日々のコラム 前頁> <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

対米従属の中の列強願望 15.3.26

 前回の最後に、『(安倍政権が目指す安保法制と、憲法9条の)基本理念の対立の根底にあるのは、安倍が言い続けている現行憲法に対する「違和感」だ』と書いた。その「違和感」とは何なのか。それは、安倍が掲げる「戦後レジームからの脱却」のもとにもなっているものだが、安倍の「美しい国へ」「新しい国へ」(文春新書)を読むと、彼らが安保法制改正の表向きの理由として上げている「国際情勢の変化」などよりはるかに以前から、彼らに取りついている観念だと言うことが分かる。
 現行憲法を敵視して、それから脱却したいと考える彼らのobsession(執念、強迫観念)にも似た観念は、一体どこから来ているのか。同時に、そういう観念によって意図される安保法制や憲法改正は、日本をどこへ連れて行こうとしているのか。憲法改正への動きがいよいよ急になって来た今、私たちは憲法に対する彼らのobsessionの真実(内実や由来)を知っておく必要があると思うのだが、様々な解説によると、それは(特に安倍において)歴史のトラウマを引きずる、かなりメンタル(心理的)な要因に由来するらしい。 

◆現行憲法に対する敵意と、自民党改憲案の実体
 安倍の現行憲法に対する敵意は、それを押し付けた占領軍(GHQ)への敵意から生まれている。(私には、こちらの方が自虐史観のように思えるが)「連合軍の最初の意図は、日本が二度と列強として台頭することのないよう、その手足を縛ることにあった」(「美しい国へ」)とし、また、「恒久の平和」や「崇高な理想」を“ちりばめた”憲法前文を皮肉って、それは敗戦国としての連合国への“詫び証文”のようなもので、「アメリカを始めとした列強戦勝国に対する妙にへりくだった、いじましい文言になっている」と批判する(「新しい国へ」)。
 特に戦争の放棄を定めた憲法9条については、「アメリカは、自らと連合国の国益を守るために、代表して、日本が二度と欧米中心の秩序に挑戦できないよう、強い意志をもって憲法草案の作成にあたらせた」とし、従って「憲法9条の規定は独立国としての要件を欠くことになった」と主張。こうした安倍の被害妄想的な認識は、自民党の改憲思想を代表するものであり、「(1955年の)自民党の結党は、占領軍から押し付けられたものではない、自前の憲法をつくるべきだという、まさにこの目的を実現するためのものだった」(「美しい国へ」)とまで言っている。(*押し付け論の実体については「敗北を抱きしめて」に詳しいが、憲法を考える」にも書いた)

 こうした現行憲法に対する敵意は、憲法前文の拒否にもつながって行く。すなわち、『われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する』という前文である。3年前に作られた自民党憲法草案(平成24年4月)を見ると、こちらの憲法前文からは、先の戦争への反省はきれいに抜け落ちている。
 さらに憲法9条案では、追加の条文で「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」(9条2)とし、自衛隊を国防軍にする。同時に、主に軍人からなる軍法会議(軍事法廷)を復活させ、また、「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない」(9条3)の中の「国民と協力して」を足場に、徴兵制の可能性さえ匂わせている。

◆国粋保守の深層心理
 こうした自民党の憲法草案を踏まえて、最近の安倍の「わが軍」発言や、度重なる「(自衛隊の発動は)内閣総理大臣たる私が責任を持つ」などの発言、そして三原じゅん子など安倍シンパの「八紘一宇(アジアの盟主)」発言を聞くと、安倍自民党は「気分はすでに新憲法」状態になっているとしか思えない。池上彰と佐藤優の対談「新・戦争論」では、あくまで集団的自衛権にこだわる安倍について、祖父(岸信介)の悲願を叶えたいという執念と絡めて「まさに“心の問題”です」と言っているが、安倍を筆頭に日本の国粋保守には、戦前戦後の岸が目指したような「列強願望」が根強く生き残っている。

 その心は、日本の「列強願望」の復活を拒否した、アメリカ占領政策への反発であり、同時に、アメリカによって骨抜きにされる前の「強い日本を取り戻す」ことである。それは、突き詰めれば「敗戦」という現実の否定に傾いて行く。この間の心理的経過は、白井聡(文化学園大学)の「永続敗戦論」に詳しいが、戦前から戦後にかけて戦争責任をあいまいにして権力中枢に居座った日本の旧体制(国粋保守に特有の心理だという。
 彼らは、戦後も占領軍によって身分保障された結果、アメリカに対する敗戦は認めるが、アジアの国々に負けたとは思っていない。アメリカに対しては「原爆でやられたんだから仕方がない」と敗戦を認める一方で、アジアへの侵略については「自存自衛」とか「八紘一宇」のための戦いだと言って、侵略の罪を認めようとしない。アジアへの居直りとアメリカへの従属(敗戦意識)がセットになっているわけで、アジアへの罪の意識を逃れるために、アメリカへの従属(敗戦)が永久に続いていくというのが、「永久敗戦論」である。アメリカ側から見れば、実に都合のいい図式が続いている。

◆「対米従属の中の列強願望」という心理的あつれき
 安倍たち国粋保守は先に見たように、アメリカの占領政策を憎みつつ、自主憲法によって真の独立を果たし、明治以来の列強願望を満たそうとしている。しかし、その一方ではアジアとの関係を清算できずに、対米従属を続けて行かざるを得ない。そう言えば、安倍の唱える「積極的平和主義」も、集団的自衛権や周辺事態を削除した「安保法制」も、一皮むけば内実は、どこまでもアメリカに追随して世界の警察の補佐役として認められたい、というものである。
 そこまで、アメリカに忠義立てしないと、アメリカは尖閣を守ってくれない、というのが彼らの言い分だが、深層心理的には尖閣が問題になる以前から一貫した心理なのである。ただし、アメリカによって認められたいばかりに言うままになる、という対米従属と、アメリカの戦後政策に反発して、自立した強い国になりたいという列強願望とは、かなり矛盾した心理状態である。それが時々暴発する、という危険もはらんでいる(白井、内田の「日本戦後史論」)。

 その暴発が、(靖国参拝、尖閣、歴史認識などで)敢えて中韓との緊張を高めて、アメリカを試す危険な冒険主義を生む(それは中韓の反発を招き、結果的に一層アメリカ従属を強める)。敗戦の現実を直視せず、敗戦に対する責任と反省をあいまいにし、アジアへの侵略をやむを得なかったと考える国粋保守の思考様式は、今や、(一見心地いいだけに)政治家だけでなく、国の至る所に蔓延している。しかし、一方では、こうした「対米従属の中の列強願望」の行きつく先に待っている、より巨大な暴発(戦争)を心配する人々もまた多い。安倍政権が、2年以内に予定する「憲法改正」に向けて、この両者が国論を二分して激突する時期が迫っている。。 

◆日本民族の原点は、「敗戦」と「原発事故」
 (蛇足ながら)ここで私の意見を言えば、以下のようになる。日本は近代に入ってから2度、人為的な愚かさから、まかり間違えば国家と民族が滅びるような未曾有の危機を経験した。その危機とは、言うまでもなく大東亜戦争(太平洋戦争)での敗戦と、3.11の原発事故である。その現実を直視し、そうした過ちを二度と繰り返さないというのが「日本の国是」であるべきだし、その決意を持って、この先の「国のかたちと進路」を決めるのが、為政者が取るべき道だろう。
 戦争で言えば、まず塗炭の苦しみを嘗めさせた自国民に対して謝罪と反省を行い、同様にアジアへの謝罪によって責任を清算する。そう考えて、一頃までの日本は平和主義を貫いてきたし、そのことが国の未来を開いても来た。そのようにして、これからもアジアとの緊張関係を積極的に打開すれば、日本はより自由になる筈だ。アメリカとより対等の関係を作れるし、過度の従属もしないで済む。私たちは日本民族の存続のためにも、この2つの危機の原点に常に立ち返ることを忘れてはならないと思う。

憲法と安保法制の危険な関係 15.3.18

 今国会での成立を目指して、日本の安全保障法制についての与党間協議が怒涛のように続いている。去年7月1日の集団的自衛権の閣議決定を受けて、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備を行う」というのが謳い文句だが、自衛隊の武力攻撃についての法改正や自衛隊の海外派遣についての法改正など、本来なら内閣が幾つあっても足りないような重大な改定を一気に片付けようとしている。その内容たるや、新聞解説を熟読しても、なかなか頭に入らない複雑怪奇なものでもある。
 今回はそれを私なりに整理してみたいが、こうした分かりにくい議論をこんなに拙速で進めて、果たして国民の理解が得られるのだろうかと思う。さらに問題だと思うのは、安倍政権が進めている安保法制と現行憲法との危うい関係である。良く見ると、(自衛隊の武力行使の機会と展開地域を拡大する)安保法制の根底にある理念と、憲法9条の根底にある理念とは、互いに大きく方向性が違っていて、基本的に相入れないように思える。とすると、今の日本は法治国家として、かなり危険な水域に足を踏み入れようとしているのではないか。 

◆“切れ目なく”自衛隊を使うための「安保法制」の大改訂
 議論になっている安保法制の骨格は、大きく言って@自国への攻撃から国民を守る(個別的自衛権)、A自国を守ってくれそうな他国が攻撃された時に他国を守る(集団的自衛権)、B自衛隊の海外派遣によって国際平和に貢献する(後方支援やPKO)の3つがある。去年の7月に、憲法解釈を変更して「集団的自衛権」を閣議決定したことから、安保法制を整備して、@、A、Bのすべてに於いて、“切れ目なく”自衛隊を使えるようにしたいと言うのが安倍政権の考え方である。これが成立すると、従来に比べて自衛隊の武力行使の機会を広げ、出動する地域も使用する武器も拡大することになる。

