日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

政治的志向が問われる時代 19.9.16

 徴用工問題に端を発した日本からの輸出規制やGSOMIA(軍事情報共有協定)の破棄など日韓の応酬と報復が続き、政府間の対立がヒートアップしているが、かねてから不思議に思うことがあった。(私の身近にもいるのだが)冷静に事態の経緯と問題点を踏まえての意見ならともかく、まるで本人が直接けなされたり侮辱されたりしたように感情的になって「韓国はダメだ、日韓断交だ」とかっかと熱くなる人々がいることである。日韓関係に殆ど何の利害もない市民の方が、国家を代表するかのように韓国非難に熱弁を振るうことが不思議だった。 

 私などは、日韓の間には過去に消しがたい歴史的問題があり、少女像活動家のように日本非難を自分たちの存立基盤(アイデンティティ)にしている人々がいるのは当然で、私たち市民の方は出来るだけ無視していればいいと思うのだが、そうは行かないらしい。こうした政治志向を持った人々は、どこでもかなりの割合を占めているらしく、それは国民の間に政治的分断を作り、岩盤支持層と言われる層を取り込んで来たトランプのアメリカでも同じらしい。国家指導者の言うことに同調して、熱くなる政治心理というのは、どういうものなのだろうか。

◆多様性を嫌い国家的一体感を求める「権威主義者」
 トランプの移民叩きや政敵叩きに同調し、憎悪と攻撃性をあらわにして熱狂する人々の心理的特徴について解説するのは、政治学者の豊永郁子(早稲田大教授)である。豊永によれば、そうした政治的心理についての研究は、最初はファシズムの研究から始まったが、その流れの中でトランプ支持層の特徴が見えてきたという。それが「権威主義者」としての特徴だ。彼らは「一つであること、同じであること」を求め、違いや多様性が苦手。強制的手段を用いても規律を全体に行き渡らせてくれる強いリーダーを好むという(政治季評、8/22朝日)。

 こうした「権威主義者」はどこにでもいるが、特に政治指導層に問題があるとき、あるいは社会から共通の価値観が失われていく時に、より活性化する。トランプは移民を攻撃する一方で、対立する民主党を軟弱だ、社会主義的だと攻撃しながら勝ち上がってきたが、その誇張と虚偽を含む攻撃性が、社会に潜んでいた「権威主義」を目覚めさせ、トランプ支持層を固めて来た。それが今のアメリカを、多様性を排除する、より不寛容な社会に変えつつある。そう言われれば、多様な価値観に違和感を抱き、国家的一体感を求める「権威主義者」の覚醒は今、日本を含めて世界の様々なところで広がっているように思う。 

◆中間層の疲弊が「権威主義者」を目覚めさす?
 権威主義者の熱狂が、ファシズムにつながった例がある。井出栄策(財政社会学、慶応大教授)は、戦前のドイツでは中間層の生活水準が悪化したことを背景に、多種多様な中間団体が生まれ、互いに個別利益の追求に躍起となっていたという。やがて、そのバラバラ感が国民の不満をもたらし、個別利益でなく国家利益の代弁者を演じる者たちが現れる。彼らは、中間団体の市民を政治に統合し、自己犠牲の精神を全体への奉仕へと置き換えながら、「国民」への再統合を果たした。それがヒトラーのナチスだった(時論フォーラム、8/22毎日)。

 その点で井出は、平均的な所得の低下、地域包括ケアや子ども食道などに見る中間団体への依存、政治への失望と右傾化を強める今の日本の状況は、いつか来た道にそっくりだと言う。それがファシズムを生まないためにも、中間層を軸とした分配政策を考えるべきだとする。井出の持論である「共存型再分配」に沿った主張だが(「格差と分断から共生の社会へ」16.7.3)、確かに今の日本は市場経済優遇の中で中間層の縮小が放置されて来た。先の豊永流の解釈に従えば、この状況は「権威主義者」をさらに拡大させ、より不寛容な社会を作る恐れがある。 

◆もう一つの政治志向「貧困をどう思うか」
 豊永郁子は「権威主義者」の台頭の他にも、同じ「政治季評」の欄(5/16)で、政治志向を分けるもう一つの興味深い視点を紹介している。それは「あなたは、貧困は社会的不正義だと思いますか?」という質問の答えによって、政治的志向が分かれるというものである。イエスであれば、その人は社会主義政党の潜在的支持者だ。もちろん、ここでいう社会主義とは旧東側の体制でも、旧西側に福祉国家を確立した体制でもなく、新自由主義のグローバル化などに対抗する政治志向で、例えば以前にも紹介したアメリカの社会主義議員のサンダースなどにも通じるものである(「サンダースが闘ったアメリカ」18.7.26)。 

 今の社会主義は多様な考えのもとにあるが、逆に言えば、貧困を社会的不正義と考えることが、現代の社会主義の要件だと豊永は言いたいのだろう。貧困に対する逆の答えは、貧困を自己責任と見る考えで、今ある階層的秩序を是とする考え方である。それは、80年代から急速に広まった新自由主義の影響によるもので、貧困は個人の努力と市場の働きによって解決できるという考えだ。それが近年の、(今の自民党右派のような)超保守主義者の特徴でもある。これが、旧来の穏やかな保守主義とも違う、社会的貧困層にとってより過酷な見方である。

◆政治的志向こそ問われる時代
 豊永の言うような「権威主義者」や「貧困をどう考えるか」と言った政治的物差しは、旧来の「保守VSリベラル」といった曖昧で古くなった物差しとは違って、今の世界情勢、経済状況に即した実際的な分け方かも知れない。国と一体化する「権威主義」で言えば、最近は韓国を反日と決めつけて糾弾する風潮が社会に蔓延しつつある。一部右翼雑誌には「反日の肩を持つ反日日本人」(月刊hanada)とか、「日韓戦争で自衛隊はこう戦え!」(月刊WiLL別冊)と言った煽動的な見出しが躍っているが、今の安倍政権はこうした雑誌と歩調を合わせて、拡大する国内「権威主義者」を支持基盤に置こうとしている。

 では、こうした権威主義者の広がりを抑えて、寛容な社会を作って行くにはどうしたらいいのだろうか。この点で、今の野党は全く顔が見えない。まるで、国内の反韓国ムードの高まりに同調し怯えているようにも見える。支持基盤を(国と一体化したがる)権威主義者や富裕層に置きながら、貧困層や中間層にてこ入れしようとしない安倍政権に対して、野党の立ち位置が見えない状況が続いている。アメリカの権威主義について豊永は、「明日は私たちのことかも知れない」と言い、日本には「貧困を社会的不正義だと考える人が集う、保守党と明確に区別される大政党がない」とも指摘するが、これは現野党への不満ではないか。

◆野党は腰を据えて存立基盤を模索せよ
 一方の井出は、野党の統一会派結成の動きを見て、(中間層を増やしてファシズムへの移行を食い止めるには)「財源論も含めた中間層を軸とする分配政策を提示する最後のチャンスだろう」とも言う。岩盤支持層固めに動くトランプや安倍政権はともかく、それに対抗する政党の旗印が、様々な意味でバラバラかつ曖昧な状況が続く。その中で、貧困層には寄り添う一方で、(井出に言わせれば)バラマキ型のポピュリズムとも指摘される「れいわ新撰組」のような政党も登場する時代である。それが、政治的志向の議論の引き金になるかもしれない。

 見てきたように、世界的な政治志向の流れを踏まえれば、野党も従来の「リベラル」と言ったイメージに安住できる時代ではなくなっている。中間層のやせ細りや、(子どもの貧困も含め)社会的貧困にどう手を差し伸べるのか。そして国家間および社会の中で、分断と対立を生む権威主義とどう闘うか。もちろん様々な主張があってもいいが、排外的な性格を強める今の安倍政権と権威主義的な民意の高まりに対抗するためには、(井出の言うように)憲法9条を守るということだけでなく、野党はよほど腰を据えて政党としての新しい存立基盤を模索して行かなければならないと思う。

世界の安定を壊す政治家たち 19.8.30

 今年の8月のNHKスペシャルは、例年に劣らず力作が並んだと思う。私が見たのは、「激闘ガダルカナル 悲劇の指揮官」(8/11)、「かくて“自由”は死せり〜ある新聞と戦争への道〜」(8/12)、「全貌二・二六事件〜最高機密文書で迫る〜」(8/15)、「昭和天皇は何を語ったのか〜初公開・秘録拝謁記」(8/17)などだが、その中で印象に残った戦前の出来事があった。それは1925年、当時の日本に進行していた大正デモクラシーの自由主義的な流れを阻止するために発行された右派新聞「日本新聞」の実態だった。そこには右派の論客、政治家、軍人、策士たちが集まり、天皇を絶対とする国粋主義の日本を作るために暗躍する。

 軍縮の動きや天皇機関説を執拗に攻撃し、様々なテロ事件(首相暗殺、五・一五事件など)を誘発し、軍部独裁への道を開いていく。ただし、新聞が続いたのは10年である。1935年(昭和10年)には、「我々は所期の目標を達成した。日本は一変した」と宣言して休刊するが、この間、言論の自由は圧殺され、日本は戦争への道を突き進むことになる。意外だったのは、彼らが国論を一変させるのに、たった10年しかかからなかったことである。加えて太平洋戦争開戦の6年前には既に休刊していたためか、関係者の多くが戦後も罪を問われずに生き残り、その思想的土壌は今の日本にもしぶとく続いていることも感じさせた。

 一方で現代に目を転じると、今世界では国家間の対立、報復や応酬が激しく展開され緊張が高まっている。気になるところだが、急速に秩序を失いつつある今の世界情勢が第一次世界大戦前や第二次世界大戦前の状況に似てきているという指摘もある。戦前の日本のように、時代が変わるのが本当に「あっという間」だとすると、この先に何が待っているのか、目の前で起きている事象に目を奪われるだけではなく、少し立ち止まって冷静に観察する必要があるだろう。今世界では、何が起きようとしているのか。それはどの位危険なのか。危険だとすれば、世界はその流れを止めることが出来るのか。

