日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

テレビ制作者は今でも「放送人」か(再) 21.4.26

 先日(20日)、NHKの幹部人事が発表され、今の政権との距離の近さが問題となっていた人物が、異例とも言うべき再任を果たしたという。一部新聞が取り上げたのでご存じの方も多いと思うが、そのあきれ果てた裏事情を聞くにつけ、官邸のNHK支配もここまで極まったかと思うと同時に、それに取り入って権力の中枢に居座ろうとする人物(専務理事)の醜悪さを見せつけられた思いがする。メディアで仕事をしてきた人物が、ここまで志を捨てられるものなのか。或いは、もはやNHKという組織にはメディアとしての矜恃が残っていないのか。

 前回のコラムの最後にも書いたように、今のNHKは憂慮すべき状況にある。そんな時、(「風の日めくり」4/20に書いたように)出版計画のために以前のコラムを日々読み返していて、かの人物に読ませてやりたいようなコラムを見つけた。それは冗談として、読み返してみると、書いた当初もさることながら、今はさらにメディアを取り巻く環境は厳しくなりつつある。もちろん、その中でもまだまだ「放送人」として頑張っている人たちは多いが、そんな意味もあって、10年前のコラム「テレビ制作者は今でも”放送人”か」を取り上げておきたい。

◆全国放送の重圧
 もう35年も前の話だが、私は6年の地方勤務を終えて東京勤務になり、全国放送の番組を担当することになった。30分の科学ドキュメンタリー番組である。それまでは、15分のローカル放送番組をどこか気楽に作っていたのだが、全国放送となると緊張の度合いが全く違っていた

 何カ月もかけて取材した素材を30分に編集するのだが、仕上げはしばしば徹夜になり、朝一番で現像所に届けることになる。それからコメントを書く。一つ一つ事実を確認しながら書いて行くのだが、これも往々にして徹夜明けで台本印刷に回す。
 時折、時間に追われてあいまいな記憶のままにコメントを書いてしまうと、収録してから放送までの間、それがずっと嫌な感じで心に引っ掛かった。駆け出しのディレクターとしては、番組の出来不出来よりそういう時の方が、全国放送の重圧がずっしりと響いた。また、これが嫌で、たかが30分の番組だったが、これでもかと言うくらい事実の確認に気を使うようになった。

◆放送と言う仕事は、この苦労に見合うのか?
 このようにして作った番組が初めて全国に放送された時のことである。ふとある思いが浮かんできたことを、今でも鮮明に覚えている。それは、「自分がこんなに苦労して作った番組は何かの役に立ったのだろうか」、「番組作りと言う仕事は、事前の苦労に見合うのだろうか」と言う思いである。あんなに苦労して作った番組があっと言う間に終わって、ちょっとあっけない感じがしたためかもしれない。

 苦労と言っても、それはあくまで主観的なものである。ドキュメンタリーを作ることは、当時の自分にとってはその位大変だったのだと思う。企画から提案、取材先との交渉、番組構成作り、ロケ日程の作成まで、全部一人でやらなければならない。明日からロケが始まるというのに、取材先がまだ決まらないなどと言うことが何度もあった。

 しかし、「番組作りと言う仕事は、事前の苦労に見合うのだろうか」という疑問が浮かんだのは、最初の一度だけだったように思う。へとへとで死にそうになっても、放送が終わると再び「次は何をやろうか」という思いがどこからかわき上がって来る。「これって、一種の麻薬のようなものじゃないか」などと思ったこともある。自分が番組を作ることに、ある種の手ごたえのようなものを感じ始めていた。

◆梅棹忠夫「情報の文明学」から
 その「手ごたえ」の内容が何だったのかは、後で書くが、こういう昔のことを書いたのには実は理由がある。今から50年も前に書かれた「情報の文明学」(元国立民族博物館館長、梅棹忠夫)の中に、全く同じことが書かれていることに、最近になって出くわしたからである。
 テレビ草創期の当時、放送業界と付き合いが深かった梅棹は、「放送人の誕生と成長」という考察の中で以下のような文章を書いている。

 「番組制作者たちの仕事ぶりをみていて、わたしは、ときどき、ふしぎな感じにおそわれることがある。それはこういうことである。かれらは、まことに創造的であり、また、まことにエネルギッシュである。しかし、かれらのつくっているものが、かれらのはげしい創造的エネルギーの消耗に、ほんとうにあたいするものなのであろうか
 「まったく、ラジオもテレビも放送してしまえばおしまいだ。どんなに苦心してうまくつくりあげた番組も、一回こっきり、あとになんにものこらない。そのために、何日も、何週間もまえから、ひじょうな努力をはらうのである。これはひきあうことだろうか

◆「放送人」の誕生
 梅棹は、彼ら(放送に携わる人間)がむだな努力をしているということではない、と断りながら、無駄と思わない彼らの論理をはっきりさせることが、放送人というものの性格を明らかにすることだと言う。
 その論理を彼は「その番組の文化的効果に対する確信みたいなものがあるからではないか」とし、「放送の効果が直接的に検証できないという性質を、否定的にではなしに、積極的に評価した時に、放送人
は誕生したのである」と書いた。

 梅棹によれば、「その効果が直接的に測れないという点で、放送人は教育者と同じであり、教育者が、その高度の文化性において聖職者とよばれるならば、放送人もまた一種の聖職者である」。ただし、「かれらのエネルギー支出を正当化する文化的価値というのは、もっとひろい意味での「情報」の提供ということであって、倫理的、道徳的な価値とはまるで尺度がちがうものである」とした。

◆社会と深くかかわる感触
 放送は、梅棹が言うように具体的な効果が測れない。にもかかわらず、制作者は一見過剰とも思えるエネルギーを番組に注ぎ込む。視聴率と言うものもあるが、仮に視聴率が高くてもドキュメンタリーなどの評価とは本質的に違うものだ。
 梅棹は、制作者のよりどころを「文化的効果に対する確信」と書いたが、私の場合は何だったのか。苦労を厭わずに番組を作り続けた理由である。

 私の場合、それは、番組が持つ社会とのかかわり、インパクトへの手ごたえではなかったかと思う。社会に対して新しいメッセージを伝えること。それによって社会の何か(それは単にものの見方であってもいいが)が変わるかもしれないという期待。そのために、社会の何をテーマとして取り上げるのか。さらに、それを、どのように効果的に伝えるのか、という工夫のし甲斐だったように思う。
 こうしたことが、梅棹の言う「文化的効果に対する確信」かどうかは分からないが、そう考えた時、社会的にある種の特権も与えられた番組制作者とは、極めて魅力的な職業でもあった。


◆テレビの現状、2つの懸念
 「放送人」というのは、梅棹が初めて使った言葉である。別なところで、彼は放送人について、「いつまでたっても偉大なるアマチュアである。絶対にスペシャリストにならない。それがかえって魅力なのだ」と言い、その理由として「まず第一は技術革新がはげしい。いつも社会の変化の最先端にいる」と言った。
 梅棹の「情報の産業論」は全体に、現在の情報産業(情報産業というのも梅棹の造語だった)の発展を見事に言い当てていて、その卓見には驚くばかりだ。しかし、放送産業については、このフロンティアとしての自由さがいつまで続くかは分からない、とも言っている。

 この論文が最初に世に現れてから、すでに半世紀が過ぎた。この論文を読んで今のテレビを見るとき、私は2つのことを懸念せざるを得ない。一つは、テレビ制作者はその草創期のように「文化的効果に対する確信」を持って番組を作っているだろうか、という懸念である。
 彼の論文の頃には、それほど重視されなかった視聴率や接触率が今や、番組効果のすべてを測る指標となった感がある。制作者たちが、自分が何を伝えたいのかと言う思いを離れてひたすら視聴率をねらう傾向はますます強くなっている。それが放送の質を落とし、テレビの社会的役割を低めることにつながっていないだろうか
 
 もう一つは、常に技術的革新の中心にいたテレビが、いまやその中心から外れて来ているのではないか、と言う懸念である。梅棹が予見したごとく、情報産業はますます社会の中心に位置するようになった。しかし今や、その技術革新は主に、インターネットの世界から生まれるようになっている。
 多種多様な情報機器が出現し、それに向けて多くの人々をひきつける新しいコンテンツが生まれている。その変化の中心からテレビがはずれつつある時、テレビにはどんな運命が待っているのだろうか。若い世代のテレビ離れが進む中で、放送人たちはいつまで創造的な情報の伝達者であり続けられるのだろうか。

◆自己崩壊を避けるために
 気付かないうちにオールドメディアになったテレビは、若い時の惰性でチープなジャンクフードを無茶食いして肥満になり、様々な成人病を抱える中高年のような存在になりつつある。だが、その現実を直視して自己を律し、果敢に可能性に挑戦して行けば、まだまだ独自の存在感を発揮できるはずだと思う。
 放送に携わる人間たちが、その存在意義の低下に妥協し、かつて冗談で卑下したように自らを「虚業家意識」に堕してしまったら、放送人は職業人として自己崩壊してしまう。放送人のはしくれだった私は、テレビにまだ質の高い情報の伝達者として「どこかで踏みとどまってもらいたい」と、願っている者の一人ではあるが、この先、テレビはどうなるのだろうか(2010.12.30記)。

真実の世界を壊す政治の嘘 21.4.8

 コロナ感染拡大の第4波を前にして、政治家も官僚も、そして国民の方も緩みが際立っている。蔓延防止に関して首相は「必要であればちゅうちょなく(他にも)」とこれまで何度も聞かされた言葉を使い、かたや二階幹事長は(コロナを)「恐れていたら何も出来ない」と言い、官僚たちは大人数での会食を行い、夜の繁華街は人でごった返している。コロナの変異株が拡大して、関西は新規感染者数が過去最多を繰り返している一方で、東京はなぜかPCRの検査数も、変異株の検査数も抑制気味である。都知事は、「今が正念場」を繰り返すだけだ。

