日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

自民を脅かす野党になれるか 17.12.27

 安倍首相が政権に復帰してから12月26日でまる5年。この5年の総括については新聞などに様々な形で出ているが、一口で言えば経済(アベノミクス)を表看板にしながら、次々と国民の中間層にも受けるスローガンを掛け替えて巧みに支持率を維持して来た5年である。その「3本の矢」、「女性活躍」、「地方創生」、「一億総活躍」、「働き方改革」、「人づくり改革」といったスローガンは、これまでさしたる成果も上げずにいるが、円安と株高による輸出企業の業績好転が目くらましになって、格差の拡大や貧困層の高止まりなどは、余り深く追及もされずにいる。

 そして、看板を掛け替えては選挙に打って出るという「勝利の方程式」(12/26毎日)で、安倍政権は5回の国政選挙に勝利。すると今度は数を頼んで特定秘密保護法、集団的自衛権を可能にする安保法制、共謀罪など、国論を二分する国粋主義的な政策を強行採決してきた。これからは改憲である。また最近では、長期政権に特有の腐敗、傲慢さも目立って来た。野党の質問にまともに答えない「モリ・カケ問題」や、野党の質問時間を削って与党議員の馴れ合い的な質問を増やすといった呆れた態度である。こうして深刻な「国会の空洞化」を招いているのが、「安倍一強」と言われる国政の姿である。

◆このまま「一強多弱時代」が続くのか
 一方で、より深刻なのは“野党の多弱ぶり”である。最近では、二大保守政党制をめざして「希望の党」(小池新党)が旗揚げしたのをきっかけに、民進党が3つに分裂。野党第一党の「立憲民主党」でも衆院で55人にすぎず(自民は284人)、これでは存在感を示そうにも歯牙にもかからない。小池や前原が夢見た政権交代可能な二大政党制は完全な「幻想」と化し、かつてのような安定与党対批判勢力という昭和の政治に立ち戻りつつある。いやむしろ、数の上では批判勢力にもなれていないという状況である。

 参院に残った民進党(現49人)は、立憲や希望と統一会派を作って、少しは存在感を示したいと言うが、政党助成金を手放したくないという打算がミエミエで、この提案に立憲民主の枝野代表は否定的だ。それは当然で、仮にこの3党が一緒になっても以前のようなゴタゴタ続きの民進党と何も変わらないだろう。しかし、このままでは安倍の思うままの政治を許すことにもなる。戦争のきな臭さが立ちこめるなど、国の内外に危機が迫る状況で、以前書いたような「野党のチェック機能」が働くためにも、ここは野党にそれなりの存在感を持って貰わなければならないのだが、この政治状況を彼らは変えることが出来るのか。

 その点、今の立憲民主党はいかにも発信力が弱く、最近のNHK調査による支持率は前回より数を減らして7.9%(自民は38.1%)しかない。一頃の風が止まってみると、立憲民主党が何を目指すのかが、まだ国民に明確に伝わってはいないせいもあるのだろう。保守だのリベラルだのと言ってもその違いは不明確だ。このままだと、立憲民主党も国民の心を捉えられずに、早晩、勢いを失ってしまう。政権交代が幻想であるにしても、立憲民主党が国民政党として、自民党を脅かす存在にまで脱皮するには、何が必要なのだろうか。最近印象に残った幾つかの論考(新聞記事)を紹介しながら考えて見たい。

◆誰に向かって何をする政党なのか
 一つは、小熊英二(歴史社会学者)の「他党とは違う、は重要か」(11/30朝日)という記事である。この中で小熊は、よく保守とかリベラルとか言うが、そうした対立軸は昔から日本の政党でははっきりしなかったし、そういう分け方で云々するのは不毛だと言う。その理由として、日本の政党は昔から「他の政党とは違う」と言って票を集めて来たからだとする。自民党は「他の政党ではダメだ」という人々の集まりであり、社会党は「共産党とは違う」と言ってきた。この思考傾向は今も続いていて、自民党は「あんな人たちとは違う(負けるわけにはいかない)」と言い、前原は「共産党や社民党とは違う」と言いたいために希望の党に合流しようとした。

 しかし、本当にそれだけでいいのか、と小熊は言う。有権者にとって本当に重要なのは「この党とあの党はどこが違うのか」ではなく、「この党は何を実現したいのか」、「選挙に勝ったら何をするのか」ではないのか。「他党と違う」よりも、党の実体を作ることに、力を入れよと言う。その意味では、今の立憲民主党は「原発ゼロ」に向けての工程表を作ることによって、国内リベラル派の取り込みを図るというが、それはいいとしても、彼らに保守やリベラルと言った区分けは明確に見えているのか。むしろ、原発を維持したい連合(電力労連)との関係をどうするのかなど、一つ一つの「具体的な政策」を詰めることがまずは必要だろう。

◆安倍官邸の「政治の技」を取り入れよ
 もう一つ重要なのは、対抗する自民党の戦略の研究だ。朝日の政治部記者(園田耕司)が書いた「脱・一強多弱の戦略〜首相の“技”、野党は学べ」(12/13)という記事だが、彼は安倍官邸が採用している政治目標として次のようなことを上げている。彼らは、国民の政治的傾向について(ざっくりと)「右派3割、中道派5割、左派2割」と見る。歴史や日本人の伝統を重視する「右派」、バランス重視の「中道派」(無党派)、リベラル系の「左派」だ。これは、小熊英二の論(世界1月号)とも共通しているから、かなり正確かもしれない。この認識に立って、3割の右派へのアピールを欠かさずに自らの基礎票としながら、常に中道派の半数近く(中道派の右寄り)の支持を固めることが、必勝の政治戦略だという。

 単純だが、確かにこれが出来れば選挙には負けない。右派には安倍本来の姿で答えればいいが、中道派の支持を得るためには、有権者の関心が高い社会保障・経済政策を打ち出す。こうした計算が出来ない野党は、この戦略の前に何度も敗れてきた。そこで記者は「党勢立て直しに向け、野党には首相の政治術を逆に応用することを提案したい」と書く。具体的な政策も書かれているが、基本は立憲平和のリベラル系(左派)に応えると同時に、中道派の左寄り層(寛容な保守)の生活に寄り添う政策で、自民を凌駕すべきと説く。たしかに、野党は理念もさることながら、こうした「政治の技」も身につけるべきだと思う。

◆国民に対する発信力を高めよ
 以前のコラム「民進党へのラブレターA」(2016年5月)で、最大野党が国民政党として掲げるべき政策を列挙した。今は内外の政治状況が激変しているので、さらに検討を要するが、立憲民主はこうした政策がどの層に、どのようにアピールするものなのか、再整理する必要がある。あるいは、対象となる層にアピールするために、どのように説明すべきか言葉使いも検討する。自民に迫るには、こうした緻密な戦略の立て直しが必要になる。また、次の選挙で野党勢力が中道無党派まで獲得するためには、野党間の選挙協力も欠かせないだろう。

 これからしばらくは、選挙がない期間に入る。安倍自民党は、それを良いことに高額なミサイル防衛装備(イージスアショア2基で2千億円、全体で2兆円)をアメリカの言い値で購入しようとしている。また、富裕層に手厚く、貧困層に厳しい税制、予算措置も目立つ。これに対してチェックをかけるのは野党しかない。選挙がなくても安倍官邸が気にするのは、来年9月の総裁選に向けての支持率の動向になる。従って、これに影響を与えるのは、野党がいかに国民の声をすくい上げ、国会で論戦を挑むかにかかっている。その通常国会は1月22日に始まる。

 自民を脅かす野党に脱皮するために、戦略的に具体的な政策を練り上げ、発信力を高めて(権力の息のかかったマスメディアに頼ることなく)様々なチャンネルを通して国民に伝えていく。そのためにも、確かなブレーン集団を確保して政策を練り上げると同時に、政治家としての自覚を磨いて行って貰いたいと思う。

歴史認識の暗くて深い溝A 17.12.13

 前回は、明治維新に関する敗者と勝者、被害者と加害者による歴史認識の「暗くて深い溝」について書いたが、こうした歴史認識の違いが表れる場面は世界中至る所にある。それは主に戦争や植民地政策に関するものだが、例えばナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺などもその一例。そのやり口があまりに残虐で非人道的なものだったから、ドイツの極右や歴史修正主義者からは「600万人などと言うのはウソだ」から、「ユダヤ人の大量虐殺はなかった。ガス室は存在しなかった」まで、この期に及んでなお自己正当化を図ろうとする主張がなされたりする。

 日本に関して言えば、韓国や中国側が執拗に謝罪要求をしている戦争責任問題がある。その一つ、従軍慰安婦問題に対しても、日本側からは「あれは日本の国家が関与したものではなく、韓国の業者が勝手に集めた慰安婦だ」、「強制連行はなかった」、「慰安婦が20万人もいたというのは誇大だ」といった反論が続いている。あるいは、市民30万人を日本軍が殺害したとする南京大虐殺(1937年)についても、「当時の南京市には30万人もいなかったのだから、数字は誇大だ」という指摘から、「南京大虐殺はなかった」まで様々な異論・反論がある。

 これらの主張には一部に理はあっても、本質的な問題を無視していると批判を招く「歴史認識の違い」から、自分の都合のいいように歴史的事実をねじ曲げる「歴史修正主義」まで様々なレベルがある。それは、自分たちに取って心地いいかも知れないが、言えば言うほど個人だけでなく集団、あるいは国同士の様々な嫌悪感や敵対心を増幅し、平和構築へのハードルを高めることになる。もちろんこれは、加害者と被害者、あるいは勝者と敗者の双方に存在する問題だが、こうした不幸な歴史認識の溝や歴史修正主義は何故生まれるのか。乗り越えることは出来ないのか、というのが今回のテーマである。

