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  今週の鑑賞。定年後の身辺雑記

新たな始まりに向けて 17.4.5

 2月、3月と何かと多忙な中に、時間はとうとうと流れていった。出来れば、その時をせき止めてしみじみと味わってみたいのだが、これは諸々のことが一区切り着く4月以降になるだろう。それでも、幾つかのことは書き留めて確認だけはしておこうと思う。そうでもしないと、ホントにあっという間に1年が経ってしまう。というわけで、この2ヶ月ほどの出来事を振り返ってみたいが、それを一言で言えば、新たな始まりに向けての準備と言えるかも知れない。

◆次男一家のアメリカ移住、カミさんの入院・手術。諸々の家族サポート
 3月31日、次男一家5人が成田からNYに旅立った。半ばフリーの身で渡航準備をすべて個人でやらなければならず、おまけに2歳と6歳と9歳の3人の子連れなので、準備も大変だったと思う。アメリカ滞在の経験がある長男夫婦がいろいろ心配してチェック項目をメールしてくれたので、それを持って千葉県佐倉市の次男の家にでかけ、気になる点を一つ一つ確かめて来た。取りあえず3年というが、労働ビザの取得に始まって、NYでの住居の確保、2人の子どもが通う小学校、収入計画、税金の仕組み、こちらの住宅の貸し出しなど。どれ一つをとっても大変だが、何と言っても大事なのは海外での医療保険である。特に子どもが急病の時にちゃんとした医療を受けられるのか、予防注射などはどうするのか、などなど。医療保険の内容が気になった。
 それにしても、ネット環境の進化のお陰で、今は海外に移住するための情報を殆どネットから入手することが出来る。次男は、PCとスマホを駆使して一つ一つ手を打っていた。例えば、住む場所の環境やマンションの状態もグーグルの映像で確認できる。出発まで、やることが山のようにあり、心配は尽きないが、その緻密で粘り強い努力に感心して帰って来た。3月22日には壮行会を兼ねて、長女の七五三の祝いを両家の両親を招いて開いてくれた。アメリカで、デザイナーとしての自分の能力を磨きたいという強い意欲からの渡米だが、両家の両親ともこうなれば、その挑戦が上手くいって欲しいと祈るばかり。たいしたことは出来ないが、出来る限りのサポートはしてやりたいと思っている。

 2月半ばにはカミさんが1週間ほど入院、手術を受けた。全身麻酔の手術で、終わった直後はかなり辛そうだったが、退院する頃には元気になった。その間、ほぼ毎日病院に通ったり、教えられたとおりに洗濯機を回したりした。夕飯は外食ばかりだったが、かえってカミさんのありがたさが身にしみた。その後、次男の渡米を成田で見送りたいと長女が生後半年の子どもを連れて1週間も我が家に滞在。カミさんは孫疲れしたが、私の方は孫の顔を見られて嬉しかった。そして、出発当日、向こうの両親と私たち夫婦、娘親子で賑やかに次男一家を見送った。
 その間、お彼岸には水戸の墓参りと合わせて、私たちきょうだい夫婦の「きょうだい会」も開いた。そこには86歳で元気な叔母夫婦も食事会に参加。まあ、そういうことで、諸々の家族サポートや家族とのつながりの大切さ、味わい深さを感じながら、これから先もやっていくことだろうと思う。その家族サポートやお付き合いが長く続けられるように、サポートされる方にならないように、自分の健康をしっかりと維持していかなければならない。そう強く感じたことだった。

◆科学ニュースの編集長を卒業
 次男の新たなスタートとは逆に、私の方はほぼ6年間続いた仕事に区切りを付けた。定年後の週2回の勤務だったが、科学ニュースの編集長という仕事を楽しんできた。科学技術の最新動向を5分の動画にまとめてネット配信するという仕事だが、外部の編集委員も入った企画会議を主宰し、企画を決め、外部の制作会社が作って来た動画を、構成を入れ替えたり、コメント直したりして完成させる。去年の4月にもう6年もやることになるので、3月一杯で卒業したいと言って、後継者の腹づもりもしていたのだが、結局のところ予算を打ち切られて、いったん終了となってしまった。
 日本の科学技術の動向が幅広いジャンルで俯瞰できるユニークなコンテンツが終わってしまうのは残念だが、制作した224本の動画はネット上に残っていく。もう私が関わることはないが、いつの日かまた復活して欲しいと思う。この6年間、制作会社の熱意を受け止めて、番組の品質管理に取り組めたのは、番組制作の現場感覚を取り戻す上でも、また最先端の科学知識を得られる意味でもありがたかった。事務局の若い人たちとの交流も楽しかった。この余熱を生かして、4月以降、科学関係のテレビ番組や科学ジャーナリストの会への参加なども考えているが、一方でやっと確保した時間の余裕を大事にして、老後ならではの「しみじみとしたお付き合い」を楽しみたいという気持ちも頭をもたげている。

◆しみじみとしたお付き合い
 しみじみとしたお付き合いと言ってもいろいろだが、この歳になると、それぞれに味わい深いのが一層ありがたく思える。例えば3月では、高校の同級生6人の定期的な会合が、いつものようにお茶の水のそば屋であった。私が幹事役の会だが、基本的に日頃考えていることの交換会である。科学番組の後輩が幹事役になって設けてくれる少人数の会もあった。これは信念をもって原発番組に取り組んでいるディレクターたちも含めて、何人かを後輩が集めてくれている。若いといえども働き盛りの尊敬すべきディレクターたちで、これも私が懲りずに書いているコラムがなにがしかのつながりになっているのかもしれない。
 26日には、大阪で親戚の結婚式があった。新郎は外科医で、彼の父親(医者)が私と従兄弟と言う関係。スピーチを頼まれたので新郎と私の共通の先祖(私の祖父母、新郎の曾祖父母)の話から今の新郎につながる話を「ファミリーヒストリー」風に話してみた。手先が器用で帯などに俵屋宗達ばりの獅子や龍の絵を描いていた呉服商の祖父。熱心な仏教徒で出征した5人の息子の無事を祈って水垢離までした祖母。その思いが天に通じたのか、5人全員が奇跡的に無事帰って、今の新郎につながっている。そうしたスピーチを考えているうちに、従兄弟の父親(私の叔父)の在りし日の面影を鮮明に思い出し、時の長さを感じたものだった。