 現実は確実に進行しているのに適確な対応策をとらずに、効果が不確かな「蔓延防止等重点措置」や「医療非常事態」といった言葉が飛び交う。メディアも含めて、日本全体が言い換えや内容の伴わない空虚な「言葉遊び」に付き合わされている。これは安倍政権時代から続く「口先だけのやっている振り」の延長であり、菅も同じ政治手法をとっているからだ。オリンピックについても安倍が「福島の復興を世界に発信する」と言い、菅が「人類がコロナに打ち勝った証として開催する」と言って来たが、現実を見れば「嘘だろう」と言いたくなる。

◆「空虚な物語」と嘘が社会を支配する
 政治の方針が混乱する中で、日本中でコロナ対策のブレーキとアクセルがずれまくり、オリンピックの聖火リレーでは沿道が三密状態だ。国民の緊張の糸も切れかかっている。肝心のワクチンについても入荷は遅れる一方で、政府の嘘が隠せなくなっている。医療従事者を最優先と言っていたのに、4月初旬段階でまだ全体(470万人)の4分の1に過ぎない。それなのに、4月からは高齢者向けの接種を開始するというので、メディアも前のめりだが、これも実体は微々たるもので、内実を伴わない「やっている振り」にすぎない。  

 この空虚さの最たるものは、国会を舞台に繰り広げられる政治の嘘である。首相の長男と会食していた官僚が記憶にないを連発し、録音を突きつけられると一転して嘘を認める。上司の武田総務大臣も会食していたかどうかを25回にわたってはぐらかし、週刊誌報道でようやく会食を認めた。しかも答弁する官僚に「記憶にないと言え」と指示し、「無意識に口に出た」などと馬鹿にした答弁をする。このように平気で嘘をつく恥知らずの政治家が、実体と乖離した「政治的な嘘」を、日本中にまき散らしている現状をどう考えればいいのだろうか。

◆「政治における嘘」は、真実の世界を破壊する
 政治家がつく「嘘」や、内容を伴わない「言い換え」については、これまでも安倍政治の特徴として書いて来た(「言い換えと虚言の政治」15.6.11)が、そこでも引用したハンナ・アーレント「全体主義の起源」の著者)は、ベトナム戦争時の秘密レポートの嘘を取り上げ、「政治における嘘」について、次のように書いている。「現代的な嘘の特徴は、味方である自国民に向けられることにある。そして、それが成功すると、ついにはその嘘を吹聴した当人さえもが、嘘を本当のこととして信じてしまうのだ」。そして彼女は、恐ろしい指摘をする。

 「この自己欺瞞的な嘘が破壊的なのは、たんに、ほんとうの真実を覆い隠すだけではなく、むしろ“真実”というカテゴリー自体を抹消し、“世界”を破壊してしまうからだ」と言う。政治家がつく嘘の数々は、私たちが辛うじて信じている真っ当な真実の世界を破壊し、それを消滅させてしまう、と言うのである。安倍から菅に引き続く長期政権の間で、「モリ・カケ、桜」、政治家たちの収賄などを巡っての数々の嘘に付き合わされて来た結果、私たちは拠り所とする真っ当な真実の世界を失いつつある。これは、真に恐ろしい現象と言わざるを得ない。

◆嘘で塗り固めた「虚構の物語」
 今の政治家は、単に「平気で嘘をつく」だけではない。そうした嘘で塗り固めた「虚構の物語」を信じている。新型コロナによってあぶり出された「劣化した日本の現実」、例えば、ウイルス研究やワクチン開発での立ち後れ、PCR検査や変異株の検査など、コロナ封じ込めのために必要な科学的手段の後れ、医療体制の後れ、そして二流国並みになったデジタル化、などなど。そうした実体を直視せずに、「国民の命と暮らしを守る」、「日本モデルで封じ込め」、「オリンピックを成功させる」といった幻想で作り上げた「虚構の物語」に安住している。

 今の自民党政治は、大小様々な部材によって構築された巨大な楼閣に似ている。それは、戦後何十年を経て巨大に膨れあがってきたが、それをより強固に塗り固めたのが安倍政治の7年8ヶ月だったと言える。その本質を一言で表現するのは難しいが、戦前回帰型の超保守的な楼閣であることは間違いない(*)。ただし、そのかなりの部分は、長年の利権や癒着の構造、時々の政治的嘘で塗り固められた「虚構の楼閣」だ。その巨大な楼閣、あるいはそれが醸し出す「空気」が社会の隅々にまで浸透して、国民の拠り所となる「真実の世界」を追いやって来た。*)「日本会議の研究を読む」(16.6.25)

◆真実を取り戻す「ファクトチェック」の試み
 政治の嘘に対抗して、真実の世界を取り戻すにはどうしたらいいのか。任期中に何万回という嘘をついて、岩盤支持層を固めてきたアメリカのトランプに対しては、市民団体やメディアが始めた「ファクトチェック」がある。政治の嘘をチェックして、真実の世界を取り戻す動きだが、日本でも様々な団体(例えば、ファクトチェック・イニシアティブ・ジャパン)がこれに取り組んでいる。しかし、これはかなり大変だ。何しろ、一つ一つの嘘をチェックしても、膨大な断片からなる楼閣や社会の空気は一朝一夕に崩せるものではないからだ。

 前述のハンナ・アーレントは、「政治における嘘」の外側にある「真実の領域」を担うのは、学問と司法の役割だというが、司法における人事や日本学術会議の問題を見るように、日本ではそのどちらも危うい状況に置かれている。国会での野党のファクトチェックにも期待をしたいところだが、最近の総務省の不祥事や自民党議員の買収容疑、コロナ対策の政治責任などへの追及を見ても、少数野党の限界を見せられている感じだ。嘘で塗り固められた巨大な楼閣を少しでも突き崩し、社会の空気を変えるためには、次の選挙に賭けるしかない状況である。

◆NHKは「真実の領域」で機能できるか
 問題はメディアである。特に、公共放送のNHKには、嘘で塗り固められた「虚構の空気」に与する事なく、真実の領域を守って貰いたいところだが、これが今、極めて憂慮すべき状態だという。安倍と菅のコンビによる長期政権の間にすっかり骨抜きにされてしまい、近年は、みずほ銀行からやって来た前田晃伸会長によって、ガタガタにされている。意向に逆らえば飛ばすというのもどこかで聞いた話だが、官邸に近い力を背景に、チャンネルの削減、受信料値下げと番組予算の削減、人的・機材的削減など、NHKのスリム化、弱体化を強引に仕切ってきた(「選択」4月号)。

 「菅官邸と異様な蜜月の独裁者」と書かれる前田会長にすり寄って保身を図る幹部もいれば、直接、官邸の杉田和博(官房副長官)に任期の延長を頼みに行く幹部などもいて、内部は疑心暗鬼状態だという。政権の意向を気にする幹部によってNスペの中止や延期が起き、政治報道では「御用マスコミ」と揶揄される始末だ。NHKの力が削がれることは、政権にとって思うつぼなのだが、上記の例で言えば、NHKもまた、「政治における嘘」で作り上げられた巨大な楼閣(空気)に染まって、真実の世界を見失いつつある。早く目覚めて欲しいと思う。

 戦前のメディアは軍部だけでなく世論にも迎合して、戦争をあおり立て、その中で軍部の嘘や陰謀が長い間、闇に葬られて来た。「言い換えと虚言の政治」が、私たち国民が拠り所とする真実の世界を破壊し、抹消してしまうというアーレントの警告を胸に、嘘の一つ一つをはがす地道な活動を応援し続けるしかないのかも知れない。

科学的に見て合理的に行う 21.3.28

 太平洋戦争での様々な意志決定について書いている「陰謀の日本近現代史」(保阪正康)を読むと、昭和期の軍部がいかに必要な情報に目をつぶり、希望的かつ主観的な思惑に沿って作戦を進めたかが、哀しいほどに暴かれている。事前の調査では、対米英戦の戦力には20対1もの開きがあり、とても持久戦には勝てないことが報告されていたが、それを科学的合理的に尊重することなく、軍官僚の都合のいい作文的な文言をもって開戦が決められた(「経済学者の日米開戦」)。一方では、陸軍と海軍の仲が悪く、互いに情報を隠し合ったりもしていた。

◆「科学的に見て合理的に行う」能力に欠ける日本
 その上、戦争を始める際に欠かせない「終戦のシナリオ」についても、英国に勝ったドイツとインド洋で連携し、アメリカの戦意を喪失させるといった、ドイツ頼みの他力本願的なシナリオを描いているだけだった。真珠湾攻撃に続く緒戦が上手く行った時、戦果を祝う席上で、東條首相は「これでルーズベルトも失脚だな。アメリカ国民の士気も落ちてしまうだろう」と脳天気な感想を述べたというが、日本軍の暗号を解読していたアメリカは却ってこれを「真珠湾を忘れるな!」と戦意高揚に利用し、ルーズベルトの思うつぼになっていた。

 軍部は、その後もミッドウェー海戦、ガダルカナル戦での敗北を直視することなく、国民には「転進」とごまかしつつ、偽りの発表で自分たちの責任を回避し続けた。終盤には戦争目的さえも見失い、何のために戦っているのかさえ分からなくなり、やがて国をあげての願望、幻想、そして現実からの遊離という救い難い状況に陥っていく(「陰謀の日本近現代史」)。著者の保阪は、「日本は戦争に向いていない国民性を持っているのではないか」とさえ書いているが、これは、現実を科学的に直視し、合理的に行う能力を欠いていると言っているに等しい。

◆有事の際のマニュアルもなかった電力会社
 この「戦争」を有事や危機管理に置き換えてもいいが、戦後の日本もまた随所で「現実を科学的に見て、合理的に行う」精神を欠いてきた。例えば原発有事で露呈した実態も同じである。福島原発事故を見るまでもなく、原発は核兵器と並んで、地上で最も危険な構造物であり、いったん圧力容器も格納容器も破壊されるような過酷事故になればお手上げで、莫大な放射能汚染によって国家の存立さえ危うくなる。電力会社はそうした極めて危険な構造物を管理運営しているという自覚もなく、事故は起こりえないという安全神話にあぐらをかいてきた。