◆遅れてやって来た日本の植民地主義
 従軍慰安婦問題にしろ、南京大虐殺にしろ、その背景には日本が明治の近代国家になってから進めてきた隣国との戦争、植民地化、そして侵略行為がある。その“歴史の大筋”は次のようなものである。日清戦争(明治27年)、日露戦争(明治37年)で勝利した日本は、台湾を併合し(明治28年)、韓国を植民地化する(明治43年)。そして、それまで眠れる大国(清帝国)を好き放題に食い荒らして来たヨーロッパ列強に追いつこうと、中国大陸に利権の足場を築いていった(柴五郎の伝記を書いた村上兵衛の「守城の人」は、この時代の背景にも詳しい)。

 こうした日本の植民地政策は、安全保障上の必要もあったが、一方で東洋にあって西側に位置づけられるためには、西欧列強と同じように植民地を持つことが必要と考えていたこともある(「日本の近代化とは何であったか」)。それは驚くほどに、戦略的に慎重に練られた政策だったという評価もある(「それでも、日本人は戦争を選んだ」から)。しかし、その後の日本は、既に第1次世界大戦後の世界が植民地主義の反省期に入っていたにもかかわらず、欲張って中国東北部に進出し、傀儡政権の満州国(昭和7年)を作って“大陸経営”に乗り出す。このあたりから日本は孤立と泥沼にはまっていく。 

◆大義なき戦略戦争の泥沼の中で
 この頃になると、国家の運命をもてあそぶ謀略好きな軍人が暗躍し始める。謀略によって蒋介石の中華民国と戦端を開き、日本を無謀な戦争に引きずり込んでいく。上海を攻略した日本軍は余勢をかって南京まで突出して、いわゆる南京大虐殺を起こす。これが日中戦争(昭和12年〜)である。さらには、蒋介石を支援する英仏の支援ルートを断つために“南進”を決定、東南アジアにまで戦線を拡大する(昭和15,16年)。当時の日本は「大東亜共栄圏」や「アジアの植民地解放」などをスローガンに掲げたが、この戦争の実質は大義なき侵略戦争だった。そして、この“南進”がアメリカを敵にまわすきっかけとなった。

 その大義なき泥沼戦争の中で時代錯誤の精神論がはびこり、日本軍による数々の残虐行為や非人道的行為が起きた。また、植民地政策の中でも様々な抑圧と人権侵害があった。これが、明治以降の戦争と植民地政策の“大筋”である。但し、この“大筋”の周辺には当然のことながら、その局面局面で多くの出来事があり、それらの局面を捉えて、「太平洋戦争は自存自衛の戦争で、侵略戦争ではない」、「あれはアメリカが仕掛けたものだ」、「韓国併合は韓国が希望したものだ」といった主張がなされ、冒頭に上げたような南京大虐殺や従軍慰安婦についての極論が持ち出される。  

◆歴史認識の違いと歴史修正主義。その本質
 確かに、南京大虐殺については、過去のNスペ日中戦争〜なぜ戦争は拡大したのか〜(2006年8月放送)を見ても、殺害された人数に関し、軍の公式記録では6670人となっており、(それが過小なものとしても)中国側の主張する30万人という数は過大と思われる。また、従軍慰安婦問題にしても、(強制連行の記録はなく)国家が直接関与した証拠もない。これらをもって、「“大”虐殺はなかった」、「“従軍”慰安婦ではない」という主張もあり得るとは思うが、全否定的な主張は被害国からすれば受け入れがたいものであり、ここに歴史認識の違いや歴史修正主義の厄介な問題がある。

 というのも、問題の本質は何千という住民を一カ所に集めて周囲から機関銃で撃ち殺すといった非人道的な虐殺的行為や、国家の一機能である軍が慰安所の運営に関与したという事象が示す非人道性なのであって、数の違いや国家の直接管理の有無ではないからだ。その非人道性の本質に対して日本は謝罪を求められてきたのであり、あれこれ理由を持ち出して拒否するのは、世界に理解されない(「ナショナリズムの正体」)。それでも謝罪を自虐的だと拒否する人々の歴史認識や、自分に都合のいいように歴史をねじ曲げる歴史修正主義(*3)は、なぜ生まれるのだろうか。

◆歴史認識の暗くて深い溝。その心理的背景
 ここでは2つの見方を上げたい。一つは、戦争責任を曖昧にするために敗戦を終戦と言い換え、アメリカに対しては「原爆でやられたんだから仕方がない」と敗けを認める一方で、アジアには負けていないとする心理である。この人々はアジアへの侵略については「自存自衛」とか「八紘一宇」のための戦いだと言って、侵略の罪を認めようとしない。これは、アジアへの居直りとアメリカへの従属(敗戦意識)がセットになっている、厄介な心理(白井聡「永久敗戦論」)であり、その奥底には戦前の日本のように強い国になりたいという「列強願望」が居座っている。

 もう一つは、孤独な現代人に特有の「自分の心情と国家が直結する」現象である。身の周りの共同体が希薄な人々(特に若者)は、日本がバカにされると、自分もバカにされたような気になりやすい。そうすると、かっとなって従軍慰安婦の本質も見えなくなり、簡単に国家ナショナリズムになってしまう(「ナショナリズムの正体」)。おそらく、自国と自分に都合のいいように歴史を脚色する歴史修正主義に飛びつくのも、そうした心理のせいだろう。ネット社会になって、この手の国家ナショナリズムが、(相手国のナショナリズムにも刺激されて)ますます勢いを増しそうで心配だ。

◆“歴史の大筋”を間違えずに、未来志向で
 正しい歴史認識とは、歴史(戦争)の反省を踏まえて戦争を国際問題の解決の手段にしないことである(「戦争の大問題」)。このことから言えば、韓国の一部活動家たちが行っている「少女像」の設立運動なども含め、レベルの低い双方の国家ナショナリズムは互いに無視して、私たちは“歴史の大筋”を間違えることなく、敗者・勝者の心情の違いを十分に思いやりながら、互いの未来のために友好的で平和な関係をどう構築するかに、心を砕いていくべきだと思う。

歴史認識の暗くて深い溝@ 17.12.2

 来年のNHKの大河ドラマは、明治維新の立役者の一人、西郷隆盛を描く「西郷(せご)どん」になるそうだ。このドラマがどんな展開になるのか分からないが、案内を読むと人間西郷の愛すべき人となり、あるいはリーダーとしての魅力を描くものになるようだが、ちょっと心配なのはこのドラマがこれまでの明治維新もののように、ステレオタイプの歴史観に基づいて志士たちや西郷隆盛を持ち上げて描くことである。というのも、主人公の西郷隆盛を含めて明治維新の担い手たちについては、最近は一頃と随分違う評価で描かれることが多いからだ。

◆勝者と敗者の歴史の中で作られる歴史認識の溝
 彼ら明治維新の実行者たちは、外国から迫られていた変革に対して適応力を欠いていた無能な江戸幕藩体制に代わって、近代的な明治国家を作り上げた功労者として描かれることが多い。しかし、その彼らも最初はむしろ頑迷な攘夷論者であり、あるときは(後述するように)残酷きわまりないテロリストとして京都や江戸を恐怖に陥れた。そのやり口は、時の幼皇まで騙して利用する謀略的、策謀的なものだった。特に長州藩の志士たちは、やがては政治を牛耳る長州閥として、その謀略好きの性格を昭和期まで引きずり、無謀な戦争に突入させた元凶として描かれることさえある。

 彼らは、ある意味では、280年続いた非戦(平和)の上に築かれた豊かな江戸文化を根底から破壊した革命家たちであり、それによって失われた日本の良さもまた大きい。そうした歴史認識は、明治維新を勝者の側からだけ描いてきたこれまでの歴史観によって水面下に閉じ込められて来たが、最近では、明治維新の負の側面にも光を当てる物語(「明治維新という過ち」など)が幾つか浮上している。そうした本を読むと、加害者と被害者、あるいは勝者と敗者の違いで、歴史がどのように見えてくるのか、その違いの背景にあるものが少しは見えてくるように思う。

 そうした違いは、最近になってサンフランシスコ市の公共広場に従軍慰安婦の像を建てたり、南京大虐殺の記録をユネスコの世界記憶遺産に登録したりした太平洋戦争の被害者である韓国や中国の人々と、加害者である日本との歴史認識の違いにも通じるだろう。50年、100年以上経過しても容易に解消されない歴史認識の違いとはいかなるものか。あるいは、その違いを逆手にとって、自分たちに都合のいいように歴史をねじ曲げる「歴史修正主義」が生まれる構図とはいかなるものか。うまく書けるかどうか自信はないが、2回にわたって「歴史認識の暗くて深い溝」について書いてみたい。

◆会津人の悲劇を書いた遺書
 「ある明治人の記録」は、会津藩(藩主は譜代大名の松平容保)の家臣の家に生まれ、西軍(官軍)の奥羽征伐の中で、祖母、母親、兄嫁、姉妹まで6人が自害した柴家の五男、柴五郎の回想録である。男たちが戦いのために城に登っていた時に西軍が攻めてきて、城に逃れるように勧められたにもかかわらず、「戦闘に役に立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり」(同書)と、女性たちは死を選んだ。当時10歳の柴五郎は、後でそのことを知り地に倒れて慟哭する。

 会津藩5千の籠城軍は、7万5千の西軍と果敢に戦ったが、武器の性能の差はいかんともしがたく、少年白虎隊も含めて多大な犠牲を出して1ヶ月後に降伏した。長州の山縣有朋などに率いられた西軍は、いわばならず者集団で、その後の会津藩がなめた辛酸は筆舌に尽くしがたいものがあった。死者はさらし者にされ、切り刻まれ、女性たちは「会津に処女なし」と言われるほどに陵辱された。それは、武士道精神を守り続けてきた会津の人々にとって許しがたいものだった。しかも、戦いの後で藩士の家族たちは寒風の吹きすさぶ下北半島に追いやられ、多くが餓死せざるを得なかった。(柴五郎の生涯について詳しくは、村上兵衛「守城の人」を)

