日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

サンダースが闘ったアメリカ 18.7.26

 2016年のアメリカ大統領選挙の時、民主党の候補者指名をめぐってヒラリー・クリントンと最後まで激しく争ったのが、バーニー・サンダース(現在76歳)である。自分の政治的立場を民主的社会主義者と規定するサンダースは、39歳の時にアメリカヴァーモント州、バーリントン市の市長(1981〜1989)になったのを皮切りに、下院議員(1991〜2007)、そしてアメリカ史上初の社会主義者の上院議員(2007〜)として、政治経歴を積んできた。若い世代に圧倒的人気を誇り、一時はニューハンプシャー州などでクリントンを上回る票を得て、アメリカに旋風を巻き起こした。

 なぜサンダースはかくも人々の気持ちを捉えたのか。市長として、議員としてどういう実績を残したのか。彼は今のアメリカ政治の何と闘ってきたのか。こうした疑問に答えてくれるのが、彼の著書「バーニー・サンダース自伝」である。これを読むと、彼が闘ってきたアメリカの民主主義の危機的状況、すなわち政治が富裕層や大企業にだけ目を向ける既成政治家たちによって牛耳られ、大部分の中間層や貧困層が政治から遠ざけられている現状が見えてくる。しかも、こうした民主主義の危機は今の日本にもどこか似通っていて、とても他人事とは思えないのである。

◆分断を乗り越えて。中間層と社会的弱者に寄り添う政治
 1981年、サンダースはそれまで共和党の市長が続いていたバーリントン市(ヴァーモント州の州都、人口4万弱)で、全米唯一の社会主義者の市長として当選した。僅か10票差だった。それから4期8年、バーリントン市長として様々な改革を行う。市議会の仲間を増やしながら、湖岸の美しい自然環境を開発から守って市民の憩いの場とし、老朽化したインフラを更新し、働く中間層や貧困層に手をさしのべる諸制度を取り入れ、様々な文化イベントを創出して、市をアメリカで最も刺激的で文化的に活発な小都市の一つに作り替えた。

 民主的社会主義者と言っても、とくに硬直したものではない。これまで政治的に軽視、あるいは無視されてきた中間層や貧困層、高齢者、女性やマイノリティーなどの社会的弱者に寄り添う政治を、保守的な議会や企業、団体からの攻撃をはねのけながら多くの市民グループとともに行ってきた。その結果、立場を超えて市民の政治意識は高まり、彼以前の市長選挙での投票者数が7千人だったのに対し、再選時は1万3300人と劇的に増えている。この傾向は市長選挙に限らず、市議会選挙、国政選挙にも市民の高い投票率となって現れている。

◆市長から国政へ進出した民主的社会主義者
 市長のバトンを後継者に渡した後は、無所属を通しながらヴァーモント州を地盤に国会議員(下院、上院)になり、共和党と民主党の2大政党が支配するワシントンでも精力的に働いてきた。その時々のテーマで仲間を集めながら、最低賃金の引き上げ、湾岸戦争やイラク戦争への反対、あるいは軍需産業への理屈に合わない助成金の廃止などで活躍。医療保険の導入など、働く中間層を再生し、社会的弱者に寄り添うという政治姿勢を明確にしながら、2大政党が行ってきた富裕層中心の政治に異議を申し立てて来た。

 今のアメリカは上位0.1%の人々が下位の90%の人々と同じ富を有するという、まれに見る格差社会だ。一部の富裕層に富が集中する一方で、国民大多数は所得の減少に苦しんで来た。この傾向は、レーガン大統領から始まった富裕層への減税(累進課税の緩和)によって拍車がかかったものだが、こうした恵まれすぎた富裕層への課税強化もサンダースの主張の一つである。それは2011年、「我々は(貧乏な)99%だ」と言ってウォール街を占拠した若者たちや、既成政党に不信を抱く若者たちから熱狂的な支持を得てきた理由でもある。

 もちろん、こうした政界の自称“はぐれもの”(OUTSIDER)の存在を黙って許すほどアメリカの政治は甘くない。選挙で対抗馬を立てた共和党は、(企業や保守団体から集めた)豊富な資金を使って、テレビで誹謗中傷のCMをバンバン流す。探偵を雇って25年も前に離婚した前妻に接触して攻撃材料を探したり、「サンダースは、陳腐で破綻した極左イデオロギーの典型だ」と攻撃したりする。こうした攻撃の中で、彼が身をもって実感してきたのが、特に極右の共和党が行ってきた民主主義の腐敗である。

◆サンダースが指摘するアメリカ民主主義の危機
 一つは貧困層への攻撃だ。共和党は、「優先順位の整理」というもっともらしい名目で、高齢者や子ども、病人や障害者、ホームレスや貧しい人々が必要としている、あらゆる社会プログラムを削減して来た。財政均衡を名目に、一方で軍事費を増大させながら、他方で福祉予算を削る。貧困層や若者は選挙運動に献金せず、投票にも行かず、政治に参加しないという事実を共和党は知っているからだ。いったん戦争になれば、死体袋に入って帰国するのは貧困層なのにと、サンダースは厳しく指摘する。 

 こうしたことをやりながら、選挙になると共和党は中間層や貧困層に向けて様々な“目くらまし”を行う。極右的な政策は忘れたかのように、選挙の顔としてタカ派ではなく、穏健派を前面に出して一時的にイメージを塗り替える。さらには、国民の大多数が反対するようなテーマに関して、人種的対立や労働者と貧困層の対立、本国生まれと移民の対立などを煽って、人々が団結するのを妨害する。そして、国民の間に「今の腐りきった政治はどうせ変わらない」という幻滅や失望感、諦めを植え付け、投票率を下げようと図る。

 一方の民主党もこうした共和党の動きに引きずられて、富裕層を気にする「同じ穴のムジナ」状態になっており、2大政党制は既に中間層や貧困層を代表しないものになっている。こうした既成政党に対する不信と怒りが、民主主義の担い手である多数の中間層に広がっていたところに、(一時的に民主党に籍を置いた)サンダースと、共和党の異端児のトランプが旋風を巻き起したのである。

◆大企業に支配されるメディア
 さらに、彼がアメリカ社会の最大の危機の一つと指摘するのが、メディアの所有権がますます少数の人々の手に集中していることである。アメリカ人はニュースのおよそ85%をテレビから得ているが、その大部分を占める6大ネットワークは、大企業に支配されている。NBS=ゼネラル・エレクトリック社、CBS=ウェスティングハウス社、ABC=ディズニー社、フォックス=メディア王のマードック、CNN=タイム・ワーナー社と言った具合だ。加えて、新聞、雑誌、ケーブルテレビの集中支配も進んでいる。

 こうしたメディア状況では、少数の巨大企業が国民が何を知るべきかを殆ど決められるようになっている。国民は細切れの、派手で刺激的なニュースを見させられているが、アメリカが直面している最も深く重大な問題は取り上げられない。問題に対する時間の割り当て方にはバランス感覚が殆どなく、その結果、情報をテレビに頼るアメリカ人は、この国で実際に物事がどう起こっているのか、それがなぜ起こるのかを、殆ど学ぶことが出来ないとサンダースは言う。

◆アメリカの病(やまい)は日本にも
 サンダースが指摘する、極右によるリベラル政治家への攻撃、選挙時に国民の関心をそらす目くらまし、政治に対する国民の幻滅と諦め、そして同一企業による多数メディアの所有。とりわけ国民の間に「政治に何を言っても無駄」という諦めが漂っている状況などは、安倍一強の強引な政権運営が日常化した日本にも共通する問題であり、それが彼らの狙いでもある。本の最後には、こうした民主主義の病(やまい)を乗り越えるための具体的政策も掲げられているが、サンダースたち(*)の今後に注目すると同時に、私たちも彼の指摘するアメリカの現状を「他山の石」としなければならない。*)サンダースの秘蔵っ子がNYの民主党から中間選挙に出るアレキサンドリア・オカシオコルテス(28歳、女性)

トップに危機意識がない国で 18.7.15

 もう15年ほど前の話だが、ある会社の責任者の立場になった時のことである。それは小さいながらも、日本の衛星放送の電波を届けるための放送衛星を管理する会社だった。着任早々、電波が短時間停止する事故があり、委託を受けているNHKや民放に謝りに行くことになった。その経験を経て危機意識にかられたのが、本格的な危機対応マニュアルがなかったことである。特に心配なのは、首都圏が大地震に見舞われ、衛星に向けて電波を発射するパラボラなどの施設がダメージを受けた場合である。離れた代替施設に素早く切り替えて放送を確保しなければ大変なことになる。

 特に、地上波放送の受信設備が大地震でやられているときに、衛星放送の電波までが届かない事態になれば、国民の命にも関わる一大事だ。そこで社内に危機管理委員会を作って様々な災害や事故に対応するマニュアルを練り、ファイルのかたちで各自に配った。毎年4月にはこれを見直し、改善点はページを差し替える仕組みにした。同時に、関係職員に災害時でも連絡が取れる衛星電話を配布し、緊急時の備品なども会社に用意して万全を期すことにした。社員は「心配性な社長が来た」と思ったかも知れないが、かなり真剣にやったのは自分が責任者として関わる仕事が、万一機能しなかった場合の影響の大きさを考えたからである。

◆トップに危機意識がなかった東電
 これは別に自慢することではなく、小さくても組織のトップになれば誰でも意識することだと思う。特に人の生命や安全に関わる仕事ならなおさらだ。ところが、この当たり前のことが出来てなく唖然としたのが福島原発事故だった。自分たちが運転する原発で、核燃料が溶け出すといった「過酷事故」が起きた場合、その影響は多くの人命にも関わる深刻なものになる。それが分かっている筈なのに、東電トップや幹部たちは全く危機意識を持っていなかった。危機対応マニュアルがなく、対応は後手後手に回って被害を拡大させた。

