日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

原発と日本の無責任の体系 16.9.25

 着工から30年、完成後僅か3ヶ月動いただけでナトリウム漏れ事故により停止して20年。1.2兆円をつぎ込んだ高速増殖原型炉「もんじゅ」の廃炉がようやく年内には決まろうとしている。全く動かないままでも年間200億円がかかり、たとえ動いたとしても(商業炉ではないので研究のために)10年で6000億円。廃炉にしても3000億円はかかるという巨大なお荷物である。ようやく廃炉が決まった背景には、やはり莫大な借金を抱える日本の現実がある。客観的に見れば、今の日本はもはや、これだけ先の見えない“金食い虫”を維持して行く状況にはなく、ようやく安倍政権も国民の批判に耐えられないと判断したからだろう。(あるいは年内の衆院解散のための準備か)
 
しかし、何の見通しもない「幻の核燃料サイクル構想」を維持するために莫大な金が使われているのは「もんじゅ」だけではない。青森県六ヶ所村の再処理工場でも、すでに2.2兆円がつぎ込まれながらトラブル続きで23回も運転開始が延期されている。これとて、仮に使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出しても、高速増殖炉がなければ使いようがなく、すでに計画は破綻している。その破綻を覆い隠すために、官僚たちは今回も「転んでも只では起きない」、「誰も責任を取らない」カラクリを幾つも用意して、相変わらずの行動原理で動いている。懲りない面々である。

◆ここ数ヶ月の原発を取り巻く状況
 その詳しいカラクリは別の機会に書くとして、今回は、このところの原発を巡る動きについて整理しておきたい。ここ数ヶ月に限っても、実に様々な動きがあり、これを概観してみると原発を巡る日本の原子力行政が出口のない袋小路に入り込み、混迷の度合いを深めつつあることが浮かんでくる。そうした袋小路の状況を変えられない日本的な思考とは何なのか、その根底に潜む日本特有の病根とはなにか。それは「もんじゅ」の廃炉問題にも、そして最近騒ぎになっている「豊洲の卸売市場」問題にも、あるいは先の戦争にも共通する何かなのだろうが、その前にまず、ここ数ヶ月の原発を巡る動きを幾つかに整理しておきたい。

再稼働をめぐる攻防。エネルギーのベースロード電源とはほど遠い状況が続く
 8月12日、四国電力は愛媛県の伊方原発3号機を再稼働させた。細長く伸びた佐多岬半島の集落(4700人)は陸の孤島とも言われ、根元近くにある伊方原発は、放射能が漏れ出すような過酷事故の場合、原発の近くを通る命綱の国道が避難に使えるのか、多くの不安を積み残したままの「見切り発車」となった。すでに、再稼働差し止めの訴訟が広島、松山、大分の各地裁に起こされており、司法の判断によっては、関西電力高浜原発3,4号機のようにいつ再稼働が止められるか分からない状況だ。
 また、9月5日には去年再稼働した九州電力の川内原発1,2号機について、新しく就任した三反園訓(さとし)知事が安全確認のために即時停止を要請した。自治体の責任となる避難計画の点検もその理由の一つに挙げている。国の原子力基本計画には、「立地自治体や住民など関係者の理解と協力が必要」とうたっており、再稼働には自治体の首長の同意が必要とされてきたこれまでの経緯を踏まえれば、知事の停止要請は重いはずだが、九電側は(知事の要請は法的根拠がないとして)要求を拒否。ただし、2つの原発とも10月、12月には定期検査で止まる事になっており、定検後の再稼働は不透明だ。

 このほか8月3日には、原子力規制委員会が運転開始から40年を超える関西電力の美浜原発3号機に対して、新基準による審査合格証を授与。事実上、あと20年は延長できるとする裁定を下した。6月に認可した高浜1,2号機に続いて期限切れ寸前での駆け込み裁定である。40年廃炉は原則であり、それを超えての認可は例外だったはずだが、電力会社の都合に合わせるように急いで仮の適合証を与える規制委のやり方は、「40年廃炉の骨抜き」と批判されている。老朽原発については、以前も書いたが放射線による圧力容器の経年劣化が致命的問題になっており、これには議論が残っている(原発老朽化問題研究会)。いずれ再稼働となれば、これも司法の場での争点になるだろう。
 原発の耐震設計のもとになる基準地震動(耐えるべき揺れの強さ)についても規制委員会の姿勢が問われている。地震の専門家集団(政府の地震調査委員会)から「新基準は見積もりが甘い」と指摘された問題だ。おかしな事に、地震の専門家がいないにもかかわらず、規制委員会はこの指摘に耳を貸そうとせず、「規制委は信頼損なった」(毎日8/30)と批判されている。こうした迷走の中で現在動いている原発は全国43基中、僅か3基に過ぎない。国のエネルギー基本計画の中で重要なベースロード電源と規定された原子力も名ばかりで、エネルギー需給見通しの中で20%〜22%(2030年)は「絵に描いた餅」になりつつある。

原子力は本当に安いのか。安全対策費がどんどん膨らんでいく
 その一方で、原発の安全対策費はどんどん膨らんでいる。電力会社11社が見込んでいる対策費は、去年の見積もりからさらに6千億円増加して、少なくとも3.3兆円に上ることが分かった(7/31朝日)。40年超の原子炉の追加安全対策費などだが、設置が義務づけられたテロ対策施設などは、まだ一部しか見込んでおらず、安全対策費はさらに同様のペースで増え続けるとみられている。再稼働を目指す中部電力浜岡3〜5号機でも、補強工事の必要な箇所が500カ所も増えるなどして、完成が見通せなくなっている(写真は高さ18mに及ぶ防波堤)。今の状況下で、再稼働が遅れれば遅れるほど費用の回収は難しくなり、経営が行き詰まるか国民負担が重くなる。いろいろな仮定を付けて、原子力ムラは「原子力は安いエネルギー」と主張してきたが、原発を取り巻く厳しい状況で、その根拠は次々と崩れている。

先が見えない福島廃炉。誰がその費用を負担するのか
 加えて、本当は電力会社の責任で処理すべき福島第一原発事故の後始末である。これが、廃炉技術の困難さもさることながら、費用の面でもますます先が見えなくなっている。300億円以上の巨額の金をかけて作った凍土壁が完全には機能せず、大雨が降ると地下の汚染水が地表からあふれ出そうになっているし、プールに入った使用済み燃料の取り出しも1、3号機ではまだ手つかず。まして溶け落ちた炉内の燃料は、どこにどういう状態であるかも分からない。いつ取り出しが始まるのか、誰も見通せない。
 この状況で、新たに見込まれる廃炉費用8.3兆円を国民に負担させる案が浮上してきている。しかも、理屈の通らないことに、事故とは無関係の新電力の利用者にも負担させる案だというので、せっかく東電離れをした消費者の怒りを買いそうだ。廃炉だけでなく、除染費用も賠償金についても、この先どれだけ膨らむのか分からない。誰にも見通せない費用を、その都度、国民が負担することになる訳で、それでも事故を起こした責任を誰も取らない状況が続いていく。

◆今も続く無責任の体系。少しでも変えて行くには?
 以上は僅か2,3ヶ月の原発を巡る動きだが、こうした目の前の迷走の先にあるのが、「核燃料サイクル」をどうするかという問題である。原発を再稼働させて、そこから出る使用済み燃料を六ヶ所村に集めて再処理し、取り出したプルトニウムを高速増殖炉で燃やして発電しながら、さらにプルトニウムを増やす。再処理で出てきた高レベル廃棄物はガラス状態に固化して地中深く埋めて何万年も管理する。あるいは、廃炉作業の過程で出てくるレベルの高い廃棄物を、地下70メートルに埋めて電力会社が400年、その後は国が10万年管理する。こうした荒唐無稽の計画(10万年は人類の歴史にも匹敵する)は、今や目の前の原発を続けるための「その場しのぎの言い訳」に過ぎないことが明白になりつつある。
 にもかかわらず、こうした計画が官僚や政権内で持続しているのは何故なのか。一つには巨額の利権が絡むからだろうが、そればかりではない筈だ。そこには、ダメと分かっても身を挺して流れを止めようとする勇気ある責任者が誰もいないこと。互いに責任の所在を曖昧にしておく姑息な保身の知恵、自分の代で責任を取らずに問題を先送りする官僚制度など。丸山真男が先の戦争に関して「無責任の体系」と呼んだ構造が今も続いている。しかも、この無責任の体系が続く限り、幾ら安全対策を強化しても事故は再発し、致命的な結果を国民にもたらすことになる。それは、今回の「豊洲卸売市場」騒動を見ても見事なまでに変わらない。 これを少しでも変えて行くには、国民自らがこの「懲りない面々」の責任をしつこく追求し続けるしかない。

子ども食堂と見えない貧困 16.9.15

 日本の貧困については、以前にもデータを調べて書いたことがあった(「安倍政治の中の富裕と貧困」)。例えば2012年で言えば、日本の相対的貧困を示す、年収122万円(月額およそ10万円)に満たない世帯の割合は16.1%。また、そうした世帯で暮らす17歳以下の子どもの割合(子どもの相対的貧困率)も16.3%で、過去最悪を更新した。これは、子どもの約6人に1人が相対的な貧困に分類されることを意味しており、背景には母子世帯や非正規雇用の増加といった、子育て世代全体における貧困化がある。特に、シングルマザーなどの1人親世帯に限ってみれば、実に半分以上の54.6%の子どもが相対的貧困であり、これは先進国でも最悪の水準になっている。

◆貧困報道をバッシングする
 しかし、この相対的貧困というのが、飢餓状態のような「絶対的貧困」と違って中々理解されにくい。先日も、シングルマザーと暮らしている女子高生の貧困の様子を報道したNHKニュース(8/18)に、ネット上で「あれは貧困ではない」などと批判が上がり、片山さつき(参院自民党)までが、NHKに文句を言うという何とも呆れたパフォーマンスを見せた。税金から2900万円近い年収を得ている国会議員が、パソコンが買えずに進学を諦めかけている女子高生をバッシングする側にたつ無神経さが分からない。政権党の一人として、日本には貧困がないとでも言いたいのだろうか。
 一家が月収10万円以下で暮らすことがどんなに厳しいものか。普通の人々からでさえ痛みを持って想像しにくいのに、片山などに分かるわけはない。相対的貧困でなくとも、今や2千万人を超えた日本の非正規労働者の平均実質賃金は男性で年収226万(月収19万)、女性で144万(月収12万)だ。一部の富裕層が裕福になる一方で、勤労者の貧困化は進んでおり、資産ゼロ(貯金ゼロ)の世帯は30.4%に上っている(1980年代は5%)。たまたま先日、こうした貧困家庭に向き合い、支える側に立って努力している地元の人々の話を聞く機会があったので、その時の様子を紹介しながら、思うところを書いてみたい。

