「風」の日めくり                           日めくり一覧     
  今週の鑑賞。定年後の身辺雑記

ENY。次男一家の挑戦 17.12.17

 NYブルックリンのホテルに泊まった翌日、迎えに来た次男夫婦と一番下のSちゃん(男児)と4人で近所のイタリアンで昼食をとる。Sちゃんは2歳半。2、3日前に幼児に特有のウィルス性の風邪を引いたというが、この日は元気そうだった。日本の医療保険で見てくれるマンハッタンの医者に連れて行ったら「治るまでそのままでいい。薬もいらないでしょう」と言われたそうだ。後で保険から戻ってくるが、それだけで3万円かかったという。
 昼食後、上の子2人が通っている近所の小学校に一緒に迎えに行った。次男のアパートから歩いて10分の公立小学校で、日本人は2人だけ。ほかには、アメリカ人と結婚した女性の子どもさんが一人という感じである。

◆孫たちのNY生活
 アメリカの小学校の場合、行き帰りは必ず父兄同伴と決まっていて、終業時間になると、校庭に多くの親御さんが迎えに来る。見ていると実にいろいろな人種の人々がいる。時間になって校舎の扉が開くと長男のK君(9歳)と長女Kちゃん(7歳)が手を振りながら出てきた。3月末に一家で移住してから半年ぶりの対面で、互いにハグする。元気そうだ。友達たちともバイバイと挨拶をしている。K君は年齢的には4年生なのだが、英語の理解力もあって3年生から始めたという。英語も全く分からないまま放り込まれて、良くクラスに溶け込んでいると思うが、まあ何とかやっているらしい。

 宿題も多いみたいで、それを毎日片付けるのが大変らしく、頑張り屋のK君が夜遅くまで泣きながら奮闘しているというので、「無理しないで少しずつ、少しずつ。Step by step」と励ました。問題を見ると、まずは英語の問題を理解するのが難しいのだから、それも仕方がない。K君のクラスの黒人の男子生徒などは、もうかなりの体格になっている。「いじめはないの?」と聞くと、母親は「いじめといった陰湿なのはないけど、乱暴者はいる」とのことで、先日もK君は(ふざけ半分に)殴られて鼻血を出し、学校の保健室から家に電話がかかってきたそうだ。そんな中でも、元気にやっているのだから、子どもの適応力はすごい。

 K君は今、好きなことに熱心に取り組んでいる。その一つがジャズダンス。先生のスタジオに通って踊りを習っている。それを学校の舞台で披露して、みんなから拍手と歓声を浴びていた。もう一つはバレエ。これは、マンハッタンのリンカーン・センターの中にある「SAB(The School of American Ballet)」のオーディションを受けて合格し、タダで毎週レッスンを受けている。私の孫がバレエとはちょっと想像できない展開だが、次男も奥さんも美術大学出身でアートには理解のある方だ。親が撮った写真を見ても、開脚なども180度以上で踊るのがホントに好きらしい。











 長女のKちゃんは、1年生のクラス。まあ、彼女の方は日本語もまだまだなので、分からない英語の中でも適当にやっているのだろう。いたって元気である。個性派の彼女はアートスクールに通って好きな絵を描いたり、粘土で器を作ったりして楽しんでいる。一番下のSちゃんも、楽しく遊んでくれる先生のところに通っていて、孫たち3人は三人三様のアートな生活を楽しんでいるらしい。

◆親たちの思い
 親たちも、学校の送り迎え、ジャズダンスやバレエの教室への送り迎え、などなど大変だと思うが、次男に聞くと「好きなことをやらせてみたい。日本ではなかなかこうはいかないから」と言う。奥さんも同じように考えていて、大変だけど子供たちの成長を楽しんでいるようだ。次男は「日本の教育は、決まったことを教えるというふうになっているけど、考えさせたり、好きなことを伸ばしたりする教育があってもいいのでは」と言っていた。
 私などは、孫たちが何年か後に日本に帰ってきた時に、日本の学校になじむかどうかが心配になるが、その一方で、こうして好きなことに打ち込んだ時間は、彼らの将来において宝のような記憶になるかも知れないとも思う。

 デザイナーの次男は、日本の仕事を受けつつ、アメリカでの仕事も開拓し、一方でアートの方でも可能性を確かめるべく、あれこれ模索している。それがどういうことになるのか、親の私には皆目見当つかないが、ブルックリンのアパートで一家五人で暮らしながら皆で頑張っているのには、頭が下がる思いがする。まだ39歳と若いから頑張れるのだろう。それにしてもNYの物価は、日本に比べて50%ほど高い。ラーメンなども、千円くらいする。デザイナーという仕事がどんなものなのかも分からないが、そんな何かと不便で慣れない生活の中で、アートの方でも個展を開いたりして、夫婦で助け合いながら夢に向かって頑張っている。

◆Sちゃんの高熱にハラハラ
 奥さんの手料理をみんなで食べた翌日、ホテルに迎えに来たSちゃんが何だか熱っぽい。その日は、ブルックリン橋のたもとの公園に遊びに行く予定だったが、すぐにアパートに戻った。そこで孫たちと遊んで夕食をとる頃になると、Sちゃんの熱がかなり高くなった。見た目は元気そうだが、心配だ。そして夜には熱は40度に。奥さんが、ネットで病気のことをあれこれ検索して、大人用の熱冷ましを砕いて、少量にして飲ませる。ネットでは「心配ないが、高熱で脱水症状になるのが怖い。そうなったら迷わず救急病院へ」等と書かれている。

 しかし、近所に救急病院はあるけれど、どんなところなのかよく分からない。特に入院したりすると、保険が効かないのでものすごい高額な医療費を請求されるようだ。私は、それでも「必要な時には、救急車でも何でも呼んで行く方がいいよ」と言い、内心「夫婦が病院に行ったら、私がアパートに残って上の2人を面倒見ることになるだろう。そうなったら、あさっての帰国は延そう」と思っていた。しかし、熱冷ましを飲んだSちゃんは、そのまますやすやと寝始めた。私は、「いつでも駆けつけるから」と言って次男にウーバーでタクシーを呼んで貰い、ホテルに戻った。

 翌朝、奥さんから「Sちゃんは、熱も少し下がって元気になりました」とメールが。すごくホッとして、その日はホテルに待機しながら本を読んだり、あれこれ考えたりして充実した時間を過ごした。午後、上の孫たち2人と次男がホテルにやって来て、そのまま3人と夕食を食べる。そして、2人とハグしながら別れのあいさつ。次男には「君たちが帰国するまで、オレも元気で頑張る」と言って握手して別れた。Sちゃんも夜にはすっかり元気になったようだ。やれやれ。次男夫婦は、これまでも子供たちが40度の熱を出したことが度々あって、慌ててはいなかったが、海外での医療事情の現実にちょっぴり触れた1日だった。

◆2週間ぶりの我が家
 翌朝、天気予報ではハリケーン崩れの低気圧がNYにやって来そうなことを言っていたので、早めに空港に着こうと午前4時にホテルをチェックアウト。猛烈に飛ばすタクシーに乗って20分でJFKに着いてしまった。天気が荒れることもなく、飛行機は無事NYを出発。スルーではなかったので、トロントで荷物を積み替えて、また12時間。次の日の午後4時に成田着。LINEで無事帰国したことを次男に伝えた。

 その日の夕食は、久しぶりの煮魚と刺身と味噌汁。ゆっくりと風呂に浸かりながら2週間の旅を回想しつつ、無事終えたことに感謝した。今回のカナダからNYへの北米旅行は、若い人たちに混じっての旅行やNYへの一人旅など、随分と注意しながら過ごす日々ではあったが、終わってみると、その非日常の日々を楽しんだ気がする。もう、あまりハメを外すことは出来ないが、異国で頑張っている次男一家に思いをはせつつ、自分もまだそれなりのコトには挑戦しても良さそうな気分になった2週間でもあった。(北米旅行、終わり)