◆トランプによって破壊される世界システム
 今の世界は、これまで辛うじて保たれて来た秩序と安定を急速に失いつつあるが、誰がこれを壊しているかは明らかだろう。米中の貿易戦争を仕掛けるトランプと反撃に出る習近平。核軍縮条約を破棄して核軍拡に走るトランプとロシアのプーチン。イランとの緊張を一方的に高めているのもトランプだ。加えてEUと合意なき離脱で対立するボリス・ジョンソン英首相や、カシミール問題で対パキスタン戦争を仕掛けるインドのモディ首相、そして互いに意地の張り合いをしている日韓の両首脳など。それは国家トップの政治家たちである。

 特にトランプの場合。大統領になって僅か2年7ヶ月というのに、彼によって世界秩序は大きくかき回されて来た。地球温暖化防止「パリ協定」からの離脱、イラン核合意からの離脱、ロシアとの中距離核戦力全廃条約(INF)の破棄、TPPからの離脱と二国間協議、中国との貿易戦争。或いはアフガンなど世界の紛争地からの撤退構想、同盟国軽視など。これらの根底にあるのは、今やトランプの代名詞にもなった「自国ファースト」なのだが、自分の利益にならないと見ると、戦後のアメリカが主導した世界システムも平気で壊す。いわば、戦後アメリカの歴史の破壊者でもある(「アメリカが作った世界システム」14.9.11)。

◆大戦前夜に似る?「自国ファースト」の世界状況
 そのあおりを受けて、G7(8月)などはすっかり空洞化してしまった。トランプが反対の地球温暖化対策や保護貿易批判には全く触れられず、辛うじて一枚の文書をマクロンが発表しただけ。トランプが「G7は時間の無駄」と言い放ち、先進国はもはや一致して世界の課題に取り組む力を失いつつある。同時に、国際社会の番人がいなくなったこの機に乗じて、首脳たちも勝手に動き出している。次の大統領選挙に勝つことを最優先するトランプに対し、プーチンも習近平も権力維持に躍起になっていて、自分の足下が危うくなるような妥協は絶対に出来ない。今や対立関係ある文在寅(韓国)と安倍も同じような流れにいる。

 文在寅は次期総選挙のために、そして改憲を目指す安倍はレームダック化を避けるために、互いに弱みを見せまいと意地を張り合っている。「自国ファースト」が蔓延する状況は、第二次大戦前夜と似ているとも言うし、或いは指導者たちの「自分ファースト」の政治がはびこって、大戦を引き起こした第一大戦前夜に似ているとも言う。当時の指導者たちは内心は戦争を避けたいと思いながら、他国の意思を読み違えたり、現実を楽観視しすぎたりして、夢遊病者のように「世論の移ろいの中で揺れ動いているだけ」だった(「第二次大戦前夜、本当?」6/28、毎日)。そして一発の銃弾が欧州全体を巻き込む戦争につながって行った。

◆あっという間に大事なことを見失う
 米中、米露、日韓のように、互いに相手が悪いと非難し合って対抗策を連発する。その中では、戦争を避けるために地域の安定を保って平和を構築するとか、互いに発展するために友好関係を保つと言った大事な方向性を見失いがちだ。警戒心に駆られて、互いにアメリカを「仮想敵国」に設定して手を結ぶ中露のような動きにもなっていく。戦前の日本も日独伊三国同盟を結んでかえってアメリカを敵に回し、戦争のリスクを高めて行った。しかも、日本の場合、海軍はアメリカを、陸軍はソ連を仮想敵国とするというようにバラバラだったという笑えない状況だった(「なぜ必敗の戦争を始めたのか〜陸軍エリート将校反省会議〜」)。

 本当に目指すべきは地域の安定と平和であり、そのための友好関係の構築であるはずなのに、大事なことを見失い対立と応酬の悪循環にはまっていく。「自分ファースト」の政治家同士が熱くなって、両方が興奮状態に陥り、国民の方も怒りの沸点が低くなる。やがてその流れは加速して誰も止められなくなり、戦前で言えば、盧溝橋事件や満州事変のように、陰謀を巡らせて戦争への引き金を引く連中が暗躍するようになる。事態は次々とドミノ倒しのように進んで行く。歴史の教訓は、そうした変化は「あっという間」だということである。

◆安倍政権の6年8ヶ月。時計の針は戻せるか
 トランプはともかく、安倍が首相になって6年8ヶ月。もちろん今の日本が戦前と同じような道をたどっているとは言えないにしても、立ち止まってその変化を振り返ることは必要だと思う。安倍政権がこの6年間に強行採決してきた一連の国家主義的な法改定(特定秘密保護法、共謀罪、安保法)、防衛費の拡大、アベノミクスと言った明治以来の「富国強兵」路線がどこに向かうのか。この先の暴発につながらないのか、危惧する人々は多い(「幻影からの脱出」)。よく見れば、この間に社会の様相(国論)が一変していることにも気づく。

 例えばメディア。これまで何度も書いたように、メディアの政治報道は官邸の一連の締め付けで一変した。一家言を持っていたキャスター達が軒並み姿を消し、今や殆どのニュース番組のキャスターは(女性差別をするわけではないが)容姿優先のタレント的な女性アナに替わった。同時に、「朝日新聞は反日、韓国の肩を持つ反日日本人」といった(戦前の「日本新聞」を思わせるような)右翼雑誌の広告が、毎月デカデカと一般紙に載る時代になった。この雑誌には安倍自身や取り巻きたちが頻繁に登場する。こうした風潮が目立つようになったのも、「あっという間」の出来事である。

 以上のような急速な変化は、トランプなどの世界的な動きとも絡んでいるので、容易に止められないかもしれない。しかし一方で、世界平和、国際協調の理想がうち捨てられ、世界がきな臭い方向に向かっていることに危機感を抱き、時計の針を戻そうと声を上げている人々は、日本にも世界にも沢山いる。目の前の事象に流されずに理想を堅持し、利己的な政治家が作った状況にNOと言う。そうした人々の動きに与したいと思う。

政治家・山本太郎の可能性 19.8.18

 7月24日投開票の参院選挙が48.8%という低投票率に終わった理由について次のような見方がある。それは、日本の有権者の間で、支持政党を持たない「無党派層」の広がりが、今や政治そのものに関心がない「無関心層」の広がりに移行しているという見方である。確かに、東京ビッグサイトに8月9日からの4日間で73万人も集めた「コミックマーケット」に集まる若者たちの大群衆を見ていると、その「無関心層」の広がりを感じて、この人たちの投票率はどのくらいだったのかと余計な心配をしてしまう。

 政治への無関心の原因を作って来たのが、旧民主党の失政による政治離れと、その後の安倍政権による「1強多弱」の政治状況だという(8/2記者の目、毎日)。1強の安倍が質問にもまともに答えず、余裕を失って野党を口汚く攻撃するばかりの不毛な政治では、有権者もうんざりするしかない。その一方で、こうした無関心層や無党派層の関心を少しはかき立てたと思われるのが、結成3ヶ月で228万票(うち山本太郎は99万票)を得て、2人の議員(障がい者の木村英子、舩後靖彦)を誕生させた、山本太郎の「れいわ新撰組」だった。参院選挙で投票した無党派層の40%が「れいわ」に投票したという。

 それでも228万票は全有権者の2%に過ぎず、「れいわ新撰組」は、まだ山本の個人商店にすぎないという冷めた見方もある(政治学者:菅原琢)が、一方で、その政治主張、政治姿勢、候補者の顔ぶれなどは、しがらみばかりで閉塞した今の政治に風穴を開けるものとして期待する人も多い。2%の得票で政党要件を満たした「れいわ」は、選挙後には様々なメディアで取り上げられているが、それらの記事、熱気のうちに行われた「山本太郎の街頭記者会見」(8/1、新宿)、そして候補者の一人だった女装の東大教授、安富歩(あゆむ)の書いたもの(*末尾)などを手がかりに、政治家・山本太郎の意味するところを探ってみたい。

◆弱者に寄り添う政治姿勢、障がい者は安心社会のセンサー
 山本は選挙中、「中卒、高卒、非正規、無職、障がい、難病を抱える人々でも、将来に不安を抱えることなく暮らせる社会を作る」と、これまで分断され、政治から遠ざけられて来た社会的弱者の側に立つことを鮮明にした。特に、今回比例上位で当選した2人の障がい者議員については、「障がい者を国会に送って何が出来るのか」などと言う意見に対し、山本は「(国会をバリアフリー化するなど)彼らは既に仕事をしているではないですか」と反論。同じ「れいわ」から立候補した安富歩は、このバリアフリー化の意味についてこう言う(*1)。

 障がい者が安心して暮らせる社会を作ることは、健常者が安心して暮らせる社会を作ることでもあると安富は言う。障がい者は、特に健常者でも弱い立場の高齢者や子供が安心して暮らせるために、どこに危険が潜んでいるかを知らせて、改良する(フィードバックする)ための、「社会にとってのセンサー」の役割を果たしてくれると言う。同時に、それは弱者を排除しない寛容な(包摂的)社会を作ることにも通じる。社会的弱者を切り捨てない、むしろ底上げを図っていくとする山本の宣言は、生産性や効率を優先する政治、或いは貧困は自己責任だとする現体制への宣戦布告である。

◆国内消費を活性化させる「消費税廃止」の問題提起
 山本の政治的主張の一つが「消費税廃止」である。山本によれば、この20年以上国民がデフレで悩んできたのは消費税で国民の財布が小さくなったからだ。それをやめれば内需が拡大して景気は良くなり、税収も増えるという。消費税導入後の日本は、その言い訳のように高額所得者の税率を下げ、法人税を下げてきた。経済の主役を優遇して、彼らが使う金のおこぼれが社会全体を潤すという「トリクルダウン」の考えだった。しかし、企業は余剰金を内部に積み上げるだけで使わず、富裕層はますます金持ちになるばかりで、本来の消費の主役である国民中間層の財布はやせ細ってきた。これを元に戻すと言うのである。