◆子ども食堂から見えてくる子どもの貧困
 それは「子ども食堂から見えてくる、女性と子どもの貧困」というトークセッションで、地元越谷市で「子ども食堂」を始めた2人の女性、2人の女性市議、それに市長をパネリストにして行われた。私も参加している(超党派の市会議員と市民とによる)「さいたま政経セミナー」メンバーの誘いで聞きに行ったのだが、いろいろ勉強になることが多かった。「子ども食堂」とは、貧困家庭だけではないのだが、共働きやシングルマザーで食事の用意が困難だったり、偏ったりしている子供たちに、場所を借りて安心な食事を無償で提供しようというもの。
 自身もシングルマザーで、小学1年の男児を育てているKさん(みなみこしがやこども食堂代表)によると、働きながら食事を食べさせる苦労を、同じような境遇の人々と分かち合おうと30万円の資金を集めて始めたという。月に2回、食材を集めて市の地区センターの調理室を借りてボランティアやお母さんたちと30食分の食事を作り、子供たちに食べさせる。資金30万円は、いま注目のクラウドファンディング(READY FOR)で集めた。趣旨に賛同する人々からネットで資金を募る方法で、30回分(一回の食材費7千円、会場費3千円)が集まったという。

 「子ども食堂」では、地域の農家から野菜の提供を受けたりして出来るだけ材料費を抑えながら、安心の食事を提供している。シングルマザーのKさんは毎日、都内の勤め先を6時10分前に終えるとダッシュで7時までに学童保育に駆けつけて子どもを引き取り、それから食事を作ったり洗濯したりという生活だった。疲れ果てて時々「ガスト」や「サイゼリヤ」で食事をすると、同じような母子がいるのが分かる。そういう子どもたちのために無料の食事を提供したかったという。集まる子供たちは、親が作り置いた食事を一人で食べていたり、あるいはそれもなくて食事を抜いたりしている子どもたち。
 休日の昼間も公園で遊んでいる子供たちの中には、昼食時になっても家に帰らない子もいて、聞いてみると「家に帰っても食べるものがない」と言って遊び続ける。あるいは、給食がない夏休みが終わると目立って痩せて出てくる子供たちがいる。そういう子供たちを見つけて食べに来て貰うが、一方で、来て欲しい子どものいる家庭に食堂の案内チラシを配っても中々来てくれない。行けば「貧困家庭」と思われるのが嫌で我慢しているのかも知れないという。「子ども食堂」を始めたもう一人のKさん(せんげん台こども食堂代表)は、今の実情から言えば、各小学校の地区単位でこうした「子ども食堂」が必要なのではないかという。

◆自己責任論は「勤労国家レジーム」の遺物
 シングルマザーの家庭の子どもの54.6%が相対的貧困と書いたが、その厳しい状況で、シングルマザーの大部分は低賃金で働きながら子供たちと必死に暮らしている。こうした現実がありながら、その生活のディテールが社会に共有されず、思いやりの感覚が作れないのはどうしてなのか。一つには、片山さつきに代表されるように、今の社会が弱者に無関心で冷たい社会だからだろう。「今の時代に食べられないはずがない。貧乏なのは本人の努力が足りないからだ。離婚するからいけないのだ。高校生になったらアルバイトをすればいい。甘えている」と言った意見だ。そういう冷たい視線の中で、貧困の実態が隠されて行く。
 いつから日本はこういう非寛容な社会になったのか。一つには、かつて自助努力で豊かさを獲得してきた高度経済成長時代の価値観(勤労国家レジーム)が、低成長の今も「自己責任論」となって持続し、弱者に冷淡な国民感情を作っているからだという(「分断社会を終わらせる」)。著者の一人、井出英策はこれを「自己責任の罠」と呼び、分断社会を作る一因としている(「格差と分断から共生の社会へ」)。

 今の日本はそんな高度経済成長時代の価値観が通用する時代ではない。超高齢化社会の進行で経済成長は足踏み状態。一部の富裕層は別として、かつての中間層が没落して貧困層が拡大している。それを変えて安定した豊かな社会を維持するには、かつての「勤労国家レジーム」を脱却して、国民各層が助け合う「共生社会」を目指さなければならない。それが、国民の安定と安心をもたらして消費や投資を促し、次の成長にもつながっていく。そうした頭の切り替えが出来ずに、弱者をバッシングして自分を正当化しようとしている。経済成長の幻影の中にいるのは、政権も国民の多くも同じなのかも知れない。

◆先進国で最低の子育て支援。遅れる子どもの貧困
 セッションでは、子育て支援が進んだ北欧諸国などを例に、日本の遅れを指摘する意見も出された。午後5時になれば、夫婦揃って退社して家庭に戻れるという働き方。さらには、日本では、離婚した父親が子どもの養育費を払っているケースは僅か20%(5人に1人)だが、先進国では、そうしたことは許されないと言った指摘だ。事実、日本の子育て支援の国家予算はGDPで1%(2009年)、教育予算が3.5%(2012年)と、先進国で最低水準にある。
 子どもの貧困は、やがて大きな社会リスク(一人あたりの生産性の低下、青少年犯罪の増加など)につながることを考えれば、日本の政府はあまりに目先の成長しか考えていないように思う。セッションに参加した市長の方も、膨れあがる高齢者対策で手一杯で、子どもの貧困にまで頭が回らない様子だった。そういう社会状況の中で、待っていられないと始まった「子ども食堂」だが、厳しい資金繰りに直面しながら、善意の人々によって支えられている。後日、ささやかながら一回分の寄付を振り込んで来たが、頭が下がる思いだった。

 しかし、それにしても思うのは、最近の首相の外遊にともなう大盤振る舞いである。アフリカに官民合わせて3兆円を投資し、エジプトの考古学博物館にポンと500億円を提供する。ASEANに450億、フィリピンには大型巡視船の供与と、止まるところを知らない。一体何を考えているのか。外交問題も大事だろうが、日々貧困と直面している人々はどういう思いで、この大盤振る舞いを見ているだろうか。

時代と格闘する大型番組を 16.9.4

 今から11年前になるが、この「メディアの風」を始めた時の思いは、ジャーナリストの端くれとして「私たちは今、どういう時代に生きているか」、「時代はどこに向かおうとしているのか」、そして「この時代をよりよく生きて行くにはどうすればいいか」を考えたいと思ったからだった。その意味で、「時代」と言うのはずっと頭から離れないテーマだった。これは、ディレクターの時はもちろん、現役最晩年にBS放送で「世界潮流」(2003年〜)という番組を企画して、世界がどういう方向に動こうとしているのかを知りたいと思った頃からも変わらぬ関心だった。
 しかし今、この「時代」というものが、ますます捉えにくくなっているように見える。そのためかどうか、「時代」に迫る番組が少なくなったようにも感じる。現在私は、あるTV制作会社の企画アドバイザーとして企画会議の座長をしているが、テレビ局の企画募集案を見ても、目の前の視聴者は見てはいても、「時代」をテーマに世界の動向に迫ろうとする企画の募集は少ない。当然、唯一の拠り所である視聴率アップを狙う企画の募集ばかり。もちろん一制作会社の力の及ぶところではないが、もっと時代に迫り、その奥底に流れている真実を探るような大型シリーズは出来ないものだろうか。

◆時代に迫る大型シリーズが姿を消した?
 振り返って見ると、一頃のNHKスペシャルは毎年のように大型シリーズ番組で、時代というものに迫ろうとしてきた。すでにグローバル化の時代だったから、取材対象は当然、世界的な規模になった。放送記録を見てみると、例えば「21世紀への奔流」(96年〜97年)、「世紀を越えて」(99年〜00年まで45本)。あるいは、「ユーラシア 21世紀の潮流」(03年)、「21世紀 世界の潮流」(05年)、「激流中国」(07年〜08年)、「マネー資本主義」(09年)などなど。これらはすべて、Nスペの説明文にもあるように「一人一人の制作者がまさに時代と格闘した」番組だった。
 しかし不思議なことに、これ以降の記録を見ると、世界レベルで時代に迫ろうとした大型シリーズは殆どない。僅かに3回シリーズの「激動の世界」(15年)があるくらいで、単発番組で時代の変化をとらえる番組はあっても、トータルで時代に迫る番組が見当たらない。国内問題を扱った「原発メルトダウン」、「日本新生」、「東日本大震災」などのシリーズ企画が気を吐く中で、これは一体何故なのか。それほどまでに、今の世界は先が見えないカオス状態に入ってしまったのだろうか。

◆激動の時代を読み解く鍵は?
 確かに、1991年にソ連が崩壊し、アメリカが唯一の超大国になって世界が安定すると思われたのも束の間、世界はかつてない混迷の中に入り込んでしまった。2001年の9.11同時多発テロをきっかけに、アフガンやイラクに攻め込んだアメリカが中東の泥沼化を呼び込み、アフガンのアルカイダから派生したイスラム過激派ISの増殖によって、世界はテロの危機にさらされている。理想を掲げてまとまってきたUEも、ギリシャの経済危機や中東から押し寄せる移民・難民によって根底から揺すぶられている。
 強欲な資本主義(新自由主義経済)が世界にはびこり、地球的な格差と貧困が広がる中で、人権や民主主義の理念を広げて来たアメリカの影響力が低下。その間隙を狙うかのように、かつて帝国だった中国やロシア、そしてイラン、インドなどの大国が膨張の機会を狙っている。これらは、わずか四半世紀の激しい変化だが、その奥底に流れている「時代」を読み解く鍵はあるのだろうか。そんな思いを胸に周りを見渡してみると、様々な研究者が仮説を立てながらこの鍵(謎)に迫ろうとしているのが見えてくる。残念ながら私の力足らずで、ごく断片的な紹介にならざるを得ないが、そうした記事から「時代を読み解く鍵」を探ってみたい。

