「歴史にif(もしも)はない」というが、戦争が始まってしまってからのifは、多くの場合戦術的なもので、仮に局所の戦いが上手くいっても、先の太平洋戦争において総合力で大差のあるアメリカに日本が勝つことはなかった。それは致命的な作戦ミスがあったミッドウエー海戦でも、レイテ沖の戦いでも同じである。 しかし、同じifでも「戦争に至る場面での様々なif」は、もしこれがうまく行っていればと悔やまれる場面が多い。例えば、対米英の艦船比率を協議したワシントン軍縮会議における加藤友三郎海相である(「日本海軍の興亡」半藤一利)。
◆「新しい戦前」の中で歴史のifを見逃さない?
加藤は、明治以来の国防論を転換し、「外交的手段により戦争を避けることが国防の本義」とし、「国防は軍人の専有物にあらず」と言って国際協調路線を採ろうとした。すなわち、軍備と外交が相まった新しい国防論で日米不戦の方針を実施しようとした。しかし、運命のいたずらか、加藤は首相になって新国防論を策定した2か月後に62歳で病没(1923年)してしまう。あるいは、日独伊三国同盟に強硬に反対し、対米戦争回避で一致していた米内光正、井上成美、山本五十六のトリオが、海軍中枢部から同時にパージされたことも痛かった(1939年)。
無謀な戦争への突入を回避できたかも知れない様々なifは、後から振り返ってみれば、その都度的確に対応していればと悔やまれる。ただし、それは余程注意深く監視していなければ、大勢が戦争に向かう時局の中で見逃されてし まう。いま時代は、昨年にタモリが「徹子の部屋」で「来年はどんな年になりますかね」と聞かれて「新しい戦前になるんじゃないですか」と答えたことが、妙に実感を持たれる状況になっている。仮に今が「新しい戦前」とすると、私たちはそのifを見逃さないようにしなければならない筈なのだが、実際はどうだろうか。
◆憲法9条と専守防衛の関係
「新しい戦前」を予感させる様々な兆候は、この10年で次々と現れて来た。そしてそのことは今、一つの事象に収斂(れん)しているように見える。それは、憲法9条を基にして練り上げて来た日本の防衛政策、すなわち「専守防衛」政策のなし崩し的変更である。今回は、反撃能力など岸田政権の安保政策の大転換、あるいは5月の憲法記念日に際して、様々な識者が新聞紙上で指摘して来た論旨を引用しながら、「専守防衛」変質の意味を探ってみたい。まずは、戦争放棄と戦力の不保持をうたった憲法9条と専守防衛の関係についてである。
憲法9条では、その2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とある。この条文のもとで国を防衛するために日本は(軍隊ではない)自衛隊を持ち、「敵国の軍隊をわが方の領域外に追い払うのに必要な範囲内にとどまって、外国の領域を攻撃することはしない。だから他国に脅威を与えることもない」というのが、これまでの専守防衛の考え方だった。そのために、@海外で武力行使をしない、A敵国の領土、領海、領空を直接攻撃する武力を持たない、という2本柱を守って来たという(元内閣法制局長官、坂田雅裕)。それが揺らいでいる。
◆「専守防衛」を揺るがす集団的自衛権と敵基地攻撃能力
その2本柱が揺らいだ大きな出来事が、安倍元首相の時の(集団的自衛権を容認した)安保法制(2015年)だった。これによって自衛隊は同盟国と戦うという名分のもとで、地理的制約なしに海外でも武力行使できることになった。加えて、反撃能力(敵基地攻撃能力)を認めた岸田の安保3文書の改定(2022年)である。これによって、自衛隊は敵国領域を直接攻撃できる能力を持たないとした「専守防衛」の第2の柱が崩れた。それでも岸田は、日本の存立危機事態の場合の反撃能力は専守防衛に含まれると言い張るが、何が存立危機事態なのかを明確に説明しない。
岸田は「手の内は明かせない」と言って、反撃能力の内容も説明しない。1発4億円のトマホークミサイル を400発アメリカから買うといった情報があるだけで、5年間に43兆円に増やす防衛費の中身も不明のままだ。しかも、今は移動式で発射される敵ミサイルを事前に補足し攻撃するのは、アメリカの情報提供があっても困難。代わりに、軍事施設や敵中枢を攻撃すれば、全面戦争に発展しかねない。こうした具体的説明のないままに専守防衛のタガが外れ、「台湾有事は日本有事」などと前のめりになる状況こそ、「新しい戦前」の兆候ではないだろうか。
◆専守防衛が崩れる時の憲法9条の意味は?