 実は、消費税廃止は様々なエコノミストが唱えていることでもある。たとえば中前忠は、グローバリゼーションが反動期に入ったこれからの経済は、輸出に頼るよりは(地産地消的な)国内消費をより活発にするしかない。そのためにこそ、消費税を廃止すべきだとする(「家計ファーストの経済学」)。中前も山本も、消費税導入前の累進課税、法人税に戻せば、消費税をゼロにしても十分やっていけると言う。確かに、誰にも一律でかかる消費税は、富裕層に軽く、貧困層には重い税金だ。これをもとに戻せば社会の貧困層は潤い、消費はより活発になるというのも肯ける。

◆山本は「現代貨幣理論(MMT)」論者なのか?
 一方で、山本の立場は「緊縮財政反対」でもある。奨学金をチャラに、デフレ給付金を配る、最低賃金1500円を政府が面倒見る、公務員を増やす、といった政策(チラシから)は、要するに国家が面倒見る部分を増やす「大きな国」を目指すことである。この主張の背後に見え隠れするのが、今話題の経済学「現代貨幣理論(MMT)」。完全雇用が達成されるまで、或いはインフレ率が2%になるまでは、緊縮財政をとる必要はない。この位の財政赤字は心配する必要はないという説である。MMT理論は、現代経済学の主流からは異端視されている。

 YouTube上には、MMT論者(ステファニー・ケルトン)と三橋貴明の対談や、三橋と山本太郎の対談などもあるが、(経済に素人の)私などはいくら聞いても分からない。一方では、このMMT理論以外にも、日本の財政赤字は全く心配する必要はないとする高橋洋一などもいる(「日本復活へのシナリオ」)。安富は、現代の経済学理論そのものが破綻しているともいう(*3)。このように、経済・財政理論そのものが混乱している現在、消費税の廃止まではいいとして、山本には、その他の「大きな政府」論は、代わりの財源や、MMT説の是非を慎重に検証してからにしてほしいというのが、私の意見である。

◆しがらみを断ち切る無縁者の集まり
 自らを「永田町のはぐれ者」という山本は、常に今の時代の「生きづらさ」に触れ、「誰でも生きていける世の中を作ろう」と呼びかける。言い換えれば、がんじがらめの閉塞社会を打ち破ろうということであり、安富によれば(*2)、その賛同者たちは腐れ縁に囚われない「無縁者」の集まりである。同時に、それぞれが(障がい、LGBTなどの)様々な問題を抱える「当事者」でもある。しがらみを断ち切った「無縁者」でかつ「当事者」が、政治に風穴を開けて行く。山本が人々の支持を集めているのは、その風穴から空気が吹き込んでおり、息ができるようになったからだ、と安富(写真)は言う。 

 政治学者の水島治郎は、「れいわ」の主張は、欧米で広がる左派ポピュリズムの日本版と言うが、本来の意味でのポピュリズムは既存の政治が置き去りにしている人々の意向を汲む政治だとする。そして、障がい者議員を国会に送ってたちまちのうちに国会を包摂的な空間に変えた政治手法を見て、山本を政治の新しい作り手(イノベーター)と見る(「山本太郎という現象」朝日8/2)。山本が政治家に転身したきっかけは、福島原発事故だった。当然にそれは、戦争や原発事故のような失敗を犯しても反省せず、フィードバック(改良)がかからない、安倍たちがひた走る「富国強兵路線」に対する異議申し立てになる。

◆閉塞した永田町に風穴を開けられるか
 山本の直感に待つまでもなく、今の政治は本当に無反省にしがらみに囚われて暴走し、やがて爆発ようとしている。それへの危機感は、安富の本などにも詳しいところだ(*1)。山本は、次の衆院選挙では100人の候補者を立てて、今の政権を「仕留めに行く」というが、分断され政治から遠ざけられて来た国民多数、政治の無関心層の支持を集めて、閉塞した永田町に風穴を開けることが出来るだろうか。山本は、当面の目標を消費税5%において野党の賛同を得たいとしているが、次の衆院選挙に向けて野党共闘はうまく行くだろうか。期待しながら見守っていきたい。
*1)「幻影からの脱出」、*2「内側から見た“れいわ新撰組”」、*3)「生きるための経済学」

もしあなたが若者だったら 19.8.8

 日本列島が災害並みの猛暑に包まれている。ここ1週間(7/29〜8/4)に熱中症で救急搬送された人は1万8千人を超え、死者は57人に上る。先日、東北三大祭り(青森ねぶた、秋田竿燈、仙台七夕)ツアーに行ってきたが、東北も連日35度近い熱暑だった。20数年前に仙台で暮らした息子は、夏でも扇風機がいらないと言っていたが、昨日の仙台は35度を超えていた。考えてみれば私の子供の頃(茨城県日立市)は、夏に戸を開けて昼寝をしていると海から涼しい風が入ってきて、風邪をひかないように母親が夏布団を掛けてくれたものだ。僅か20年ほどで地球は急激に暑くなったわけである。

 ところで、この暑さを今の若者たちはどう思っているのだろうか。彼らは今、かつての日本には夏を過ごしやすくする様々な工夫があったことを想像するのも難しく、またこの先の地球がどれほど暑くなるかも分からない状態に置かれている。しかも、これから60年も70年もの間、この暑い地球とともに生きていかなければならない。そういう若者たちにとって、地球温暖化とはどのような不安なのだろうか。彼らは、いま温暖化問題に責任を負うべき大人たちをどのように見ているのだろうか。そして一方、仮に自分をそうした若者の立場においた時、何が見えてくるのだろうか。 

◆温暖化の進行に比べて、遅々として進まない対策
 以前にも書いた(*1)が、私たちが日本で最初に本格的に地球温暖化問題を番組で取り上げたのは、30年前だった(NHK特集「地球汚染」1989年3月)。その時は、今世紀半ばから今世紀末頃の想定として、熱波や巨大台風の頻発、大干ばつや海面上昇などを描いたのだが、地球温暖化は大方の科学者の予想を遙かに超えるスピードで進行している。しかもその対策となると、この30年、国や産業界のエゴがぶつかり合って遅々として進んでいないのが実態だ。

 2015年12月の「パリ協定」(COP21)では、今世紀末までに温室効果ガスの排出を実質ゼロにして、気温上昇を2度未満、出来れば1.5度に抑えたいと世界が辛うじて合意したが、トランプ大統領のアメリカがその合意から離脱。今年6月のG20(大阪)ではアメリカを別扱いにしてパリ協定の合意をようやく再確認するという状態だった。議長役をつとめた日本も熱心なヨーロッパに比べて一向に腰が定まらない。「残念ながら、今の日本に期待する声は全くない」状況である(加藤三郎・NPO法人環境文明21顧問)。 

 それもそのはず。政府は産業界の意向に押されて石炭火力を増やそうとして世界から非難されているし、企業に2酸化炭素の排出を強制的に抑制させる炭素税を課す動きもない。原子力をベース電源とするエネルギー政策に固執して、太陽光など再生可能エネルギーの普及にも及び腰だ(*2)。パリ協定を前倒しして、2050年までに温室効果ガスの排出ゼロを掲げるEUに対して、日米は国と行政、産業界の利権やエゴが絡み合って抜本的な手が打てない。未来に責任を負うべき大人たちが議論に時間を費やしている間に、待ったなしの温暖化が不気味に進行しているという図式である。

◆16歳の環境活動家グレタ・トゥーンベリ
 そんな状況に危機感を抱いて立ち上がったのが、スエーデンのグレタ・トゥーンベリ(16歳)である。15歳の時に、地球温暖化防止を訴えるために学校を休んで国会前に座り込む抗議行動、「気候のための学校ストライキ」を呼びかけ、それが世界に広がりつつある。今年3月には世界100カ国、数十万人が参加するまでになった。彼女はこれまで、世界の経済人が集まるダボス会議やCOP24でスピーチを行っているが、その内容は、若者が地球温暖化をどうとらえているか、大人たちをどう見ているかを如実に示している。彼女は「パニックになってほしい。私が毎日感じるような恐怖を感じてほしい」と訴える。

 「地球の気温上昇を1.5度未満に抑えるか、抑えないか。私たちが生き残るためにグレーの部分はない」(ダボス会議)。「もし政治家が気候変動に真剣に取り組んでいたら、税金やブレグジットなどに時間を費やしてはいないだろう」(欧州議会)。さらに、去年12月にポーランドで開かれたCOP24でも、彼女は政治家を前にして「あなた方は人気低落を恐れるあまり、環境に優しい恒久的な経済成長のことしか語りません。真実を語れない未熟な皆さんがその負担を子供に課しているのです。皆さんは、子供を何よりも愛していると言いつつ、子供の未来を奪っているのです」と、痛烈な大人批判を展開している(YouTube)。

 「2078年、私は75歳の誕生日を迎えます。もし子供がいれば、その日彼らは私に皆さんのことを尋ねるでしょう。手を尽くす時間が残っているうちになぜ何もしなかったのかと」。彼女は現在、9月に開かれる国連総会に出席するために彼女に賛同した支援者のヨットで2週間かけて大西洋を横断する計画を立てている。CO2を出す航空機に乗らない主義を貫くためという。このヨットもそうだが、学校のストライキに賛同して別な日に授業をしてくれる先生や彼女の行動に賛同する多くの大人たち(未来のための祖父母など)も現れているという。