◆120年サイクルで変わる覇権国家
 例えば、思想家の柄谷行人は「新自由主義と戦争」と題して、様々な研究者の研究を引用しながら次のようなことを書いている(「憲法の無意識」)。歴史的に見て、一つの覇権国家が覇権を持続するのは60年に過ぎない。覇権は確立されるやいなや、没落し始める。なぜなら、覇権とは軍事・政治もさることながら、究極的には経済力であり、生産・商業・金融の3部門で他を圧倒する状態をいうが、こうした状態はほんの短い間しか続かないからだ。今のアメリカも既に生産・商業の分野で衰退し始め、金融でのみ他を圧倒しているに過ぎない。
 アメリカが覇権を握ったのは、第一次大戦後の1930年頃から。そして60年経過した1990年頃から衰退は始まり、現在は次の覇権を巡って大国同士が争っている状況だという。この争いは、過去のサイクルを見ても60年続く。従って、覇権を巡る変動は120年サイクルになる。しかも今、この争いの中で主導的役割を果たすのは、国家をしのぐ存在になった新自由主義的な金融資本であり、それは見境なく無限に交易の拡張を目指す意味において、「帝国主義的」であるという。つまり、現在はその弱肉強食の帝国主義的経済のもと、大国同士が次の覇権の座を巡って争っている時代ということになる。

 不気味なのは、歴史的段階としての新自由主義が、かつての帝国主義と類似するだけでなく、その帝国主義的競争は往々にして戦争を招くと言うこと。また、同一の空間においても「歴史の反復」といった構造をとることである。例えば現在の極東アジアでの構造だ。これらの国々は領土問題など第二次大戦の負の遺産を抱えたまま、今も対立の構図を引きずっており、それは120年前の日清戦争直前の大日本帝国、清朝、李氏朝鮮、ロシア帝国の対立構図に似ているという。その時の日本は清やロシアと戦争し、朝鮮を併合したあげく、アメリカと覇権を争って敗北した。歴史の反復と言うが、こうした戦争を繰り返さないための「有効な知恵」が必要になる訳である(それを柄谷は憲法9条に求める)。

◆時代の大転換を番組で見たい
 以上が柄谷の説だが、問題はその帝国主義的な新自由主義経済、言い換えれば「グローバルに統合された金融市場」、あるいは「弱肉強食の強欲な資本主義」の行方である。「資本主義の行方」についての様々な論文を整理した水野和夫(法政大教授)のオピニオン(8/23毎日)によれば、新自由主義経済は既に、国民国家の単位で組織された社会より優位に立ち、国家主権をも空洞化させている。この状況でアメリカが唱えてきた民主主義の理念は既に色あせ、世界の尊敬の対象にもならない状況にある。もう一度、民主主義を機能させるためには、超国家的次元で市場を監督下に置けるかどうかが問われている。
 しかし一方で、強欲な資本主義そのものも成長システムが機能不全に陥り、先の見えない状況に入りつつある(「資本主義の終焉と歴史の危機」水野和夫)。しかも、「(資本主義を生み出した)アングロサクソン世界は、何かを生み出そうとしている」(エマニュエル・トッド)とは言うものの、資本主義の崩壊の先に何が来るのかは、誰も見通せない。それが今の時代状況だと言う。そして、世界がこうした難問を抱える中で日本はというと、何の問題意識も持たずにピント外れの成長路線で幻影を追って傷を深くしている、というのが水野のアベノミクス批判だ(「資本主義の終焉とアベノミクス」)。

 というわけで今の世界は、次の覇権を巡る大国同士の争いと強欲な資本主義経済の先行き不透明という狭間で苦しみながら、歴史的な大転換を迎えつつあるようだ。そしてその影響は、私たちの日常に直結するというのがグローバル時代の宿命でもある。最悪の場合、大国同士の戦争にでもなれば日本も、ひいては人類の未来もない。とすれば、(最初に戻るが)テレビ局は組織を上げて時代と格闘し、大型シリーズでその未来を見通し、最悪の事態を避ける知恵を探って欲しい。そして、そうした議論に政府も国民も巻き込んで欲しいというのが、私の願いである。

膨張する中国との神経戦 16.8.25

 東アジア海域での緊張が高まっている。東シナ海では、8月に入って中国漁船が大挙して尖閣諸島の接続水域に。それに乗じて中国海警局の公船が尖閣の領海侵入を繰り返す。漁船230隻は漁期を考えれば、特に多いとは言えないという見方もあるが、中国公船の活動はこれまでになく活発だ。これには、南シナ海で中国の領有権主張が国際法上の根拠がないと判定されたことから目をそらさせるためだとか、南シナ海問題で中国を非難し続ける日本への意趣返しだとか、来年の人事案件が議論されている中国・北戴河での要人会議に向けた強硬姿勢のアピールだ、といった解説がなされている。
 日本政府は抗議を繰り返しているが、その時々の国際情勢(例えば来月のG20開催など)によって、中国が一時的に軟化することはあっても、その基本姿勢は確固として変わっていない。「海洋強国」建設を掲げる習近平体制は、外洋展開のための「第一列島線」(日本列島から沖縄、台湾へとつなぐ防衛ライン)や、「第二列島線」(グアムやサイパンまで拡大)を想定して着実に手を打っている。尖閣については、段階的に小さな行動を重ねて既成事実化する「サラミ戦術」に加えて、「領有権争いがあることを示す段階は終わった。次は実効支配だ」(軍関係者)という強硬意見も出ているという。

 海洋強国を目指して「膨張する中国」に対しては、日本はもちろん、アメリカも参加して神経戦(心理的バトル)を戦っているが、これに最近の北朝鮮ミサイル発射問題、中国が神経をとがらす韓国への迎撃ミサイルシステム(THAAD)の配備問題、さらには対中国強硬派の稲田防衛相の就任など、様々な要素が加わって神経戦はさらに複雑な様相を見せている。神経戦が神経戦で止まっていればいいが、双方がヒートアップしてどこかで火がつけば、軍事同盟が起動して、東アジア海域全体が戦闘モードになりかねない。米軍元高官が言うように、その危険は日々高まっている。そうした事態を何としても避けるために、日本はどうすべきなのだろうか。

◆「ケタ違いの国」になる中国。日本人はイメージできない?
 変化が激しい中国の全体像はつかみにくい。面積は日本の25倍、人口は13億(日本の10倍以上)。大陸沿岸には人口1億を超える広東省をはじめとして、5千万から9千万の省が幾つも並ぶ。GDPも2009年に日本を追い越したと思ったら、もう日本の2.6倍。アメリカの6割にまで迫っている。国防費もこの10年で4倍に増えた。中国との科学協力を進めている文科省の元官僚が口癖のように「中国はケタ違いの国になる」と言う位、中国は今や科学技術のあらゆる分野で財政的、人的投資で日本を圧倒しており、その豊富な資金を目指して世界から科学者も集まり始めている。
 統計数字にいろいろ難癖をつける向きはあるにしても、世界はもうこの巨大な経済的・軍事的規模の国を無視するわけにはいかなくなっているが、日本人には中々それがイメージできない。一つには、戦後しばらくの間、日本は中国を援助する立場だったし、中国の貧しい時代を見過ぎて来たからだ。爆買いだって、この2,3年の事だ。何となく上から目線で眺めていた貧しい中国が、やがてアメリカと肩を並べる覇権国家になるかも知れないなんてと、その急速な変化が素直に受け入れられない。その甘い認識を危惧する言葉が「中国はケタ違いの国になる」なのだろう。

◆覇権を目指して膨張する中国。衝突回避は可能か
 以前にも書いたが、中国のように経済的にも軍事的にも大国となった国家は、どういう政治形態を持つ国家であれ、必ず世界的な覇権を求めることになる。なぜなら、全世界に君臨して世界の安全を守ってくれる中心的な権威がない状況で、国家が生き残りを図るためには、相手より強くなることが最も合理的な方法だからだ。そのためには同じような力を持つ相手を軍事的にも地政学的にも、経済的にも超える必要がある。これは「中国が悪い国だから」、「文化的に問題があるから」ではなく、大国とは常にこう振る舞うものだというのがミアシャイマー、シカゴ大教授の説である(「大国政治の悲劇」)。 
 その時、中国が目指すのは第一に、アメリカの力をアジアから排除したい。第二に、アジアの覇権を握りたい。すなわち日本やロシア、インドといった周辺国より強くなって軍事的な挑戦を受けたくない。第三に、現在の領土体制(尖閣、台湾、南シナ海)を変えたい、ことだと言う。これは、現在のアメリカも日本も受け入れることが出来ない挑戦であり、米中は必ず衝突すると教授はいう。これは、いわゆる「トゥキディデスの罠(*)」を思わせる、米中に対する重大な警告と受け止めるべきだろう。

 現時点では、アメリカは尖閣の領有権で中国と厳しく対立する日本と、THAADを配備しようとする韓国をカードに。そして中国は核実験とミサイルで日米韓との緊張を高める北朝鮮をカードにしながら、危険をはらんだ神経戦を戦っている。しかし、こうした神経戦が神経戦で止まっている保証はどこにもない。尖閣諸島や南シナ海での艦船同志の衝突、あるいは北朝鮮のミサイル誤射などによって武力衝突が起きたら、それぞれの軍事同盟に引きずられて、東アジアは核戦争の悪夢にさらされる。地域的な紛争が軍事同盟のネットワークによって世界規模の戦争になった第1次大戦の例を見るまでもなく、防衛のための軍事同盟あるいは安全保障は、何ら平和を保証するものではないのだ(「憲法の無意識」)。