 事故時、東京のトップたちはただ呆然とするばかりで現場へ人や食料、物資の応援さえもせず、現場は長い間、劣悪な環境で不眠不休を強いられた。東電は当時、柏崎刈羽と福島に15基の原子炉を持っていた。集中している原発のたとえ1基でも過酷事故で手に負えなくなれば、漏れ続ける放射能で他の原子炉も制御不能になる。そうなれば日本は壊滅だった。福島がそうならなかったのは単に奇跡であり、不幸中の幸いだった。事故後、「想定外」という言葉が盛んに使われたが、実態は多重防護の原発で放射能が漏れ出すようなことはない、という根拠のない安全神話に頼って企業も国も思考停止を続けていたのである。

◆水位1メートルの雨。予想できた筈の大災害
 さて、今回の西日本豪雨被害である。11府県にまたがる集中豪雨で200人を超える死者を出した広域災害だが、物的被害は仕方がないとして人的被害をもっと抑えることは出来なかったのだろうか。今回の集中豪雨は西日本に次々と積乱雲が発生する「線状降水帯」によるものだったが、降り始めの5日から気象庁は様々な大雨注意報、警報、特別警報を発して注意を促してきた。6日午後までに予想される降水量は多いところで400ミリ(40センチ)、72時間降水量は、多いところで既に1200ミリ(1メートル20センチ)に達していた。その後も8日午前中までに各地で記録的短時間大雨が頻発している。

 こうした情報を得て誰もが考えるのは、広範囲の地上に降り注いだ深さ1メートルもの莫大な水量がどういう暴れ方をするかである。それは間違いなく至る所で洪水(堤防の決壊と氾濫)、山崩れ、土石流を引き起こすだろう。特に西日本の山間部では山肌に接して家が建っている場所が多く、そこに住む人々は高齢者が多い。予備知識があまりなくても、少し想像力を働かせれば、どれだけ大きな被害が出るか分かる筈だった。それだけに、気象庁も頻繁に警報を出して呼びかけたのだろうが、結果的に十分な避難に結びつかなかった。

 一つには、そうした危険箇所に住む人々の中には高齢者が多く、夜中の避難がままならなかったという事情もある。身体が不自由で、寝たきりの高齢者も多かった。今回の犠牲者の7割が60歳以上という数字もある。従って、この被害を単に想定外や自己責任と言って片付けるわけには行かない。生命を救うというなら、早い段階で適切な避難所まで公的機関が移動させる位の配慮が必要だった。こうした危機の中で、国民の生命と財産を守るそれぞれの機関(官邸、地方自治体、消防庁、自衛隊、警察、そしてメディア)とそのトップは十分な危機意識を持っていたのか。特に関係省庁と自治体に早期の対応を促し、自衛隊に最大級の対応を指示すべき日本のトップは何をしていたのか。

◆国民の命を守る国のトップとしての危機意識がない
 そこで改めてこの間の新聞を整理してみると、幾ら気象庁が警告しても、当初メディアの扱いは小さかった。特に6日に行われたオウム真理教の教祖たちの死刑報道が大きく、翌7日の新聞ではそれが紙面の大部分を占めている。西日本に大規模災害が確実に迫っているときに、日本のメディアは死刑報道一色だった。また指摘されているように、この国のトップも5日夜は議員宿舎で50人の取り巻き議員たちと「赤坂自民亭」と称する懇親会で盛り上がっていた。さらに、数十年に一度の大災害が予想されるとする特別警報が出始めた6日夜には、官邸でお気に入りの大田弘子(規制改革推進会議議長)たちと一杯やっていた。その時の首相の頭は秋の自民党総裁選挙や、11日からの外遊で占められていたのだろう。

 非常災害対策本部が設置されたのは雨も上がり始めた8日午前、それもわずか20分の会議で済ませている。結果論的に言ってこの間、安倍に大災害への危機意識はなかったことになる。災害時や原発事故時には、国民の生命と安全を守るべきトップの危機意識がものを言う。一早く国家の意思を示せば関係組織の責任者も姿勢を正す。もちろん今回も、自治体や消防、警察が住民の安全のために随分と働いたが、哀しいかな、被害が出始めてからで各所からの救助要請に応えるので精一杯だった。全体状況を把握して、あと1日か半日早く「国を挙げての対応」が取られるべきだった。

◆虚構の危機にしがみついて真の危機を見ない日本の病
 トップに当事者としての危機意識がなく、全体で何となく破局に向かって進んでしまう「無責任の体系」は、丸山真男が言うように(戦前の東条内閣から続く)この国の変わらぬ性格である。それが最近の安倍内閣では際立っている。一向に目標達成が出来ないのに、副作用が心配される金融緩和を続けるアベノミクス。達成されるはずのない3%という成長率を前提に財政再建をうたう「骨太の方針2018」。そして今や幻想としか言いようのない「核燃料サイクル」。そして、誰も安全に責任を持たない原発再稼働(*)。いずれも大方の疑問をよそに惰性で進んで行く無責任体制である。*)「原発と日本の無責任の体系」(16.9.25)

 これからの日本は少子高齢化で人口が激減していく。今回の被害も、そうした現象を先取りした一番弱いところを直撃し、日本の地方維持を一層難しくしていく。一時、鳴り物入りで始まった「地方創生」などは、カネをばらまいたけれどどうなったのかと思う。また、先日公表された地震動予測地図でも、危惧される「東南海巨大地震」を始め、日本は真っ赤だ(そこに原発もある)。やるべき課題が山積し課題先進国とも言われる日本だが、真の危機意識を持つべき首相が、改憲といった「虚構の危機意識」にかまけて本来の危機対応を先送りにしている。

 今の日本では、「虚構の危機にしがみついて真の危機を見ない病」の症状が進行している。“国難”などといった作られた危機感で政権維持を図り、2基で2000億(*)の役にたつかどうかも分からないイージスアショアを導入する。この無責任体制に異議を唱えることが出来るとすれば、それは真の危機を肌で感じている国民でしかないだろう。*)最近、これが4664億円に跳ね上がったが、さらに増えるという(7/31)。 

公文書改ざん事件の罪と罰 18.7.5

 5月31日、大阪地検は森友学園問題に関して市民から告発されていた前理財局長ら38人全員を不起訴にした8億円を値引きして国に損害を与えた背任容疑、虚偽の公文書を作成した「虚偽有印公文書作成」容疑、意図的に公文書を廃棄した「公文書等毀棄」容疑について、いずれも「嫌疑不十分」や「嫌疑なし」とした。当日、世間の関心が高い事案と言うことで地検特捜部長(山本真智子:写真)が異例の会見をしたが、具体的な説明はなし。この女性特捜部長は朝日などのスクープ記事の取材源と噂された人物だが、結局の所、安倍政権の思惑通りの結論になったわけである。

◆不起訴にもニュースの伝え方にも強い違和感
 それがどう評価されたのか、早くも6月25日に彼女は函館地検検事正に異動になっている。(ネットでも議論を呼んでいるが)これが栄転なのか左遷なのか私には分からないが、このまま大阪に置いておくと何かとメディアの関心を呼ぶと警戒されたのかもしれない。安倍昭恵つき事務官の谷査恵子をイタリアに異動させたのと同じやり口である。一方、国民には納得のいかない不起訴という結果について、当日のNHKニュースがどう伝えたかである。これが淡々と不起訴の事実と特捜部長の言い分を伝えただけで、専門家による解説や反論は全くなく、強い違和感を持った記憶がある。

 公文書を300カ所も改ざんしておきながら、何故、佐川らは罪に問われないのか。しかも今回は、決済印を押した後の改ざんである。改ざんの程度に関わらず、それは犯罪でないのか。地検判断がどうあれ、こうした疑問について専門家や記者の解説がなければ素人には全く分からない。一体、日本の公文書管理はどうなっているのか。これが罪に問われないとすれば、何か法律的に不備があるのではないか。難しそうで敬遠していたテーマだが、その後専門家の話を聞いたりして、日本の公文書管理のずさんで曖昧な実態が少しは見えて来たので、その要点をまとめておきたい。 

◆公文書不在は歴史の検証を妨げる背信行為
 その前に公文書を残す、それも正確な公文書を残すということが、いかに大事なことかを確認しておきたい。以前のコラム(「議事録不在は何を意味するか」2012.3.1)では、福島原発事故当時の民主党政権が「原子力災害対策本部」での議事録を殆ど残していなかった罪について書いた。終戦を決めた時の御前会議の白熱した議論でさえも海軍軍務局長ほかの記録によって残っているというのに、いかに緊急時とは言え、原発事故時の議事録が残っていないということは歴史の検証を妨げる背信行為である。結果的に国民が原発事故に関する共通認識を持つ機会を失わせることにもつながる重大な過失だった。

 また、これほどの大事件でなくても公文書を残すことは重要になる。例えば、森友学園問題では国有地払い下げに関して何らかの圧力によって、行政手続きがゆがめられることがあったのか、なかったのか。あるいは、今回のような検察の起訴判断が上層部からの圧力でゆがめられることがなかったか。公文書を残すことが決まっていれば、外部からの不適切な圧力を排除する意味でも重要になるし、仮に行政がゆがめられた事実があっても後々に国民による検証が可能になる。公文書を残すことは行政手続きの公正さを担保する上で欠かせないことなのである。

