「風」の日めくり                            日めくり一覧     
  今週の鑑賞。定年後の身辺雑記

酷暑の夏の創作活動など 19.9.4

 7月に続いて8月も暑かった。カミさんの検査のための病院通いのお付き合いもあったが、経過観察で済んだので月の初めに思い切って2人で東北三大祭りのツアーに出かけた。青森のねぶた、秋田の竿燈、そして仙台の七夕である。2泊3日のツアーだったが、ねぶたも竿燈も夜の祭りなので、翌日の移動に便利な温泉に泊まるために終わってから2時間位もバスで走らなければならない。ホテルに着くのが夜中の12時過ぎになる。暑い東北、体調不十分なカミさんが心配だったが、何とかスケジュールをこなして楽しむことが出来た。

 月末には、娘一家が孫たちを連れてやってきた。母子はそのまま2連泊。今年3月に生まれた女児は5ヶ月になって、まだ髪の毛がホヤホヤだが、表情の方は、どことなく女の子らしくなって来た。目が合うと笑って愛嬌を振りまくようになった。ところが、長男のK君の方が来る前のキャンプで夏風邪ウィルスを貰って来たらしく、日に日に咳き込みがひどくなった。ついには3連泊を一泊早く切り上げて先方のかかりつけの医者に診てもらうために早々に帰って行った。残念だったが、ずっと咳き込みを聞いているよりは安心である(その後、軽快した)。

◆8月の創作活動、絵の色塗り完成
 そのほか、1泊での連続ゴルフ(初日は大雨にたたられて7ホール回ったところで中止)、幾つかの暑気払い、科学技術ジャーナリスト会議での(AIについての)勉強会や交流会などがあったが、その間を縫って8月は3本のコラムをアップした。中でも一番時間がかかったのが、懸案になっていた絵の仕上げだった。7月の「風の日めくり」の最後に、「何とか夏の終わり頃には完成させたい」と書いた手前、ずいぶんと集中して色塗りに励んだわけである。

 下絵は今年の始めには出来ていた。しかし、数百のピースで構成されるものだけに、様々に色を変えながら全ピースを塗り上げるのは、想像するだけで気が遠くなり、なかなか手がつかないで来た。それにいよいよ取りかかったのは8月15日。下絵を描いた時から、以前にも描いたことがある「パウル・クレーへのオマージュ(賛歌)」のようになるだろうと予想はしていたが、今回もクレーの絵からインスパイアされた。









 最初は一つの色を塗ると、その色を使って(全体のバランスを考えながら)ほかの幾つかのピースにも配置していくという作業である。しかし、ピースの数は数百にもなる。ネットでクレーの絵をあれこれ調べながら、選ぶ色を参考にさせて貰った。もちろん、同じ色を作るのは難しいが、やっているうちにだんだん色に対する勘が戻って来たように思う。始めはかなり淡泊な色使いのような気がしたが、オレンジなどの暖色系を使い始めると、次第にそうとも言えなくなった。









 中心部を塗る。ここにある色の種類は全部で幾つぐらいになるのだろう。たぶん20種類から25種類くらいになるだろうと思う。微妙に違うことを加えればもっと多くなる。それを一つ一つ隣同士の組み合わせを考えながら、結構理詰めで色を考え、中心から周辺、下辺から上辺へと全体を攻めていく。最近手に入れた安価版のハズキルーペのような拡大鏡を使いながら、線からはみ出さないように息を詰めて精密に塗っていく。









  難しかったのは、最後に上辺に残った20個ほどのピースを埋める作業である。これも何度も絵を離れて眺めながら頭の中でシミュレーションして、1つ1つのピースにそれぞれ違った色を探していく。時間が掛かる作業だ。全体を埋めてからまた離れて眺め、幾つか気になるピースの塗り直し、或いは曲線部分と長方形部分の重なり方の変更などを何カ所か行って、やっと完成が見えてきた。









 これを、NYに住むデザイナーの息子に「どうかな?」とLINEで送ったら、「おーいいね。色もまとまって来てるね。左の(赤い線で囲んだ)エメラルドグリーンだけ浮いて見えるけど。あとは形もいい」と返してきた。そこで考えたあげく、水色の部分をほんの少し暗くして落ちつかせてみた。それが、(まだ手を入れようとすればいろいろあるのだろうが)ほぼ完成版である。それにしても、完成までの20日間近くはかなり集中した。以前にも書いたが、自分にとっての絵はアートというより、子どもの頃に没頭した工作に似ている。結構疲れたけれど、楽しかった。より大きいのは、トップページ下に

◆年に3作を目標に?
 絵らしきものを描き始めて早くも13年。最初は2時間で描くことがなくなった落書きに近いものだったが、徐々に手が掛かるようになって今度のが27作目になる(My ギャラリー)。本当は年に3作ほどのペースで描きたいのだが、この1年半ばかりは何も描けずに来た。半ば諦めていたが、自分を励まして夏の終わりまでには一応完成することが出来た。さて、あれやこれやで過ぎた酷暑の8月もこうして終了。既に幾分か秋の気配だ。孫の夏風邪を貰ったのか、今度はカミさんがゴホンゴホンとやっている。先方では、5ヶ月のコトちゃんの方が夏風邪らしい。

話す楽しみ、見る楽しみ 19.7.16

 晴れ間のない梅雨空が続いている。孫2人を連れて娘が我が家を引き上げてから早くも2ヶ月が過ぎた。こちらは普段の生活に戻っているが、カミさんの不調は相変わらずで医者通いを続けている。これではいけないとジム通いを勧めたが、何とか8月上旬に予定している東北三大夜祭りのツアーに向けて体力を取り戻して貰いたいと思っている。そんな6月から7月にかけての生活を、「話す、聞く、見る、かく」をキーワードに振り返っておきたい。 

◆話す楽しみ
 話すと言えば、娘の長女は間もなく生後4ヶ月になるが、送って来た動画を見ると、しきりに「アウアウ」を言うようになった。それも口の開け方をいろいろ変えながら、何かを話しているつもりなのが可笑しい。毎夕食時は兄のK君とLineの動画で会話をするが、「いくつになった?」と聞くと「2歳10ヶ月」などと、ちょっと会わない間に少し大人になった感じがする。カミさんはまだ大変だからと言っているが、娘は月末に2人を連れて泊まりに来ると言っている。カミさんには悪いが、会えるのが楽しみである。

 某日。いつもの高校時代の同級生に先輩を交えた4人組で日光の温泉に出かけた。行きの電車の中から3時にホテルに着いても、そして夕食までの時間もずっと話していた。さらに夕食の2時間と部屋に戻ってからの2時間。この日は、7時間以上も話して過ごした。よく話すことがあるなあと思うが、いつものことである。映画監督の友人の来年秋公開の「峠」という映画について、そして次回作のシナリオについて。今時のメディア論に歴史問題、互いの健康状態や昔に離婚した友人の家族問題、やがて来る死に対する考え方についてなどなど。温泉に入ったのは夜も更けた10時過ぎだった。

 話すことはいくらでもある。実年齢70有余年にわたる共通の時代感覚と生育環境(故郷)をベースにしているだけに、大きく言えば、互いの人生観、世界観から死生観にまでわたる話が心に響くのだ。翌日には、改装なった東照宮を見てから大谷川沿いに1時間ほど歩いて、憾満(かんまん)ヶ淵の並び地蔵を訪ねた。木漏れ日の中、およそ70体のお地蔵さんが並んでいる。監督は「時代劇のいいロケハンが出来た」と喜んでいた。その後、電車の時間まで喫茶店でまたおしゃべり。爺さんたちの小旅行は会話を楽しむ旅でもある。  

 某日。NHKのアナウンサーだったS君の家に集まってネットテレビの収録。こちらの4人組は、NHKの仲間で東武伊勢崎線(現在のスカイツリーライン)沿線の4人が浅草や北千住で飲み始めた仲間で、すでに30年ほど続いている。温泉にも行く。今回は1人が欠席したが代わりにS君の知人の女性タレントが参加した。S君が最近の出来事について考えたことをパネルにし、カメラに向かって自説を展開する。それを我々3人が、カメラの背後から何だかんだと茶々を入れる仕組みだ。彼が用意した手料理と酒を楽しみながらの気楽な収録である。