@ 集団的自衛権を盛り込む(武力攻撃事態法)
 まずは、去年の7月に従来の「自衛権の範囲」を拡大解釈して閣議決定した、集団的自衛権の法制化である。具体的には、自衛隊の発動や待機などの事態を規定する「武力攻撃事態法」の中に、新たに「新事態(存立危機事態)」の文言を盛り込んで、日本が攻撃されていなくても、要件を満たせば、攻撃された他国を守るために自衛隊を発動できるとする。この場合の要件とは、自公で合意した「日本と密接な他国への武力攻撃が発生し、日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」などの3要件だが、それを法律用語にして書き入れる。

A 後方支援、派遣地域の拡大(恒久法、周辺事態法、PKO協力法)
 さらに、自衛隊の海外での後方支援や国際貢献について3つの法案の新設や改正がある。安倍政権が唱える積極的平和主義に基づき、いつでも、どこへでも自衛隊を派遣しやすいようにする。
 まずは「恒久法」の新設。「国際社会の平和と安定」という名分で、戦争中の他国軍に対する後方支援や、人道復興支援に自衛隊を使うための法整備である。これはその都度、“時限立法”にして国会承認を得て来たのを、必要な時にいつでも海外派遣が出来るように“恒久化”する。派遣の条件についても、国連決議のある場合だけでなく、国際機関の要請でも可能とする。
 もう一つは「日本の平和と安全」を目的とした周辺事態法の改正である。周辺事態とは、日本への直接的な武力攻撃はなくても、「日本周辺で日本の平和と安全に重要な影響を与える事態」なら、自衛隊が米軍の後方支援に出動出来るとしたものだが、新法案ではこの周辺事態と言う文言を撤廃する。地理的制約をなくして、地球上どこへでも派遣できるようにする。さらに、自衛隊法も改正して、後方支援の対象を米軍だけでなくオーストラリア軍などにも拡大し、武器弾薬の提供や航空機への給油なども出来るようにする。

 3つめは、国際貢献を目的とした「PKO協力法」の改正。これは、国連平和維持活動(PKO)における自衛隊の活動範囲を広げ、人道的な復興支援のほか、「停戦監視」や「安全確保」の治安維持任務も担うようにする。そのために、武器使用権限を「隊員の生命・身体を守るため」以外にも、「任務遂行を妨害する行為を排除するため」にも認める。これによって「武器の使用は、要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られる」とした、いわゆるPKO五原則も変わるという。

◆なぜ今、安保法制を急ぐのか?
 以上みて来た安保法制は、3月20日に自公による大筋合意、統一地方選挙後の4月末に原案作成、5月中旬に一括して国会に提出、という段取りになっている。戦後70年の歴史の中でも例を見ない大改訂が、わずか一カ月あまりの与党協議で骨格が決まろうとしている。これについては、「改正とは名ばかりで、法律を作り替えるような内容だ」(毎日社説2/21)や、「急ぎ過ぎ、詰め込み過ぎ」(同、3/6)、「このままでは(これまでの)安保政策の安定性まで失いかねない」(朝日社説、3/14)などといった批判が出ていた。
 確かに、これらの4つの法案は明確に切り分けられない部分もあり、いくら“切れ目なく”と言っても、どの事態のもと、どの法律で自衛隊を出動させるのか、あいまいだという指摘もある。そうした疑念や大事な歯止め策も十分詰め切れていないのに、安倍政権は何故、こうも急いで安保政策を変えようとしているのか。その表向きの理由は、「安全保障環境の変化」である。21世紀に入って紛争やテロで国際社会が不安定になったこと、中国の海洋進出や北朝鮮の核やミサイルで日本周辺でも緊張が高まっていること、加えて、アメリカの影響力が後退する中で、日本が国際平和により貢献すべき状況になったなどの理由である。安倍政権は、こうした「安全保障環境の変化」に積極的に対応しようとしているのだという。

◆「歯止めの憲法9条」対「安倍の安全保障」の中で何が?
 しかし、そうして作られた安保法制は、その理念や方向性において、戦争の放棄を定めた憲法の基本理念と合致しているのだろうか。目先の国際情勢に引きずられることなく、その原点に照らして考えてみる必要もまた、あるのではないか。そこで改めて憲法9条を抜き出してみる。 
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
「(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


 もちろん、こうした条文にあっても、日本政府は従来、(外国によるミサイルの発射準備や攻撃目的の戦闘機の領空侵入などの)「急迫不正の侵害」に際しては、自衛権としての武力行使は許されているとし、そのための「必要最小限の実力」(自衛力)を備えるとして来た。しかし、その基本理念は、70年前の戦争の反省に立ち、二度とああした愚かな戦争をしないために、強い決意をもって自らの武力行使に歯止めをかけたものであるのは、明らかである。
 それに比べて、安倍政権の安保政策の考え方や理念は、世界平和のため(と称して)、むしろ積極的に日本の軍事力を使おうと言うもので、これは9条の基本精神と方向性も考え方も大きく違っている。安保法案の協議の中で、公明党が(9条の範囲内に収まるように)かなり頑張って、歯止めをかけたと評価する向きもあるが、実際の運用面になれば、2つの理念のは極めて深刻にぶつかって来るに違いない。

 その対立の根底にあるのは、安倍が言い続けている現行憲法に対する「違和感」であり、問題は、この「憲法と安保法案の危険な関係」の中で、次に何が起きるのかということである。極論を言えば、敢えて憲法の理念に挑戦するような安保法案の運用を試み、不都合があれば、今度は憲法の方を変えようとする 「法治国家としてあるまじき“本末転倒”」が起きて来るのではないか。このことの詳細については、長くなったので次回に回したい。

安倍政治の中の「富裕と貧困」 15.3.8

 話題を呼んでいる「21世紀の資本」の著者、トマ・ピケティが来日。日米欧各国で拡大する格差問題(経済的不平等)について講演して行った。本の分厚さに恐れをなして解説しか読んでいないのだが、簡単に言えば、「資産を運用して得る利益率」(資本収益率)の方が「働いて得る所得の伸び」(経済成長率)より常に大きいので、資本主義社会では勤労者に比べて資産を持っている富裕層の方がより金持ちになる。これを富裕層への税金などで是正しないと、格差はますます拡大するというものである。
 金融政策で資産運用を促すアベノミクスにも十分当てはまりそうな説で、これに刺激されたのか、国会でも民主党の岡田代表と安倍首相との間で「日本の格差問題」を巡って論戦があった(2/19)。「格差拡大の是正が政治の大きな役割だ。成長の果実を再配分していくという視点が政治には欠かせない」と迫る岡田に対して、安倍は「所得を再配分した後の格差にあまり変化はない」などと反論。格差の認識も持ち出すデータも違っていて、議論がかみ合わないままに終わった。本当のところはどうなのだろうか。

◆格差の実態。まずはデータで見る日本の富裕層について
 ここでいう格差とは、経済活動の中で生じる不平等(貧富の差)のことで、基本的には同一国家(地域)内での差を言う。ただし、格差が拡大しているかどうかをデータで示すのは、なかなかの難題だ。社会における所得分配の不平等さを現す指数に「ジニ係数」というのがあり、0〜1で表される。その数字が、1に近づくほど、格差が大きく社会不安が増すというが、この理屈がまず難しくて理解出来ない。
 中国はこれが0.61で、「社会動乱がいつ発生してもおかしくない」レベルだというが、日本でも、この数字がじわじわと上がっていて、2013年には0.5536になった。これは、「慢性的暴動が起こりやすいレベル」らしいが、これも税引き前の数字と、所得再配分後の数字の2つがあるのでややこしい。安倍首相は、所得再配分後の指数はそんなに悪くなっていない、と反論したわけだが、分って言っているのかどうか。(貧富の)格差の議論は、もっと庶民感覚に響くようなデータで議論すべきではないのかと思うのだが。。

 ということで、まずは日本での“富の集中度”を示すデータを探してみた。去年、野村総研が発表した「日本の富裕層に関する調査」によれば、2013年の純金融資産が5億円以上の超富裕層は5.4万世帯、1億〜5億円の富裕層は95.3万世帯。この2つの合計100.7万世帯は2年前に比べて24.3%増えている。富裕層が増えたのは、5千万〜1億円の準富裕層がこの間の株高などで資産を増やしたからで、全世帯の約2%に当たる富裕層が有する純金融資産の総額は241兆円。これは全体の19%にもなる。ここ数年で言えば、日本のお金持ちは世帯数も資産も増えたわけである(*)。
 富裕層の保有する富が全体の何%を占めるかというデータは他にもある。例えば、上位10%の富裕層が、アメリカでは70%、欧州では60%、日本では50〜55%の富を占めているとか、上位1%の富裕層が、アメリカで20%、日本で9%、フランスで8%を占めるという数字もある。要するに、「富の集中度」において日本は、アメリカほどではないにしても、ヨーロッパと同じような状態にあるということだ。

◆データで見る日本の貧困層の実態
 格差を議論にするには、一方の「貧困層の実態」も見なければならない。これも探してみると、例えば2012年、日本の貧困層を示す、年収122万円に満たない世帯の割合は16.1%である(厚労省の発表)。また、これらの世帯で暮らす17歳以下の「子どもの貧困率」も16.3%で、過去最悪を更新した。これは、子どもの約6人に1人が相対的な貧困に分類されることを意味しており、背景には母子世帯の増加や非正規雇用の増加といった、子育て世代全体における貧困化があるという。
 総務省データによると、2014年の非正規社員の数は1年間に48万人増え、初めて2千万人を超えた(2012万人)。一方で正社員は29万人減の5294万人で、非正規社員が増えたせいもあってか、一人あたりの実質賃金は平均で17カ月連続のマイナスとなっている。一部の富裕層が裕福になる一方で、勤労者の貧困化は進んでおり、資産ゼロ(貯金ゼロ)の世帯は30.4%になった。これは、1980年代の5%前後に比べると激増と言っていい。 

 貧困問題を作っているのは、非正規社員の年収の低さである。男性平均で226万、女性で144万。手取りではなく額面で月12万〜19万円で暮らさなければならない。正規社員も含めた日本全体で言えば、比較的余裕のある中間層が減って41.2%の人が年収300万円以下で暮らしている。日本の「富裕層と貧困層」に関するこうしたデータを、私たちはどう読み解けばいいのだろうか。