 大阪には滅多に行かないので、結婚式の前後で親しい先輩に声をかけ、久しぶりの再会を楽しんだ。一人は、奈良に住む先輩。かつて1年間一緒に仕事をしただけだが、その後もいろいろお世話になった人である。私がいろいろあって一ヶ月の停職中に奈良の自宅に呼んでくれて、一緒にお水取りが行われる二月堂の真っ暗なお堂に6時間もこもって、1200年続く神秘的な韃靼の火祭りを体験した。一般人は滅多に入れないところである。その10年後も、同じように一緒にこもった。その都度お宅に泊めてもらって奥様の手料理をご馳走になったが、その奥様は今はいない。2人暮らしだったので、心配していたが、お会いしたら思った以上にお元気だったのでほっとした。道頓堀のうまい料理屋だった。
 もう一人は、西宮市に住む先輩。独身時代の私と福井県内を良く取材して歩いたアナウンサーである。結婚式の終わる時間が見えてきたので、電話すると来てくれるという。新大阪で会って新幹線の時間まで一杯やりながら旧交を温めた。そして、この2人から「コラムをやめずに、もう少し頑張れ」と励まされたのを帰りの新幹線で思い出しながら、何となく嬉しかった。4月から少し時間が出来るので、ゴルフの練習も始めた。月に2回はやりたいと、会社の元同僚や高校時代の同級生の仲間などのメンバーを誘ってやり始めたが、これもスコアはさっぱりだが、終わった後の飲み会がしみじみと楽しい。

◆家族サポートもお付き合いも、健康が第一
 このほか、制作会社の企画会議、番組の監修、地元の市会議員たちとのイベント、ふるさと村、カナダ観光局などとのお付き合い、先輩の主宰する勉強会などは続いていく。家族サポートやしみじみとしたお付き合い、そしてこうしたつながりを続けていくにしても、まずは健康第一。4月からは、以前に比べて手帳の予定欄が明らかに白くなったが、出来るだけウォーキングもし、これまで通りサイゼリヤで想を練りながらコラムも書きつつ、まずはゆっくりとその白い部分を楽しみたい。

多様で密度の濃い一日を 17.1.26

 2017年の年が明けて早くもひと月が経とうとしている。本当にあっという間で、幾ら定年後の自由気ままな生活でも、このスピードで時間が経って行ったら、ある日気がついたらお棺の中だった、と言うことになりかねない。そうならないように、一日一日を十分噛みしめて、味わい深く生きなければと心に言い聞かせたくなる。そういう意味でこの1ヶ月をじっくり振り返ってみると、猛スピードで過ぎていったこの1ヶ月の間にも、いろいろなことがあった事に気づく。そして、ふと心に浮かんだ、定年後の一日を送る際のキーワードのようなものにも出会ったりする。そんな1ヶ月を振り返って見たい。

◆めでたさも中ぐらいなりおらが春
 年末のぎりぎりになってカミさんが「ぎっくり腰」になった。それは、網戸を外して庭で中腰になって洗い終わり、家に戻りかけた何でもない時にやってきたそうだ。何か急に無理なことをやったわけでもなく、やはり秋の娘のお産や京都での強行軍などで身体が極限まで疲労していたせいかも知れない。お陰で年末年始、カミさんは布団を敷いたままの生活になってしまった。痛くてそろそろとしか動けないので、カミさんの指示に従って洗濯機を動かし、食器洗いをし、風呂を掃除して、野菜を刻んで年越しそばや雑煮まで一緒にこしらえた。
 助かったのは、おせち料理を頼んでおいたこと。三が日はそれと餅で何とか過ごした。毎年元旦には、お世話になっている近所のお寺に2人してお参りし、本堂で行われる護摩焚きを見てお札を頂いて帰るのだが、今年は私一人で出かけた。2日には高校の同窓会が水戸であった。「行かなければならないの?」と言われたが、墓参りも兼ねているので参加し、あまり酒も飲まずに早く帰って来た。そういう状況なので、3日に予定されていた家族全員集合は取りやめようかと思っていたら、娘が「やっぱり集まろう」と兄たちにも声をかけて(3日に初仕事の娘の旦那さんを除いて)総勢13人が狭い我が家に集まった。

 娘の旦那さんは4日になったが、その日は3人の子供たちと連れ合い、そして中学一年から、下はゼロ歳まで6人の孫たちが集まった。部屋に来るなり次男の長男(3年生)は「皆いとこ同士だねー」と言いながら、誰彼かまわずじゃれ合っていた。昼食は、全員ですき焼きを食べる予定で上等な肉も沢山買っていたのだが、そんな事情で取りやめ。肉はそれぞれに持ち帰ってもらうことにし、カミさんと娘親子を留守番にして10人が近所のサイゼリヤに行った。帰り道にはお寺で揃ってお経を上げ、境内の六地蔵を拝む。孫たちも親に習ってお経が何となく言えるようになっていたし、六地蔵の前では次男の長男が2歳8ヶ月の弟に手の合わせ方を教えているのがほほえましかった。
 狭い居間で、娘のゼロ歳児を息子たちやその連れ合いが代わる代わる抱いている風景も、長男の娘たちが幼い次男の子供たち3人の面倒を見ながら絵を描いたり、ゲームをしたりして遊んでいる風景も心和むものだった。去年、中学に入学した彼女は既に身長が162センチにも伸びて母親を追い抜いている。5年生の次女も、驚くほど大人びてきた。近くの遊水池公園も散歩して、夜には娘親子を除いてみんな台風が過ぎ去るようにして帰って行った。カミさんのぎっくり腰は、年明けの病院に行ってもまだ本調子とは言えないようだが、スマホで撮りためた写真を眺めながめながら、やはり集まって貰ってよかったと言う。「めでたさも中ぐらいなり」というところか。