◆罰則規定のない公文書管理法
 日本で公文書管理法が施行されたのは、情報公開法(2001年)に遅れること10年の2011年になる。市民からの情報公開の請求が多くなっても行政の文書の位置づけが明確でなく管理がずさんだったり、文書不在を理由に公開を断ったりするケースが増えたために、公文書を残すことを法的に決めたのである。
 この場合の公文書とは「国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録」であり、「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の資源」と位置付けられている。これによって、行政が適正かつ効率的に行われるようにし、さらに現在および将来の国民に説明する責務を全うすることを目的とする(第1条)とある。

 目的にこれだけ立派な精神を謳いあげながら、公文書の改ざんといった行為が何故罰せられないのか。実は、公文書管理法は(上記目的のために)どの文書をどのように残すかという「公文書管理のルール」は定めてはいるが、意外なことにそのルールを破った場合の罰則規定がない。普通、法律はルールとそれを守らずに意図的に廃棄したり、改ざんしたりした場合の罰則とのセットで成り立つと思うのだが、公文書管理法の場合はそうなっていないのである。

 制定に尽力した福田康夫元首相は「(罰則を作って)余り厳しくやると、最初からそうした文書を作らなくなってしまうことを心配した」と言う(朝日、6/9)。同じく、制定に関わった三宅弘弁護士(写真)は、日本記者クラブでの講演で(4/16)で、今回のような改ざんが起こるとは予期しなかった。近年は紙の文書でなくデジタルの決済ファイルとして残していたので、技術的に改ざんが簡単だったのかも知れないとも言う。いずれにしても今回のような悪質なケースが出た以上、(例えば懲戒処分などの)罰則規定をもうける必要があるという意見だ。

◆遅れている日本の公文書管理の実態
 日本の公文書管理は、世界最大規模の国立公文書館を有するアメリカはもちろん、イギリス、中国、韓国に比べても遅れている。2700人の職員がいるアメリカに対し、日本は管理官が二十数人、国立公文書館には100人の専門家しかいない。残すべき書類の規定も曖昧、あるいは保存期間の規定も曖昧。その上罰則もないというのでは、国民の「知る権利」に十分答えることは出来ない。法律の精神は立派でも、官僚は常に不都合な情報を残したり公開したりすることに消極的だ。性善説で作った公文書管理法も性悪説に立ったものに変わって行くべきだろう。

 特に今回は、財務省上層部が決済後の書類の改ざんを指示。ありのままの事実を書き残そうとした近畿財務局職員のモラルが踏みにじられ、共犯関係に引きずり込まれた職員が自殺までしている。極めて悪質だが、なぜそうした改ざんが行われたのか理由は解明されていない。財務省内部の調査によって主犯格の佐川前理財局長をはじめとする関係者が懲戒処分を受けたが、そんなもので済むものなのか。今回は処罰規定のない公文書管理法に代わって(その精神とは別立ての)刑法の「虚偽有印公文書作成」や「公文書等毀棄」の罪が問われたわけだが、不起訴処分に納得のいかない市民からは検察審査会への申し立てが起こされている。

◆公文書改ざん事件の罪と罰
 「セクハラという罪はない」とうそぶいたのは財務省トップの麻生だが、罪がないからセクハラが許されるということにはならない。同じく「改ざんという罰則規定はない」から、改ざんが許されることはない。公文書改ざんは上述のように、歴史の検証を妨げる背信行為。官僚が決して犯してはならないルール違反である。今は官邸支配のもと官僚のモラル崩壊がますます進む中で、専門家も驚くような事件が頻発している。刑法で不起訴だからと言って、政権が言うように「これで幕引き」どころではないのだ。

 まして、官僚の処分はあってもトップ(麻生財務相)が何の責任も取らないのでは、組織のモラル崩壊は行き着くところまで行ってしまう。三宅弁護士のような公文書管理の専門家は、日本には数えるほどしかいないというが、不起訴が腑に落ちない国民の疑問に答えるためにも、メディアは淡々と結果と特捜部長の会見を伝えるのでは不十分。専門家を招いてでも、以上のような公文書管理法の問題点と不起訴の背景まで解説し、問題提起してくれなければ国民の方はさっぱり分からない。

優しさと切なさと潔さと 18.6.23

 たまには目先を変えて、今の醜い政治の世界とは対極にある美しいものに触れたくなって、最近胸に響いた表現者やその芸術作品について書いてみることにした。「優しさと切なさと潔さと」と名付けた三題噺(ばなし)である。もっとも、(非力故に)その美しさに届かない内容になりそうな予感もする。ご容赦を。

◆石牟礼道子の優しさ
 今年の2月10日、90歳で亡くなった作家の石牟礼道子さん。水俣の患者に寄り添い、その原因の水銀を垂れ流したチッソ水俣工場や本社への抗議行動の中心となり、さらに患者たちの心の叫びを「苦界浄土」3部作としてまとめ上げた。これ以上の苦しみがあろうかと思うような激烈な中毒症状の奧にある、患者家族の悲しみを患者たちの言葉で掬い取った希有な小説。石牟礼の表現世界はこれに止まらず、水俣地方の過去と現在、あの世とこの世の境、さらに水銀で汚染される前の不知火の豊穣の海、能の創作から歌の世界までに広がる。

 その集大成は、献身的に彼女の執筆活動を支えた編集者で作家の渡辺京二をはじめとする様々な人々の努力によって17巻の全集となっているが、彼女の磁力に引きつけられるように集まった多くの心酔者に比べて、私などは足元にも及ばない読者である。15年以上も前に水俣に行き、現地の人たちと交流したことをきっかけに、東京での水俣展示や石牟礼の能「不知火」を観たりした。石牟礼が「たとえひとりになっても」と創刊号(1998年)に書いた患者たちの季刊誌「魂うつれ」もそれ以来、送って貰って来た。その最新号は「石牟礼道子追悼特集」である。

 実に多くの人が石牟礼の思い出を語っているが、彼女に人生の指針を与えられた、優しさに励まされた、彼女とふれあうことは宝物以上の喜びだったと書いていて、感動を誘う。生前付き合いのあった瀬戸内寂聴も書いているが(朝日6/16)、石牟礼への追悼で埋め尽くされた新聞や雑誌を読んでは涙する事態になっている。特に編集者として彼女の才能に驚嘆し、以来50年にわたって彼女の側で文章を清書し、雑務から食事の世話までやってきた渡辺京二の「私は(石牟礼を)ずっとカワイソウニと思ってきた」と言う言葉を紹介している。

◆「悶(もだ)え神」になった道子
 評伝「石牟礼道子」(米本浩二)を読むと、石牟礼は幼少の頃、理不尽な扱いを受けて精神を病んだ祖母を世話しながら育ったという。幼心に、この世には圧倒的な理不尽があり、それはまた底知れぬ哀しみを生むことを胸に刻んで育った道子は、ずっと「この世に生まれてイヤだ」という虚無的な心の風景を抱え込んでいたらしく、思春期から結婚後の二十歳前後にかけて3回も自殺未遂を起こしている。その心が、水俣病の患者・家族の圧倒的哀しみに出会って「感応」した。水俣地方には人々の哀しみを自分のものとしてしまう「悶(もだ)え神」という存在がいるというが、まさに道子は水俣病に出会ってその「悶え神」になったのである。

 「たとえひとりになっても」患者の側にたち、その運命を見届ける覚悟。それがチッソへの抗議行動の原点となり、後の彼女の底知れぬ優しさにつながっていく。その優しさに美智子妃も含めて多くの人々が、まるで磁石に引き寄せられるようにして集まった。その磁力の根底にあるのは、この世にある理不尽や絶望、そして圧倒的な哀しさを透徹した目で見届けた上でなお踏みとどまる優しさだと思う。まじめに生きている限り、人はその理不尽や哀しさを見ないわけにいかないのだ。それは(会津八一が救世観音を詠んだ)「あめつちにわれひとりゐてたつごときこのさびしさをきみはほほゑむ」を思わせる。

◆映画「万引き家族」を観る
 話題の映画「万引き家族」を観た。題材は近年社会を賑わした様々な事件が下敷きになっている。親の死を隠して年金を貰い続けた話、親に虐待される子どもの話、そしてこどもの誘拐。それらを用いてある血のつながらない家族を設定する。その昔、旦那を寝取られた老婆、その旦那が相手の女に生ませた娘の子(家出して一緒に住む)、殺人までして一緒になった男女。その夫婦が駐車場から盗んだ赤ん坊が大きくなった少年。そしてある冬の日に虐待親から外に出されて震えていた幼女の6人だ。それが一つ屋根のぼろ屋でその日暮らしをしている。

 生活費は、老女の僅かな年金、男の日雇い賃金(すぐにケガをして働けなくなる)、クリーニング工場で働く女の賃金(まもなくリストラされてしまう)、風俗で働く家出娘、そして男と少年がタッグを組んで行う万引きである。やがて、その万引きに幼女も加わるようになる。その日常生活は奇妙なものだ。血のつながらない者たちが、肩を寄せ合って生きる。一見クールだが、互いを思いやる暖かいものも流れている。例えば、夏になって一家はまるで本物の家族のように海辺に水遊びに行く。そこで戯れる男と少年、女と幼女。その遠景を見つめる老女(樹木希林)の何とも言えない満ち足りた表情。本来なら社会の吹きだまりで絶望的な孤独にさらされるべき人々である。

◆是枝監督が描いた「切なさ」
 ある朝老女は死ぬが、家族は遺体を家の風呂場の下に埋めて、年金を詐取することにする。ネタバレになるので詳しくは書けないが、やがて少年の万引きをきっかけにこの家族に破局が来る。夫婦のうち女は死体遺棄で捕まり、少年は施設に預けられ、幼女は元の虐待親に戻される。一人一人がバラバラになる過程で、女は婦警の尋問を受ける。なぜ一緒にいたのか。なぜ子どもを誘拐したのか。それほど子どもが欲しかったのか。その尋問は、いわば社会常識からの非難だが、その外側で暮らしてきた女も少年も当然のことながら説明する言葉を持たない。 

