である。そこで、他の博物館については、カナダシアターの方を見て頂くとして、思い入れのある「戦争博物館」と「人権博物館」については、こちらの「風の日めくり」の方にもアップしておきたい。まずは、シリーズ全体の「プロローグ」から。

◆カナダ国立博物館巡り「プロローグ」
 カナダが紆余曲折の末、英連邦の自治領として事実上の独立国家になったのは1867年。2017年に建国150年を迎える若い国だ。建国以来のカナダは、ヨーロッパや南米、アジア(中国、日本、インドなど)などから多数の移民を受け入れ、多民族国家として成長してきた。かつては先住民との対立や戦争中の日本人への扱いなど、様々な人種的あつれきや人種差別的政策も経験したが、その反省と教訓を生かしながら、現在は英仏2言語を公用語として掲げる、世界で最も先進的な多文化主義の国になっている。
 しかし、その多民族国家も放っておくと遠心力が働いてバラバラになって行く。そこで、カナダは教育の面でも法的な面でも、文化的な面でも、多様な文化の存在を容認しながら、「我々はカナダ人だ」という国民を一つにまとめる“アイデンティティ”の形成に懸命に取り組んで来た。

トロントには200もの言語の新聞があると言われるが、多民族で多文化の国と言う意味で、カナダは世界の縮図でもある。そうした状況で、国民を一つにまとめて行くことは、取りも直さず民族間の平等を目指す先進的な多文化主義や国際平和、人権や地球環境といった「人類共通の価値観」を引き受けることを意味する。そして、カナダの国立博物館も、そうしたアイデンティティ形成の重要な役割を担っていると言うのが私の見方である。
 現在のカナダには、自然、歴史、戦争、人権、美術の5つの国立博物館があるが、国立博物館の方もそれぞれの立場で、そうした価値観に寄り添いながら自国のアイデンティティの形成に貢献することを強く意識した展示内容になっている。カナダの過去から現在への国の成り立ちを反映しながら、同時に、「人類共通の価値観」に先進的に取り組んでいると言う点で、世界でもユニークな存在と言える。

 例えば、地球環境と生物多様性を意識した「自然博物館」、先住民から始まるカナダの歴史の再定義を模索している「歴史博物館」(写真上)。若い世代に戦争の現実を教え、平和の希望を見失わないようにと教える「戦争博物館」(写真中)。その平べったいユニークな外観は、日系カナダ人の建築家、レイモンド・モリヤマ氏の設計によるものだ。また、唯一、オタワ以外にある国立博物館で、2014年9月にウィニペグにオープンした「人権博物館」(写真下)は、世界の人権問題と真正面から向き合っている世界で唯一の国立博物館だ。そしてカナダの自然と景観を発見した画家集団を展示する「国立美術館」。

 これから、詳しく紹介していくが、これらの博物館を訪ねて興味深い展示物を見て歩きながら、こうした「人類共通の価値観」に向き合うことは、私たち日本人にとっても今日的意味があるのではないだろうか。

あと5年の「バケットリスト」 16.7.31

 7月に入ってから、去年の7月13日に突然亡くなった母の一周忌をした。水戸市の菩提寺で法要を行い、墓所で例によって弟が作ってくれたお経の豆本を手に参加者全員で般若心経を唱えた。それから市内の食事処へ移って賑やかに食事会を。何しろ、去年「93歳の母の死と葬儀」にも書いたように、母には8人の孫と11人のひ孫がいたので、今年も幼いひ孫たちが大勢集まって大はしゃぎ。去年の葬儀の時は未婚だった私の娘も8ヶ月の身重ながら夫婦で参加し、結婚式で会えなかった親戚に挨拶していた。その賑やかな昼食会を卓上に置いた母の写真が微笑みならが見ていた。
 下旬には、前立腺がんの治療などで大分ご無沙汰した茨城県那珂川上流の「ふるさと村」に先輩と一緒に出かけた。あたりには目にしみるような緑が広がっている。先輩は、早速ツリーハウスの修繕に取りかかる。このところのご無沙汰で、ハウスの床板がかなり怪しくなっていたからだ。涼しくなった夕方には、村内の林道を2時間あまりもウォーキング。夜は自然食の専門家のSさんの手料理を味わいながら、田舎のびっくりするような“濃い人間関係”の噂話を楽しんだ。天然鮎の塩焼きを沢山食べ、帰りに新鮮な野菜も頂いて、もっと頻繁に田舎の空気を吸いに出かけなければと思いながら帰ってきた。

◆70歳代男性の心に棲む魔物?
 さてそんな日常を過ごす中で、このところ漠然と考えていることがある。がんの手術を経験して、自分の体調を意識するようになったせいか、最近何かとその微妙な変化を感じるようになった。それも取り立てては言えない、実にかすかな変化である。多分、これを煎じ詰めれば年齢的な変化だと思う。もう70年以上も身体を使っていると、あちこちの機能が経年疲労を起こしてくる。若い頃は、その都度悪くなった部品を直せば良かったのだが、最近は何となく全体が古びてきた。日頃のメンテナンスを怠けていると、ある日突然、何かのきっかけで身体のバランスが崩れるような大病につながる。それが、70歳代の身体ではないだろうか。
 そう思って最近80歳前後で亡くなった著名人を見ると、大体が70歳代で最初の大病を経験しているのが分かる。やはり70歳代というのは、後戻りできない身体の大きな曲がり角であり、下手をすると死も間近に見ることになる。初めてのがんを経験したりすると、こうしたことを否応なく実感させられる。同時に、人生の中でやり残したことがないかを自分に問いかける。そして、残された人生の時間でやりたいことをリストアップする、いわゆる「バケットリスト」を作ってみようという気になる。

 ひょっとしたら、これは(女性はわからないが)70歳代男性の心の中に棲み着く魔物のようなものかも知れない。80歳なら諦めるが、まだ余力のある70歳代だと、残り人生が見えた時に、死ぬ前にもう一花咲かせたいという思いが棲み着いてしまう。ある場合は、(誰かのように)衝動的に社会的挑戦に手を上げてしまう人もいる。あるいは、「人生最後の恋」と思い込んで、若い女性へのストーカー行為に走る高齢者もいる。私の場合は、社会的にはもう完全に「終わった人」という自覚があるので、悪い魔物に振り回されることはないと思うのだが、それでも死ぬ前にやってみたいことがないか自問するようになった。それも、あと5年。それくらいは、何とか元気でいられるかも知れないからだ。