 そんな中で、柴家に生き残った男たちは、いつかこの恨みを天下に晴らすことを胸に誓いながら辛うじて生き続け、あらゆる機会を捉えて五郎に教育を施す。やがて軍隊に入った五郎は刻苦勉励して陸軍大将にまで上り詰める。「ある明治人の記録」は、彼が門外不出の遺書のつもりで書いたものを、後に石光真人が筆写し出版したものである。その中で、五郎は明治になってからの(西南戦争における)西郷の死、そして大久保利通の暗殺のニュースに関して、「余は、この両雄、維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し、会津を血祭りに上げたる元凶なれば、(略)当然の帰結として断じて喜べり」と書いている。

◆残虐なテロリスト集団としての志士たち
 そもそも、通常の感覚ならば西軍の奥州征伐、そして会津戦争は不要だった。会津藩主の松平容保たちは、戊辰戦争後に和平の嘆願書を西軍に差し出し、恭順の姿勢を示していた。しかし、奥州鎮撫軍の参謀を努めた長州の世良修蔵に拒まれて、やむなく立ち上がったという。この世良という男は成り上がりのならず者で、仙台まで来たときに手当たり次第に女を犯して、仙台藩の恨みを買って殺され、それが奥羽列藩同盟のきっかけになっている。西郷たちも彼ら幕藩体制の盟主たちを武力で制圧しなければ、新しい世は来ないと思っていた。

 長州だけでなく、西郷たちのやり口もひどかった。ならず者のテロリスト集団「赤報隊」を作って江戸の薩摩藩邸から出没させ、火付け、強盗、強姦、強殺を行って江戸幕府を挑発。幕府が薩摩藩邸を取り締まりのために襲ったのを口実に戦いに持ち込む。これが戊辰戦争の引き金となった。しかも、用済みの「赤報隊」は、後に粛正されている。彼ら明治維新の志士たちは、こうしたテロリズムの性格を内包しながら、時代を動かしていった。天誅と称して、京都で佐幕派を斬り殺し、首や腕を関係者の屋敷に投げ入れる。さらに残酷な処刑を行って、都を震え上がらせた。

◆「まだ120年しか経っていない」。勝者と敗者の溝
 「明治維新という過ち」は、後に陸軍の中枢を占めた長州閥に関しても次のように指摘する。「幕末の長州とその長州が創り上げた後の陸軍に共通するものは、“狂気”である。“長の陸軍、薩の海軍”という言葉が示すとおり、帝国陸軍とは実は長州軍の巣窟とも言える集団であって、戊辰戦争を経て成立した薩長政権のキャラクターは、大東亜戦争(太平洋戦争)の基板要因になっていたのである」。この本は、かなり一方的な薩長告発の書で違和感を覚えるところも多いが、著者が批判する維新の面々のテロリズム、あるいは謀略好きが、あの戦争に導いたとする指摘は興味深い。

 明治維新後の歴史は、勝者の歴史として書かれて来たので、戊辰戦争の際の西軍が天皇の詔勅を偽造したり、錦の御旗を偽造したりした謀略なども含め、西軍の負の側面はあまり表に出されて来なかった。その陰で、会津の人々は長い間、敗者の怨念を背負ってきた。昭和61年(1987年)、会津戦争から120年が経過するのを前に、山口県萩市長(長州)が会津若松市長に和解を申し入れした際に、市は「あなた方にとっては“もう120年”かも知れませんが、私たちにとっては“まだ120年”しか経っていない」と言って断ったという。

 勝者と敗者の間にある溝は、かく暗くて深い。国外に目を広げると、太平洋戦争中に日本軍が中国大陸で行った残虐行為の規模は、明治維新時に比べて桁違いに大きい。それは国と国のわだかまりとして戦後70年以上経っても、消えていない。日本は様々な謝罪と補償を行いながら、なるべく早く忘れようとしているのに対し、被害者である韓国や中国の人々は、その非人道的な扱いの記憶を歴史から消し去ることに抵抗する。その複雑な構図と、その中にあって歴史を自分に都合のいいようにねじ曲げようとする歴史修正主義の問題に関しては次回に書きたい。

最大限の圧力のその先は? 17.11.15

 前回、「戦争の大問題 それでも戦争を選ぶのか」(丹羽宇一郎)という本を紹介したが、その終わりの方に重要な内容が書かれている。それは軍事ジャーナリストの田岡俊次の話を引用する形で書かれたものだが、「安全保障を防衛力強化のことと思って議論するのは間違いだ」ということである。安全保障の要諦は出来るだけ敵を作らない(外交政策の)ことであり、防衛力を高めて軍備競争にしのぎを削り緊張を高め合うことではないということ。「敵対しそうな国は懐柔に努め、中立的な国はなるべく好意的中立に、味方はしっかり引きつけるのが基本」だという。

 つまり、「敵を作らないことが目的の安全保障に対し、敵がいないことには成立しないのが防衛計画」。防衛力の向上は安全保障の手段の一つに過ぎないのに、それが安全保障の目的であるように思うのは、目的と手段の混同だ。安全保障は国民から選ばれた政治家が担うべき(外交)政策であり、防衛を担当するのは軍人である。こうした基本的な認識を踏まえた上で、丹羽は「日本において最大の国益とは、国民を戦渦に巻き込まないことに尽きる」と書く。大事な指摘だと思うが、今回のトランプのアジア歴訪中に行われた北朝鮮問題に関する一連の会談(日本・韓国・中国)は、こうした基本認識から見てどうだったのだろうか。

◆対北朝鮮問題で突出する安倍首相
 今回のトランプ大統領のアジア歴訪の第一弾として日米は、「北朝鮮に最大限の圧力をかける」ということで、完全に一致したと発表した。安倍は、トランプが従来も唱えてきた「すべての選択肢がテーブルの上にある」にも100%の賛同を示したが、「すべての選択肢」にはもちろん、武力攻撃も含まれている。しかし、その後の訪問先である韓国、中国との会談を重ねる過程でトランプの発言は、圧力の一方で対話の余地も臭わせる内容に微妙に変わってきている。何としても戦争は避けたいという韓国や中国の強い意向を肌で感じたからだろうか。

 一方で、そうしたアメリカの変化にもかかわらず、安倍首相は「今は対話の時ではない」とし、頑なに「最大限の圧力」を掲げてアジア諸国をリードしようとしており、その突出振りが目立っている。安倍は自分が唱える「最大限の圧力を」という発信の先に、何を見ているのだろうか。もちろん、その圧力で北朝鮮を完全に追い詰め、核放棄のテーブルに着かせることを狙っているのだろうが、ロシアのプーチンも言うように「彼らは雑草を食んでも核は放棄しないだろう」という見方は専門家の間にも多い(「北朝鮮は核を放棄しない」アレクサンドル・ガブーエフ)。核の凍結がせいぜいで、放棄させるのは不可能という見方である。 

◆アメリカの挑発で北が暴発すると
 それを反映したのか、「圧力」に関しても各国の足並みは揃っていない。極東での戦乱を避けるために、対話の可能性を残すべきとする中国、ロシア、韓国と、対話を封じて圧力のみを強調する日本。その間にあって、トランプ発言も微妙に揺れ動いているが、一方で、(世論調査などから見ると)アメリカには依然として金正恩を武力で除去するという願望も消えてはいない。それも、アメリカからの先制核攻撃は世界が許さないから、可能な限り北を挑発し、暴発を誘って戦争に持ち込む作戦だろう。しかし、仮にたとえ10%でも日本側にも、その願望があるとすれば、それは危険きわまりない願望であり、その意味で「安倍の突出振り」に懸念を抱かざるを得ない。

 以前のコラムにも書いたように、万一、米朝が戦争に突入すれば、真っ先に攻撃を受けるのはアメリカではなくて、韓国や日本になる(「人質事件に似る北朝鮮問題」)。最近の分析では、南北朝鮮の国境線にある北のロケット発射装置とミサイル(その多くはトンネルや側溝に隠されている)によって、最初の3時間でソウルの犠牲者は6万5千人にのぼり、1週間後には8万人に達する。しかも、北が保有している数十個の核のうち、仮に一つでもソウル上空で爆発すれば、65万人の死者が出る。また、この戦争でアメリカが核を使えば、北の死者は80万人に上ると推計されている。  

 心配されるのは集団的自衛権によって参戦せざるを得ない日本である。その際の最悪のケースは、死を覚悟した独裁者(金正恩)が自暴自棄になって「死なばもろとも」と日本や韓国の原発を狙うことだ。それも第二次大戦での日本の仕打ちを恨んで来た北朝鮮にとって、(北の高官が言うように)日本海側の原発密集地は格好の標的になる。そうなったら原発一基からでも原爆1000個分の放射能が半永久的に漏れ続け、日本が壊滅するだけでなく、汚染が地球規模で広がる。既に、国内ではこのリスクを踏まえて、河合弘之弁護士たちによる関西電力などへの「原発差し止め裁判」も起こされている(「選択」11月号)。

◆国民を戦渦に巻き込まないのが国益
 また、戦争の影響は長期にわたって極東を混乱に陥れるだろう。核を使えば放射能汚染によって、また仮に核を使わずに金王朝を除去したとしても、大規模な難民発生、経済の混乱、あるいは中ロとアメリカとのバランスの変化による次の戦乱など、戦争の未来は誰にも予測出来ない。もちろんこうした混乱に日本も否応なく巻き込まれていく。こうしたことを冷静に考えれば、圧力をかけ続けることで北の暴発を誘い、それを口実に「うまくすれば金正恩を武力で除去できるかもしれない」などと夢想するのは、全くの幻想に過ぎないことが分かる。

 こうした状況で、安倍政権が北朝鮮の脅威を強調して防衛力を高めようとしているのも、(丹羽本から言えば)誤った方向性と言えるが、トランプからは足元を見透かされて、「我々には多くの仕事を、日本には多くの安全をつくる」などと、さらに高額な武器を購入するように日本は迫られている。安倍は、それに応じる構えだが、既に日本は一機147億の戦闘機を42機、陸上配備型迎撃ミサイル「イージス・アショア」など、予算目一杯に武器購入に応じている。
 この上武器を買い込んで、真の脅威である国内50基ある原発全部を守るだけの防衛装備を揃えることが可能なのか。これ一つとっても、安倍たちの唱える「防衛力強化」もまた、リアリティーなき野望に過ぎないことが分かる。