 答える一人一人の顔のアップ。秀逸なのは安藤さくら演ずる女の演技である。「子どもを産んでいないのに親にはなれないよね」という婦警の陰の声に女の表情が次第に崩れ、じわじわと涙がにじんでくる。その演技に引き込まれる。カンヌで審査した女優たちが絶賛したという演技である。映画は施設に入った少年が男と一晩過ごして一緒に雪だるまを作るシーン、風俗で働いていた家出娘が今は誰も住んでいない家をそっとのぞきに来るシーン。虐待親に引き取られた幼女がベランダで一人、外をのぞいているシーンなどを積み重ねて終わる。

 見終わって、それぞれの演技と自然なカメラワーク、シナリオの巧みさを噛みしめていると、突然、見終わった後の感情の適切な表現が浮かんできた。「切なさ」である。今は、5歳の女の子が「ゆるして」と書きながら親に殺される時代である。そうした人間の業と無明を見つつ、なおかつ生きることの「切なさ」。安藤さくらの表情の長回し、追い詰められた少年が高所からあっさりと飛び降りるシーンなどで監督が描きかったのは、この時代の圧倒的な不条理と虚無感、それを抱えて生きる庶民の「切なさ」への共感なのだろう。石牟礼に通じるものだ。

◆映画「峠」。河合継之助の潔さの重い意味
 最後に。友人の映画監督がようやく製作に入ることになった。戊申戦争時の長岡藩の家老、河合継之助を描いた小説「峠」(司馬遼太郎)の映画化である。そこでは河合を“最後の侍(ラストサムライ)”として描くのも主要なテーマだとは思うが、私としては観客が(敗者の側からも歴史を見る)「歴史の目撃者、歴史の立会人になる」という要素もしっかり描き込んで欲しいと監督には伝えている。
 小説のラストで、自分の遺骸を焼くための薪(たきぎ)の火を見つめる河合継之助の胸に去来するものを思うと、歴史の転換点の中で過酷な運命を選択せざるを得なかった河合の「潔さ」の重い意味が浮かび上がるようである。こうした滅び行く武士の潔さも、戦で苦しみを受ける民衆の切なさも、今の傲慢な政治家たちとは無縁のもので視野にも入っていないに違いない。出来上がりを楽しみにしている。

安倍自民党とポピュリズム 18.6.13

 原発再稼働への反対や不祥事続きの安倍政権に鉄槌を下す意味からも、野党候補に勝ってもらいたかった新潟県知事選だが、残念ながら与党候補が勝利した。但し原発に関しては、与党候補も原発再稼働に抵抗していた泉田元知事の下で副知事をしていた人で、「私も原発には不安だ」と米山前知事の設けた県独自の検証の結論が出るまで再稼働の議論に応じないと言うので、原発は争点になりにくかった。野党はまたしても与党の “争点隠し戦術”にうまくやられたわけだが、見方によっては一方が54万6千票、他方が50万9千票と僅差であり、善戦とも言える。

◆保守VS革新の図式は今でも有効か
 では、原発以外の何が勝敗を分けたのか。様々な分析があるだろうが、例えば野党候補(池田千賀子)は歯科衛生士、市役所職員、柏崎市議をへて3年前に県議になった人であり、幾ら原発再稼働に反対でも行政能力で不安はなかったのか。あるいは、野党が推した前任者が女性問題で引退した後遺症もあり、野党候補と言うだけで叩かれる雰囲気もあったに違いない。これらについては、例によって(安倍シンパたちによる)タメにするデマがネット上に溢れていた。

 また、与党候補(花角英世)が原発を争点から外した上で、県民の暮らしに関係の深い観光振興や交通インフラの整備、そして人口減少に歯止めをかけると訴えたのに対し、野党と野党候補はもっぱら安倍政権の不祥事批判を展開したこともある。県民の心情からすると、野党候補の国政批判はやや距離があったかも知れない。さらに引いて言えば、今の時代、単に革新系というだけでどの位アピール力があるのか。その訴えは(声なき声の)無党派層にどれだけ届いていたのか。これは、政権がどんどん右寄りになって行くときに従来のような保守VS革新の図式は今も有効なのか、という問題でもある。

 善戦は認めるとして、野党はこうした問題点をもっと自覚的に吟味し、県民の心に届く選択(候補者と主張)をして選挙戦を展開すべきだったと思う。また、今後の政治戦略を考えるためにも、今回の選挙結果を十分に分析して次の野党共闘に生かして欲しいと思う。何故なら、上にあげたような問題意識は単に日本国内だけの問題ではなく、世界に目を転じれば今は様々な政治の潮流が激しく動いており、日本も知らない間にその渦に巻き込まれている気がするからである。その世界的な政治潮流の一つがポピュリズム(大衆迎合政治)である。 

◆ポピュリズムとは何か 
 前回のコラムではファシズムについて書いたが、今の世界の政治潮流の一つであるポピュリズムについて、「ポピュリズムはデモクラシーの後を影のようについてくる」という言葉(イギリスの政治学者カノヴァン)を紹介しているのは、「ポピュリズムとは何か」の著者、水島治郎千葉大教授である。ポピュリズムは民主主義の性格に内在しており、民主主義が形式化の方に傾くと天秤を元に戻すように過激なポピュリズムが姿を現すというのだ。この本にはポピュリズムについて「目から鱗(うろこ)」の話が沢山詰まっている。

 そのポピュリズムは2つの特徴を持つ。一つは、これまで政治から無視され忘れ去られて来た人々からの、既成の政治エリートや特権階級に対する反発。二つ目はそうした人たちの生活を脅かす移民への反発である。こうしたサイレント・マジョリティ(沈黙する多数派)の疎外感や不満を、声の大きなカリスマ的リーダーがすくい上げて政治運動化する。例えばアメリカのトランプがそうで、(政治的に忘れられた)白人貧困層を意識して政治エリートであるクリントンを批判し、移民排除を訴えて当選した。この「既成政治に対する反発と排外主義」という2つの特徴を持つポピュリズムは、実は近代民主主義と深く結びついている。 

◆デモクラシーの内なる敵としてのポピュリズム
 民主主義を支える原理には、ルールを設定して政治家や官僚が国民の代理として行政的手続きで政治を行う「実務型」の性格と、制度やルールを超えて主権者たる人民の直接参加が重視される「救済型」の性格という2面性がある。そのため実務型のデモクラシーが優位に立って、救済型のデモクラシーが形骸化すると民衆の疎外感が広がり、その差を埋めようとしてポピュリズムが支持を広げる。つまり、緊張関係にある民主主義の2つの性格の均衡が崩れると、ポピュリズムはいつでも頭をもたげる厄介な政治的現象なのである。 

 ポピュリズムは一方では、社会の片隅に追いやられた人々の政治参加を促し、既成政党に緊張を与えることで民主主義の質を高めるというプラスの面もあるが、多くの場合は立憲主義の原則を脅かし、排除の論理で社会に分断や対立を引き起こす厄介な面がある。その意味で現代のポピュリズムは「デモクラシーの内なる敵」とも言われ、今や南北アメリカからヨーロッパ(英、仏、伊、独、デンマーク、オランダ)まで、世界的な広がりを見せている。英国をEU離脱に導いたのもポピュリズム的な政治運動だった。

◆安倍自民党と日本のポピュリズム
 さて、ポピュリズムのこうした文脈から今の日本の政治状況を見るとどうなるのか。著者の水島は日本でポピュリズムに当てはまる政治運動として、橋下徹が率いていた「大阪維新の会」を例にあげる。彼らが登場したときの既成政党批判、市役所など特権階級を批判する政治手法がその理由だ。しかし、橋下のポピュリズム的政治は大坂の都構想が僅差で敗れたことで終わりを告げた。

 だが、(私見を言えば)日本における状況はもっと複雑で、ネット空間などを見ていると、ポピュリズムが持つ既成の政治からの疎外感や、弱者や隣国を排斥する傾向は今の日本社会でも無視できない流れを作っているように思える。さらに言えば、右傾化した今の安倍自民党はこうした人々のポピュリズム的傾向を意識的に煽って利用しているようにも思える。今、安倍内閣の支持率は38%、不支持率は44%(NHK6月)。これだけ政権の不祥事が続いていても30%台の岩盤のような支持層がある。この人たちは、何があっても安倍に「いいね」を言う人たちだ。

 以前にも書いたが、安倍自民党はこうした右派の岩盤支持層(30%)を意識して選挙戦略を立ててきた。彼らの信条に寄り添う国家主義的な政策を推進する一方で、中道派(50%)の右半分に訴える経済政策などを行って、選挙で過半数を取る戦術である。こうした高等戦術で安倍自民党は(主に20%の左派に顔を向ける)野党に連戦連勝して来たわけだが、その一方で国内に明らかにポピュリズム的状況を生み出している。特に絶対支持層の若い男性たちはネット空間の住人でもあるが、主張の違う政党やメディア、評論家やジャーナリストを「反日、売国奴、サヨク、ぶっつぶせ」と声高に批判する。そして韓国や中国の人々にヘイトスピーチを浴びせかける排外主義者でもある。 

◆分断ポピュリズムに対抗するには
 それは、先の東京都知事選の時、安倍が批判する聴衆を指さして「こんな人たちに私たちは負けるわけにはいかないんです」と言ったことにも象徴的に現れている。このときは、首相である安倍の視野には国民全体は入っていないのかと批判された。ポピュリズムという視点で見る限り、今の政治状況は、A-A独裁体制が応援団である右翼団体「日本会議」と連携しながら国家主義的政策を押し進め、絶対支持層のポピュリズム的傾向を積極的に黙認して日本社会に分断と対立をもたらしているというのが実態ではないか。
 問題はこうした分断ポピュリズムとでも言うべき危うい政治手法と政治状況に野党はどう対抗すればいいのかだが、長くなったので次回以降に回したい。