◆貧困層をどうするか。典型的な保守の固定観念
 ここで冒頭の国会での格差論議に戻ると、残念なのは双方ともあまりにデータが足りなかったことである。双方が観念論にとどまって議論が深まらない。たとえ、日本の格差がアメリカほどではないにしても、民主党もアベノミクスを追求するなら、あらゆるデータを駆使して攻めるべきだった。説得力あるデータを集めて、富裕層と貧困層の格差をどう見るか、深刻化する貧困問題をどうするのかと、多様な方向から攻めるべきだったと思う。
 それはそれとして、一方の安倍の答弁は、保守層が抱く「貧富の差」に対する考え方を良く表していて面白かった。富裕層への増税によって格差を縮小すべきと迫る岡田に対して、安倍は「(税金が)高すぎると思って所得ある人材が(海外に)流出してしまえば、金の卵を産む人たちを失うことになる」、「富裕層への増税は苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)になる」と言い、「誰でもチャンスのある機会の平等を実現することこそ、格差解消になる」と主張した。

 苛斂誅求(税金などを容赦なく厳しく取り立てること)とはよく言ったもので、これは貧困層から税金を取り立てる際に使う言葉で、富裕層相手に使う言葉ではあるまい。私は、税金が高いと言って海外に出る日本人がいるなら、そうさせればいいじゃないかと思う。富裕層も日本の豊かな社会資本の恩恵を受けながら豊かになったわけで、それまでも拒否する人々は海外に行けばいい。私は、富裕層の人々に妬みも恨みもないが、出来ればほんの少し我慢して貰って、貧困層が少ない中間層の膨らむ社会にして欲しいと思うだけである。
 安倍の主張の背景には「行きすぎた再配分は社会の活力を奪う」(世耕弘成官房副長官)という保守特有の固定観念があるのだろう。しかし、それを言い訳に、富裕層(市場)の方ばかりを向いた政治をしていたら、今の異次元の金融政策が作る格差社会を制御できるだろうか。安倍政権が、階層が固定化した格差社会を作らないために努力するとしたことには賛成だが、それが「ひとり親家庭の子どもに対する学習支援のボランティア派遣を増やす(安倍)」と言った姑息な政策で解消されるとは、とても思えない。

◆腰を据えて格差問題に取り組んで欲しい
 資本主義が作る格差に警鐘を鳴らしているのはトマ・ピケティだけではない。金融緩和が続いたこの3年間に、格差が拡大して中間層が貧困化していることに気づいたアメリカでは、金融緩和の元締めのイエレン議長も「格差拡大が経済の活力をそぎかねない」と警鐘を鳴らし始めた。オバマ大統領も、今年に入って富裕層に対する増税を打ち出している。
 一方、日本の安倍政権は、アベノミクスに対する批判を認めたくない余りに、上から全体への「経済の好循環」という希望的仮説にこだわり過ぎているように見える。異次元の金融緩和という事態の中で、日本の貧困や格差をどうするのか、国民も注視しているのだから、与党も野党も今一度、腰を据えて(正確なデータに基づいた)議論をして行って欲しい。

*1)ただし、金持ちは増えたが、まだアメリカほどではない。例えば、資産10億ドル(1000億)を超えた日本人は、2014年で27人がランクインしたが、トップの孫正義(ソフトバンク)や柳井正(ユニクロ)は、180億ドル(1.8兆円)クラスで、アメリカのビル・ゲイツ760億ドル(7.6兆円)には遠く及ばない。

不確実で空虚な“原発比率” 15.3.1

 経済産業省(資源エネルギー庁)が設けた作業部会が、2030年の「電源構成(エネルギーミックス)」の議論を始めた。作業部会の名前は「長期エネルギー需給見通し小委員会(14人)」と上部会議の「総合資源エネルギー調査会基本政策分科会(16人)」。長たらしい名前で、聞いただけで頭が痛くなるが、国民生活にとって大事な数字がここで決まって行く。両作業部会とも、原発推進の経産省が主導しやすいように、大半が原発維持の経営者、大学教授、政府関係機関、(福井県)知事などで占められている。
 (一応、国民の意見を聞く場合もあるが)こうした役所の意のままに人選が行われる有識者会議で政策が権威づけられるのは、「民主主義のう回路(隠れ蓑)」などと問題視されており、6月にまとめられる「2030年の電源構成」については、早くも顔ぶれを見て「原発比率15%〜25%を軸に議論」などと報じられている。原発については、(問題点を書き尽くした感があって)しばらく休んでいたが、こうした新たな動きを傍観しているわけに行かないので、議論が始まった「電源構成」の問題点について書いておきたい。

◆不確実な要素が多すぎる変数
 作業部会が議論するのは、2030年(15年後)における電源構成の見通し(火力、原子力、自然エネルギーの比率)である。当然のことながら、こうした議論は、(以前の見通しがそうであったように)ひとたび福島原発のような大事故が起これば、根底から吹き飛んでしまう類のものである。そうした現実を直視することなく、「原子力規制委員会がOKすれば安全」という新たな「安全神話」を前提に数字を作ることそのものが、根本的な問題ではあるが、それをひとまず置いたとしても、この議論には問題が多い。(写真は坂根委員長:コマツ相談役)
 その一つが、電源比率を算定するには不確実な要素が多過ぎることである。例えば、2030年のそれを決めるには、@その時点までの節電可能量も勘案した電力需要予測、A火力、原子力、再生可能エネルギーそれぞれの電力確保の可能性と価格見通し、B日本のCO2削減計画、などのデータが必要になって来る。しかし、現時点でこうした数字の一つ一つを確定するのは、ものすごく難しい。(以下にあげるように)あまりに変数が多過ぎて、説得力のある数字が作れないからである。

@ 2030年時点での電力需要量予測
 電力需要の伸びについては、内閣府の経済成長率予測(アベノミクスによる経済再生で実質2%以上)を元に予測するとしているが、その成長見通し自体が不確実である。そもそも人口が減って行く時代に、経済成長して電力需要が伸びるというような前提でいいのか。一方で、省電力の方は今より18%進むという。そうすると、現実には2030年時点での電力需要は現在より大幅に少なくなるわけで、今でさえ原発ゼロでやって行けているのだから、原発の出番はますますなくなる筈である。

◆原子力VS再生可能エネルギー
A 原発の発電コストの不確実さ
 今の電力会社にとって、既存の原発を動かす方が安上がりの電力を供給できるのは当然だ。しかし、今は国民世論から言っても、50基ある原子炉すべてが稼働することなどあり得ない。電力会社は管理費だけかかる「動かせない原発」を抱えながら、稼働率も見通せない状況が続くことになる。それで、本当に原子力は安いと言えるのか。加えて、原発事故の処理費や除染費用、事故後の安全対策費などもどこまで増えるか分からない。使用済み燃料の再処理(核燃料サイクル)や使用済み燃料をどう処理するのかといった方法も費用も全く不透明。また、発電しなくても地元自治体に払い続ける交付金(着工から45年間に一基当たり1400億円に上る)をどうするのか、廃炉費用をどう見込むのか。こうした要素を勘案すると、原子力は既に火力と殆ど変わらない位にまでコスト高になっているというが、これとて不確実で、実態はそんなもので収まらないだろう。

B 邪魔される再生可能エネルギーの普及拡大
 最大の問題は、現在は僅かに2.2%に過ぎない太陽光、風力、地熱などの再生可能エネルギーの増え方をどう見るかである。既に世界は再生エネに向かって驀進していると言うのに、日本の電力会社は、太陽光や風力は出力が不安定で多くを受け入れられない、と制限にかかっている。しかし、2013年に風力の割合が原子力を超えて21.1%になったスペインでは、世界に先駆けて“再生可能エネルギーによる安定供給”を可能にしている。それが、スマートグリッドという配電システムだが、これを風力発電環境に適した日本(環境省試算では、潜在能力は全需要の2倍)に適用すれば、安定供給が可能になる。
 こうした状況を踏まえて、環境省が計算した再生エネルギーの発電量は、経産省見通しを大きく上回る30%超になった(2/21)。環境省は、再生エネ導入の費用的メリットも計算している。それによると、30年時点で設備投資額は1.3兆から上限でも2.2兆円だが、再生エネが化石燃料に置き換わることによって海外に流れずに済む国費は、11兆〜25兆円に上る。こうしたデータはこれまでの経産省の試算を大きく変えるもので、電源構成への影響を危惧した経産省と環境省の大臣の談合によってか、公表時期がずらされようとしているらしい。

◆エネルギーセキュリティーとCO2削減
C 火力発電と価格見通し
 2013年度の電源構成の88%を占める火力については中東に頼り過ぎで、エネルギーの安全保障上問題があると良く言われる。しかし、(天然ガス43%、石炭30%、石油15%の)火力のうち、中東に頼っているのは石油だけなので、こうした議論は当たらない。むしろ、これからは石油より、高効率の石炭、安いアメリカのシェールガス、ロシアの天然ガスなどに分散して行くことになる。また、最近の原油価格の下落を見ても価格は大きく変動しており、とても15年後を見通せるとは思えない。
D CO2削減
 原発維持の最後の砦は、今やCO2削減になってきた。CO2削減を迫る国際環境に応えるためには、現在の電力構成の50%を再生可能エネルギーと原子力でまかなうべきだと言う意見である。しかし、火力発電に関してはCO2の排出の少ない天然ガスへの切り替えが進み、またCO2排出を抑える高効率の石炭火力と言う可能性もある。何より、こうしたエネルギーは原発のような危険性がない上に、これから(CO2を回収して水素と化合させるなどの)の技術的発展が見込まれる分野でもある。従って、CO2削減も原子力の理由にはならない筈である。