◆1月の出来事など
 正月が明けると、週2回行っている会社に顔をだした。3月一杯までに10本以上の科学ニュースを仕上げることになっており、これはこれで結構大変だ。それも3月に卒業するので、以前から考えていた組織改正案をまとめて「置き土産」として上層部に提出した。日本の科学技術はかつてないスピードで進化している。下手すると科学者だけの狭い領域でとんでもない進化が起きそうな位だ。だからこそ、国民の理解を深め、ともに情報を共有しながら科学技術の未来を考える場(組織)が必要になる。(まあ、どうなるか分からないが)年々、予算が削られる中でその構想を提案しておいた。定年後も、こうした社会とのつながりを持てたのはありがたいことだったと思う。
 12日には、頼まれて中高一貫校のT学園で、将来国際機関で働きたいと思っている学生たちに講義をした。メディアで働いた経験と国際機関で働くことに共通項はないように思ったが、依頼者のAさんと打ち合わせをしながら「多面的にみて核心をつかむ」というテーマで話をすることにした。昔、番組で扱った地球温暖化とパリ協定の話をしながら、国際会議を切り盛りした女性の腕の振るい方について、その基本にあることなどを。次いで16日には、アメリカ生活が長かったそのAさんとNY移住を計画している次男とを引き合わせるために、次男がやっている個展を渋谷に訪ねた。

 その日は渋谷に出かけて、昼に蕎麦屋でAさんと昔の同僚との3人で旧交を温めてから次男の個展に行った。次男はデザイナーだが、最近はビジュアルアーティストと称してアート作品も作っている。「YouTubeに載せたアーティスト宣言」は結構わかりやすく出来ていて、それを観た娘が「彼はアーティストやね。完璧な!」と感想を寄せてきた。そこを出た後、日比谷で映画「アイ・イン・ザ・スカイ」を観る。アフリカ某国のテロリストを無人機(ドローン)で監視しながら、ワシントンとロンドンの政治家がロケット弾を打ち込む決断をする。決して未来ではなく既に現実のものとなっている戦争の形である。映画が終わると午後6時、西日暮里で次男と待ち合わせをして一杯やりながら、気になるNY移住計画についてあれこれ話を聞いた。
 このほか1月には、ようやく歩けるようになったカミさんと西新井大師へ初詣、気心の知れた友人との新年会、お寺での今年最初の「朝の集い」、ゴルフの後の友人との一杯、2月のカミさんの入院・手術のための病院検査の付き合い、大学の同窓会などがあった。大学の同窓会では同じ年齢の友人たちがそれぞれに多様で充実した定年後を送っていて勉強になった。次の土曜日には地元政治グループのイベント参加、定例の勉強会、そして夕方からは音楽会がある。都内に出かけない日は、暖房の効いたサイゼリヤで切り抜いた新聞と本を読み、コラムの想を練る。こうしてみると、サラリーマン時代のように毎日決まった生活リズムがあるわけではないが、自分なりに多様で結構密度の濃い日々とも言える。

◆できるだけ多様で密度の濃い日々を
 息子の作品を見て映画を観た日の夜、これから「毎日が日曜日」になっても、「一日を出来るだけ密度濃く生きたい」という考えがふと頭に浮かんだ。そこで4月以降の日々の送り方を、設計図にしてみた。例によって、生活の基本的な指針となるキーワードを中心に置き、その周囲に具体的にしたいことを線で結んで並べる。そうすると、生活全体の見取り図が出来る。4月以降の中心に来る「指針」としては4つ。@時代と向き合う(今しばらくは時代と世界に関心を持ち続ける)、A楽しみを追求する(死ぬまでにやっておきたい“バケットリスト”を)、Bしみじみとした付き合い(家族との絆も含めた友人たちとのお付き合いを大事に)、C健康維持の4つである。
 このように生活の見取り図が出来たからと言って日々の生活が思うように充実するわけではないのだが、定年後の6年間も、このような見取り図を時々修正しつつ暮らしてきた。@の「時代と向き合う」には、読書や鑑賞で充電をする、幾つかの勉強会も続ける、地元貢献をする、その結果をHPで発信するなどがつながっている。Aの「楽しみを追求する」には、一人旅をする、絵画教室に通う、ゴルフに身を入れる、などが線でつながれているが、さてどうなるか。設計図は設計図としてそれにもとらわれることなく、身体が動くしばらくの間は他人と比べるのではなく自分なりに)「なるべく多様で密度の濃い一日」を実感出来るように、日々を送れればいいのではないのかと思っている。

紅葉最後の京都行き 16.12.11

 11月末から12月にかけて2泊3日で京都に行った。紅葉も最後の時期だったが、名所の神社仏閣を2人して精力的にまわって帰宅した。翌々日には、次男一家を千葉県佐倉市に訪ねる予定だったが、朝起きてみるとカミさんが体調不良になって、残念ながら訪問は断念。3人の孫たちに会えるのを楽しみにしていたが、やはり京都での強行軍がこえたのかも知れない。夕方にはやや復調してスマホのフェースタイムで互いの顔を見ながら話をして、孫たちとはお正月に会う約束をした。京都行きのことは後段に書くとして、訪問取りやめの代わりと言ってはなんだが、まずは孫娘のKちゃん(5歳)のちょっといい話をここに載せておきたい。
 Kちゃんは、兄と弟にはさまれた女の子で幼稚園の年長さん。来年4月には小学生の予定だが、次男一家は今、春にNYに移住する計画を立てていて、彼女も向こうの小学校に入学することになるかも知れない。小さい頃から自分のこだわりを持っていて、頑固にそれを貫くなかなか個性的な子で、育てる親の方は大変かも知れないが、見ていて飽きない子でもある。最近、そのKちゃんを幼稚園に送って行った時の出来事をママがフェースブックに載せたので、許可を得てこちらにも転載する。『私の娘は、ワガママで人の気持ちが分からず、将来が心配だ。』から始まる本文だが、続いてそれを覆すような意外な展開で、読んでいるこちらの気持ちもほっこりするようなエピソードだ。