◆地球の未来への関心より目の前のナショナリズム
 こうした活動は大人たちを動かせるか。EUヨーロッパでは、脱原発を決めたドイツが2038年までに石炭火力も全廃する方向だし、ベルギーを始めとして大幅な前倒し削減の計画もこれと無関係ではないだろう。ただし、トランプと連携したEUの極右は彼女の活動に批判的というから、大人というのはどこまでも罪深い。翻って日本はどうか。「もし政治家が気候変動に真剣に取り組んでいたら」というグレタの文脈に沿えば、「改憲などに時間を費やしてはいないだろう」となるが、今の安倍政権が彼女のような声に耳を貸すとは思えない。

 奇妙なことに日本では、地球温暖化問題に対する関心が総じて低い。温暖化を「とても心配している」と答えた割合は世界で78%なのに、日本は44%と極端に低い(2015年、国連事務局調査)。若者たちも「デモより勉強」という意見が多いという(国立環境研究所調査)。こうした傾向を見ると、大人のみならず今の日本の若者たちは、本当は直視しなければならない重要な問題から意図的に目をそらされているのではないかと勘ぐりたくなる。大事な問題(地球温暖化や格差と貧困など)の代わりに、今の日本では(日韓対立など)若者たちのナショナリズムを煽るテーマに事欠かないし、それを政治が利用している。

◆政治を変える主役は目覚めた若者たちに
 若者の多くは今、スマホからの断片情報で満足して殆ど本も新聞も読まずに、日々を刹那的に生きている。そのスマホには、反日、嫌韓といった情報があふれ、一方のメディアも視聴率のとれない現実直視の重いテーマは敬遠し、日々ワイドショー的な情報の垂れ流しに明け暮れる。こうした状況を見るにつけ、国の背骨が溶けていくような恐ろしさを感じるのは、私が年老いたせいだろうか。(私はもういないが)この先20年、30年後を考えると、地球温暖化の進行もさることながら、日本の将来はどうなるのだろうと思うことがある。

 今回の参院選挙の投票率は、史上2番目に低い48.8%だったが、18歳と19歳の投票率は31.3%と特に低かった。これは政権の思うつぼかもしれないが、しかし、これから一生、地球温暖化の現実に向き合って生きなければならないのは若者たちである。未来の子供たちに「手を尽くす時間が残っているうちになぜ何もしなかったのか」と問われる前に、やるべきことは沢山ある。残り少ない私もせめて「もし自分が若者であったら感じる筈の深刻な危機感」を若い人たちと共有して行きたいが、今の腐りきった政治を変える主役には、目覚めた若者たちこそなってほしいと思う。
*1)「人類の生き残りを賭けた挑戦」16.10.4
*2)政府は大規模太陽光や風力の固定買い取り制度を見直そうとしている。

独自性なき政治報道の行方 19.7.21

 21日投開票の参院選挙は、最終盤に来てもメディア報道は妙に低調なままである。NHKも民放も選挙報道は、各党の言い分を決まった長さで並べるだけで、突っ込んだ報道は皆無。新聞も選挙報道がトップに来ることが減り、国民も関心を持ちようがない。選挙関連のTVニュースになると、毎回一番始めに安倍の顔を見せられ、当たり障りのない現状追認型の報道ばかりで味も素っ気もない。有権者の方もそうした独自性のないニュースにげんなりしているに違いないが、その物足りなさに気づかないふりをして平然と繰り返すマスメディアの政治報道とはいったい何なのだろうか。

◆政治に興味を待たせない政治
 「女刺客だの“くノ一”」だのと大騒ぎした小泉の郵政選挙(2005年)のワイドショー的な選挙報道もいかがと思うが、今のように選挙がどこにあるのかといった状況もいいとは思わない。マスメディア(特にテレビ)の選挙報道については、2014年の衆院選挙の時に安倍自民党が各メディアに対して、以下のような申し入れ行っているが、その薬がよほど効いているのだろう。
・「出演者の発言回数や時間などは公平を期す」
・「ゲスト出演者などの選定についても公平中立、公正を期す」
・「テーマについて特定政党出演者への意見の集中などがないようにする」
・「街頭インタビュー、資料映像などでも一方的な意見に偏らない」

 こうした申し入れに対して、民放の労働組合は編集権への介入だと抗議したが、現状を見る限り、既に不文律のようになっているのだろう。数量公平と言って、NHKなども機械的に秒単位で報道時間の長さを決めているという。国の将来を決める大事な選挙にもかかわらずメディアが萎縮し、その結果、論戦も低調、投票率も低くなる。以前は結構、話題の候補者を追いかけたり、激戦区をリポートしたりしたものだが、最近の消極的な風潮にマインドコントロールされ、危機感さえ持たなくなってしまったのは、安倍政権が申し入れを行ったここ5年ほどのことである。

◆政治に幻滅と諦めを植え付ける
 政治がメディアに介入し、形式的な政治報道を強要する。その結果、国民、特に若い世代に政治に対する興味を失わせることには、実は民主主義にとって警戒すべき、ある意図が隠されている。次回のアメリカ大統領選挙でも民主党の代表候補の一人として手を上げているバーニー・サンダースは、自伝の中で既成政党の選挙戦術についてこう書いている。既成政党、特に共和党は選挙になると(一時的にタカ派的な印象を薄める)様々な「目くらまし」を行う一方で、労働者と貧困層の対立を煽るようなテーマを掲げて国民を分断し、人々の間に「今の腐りきった政治はどうせ変わらない」という幻滅や失望感や諦めを植え付け、投票率を下げようとする。そして、自分たちの強固な支持層に乗って権力を維持していくというのだ(「サンダースが戦ったアメリカ」18.7.26)。

 この辺のことは、今の自民党も良く研究していて、今回の参院選挙では、消費税増税問題、イージスアショア問題、非正規雇用問題、国の借金を増やすばかりのアベノミクス、年金2000万円問題など、政権にマイナスになりそうなテーマが山積しているにも関わらず、それに触れられないように巧妙に「目くらまし」を用いている。それが「改憲」である。実は、改憲派の中でも内実はバラバラなのに、もっぱら「憲法改正を議論するのか、しないか」と野党に迫って、野党の分断を図り、自分たちに有利な「ワンテーマ選挙」に持ち込もうとしている。若者層は、そうした(自分たちに無関係な)虚構のテーマに興味が持てず、政治離れが一層進むという仕組みだ。

◆課題設定機能を忘れたマスメディアの政治報道
 一方のメディアもまんまとその戦術に乗せられ、「改憲勢力の3分の2を超えるかどうか」ばかりを報道する。そうしたワンテーマ選挙戦術にはまって、メディアが自立的な役割を果せなかったことは、過去にもあった。郵政民営化をテーマにした小泉郵政選挙である。この時のメディアは、小泉が仕掛けた劇場型選挙に踊らされ、本来の役割をすっかり忘れてしまった。このことに対する不満から書いたのが、国民が選挙の際に考慮すべき課題を、メディアが独自に提案したらどうかということだった(「政権選択は政策の総合評価で」2005.9.5)。

 国の将来を決める国政選挙に関しては、国民(メディア)の方から政治課題を設定して、投票先を決めるのに役立てるというアイデアである。専門家を動員して政治、経済、福祉、外交、防衛などの各分野から政治課題を選び、それに対する政党の考えを引き出し、それを広く国民に開示する。国民はそれを総合的に判断して投票先を選ぶ。この課題設定の手伝いが出来るのは、マスメディアしかない筈だ。いわゆるメディアの課題(アジェンダ)設定機能だが、多くはそんな役割を忘れたように、政権が仕掛けたワンテーマに振り回され、「独自性なき政治報道」に甘んじている。 

 貧困層や若者層が政治に対する関心を失い、投票率が下がる。その結果、何が起こるのかをネットで大胆不敵に指摘しているのが、「せやろがいおじさん」という芸人(『「若者の政治離れ」と言っている人に一言』5分)。若者が選挙に行かなければ、結果として政治は若者層を無視し、支持層の高齢者や経営者に迎合して将来に責任を持たなくなる。これは「若者の政治離れ」というよりは「政治の若者離れ」だ、というごくまっとうな主張である。良く探せばネットの方にこそ、活気ある主張があふれつつある時代、マスメディアの政治記者たちはどう考えているのだろうか。

◆マスメディアに黙殺される山本太郎
 その意味で今、マスメディアに“黙殺”されながらネット上で話題になっているのが、ご存じ「れいわ新撰組」。党首、山本太郎の各地での演説は、今やネットで何十万というアクセスを誇っている。小倉駅で行われた演説を見ると、(私もその一人だが)今の政治に飽き足らない人々が山本太郎を応援しようという気持ちがよく分かる。しかし、ネット上でフィーバーを巻き起こしているとは言え、既存メディアの無視は徹底したもので、NHKを始めとしてマスメディアが取り上げないために、国民の多くは何が起きているか知り得ない状況になっている。 

 しかも、既存メディアが無視しているために、そのフィーバーがどの位の議席数に結びつくのか、といった今最も知りたい情報も容易に探せない。今のところ唯一見つかる世論調査では1.1%の人が「れいわ新撰組」に投票すると答えているらしいが(東京新聞7/14)、これが議席数につながるのかどうか。そうした情報も得られないまま、熱い期待を寄せている若者層が、選挙の意外な結果にがっかりして、一層無力感に囚われる恐れもある。選挙の重要情報が殆ど得られない現状は、言論の自由を標榜する民主主義国家において異常な事態といえる。

◆オールドメディアになったマスメディアの役割
 ここまで既存メディアの政治報道の物足りなさについて書いてきたが、もちろん、ネット上にあふれる情報の方も玉石混淆。石というより悪意あるフェイクな情報の方が多いかもしれない。しかし今や、若者層で新聞を読む人は珍しく、テレビよりもスマホで情報を得る時代になっている。ネット上に情報があふれる時代に、オールドメディアになったマスメディアはいかに存在感を失わずに生き残っていくのか。政治報道は、特にシビアさを要求される世界ではあるが、既存のメディアは自立性や独自性を忘れずに果敢に挑戦して行ってほしい。