「専守防衛」が崩れることは、憲法9条を死に追いやることに他ならない(坂田)とする一方で、憲法9条はまだ死んではおらず、今後も大事な役割を果たしていくと言う識者(蟻川恒正、日大教授)もいる。彼は、9条は戦争によって踏みにじられる国民の自由の基盤を深いところで支えていると言う。時流が戦争へと流れていく時に、弱い人々が流れに抗して反対の声を上げる時の「心の支え」になると同時に、9条は日本の主権をアメリカから守る盾にもなっていると言う。これを手放してしまえば、日本はアメリカにむき身(裸)で相対するしかなくなるからだ。
彼によれば、戦力不保持の9条の規範は、日本が武力行使以外の選択肢を考え抜く知性を鍛えて来た。それによって、政治や外交で局面を打開する方途を決死の覚悟で探し出す。憲法9条を死守することによって、そういう「限界知性」とも言うべきものが日本に生まれることを期待したいと言う。戦争は人の思考を粗暴化し単純化いていく。思考の経過が単純化すると、戦争への歴史のパターンが繰り返されていく(藤原辰史、京大准教授)。だからこそ、9条は「戦争だけはしてはいけない」という敗戦の重い教訓から生まれたことを忘れてはいけない。
◆軍拡と戦争につながりかねない「仮想敵国作り」 
歴史学者の加藤陽子は現在の安保3文書を考える上で、戦前の国防3文書(帝国国防方針など)との共通点を指摘する。これは日露戦争の後に作られたもので、陸・海軍の予算獲得競争を抑える狙いもあったが、結局のところ軍拡に道を開くものとなった。その原因の一つは、仮想敵国の多さだったと言う。ロシア、アメリカなどを仮想敵とし、それに負けまいと軍備を拡張する。むしろ、軍拡のために仮想敵国を増やす発想さえあったと言う。加藤は、現在の安保3文書も中国やロシアなどを仮想敵として、身の丈を超えた軍備を求めていると指摘する。
日本が仮想敵を作って軍備を拡張すれば、仮想敵とされた相手も警戒心から軍備を拡張、際限ない競争に入る。そういう「安全保障のジレンマ」を避けるためには、自国を防御する十分な備えをしながら、同時に自分に敵意はないのだというメッセージをあらゆるチャンネルで伝えなければならない。それが9条の思想だろう。変な構想で中国を封じ込めようとしたり、価値観の違いで相手の存在を否定したりするのも、戦争につながる危険な「物語作り」と言える。そうした構想(物語)に沿って防衛を考えることは、むしろリアリズムから離れて行く。
◆「新しい戦前」の中で歴史のifを問う 
「日本海軍の興亡」の中で、著者の半藤は戦前の教訓として、第一に「国民的熱狂」を作ってはならず、「国民的熱狂」に流されてはいけない、と書く。つまり、時の勢いにかりたてられてはならないということだ。第二には、危機における日本人は抽象的な観念論を好み、具体的な方法論を検討しない、と指摘する。上手な作文で空中楼閣を描き出す。これが危険なのだと言う。「新しい戦前」の今も、構想(観念論)が先行し、隣国への警戒論に流され、身の丈を離れた、勢いだけの言論や国防論が幅を効かせていないか。その中で危険なifはチェックできているか。
「新しい戦前」の今は、政治を監視するメディアも国民も戦争に向かうifに敏感になる必要がある。そういう意味で、従来の終戦記念日の番組は、戦争の悲惨さを描いたものが多かったが、戦前のどんなifが戦争に導いたのか、それを避けるにはどうすれば良かったのかを検証する番組がもっとあってもいい気がする。
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