◆ママのFBから
 『今朝、娘を幼稚園まで車で送って行く途中、竹林が伐採されていた。私はキレイになっていいなぁと思いながら、「木を切ってるね」と言ったら、娘は小さな声で「ダメ…。切ったらダメ。動物がいるから」と呟いた。私はハッとした。いつも、私が自然がどーとか、生き物に優しくとか言っているのは口先だけで、娘は本当に動物に対して優しい気持ちがあるのだと。

 その後、幼稚園で車から降ろすとすぐに帰るのだが、今日は娘の様子をしばらく見ていた。すると、娘は教室に向かわない。何をしてるのだろうと見てると、バスを待っている。バスに友達がいるのだろうか?
 しばらくすると最後に年少さんの1番身体の小さな女の子が出てきた。その子を見つけると慣れた手つきで手を引いた。身体の小さなその子にとってバスを降りるのも手すりの無い階段を登るのも一苦労そうだった。その手をしっかりと握って昇降口まで連れて行くとバイバイとあいさつをして教室へと向かった。
 誰も見ていなかった、それを誰かに言うわけでもないから褒められる事もなく、本人にしては当たり前のようだった。それを偶然にも親の私が目撃できたことが、ここ最近の一番の幸せ。 そして娘を長いこと勘違いしていた自分を反省...。忘れないようにメモ。』


 この投稿には、ママの友達から沢山の反響があったが、それにママが書いた返信によると、「連れてってあげてるのは何でって聞いたら、前に階段で転んでるのを見て、その日から毎日連れて行ってあげてるとのこと」だそうだ。幼い個性的なKちゃんもいろいろ考えている。私たちは、アメリカ大統領がトランプになって次男のような出稼ぎはどうなるのか、あるいは様々な対立が激しくなってテロでも起きないかなどと、次男のNY行きを心配しているが、そういう心配はともかくとして、正月にまた一段と成長した元気な孫たちに会うのを楽しみにしている。

◆◆◆
 さて、京都行きの話に戻る。まだ宇治平等院を見たことがないというので、今回の旅はここをメインにして、3日間の旅程の中に、いろいろ紅葉が見られそうな神社仏閣をアレンジした。最初の日は、昼過ぎに京都についてまず秀吉が建てた二条城へ。幕末に徳川慶喜が諸国の主立った大名を一堂に集めて大政奉還を決めた二の丸御殿の大広間を見たり、歩くと音の出るウグイス張りの廊下などを見学した。二条城の庭は松と池が主だったところで目立った紅葉はないが、池のほとりでは庭師たちがソテツをわらで包んで冬支度をしていた。銀杏木立の下は一面の黄色い絨毯のようになっている。
 ついで、一般公開している京都御所へ。中に入ったのは初めてだったが、歴史に登場する紫宸殿や小御所などを見学。庭の一部には紅葉(もみじ)がまだ色づいていた。その後さらに地下鉄で錦市場がある錦小路通りへ。アメヤ横町のように観光客でごった返す賑やかな通りを、各地の名産を眺めて歩いた。ここも例に漏れず、多くの外人観光客がいたが、中には男女それぞれが日本の着物を着て歩いている中国の観光客もいる。その日は、それでホテルへ。

 翌日は、世界遺産・宇治平等院鳳凰堂を見学した。JR奈良線の宇治駅で降りて平等院まで歩き、池に映った鳳凰堂のまわりを散策し、ついで限られた人数ごとに鳳凰堂の中に入り、阿弥陀如来を拝観した。藤原道長の子、藤原頼道によって寺に改修された平等院だが、お堂内部の壁面いっぱいに優雅に空を舞うように52体の菩薩像が如来を囲んでいる。紅葉に彩られた平等院の極楽浄土を思わせる全体像と合わせて、平安時代の人々の浄土信仰への熱き思いを感じた。ついで、平等院から宇治神社、宇治上神社と歩き、さらに宇治から電車に乗って紅葉で名高い東福寺へ。
 寺の境内の紅葉を見てから小さな谷一面の紅葉を見渡せる天通橋をわたる。残念ながら紅葉は半分ほどが散ってしまっていたが、地上に降り敷いたもみじの葉と合わせてみれば、なかなかな見物ではあった。この日は、さらに欲張って高台寺まで足を伸ばした。東福寺駅から、今度は京阪本線に乗り換え、祇園四条まで行き、そこから歩いて高台寺へ。秀吉をまつるために北の政所が建てたという寺で、二人の霊廟がある。ここも、紅葉で名高い寺で多くの外国人が観光に来ていた。その日は、これで京都駅にあるホテルに戻ったが、万歩計を見ると14キロほども歩いた計算になった。

◆◆◆
 最終日は、午後3時半に新幹線に乗る予定だった。幸いに天気も良かったので、朝食を取って一休みした後に、荷物を預けて京都駅から東寺まで歩いた。東寺は前にも行ったことがあるが、紅葉で名高いという寺ではない。それでもカミさんは是非行きたいという。境内に入ると、見所である五重塔、金銅、講堂が広い敷地に点在している。50歳の時にこの寺を預けられた弘法大師空海が、精魂を込めて作り上げた密教寺院。五重塔内部や講堂の内部には、立体曼荼羅として有名な密教空間がある。大日如来を中心に据えて、周りを諸仏が取り囲む。平面的な曼荼羅図ではなく、実際の仏像で密教世界の宇宙観を表現した壮大な試みである。
 五重塔の内部は、巨大な太さの中心柱を大日如来に見立て、その周りに諸仏が並ぶ。また講堂の方は、中心の大日如来の周りに19の諸仏を配置してある。うち、15体が国宝である。普通、国宝というと距離を持ってしか鑑賞できないが、ここでは何の隔たりもなく、ごく身近に仏様たちを拝むことが出来る。その仏様たちも、美術品というようなものではなく、ごく自然な宗教的空間に信仰の対象としてそこにあった。薄暗い講堂には、数人しか見学者がおらず、私たちは如来さまの前の壁の縁に腰をかけてしばらく20体に上る仏様たちを眺めていた。