◆内部事情にも目を向けて、硬軟取り混ぜた神経戦を
 軍事的、経済的に強大になり、覇権を目指すことを運命付けられたような中国だが、一方でその複雑な内部事情にも目を向けて置かなければならない。ゾンビのような不良国有企業、地方政府の巨額の借金、少子高齢化の深刻な影響、権利意識に目覚める多民族国家。それに幹部同士の熾烈な権力闘争もある。こうした国内問題を抱えながら、一党独裁を維持し、世界の覇権を狙うのは容易なことではない。国内向けには対外強硬策を採ってナショナリズムを満たすと同時に、国外に向かっては孤立を避けるために、先進国としての上品な顔も見せなければならない。
 覇権を目指す「膨張する中国」と複雑な国内矛盾に苦しむ中国。この2つの実体を冷徹に見据えながら、日本は、領土も守り戦争も避ける高度な作戦を立てなければならない。神経戦は熱くなった方が負けだ。どこかの右翼のように一々熱くならずに、冷静に作戦を練る必要がある。第一に重要なのは、中国をいたずらに刺激して、彼らの被害妄想をかき立てないことである。不用意な蔑視や中国敵視政策が中国のナショナリズムを刺激し、衝突の危険性を高める要因になる。中国には大国としての面子があるのだから、それなりの敬意を払う「度量の広さ」が日本には必要になってくる。

 その上でやってはいけないことの一つは、アメリカと連携するのは大事だが、日本の方が先走って「中国封じ込め」などに走らないことである。中国が巨大化した今、それは幻想に過ぎないし、アメリカの覇権維持のために日本がカードとして使われるだけだ。覇権争いに巻き込まれたり、使い捨てにされたりする危険がある。二つ目は、先般、外務省が尖閣での漁船や公船の映像を公開したように、中国の理不尽を世界に訴え、国際世論を味方に付けることである。覇権を目指す中国にとって、国際的孤立は最も気にするところ。中国の理不尽なやり方に関しては、これからも世界を意識した宣伝に力を入れるべきだろう。危機回避のルール作りも大事だ。
 さらには、中国との経済関係を深くしながら、どこかで中国と手を握る部分を見つけ尖閣問題を相対的に小さくすることである。両国の間で、尖閣問題だけをクローズアップするのは得策ではない。その意味で、強硬派の稲田朋美を防衛大臣に起用したのはどうなのか。「毒をもって毒を制す」などと言う人もいるが、中国敵視政策と誤解されかねない稲田の起用は、中国の疑心暗鬼を生んでいる。国際世論を相手にするには、日本も軍国主義の復活などといった言われなき批判をされないように脇を固めて、右手で握手しながら左手でけんかするような、硬軟取り混ぜた戦術を編み出す芸当ができないといけない。そうでないと、この歴史的な転換点での長く続く神経戦を勝ち抜くことは出来ないだろう。
*)「新興の大国は必ず既存の大国へ挑戦し、既存の大国がそれに応じた結果、戦争がしばしば起こってしまう」現象

「象徴天皇」に込めたお気持ち 16.8.16

 8月8日に行われた「象徴としてのお努めについての天皇陛下のお言葉」のビデオメッセージについては、既に多くの論評や解説が出されている。実に深く考えられ、練られたお言葉だと思うが、メディア(解説者)によって論点が多岐にわたる点も興味深い。「天皇のご公務」に関しては、出来るだけ減らして対処すべきというもの、国事行為や公務の定義の曖昧さを指摘するもの、公務の政治利用について危惧するものなど。「天皇の意志」に関しては、天皇個人の意志をどこまでくみ取るべきかというもの、あくまで国民主権で結論を出すべきだとするもの、などいろいろだ。
 一方で、「生前退位」については、天皇が自らの意志でなく退位させられる懸念、逆に天皇が恣意的に退位する懸念、退位後の天皇と新天皇との二重権力の懸念、皇太子が不在になる懸念なども指摘されており、皇室の歴史を考えれば摂政を置くべきだとする意見もある。また退位を認めるにしても、皇室典範の改正で行くのか、特別立法で行くのか、あるいは憲法の改正にまで及ぶのか、などの問題もある。こうした懸念や問題を整理し、将来につながる形で法整備をするには数年かかるので、この問題は首相の改憲スケジュールにも影響してくるといった指摘もある。

 こうした議論に私などが割って入るのはおこがましい限りなのだが、敢えて書いておきたい気になったのは、今回、天皇が発信された「お言葉」には、現憲法に対する重要なメッセージが含まれていると感じるからである。しかも、その衝撃力は、このところの右翼保守層がもくろむ改憲の内容に照らし合わせて考えるとき、より強烈に感じられる。そのメッセージとは、明仁天皇が即位後、たゆまぬ実践を通して模索し続けて来た(憲法1条に言う)「象徴天皇」とは何かということ、そして憲法に内実を与えるとはどういうことか、ということである。

◆「象徴天皇のありよう」と「生前退位」の理由
 ご存じのように、終戦翌年の1946年11月3日に公布された「日本国憲法」には、天皇について第1条「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とあり、第2条「天皇は世襲のものであって、国会の決議した皇室典範のさだめるところにより、これを継承する」とある。また、第5条では「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ(以下略)」と摂政を置く場合の条文もある。
 当初、この中にある「象徴」(シンボル)という言葉を巡っては、これこそGHQの手になるもので、日本人になじみのない抽象的な言い方だといった意見もあった。しかし、今回の「お言葉」の中には、この「象徴」という言葉が、象徴天皇という言い方も含め、6回も出てくる。様々な国事行為と公務とを続ける中で、象徴天皇の望ましい在り方を日々模索して来た天皇は、「国民に天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました」と話す。

 そして、国民の安寧と幸せを祈ると同時に、憲法に定められた国事行為の他にも公務として遠隔地や島々も含めて各地に赴き、「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添う」ことで国民への理解を深められてきた。そういう経験を積み重ねながら、人々への深い信頼と敬愛をもって公務を行うことが、「国民と共にある象徴天皇のありよう」なのだと言う。かつて抽象的とも言われた「象徴」の意味が、現天皇において実体化され、極めて具体的かつ説得的に示されている。
 次に、そうした公務が、高齢化によって十分果たせなくなった場合に、象徴天皇としてとどまることには無理がある。また、仮に摂政をおいても、天皇でいる限り同じことではないかと、摂政を置くことについても否定された。つまり、「生前退位」を認めて、こうした「象徴天皇のありよう」を象徴天皇として継承していくことこそ、長い天皇の歴史が安定的に続いていく上で大事なのだ、と言うメッセージである

◆「元首」と「象徴」は何が違うのか
 戦前までの大日本帝国憲法(明治憲法)は、天皇について第1条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」(原文はカタカナ)、第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」、第4条「天皇は国の元首にして統治権を総覧しこの憲法の条規に依り之を行う」とある。新しい憲法で天皇は、元首から象徴に変わったわけである。そして、昭和天皇の側にあって皇太子であり、さらに天皇になって28年。結婚50年の2009年の記者会見では、「象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、その望ましい在り方を求めて今日に至っています」と言われた天皇だが、今回の「お言葉」を聞いて、明仁天皇ほどこの「象徴」の意味を真剣に問い続けた方はいない、ということに今更ながらのように気づかされる。

 しかし一方では、日本の右翼保守層を中心に天皇を象徴から元首に戻す動きが止まない。明治憲法の復活を目指す極右団体のように、天皇を元首にして日本統治の中心としたい人々から、自民党改憲草案のように単に象徴を元首に言い変える案までいろいろだが、象徴と元首はどう違うのだろうか。
 私見だが、元首には「国ありよう」が深く関連してくる。いわゆる「国体」というものだが、まず、天皇を中心にした国の骨格があって、それを国民が支えるというイメージになる。その上に天皇に日本統治の権限を付与すれば明治憲法になるが、仮に付与しないとしても、こうした国体と密着した元首のイメージは、多分に権威主義的で天皇が「畏れ多い」存在になりかねない。これは、現天皇が身を以て模索し続けてきた「国民と共にある象徴天皇のありよう」とは明らかに違う。今回の「お言葉」は、こうした右翼保守派の元首復活の思惑にも明確な否定的メッセージを与えたのではないだろうか。

◆天皇にとっての憲法1条と9条。人間天皇のメッセージ
 憲法1条の象徴天皇の在り方について、かくも真剣に模索を続けてこられ、その言葉を実体化して来た天皇だが、その姿勢は憲法全般に及んでいる。即位に際しては「皆さんとともに日本国憲法を守り、国連の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」という勅語を発しているが、中でも日本の平和主義を規定した憲法9条に対する思いは強いはずだ。それは先の戦争を反省し、平和を願い、戦争の犠牲者の慰霊を続けてきたことからもうかがえる。そこには、憲法1条と同じように憲法9条についても、その意味するところを真剣に模索する姿勢があったと思われる(「明仁天皇と平和主義」)。
 しかし、憲法1条と違って憲法9条に関する日本の現状は、天皇の思いとは真逆の方向に向かっている。様々な解釈で自衛隊の活動範囲を広げ、さらには集団的自衛権を認める解釈改憲まで行われている。骨抜きになり空洞化が進んでいる、こうした9条の現状に天皇が危機感を抱いていることは想像に難くない。今年の戦没者追悼式でも「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と述べ、首相との違いを際立たせた。

 権威や権力に頼らない存在で、かつ国民との間に相互に信頼と敬愛がある。これが象徴天皇の在り方とすれば、それは新しい時代にふさわしい人間的な天皇像であり、退位後の二重権力などは杞憂に終わるはずだ。政府は改憲の思惑を離れて、「人間としての天皇」の意向を真剣に受け止め、特別立法などで一時しのぎをすることなく、万難を排して「生前退位」に込められたメッセージの実現に努力すべきだろう。それも、心穏やかに余生を過ごして頂くためには早い方がいい。