DハリファックスからNYへ 12.10.28

 ファンディ湾沿いのセントアンドリュースに1泊した私たちは、翌日ツアー最後のイベントの「ホエールウォッチング」に出かけた。今回で3度目だったが、最初の時にゾディアック(ゴムボート)に乗って波をかぶり、パンツまでびしょ濡れになったことを考えて、今回は完全武装しボートのへさきに乗り込んだ。結局、この日は2時間ほど走り回ったが、全く濡れはしなかったものの、クジラは遠望するのみに終わって、午後には会議会場があるハリファックスへ。いよいよ各国から120人のジャーナリストが集まるメインイベントが始まった。

◆沢山の行ってみたいところ、紹介したいところ
 2日間続いたカナダ国内の観光担当者とのミーティングでは、懐かしい顔ぶれの人たちにも会い、「是非また来て下さい」と声をかけられた。2度行った「赤毛のアン」の「プリンス・エドワード・島」の担当者、そして8年前に西海岸のバンクーバーから東のトロントまで6泊7日(途中ジャスパーで2泊)の旅程で乗った大陸横断鉄道「VIA RAIL」の担当者からは「列車が新しくなったので是非」と言われた。そして、2015年に取材した国立人権博物館担当者など。お陰様で、私のGoMediaの取材はもう8年にわたって毎年のように続いている。

 そのたびに会議の前後の付加された取材ツアーにも出かけて、その様子を日本のカナダ観光局のサイトや雑誌に書いてきた。ありがたいことである。今回のミーティングでも、行ってみたいところ、日本に紹介したいところは幾つもあった。オンタリオ湖から流れ出るセントローレンス川上流の広大な水域に1000の島々が点在する風光明媚な「1000 Islands」。毎日、海の向こうに息をのむような日没の夕景が見られる西海岸の「Sunshine Coast」。そして冬の嵐が海辺に引き起こす巨大な波、それをめがけてサーファーたちが集まる西海岸のビクトリア島「Tofino」。海岸沿いに点在する40を超える歴史的な灯台(中には木造のものも)を巡る道が整備されている「Quebec Maritime」などなど。

 こうした魅力的な場所が、カナダにはまだまだ沢山ある。観光立国をめざすカナダでは、そのいずれにも、旅を楽しむアクティビティと、自然と調和した観光施設が整っている。ここ数年、これが最後かと思いつつ出かけているが、こうした8年が持てたことをまずは感謝しなければならない。同時に今回も、日本から参加した観光局の担当者、テレビ、雑誌、ネットなどメディア関係者12人と、いろいろ話しが出来たことも勉強になった。この間、会議全体で見るとネットメディアの関係者が増えて、かつてに比べて「メディア状況が一変している」とも感じた。こうして出会った若い人たちと、帰国後も「GoMediaの会」などで、お付き合いが続いていることもありがたいことである。

◆NYへ行く前に、思わぬ指摘を受けてびっくり
 それはともかく、ハリファックスに着いた晩、日本のカナダ観光局の方たちと久しぶりの“日本語での会食”を楽しんだが、その時に話しの展開から偶然に、今回の旅行に関して思わぬ落とし穴を指摘されて大慌てした。旅行の最後にアメリカのNYに移住した次男一家を訪ねることになっていたわけだが、アメリカに入るのに必要な電子渡航認証システム(ESTA)を申請していなかったのである。以前は大使館に入国許可証(VISA)を貰いに行っていたものだが、もうそんなものは必要ないだろうと、うっかりしていた。それが今は電子手続きになったという。

 カナダに入る際は同じくeTAというのを手続きしてきたのだが、アメリカは失念していた。簡単に入れるものとばかり思っていた。そこで慌ててパソコンから申請してみると、ギリギリの72時間前に申請するようにとあったので冷や汗をかいた。食事の間にこの話題が出ずにうっかりしたまま空港に行って、そこで入国不許可ということも十分あり得たわけで、ハリファックスの後からは一人旅になるので、何かと注意しようと思った一件である。もう一つ気がかりだったのは、ハリファックスからトロント経由で別会社の飛行機でNYに行く時に、預けた荷物(スーツケース)がどうなるかと言うことだった。

 会議に参加者した旅慣れた知人に確かめると、行くときも、NY〜トロント〜成田で帰るときも別の航空会社になる場合(私の場合はAIR CANADAからDELTA)は、経由地のトロントでいったん荷物を受け出し、入国審査を受けて再びその飛行機に積む必要があるという。往きのトロントでの乗り継ぎは2時間弱しかなく、もたもたしているとDELTA便に乗り遅れてしまうかもと結構緊張して、その案に基づいて、出国検査や入国審査、あるいは通関手続きの手順をシミュレーションしたりもしたが、結局の所、そのアドバイスは半分当たって、半分違っていた。

◆NYまでの長い一日
 トロント経由でNYに向かう日、チェックインカウンターで荷物について聞いてみると、「スルーで行けます」とのこと。荷物は経由地のトロントで自動的に積み替えられて、そのままNYまで行という。トロントでは私だけが乗り換えればいい。ただし、帰国の時はこれがダメでNYのカウンターで聞くと、「スルーになりません」という。いったんトロントで荷物を受け出し、荷物を転がして電車に乗り、別のターミナルまで運んで、そこから成田行きのAIR CANADAに積むことになった。それでも、帰りは乗り継ぎ時間がたっぷりあったので、大丈夫だったが。

 そんなこんなで、朝早く日本からの参加者とともにハリファックスを立ち、トロントからは私一人でNYのJFK空港に向かった。何も知らずDELTAのカウンターを探していたら、目当てのDELTA航空はターミナル3ということが分かって、一駅だったが空港内電車に乗って移動しDELTAを探してチェックイン。手荷物検査をしようとしたら、その前の待合室で待つように止められた。何でも、預けたスーツケースが無事に乗り継いだかどうかを確かめる手順らしい。「25分以内にお前の名前がモニターに出るから、そうしたら乗り継いでいい」ということのようだ。なるほどこう言うシステムか。

 名前が出たのでホッとして、搭乗手続きに向かうと今度は、今度はコンピュータの画面で荷物の内容などを申請する「通関手続き」が待っていた。迷っていると「日本語の画面を選べ」と係官が言う。それを済ませてやっと出発までこぎ着けた。トロント〜NYは2時間弱で着く。着いてから荷物請け出しの場所までは10分も歩かなければならなかったが、たどり着くと、預けたスーツケースは無事NYに着いていた。そこからタクシー乗り場まではすぐ。次男に教えて貰っていた通りイエローキャブに乗り込んで、彼ら一家の住むNYブルックリンに向かった。

◆NYに移住した次男一家に会う
 空港からの道は大渋滞だったが、その間、アメリカ用のWIFI器に切り替えてLINEで息子とやりとりをしながら過ごす。普段は40分くらいと言うが、この日は1時間半ほどもかかって、息子が予約してくれたホテルに到着した。息子が長男のK君と一緒にロビーで待っていた。朝6時に起きて荷造りし、朝食をとってから、NYに着くまで12時間。もう夕食の時間だったので、その晩は近所のフードコートで2人と簡単に夕食を済ませ、ベッドに潜り込んだ。3月末にNYに移住してから7ヶ月。彼ら一家5人がどんな生活をしているのか、4日間と滞在は短いが、知るのが少し心配でもあり、また楽しみでもある。

C神秘の無人島に惹かれる 17.11.8
 今日もホテルが変わるので、朝6時45分には荷物をバスに積んで、それから朝食。8時にファンディ湾国立公園の周囲を巡るツアーに出発した。これは、湾沿いの美しい景観を見て歩くために開発された観光ルートをたどるもので、このルートの開発者の娘さん(といってもおばあさん)のビバリーさんが案内してくれた。湾を見渡す崖の上には所々に眺望台が出来ていて、そこで美しい景色を眺めながらビバリーさんの話を聞く。









◆国立公園の観光ルートを行く
 この日も晴れ。崖の上から見渡す海辺と岬、可愛らしい灯台、潮が引いてきた時の入り江の風景。ロブスター漁の港なのだろうか、つないである船たちは皆、干上がった砂浜に船底をつけている。









 眺望台に腰をかけながら、ガイドのビバリーさんがファンディ湾の成り立ちなどについて説明してくれる。私はと言えば、昨日から湾の水平面に霞んで浮かんでいる一つの島が気になっていた。蜃気楼のように神秘的な様子を漂わせている島だ。周りのくっきりした風景の中で、そこだけが何故か霞がかかったように霞んで見える。やがて、ビバリーさんがその島について話しを始めた。
 「あの島は、High island(高い島。フランス語でIsle haute)と言って、島の周囲が切り立った高い崖で出来ていて、一般の人が島に上陸するのは禁じられています。今は無人島ですが、昆虫などの珍しい種類がいるので、許可なく草木一本持ち出すことは出来ません」とのこと。