◆北朝鮮問題を支持率回復に利用するな
 「最大の国益とは、国民を戦渦に巻き込まないことに尽きる」を肝に銘じて、そのために外交努力で敵対国の緊張を和らげること。それが安全保障の基本であり、この点で今回の中国との関係改善のきざしは、安倍外交の成果に上げていい(これについては別途書きたい)。しかし、北朝鮮問題では、何度も書くように当事国は日本でなくアメリカなのに、「最大限の圧力を」と一人突出して言って回っている。これはある意味で、国民を危険にさらしかねない言動でもあるが、いったい安倍は何を考えているのか。

 ここに一つのうがった見方がある。それは、今回の選挙を「国難突破解散」と銘打って勝利した安倍は、この先も北朝鮮の脅威を支持率回復に利用しようという誘惑から抜け出られないという見方である。それこそ、真の政治家(ステーツマン)がとるべき態度ではない。最近のトランプ発言の微妙な変化を見て、アメリカの軍事的選択肢は遠のいたとする見方もあるが(小此木政夫、慶応大教授)、少なくも「最大限の圧力を」と言い続けるからには、安倍はその先に何を考えているのかを明確に国民に説明する必要があるだろう。

 圧力を強めてどうなれば、北は核放棄に臨むと考えているのか。それが出来れば言うことはないが、北が死んでも嫌だと言っている時に、核放棄以外の選択肢はないのか。(何人かの専門家も提言しているが)核の凍結と核拡散の国際的な管理で話し合い、その上で時間をかけた関係改善で非核化を模索するという案ではダメなのか。今の日本ではこうした議論が一切行われないまま、国会もメディアも思考停止している。しかし、「圧力強化による北の暴発」というリスクが少しでもある限り、最大限の圧力のその先に何が待っているのかを、国会もメディアもリアリティーを持って問いただし、きちんと国民に示していく責務がある筈だ。

巨大与党時代の野党の役割 17.11.5

 先の衆院選挙によって自民が大勝したことは、小選挙区制と野党の分裂に助けられたフロック(まぐれ当たり)のようなもので、今回の選挙に勝者はいない、と言う認識が与党内にも定着しつつある。にもかかわらず、自民党執行部はさっそく、国会での質問時間を自分たちに有利になるように変えようとしたり、(小泉進次郎も批判しているが)国会での議論を経ずに幼児教育に企業から3000億を出させる案を突然持ち出したり、国会審議を短縮しようと画策(一応1ヶ月に延ばしたが、首相外遊もあるので実質は10日ほどしかない)したりしている。口でいう「謙虚、丁寧」とは裏腹の国会軽視の態度だが、安倍政権の意識の中では、国会がすでに半ば形骸化していることを示すものだ。

 巨大与党に対して野党が機能せず、国会が空洞化している現状は、「政党政治の危機」と言っていい異常事態。しかし、これこそ独裁政権が望む状況とも言える。大衆受けするポピュリズム的政策を乱発し、野党の混乱に乗じて思うままにイデオロギー的政治に突き進む。隣国との緊張を口実に防衛力を強化し、改憲を行って強権国家への道を進めようとする。こうした傾向を強める安倍政権に対して、ここで野党に踏ん張って貰わないと、日本は戦前と同じような間違いを犯しかねないと思うのだが、肝心の野党は選挙期間中の混迷から抜け出せていない。自らの役割を見失って右往左往しているように見える

 旧民進党は参院で残っているものの、衆院では立憲民主、希望の党、無所属の3つに割れて、再編・連携するにしても、自分たちの政策がどこに立脚しているのか、違いは何なのかも互いに把握できていない感じがする。旧民進党が右派と左派に分かれてスッキリしたという見方もあるが、その違いは何なのか。安保法制に対する考え方なのか。憲法9条に関する考え方なのか。では、民進党右派がすり寄った希望の党は、安全保障の考え方で自民党とどこが違うのか。また、立憲民主党は、枝野の言うように自民党内のリベラル派と同じなのか。
 この全てに曖昧な状況にあって、安倍一強政治に不安を抱く(半数を超える)民意に応えるためには、野党はどうあるべきなのか。巨大与党時代における野党の役割を、政治の原点に立ち返って考えて見たい。 

◆「戦争の大問題」。安全装置としての野党の役割
 もう随分前になるが、2006年のコラム「政党・国民にとっての役割は?」の中で、私は政党の役割について3点ほど上げた。(他の2点については後述するとして)まずは、特に野党の役割としての「政権与党に対するチェック機能」についてである。英国の歴史家ジョン・アクトンが「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」と言ったように、権力は数で基盤が強くなり、長期政権になるほど腐敗して来る。しかも、戦前の日本の政治や軍部がそうであったように、権力は時に歯止めがきかなくなってどこまでも暴走する。

 この点、企業経営者で中国大使を務めた丹羽宇一郎が最近書いた本「戦争の大問題 それでも戦争を選ぶのか」をお勧めしたい。彼は、負けると分かっていながら無謀な戦争に突入し、日本人310万人の戦死者と、アジアで2000万人の犠牲者をもたらした「先の戦争」について、次のように書いている。「戦前、戦中の日本政府は、国民の生命と財産を守るべき政府としての役割を果たさず、冷静に考えればあり得ない判断、あり得ない政策を実行した」とし、対して(もし、これが企業ならば)「経営危機に陥ったとき、なおも経営者が無謀な事業に投資し続けようとすれば、取引銀行、株主、取引先からブレーキがかかる」という。これらはつまり暴走を止める「安全装置」としての機能である。 

 これらがうまく機能しいない場合には、企業でも致命的な破綻にいたるわけだが、この安全装置が戦前の日本政府では全く機能しなかった。そして丹羽は、こうした “戦争の大問題(その非人道性、悲惨さ、為政者の無責任など)”について、あまりに疎くなった今の政治に警鐘を鳴らす。この本の冒頭には田中角栄の名言が載っている。「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが、戦争を知らない世代が政治の中枢になったときはとても危ない」。今はまさに角栄が心配したような危険な時代になった訳だが、その時に必要な「政治の安全装置」こそが、野党の存在意義ではないだろうか。

◆野党はそれが分かっているか
 そういう意味で今、国民多数が自民党以外の政党に求めているのは、安倍政治に対する安全装置としての機能だと思う。それを読み間違えて、今は夢でしかない政権交代を掲げて「希望の党」と合流、二大保守政党を作ろうとしたのが前原たちの失敗だった。自民党より右などと言われる小池に率いられた「希望の党」は、第2自民党的な補完勢力でしかなく、安全装置にはなり得ない。そのことを大方の国民はどことない違和感とともに見抜いていた。今回の選挙は「政権選択の選挙」だと訴えて負けた公明党も同じ。公明党が(自民党に言いなりで)与党内で安全装置として機能していないことへの声なき批判だったと言える。

 ついでに言えば、かれこれ20年にわたって小選挙区制度の中で「政権交代可能な二大保守政党を」と訴えて来た政治学者(山口二郎など)の論理は、今回の選挙で破綻したことも明白になった。安倍政権のような危うい政権の前では、より鮮明にそれに対峙する政党でなければ存在意義がない。権力が腐敗したり、戦争の臭いが迫ったりしている現状では、国民はまずもって(権力の暴走に歯止めをかける)安全装置としての野党を必要としている。現政権と曖昧な関係を持った政党では、国民に支持されない。こうしたことを、自民に近い保守に足場を築こうとした希望の党も旧民進党の面々も分かっていなかった。仮に安全装置としての旗印を鮮明にして互いに協力していれば、北海道(全20議席のうち、自民9に対して立憲民主8)のように、これほどの勝利を自民にもたらすことはなかった筈である。

◆強靱な政治姿勢と政策で安倍政権に対峙する
 では、野党の役割は「安全装置」としての機能(ただ反対)だけでいいのだろうか。もちろん、それだけではない。安全装置としての機能を果たすには、安保政策、憲法改正に関して、説得力のある政策軸が必要になる。その時の条件は、戦争は万難を排して避けるべきと言う強固な政治的意志と、歴史の教訓を踏まえることである。そうすれば、自ずと非戦国家として歩む道が見えてくる筈だ。それを政策の基盤とした上で、政権を担える政党としての条件を整えていく。それを2つ上げるとすれば、「民主的な政治姿勢」と「説得力のある政策」の提示になるだろう。

 政治姿勢という点では、今の安倍政権は官僚を脅して情報を隠蔽し、数を頼んで国会での審議を封じ、一部の富裕層が喜ぶような危うい経済政策を進めてきた。野党はそうした政治姿勢の反対を行けばいい。その点、立憲民主の枝野が言うように「下からの政治。永田町の声ではなく、国民多数の意見に耳を傾ける政治」、さらには「オープンで民主的な手続きを大事にする」、「社会的弱者や中間層に寄り添う」政治姿勢が求められるだろう。もちろん、アメリカにも筋を通しながら、非戦の国是を守り通す強い姿勢がなければならない。

 こうした政治姿勢に加えて、具体的政策についても練る必要がある。今の日本にとってそれは、安保政策(外交)、改憲問題、脱原発、財政再建、少子高齢化対策など、より切迫したテーマになる筈だ。安倍政権に対する「安全装置」として機能するためにも、野党はこうした“国の基本政策”について、真に革新的で有効な政策を練り上げる必要がある。その上で、数の力を持つためには、(政権の暴走を止めるなどの)大きなところで一致すれば、些細な違いや経緯にこだわらずに野党共闘などで連携し、基本的政策(理念)が一致すれば再編すればいい。