分断する政治とメディア 16.8.7

 今月の「世界8月号」(岩波)に、世界のジャーナリスト400人と共同して「パナマ文書」を暴いた「国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)」の生みの親、チャールズ・ルイス国谷裕子の対談がある。その中になるほどと思う言葉が載っていたので、紹介しておきたい。ルイスは、アメリカをはじめとする国々ではネット広告の伸びによって既存メディアが苦境に立たされ、次々とジャーナリストが職を失う状況が続いていると言う。その中で消えていくのは、時間をかけた調査報道であり、権力を監視するウォッチ・ドッグの機能である。その結果、市民は本当の情報にアクセスできなくなる。そういう状況を氏は次のような言葉で表現している。
 「情報を持たない市民は滅びます。もし情報とメディアが制限されたなら、民衆は暗闇の中にいるのと同じです。何が起きているのかを知ることもできず、何が真実であるかを語れるのは政府だけです」。そうすると政府は市民を意のままに操るようになる。「市民は簡単にだまされます。政治家はキノコ農家がキノコを育てるように民衆を見ることがあります。暗闇に置き、肥料で覆うのです」。なるほど、ジャーナリズムの衰退によって真実の情報が伝えられなくなると、私たち市民は暗闇の中に置かれたキノコのようになるのか。ルイス氏は、既存のメディアで調査報道が難しくなったアメリカで、非営利による調査報道の可能性を追求している。

◆自民党が調査した、高校教育の「密告サイト」
 翻って日本はどうか。そのことを考える前に最近話題になったある出来事を書いておきたい。参院選挙で18歳からの投票が可能になるというので、高校生達に政治参加の重要性をどう伝えていくかが課題になった。それに乗じて6月末に、自民党の文部科学部会(部会長・木原稔衆院議員)が、党のホームページを使って、「政治的に中立でない」と思うような授業をした教員の指導や授業があれば、その学校や教員の実名をHPのサイトへ送信させる調査を始めたのである。「政治的に中立でない」の例としては、「教育の政治的中立はあり得ない」と言ったり、「子供たちを戦場に送るな」と教えたりすることがあげられていた。
 こうした調査に対して、ネット上で「密告社会の到来か」といった批判が相次ぎ、7月9日には共同通信もそうした反響を伝えた。自民党は高校の教育が特定のイデオロギーに染まるのを危惧したのだと言い訳したが、批判をかわすためか、HP上の文言は2回にわたって「政治的に中立でない」の例を書き換えた。1回目は、「子供たちを戦場に送るな」を削除し、「安保関連法は廃止すべき」と教えることを例にあげたが、それも削除。最後には「教育の政治的中立はあり得ない」という文言だけになったという。

 何だか笑い話のようだが、彼らは本気である。7月18日には「事例が集まった」として「密告サイト」を終了したが、党の部会で内容を精査し、場合によっては文部科学省に対応を促す、としている。この“調査”を始めた自民党文部科学部会の木原稔(写真左)は、47歳の若手議員で自民党の青年局長。2015年に安倍親衛隊の若手議員を集めて党の「文化芸術懇話会」を立ち上げたが、その第一回会合で作家の百田尚樹(写真右)をはじめとする面々が「政府に逆らうメディアはつぶせ」と言ったトンデモ発言をし、それをすっぱ抜かれて問題になった。党本部から謹慎処分を受けた議員である。
 彼らにとっては、「子供たちを戦場に送るな」や「安保関連法は廃止すべき」は、イデオロギーに染まった考えということになるが、もちろんこれは教育基本法にも許された批判精神育成の範囲内にある。教育関連法に詳しい伊藤真弁護士は、「民主社会の主権者に最も必要なのは、自分たちが選んだ代表者(権力)に迎合せず、監視し続けて批判できる能力であり、これを身につけさせるのが教育現場のつとめだ」と言っている(毎日、7/28)。木原たちのように、自分たちに反対する人間をイデオロギー的に偏向した人間と決めつけ、様々な方法であぶり出し、現場から閉め出そうとする動きは、今、確実に広がっている。

◆メディアを敵/味方に分ける
 「まるで戦前の思想統制」と毎日が報じたこの調査は、最初に共同が取り上げた後、幾つかの新聞が後追いした。しかし、果たして他のメディアは追求したのだろうか。今のNHKが、(自民党の神経を逆なでするような)この手のニュースを取り上げることはまず考えられないが、他のメディアも似たり寄ったりで、ネットで検索しても、どうも大方はスルーしたらしい。「世界8月号」には、もう一つの対談記事「なぜ日本で調査報道は成熟しないのか」があるが、その中でマーティン・ファクラー(元ニューヨーク・タイムズ東京支局長)は、「報道の自由度ランキング」が世界で72位に低下した日本のメディア状況について、次のように言っている。
 「(メディアは)本来は、権力の中に取り込まれているか、圏外にいるかのどちらかではなく、その間に立って監視することが大事なのです」。しかし、「日本のメディアの弱いところは、政権にアクセスして(政権から)情報を得ることが基本になっているところです」言う。権力と圏外の間にいてこそ、調査報道も可能になるのだが、記者クラブ制度などにどっぷり浸かっている日本ではそれが出来にくい。そして「安倍政権は、日本のメディアのそうした特徴をよくとらえて、好意的な媒体には単独インタビューに応じるなど、敵/味方のような形でメディアを分断している」という。

◆国民を分断する政治。対するメディアは?
 安倍政権によるメディアの分断策に乗せられたのか、日本のメディアは今や完全に2極に分かれていると言っていい。そして、思想的に安倍政権に近い雑誌や新聞は、自分たちの主張に沿わないメディアを何かと言えば、「反日」、「売国奴」、「国賊」と言いつのり、息の根まで止めようとまでしている。しかしこれは、批判的なメディアの力を削ぎたいと思っている権力を喜ばせるだけである。そして結局は、メディア全体の力を衰えさせ、私たち市民を「暗闇の中のキノコ」にしてしまう。右から左まで幅広い言論があることには賛成だし、もちろん相互批判があってもいいが、権力の分断策に乗せられ、分断に手を貸す形になるのはいただけない。
 「政治による分断」はメディアに限ったことではない。現政権が取り組む様々な政治的課題、例えば、このコラムでも継続的に取り上げてきた、特定秘密法から安保関連法に至る安全保障の問題、原発の再稼働問題、アベノミクスの経済政策、近隣外交、そして憲法改正問題など。これらは、それぞれ国内、国外の状況を見渡した様々な政治的・経済的条件の中で国民にとって「ベストな解」を見つけていく問題であり、イデオロギーで解決する問題ではないはずだ。それを、イデオロギー化し、敵/味方で仕分けて分断し、議論を単純化してしまうのはかえって危険でしかない。

 アメリカのトランプも、プーチンも習近平もそうだが、国民を操ろうとする権力者は、目の前に政治的難問が持ち上がると、すぐにそれをイデオロギー化し、批判勢力にレッテルを貼って、相手の息の根を止めようとする。その技術の一つが、敵/味方で国民を仕分ける分断策ではないか。安倍政権も登場以来、これまでの政権には見られないような強引さで、敢えて国論を二分するようなテーマを進めてきた。その過程で現れて来たのは、2つに分断された国民の姿である。異なる利害の衝突を調整するのが、政治の本来の姿(*)とすれば、これは随分と「異形な政治」と言える。
 安倍政権の登場以来、3年8ヶ月。気がつくと、「密告サイト」だけでなく、今やさらに重大な特定秘密保護法による監視と隠蔽も始まっているし、中国や北朝鮮の出方次第では、安保関連法の発動もあり得る状況になっている。こうした「異形な政治」で日本の何が変わって来たのか。さらなる任期延長も囁かれている今、私たちは、この状況に慣れることなく、政権誕生以来の変化を問い続ける必要がある。そして、国民が「暗闇のキノコ」にならないように、メディアには政権の分断政策に乗ることなく、ぎりぎりのところで真実の報道を模索して行って欲しいと思う。
*「私は、政治とは個人や集団や国家間に生じる利害の衝突を調整することであると考えている。この調整を的確に行って紛争を解決に導き、新しい方向に踏み出させることが政治そのものなのではあるまいか」(「政治とは何か」後藤田正晴

改憲のマグマはどこに向かうか 16.7.30

 7月10日の参院選挙の直後から、参院においても「改憲勢力は3分の2に達した」ということが盛んに報道されている。明日にでも憲法改正が進むかのような、メディアの先走り気味の報道に歩調を合わせるように、安倍首相も「次の国会から(憲法改正原案の検討や憲法改正の発議をする)憲法審査会を動かして議論を進めたい」と言っているが、そう簡単に話は進むのだろうか。改憲勢力は3分の2には達したが、(以下に見るように)その内実はバラバラで、これを一つにまとめて安倍のねらう改憲にまで持って行くのは至難の技に違いない。
 それを意識した上での発言だと思うが、安倍は記者会見で「いかにわが党の案をベースに3分の2を形成していくか。これがまさに政治の技術だ」と、本音を漏らした。改憲の中身を復古的な自民党案に近づけることが本来の狙いであること、それを実現するためには、あらゆる政治の手練手管を駆使するという宣言である。参院選挙で、アベノミクスの後ろに改憲を隠し置いたのも「政治の技術」の一つなのだろうが、いかにも安倍一強政権らしい、傲慢かつ自信に満ちた発言である。その「政治の技術」の先に、安倍の強引さを懸念する国民の姿が見えているとはとても思えない。それならそれで、国民もメディアの方も、安倍政治の手練手管に惑わされることなく、改憲の本質をしっかりと見ていく必要がある。

 一方、こうした改憲を巡る状況に大きな波紋を引き起こしたのが、最近の「天皇の生前退位」問題といえる。後述するが、天皇が生前に退位することは“憲法に準じる皇室典範”の改正に関わる案件になる。それを承知で敢えて参院選から3日後に、メディアを通じてこうしたメッセージが流された背景は何なのだろうか。謎が多い報道ではあるが、早速に最も右翼的な改憲勢力からは、一斉に異議が申し立てられている。彼らの思想の背景にあるのは何なのか。また、天皇の生前退位のお気持ちを伝えた衝撃的報道は、「安倍の狙う改憲」にどういう影響を及ぼすのか。最近の改憲を巡る状況を整理しておきたい。