 これを聞いてますます興味がわいた私は、忘れるといけないと思って同行のローズさんに島の名前をメモ帳に書いて貰った。そして「チャンスを見つけて、島の生態系などの研究者と一緒に上陸できれば面白いかも。ファンディ湾の奇岩群と世界最大の潮の干満差、それに伴う川の逆流などの様子を紹介しながら、最後に無人島に上陸するというのはテレビの企画としてどうだろうか」と思った。そこで、彼女から紹介されたサイトから島についていろいろ当たってみた。

◆神秘の島「High island」
 その島High islandは、見た目より小さくて長さ3キロ、幅400メートルほどの長円形をした島だ。ビバリーさんが言ったように、その周囲は高さ100メートルもの急な崖になっていて、そこから這い上がるのはロッククライミングするしかない。しかし、一カ所潮が引いたときに出来る砂州があってそこからなら比較的簡単に上陸できる。この島は周囲の陸地とは違って、2億年前のジュラ紀に火山の噴火で出来たらしい。

 かつてカナダの先住民(ミックマック)は、この島から石器を作る材料を得ていたという。その時の名前は「野生のジャガイモ」を意味するものだったが、1604年、カナダに最初に渡ってきたフランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランは、この島の急な崖を見てIsle haute(高い島)と名付けた。その後19世紀後半には灯台が作られ灯台守の一家が住んでいたが、戦後暫くして火事で焼けて、今は無人の島になっている(写真はネットから)。何だか、神秘的な島である。


 

 その後、様々な資料映像なども見ているが、私の属している制作会社は適当な「旅番組」を持っていないので、これがテレビの企画になるかどうかは微妙なところ。ファンディ湾そのものについては、かつてNHKの「世界で一番」(BSプレミアム)でやってはいる。難しいところだが、その霞がかかったような島影の写真を見ながら私は思いを捨てきれないでいる。(旅番組を持っていれば、カナダにはこうした「行ってみたい、紹介してみたいところ」が沢山ある。それはこの後のGoMediaの会議の中で書いてみたい)

◆セント・アンドリュースのホテルで
 午後、ファンディ湾の観光ルートに別れを告げ、その日の宿泊地セント・アンドリュースに向かう。夕方、アルゴンキンホテルというしゃれたホテルにチェックインしたあと、私は「鮭と一緒に泳ぐ」のイベントはパス(もっとも行ったメンバーによればあいにく鮭はいなかったそうだ)。
 夕食は湾でチョウザメの養殖に成功したイタリア移民のオーナーの熱弁を聞きながら、そのチョウザメの卵(キャビア)の試食をしたりした。こちらも中々に長い夕食で、終わったのは11時を回っていた。明日はこの事前ツアーの最終日。午前中に「ホエール・ウォッチング」をしてから、会議のあるハリファックスに向かう。ここまで、若い人たちに混じって何とか旅を続けいている。
B干満差が世界最大の湾で 17.10.29

 翌日はホテルが変わるので、7時45分にスーツケースをチャーターした観光バスに積み込んで出発。今日はいよいよ世界最大の潮の干満差で有名なファンディ湾(Bay of Fundy)沿いの奇岩群(Hopewellrocks)を見に行く事になっている。このファンディ湾周辺はカナダの国立公園になっていて、そこのレンジャーの案内でまずは、陸地の森の中を歩く。川を綺麗に保って鮭の遡上を維持している様子を取材したり、森の中に作られた木製の歩道を歩いて滝を見たりした。

 この日も上天気で、緑溢れる森の中の空気がうまい。雑誌記者やネットのブロガーのジャーナリストたちは盛んにレンジャーの話をメモしたり、写真や自撮りのリポートを撮ったり、それをその場でネットにアップしたりと忙しいが、私の方はテレビの企画探しだけなので、比較的のんびり構えている。

◆干潮時、奇岩群の浜辺を歩く
 昼食をとった後、干潮時になったのでHopewell岬から湾沿いの海岸に降りることになった。岬は崖の上にあるので、そこから坂道を歩いて下っていく。さらには、海辺まで結構急な階段を降りていく。なんでも150段あるそうだ。階段の途中に見晴台があるので、そこから崖下を眺めると、幾つもの巨大な奇岩がそそり立つ風景が見えてきた。大きな岩の下の方が(海藻が着いているために)濃い色に変色していて、そこが削られて細くなっている。一日2回の潮の満ち干で、寄せては返す流れで削られた跡である。









 浜辺に降りて、岩の根元まで歩いて行く。ここは満潮時には人の背丈以上に海水が満ちるのでとても歩いてはいけないが、今は干潮時。海部沿いにどこまでも歩いて行ける。崖上から見ると、観光客の姿が点々と小さく見えるのに比べて岩の大きさに圧倒される。その岩に近づいてみると、足元から20メートルくらいもあるだろうか、洞門の穴のようにくりぬかれた巨岩や、割れて寄り添うような岩の柱が自然の造形美を作っている。 この穴、満潮時には海水に満たされて通り抜けできなくなる。









 これらは、元々は砂岩の崖だったのが、風雨に浸食されて割れ、足元が波に洗われ、こうしたユニークな形になったという。去年の3月には、その奇岩群の一部が大きく崩れ落ちた。今は、ロープを張って近づけないようになっているが、その場で、案内のレンジャーが崩落の瞬間の、迫力ある動画をiPadで見せてくれた。

◆世界最大の干満差を生かす
 2時間の散策の後、再び急な階段と坂道を歩いて崖上にもどる。前夜の夕食時に、今回の受け入れと案内をしてくれる地元観光局のローズさんに、「私は72歳ですよ」と言ったら「信じられない!若く見える!」などと驚いて見せてくれたが、息が切れないようにゆっくり歩いて崖上に到着すると、彼女は(やはり、ちょっと不安だったのか)「やった〜(You've done!)」と言ってハイタッチしてくれた。

 ファンディ湾の潮の干満差は、大潮の時で16メートルにもなり、世界最大である。湾沿いの港には船の桟橋が作られているが、干潮時にはつないである船がみんな砂浜に底をつけている。これが満潮時になれば、浮き上がって桟橋から乗り降りできるというわけ。この辺の構造物はそうした干満を考慮した高さになっている。また、湾に面した幾つかの川では、満ち潮の逆流を利用したサーフィンやボートでのラフティングが観光名物になっている。ファンディ湾に出入りする海水の量が大きいのと、川の河口が狭くなってその水かさが一気に上がることがいいらしい。

◆最初のロブスター料理
 さて、奇岩群の散策を終えた私たちは、夕刻、ファンディ湾沿いのホテルにチェックイン。ここには、シーフードがウリのレストランがあり、その日のディナーは念願のロブスター料理だった。一緒に歩いたり、写真を取り合ったりしているうちに若いメンバーとも打ち解けてきて、彼らがどういうメディアに携わっているのかもようやく分かって来た。その興味深い話しは後ほど書くことにして、私は体力を使った後の地ビールを飲みながら、今回のツアーで最初のロブスター料理を楽しむことにした。この日の夕食は、幸い9時に終了。10時にはベッドの中にいた。

Aモンクトン市を見て歩く 12.10.28

 トロント経由でカナダ東海岸ニューブランズウィック州のモンクトン空港に着いたのは9月27日の深夜0時半だった。幸いスルーで送ったスーツケースも無事届いており、同じ飛行機で着いた中国人のウェイ君と観光局が手配してくれた車に同乗してホテルへ。チェックインして寝たのは2時だった。翌日は7時に起きてシャワーを浴び、朝食をとって10時からモンクトン市の観光担当者の案内で市内観光(取材)に出かけた。