 そのため過酷事故時のマニュアルもなく、その時にどういうことが進行するのかの想像力もなかった。何より呆れたのは、事故から18日経っても現場要員の交代もなく、400人の現場は「食事は1日2回、朝にビスケット30枚程度と小さな野菜ジュース1本、夜は非常用のレトルトご飯と缶詰1つ。会議室や廊下、トイレの前などに毛布にくるまり雑魚寝している状態だと言う。風呂はおろか下着も変えられない」という信じがたい状況が続いたことである。有事の際のロジスティック(後方支援)の考え方が、責任者にゼロだったことを物語る。

◆「科学的に見て、合理的に行う」の実際とは
 こうした欠陥は、原発事故の後始末においても続いていると言わざるを得ない。例えば、たまり続ける汚染水タンクをどうするかである。政府は海中に放出する案を提案しているが、その前提となる科学的な事実が明らかになっていない。汚染水には本当にトリチウム以外の放射性物質は含まれていないのか。それらを除去するのは可能なのか。さらにトリチウムには、懸念されているようなDNA損傷作用はないのか。どこまで希釈すればいいのか。海中放出するなら、これらを科学的に吟味した上で、その風評被害にもしっかり向き合っていくべきだろう。

 事故の後始末には、この他にも甲状腺癌の検査をいつまで続けるのか。除染で出た残土をどうするか、など様々な悩ましい問題がある。そうした時に「科学的に見て、合理的に行う」ために重要なのは、その目的や価値観が明確になっているかどうかである。科学的な事実に真摯に向き合い、これと目的や価値観を天秤にかけて調整。そこで生まれる、ぎりぎりの判断が合理的な政治判断になる。その時に重要なのは単純な科学原理主義ではなく、より多くの人たちに利する目的と価値観になる筈だが、今の政府はこうした問題解決の認識を欠いている。

◆事実を科学的に掴めない日本のコロナ対策
 一方で日本の新型コロナ対策を見ると、「科学的に見なければ、合理的な判断が出来ない」を地で行っている感じだ。今の日本は非常事態宣を解除した直後からリバウンド状態で、このまま行くと4月20日頃には、全国での1日の新規感染者が倍の4500人、死者は一ヶ月で1650人増えるという(GoogleのAI予測)。第4波とも言われるこの感染拡大には、頼みの綱のワクチンも間に合いそうにない。一方で、オリンピックの準備もしなければならい。となると、相変わらずの自粛要請と飲食業への時短要請で、この状況を切り抜けられるとは思えない。

 追い込まれた政府は、ここへ来てようやく感染の実態を把握するために、「無症状者へのCPR検査の拡大」を言い始めた。既に、多くの専門家が去年の夏前から口を酸っぱくして言って来たことである。それも、ニュースになった神戸市の場合は、たったの一日300人分しかない。安倍が辞任した去年8月の会見では、年内に20万件(*)のPCR検査を可能にすると言ったのに、実際の検査数は1日7万件前後だ。ウイルスの変異種に対する監視体制も後手後手に回っている。状況を正確に把握出来なければ、「科学的に見て合理的に行う」ことは出来ない。*)ちなみに中国は、1日の能力480万件

◆なぜ、PCR検査が増えないのか
 日本でPCR検査の拡大がなぜ遅れているのかについては、雑誌「選択」3月号がその内幕を暴露している。厚労省の感染症対策ムラの利権を守りたい人脈(鈴木康裕前技官、岡部信彦分科会委員:写真など)が、菅の側近の和泉洋人首相補佐官などと組んで、検査拡大を抑え込んできた。一方で、西村担当相側の(感染症ムラと無縁の)民間の新浪剛史サントリー・ホールディング社長たちは黒岩知事と組んで、民間の検査機関を後押ししてきたが、内部は思惑先行でバラバラ。要するに、PCR検査拡大を巡って、国民そっちのけの暗闘が続けられて来たという。

 菅政権も、非常事態宣言を解除するのに当って、いくつかの基準値を設けて判断している姿勢をとっているが、本当のところの事実や現実に科学的に向き合っているとは言えない。繁華街や高齢者施設、幼稚園などでの感染実態はどうなのか。ウイルスの変異種はどのように発生して、そのように伝播するのか。その感染力やワクチン耐性はどうなのか。ワクチンの生産量と入手可能性はどうか。こうした事実を科学的に把握しなければ、宣言解除の合理的な判断など出来ない。それなのに、利権や政治的思惑によって、科学的アプローチさえ阻害されているのが実態だ。

◆「科学的に見て合理的に行う」を歪めるもの
 戦前の日本軍は、海軍と陸軍が張り合って互いに情報を隠し合ったりした。また、責任を逃れるために損害情報を握りつぶし、天皇には都合のいい情報しか上げなかった。その結果として、軍部の誤った判断のもとに国民に多大な犠牲を強いた。そこでは、何のための戦争かと言った、目的も価値観も見失われていた。コトの大小はあるが、安倍政権から菅政権に続く国は、様々な局面で自分たちの権力維持を最優先し、同時に都合の悪い情報を隠すために官僚に忖度を強いて来た。この政治と官僚の劣化は、新型コロナという有事の状況においても続いている。

 口では「国民の命と暮らしを守る」と言いながら、内実は権力や利権の維持、官僚の組織防衛、出世のための忖度などが横行して、「科学的に見て合理的に行う」を歪めている。これで本当の有事になった時、日本はどうなるのだろうか。

最悪のケースに怯えた日々 21.3.13

 東日本大震災から10年。当時の映像を改めて放送で見るにつけ、震災の記憶が生々しく蘇ってくる。地震と津波による壊滅的な被害もさることながら、それに続く原発事故の言いようのない不安は今でも鮮明な記憶として残っている。それは、最悪を危惧した通りの急展開で、1号機、3号機の水素爆発を見たときには、次男一家と娘を急きょ関東から避難させた程だった。そして、3月13日に「最悪の備えてあらゆる対策を」を発信してから、息を詰めるようにして原発事故を見つめ続けた。あれから10年。書き続けた原発関連コラムは79本にのぼる。*うち45本は「メディアの風〜原発事故を見つめた日々〜」(2013.1)に

 その最初のコラムの中で私は、「一基でも水蒸気爆発して放射性物質が大量にでてきたら、誰も近づけない。他の原子炉の管理作業も不可能になり、放射性物質が長期間にわたり環境を汚染する」、「最悪のケースになれば、極めて広範囲で日本は国土が汚染され、居住不可能になり、大量の避難民が狭い国土をさまようことになる」と書き、「日本はいま国家存亡の瀬戸際にいる。そうならないことを心から望むが、まさに日本は未体験のゾーンに入っているのである。最悪のケースを想定し、まさに国家総動員体制で対処すべき問題なのである」と書いた。

◆最悪のシナリオ・東日本壊滅
 その最悪のケースについて、当時の菅内閣が極秘にシナリオをまとめたのは3月25日だった(2012年の12月に報道)。それまでに現場の懸命な努力にも拘わらず、1号機から3号機は、燃料の空だき、メルトダウン、そして圧力容器外への核燃料のメルトスルーと進展。運転休止中の4号機の原子炉建屋までが爆発破壊されていた。既に、圧力を下げるためのベント処理や、2号機の格納容器の破損で大量の放射性物質が大気中に放出されており、これだけでも深刻だったのに、さらに重大な懸念は4号機の使用済み燃料プールの水が抜けて、それらが冷やせなくなることだった。

 4号機建屋のプールに保管されていた使用済み燃料体は1535本。これが水で冷却されなければ、熱量で管も溶けて大気中に膨大な放射能(死の灰)がはき出される。それは風向きによっては首都圏以遠にまで達するだろう。次々と想定外の原発過酷事故の対応に追われていた日本側に、アメリカは重大な懸念と不信を抱いていた。その辺の事情を追ったのがETV特集「原発事故“最悪のシナリオ”〜そのとき誰が命を懸けるのか」(3月6日)だった。一時は東電が、現場からの撤退を検討したほどに追い込まれたが、そうなれば東日本は壊滅する。

◆最悪の瀬戸際まで行った原発事故
 仮に、4号機の使用済み燃料プールの水がなくなって放射能の放出が続けば、半径250キロ(盛岡から横浜まで)の住民避難も必要になる。3月25日に「最悪のシナリオ」を官邸に手渡した近藤俊介(元原子力委員会委員長)と細野豪志(元原発事故収束担当大臣)の対談(「福島原発事故 自己調査報告」)を読むと、この時までに1号機から3号機までの揮発性の放射性物質はあらかた外に出てしまって、内部の燃料デブリが遠くまで放出される心配は少なく、4号機のプールの水も残っていた。近藤によれば、既に3月20日頃の状況が最悪だったという。

 第一原発事故がなぜ、“今のような最悪レベル”で止まったかは、いまだに謎が多い。1号機、3号機は燃料の空だきで水蒸気の圧力が高くなった格納容器に海水を注入するために、中のガスを抜くベント処理などをしているうちに、中の水素ガスが爆発。ベントが出来なかった2号機は、格納容器の大破壊につながるような爆発が心配されていた。このまま行くと爆発で大量の放射性物質が飛び散り、他の原子炉にも近づけなくなると、現場は悲壮な雰囲気に包まれた。しかし、2号機は突如衝撃音がして、圧力が低下した(「メルトダウン、連鎖の真相」)。

◆「神の御加護」と電力会社と国の怠慢
 漏れ出た77万テラベクレルという大量の放射性物質が広く関東まで汚染しなかったのは、当時の風向にもよる。また、2号機の格納容器が大破しなかったのは、どこかに裂け目が出来て圧力が抜けたからだ。あるいは、4号機の使用済み燃料プールの水が残っていたのは、地震でたまたま隣接のプールから水が流れ込んだためだし、3号機から流れ込んだ水素で4号機の建屋天井が吹き飛び、上空から水が確認できたこと、上部から水を補給できたことも大きい。これら奇跡は、後で菅元首相が「やはり、神の加護があった」と吐露した偶然のたまものだった。