A-A独裁とファシズムの影 18.5.31

 モリ・カケ問題で次々と現れる不利な文書や証言によって、安倍と麻生がこれまでの主張を“軌道修正”する事態に追い込まれている。安倍は「私や妻が関係したとなれば、首相も国会議員も辞める」と言った去年2月の答弁を「贈収賄は全くない、という文脈で一切関わっていないと申し上げた」と変更。「関係した」は、常識なら「影響力を行使した」と言う意味に取るべきところなのに、贈収賄罪に限定するとは、驚くべき“すり替え”である。誰も安倍や昭恵が口利きでカネを貰ったなどとは思っていない。それを臆面もなく言うところが、平気で国民を愚弄する安倍の安倍たる所以である。

 さらには、加計理事長に会ったとする愛媛県側の文書内容についても根拠なく否定しつつ、「会ったか、会わなかったかは(選定に)全く関わりがない」などと言う。しかし、文書にあるように仮に会っていて「それはいいね」と言い、それを契機に選定が動いたのなら、(普段からゴルフや食事などの諸々を出させている関係上)それこそ贈収賄が問われる事案になる。これは贈収賄の印象を薄めるために矮小化を狙ったものだろう。念の入ったことに加計学園側にも訂正させているが、ことほどさように安倍周辺には嘘が多過ぎる。*加計は面倒見ている額が毎年1億円なると言っているらしい

 安倍の盟友の麻生も同じ。批判を招いている公文書改ざんを「個人の問題」にすり替え、(自分に責任が及ぶ)組織的な改ざんを否定する。しかも「バツをマルにしたとか、白を黒にしたとかいうような、いわゆる改ざんとか、そういった悪質なものではない」などと矮小化する。責任官庁のトップとは思えない発言だ。安倍・麻生の2人が作り出している今のやりたい放題でデタラメな政治状況は、おそらく戦後の政党政治の中でも極めて異質のものではないか。私たちはつい、それに慣れさせられがちだが、その意味するところは何なのか、私たちをどこに連れて行こうとしているのかを、しっかり見ていく必要がある。

◆日本の政治を牛耳る「A-A独裁体制」
 安倍・麻生の2人(A-Aライン)は、右翼団体「日本会議」の国会議員懇談会で、ともに特別顧問を務める右翼的同志である。その安倍の派閥(細田派)は衆参合わせて96人、麻生派は60人。合計156人は、他派がばらけている自民党(407人)にあって絶対権力だ。この2人が結託しているかぎりA-A体制は揺るがない。仮に竹下派(55人)、岸田派(47人)、二階派(44人)の3派(146人)が対抗しようとしても間に合わない。異端の石破派は僅かに20人だ。これが冷徹な数の論理であり、この右翼的A-Aラインこそが今の日本の独裁者と言っていい。これを仮に「A-A独裁体制」と呼んでみたい。

 A-A独裁体制は「改憲」を口実に権力を維持し、5年半にわたって日本の政治を欲しいままにしてきた。目指す国家主義的な法案を次々と実現(それを麻生はヒットラー方式を真似ればいい、と言った)すると同時に、政財界やアメリカが喜びそうな政策、すなわち高額武器の購入や規律のないバラマキ予算、カネ余りと株価上昇で富裕層を喜ばす経済財政政策、あるいは近しいお友達への便宜供与などを行ってきた。他方、そうした政治の陰で、例えば人口減少を食い止める対策、膨大な財政赤字の改善策、脱原発と再生エネ投資など、日本の未来に必要な重要政策はどんどん先送りにされている。

◆A-A独裁体制の本質と歴史の警鐘
 2人はモリ・カケ問題に対しても不誠実な態度をとり続けている。新たな証拠が出るまでは嘘をつき続け、出されてものらりくらりとはぐらかして時間を稼ぐ。まともに答えない。通常の政治感覚なら、何度も退陣せざるを得ない暴言を吐き続ける麻生も、キングメーカー気取りで高笑いだ。安倍もそんな麻生に気を遣ってかばい続け、あっちこっちと外遊して支持率を上げるのに躍起になっている。もう何年も、こうした(何かをやっている感だけの)空疎な政治を見せられて国民の方にもフラストレーションが溜まり、閉塞感と無力感が漂っている。

 国会も、1年以上も嘘をつかれてきたのに毅然とした怒りを示せず、日本の民主主義は機能不全に陥っている。歴史家の保坂正康は、こうした政治状況に警鐘を鳴らす。彼は、昭和のファシズム(軍事主導体制)も、ある日突然できあがったわけではないとし、「ファシズムはデモクラシーの背後に張り付いていて、デモクラシーが息切れしてくると、さりげなく前に出て、それからゆっくりと歩き出す」と書く(5/19毎日、昭和史のかたち)。その上で日本のファシズムが姿を現した昭和初期の歴史的事象を列挙しながら、現状との共通点を指摘する。

 森友・加計問題に見る官僚機構の腐敗。自衛隊員が国会議員を捕まえて「国民の敵」と罵声を浴びせる。そして民主主義の理念を無視する政権幹部の暴言。その上で「私たちは近代日本の歴史の表面ではなく、その“本質”と向き合って、それを教訓としなければならない」と言う。私も同感だが、一方で幾ら自衛隊員が国会議員を罵倒しても、それが戦前のようなファシズムに結びつくのだろうかとも思う。過去の教訓に向き合うことも大事だが、探るべきは今の政治的荒廃の本質は何かである。それは、保坂が言うように新たなファシズムの予兆なのか。それとも未知の危機なのか。

◆ポピュリズム政治の先に待つ危機
 その結論を出す前に、もう少し想像を働かせて今のA-A独裁体制の行き着く先を考えて見たい。仮に安倍が今の状況をしぶとく生き延びてこの秋の総裁選に出て勝てば、さらに3年間のA-A独裁政治が続く。勝つには2人の同盟が必要だし、その関係を解消する理由はないからだ。その後に彼らがやることと言えば、国論を二分する改憲の大騒動である。その一方で、彼らは権力を維持するために支持層に向けたより一層の「ポピュリズム政治」(大衆迎合的政治)と批判者(メディアなど)への抑圧に走るに違いない。何しろ権力維持こそが独裁者の最優先課題だからだ。  

 そこでは去年、北朝鮮問題を「国難突破解散」に利用したように、東アジアの新たな緊張も利用されるだろう。対外的危機を利用する戦術は極端な場合、アメリカと共同の武力行使につながるかもしれない。またそんなことがなくても、山積する課題を先送りするポピュリズム政治は、やがて確実に日本を没落の淵に追いやって行く。その時の日本は、既に膨大な財政赤字と超高齢化や人口減で、ギリシャ以上に疲弊し、危機対応能力を決定的に欠いている。長期にわたって保守管理が必要な原発なども手に負えないお荷物になる。そうした国難を突破するために、より強い指導者への待望論が起こり、やがて独裁的ファシズムにつながって行く。それが歴史の教訓でもある。 

 ただし、その前に別の国難が待っているかも知れないと、私などは心配する。それは、国家破綻を虎視眈々と狙っている強欲な国際金融資本が、日本をハゲタカのように食い荒らす悪夢である。GDPの240%という世界最大の借金を抱える日本は彼らの格好の餌食となり、その時までに辛うじて残っていた日本の社会的共通資本(社会的インフラ、医療保険制度、教育設備、豊かな自然など)が、投機の対象となって外国資本に奪い取られていく。財政危機から超インフレに陥った国々を襲ったのと同じ悪夢が、日本の未来に待っていないと誰が言い切れるだろうか。

◆A-A独裁体制を終わらせる方策はあるか
 こうしたファシズムの台頭や国際金融資本の魔の手から日本を守るためには、どうすればいいのか。そのためにはまず、やりたい放題で政治の荒廃を招いている「A-A独裁体制」の“本質”を直視することだろう。2人の力の源泉は何なのか。結びつきはどれくらい強いのか。その上で性悪(しょうわる)の麻生をキングメーカーにせずに、A-A間にくさびを打ち込む方策はあるか。そのために自民党の他派閥は、また野党や国民はどう動くべきか。極めて難しい課題で時間もあまりないが、政治をもう少しまともな姿に戻すために(時間と競争しながら)模索して行かなければならない。(続きは次回以降に)  

含羞なき時代に生きる 18.5.22

 加計学園の建設計画について5月21日、愛媛県側が27ページにわたる交渉記録を国会に提出した。その中では、これまで首相も柳瀬秘書官も否定してきた、安倍が加計学園理事長の加計孝太郎と面会した事実、さらに柳瀬が「これは総理案件」と言った事実が書かれており、加計学園の設置が安倍と加計の“談合”だったことが明白になった。しかし、安倍はこの期に及んでも、当日の「首相動静」に書かれていないのを理由に「面会の事実はない」と突っぱねる考えだ。一般人の感覚なら、これで認めざるを得ない筈だが、どこまでも往生際が悪い。

 この問題は、これから国会で追及が行われることになるが、安倍はここでも説得力のない「水掛け論」に持ち込もうとするだろう。そうしてまた、だらだらと嘘と言い逃れの人を馬鹿にした答弁が続いていく。こうした、誰が見ても明らかな嘘を重ねる今の政治を目の前にして、国民が怒りに震えない現象について、作家の辺見庸は、インタビュー(毎日特集ワイド、15日)で「社会の方もけしからんという義憤が爆発しないんだよね。フェイク(偽)が常態化したから」と言う。もう「嘘つきは泥棒の始まり」(権力亡者たちの人間崩壊)などと非難しても、今の政治家は痛くも痒くも感じないのか。