長期一強支配の弊害を問う 19.7.11

新聞などの情勢分析を見ると、7月21日投開票の参院選挙の大勢はすでに決した感があって、(温度差はあるが)改憲容認の自民、公明、維新を合わせると改憲ラインの3分の2の88議席を超える勢いだそうだ。野党が仕掛けた年金2000万円問題や消費税増税凍結も空回りで、改憲を議論するのかしないのかという安倍の仕掛けの前に勢いを失いつつある。メディアも改憲派がどうかという関心ばかりを取り上げて、他の争点隠しに一役買っている。しかし、国民がどのような選択をするにせよ、私たちが選ぶ政治がこの先どこに向かうのかは、(その怖さも含めて)しっかり見ておかなければならない。

 何故なら、今回の選挙は政治の劣化と腐敗が一段と進むのか、少しは歯止めがかかるのかの分岐点になると思われるからだ。一強状態が長引くにつれ、安倍政権はたがが外れたようにやりたい放題になって来ている。まさに「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」(英国の歴史家ジョン・アクトン)を地で行く感じ。様々な不祥事が起きるたびに、呆れたり憤ったりして来た国民も、アメリカのトランプと同じでいつの間に慣れてしまい、気がつけばとんでもないことになっている。野党はこの長期政権の弊害を取り上げ、国民に訴えることができるのか。選挙を機に、安倍政治の劣化と腐敗をまとめてみたい。 

◆安倍内閣の闇を想像させる映画
 安倍政治の腐敗ぶりを思い起こさせる今話題の映画がある。以前に「菅を追い詰めた女性記者」(17.6.21)でも取り上げた東京新聞の女性記者、望月衣塑子の著書「新聞記者」を原案にした同名の映画で、「サスペンスエンターテイメント」として大変良く出来ている。監督(藤井道人)が優秀なのだろう。シナリオもカメラワークも編集も日本映画にしては珍しく的確で、楽しめる作品に仕上がっていた。この映画は大学設置を巡って政権に忠誠を誓わされる官僚たちの葛藤や、政府にたてつく人物をスキャンダルで追い落とす内閣調査室など、今の危うい政治状況もうまく取り込んでいる。

 首相のお友達が経営する(疑惑の)医学系大学の特区認可を巡って利権や謀略が渦巻く話だが、自ずと加計学園を香川県特区で復活させるのに暗躍した官邸官僚の面々や、それを批判して出会い系バーに出入りしていたことをマスコミに流された前川喜平・元文科省事務次官を思い起こさせる。さらには、女性に睡眠薬を飲ませてレイプした(首相とお友達の)政治記者が逮捕直前に上層部の意向で逃れる話も出てくる。いずれも記憶に新しい安倍政権の闇の部分である。

◆権力にすり寄る官僚で固めた官邸支配
 映画はともかく、実際に首相夫人案件や首相案件として特別に認可優遇された森友・加計学園問題では官邸官僚が暗躍し、権力に怯える官僚たちの忖度が横行した。文書の書き換え問題では「あることをないこと」にさせられた現場官僚が自殺にまで追い込まれている。これらの事案も結局、うやむやに終わろうとしているが、それを可能にしたのは安倍政権がこの6年半の間に作り上げた強固な官僚支配にある。その力の中心は、政治主導の強化をめざして2014年から始まった「内閣人事局」であり、これを使って中央省庁の部長級以上680人の人事権を官邸が握り、意のままに官僚を支配するようになったからである。

 菅官房長官が、異論を差し挟む幹部たちを左遷させたり、政権にすり寄る官僚を昇進させたりして睨みを効かせる一方で、(前川元事務次官:写真の場合のように)内閣情報室が政権にたてつく人々の個人情報にまで監視の目を光らせ、いざという時に闇の力を発揮する。また、官邸と内閣府には首相を補佐する大勢の官僚が集められ、権力をかさに着て様々な案件を首相の都合のいいように処理し、行政をねじ曲げている(官邸権力を問う、毎日7/8)。これが長期にわたる“安定政権”の姿とすれば、そこから腐臭が立ち上ってくるのも当然というものだ。

◆議論を封じて国会を空洞化
 そうした権力集中の“安定政権”が必然的にもたらしたのは、かつてない国会の空洞化である。面倒な質問にはまともに答えない。はぐらかしと論理のすり替えが首相の性癖となった。安保法や共謀罪など国の将来に関わる重要法案はもちろん、働き方改革、カジノ実施法、移民受け入れなど問題の根が深い法案も、およそ議論が深まらないまま強行採決に持ち込み、「国民に考える情報や時間を与えない」(自民ベテラン議員)。あるいは、森友・加計学園問題、自衛隊の日報書き換え、毎月勤労統計のミス、年金2000万円問題など不都合な案件の議論から出来るだけ逃げようとする。

 驚くべきことに、今年1月28日に始まった通常国会150日の間、政府は4月以降全く審議に応じず、117日間も予算委員会を開かなかった。今国会が始まる前、与野党国会対策委員長は「国権の最高機関として議論を尽くし、行政監視機能を果たす」という合意を取り交わしたが、政府はこれを平気で無視し逃げまくった。不祥事だけでなく、政府にはアメリカからの高額武器の購入問題、対韓国外交、北朝鮮問題、北方領土問題などで説明すべき案件が沢山あった筈だが、議論を封じ込んだ。このかつてない国会の無力化と空洞化こそ、長期政権の弊害がもたらした姿である。

◆政敵への露骨な攻撃と「支持者ファースト」の分断政治
 議論にまともに答えない一方で、首相は野党攻撃には余念がない。自分を棚に上げて、「(改憲の)議論にまともに答えない野党」などと批判し、返す刀で7年前の民主党時代を「悪夢」と言って嘲笑する。稲田朋美、森雅子など安倍のお気に入りの女性議員たちも、その先兵となって野党を口汚くののしるようになった。参院本会議での首相問責決議で、三原じゅん子も「野党の皆さん、恥を知りなさい」などと叫ぶ下品さ。安倍もその取り巻きも一強状態に酔って、かつての政治家の美質であった寛容さや謙虚さ、相手への敬意をすっかり見失っている。

 「民主主義は異質なものを認めなくなったら壊れていき、国家のバイタリティーもなくなる」(大島衆院議長)というまっとうな意見もあるが、今の安倍政権は異質なものを排除し、国民を支持層と批判層とに分断しようとしている。政権維持を最優先して、改憲や韓国嫌いの主張など国家主義的な支持層が喜びそうな政策をアピールするが、それは幅広い国民政党を目指すというより、分断をあおる「支持者ファーストの政治」と言うべきものだ。今度の韓国への輸出規制もそうした選挙目当ての臭いが強く、安倍は選挙に勝つためには何でもありの、まるでトランプのような政治家になりつつある。

◆このまま続くくのか、歯止めはかかるのか
 安倍政権は、内閣広報室に若手官僚や民間からの出向者を集めて、(税金で)SNSを使って政権のイメージアップにも力を入れている。安倍への支持率が高い若者層を取り込む作戦だが、その周辺には映画「新聞記者」に出てきたように、(外部の勢力を動員して)ネットを使って内部告発者や批判者を様々なフェイクニュースで攻撃するダークな部分も含まれているのではないか(映画では、その役割を内閣情報室が担っていた)。それと同時に、政権はテレビ、新聞など既存のメディアに対しても、敵味方の分断支配を進めてきた。

 この6年半、政権寄りのメディアには頻繁に露出しながら、政権に批判的なニュースキャスターやニュース番組に対しては露骨に介入してきた。そのせいでNHKを始めとして各局のニュース報道番組は一変した感がある。以上、一強支配を長期に続けてきた安倍政権による政治の劣化と腐敗を列挙して来たが、冒頭に書いたように、今回の参院選挙は、この状況をずるずる続けるのか、あるいは少しでも歯止めをかけられるのかを問う選挙でもある。日本の政治はその分岐点にある。その意味で野党には、個々の政策よりも「長期一強支配の弊害」をこそ国民に問いかけてもらいたいのだが。

年金、2千万円問題の裏側 19.6.23

 国会も土壇場になって、平均的な65歳と60歳の夫婦がこれから30年、公的年金だけで生活した場合2000万円が不足するという、金融庁の報告書の扱いを巡って国民の不信が高まっている。最初は、「今のうちから(財産形成を)考えておかないといけない」と報告書の意義を述べていた麻生財務相だったが、「2000万円などはとても無理だ。100年安心と言っていたのに何だ!」という国民の(誤解も含めた)反発を受けると、一転して「政府の方針と違うので」と報告書の受け取りを拒否。政府も閣議で報告書そのものをなかったものと決め、議論を封じる作戦に出た。

 閣議決定を盾に、「報告書を前提にしたお尋ねについてお答えすることは差し控えたい」などという、国民を馬鹿にした姑息な態度が不信を招き、最近の世論調査(FNN)では、麻生の受け取り拒否を不適とした回答は72.4%、年金制度に不信感が増したという回答は51%に上っている。支持率でも安倍内閣(3.4%減)、自民党(5.1%減)、参院での自民投票先(8.5%減)と、軒並み数字を落としている。いくら平均的なデータに過ぎないと言い張っても、現実は現実である。何が政府の方針と違うのか丁寧に説明すればいいものを、選挙に影響するからと不都合な現実を隠す、その政治姿勢に国民は怒っている。

◆30年間の不足2000万円の根拠
 一体、2000万円赤字問題の裏側には何があるのか。そもそも年金問題は複雑で、(私もその一人だが)正確に答えられない人の方が多いのではないか。そこで何が問題なのか、今回の報道を契機に少し調べてみた。日本の公的年金は国民年金(国民全体)と厚生年金(サラリーマンの年金)の二本立てになっているが、特徴的なのは「仕送り方式」と言って現役世代から徴収する保険料を今の高齢者の年金に当てる仕組みである。現役世代は今の高齢者を支える代わりに、将来の現役世代から年金を“仕送りして貰う”という順送りの制度になっている。 