 今回は、高齢ドライバーが起こした最近の事故をきっかけに、S君が考えた歩行者を守る設備のアイデアなどについて。これまでには、温暖化で発生する台風を小さくしてしまう話から、飛行機事故を防ぐために客室全体にパラシュートをつけてしまうアイデアまで彼の奇想天外な発想に、陰の3人が容赦ない突っ込みを入れ、これらのやりとりを短く編集してYouTubeにあげる。このネットテレビの試みは去年の秋からだが、酒の方が楽しくて路線が定まらず、S君の強い思い入れにも関わらず、まだ軌道に乗れていないのが残念ではある。

◆若い人たちと話す楽しみ
 某日。定年後に通った政府系研究機関の仕事仲間だった若い2人と。2人とも正規の職員ではないだけに、今のお役所仕事の駄目さ加減さをよく見ている。日本の独創的な科学研究を育てていくために、本当に必要なところにお金(税金)は届いているのか。組織内で働く役所の人々がどこを見ながら仕事をしているのか。組織論理の中でただ遊泳しているだけではないのかなど、冷徹に見ていることに感心する。そんな組織の中で6年間、お役所的な無理解に耐えながら一緒にクリエイティブな仕事をしたことが、今のお付き合いにつながっている。

 某日。後輩の現役のプロデューサーたち4人との食事会。いつも幹事役をしてくれるF君のおかげで年に何度か、第一線で活躍している人たちと話が出来ている。今回お願いしたのは少し静かな場所でということ。歳をとってくると、周囲の雑音の中で会話をすることがかなり疲れるようになったからだ。原発番組の担当者と話すことも多いが、今回は別の顔ぶれ。番組現場での働き方改革、科学ジャーナリズム、健康番組の可能性、地球の持続可能性を考えるSDGsなどについて、かなり密度の濃い話し合いができたと思う。幹事役のF君に感謝である。
 この他に、昔、「夢用絵の具」という番組で一緒に苦労した仲間との会食、先日亡くなったT君を偲んで彼の同期2人との会食、今年92歳の大先輩のGHQ占領時代のNHKの話など、それぞれ心に残る会話があった。

◆聞く楽しみ、見(観)る楽しみ
 聞く楽しみと言えば勉強会だろうか。会員になっている科学技術ジャーナリスト会議の月例研究会。6月は地球の持続可能性について17の目標を設定して解決を目指す国連のSDGsについて、7月はネットジャーナリズムについて、それぞれの専門家を招いての講演だった。必ずしも腑に落ちることばかりではなく質問もするようにしているが、いずれも考えるきっかけを与えてくれる点でありがたい。もう一つは今年87歳になる大先輩が主宰する月に一回の勉強会。毎回10人ほどの先輩が集まる。この2回のテーマは今話題のMMTを始めとする最近の経済学の動向について。難しいテーマだが、幾つになっても旺盛な知的好奇心を失わない諸先輩から刺激を受けている。

 見(観)る楽しみの方は、6月の東寺展(空海と仏像曼荼羅)に続いて、奈良大和四寺のみほとけ展、様々なことを考えさせられた3時間25分の長編映画「ニューヨーク公共図書館」、そしてコラムにも書いた映画「新聞記者」を鑑賞。7月8日には写真家、大石芳野さんの写真展「長崎の痕(きずあと)」でギャラリートークを聞いてきた。それぞれに深い(芸術的)表現に触れるのは、日常の雑然とした感覚から少しでも離れることが出来て、心が洗われる思いがする。

◆書(描)くしんどさ
 書く方は難航している。コラムの方は、今の自分にしっくりくるテーマと切り口が見つかるまで時間がかかるようになった。書こうと思うテーマと自分の距離が見えないことが多く、今の世相や政治に対しても一枚膜がかかったように関心が深まらない。年老いたせいだろうか。テレビのワイドショーなどで日々消化される膨大な情報についてもしらけ気味で、「時代に向き合う」を自分に課している筈なのに困ったことである。それでも、何とかかんとか自分の気持ちに沿って自分なりの切り口を見つけては書いている。とにかく75歳までと思いながら。

 一方の描く方はさらに難航中だ。やっと鉛筆の下書きを終えて、さてどういう風に色づけしていくかを考えている。再びパウル・クレーのような色使いをイメージしているが、その完成までの時間を思うと気が遠くなる。これも諦めずに何とか日常の合間をぬって、夏の終わり頃には完成させたいと思っている。書くことも、描くこともしんどいけれども、なし終えた時の喜びは得がたいものがある。

命の足元に忍び寄る現実 19.6.4

 3月から2ヶ月に及んだ娘の子連れで里帰りお産、4月に入るとすぐNYに住む次男が大きな仕事を抱えて2ヶ月間の単身帰国、そして5月には我が家の内外装工事(3週間)という、我々老夫婦にとって大きなイベントに気が張った日々が続いた。カミさんは疲れから身体のあちこちが不調になり医者通いをしているが、ともかくも5月末にはこれらの全てが終了した。娘は2人の子を連れて先方に帰り、息子も仕事を成し遂げてNYの家族の元に帰った。私も何とか無事に74歳の誕生日を迎えられそうだとホッとしていた5月23日の朝、思わぬ訃報が飛び込んできて愕然とした。 

◆がんで逝った2人の同僚
 亡くなったのは、つい3月の始めにもう一人の仲間と一緒に会食し、その後も彼のアイデアで番組企画を練ろうとメールのやりとりをしていた7歳下の後輩である。前日、携帯に電話したが応答がなく、几帳面な彼にしては珍しいことと思っていたが、とても電話に出られるような状況ではなかったのだろう。通夜で娘さん(医師)がした挨拶では、5月の連休前から身体のだるさを訴え、連休中に呼吸困難に陥って病院で検査をしたら、急性悪性リンパ腫という血液のがん(白血病の一種)だった。直ちに完全無菌室で抗がん剤を大量に投与したが、がんの勢いに勝てなかったという。ご家族も呆然とするような突然の死だった。

 3月には、同期のO君が亡くなった。後で聞くと1年近い闘病だったが、私には思いがけない訃報だった。自然番組のディレクターだったが、去年10月にあったOB会の集まりには元気そうに参加していて、例年のように握手をして別れた。その時、彼はがんの闘病中だったのだが誰にも言わなかったらしい。内輪の家族葬だったので、落ち着いたら伺いますと奧さんに電話し、5月に仲間3人とお宅を訪ねて線香を上げてきた。骨髄に密接したところに出来た腎臓がんだったために、手術も放射線も不可能で、抗がん剤しか手段がなかったという。 

◆がん患者の立場から書いた「<いのち>とがん」
 歳が同じの元同僚や、自分よりも7歳も若い後輩の突然の訃報は信じられない思いで、その不在を思っては心が暗くなった。2人とも難しいがんだったが、如何にがん治療が進んだとは言え、種類と進行の具合によっては、まだまだ死を免れないという厳しい現実を突きつけられた思いである。そんな時にたまたま手にした本「<いのち>とがん」(岩波新書)もまた、がん治療の難しさを示している。女性プロデューサー出身でNHKの幹部だった坂井律子(享年58)さんが書き残した本である。彼女のがんは、中でも最も5年生存率が低い「膵臓がん」だった。

 この本には、発病から亡くなるまでの2年間の壮絶ながん治療の現実が書かれている。彼女の闘病は手術と抗がん剤の併用で行われたが、特に最新の抗がん剤治療の様子が衝撃的である。がんを殺すか、自分が殺されるかというギリギリの状況で行われる抗がん剤治療だが、その副作用は多岐にわたる。頻繁な下痢や嘔吐、倦怠感は序の口で、食事が砂か泥のようにしか感じられない味覚障害と食欲不振で、健康時55キロあった体重は38キロにまで落ちてしまう。さらに襲ってくるのは、そうまでして闘病している中での再発・転移の恐怖である。

 彼女は術後1年弱で再発、多方面への転移に見舞われる。心が折れそうになった時、がん患者の立場から見て何が必要なのか。食事法や心構えについての情報、患者を支援する機関などがいかに大切かに気づき、調べて体験した情報を書いていく。患者としての率直な思い、あって欲しいと思う貴重な情報に溢れた本である。T君の葬儀の時に会った若いディレクターたちに、著者の坂井さんについて聞いてみると、異口同音に優秀な人だったという。親しい友人をがんで失ったのと合わせて、仮に自分が、こうした難しいがんになったらどうするだろうか、と考えさせられる内容でもあった。

 もちろんまだ若い彼女には面倒を見るべき子どもや家庭があって、もっともっと生きたいという願いが強かったこともある。それに加えて、自分がジャーナリストとしてがん治療の可能性の全てを経験し、それを患者の立場から書き残したいという強い意志もあっただろうと思う。亡くなる直前の頃に「言葉があってよかった」、「言葉は凄い」と書いているところが胸に迫る。翻ってもう老齢になった自分は、果たしてあれだけの厳しい闘病を選択するだろうか。いくら「言葉は凄い」と思っても、その気力はとてもないのではと思わされる。