◆「顔をみればわかる」
 辺見は同じインタビューの中で、人間には顔貌(顔かたち)があるが、「一連のキャリア官僚(政治家も)には、顔の面白さがない。子どもだって分かる嘘をしれっと言う顔には人間の不可解さも何もない。石のごとき無表情だけ」、「今の安倍は国会で何を言われても平気な顔だね。今は顔が“表象”たり得ない時代なんだよ」と言っている。しかし、私には「“表象”たり得ない」というのではなく、今の安倍も麻生も菅なども、逆な意味での“表象”になっているのではないかと思う。彼らが抱えている強欲や業の深さが如実に顔に表れているからだ。

 彼らの顔は、抱えている業の深さで最近とみに醜くなっている。悪相の見本と言ってもいいくらいだ。自分の虚構にしがみついて必死に取り繕う安倍のむくんだ顔、他人を見下して虚勢を張る麻生は、そのせいで口がどんどんひん曲がってくる。また、上から目線の強面(こわもて)で、無理に不愉快そうな無表情を作る菅。こうした政治家の悪相を、あの人ならどう表現するだろうか、と思わせる本がある。今は亡きシナリオ作家の石堂淑郎(1932 - 2011)が書いた「顔を見れば分かる」だ。この中で、石堂は政治家やテレビキャスターの顔を一人一人取り上げ、短文で軽妙かつ辛辣に表現している。

◆含羞の人
 その見だし(タイトル)が絶妙でもある。例えば、安倍の父の安倍晋太郎については「昼行灯(ぼんやりして役に立たない)」、橋本龍太郎「どさ回りの二枚目」、金丸信「村の政治家」、宮沢喜一「慇懃無礼」、海部俊樹「恐怖の口先男」などである。その中で、最大級の褒め言葉で書いている2人の政治家がいる。一人は、首相になった途端に心臓病で倒れた不遇の政治家、大平正芳だ。タイトルには「牛」とあるが、本文はベタ褒めだ。
 「実に立派な、生まれながらの“総理面”の持ち主である。(中略)大平の目は必ずしも大きくはない。しかし、何処を見ているかわからない、といった怪しい気配は全くなく、じっと見つめる相手に君の真心をくれたまえと語りかけているようである」と、短かった首相生命を惜しんでいる。

 もう一人は、中曽根時代の官房長官を長く務めた後藤田正晴。「全体に畏怖するに足る雰囲気十分である」と書くごとく、きりっと引き締まった唇をもっているが、一方で、「笑顔がまた格別である。破顔して一笑すればたちまち恥ずかしげな童子に戻る。この落差がなんともいえずよろしい」。後藤田と言えば、湾岸戦争時、自衛隊の海外派遣に前のめりになる中曽根に対して、先の戦争の反省を踏まえて反対を貫いた官房長官だった。そして、石堂がこの人への短文につけたタイトルが「含羞の人」である。含羞とは、「はじらい」の意。大人のそれを好ましいと感じる文化が当時の日本にはまだあったのである。

◆テレビキャスターの含羞
 悪相がはびこる今の政界では、その「大人の含羞」が見られなくなり、その含羞がどこから来るのかという疑問も持たずにいたが、最近ふと、その言葉に出くわす場面があった。それは、20日の「ザ・サンデーモーニング」(TBS)の中で、15日に亡くなったテレビキャスター、岸井成格(しげただ、享年73)の追悼コーナーでのことだった。コメンテーターで出ていた姜尚中(カンサンジュン)が、彼のことを含羞の人と評したからである。岸井は、ご存じのように毎日新聞の主筆であり、テレビでは「ニュース23」のキャスター、「ザ・サンデーモーニング」ではコメンテーターを務めた。 

 番組では岸井の含羞がどこから来ているかについて、若い頃の反省として水俣病の幼い患者を取材したときに、そのうめき声の中に含まれている真実にもっと真剣に耳を傾けるべきだったという強い思いが残ったことを上げている。これを解釈するに、携わっているキャスターという仕事に常に反省の目を向け、自分の信念を吟味点検していく姿勢が、上から目線や自信過剰の安易な報道と対極にある「含羞」となって現れたのかも知れない。
 彼は戦争の歴史的反省から、安倍政権の一連の国家主義的法案(特定秘密保護法、安保関連法案、共謀罪)に対し、反対をし続けることをキャスターとして表明した(これに対し、右派からの反対意見が読売、産経の全面広告に載ったりした)。番組を降板した後に、この意見広告について聞かれた岸井は「低俗だし、品性どころか知性のかけらもない。恥ずかしくないのか」と答えている。

◆キャスターとしての岸井成格
 安倍政権のメディア締め付けが厳しくなる中、ここ数年でNHK「クローズアップ現代」の国谷裕子キャスター(*)をはじめとして、良心的なテレビキャスターが次々と番組を降板した。国谷も岸井も、時に政権に耳の痛いことを言っても、決してどちらかに偏った意見の持ち主ではなかったと思う。岸井も言っている通り、文明の岐路にあって常にしっかりした座標軸を持って、的確に分析し判断し言うべきことを言ってていく。そのことが大事だと言っているだけである。*)彼女には「キャスターという仕事」という優れた著書がある

 2016年3月、最後の「ニュース23」で岸井は「今、世界も日本も、歴史的な激動期に入りました。そんな中で、新しい秩序や枠組み作りの模索が続いています。それだけに報道は、変化に敏感であると同時に、極端な見方に偏らないで、世の中の人間の良識や常識を基本とする。そして何よりも真実を伝える。権力を監視する。そういうジャーナリズムの姿勢を貫くことが、ますます重要になっていると感じます」と言ったが、今、この信念と批判精神を持って務めているテレビキャスターはどれだけ残っているだろうか。

◆含羞なき時代に生きる私たち
 先のインタビューで辺見庸は、「テレビキャスターがこんなにも薄っぺらなあんちゃん風になった時代ってないんじゃないの。ファシズムの時代って、すべてが子どもっぽくなるんだよ」と名言を吐いている。これは、(どの局のどの番組とはまでは言わないが)私も常々感じていることである。
 サンデーモーニングの関口宏が今年2月に岸井に会った時、既に言葉が出にくくなっていた岸井は、絞り出すような声で「たるんじゃったな、みんな」と言ったそうだ。含羞なき時代。みんなが「たるんじゃった」時代に私たちは生きている、という自覚もまた必要なのだろう。ご冥福を祈りたい。

規制改革という名の破壊 18.5.14

 政府の規制改革推進会議(大田弘子議長)が、先月16日から放送制度の見直しに着手することになった。その始動に当たって首相は、放送制度のあり方について「大きな環境変化をとらえた放送のあり方について、改革に向けた方策を議論すべき時に来ている」などと発言したが、問題になっている政治的公平などを定めた放送法4条を撤廃する考えについては触れなかったという。
 一度は官邸内部の考え方として浮上していたが、メディア関係者からの強い風当たりを意識して、この日は敢えて言及しなかったらしい。しかし、4条を撤廃して政治的に多様な主張を持つインターネット事業者を放送事業に参入させたいという思惑は、規制改革推進会議(以下、会議)の検討に受け継がれていく筈だ。

 会議ではそのほか、外国資本の参入基準を緩めることや、特定の事業者が多数のメディアを保有することを禁じている「マスメディア集中排除原則」の撤廃も検討する。これらは表向き、放送と通信の垣根をなくして多様な事業者の参入を促し、コンテンツ産業の拡大とグローバル化を目指すという、ビジネス志向優先の改革である。しかしそれだけでなく、その根底には安倍のお気に入りのAbemaTVのようなネットメディアを放送へにも参加させて、政権に批判的な既存メディアの力を削ぎたいという狙いもあるというから、安倍政権というのはどこまでも油断がならない。

◆新自由主義的改革を目指す規制改革推進会議とは?
 放送法4条については、以前、政権側(高市早苗総務相)による放送内容の締め付けが問題になったときに2回にわたって書いた(「電波停止発言と放送の自由」2016年)。この経緯から言うと、権力の介入の道具になっている4条を撤廃すれば、放送事業者側も喜ぶのではないかと政府も安直に考えた節がある。しかし、4条は本来、事業者の“自律的な倫理規範”であり、権力が放送内容を取り締まる“道具”と考えることそのものが間違いなのである。もし、4条を変えるとすれば、そうした誤解が生じないように文言を明確にすべきだというのが、コラムの主旨だった。

 こうした議論も一切無視して単純に4条を撤廃すれば、(それを政府は狙っているのだろうが)偏った主張を持つ放送局が公共の電波を使ってはびこることになる。言論の自由や表現の自由には、自ずと責任と自律が必要という民主主義の理念までが崩壊することになる。民主主義の基本的価値観をも危険にさらしながら、他方でビジネス(金儲け)のチャンスを拡大するというのは、実は一連の規制改革会議が目指してきた市場原理主義、あるいは新自由主義経済(グローバル経済)の特徴なのである。一方で、民主主義を担保する価値観や諸制度を破壊しながら、他方で、強欲な資本主義をはびこらせる。この2面性を有する新自由主義経済だが、それを進めてきた規制改革推進会議とは如何なるものか。

◆政権と一体化する規制改革派の学者たち
 議長の大田弘子については、以前は良く経済番組のコメンテーターとして出ていた記憶があるが、ウィキペディアを見ると、最近はもっぱら公的、あるいは企業の委員会などの議長や委員長、座長、委員などに名を連ねており、その数は現在ざっと15に上る。よく言えば政策立案の専門家、悪く言えば政府や企業の都合のいい御用学者として動いている。本格的に経済を学んだ経済学者ではなく、あの竹中平蔵の後継者、弟子筋としての役回りをするようになったらしい。