 その時、カミさんがぽつりと「今回の旅行ではここが一番良かったみたい」と言った。宇治平等院も含めて、半ば京都の有名な紅葉を見に来たわけだが、それから考えるとちょっと意外な感想だった。今回、訪ねた所を順序立てて見ると、(一日目)二条城⇒京都御所⇒錦市場通り。(二日目)平等院鳳凰堂⇒宇治神社⇒宇治上神社⇒東福寺⇒高台寺。(三日目)東寺⇒東本願寺となる。濃密な3日間で、毎日10キロを超す距離を歩いた。その後、カミさんの体調はいまいちだが、夏の孫疲れも含めて、ちょっと無理をしたかも知れないと反省もしている。しかし、念願の平等院も見たことだし、空海の作った立体曼荼羅の仏様たちも拝見できたことだし、良かったのではないかと思っている。

娘のお産に付き合った80日 16.11.2

 お産のために帰省していた娘が9月11日に出産し、翌月22日に生後40日になる新生児を連れて婚家に戻って行った。帰省から出産、そして婚家に戻るまでの80日間。娘の出産に付き合うのはもちろん初めて、また、2人の息子の場合は奥さんが先方で出産したので、生まれたばかりの赤ちゃんを身近に見続けたのは34年振りになる。それらが一段落したので、娘の出産と育児、自分の健康問題、そして日常活動など、この2ヶ月あまりの出来事を整理しておきたい。

◆出産
 7月下旬、去年の10月に結婚して家を出ていった娘が身重になって戻って来ると、家の中がどことなく賑やかに和やかになった。はち切れそうに大きくなる娘のお腹を眺めながら、間もなく娘が母親になることが、何となく不思議なようにも思えて、楽しみな反面、中々実感がわかない。お腹の中にどんな赤ん坊が入っているものやら、男の子であることは分かっているが、時々、娘が「いま、お腹を蹴った」などと言うのを聞きながら、想像するばかりである。
 出産の半月前には、ちょっとした出血があり、胎児を安定させるために薬を飲み続けて、それも収まったのだが、予定日が近づいてもお産の兆候は全くなかった。娘も初めてのことなので歩くなりして身体を動かす方がいいのか、そうでないのか、不安そうだ。こちらは、口では「案ずるより産むが易しだよ」などと言っているが、内心ではハラハラしていた。カミさんの場合、上2人の息子は実家で産み、娘はこちらで産んだ。その時にもこんなに気がもめたのかどうか、もう記憶は定かでなくなっている。今回は娘の大きなお腹を見ながら、果たして、いつどのようにして、どんな子が生まれてくるのか、気をもみながら待つしかなかった。

 予定日から早まること4日。その日の朝9時頃に破水が始まった。娘とカミさんをタクシーで近所の産婦人科に送り出してから、市内のパソコン屋に出かけて契約の見直しなどして戻ると、午後5時半頃、メールで分娩室に入ったという知らせが届いた。そこで私も病院に行って待っているうちに、娘の旦那さんも駆けつけ、分娩室に入った。6時47分、分娩室から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきて、生まれたことが分かった。やがて出てきた旦那さんが肩で息をしている。聞くと、何だか助産婦や医師の手順が悪く現場は大変だったらしい。30分ほどして、看護師が生まれたばかりの赤ちゃんを抱いてきた。その元気な顔を見て、やっとほっとした。

 この病院は、小さいながら市内でも知られた病院で年間2000人を超える新生児が生まれている。一日に6〜7人も生まれるわけで流れ作業のようにお産が続く。それにしても、無事に生まれて良かった。それから、毎日のように病院に寄って娘の様子や赤ん坊の様子を覗いたが、母子とも順調で4日目には退院。いよいよ娘の子育てが始まった。触るのも怖いような小さな命に、数時間ごとに母乳やミルクを与える。毎日、たらいを使って風呂に入れる。おしめを替える。どこで習ったものか、初心者の娘もそうこうしているうちに、たちまち母親らしくなったのには、内心驚いた。
 もちろん、カミさんの方も泣いている赤ちゃんを抱いたり、粉ミルクを溶いたり、あれこれ手伝っている。しかし、3人の子どもを育ててきたのに、生まれてすぐの赤ちゃんをどう世話したのか、殆ど覚えていないという。それだけ無我夢中だったのだろう。こっちは、自分の子供たちの時と同様に眺めるばかりで何の役にも立たない。もちろん、夜中も赤ちゃんはおとなしく寝てくれない。時間が来ればお乳が欲しいと泣く。睡眠を確保するために夜は娘たちと分かれて寝たが、もういい歳になっているカミさんは、自分の子育ての時と違って最後の頃はへとへとになっていた。

 娘の旦那さんが家にやってきて、半紙に子どもの名を「倖大(こうだい)」と上手に書いた。それを額に入れて枕元に置く。彼は来るたびにうっとりと赤ちゃんを抱いていた。そうして一ヶ月もすると、赤ちゃんは綺麗な顔つきになって、ずっしりと重くなった。あやしながら話しかけているうちに、表情も驚くほど豊かになった。一ヶ月過ぎたところで、次男一家5人が賑やかに赤ちゃんの顔を見に訪ねてくれたが、去年の4月に生まれた3番目の創多君(彼が生まれた頃の話は「70歳の大台に乗って」)は、もうしっかりと歩くようになっていた。日々の子育ては大変に違いないが、子どもの成長の早さには驚くばかりだ。娘が婚家に帰る1週間前に、大宮の氷川神社で先方の両親とともにお宮参り。赤ん坊は、その間ずっとすやすや寝ていた。