 ただし、この原発事故で明らかになったのは、最悪のシナリオを全く想定していなかった東電と国の怠慢である。安全神話に頼って、安全対策をサボっていたし、実際に過酷事故が起きた時の訓練もしてこなかった。(電源コンセントが合わないなど)機器類もアメリカから提供された当初のまま、水位計、ベントの構造、水素ガスを隣りの原子炉に漏れ出させないダクトの仕切り、などなど、欠陥だらけの原子炉を動かしていた。その上に、最悪の場合を想定した危機管理体制、法整備については誰も考えてこなかった。この構造は今も続いている。

◆危機管理の基本が出来ていない日本
 危機管理の基本は、科学にもとづいてしっかり判断すること(田中俊一、初代規制委員会委員長)であり、それに基づいてトップがリーダーシップを発揮することにあるが、日本の「原子力ムラ」が心を入れ替えた形跡は見られない。それは、今のコロナ禍においても同じ。国も行政も最新の科学的知見に基づいて、しっかりと判断しているのか。詳しくは、次回以降に書こうと思っているが、感染実態を把握するためのPCR検査さえ、「感染症ムラ」が既得権益を盾に妨害する。ウイルスの変異種が拡大し始めている今こそ、PCR検査の拡充が必要なのに。

 原発事故から10年。コラムで扱った原発関連のテーマは多岐にわたっている。最悪のケースを想定せよ、から始まって、危機管理体制の情報、事故の人災的側面、放出された77万テラベクレルの放射能の行方、人体への影響、Nスペ「メルトダウンシリーズ」のフォロー、脱原発へのシナリオ、新たな安全基準について、原子力ムラの構造、エネルギーの原発比率のまやかし、廃炉の問題、原子力裁判、核燃料サイクルの無理筋などなど。1回のコラムは、およそ400字詰めの原稿用紙で8枚になるから、原発関連だけで640枚の内容をアップしてきた。

◆“超”巨大地震が迫る日本列島で「イモ虫と原発」
 その原発問題もこの10年、政治的には全く進展がない。事故の記憶を忘れない民意によって、再稼働にこぎ着けたのは僅かに9機にすぎない。そのうち4機は、テロ対策の不備でまたまた停止に追い込まれている。それなのに国と原子力ムラは、柏崎刈羽原発や東海第二原発、東通原発などの再稼働、或いは2兆円をつぎ込んでまだ完成を見ない六ヶ所村の再処理工場の運転を目指している。2050年までに脱炭素(カーボンニュートラル)を打ち出した菅政権も、CO2ゼロの原発を利用する腹づもりだ。こうした懲りない面々がいる間は、事故はまた起こる。

 東日本大地震を引き起こした(マグニチュード9.1の)東北地方太平洋沖地震によって、日本周辺は地下の大乱時代に入っている。数百年のサイクルで“超”巨大地震を引き起こす「スーパーサイクル」の研究によれば、千島海溝のスーパーサイクルは、いつ起きてもおかしくない切迫度だというし、心配される東南海の超巨大地震も同様だ。こんな、危険な地殻構造の上に、いったん過酷事故が起きたら水をかけるくらいしか手のない複雑巨大な構造物を作ることそのものが、人知を超えている。そのことに日本人はあの時気がついたはずである。

 事故の翌年の8月。私は身近な経験をもとに「巨大イモ虫と原発」というコラムをアップした。歩道を横切っていた巨大なイモ虫がおばさんの乗る自転車に危うく轢かれそうになった話である。鼻先をかすめて通った自転車に、イモ虫は何が起きたか分からない。あと数ミリで命取りになった出来事の本質について理解出来ないイモ虫を、原発事故を経験した日本に重ね合わせた話である。

誰を見、誰に寄り添うのか 21.3.3

 「釣瓶の家族に乾杯」は好きな番組の一つだ。コロナ禍にあって、新規の取材が難しいので、これまでに取材した各県単位のスペシャルを放送している。20年以上も前からの蓄積がものを言って、毎回市井の人々(庶民)の生き方に感動させられる。3月1日は大震災から10年の節目からか、かつて津波の被害を受けた「岩手県編」だった。その中で特に印象に残ったのは、津波で流された小中学校の跡地に出来た釜石復興スタジアムの完成式(2018年)で、記念のスピーチをした女子高校生にまつわる話だった。当時の女性徒とスタジオを結ぶ。

◆震災の地からコロナ禍へのメッセージ
 彼女は、去年東京の大学に合格したが、コロナで郷里を出られない。その彼女が、3年前と同じスタジアムの中央から番組に向かってスピーチする。「大震災の時、家も学校もみんな失ったけれど、家族、地域、そして世界中の人たちが支えてくれた。世界中の人々の暖かさを知った日だった。今、未知のウイルスが人々を苦しめているが、(震災の時と同じように)世界中の皆で力を合わせて立ち向かうことが大切だと思う。支えてくれた人々に、その感謝を伝えるために私は活動して行きたい」。これを受けて、スタジオの高橋尚子が言った言葉がまた良かった。

 「苦しい経験をしたからこそ、その感謝の思いや暖かさがが皆を前向きにさせるパワーになる。今はどうしても、新型コロナの苦しさが不平になったり、気持ちがすさんだりすることがあるけれど、前向きに感謝して、多く人たちとつながっていくことが、私たちを元気にさせてくれるヒントになるのではないか」。震災10年の番組というと、災害を忘れないという趣旨が先に立つが、実は、あのときの(家族、地域、世界中が支え合った)経験からのメッセージが、コロナ禍にある今の私たちにとっても、大切なことだということに気づかせてくれる。

◆エリート政治家、官僚から庶民は見えているか
 コロナ禍だからこそ、政治もまた、苦しい中で懸命に生きている庶民に眼を向け、手を差し伸べる必要がある筈だ。しかし、高級料理店での飲食を繰り返していた官僚たちも、Go toキャンペーンや非常事態宣言解除にこだわる政治家も、見ているのは権力者や業界団体、富裕層であり、庶民は目に入らない。(首相の息子も、業界の話題も記憶にないなどという)国民を愚弄する官僚の答弁も、政治不信をかき立てるだけ。相次ぐ不祥事と不手際の連続で菅政権は液状化しており、政治は今や、誰を見、誰に寄り添うのか、全く見えない状態に陥っている。   

 国民の間で「格差と分断」が深刻になっているアメリカで、政治に対する一つの見方がある。それは新自由主義が登場した40年前から、アメリカが陥った「能力主義」の罠とも言うべきものである。「能力主義」とは、だれでもトライすれば成功できるという呪文のようなもので、これを持ち上げた結果、「能力主義の文化は、勝ち組を傲慢にし、置いてけぼりにされた人々に対して優しさを示さない社会を作ってしまった」という(マイケル・サンデル「世界の賢人16人が語る未来」)。それは、置いてけぼりにされた人々を自業自得だとする見方をもたらした。

◆格差と分断をコロナが襲うとき
 それ以前に「アメリカンドリーム」と言えば、条件の平等が広く行き渡っていることだったのに、最初から恵まれたエリートが能力主義の勝ち組になり、謙虚さを失う。置いてけぼりになった人々は、上から目線の既成政党を見捨てて、トランプや左派のサンダースの支持に走った。この分断の構造は、多かれ少なかれ日本でも同じであり、政治家も官僚も成功者も、上から目線で苦しんでいる庶民が目に入らない。サンデルは、コロナの深刻さは、世界が格差と分断で「かつてないほどにバラバラになっているときに、パンデミックに襲われたこと」だという。

 アメリカでは、階級や生活条件が異なる人々が出会って互いを知る空間が少なくなっている。これを少しでも改善し、人々がともに支え合う空間を作るにはどうすればいいのか。サンデルは、民主主義国の市民が分かち合う空間を作り直さなければならないという。そこで多様な人と出会うことで、自分たちだけの狭い世界を壊して、ともに民主主義を実践していくことが大事だと言う。日本は、アメリカのような人工国家と違って、まだ辛うじて共有する歴史や文化があり、幅広い国民的共同体がある。問題は、これをテコ入れして行くことが出来るか、である。

 さらに言えば、今のコロナ禍で苦しんでいる人々に寄り添う政治を目指す中で、格差と分断をできる限り少なくし、同時に、これから次代を担う若い世代が希望を持てる社会を構築する。こうした幅広い共同体(包摂的ナショナリズム)を模索しつつ、日本人としてのアイデンティティを強固にして行く。その上で、さらに世界の人々と、コロナワクチン、地球温暖化などの共通の課題に取り組める「グローバルアイデンティティ」を目指す。こういう方向以外に、パンデミックを始めとする人類的課題を乗りこえていく道はないということである。

◆コロナ禍における日本の格差と分断
 これからの菅政権は様々な難題に直面する。緊急事態宣言をどうするか、仮に解除した後のリバウンドをどう防ぐか。ワクチン接種をどう急ぐか、効果にどこまで期待するのか。オリンピックをどうするのか、海外からの観客をどうするか。同時に、これを判断するときに、最新の科学的知見に基づけるのか、或いは国民のどの層に、どういう支援策を打ち出すのか。特に、コロナで苦しんでいる様々な層(特に社会的弱者の人々)の心に届くような、どういうメッセージを発信するのか。こうした複雑な連立方程式を解いて行かなければならない。

 菅政権がどういう政策をとるにせよ、日本には新自由主義的な競争社会が登場して20年の現実がある。この間に、非正規雇用は労働者の40%にまで増え、平均年収186万円のアンダークラスが930万人にもなろうとしている(「新・日本の階級社会」)。さらには、先進国でも突出して貧困率が高いシングルマザー(123万世帯)も含めて、コロナはこうした人々の暮らしを直撃している。ささやかながら、去年は地元の「子ども食堂」と国連の難民支援に寄付をさせて貰ったが、「最終的には生活保護がありますから」と突き放す菅に、こうした庶民の姿は見えているだろうか。

