日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

急進する温暖化に科学は? 23.9.2

 猛暑が続いたこの夏、日本列島は過去最高の平均気温を記録した。先日、相変わらず絶不調のカミさんの療養を兼ねて、少しは涼しいかと期待して北茨城市の海辺の温泉旅館に出かけたが、土地の人も経験がないような暑さで殆ど出かけずに過すしかなかった。「涼しさは館内ばかり北の宿」の状態。この猛暑が地球沸騰化(国連事務総長)の幕開けだとすると、来年以降をどう過ごしたらいいのかと憂鬱になる。毎日「猛烈な暑さと熱中症に注意」のアナウンスが続き、水不足や高温で農作物が不作となり、ダムの水枯れが心配になったりする。

 日本だけではない。世界各地で40度超えが頻発し、メキシコで49度、アメリカ・デスバレーでは56度を記録した。ヨーロッパでは熱波で6万人が死亡し、ギリシャ・ロードス島やカナダでは大規模な山火事が発生している。特にカナダでは既に10万平方キロ(日本の東北6県、関東7県を合わせた面積)が焼失。その一方で解せないのは、目の前の異常気象について、太平洋高気圧の張り出しやエルニーニョのせいとか、気象学者が日々もっともらしく解説するが、それが地球温暖化とどう関連しているのかという科学的な解説が殆どないことである。

◆緩和策と適応策に対処する2つの科学
 専門家の江守正多(東大未来ビジョン研究センター)は、科学者は温暖化が進めばいつかこうなると言っていた、これは序の口に過ぎないと言う(報道1930)。とすると、(後述するような)年々異常さを増していく気候危機に私たちはどう対処して行けばいいのか。いま、世界の若者たちの間には、「もうどうしようもない」、「人類は滅亡する運命にある」といった終末論的な不安が広がっているという(9/28日経オピニオン)が、そうした絶望に落ち込むことなく、私たちがこの地球温暖化に「理性的に」かつ「合理的に」対処する余地はあるのだろうか。

 温暖化に対処するには、主として2つの科学的アプローチが同時に必要になる。一つは、原因のCO2を削減する脱炭素による「温暖化緩和策」。これには、今の脱炭素政策で間に合うのか、採用される手段の科学的検証と工程表(ロードマップ)の持続的な点検が必要になる。もう一つは、科学者の予想をも超えて進行する温暖化の影響を少しでも低減し、命を守るための「温暖化適応策」である。これには、どのようなアイデアがあるのか。これらのどちらにも、しっかりした科学的アプローチが必要になるが、今の科学はそれに答えているだろうか。

◆急進する温暖化に科学が追いつかない?
 温暖化による地球規模の変化は今、各地で後戻りできない「臨界点」(tipping point)として現れている。例えば、ロシアの3分の2を占めるシベリアの永久凍土地帯では、度重なる森林火災によって気温上昇を超えて地表が太陽熱を吸収し、地中から溶け出した水が広範囲で洪水を起こしている。また、永久凍土に閉じ込められていたメタンガスが噴出して巨大な穴を作っている。そのメタンガスの量は、現在大気中にあるCO2全体の3倍にもなり、しかもCO2の20倍の温室効果を持つ。これがもう後戻りできない状況で始まっているという。

 さらに、南極の棚氷や北極の氷河が大規模に溶け出している。これは、海面上昇を引き起こすだけではなく、地球の海流に予測困難な変化をもたらし、地球の気象を大きく変えるかもしれない。また、気温上昇はアマゾンの熱帯雨林のCO2吸収能力を落とすとも指摘されている。こうした負の連鎖が進行して行く時に、従来の脱炭素政策で間に合うのか。「この10年が正念場」(国連)とすると、脱炭素をかなり前倒しで進めなければならないのではないか。こうした疑問が起きてくるが、残念なことに政治も科学も新たな事態に追いついていない。