◆壁画アートの街
 ここモンクトンは、日本とちょうど12時間の時差がある。昼の12時が日本では夜の12時になるので、腕時計はそのまま使える。何だか眠いような、眠くないような気分だったが、車での移動なので、楽と言えば楽だ。今回のツアーの参加者は、中国、韓国、ブラジル、ドイツ、イギリス、それにカナダ国内2人、そして私の合計8人。しかし、全員が揃うのは今晩のディナーからということで、まずは、5人ほどで、最近市が観光政策のために力を入れている「壁画アート」を見て歩く。3年前から始まったこのプロジェクトは、ビルの壁や塀に有名アーティスト(世界の著名な画家も)に壁画を描いて貰うという試みである。










 中には、廃棄物を利用して巨大なウミガメを作り上げたアートもあった。様々なプラスティック製品、タイヤ、ブリキの廃材などで構築されている。湾沿いに流れ着いた素材もあり、環境汚染に警鐘を鳴らす作品となっている。









 あるいは駐車場に面したビルの壁一面に描かれた都会の雨の夜の風景。少し近寄ってみれば、なるほど丁寧に描かれている。駐車場の車とマッチして雨の風景が音楽を奏でそうな楽しい絵になっている。その他、先住民を描いたものや、リアルな鳥を描いたものまで、市内に30カ所ほどに巨大な壁画が描かれており、それを見て歩くための地図も用意されている。










◆世界最大の干満の差
 モンクトンは、都市圏の人口が13万人ほどで、カナダ東部で急成長している都市だそうだ(ウィキペディア)。ここの観光の目玉は、何と言っても世界で最も干満の差が大きいと言われるファンディ湾に近いことにある。ファンディ湾のその風景については、別途紹介するとして、モンクトンはそのファンディ湾に注ぐチョコレート川に面している。ホテルから歩いて5分ほどだというので、満潮の時間に湾の海水が川をさかのぼってくる光景(これを「Tidal bore」潮津波という)を見に行った。午後3時45分の満潮の時間に行って待っていると、河口の方から川の水が逆流してきた。

 大潮の時は、この波に乗ってサーフィンも出来ると言うが、このときは、大潮ではなかったせいか、期待していたほどの逆流を見ることが出来なかった。しかし、確かに川には干潮の時よりかなりの高さに泥の跡がくっきりとついている。チョコレート川とか泥の川とか言われるのは、この川の水が真っ茶色だからだろう。広大なファンディア湾にはここに注ぐ川が幾つかあって、中には急流になって、ボートでその逆巻く波を乗って遊ぶ「ラフティング」が売りものの川もある。それが、どの位の大きな差なのかを実感するツアーについては、次回「ファンディ湾を歩く」で紹介する。

◆不思議な感覚を生むマグネティックヒル
 ここには、もう一つの観光名所がある。それは、何かの番組で一度見たことがあったと思うが、錯覚によってエンジンを切った車が自然に坂道を上っていくような感じになる道「マグネティックヒル」だ。まずは、車で坂を下っていくように走って行って、ちょうど一番低くなったと思うところで、エンジンを切ってみると、車が何もしないのにバックで後ろに動いていくのだ。今まで坂道を下っていったと思っていた道が、実は上っていたというわけ。何だか、不思議な感じだが、向こう側の坂が急なために、こちらの道の勾配を錯覚してしまうらしい。

 まあ、そんな市内観光をしながら、全員の到着を待ってホテルから、その日のディナーに向かう。参加者は、先ほど上げた8人(男性5人、女性3人)と市の観光担当者。市内では有名なレストランでカナダ東海岸の名産、オイスター(カキ)を食べさせる。残念なことに、私は相変わらず、英語での会話の半分も理解出来ない。でも、そのことについては、もう覚悟も出来ているので余り苦にもせず、淡々とおいしいものを味わうことにした。ただし、行く前の心構えの通り、腹八分目、アルコールも控えめに。そうしないと、この若いジャーナリストたちに混じってのツアーにはついて行けないからだ。

 ブラジルから来た青年や中国から来た青年、それに韓国から来た女性ジャーナリストなどと少しずつ話しをしながら、カキ料理(生ガキは少しにして熱を通したものを中心に)、シーフードチャウダーなどを食べる。ただし、こうした夕食が長いことはいつもの通りで、夕方7時半にホテルを出発したバスが、食事を終えて戻って来た時は夜11時を過ぎていた。ツアーの初日にしては、結構ハードな日程をこなしたことになる。明日は6時に起きて荷造りし、7時45分にはいよいよファンディ湾沿いの散策に出かけなければならない。私は、何も考えずに胃薬と睡眠導入剤を飲んですぐに寝ることにした。何しろ睡眠が一番大事だから。(つづく)

北米旅行@行く前の緊張 17.10.17

 2週間の海外旅行から先日帰国した。半ば取材旅行で、半ばプライベートな旅である。行先は、前半がカナダ東海岸のあちこち。後半4泊が息子一家5人の住むNYブルックリン。特に前半には、各国のジャーナリストに交じって日本人は私一人の、結構ハードな東海岸の国立公園や観光名所を取材して歩くツアーが組まれている。事前に送られてきたスケジュールを見ると、奇岩の並ぶ海岸の散策から鯨ウォッチング、あるいは、川を遡上する鮭と一緒に泳ぐ、などというのもある。メンバーと一緒の食事も含めて、朝から夜までかなりのイベントが組み込まれている。

 もちろん、私のような老齢は一人だけ、あとは息子や娘のような若者に違いない。4年前に同じカナダ観光局のご招待で、日本人の私一人が若い女性ジャーナリスト4人と旅をしながら、「プリンス・エドワード島を食べ歩くツアー」をしたことが脳裏によみがえって来た。果たして、体力は持つのだろうか、私の胃はカナダの量の多い食事に耐えられるだろうか。これまで何回も参加しているイベントなので、何とかなると思う一方で、やはり出かける前はかなり緊張した。特に、出かける2週間ほど前に、何度か胸の痛みを覚えて心臓の検査をしたりしたので。。

◆行く前のどっきり。心臓検査
 その時は、かかりつけのクリニックに行き心電図をとってもらった。すると先生が「ちょっと気になる」と言う。そこで2日後に、より精密な「心臓エコー検査」を予約した。出かける直前になって困ったことになったと思ったが、心配を抱えて出かけるわけにはいかないので、観光局に迷惑をかけるが、結果次第では旅行を取りやめることにした。事前にその旨を知らせておいたほうがいいと思って、日本の担当者にメールしたら、「お体が第一ですのでご心配なく。診断の結果がいいことを祈ってます」と心優しい返事をもらった。 

 2日後に詳しく検査した結果は、「何も問題はありません」だった。ちょっと腑に落ちない気もしたが、そういうことなら取りやめる理由はない。再び参加する旨をメールした。そんなこともあって、出かける前は、いかに無事にこの旅を切り抜けるか、健康に注意しつつ、緊張感をもって臨むかを考えた。72歳のちょっとした冒険にはなったが、行く前に、この2週間の旅を自分に納得させるために、また、旅を無事に終えるために、考えや心構えを整理したりもした。1回目はそれを書くのだが、その前に今回の旅について簡単に触れておきたい。

◆7度目のGoMedia会議。出発前の準備
 旅のメインは、カナダ観光局主催のGoMedia会議というもので、世界各国からジャーナリスト120人ほどが招待され、3日間にわたってカナダ各地の観光担当者との間でミーティングし、メディアにとって興味深い情報を得ることにある。また、この会議に付属しているのが、少人数に分かれての国内ツアーだ。今回、私は会議の前に5日間、東海岸ニューブランズウィッグ州のファンディ湾沿い国立公園などを旅した。ツアーのタイトルは「ファンディ湾沿いのオーシャン・アドベンチャー」という。このアドベンチャー(冒険)というのも、出かける前の緊張の一つだった。

 そこで例によって、スーツケースに詰め込むもののリストを作り、一つ一つ揃えていった。現地の気温は現在、日中は10度前後だが、朝晩は零度近くにもなるというので、ユニクロで買ったダウンやセーター、厚手の綿パンなどを。日本の担当者の指示で、カナダに入るのに必要な(ビザ代わりの)「eTA」という手続きもネットを通じて行った。さらに、直前になってふと、今のiPhoneは海外でも使えるのだろうか、という考えが頭に浮かんだ。電話会社に確かめてみると、「使えないタイプの契約になっております」とのこと。