◆「置いてけぼりされた人々」に寄り添えるか
 「コロナ危機は、人類を待ち受けている地球温暖化や新たな感染症といった将来の課題に向けてのリハーサルだ」(ブルーノ・ラトゥール、仏哲学者)という捉え方もある。そう考えたとき、コロナに対抗するテーマの一つは「持続可能性」であり、「格差と分断」の克服になる。この時に政治は、バラバラになった国民の一体感をどう取り戻して行くのか。どれだけ「置いてけぼりされた人々」に寄り添えるのか。そして、支え合いの気持ちをどれだけ多くの人々と共有し、国民的な共同体を再構築して行けるのか、といった課題に直面する。日本の政治はそれに応えられるか。

 その意味では、メディアもまた大きな役割を担っている筈である。メディアは、人々が支え合う幅広い共同体への共感、そしてグローバルな支え合いに、どれだけ貢献できるか。人々が心を寄せる「共感の場」をどれだけ提供できるのか。その意味で、2月15日に放送されたNHK「だれも独りにさせへん〜コロナ禍の冬 苦闘の記録」も、コロナ禍で冬の路上に追いやられた人々を救う社会福祉協議会の苦闘を描いて感動的だった。そして、東北からの女学生のメッセージを伝えた「家族に乾杯」。メディアにも出来ることは、まだまだ沢山ある。

コロナが促す「脱」の世界 21.2.19

 新型コロナが日本で問題になり始めて1年が経過した。この間、切り抜いて来た新聞記事のファイルを取り出して見ると、日本学術会議や安倍政権の不祥事など、コロナに気を取られている間に置き去りにされている問題もあれば、貧困や格差、人口減少、科学技術力の低下など陰で進行している問題もある。また、異次元の金融緩和や財政赤字など、コロナが落ち着いた時には、さらに深刻化している問題もある。この一年、コロナは何をどう変え、何を置き去りにしてきたのか。難しいテーマだが、それを少しずつ考えて行く時期かもしれない。

◆コロナの収束には数年以上かかる?
 そのコロナでは、2月17日からワクチンの接種が始まった。アナフィラキシー反応など接種直後の副反応や、効果についてのデータは現時点でかなり集まってきているようだが、以前に触れた人工的に強い免疫抗体を体内に作ることによる自己免疫異常(あるとすれば、数ヶ月後)の副反応については、注視しているが、一向にそのニュースはない。世界に先駆けて開始したイスラエルや試験段階でのデータなど、数ヶ月以上経過しても特段の報告がないとすると、それは杞憂だったかも知れない。日本で本格化する4月以降ならより安心に違いない。

 ただし、ワクチンの効果がどの位持続するのか。感染を防ぐのか重症化を防ぐのか。海外の変異種にどの程度まで効くのか。あるいは、未知の変異種に対してはどうか、またその時、ワクチンの改良は可能か。こうしたデータはまだまだで、大方の予想ではインフルエンザのように、毎年ワクチンを改良して接種する必要があるかも知れないという。従って、世界にワクチンが行き渡るまでは、毎年現れる新しい変異種を改良ワクチンでしのぎつつ、コロナ時代に合った生活を続けざるを得ないことになる。その中で、いつか集団免疫ができるのを期待する。

◆パンデミックを引き起こすグローバル化
 そうすると、コロナの収束には少なくとも数年はかかるだろう(「新型コロナ収束への道」)。この間に、幾つかの後戻り出来ない変化が社会に起きており、様々な価値観の転換を迫っている。そもそも新型コロナがここまで爆発的に広がったのには、大小幾つかの要因があげられる。一つはどうしても三密で成り立つような都市機能の集中である。人が集まることで利便性が増し、さらに人が集まるというサイクルで発展してきた都市。それが感染症に脆弱であることがはっきりした。一方で、森林破壊が進み、野生生物とヒトとの接触が増加することも感染症のリスクを高める。 

 そして、何より大きな要因はヒト、モノ、カネのグローバル化である。中国・武漢市で発生した新型コロナがあっという間にイタリアに飛び火してパンデミックを引き起こす。或いは、南アの変異種が世界中に広がる。これはグローバル化した経済による人の移動が、それだけ世界中に拡大していることを物語る。これらに対して感染拡大を抑えるのが、人の移動を減らす封鎖や自粛、水際対策であり、リモートワークの導入、都市から地方への移住などで、これはコロナ収束後も、後戻り出来ない傾向として持続して行くだろう

◆より明確になった「持続可能性」という価値観
 感染症のリスクを高めるのが、都市への集中、自然破壊、極端なグローバル化だとすると、これらの対極となる価値観とは何か。それが「集中から分散」であり、地球環境維持を主眼とした「持続可能性」となる。特に、より大きく捉えれば、(分散化も含む)この「持続可能性」こそが鍵であり、これからの経済、暮らしのあり方、エネルギーなど、すべてにおいて、その適否を占う重要な価値観になっていく。これは実は、コロナ以前から私たちが迫られていたテーマだったのが、コロナによって、その必要性・重要性がより露わになったとも言える。

 去年放送された「薄氷のシベリア、温暖化への警告」(BS1)では、温暖化によって北極の氷が大規模に溶け出している様子や、永久凍土が溶けて地下のメタンガス(CO2の21倍の温室効果がある)が爆発的に“噴出”、或いは未知のウイルスが出現する実態が描かれ、既に北極では後戻り出来ないポイント(tipping point)を超えていると言う。これから言うとコロナのパンデミックも、「持続可能性」の破綻が見せた一例に過ぎない。この待ったなしの危機を前に、「持続可能性」が私たち人類に迫る、様々な「脱」(脱皮、転換)を考えてみたい。

◆「持続可能性」が迫る様々な「脱」
 その一つはご存じ、「脱炭素」である。菅政権は去年、遅ればせながら2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする(カーボンニュートラル)を打ち出し、現在工程表を作成中。その柱は、電力(脱火力)、運輸(脱ガソリン)、省エネ(産業全般と生活における脱石油)で、具体的には、火力発電を減らして再生可能エネルギー(太陽光、風力、水力などの発電)をメインにする、車を電気自動車(EV)にする、水素利用の産業にする、などだが、既に利害が反する産業界の抵抗や、経産省と環境省、農水省などの綱引きが始まっている。

 その調整をどのようにしながら、アメを与えて業界を牽引していくのか。政府は、こうした産業構造の転換を経済成長に取り込む「グリーン成長戦略」を掲げようとしているが、これを推し進めるには、相当な腕力がいる。その具体的な項目(「経産省などのHP」など)については、いずれ吟味する必要はあるが、確実に言えることは、こうした「脱」政策は従来の固定的な発想や既得権益など諸々からの転換を促すことである。すなわち、「持続可能性」が迫る様々な「脱」は、従来の不自由な価値観(くびき)からの「解放」を促すということである。

◆従来の価値観からの解放を促す「脱」政策
 例えば、脱炭素は日本の安全保障の面でも画期的な段階に入ることだと言う(西村六善:元外務省気候変動担当大使)。日本は戦後長らくエネルギー自給率10%で生きていくために、シーレーンからホルムズ海峡までの安全確保、中東の安定への投資など、石油の安定供給を図るために多大な努力を費やしてきた。脱石油は、それからの解放を意味する。加えて、脱炭素で目標を共有する世界の国々(特にアジア)との技術協力、農業技術の移転などで日本は国際貢献が出来る。「脱」政策は、くびきからの解放と同時に、新たな自由と可能性をもたらすわけである。

 脱炭素においては、単に「グリーン成長戦略」で経済成長を、と言った従来の経済的価値観に立つのではなく、こうした骨太の価値観の転換を見なければならない。それは集中型から分散型へのエネルギー転換を目指す「脱原発」でも同じ。脱原発によって、日本は日々増大する使用済み燃料、金食い虫の核燃料サイクル、巨大地震やテロなどへの安全対策の膨大な投資から解放される。しかも、今や原子力より安全で安くなった再生可能エネルギーの普及に障害となっている硬直化した電力システムからも自由になる。何より、原発は大事故、使用済み燃料などで、地球環境の「持続可能性」を毀損する。

◆最後の難敵「脱グローバル化」と「脱(強欲な)資本主義」
 さらに、持続可能性が促す「脱」には、「脱グローバル化」がある。現在のグローバル化を推し進めているのは、新自由主義的な「強欲な資本主義」である。コロナ禍の今も、世界では実体経済から遊離した金融資本が、マネーゲームによって暴れまくっている(「世界を食い荒らす強欲経済」2016.6.15)。数年前には1日580兆円(為替取引)だったが、その何倍もカネがコロナの金融緩和で膨らんでいる。それが、マネー空間だけで回っているだけならいいが、その膨らんだ金がやがて世界の実体経済に投資される。それが、世界各地に広がる巨大都市やカジノの開発であり、物欲の刺激、森林の大規模破壊になる。

 この強欲な資本主義をどこかで止めない限り、地球の未来はないことがますます明確になってきた。様々な「脱」の中で、もっとも困難な「脱(強欲な)資本主義」。Nスペ「2030未来への分岐点」を見ても、残された時間は少ない。世界は、「持続可能性」を最優先の価値観として、「脱」の未来を切り拓くことが出来るか。それが問われている。  

国家の未来像を描くために 21.2.6

 やはり、なるべきではない人間が首相になってしまったと多くの人々が思い始めている。首相が発する言葉が国民に伝わらない。それは表現法や伝達法の上手下手というより、伝えるべき内容がもともとないことにも、皆がうすうす気づき始めている。中身がスカスカなのだ。首相というものは、「どす黒いほどの孤独と猜疑心」(首相経験者)にさいなまれるというが、これまで永田町の権力構造の中で自分を大きく見せて来た菅も、支持率の低下で議員たちがソワソワし始める中、支える番頭も参謀もなく孤立し始めているという(毎日「特集ワイド」2/3ほか)。

 その菅首相について、朝日の高橋純子(編集委員)が「正直、これほど“出来ない”人とは想像だにしていなかった」と書いている(2/3「多事奏論」)。彼女は、記者会見や国会審議をテニスになぞらえ、真剣なラリーの応酬こそあるべき姿なのだが、なぜ菅はテニスがこうも下手なのか。そう考え続けて思い当たったのが、菅はそもそもラケットを持っていなかったのだと書く。菅がやっているのはむしろ「かわす、逃げる」が神髄のドッジボールだと、言い得て妙の記事だった。この「空虚な菅」には、一体何が欠けているのだろうか。 