◆同時進行的な地球規模の観測が必要なのに
 かくも急進する温暖化に対処するには、5年から8年ごとに出されるIPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)の報告書や、年1回の国際会議COPでは、間に合わないかも知れない。この点、以前の「迷走する日本の脱炭素政策」にも書いたが、2050年のカーボンニュートラルを視野に、悠長に構えている日本政府に比べて、ドイツなどは計画を一気に前倒しした。人類の未来を取り戻すには、国、自治体、企業、市民それぞれが、主体性を持って最新情報を取り組みに反映させ、各レベルで独自の脱炭素策にトライする時なのかもしれない(写真は学校屋上の太陽光パネル)。

 そのために科学は何が出来るか。そもそも、地球のシステムは複雑で、大気と海の循環、極地の氷や森林の作用、火山活動、そして太陽活動の変化まで関係してくる。あまりに複雑なために、相変わらずCO2主犯説に対する懐疑派も後を絶たない。だからこそ、温暖化の進行を正確に把握するには、国際共同研究の同時進行的な調査・観測によって、新たな知見を共有して行くことが必須になる。しかし今、戦争によって永久凍土の国際研究が中断され、ロシア側のデータが入ってこない状態というから、プーチンというのはどこまでも罪作りな人間である。

◆「温暖化適応策」に必要な総合科学の確立を
 もう一方の「温暖化適応策」にはどんな科学が必要になって来るのだろうか。温暖化の影響をどう軽減して生き延びるかである。これには、激甚化する気象災害に対する国土強靭化(防災)から、農業や漁業の適応策、あるいは都市のヒートアイランド化への適応策から冷房をシェアする地域内の自衛策、高齢者の熱暑対策などまで、多岐にわたる。日本国内の適応策だけではない。海面上昇による海岸浸食、難民や飢餓の発生、大規模森林火災、新たな病原菌の出現などに対する防衛策もある。これにも、新しい科学的アプローチが欠かせない。

 これらの問題は、個々に対応していては間に合わないかも知れない。「温暖化適応学」といった総合的な科学の確立が必要になって来るだろう。デジタル技術やAIも駆使した各科学間の連携と総合科学で、急進する温暖化の影響を可能な限り緩和しいて行くこと。それが、生存への確率を上げる意味でも重要になって来る筈だ。しかし、これらへの取り組みは防衛費などよりも緊急の項目と言えるのに、秋が来て少し涼しくなれば、ダムの水不足のニュースのように「のど元過ぎれば熱さ忘れる」で、問題意識が後退してしまう。それでいいのだろうか。

◆問題意識で世界から取り残される日本
 地球温暖化に対しては、CO2排出量で世界の3%ちょっとの日本が頑張っても無意味、40%超を占める米中が取り組まなければ意味がない、といった冷めた意見もある。一方で、もうどうしようもない、と終末論的絶望に落ち込む意見もある。現状のもどかしさを見れば、ある面、当然とは思うが、私は未来世代のためにも、もう少し日本にも頑張って貰いたいと思う。「緩和策」や「適応策」は今、人類が最も必要とする科学である。そこで日本が世界に貢献出来れば、世界での日本の発言力を少しは高めることになる。そこで頑張らなくてどうする?である。

 この分野で日本が今のように、不名誉な「化石賞」を与えられる状態に甘んじていれば、日本はますます存在感を低下させていく。温暖化対処の2つの科学での知見を積み上げ、先進的な取り組みを世界に示してこそ、日本は先進国の一員として発言出来る。そのことを明確に自覚する必要があるのではないだろうか。その意味で、世界から際立って立ち遅れている私たちの問題意識も深刻だ。紹介されたデータでは、地球温暖化について「心配」という日本人は16.4%。84%のフィリピン、58.1%のフランス、46.6%のアメリカに比べてはるかに低い。

 これには、政治の怠慢はもちろん、メディアの努力不足にも責任の一端があるだろう。急進する温暖化は、これからの人類社会に様々な難問を突き付けてくる。そこに日本はどのような貢献が出来るのか。温暖化緩和策においても、適応策においても、日本は世界をリードして行けるような先進的な取り組みが出来るか。未来世代に責任を果たすには、私たち自身も変わらないといけないと思う。