 それは、今の勢いで行けば立憲民主党を軸とした動きになるだろうが、先はまだ見えていない。しかし、せっかく国民が自民党に対峙する政党として期待してくれているのだから、何としてもそれに応えて行くしかない。果たして枝野たちにそのことが分かっているだろうか。分かっていても出来るだろうか。これから、様々な連携や再編の動きが出てくるだろうが、悠長に構えるほどの時間がないことだけは確かである。

自民大勝と安倍の思惑外れ 17.10.26

10月22日、台風21号が日本を直撃する中での衆院選挙は、結果的には事前の予想通りに「自民大勝、自公で3分の2越え」に終わった。面白くも何ともないので、各局の選挙速報を見比べするのも早々に切り上げ、台風を心配しながら早めに寝てしまった。翌日には高校時代の友人から「どうしてこういう愚かな結果になるのか、(今度の同期仲間の会で)いろいろ議論したい」という提案のメールも届いたが、考えて見れば、これはこれで厳粛な国民の選択である。彼の言うように、もう少しその内容を掘り下げて吟味する必要があるだろう。

 ただし、自民大勝と言っても議席数は解散前と同じの284。定数が10減った中では増加だと言いう人もいるが、削減数は全体の0.02%にしかならないので、ほぼ同じと言っていい。では、この解散劇は何だったのか。安倍がこの解散に期待していたのは、(前回書いたように)選挙に勝って強さを印象づけ、来年の3選を確実なものにしたいという私利私欲的な狙いだった。しかし、そんな“邪道解散”で、権力亡者たちの思惑は叶えられたのか。私なりに分析してみると、そうとも言えない安倍の思惑外れの状況が見えてくる。

◆数字から見る安倍一強の裏側
 まずは、議席数全体の61%を占めた自民党だが、得票率をデータから見てみると比例区では33%しかとっていない。民主(20%)、希望(17%)を足し合わせた37%より少ない。この比例区のデータが(ある面では選挙における)自民党の支持率と言っていいが、支持率の倍近い議席数をとっているわけである。さらに、小選挙区で見てみると、自民党の得票率は48%で、これで75%もの議席数(218)をとっている。ただし、この得票数も全有権者数からみれば25%に過ぎない。投票率(53%)が低かったこともあるが、自民大勝と言っても、積極的に自民党に投票したのは有権者の4人に1人以下(比例区では6人に1人)に過ぎない。

 投票者の30%から40%の支持、あるいは有権者の17%から25%の支持で、総数の6割を占める状況は、小選挙区制のお陰とも、野党分裂という敵失に助けられた結果とも言われているが、この結果が国民の意向(民意)と大きな乖離があることだけは確かである。それが選挙だと言えばそうだが、開き直ってこの民意を馬鹿にすると、自民党は大きな落とし穴にはまる。つまり、今回の選挙では自民党政治が積極的に支持されたものではないということ。選挙期間中このことを肌で感じたから、野田聖子も小泉進次郎もこのことをコメントし、一方の安倍たちも表情硬く「謙虚さ」を連呼しているのだろう。

◆何故、自民党に投票したのか。意外に少ない安倍ファン層
 さらにもう一つ、自民党を支持した層の間でも、その意向の違いを見ておく必要がある。彼らはなぜ自民党を支持したのか。これも子細に見れば、安倍一強が必ずしも支持されたわけでないことが見えてくる。自民支持の理由を、私なりに分類して見る。

候補者へのファン心理から
 これは、特に地方選出議員の場合に強い。最近では随分と希薄になったが、自民党はもともと地元組織(商工団体、農協、医師会から自治会まで)に根を張った存在だった。これら団体とのつながりを重視して来た議員たちに対して、地方住民は身内意識や応援意識が強い。いわばファン心理のようなもので、雨の中、地方で投票所に連れだってやって来る人々の顔を見ているとそれが強く伝わってくる。稲田朋美(福井1区)も含めて、小選挙区を中心に、これがかなりを占めるのではないか。安倍支持とか政策支持とか以前の、理屈を超えた支持である。

自民党政治への安定感、安心感から
 何はともあれ自民党なら安心という固定層である。これは裏を返せば野党が政権ととることの不安、「野党には任せられない」という人々だが、この層は、投票することが即、政権選択の意思表示だという思い込みがあるらしい(今の段階で、そんなことはあり得ない)。野党に投票することによって、安倍の暴走に歯止めをかけるといった考えは浮かばない。これには、(実感はないにしても)何となく政権の経済政策がうまくいっているという思い込みも加わっているのだろう。自民党にとってはありがたい固定層で、イメージ戦略の対象でもある。(野党から言えば、この思い込みの固定層をどう崩せるかだ)

安倍の安保、国防政策に賛成だから
 これが安倍の支持層と言っていい。彼らにとって安倍は、自主憲法を作って国防を強化し、隣国に馬鹿にされない強い国を作る上で、またとない宰相、希望の星なのだろう。これが、秋葉原を日の丸で埋めるような極右層であり、熱狂的な安倍ファンなのだが、その層は自民党支持全体の中で、必ずしも多くない。安倍は最終日、秋葉原で熱狂的な支持層で周りを固めて演説をせざるを得なかったが、「安倍帰れ」コールを怖れた選挙期間中にも、一頃のような熱狂を感じなかったのではないか。

◆政治の底流で進行する安倍離れ
 オーバーラップするところもあるだろうが、こうして分類して見てみると、安倍自身への熱狂的な支持は案外小さく、多くの議員は各自の日頃の地元活動と、自民党を選ぶ安定志向(固定支持層)に助けられて、這い上がった部分が多いことがわかる。さらに今回は安倍ではなく、応援にかり出された小泉進次郎のような存在が、選挙に貢献していることも顕著だった。これはいずれも、(安倍離れというほどではないにしても)安倍の存在が、一頃のように選挙でものを言うことはなくなっていることを示している。

 一口に「自民大勝」とは言うが、こうした底流での変化については、「どうしてここまで伸びたのか」ともらした安倍自身が一番、意外に感じているのかも知れない。昨日の安倍は今日の安倍ではないということ。ちなみに、共同通信が行った出口調査では「安倍を信頼していない」が51%で、「信頼している」の44%を上回っている。

◆安倍の思惑外れ。政治をもてあそんだツケ
 さらに今回の選挙では、安倍の思惑外れが幾つか起きている。一つは、与党公明党のまさかの敗北である。公明には、安倍の“邪道解散”への恨みが尾を引いて行き、それが憲法論議の頑なさ(9条改憲に反対)になって出てくるに違いない。それならばと、安倍が組むべき野党として密かに期待していた「希望の党」だが、これもまさかの失速。同じ極右的信条の持ち主である小池に対して、安倍は「小池さんを余りいじめないように」と言っていたが、思惑は外れて「希望の党」は野党第2党に。安保法制、9条改憲に反対のリベラル保守の「立憲民主党」が第1党になった。

 野党第1党になると、自民党の国会運営その他の交渉相手は常に筆頭理事の「立憲民主党」になる。解散前の議席数を守った安倍中枢だが、この解散は自民党内には安倍でなくともやれるという安倍離れと、公明の恨み、そして国会運営での面倒な野党の誕生と、厄介な副産物を生むことになった。そして何より、民意よりはるかに多い議席数という乖離を生んでいる。これが、税金635億円も使って政治をもてあそんだツケであり、安倍の顔つきはそのツケの重さを物語っている。
 これから1年弱、政権は以前にも増して緊張した政権運営を強いられることになるだろう。「モリ・カケ問題」も残っており、少しでも国政でミスすれば、たちまち反安倍の動きが噴き出しかねない。3選も危うくなる。メディアは盛んに改憲を煽るが、そうなれば改憲どころではない。

 一方の、「立憲民主党」の枝野代表は、永田町の数あわせではなく、国民の声を聞きながら政治をすると、まっとうなことを言っている。民意に謙虚に耳を傾ける政治が具体的となって、一定のインパクトを永田町にもたらしてくれることを期待したいが、立憲民主党など野党問題については別途論じたい。

政治をもてあそぶ権力亡者たち 17.10.15

 9月27日にカナダ東海岸のハリファックスというところに出かけて、後半は久しぶりにニューヨークに立ち寄り、10月10日に帰国した。2週間の旅の内容については、順次「風の日めくり」の方に書いていくつもりだが、コラムの方にはこの間の政治の動きについて、(かなり腹を立てた)感想めいたものを書いておきたい。
 出かける前には、安倍の衆院解散の動きをにらんだ「希望の党」の立ち上げ宣言があり、それをきっかけとした前原民進党の混乱と解党、それに伴う立憲民主党の立ち上げといったニュースがあった。そして帰国した10日は選挙の公示日だったが、そうこうするうちに早くも「自公で300超」といった予測記事が新聞に踊っている。

 安倍に対抗しようとした「希望の党」だが、小池の権力志向的性格ともともとの右翼的信条が馬脚を現して、政党としての清新を欠いて失速。前原民進党も浮き足立って小池にすり寄ったはいいが、体よく「排除」されて分裂。安倍への対抗勢力は四分五裂といった状態になってしまった。小池の化けの皮が剥がれたのはともかく、こうした結果を招いた前原という政治家については、2006年の偽メール事件の時の対応(*)から、詰めが甘く恥を知らない「政治家以前」の人間と思っていたが案の定で、これでは、与党は選挙前と変わらず、野党勢力がバラバラになっただけの結果になりそうだ。
*「民主党の危機管理能力」、「政治家以前の問題
 お陰で私たちは、この先も胡散(うさん)臭くて危険な安倍一強政治に付き合わされることになりそうだが、いったい、この解散劇は何だったのか。この先の日本の政治はどうなって行くのか。まだ選挙結果は出ていないが、目先の選挙情勢の報道にかまけるメディアも含めて、根本的なところで今回の解散劇のデタラメさを追及する論調は少なく、国民はなぜ怒らないのか不思議でしょうがない。