◆有識者は、日本の未来にどう責任を果たすのか
 “電源比率”を見通す作業は、以上見て来たような@〜Dまでの不確実な数字を何重にも積み重ねて作る砂上の楼閣のようなものだ。仮に15年後の“原発比率”を 15%〜25%の間の数字で示したとしても、そうした数字にどんな意味があるのだろうか。さじ加減でどうにでもなるわけで、重要なのは「可能な限り低減させる」という政府方針に向けて努力する不退転の意志であり、それが見えなければ全く説得力を持たない。国民の間にますます原発不信を高めるだけだろう。同時に、原発事故の危険性は、こうした議論を根底から覆してしまうという「根本的な問題」も忘れてはならない。

 政府と電力業界は、この“虚構の電力比率”を梃子に、寿命とされる40年を超えて使い続けることや、原発の新設、増設にまで踏み出そうと目論んでいるが、一方で、電力会社にはこの先、2020年までに導入予定の電力料金の完全自由化、地域独占の撤廃、発送電分離が待っている。その時に、既存の電力会社は原発というお荷物を抱えて競争して行けるのか。経産省の作業部会に集められた有識者の人たちは、こうした未来についてどういう責任を果たそうとしているのか。
 経産省に限らず、安倍政権では何かと言うと有識者の懇談会(*)を重要な政策決定に利用する傾向があるが、政府の意向に沿うような人選の有識者会議が、「民主主義のう回路(隠れ蓑)」として使われている実態について、私たちはもっと目を光らせる必要があるのではないだろうか。


*)集団的自衛権についてOKを出した「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(2014年5月)や、夏までに戦後70年の安倍談話を検討する「21世構想懇談会」など

公共放送を蝕む“変人会長” 15.2.22

 英語のことわざに「The rotten apple injures its neighbor.」というのがあるそうだが、日本語で言えば「腐ったリンゴは、周りのリンゴを腐らせる」というわけだろう。今のNHK会長の籾井勝人自身を「腐ったリンゴ」というのはどうかとは思うが、彼の言動を見ていると、公共放送NHKにとって彼の存在そのものが「腐ったリンゴ」と同じような害毒をもたらしているのは、いよいよ明瞭になってきた。
 もちろん、NHKに「腐ったリンゴ」を投げ込んだのは安倍政権には違いない。しかし、ここまで来ると投げ込んだ安倍政権の方にまで批判の矛先が向いて行きかねない。(自民党の一部にも退陣論が囁かれていると言うが)ともかく、「皆さまのNHK」の歴代会長に比べて、前代未聞の“変人会長”は、いよいよ進退が極まって行くのではないだろうか。また、そうでなければ、国民の財産である日本の公共放送が本当に腐ってしまう。

◆謙虚さが全くない変人会長
 2月18日、NHK予算の事前説明のために民主党を訪れた時の籾井会長の言動が、様々なメディアに取り上げられている。説明に行った先の議員から、以前の言動について問い詰められて激高し、言い争いをする様子が何度もメディアに流れた。去年1月の就任直後に役員全員に辞表を出させたことを「(一般企業では)良くあること」と言ったのを、「本当に良くあることなのか」と聞かれて、「言葉尻の話ですか」と抗弁、さらに国会での答弁を「そんな場外での発言を」などと言って、「国会を場外とは何だ」などと突っ込まれていた。
 やり取りのあと、「(こうした話し合いは)くだらん」と言ったことに対しても問題視されている。彼の就任以来の(従軍慰安婦、特定秘密保護法などに関する)様々な発言もあって批判(*1)は高まっているが、一番の問題は彼の態度と言うか、放送文化の担い手として不適格な、その姿勢なのだろうと思う。NHKは公共放送として、国民全体を相手に放送番組を提供し、その見返りとして国民全体から受信料を貰っている企業体である。その意味で、どんな(気にくわない)意見にも謙虚に耳を傾けなければならない。その基本的姿勢が彼には決定的に欠けている。

 時の政権とは違った考えの野党だからと言って、曲がりなりにも国民の負託を受けた議員と興奮してののしり合う。それは過去、何と言っても知識人であり、文化人だった先人会長たちの歴史から言って、前代未聞の変人ぶりである。国民多数の目には、視聴者本位であるべき放送人から遠く離れた「傲慢さ」としか映らないだろう。安倍政権寄りの産経新聞(2/21)などは「籾井氏も敢然と応酬し、ひるむ様子はない」などと“解説”しているが、彼のこうした傲慢さの背景には、「自分は安倍政権の後ろ盾を持っている」という思い上がりがあるに違いない。実際、噂では「俺のバックには安倍政権がついている」という会長発言を聞いた幹部もいるらしい。

◆組織に広がる「忖度(そんたく)、委縮」の雰囲気
 不思議なのは、会談後も興奮してやり合う会長を事務方幹部が必死に止めていたことだった。好きなようにやらせて墓穴を掘らせればいいのにと思うが、そんな会長でも守るというサラリーマンとしての性(さが)なのか、あるいは問題がこれ以上大きくなって、予算審議に影響が出るのを防ごうとしたのか。どちらにしても、哀しい話である。こうした組織に忠実な、善意の部下たちに対して、籾井は就任以来、様々な人事的締め付けを行って来た(*2)。
 一年が経過して、その影響は確実に現れており、会長の意向を忖度する幹部たち、その幹部の顔色を窺う現場と言う形で、放送番組の「委縮」が始まっているように思う。放送の責任者である総局長が会見で「NHKの職員といえどもサラリーマン。(上の意向への)忖度(そんたく)は企業や組織には普遍的に存在している」と認めるような雰囲気が現場に生まれつつある。忖度とはこの場合、自主規制や「権力へのおもねり」だろう。特に、ニュース番組にその影響は色濃く、視聴者は毎正時に政府広報的なニュースをひんぱんに聞かされるようになった。

 この異様さは、朝7時のNHKのラジオニュースとTBSラジオの「森本毅郎・スタンバイ!」との比較や、NHKテレビの「7時のニュース」や「ニュース ウオッチ9」とテレ朝の「報道ステーション」とを比べてみれば明白だ。一頃は特に普通だった民放のニュース番組が、今や新鮮に思えるくらいにNHKニュース番組は変わってしまった。もっとも、今の「報道ステーション」は、自民党筋からの相当な圧力を受けていると言うが、今のメディアは政権側からの直接的な圧力によって、あるいは政権から組織に投げ込まれた「腐ったリンゴ」によって、徐々に蝕まれつつある。 

◆今の議会配分のような、多様さを欠いた放送
 公共放送NHKが行う放送については、放送法の第2章「放送番組の編集等に関する通則」の第3条で、「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」と規定されている。それにもかかわらず、(週刊誌などの話題になる位に)政権側からの干渉が日常的に行われている。この異常さに、メディアも視聴者も鈍感になりつつあるのが怖い。また、その第4条では、「政治的に公平であること」に加えて、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」となっているが、今の政治ニュースにおいて、(反対意見も含めて)どれだけ充分に、多様な意見が紹介されているだろうか。

 今の政治ニュースは、まるで「一強多弱」の議会配分を配慮したような時間構成になっていて、大部分が政府広報的なニュースの最後に、申し訳程度に野党の意見がつけ加えられている。また、ニュースでなくとも、安倍政権が取り組もうとしている「原発再稼働」、「集団的自衛権」、「憲法改正」などについても、同じように“議会配分”のような構成に陥っている。これでは、「できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」が達成できているとは言えず、NHKが政治権力から独立した、真に「国民のための放送機関」だとは言えなくなってしまう。
 一頃、籾井会長は「政治的に公平であること」を盾に、「すべての放送でバランスを取るように」と言いだしたことがあるという。しかし、どんな番組においても時間内にバランスを取ろうとしたら、何を言いたいのか分からないものになりかねない。これは、放送全体を通してバランスを取って行くべきであって、その多様な意見の幅の広さを認めることが、多様な社会に放送が受け入れられる基本なのである。その放送内容の適否を判断するのは、公共放送を共有財産とする国民であって、政治家ではない筈だ。またNHKは、そのためのシステムを備えている。

◆NHKは誰のものか。トップの適格性とは?
 今、私の周りのテレビ制作会社では、「こうした番組をやって見たいが、今のNHKではダメだろうなあ」という声を聞くようになった。例えば、安倍政権が成長戦略と結びつけたようなテーマ(*3)は、そうなった途端に「問答無用の雰囲気」が出来てしまう。そうしたセンシティブな問題についても、自由に議論し、国民の理解を深める放送が可能かどうか。煎じつめれば、NHKは誰のものか、と言うことにもなって来るのだが、それが出来なければ国民の共有財産とは言えない。
 今のNHKは、(もちろん頑張っている現場もあるが)政権が投げ込んだ「腐ったリンゴ」によって、その周囲から蝕まれつつある。公共放送の弱体化は、それはそれで現政権の思惑通りなのかもしれないが、一方で、余りに変人会長ぶりが目立てば、批判は「腐ったリンゴ」を投げ込んだ側にも跳ね返って来る筈だ。こうした教訓を踏まえて、公共放送のトップはどうあるべきかの議論を深めて欲しいと思うのだが、出来れば次の会長は、(現会長のような変人ではなく)放送文化に精通し、政治からも一定の距離を取れる「放送人であり文化人」であって欲しいと思う。

*1)日本ジャーナリスト会議、放送を語る会による辞任要求(2.10)
*2)「メディアの冬の時代に」(2014.7.16)
*3)例えば、「原発再稼働に走るあまり、必要以上に再生可能エネルギーを抑え込んでいる現状」、「莫大なエネルギーを必要とするリニア新幹線の是非」、「秘密の網がかけられるODA政策や政府研究機関での軍事技術研究の(デュアル・ユース)問題」など。