揺らぐ専守防衛と新しい戦前 23.8.15

 「歴史にif(もしも)はない」というが、戦争が始まってしまってからのifは、多くの場合戦術的なもので、仮に局所の戦いが上手くいっても、先の太平洋戦争において総合力で大差のあるアメリカに日本が勝つことはなかった。それは致命的な作戦ミスがあったミッドウエー海戦でも、レイテ沖の戦いでも同じである。しかし、同じifでも「戦争に至る場面での様々なif」は、もしこれがうまく行っていればと悔やまれる場面が多い。例えば、対米英の艦船比率を協議したワシントン軍縮会議における加藤友三郎海相である(「日本海軍の興亡」半藤一利)。

◆「新しい戦前」の中で歴史のifを見逃さない?
 加藤は、明治以来の国防論を転換し、「外交的手段により戦争を避けることが国防の本義」とし、「国防は軍人の専有物にあらず」と言って国際協調路線を採ろうとした。すなわち、軍備と外交が相まった新しい国防論で日米不戦の方針を実施しようとした。しかし、運命のいたずらか、加藤は首相になって新国防論を策定した2か月後に62歳で病没(1923年)してしまう。あるいは、日独伊三国同盟に強硬に反対し、対米戦争回避で一致していた米内光正、井上成美、山本五十六のトリオが、海軍中枢部から同時にパージされたことも痛かった(1939年)。

 無謀な戦争への突入を回避できたかも知れない様々なifは、後から振り返ってみれば、その都度的確に対応していればと悔やまれる。ただし、それは余程注意深く監視していなければ、大勢が戦争に向かう時局の中で見逃されてしまう。いま時代は、昨年にタモリが「徹子の部屋」で「来年はどんな年になりますかね」と聞かれて「新しい戦前になるんじゃないですか」と答えたことが、妙に実感を持たれる状況になっている。仮に今が「新しい戦前」とすると、私たちはそのifを見逃さないようにしなければならない筈なのだが、実際はどうだろうか。

◆憲法9条と専守防衛の関係
 「新しい戦前」を予感させる様々な兆候は、この10年で次々と現れて来た。そしてそのことは今、一つの事象に収斂(れん)しているように見える。それは、憲法9条を基にして練り上げて来た日本の防衛政策、すなわち「専守防衛」政策のなし崩し的変更である。今回は、反撃能力など岸田政権の安保政策の大転換、あるいは5月の憲法記念日に際して、様々な識者が新聞紙上で指摘して来た論旨を引用しながら、「専守防衛」変質の意味を探ってみたい。まずは、戦争放棄と戦力の不保持をうたった憲法9条と専守防衛の関係についてである。

 憲法9条では、その2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とある。この条文のもとで国を防衛するために日本は(軍隊ではない)自衛隊を持ち、「敵国の軍隊をわが方の領域外に追い払うのに必要な範囲内にとどまって、外国の領域を攻撃することはしない。だから他国に脅威を与えることもない」というのが、これまでの専守防衛の考え方だった。そのために、@海外で武力行使をしない、A敵国の領土、領海、領空を直接攻撃する武力を持たない、という2本柱を守って来たという(元内閣法制局長官、坂田雅裕)。それが揺らいでいる。

◆「専守防衛」を揺るがす集団的自衛権と敵基地攻撃能力
 その2本柱が揺らいだ大きな出来事が、安倍元首相の時の(集団的自衛権を容認した)安保法制(2015年)だった。これによって自衛隊は同盟国と戦うという名分のもとで、地理的制約なしに海外でも武力行使できることになった。加えて、反撃能力(敵基地攻撃能力)を認めた岸田の安保3文書の改定(2022年)である。これによって、自衛隊は敵国領域を直接攻撃できる能力を持たないとした「専守防衛」の第2の柱が崩れた。それでも岸田は、日本の存立危機事態の場合の反撃能力は専守防衛に含まれると言い張るが、何が存立危機事態なのかを明確に説明しない。