 政府に関係したのは、小泉政権時代(2002年)に竹中が仕切った経済財政諮問会議で事務方を務めてから。続く第1次安倍内閣(2006年)では民間人閣僚として経済財政政策担当大臣にもなっている。よほど、規制改革をうたい文句にした当時の政権に気に入られたのだろう。第2次安倍内閣(2013年)でも同様の役回りを果たし、2016年からは現在の会議議長になっている。政策としては、法人税を低くすべきという意見の急先鋒で、師匠の竹中ゆずりの企業優遇政策を推進して来た。典型的な政府(財界)御用達の学者である。

◆新自由主義経済を唱えたフリードマンの“そっくりさん”
 竹中平蔵と言えば、経済学者の宇沢弘文(1928〜2014)などから、新自由主義経済の提唱者であるミルトン・フリードマン(アメリカの経済学者、1912〜2006)の“そっくりさん”などと呼ばれるくらい、「できる限り規制を撤廃して市場に任せる」政策の推進論者である。竹中と同類の委員たちは、この間ずっと、フリードマンの教科書に沿って、様々な公的諸制度を市場に解放する政策を進めてきた。その中には赤字縮小を口実に導入された、公立病院や大学の財政の“健全化”策や、非正規労働者を増やすための労働規制の緩和などの政策も含まれている。

 詳しくは、宇沢弘文らの「始まっている未来」を読んで頂きたいが、それらは、社会の安定や豊かさを維持するために、経済原理だけで運営すべきでない社会的諸制度(社会的共通資本)を破壊するものであり、竹中たちがセットした時限爆弾がいまや自治体財政の苦境や大学の劣化、そして社会的格差の拡大となって現れていると宇沢は厳しく批判する。

◆「ショック・ドクトリン」。シカゴボーイズの悪行の数々
 ミルトン・フリードマン(シカゴ大学)は、社会から政府の規制や貿易障壁、既得権などのあらゆる介入を排除し、彼が考える純粋な資本主義の状態に戻すことを理想とした。これを制度破壊による白紙化「デパータニング」という。そうすれば、生態系が自身の力でバランスを保つように、市場の受給も労働者の賃金も適正になり、地上の楽園が出現するという、極めて急進的な自由市場経済学の提唱者だった。彼らにとって、経済性からみて効率の悪い社会保障制度などは、弊害でしかなかったわけである。それは結局の所、強欲な資本家にとって都合のいい主張に過ぎなかったが、彼の教え子たちは、「シカゴボーイズ」と呼ばれて、世界中に拡散した。

 新自由主義経済の信奉者たちは、世界各地でデパータニングの地を見つけて、そこの政権中枢に入り込んでいった。クーデターで軍部が政権を握った南米(アルゼンチン、チリなど)、戦後のイラク、津波に襲われたスリランカ。それは、社会の諸制度が破壊されたショック状態の方が、彼らにとって好都合だったからだ。2005年にハリケーン・カトリーナが襲ったアメリカ南部でも、彼らは早速出かけていって、それまでの公立学校や公営住宅を民間マンションや民間が運営するチャーター・スクールに変えて行った。ショック状態につけ込むこうしたやり方を、ジャーナリストのナオミ・クラインは「ショック・ドクトリン」と呼んで、その悪行の数々をリポートしている。

◆政府の隠れ蓑として暗躍する黒子だち
 一部富裕層の優遇、格差と貧困、治安の悪化などを生む新自由主義的経済政策は、サッチャーのイギリス、レーガンのアメリカなど先進国でも起きたことだった。その流れを汲む日本版シカゴボーイズが小泉内閣以降の規制改革会議の中で暗躍してきたのが日本の姿である。彼らは腰掛け程度にあっちこっちの委員会に参加し、責任を問われない形で政府や財界に都合のいい政策を答申していく。官僚や政府は彼らを隠れ蓑にしながら、実質的な議論のないままに政策を実行していく。

 もちろん全てが間違いとは言えないにしても、彼らが目指した諸制度破壊については、その後、格差や貧困の主要因として批判や反省(中谷巌など)が随分と語られた。しかし、一部の根強い批判にも拘わらず、依然として大田弘子のような“そっくりさん”が政権内に入り込んで、「放送とネットの垣根をなくす」などと主張している。安倍一強の体制の中で、その黒子のような存在は、国民には殆ど見えなくなっているが、本当は彼らこそが陰の主役なのかも知れない。メディアはできる限り彼らを表に引っ張り出して、厳しくその考えを聞き出す必要があるのではないか。

米国第一主義の日本の異常 18.5.1

 4月27日の南北首脳会談については、様々な評価が報道された。その全体をまとめた「オピニオン・社説を読み解く」(毎日5/1)では、評価の分かれ目は「非核化」を優先する観点か、「南北融和」を重視する観点かで大きく分かれるという。非核化という点では、両国の共同宣言の内容は曖昧であり物足りない、と見る一方で、南北融和(平和志向)という点では前進とする論調が多い。こうした中でネットでは、両首脳の新たな関係構築を“歴史的”と評価する「感動の板門店橋上の説得ドラマ、信じることの大切さを教えた文在寅」(4/28)が読ませた。

 いずれにしても、全ては次の米朝首脳会談にかかって来るが、この点では金正恩以上にトランプの出方が読めない。強硬派のボルトン大統領補佐官が言うように、アメリカが(後戻りのない完全な核放棄をしなければ制裁を解除しない)「リビア方式」を考えているとすると、北との交渉は相当ハードなものになるだろう。ご存じのように、核放棄したカダフィ大佐が、結局追い込まれて殺害されたことを教訓に、北朝鮮は核開発に邁進してきたからだ。こうしたことを百も承知でリビア方式を持ち出すアメリカに対して、北朝鮮は一層の疑心暗鬼に駆られているに違いない。

◆この段階で軍事攻撃が始まったら日本は?
 その交渉に関して、トランプは「うまく行かなければ、すぐに席を立つ」と言う一方で、アメリカ高官は先日の日米首脳会談で、「交渉が決裂すれば、軍事攻撃に踏み切るしかない」という考えを伝えている(FNN、4/27)。そうした状況でも日本は相変わらず、「アメリカと日本は100%ともにある。北朝鮮に最大限の圧力を」とアメリカにひたすら追随する。自国を戦場にしない固い決意で主体的に動く文在寅に対して、安倍のアメリカ追随の姿勢が際立っている。

 6月の米朝首脳会談が、アメリカの思うような「核放棄」で進展すればこんないいことはないが、交渉が決裂したときは一気に緊張が高まる。先に政府高官から軍事攻撃を耳打ちされた時、安倍たちがどう答えたかの情報はないが、文在寅政権を軟弱とみる日本が、アメリカの軍事攻撃の示唆に対して「NO」と言った情報はない。しかし、今の段階になって安倍政権が頭の片隅にでも戦争を容認しているとすれば、それは一層危険な事態を招くことになる筈だ。

 というのも、万一、アメリカが軍事攻撃に踏み切った場合、韓国がこれだけ融和的な姿勢を見せた後では、北朝鮮の核とミサイルは以前のシナリオのようには韓国に向かわず、主として日本の米軍基地や原発に向かうからだ。文在寅は、そうしたリスクを回避する意味からも南北会談に踏み切ったと思うのだが、安倍政権はそんなことを少しも考えずに、突出して圧力一辺倒の姿勢をとり続けて来た。アメリカのお先棒を担ぐ形で、各国に「最大限の圧力」を説いてまわり、今も北朝鮮の神経を逆なでしている。

◆国家を暴走させた「国体」の変遷
 何度も書いてきたように、北の核・ミサイル問題の主眼は(北がアメリカと対話したいという)米朝2国間の問題である。それなのに日本はなぜ、自国を危険にさらしてまでアメリカのお先棒を担ぐのか。あるいは、本来は自国の問題である「拉致問題」を何故、アメリカに頼み込むのか。独立国として恥ずかしくないのか。政治学者の白井聡は、この問題の背景には、戦後一貫してアメリカの言うままに生きてきた対米従属国家・日本の「国体(国のありよう)」に根本原因があると指摘する(「国体論」)。

 ご存じのように、明治政府は発足以降、国家統合の中心に天皇を据えるという国体の採用によって、富国強兵のための国民を動員してきた。それが「天皇の国民」である。大正デモクラシーの一時期、主権在民と立憲君主制を徹底させて、天皇の機能を現実の政治から分離する「天皇なき国民」が模索された事もあったが、ファシズムの急進とともに、国民と天皇の運命を同一視し、国民全体が能動的に天皇を支える「国民の天皇」へと変容して行った。そのあげくの暴走が先の戦争だった。

◆戦後も続く疑似「国体」。米国依存の体質
 そうした戦前の「国体」は、敗戦によって消滅したように見えるが、実は姿を変えて続いていると言うのが白井の指摘である。それが、GHQのマッカーサーに代表される「アメリカを天皇の代わりとする新たな国体」の姿だ。戦勝国アメリカによって天皇制は国民統治の手段として利用されたが、戦後はアメリカが天皇の上にあって統治するという新たな「国体」(天皇制民主主義)になる。それは、アメリカが日本の庇護者として日本の平和と安全を担う一方で、日本の対米依存体質の始まりとなる。それが独立後も続くことになる。 

 現在の日本はアメリカに多くの米軍基地を提供し、かつ基地費用の75%を「思いやり予算」として面倒見ているが、そのような国は世界中どこを探してもない。軍事面での対米従属の理由は当初、「東西対立における日本防衛」だったが、冷戦が終わった後は「世界の警察・アメリカの正義への協力」になり、それも怪しくなると「中国や北朝鮮の脅威」の抑止のためとなる。対米従属の現状を合理化しようとする理由の二転三転は、日本が独立国でもなく、ありたいとも思っていないことを示すものだと白井は言う。