 現地では、Lineで頻繁にNYの次男と連絡する必要があるので、焦ってネットをあれこれ検索して「イモトのWiFi」という機器を借りていくことにした。これがあると、現地で簡単にインターネットに接続可能で、Lineなどのタダの電話が、日本やNYと行える。これもネットで予約し、成田で受け取って使い方を説明して貰って持って行くことにした。2週間、カナダとアメリカ用で約2万5千円である。ホテルや空港などのWiFiを利用する最終手段もあったが、結果から言えば、これがかなり役に立った。

◆出かける前の心構え
 また、前述のような事情もあったので、出発前の成田では目一杯、医療保険は無制限の旅行保険(AIU)にも入った。ただし、去年4月に前立腺ガンの手術をしたことを申告すると、その病気に関する医療については300万円が限度です、と言われて苦笑い。もう後遺症もないに等しいが、なるほどテキはしっかりしている。とまあ、そんな風に事前の準備をしながら、出かける前、旅の間の“心の揺れ”を抑えるために、心構えのポイントをノートに書き付けた。それは以下のような簡単なものである。

・旅とは非日常。様々な予期せぬ出来事も含めて、その非日常を楽しむ。
・あまり些細なことは心配しない。起きても何とかなる。
・慌てずに、一つ一つ対応していく。
・一人で移動するときは、心配なことは前もって出来るだけ確認しておく。
・アルコール類、食事の量、体力などは後に持ち越さないように80%を目指す。
・年齢を考えて休息は十分にとる。場合によってはイベントをパスする。
・今回の旅の成果を、発信やテレビの企画、一つの体験として今後に生かす。

 9月27日、いよいよカナダ航空で出発した。成田からトロントへ11時間、さらにトロントで5時間待って乗り換え、2時間後にモンクトンという湾沿いの小都市へ。着くのは現地時間の深夜零時過ぎ。朝6時半に起床してから、ホテル着までの29時間半の長旅に、まずは一人で耐えなければならない。  (つづく)

第2の書斎を見つけて 17.8.18

 6月下旬に近所のサイゼリヤが閉店になった話は、前回書いた。ここ10年近く、店がすいている時間に行って読書をするのに利用していた店である。店員さんたちも感じが良く、何より冷暖房完備がありがたかった。閉店後、そこにどんな店が入るのか注視していたが、一向にその気配はない。解体するわけでもでなく、放置している感じである。そうこうするうちに、たちまち猛暑がやって来て、どこかにサイゼリヤに代わるような場所がないかとあれこれ探索していたら、足元に大変便利な所を発見した。

 そこは、歩いて5分もかからない市民会館で、我が市には過ぎたる立派な建物の2階にある。数年前まで市民が利用するためのカフェだったが、今は閉店して休憩所になっている。飲み物の自販機があり、テーブルと椅子が幾つも並んでいて、時間さえ選べばごく静かな場所である。高校生などが、勉強などで長時間場所を占拠することは禁じられているらしいが(張り紙がある)、私などがいくらいても誰も文句は言わない。時々、習い事を終えたおばさんたちがやって来ておしゃべりする以外は、静かだ。そこを利用することにした。

◆読書「石牟礼道子」
 朝10時過ぎに行って、自販機から紙コップの100円のブルーマウンテンを買い、テーブルに座って読書をしたり、切り抜いた新聞を読んだり、ボーッとしたり。サイゼリヤでやっていたのと同じ時間を過ごすことになった。その時間は、殆ど誰も居ない。そこで何冊かの本を読んだ。印象に残ったのは、作家、石牟礼道子の世界を解説した「もう一つのこの世」(渡辺京二)である。「苦界浄土 わが水俣病」を書いた石牟礼道子については、その昔読んだことがあったし、水俣にも行った。彼女が書いた能「不知火」を東京で観たこともある。

 それは、水俣をベースに膨大な著作をものしている石牟礼道子のユニークな世界を分かりやすく解き明かした本である。石牟礼は、不知火海をベースに文明化する前の、人間と自然が混沌として一体になっていた頃の世界を描いている。渡辺は彼女を世界的に見ても巨大で特異な作家だと力説する。次に、その彼女を思想家として捉えた「魂の道行き」(岩岡中正)も読んだ。彼女が水俣病の患者とともに思索を深めていった世界は、もし適切に英訳されれば(チェルノブイリを描いた作家、スベトラーナ・アレクシェービックのように)ノーベル文学賞に最も近い作家になったかも知れない。

 それにしても、彼女の描く世界がこれほど深いものだとは、これらの本を読むまで知らなかった。彼女には代表作「苦界浄土」(3部作)の他にも膨大な作品群があり、市立図書館にそれらがあるのを確かめては来た。しかし、読んで見たい気もするが、一度その世界に入り込んだら、再びこの文明世界に戻ってこられないのではないかと、ちょっと怖い感じもする。そんなことを思いながら、新たに見つけた第2の書斎で時を過ごしている。

◆孫たち@
 娘のところの男児(K君)は、11ヶ月になった。近いので月に1度は里帰りする。まだ正式のハイハイが出来ないが、ほふく前進スタイルですごいスピードで移動するので目が離せない。つかまり立ちも出来るようになった。最近は彼にも小さな自我が生まれて来たようで、こちらと様々な感情のやりとりが出来るようになった。朝起きて顔を合わせるとにっこりと笑みを返す。まるで、外人同志で親しみを表すように。握手もするし、イヤイヤもするし、イナイイナイバアもする。

 もっと欲しいとかだっことか眠いとかの様々なサインを示す表情も豊かになって、母親がそれを解説してくれる。見ていて飽きない。まだ生まれて11ヶ月だが、彼の脳は毎日膨大な情報をインプットしているのだろう。それにしても、離乳食への切り替えなど娘の至れり尽くせりの子育てを見ていると、今更ながらのように子育ては大変な作業だと思う。昔はもっといい加減にやっていたような気がするが、それを言ったら3人を育てた我が家では大変なことになる。

◆孫たちA
 某日。娘が里帰りしている間に、長男一家が2人の孫娘を連れてやって来た。こちらは、中2と小6の娘孫である。始めは緊張していたK君だが、長男がせっせと気を引いているうちに、ようやく慣れて笑い声を出すようになった。彼の仕草一つ一つに皆が笑ったり拍手したりで、何でもない時間が過ぎていく。一家で、私がいつも行っている寺にお参りしたあと、2人の孫娘と私は、例の第2の書斎でお茶を飲むことにした。そこで、話したことは多岐にわたる。

 クラスのこと、2人の性格のこと、クラブ活動のこと、将来やりたいこと、これから大事な身体作りのこと、そして自分にとって大事な芯を作ることなどである。特に興味深かったのは、クラスのことだった。姉の方は、中高一貫校に入っているので「変人ばっかりだけど、その分、いじめは全くない」という。むしろ楽しい学級らしく、クラス全員で先生に背を向けて授業を聞いて、先生をからかったり。先生もそれをユーモアで受け止めていたらしい。

 一方の小6の方は、ちょっと違った。5年の時だったが、クラス担任の女性教師がある一人の女の子をえこひいきするのが、目立ったらしい。それも、その女児は、いじめっ子でクラスのボス的存在。一人のいじめられっ子を皆でいじめていた。それを先生は見て見ぬふり、言いつけるとその子に仕返しするような先生だった。学年主任だった彼女は、そのボス的存在の女の子をひいきにすることで、クラスをまとめていたのだろう。しかし、いじめられっ子に同情した孫娘の仲間が母親たちに訴え、問題提起。「(いじめられていた子は)少し変わったところはあったのだけど、かわいそうだったから」と。
 
 結果的には、その先生は担任を外され、6年になった時には、いじめっ子といじめられっ子は別のクラスに分かれたそうだ。そういう時に、見て見ぬふりをするのを「平和村の住人」になるというのだそうだが、孫娘の仲間数人はそれを拒否して親たちを動かしたという。「今はいじめは全くない」という彼女だが、話を聞いていて、随分と大人びたものだと感心した。この世に生まれてまだ12年しかたっていないが、人間というのは成長するものである。まあ、そんな話をしながら、第2の書斎の静かな場所で、私は孫娘と随分と話し込み、心が通い合ったような気になった。「至福の時」だった。