◆死ぬまでにやりたい「バケットリスト」。退路を断って見つけてみる
 振り返ってみれば、これまでの10年は悔いのない時間を過ごしてきた。(自己満足に過ぎないが)定年当初に目指した「クリエイティブな生活」を追求した実感はあって、その点で後悔は全くない。その上で、これから5年間、これまでの惰性を脱して、今までと全く質の違う時間を生きて見たいという思いがしている。そこでいつものように、生き方の軸としてのキーワードを中心に書き出し、その周囲に具体的な試みを配置する。生活全体の見取り図のようなものである。しかし、やってみたいことをいろいろリストアップしても、今ひとつ実感が湧かない。「これまでと全く別の次元の生き方」というイメージがどうにも掴めないのだ。
 思い切って退路を断ってみたらどうだろう。生活の「断捨離」だ。敢えて暇をもてあます状況に自分を追い込み、その中でやりたいことを見つけてみる。まず、週2回通っているネット動画の編集長の仕事を、来年の3月までにリタイアすることにした。そうすれば、殆ど「毎日が日曜日」になる。一般的に言えば冒険だけれども、数年遅いか早いかの違いだけだ。そうでもしないと、凡人の自分は何かを始められない。1つ2つのボランティア的なお付き合いは続けるけれど、こうして暇を持てあますようになったとき、どういう変化が起きるかである。

 身体が許せば、国内を気ままに旅してみたい気がする。県庁所在地は別として、まだ行ったことのない田舎はいくらでもある。そこで、土地の名産を材料にした、うまい郷土料理を探して食して見たい。文化的なことなら先人の紀行日誌を辿ってもいいし、史跡や地方の美術館巡りと抱き合わせてもいい。どうせ1年くらいで飽きてしまうだろうが、とりあえず死ぬまでに行っておきたい所は幾らでもありそうだ。また、近所の絵画教室に籍を置いて、(自分なりの)絵を追求したいとも考えている。こうしたことを身辺雑記として「風の日めくり」に書くことも含めて、理想的には、これまでの「クリエイティブな生活」をより深化させることだと思っている。

◆あと5年の「次元の違う生活」探し
 今のところ、これくらいしか思いつかないのが情けないが、それも暇を持てあまして見ないと見えて来ないだろう。もちろん、この他に継続して付き合っていくことはいろいろある。家族や親戚、地元の政治、お寺でのお勤め、ふるさと村、幾つかの勉強会、友人達とのイベント、出来ればTV企画やカナダとのお付き合いも。健康が許す間は、こうしたお付き合いや新しい試みのレイヤー(層)が自分のアイデンティティを形成していく事には変わりない。考えてみれば、ここで書いていることは、ちょうど3年前に「定年後3年、レイヤー化する私」で書いた内容の延長線上にあり、それが来年の4月からようやく実現するわけである。

 さて問題は、その時に「日々のコラム」の方はどうするかだ。「クリエイティブな生活」を主軸に据えるなら、続けて行くべきなのかも知れないが、果たしてその時に気力と頭が言うことを聞くか。これからの時代はますます厳しさと困難を加えてきそうだが、それと向き合い格闘できるか。心のどこかでは、これも「断捨離」して気楽に残りの人生を楽しみたいという思いもある。
 しかし、そうすると本当に暇を持てあましてしまうかも知れないし、逆に、新しく始める何かが膨らんでくるかも知れない。難しい所だが、まあ誰に義理があるわけでもなし、これも成り行き次第と言うことだろうか。71歳を超えた身体と頭の経年疲労を見極めながら、あと5年を一区切りに、何とか別の次元の生活探しに頑張ってみたいと思うこの頃である。

術後2ヶ月、回復の日々 16.6.29

 6月20日をもって、前立腺がん摘出手術から2ヶ月が経過した。お陰様で、随分と体調が戻ってきた。億劫だった尿漏れも一日に2回ほどパッドを取り替えるだけで良くなった。毎日出来るだけウォーキングをしているが、最近は歩いている時を除けば、ほぼ漏れはない。会陰部の痛みも大分解消されて、自転車はまだだが、最近はあのドーナツ型の座布団を持ち歩かなくても済むようになった。組織検査の結果は若干の懸念があり、この先も定期的にPSA(がんマーカー)検査を続けていくことになるが、さし当たって日常生活に支障があるわけではない。少しずつだが酒も再開した。さて、そんな一日のことを書いてみたい。ごく普通の一日だが、傷の回復を気にしながら点滴の管をぶら下げて、病院の廊下をそろそろと歩いていた頃のことを思うと、こんな一日でも隔世の感がある。 

◆映画「マネーモンスター」を観てから新宿ウォーキング
 その日は、週2回出勤している会社に顔を出したが、さし当たっての仕事がなかったので、昼過ぎに新宿に出て映画を見た。辛口の映画監督の友人が珍しく褒めていた「マネーモンスター」。女優で監督のジョディー・フォスターが作った映画である。銃と爆弾チョッキを持って生放送中の人気経済番組に侵入した犯人に対して、司会者(ジャージ・クルーニー)と女性ディレクター(ジュリア・ロバーツ)らが必死の攻防を繰り広げる。仕組まれた株の暴落でなけなしの金を失った犯人、事前に株の上昇をあおった番組司会者、その暴落を仕組んで巨額の金を儲けようとした悪徳CEO。“マネー”に振り回される男たちの欲望や格差の問題をテンポのいい娯楽サスペンス作品に仕立てている。脚本、映像化、演技、どれをとってもプロの腕が光る映画だった。
 見終わったのは午後の2時半。夕方6時半の会食までにはまだ4時間もある。会社に戻る手もあるが、やることはない。そこでウォーキングがてらに、映画館の「TOHOシネマズ新宿」を出てすぐの飲み屋街を探索することにした。昼なので、けばけばしい看板が並ぶ歌舞伎町も人通りが少ないが、少し行ったゴールデン街は入り組んだ路地に、夜はさぞやと思わせる怪しげな飲み屋がひしめいている。そこを通り抜けて、花園神社へ。境内にはかつてのアングラ文化を継承する劇団「新宿梁山泊」が、紫テントを設営していた。公演中なら覗いてみようと思ったが、出し物の「新・二都物語」は夜7時かららしい。

