来年のNHKの大河ドラマは、明治維新の立役者の一人、西郷隆盛を描く「西郷(せご)どん」になるそうだ。このドラマがどんな展開になるのか分からないが、案内を読むと人間西郷の愛すべき人となり、あるいはリーダーとしての魅力を描くものになるようだが、ちょっと心配なのはこのドラマがこれまでの明治維新もののように、ステレオタイプの歴史観に基づいて志士たちや西郷隆盛を持ち上げて描くことである。というのも、主人公の西郷隆盛を含めて明治維新の担い手たちについては、最近は一頃と随分違う評価で描かれることが多いからだ。
◆勝者と敗者の歴史の中で作られる歴史認識の溝
彼ら明治維新の実行者たちは、外国から迫られていた変革に対して適応力を欠いていた無能な江戸幕藩体制に代わって、近代的な明治国家を作り上げた功労者として描かれることが多い。しかし、その彼らも最初はむしろ頑迷な攘夷論者であり、あるときは(後述するように)残酷きわまりないテロリストとして京都や江戸を恐怖に陥れた。そのやり口は、時の幼皇まで騙して利用する謀略的、策謀的なものだった。特に長州藩の志士たちは、やがては政治を牛耳る長州閥として、その謀略好きの性格を昭和期まで引きずり、無謀な戦争に突入させた元凶として描かれることさえある。
彼らは、ある意味では、280年続いた非戦(平和)の上に築かれた豊かな江戸文化を根底から破壊した革命家たちであり、それによって失われた日本の良さもまた大きい。そうした歴史認識は、明治維新を勝者の側からだけ描いてきたこれまでの歴史観によって水面下に閉じ込められて来たが、最近では、明治維新の負の側面にも光を当てる物語(「明治維新という過ち」など)が幾つか浮上している。そうした本を読むと、加害者と被害者、あるいは勝者と敗者の違いで、歴史がどのように見えてくるのか、その違いの背景にあるものが少しは見えてくるように思う。
そうした違いは、最近になってサンフランシスコ市の公共広場に従軍慰安婦の像を建てたり、南京大虐殺の記録をユネスコの世界記憶遺産に登録したりした太平洋戦争の被害者である韓国や中国の人々と、加害者である日本との歴史認識の違いにも通じるだろう。50年、100年以上経過しても容易に解消されない歴史認識の違いとはいかなるものか。あるいは、その違いを逆手にとって、自分たちに都合のいいように歴史をねじ曲げる「歴史修正主義」が生まれる構図とはいかなるものか。うまく書けるかどうか自信はないが、2回にわたって「歴史認識の暗くて深い溝」について書いてみたい。
◆会津人の悲劇を書いた遺書
「ある明治人の記録」は、会津藩(藩主は譜代大名の松平容保)の家臣の家に生まれ、西軍(官軍)の奥羽征伐の中で、祖母、母親、兄嫁、姉妹まで6人が自害した柴家の五男、柴五郎の回想録である。男たちが戦いのために城に登っていた時に西軍が攻めてきて、城に逃れるように勧められたにもかかわらず、「戦闘に役に立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり」(同書)と、女性たちは死を選んだ。当時10歳の柴五郎は、後でそのことを知り地に倒れて慟哭する。
会津藩5千の籠城軍は、7万5千の西軍と果敢に戦ったが、武器の性能の差はいかんともしがたく、少年白虎隊も含めて多大な犠牲を出して1ヶ月後に降伏した。長州の山縣有朋などに率いられた西軍は、いわばならず者集団で、その後の会津藩がなめた辛酸は筆舌に尽くしがたいものがあった。死者はさらし者にされ、切り刻まれ、女性たちは「会津に処女なし」と言われるほどに陵辱された。それは、武士道精神を守り続けてきた会津の人々にとって許しがたいものだった。しかも、戦いの後で藩士の家族たちは寒風の吹きすさぶ下北半島に追いやられ、多くが餓死せざるを得なかった。(柴五郎の生涯について詳しくは、村上兵衛「守城の人」を)