◆穏やかな日常の足元に忍び寄る現実
 T君の葬儀の数日後には、年に何回か集まっている高校の同窓生7人の集まりがあった。前回は1月末だったが、その時に参加出来なかったH君が会の冒頭、その前月に娘さんを亡くしたことを報告した。脳幹出血の突然の死で、43歳の若さだった。一昨年には、同じメンバーのS君が息子さんを亡くしている。こちらは一人暮らしの中で亡くなったのだが、発見が遅れた。仕事が忙しくて生活が不規則になっていたのではないかと言う。H君もS君も夫婦で1ヶ月は泣き暮らしたと言うが、この超高齢化時代に7人のメンバーのうち2人までも我が子に先立たれるとは何と言うことかと、私たちは言葉もなかった。

 短い期間に見聞きした死を巡る話は、穏やかな日常のすぐ隣にも死は確実にあることを否応なく気づかせる。孫の誕生とそれぞれの成長、そしていろいろ故障を抱えながらも、日々何とか平穏に過ぎて行く日常生活。そのほんの傍らには、多くの死がある。その死の知らせを聞くと、改めて命の儚(はかな)さを思う。それは、最近の事件や事故で、最愛の子どもや妻を失った人々の悲劇も同じだろう。平穏で幸せな生活に突然、事件や事故が起きる。この図りがたい現実の中に私たちはいる、と言うことを思い知らされる。

◆その現実を忘れずに
 数学者の岡潔は、若き日のパリ留学中に知り合った中谷治宇治郎(中谷宇吉郎の弟)と親交を結んで、互いに学問の夢を語り合っていたが、ある日、病に倒れた中谷が医者の見立てで、胸の病気であることを知る。その頃の胸の病気は、いわば現代の膵臓がんと同じ、助かる見込みが少ない病だった。その時になって岡は初めて、芭蕉の「蛸壺やはかなき夢を夏の月」という俳句の意味を悟ったという。蛸壺の中の蛸は、明日の朝になったら自分が食べられてしまう運命とも知らずに、のんびりと夏の夜の月を見上げている。その命の儚さを詠んだ句である。

 私たち凡人は(いつかそれが来るとは知りつつ)死がすぐ隣にあることを忘れて、ついうかうかと日常を送っている。そして、その現実を突きつけられたときに初めて、その峻厳な現実に愕然とする。その無常さに気づかせてくれるのが、宗教の一つの役割でもあるが、この浮ついた世情の中ではそれを忘れがちになる。T君の訃報を聞いた友人は「こうなったら、やりたいことをやっておこう」と思ったらしいが、自分はこの残された時間をどう生きたらいいのか。「あと10年?をどう生きるか」に書いたことは、もう一度点検し直す必要があるかも知れない。

 今はネットも既存のメディアも垣根がなくなって、重要であれ些細なことであれ区別なく、ありとあらゆる情報がほんの短いセンテンスで消費される時代である。死にまつわる重大な事件も事故もそして家族の激しい悲嘆も、連日のワイドショーとネット上で使い回され、たちまち日常の風景の中に消え去ってしまう。しかし、現実は現実。私たちの命の足元には常にその死という現実が忍び寄っているのを忘れてはいけないということを、身近な人たちの死は改めて教えてくれている。

娘が子連れで里帰りお産(下) 19.4.24

 4月22日は、娘の里帰りお産で生まれた女の子の1ヶ月検診の日2歳7ヶ月のK君と母子について産院に出かけて、母子の診察が終わるまでK君のお相手をした。お陰様で母子ともに順調で、母乳とミルクで育てているが、赤ちゃんの体重は4キロ近くまで増えて来た。顔が整ってくるにつれ、兄のK君が生まれた時とそっくりになって来ている。そして、いよいよ母子3人が先方の家に戻る日が近づいてきた。あと数日である。この間、娘もカミさんも2人の子どもの育児に随分と頑張って来たが、つくづく子育てというのは女性にとって大変な作業だと思わされた。身体の不調を抱えるカミさんなどは体力の限界。見るからにやつれてしまって気の毒なくらいである。 

 特に、ちょうど時期を同じくして我が家から30メートルほどしか離れていない鉄筋2階建ての会社の寮だった建物の解体作業が始まり、昼間身体を休めようにも、朝8時から夕方5時まで常に大きな音と地震のような揺れが響いているのがこたえている。こちらは連休明けも暫く続くようだが、この2ヶ月は、我が家にとっては一種の非常時だったことには違いない。カミさんは頭痛、肩こり、口内炎や不眠を抱えながら、娘たちの体調に気配りし、赤ちゃんのお風呂や衣類の洗濯、布団干し、そして食事の手配など随分と苦労していた。それもようやくトンネルの出口が見えて来た。5月3日には、先方の両親も参加してお宮参りである。

 女の子の名前はKotoという名前に。ちょっと変わった漢字読みの名前だが毎日呼びかけているうちに不思議としっくり来るようになった。大体は可愛い顔をしてすやすやと寝ているが、元気な女の子で、お腹が空いてくると手足をばたつかせて泣く。蹴る力が強いので掛けている布などすぐずり落ちてしまう。目を開けているときは、こちらを目で追うようになった。最近は話しかけていると、とろけるような笑い顔をしたりする。寝ていて声を上げて笑うこともある。無意識の反応なのだろうが、そういう感情がDNAに組み込まれているのが生命の不思議だ。彼女は、これからどんな子に育っていくだろうか。 

◆K君のお相手の日課
 兄になったK君は、まだ時々「ボク、悪い子」のスイッチが入るが、この1ヶ月、随分と新しい状況に順応してきた。これまでは母親も含め、大人たちの関心を一身に集めてきたK君だが、その半分は新しい命の方に向かっているわけで、それを感じるのは、複雑で寂しいに違いない。しかし、当初のように妹を叩いたり、授乳の邪魔をしたりすることは殆どなくなった。娘が上手く誘導してきたせいもあるが、母親と一緒にミルクを飲ませたり、ガラガラであやしたりしている。こちらは、それで叩きはしないかとハラハラだが、娘は辛抱強く慣れさせている。

 一人遊びをしている時などは、おっぱいを飲ませている娘の方が気になってチラチラ見たりしているが、けなげに模型遊びを続けている。最近は、新幹線や特急、在来線の名前を沢山言えるようになった。そういう心境を思って、こちらもできる限りK君の相手をするようにして来た。午前中の散歩も、お寺での「なむなむ」と市民会館や遊水池での遊びといった定番のコースのほかに、歩道橋の上に登って下を通る車を眺めたり、道ばたのタンポポの綿毛を飛ばしたり、できるだけ新しい遊びを取り入れて来た。市民会館で出会う掃除のおばさんたちにも「こんにちは」の挨拶が出来るようになった。

◆この2ヶ月の成長を楽しむ
 夕方と夕食後には、2階に上がって様々な遊びをする。これもこの2ヶ月で、随分とレパートリーが増えて来た。2階の電気を消して懐中電灯での各部屋探検、布団を敷いて朝起きたところからの一連のイベント(顔を洗って、なむなむして、冷蔵庫から食べ物を出して朝食、スーパーでの食材買い出しなどの)ロールプレイ、私がロボットになって隠れたK君を探す「かくれんぼ」などなど、彼の注文に答えるのはかなりのエネルギーがいる。これで十分遊ぶと夜の寝入りがスムーズになるのだが、こちらはへとへとになる。一方で、この2ヶ月の彼の言葉の発達には目を見張るものがある。

 K君は性格が朗らかで、ひょうきん者と言っていいくらい反応がいいので遊んでいて癒やされるところが多い。74歳と2歳。互いに気持ちが通じ合っているのが不思議な感じだ。人間の感情の基本型は案外変わらないものなのかも知れない。色々苦労もあったが、こうして2ヶ月を過ごした至福の時間は、我々老夫婦の記憶には死ぬまで残っていくことになる。その一方で、K君の記憶は残らないわけで、それを考えると少し寂しい気もする。カミさんも母子3人が帰ったらホッとすると同時に、気が抜けたようになるのだろうが、彼らの記憶に残るためにも、もう少し長生きしなければいけない。