◆解散権の乱用による私利私欲の解散劇
 そもそも、今回の解散はなぜ行われたのか。先月28日の記者会見で安倍は、消費税増税の使い道の変更や北朝鮮への圧力政策などを上げて、「国難突破解散」などと説明して見せたが、そんな解散理由は後付けに過ぎない。そんなことを言うなら、それこそ国会で十分議論を戦わせればいい話である。解散の本当の理由は、(後述するように)選挙で権力を維持して来年9月に予定される自民党総裁選挙で3選を果たしたいという願望以外の何物でもない。それはまさに、私利私欲のための解散で、そのために国会機能の否定と政治停滞、そして巨額な税金が使われたことになる。

 今回の解散決断の裏事情については、もちろん一部のメディアには報じられている。それは、前にも書いたことだ(*)が、今回の総選挙がない場合、衆院の任期切れは来年の11月。すると、来年9月の自民党総裁選挙では、2ヶ月後に迫る選挙に安倍で勝てるのか、という議論が党内で噴き出ることになる。臨時国会をまともに開くと森友・加計問題が尾を引き、安倍の支持率はじり貧状態が続く。そして、先の内閣改造で登用された他の首相候補たちが目立ってくれば、相対的に安倍の影が薄くなり、3選は危うくなる。既にそういう観測が流れていたが、それを避けるギャンブルが今回の選挙なのだ。*)「受け皿なき政治漂流の行方

 麻生や、安倍を取り巻く側近グループ、親しい政治記者たちは、野党・民進党の混乱と小池新党の準備不足を分析し、「今ならチャンスがある」と意気消沈している安倍をたきつけた(「選択」10月号)。そもそも首相の専権事項とされる衆院の解散権については議論があるところで、本来は内閣不信任決議に対抗する時のためもので、いつでも行使してもいいとは書いていない。憲法にも明確には規定されていない曖昧な権限らしい(毎日特集ワイド9/25)。それを安倍は恣意的に何度も使ってきた。待ったなしの日本の課題を放置して、政治をもてあそぶ。まさに、議会制民主主義を破壊する「天につばする」行為であり、こんなことを怖れもなくやって来たのが安倍たちなのである。

◆政治に対する思いよりも、権力維持が最優先
 民主主義の機能である国会を軽視し、首相個人の損得でそれを解散する。しかも、国民の信任を受けてこれから仕事という他の国会議員の資格までもチャラにする。政治家の方も政権の都合で頻繁にリセットされ、能力を磨く暇もない。大義名分もないまま国会での審議を停止する乱暴な政治がまかり通って行き、日本の政治はますます劣化していく。選挙がいったん走り出すと、各党の動きにつられてこの根本のところが忘れられ、国民の方も、どこかに釈然としない思いを抱えながら、洪水のような選挙情報に翻弄されていく。こうした、解散の問題点を大手メディアはなぜ徹底的に暴き、しつこく追及しないのだろうか。

 百歩譲って、安倍には3選を確実にして「改憲」に手を付けたいという思いがあるかも知れない。しかし、去年8月の田原総一郎との会談で、安倍は「もう改憲の必要はなくなった」と思わずもらしたという。すでに集団的自衛権などで、アメリカの言い分はすべて叶えてしまったからだという。私はむしろ、そんなことより、安倍をけしかけて解散を仕掛けた連中の真の狙いは、「自分たちの甘い汁の維持」にあるに違いないと思っている。安倍という最高権力者に取り付いていれば、巨額の国家予算を仕切れるし、軍隊も含めて全てに権力を行使できる。
 権力者が変わったら自分たちは中枢から去らねばならない。このことを肌で知っている政財官の連中が、どんなことをしても権力を手放したくないと思って、そのためにやれることは何でもやる。それによって、権力の甘い汁を吸い続ける仕組みである。裏事情を読めば分かるが、この権力亡者たちの「思い通りに国を動かし続けたい」という策謀こそが今回の解散劇の本質なのである。

◆権力維持のために使われるポピュリズムの手練手管
 安倍を取り巻く権力亡者たちは、こうして自分たちの思い通りになる安倍をうまく動かし、選挙に勝つために何でもありの手練手管を使って行く。子どもの教育費の無償化といった大衆が喜びそうな耳障りのいいキャッチフレーズと(財政再建など忘れたような)バラマキを行い、返す刀で北朝鮮の危機を強調して“国難”と煽って「強いリーダー像」を印象づける。また、巨額の年金資金や日銀の資金投入によって選挙期間中に株価を上げて、経済政策の効果を印象づける。メディアを様々に操作し、また、一部メディアもそれに便乗する。

 こうした政治手法と体制こそが、ポピュリズムそのものであり、戦前のヒトラーだけでなく、今やアメリカのトランプや中国の習近平を始めとして、様々な国で復活しつつある。厳しい事実のチェックや冷静な議論を「偽ニュース」と一蹴し、自分たちの都合のいい情報だけを増幅して、国民世論を操作していく。今回の解散劇は、まさにそうした戦後民主主義を危機にさらす状況で行われている。この根本的な問題を、大手メディアは気づいているはずなのに、彼ら政治記者もその甘い構造の中に絡め取られているのだろうか。

◆ポピュリズムがファシズムに移行するとき
 今回の旅行中の機内で読んだ本に、歴史家の半藤一利と保坂正康の対談「ナショナリズムの正体」がある。彼らは、今の安倍政権のあり方に強い危機感を持っているが、その一つが安倍たちのポピュリズム。今の極右政治家たちは、国内の筋の悪いナショナリズムと結託しながら外部に敵を作り、やがて危険な領域に足を踏み込んでいく。北朝鮮、韓国、中国との緊張関係を作り出しながら、アメリカから巨額の武器を購入し、国家主義の強い強権国家を作り出していく。2人は、それが戦前日本のようなファシズムにつながることを危惧している。

 すでに、安倍たちは日本に「戦争が出来る国」としての様々な舞台装置を作り上げてきた。今回の選挙は国民が選択するものとはいえ、仮に安倍の続投が決まっていくと、このポピュリズムの傾向とファシズムへの移行の可能性がより高まることが心配される。その仕上げが、米朝戦争とそれに集団的自衛権で参戦する日本の戦争にならないように、そしてその前に、どこかでこの権力亡者どもに天罰が下ることを祈るばかりである。

脱原発でもガラパゴス化? 17.9.18

 ガラパゴス化とは、10年前のアップル社によるiPhone(スマホ)の投入をきっかけに言われるようになった。外国生まれの新技術への対応が遅れたために、その技術が国内に入ってきたときに従来技術が駆逐されてしまうということを言う。原因としては、国内市場に固執して新技術の導入が遅れたことがある。スマホの場合は、保守的な大手電話会社がネックとなり、メーカーの自由がきかなかったこと、政府の産業政策も従来の携帯重視だったこともある。
 その結果、今や携帯の75%はスマホになり、日本の携帯はガラケーなどと言われて隅に追いやられている。そして、先日のアップル社によるiPhoneXの発表のように、革新的技術は日本からは生まれず、メーカーの方も下請けに甘んじる状況になってしまった。 

◆世界で進むEVシフトの中で日本の自動車は生き残れるか?
 同じようなことが、電気自動車(EV)でも懸念されている。9月16日から始まったドイツ・フランクフルト自動車ショーでは、話題は世界(特にヨーロッパ)のメーカーの「EVシフト」だった。地球温暖化や環境対策から、ノルウェー、オランダが2025年までに、インドが2030年までに、そして英仏が2040年までにガソリン車などいわゆる化石燃料車を販売禁止にする政策を打ち出す中で、各メーカーがEV車にシフトする方針を打ち出した。ドイツのフォルクスワーゲンが2025年までに50車種のEV車を投入、スエーデンのボルボも2019年以降全てのガソリン車の生産を停止する方針を発表している。

 これには世界最大の自動車市場である中国がEVシフトに舵を切ったことが大きい。メーカーに一定比率のEV車生産を義務づける方針で、この方針転換をにらんだ各国メーカーの動きが急になっている。しかし、ヨーロッパのメーカーに比べて、日本メーカーの出足は遅れており、この自動車ショーへの日本からのEV参加はホンダだけだった。ハイブリッド車はEVから排除されるので、これに社運を賭けてきたトヨタなどは、選択を迫られているが、世界のEVシフトに対し、日本の世耕経産相は「いきなり電気自動車に行けるわけではない」と、日本が開発してきたプラグインハイブリッドや燃料電池車などを含めて中長期的な視野で考えたいとしている(9/15)。

 ガソリン車から電気自動車へのシフトが、今後どのように展開するのか、素人の私には分からない。しかし、既にEV車の新興勢力であるアメリカのテスラ社(イーロン・マスクCEO)は、今後世界で需要が高まるバッテリー需要を見越して今年、ネバダ州に世界最大のバッテリー工場(ギガファクトリー)を建設した。このテスラ社も2010年代後半から年間50万台のEV車を生産する予定だが、世界の潮流になりつつある“100年に一度の大転換(EVシフト)”に日本は対応出来るのか。スマホと同じガラパゴス化を招かなければいいがと、懸念の声が上がっている。

◆エネルギーの分野でも大転換が
 実は、テスラ社が建設している世界最大のバッテリー工場が狙っているのはEVシフトだけではない。今、世界中で建設が始まっている太陽熱発電への売り込みである。CEOのイーロン・マスクは去年、太陽熱発電のベンチャー企業を買収、その技術力とバッテリー供給力で「21世紀型のエネルギー帝国」を作る野望を持っているという。その彼が、狙いを定めたのが南オーストラリア州に建設予定の世界最大の太陽熱発電プロジェクト「オーロラ」だ。彼はここに作られる最大規模のバッテリー蓄電施設の入札を勝ち取ったが、その時の「建設工期に一日でも遅れたらタダにする」という決め台詞(せりふ)が話題になった。

 太陽熱発電とは、広大な敷地に反射鏡を敷き詰め、中央にある塔の先端の溶融塩を超高熱に熱するもの。それを地下に引き込みタービンを回す仕組みだが、バッテリーは、この発電のムラをならして安定化するために使われる。南オーストラリア州は、この発電所で作られる電気で州政府機関の全体をまかない、余った電力を住民に供給する。こうした太陽熱発電は、チュニジアのサハラ砂漠でも構想されており、ここで発電されるおよそ原発5基分の電力を海底ケーブルでヨーロッパに送電するアイデアである。