◆対米従属の理由を探し続ける日本人
 対米従属は、経済面では確かに軽武装で日本の安全を確保し、軍事費を経済発展に振り向けるメリットもあったが、その後の日本は、日米構造協議などで徹底的に叩かれ、気がついた時には、「ジャパンアズナンバーワン」と言われた一頃の勢いはどこへやら、「失われた20年」に落ち込んでいる。それでもなお、日本がアメリカに追随する理由について白井は、戦後日本の国体は「アメリカの日本」から、今はアメリカのために生きることに価値を見いだす「日本のアメリカ」に至っているからだとする。

 今の日本は、一方的にアメリカと一体視し、「日本の助けによって偉大であり続けるアメリカ」を実現することで自己満足する歪んだ精神構造にある。それは、戦争に突入した時の「国民の天皇」のありようにも近い。もちろんそこには、アメリカと結びつくことによって国内で利権と権力を握る親米保守勢力(自民党右派や外務省)がいるからだが、それと(先の戦争で日本はアメリカには負けたが、アジアには負けていないという)アジア蔑視が結びつくと、今の右翼が街頭で掲げる「日の丸と星条旗」になる(「永続敗戦論」)。

 白井は、右翼に支えられた今の安倍政権には、対米従属の形がより顕著に現れているというが、戦前の「国民の天皇」が暴走し破綻したように、「日本のアメリカ」もやがてはアメリカの衰退と(蔑視している)アジア諸国の台頭の中で、集団ヒステリーに陥り破綻するだろうと言う。今や、日本を蚊帳の外にして目まぐるしく動いている北朝鮮問題だが、これは一面から見れば日本が独立国であるかないかを見るリトマス試験紙かもしれない。こうした見方は、日本の今後を占う一つの視点として常に点検して行くべきものだと思う。

権力亡者たちの人間崩壊 18.4.21

 捜査の対象になっていることを理由にことごとく証言を拒否して、政権に恩を売った佐川元理財局長は、やはり「官邸の守護神」と呼ばれる黒田法務次官の差し金なのか(週刊文春)、結局の所、何の罪にも問われないことになりそうだ(立件見送り、毎日13日)。また、加計学園問題で愛媛県や今治市側と官邸で打ち合わせし、「これは首相案件」と発言したとされる柳瀬審議官(写真)は、相手側にメモが残っているにも拘わらず、「記憶の限り会ったことはない」としらを切り続けている。さらに財務官僚トップの福田事務次官は、セクハラの音声まで聞かされながら、依然としてセクハラではなかったと言い張る。

 皆、人間として根っこが腐った面々だが、続発する不祥事に「嘘の上塗りと言い逃れ」を続ける点では、安倍官邸や麻生も全く同類(同じ穴のムジナ)で、人間性が疑われる言説をまき散らしながら、あくまで権力にしがみつこうとしている。その見苦しい姿は、国民の目から見れば、既に醜悪きわまりない姿になっているのに、政権中枢と党内の安倍支持層は権力にどっぷりと浸っていて、状況を客観視出来ない。この政権は今や“人間崩壊状態”で、芯から腐り始め、その腐臭が同類をハエのように引き寄せている。これが、今の政治の率直な感想である。

◆民信なくば立たず
 二階幹事長は、「国民の皆さんもうんざりしていると思うが、我々もうんざりしている」と言うが、その根本原因は政権の腐敗にある。誰が見ても明らかなのに、目の前に証拠を突きつけられるまでは嘘をつき通す。そして新たな資料が出てくるたびに、別の言い逃れを考え出して逃げる。一連の答弁は既に齟齬(そご)を来たし、矛盾だらけになっているのに、だらだらと引き延ばしてうやむやにしようとする。「もっと議論すべき大事な政治課題があるではないか」という声もあるが、「嘘つきは泥棒の始まり」と言って、そんな輩(やから)を相手にまじめな議論は出来ないというのが、国民に支配的な空気である。

 まさに「民信なくば立たず」(孔子)。責任を明確にして国民の不信感を払拭しない限り、議論しようにも実(じつ)のある議論にならない。このことは誰もが考えることで、私の方も、最近の北朝鮮問題を巡る動き、胡散臭い放送法改正の動き、あるいはエネルギー政策に関する有識者の提言など、書くべきテーマがあっても、どうも気分が乗らない。そこで今回は、その鬱屈を晴らすわけではないが、こうした権力者たちの人間崩壊がどこから生じるのか、それを自らに許す論理は何なのか、について個人的な見方を書いておきたい。

◆上が上なら下も下。失われる日本人の美質
 わかりやすい所では、例えばセクハラ発言を問われて辞職した福田財務事務次官である。内容からだけでも自分が言った言葉だと分かる筈なのに、「録音された音声は自分が骨格を通じて聞く声とは違う」などと屁理屈を言い、さらには「状況で、言葉遊びのようなことを言ったかも知れない」と予防線を張る。テレビ朝日が会見で、セクハラは事実だとした後でも「全体を聞いてみなければ分からない」などと認めない。5000万を超える退職金を減額されたくないためとも言われるが、よく恥ずかしくないのかと思う。セクハラは、相手がそう思えば即セクハラだという基本も理解していない。

 事務次官と言えば官僚のトップなのに、人間としての低劣さを恥じないのは、単純に言えば、その上層部が同じようなことをしているからである。同じように、佐川も「首相も夫人も官邸も(改ざん)には関与していない」と言い張り、「土地取引は正規の手続きで正しく行われた(と確信している)」などと言うが、これも、上が嘘をつきまくっているのに、下だけが正直になれない例である。「上が上なら下も下」。よく言われるように「組織は頭から腐る」のだ。個人であれば、人間としての最低限のモラルとして「嘘をつかないこと」があるが、この高級官僚たちは、日本人としてのモラルや美徳の多くを見失っている。

 以前、コラムで「かつては、日本人の誰もが説明抜きで分かった、正義と恥の感覚、そして、美しさ、はかなさ、清らかさ、つつましさ、雄雄しさ、潔(いさぎよ)さ、寂しさといった美しい日本的情緒。これらは今、どこへ行ったのだろう」と書いたことがある(「憂国の数学者・岡潔」)。今の政権中枢は、この日本人の美質など、薬にしたくともない。正義と恥の観念、潔さがなど皆無である。それは何故なのか。会社の場合は、組織を守るために不祥事を隠し、粉飾決算に手を染めるが、政治の場合は権力を維持するために嘘をつき、未練たらたら権力の座に居続けようとする。

◆改憲という虚構で自らをごまかす
 昔の政治家は、追求されると「地位に恋々とするわけではない」などと言い訳したものだが、それは地位にしがみつつくのは見苦しいという美学があったからだ。しかし、今の麻生も安倍も「辞めたくない」の一点張りで、あくまで地位にしがみつくと言って憚らない。見苦しいと思うが、これには、表と裏の2つの理由があると思う。一つは「改憲への使命感」という虚構である。自民党が目指している改憲は自分にしか出来ないと思い込む“奢り”からで、恥ずかしいとも感じず、そのために、あくまで政権にしがみつくのを当然と思っている。

 そのためには秋の総裁選で勝たねばならず、麻生派の協力は不可欠だから、何としても麻生を切らない。改憲という大義名分のために、安倍たちは自らに嘘をつき、官僚たちにも嘘をつくように強要する。そうまでして恥を感じないのは、改憲を成し遂げるのは、自分しかいないという強烈な思い込みがあるのだろう。安倍のそうした(自分を偉大だと思い込む)性質を、トランプ大統領などとと同じ自己愛パーソナリティ障害(NPD)と指摘するむきもあるが、いずれにしても安倍たちにとって改憲は「自分の恥から目を逸らすための虚構」の役割を果たしていると私は思っている。自民党議員の多くも、その金縛りにあっているが、いったん改憲を忘れれば、多くの真実がはっきり見えてくる筈だ。

◆改憲を口実に権力の甘い汁にしがみつく
 今の日本が直面する政治課題からすれば、改憲などは自民党の美学の一つ、いわば虚構に過ぎない。その虚構にこだわるばかりに、アベノミクスも含めて安倍の現実の政策はむしろうまく行っておらず、バランス感覚のある実務的な政治家の方がよほどいいと言える「劣化と停滞を招いた改憲政治」)。改憲を掲げることで自らを騙して来た安倍政権だが、ここまで長期政権の腐敗が進み、症状も末期的となると、看板の裏側にある真実が見えてくる。それは、権力にしがみつくのは改憲のためではなく、単に権力の甘い汁をいつまでも手放したくないという暗くて大きな欲望である。

 そこでやっていることは、一部富裕層の友達やら右翼支持層への利益供与、そして官僚たちに強いる共犯関係的な従属になる。その無理が、様々な政治的歪みや不祥事を引き起こす原因になり、メディア支配や政権担当者たちの人間崩壊にもつながってくる。その虚構によって目をくらまされて、こうした自分の深刻な病態(人間崩壊)に気づけない、というのが末期症状たる所以である。

◆目を開いて人間崩壊の実体を知る
 問題は、そうした“人間崩壊した為政者”にいつまでも政権を担わせていいのか、ということになる。政治を正常な姿に戻すためには、野党がしつこく政権の嘘を追及するのは当然として、一方の自民党も、ここでいったん改憲を忘れて目を開き、山積する日本の課題を誰にやらせるのがいいのか、素直に考えるべきだろう。そうしないと、党自体が国民から見放されることになる。私たち主権者も、ここでもう一度、人間崩壊した政治家や官僚たちを反面教師として厳しく見ながら、日本人として人間として、何が恥で、何が正義なのかを再確認して行きたい。