◆以前のペースに戻れるか
 そういうわけで、この2ヶ月は出歩くのを極力控えて、孫の相手に専念してきた。人生の中でもう二度とないことなので、それを楽しもうと思ってきた。それも「令和」を迎えると同時に終わる。もとの生活のペースに戻るわけだが、その前に長い連休がある。それをどう過ごして、以前のペースに戻していくのか。何だかもう忘れてしまったようにも感じるが、まずはこの間に読んだ本などの整理をすることでコラムの発信に戻りたい。前回も触れたが、娘の産後から、せめて空いた時間には読書でもしようと、結構乱読をしたので。

 それは、「芋づる式読書」とでも言うような無定見の読書で、それだけに、ふだん余りなじみのない分野の本もある。梅原猛や河合隼雄、鶴見俊輔などの京都方面の学者たちの本。河合隼雄の「心理療法入門」から派生して彼と村上春樹、吉本ばななの対談本、それから派生した小説など。日本の共同体のあり方に光を当てた「共同体の基礎理論」、第二次大戦関連の本、それに仏教の本などである。それらをもとに思考の近況を書き、コラムに戻る準備体操をしたい。そしてその後は体力を取り戻しつつ、徐々に「あと10年?をどう生きるか」に向かって進んで行こうと思う。

娘が子連れで里帰りお産(中) 19.3.31

 東京で桜の開花宣言があった日の夜中1時過ぎに娘が産気づき、急ぎタクシーを呼んで産院に入った。私も同乗して娘を産院に送り届けて帰宅したのだが、途中で見た満月のおぼろ月が印象的だった。家では一人残された孫のK君(2歳半)が目を覚まし、最初ぐずっていたが、カミさんになだめられて眠るうちに、午前3時頃には車で40分ほどの所に住む娘の旦那さんが家に駆けつた。床に入ってうとうとしているうちに、明け方の5時半、娘から「生まれた!」のコメントつきで生まれたての赤ちゃんの写真がLineで送られて来た。無事に出産したらしい。旦那さんもホッとしている。「良かった!頑張った!」と返信した。

 女の子で3072グラムだった。産院が開くのを待って皆で赤ちゃんの顔をのぞきに行った。娘も元気。上の子の生まれた時と顔がそっくりだそうだ。幸いその日は金曜日で、決算期で忙しい旦那さんもこの日は休みを取り、続いて土日と休めるので、こちらは大助かり。何しろ我々夫婦だけで赤ちゃん返りしたK君を夜、添い寝して面倒見るとなると、とても自信がなかったからだ。娘が入院している間は旦那さんがK君と寝てくれた。しかも、日曜日には旦那さんがK君を連れて先方の家に帰り、火曜日の退院に合わせてこちらに来ることになった。その間、我々老夫婦は睡眠不足を取り戻すことが出来た。

◆赤ちゃん返りしたK君
 娘は4泊5日で退院し、火曜日の午前中にはこちらの家に戻って、今度は娘とK君、赤ちゃんの3人が川の字になって寝ることになった。これが、一ヶ月検診が終わる4月末まで続く。赤ちゃんだけなら2年半前に同じ経験をしているが、今度はK君が一緒なのでちょっと問題だ。何しろK君にとっては、いままで独占していた母親が赤ちゃんを連れて帰ってきて、「だっこ」もままならない。特に授乳の時になると、すっかり赤ちゃん返りして「だっこしたい」が始まる。「後でね」と言っても「いま、いま」と言って聞かない。我が儘が良くないことは分かっているのだが、上手く自分を制御出来ないのだ。

 「いい子は我慢するのよ」と娘が言い聞かせても、「ぼく、悪い子」と言い張る。まあ、まだ最初の段階で、それも「イヤイヤ期」の2歳半なのだから仕方がないが、授乳を邪魔したり赤ちゃんを叩いたりするので困る。それをどうなだめて、いっとき忘れさせるかが我々の仕事になって来た。しかし、彼の「いま、いま」虫や「だっこ」虫、「ないの、ないの(否定)」虫と言った悪い虫を追い払うために、私が「悪い虫、飛んでけー」とやっても、泣きながら手でその虫を集めて飲み込む仕草をし、「悪い虫、お腹に入った」などと言うので笑ってしまう。いろいろ分かっているだけに手に負えない。

◆もう2度とない、この状況を楽しみながら
 そこで、娘が赤ちゃんを風呂に入れたり授乳したりする午前中は、私がK君を散歩に連れ出すことになった。その散歩はある意味とても楽しい。毎日近所のお寺にお参りし、抱き上げて賽銭箱に10円硬貨を入れさせ「なむなむ」する。それから遊歩道を散歩しながら花壇の花を眺めたり、仏壇の小さな花瓶に入れるために野の花や出始めの土筆を摘んだりする。その間、いろいろ話をする。それから遊水池公園に面した市民会館まで歩き、2階の喫茶コーナーでコーヒーの自動販売機に百円を入れさせて私はコーヒー、彼は持参したジュースで「かんぱい」をする。自販機のボタンでも何でも「自分、自分」と言って押したがる。

 そして、手をつないで階段の数を数えながら5階まで上り、抱き上げて窓から眼下の広々とした景色を眺める。遊水池にはカモたちが遊び、川にかかる橋には車が通っていて、K君の「あれも乗りたいし、これも乗りたいし」が始まる。パトカーや消防車、救急車やタクシーなども分かっている。ただし、夜は大変だ。最初の夜などはK君と赤ちゃんが同時に泣き出し、添い寝している娘はまずK君をだっこして寝かしつけてから、赤ちゃんに授乳するという事態で、我々も二階から降りてきて(これは大変だと)その様子を見ていた。娘は母乳にこだわっているので1時間おきに起きて授乳している。

 この調子が、一月も続いたら(既に体調不良の)カミさんも娘も参るのではないかと心配になったが、不思議なもので、その後は少しずつ何とかなり始めて来た。夕食後の1時間は、女性陣が赤ちゃんの世話と家事をする間、私が2階でK 君と様々なロールプレイをして遊ぶ。大人3人でやりくりしながら何とかこなすようになった。私は「もう二度とない経験だから楽しもう」と思うようにしているが、事実、成長を日々感じながら孫の相手をしたり、赤ちゃんの寝顔を覗いたりと、楽しいことは沢山ある。産後1週間経った赤ちゃんはすっかり綺麗な顔になって、娘も旦那さんもうっとりと眺めている。 

◆「末法」が続く現代に仏教書を読む
 そんなわけで制作会社の新入社員への講義も、番組収録の立ち会いも、勉強会も先輩の個展のお誘いにも不義理を重ねながら都内に出かけるのを最小限に抑えていたが、それでもお産前の緊張が幾分か緩んで来ると、やはり合間を見て少しは実のあることに使いたいと思うようになった。そこで、前から読もうと思っていた仏教関係の本を読み出した。まずは真言宗の空海に関する本から。昔読んだ「空海の風景(上下)」(司馬遼太郎)を再読したあと、「沙門空海」(渡辺照宏ほか)、「空海の思想について」(梅原猛)、「最澄と空海」(梅原猛)などを読む。
 さらに最澄が開いた天台宗の比叡山から発展した鎌倉仏教について易しく解説した「梅原猛の仏教授業 法然・親鸞・一遍」などを読む。平安末期の戦乱や世の乱れを受けて始まった「末法思想」の中で、庶民の苦しみを救おうと立ち上がった彼ら仏教改革者たちの強烈な信念に改めて感じ入った。

 同時期に読んだ鶴見俊輔の聞き書き「かくれ佛教」の第4章「末法の世に」には、現代の日本も日露戦争からずっと続く末法の世にあるという鶴見の説が述べられている。あの辛うじて勝利した日露戦争以来、日本は足元の現実を見ないで一流国の幻想に酔っているというのだ。先の戦争で負けたこともすぐ忘れて、日本は今に至るまで一流国幻想の中に生きていると言う。大学の実力から見ても日本は既に二流国、三流国なのに、これからもアメリカにくっついて行けば一流国になれると思い込んでいる。親殺しや児童虐待や若者の自殺。目を開いてみれば今も末法なのに目を開いている人間がいない、と嘆いている。

◆政治家も官僚も、問題のありかを直視しない日本
 読書の一方で、切り抜いた新聞や雑誌を読むことも続けているが、確かに今の日本には末法の状況が垂れ込めていると感じざるを得ない。100兆円を超えた国家予算の構造的な危うさや欺瞞にも、出来もしない物価2%にこだわる日銀、あるいは「戦略なき軍拡 アメリカ製兵器“爆買い”の実態」(「世界」3月号)にも腹が立つが、一方で出口のない原発に支援策として補助制度を考えている官僚たち、地球温暖化問題やプラスティック汚染対策に全く消極的な日本にも。経済大国の幻想を追って、国の借金を際限なく膨らませている日本の政治家も官僚たちも末法の中にいるに違いない。