 新宿ゴールデン街から花園神社にかけての界隈では、1960年代から70年代にかけて若者達のアングラ文化が花開いた。今、それを担った人々を追うドキュメンタリーを作れないかと(私が座長をしている)番組企画会議で議論しているところだが、久しぶりに新宿を歩いて学生の頃「アートシアター・ギルドチェーン」の会員になって映画を観まくっていた頃の感覚がかすかに浮かんできた。あの頃は年に100本の映画を観たこともあった。
 神社にお参りし、紫テントの写真を撮ってから、今度は蒸し暑い中を新宿駅の南口を目指してテクテクと歩いた。南口に新しく出来たバスステーションに隣接して「NEWoMan」という超高層ビルが建っている。その低層階には大手ファッションメーカーの様々な店が入っているが、ここには、この一年ほど、娘の旦那さんが開店に向けて苦労して来た店もある。そこをちょっとだけ覗いてみた。若い女性が多いお店で、とても私のようなむさい爺さんが行くところではないので、早々に引き上げ、夕方の会合のある市ヶ谷に戻った。iPhoneの万歩計をみるとすでに1万歩近くを歩いていた。

◆喫茶店で経済学の本を読む
 まだまだ時間があるので、喫茶店「ルノアール」に入って、嫁いだ娘と映画のことやお店を覗いたことなどをLINEでやりとりしながら時間をつぶす。こうしてみるとITツールというのは、時間をつぶすためにあるようなものかもしれない。iPadに届いたメールにも返事を書いた。その一つは、(「しみじみとした会食」でも触れた)26年前に亡くなった先輩の娘さんから。毎年、先輩を偲んで集まっている会へのお誘いだった。私の手術のことを知っているので、「無理はなさらないで」とあったが、「喜んで参加させて頂きます」と返信。今年の会は10月ということなので、「先のことはどうなるか分からないけれど、頑張ります」と書いておいた。

 「ルノアール」の冷房が効き過ぎなので、別の喫茶店「TULLY’S  COFFEE」に移動。会合までまだ2時間弱ある。今度は、読みかけの「経済学私小説 <定常>の中の豊かさ」(齋藤誠、一橋大学教授)を読む。ややこしい本で、殆ど理解できないのだが、私の関心事は「経済成長がゼロでも豊かな生活は維持出来るのか、そうでないのか」にある。著者は、経済の定常状態(ゼロ成長)とは単なる停止状態ではなく、例えば経済規模を縮小しようとする力と、それを拡大しようとする力がぶつかり合って拮抗しているような状態だという。ランニングマシンのベルトの上で必死に走っていても、脇からみれば止まっているように見えるという“たとえ”も出てくる。
 結果、GDPの伸びはゼロ近辺になるが、それでも活発な経済活動は行われている。それなのに、停滞、停滞というのは違うのではないか、というのが著者の問題提起らしい。しかし一方、先日参加した勉強会の先生によれば「経済成長がゼロでは国が倒れる」という研究もあるのだそうだ(インドのノーベル経済学賞、マルティア・セン)。そこには、高度な微分数学が使われているそうで、簡単には説明できないらしい。「経済学私小説」も私などには難解だが、先生によれば経済学というのは経験則をいろいろ理屈つけているだけで、こうすればこうなるという確かな理論ではないらしい。先生はアベノミクスとか何とか言っているが、思うように事が運ばないのが経済学と思った方がいいとも言っていた。

◆短いようで長かった2ヶ月。何でもない一日がありがたい
 そうこうするうちに、ようやく会食の時間が来た。「電子の森で迷子になる!」にも書いたように、パソコンの専門家に世話になったので、その人を囲んで気の合った仲間5人が集まり、しゃれたそば屋で一杯やるという趣向だった。飲み放題だったが、今のところ、酒は控えめにしている。まだ酒量に慣れていないために酔いが回るのが早いのと、“びろう”な話だが、ちょっと飲むとつい尿道が緩んでしまうからだ。
 あれやこれやと楽しい話に花を咲かせて3時間。盛り沢山の長い一日だったが、こうしてドーナツ型の座布団も持たずにお酒のお付き合いが出来るようになっただけでも、本当にありがたいと思う。その日は10時半頃に家に着いたが、万歩計は1万3千歩を超えていた。

 この2ヶ月、会陰部の痛みで、すいた電車の中でも座らないでいたり、駅のトイレに立ち寄っては尿漏れパッドをとり変えたり、肛門科に行って痛み止めの薬を貰ってきたりと、けっこう行きつ戻りつの億劫な日々が続いた。日常生活も何かと不便で、たいていは苦笑しながらやり過ごしていたが、時には「心が折れそうになるというのは、こういうことを言うのかなあ」と気が滅入ることもあった。それも6月に入ると目に見えて変化して来て、(例の座布団持参で)上旬には2泊3日の旅行にも出かけることが出来た。
 久しぶりにかつての赴任地でカミさんの実家でもある福井に行き、墓参りをした後、2人で一乗谷の「朝倉氏遺跡」を訪ねた。43年前、発掘間もない遺跡から番組を中継したことがあるが、今は武家屋敷なども再現されて観光地になっている。遺跡近くの「西山光照寺跡」では、懐かしい石仏にもお会いしてきた。こうして術後2ヶ月が過ぎた。週2日の仕事(サイエンスチャンネル編集長、番組制作会社の企画会議)にも復帰でき、更新したパソコンを使ってコラムも再開することが出来た。体調の回復を待ってくれていた、子供達や孫達も遊びに来てくれた。がんが完治したかどうかはまだ分からないが、こまごま振り返ってみると味わい深く、短いようで長い2ヶ月だった気がする