 岸田は「手の内は明かせない」と言って、反撃能力の内容も説明しない。1発4億円のトマホークミサイルを400発アメリカから買うといった情報があるだけで、5年間に43兆円に増やす防衛費の中身も不明のままだ。しかも、今は移動式で発射される敵ミサイルを事前に補足し攻撃するのは、アメリカの情報提供があっても困難。代わりに、軍事施設や敵中枢を攻撃すれば、全面戦争に発展しかねない。こうした具体的説明のないままに専守防衛のタガが外れ、「台湾有事は日本有事」などと前のめりになる状況こそ、「新しい戦前」の兆候ではないだろうか。

◆専守防衛が崩れる時の憲法9条の意味は?
 「専守防衛」が崩れることは、憲法9条を死に追いやることに他ならない(坂田)とする一方で、憲法9条はまだ死んではおらず、今後も大事な役割を果たしていくと言う識者(蟻川恒正、日大教授)もいる。彼は、9条は戦争によって踏みにじられる国民の自由の基盤を深いところで支えていると言う。時流が戦争へと流れていく時に、弱い人々が流れに抗して反対の声を上げる時の「心の支え」になると同時に、9条は日本の主権をアメリカから守る盾にもなっていると言う。これを手放してしまえば、日本はアメリカにむき身(裸)で相対するしかなくなるからだ。

 彼によれば、戦力不保持の9条の規範は、日本が武力行使以外の選択肢を考え抜く知性を鍛えて来た。それによって、政治や外交で局面を打開する方途を決死の覚悟で探し出す。憲法9条を死守することによって、そういう「限界知性」とも言うべきものが日本に生まれることを期待したいと言う。戦争は人の思考を粗暴化し単純化いていく。思考の経過が単純化すると、戦争への歴史のパターンが繰り返されていく(藤原辰史、京大准教授)。だからこそ、9条は「戦争だけはしてはいけない」という敗戦の重い教訓から生まれたことを忘れてはいけない。

◆軍拡と戦争につながりかねない「仮想敵国作り」
 歴史学者の加藤陽子は現在の安保3文書を考える上で、戦前の国防3文書(帝国国防方針など)との共通点を指摘する。これは日露戦争の後に作られたもので、陸・海軍の予算獲得競争を抑える狙いもあったが、結局のところ軍拡に道を開くものとなった。その原因の一つは、仮想敵国の多さだったと言う。ロシア、アメリカなどを仮想敵とし、それに負けまいと軍備を拡張する。むしろ、軍拡のために仮想敵国を増やす発想さえあったと言う。加藤は、現在の安保3文書も中国やロシアなどを仮想敵として、身の丈を超えた軍備を求めていると指摘する。

 日本が仮想敵を作って軍備を拡張すれば、仮想敵とされた相手も警戒心から軍備を拡張、際限ない競争に入る。そういう「安全保障のジレンマ」を避けるためには、自国を防御する十分な備えをしながら、同時に自分に敵意はないのだというメッセージをあらゆるチャンネルで伝えなければならない。それが9条の思想だろう。変な構想で中国を封じ込めようとしたり、価値観の違いで相手の存在を否定したりするのも、戦争につながる危険な「物語作り」と言える。そうした構想(物語)に沿って防衛を考えることは、むしろリアリズムから離れて行く。

◆「新しい戦前」の中で歴史のifを問う
 「日本海軍の興亡」の中で、著者の半藤は戦前の教訓として、第一に「国民的熱狂」を作ってはならず、「国民的熱狂」に流されてはいけない、と書く。つまり、時の勢いにかりたてられてはならないということだ。第二には、危機における日本人は抽象的な観念論を好み、具体的な方法論を検討しない、と指摘する。上手な作文で空中楼閣を描き出す。これが危険なのだと言う。「新しい戦前」の今も、構想(観念論)が先行し、隣国への警戒論に流され、身の丈を離れた、勢いだけの言論や国防論が幅を効かせていないか。その中で危険なifはチェックできているか。

 「新しい戦前」の今は、政治を監視するメディアも国民も戦争に向かうifに敏感になる必要がある。そういう意味で、従来の終戦記念日の番組は、戦争の悲惨さを描いたものが多かったが、戦前のどんなifが戦争に導いたのか、それを避けるにはどうすれば良かったのかを検証する番組がもっとあってもいい気がする。