 受け取る額は幾らかというと、国民年金はほぼ一律(平均月額5.5万円)だが、厚生年金はそれぞれの現役時代の給与によって変わってくる。大体、「現役時代の40年間に払った保険料と、老後の20年間に受け取る額がほぼ同じ」というから、その人が毎年納めている平均的な保険料の2倍が受取額になる。保険料は給与のおよそ2割だから、年金の方は平均月給の4割くらいと考えればいい。以上2つの公的年金を合わせると月額平均で21万円になり、今の高齢者(2人世帯)の平均支出26万円と比べると毎月5万円不足する。これが30年で計2000万円になるので、投資で資産形成に励めというのが金融庁の報告書だった。

◆平均では見えない年金格差、貯蓄額の格差
 しかし、一口に月額21万円と言っても年金受給者全体の平均値だから、21万円より多い人もいれば、「えっ、そんなに貰う人もいるのか!」と思う人もいる筈だ。現役時代の平均給料が月額20万円なら厚生年金は4割の月額8万円だし、月額40万円の人は倍の16万円になる。しかし、年収200万円未満の非正規社員が1600万人もいる現状からすれば、多くの人は将来の受取額が月額7万に満たず、国民年金と合わせても夫婦で20万円に届かない。これが一人暮らしとなると、月額13万円にしかならない。数から言えば多くは平均以下で、21万円以上は全体でも少数派になる筈だ。

 加えて、今の日本ではサラリーマン経験のない自営業など国民年金しか受け取れない人々がかなりの数(正確なところが分からないが、およそ1500万人)に上る。この人たちは、月額平均5.5万円(夫婦で11万)の年金になる。これでは一月の赤字が到底5万円では納まらない。しかも、ある保険会社(PGF)が今年60歳になる男女2000人を調査した結果、貯蓄額(配偶者がいる場合は2人分)の平均は約3000万円だが、その内訳を見ると、老後の生活が比較的安心な貯蓄額5000万円以上の割合は全体の15%しかいない一方で、100万円未満の割合が25%、1000万円未満も54%に上る。2000万円以下になると全体の67%になる。

 年金が少なく、30年の赤字が2000万円を遙かに超えそうな人々が多い現実。加えて貯蓄額の平均値を引き上げる少数の富裕層がいる一方で、国民の半数以上が2000万円など遠い夢という現実がある。こうした格差があるにもかかわらず、いきなり上から目線で「2000万円の赤字だから財形を」と言われても、国民の多くは「馬鹿にするな」ということになる。しかも、政府は2004年に改定された年金制度をもとに支給額の見直しを続けて来て、安倍首相も「年金(制度)は100年安心」などと宣伝してきた。ここに、年金制度への誤解も相まって国民の不信感が一気に高まったわけである。

◆誤解を振りまいた政府の「年金は100年安心」 
 政府が「100年安心」と謳った年金制度改革とはどんなものだったのか。それは一言で言えば、少子高齢化が進む中で仕送りする側の現役世代の負担がどんどん増えてしまうのに歯止めを掛け、制度を維持するためのものだ。そこでは高齢者の受け取る年金を、将来にわたって現役世代の給与の50%(現在は約60%)は補償しようと限度を設けた。加えて、状況の変化(現役世代の減少や平均余命の伸びなど)に応じて支給額を見直す(マクロ経済スライド)とした。これによって制度の維持そのものは可能として「100年安心」と言ったのだろうが、多くの人は100年安心して年金に頼れると受け取ったわけである。

 「100年安心」と言えば、「年金生活が安心」と受け取るのが普通だが、政治は敢えてその美しい誤解をふりまいて来たとも言える。本来は、年金は老後生活の柱ではあるが、全てをまかなえるわけではないときちんと伝えるべきだった。しかも、その額は状況に応じて徐々に減っていく。今回はたまたま「2000万円足りない」という、金融庁の報告書があったお陰で多くの人がぬるま湯的なイメージの中にいたことに気づいたわけだが、それも考えてみると、多くの国民にとって現実は、報告書などより遙かに厳しいことに気づくのである。

◆厳しい現実に蓋をして、幻影に浸る政治家と官僚
 野党の方もその誤解(建て前)をもとに盛んに政府を責め立てるが、攻め方のピントがずれていて、選挙目当ての印象がぬぐえない。問題は、国民の半数以上が十分な貯蓄もなく年金だけでは暮らせない現実に直面していることである。しかも、これから貯蓄を促されても老後などを考える余裕のない非正規雇用者の割合は、歯止めなく増加している。現在、非正規雇用者は全体の38%にまで増え、その74%は年収200万円以下で暮らしている。こうした人々に老後が心配だから、今から投資して2000万円を貯めろと呼びかける非現実性に、役所も政治も気づいていない。

 今、かつかつに生活している多くの人々が高齢になった時に、日本社会はどうなるのか。年金制度は生き残ったとしても生活破綻する高齢者が大量に出現することになる。しかも、その現実はすぐ近くまで迫っている。これをどうするのか、どういう対策を立てるのか。年金問題の核心は格差問題にあるのに、金融庁の報告書は年金政策と称して、平均以上の人々に目をつけ投資を勧める脳天気さだ。これは相当意図的なもので、審議会のメンバーを見ると、そこには金融証券会社や投資コンサルタントのメンバーが名を連ねていることから分かるように、隠れているのは「国民の間に眠っている資金を市場に回す」という思惑である。

 この低成長時代に、個人のお金をリスクのある投資に引きずり込むことの胡散臭さもさることながら、こういうメンバーには、上に書いたような厳しい現実に直面する多数派の人々の苦悩は、全く頭に浮かばなかったのだろう。年金問題に疎かった私だが、こうして「年金生活2000万円赤字問題」の裏側を覗いてみると、政治家も官僚も(そして国民の多くも)目の前の現実から目をそらし、かつての豊かさの幻影に浸っている索漠とした風景が広がっていることに気づく。

果てしなき軍拡競争の誘惑 19.6.11

 衆参同日選挙に持ち込むかどうかで浮き足立っている国会だが、取りあえず通常国会の期限はあと僅か。6月26日に迫っている。1月28日から150日間、この国会で何が議論されたのかは、もう殆ど記憶にないくらいスカスカの国会だった。毎月勤労統計の偽装などもいつの間にかうやむやになり、続いて議員の様々な失言、暴言、スキャンダルが話題になる中で、いつの間にか101兆4564億円という過去最大規模の2019年度予算が国会を通過し、同時に、これも5年連続で増加中の防衛費5兆2574億円(過去最大)も通過した。

◆過去最大の国家予算と防衛費。実質的な審議は行われたのか
 今年の予算が閣議決定された直後の去年12月の新聞社説は、初めて100兆円の大台を超えた国家予算について「不安が募る過去最大」、「借金漬けでも野放図とは」、「財務相バラマキのむ」などと批判していた。また、これに伴う国債残高(国の借金)が897兆円に達することに対しても、「借金漬け財政常態化」、「財政再建論議 首相は逃げ続けるのか」と書き、借金が将来世代への重荷になるとして、これを「財政的幼児虐待」(米国の経済学者)と紹介するコラムもあった。

 5兆2574億円に膨らんだ防衛費とその根拠になった防衛計画(大綱)については、「米兵器購入の重いツケ」、「専守防衛逸脱に懸念」、「軍事への傾斜、一線越えた」などという見だしが踊っていたが、国会で十分議論されたのだろうか。ネットで政府の予算案を見ても天文学的な数字ともっともらしい説明が並んでいるばかりで、一般人にはさっぱりだ。しかし、国民の代表機関の国会でも十分な議論がないなら、膨大な赤字を抱える国の将来はどうなるのか。今回は特に、増え続ける防衛費について調べた懸念すべき実体について書いてみたい。

◆アメリカ兵器購入に邁進する安倍政権
 今年の防衛費の特徴は幾つかある。一つはミサイル迎撃システムのイージスアショア(2基分、1757億円)や、F35戦闘機(2019年度は6機681億)など、アメリカから巨額の兵器を購入するための予算。二つ目は、有事にF35B戦闘機を離着陸させるために、戦艦「いずも」を空母として整備するための予算。そして、安倍政権が5年振りに改定した防衛計画によって、防衛の範囲を宇宙やサイバー攻撃にまで広げる「多次元統合防衛力」構想だ。以上は、それぞれ日本の防衛力の根幹に触れる重要な問題を含んでいる。

 アメリカから購入するイージスアショアやF35戦闘機は、アメリカの言うFMS(Foreign Military Sales)という枠組みでの購入である。直訳すれば「海外兵器販売」だが、政府は例によってこれを「対外有償軍事援助」などと言い換えている。問題はその性格だ。それぞれに巨額な購入になるが、その価格はアメリカの「言い値」という条件になっている。おまけに最新技術の流出を避けるために、機密性の高い維持整備作業もアメリカ企業が行うとしており、その経費も彼らの言うままになる。例えば、イージスアショア2基の維持整備費は20年〜30年で5千億円を超える。

 また、レーダーに映りにくい(ステルス性の高い)F35戦闘機は1機140億円。将来的にはこれを増やして147機体制にするので、この購入に今後1兆2千億円かかる。アメリカから購入するこうした兵器全体の維持整備費は2兆7千億円と見込まれている。こうした巨額の費用は単年度では払いきれずに、何年かの分割払いになるが、この「兵器ローンの残高」(後年度負担)は、安倍政権の6年間で2兆1300億円も増えて、今や5兆3600億円と年間防衛費に匹敵する額にまで膨らんでいる。防衛費も同じような借金依存の体質になりつつある。

◆アメリカのご機嫌取りの軍拡が招く警戒心
 安倍政権は、トランプのご機嫌を取るためにFMSによる購入を今年度一気に7千億円(政権発足時は1400億円)にまで増やしたが、こうした官邸主導の軍備拡大が日本の防衛を歪んだものにしているという指摘もある。例えば、護衛艦「いずも」を改造して「空母化」する計画などは、購入する(短距離離陸と垂直着陸ができる)F35B戦闘機を活用するために考え出されたものであり、必要性の検証が不十分と指摘されている。しかも、海上に戦闘機基地を設ける空母化は、専守防衛を逸脱するとの批判を生んだ。