 さて、ようやく私も「だっこ」しながら、孫をあやすようになったと思ったら、もうお別れである。その頃にはカミさんの疲れもピークに達していた。娘も結構大変だったようで、ある時には、疲れからか夜に嘔吐と下痢を繰り返して、(食中毒ではないかと)ひやりとする一幕もあったが、立ち直る姿はもうすっかり肚の据わった母親だった。母子が帰ってみると家の中ががらんとして寂しくなった。つい、孫が寝ていた部屋を覗いてしまうが、そこに孫はいない。それにしても思うのは子育ての大変さだ。娘のように実家に戻ってお産をすればまだしも、何の手助けもなく一人で生まれたばかりの乳幼児を育てるのがいかに大変か。今更ながら、子育ての厳しさを痛感させられた。

◆日常生活。コラムのこと
 娘のお産と育児の間も、私の方は相変わらずの日常が続いた。お産までは、しばらく飲み会も控え神妙に暮らしたが、出産後は結構羽を伸ばして、夜遅くまで出歩いてカミさんに目玉を食らったりした。男というものは変らないものである。4月20日に前立腺がんの摘出手術をしてから半年、ありがたいことに、ようやく尿漏れもなくなった。検査でもPSA値はゼロに近い値になっている。8月、9月には懸案の人間ドックと大腸検査を行い、まあまあのお墨付きを貰った。月末には、スコアは散々だったが一年ぶりにゴルフもやった。週二日の仕事をこなし、時々は地元の市議たちとの集まりにも参加した。宿題だったカナダの「国立人権博物館@〜B」を書き終え、新聞切り抜きをして幾つかのコラムも書いた。「天皇の生前退位」、「子どもの貧困」、「時代の行方」、そして、孫たちの世代にとっても大事な「地球温暖化防止」、「核兵器廃絶」、「原発を巡る動き」などなど。頭の芯が疲れるテーマが続いた。

 話は変るが、先日NHKの友人が去年の3月に放送された「歴史秘話ヒストリア 銃声とともに桜は散った」DVDをくれた。彼は、かつて私が『映画「桜田門外ノ変」のメッセージ』を書いたのを読んでくれていて、私に見るようにと勧めてくれたのである。番組は、明治維新の8年前、1860年に起きた「桜田門外の変」で、井伊大老の命を奪った黒幕について推理したものだった。最近発見された桜の文様が彫り込まれた一挺の短銃から、事件の黒幕が水戸藩の徳川斉昭であったことを、事実を重ねて追い詰めていく。見事な番組だった。私は、友人にお礼のメールを送るとともに、かつてのコラムを読み直し「6年前にこういうことを書いていたのか」と感慨深いものがあった。同時に、自己満足に過ぎないのは分かっているが、これまでのコラムを自費出版したいと言う思いが改めて頭をもたげてきた。年明けから準備しようと思う。

◆「孫疲れ」を癒やす旅
 娘が帰った翌日に、私たち夫婦は気分転換もかねて、長男の次女のピアノの発表会を見に秦野市まで遠征した。長男一家は8月に訪ねてきて娘の大きなお腹を見ていたので、2人の孫娘たちに生まれた赤ちゃんの写真を見せたりした。その日は、奥さんの両親と我々とで、そば屋で食事をした。中一と小五の孫娘たちも、見違えるように少女らしくなった。それぞれの親たちの愛情をたっぷり受けて、6人の孫たち皆が同じように可愛いく育っていて、子育てと孫育てに殆ど貢献していない私は、いくら感謝してもしきれない思いでいる。「孫疲れ」したカミさんについては、まあ、お疲れさんと言うことで、11月末に2人で2泊の旅行に行く計画を立てたところである。

カナダ国立人権博物館B 16.9.19

 人権博物館は、テーマがテーマだけに多くの専門家の議論が戦わされ、国民もその議論に参加する形で展示物の選定や展示法が決められてきた。国民から人権についての多様な意見を募集することも行われた。それは、今でも続いている。展示場の一角には見学者が自由に人権についての意見をビデオに残せるブースがある。これには既に数千人の声が収録されていて、見学者は誰がどんなことを言っているのか、見ることが出来る。あるいは、メッセージをカードに書いて残していくコーナーもあり、数万のカードが寄せられているという。こうして、博物館は多くの人の意見に耳を傾け、あるいは多くの人々の参加によって、ともに人権とは何かを考えようとしている。









 それを象徴的に表した作品が博物館の天井から吊り下げられた「Trace」(レベッカ・ベルモア作)だ。これは、博物館が建てられた「先住民の聖なる土地」の赤い粘土(建設残土)を一人一人が手で握って作ったビーズを結んで吊り下げたものだ。このビーズ作りには1万人以上が参加したと言うが、粘土に自分の手型を残しながら、各人が人権について話し合うという趣旨の作品になっている。その膨大な量感に圧倒される。









 後日、人権博物館の広報担当者のモリーン(Maureen Fitzhenry)さんに、博物館が目指すところを聞いた。彼女は、「カナダは、今は世界の中でも人権意識が高い国だと思われていますが、過去には大変な過ちも犯してきました。先住民や日本人に対する差別、あるいはユダヤ人の入国拒否などの過去も抱えています。その事実を直視して世界にメッセージを発したい。そしてカナダはその先駆的な存在になりたいのです。人権がなぜ大切なのか、どうしたら守っていけるのか、ともに考え、理解し、教育に役だって行きたいと思います」という。
 また、「展示では、カナダ中の問題を扱っています。内容によっては、暗く、気持ちが沈むものもありますが、希望やインスピレーションを得るなど、バランスも考えています」、「人権について、押しつけるのではなく、事実を見ることによって考えてもらう。あるいは、違う見方や違う意見を議論して欲しいと思います。そういう場になって欲しいと思います」。