庶民が見えるか世襲政治家 23.8.2

 岸田政権の支持率が、5月のサミットをピークに下降の一途をたどっている。7月下旬の調査では、支持率が28%(毎日)、37%(朝日)、自民党支持率も20%台に落ちてきている。首相秘書官に起用した息子の不祥事に加えて、(倍増を打ち出した防衛費や子育て支援などの)国会での説明不足、加えて拙速に進めるマイナカード問題などで、国会閉会直後にと匂わせていた解散も吹き飛び、首相は焦りだしている。もう一度、「聞く力」の原点に返ると言って、全国行脚を始めたが、「聞く力」を発揮しているとは思わないと答えた人は66%に上る。

 その全国行脚の手始めは栃木県の障害者支援施設(21日)だったが、施設長の妙に嬉しそうな様子も、岸田の滑り気味のパフォーマンスも「やらせ感」が全開で、岸田がこれによって、何をどう聞いたのか全く伝わって来ない。岸田政権が発足してから既に1年9か月。この間の広範な値上げと物価高騰、実質賃金の目減りにあえぐ庶民の声は、一向に岸田の耳には届かず、やって来た主な政治は、防衛費倍増やアベノミクスの継続、原発回帰、マイナカードなど、アメリカや党内右派、それぞれの利権団体に対する御用聞きのような政治ばかりだった。

◆民の悲鳴が聞こえない岸田首相
 今、世の中には生活苦にあえぐ人々の悲鳴が満ちている。夏休みに入って頼みの給食がなくなり痩せて行く子供たち。フードバンクで貰った480円の弁当を2回に分けて食べて1日を過ごす生活保護の老人。豪雨被害に苦しむ人々、電気代を心配して酷暑に熱中症で死亡する高齢者。こんな悲鳴が満ちているのに、今更のように「聞く力」をアピールする首相に、「首相の耳は、全国津々浦々を回らないと聞こえない、何か特殊の構造をしているのか」、「何が原点だ。何が津々浦々だ。寝言は寝て言え」と高橋純子編集委員(29日朝日)も怒っている。

 この物価高はコロナ禍よりも影響が深刻で、非正規雇用者やシングルマザー、貯えのない高齢者を直撃している。たった41円上げるだけで大騒ぎした「最低賃金1002円」も先進国には大きく水をあけられ、韓国よりも低い。分配重視を打ち出した岸田の「新しい資本主義」もいつの間にか雲散霧消し、富裕層重視の税制のままだ。これでは、支持率低下について「今の首相は浮世離れし、特権階級のようなイメージを持たれている」という安倍派からの批判も当然と言えば当然だが、考えてみれば、特権階級化しているのは政治家全体ではないか。

◆特権階級化している日本の政治家
 それを示す幾つかのデータがある。前回も紹介した大山礼子(駒沢大教授)は、日本の国会議員の給与が先進諸国に比べて高すぎる点を指摘する。今は円安になっているので差は縮まっていると思うが、2018年のデータで日本の2171万円は、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスの給与に比べてダントツに高い。フランスなどは日本の半分に近い。これに加えて(日本だけではないが)国会議員は税金がかからない様々な支給が設けられている。月額100万の文書通信交通滞在費(調査研究広報滞在費に変更)や月額65万の立法事務費だ。

 これを一般人の給料に換算すると、年収5183万円に匹敵するという(東洋経済)。これだけではない。国会議員には、JR特殊乗車券・国内定期航空券の交付や、3人分の公設秘書給与や委員会で必要な旅費、経費、手当、弔慰金などが支払われる。さらに、政党交付金の一部も支給される。諸々合わせれば、年収1億円程度の超富裕層になるだろう。これを見ても、日本の国会議員が年収数百万円で暮らす一般庶民と、いかにかけ離れた存在かがわかる。収入からしても既に特権階級化している。