グローバル時代を生きる知恵 15.2.15

 イスラム過激派組織ISIL(イスラム国)の機関誌「DABIQ」の最新号は、冒頭の2ページで今回の人質事件に触れ、「イスラム帝国は金を必要としていなかったし、日本政府が身代金を払わないことは分かっていた」、「傲慢な日本政府に屈辱を与えることが目的だった」と主張。さらに、「彼(安倍首相)の国民は、イスラム帝国の剣が既にさやから抜かれ、日本の異教徒に向けられていることを知るべきだ」などと書いている。
 首相の中東訪問と2億ドル支援演説をきっかけに、日本は突然、欧米諸国と同様の敵(十字軍)の一員と見なされ、攻撃対象に指名された。さらに、首相が「テロリストたちを絶対に許さない」と受けて立ったことで、両者は互いに“戦争状態”に入ったことになる。遅ればせながら敵(イスラム過激派)を知らなければということで、今、巷では「イスラム国」に関する本が飛ぶように売れている。実は私もその一人で、購入した「イスラーム国の衝撃」(池内恵、文春新書)や雑誌、ネットでISILの実体を調べてみた。

◆「グローバル・ジハード」という異質な敵
 まず分かって来たのは、日本が相手にする敵(ISIL)が、世界的規模で展開されている厄介な運動体の一つだということである。アメリカが「イスラムの名のもとに、大量殺人など、犯罪を計画・実行する過激派団体」と規定する、「イスラム過激派組織」をウィキペディアで調べてみると、ISILを始めとして、しばしば耳にする「アルカーイダ」(アフガニスタン、パキスタン、イエメンなど各国に展開)、「ヒズボラ」(レバノン、トルコ)、「ボコ・ハラム」(ナイジェリア)、「ハマス」(パレスチナ)など、ざっと40近い組織がリストアップされる。(図は、9.11以降テロ攻撃を受けた国)
 これらの多くは、もともとはソ連のアフガニスタン侵攻に対抗させるためにアメリカCIA(中央情報局)がイスラム義勇軍として育成した武装組織「アルカーイダ」を源流とする。「イスラーム国の衝撃」によれば、9.11を引き起こした、あのオサマ・ビン・ラディンによって指導された「アルカーイダ」が、今では世界各地に“フランチャイズ化”し、独立した組織がネットワークを結びながら展開しており、ISILもこうした過激派組織の一つである。

 過激派は死を恐れない。自爆テロなど、あらゆる手段を用いて各地域の敵と戦いながら、イスラム教の預言者ムハンマド(570年頃〜630年)が唱えた、善と悪の究極の戦いである「世界最終戦争」に向けて、グローバル・ジハード(聖戦)を進めている。その理論的根拠は、7世紀に作られたコーランにまで遡る。そこに書かれている異教徒への苛烈な攻撃(斬首、奴隷化など)を現代社会にも躊躇なく適用するところが、何とも時代錯誤でおぞましい。
 「イスラム国との新・戦争論」(文春3月号)によれば、イスラム過激派組織の当面の目標は、西はスペインから東はインドネシアまで、かつてのイスラム圏を支配下に置くことにあり、究極的には世界制覇を狙っているという。1300年以上も前のイスラム教の世界観と価値観をそのままに、現代世界の枠組み(国境)や価値観(民主主義やヒューマニズム)を否定し、暴力で支配地を拡大する。最終的には、イスラム教の指導者(カリフ、バグダーディ)を中心とした世界帝国を築くまで戦いを止めない。何とも困った組織である。

◆グローバル時代を生きる難しさ
 今のイスラム社会は第一次大戦以降、欧米のなすがままに国境線を引かれ苦しめられて来た。そうした歴史的背景を考慮しても、今の過激派組織が主導する残虐なグローバル・ジハードは、とうてい容認出来るものではない。ただ問題なのは、その戦いがある意味でイスラムの教義に沿ったものであり、中世の「十字軍との戦い」になぞらえたグローバル・ジハードの理念が世界の若者を惹きつけていることである。ISILに宣戦布告された日本政府は、こうした「グローバルな問題」の難しさ、怖さをどこまで深く認識しているのだろうか。
 グローバル時代の現在は、異なる国家、民族、宗教の価値観や利害が世界規模で複雑に絡み合って動いている。特に、20世紀の後半から急速に発展してきたインターネットによって、様々に異なる価値観や考え方が国境を越え直接ぶつかり合う。それが、相手の思考方法を考慮しない不用意な言動によって、8500キロ以上も遠く離れた会ったこともない存在(イスラム国)から、突然「十字軍」と名指しされ、敵にされることにもなる。これが「グローバル時代」の難しさと怖さである。

 「グローバル時代」の難しさは、何もISILに限らない。日本が進めようとしている集団的自衛権などの安全保障政策、異次元の金融緩和などの経済政策、あるいはTPPなどの貿易政策もそうである。こうした問題は、すべからくグローバルなテーマであり、そこでは利害を異にする国家や民族、宗教、世界資本などの思惑が複雑に絡み合う。例えば、一国で金融緩和をしようとしても、その何十倍も大きな額を動かす世界資本がどう考えるかで、あっという間に結果が変わってしまう。
 一頃まで、グローバルなテーマは、(民主主義や法の支配、資本主義や自由貿易に関するルールなどの)「アメリカが作った世界システム」によって秩序が保たれていたが、アメリカ一極支配が揺らぐ中で、世界はルールなき弱肉強食の荒野に変わりつつある。もちろんその中でも、(世界システムの保護者である)アメリカとの協調は大事だが、果たしてそれだけで「新たなグローバル時代」の無法地帯を渡って行けるか。集団的自衛権のように、あくまでアメリカに追随して行くことが、日本の生き残る道なのか。「テロとの戦い」もTPPも、よほど思慮深く行動しないと、自国内にまでその荒野(テロや戦争、不況や国土の荒廃)を呼びこんでしまう。それが「グローバル時代」を生きる難しさなのではないか。

◆シンクタンクの機能強化と「柔らかな膜」を維持する知恵
 様々な「グローバル時代」の課題に対して、どうすれば最善の答を見つけられるのか、それは大変に難しい。その位、多岐にわたる要素を勘案しないと有効な解決策が見つからないわけで、世界はこの難問の前でうろうろしている状態。これだけ複雑になると、(SFに出て来るような)人類の課題を解決してくれる巨大な人工知能が欲しくなる。。
 それはともかく、ここでは
「グローバル時代を生きる知恵」として、2つの(感覚的な)ことだけ書いておきたい。一つは、その位難しいのだから、政策を決定するのに必要な「高度な専門家集団」を出来るだけ育成・活用することである。例えば、イスラム過激派組織について、日本ではどれだけの研究機関が、どれだけの情報を掴んでいるのだろうか。あるいは、世界トップクラスの研究機関の情報を日本は得ているのだろうか。それがないのに、ISILのテロ行為は許し難い悪なのだから、「テロとの戦い」は善なのだと単純に考えていると、大きな火傷をすることになる。(前にも書いたが)日本は、官民のシンクタンクをより強化し、政策立案に生かすべきだということである。

 もう一つは、グローバルな課題に日本が関与することは、避けて通れないにしても、国内にまで弱肉強食の荒野を持ち込むような政策は避けるべきだということである。今の時代、江戸時代の鎖国のような「固い膜」を国境に張り巡らせることは論外だが、外界と行き来が出来て、しかも国内の秩序や豊かさを保護できる(細胞膜のような)「柔らかな保護膜」を維持することは可能だと思う。今、佳境にあるTPP交渉などは、まさにそこが問われているわけである。
 今の政治家や経営者は、口を開けば「グローバル化に適応しなければ生き残れない」と言って、国外と国内を同じルールにしようとするが、それはアメリカのような強者の論理を真似しているだけ。一部の強者が弱肉強食の荒野で生き残ったとしても、国内が同じような荒野になって、大部分の弱者が滅びては何にもならない。弱肉強食の荒野で日本がグローバルな課題の解決に存在感を発揮する一方で、国内を守る「柔らかな保護膜」をどう構築し、維持するのか。そこにこそ、「グローバル時代を生きる知恵」としてしての、政治の難しさも役割もあるのではないだろうか。

自作自演の「テロとの戦い」 15.2.8

 イスラム過激派組織ISIL(イスラム国)による人質事件は、2人の殺害と言う悲劇的な結末に終わった。日本時間の2月1日に公開された後藤氏殺害のビデオの中で、ISILは「日本政府に告ぐ」という言葉で始まる次のような日本政府への“宣戦布告”を行った。「(中略)安倍よ、勝つ見込みのない戦争に参加するというお前の無謀な判断により、このナイフは健二だけでなく、大勢の日本国民をたとえどこにいようと殺すことになるだろう。これは日本にとって悪夢の始まりだ」。
 これに対する安倍首相のコメント(2/1朝)は、ISIL非難に続いて、「テロリストたちを絶対に許さない。その罪を償わせるために国際社会と連携していく。日本がテロに屈することは決してない。食糧支援、医療支援といった人道支援をさらに拡充していく。テロと戦う国際社会において日本としての責任を毅然として果たしていく」というものだった。

 この人質事件は安倍の“未必の故意”とも言うべきテロ誘発に始まって、自作自演の「テロとの戦い」のシナリオに沿って展開している。今回の事件の本質は、安倍がまるで意図したように日本を「テロとの戦い」に参加させたこと。そして、これを機に安倍の思い描くシナリオに沿って日本を変えようとしていることである。その展開が余りに急なのと、人質解放交渉の紆余曲折に振り回されて来た結果、私たちはことの本質を見失いがちだが、引いて見ればそういうことになる。

◆あえてテロとの戦いに踏み込んだ安倍首相
 首相声明のうち「テロリストたちを絶対に許さない」という部分は、国際的にも注目を集めた。ニューヨークタイムズ(2/2)は、「日本の平和主義から離れ、安倍首相は殺害への報復を誓う」と言う見出しで、首相声明を「テロリストに代償を払わせる」と紹介した。日経によれば、安倍は事務方が用意していた「首相声明」に自ら手を入れ、「テロリストを決して許さない」に続けて「その罪を償わせる」と書きくわえた、という。
 ことほど左様に、今回の人質事件は発生後からすべて安倍が即断即決、一人で仕切っている(「選択」2月号)。それは、事前に「テロとの戦い」に参加するためのある程度のシナリオがあったのではないかとさえ疑わせる。実際、去年暮れから「イスラム国との戦いで米国を支援すれば、尖閣で米軍が日本を助けてくれる筈だ」という安倍の思いから、政権内で極秘に、米国の「テロとの戦い」を支援するために自衛隊を派遣できるかどうかの検討が始まっていたらしい。