「電子の森」で迷子になる! 16.6.3

 半月前の5月15日、コラム「民進党へのラブレター①」を更新した直後に、7年使っていたパソコンWindows vistaが突然壊れてしまった。いくらやっても画面が開かない。パソコンがクラッシュ(突然死)することは、以前から密かに恐れていたのだが、そのとき頭をよぎったのは、パソコンの中にあるデータがうまく取り出せるかということだった。何しろ、外付けのハードディスクはあるが、怠慢でバックアップもろくにとっていない。20年近くになる日記や大学での講義録、住所録、(私にとっての)重要情報、それになんと言っても11年続けてきた「メディアの風」の原稿もある。これが消えたとしたら、かなりの喪失感に襲われそうだった。

 そこで、手持ちのiPadで近辺のパソコン修理屋を検索し、片っ端から電話してみた。出張で診断するという修理屋が結構あって、その中から当日に来てもらえる人を探した。修理屋と言ってもピンからキリまでで、事務所も持たずに周辺を回っている人もいる。最初に来てもらったのもそういう人だった。とりあえずパソコンに何が起きたのか、故障は重大なものなのか、単純なものなのかを知りたかったためもある。しかし、その人は自宅に持ち帰って調べないと詳しいことはわからないと言う。10日ほど預からせてもらえば新しいパソコンにデータの移行もすると言う。
 来てもらっただけで8400円(出張費と診断費)、さらにデータの取り出しなどで5万円ほどかかると言う。またその間、こちらは新しいパソコンWindows10や必要なソフトを買って彼に渡さなければならない。しかし、一番の懸念は預けている間にパソコン内の情報がどうなるかだった。他人にとってはどうでもいいようなものだが、仮に流出したりすれば自分にとっては嫌な事件になる。そこで、熟慮の結果、その人は断ってネットで見つけた大手の修理チェーン(PCDEPOT)に電話してみた。

◆大手の修理チェーンへ持ち込む
 そこはパソコンなどの機器も扱っていて、必要な機器類はそこですべて調達できるという。幸いなことにタクシーで行ける距離にある。データの流出防止についても覚え書きを交わして確実に消去していると請け合った。そこで翌朝に壊れたパソコンを持ち込み、対応してもらうことにした。夕方までには診断と見積もりを出すというので再度行ってみると、データは間違いなく取り出せるという。しかし、最新のWindows10にするには、プリンタや無線LANなどの周辺機器、そしてホームページのソフトまで新しくしないといけないと言う。

 見積もりは結構な金額になったが、ここで相手から提案があった。パソコンなどをレンタル扱いにし、合わせて携帯をiPhoneに変えて会社と契約すれば頭金は1/5位で、後は月々の支払いで行けるという。しかもその間、メンバーになればパソコンの修理なども格安で見てくれるらしい。レンタル料金は3年で消化する設定らしいが、そうするとまた新たなパソコンに買い替えなければならない。うまく言いくるめられた気がしたが、必要な機器類も準備し設定もしてくれるというので、結局それに乗ることにした。
 通常10日かかるというところを、特急料金を払って7日でやってもらい、目の前でデータも消去した。セット一式を家に持ち帰って新しい無線LANにつないで見ると、Windows10の使い方や、インターネットやWordなどのオフィスソフトなども、使い慣れたものとはずいぶん勝手が違う感じがしたが、ともかくも起動した。やがて嫁いだ娘がやってきて、メールの再設定やインターネットやドキュメントの画面も見慣れた表示に変えてくれた。新しいiPhoneには、(ただで電話できる)LineやFaceTimeなどのアプリも入れた。これで80%は回復したことになるが、問題はHPだった。 

◆悪戦苦闘のホームページの回復
 以前のHPソフトは10年以上も前のホームページビルダー9である。Windows10には最新版の20を入れてあるが、開いて見ても、どうやったらいいか見当がつかない。データ移行したドキュメントの中にはHPのデータも入っている筈だが、果たして全部なのか、どうすれば以前のようにバージョン20でサイト全体が見られるようになるか分からない。そこで窮余の策として、サイトを運営しているプロバイダー(KDDI)からもらったIDとパスワードを用いて、ネット上の私のサイト(「メディアの風」)からデータファイルをPCにダウンロードすることにした。
 ホームページビルダー20のメーカーである「ジャストシステム」に電話し、製造番号やユーザーIDを言って、ダウンロードの方法が載っているサイトを教えてもらい、その通りにやってみた。次に、ダウンロードしたファイルを20に読み込ませる方法のページを見てやってみると、やっとバージョン20の中に見慣れたファイルの全体像(ディレクトリ)が現れた。やれやれだが、この間、何日かかっただろうか。

◆転送が出来ない理由がわかない
 さて、何とか新しいバージョン20の中に復旧した「メディアの風」のファイルだが、更新したものをネット上の私のサイトに転送しようとすると、何度やっても失敗する。その都度、「アクセス権は変更できませんでした」だの、「転送先ホルダーが間違っているのでは」とか、あげくには「時間オーバーで終了しました」や「エラー表示」が出てきてしまう。メーカーが作った「転送失敗」のページを見て、様々なケースを検証したがどうにも分からない。そこで、「転送先のホルダー」が正しいのかどうか、今度はサイトを運営しているプロバイダーのKDDIに問い合わせてみた。こちらもKDDIのユーザーとしてのID番号やパスワードが分からないと電話もかけられない、厄介な仕組みになっている。 
 IDとパスワードを再設定してKDDIに電話し、ようやく先方が運営する「安心トータルサポート」(月額500円)というサービスにたどり着いた。電話に出た担当者が私のパソコン上に「遠隔ツール」というソフトを入れ、向こうから私のパソコンを直接操作する仕組みだ。その日は3人の担当者がのべ5時間にわたって、ホームページビルダーからの転送を試みてくれたが、結局、転送は出来なかった。新しいウィルスソフトが強すぎるのではないかというので、いったん外して試みたりしたがダメ。ついに別の転送専用のソフト(FFFTP)を使って転送してみたら、やっと不完全ながらサイト更新に成功した。疲労困憊の一日だったが、根本的な解決には至らなかった。