◆国家観も現状把握も欠けている政治家たち
 菅の所信表明については、よく言われる辛口批評がある。それは、携帯の値下げや、不妊治療の補助、デジタル庁の設置など個別政策を短冊のように並べるだけで、それを貫く基本理念や国造りのビジョンが見えないことである。日本をどういう国にしたいのか、一国の首相が持つべき「国家の未来像」が見えないことである。先日の「最終的には生活保護がありますから」と弱者に極めて冷たい答弁をしたのも、「まず自助、そして共助、最後に公助」という考えからだが、これを国家観と思っているなら論外で、菅の個人的な価値観に過ぎない。

 また、「国家の未来像」を示すには、日本が先進国の中でどういう位置にあるのかが見えていなければならないが、菅にはこうした現状認識も決定的に欠けている節がある。例えば、菅は当初コロナ対策について、自分の方が分かっていると専門家の意見を軽視するような発言をしていたが、その後、ウイルスの変異とは何か、感染抑止には今何が大切なのか、或いはワクチンの評価はどうなのか。こうした研究や対策について、日本がいかに遅れているか。こうした現状認識を、菅がどれだけアップデートして来たのかが全く見えない。

◆変異種とワクチン。ロンドンからの最新情報
 先日、コロナの最新情報に関して、ロンドン在住の免疫学者、小野昌弘氏のリモート講演1/30、サイエンス映像学会主催)を聞く機会があった。一度コロナに感染しても、その免疫抗体は一生続くのではなくゆっくり減っていき、140日で半減すること。体内に入ったウイルスの増殖過程で起こる複製ミス(変異種)は年に20回程度だが、その出現の確率は感染が蔓延すればするほど高くなることなど、イギリスやブラジル、南アで見つかったウイルスの変異種の詳細とワクチン研究の最前線に関する話である。

 その変異種は当然のことながら、ヒトの免疫抗体の働きをすり抜ける形で変異するのでより感染しやすくなる。イギリスは既にリアルタイムでこの変異の遺伝子情報を監視するモニタリング体制を作って、変異の箇所、個数、性質などを分析、それがワクチンの効力にどう影響するかを調べている。こうしたことから、今のワクチンも万能ではなく、時間と共に効果が減少する、変異に対抗するには常時新しいワクチンを改良する必要がある。つまり、コロナもインフルエンザと同様に毎年新しいワクチンを作って接種しなければならない可能性がある、ということだった。

◆情報過疎に陥っている永田町の住人たち
 つまり、政府が唯一の切り札としているワクチン接種も万能ではないということ。コロナを一時的に減らすことは出来ても、この先、自由に経済活動を再開できるほどに減らすことは難しい。海外で蔓延している場所が残っている限り、それが変異して国内に流入する可能性は大きいからだ。それにしても痛感させられるのは、こうした厄介な実態を踏まえた時に、日本が備えるべき医療体制においても、また研究レベルやPCR検査体制においても、日本は世界の先進国と比べてかなり遅れていると言うことである。

 菅が、頑固にGo toトラベルにこだわって墓穴を掘ったのも、科学的知見のアップデートを怠ったせいだが、これは菅に限ったことではない。緊急事態宣言の中で銀座のクラブをはしごするような呆れた政治家が出るのも、永田町全体が、日々変化するコロナの実態に関して一種の情報過疎に置かれているのではないかと思わせる。コロナ情報に関しては、むしろ連日テレビ報道を見続けている国民の方がよほど詳しく、危機感を持っている。彼らは国民感覚とずれているだけでなく、先進国に比べて日本がいかに遅れているかという認識もないのだろう。

◆「日の丸信仰」を捨てられない為政者たち
 コロナが少し下火になった去年の5月。安倍が「日本モデルの力を示した」と胸を張り、麻生が「(外国とは)民度が違う」などと的外れなコメントをしたが、こうした根拠のない優越感は、1980年代の栄光の記憶を引きずった(日本は優れているという)「日の丸信仰」の影響だと古賀茂明は言う(「日本を壊した霞ヶ関の弱い人たち」)。コロナ押さえ込みに成功した中国や韓国を見下した物言いだが、これがその後の無策を生んだ。同時に、その「日の丸信仰」が政治家の目を眩まし、先進国の標準から取り残された日本の対策を遅らせて来たという。

 もちろん、日本には世界に誇る文化や自然の豊かさ以外にも多くの良さがある。しかし一方で、コロナ禍があぶり出した日本の劣化も現実。コロナの論文数では世界の16位で先進7ヶ国中、最下位だし、ワクチン研究や感染押さえ込みに必須のデジタル化においても、日本は先進国に比べて2周くらい遅れている。何より、政策を統合的に進めるべき官僚機構がバラバラで、自分たちの利益しか目に入らない機能不全に陥っている(同書)。こうした国のリーダーとして、国家の未来像を示すためには、まずこうした現状認識が必要になる筈だ。

◆日本のポテンシャルを高める指標とは
 「日の丸信仰」によって、日本が一流国幻想のぬるま湯に浸っている間に、先進国の中で二流国になってしまった現実は、「“失われた30年”の自画像」(19.5.16)にも書いたところだが、ここでは、そうした現状認識を踏まえて、日本が先進国の世界標準に加わって、これからの世界を共に切り拓いて行くための重要なテーマ(指標)をあげておきたい。一つには脱炭素(カーボンニュートラル)である。これには、地球環境を悪化させないための産業構造、エネルギー政策、そして強欲な資本主義の大転換が必要になる。そのための未来像と工程表を示せるか。

 また、民主主義を深化させるために、国民に受け入れられる形でデジタル化を隅々まで浸透させることである。そのデジタル化は、医療のデジタル革命、行政サービス、教育改革、国民のセーフティーネットをサポートするツールとして統合的に深化させなければならない。同時に、政治・行政においても全公開(オープンガバメント)を進めて、民主主義をより深化させることである(「デジタルとAIをどう使うか」21.1.27)。こうしたことを可能にするには、基礎研究も含めた科学技術に力を入れ、再び「科学技術立国」として世界に貢献できるようになることである。

 この他に、先進国の世界標準に遅れている分野がある。教育制度、女性の登用など。こうした分野で世界をリードできるようになれるかどうか。コロナ禍だけでなく、人類は今、AIの登場やデジタル化によって歴史的に500年に一度というような「大転換」の時にある。その時に、未来を見据えて日本の未来像をどう示していくのか。「空虚な菅」にそんな熱い思いを求めるのは無理なのだろうか。

デジタルとAIをどう使うか 21.1.27

 菅政権肝いりのデジタル庁は、今年9月の立ち上げを目指して準備が進んでいる。全体500人規模のうち、専門性の高い人材100人程度を民間から登用するというが、これで遅れている日本のデジタル化は進むのか。単に国や地方自治体の行政の効率化を目指すだけなのか。或いは、もう一つの目標である「ITの導入によって国民生活の豊かさを目指すDX(デジタルトランスフォーメイション)」がどのように進むのか。利便性の一方で国民の監視など“光と影”が交錯するデジタル化は、様々な意味でその理念や哲学が問われる事業になる。

◆マイナンバーカードでワクチン接種?
 折しもその実力が試されるコロナワクチンの巨大プロジェクトが迫っている。ワクチン接種の担当大臣になった河野太郎は、ワクチン接種をマイナンバーカードにひもつけて実施すると言うが、一律10万円の特別給付金の時の大混乱を忘れたのか。国民7200万人分を接種するには、地域別、職種別、年齢別、また副反応のデータなど、接種状況を全国的に把握するためのデジタル処理が欠かせないが、まだ25%にしか普及していないマイナンバーカードで処理するのは無理というもの。再びデジタルで周回遅れの実態が露呈するだけではないか。

 このマイナンバーカードについて、政府は来年度までに全体に普及させ、今年3月からの健康保険証を手始めに、口座番号とのひもつけも目指すという。しかし、こうしたデータ連動には個人情報保護の問題も絡んでいて、政府と国民の間に信頼関係がないと上手く行かない。この点では、デジタル技術を国民監視に使っている中国のような全体主義国家もあれば、国民との信頼関係をベースに開かれた「デジタル民主主義」を模索している台湾の例もある。デジタル技術をどう使っていくのか、デジタル庁の発足を前に考え方の要点を整理しておきたい。

◆対照的な中国と台湾のデジタル化
 まず、中国のデジタル技術の場合。スマホの位置機能による移動の追跡と同時に、ウイグル自治区などでは社会の隅々に配置されている監視カメラとAIを結びつけて個人の認定や行動の監視も常時行われている。また、キャッシュレスカードの導入が進む中国では、個人の社会的信用の数字化(スコア化)が進み、高スコアなら医療面で優遇されたり、反対に反体制的な行動でスコアが減らされれば、キャッシュカードが使えなくなったりする。さらに、こうしたAI監視システムを親中国的な人権抑圧国家60ヶ国に輸出して関係を強化しようともしている。

 こうした監視技術と大規模な都市封鎖でコロナを押さえ込んだ中国と対照的に、デジタルやAI技術をコロナ対策だけでなく、民主主義の成熟に役立てようとしているのが台湾である。台湾も、いち早くコロナ押さえ込みに成功したが、これにはスマホアプリによる感染ルートの解明や接触者への警告メールが使われた。また当初のマスク不足を解消するために、どこの店にマスクがあるかを表示したマスクマップのアプリも官民連携で開発され、人々はデジタル化した保険証カードを使って、各自決められた枚数を買うことが出来た。

 こうした試みが成功したのも、台湾に健全な民主主義が根付いている証拠だとオードリー・タン(台湾のデジタル担当相、39歳)は言う。台湾では、健康保険に関する審議会の議論のプロセスがすべて一言一句まで公開されている。その透明性が政府と人々との信頼関係を作り、どうすれば「社会の繁栄」と「防疫対策」を両立させられるかを社会全体で考えてきた。その信頼感をベースに人々が感染症の何たるかを理解し、政府に自発的に協力することで、強権的なロックダウンなしでコロナの感染拡大を最小限に抑え込むことに成功した。