◆内実はバラバラな「改憲勢力」。マグマはどこに向かうか
 ご存じのように、参院で改憲勢力とされるのは、自民、公明、おおさか維新、日本のこころを大切にする党の4党に加えて改憲に前向きな非改選の無所属議員を合わせた人数だが、一口に「改憲勢力」と言ってもその内訳は、とても一つには括れない多様なものである。例えば、朝日(7/12)のアンケートの答えた参院議員182人(75%)の改憲志向はバラバラで、政党別に見ると、自民党は「自衛隊または国防軍の保持の明記」(9条改正)、「緊急事態条項の新設」が上位を占める。対する公明党は9条の改正はゼロで、代わりに「良好な環境で生きる権利、国が環境問題に取り組む義務」を定める環境権などを追加する「加憲」が主になる。
 自民党が連携先として持ち上げる「おおさか維新」も、9条改正はわずか8%で、「幼稚園から大学までの教育無償化」や「地方公共団体の権限強化」がメインだ。その一方で、民進党には改憲賛成派が22%いて、うち9条改正派も11%いる。参院議員全体で言えば、182人のうち改憲に賛成、どちらかと言えば賛成は66%で、「緊急事態条項の新設」と「自衛隊または国防軍の保持の明記」に賛成が、ほぼ半数になるという。

 こうした“同床異夢”の内実を見ると、安倍の狙う自民党案を他の政党に飲ませていくには、それこそアクロバット的な「政治の技術」を要するだろう。まずは、「緊急事態条項の新設」あたりを突破口にしようとするのだろうが、これはこれで、9条改正より疑問と議論が多いテーマで、国民にも警戒心が強い。あるいは民進党に手を突っ込むのか、妥協的に「環境権」をプラスして公明党を引きずり込むのか。
 確かに火山の地下に「改憲のマグマ」はかなり溜まっては来たが、マグマが向かっている方向はバラバラだ。それが頂上の火口(9条)から噴火するのか、山腹のどこか(緊急事態条項)から噴火するのか、また別な火口(環境権など)なのか、あるいはこのまま収束するのか。全く予測できない状況になっている。従って、今は「改憲勢力が3分の2に達した」などと慌てることなく、状況をよく見極めて冷静に報道していく必要があると思う。

◆天皇の生前退位報道の波紋
 加えて、13日の夜7時のNHKニュースで報道された天皇の「生前退位」の衝撃である。その直後に、宮内庁側がこの報道を否定したけれど、これは生前退位には皇室典範を改正する必要があり、これを天皇が希望したとすれば「天皇の政治的行為」と誤解されるのを防ぐためと解説されている。しかし、その後も生前退位のニュースはくすぶり続けており、8月に入ったら、天皇自身が(生前退位をにじませた)「お気持ち」を表明することになったという。この問題に関しては、皇室典範の改正問題に加えて、退位した天皇と新天皇との二重権力の恐れ、天皇の譲位に政治が介入する恐れなどの問題点が指摘され、天皇の代わりに国事行為をする(皇太子による)「摂政」を置けばいいと言った反論も出されている。

 特に、右派系雑誌の「WiLL」(9月号)を読むと、渡部昇一、百地章、加地伸行などの論者が口をそろえて「万世一系の天皇の御進退は日本国全体に関わる重大事」だから、軽々に議論すべきではない。摂政をおいて乗り切るべきであると書いている。つまり、日本の天皇制は世界唯一の特別なものであり、国の主柱であるのだから、一個人としての現天皇の意向でその形が変わるのはいかがなものか、と言うわけである。こうした右派の思い入れを知ってか知らずか、陛下の「生前退位」のお気持ちは堅いという。これまで、一貫して国民の平和と安寧のために身を捧げて来られたご苦労を思えば、そのお気持ちには誰も逆らえないとは思うのだが、一方でかなり本質的な問題を含んでいる。

◆明治憲法復活をもくろむ勢力との綱引き
 この生前退位問題を、「もう一つの“憲法”問題」として解説しているのが、中西寛(京大教授)だ。彼は皇室典範を憲法に準じる憲法付則規範と位置づける。従って、それを国会審議で変えていくことは、その背後にある憲法の精神を変えるような重大事だというのである。そもそも今の天皇は、日本国憲法で「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定された。一方、戦前までの天皇は明治憲法によって「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と定められ、元首として日本の最高権威でかつ政治・軍事の最高執行者だった。
 こうした天皇のあり方を規定したのが皇室典範であれば、それを変えることがその上位にある憲法の中の天皇のあり方に影響を及ぼしかねない、というのが中西の意見である。従って、政府および国会議員が歴史に恥じない政治的判断力を示すべきだとする。普段あまり考えたことがなかったが、天皇の生前退位報道は、改憲の状況にも思わぬ一石を投じたことになる。平和憲法の遵守をにじませてきた陛下にとって、安倍の改憲の動きはどう映っているのか。あるいは、この動きさえも安倍は事前につかんでいたのかどうか。今ネット上にはこの問題を巡る揣摩憶測が飛び交っている。

 さらに、もう一つ。生前退位の問題は、明治憲法のように天皇を元首として国の最高権威に据えたい復古主義者にも、大きな衝撃を与えた。以前の「日本会議の研究を読む」にも書いたように、安倍を取り巻く極右的なメンバーの真の狙いは「明治憲法の復活」にある。これについては最近、かつて日本会議を立ち上げ、参院のドンとも言われた村上正邦(元参自民党院幹事長)がインタビューで明言している(Yahoo!ニュース 7/14)。日本国統治の大権を天皇に帰する戦前の憲法を彼らは目指している。
 彼らにしてみれば陛下の生前退位は、絶対的存在であるべき天皇の地位が天皇個人の意向で変わっていくことになり、これはあり得ないことなのである。現在の安倍自民党が、そうした皇国史観的天皇制を草案に書いている訳ではないが、政権の中には思想的に極めて近い人もいる。今回の天皇の意向は、天皇の地位を明治憲法のように神格化する勢力の思惑にもくさびを打つことになる。改憲勢力が3分の2を超え、様々な勢力の綱引きが激しくなる中で、「改憲のマグマ」がどの方向に動いていくのか、私たちもしっかりと状況を見極めて行く必要があるだろう。

映画「帰ってきたヒトラー」 16.7.21

 アメリカの共和党大会でドナルド・トランプが大統領候補として正式に指名を獲得した。「偉大なアメリカ」の復活を訴え、イスラム教徒を閉め出せと言ったり、メキシコからの不法移民を防ぐためにメキシコとの国境に“万里の長城”を築いて、その金をメキシコに払わせると言ったり、日本からの輸入品に高関税をかける、核保有を容認するとか基地負担をもっとさせる、などといった過激な発言を連発する彼が、大国アメリカの大統領になるかも知れない日が近づいている。理性ある人々からは激しい抗議も受けているが、白人主義や人種差別的な国民の熱狂的な支持を得ており、本命のヒラリー・クリントン(民主党)と激しく競り合う状況が続いている。
 今から80年前、トランプと同じように大衆の心の奥にあった人種差別的感情に火をつけ、「偉大なドイツ」の復活を叫んで国民から熱狂的な支持を得て登場した人物がいた。600万人のユダヤ人を虐殺した独裁者、あのアドルフ・ヒトラーである。その彼が2014年、ベストセラー小説「帰ってきたヒトラー」によって突如現代のドイツに蘇(よみがえ)る。先日、小説を映画化した同名の映画を観たが、復活したヒトラーもトランプのように確信に満ち、人々の気持ちを代弁し、解決のための過激な計画を打ち上げ、大衆の気持ちを鷲づかみにする。喜劇でありながら、笑った後に心が凍り付くような映画だった。

◆あのヒトラーが現代のドイツに蘇る
 自殺したはずの本物の独裁者としてドイツに蘇ったヒトラーを演ずるのは、「殆ど無名なのに名優」という条件で選ばれたオリヴァー・マスッチ何時間もかけたメイクでヒトラーそっくりとなり、言葉の発し方、威厳ある態度、表情などを完璧に再現した。その本物のヒトラーがベルリンの街でさまよっている時に、しがないフリーのディレクターに発見され、彼のアイデアで「ヒトラーのそっくりさん、街を行く」的なTVドキュメンタリーが作られていく。映画の中の設定だが、マスッチ演じるヒトラーは実際に国中を旅しながら、市民や観光客、極右の政治団体のデモなどの中に入っていく。
 思いがけずに「ヒトラーのそっくりさん」に出会った人々は大喜びでスマホで自撮りしながら、彼に向かって悪びれることなく自分たちの差別意識や本音をさらけ出す。難民や移民を追い出せとか、今の政治は弱腰だとか、メルケル首相を太ったブタだとか、ドイツの現状に本当の市民が不満をぶつける。それをカメラがドキュメンタリータッチで記録していく。一方、旅のホテルで薄型テレビに出会ったヒトラーは、放送されている低俗な番組の数々に憤慨しながらも、これこそが現代のプロパガンダに最適の道具だと気づく。やがて記録した映像を持って、ディレクターがテレビ局に企画を売り込みに行くと、ヒトラーのそっくりぶりに感心した局長が彼を生放送の人気バラエティー番組にゲストとして登場させることを思いつく。それは、低迷する視聴率を挽回する一か八かの賭けだった。

◆「ヒトラーのそっくりさん」が、大衆の心をつかんで行く
 観客の前に登場したヒトラーがうますぎる。司会者を無視して威厳ある態度で会場を見まわし、沈黙が支配したところで一気に80年前と同じ演説をまくし立てる。その時代がかった演説は観客に大受けするが、同時に現在の政治的混迷を鋭く突いていて、笑いばかりでない真実に観客も視聴者も気づくことになる。ヒトラーは人気者となり、実際のほかの番組にも登場したり、政治的野望の実現のために街に出て、自分の同調者を探したりする。現在のドイツの極右政治団体(NPD)などとも接触してネオナチの若者を鍛えようとするが、今の若者は軟弱で使えない。ヒトラーは今のドイツのふがいなさに腹を立てる。
 その後は原作にもない、あっと驚くような込み入った展開になるが、それは複雑でちょっと簡単には説明できない。最後には、ある出来事をきっかけにヒトラーの真の正体に気づいたディレクターが、彼は本物で危険だと訴えようとするが、待っていたのはディレクターが逆に精神病棟に入れられるという怖い結末だった。極めてよく練られた脚本で、娯楽作品でありながら、ドイツ国民の差別意識をえぐり出し、辛辣な政治批判を展開する。現代ドイツのタブーに果敢に挑戦した制作陣の勇気にも感心した。