◆電子の森に迷い込んで迷子になる
 担当者にはホームページビルダー20の不具合かもしれないのでいったん削除して入れ直したらどうかとも言われたが、本当なのだろうか。半信半疑で再びホームページビルダーの「ジャストシステム」に電話すると、「そんなことはない筈だ」と言う。もうすっかり、ITという森の中で迷子になってしまったような感じで、どこが出口か全く分からない。しかし、別の転送ツールで曲がりなりにも更新した形にはなったのだからもう一頑張りと、心を励ましてITに強い知り合いを当たって、ノートパソコンを持って訪ねていった。
 そうしたら、「転送設定の詳細」を細かくチェックしてもらっているうちに、何故かうまく転送できるようになったのである。問題は、一気に全部のファイル(私の場合1300ほど)を送ろうとしたことだろうか。その中に転送の記号形式を踏んでいないファイルがあって、途中で止まってしまったのかも知れない。そこで、更新したファイルだけを送る設定を選んだらうまくいくようになったと言うことだ。これなら実際の作業上も問題ない。PCクラッシュから半月、私の場合は人手に頼るアナログ的方法も多用したが、悪戦苦闘の末ようやく出口が見えてきた。

 それにしても今の時代、ITという「電子の森」の中で迷子になっている人がいかに多いか。それは、町のPC救急隊や大手の修理チェーンの盛況ぶりを見てもわかる。顧客の中には、私のような高齢者も多いに違いない。情けないことに、出てくる新しいIT用語の意味が分からず、一つ一つネットで確かめながら進むしかない。しかもその「電子の森」は、今や誰も全体像がつかめないほどに急速に巨大化している。こうなると、いつまで日進月歩のネット空間とつきあうのか、あるいは呆けてしまう前にネット上やパソコンの中に残った情報や課金サービスをどう整理(断捨離)するかは、「デジタル遺産」の問題として、すぐにも考え始めるべきテーマになってくる。近々「コラム」の方でも考えてみたい。

意外に大変だった摘出手術 16.5.12
 様々な検査を経て初期の前立腺がんが見つかり、摘出手術を受けることになった経緯は前回書いた。その摘出手術を受けたのは先月20日。術後20日程経過したが、まだいろいろな後遺症に対応する日々が続いている。そのことは後ほど触れるとして、今回の手術について経験したことを簡単に書いておきたい。何しろ、前立腺がんと言えば老境に入った男性にはありふれたがんで、周辺にも体験者は多い。摘出手術を受けた知人友人も多く、その体験を聞いてもごく簡単なものという印象が強かった。しかし、自分に関する限り、どうもそう簡単なものとは思えなかった。むしろ、思っていた以上に大変な手術だった印象が強い。

◆6時間に及ぶ手術。想定外の麻酔トラブル
 前立腺は大腸にくっついているくるみ大の組織で、その表面を様々な神経が通っている。まず、それを周囲の大腸などから切りはがし、くるみ状の組織をそっくり切除する。そして切り取った後に残った尿管を引っ張って膀胱出口の管と縫い合わせる。さらに、前立腺表面にある神経の一部を残そうとすると表面組織を残して中の前立腺を上手にくり抜く作業も発生する。結構微細な作業なので、全体で6時間ほどかかる。今回は、アメリカで開発された「ダヴィンチ」という腹腔鏡ロボットを使った。こちらの方が、人手による腹腔鏡手術に比べて視野が拡大され、縫い合わせる時などに微細な動きが可能になると言う。
 私の場合は、当日2人目の手術で午後3時半に手術室に入り、全身麻酔を受けた。後から聞くと摘出手術そのものはうまく行ったそうだが、全身麻酔が醒めた直後に予想外のことに見舞われた。突然、右わき腹にこれまでに経験したことのないような激痛が襲って来た。同時に、全身がガタガタと震え出した。腹の筋肉が激痛の一点に向かって、これ以上あり得ない位に硬直しているのが分かる。私はこの異常状態に「先生を呼んでくれ」と繰り返していたが、一方で、この痛みをやり過ごすには気絶するほかないと思うほどだった。「血圧が199に上がっている」というスタッフの声が聞こえた。

 やがて、強い痛み止めを注射したからか、ようやく震えが落ち着いて来た。その間、20分~30分はかかったと思う。ずっと手術室前の待合室で待っていてくれたカミさんが入って来たので、「御苦労さん」と声をかけて帰って貰ったが、既に夜の10時半を過ぎていた。その時に彼女が先生に聞いた説明では、背中から入れた麻酔薬が何かの手違いで右腹に効いていなかったのかもしれないということだった。この手術では、全身麻酔のほかに背中に針を刺して硬膜外麻酔(脊椎クモ膜下麻酔?)を行うが、その針の刺さり具合がうまく行かなかったのかもしれない。
 その晩は、集中治療室に準じる「ハイケアユニット」という部屋で過ごしたが、一睡も出来なかった。あの衝撃的な痛みの記憶が残っていて、「それにしても、昔の武士は深手を負った時など、痛みにどう耐えたのだろう?」などと考えていた。寝ている間のエコノミー症候群を防ぐために、常時、両足を機械で締めつけたり、緩めたりを繰り返す。時々左腕につけた血圧計が腕を締め上げる。一方で、痛ければ自分でスイッチを押して痛み止めを注入するボタンと、ナースコールのボタンを両手に持たされているので、眠れと言う方が無理。酸素マスクを付けて、ストレスの強い一晩を過ごしながら「熊本の人たちも頑張っているのだから、自分も頑張る」と思っていた。

◆退院まで
 翌日、11時には一般病棟に戻された。手術前日から空にしていた腸の動きを見ながら、昼食にほんの一口だけ重湯を口入れ、夕方には病院の廊下をそろそろと歩いた。予定通りの経過である。しかし、同時に腹痛がひどくなり、あまりの痛さにベッドから起き上がることも出来なくなった。腸が癒着していたところを手術時に切り離したというが、そのせいなのだろうか。あるいはあの激痛で腹筋を硬直させたせいで傷口に影響が出たのだろうか、などと思ったが、後で考えると、あの激痛時に腹筋を硬直させた後遺症だったらしい。そのくらい腹筋に力を入れていたのだろう。ベッドを操作して腹筋に負担をかけない起き上がり方を研究しているうちに、2日ほどして腹痛は消えていった。