 さらに、「世界で唯一の国立の人権博物館として、ここが人権を考える上での(ネットワークの中心に位置する)“世界の中のハブ”になりたいのです」という。そのために「随時、新しい問題にも取り組みます。例えば、先住民の権利問題などは、この夏に取り入れました。ただし、ニュースメディアではないので、ある程度時間をおいて評価の見通しがついてからになりますが」とも。人権博物館の志(こころざし)の高さがうかがえる言葉だった。
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 その一つの表れだろうか。博物館は現在、女性の教育を受ける権利を主張して銃弾を受けた、マララ・ユスフザイの血染めの制服を2017年3月までの期限付きで提供を受け、展示している。ご存じのように、マララはパキスタンでイスラム過激派(タリバーン)が支配する地域に住みながら、その主張を持ち続けて過激派にらまれ、2012年10月9日にスクールバスに乗っていたところを襲撃された。15歳の時だった。奇跡的に一命を取り留め、その後ノーベル平和賞を受賞している。世界的に注目された少女が、その時来ていた血染めの制服。それが今、人権博物館に彼女からのメッセージとともに展示されている(写真は博物館のニュースリリースから)。人権に関してメッセージを発する“世界のハブ”になりたいという、熱い思いが伝わってくる展示である。

 7階にある最後の展示「Inspiring Change」(変化を触発する、とでもいうのだろうか)は、社会へのポジティブな変化に関して、各人に何が出来るかを問いかけるコーナー。人権に関する様々な展示物や映像を見た人々に、よりよい世界を築くための役割について考えるよう促している。そのコーナーを巡ると、いよいよ「希望の塔」に上るエレベーターの入り口になる。塔は98メートルあるが、その途中にある展望台からは、ウィニペグの市街とその向こうに広がる平原が見渡せる。その昔、カナダの先住民がここに居住地を設けて暮らした「聖なる土地」が一望できる。









 カナダは2017年に建国150年を迎える若い国だが、多様な民族と価値観を受け入れる過程で、様々な“現代的試練”を経験してきた。その一つが現在の人類的課題でもある「人権」というテーマである。カナダはその若い国にふさわしく、過去のしがらみを振り捨ててこの難しいテーマに向き合ってきた。そして、国立人権博物館は、その先頭を切って真正面から人権問題に取り組もうしている。その取り組みの真摯さを見ると、カナダの国立博物館が国のアイデンティティの構築に果たそうとしている、ある種の「使命」のようなものが見えてくる気がする。(終わり)

カナダ国立人権博物館A 16.9.19

 7層になったフロアの11の展示場へはエレベーターもあるが、上下の階をつなぐ大理石の“光る回廊”を歩いていける。表面が半透明の石膏で覆われたスロープになっていて、内側からその表面が柔らかく光る仕掛けだ。見学者はこの回廊を歩きながら見てきた展示フロアの全体を振り返って俯瞰出来るようになっている。さっき見た内容を反芻しながら次の展示フロアに向う。人権という深くて重いテーマをゆっくりと噛みしめながら見ていくのに適した構造といえる。全部を歩くと回廊の長さは800メートル。そして最終的には「希望の塔」の入り口にたどりつく。

 人権について表現した沢山のパネルを並べた展示場と同じフロアに、博物館で一番広い展示場がある。そこは、カナダが過去に経験してきた様々な人権侵害を振り返るギャラリーだ。これまでカナダ国家が認定したカナダの人権侵害の事例は75件あるが、ここにはその中から18の事例を展示している。
 例えば、先住民を強制的に寄宿舎に入れて欧米化しようとした差別的扱い、鉄道建設のために移住した中国人の過酷な労働(写真)、戦時中の日本人の強制収容所、宗教的差別、ハンディキャップを持つ人々への差別、奴隷貿易でアメリカに連れてこられた黒人の受け入れに対する差別、ケベック分離独立運動などで逮捕された無実の人々、イヌイットへの差別との戦いなどである。












 こうした18の事例が、残された品々や写真のパネル、大画面の映像や彫刻など、様々な展示法で紹介されている。中には黒人女性が乗車拒否されたり、虐待されたりしたケースを、赤いドレスを林の中につるして並べるという象徴的な表現で示しているコーナー(写真)もある。展示法の一つ一つにアーティストたちの参加が感じられる場所である。


 日系カナダ人の強制収容所とは、第二次世界大戦の開戦にともなって当時カナダに住んでいた2万人を超える日系人の6割近くが、敵国人として財産を没収され、ロッキー山脈の東に強制的に移住させられたケースを言う。ここには、当時の日系人が僅かな手荷物だけで収容所に入れられたことを物語る品々、収容所での人々の生活、そして戦後の権利回復運動の写真などが展示されている。
 この人権侵害のケースについては、1980年代になってから、全カナダ日系人協会を中心とした賠償請求運動が始まり、1988年には当時のマルルーニー首相が公式に謝罪し、賠償金を払うことが決定した。この最も広い展示場は、こうしたカナダの人権侵害の歴史を直視し、その教訓を次の世代につなげていくことを目的としている。










  4階のフロアには、人類史上最大の人権侵害と言うべきホロコーストの展示場がある。第二次大戦中のドイツ・ナチによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を考えるコーナーだ。ドイツのホロコーストのもとになった反ユダヤ主義(アンチセミティズム)は、ドイツだけものではなく、ユダヤ人に対する差別はカナダにも見られた。例えば、ユダヤ人を毒キノコだと記した子ども向け教科書さえあった(写真)。