 並行して読んだ「家計ファーストの経済学」(中前忠)には、経済が世界中で破綻の前夜にあることが書かれているが、日本経済活性化への改善策の提言(法人税を上げて消費税を廃止することによって国民消費を活性化する)を見ても、とても今の政府に受け入れられるとは思えない。問題のありかがこんなにも明瞭なのに、政治家や官僚の誰も見て見ない振りをしている。こうした状況に、メディアは、野党はどういう発信をすべきなのだろうか。一方で、幼い者たちとの交流を楽しみながら、一方で遠い日本の過去に民衆の苦しみを救うために立ち上がった改革者たちの強い思いに触れて、様々なことを思う日々である。

娘が子連れで里帰りお産(上) 19.3.18

3月はじめ、娘が2歳半の長男を連れてお産のために里帰りし、我々老夫婦は対応にてんてこ舞いである。1番大変なのは、2歳半のK君がだんだん母親のお産を察して母親べったりになっていることである。随分と知恵はついてきて、言うことも驚くようなことをしゃべりまくっているのだが、何かの拍子にスイッチが入ると母親から離れず、「だっこしたい」の連発になる。様々なことが分かっているだけに、こうなると何を言ってもダメだ。
 お産の予定は3月末だが、娘がお産で入院する4、5日の間は我々2人で彼の面倒を見ることになるので、今から慣れさせるのに苦労している。カミさんは、はち切れそうな娘のお腹を見て、「はやく出て来てくれないかなあ」などと言っている。以下は、FBに上げたそんな1日。 

◆日々の成長にびっくりの2歳半だが。。
 『娘が孫を連れてお産の里帰り。2歳半の孫(男児)の相手で一日の大半が過ぎていきます。午前中は表で小さなサッカーボールで遊び、畳の部屋でゴルフボールをパターで打つ遊び、2人で散歩に出て近所のお寺をお参りして「なむなむ」し、野草の花を摘んで小さな花瓶に生けて、家の中でおもちゃの野菜と果物を使って八百屋さんごっこをし、一緒にスーパーに買い物に行き、帰って新幹線や中央線の電車のおもちゃで駅に見立てたテレビのリモコンで乗客と運転手で遊び、その後は、家の中でかくれんぼをして、夜には初めて一緒にお風呂に入って身体と頭を洗ってやり、夕食の後は、粘土のおもちゃでお団子やらうどんを作って、寝る前に一緒に仏壇で「なむなむ」する。日に日に言葉が達者にはなって行くのにびっくりですが。。』

 K君は、里帰りしてからも話す内容が一段と豊富になってきた。周囲のこともよく観察している。一度話してやったことなどは、ちゃんと覚えていてこちらが忘れている頃に持ち出したりする。道路を走っている車を見ては「あれも乗りたい、これも乗りたい、全部乗りたい」などと言っているが、いつの間にか「あれも乗りたいし、これも乗りたいし」などと「し」を入れてしゃべる。パトカーが来て「あれにも乗りたい?」と聞くと、「パトカーは乗らない、悪い人じゃないから」などと言う。「車は何歳になったら運転できるの?」と聞くと「20歳」と答える。散歩の間中しゃべっている。

 風呂に入ったときのシャボン玉作りや数え歌、気に入ったおむつの柄を選ばせてのおむつ取り替え、お絵かきや粘土遊びなどの様々な遊びの相手など、娘が丁寧に息子とお付き合いをしているのを見ると感心するが、一方で我々夫婦からみると丁寧すぎる気もする。これが今風なのかも知れないが、いざとなったら、こちらはとてもそんなことをしている余裕はない。どれだけ手を省いて機嫌良く過ごさせるかがポイントだ。幸い、病院の検診などの際に、少しずつ娘が子どもと離れる時間を作って慣れさせようとしているが、その時は何故か我が儘が引っ込むみたい。しかし、本番になったらどうなるか。娘の方は、いたってのんびりだ。「案ずるより産むが易し」というから、それでいいのかも知れないが。

◆毎日が日曜日の予行演習
 さて、こうして孫を相手に1日の大半を過ごす日々は、これから先、生まれた乳児が少し大きくなるまで1ヶ月半続くことになる。当面は、お産という非日常なことに備える生活ではあるが、毎日をただただ平穏に過ごす生活だ。この間は集中して何かやれる気がしないので、コラムの更新は諦めた。また、夜の会食もなし。毎日が日曜日のような生活が続くことになる。ただし、時間を見つけては読書や切り抜いた新聞を読むなど、少しは充電の日々としたい。考えて見れば、こうしたクリエイティブなことの何もない「無為の生活」は、完全リタイア後の日々のお試しのようなものかも知れない。

 例えば、毎日のように娘親子と連れだって近所の市民会館に息抜きに行くが、そこへ行くと私より少し年長の老人たちが集まって、楽しそうに様々なことをしている。自分も完全リタイア後には、あのような老人になるのだろう。孫の相手で忙しい日々ではあるが、コラムも書かない、夜のお付き合いも殆どない、ゴルフも出来ない。そういう毎日が日曜日のような状況になった時の予行演習のようなものかも知れない。それは無為ではあるが、何かにつながっているのかも知れないとも感じる。もちろん、この2ヶ月が終われば以前のペースに戻るだろうが、これはこれで貴重な予備実験なのかも知れない。 

◆産後の様子は、落ち着いたらまた
 娘は今日の検診で、明日から39週に入るそうで、お腹の子の体重も軽く3000グラムを超えているらしい。いつ生まれて来てもおかしくはない状況なので、このお産直前の様子から、産後の慌ただしさはまた格別のことが待っているに違いない。今は、それにも備えて行かなければならない。まあ、この子連れ里帰りお産が落ち着くまでの2ヶ月、あまりじたばたせずに、週2回通っている制作会社をはじめ、様々なことは中断し、お産のサポートに全力を挙げることにする。HPのトップページにも「しばらく更新を休みます」と記入した。

あと10年?をどう生きるか 19.1.26

 2019年の年が明けて、はや一月近くが過ぎようとしている。元旦には例年のようにカミさんと近所の真言宗のお寺で密教の護摩焚きに参列し、5日には西新井大師にお参りして、娘の安産成就をお願いしてきた。去年12月の国東半島ツアーでは、神仏習合1300年の寺々や由緒ある神社をお参りして来たので、私も人並みに神仏とともにある日本人の生活を送っていることになる。長男一家は孫娘たちがそれぞれ塾などで忙しく、声だけのやりとりになったが、3日には娘一家が来て、娘と長男(2歳4ヶ月)はそのまま何日か泊まっていった。NYにいる次男一家とは、Lineの映像で正月の挨拶を交わした。

 次男の所の長男(10歳)は、11月から年末にかけてNYシティ・バレエの「くるみ割り人形」公演に25回にわたって出演するという挑戦を無事やり遂げ、何だか充実した顔の写真を送ってきた。それぞれが元気で頑張っているのが何より嬉しく感謝したい。娘は今年の3月にこちらでお産なので、娘が産院にいる間は長男を私たちが預かることになる。大丈夫かと心配だが、2週間に一度は診察でこちらに泊まって行くので、孫が私たちに慣れる訓練を始めている。月半ばからはNYの次男が仕事で2週間ほど帰国し家に滞在。夫婦とも寄る年波で大変だが、できるサポートはしなければならない。

 そういう中で、私の方は週2回の(制作会社への)都内お出かけ、あるいは友人たちとのイベントや勉強会が始まっている。21日には、いつもの4人で近くの温泉に1泊、去年から続いているネット発信用の映像収録をしてきた。まだ試行錯誤の段階だが、言葉達者なアナウンサーを相手に、時節について一杯やりながらの丁々発止は遊びとしてもなかなか面白く、これが何回分か溜まったら、ネットにアップしようと話し合っている。月末には幾つかの月例研究会、先輩を囲む勉強会、そして同窓生6人のそば屋での談論会が入っている。今年最初のコラムもアップした。こうして2019年もゆっくりとだが、時間の歯車が回転し始めた。