 以前にも紹介した「全体主義の起源」の著者、ハンナ・アーレントは独裁者ヒトラーの成功は、大衆を掴む指導者の「魅力」などではなく「この男が自分自身に寄せていたファナティック(狂信的)な信頼」だったと書いた。それを揺るぎない確信に満ちた声で語ることであり、それが常に一つの包括的世界観(陰謀論による反ユダヤ主義やアーリア人種賛美など)の中にぴったりと収まる意見だったこと。そしてそれを「氷のような首尾一貫性」で続けた結果だとした(「言い換えと虚言の政治」)。しかし、この映画はヒトラーの虜(とりこ)になった国民の方にも、責任があることを忘れてはならないと言っているように見える。
 ヒトラーは、国民の心の奥底にある差別意識や排外主義に言葉を与えて火をつけ、もっともらしい計画を示した。それに国民が熱狂したことが、独裁者の出現を許したのだと訴えている。現に、今のドイツだって大衆はシリアからの難民を憎み、移民を排斥したがっている。ネオナチなどの極右政党は、そうした情念に政治的足場を置いているわけだが、こうした傾向は今、世界のそこかしこに頭をもたげつつある。反知性主義な情念のかき立てと、メディアを使ったプロパガンダ。それは今のアメリカにも、日本にも通じる現象かも知れない。

◆今の日本でこんな映画は作れるか?
 この映画は、友人の映画監督と一緒に観た。見終わってコーヒーを飲みながら日本の映画事情について話をした。彼は今、やりたい企画を何本も映画会社に持ち込んではいるが、一向に実現しないでいる。会社の方は、映画が当たるかどうかが最大の関心事で、そのためには人気コミックの映画化か、売れ筋の小説の映画化しか興味ないらしい。俳優も実力派よりはタレントなどを指定したがる。彼がやりたい、(人間の本質を描くような)時代劇も現代物も狭き門にならざるを得ない。まして、「帰ってきたヒトラー」のようなあからさまな社会批判を描くような映画に金を出す映画会社など、日本では全くないと言っていい。
 映画館では、8/5から公開の「ニュースの真相」(アメリカ)の予告編も上映していたが、これは当時の大統領ジョージ・ブッシュの軍歴詐称疑惑を報道したCBSニュース番組スタッフの物語だ。先日は、カトリック教会の神父たちによる性的虐待の数々をジャーナリストが暴く映画「スポットライト 世紀のスクープ」が、アカデミー賞にノミネートされたりした。こうした映画が出来るところが、アメリカの懐の深いところでもあるが、翻って、全体が小粒で均質化し、無難な映画ばかりを作っている現在の日本は、トランプのアメリカを笑えるか。テレビだって最近は低俗な番組ばかりで、ドイツを笑えないと言う話になった。

 映画でなくてもいい。例えば、この3年半の安倍の演説の移り変わりを丁寧につないで検証するTVドキュメンタリーは日本で可能だろうか。2014年12月に、安倍は消費税10%の導入延期を理由に衆議院を解散したが、その時は「来年10月の引き上げを18カ月延期し、そして18カ月後、さらに延期するのではないかといった声があります。再び延期することはない。ここで皆さんにはっきりとそう断言いたします。平成29年4月の引き上げについては、景気判断条項を付すことなく確実に実施いたします。3年間、3本の矢をさらに前に進めることにより、必ずやその経済状況をつくり出すことができる。私はそう決意しています」と言ったが、今年5月には経済的理由をあれこれあげてそれも延期。参院選挙では「アベノミクスしかない」と訴えた。
 世界各国の指導者が自分の言説に責任を持たず、その場その場で国民が喜びそうなこと、自分に都合のいいことを、あたかも正しいことのように訴える。そんな中で、日本でも国民多数が支持した安倍が、「強い日本」を訴えながら大衆迎合的独裁者に変わって行かないと言い切れるだろうか。アメリカ大統領選挙は11月だが、仮にトランプ大統領が誕生したとき、日本はどのような政治の季節を迎えるのだろうか。その時、安倍はどのように変貌するのだろうか。メディアの踏ん張りを期待したい。

どうなる?今後10年の日本 16.7.14

 7月10日の参院選挙の当日、投票を終えてから用があって「さいたま市」に出かけた。昼食を取るために大宮駅ビルに入ると沢山の人出で、特にレストランのフロアは昼時とあってどの店も順番待ちと言った状況だった。若者同士、家族連れ、お年寄りなど、様々な人々が繰り出しているが、そうした光景を見ながらしきりに感じたのは、言いようのない違和感である。ここには、今日が(ある意味で)日本の未来を決する大事な選挙の日だと感じさせるような“高ぶり”はみじんもない。あるのは、選挙など遠い国の出来事のような、あっけらかんとした日常。もちろん投票した人もいたのだろうが、街には選挙などとは無縁の時間が流れていた。
 今回の投票率は戦後4番目に低い54.70%。埼玉県はそれより低い51.94%だったが、あの日の街の雰囲気を思えば、有権者の2人に1人が投票した事実はそれなりに重いのだろう。ただし、その結果はメディアの予想通りに安倍自民党の大勝で、翌日の新聞には「改憲勢力3分の2超す」という見出しが躍ることになった。今回の選挙で有権者が投票に込めた思いはどうあれ、これからの日本は安倍一強政権とともに「未知の状況」へ一段と加速することになりそうだ。気が滅入る状況ではあるが、目の前の状況に一喜一憂するよりも、ここは一つ冷静に5年から10年の少し長いスパンで“安倍政治のリスク”を考えておく必要があるのではないか。

◆安倍政治のリスク(アベノリスク)とは?
 10日夜のテレビ東京の選挙特番では、石破茂(地方創生担当大臣)が池上彰キャスターの質問に答えて「今回当選した議員が任期を全うする6年の間に、日本は数々の難問に直面するだろう。浮かれている状況ではない」と妙に冷めた答えをしていた。それは、安倍政権の今のようなやり方で、うまくこれらの難問を乗り切れるだろうか、という問題提起にも聞こえた。石破が言うとおり、これから5年ないし10年のスパンで考えれば、日本と世界は激動と激変の時代を迎えるだろう。さし当たっての安倍政権は、その中でどんな課題に直面するのか、その課題をどう乗り越えようとするのか。また、そのやり方には、どういう“リスク”があるのか。世界情勢については予測困難なので、来るかも知れない“日本のリスク”について、私なりに整理し概観しておきたい(以下のテーマについては、今後もウォッチングしていきたい)。 

@ アベノミクスの挫折、緩和リスクの顕在化 
 選挙結果に気をよくした首相は早速、「アベノミクスを一段と加速させる」と言い、秋には国債を発行して10兆円規模の財政出動を行う予定だ。しかし、いくら選挙でアベノミクスがうまくいって欲しいと国民が願ったとしても、経済は願望では動かない。それが間違った方法ならなおさらだ。異次元の金融緩和で日銀の金庫には、既に400兆円近くの国債が積み上がっており、あと何年かすれば政府発行の国債を引き受ける余地がなくなると危惧されている。金融政策にだけ頼る経済政策は行き詰まっており、緩和からの出口も全く見えない。カンフル剤を打ち続けている内に「緩和リスク」はどんどん膨らんでいる。その深刻な副作用が顕在化するのも後数年というが、その時日本はどうするか。

A 改憲で、「きな臭い強権国家」に
 選挙直後の報道はアベノミクスではなく、改憲一色だった。僅かな兆候を無批判にあおり立てるのはメディアの悪しき習性の一つと思うが、黙っていてもメディアが改憲の雰囲気を作ってくれる状況に、改憲勢力もほくそ笑んでいるに違いない。首相も敢えて余裕の対応を見せている。このまますんなり戦後初の改憲が実現するとは思わないが、安倍は「お試し改憲」の実現のために、(世界情勢も理由にして)あの手この手のくせ球を投げてくるだろう。思惑通りに「緊急事態条項」となれば、9条の改憲よりたちの悪い事になりかねない。その先に待っているのは、戦争の反省も非戦の誓いも忘れた、自民党好みの「きな臭い強権国家」になるだろう。

B 1000兆円の借金。財政破綻の可能性
 ご存じのように今、国の借金は1000兆円を超えている。「アベノミクスを一段と加速させる」と言うが、その財政出動は消費税増税を先送りしたせいで借金でしか行えない。このまま借金を増やしていって、5年、10年先にはどうなるのか。政府はアベノミクスで経済成長させ、その税収増で財政規律を守ると言うが、そんな「捕らぬ狸の皮算用」で財政破綻が起きたらどうするのか。多くの専門家が危惧している「国家財政の破綻」は、いつどのようにして来るのか。あるいは安心していいのか。国民にしっかり説明するためにも、財政破綻のシミュレーションを真剣に検討すべき時が来ているのではないか。

なし崩しの原発政策。高まる事故のリスク
 当初、原発に頼らないエネルギー政策と言っていた自民党は、その後なし崩し的に、原発を重要なベースロード電源と位置づけ、20%〜22%を原子力でまかなうとした。そのためには、今ある原発の再稼働はもちろん、新設も運転期間の延長も視野に入れなければならない。それに呼応するように、原子力規制委員会は、運転開始から40年を超える高浜1、2号機について、時間切れ寸前にさらに20年の運転延長を認めた。既に住民からは決定への異議申し立て裁判が起こされているが、燃えないケーブルへの転換や耐震確認に目をつぶった甘い裁定は、争点の一つになるだろう。しかも、老朽原発の運転には、圧力容器の劣化を正確に予測する科学的根拠がない(「原発の終わりの始まり」)。最大のリスクは、40年も前の時代遅れの原子炉技術を誰が継承して行くのか、である。実際、福島事故の場合は、電源のコンセントが合わないとか、冷却装置の使い方を知らなかったとか、背筋の寒くなるような状態になっていた。次の巨大地震の確率が高まりつつある中、規制委員会はそうしたリスクまで検討したのだろうか。