 それが結果的に、今回の中東訪問が現地で拘束されている人質がリスクにさらされても仕方がないという雰囲気を生んだのではないか。ヨルダンで現地指揮を執った中山外務副大臣(写真)は、昨年末に「日本人の事件が弾けたら自分は現地で指揮を執ることになる」と漏らしていたというから、ある程度織り込み済みだったわけだ。つまり、安倍には、この際、人質のリスクよりも「テロとの戦い」の姿勢を明確にし、アメリカに恩を売った方が国益にかなうという意図があったのだろう。
 そして、実際に事件が弾けてみると、安倍は「人命最優先」と言って解放に向けて奔走して見せたが、一方では、テロと戦っている米英仏などとの電話会談によって、「テロに屈しない」というメッセージの方が世界を駆け巡ることになった。その結果、ISIL側から見れば日本が「テロとの戦い」で敵国になったことは明瞭で、人質交渉の本気度を疑わせる結果となった。安倍はこの間、あえて当初の意図を踏まえつつ、次のシナリオ(後述)に向けて考えを巡らせていたのではないかと思う。

◆事件の真相をうやむやにして、利用する
 ただし事件後は、その意図を隠すために、安倍官邸は徹底した情報操作を行って来た。2億ドルは人道支援だったと強調し、国民に向かって人命最優先をいう。同時に、事件経過に関しては事実をあいまいにする。政府は、後藤氏が消息を断った去年10月下旬にその情報を掴み、11月1日には家族から知らせを受け、12月3日には、家族あてに犯人グループからの要求が来たことを知っていた。これを受けて、ヨルダン現地に対策室を設置した。
 しかし、岸田外相は1月20日のISILの脅迫まで、彼らの犯行とは特定できなかったという理由で、何も動いていなかったという。こうした説明の説得力のなさを突かれると、岸田は「交渉の経緯については、特定秘密保護法に触れる恐れがある」と、内部からのリークを防いだ上で、説明を拒否する姿勢に転じた。さらに最近になって、首相側近の世耕官房副長官が、後藤氏の渡航前に外務省が3度も接触して渡航を止めるよう要請していたと公表するなど、官邸は批判をかわそうと躍起になっている。

 さらには、追求をかわすための「論理のすり替え」も行う。エジプトでの演説が「人質殺害やテロ攻撃を呼び込むリスク」を高めると認識していたのか、という民主党の指摘に対し、安倍は「テロを過度に恐れて、演説の内容を変えたりすればテロに屈したことになる」と答えている。敢えて人質が拘束されている時と場所を選んで「テロとの戦い」を表明した、安倍外交の是非を議論しているのに、「テロに屈していいのか」と開き直る論法は、人質事件についての議論を封じ込めるための意図的すり替えである。

◆「テロとの戦い」とメディア
 議論のタブー化も進んでいる。「安倍首相を批判することは、テロ勢力を勢いづかせることにつながる」などと安倍批判をタブー化する動きである。今の安倍は、人質事件で生まれた「テロとの戦い」を利用してシナリオを練り直し、日本の安全保障政策を一気に変えようとしている。それは、自衛隊の海外派遣、集団的自衛権の適用拡大、安全保障に関する日米協議、そして憲法改正へと向かうシナリオである。その遂行には当然、メディアを抱き込むことが最重要課題になる。政権寄りの評論家を動員したタブー化論と合わせて、官邸によるメディア操作やメディア介入は日に日に激しくなっており、そのせいでマスメディアの論調は明らかにトーンダウンした

 一般的に言って、ある事件(それが意図されたものであれ偶発的なものであれ)を利用しようとする政治力学が働いた時には、事件の真相解明は決定的に難しくなる。満州事変の時の柳条湖事件しかり、イラク戦争の開戦しかり。時の権力は事件を利用するために、都合のいいように情報を操作し、不都合な事実は隠す。今回の人質事件も、まさにそのケースに当てはまろうとしているわけで、メディアが真実の追求に力を発揮できるか。そこに平和国家日本の将来がかかって来る。
 例えば、2003年のイラク戦争の時。時のブッシュ大統領はイラクが大量破壊兵器(核と化学兵器)を持っている、それがイスラム過激派に渡ったら大変だと意図的に恐怖をあおった。そのため当時のアメリカでは、メディアは雪崩をうって戦争一色になり、ブッシュの「テロとの戦い」に反対した識者やジャーナリストが非国民あつかいされた。さらにブッシュは、愛国者法(反テロ法)を制定して、国内の監視体制を強化し、政府に批判的なブログ73000を閉鎖させたりした。しかし結局、ブッシュが開戦の口実とした大量破壊兵器は見つからず、後にウソと分かった。それが、その後のイラクの混乱とISILの出現につながっている。

◆強靭な批判精神で、タブーなき議論を
 安倍の自作自演の「テロとの戦い」のシナリオが次のステージに移行するこれから、(私はそうなって欲しいと思っているが)政権とメディアの攻防はますます激しくなるだろう。「国民の生命と暮らしを守る」防衛政策が大事なのは言うまでもない。しかし、今のあまりに好戦的な安倍政権を見る時、メディアが「テロに屈することになる」などの理由で批判を控えれば、戦前のように国家の暴走を招くリスクを高めることにもなる。国会もメディアも「強靭な批判精神なくして、強靭な民主主義国家は作れない」ということを胆に銘じて、タブーや脅しを恐れずに、批判すべきは批判するという精神で、事件についての徹底的な議論と検証を行って欲しい。

イスラム国が仕掛けた戦争 15.1.31

 (2月1日午前5時10分、後藤健二さんが殺害されたニュースが飛び込んで来た。ご冥福を祈りたい。以下は前日午後アップしたものである)
 イスラム過激派組織(イスラム国)による日本人人質事件は
先が見えない状況に陥っている残る後藤健二氏の1日も早い解放を祈りたいが、そもそもこの人質事件については既に殺害された湯川遥菜氏を含めて数々の疑問がある。湯川遥菜氏がCEOを務めていた民間軍事会社(PMC JAPAN)は何を目的としていたのか。彼は去年の4月、6月、7月と都合3回も中東(シリア、イラク)に出かけているが、その資金はどこから出ていたのか。一方の後藤健二氏はこの3回とも湯川氏に同行しているが、理由は何だったのか。
 去年8月に湯川氏がイスラム国に拘束された後、10月22日に後藤氏はなぜ湯川氏救出のために、極めて短期間の予定(全1週間の旅程のうち実質2泊3日)でシリアに入ろうとしたのか。短期間で救出できる事前工作があったのか。その直後に、早くも政府は後藤氏拘束の情報を掴み、対策本部を設けたと言うが、日本政府はどう動いていたのか。また、今年1月17日からの安倍の中東4カ国(エジプト,ヨルダン,イスラエル,パレスチナ)訪問は、その渦中だったわけだが、政府・外務省はどういう状況判断をしていたのか。

 この意味で、事件はまだ謎だらけ(*1)と言っていいが、今回私が書きたいのはそれとは別な観点の話になる。それは、ここまで問題の解決が伸びていることからも分かるように、今回の人質事件でイスラム国が仕掛けているのは、身代金要求や捕虜奪還と言った単純なことではなく、日本やヨルダン、そして欧米を相手にした「周到な情報戦(戦争の一形態)」なのではないか、ということである。だとすると、今の日本にその認識と覚悟があるのかということにもなる。

◆「地球を俯瞰する外交」の狙いとは何か
 この仮説を確かめる意味で、時計の針を今回の人質事件が浮上する以前に戻してみる。2012年12月の就任以降、首相は2年あまりの間に「地球を俯瞰する外交(地球儀外交)」と称して、世界54カ国を訪問している。ベトナム、タイ、インドネシアなどASEAN3か国を皮切りに、アメリカ、カナダ、中南米、オーストラリア、アフリカ、ヨーロッパの主要国、さらに中東諸国、ロシアにも行った。これは、歴代首相の外国訪問としては群を抜いて多い。これらの訪問国には、ODA予算などから、行く先々で巨額の支援を行っている。
 例えば平成25年度では、ミャンマー(910億円)、アフリカ(5年間で3.2兆円)、中東・北アフリカ(2600億円)、国連女性支援(3500億円)、ASEAN(5年で2兆3000億円)ほかの経済支援を約束した。そして、今年最初の訪問国として選んだ中東4カ国に対しては、総額2940億円(25億ドル)を提供している。そのうち一応使途が書かれているのは、852億円(この中に人質事件で浮上した2億ドルも入っている)で、残りは中身のはっきりしない掴み金的な援助だと言う。

 こうした地球儀外交については当然のこと、税金を使ったバラマキだとか、内容について充分な説明責任を果たしていない、などという批判がある一方で、日本の存在感を世界に示していると積極的に評価する声もある(外交評論家 岡本行夫)。その内容は以下のように大別されるだろう。
@ 中国への対抗策、中国の外交政策にくさびを打ち込む(ASEAN、インド、スリランカなど)
A 資源確保への布石(オーストラリア、ブラジル、カナダなどの資源国)
B 経済団体を引き連れた経済外交(ASEAN、ミャンマー、中東など)
C 積極的平和主義のアピール、対テロ戦への支援(エジプト、アラブ諸国)

 これらのうち、安倍は日本の安全保障政策と深く関る@とCについて、(歴代首相とは違って)異例とも言うべき意気込みで取り組んで来た。同時に、持論の「積極的平和主義」を掲げて、国際紛争やテロとの戦いに対して日本が貢献することを強くアピールする。そうした首相の“高揚した地球儀外交”の延長線上に行われたのが、ヨルダンのほかシリア、イラク、レバノンなど周辺国に対して行ったイスラム国対策のための資金提供(2億ドル、240億円)だった。 