◆「自分が生きて死ぬ意味」を実感するために
 去年同様、今年も健康に留意しながら、家族のサポートと、それなりにクリエイティブな生活を送るというテーマに沿って生活できたらいいと思う。一方で、今年74歳の年齢を考えると、健康に生きたとしてせいぜいあと10年をどう生きるかという問題意識も芽生えて来た。そんなことを考えずに日々充実して生きればいいじゃないか、と言う気もするが、あと10年を限りあるものとして意識ししたときに、どんな生活をするのがいいのか。(答えはないにしても)「自分が生きて死ぬ意味」をラスト チャンスとして、少しでも模索してみたいということである。それは当然のことながら、残り時間から逆算して考えるわけだが、その時ふと頭に浮かんだのが、平凡だが「やり残したことをやる」ということだった。

◆棒ほど願って針ほど叶う
 「やり残したこと」と言っても、これまでの生き方を大きく変えるようなことではない。日常生活に足をつけてその中で考えること。自分の最期を意識しながらやり続けることで、これから10年、自分の生活を新たなフェーズ(段階)に導くようなものでなければならない。いずれも「棒ほど願って針ほど叶う」の類いだが、いま漠然と考えているのは以下のようなことになるだろうか。

@本を読む生活
 意識的に読書の時間をこれまで以上に多く取り、それを楽しむ。楽しみというのは、その時間の質そのものを楽しむと同時に、それらの本が表現する様々な世界に親しむということでもある。一般に言われる「読書の楽しみ」ではあるが、それを自分の日常の中に意識的に取り入れてみる。方向性としては3つ。一つは、これまで読んできた本の再読である。過去、様々な年齢の自分がかなり引き込まれて読んだ本たち。今ではほこりをかぶっているが、それをもう一度読んで過去の自分が引き込まれた広くて懐かしい世界を追体験してみたい。

 もう一つは、近くの市立図書館の中から乱読ではなく、少し体系的なものを自分なりに作って借り出してみたい。そこには、時間さえあれば触れることが出来る宝の山が揃っている。その中から借りだしてゆっくり読んでみる。同時に、時事的な関心や話題の書については、これまでのようにアマゾンから取り寄せて読む。こう書いてみるだけで、随分と時間が取られるように思うが、焦らずゆっくりのペースで、10年をそれに使えば何とか読書という時間と空間を楽しみ、本が扱う広大な世界を旅することになるだろう。これが「本を読む生活」である。

A一人旅をする
 一人旅は去年後半、佐渡と国東半島から始めたが、かなり実のある旅をすることが出来た。これをあと10年やれるとは思わないが、主に日本の地図上で気になるところを旅する。出来れば、単に行ったことがないというだけでなく、それぞれにテーマが設定できるといい。年に3回ぐらいずつ、完全一人旅でもいいし、ツアーを利用してもいいが、日本の地方に隠れているテーマを探して行ってみたい。例えば、小樽から積丹半島、六ヶ所村から下北半島、壱岐対馬からフサンまで、そして夕日が美しい南海の諸島など。テーマの一つには、国東半島で体験したような日本の仏教的風景の深奥に触れる旅も入って来るだろう。

B絵のようなもの

 これは、以前からのテーマなのだが一向に進まない。このまま諦めるという選択もあるが、描いている時の充足感を思い出すとなかなか棄てられないのだ。これも10年という時間を設定すれば、慌てることもなくゆっくりとやっていけるかも知れない。それで何か自慢するようなものが描けるとは全く思っていないが、無心で取り組む時間を持てる喜びがありそうだ。1年に1作でもいいから、諦めずに続けてみよう。水彩画だけでなく、油絵でも描いてみたい。これは自分にとっては、アートというよりは、子どもの頃に没頭した工作に似ている。自分の手と頭を使って没頭することを一つくらい続けてもいいのではないか。

C仏教的関心を維持する
 空海・弘法大師の構築した仏教世界に触れるうちに、漠然と自分は仏心が遍満する宇宙の無意識から生まれ、死によってまたその宇宙的無意識に還って行くのだと思うようになった。この宇宙全体に遍く仏心が広がっており、自分自身の中にもその同じ仏心が宿っていると思えば、それが自然のような気がする。ただし、10年後かいつか、死ぬ間際になってそう納得して死ねるかどうかはまだ分からない。これからも、身体が許す限りは月に一度のお寺での集いや、朝晩のお勤めを続けながら、そのあたりのテーマを思い続けてみたいと思っている。気負わずゆっくりと。

◆まずは健康第一で
 家族サポートも第一に考えながら、きょうだいや友人とのしみじみとしたお付き合いも大事にしながら。そして、今の時勢を考えると問題山積なので、75歳まではコラムも頑張りながら。ただし、残りの時間を意識して、「やり残したこと」に挑戦する生活にも着実にシフトして行ければと思う。まあ、この年齢になると一寸先は分からないけれども、夢だけは持って行きたい。それにはまず健康第一で。今年もよろしくお願いします

国東半島お一人様ツアーA 18.12.27

 最終日の天気予報は雨。この日訪ねる寺々はいずれも山里にあり、階段が多い。特に熊野磨崖仏への山道は岩を幾つも積み上げた、階段とは名ばかりの石段が延々と続くというので困ったなと思っていたが、朝起きてみるとそう激しい雨ではない。傘をさせば何とかなりそうだ。朝風呂に入り、朝食を控えめにとってバスに乗り込んだ。このツアーでは、前もって1800円を払い込むと、3日間とも前から3列以内の座席にしてくれる。乗り降りの多いバスツアーではこれが案外に便利だった。

 ところで、国東半島は元はと言えば190万年前から110万年前の間に活動した火山の溶岩流で出来たところで、両子山(720メートル)を頂点として、半島全体が一つの山のようになっている。半島が丸い形になっているのはそのためである。そういう地形もあって、ここには山岳宗教の色合いが濃い天台宗の寺々が、山の中腹や峰の間に点在している。ふもとから見上げるその峰々は意外に険しく、天台密教の僧侶がホラ貝を吹きながら峰々を歩いて修行する山岳修行の伝統が今でも残っている。3日目にガイドとして同行してくれた若い僧侶も、この峰わたりの経験者だった。

◆鬼が造った石段を登って熊野磨崖仏へ
 熊野磨崖仏への入り口に着き、岩がゴロゴロと積み上げられた石段を登っていく。鬼が一夜で積み上げたという伝説が残っている乱石階段と呼ばれるものだが、雨に濡れているのでとても歩きにくい。息を切らしながら20分ほども上って行くと、岩壁に彫られた仏像が見えて来た。右が高さ6.8メートルの巨大な大日如来の半立像で国の重要文化財になっている。左には高さ8メートルの不動明王像が。伝説ではこの辺一帯の寺を建立した宇佐八幡宮の化身、仁聞(にんもん)菩薩が718年に造ったとされるが、実際には平安末期と推定されている。

 これらは臼杵石仏群と同じく柔らかい凝灰岩の岩肌に彫り込んだ仏像である。右の大日如来はきりりとした表情で、切れ長の目とすっと上にのびた眉を持っている。同僚の句「風花を眉の辺りに磨崖仏」は、ここで詠んだものだろうか。一方の不動明王は、一般的な憤怒の表情ではなく、ちょっとユーモラスな表情をしている。資料には「人間味のある慈悲の相」とある。帰りも小雨の中、お年寄りたちは、それぞれのペースで降りて行く。滑らないように手すりにつかまりながら、大きさの違う岩を一つ一つ選んで踏みしめ無事に降りてきた。

◆富貴寺の国宝。川中不動尊(天念寺)
 次の富貴寺では住職に本堂で話を聞いた。境内にある国宝の大堂は西国唯一の阿弥陀堂で、中の阿弥陀仏も国宝だ。お堂の内壁には壁画が描かれているが、雨の日には、堂の中に入ることが出来ないという。残念だが仕方がない。外から屋根の優美な曲線や、瓦に彫られた線画の仏像などを鑑賞する。ただし、この大堂の中がかつてどうだったかは、事前に県立歴史博物館で見学していた。建立当初の極彩色の壁画や、金箔で覆われた阿弥陀如来像で大変にきらびやかなものだ。平安後期の浄土信仰への強い憧れを感じさせるものである。

 峰々を歩く山岳修行に加えて、この辺一帯の寺々には独特の行事が残っている。毎年旧正月に行われる天念寺の修正鬼会(しゅじょうおにえ)もその一つで、お堂の中で松明(たいまつ)を持った鬼たちが踊る。火の粉が飛び散って大変と言うが、国家安全や五穀豊穣を祈る法要だそうだ(写真は資料から)。天念寺の前を流れる川の中には、大岩に不動尊像が彫られている(川中不動尊)。ここから見上げる険しい峰々と厳しい山岳修行の様子を案内役の若い僧侶から聞きながら、訪れるまでは全く空白だった「仏の里」国東半島のイメージがかなり充実して来た感がした。