◆英会話
 某日。9月末から2年振りにカナダに出かけることになったので、すっかり錆び付いた英語能力を、少しは磨いておこうと以前にも通っていたマンツーマンの英会話教室に通い始めた。教科書なしの雑談である。教師はオーストラリア出身の元技術者で世界の情報に詳しいインテリ。易しい言い回しで言ってくれるので、トランプ大統領の資質や弾劾の可能性、北朝鮮問題、オーストラリアの環境政策、移民問題など、様々な話をした。その幾つかは、コラムに書けそうであったり、もっと取材をすればドキュメンタリー番組の企画になりそうな話だったりした。

 久しぶりの海外で、また私は日本人が一人だけのツアーにも参加しなければならないので、今からドキドキだが、その帰りには4日ほどNYによって、次男一家に会う予定をしている。3月末に一家で移住したのだが、どんな風になっているのだろうか。孫の長男はNYのバレエ学校のオーディションに受かって、9月から通うことになっているそうだし、長女はアート教室で好きなことに打ち込んでいるらしい。何だか、日本では考えられないような生活になっている。時々、LINEでは話をしているが、会ってその成長を見るのを楽しみにしている。

猛暑にサイゼリヤが閉店 17.7.20

 前回の更新以降にも幾つかのイベントがあり、そうこうするうちに、雨らしい雨が降らないまま梅雨が明け、猛暑の夏に突入した。今でも十分暑いのに、本格的な夏になったらどうなるのだろうと、カミさんは心配している。アメリカなどでは、色んな学説で温暖化を否定する人々がいるが、この暑さは昔にはなかったものだ。そんな暑さの中で、気力を奮い立たせてやっとコラムを書いたが、「風の日めくり」の方でも、最近の出来事をまとめておきたい。

◆老人同士のおしゃべり
 某日。6月上旬の山梨県への温泉行きのあと、下旬に今度は高校の同級生と先輩の4人組で箱根の温泉に出かけた。こちらの4人組もけっこう長く続いている気の合った仲間だ。ホテルに到着して温泉に入った後は、食事中も食事の後もずっとおしゃべりだった。よくカミさんたちが食事会などで集まっては何時間もおしゃべりして帰ってくるので、「よくそんなに話すことがあるなあ」などと言っているが、こちらの老年組も考えて見れば、良く話している。午後5時頃から夕食をはさんで11時まで、翌日は強羅公園であじさいを購入した後、昼食後の喫茶店で。そしてロマンスカーに乗ってからもさらに話していた。

 最近のニュースや政治の話、読んで面白かった本、評判の映画、あるいは、新聞記者や作家など、それぞれの情報源から仕入れた中々興味深い話、そして健康の話題。特に熱を入れたのは、映画監督の友人が温めている次回作の案についてだった。彼の次回作は幾つか候補はあるのだが、今の映画界の状況と中々マッチせずに難航しているので、他の候補も含めてあれこれとアイデアを出し合う。まあ、そんなこんなで温泉も2回入っただけで、延々と話をした。良くそんなに話があるねと、カミさんに逆襲されそうだが、まあ大仰に言えば、老人4人それぞれが、話をすることによって自分の「世界観」を確認している、と言えるかもしれない。

 定年になって、(かつてのように)日々追われる仕事がなくなり、普段会話する相手も少なくなると、何となく自分が曖昧に感じてくる。そんな思いは日頃は意識下に置いているが、時折どこかで自分という存在を無性に確認したい気持ちになる。この欲求は、時々の2時間程度の飲み会だけでは満たされないような、もっと大きいものに思う。こうして老人4人が集まって、飽きもせず話をするのは、その欲求を半ば満たすためではないかと思ったりする。料理も酒も入浴も二の次で、おしゃべりが第一。そんな温泉行きだった。

◆猛暑の夏に
 某日。歩いて3分ほどにあるサイゼリヤが突然閉店になった。顔なじみの店員さんがやってきて「閉店することになったんですよ」と済まなそうに言う。ここは、もうかれこれ10年近く私の第2の書斎だった。夏は冷房が、冬は暖房が効いていて、午後2時頃に行くと客も少なく、コーンポタージュとコーヒーなどが飲み放題で400円弱。切り抜いた新聞を読み、読書をし、コラムの構想を練り、時にはイヤホンで音楽を聴きながら昼寝をする。これが家では中々出来ない。幾ら居ても店員のおばさんは愛想が良かった。そのサイゼリヤが6月24日で閉店してしまった。これから猛暑の夏に入るというのに、途方に暮れるとはこのことでである。

 某日。健康のために月に2回はやると決めたゴルフである。6月には、何故か急に開眼して、一気にスコアが10以上良くなった。気をよくして7月も2回セッティングしたのだが、これが大変だった。何しろ埼玉県地方は日中35度以上の猛暑で、暑さにめっきり弱い私は、やる前から熱中症になりやしないかと、緊張のしっぱなしだった。ネットで、首の周りをアイスノンで冷やすグッズや、濡らして振ると冷えるタオルやら、友人からの情報でアンダーアーマ−というアメリカ生まれの揮発性の高いシャツ、携帯用の氷のうまで用意して行った。しかし、暑さの中で集中力も途切れがちで、結果は無事に終わったのが収穫という有様だった。

 もちろん、スポーツドリンクも魔法瓶に入れたのや、凍らせたものなど1.5リットル分、その他に食事中の水も入れると2リットルは飲んだだろう。しかし殆どが汗で出たらしく、トイレも一回行っただけだった。しかも、問題は終わってから。幾らでも体が水を欲しがる。帰りの電車の中から就寝まで結局また2リットルくらい飲んだ。それでもあまり尿意を催さないので、腎臓がどうにかなったかと不安だったが、早くに寝て翌日にはやっと普通に戻った感じがする。この暑さの中でのゴルフは健康のためと言うより、身体へのダメージの方が大きいと痛感した。7月はこれで打ち止め。8月は涼しい高原で1回だけやることにした。

◆元気老人の話を聞く
 某日。今年91歳の大先輩と3人でホテルのレストランで食事をした。中華料理を食べながらまるまる3時間、話をするのは殆ど大先輩で、こちらは聞き惚れていた。そのくらい、大先輩は今も元気いっぱいで最近もアメリカや香港、そして全国各地を飛び回っている。好奇心旺盛で、アメリカの帰りにはわざわざハワイに一泊して「パールハーバー」を視察してきたそうだ。「あれを見れば、真珠湾がルーズベルトに仕掛けられた攻撃だというのが良く分かる」というのが感想で、当時、真珠湾にはアメリカの有力艦艇は一つもなかったそうだ。これに止まらず、話は彼の90年の人生エピソードの壮大な絵巻物になっていく。3時間などではとても終わらず、口述筆記ものにでもすれば、と言うくらいに面白い。

 長い人生の中で、彼は何度も命拾いをしている。陸士学校に入って訓練中に、たまたま書類が必要になって横浜の実家に日帰りで取りに行き、戻ってくると朝霞の駐屯地が爆撃されていて、同室の仲間たち全員が死んでいたこと。死者163人を出した鶴見列車脱線衝突事故(昭和38年)では、同じ列車に乗り合わせたが、(乗った車両が偶然のことに普段とは違う後部車両に乗って)助かったこと。取材で乗ったヘリコプターが着陸に失敗して墜落したこと。このときは開いていた窓から外に投げ出されて助かったそうだ。
 日航機が墜落した日には、同じ飛行機で福岡から東京まで帰ったこと(同機はその直後、東京から大阪に行く際に墜落)。彼は最近105歳で亡くなった日野原医師とも親しかったが、この強運に支えられれば100歳までは生きますよ、などと話したものだった。

 某日。一昨年93歳で死んだ母の3回忌を水戸の菩提寺で行った。墓所で、集まった全員で般若心経を唱えた後、うなぎ屋で食事会。母の2人の妹(私の叔母)も参加した。一人は施設に入って元気を取り戻したので須賀川市から従兄弟の車で参加した85歳。もう一人はその姉で水戸に住む88歳。こちら夫婦はともに88歳で元気いっぱいだ。毎晩2人で晩酌を欠かさないという。80歳を超える義兄も「昼間も時々やるから、1年370回以上は飲んでいる」というお酒好き。日野原医師が唱えた「生活習慣病」というのは何だろうと思うほど、皆、好きなことを楽しんでいる。まあ、それぞれに楽しみを持ちながら健康であることが何より。そして時々集まって話ができることである。