 政府は、F35Bの展開は有事に限るので空母ではないなどと言い逃れたが、「日本は自国を守るために必要なものが何かを包括的・体系的に評価しないままハードウェア(兵器)を購入している」(米国軍事専門家)との厳しい指摘もある(「戦略なき軍拡」、世界3月号)。いかにも日米の一体化に走る安倍政権が陥りそうな「歪み」である。同時に、この「いずも」空母化の背景には、憲法9条で国是としてきた「専守防衛」では国を守れない、むしろ「やられるまえにやる」という敵基地先制攻撃に傾く安倍政権の安保思想が見え隠れしている。

 安倍は、去年2月の国会答弁で専守防衛は堅持するとした上で、「(専守防衛は)防衛戦略として考えれば大変厳しい。相手の攻撃を甘受し、国土が戦場になりかねないものだ。先に攻撃した方が圧倒的に有利だ」と述べた。軍事大国を目指す中国や核保有国の北朝鮮を念頭においているのだろうが、日本の軍拡と合わせて、安倍政権によるこうしたきな臭い発言が周辺国に緊張を生んでいる。中国軍幹部も、「(日本の防衛計画は)全部、わが国に対抗するための兵器じゃないか」と言っており、互いの不信と警戒心がアジアでの軍拡競争をさらに激しくし、緊張を高めている側面は否定できない。 

◆防衛計画を国民が判断するポイントとは
 さらに、今次防衛計画(大綱)では、「多次元統合防衛力」として、宇宙領域専門部隊の創設、宇宙状況監視システムの整備、サイバー防衛隊の整備などを上げ、今後5年間の防衛費を25兆5千億円と見積もる。膨大な借金を抱える日本にそれだけの防衛力を維持する能力はあるのだろうか。戦後の日本は、戦争放棄を謳う憲法のもとで、節度ある軍備で国を守ろうとしてきたが、その日本が互いの不信感から、なし崩し的に軍拡競争の誘惑に駆られるのをどう見たらいいのか。せめて、国民が防衛力を判断する時の議論のポイントだけでも絞れないものか。 

 そのポイントを幾つか上げるならば、一つは、それが専守防衛を逸脱していないか、ということである。戦後の日本が守ってきた一線を越えようとしているのかどうか、というポイントである。二つ目は、今の日本を取り巻く安全保障環境の厳密な評価である。安倍政権は軍拡の理由として、常に中国や北朝鮮の脅威と言った安全保障環境の変化を上げるが、果たしてそれは正確なのか。軍拡の意図で誇張されていないか、ということである。三つ目は、戦争を避ける外交力をどう評価し、防衛計画にどう反映しているかである。

◆果てしない軍拡競争の誘惑に落ち込まずに
 国連の事務総長グテーレスは去年の5月に発表した軍縮アジェンダで「高まった緊張や危険は、真剣な政治的対話や交渉によってのみ解決できる。兵器の増強では決して解決できない」と述べている。当然の指摘で、核につながる戦争の悲惨さを考えれば、今どき本気で戦争の可能性を考えるのは狂気の沙汰でしかない。この点で、安倍政権は、戦後日本の国是となっている「戦争だけはしてはいけない」という固い決意を持って、緊張を緩和する外交努力に本気で取り組んでいるのか、ということである。

 今、アジアの国々は日本を含めて、相互不信から不毛な軍拡競争のスパイラルに落ち込もうとしている。戦争を避けるためには、どこかで立ち止まらなければならないわけだが、事態の急速な変化と立ち止まるタイミングは、私たち素人にはなかなか判断が出来ない。それを分かりやすく丁寧に説明し、その上で、法体系も含めて国民の理解を得ていくことが民主主義国家日本の防衛力のあり方だろう。その意味でも今の国会や政治家は責任を十分果たしていると言えるだろうか。

しつこく諦めずに脱原発を 19.5.28

 少し前のことになるが、今年1月の科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)の研究会では、脱原発について議論した。テーマは「脱原発で脱炭素できるのか」。進行する地球温暖化に対して、原発をCO2削減策(脱炭素)の一つとして位置づけるべきかどうかである。最初に、横山裕道氏(元毎日新聞論説委員)が、顕著になった地球温暖化の影響、原子力発電によるCO2削減効果、原発大国を目指す中国やインドなどの動き、原発の安全性と核のゴミについての不安、経済優位性がなくなった原発、そして世界の再生可能エネルギーの急速な進展など、最近の状況を報告した後、質疑に移った。

 確かに原子力はCO2を出さない。ただし、どの程度効果があるのかは様々なデータがあって正直よく分からない。横山氏の報告では、100万kw級原発がフル稼働した場合、1年間に日本の温室効果ガスを0.5%削減する、といった数字も紹介されたが、これをどう評価すべきなのか。一方では、福島原発事故後、原発が殆ど稼働してないのに、(太陽光発電の普及や省エネによって)日本ではCO2排出量はあまり増えていない、という指摘もある。現在日本で稼働している原発は僅か9基である。全原発のフル稼働などあり得ない中で、僅かなCO2削減効果を理由に再稼働を云々するのは、現実的と言えるだろうか。

◆自然エネルギーの普及を阻害する原発
 しかし、ジャーナリストの中にはCO2削減のためには原発再稼働もやむを得ないと言う人もいて、意外だった。その時私が言ったのは、CO2削減を理由に原発を動かして、また事故が起きたらどうするのか。福島の事故で手一杯の日本で、一つでも事故が起きれば日本は破滅する。温暖化などより直接的でもっと悲惨な結果を招くということである。さらには使用済み核燃料などの危険な厄介物を、遠い未来世代にまで残す。加えて指摘したのは、原発はCO2削減の主軸であるべき自然エネルギーの普及を阻害する、ということである。 

 それは、原発を抱える電力会社が陰に陽に、自然エネルギーを閉め出そうとしている現状を見れば分かる。例えば、九州電力は現在4基の原発(写真:川内原発)を稼働させているが、天気が良くて電力が余りそうになると、原発は発電量を調節しにくいという理由で、民間の太陽光発電の送電回路を閉じてしまう。脱炭素の主軸は再生可能エネルギーと省エネ、そして石炭からCO2のより少ない天然ガスへの切り替えに求めるべきで、研究会のテーマに即して言えば「脱原発も脱炭素も同時に」なのに、原発はその自然エネルギーの前に壁となって立ちふさがっている。

◆八方塞がりの中で目立つ原子力ムラの悪あがき
 その一方で、政府、官僚、電力業界(いわゆる原子力ムラ)は一体となって、温暖化対策のためにも原発を維持すべきだと必死に巻き返しを図っている。日本は地球温暖化対策として、「2050年までに温室効果ガスを(1990年比で)80%削減する」という目標を掲げているが、4月に入って明らかになった政府案では、前回は影が薄かった原発や石炭火力が、いつの間にか復活。これからも原発に頼っていく方針を明確にし、石炭火力も使い続けるという、産業界の意向を強く反映した内容になった。(「理解得られぬ密室調整」朝日社説、4/27)。

 経団連(中西宏明会長、日立会長)が同時期にまとめた提言でも、脱炭素を目指す上で原発を「不可欠なエネルギー源」と位置づけ、運転期間の大幅な延長の検討や新増設を進めることを政府に求めている。昨年7月の「エネルギー基本計画」でも政府は産業界の意向に押し切られる形で、原発を重要なベースロード(基幹)電源と位置づけ、2030年度の原子力の割合を20〜22%(原発30基程度の稼働)と据え置いたが、いつまで、このもたれ合いの構図を続けて行くのだろうか。日本の原発事情を俯瞰すれば、原発がいよいよ出口のない“八方塞がり状態”に陥っているのは明らかなのに。

 日立が進めていたイギリスへの原発輸出も3000億の損失を出して頓挫し、政府がアベノミクスの柱として主導して来た原発輸出は「総崩れ状態」だ(毎日特集、1/21)。3月には経産省が、原発の脱炭素効果(ゼロエミッション)を理由に原発の電力料金を支援する案が伝わって、「原発は安い筈ではなかったのか」といった批判も起きた。原発は儲からない、ビジネス的に成り立たない、という現実が露わになってきた中で、原子力ムラの悪あがきが目立っている。そして、福島事故後8年経っても原発は軌道に乗らず、莫大な維持費だけが無駄に費やされる状況が続く。 

◆原発にこだわって世界に遅れる日本
 追い打ちを掛けたのが、テロ対策の遅れである。原発のテロ対策施設の建設は、再稼働へ向けた審査終了後5年以内と決められているのに、国内原発のどこもこれに間に合わない。電力会社は甘く見ていたようだが、原子力規制委員会は期限延長を認めない方針を固めた。当然の措置である。しかしそうすると、今動いている9基の原発も2020年以降には順次停止に追い込まれて、日本は再び原発ゼロになる。こんな覚束ないエネルギーに、待ったなしの地球温暖化対策を担わせようとする国や産業界の手前勝手な理屈と無責任さには呆れる。 

 国民が原発維持の無駄金を負担しているうちに、世界では既に「様々な電源の中で最も信頼できる」と言われる風力発電の設備容量が2015年には原子力を超えた。2017年には太陽光発電も原発を超え、しかも一基1兆円と建設コストが高騰した原発と反対に、そのコストを大幅に下げつつある。経済的な有利性もなくなり、輸出も、国内での新増設も、再稼働も、そして核燃料サイクルも、高速増殖炉も、すべて八方塞がりの原発。もう脱原発しか残された道はないはずなのに、安倍政権は(多分、アメリカに釘を刺されているためだろうが)まだ諦めない。