 隣のコーナーへ行くと世界の「ジェノサイド」の展示がある。ジェノサイドとは、ユダヤ系ポーランド人ラファエル・レムキンが造った言葉で、「国民的集団の絶滅を目指して、その集団にとって必要不可欠な生活基盤の破壊を目的とする様々な行動全体」を指すと言うが、多くは強制的な排除による民族浄化や同化政策による抹消、そして大量殺戮までも含む。現代になっても世界は、様々なジェノサイドを経験してきた。ここには、カナダが考えた5つの例(ウクライナ、アルメニア、ルワンダ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ユダヤ)のジェノサイドが取り上げられている。
 展示されているのは飢餓に苦しむ少女の像(ウクライナ、キエフにあるもののレプリカ)。こうした人権侵害の被害に遭うのは、いつも女性と子どもだった。これらのギャラリーは内容が深刻なだけに、見学者も静かに展示に見入っていた。

 博物館の展示は、こうした深刻な人権侵害の事例ばかりではない。こうした人権侵害に対抗して、人権を守るために立ち上がった人々の歴史やそれによって出来た法制度などを映像や資料で見るコーナーや、子供たちがお互いに助け合うことの大事さを双方向のゲームで楽しみながら学ぶコーナーなどもある。案内のジョゼフさんによると、この博物館はモノの展示より、むしろこうした映像や双方向の展示などの方が充実していると言う。100時間におよぶビデオやフィルム、2500枚の画像、19の双方向デジタル展示、10万語に上る原典(本)などをそろえている。
 そして、深刻な展示の合間に一息ついて考える「熟考の庭(Garden of Contemplation)」が3階に設けられている。ここは、モンゴルから運んできた600トンもの柱状の玄武岩を並べた庭と池になっている。見学者たちは、ここでしばし、平和と人権を守ることの大事さを思うことになる。(つづく)

カナダ国立人権博物館@ 16.9.19

 カナダの5つの国立博物館のうち、最も新しくオープンしたのが国立人権博物館だ。カナダのほぼ中央、アメリカとの国境近くにあるウィニペグ市にできたこの博物館は、首都のオタワ以外に出来た初の国立博物館になる。オープンは2014年9月。ウィニペグを流れる2つの川が交わる地点から僅かに下ると、橋の向こうにユニークな姿をした建築が姿を現す。このあたりは、かつてカナダ先住民の「聖なる土地」だったところで、発掘調査では6〜7千年前の土器などの発掘品が40万点も出てきたという。そうした歴史の物語を持つ風景と斬新な建築とが違和感なく融合しているのが不思議だ。

 建物の設計者はAntoine Predock(アメリカ)。12カ国から集まった60の応募案の中から選ばれた。特徴的なのは、幾重にも重なった局面のガラスで覆われた壁と、高い塔である。入り口の方向から見ると、鳩が羽をたたんで休んでいるようにも見える。設計者はロッキーマウンテンなどカナダの自然に触発されたというが、例えば、建物から四方に伸びるスロープはカナダの大草原をイメージしている。また、高い塔(希望の塔)は遠いところからでも見える灯台、それも人権の望ましいあり方を教えてくれる道しるべの役割を持つ。建物に入って下から眺めると分かるが、この塔は暗いところから明るいところへ導く道しるべでもある。

 世界唯一の国立人権博物館が、なぜウィニペグに出来たのか。それはウィニペグ出身の実業家で、文化・福祉の支援者(篤志家、フィランソロピスト)のIzzy Asper(1932-2003)が追い続けた夢の結果だった。ユダヤ人の彼はアメリカ・ワシントン市にある「米国ホロコースト記念博物館」に学生たちを送って教育を行ってきたが、いつかカナダにも人権を考える博物館を作りたいという夢を抱き基金も作った。その願いは、彼が亡くなった2003年以降も娘のGail Asperに引き継がれ、2008年には国家事業として認められる。ウィニペグの人々を中心に集められた(日本円にして)150億円の寄付も生かして博物館は完成した。

 人権という極めて扱いが難しいテーマをどう展示し、どのように説明するのか。博物館は、何年にもわたって議論を続けてきた。その結果を知りたいと早速、案内のジョゼフ・ペロクィンホフナーさんについて博物館に入ってみると、まず建物の模型を置いた広い空間に出た。周囲に椅子なども置かれていて、見学者たちが待ち合わせしたり、くつろいだりする空間になっている。そこの壁には、カナダ先住民の12の言語を含め、36の言葉で表現された「ようこそ」が映し出されていた。多民族で成り立つ世界とカナダの多様性を意識した「ウェルカム・ボード」である。

 そして隣の展示室には、人権について語られた(肯定も否定も含めた)100以上の記述が語った世界の著名人の写真とともに、年代順にパネルになって並んでいる。案内のジョゼフさんによれば、地球上に70億人いる人々が、それぞれの考え方を持っている。その人々が何に同意し、何に同意しないか。このパネルを見ることによって見学者自身が自らに問うことになる。博物館は、人権について見学者と一緒に考える方針であり、見学者の自由を尊重する。つまり、上から見下ろすようなことをせず、考えを押しつけない。それが、他の博物館と違うところだと言う。









 そして次に世界人権宣言の第一条のパネルが現れる。「All human beings are born free and equal in dignity and right」(すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である)。1948年に国連が作成したこの人権宣言は起草委員会の主要メンバーの一人だったカナダ人(ジョン・ピーターズ・ハンフリー)によって英語版の草稿が作られた。ジョゼフさんは「まだ実現されない理想」だと説明してくれたが、これが人権博物館を作る上での一つの指標となっているのだろう。
 その理想に向かって様々な角度から展示物や展示法を検討してきたという。1700人の人々にインタビューし、専門家、学者、活動家、アーティストなどにも相談した。委員会を作り、先住民、教育者、学者、若者、大学などから理事会に参加して貰いながらアドバイスを受けている。人権、それも世界規模の人権について真正面から取り組もうとすれば、それだけ膨大で緻密な検討が必要になる。さて、こうした取り組みのもとに、具体的にはどのような展示や展示法が採用されたのか。それを次回に見ていく。(つづく)