◆脱原発分野でもガラパゴス化が進む日本
 太陽熱発電など、再生可能エネルギーが急速に普及しつつある背景には先進国の原発が終焉に向かうという大きな潮流がある。すでにドイツは2022年までに全ての原発を停止する方針だし、世界最大の原発国・フランスも前政権から原発全廃を打ち出し、さし当たって2025年までに今の70%から50%に削減する(17基の原発廃止)。そのフランスでは、政府が原発の中長期の経済性を詳細に検討した結果を公表しているが、それによれば「(原発コストは)不確定で、それ故に安くならず、高くなる一方だ」という結論だったという(「脱原発、フランスでも!世界9月号」)。

 こうした脱原発の潮流に対し、電力の需給を安定させる手段が、徹底した省エネと再生可能エネルギーの導入になるわけである。そういう観点から見れば、世界の再生エネへの潮流は止めることが出来ない。安全コストが膨らみ続ける原発に対して、再生エネのコストは下がり続けており、国際エネルギー機関(IAEA)によれば、その投資額は2015年で36兆円に達し、発電設備全体の70%にまで及んでいる。こうした世界の潮流に対して、日本のエネルギー政策は携帯やEVと同じように乗り遅れ、やがて日本はエネルギー転換においてもガラパゴス化するのではないか。

 2014年に策定された日本のエネルギー基本計画は、一方で原発について「依存度を可能な限り低減する」と言いつつ、他方では「重要なベースロード電源(2030年で22%程度)」と位置づけるいい加減なものだ。再生エネについては24%程度と見込みながら、既存の電力会社に配慮して送電線への受け入れを絞っているために、思うように普及していない。日本では、まだ太陽光や風力発電量は全体の1割半ばで、欧州諸国に遅れをとっている。一方の、原子力ムラが頼みとする原子力も、安全対策の遅れなどから、今はたったの2%でしかなく、日本が原発なしで十分やっていけることは、この6年で証明済みになっている。

◆未来に立ちはだかるガラパゴス化のDNA
 それでも、政府や電力会社の既得権益集団は原発維持にこだわり続け、3.8兆円に上る安全対策費をつぎ込もうとしている。9月13日には、長らく懸案だった新潟県柏崎刈羽原発6,7号機の再稼働について、原子力規制委員会は条件付きで容認を打ち出した。22兆円もかかる福島原発事故処理費の東電負担分(16兆円、1年あたり5千億円)の費用を捻出するための再稼働容認である。しかし、事故の収束に当てるために危険な同型原発(BWR)を稼働させるのは、理に合わないし、当然そこで増える安全対策費は、国民負担に回されることになる。

 柏崎刈羽原発も、地元の同意が得られなければ再稼働はできず、日本の原子力は今後も、「重要なベースロード電源」とはほど遠い状況が続く。それでも、政府経産省は新たな諮問会議を設けて、再稼働や新設をしやすくするために計画の見直しを目論んでいる。懲りない面々である。こうした、自分たちの都合しか見ない(現実から遊離した)政策がまた、世界の潮流に乗り遅れる原因を作って行く。そして、先のない原発が税金や電気料金の形で確実に国民のカネを飲み込んでいく。
 それによって遅れるのは、未来を切り開く再生エネへの投資であり、技術だ。未来の可能性に立ちはだかる原子力ムラと言う壁。誰か、日本社会に染みついた産官学の「ガラパゴス化のDNA」を取り除くような革新的な事業者が現れないかと思うが、残念ながらやはり海外に期待するしかないのだろうか。

北朝鮮問題の核心とは何か 17.9.6

 北朝鮮がICBMと称する「火星12型」のミサイルを発射した8月29日の早朝、まだ寝ていた私は、NYからの次男の国際電話で起こされた。「日本のニュースでは大変なことになっているけど大丈夫?」という電話だった。慌ててテレビを付けてみると、東日本全域に及ぶ12道県にJアラート(全国瞬時警報システム)が配信され、アナウンサーが緊迫した表情で「北朝鮮西岸からミサイルが東北地方の方向に発射された模様です。頑丈な建物や地下に避難して下さい」を繰り返していた。

 続けて、「さきほど、この地域の上空をミサイルが通過した模様です。不審な物を発見した場合には、決して近寄らず、直ちに警察や消防などに連絡して下さい」という情報も。それから次男とLineで「ミサイルは北海道沖合1180キロの所に落ちたらしいけど、この影響がどう出るか、面倒だね」(私)、「うん。アメリカがどう出るか微妙だよね」(息子)、「被害がないのだから冷静になって貰いたいね」(私)、「でもやたら日本のテレビが重大ぶってるな−。異例だと。」(息子)などとやりとりする間も、テレビは4,5時間にわたって中継を続けることになった。

◆事前に情報を知らされていた日本
 ミサイル発射18分後には、安倍首相が「国民の生命をしっかりと守っていくために万全を期してまいります」とコメント。さらに会見で「我が国を飛び越えるミサイル発射という暴挙は、これまでにない深刻かつ重大な脅威であり、地域の平和と安全を著しく損なうものであり、断固たる抗議を北朝鮮に対して行いました」と述べたが、実はこのミサイル発射について日本は事前(前夜)にアメリカから知らされていたという。官邸近くに宿泊した安倍も菅もあるいは、北海道の危機管理対策室も、そして一部メディアも事前に知って準備していた兆候(あまりに準備が早かった)がある。

 日本が珍しく「ミサイルの発射直後から完全に把握していた」というには、こういう裏事情があったわけだが、それでも、広範囲にJアラートを発して、公共交通機関まで止めたのは何故か。空襲警報の大規模予行演習の考えもあったのか。それとも、「危機に強い首相」の姿をアピールするなどの政権浮揚の思惑(こういう言説がネットには溢れている)も絡んでいたのだろうか。いずれにしても、知っていたなら事前に国民に知らせる方が親切というもの。東京新聞の望月記者は菅の記者会見で、相変わらず厳しくこの点を追及している。

◆日本の幻想に縛られて、視野狭窄に陥るメディア
 その後の北朝鮮はご存じの通り。9月3日の未明には6回目の核実験を行い、これは広島原爆の10倍以上(160キロトン)の威力をもつ水爆実験だった可能性が高い。アメリカに届くICBMと、それに積む核弾頭の開発に血道を上げ、しきりにアメリカを脅迫する北朝鮮。その北朝鮮に対し、安倍首相はトランプ大統領と連日にように電話会談を行い、北との対話を拒否するアメリカと一緒になって圧力強化路線をひた走る。制裁のカギを握る中国やロシアは、対話の必要を訴えてこれ以上の制裁強化に難色を示すが、首相は制裁に同調するよう訴えて奔走している。 

 メディアも連日この問題を報じているが、政権の動きに引きずられるあまり、視野狭窄に陥っているようにも感じる。ワイドショーなどでは特に、(教育問題、弁護士、家族問題などの)専門外の評論家が訳知りにコメントをしているのにうんざりするが、これは、一部の報道番組のキャスターも同じ。ここまで問題が大きくなって煮詰まってくれば、もっと高度で専門的な分析が欲しいと思うのだが、相変わらず「日本にとっての深刻な脅威。もっと強力な制裁を」という政府と同じの “願望的コメント”から一歩も出ない。それがいかにピント外れなのかを書きたいが、その前に、今の北朝鮮が何を狙っているかをおさえておきたい。

◆北朝鮮は何を狙っているのか
 一連の核とミサイルの開発は、いったんは核放棄の合意に至った6ヶ国会議の共同声明(2005年)後も、オバマ大統領が(中東のイラン問題に気を取られ)一向に北との平和共存に興味を示さず、放置して来たことが大きい。金体制(王朝)の存続を保証して貰うために、アメリカとの不可侵条約や平和条約を求めて来た北朝鮮の要求に応えずに、問題を軽視し、ひょっとすると都合良く金体制が崩壊するのではないかと願望しつつ、10年以上も放置して来た。そのことのツケである。このアメリカに対して、北朝鮮は敵視政策をやめることと、体制保証の対話に着くよう要求して、カードとなる核とミサイルに執着して来た。

 体制の保証が第一。核とミサイル開発は、(北の言い分によれば)何かと言えば北の体制崩壊(金正恩の排除)を狙って圧力を高めている米韓の敵視政策に対する防衛力強化と言うことになる。プーチンは、体制保証に安心するまでは、北は雑草を食べても核とミサイルを離さないだろうと言う。もう一つ厄介なことに北には、建国以来の願望として、いつの日か北主導による南北統一を果たしたいという夢もあるが、これはあくまで大義名分的な願望であり、韓国と同盟国のアメリカが許さないだろう。同様に韓国にも韓国主導で統一を図りたい夢がある。これは朝鮮民族自身の問題であり、核とミサイル問題は、南北統一問題と切り離さないと進まない話だ。

◆日本は当事者か?勘違いのメディア報道
 見てきたように、北朝鮮の対象はあくまでアメリカであり、日本などではない。強いて言えば、いざ戦争となったときに、日本は(国内に米軍基地を持ち集団的自衛権を行使する)アメリカの同盟国として、攻撃対象になる国であり、交渉の当事国ではない。それなのに、日本はまるで当事国のように大騒ぎして、二国間対話を妨害しようとしている。これが、北が日本に苛立ち、何かと脅しをかける原因になっている。もっとも、日本政府には北が核保有国として国際的に認められることに対する強烈な拒否反応がある。それは何故か。

 政府や報道番組のキャスターたちは、声を揃えて「米朝が抜け駆け的に対話し、北の核保有が認められたら“最悪のケース”だ」と言う。しかし、北が核を放棄してくれれば言うことはないが、ここまで北朝鮮が絶対核放棄に応じないと言い、北を追い詰める制裁も中国やロシアの足並みが揃わないとすれば、それを最悪と言って(圧力一辺倒に)思考停止している状況は、合理的と言えないのではないか。日本の隣国には既に中国とロシアという核大国があり、水爆もICBMも多数持っている。ここに北が加わったとして、どういう“致命的な状況”が生まれるのか。日韓の核武装ドミノを心配する向きもあるが、熱い戦争を避けるには、これらを冷徹に検討・シミュレーションすべき時が来ているのではないか。