◆無理をせず、ボチボチと
 娘の所の孫は10ヶ月になった。近くなので、ひと月に一回は里帰りするが、ようやくつかまり立ちが出来るようになって、何だか智恵もついてきたように見える。次男の所の3人の孫たちは早くも英語に慣れ、それぞれバレエの他に音楽やアートの夏学級に入って、NY生活を満喫しているようだ。長男の所の2人の孫娘には、夏休みに入ったら会いに行くつもり。猛暑の夏、ボランティア的な仕事から勉強会や趣味のことまで、あれこれやることはあるが、まずは健康第一。無理をせずボチボチとやっていこうと思っている。

72歳。まだ時代と格闘する? 17.6.14

 5月の末に72歳になった。まあまあ元気でこの歳を迎えられたことを、素直に感謝したい。3月一杯で、週2回、6年間通った仕事を卒業して、予定が書き込まれていない白い手帳を楽しもうと思ったのも束の間、あれこれと行事が入ってきて、あっという間に時間が過ぎていく。この間、いつもの4人組で温泉に行って渓谷をハイキングもした。水戸であった小学校の同窓会にも(墓参りを兼ねて)参加した。健康維持のためにゴルフにも熱を入れだした。その他、役に立てるかどうか分からないが、テレビ制作会社にも週2回出ることになったので、以前と殆ど変わらない生活に戻った感じがする。

 老後お世話になる地元をもう少し知っておきたいと始めた、市会議員と市民の集まりでも、何かと役割が回って来るようになった。6月のマニフェスト実証報告会では、シンポジウムの司会(コーディネーター)を仰せつかっている。学会など、あれこれのボランティア的お付き合いも続く。週2回の仕事を卒業する時は、身体が動く健康寿命の76歳(あるいは77歳の喜寿)まで、もう少し自由に(一人旅をしたり、絵を描いたり)好きなことをやって過ごすことを考えたが、中々思うように行かない。そんな中、定年後の生活の基軸としてきた「コラムを書く生活」をどうするかが、再び気になり出した。

◆戦争を研究してきた人たちからの警告
 70歳になった時には、身体と頭が続くうちはあと5年、何とか続けてみようと考えた。しかし、それもちょっと気が緩むとたちまち遅れ出す。もちろん上に書いたような事情で、集中して時間がとれないことが最大の要因なのだが、一方で、書くのが安倍政権のことだったり、トランプのことだったり、北朝鮮のことだったりと、憂鬱で困難なテーマが多いせいもある。書くことで世の中を変えようなどとは思わず、ただ時代がどこに向かっているかを知ろうとするだけなのに、これだけ時代が暗い方向へ進んでいると余計に気力が湧かず、一頃のような集中力が保てない。

 そういうときに、歴史家の半藤一利や保坂正康のコメント、あるいは治安維持法が猛威を振るっていた戦前に、時代に抗って懸命に生きた人々を書いた「暗い時代の人々」(森まゆみ)などを読むと、少しは勇気づけられる気がする。私たちの世代は、直接は戦争を知らないが、いろいろと戦争の悲惨さや戦争に至る道筋について学んできた。疎開生活で苦労した母から聞いたことや、社会に出てから必要にかられて、その時代を描いた書物を読んだり、映像を見たりして来たことが大きいと思う。本当の悲惨さや恐ろしさは体験していないにしても、様々な伝達手段を通して戦争というものを学んできた。

 先の戦争ではアジアで2000万人、日本で310万人の命が失われた。原爆による無惨な死、空襲での大量焼死。あるいは外地での日本軍の残虐行為、絶望的な戦闘や餓死。満蒙開拓団の悲劇、シベリア抑留での悲惨、日米の圧倒的な差の中での沖縄戦。そして日本を戦争に導いた軍部や政治家の無責任体制。そうした戦争の細部を、様々な著作や映像で頭に焼き付けてきた。それが、私たち敗戦間際に生まれた者たちの感覚である。
 そして、そういう下地があるからこそ、戦争の実体を調べて来た半藤一利(「昭和史、上下」)や保坂正康(「本土決戦幻想上下」)といった人たちが、今の安倍政権に警告を発し続けていることに、尋常ではない重さを感じる。あの人たちが言うのだから、本当だろうと思う。 

◆戦争を知らない大人たち
 しかし一方で、私たちよりもっと若い世代は、こうした先輩の警告にどの程度、耳を傾けているのだろうかと思う。今の30歳代、40歳代、そして50歳代といった戦争を知らない社会の中堅層は、戦争の理不尽さをどの程度の実感を持って受け止めているのだろうか。幼稚園児に軍歌を歌わせ、教育勅語を暗唱させる森友学園の教育方針を賛美する安倍昭恵や、口を開けば威勢のいいことをいう(今の安倍政権を取り巻く)右派の若い政治家たち。彼らは、半藤や保坂の警告など、ハナから馬鹿にしているのではないかと思う。

 時代環境が一変する中で世代間の断絶が積み重なって行き、私たちの親たちが経験した戦争の現実が次の世代に伝わらない。しかも、伝えるべき歴史の教訓は、熱い戦争だけでない。悲惨な戦争を防ぐためには、それに至る様々な要因、すなわち軍部や右翼の台頭を許す様々な制度改変、憎悪と暴力を生みだす格差や分断、差別と貧困などなどに対する警戒も必要になってくる。その教訓は歴史の中に詰まっているのだが、今やそういう研究をしてきた半藤や保坂の発言まで、ネットで叩く風潮が蔓延している。

◆戦争と原発事故と地球温暖化。わが3大テーマ
 まあ、こう言う時代状況だからこそ、何とか自分なりに感じたことを発信して行きたいと思ってきた。それが、敗戦間際に生まれ、戦後教育を受け、そして様々に学ばせて貰った私たち世代の恩返しなのではないか、などと殊勝に思ったりする。さらにその意味で言えば、地球温暖化問題と原発問題がある。これらについては、私の現役時代に特集番組で本格的に扱った経緯があるので、余計に気になるわけである。関心事と言うより、そのテーマを人より詳しく学ばせて貰った者の責務とでもいうのだろうか。

 現在の心境で言えば、(未来の世代のためには)最低限、戦争と原発事故と地球温暖化の3つさえ何とか回避できればこんな嬉しいことはない。これに比べれば、そのほかの人口減少、地震災害、財政破綻などと言った日本が抱える課題は、二次的な問題とさえ思っている。しかし今の政府や官僚・財界は、もうすっかり原発事故のことなど忘れているかのようだし、地球温暖化については、トランプのように愚かなリーダーが出てくる。「暗い時代の人々」にもあるように、状況はいつの時代でも似たようなものかもしれいが、その解決への道はあまりに遠く、かすんでいる。

◆「コラムを書く生活」に代わる生活の軸を探せるか
 さて冒頭に戻るが、こうした状況を踏まえた上で、いつまで書き続けるのか、ということである。前にも書いたが、「コラムを書く生活」はもう10年以上続いていて、一つの生活リズムになっている。毎週末2つの新聞を切り抜き、テーマごとに振り分け、マーカーで線を引きながら熟読する。さらに書くべきテーマを決めてノートに荒筋を書く。一方で、関連の情報をネットで検索したり、雑誌を読んだりする。幾つかの勉強会にも参加する。だが、この生活をいつまで続けるべきなのか。

 当面は続けるにしても、年齢から言っても、テーマにしても、もうどん詰まりに差し掛かっているのではないだろうか。そう思って時々、「コラムを書く生活」からすっぱりと足を洗った後の生活を夢想する。まあ、全く個人的な問題で、誰に気兼ねをするようなことでもないのだけれど、その選択の間で、心が揺れるわけである。これからのことはどうなろうと自分に出来ることは少ないし、後は若い世代に任せる。そうして様々なことをすっぱりと捨て去って、人生最晩年の楽しみに舵を切るのはどうだろうか。

 しかし、そうは言っても、なかなかその感触がつかめない。徐々に転換すればいいじゃないかとも思うが、自分なりに決めた縛りがなくなったら、あっという間に自堕落な生活になるのではないかという怖れもある。そう思うと、今の自分にとって重要なのは、「コラムを書く生活」に代わる(匹敵する)、新たな生活の軸を見つけることだと気づく。それが見つかれば、2つの軸の間をしばらくは行き来しながら、徐々にもう一つの軸に足を移せる。ゴルフなのか、絵なのか、一人旅なのか。果たしてそれは何なのだろう? 