◆両子(ふたご)寺。文殊仙寺での護摩焚き
 次に訪れた両子(ふたご)寺は国東半島の中心に位置して、六郷満山総寺院として六郷満山全体を統括してきた。ここも開基1300年、718年に仁聞菩薩が開いたと伝えられている。その奥の院本堂。格子の間から十一面千手観音像を覗いたり、裏に回って洞窟の中の仏像を拝んだりした後、最後の訪問地、文殊仙寺に向かう。この辺りは山間の集落もまばらで、路線バスもバス停もない。一日何便かのコミュニティバスが走るだけだ。やはり、私などが効率よく寺々を巡るには、バスツアー以外にないと言うことになる。

 文殊仙寺は両子山の中腹(標高614メートル)にあって、参道入り口からは300段の長い階段を上らなければならない。ただし、それは希望者だけで、私たち半数はバスで残り80段の所へつけて貰った。この文殊仙寺の開基はさらに古くて648年に役行者(えんのぎょうじゃ)によるとされる。ここでは、厳しい修行を積んだ僧侶によって護摩祈祷が行われた。外の明かりを閉ざした狭い本堂に42人の観光客がぎゅうぎゅうに座って、護摩焚きの祭壇を取り囲む。ここで、くべられる護摩木は、仏様へ提供する食べ物の意味を持つという。私も2本の護摩木に願いを書いて燃やしてもらった。

 最近、1週間眠らず、飲まず食わずで護摩木を炊き続けるという激しい修行を終えたばかりの若い僧侶が、天台密教の作法に従って護摩木を重ねて火をつけ、それをどんどんと増やしていく。90センチ四方の祭壇の中に丸い釜があってそこで燃やした火が天井近くまで勢いよく立ち上る。寺の資料によれば、燃え上がる火はご本尊さまそのもので、煩悩を焼き尽くし心願成就する知恵の火とある。その間は、写真を撮ることも禁じられている。国東半島は、その山や峰の形状がこうした密教の秘技を鍛錬するのに適していたのだろうか。燃え上がる炎と僧侶が唱える不思議な呪文を皆、じっと眺めていた(写真は資料から)。

◆孤独に一人旅を反芻、消化するのも
 そんなありがたい思いをした後、バスは大分空港に向かった。飛行機の出発が迫っていたので添乗員は焦っていたようだが、無事に間に合った。そのツアー仲間も羽田に着いたらあっという間に解散。お一人様たちは挨拶するでもなく散って行った。まあ、その淡泊さが良さなのかも知れない。そして、旅を終えて、その内容をじっくり反芻、消化するのも自分一人の孤独な作業になるが、それもこうして文章にまとめる作業をすれば、もう一度楽しめる。初めての参加だったが、その内容には結構満足している。

 バスツアーは団体行動なので、時間に追われて(佐渡島一人旅のように)ボーッとする時間はなかったが、今回は中身の濃さをとるべきだろう。何より、これまで殆ど未知の国東半島のイメージが色濃く立ち上がって来たのだから。国東半島は、日本で初めて神仏習合が始まった場所、そして一大仏教の地。それも山岳宗教の色合いの濃い天台密教の里である。そこには比叡山延暦寺の僧侶が峰々を巡るように、回峰の修行や密教の祈りが今も残っている。若い僧侶たちは、半島の峰々を巡りながら昔の行者たちの心に触れている。

 そして、全国の7割の石仏があるという理由と半島の成り立ち。国東半島が一つの火山だったこと、それがあの丸い形で九州にくっついている理由だと今回初めて知った。神話の里、高千穂への旅はちょっと異質ではあったが、その神々を祀る神道と仏教が宇佐神宮弥勒寺で一緒になったのも、九州の不思議な因縁ではある。さて、今年2回を数えた一人旅だが、ここ数年思いを募らせていただけに結構「やった感」が残った。来年前半は娘のお産があるので不可能だが、それが終わったら幾つかの候補地をまた当たってみようと思っている。(終わり)

国東半島お一人様ツアー@ 12.10.28

 佐渡島に続く一人旅の第2弾を何処にするか、あれこれ考えたあげくにまだ行ったことのない国東半島を選んだ。大分空港には降りたことがあったが、あの丸い半島の中に何があるのか、空白のままだった。その昔、俳句をやっていた同僚が「風花を眉の辺りに磨崖仏」という句を披露してくれたのが頭の隅に残っていて、国東半島の石仏群をいつか訪ねて見たいと思っていたこともある。そこであれこれネットを調べていたら、国東半島巡りのツアーが幾つもあることが分かった。自前で路線バスを調べて、飛行機からホテルまで予約するより余程便利だ。

 しかも偶然に今年は、国東半島の寺々が開基1300年を迎える記念の年で、「六郷満山1300年」という様々な記念行事も組まれている。六郷満山とは、(6つの郡に分かれていた)国東半島の天台宗の寺々の総称。行ってみて初めて分かったことだが、国東半島は平安末期には800の山岳寺院を数えた、一大仏教の地だったのである。今でも(法華経の字数と同じ)6万9300体の仏像と全国の石仏の7割が集中していると言う「仏の里」だ。選んだのは「神話の舞台・高千穂と国東半島・六郷満山3日間」という、かなり欲張りのツアーだった。 

◆神仏の里を巡るツアー。意外に多かったお一人様
 ツアーの内容を簡単にいうと、1日目は、まず大分県立歴史博物館で国東半島の歴史と文化を学び、それから1300年前に日本で初めて神仏習合が始まった宇佐神宮、重要文化財の仏像9体がある真木大堂を見学。
 2日目は国宝の臼杵石仏群を見た後、国東半島を離れて宮崎県高千穂の神話の里へ。高千穂峡散策から高千穂神社、天岩戸神社へ。
 3日目は、熊野磨崖仏、国宝の阿弥陀像のある富貴寺、両子(ふたご)寺、文殊仙寺へ。文殊仙寺では特別に天台密教の護摩焚きにも参加する。宿泊は2日とも別府温泉という盛り沢山で中身の濃いツアーだった。

 このツアーは、お一人様もOKで値段も2人連れと変わらない。ただし、その時点では既に一杯で、キャンセル待ちを掛けたら出発の20日前くらいに連絡が来て行けることになった。往きは羽田発10時5分、復りは羽田着19時40分という便利な時間帯である。しかし、こうしたツアーに一人で参加するのは初めて。夫婦連れや友人たちの間に入ってポツンと一人とはどんなものだろうと言う感じはしたが、これも経験と思って参加することにした。12月4日〜6日の2泊3日の旅である。

 大分空港で大型の観光バスに乗り込む。参加者は全部で42人。うち約半分がお一人様だというので、まずびっくりした。お一人様は男性10人、女性9人である。お一人様同士、隣に座った男性はツアーの常連で、しょっちゅう利用しているという。最初はなかなか話のきっかけが掴めなかったが、夕食時に一杯やっているうちに少しずつ会話もつながってくる。一方、女性のお一人様たちはもう旅の最初から打ち解けていた。中には83歳という元気な男性お一人様もいたが、殆どは似たような年格好の人たちだった。

◆廃仏毀釈による多大な影響
 一日目。歴史博物館で、磨崖仏の実物大模型や富貴寺大堂の建立当時の鮮やかな色彩の再現、国宝の阿弥陀如来座像の再現などを見学した後、宇佐神宮へ。ここは全国4万4000社ある八幡社の総本宮で、応神天皇の時代に作られたという古い神社。本殿が国宝となっている。一同、特別に中に入って2拝4拍手1拝の独特な方式で参拝したが、面白かったのは、同行のガイド役の天台宗の若いお坊さんが、神殿の前で「般若心経」を唱えたことだった。宇佐神宮はもともと宇佐八幡宮弥勒寺とも呼ばれていて、718年に日本で最初に神仏習合の形をとった場所なので、仏式にお経を唱えてもいいらしい。

 8世紀初頭、宇佐神宮は時の朝廷勢力と結びついており、ともに九州の反乱勢力を征伐したときの犠牲者を弔うために境内に弥勒寺を建立した。以来、六郷満山の神仏習合が始まり、それが今年1300年を迎えるわけである。ただし、その弥勒寺は明治維新の神仏分離、廃仏毀釈のために廃寺になり、今は礎石が残るだけとなっている。長州兵が来て打ち壊したと言うが、この廃仏毀釈の爪痕は国東半島の寺々に及んでいる。明治維新の時に廃仏毀釈によって、多くの寺や仏像が破壊されたが、これは日本の文化財にとって多大な損失だった。