 金正恩がヒトラーのような征服欲に駆られた人物なら話は別である。しかし、国際的な包囲網の中で体制の存続のみを願っている彼が、それこそ核攻撃をまともに受ける侵略(それも日本に)に踏み切るだけの理由はあるだろうか。平和的な環境が整えば、冷静に考えて、それはない筈だ。報ステの後藤キャスターなども「日本が蚊帳の外に置かれて、米朝が妥協するのは避けたい」などと言っているが、では日本は何か有効な手立てはあるのか。圧力の継続は必要だと思うが、制裁のカギを握る中国とロシアが、「これ以上の制裁は危険。今こそ対話を」と言っているのに対して、どうするのか。日米で今度は中国に圧力をかけるというのだろうか。

◆単線思考でなく、戦争を避けるための多角的な報道を
 もちろん、覇権国アメリカが、今の傲慢な北朝鮮に絶対的な拒否反応を示すことは当然だが、その一方で、アメリカは別のことを考えているかも知れない。政治の世界は相手のあることなのだから、最悪のケースを避けるためには、米朝を含めた6各国で核の凍結も含めた妥協線を見いだすしかない。安倍はともかく、日本はアメリカ追随だけなく、問題の核心を踏まえた様々な選択肢を冷徹に検討すべき時に来ている。核とミサイル問題は、力の論理が幅を効かせやすい微妙なテーマであるだけに、メディアも論調が“単一路線”になることを避け、出来るだけ多角的な報道を心がけるべきだと思う。

人質事件に似る北朝鮮問題 17.8.27

 米韓両軍は8月21日から31日まで、韓国各地で合同軍事演習(ウルチ・フリーダムガーディアン)を行っている。これは主にコンピュータを使った机上演習だが、北朝鮮の核・ミサイル施設の先制攻撃や、体制崩壊を想定した5015計画の演習だという。これに対して北朝鮮は「火に油を注ぐことになる」と激しく反発、26日には、3発の短距離ミサイルを発射している(*)。「世界が見たことがない炎と怒りを受けることになる」というトランプの恫喝に対して、北朝鮮が日本上空を通過してグアムにミサイルを打ち込むとして以来、東アジアでは依然として緊張した神経戦が続いている。
*)29日には、中距離弾道ミサイル「火星12」を予告なしに発射し、北海道襟裳岬上空を通過して太平洋沖に着弾させた。

◆米韓の北朝鮮制圧計画
 北の体制崩壊を目論むアメリカと、それに反発して核とミサイルを開発してきた北朝鮮。その関係は、今となってはどちらが鶏か卵か分からなくなってしまったが、北の核ミサイル開発に対抗する米韓の軍事演習は、金正恩の神経を逆なでするに十分なものではある。2年前に作られた5015計画には、金正恩など中枢部を攻撃する特殊部隊の創設も含まれているし、実際に、朴前大統領時代には彼の「斬首計画」(暗殺計画)の実行も決済されていたという(「実行寸前だった斬首作戦」月刊文春9月号)。それは、朴政権末期の混乱で頓挫したが、今でも米韓両軍は戦時の攻撃目標として500カ所の軍事拠点を巡航ミサイルに入力、いつでも攻撃できるようにしているという。

 金正恩の狂気じみた振る舞いや核・ミサイル開発の脅威を目の当たりにすると、正直言って私なども何らかの手段で彼一人を取り除くことが可能かどうか、あれこれ空想したことがある(これには、ミサイル発射直後にその場所を小型核爆弾で攻撃することも含まれる)。アメリカによる金正恩へのピンポイントの攻撃は可能か。あるいは彼一人さえ除去すれば、体制は崩壊するのか。これは、北の脅威に手こずる日米韓の政権の誰もが一度は夢想することに違いない。しかし、いかにその先制攻撃が強力、効果的なものであっても、その成功の代償は、日韓にとって破滅的であることが明白になりつつある。

◆莫大な損害を生む北の反撃
 例えば、実際に北朝鮮を制圧するには、今や5千カ所もの攻撃目標を叩かなければならない。しかも、その一部は地下に設けられており、制圧には相当程度の日数が必要になる。仮に3日を要しただけでも、北の反撃による損害は莫大になる。というのも、北は千門の長距離砲を保有しており、その半分近くをソウルや在韓米軍基地が射程に入る国境沿いに展開させており、これが戦端の開始早々に火を噴けば、1時間に6千から7千発もの弾丸が飛んできてソウルを火の海にするからだ。

 さらには、どこに飛んでくるか分からない千発以上の短距離ミサイルスカッド、200発のノドン(射程130キロ)、40発のムスダン(射程3千キロ以上)、そして60個の核爆弾がある。ミサイル攻撃の点では、韓国よりもむしろ日本の方が危うい。北朝鮮はいざ戦争となったら、同胞の韓国よりも米軍と一体の日本を最初に狙う可能性が高いからだ。その場合は、日本に向けて多数のミサイルを発射し、その中に数個の核弾頭を搭載するという方法がある(干し草の山攻撃)。どれが核弾頭ミサイルか識別できずに撃ちもらせば、日本は破滅する(同「米ペンタゴンが怖れる北の奇襲攻撃」)。

 また、何らかのピンポイント攻撃で、首尾良く金正恩の首が獲れたとしても、それが即、体制の崩壊につながるとは限らない。既に北朝鮮軍は自動機械のようになっていて、暗殺が他国の軍事作戦によるものと分かれば、前もって決められた攻撃が自動的に発動する仕組みになっているという。頭を失った軍部が暴走し始めたら、同じように莫大な損害が日韓を見舞うことになる。アメリカ本土を本格的に攻撃できるICBMの開発には、なお2,3年かかると言われるが、アメリカの先制攻撃に対して北朝鮮は、いつでも韓国や日本に破滅的な損害をもたらす反撃体制を整えているわけである。

◆人質事件に似る状況で日本は?
 こうした状況を概観すれば、北朝鮮と日米韓の関係は何やら人質事件に似ているようにも思える。北朝鮮は確かに、アメリカの軍事的圧力によって、リングで言えばコーナーに追い詰められ身動きがとれない状態にある。しかし、彼は核とミサイルという武器を人質(日本と韓国)に突きつけながら、アメリカに対話を要求している。いざとなったらこの人質を殺して自分も死ぬ覚悟だ。アメリカはその犯人に対して対話を拒否し、「武器を捨てて投降せよ。さもないとお前を射殺する」と言って銃を構える警官の役割になる。(この場合、犯人の武器=ICBMは警官にとってまだ十分有効ではない)。

 これはちょっと考えてみても、なかなかに厄介な状況である。実際には、粘り強い説得で犯人を投降させたり、あるいは犯人の安全を保証したりしながら人質を解放することもあるが、その一方で警官隊の突入などで多大な犠牲を出すことも多い。警官隊が犯人の脅迫や挑発に焦って攻撃に踏み切れば、犯人を射殺することは出来ても、人質も一緒に殺しかねない。その選択は多分に、その国の文化にもよるだろう。平和的解決を目指す日本などは、何日もかかって犯人を説得するが、力に頼るアメリカやロシアなどは、犠牲覚悟で突入する場合が多い。これは人質に取っては最悪だ。

 こうした状況を冷静に考えれば、人質になっている韓国の文大統領が「朝鮮半島での軍事行動は(米国ではなく)韓国だけが決定することが出来る。政府は全てをかけて戦争だけは避ける」(8/15)と平和的解決を訴えたのも当然と言えば当然だ。問題は日本である。「今は対話のための対話は無意味。アメリカと一体になって圧力をかけ続けることが重要」などと(上から目線で)言っているが、これを人質の身で言うのはいかがなものか。そうでなくとも、当のアメリカ(警官)はこれまで、さかんに先制攻撃や武力的解決を匂わせてきた。その警官と一体になって、人質が(自分の身が危うくなる)軍事的解決を容認したり夢想したりするのは、立場的に思慮がなさすぎる。

◆戦争を避けるための粘り強い交渉を
 以上はたとえ話だが、米艦が攻撃されたら日本も集団的自衛権を行使するなどと軽々に発言(防衛相)するのは、愚かなことでしかない。人質事件の場合、その平和的な解決のためには、それこそ焦った方が負け。犯人を刺激せずに粘り強い交渉が必要になってくる。焦って突入すれば、多くの場合人質に甚大な被害が及ぶ。それをも“解決”と言ってきたのは、力に頼る国々だ。もっとも、当初は「全ての選択肢はテーブルに乗っている」と軍事攻撃を強く匂わせていたアメリカも、最近は(日韓に配慮して)対話による平和的な解決しかないことを認めだしている。
 ティラーソン国務長官、マティス国防長官は連名で新聞(8/14、ウォール・ストリート・ジャーナル)に、北の暴発に警告を発しつつ「米国は北朝鮮と交渉する用意がある」と寄稿した。にもかかわらず、トランプと金正恩は、相変わらず互いに挑発的な言葉を投げ合っている。(メディアもそれに悪のりする)

 アメリカの忍耐も北がアメリカにも確実に届くICBMを開発するまで、という時間的制約があるので、北朝鮮問題はこれからも緊迫したものになるだろう。それでも、戦争は何としても避けなければならない。イラク戦争を見るまでもなく、戦争はいったん始まったら先が見えないからだ。開戦後の東アジアでどんな恐ろしい混乱が派生するか誰も予測出来ない。今こそ「戦争はどうなるか考えたところで、常に予想外のことが起こったり、間違いを犯したりするものだ。予想通りに行ったためしがない」という言葉(アイゼンハワー元大統領)を関係各国全員が(そしてメディアも)噛みしめる時だろう。