◆テロとの戦いに踏み込んでいた安倍首相
 今回の中東訪問に出かける際、安倍は「フランスのテロ事件でイスラム国がクローズアップされている時に、ちょうど中東に行けるのだからオレはついている」、「世界がオレを頼りにしているということじゃないか」(週刊ポスト)と言っていたそうだが、人質脅迫事件は1月20日、彼のイスラエル訪問中(写真)を見計らったように起きた。脅迫男は政府が提供した2億ドルに関して「日本の首相へ」と名指しした上で、「イスラム国と戦うために2億ドルを払うという馬鹿げた決定をした」と非難し、同じ2億ドルを身代金として要求。
 これに対し、安倍は慌てて帰国し「2億ドルは人道支援だ」と強調したが、一連の発言を見ると、イスラム国が日本を敵と見なした理由は明確だと思う。同行記者の記事(18日、産経)には、ヨルダン国王との会談では、「スンニ派過激組織、イスラム国対策として」となっており、「日本も積極関与し“テロとの戦い”に賛同する姿勢を示す」などとも書かれている。国王との会談で首相は「世界で起きている過激主義の流れを止めなければならない」とも語っており、事件が勃発する直前までは、日本もイスラム国のテロとの戦い(の支援)に半歩踏み出したというのが、同行記者団の共通理解だったように思う。

◆問題はその認識と準備、日本にその覚悟はあるか
 首相が示した2億ドルは、スンニ派のイスラム国と敵対するヨルダン、シリア、イラク、レバノンなどの対抗勢力向けでもある。こうした流れをイスラム国側から見れば、今回イスラム国が仕掛けて来たのは、日本を敵国と見なした“戦争”と見るべきではないか。もちろん、その戦争は今のところは武力行使ではなく極めて巧妙な“情報戦争”である。敵国の日本政府を揺さぶり、敵国ヨルダンを揺さぶり、日本とヨルダンの関係を引き裂く。そして、世界に自分たちの存在を誇示する。
 彼らの「イスラム国の女性や子供を殺害し、家を破壊するための支援が1億ドル。イスラム国と戦う部隊の支援が1億ドル」という事実無根の宣伝も、情報戦では常とう手段だ。その意味で、人質解放を巡って右往左往している日本やヨルダンは、格好の揺さぶり対象となっており、その効果を計算している彼らには引き延ばすだけの理由があったと言える。この情報戦は同時に、人質取引に応じていないアメリカなどテロ戦争当事者と日本との間のギクシャクも生み出している。アメリカは日本の人質救出策を冷ややかに見ながら、それが世界に与える影響を苦々しく思っているのではないかと思う。

 私は、イスラム国は世界にとっての“癌”であり、世界は一致協力してこれを除去すべきだと思っている(「イスラム国という癌組織」)のだが、それに日本がどう関るかは事前の周到な準備と覚悟がなければならない。「地球儀外交」や「積極的平和主義」を掲げて、積極的に世界の紛争解決に乗り出そうとしている割には、政府にその覚悟が見えない。想定外などと言いながら、「人命最優先」と「テロとの対決」という二律背反したメッセージを繰り返して頭を抱えるばかり。少なくとも日本政府は、今、冷酷非道なイスラム国と戦争状態にあると言う現実を認識しているのだろうか。
 安倍自民党の中には、こうした事件も踏まえて日本人救出のために海外へ自衛隊派遣をしやすくするとか、集団的自衛権の議論の中に取り込むべきだという「前のめりの意見」も出ているらしい。しかし、いくら武力行使に踏み込んでも、それが引き起こす様々事象に対応できないのでは、積極的平和主義や集団的自衛権などの武力貢献策も却って危険になるだけだ。それはまた、必然的にテロや戦争を国内にまで呼び込むことにつながる。平和国として生きて来た日本がこの先どう生きるのか、(人命を国益遂行上のロスとして計上する)アメリカのような「戦争に慣れた国」に変えるのか。今回の人質事件は、私たちにその重い問いかけを突きつけていると思う。

*1)湯川正行(本名)氏が男性器を切断して自殺を図った時のブログや、湯川氏と右派政治家などとのつながり、後藤氏と湯川氏と日本外務省の関係を大胆に推理する「世に倦む日々(1/21)」、「同(1/27)」など。

イスラムと西欧の深き亀裂 15.1.22

 フランスの週刊誌「シャルリーエブド」襲撃事件(1月7日)の後も、世界ではイスラムを取り巻く様々な事象、事件が起きている。ごく最近では、イスラム国に捕らわれた日本人2人が身代金を払うか死刑かと脅迫される衝撃的なニュースも飛び込んで来た。渦中の日本人人質事件は成り行きを注視するしかないが、テロとの戦いに参加する西欧社会やそれに共感を示す日本のような国々は、否応なくイスラム過激派の起こすテロ事件に巻き込まれる危険性があることを痛感させられる事件だ。
 いかなる理由であれ、テロによって人命を損傷する行為は許されないが、一方で、週刊誌「シャルリーエブド」襲撃事件では、西欧社会が掲げる「表現の自由」を巡ってイスラム世界に大きな反感も生まれており、この反感がまた過激派の影響力拡大の温床になると言う困った現象も生んでいる。さらに、いろいろ調べてみるとイスラム世界と西欧民主主義の間には、表現の自由問題以上の「文明の衝突」とも言うべき深刻な“亀裂”が走っていることも見えて来た。にわか勉強で生煮えの感もあるが、今回はそのことを書いて見たい。

◆表現の自由と宗教の権威を巡る問題
 17人がテロの犠牲になったフランスでは、1月11日に犠牲者を追悼する大々的な反テロ行進が行われた。パリでは150万人、50カ国の首脳が参加し、西欧諸国の首長のほか、イスラエルのネタニエフ首相とパレスチナのアッバス議長も同じ最前列で行進。フランス全土では計370万人が、口々に「私はシャルリ―」のメッセージを掲げながら、反テロと表現の自由を訴えた。フランス国内の多くのイスラム系住民(フランスには人口の1割、600万人がいる)も参加したという。
 しかし、反テロという思いでは一致する国際社会も、週刊誌「シャルリーエブド」が表現して来た一連の風刺漫画(後述)については、複雑な思いだったに違いない。風刺画に対する意見の対立は、事件の一週間後に特別号が発行されるに及んで、一層鮮明になった。表紙には「すべては許される」という見出しの下に、目から涙を流して悲しそうな顔をするイスラム教預言者のムハンマドが、胸元に「私はシャルリ―」のプラカードを掲げている。この特別号は、全仏で700万部も売れたと言う。 

 出版社側は「表現の自由に、しかし(but)は存在しない」と言い、特別号によっても「我々は一切譲歩しない」と強気のメッセージを発信した形だが、これは「表現の自由か、宗教に対する侮蔑か」といった議論を巻き起こした。特にイスラム社会では、いくら表現の自由があると言っても、イスラムで聖なる予言者として崇められているムハンマドを描いていいのか、(預言者を描くという)偶像崇拝を禁じる戒律を踏みにじっていいのか、さらには、預言者を揶揄していいのかと言った強い反発を呼んでいる。
 トルコ首相が「報道の自由は、侮辱する自由を意味しない」と批判し、エジプト政府機関(宗教令庁)も「約15億人のイスラム教徒に対する挑発だ」と非難。イスラム教徒が多い国々(ニジェール、アルジェリア、ヨルダン、レバノン、パキスタン)でも風刺画掲載に対する抗議行動が続いている。一方、テロ事件を契機にイスラム系移民を受け入れて来たヨーロッパ各国(フランス、ドイツ、オランダ)では、「反イスラム」の動きが活発化して双方に緊張が高まっている。標的にされることを恐れたヨーロッパのユダヤ人が続々とイスラエルに移住する現象まで起きている。

◆「ライシテ」が「表現の自由」と結びついた風刺漫画
 こうした中、15日にはフランシスコ、ローマ法王も、テロを激しく非難する一方で「他人の信仰を侮辱したり、もてあそんだりしてはならない。表現の自由には限度がある」と言うなど、西欧社会からも自制を促す声が出ており、今回の事件は「表現の自由と宗教の侮辱」の大きな問題を提起した。こういう大問題の引き金になった肝心の「シャルリーエブド」だが、その一連の風刺画を見ると、かなり際どい内容であることが分かる(「NAVERまとめ)。
 ムハンマドがイスラム過激派によって首を切られるマンガ、「バカに愛されるのも楽じゃない」と原理主義者に圧倒されるムハンマド、(フランスでテロが起きていないと挑発して)「待ってろ、新年の挨拶は一月末まではしてもいいものだからな」、「愛は憎悪より強い」と出版社とイスラム人の男性同士がキスしているマンガ、などなど、イスラム教徒からするとかなり過激な内容である。ローマ法王もたびたび風刺されていると言うが、これらを見るとイスラム教が執拗にからかわれているのが分かる。

 実は、宗教の権威に対するこうした風刺はフランスの伝統文化であり、表現の自由と相まってフランス革命以来の国家の共通理念になっているのだという。概略をネットで調べてみると、フランス革命(1789年)以前は王政とカトリック教が密接に結びついて政治が行われていたが、革命で王政も廃止され、またローマ教皇に忠誠を誓って共和制に反対したカトリック聖職者の多くが処刑された。その後もカトリック教会と、その権威を否定する反教権主義者との抗争は続いたが、1905年に制定された「政教分離法」でようやく決着がついた。
 (国家と宗教を切り離し)いかなる宗教も国家が特別に公認・優遇・支援することはなく、また国家は公共秩序のためにその宗教活動を制限することができる、としたのである。それが
フランス独自の「ライシテ(laicite)」であり、日本語では「世俗主義」とか「政教分離」とか言われる概念である。公共の空間から宗教色を排除すると同時に、私的空間において信仰の自由を保障する。フランス人にとっては基本の、この「ライシテ(laicite)」精神が「表現の自由」に結びついた時に、当然のこととして、あのムハンマド風刺が生まれるわけである。