◆デジタルとAIを民主主義の深化に生かす
 昨日の「BSプライムニュース」(1/26)を見ると、その台湾でも感染者追跡のためのスマホのGPS利用や、感染者を隔離するための厳しい罰則規定はあったようだが、総じて合理的、民主的にコロナ押さえ込みを行った。その立役者の一人がオードリー・タンである。幼少期からの天才振り、明晰な論理思考、柔軟な調整能力、民主主義への揺るぎない信念などで、今や世界の注目の的になっているが、今回は特にタンの近著「デジタルとAIの未来を語る」(Kindle版)から、タンのデジタルと民主主義の考え方について、4点ほどに絞って見てみたい。

 一つは、デジタル化によって誰もが民主主義の参加者になるということである。上が決めたものを下が従うと言うことではなく、台湾では政府も住民も対等であると言うことを実践してきた。政府は、住民からの意見を吸い上げるデジタルのプラットフォームを幾つも構築している。タンが設計したプラットフォーム(意見広場)では、民間から提案された実施可能な政策に2ヶ月以内に5千人の賛同者が集まれば、政府は必ず政策に反映する、というルールがある。プラスチックのストローや発がん性のある防虫剤の禁止などもこうして実行された。

 デジタルは様々な人々の意見を分け隔てなく広く集めることに優れており、政治にこの仕組みを組み込めば、間接民主主義の弱点を克服する重要なツールになる。二つ目は、デジタルを導入するときには、「誰ひとり置き去りにはしない」という決意である。台湾は一番進んだ5Gを取り入れる時も、ネット環境が良くない地方や離島からと決めている。そういう遠隔地の方が、情報が瞬時に伝わる5Gの恩恵を受けやすいからである。「インクルーシブ」で開かれた政府は、このように政府と人々との間に信頼関係があってそこ成り立つとタンは言う。

◆共通の価値を新しいイノベーションにつなげる
 三つ目は、タンの政治に対する考え方である。民主主義において人々の考え方が多様で違っていることは当然だ。その違いを明確にし、論点を整理し、様々な異なる立場の人々に対して、共通の価値を見つける手伝いをするのが、タンの仕事だという。いったん共通の価値が見つかれば、異なるやり方から皆が受け入れられる新しいイノベーションが生まれる。物事に対する極めて柔軟で幅広い思考をもって優れた調整能力を発揮するのが、タンの特徴で、この調整能力こそが政治である。タイプは全く違うが、異なる意見の調整に奔走した幕末の政治家、勝海舟の政治観を思わせる。

 タンは、日々の会議や人々とのやりとりをすべてネット上に公開している。この徹底した全公開システムによって、人々は議論の過程を知ることが出来、政治を身近に感じることが出来る。そして政治に参加したいと思う。そこにデジタルの様々な双方向機能が働いていることは言うまでもない。四つ目は、AI(人工知能)についてである。AIの目的はあくまで人間の補佐であり、最終的な調整は人間が行わなければならないし、責任は人間が負わなければならない。これは民主主義と同じで、誰か(総統やAI)が言ったからそれが正しいと言うことではないと言う。

◆何のためにデジタルとAIを使っていくのか
 デジタルは社会の方向性を変えるものではなく、方向性はあくまで人間が決めるものだ。大事なのは、デジタルとAIをどう使っていくかであり、その理念や哲学がないと、単なる導入は混乱を引き起こすだけになる。台湾の場合は、民主主義をより深化させるために、デジタルを取り入れてきた。この点で、日本のデジタル庁構想(平井拓也担当大臣)には、どのような理念、哲学があるのだろうか。今のところ、マイナンバーカードと同じで、国民に十分説明のないまま、行政の効率化を図るという政府の都合しか伝わって来ない。その先に何を見ているのかである。

 タンはまた、日本は「政治の新しい方向性を導き出すのは若者たちである、ということについて、国民的なコンセンサスが十分得られていないのでは」と言う。全くその通りで、デジタル化も古くさいイメージで動いてはいないだろうか。デジタルに限らず、日本も若い人たちが社会を牽引していくような仕組みを早く取り入れないと、ますます遅れて行くだろう。引き続きデジタル庁に注目である。

若者の感染を抑え込めるか 20.1.15

 遅すぎるという世論の批判を受けて、政府は8日、これまでの方針を転換して緊急事態宣言を11都府県にまで拡大することになった。メディアには後手後手とか、泥縄式とか、場当たり的とか、散々な言われようである。今はある意味で日本の非常事態なのに、この内閣には「国家の危機管理」という基本的な発想があるのかも怪しく見える。先日の会見で「1ヶ月過ぎても感染が収まらない場合はどうするのか」と聞かれた菅は、「仮定の質問には答えられない」と言ったが、状況悪化に備えるという危機管理のイロハからほど遠い姿勢である。 

◆危機管理のイロハが分からない菅政権
 宣言の範囲を小出しに広げることについても、「始めから大きく網を掛けて状況を見ながら絞るというのが危機管理の基本だ」(小池晃、共産党)などと指摘されているが、今の菅は危機管理の基本である「危機の時のリーダーは声を張れ、決断の時は“私心”を捨てよ、裸の王様になるな、悲観的に準備し楽観的に対処せよ、つねに代案の用意を」(「危機管理のノウハウ」佐々淳行)とは真逆の姿を見せて国民の信頼を失っている。記者会見もボソボソと下を向いてしゃべるだけで言語不明瞭。これで、いつまでも持つのだろうか。

 菅政権は今も、「政権維持のためにもオリンピックは絶対やる」、「従って、海外から日本が“State of emergency”(国家非常事態)と見られるような状況は作れない」、「ワクチンが来るまでの我慢だ」、「まだ外国に比べれば死者は少ない」、「感染抑止より経済界や二階幹事長の意向が大事」などと思っているのだろうが、今やそんな「政権の都合」は通らない段階にまで事態は切迫している。14日のテレ朝に出演した本庶佑(ノーベル賞学者)も、「国民の安全が確保されてこその経済であり、(二兎を追う)国は間違っている」と手厳しく指摘していた。

◆無症状の陽性者を見つけて隔離できるか
 本庶ら4人のノーベル賞学者(大隅良典、大村智、山中伸弥)は、1月8日にコロナに関する共同声明を出した。そのうちの本庶と大隅の2人が「羽鳥モーニングショー」(14日)に出演して、「今重要なのは、無症状の感染者をどう見つけて隔離するかであり、そのためにPCR検査(日本は現在1日10万件以下)をもっと拡充するべき」だとし、これに厚労省がなぜ反対するのか理解に苦しむと批判。「既に民間が完全自動化の検査機を開発している。これを千台確保すれば1日250万件が可能になる。これに予算を投入する方が有効だ」と主張した。

 さすがにノーベル賞学者の意見は明快で、久しぶりに胸のすく思いがした。日本のPCR検査が増えないのは、保健所を配下にもつ厚労省が公衆衛生行政の既得権益を手放したくないからだが、ここへ来て厚労省が頼りにする「クラスター対策」は完全に破綻し、保健所が手一杯で濃厚接触者の追跡も出来ない状況になっている。特に感染を人一倍拡大する無症状の若者(スーパースプレッダー)が野放し状態になっており、このまま感染爆発まで行くと検査の網を掛けようにも手遅れで、変異種の出たロンドン市のように「制御不能」になりかねない。

◆震源地(エピセンター)にPCRの網を掛ける
 PCR検査の拡大と言っても、全国万遍にではない。児玉龍彦は最近のYouTubeでも、感染の震源地(エピセンター)に重点的に網を掛ける検査が必要だと言う。その中で彼は、明快で説得力のある感染抑止策を提言しているが、「コロナウイルスは1年に20回ほど変異する。怖いのはウイルスの大元(幹)がしつこく感染を続けているうちに変異を繰り返すこと。従って、新宿や渋谷、港区などのエピセンターの幹を抑え込むことが大事」だという。そして、そうしたエピセンターと医療施設、保育施設などに重点的にPCRの網をかぶせていくべきだとする。

 今や新宿での変異種(東京、埼玉型)がGoトラベルなどで全国に散らばっている状態だ。コロナ感染者の時間的、地域的経過をビッグデータから可視化した先日の「クローズアップ現代 ビッグデータで読み解く」(1/13)を見ると、それが一目瞭然。児玉の言うエピセンターが広島、浜松、熊本、長崎などの地方都市に広がっている。クロ現では、それ以上触れなかったが、こういう所にPCRの大規模検査を行って幹を抑え込むことが重要になる筈だ。最近、広島市で80万人の大規模検査を行うニュースが流れたが、これはその動きの一つだろう。

◆非常事態宣言の眼目が国民に徹底しない
 もちろん、無症状者にもPCR検査の網を広げると言っても、それは適切な隔離政策とセットにならなければならない。それも、上昌広(医師)に言わせれば、インフルエンザと同じで自宅や指定ホテルなどで自己隔離することが基本になる。要は、感染者と非感染者を徹底して分けることであり、そうすれば非感染者同士で経済を回すことが出来る、と言うのが児玉たちの主張である。一方、PCR検査が十分でない場合の次善の策としては、非常事態宣言の網を掛けることになるが、これについても政府のメッセージは非常に混乱している。

 非常事態宣言の眼目は、もちろん人と人との接触を7割から8割減らすことにある。そのための不要不急の外出自粛であり、テレワークの勧めなのに、今は飲食だけがやり玉に挙げられていて、そこに議論が集中している。しかも、夜8時までなら飲食してもOKととられて、これでは「Go to eat」で緩んだ気持ちは元に戻らない。完全に政府のミスリードで、国民の気持ちを緩めたり、引き締めたりすることがいかに難しいかが分かる。既に宣言だけでは無理な状況で、だからこそPCR大規模検査とセットで考えるべきなのである。