 歩行は傷口の早い回復を促す意味でも推奨されている。コの字型になっている病院の廊下を点滴や尿の導管を付けた器具を持って、そろそろと歩いて見ると、往復で365歩ある。365歩のマーチだ。一歩30センチで計算してみるとおよそ100メートル。歩幅が大きくなると歩数はぐっと減ったが、この往復100メートルの廊下を何度も歩いた。様々な病室が見えたり、同じように点滴をぶら下げた器具を持ちながら歩いている患者さんに出会う。談話室で家族に囲まれている患者なども横目で見ながら、患者さんたちの人生模様を想像しながら次第に歩く距離を伸ばして、一日に1.5キロほども歩くようになった。
 手術2日目で体内の液体を抜いているドレインという管が抜け、6日目には点滴もとれた。導管を通して出て来る尿は、術後しばらくは赤みを帯びていたが、それもやがて綺麗になり、8日目に造影剤検査をして縫い目から漏れていないことを確認して、尿の導管も抜けた。翌日には退院である。退院当日は、休日だったので支払いは後回しにして、世話になった看護師さんたちに別れを告げた。この大学病院の看護師さんたちは、専門性も高く人間的にも素晴らしかった。もちろん、一番世話になったのがカミさんだったが、看護師さんたちとの会話で随分と励まされた。

◆退院後の不便な生活
 今は退院後13日目だが、結構やっかいな問題が残っている。一つは、多かれ少なかれ誰もが経験する「尿漏れ」である。尿管を締めつけてオシッコを止める括約筋が手術で傷つくせいだが、尿漏れパッドやおむつが取れるのに3カ月くらいかかるらしい。尿漏れパッドを大量に買い入れたり、濡れるごとにパッドを取り換えたりするのは当然として、訓練のために尿を計量して記録することもしなければならない。括約筋の訓練と同時に、記録する中で法則のようなものを探すのだそうだ。
 もう一つは、椅子などに座ると、いわゆる会陰部(えいんぶ:自転車のサドルが当たる部分)に鈍痛が来ることである。おちおち座っていられない。アマゾンでドーナツ型の座布団を購入して座っているが、それでも油断して腰を動かしたりしていると、縫った部分に刺激が行くのか、血尿が出たりする。月曜日、この座布団を持って試しに出勤してみたら、その夜カサブタが取れたような血尿に悩まされた。長く椅子に座れないのは憂鬱だが、当面は大人しくして縫い合わせた部分が完全につながるのを待つしかない。

 さらに情けない話だが、排便の時に気張らないようにと言われて注意していたら、完全な痔主になってしまった。これもすごく痛い。月曜日に肛門科に行って薬を貰って来る始末である。こうして、前立腺がんの摘出手術を簡単に考えていたら、どうしてどうして、やはり人間の体と言うものは、そんなに単純なものではない、ということを思い知らされた。心の問題も含め、人間と言うものは繊細かつ微妙に出来ている。まだ、手術後1ヶ月も経っていないので、少し気長にこうした後遺症にお付き合いして行くことになるのだろう。
 それにしても、普通ではない身体になって初めて分かることがある。おむつや尿漏れパッドを探しに「マツキヨ」に行ってみたら、多様な種類がそれこそコーナー全部を占めていた。それも一抱えもあるような量が単位になって売っている。寝たきり老人のオムツもこういうことなのだろう。あるいは、何をやるにしても、手順がやたらと増えたことである。小便一つするのでさえ、大きい方のトイレに入って何通りもの手順を踏まなければならない。このように今しばらくは、超高齢化時代を先取りしたような日常生活を続けることになるが、それから見えて来るものがまたあるかもしれない。(がんが完全に摘出されたかどうかの検査結果が出るには、もうしばらく時間がかかるそうだ)
何かと忙しかった3ヶ月 16.4.5
◆昔を思い出した番組作りの感覚
 年が明けたと思ったら、あっという間に4月。新年度が始まった。ここ数カ月、様々なことで忙しかった。週2回通っていた科学ニュースの編集長の仕事に加えて、年明けから30分の科学番組14本の監修が始まったせいもある。そのうちの7本は、実質的に15分の番組が2階建の作りになっていたのでなおさら大変だった。そのため、年明けから3月一杯まで週3回の勤務に変えて対応。3月に入ってからは、怒涛の監修作業となった。これは、今年度にネットで配信するサイエンスチャンネルという2シリーズの番組だが、プロダクションが提案した企画がなかなかに面白かった。
 一つは「科学の遺産と未来」と言うタイトルで、エネルギー、水のインフラ、公害や震災、江戸期の科学教育、自然との共生、ものづくりの精神、未知への挑戦、と言った幅広いテーマでそれぞれ15分のものが2本ずつ。例えば、「未知への挑戦」では、深海探査に挑んだ「しんかい2000」、物質の解明に挑んだ「粒子加速器」の科学遺産の内容を3つの項目に整理して分かりやすく提示し、その遺産(先人たちの努力)が未来にどうつながるのかを伝える。テレビとは比べ物にならない低予算なので、シンプルで分かりやすいフォーマットを工夫した結果、明快でユニークなシリーズになったと思う。

 もう一つは「おいしさの扉」というタイトルで、身近な食材や調理法を様々な角度から科学する7本(30分)。それぞれのシリーズに関して、企画コンセプトを明確にする、シリーズ各回のテーマとタイトル、内容を確認する、各回共通の分かりやすいフォーマットを決める。そして編集が上がり次第、構成やコメントを手直しして行く。制作会社の若いディレクターたちと一緒に作って行くうちに、昔の番組作りの感覚を思い出した。それぞれのプロダクションの頑張りと、短期で応援に入ってくれた後輩のお陰で、2つともいいシリーズ番組になったと思う。
 今年度は、これを順次ネットで配信していくと同時に、衛星チャンネルなどでも放送して行くことになるだろう。この他に、本来業務の科学ニュース(5分)は昨年暮れから12本を仕上げた。こちらも科学の最新情報を、居ながらにして知ることができるのでありがたい。4月からは、勤務をもとの週2回に戻してニュースの監修をして行くが、定年後のお仕事としては(何かと課題もあるが)、この5年、いろいろと楽しませてもらった。