◆原発ゼロへ必要な論点整理を
 対する国民は、しつこく諦めずに脱原発を求めていくしかないのだが、これもただ「脱原発を」と言っているだけでは進まない。冒頭に書いた討論会の後半で私は、本気で脱原発を求めるなら私たち自身で「脱原発への論点整理」をするべきだと言った。以前の「原発ゼロへのシナリオA」(12.9.8)にも書いたように、脱原発を実現するには、気が遠くなるほど多くの検討課題があるのだが、その論点と解決策が必ずしもメディアにも、国民にも共有されていないからだ。

 去年野党が提案し、衆院で継続審議になった「原発ゼロ基本法案」を見ると、脱原発を実現するには、原発に代わる電力(再生可能エネルギーなど)の確保、省エネの推進のほかに、既存の原発を廃止するための様々な施策が必要となる。例えば、原子力事業者の損失に対する補償、原子力に関わる技術の維持・向上、廃炉技術者の育成と人材の確保、原発が立地している地域の雇用の確保、使用済み燃料の中間貯蔵および最終処分の計画などである。
 もちろん、核燃料サイクル(再処理施設:写真、高速増殖炉)を廃止するための課題と解決策も必要だ。ただし、法案はこれらの課題を列挙しただけで、具体的な解決策については書いていない。法律を作って実施するとだけ記されている。

◆しつこく諦めずに脱原発の声を
 原発はいったん止めると決めたら、膨大な負の遺産に変わる。このツケを出来るだけ次世代に回さないための様々な課題がのしかかって来る。原発ゼロを実現するにはまず、これらの論点を一つ一つ洗い出して整理し、自分たちの世代で解決の道筋を見つける必要がある。今、安倍政権がやろうとしていることは、自分たちの目先の利益のために問題を先送りにし、この膨大かつ危険な負の遺産を次世代に回すことである。私たちは未来の世代のためにも、これらの論点を明確にしながら「しつこく諦めずに」脱原発の声を上げ続けなければならない。

「失われた30年」の自画像 19.5.16

 平成から令和に変わり、メディアは令和礼賛と皇室関連企画の一色だった。その一方で、祝賀ムードに便乗した(フジTVの小室圭氏に関するような)あまりに軽薄な皇室報道が続くと、いつまでも浮かれていないで、そろそろ自分たちの足元を見たらどうかと思ってしまう。忘れてならないのは、平成の天皇皇后がこれだけ国民の敬愛を得て来たのは、先の戦争に対する深い反省と憲法尊重、災害弱者に心からの同情を寄せ続けて来たからで、それはとりもなおさず、肝心の政治(特に最近の右傾化政治)がおろそかにして来たからでもある。その傾向は令和になっても変わらず、日本はむしろ先の天皇の思いとは一層違う方向に向かうだろう。

 それだけでなく、日本はこの30年の間に表面的な空元気とは裏腹に、解決すべき課題の先送りによって国力が急落し、深刻な閉塞状態が続いている。進んだのは、安保法や改憲のような(右翼が喜びそうな)実のない政治ばかり。日頃、原発問題や温暖化問題、防衛、改憲、アベノミクスなど、テーマ別に新聞を切り抜いてファイル化しているが、安倍政権での問題の構造は金太郎飴のように似ており、いつも同じような論調になりそうで、なかなか個別のテーマを取り上げる気分にならない。そこで今回はもう少し俯瞰的に平成の「失われた30年」と、その中での「日本の自画像(現実)」について書いてみたい。

◆失われた30年は、日本の一人負けの時代
 バブルが崩壊した後の「失われた30年」で、日本の国際的地位がどのくらい低下したのか。それを物語る衝撃的な数字を、最近の記事から拾ってみる。まずは経済面で。バブル崩壊直前の1988年、日本のGDPは世界第2位で、1位のアメリカを激しく追い上げていた。一人当たりのGDPでも日本はスイスに次ぐ第2位に躍進。当時の株式時価総額の世界上位10社中、7社が日本企業、そして上位50社中、32社が占めた。そして、東京取引証券所(写真)が世界最大の市場になる。これが平成の幕開け(1989年)の日本の輝ける姿だった。その頃の中国のGDPはまだ日本の10分の1に過ぎない。

 それがバブル崩壊後の無策によって一転する。この30年の間に、世界のGDPは4.5倍になり、中国は33倍、韓国8.4倍、アメリカ3.9倍、ドイツ3.2倍に伸びたのに対し、日本は1.4倍にしかならなかった。平成幕開けの20年後(2009年)に日本を追い抜いた中国は、この10年で日本の2.7倍にも急成長。世界2位だった「一人当たりのGDP」で、日本は香港やシンガポールにも抜かれ世界の26位にまで落ちた。株式時価総額でも上位50社に入るのは今やトヨタ1社(45位)のみという惨状だ。平成の「失われた30年」は日本の一人負けの時代と言っていい(5/3毎日記者の目)。

◆落ち込む科学技術力。平成は敗北の時代
 技術力の分野でも、半導体、太陽電池、光ディスクなどで高いシェアを誇った技術が、いつの間にか中国や台湾、韓国に追い越されてしまった。次世代のIT通信(5Gなど)やAI技術でも米中が遙かに先を行っている。この傾向は、科学研究の分野を見ても一目瞭然だ。「科学技術振興機構」の調査によれば、2015年から2017年の質の高い151分野の科学論文の国別シェアでは、トップがアメリカ(80分野)と中国(71分野)の2ヶ国に独占され、かつてはアメリカとトップを分け合っていた日本は、殆どが6位から15位に低迷している。

 前経済同友会代表幹事の小林喜光は、今や日本を引っ張る技術が見当たらない状況だと指摘し、「この有り様を敗北と言わずして、何を敗北と言うのでしょうか」、「このままでは、令和の時代に日本は五流国になってしまう」と憂えている(1/30朝日、5/10毎日)。多くの日本人はまだ30年前の日本の輝かしい記憶の残影を引きずっているのかも知れないが、国の基幹となる経済分野とそれを牽引する科学技術の分野ではこれが現実。掛け値のない「日本の自画像」である。平成の30年はまさに「敗北の時代」だったわけである。

◆ぬるま湯に浸っているうちに、忍び寄る社会崩壊
 それでも、日本国民の75%が今の生活に満足し、その傾向は若者ほど高くなる(2018年6月の内閣府調査)のはどういうわけか。安倍政権への支持率も高いままだが、以上のような現実を直視すれば、日本は後戻りできない衰退への道をたどっているのではないかと心配になる。しかも、こうして国民が過去の遺産と一流国幻想を引きずって“ぬるま湯”に浸かっているうちに、今の日本には既に、格差社会などという生ぬるい状態を通り越して、「放置すれば社会崩壊」という深刻な階級社会が生まれつつあると言う指摘も現れ始めた(橋本健二・早大教授4/3毎日)。

 その階級社会で最下層に属する人々(アンダークラス)は、928万人(就業者の15%)にのぼる。多くは、バブル期以後に非正規雇用が増える中で、一度も正社員になったことがない。平均個人年収186万円(月15.5万円)で暮らし、安心して家庭を持つことも出来ない。59歳以下の男性に限っても未婚率は66%に上る。労働者の使い捨て時代では、容易に貧困から抜け出せず、固定化しつつある。これは自己責任といって済む話ではなく、日本は社会崩壊を防ぐためにこの人々とどう支え合って行くのかが問われている。 

◆“ゆでガエル状態”を脱することは可能か
 こうした危機的な「自画像(現実)」を直視することなく、安倍政権は「強い日本を取り戻す、世界の真ん中で輝く」などと一流国幻想を振りまきながら、課題先送りを続けて来た。支持率を維持するために目先の景気対策に終始して、財政出動と金融緩和というカンフル剤依存症に陥っている(5/3毎日)。しかしご承知のように、この先の日本には、少子高齢化と莫大な財政赤字という恐ろしい“時限爆弾”が時を刻んでいる。小林喜光は今の日本は「危機感が欠如した“ゆでガエル状態”」にあり、いずれ煮え上がるだろうと警告する。日本は、この安逸と停滞の状況から脱出することが出来るのか。

 確かに今の日本は豊かな文化遺産と自然環境があり、戦後74年続いた平和による社会的安定と治安の良さがある。問題は何度も言うように、先人から受け継いだ豊かな「社会的共通資本」をいかに毀損せずに次世代に手渡していくのかである。皆が「何となく上手く行くのではないか」と思っている中で、そんなことは可能なのか。「失われた30年」の各種記事にはその処方箋も幾つか書かれているが、「成長の芽を探し続ける」、「日本が強みを持つ分野に重点投資する」など、曖昧だ。私なりに言えば、大事なのはまず、今の社会に蔓延している上滑りで安逸な「国のメンタリティー、時代精神」をどう変えていくかではないだろうか。

◆若者が冒険できる時代精神を
 話は変わるが、ユダヤ人は世界の人口の0.2%を占めるに過ぎないが、文化的な分野で世界的な著名人を輩出し、科学分野でもノーベル賞を受賞した人が全体の20%前後にのぼる。こうした突出した成功を理由づけるものとして、評論家の内田樹はユダヤ人の性格として、「自分が現在用いている判断の枠組みそのものを懐疑する力」と「自分を規定する自己緊縛性を不快に感じる感受性」を仮説として提示する(「私家版・ユダヤ文化論」)。つまり、現状に満足せず、常に自己を改革して行く民族的メンタリティーのことだろう。

 日本が未来を切り開くイノベーションを再び成し遂げて行くには、こうしたメンタリティーを少しでも見習って、日本の時代精神をその日暮らしの「ぬるま湯的」なものから、明治初期にもあったような進取的で前向き、活力に満ちた冒険的なものに変えて行く必要がある。その主役は若い人たちになる。迂遠なようだが、遅れている教育制度を改善し、若者に積極的に投資する社会を作る。そうすることで、「失われた30年」で色あせた「日本の自画像」を、豊かで活力のあるものに書き換えて行かなければならない。