◆不都合な現実を直視せず、みんなで渡れば怖くない
 このほかにも少子化による経済減速、地方自治体の消滅危機、高齢化による社会福祉費の増大、格差や貧困層の拡大などに対する不的確な政策によっても社会的リスクは高まる。農業を脅かすTPPなどもその一つだ。これらのリスクにどう向き合い、どう取り組むのか。それが問われる状況なのだが、安倍政権にはひたすら「強い国を取り戻す」発想しかない。不都合な現実は知らせないで、かつての成功体験の幻影を振りまくばかり。その結果、今の日本には「みんなで渡れば怖くない」式の大政翼賛会的な風景が広がっている。
 本当は、過去の経済成長の夢を忘れて、新たな発想で日本の未来図を描く。そして、リスクを直視して「ダメージコントロール」のための政策を打ち立てるべき時なのだが、そうはなっていない。国民も、心のどこかで(財政破綻や原発事故、戦争などを)危惧しながら、近づきつつある破局に気づかないふりをしている。やがて、その破局が目前に来たとき、破局を解決すると称して登場したのが、戦前の日本やドイツのファシズム(全体主義)だった。それも最初は、国民が民主的選挙で多数を与えた政党だったのが歴史の教訓でもある。

◆虚無を廃して、長い目で監視する
 ノンフィクション作家の保坂正康は、戦争に向かう戦前の日本社会には虚無感(ニヒリズム)と閉塞感が漂っていたと言う(昭和史のかたち、毎日)。一部の識者は「まあ、勝手にやるがいいさ。痛い目に遭わなければ分からんだろう」と冷ややかに眺めていたが、戦火の火の粉は彼ら自身にも降り注ぐことになった。保坂は歴史を振り返って「ニヒリズムは権力の横暴を許すだけである。今、私たちの最大の敵は現実をニヒリズムでとらえて心理的閉塞状況をつくることではないか」とも書いている。
 彼は、今の日本にも戦前と同じような虚無感と閉塞感を感じると言うが、今回の選挙結果や街の雰囲気を見ると、何となく分かる気がする。しかし一方で、TPPや原発、基地が争点となった北海道、東北、沖縄では野党が圧勝した。これは大きなショックを自民党に与えたのではないかと思う。しばらくは、選挙の大勝で意を強くした安倍政権による「気がかりな政治状況」が続くだろうが、(私はいつまで出来るか分からないけれど)虚無を廃して少し長い目で冷静に監視して行く必要があると思う。

格差と分断から共生の社会へ 16.7.3

 英国のEU離脱という衝撃波は、この先の世界にどのような影響をもたらすのだろうか。二つの大戦の発火点がヨーロッパであったことの深刻な反省から生まれた統合の理念は、再び各国の内向きの主張がぶつかり合う中で崩れて行くのだろうか。今回の離脱劇には幾つかの要因が指摘されているが、いずれも根底には様々な格差と分断がある。EUの恩恵を感じない貧困層からみると、給料も高く、上から目線で細かい規制をかぶせてくるEUの統治機構そのものが憎むべき特権階級(エスタブリッシュメント)に見える。さらには、EUが人の自由な移動を保証したことから生じる格差問題がある。低賃金の移民の流入によって脅かされる労働者階級と、安い労働力を使って富を得る富裕層との格差も拡大する一方だ。

 こうした格差は、労働者階級と特権階級との分断、旧移民と新移民との分断、若者と高齢者の分断、都市と地方との分断など、様々な分断を国内に生み出す。「格差と分断」はイギリスに限らない。アメリカ大統領候補のトランプやサンダースが白人層や貧困層の支持を得てきたのも、アメリカ社会の格差と分断による。世界に蔓延する格差と分断は、時に声の大きい煽動者によって巧妙に利用されて、独裁者を生んだり、ヘイトスピーチなどのより弱い人々への攻撃になったり、外敵(隣国)との緊張を高めたりして、世界を不安定にする。これは今の日本も例外ではない。こうした「格差と分断」の深刻な脅威を現代社会は乗り越えることが出来るのか。最近読んだ本を参考に、日本の場合を考えてみたい。

日本の格差問題。所属する組織を持たない人々が見えているか
 今の日本の最大の「格差と分断」の一つである正規雇用者と非正規雇用者の関係について、歴史学者の小熊英二(慶大教授)が、「二つの国民 所属なき人見えているか」というタイトルで、
書いている(5/26朝日)。1990年には20%だった日本の非正規雇用者の割合は、2015年には倍増して40%を超えた。小熊は、会社や労働組合など「所属する組織を持つ人々」(第一の国民)は、「所属する組織を持たない非正規雇用者」(第二の国民)に無関心で冷たいという。それは第一の国民で占められるマスメディアも政治も同じで、大方の報道や政策は第一国民の(上から目線の)生活感覚や価値観で行われがちだという。
 一口に「第二の国民」と言っても、内実は多様で、単に平均年収が200万円前後と言った厳しさだけでない。結婚もままならない若い世代、中高年独身、シングルマザー、年金だけでは生活できない高齢者と実に様々で、一人一人抱えている厳しい事情は違っている。そうした個別の事情に「第一の国民」側の人々は総じて無関心で冷淡だ。私も定年後にそうした非正規の人々を多く抱える組織に足をおいているが、多くは5年契約者で、5年経てばその人が持っているスキルがどうあれ、抱える家族がどうあれ、再就職が難しい中高年であれ、辞めて行かざるを得ない。彼らの今後にどういう困難が待ち受けているか、組織の管理職には殆ど見えていないように見える。これが今の日本の実情なのではないか。

 少子化や子供の貧困、高齢者の介護問題、あるいは人口減少で消滅に瀕する地方など、今の日本が抱える社会的、政治的課題の多くが
国民の40%を占める非正規雇用者が直面する課題とも関連している。そして、様々な分断線はその非正規雇用者の間にも引かれている。それなのに、こうした課題に取り組むべき政治家やメディアが、その多様な分断の実態をみることが出来ず、真にそのニーズに寄り添えないのは問題と言わざるを得ない。「格差と分断」が、欧米のように社会的不安定や戦争への誘惑、テロの温床になる前に、それをできる限り緩和し、より安定した社会を次の世代に引き継いでいくにはどうすればいいのだろうか。

勤労国家の価値観の遺物。日本の再分配政策が陥っている3つの罠
 格差を緩和する方法の一つとしては
生活困難者への税の再分配がある。しかし、生活保護世帯に対する若者層の反感や、育児手当に対するバラマキ批判にみるように、日本の社会は低所得者層への再分配(「救済型再分配」)に冷淡かつ批判的という特徴がある。「分断社会を終わらせる」の著者、井出英策(慶応大教授)、古市、宮崎ら3人は、こうした特徴経済成長の右肩上がりの時代に作られた価値観を引きずっているからだという。税収が右肩上がりに伸びている時代は、生活困窮者の問題は小さく、それぞれが頑張って明日の豊かさを求めてきた。しかし、時代は一転して低成長時代に。税収が少なくなったにもかかわらず、予算は大盤振る舞いを続けて来た。
 財政赤字が積み上げられる一方で、高齢化にもともなって生活困窮者は増え続ける。国民みんなが借金の大きさに不安になる中で、
増え続ける生活困窮者への救済は様々な批判の対象とされるようになった。税金のバラマキと批判され、非寛容さが目立つようになる。著者らは、日本の「救済型再分配」が抱えるこうした問題を「3つの罠」に整理している。一つは「再分配の罠」。再分配しようにも財源がない中で、どこで線を引くのかが難しい。漏れた低所得者からも、負担を強いられる中高所得者からも文句が出る。限定給付の難しさがかえって社会の分断を強める結果となるわけだ。

 二つ目は
「自己責任の罠」。かつて自助努力で豊かさを獲得してきた高度経済成長時代の価値観が、低成長の今も自己責任論となって弱者に冷淡な国民感情として持続している。そして、三つ目が「必要ギャップの罠」。生活困窮者のニーズは多様である。しかし、かつての社会福祉は現役の勤労者世代に厚く、働く女性の増加による子育てや教育、高齢者の介護といった今の時代のニーズに対応できていない。ニーズがずれることによって、対立や分断が生まれているわけだが、著者達はこうした罠は1970年代の高度経済成長時代に作られた勤労社会の価値観(「勤労国家レジーム」)を引きずっているからだという。その負の遺産が、所得階層間、地域間、世代間、男女間の対立を深め、日本社会の分断を大きくしている。

◆「救済型再分配」から国民各層が支え合う「共存型再配分」へ
 こうした「勤労国家レジーム」の遺物を脱却し、発想を変え
社会各層が支え合う「共生社会」を目指すにはどうすればいいか。この問題に対して著者の井出(写真)達が提案するのは、必要とするニーズに対して、国民全員が現物給付を受ける「共存型再分配」だ。国民誰もがある段階で必要とする教育や医療、育児・保育、養老・介護といったニーズに対して、誰もが平等に無料化などの現物給付を保証されるというものである。弱者救済と言った限定性がないので、受ける方にも出す方にもひがみや恨みを生まない。同時に、この「共存型再分配」には、2つの効果が期待できるという。
 一つは、結果としての格差是正である。誰もが一定額(例えば50万円分)の現物給付を受けると言うことは、低所得層の収入(例えば200万円)に対しては高率(25%)だが、高所得層(例えば1千万円)には低率(5%)の「再分配」になるからだ。もう一つは、こうした現物給付が社会に安心と安定をもたらし、国民の消費行動と勤労意欲を高め、
結果としての経済成長が期待できるということである。著者達は、こうした「共存型再分配」を可能にする財政政策についても提案している。これだけ格差が拡大し、経済成長の足かせや社会不安の要因となっている現在、社会各層がともに支え合う“共生社会”を作る意味でも、現物給付の考え方は、その実現性も含めて大いに検討すべきテーマだと思う。

 「格差と分断」に悩む世界では今、
すべての国民に一定額を支給する「ベーシックインカム」など、税の再分配についての模索が始まっている。著者達の考え方は、使い道を問わない「ベーシックインカム」ではなく、ニーズに対する「現物給付」であることが特徴だが、国民の間にさらなる分断を生みかねない「救済型再分配」から、国民各層が恩恵を受ける「共存型再分配」へは、一つの流れになりつつある。しかし、相変わらず経済成長の幻影を追い続ける今の自民党に、こうした流れが見えているとは思えない。「共存型再分配」による共生社会の実現のためには、政治を変える必要があるわけだが、そのためにはまず、(「保育園落ちた。日本死ね」のように)今や40%を超えた「所属する組織を持たない人々」が主体となって、自分たちの声を上げる必要があるのではないか。