◆若者の心に響く強いメッセージを
 20代の若者の感染者数(10万人当たり)は、他の世代の2〜3倍。最も感染しやすく、感染を広げやすい年代でもある。従って、重要なのは特に若い世代に、「人と人の接触を減らすこと」の大切さをどう伝え、危機感を持って感染抑止に寄与して貰うかなのだが、横浜などで1万人規模の成人式をやるなどは、危険きわまりないことである(免疫学者、宮坂昌之)。政府・行政は、ただのインフルエンザや風邪と思っている若者に、コロナの怖さと彼らの行動変容がいかに大事かを、「彼らの心に響く言葉」で訴えることは出来るのか

 最近の研究によれば、若い世代で無症状の感染者でも長期にわたって深刻な「後遺症」が出ることが報告されている。特に脳にウイルスが入り込むと、「ブレインフォグ(脳の霧)」というような、記憶力減退や集中力の低下などの後遺症が若い世代にも起こる。動物実験では、人に感染したウイルスが速やかに脳に移行して行くことが報告されている。コロナは若い世代でも怖いウイルスなのだと言うこと、そして、何より社会を(若者も働ける)元の状態に戻すには、若い世代の協力が欠かせないと言うことを真剣に訴えていかなければならないと思う。

◆コロナ報道のあり方を見直しながら
 今後のメディアは、非常事態宣言に付随する特措法の改正(罰則とセットになった休業補償など)に話題が移っていくだろう。コロナで経済的打撃を受ける人々への補償はもちろん大事で、ワイドショーなどは連日長時間、コロナ問題を扱っているが、多くはマンネリ状態で床屋談義のようになっている。これでは議論が拡散するばかり。より大事なのは、今一度、感染抑止の原点に帰ることではないか。(頼りない政府に代わって)真の科学者を発掘しながら、PCR検査の拡充による若者の感染抑止と、「人と人の接触を減らす」という意識改革を促して欲しい。(文中敬称略) 

閉塞日本の突破口はどこに 21.1.3

 年が明けたが、心から喜ぶ気にならない。最近のコロナの感染爆発の兆しに、身構えるような気持ちでいる。今年の展望を考えるにも、世界中がコロナで苦しんでいるときに、7月のオリンピックが可能かどうかも分からない不透明さである。去年はコロナをウォッチングしながら、2月の「高齢社会を直撃する新型肺炎」を皮切りに19本のコロナ関連のコラムをアップしたが、その中で痛感させられたのは、医療体制の遅れや政治の迷走と言った「日本システムの劣化」だった。まるで、日本全体が出口の見えない閉塞状況に陥っているようだった。

◆超特急で認可されたワクチンへの懸念
 唯一の期待はワクチンだが、これも一部の専門家によれば効果の持続性やアナフィラキシーという接種直後のアレルギー反応といった問題の他にも、重大な合併症が懸念されている。一つは、強い抗体が出来る反作用としての自己免疫の異常である。このウイルスは、たとえ無症状や軽症で済んだとしても実に広範で深刻な「後遺症」が報告されているが、その多くが自己免疫疾患に関係する。その範囲は、倦怠感、呼吸困難、記憶喪失、睡眠障害などから脳梗塞や糖尿病などにも及んでいる(「選択」12月号〜多発する自己免疫異常の怖さ〜)。

 この原因としての自己免疫異常が、ワクチンで人工的に抗体を作る場合にも懸念されているのだが、その影響は数ヶ月後に現れることがあり、通常ワクチンの審査では最低でも接種後半年のデータが要求される。しかし、今回はそれが超特急での認可になっている。日本の免疫学者、宮坂昌之(阪大教授)や玉谷卓也(順天堂講師)らも、ワクチン効果の持続性や自己免疫異常の有無の見極めには、やはり半年、一年の経過観察が必要で「期待しすぎてはいけない」と言う。従って、今やるべきことはやはり、いかに感染を押さえ込むかということになる。

◆感染症対策の医療システムの劣化
 しかし、その感染押さえ込みについても日本は迷走を重ねてきた。現在は、「GoToキャンペーン」で気が緩んだ無症状者が出歩いて感染を広げている状況だが、これを押さえ込むには世界標準から言ってもPCR検査の拡充しかない。しかし、PCR検査では極めて少数の擬陽性が出ることを理由に、厚労省幹部(医務技官)がブレーキを掛け続けて来た。政府に批判的な上昌広(*)によれば、小数の偽陽性はあっても偽陰性はない(陽性は見逃さない)というから、対策上有効なはずなのだが、民間委託が進まないのは、検査を独占したい厚労省(公衆衛生ムラ)の利権からだという。*)NPO法人医療ガバナンス研究所理事長、12/14にサイエンス映像学会で講演して貰った。これを聞くと日本がいかに遅れているか分かる

 深刻なのは、日本はコロナ関連の研究論文で世界16位と、先進7カ国中、最下位であること(Nスペ、パンデミック「“科学技術立国”再生への道」12/20)。ワクチン研究も阪大で教授と助手らの3人が細々とやっているのが実情で、これでは巨額の投資で開発している欧米にとても太刀打ちできない。原因の一つは、「科学技術の揺らぐ足元」(18.11.5)にも書いたように、大学の法人化ともに競争原理を導入し、予算を削ってきたからである。そのためにスタッフが有期雇用で、落ち着いて研究できる環境が失われている。日本の病は深刻だ。

◆合理的、総合的戦略が苦手な日本
 コロナ対策は、児玉龍彦氏が言う最先端の精密科学(ウイルス、免疫学)に加えて、感染症、臨床医学、医療体制の専門家の総合的知見をどう社会に実装していくかが問われる。そのためには、社会科学、社会心理学、経済学と言った理系以外の専門家の意見も必要になるし、それを束ねる政治には、これら多岐にわたる専門領域を概観出来るだけの知力と強い実行力が必要になる。しかし、政治の面では、今に至っても公衆衛生ムラの利権、厚労省と国交省の縦割り行政の意思疎通のなさ、国と地方との危機意識のずれなどの問題が解消されていない。

 組織の思惑、官僚の忖度が足かせになって、政府対策本部(首相が本部長)も実質的な議論がないまま、GoToトラベルを引きずり、全国に感染を拡大させた。さらには、感染力が強い変異種が現れ始めている時に、政府の分科会(尾身会長)の中に、ウイルスや免疫学の専門家がいないことも問題視されている。コロナウイルスは、どこの国でもこうした「人間社会の劣化」の隙をついて拡大するが、日本の場合は特に、ある命題(テーマ)に対する合理的、総合的戦略、そして具体的戦術の組み立てが不得手といういつもの問題に突き当たる。 

◆行き着くところまで行かないと分からない?
 これは、社会システムの劣化が極まった幕末や太平洋戦争末期にも見られた日本の致命的欠陥と言える。黒船来航時に、いくら会議を重ねても結論が出せない幕藩体制、終戦を巡って議論が紛糾し最後には天皇の聖断を仰ぐしかなかった戦時日本など、極端な例を持ち出すまでもなく、日本は合理的、戦略的に進めることが苦手だ。そして、行き着くところまで行かないと分からないという悲劇的体質を抱えている。その日本は2021年、コロナ対策をどうするかから、オリンピックをどうするかまで、大小幾つもの政治的課題を抱えている。

 コロナ対策では、首都圏自治体は2日、非常事態宣言発出の要望をしたが、国はどこまでやるのか、強制力を持たせるのか、補償はするのか、肝心の所が見えない。また安倍が辞任するときに、年末までにPCR検査を1日20万件に増やすと言っていたのに、まだ7万件程度だ。空疎な言葉だけで、単に状況を見ながらアクセルとブレーキを交互に踏んでいるだけ。コロナを押さえ込む総合的な戦略と具体的な設計図が示せない。海外のワクチンにすべてを賭ける日本のコロナ対策は、(ワクチンに問題が出た場合は)やはり行き着くところまで行くしかないのだろうか。 

◆問題を大きく捉えてプラスに転換する構想力
 この他にも、2021年の日本は膨大な財政赤字、少子高齢化と人口減少、巨大地震対策、科学技術力の低下、地球温暖化対策としての脱炭素や原発をどうするかなど、大きな政治的課題が山積している。オリンピックも含めて先の見えない閉塞感が漂う日本だが、これらも見方を変えて、例えば脱炭素などは本格的に取り組めば、日本は石油確保のための中東の安全保障や、行き詰まっている原発への見切りなど、従来のエネルギー政策のクビキを脱して、新たな世界を切り開くことが出来るテーマでもある(朝日12/19。西村六善:元外務相気候変動担当大使)。

 脱炭素宣言によって、日本は中国を含めた近隣アジアとの協力関係を作れるし、中東やアフリカなどへの技術移転で、日本の新しい国際的役割の地平線を広げられる(このテーマは別途書きたい)。コロナだって、日本独自のPCR検査の戦略的展開とデジタル技術の活用をシステム化できれば、これからのパンデミックに国際貢献できるし、コロナ時代に適応した新たな経済のあり方を創出するチャンスになるかも知れない。必要なのは、日本が抱えている大問題の意味を大きく捉えて、それをプラスに転換する構想力なのかも知れない。

◆時代を見通して政治力を駆使した勝海舟
 時代の転換期にはもちろん、乗り遅れる人々が多数発生するが、その人々を見捨てないことも政治の大事な仕事になる。司馬遼太郎と江藤淳との対談(「歴史を動かす力」)を読むと、幕末に世界を見て幕藩体制の終わりを見通していたのは、幕臣の勝海舟ただ一人だったという。海舟は、その一点を貫いて、江戸幕府から明治国家への“ソフトランディング”に尽力したわけだが、徳川慶喜も含めて最後まで幕臣たちの面倒を見た。政治のあらゆる技術を駆使して、時代の要請を遂行した。その頃の海舟は40歳代。それが転換期の政治というものなのかも知れない。*)江藤淳の「海舟余波」は、海舟の政治的天才振りが良く分かる名著

翻って、失われた30年の様々な問題を抱えて煮詰まっている日本(「失われた30年の自画像」19.5.16)の政治を見れば、70代(菅)、80代(二階、麻生)の老人が政治を牛耳っている悲劇的な状況だ。利権だの忖度だの権力闘争だのといった、古めかしい停滞した政治に頼らずに、この閉塞日本を突き破る、若い世代の出現と奮起を願うばかりである。