◆超富裕層の世襲政治家が多い現実
 こうした歳費、経費はすべて税金なのだが、そのことを日々自覚している政治家はどの位いるだろうか。まして、本人がよほど努力しない限り、特権階級化した政治家に庶民の悲鳴は届かない。さらに日本の場合、問題なのは年収5千万円超といった超富裕の政治家家業が世代を超えて継承されるケース、いわゆる世襲政治家が多いことである。特に自民党の場合、世襲議員は全体の3割に上るが、歴代首相について言えば平成の30年間の首相16人中、10人(62%)が世襲である。自民出身の首相に限れば、世襲の割合は83%に上る。岸田自身も祖父の代から衆院議院を務める絵に描いたような世襲政治家で、他の大物政治家たちと縁戚関係でもある。

 問題は、地盤、看板(知名度)、カバン(資金)に恵まれた超富裕層に属する政治家が何代にもわたって政治を牛耳るということが何を意味するかである。超富裕層に属し、日本版の「銀のスプーン」をくわえて生まれて来る彼らは、小さい頃から庶民とは無縁の環境で育つ。彼らにとって、政治は家業を受け継ぐようなものだろうが、その時、当の本人にとって政治とは何なのか。彼らは何をしようとして政治の世界に身を投じるのかである。当然のこと、彼が眺める政治とはまず、政治家一族を支えて来た身内的な集団、業界、利益関係者になるだろう。

◆日本の政治のいびつな姿。改革が出来ない首相
 そうした状況で、彼と取り巻き集団にとっての政治の第一義とは、掴んだ権力をいかに維持するかになるに違いない。その時、本来政治が奉仕すべき国民、その大部分を占める庶民の姿などは、彼の視界の遠くにかすんでいるに違いない。また、育ちから言っても、社会的弱者の苦しさなど分かるわけがない。世襲政治家が珍しい海外では、英(下院)で1割、米(上・下院)で5〜10%、ドイツや韓国は殆ど無い。それも、英米で「親の地盤をそのまま引き継いで、同じ選挙区から出るケース」は殆どないという。日本の常識は世界の非常識なのである。 

 特権階級化した一般政治家の、さらに上を行く世襲政治家が首相をつないでいく日本の政治のいびつな姿がここにある。「首相の耳は、全国津々浦々を回らないと聞こえない、何か特殊の構造をしているのか」という皮肉は、笑えない実体なのである。しかも、弱者の声が聞こえないだけでなく、世襲政治家の首相が権力を握った時、「御用聞きのような政治」を超えて、富裕層や法人への税の是正など、長年彼を支えて来た勢力の利害と対立するような改革を彼が出来るかとなると、極めて難しくなる。これが、「何がやりたいのか分からない」と言われる岸田政治の真の深刻さである。

◆制度疲労を起こしている日本政治、変えるのは誰か
 岸田は、去年以来の戦後政治の大転換について、周辺に「安倍元首相も出来なかったことをオレはやった」と吹聴しているらしいが、アメリカや党内右派のご機嫌をとるだけでいいのか。しかも、マイナカードでは国民の姿が見えない弱点を突かれている。そういうことより、今の日本は将来世代に責任を果たしていくべき大きな課題が山積している。国の借金をどうするのか、少子高齢化で激増する社会的弱者にどう寄り添うのか、地球沸騰時代にどう対処するのか。これらに対処するためには、目指す日本の国家ビジョンと、それを進める上での政治理念が明確でなければならない。

 今、岸田にはそれが見えない、という評価は定着しつつあるが、それは、上記のような日本の政治の構造的な問題から来ていると言っていい。そういう特権的で硬直化した、世襲でない若い政治家の登場も極めて限られている日本の政治を変えるにはどうしたらいいのだろうか。政治学者の大山礼子は、先の本の中で政治を変えるには若い世代に期待するしかないと、若者の政治参加を促す。その時、首相が恣意的に解散権を行使する日本は、平均1年半ごとに解散しているのも問題で、選挙が多すぎるのも投票率の低下につながるという。

 英国は5年に一度の解散で、その間に議員はじっくり勉強できるが、選挙に追われる日本では勉強もできずに、無能な政治家が増えるばかり。内向きの政治報道だけを見ていると分からないが、海外の民主国家と比較すると、日本の政治がいかに制度疲労度化し劣化しているかが、見えて来る。この重要な時にこそ、政治は国民に奉仕するためにあるという原則と、それを変えて行くのは国民だということを今一度自覚したい。