◆同時並行で忙しかった健康問題
 これと同時並行で忙しかったのは、自分の健康問題である。昨年末、ふと思いついて血液検査のついでに「がんマーカー」を調べたら、そのうちのPSA値が基準値を越えていた。前立腺がんのマーカーである。年内にもう一度調べても高いまま。そこでN大学病院を紹介してもらい、年が明けてから、前立腺のMRI検査(やはり組織に“影”があるいう診断)→2泊3日で入院して患部に針を刺して細胞をとる検査(生検。がん細胞が見つかる)→放射性物質のアイソトープを注射して骨への転移がないかどうかを調べる「骨シンチ」(転移なし)という検査が続いた。
 次は、治療方法である。前立腺がんの治療には3つくらいあるが、がんが局限されているというので、その中から手術で摘出する、という方法を選ぶ。それもダヴィンチと言うロボット手術を適用できないかと言う。そのために、さらに術前検査(心電図、心臓エコー、緑内障の有無、胸のレントゲンなどなど)の検査が続いた。その結果、ダヴィンチの適用が可能と言うので、前もって輸血用の自己血を用意することになった。何だかんだで、最初の検査から手術まで4ヶ月かかったことになる。

 手術はこれからだが、順調に行けば5月の連休明けにも社会復帰が出来るのではないか、と思っている(これの経過については、いずれ書く)。こうして、一つ一つの手順を踏んで手術にこぎつけたわけだが、考えてみれば最近の医学の進歩には目を見張るものがある。以前は、がんマーカーの検査もなければ、MRIや細胞診、骨シンチだとかの診断方法も限られていただろう。だから前立腺がんは、大抵はおしっこが出にくいとか、腰や膀胱が痛いといった手おくれ状態で見つかって命を落としていた。それを考えれば、初期に見つかってよかったと思う(従って、ご心配には及びません)。

◆一年があっという間に過ぎて行く
 がんと診断されたと言っても、自覚症状は何もない。ごく普通の生活のまま手術を迎えることになる。仕事と検査で忙しかったが、「メディアの風」の中で、カナダ関連の「風の日めくり」と「日々のコラム」は書き続けた。それは、年末から今までに計19本になった。現時点(4/5)の予定では、手術前にあと1本のコラムを書いて、その後は暫くお休みする(再開は、多分5月中旬か)。こうした中にも、日常生活は淡々と続いていて、春には孫娘が難関の中高一貫校の受験に受かったという嬉しい知らせや、昨年結婚した娘が9月に出産予定との知らせがあり、お彼岸での集まりも無事済んだ。
 検査を口実にして飲み会は少し控えたが、その他もろもろのお付き合いは続いている。週一回の制作会社での企画会議も何とかこなして来た。そして7月には母の一周忌になるので、その日取りも決めた。いつも書くことだが、最近の時間の流れは速く、あっという間に一年が経ってしまう。その中で、去年の母の死去に続いて、今回もその流れに区切りを作るような身辺の出来事(がんの手術)を迎えようとしている。それがどんなものかは、もうしばらく経過しないと分からないが、これも一つの区切りとして噛みしめて行きたいと思っている。

◆次回のコラム「超高齢・多死時代の終末観」
 こうして何かと忙しかった年明けからの3ヶ月を振り返って、最近しきりに感じるのは、いつこの忙しい生活のギアチェンジをするかと言うことである。死ぬまで「金ではなく、世の中のために働く」を理想とする考えがある一方で、71歳を一つの区切りにして、別の意味を持つ5年(あるいは10年)を作って見たいという願望も生まれ始めている。そのためには、様々なしがらみをもう一段脱ぎ捨てなければならない。いわゆる「断捨離」である。その上で、5年か10年かかけて初めて少し見えて来るような、最終段階の生活にじっくり取り組んで見たいなどと夢想する。
 「良く死ぬためには、(それまでを)良く生きること」というのが、超高齢化時代の終末観を模索している人々の言葉だが、そのことを考えながらもう5年を生きられないか。そのためには、どういう質の時間を作って行けばいいのか。あるいは、それでも出来るだけ働き続けるのがいいのか。実は、こうしたことを考えるきっかけになったのは、2泊3日で入院した病院での体験なのだが、そのことは最近読んだ幾つかの資料とともに、次回のコラム「超高齢・多死時代の終末観」(仮)に問題提起として書く予定。そして、今度の入院中にゆっくり考えを巡らせてみたい。
睡眠薬のような心地いい風景 16.3.13
 夜中に目が覚めてあれこれ“よしなしごと”(たわいもないこと)を考えた末、いざ眠ろうとするとなかなか寝付けない時がある。そんな時には、これまでの人生の中で出会った心地好い風景を思い出すようにしている。思い浮かべると気持ちが穏やかになり、幸せになる風景だ。もちろんそれですぐ眠れるわけではないが、それが一つのサインになって考えることを止め、眠る体制に入るようになる。そんな風景は人それぞれだろうが、私の場合は決して多くはない。あれは良かったなあと思う心に残る風景は、70年の人生の中で僅か5つほどである。そんな睡眠薬のような風景を書きだして、ついでにそれにまつわる記憶を書いて見たい。(ついでに俳句らしきものを付けて見た3/31)

丘の上から眺めた真っ青な海
 一つは、小学校から中学校にかけての頃に見続けた真っ青な海の風景である。私の家は太平洋に面する漁港から細い道を登った丘の上にあった。当時、その丘の上には畑が広がっていて、畑と崖のへりには細い道あった。特に夏休みに入ると私は、毎日のように家から2、3分のその崖のへりに出かけて海を眺めた。それも大抵は午後3時ごろである。その時間には太陽が西の方に回って、海はその順光を受けてどこまでも青く染まって来る。海の青さが輝くのはその時間帯なのだ。眼下の浜辺には海水浴の人々が見えるが、私の目は水平線のかなたへ引きつけられる。水平線上には白い雲が浮かんでいる。私は広い真っ青な海を眺めながら、あの雲の向こうにはまだ見ぬアメリカがあるに違いないなどと思ったりする。その海の青さに魅せられながら、一人でいつまでも見続けていた、その風景。
      見はるかす眼下の海や 夏の午後