◆「ライシテ(laicite)」を巡る文明の衝突
 革命で勝ち取られたフランスの基本精神「ライシテ(laicite)」は、程度の差こそあれ、「政教分離」として民主主義国の共通理念にもなっている。戦後の日本も新憲法でこれを受け入れた。だから欧米諸国は、その「ライシテ(laicite)」が生んだ風刺を表現の自由として表立って非難はしなかったわけだが、その一方で、イスラム社会から見ると、この「ライシテ(laicite)」は、そう単純に受け入れられるものではなかった。
 イスラム教は(政治も含む)生活のあらゆる所に関連する行動規範であり、これを政治や公共の場から分離して隠そうとすると、(我々は何者なのかという)深刻なアイデンティティ崩壊につながる危険がある。従って、欧米型の政教分離思想は簡単にはイスラム社会となじむことが出来ない。この点で西欧に移住したイスラム系住民は、例えば(2009年サルコジ大統領の)フランスのように、学校や路上など公的な場所での女性のブルカ(イスラムのヴェール)着用を禁じられると、相当なストレスを感じることになる。それに差別と貧困が加わるとなれば尚更だ。

 フランス人からすれば、「ライシテ(laicite)」を理解しない(受け入れない)イスラム教徒は揶揄の対象であり、一方、イスラム人からすれば理解しがたい「ライシテ(laicite)」によって宗教を侮辱されるのは許し難い。両者の溝は深く、ここに表現の自由を越えた根本的な対立点があると言っていい。それは将来的にも、多かれ少なかれ世界15億のイスラム教徒と西欧社会の対立にもつながってくる根深い問題と言える。
 そして、その「文明の衝突」の中から憎悪をかき立て、人々をテロに駆り立てる過激派が生まれて来る。一方で、日本の「政教分離」は、国家神道が幅を利かせた戦前の反省から、GHQによって導入されたわけだが、だいたいに宗教的日常を送っていない日本人は、(私を含めて)どこまでこうした背景を理解しているだろうか。テロに反対と口で言うのは簡単だが、私たちはイスラム世界と西欧型民主主義の衝突の中で、多様な価値観が共存できるにはどうしたらいいかを問い続けなければならない、真に「難しい時代」に直面しているということを自覚しなければならないだろう。

チャンスを生かせるか民主党 15.1.12

 (引き続き、独断と偏見で政治のお話)
 去年12月の衆院選挙に際して「リスクを取るか、回避するか(12/6)」を書いたが、その“こころ”は、危惧される安倍政権の
リスクを抑止するための野党勢力が延びることを期待するものだった。結果は、自民党が事前の大幅増の予測に反して微減だったこと、与党内抑止力として期待される公明党が議席を増やしたこと、共産党が倍増したこと、曲がりなりにも民主党が増えたこと。一方で、自民より右派の「次世代の党」が壊滅したことなどで、抑止力を期待する民意は一定程度は見えたと思う。しかし、それは起爆力のある勢いにはならなかった。

◆政権側から見た公明党、共産党、民主党
 議員数から言えば、公明党を入れた与党が3分の2以上を占める “圧勝”だったことは現実で、これを「新五十五年体制」(自民一党支配体制)の始まりと見るかどうかは別として、自民党の天下は今後10年位も続くだろうとも言われる。しかも、与党内抑止力を期待される公明党はその母体の創価学会と自民党の間に政教分離問題を始めとして底しれぬ闇(詳しくはネット情報)があり、首根っこを押さえられた公明党はいざという時には、自民党について行くしかない。
 また、議席が21人と倍増した共産党については、共産党が自民党との対決を打ち出して「自共対決の構図」を宣伝するのは、案外自民党も歓迎するところなのではないかと思う。というのも自民党は、共産党がこれ以上に大きくなって政権運営に影響を及ぼすようにはならないと思っており、むしろ自共対決の構図が目立つほど、その間にいる野党(民主党や維新の党)の影が薄くなると考えているに違いないからだ。

 一方、民主党については、安倍はその代表選について口では「新たな強力なリーダーが誕生し、お互いに切磋琢磨することを期待する」などと言ってはいるが、内心では民主党のバラバラ状態を冷ややかに見ている筈だ。集団的自衛権、憲法問題を始めとして、原発再稼働についても意見はバラバラなのだから、そこをつついて行けば民主党がまとまって政権を脅かすような怖い存在になることはないと見切っているのかもしれない。
 民主党に関する限り、今回の選挙で明らかになったことは、安倍政権の危険性を取りあげて「抑止力」を訴えるだけでは、これ以上の大きな支持は得られないと言うことだろう。安倍政策のリスクを一つ一つ批判しているだけでは、安倍政権が作った土俵の中で戦っているだけのことになる。これからの民主党に必要なことは、安倍自民党の価値観に対峙する新たな政治理念のもとに「説得力のある政策」を打ち出すことにあり、それがない限り政権政党(あるいは有効な抑止力)としての民主党の復活はないということがはっきりしてきたわけである。

◆安倍自民党の土俵を越えて、民主党が議論すべきテーマ
 その意味で、今の代表選挙は国民に新しい民主党の姿をアピールできる千載一遇のチャンス(あるいはラストチャンス)なのだが、果たして民主党にその自覚はあるだろうか。11日の「サンデーモーニング」(TBS)を見ていても、民主党代表選の評判は悪い。「自民党に対峙することを共通の目的とする(細野)」と言いながら、野党再編か自主再建かでの足の引っ張り合いだけがクローズアップされている。
 私の個人的な意見では、経済政策については岡田氏の「財産税や累進課税の見直しなどを行って、富める人と貧しい人の格差を少なくすることが、経済活性化にも必要」や、長妻、細野両氏の「集団的自衛権については反対、疑問が多い」という意見に賛成だが、(自民党と変わらない)岡田氏の原発再稼働論は頂けない。しかし、いずれも議論が細かすぎて国民には互いの違いや自民党との違いが明確には分かりにくい。ここでより重要なことは、3者協力して議論の土俵を広げて安倍政権との対抗軸を立て、そして互いに政策を競い合うことではないだろうか。

 そのために例えば、「戦後レジームからの脱却」などと言った安倍の国家観に対抗して、国の安全と平和の構築をどう考えて行くのか。戦後民主主義や平和主義に基づく中道路線、国際協調路線を掲げるなどの分かりやすい土俵を作るべきだと思う。さらには、貧富の格差を拡大するアベノミクスに対抗して、国民にとっての真の豊かさを追求するにはどうするかなど、脱成長や共生に関る「より根元的で大きな枠組み」を提示して、3者が互いに議論を深め合う必要があるのではないか。より具体的には、以下のようなテーマの一つ一つについて方法論(政策)を戦わせれば、安倍政権の復古的、強権的な国家観との違いを明確に出来るのではないかと思う。

◆民主党の方向性として明確にしておくべき対抗軸
@ 「経済成長に依存しない真に豊かな社会の構築」
格差拡大につながる成長路線のアベノミクスに対抗して、岡田氏の言うように「財産税や累進課税の強化」を行って、沈みゆく社会の中間層を引き上げる。あるいは、非正規雇用から安心して生活設計ができる正規雇用に移行する政策を取り入れるなど。経済成長に頼らない真に豊かな社会とは何か。
A 「平和構築のための外交政策と安全保障」
自国の主権が及ばない海外での武力行使については、憲法で禁じられているのだから、集団的自衛権は憲法改正の手続きの中で議論すべきである。同様に、アメリカとともに世界の警察を目指す「積極的平和主義」に対抗して、平和外交を基にした平和の構築を目指すにはどうすればいいか。
B 「多様性を認める成熟した民主主義の追求」
安倍政権の、国民より国家を重視する政策、国家主義的、秘密主義的政策に対抗して、戦後日本が築いてきた民主主義の原点をどう評価するのか。そうした理念の上に、特定秘密保護法や憲法改正をどう考えるのか。あるいは、歴史認識についてどう考えるのか。
C 「未来に禍根を残さない新しいエネルギー政策」
自民党の原発維持と再稼働政策に対抗して、核燃料サイクルをどうするのか。再生可能エネルギーを含めて将来のエネルギー政策をどう考えるのか。
D 「人口減を見据えた地方の活性化と権限移譲」
安倍政権のバラマキ的政策に対抗するには、どうすればいいか。地方の創意工夫をネットワークして拡大していくための方策をどうするか。あるいは、道州制の導入など、抜本的に地方に権限を委譲することまでを考えるのか。

◆プロデューサー不在の民主党
 この他にも財政赤字を解消するための行政のスリム化などがあるが、以上のテーマは、実は私もこれから研究して行きたいと思っているテーマでもある。まだこれと言った具体的方法が見えているわけではないが、これらは基本的には安倍政権の国家観、歴史認識、思考傾向に対する危機感とリンクしている。従って、こういう議論を続けて行けば、民主党が目指す「改革的中道路線」がより明確に印象付けられ、安倍自民党との違いもはっきりして来ると思うのだが、どうだろう。
 自民党に対する危機感を共有し、「改革的中道路線」の枠内で3者が一致すれば、方法論は違ってもいい。そこを強調すれば国民にバラバラ感を与えず、足の引っ張り合いとも映らないで済むはずだ。その上で、アベノリスクの一つ一つを国民に効果的に伝えればいい。それが国民の感覚と響き合えば、民主党の存在感は高まり、自民党も悠長に構えていられなくなる。議論は将来の民主党のマニフェストにもつながり、代表選は意味あるものになるだろう。

 今は多くのメディアが代表選挙を取りあげる千載一遇のチャンス。このチャンスを生かして民主党は改革の議論を深化させることができるか。そして民主党は国民と危機感を共有して、この先の方向性を打ち出すことができるかどうかが問われる。しかし、それにしても問題は、(それが民主党らしいと言えば言えるが)折角のチャンスにこの代表選挙の総合的な演出を行う“プロデューサー”の顔が見えないことである。