民主国家日本の異常な国会 23.7.11

 6月21日、多くの問題法案を成立させた通常国会が幕を閉じた。岸田首相がしきりに匂わせた解散風によって議員たちが浮足立ち、十分な議論がされないままに成立した法案は、政府提出の60本のうち58本(成立率96.7%)という。岸田は解散風作戦が効を奏したなどと言ったらしいが、戦後の安全保障政策の大転換である反撃能力の確保や、そのための「防衛財源確保法」、原発の60年超の運転を可能とする「GX脱炭素電源法」、或いは来年秋に健康保険証を廃止する「改正マイナンバー関連法」など、問題法案の議論は全く空疎だった。

 5年間に43兆円の財源を確保するとした防衛費も、その場しのぎの財源ばかりで中身がスカスカなどと言われている。何にいくら使うのかと言った具体的説明もないまま、規模感だけが独り歩きしている。老朽原発の使用に道を開く法案も脱炭素と抱き合わせになったために、議論が拡散してしまった。鳴り物入りで打ち出された「異次元の子育て支援」も、どこから財源を持ってくるのか、本当に少子化対策に役立つのか、実のある議論も殆どなかった。旧統一教会問題も、放送法に関する内部文書問題の解明も、月額100万円の文書通信費問題も閉会とともに忘れ去られている。

 これで、150日間の通常国会を終えて、議員たちは長い夏休みに入ったわけだが、このように今や日本の国会が空洞化しているというのは、最近の国会を横目に眺めている国民誰しもが感じるところではないだろうか。いくら野党が細分化され党利党略に走ってまとまらないと言っても、国会論議がこうも低調であっていいはずはない。「党首討論」も開かれなくなって久しいし、国会が内閣の提出する法案を右から左に通して、行政に対するチェック機能を果たせていないのは、三権分立を標榜する民主国家の国会として異常ではないだろうか?

◆時代遅れの会期制度
 日本の国会が機能不全に陥っている異常な状態を、政治制度の面から先進諸国と比較しながら論じている本がある。「政治を再建する、いくつかの方法 政治制度から考える」(大山礼子、駒沢大教授)だ。著者が指摘する一つは、日本の議員が働かない状況、つまり国会の会期が短いことである。日本の通常国会は1月から6月までの150日間(5か月)。秋に臨時国会が召集されたとしても、議員が国会で論戦を交わす期間は1年のうち、7か月から8か月に過ぎない。これに対して、主要国の議会は殆どが通年国会、ほぼ一年中開かれているという。

 これらの国の議会の会期は、審議すべき政策課題の複雑化にともなって長期化して来た。アメリカでは1月から年末の11月か12月まで、イギリスは1年を通して、フランスは夏期を除く期間、ドイツやイタリアは会期制を廃して通年としている。日本のように「古めかしい規則」に縛られて会期制をとっている国はまれだという。その規則と言うのが、会期中に成立しなかった法案は原則、廃案になるというもので、そのために与党は採決を急ぎ、野党は審議を引き延ばす。一方、通年国会の国には会期切れという問題はないので十分な審議が出来る。

◆国会審議の空洞化を招いている質疑、質問
 日本の国会が空洞化する要因は他に幾つもある。一つは法案の「事前審査」。国会審議に口出しできない内閣は法案の修正を封じるために、提出する前に「事前審査」で与党内の一致を作っておく。与党が安定多数で、ねじれ国会などの状況がない限りそれで決まり。法案が国会に提出される前に既に決着済みというケースが殆どで、国会での質疑は、与党同士は出来レースだし、野党の質疑ははぐらかせばいい。また、国会には委員会と本会議の2段階があるが、仮に委員会で与野党間の妥協が成立すれば、本会議で審議をする意味は殆どなくなる。