石垣島と西表島の間の岩の上で眺めた夕日
 39歳の夏。私はNHK特集「日本列島 夜の海」と言う番組制作に参加した。私の担当は夜の沖縄先島の海底から生中継することだったが、番組の中で様々な海の生き物を紹介するために、長期の沖縄ロケに出かけた。ロケはほぼ一カ月に及んだが、私は毎日のように水中カメラマンと石垣島と西表島の間の岩場に出かけた。夕方、漁船に乗って撮影現場に行き日没を待つ。カメラマンたちが水中にいる間、潜れない私は船の上で待ったり、近くの海面から僅かに顔を出している岩場に泳いで行ってそこから海底で撮影しているカメラマンたちのライトの光を追ったりした。時にはそこに座って、水面すれすれの高さから真っ赤な夕日が沈んで行くのを眺めた。岩場の上には私一人。平らな岩場には生暖かい海水がひたひたと寄せていて、私は半ば浸かっている。その状態で、うっとりと夕日を眺めた。沈みゆく太陽を独り占めしているような気分だった。思い出す光景とは、その時の夕日と黄金にきらめく海面である。
      海原の我を黄金(こがね)に 夏日入る

縁側の布団に寝そべって流れゆく雲を見る
 おそらく中学校の1年頃のことだろうか。夕方になるとしばしば、私は母が縁側にとりこんでたたんだ布団の上に寝そべっていた。夏の陽光をたっぷり吸い込んだ布団はふっくらしていてとても気持ちいい。廊下のガラス戸は開けられていて、太平洋からの涼しい風が絶え間なく入って来る。寝そべって空を眺めると遥か天空に雲が流れて行くのが見える。涼しい風に身を委ねながら、ふんわりした布団に寝そべって、あの雲たちを運んでいる風はどこへ流れて行くのだろうかと思う。地球の上をどこまでも、モンゴルの草原の上を流れて行き、果ては中東のメソポタミアあたりまで流れて行くのか。自分の心までが風に乗って旅して行くような気分になる。「せっかく干したのに」と母に見つかれば叱られそうだが、そうした空想を膨らませながら、ふっくらした布団に寝そべって空を眺めている、その風景である。
       行く雲に想いをはせる 夕涼み

丘の上から眺めた暮れなずむ日本の田園風景
 私は赴任地が名古屋だったが、僅か2年の勤務だったので中部地方をそれほど見て歩けずに福井に転勤してしまった。その後、東京勤務になったわけだが、あるとき仕事で一人名古屋に出張した折に、ふと愛知県のまだ行ったことのない温泉に泊まって見たいと思いたった。そこで豊橋から飯田線に乗り換えて湯谷温泉というひなびた温泉に。夕方、豊橋駅から予約した旅館に荷物を置いて、近所を散歩しようと山道をたどって行き、丘の上の小さな公園に出た。下には川(宇蓮川)が流れていて、岸の向こうには田畑が広がり、遠くには夕暮れに霞んだ山波が見えている。山あいから田畑にかけて一筋の煙がうっすらと横にたなびいている。まさに日本の田園風景だった。私はベンチに腰をおろし、その風景が徐々に暮れなずんで行くさまを眺めていた。眼下の川、点在する農家と田畑、一筋の煙、そして遠くの山波やかすかな物音。それらが夕暮れの中に次第に溶け合っていく。穏やかな気持ちになって眺めた、その田園風景。
       
一筋の煙暮れゆく 里の秋

並木のこずえを鳴らす風と流れゆく雲
 おぼろげな記憶なので、これはポプラかどうかさえ分からない。会社を定年になり、記念に家内と北海道の道東を巡るバスツアーに出かけた時のことである。ある所でバスを降り、ポプラ(?)の並木道を歩くことになった。正確な場所はもう忘れたが、そこは広大な牧草地の中を通る並木道で、車は入ることのできない観光スポットの一つらしかった。一方の端でバスを降りて、バスは先回りしてもう一方の端で待つという。その道をゆっくりと歩いていた時のこと。何だか気持ちがやたらと爽やかになって来たことを覚えている。何しろ木々が高い。見上げると、高いこずえの葉が風にさわさわと吹かれている。その向こうには雲が流れている。その並木道がずっと向こうまで続いている。その昔、開拓農家の人々が馬車に乗って行き来していた時代の空気まで感じさせるような並木道の光景。
        
時を経て繁る並木に 風わたる

 人生の中で、あるいは旅先で見かけた印象深い光景は他にもいくつかある。例えば、真っ暗な場所で見上げた満天の星空の記憶がある。福井勤務時代に酔っ払って、田んぼ脇の高校の真っ暗な校庭に入り込み、ベンチに寝ていつまでも見上げていた満天の星空。鼻をつままれても分からない位に真っ暗な西表島の砂浜に寝そべって見た海の上に広がる星空。あるいは、カナダのプリンスエドワード島の夜に、木々の向こうに瞬く満天の星空なども凄かった。世界には、星空紀行というようなツアーがあるくらいだから、それはそれで印象深い。しかし、これらの風景は感動的で圧倒的ではあるが、思いだしたら却って目が冴えてしまい、睡眠薬の代わりにはならない気がする。ということで取りあえずは、この5つくらいを引き出しに入れておいて、思いだしたら幸せな気持ちになって条件反射的に眠くなるようにしておきたい。

◆◆◆
 さて、詳しくは機会を見つけて書いて見たいが、この数カ月、私はがん診断の手順を一つ一つ受けて来た。幸いなことに転移はなく、局限されたがんで摘出手術をすれば根治出来るという診断になったが、その間、自分の寿命が数年に限定された場合に、残された時間でやりたいことをリストアップしてみたりした。間もなく手術の日程も決まるが、命拾いをしそうなので、切り抜けたら改めてやりたいことを考えようと思っている。
 もちろん生きている限りは家族を見守って行きたいというのが最大のテーマだが、そのほかの一つには日本各地を一人旅して歩きたいというのが入ってくるだろう。それも観光名所などではなく、海辺や山あいの名も知らない村々で心に残る風景を探しながら、その土地の素朴な料理をゆっくり楽しんで見たい。まあ、それもしばらくすれば飽きるだろうが。。

 そして、(いつになるか分からないが)死ぬ間際になって、上に書いたような、思い浮かべると幸せになるような慣れ親しんだ風景を夢見つつ旅立てれば嬉しいと思う。自分にとって、死と言うのがいまだバーチャルなことであり続けているのはありがたいことだが、(生き方を考える上では)気がつかないうちに近くまで来ている現実にも心しなければと思うこの頃である。