そんな中で、柴家に生き残った男たちは、いつかこの恨みを天下に晴らすことを胸に誓いながら辛うじて生き続け、あらゆる機会を捉えて五郎に教育を施す。やがて軍隊に入った五郎は刻苦勉励して陸軍大将にまで上り詰める。「ある明治人の記録」は、彼が門外不出の遺書のつもりで書いたものを、後に石光真人が筆写し出版したものである。その中で、五郎は明治になってからの(西南戦争における)西郷の死、そして大久保利通の暗殺のニュースに関して、「余は、この両雄、維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し、会津を血祭りに上げたる元凶なれば、(略)当然の帰結として断じて喜べり」と書いている。
◆残虐なテロリスト集団としての志士たち
そもそも、通常の感覚ならば西軍の奥州征伐、そして会津戦争は不要だった。会津藩主の松平容保たちは、戊辰戦争後に和平の嘆願書を西軍に差し出し、恭順の姿勢を示していた。しかし、奥州鎮撫軍の参謀を努めた長州の世良修蔵に拒まれて、やむなく立ち上がったという。この世良という男は成り上がりのならず者で、仙台まで来たときに手当たり次第に女を犯して、仙台藩の恨みを買って殺され、それが奥羽列藩同盟のきっかけになっている。西郷たちも彼ら幕藩体制の盟主たちを武力で制圧しなければ、新しい世は来ないと思っていた。
長州だけでなく、西郷たちのやり口もひどかった。ならず者のテロリスト集団「赤報隊」を作って江戸の薩摩藩邸から出没させ、火付け、強盗、強姦、強殺を行って江戸幕府を挑発。幕府が薩摩藩邸を取り締まりのために襲ったのを口実に戦いに持ち込む。これが戊辰戦争の引き金となった。しかも、用済みの「赤報隊」は、後に粛正されている。彼ら明治維新の志士たちは、こうしたテロリズムの性格を内包しながら、時代を動かしていった。天誅と称して、京都で佐幕派を斬り殺し、首や腕を関係者の屋敷に投げ入れる。さらに残酷な処刑を行って、都を震え上がらせた。
◆「まだ120年しか経っていない」。勝者と敗者の溝
「明治維新という過ち」は、後に陸軍の中枢を占めた長州閥に関しても次のように指摘する。「幕末の長州とその長州が創り上げた後の陸軍に共通するものは、“狂気”である。“長の陸軍、薩の海軍”という言葉が示すとおり、帝国陸軍とは実は長州軍の巣窟とも言える集団であって、戊辰戦争を経て成立した薩長政権のキャラクターは、大東亜戦争(太平洋戦争)の基板要因になっていたのである」。この本は、かなり一方的な薩長告発の書で違和感を覚えるところも多いが、著者が批判する維新の面々のテロリズム、あるいは謀略好きが、あの戦争に導いたとする指摘は興味深い。
明治維新後の歴史は、勝者の歴史として書かれて来たので、戊辰戦争の際の西軍が天皇の詔勅を偽造したり、錦の御旗を偽造したりした謀略なども含め、西軍の負の側面はあまり表に出されて来なかった。その陰で、会津の人々は長い間、敗者の怨念を背負ってきた。昭和61年(1987年)、会津戦争から120年が経過するのを前に、山口県萩市長(長州)が会津若松市長に和解を申し入れした際に、市は「あなた方にとっては“もう120年”かも知れませんが、私たちにとっては“まだ120年”しか経っていない」と言って断ったという。
勝者と敗者の間にある溝は、かく暗くて深い。国外に目を広げると、太平洋戦争中に日本軍が中国大陸で行った残虐行為の規模は、明治維新時に比べて桁違いに大きい。それは国と国のわだかまりとして戦後70年以上経っても、消えていない。日本は様々な謝罪と補償を行いながら、なるべく早く忘れようとしているのに対し、被害者である韓国や中国の人々は、その非人道的な扱いの記憶を歴史から消し去ることに抵抗する。その複雑な構図と、その中にあって歴史を自分に都合のいいようにねじ曲げようとする歴史修正主義の問題に関しては次回に書きたい。
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