4月はゆっくり、5月から 17.5.15

 週2回通っていた、科学ニュースの編集長の仕事を3月末で卒業したので4月は比較的ゆっくり過ごすことが出来た。花見をしたり、映画を見たり、美術展に行ったり、ゴルフをしたり、静かなサイゼリヤで読書をしたり、ちょくちょく帰ってくる娘の子(8ヶ月)と遊んだり。これで温泉などの旅が出来れば言うことはないが、そこまで忙しく楽しみを入れ込むことはないかと、先に延ばして比較的のんびりと過ごした。ということで、今回は4月に鑑賞した印象的な作品について書いておきたい。

◆「草間彌生展」を観る
 某日。国立新美術館で話題の「草間彌生展」を観た。草間彌生(88歳)。彼女の旺盛な制作風景や個性的な言動は日曜美術館などの番組で何度か見てきたが、その作品をこれだけまとまって見るのは初めての体験だった。一部は撮影禁止だが、大きな正方形の画布に縦横無尽に描いた膨大な数の作品群(シリーズ「わが永遠の魂」)は、撮影自由。それらについて彼女は「幾らでもイメージがわいてくる」と下絵も描かずに筆を走らせたものである。その模様は、千差万別。めくるめく程に鮮やかな色彩の作品から、モノトーンのものまで。それぞれが線は圧倒的に大胆でありながら、細部はどこまでも微細にびっしりと描き込まれている。











 若い頃に美術学校で学んだこともあって、その基礎技術は確かなものなのだが、その後の展開はむしろ自らその基礎技術を捨てて、(伝統的な絵画の勉強をしなかった人々や知的障害者が描く)アールブリュットとか、アウトサイダー・アートとか呼ばれるジャンルに入りそうな絵でもある。少女時代から統合失調症の幻覚に悩まされてきたそうだが、絵を描くことによってその苦しみを克服してきたという。
 それ故に、絵を描くことはまさに彼女が生きていることと同義であり、作画に投入した時間と精神の膨大さを想像させる美術展だった。それにしても、世界がピカソと並び称するほどの、その独創性は疑うまでもないけれど、強烈過ぎて見続けていると頭がクラクラするほどだった。

◆「野見山暁治展」を観る
 某日。次男の義父が木更津市に開いている「わたくし美術館」に行って、野見山暁治展を観た。野見山暁治は96歳。彼については、もう10年以上も前になるがメディア時評「こころの時代(野見山暁治)」で書いたが、長野県上田市にある「無言館」(戦没学生の絵画館)を作るのに尽力した画家でもある。その陰影のある抽象画に惹かれて何度か画廊などで観てきた。次男の義父もその絵に惚れ込んで交流を深め、今回は2度目の展覧会だという。個人が開いた小さな美術館(「木更津わたくし美術館」)だが、大作も含め28点を展示し、開催中に野見山が木更津まで足を運んで講演してくれたそうだ。











 その大きな抽象絵画「伝説のおしまい」(2013年)を観る。大地と覚しき下半分の土色には黒色の帯、赤い帯の大きな亀裂のようなものがくねくねと走っている。左側の崖のようなところは幾層にも重なっている。その地層の下の方は山のような丘陵が続いている。上部の青い部分は空なのだろうか。平面的な空ではなく、全体にもくもくとした青みがかった灰色の雲が覆っている。中空に不思議ならせん状の筋が浮かんでいる。それは飛行機雲のようにも見える。一回転して空の彼方に消えている。

 その全体像を観て、全体の印象を感じ取るのもいいが、驚くのはその一部を切り取って見た時に伝わってくる絵の存在感である。絵の具のしずくの線がまるで、一本一本の木々のように見えて、奥行きのある山々が浮かんでくる。或いは、空に浮かぶ怪しげならせんは、光を受けて複雑に輝いている。まるで空に浮かぶ巨大な生き物のようでもある。

 もう一つの絵「予想もしない」(2013年)。下半分が灰色で、上半分が様々な色調の朱色で埋まった絵もすごい。波打つように広がる灰色の大地(?)の右半分には、そこに大津波が流れ込んでいるような激しい線のぶつかり合いで描かれている。これも朱色に塗られた画面の一部をカメラで切り取ってみると、意外にも赤い塊の中に描き残された白色部分が遠い奥行きのある彼方のように見えてくる。様々な赤も幾層にもダイナミックに重なっている。

 一つとして同じ調子ではない線と色彩が互いにぶつかり合いながら、ものすごく多様な世界を表しているようにみえる。その朱色のある部分は地獄に逆巻く業火のようにも見え、この複雑さが、野見山の抽象画の世界なのだろう。カメラで一部を切り取りながら見たときに初めて気がついた、野見山抽象画の特徴である。微細なところにも手を抜かずに、全体の大胆な構図までを作り上げる。ちょっと目に真似が出来そうで、絶対に真似の出来ない複雑さなのである。

◆映画「わたしはダニエル・ブレイク」を観る
 某日。イギリスの社会派の映画監督、ケン・ローチ(80歳)の最新作わたしはダニエル・ブレイク」を観た。映画サイトの“ストーリー”には、「イギリス北東部ニューカッスルで大工として働く59歳のダニエル・ブレイクは、心臓の病を患い医者から仕事を止められる。国の援助を受けようとするが、複雑な制度が立ちふさがり必要な援助を受けることが出来ない。悪戦苦闘するダニエルだったが、シングルマザーのケイティと二人の子供の家族を助けたことから、交流が生まれる。貧しいなかでも、寄り添い合い絆を深めていくダニエルとケイティたち。しかし、厳しい現実が彼らを次第に追いつめていく」と書いてある。

 これは、イギリスの格差社会の中で押しつぶされようとする庶民の姿を、極めてリアルに描いた作品だった。失業したダニエルが社会補償を受けようとしても、PCを使いこなせない彼に、(まるで日本の生活保護を扱う役人と同じように、弱者に少しでも余計なカネを使いたくない)イギリスの官僚制度は極めて冷淡で途方に暮れるしかない。その彼が2人の子ども抱えて街に流れてきたシングルマザー(ケイティ)と知り合う。彼女は父親の違う2人の子ども抱えて、この街で働こうとするが、中々仕事を見つけられない。
 飢えた子供たちを抱えながら、それでも自分の食事を抜いてまで子どもを育てようと悪戦苦闘するケイティと彼女を支えるダニエル。慈善団体のフードバンクをやっと見つけて、缶詰などの食品を貰ううちに、自分の飢えに耐えきれなくなって、柱の陰で缶詰をあけて手づかみで口に入れるケイティ。その切ない姿に涙が出た。今や世界中を覆っている格差社会の現実に、やりきれない思いが募ってくる。

 映画のシナリオは、ずっとケン・ローチ監督とともに映画製作に携わってきた脚本家ポール・ラヴァティによる。イギリスの貧困と官僚社会の冷たさの実態を念入りに調べ上げた。こうした状況はイギリスを始めとするヨーロッパの社会政治の状況を報告した本「ヨーロッパ・コーリング」(ブレイディ・みかこ著)にも詳しいが、映画は、去年から今年にかけてイギリスやフランス、そしてヨーロッパの選挙の主要な争点になっている移民問題や格差問題の根深さを知らせてくれる。この深刻な病巣は一朝一夕には克服できないだろうし、これから先も世界の政治を揺さぶっていくだろう。

◆連休が明けて
 さて、あっという間に4月が終わり、5月の連休も明けた。連休明けから週二回、テレビ制作会社に出かけることになった。どうなるか先は見えないが、企画担当プロデューサーという肩書きを貰って、若い人たちと一緒にもう少しテレビの可能性を追求してみたいと思っている。幾つかのボランティア的関わりも続いていて、しばらくはまた、もとの生活ペースが続くことになる。美術展で刺激された“絵心”を実際の生活に取り込むにはまだ時間がかかりそうだ。