 その時々の議題に対する「質疑」と違って、国政全般にわたって行う「質問」もあるが、これが日本の国会では極めて難しい。質問したい議員はまず「質問主意書」を議長に提出、議長の承認を経て内閣に回され、7日以内に内閣が文書で返答するだけ。これ以外には「緊急質問」というのがあって議院の議決があれば本会議で質問できる規則もあるが、最近では過半数を占める与党が認めず、既に40年近く行われていない。以前には野党の大物議員が行う“爆弾質問”が話題を呼んだりしたが、今は殆ど絶滅状態。国会質疑は空洞化の一途をたどって来た。

◆予算委員会の変質と、絶滅危惧種の「党首討論」
 一方、委員会の中で最も幅広いテーマが議論される予算委員会にも問題がある。国の予算は国政全般に及ぶだけに、本来は本会議で議論するようなテーマや閣僚の不祥事問題まで、予算委員会に集中する。結果、予算委員会では予算に関係のない質疑に時間を取られ、本当に予算の内容が吟味されているかと言えばお寒い状態だと言う。これも、本会議が機能していないための本末転倒で、公開性の高い本会議は年間50時間ほどしか開かれず、衆参両院の立派な本会議場は宝の持ち腐れ状態になっている。また、本会議場で行われるべき「党首討論」も今や絶滅危惧種になっている。

 一問一答の一方通行の質疑と違って、本会議場で行われる「党首討論」は野党党首と首相が国の基本政策を巡って丁々発止に論じ合うものとして設けられた。以前は年に8回行われた年もあったが、一昨年6月に一度行われたのを最後に、岸田政権になってからもゼロが続く。一回45分に限られた時間を多数の野党が分け合う規則で、中には持ち時間5分と言う党もあって自然消滅状態だ。しかし、一方通行の質疑ではなく、外国では政治の“見せ場”にもなっている党首討論が開かれないのは問題で、政治をますます遠くする。短ければ時間を拡大すればいいし、野党同士が調整して復活させる必要があるのではないか。

◆国会の先の国民が見えていない政治家たち
 かつて、田中角栄は国会を一年中開く「通年国会」が持論だったといい、1972年12月に招集した国会を2度延長し、会期は280日に及んだと言う(6.23、朝日余禄)。やればできるものを、近年の自民党は国会での熟議を忌避し、自分たちで決めたものを“粛々”と通すことが恒例になりつつある。岸田もそれを踏襲して、一向に説明責任を果たそうとしない。彼らの眼中には、野党との駆け引きしかなく、国会の向こうには説明責任を果たすべき「国民」がいることが抜け落ちている。日頃から国民全体の方を向いて政治をしていないからだろう。

 会期末に岸田が吹かせた解散風も自身の再選戦略が先行し、解散の大義がどこにあるのか全く見えなかった。しかも解散権については、首相の専権事項だとして恣意的に解散することは憲法の精神にそぐわないと言う意見も多い。安倍内閣以降、日本の国会は数の力に任せて、どんどん民主国家本来の熟議の姿から離れている。国会を国民に対する丁寧な説明を行う場とみなさず、与野党ともに政治的な駆け引きに終始する。戦後政治の大転換のような政策が、殆ど具体的説明のないまま通過して行く。この異常な状況を変えることは出来ないものだろうか。

◆国会改革の自浄作用を誰に期待するか
 国会の空洞化に安住する今の政治家たちに、民主国家に相応しい国会を模索し、時代遅れの制度を変える「国会改革」は期待できるか。国会の熟議を可能にする改革のエネルギー、自浄作用は期待できるだろうか。どう考えても無理な気がするが、それが期待できないとすれば、どうすればいいのか。一つは、著者の大山(写真)のような学者、研究者がもっと声を上げることではないか。日本の国会や政治制度が先進諸国に比べて、いかに立ち遅れているか。それを指摘し、国民を教育して行く。そして、しがらみのない若い世代が、どんどん政治に参加する土壌を作って行って貰いたい。 

 その時には、メディアもしっかりと役割を果たさなければならない。状況追認型の、政局に振り回される政治報道だけではなく、民主国家として日本の政治が如何に異常かを指摘し、ありうべき姿、改革を国民、研究者とともに模索し、政治家を叱咤して現状を変えて行く。その役割を果たさなければならないと思う。