 真木大堂は、かつて国東半島最大の寺院、伝乗寺に祀られていた仏像をお堂に集めたところである。伝乗寺は700年前の火災で焼失したというが、残った9体の仏像はその後も村の人々によって大切に守られてきた。明治時代の廃仏毀釈を逃れ、粗末なお堂に押し込められていたが、ようやく大堂を作って横一列に並んでいる。インドの神鳥ガルーダのような鳥と羽を火炎のようにまとった不動明王、阿弥陀如来座像、そして6本足で牛にまたがった大威特明王像など。土地の方がこれらの重要文化財について、極めて詳細な解説をしてくれたのに感心した。

◆臼杵の石仏群を見る
 2日目の最初には臼杵の石仏群を訪ねた。この辺りの岩は阿蘇山の噴火によって形成された、阿蘇溶結凝灰岩という比較的柔らかい岩で、そこに平安時代後期から鎌倉時代にかけて、土地の長者の支援を受けて仏師たちが仏像を彫ったというが、その詳細は今でも謎になっている。山道に沿って仏像群が点在しており、それぞれに表情も様々。彩色の跡も僅かに残っていずれも味わいのある石仏である。これらの石仏群は昭和55年から14年を掛けて修復された。つい最近まで頭が地面に落ちたままになっていた大日如来は元のようになり、磨崖仏としては全国で初めて国宝に指定された。端正で気品ある表情の仏様である。

◆日本誕生の神話の世界を歩く 。ガイドさんにびっくり
 その後、私たちはバスで2時間ほど走り、宮崎県の高千穂峡へ。雨がぱらついた前日と打って変わっての快晴だった。高千穂はご存じ神話の里である。日本の神話によれば、ここ高千穂に降り立った神々の子孫の天照大神(アマテラス)が、弟の乱暴に怒って天岩戸の中に隠れてしまった話が有名。世の中が真っ暗になってしまったのを何とかするために、神々が天安河原(あまのやすかわら)に集まって色々相談。アメノウズメの踊りに周囲が大いに湧いたので、アマテラスが何かと思って天岩戸を少し開けたところを強力のタヂカラオ(手力男)が引き開けて昼が戻ったという話である。

 ここでは、その神話を神楽(かぐら)にした行事がこの地方の伝統芸能。33番まであって、これをやるときには夜を徹して次の日の昼頃までかかるという。そうした神楽を奉納する高千穂神社、そして天岩戸を祀る天岩戸神社を参拝。天岩戸神社の裏には、谷を挟んだ向こうに岩戸の跡があると言うが、今は殆ど埋まっていてよく分からない。そこから、神々が集まったという天安河原まで歩いた。そこには洞窟があって、その前の河原におびただしい石ころが所狭しと積み上げられている。それは壮観だった。

 この日は、女性のバスガイドが同乗したが、天孫降臨から、天岩戸伝説、その後の国造りの展開、そして宮崎の港から東に奈良県柏原に向かった神が、75歳の時に天皇家の祖先、神武天皇になるという話を、全ての神々の名称をそらんじて話してくれた。皆びっくりである。それにしても、この宮崎県で日本の国が誕生したという神話が完結しているのは何故なのだろう。以前買ってそのままになっている「口語訳 古事記」をちゃんと読んでみなければなどと思ったものである。この日の夕食は寿司店で取り、同じ別府のホテルに宿泊。明日は、再びお坊さんの案内で国東半島の古い寺々を巡る。(つづく)

社会に出て50年の節目に 18.11.21

 御年73歳の今年は、大学を卒業して50年、会社に入って50年の節目の年なので、それぞれに記念するパーティーがあった。これだけ長く生きていると様々な懐旧的な集まりがあって、例えば小学校の同窓会、高校の同窓会、東京での高校同窓会、あるいは大学時代に籍を置いた県人寮の集まり、大学の同窓会、会社の旧友会、科学番組部のOB会などがある。こうした集まりには淡泊な関係ではあるがそれぞれに懐かしい人々がいて幹事のお陰で、定期的に会うことができる。定年退職者にとって、まだ元気で生きていることを確認し合う集まりでもある。

 会社の東京OB会では同期の人々と入社50年の記念写真を撮るというので初めて参加したが、異なった業種の同期で7人しか来ず、ちょっと気抜けした。それでも記念撮影をするために壇上に上がった時、アナウンサーのM君に突然、「1番印象に残ったことは?」とマイクを向けられて、思わず「不祥事です」と答えてしまって冷や汗をかいた。何しろ、長いサラリーマン人生で私は幾つかのトラブルに見舞われて、危うく辞職しそうにもなった。皆忘れている筈なのに、「停職一ヶ月。ご迷惑をおかけしました」と言わずもがなのことを言ったりした。 

◆見えない力によって助けられて来た
 平凡なサラリーマン生活を送った私も、若いときの左遷(?)、社内異動、部下の不祥事の責任、退職後の会社でのトラブルなどなどで何度か選択の岐路に立たされた。若いときには「辞めさせてもらいます」とか、「自信がないので、その異動はなしにしてもらえませんか」などと言いそうになったし、管理職になってからも「辞表を出します」などと、それこそ喉元まで出かかったことがある。それを際どいタイミングで言い出さずに済み、(結果として)無事な方に転がることが出来たのは、何か見えない力に助けられたとしか思えないのである。

 また不祥事とは違うが、これも見えない力のお陰だったかもしれないと感じていることがある。先日、大学卒業50年を記念して学科の同窓会が駒場でのレストランであった。その時に集まった40人ほどの同窓生たちの短いスピーチを聞きながら、特にそうした感慨を持った。私が所属したのは丹下健三さんが始めた都市工学科で、卒業生の多くは官庁や(住宅公団などの)デベロッパー、建設業界などである。都市計画や道路の設計にとんと才能と興味がなかった私は、卒業して何処に就職するのか途方に暮れていた。何をやりたいのか分からず、いっそ卒業せずに別な学科の大学院にでも行くかと、絵に描いたようなモラトリアム状態に陥っていた。

◆偶然から選択した就職
 その時、中学以来の親友が同じように理科系でありながら新聞社に行くと言い出したので、自分もマスコミに行きたいと突然思いついたのである。当時は大手新聞社とNHKの試験日が同じだったので、NHKを選んだらありがたいことに合格。就職が決まった途端に、一刻も早く社会に出たいという気持ちが湧いて来たから不思議である。都市工学の専門性からは脇道に逸れた選択だったが、もし自分がNHKに拾って貰わなかったら、どんな人生をたどっていたか全く想像も出来ない。これも何か不思議な力のお陰だったと思う。

 同窓生のそれぞれ充実した人生のスピーチを聞きながら、私は「私のような者は、NHKに拾って貰って本当にありがたかったと、最近しみじみ思います」とスピーチした。その思いは歳とともに深まっている。同窓会などの公式的なパーティーなどと違って、長年続いている「しみじみとしたお付き合い」もこうした選択のお陰といえる。(自分には全く才覚のない)金儲けのことも考えずに、それなりに創造的な環境の中で、気持ちのいい上質な人々と長いお付き合いが出来たことを、心からありがたいと思っている。

◆老いと健康を考える機会として
 大学50年のパーティーで、もう一つ実感したことがある。それは、老いと健康のこと。こうして同年齢の者たちが集まって見ると、中には週3回4時間ベッドで人工透析を受けている人もいて、見た目も右から左まで幅が拡大して来ている。やはり健康が1番と実感させられた。面白かったのは当時の恩師が米寿(88歳)で大変元気なこと。ひょっとしたら我々教え子たちより若く見えるかも知れない。まだ元気一杯で、学会や諮問会議などで活躍しているせいだろう。その恩師が少人数になった時にクールに面白いことを言っていた。

 談笑している同窓生40人を椅子に座って見回しながら「あと10年後には、この中の4割は死んでいる」というのだ。10年後と言えば我々は83歳。なるほど、そんなものかと思う。恩師の年齢の88歳にもなれば、さらに生存率は下がってくるのだろう。まあ、そこまで欲張らないまでも、出来れば10年後にその4割の方に入らないように、せいぜい自己管理に努めることにしようと思った。そういう意味では同窓会や同期会も、互いの無事を確かめるだけでなく、互いの老いの状況から何かを学ぶ得がたい機会なのかも知れない。 

◆佐渡一人旅後の身辺雑記
 さて、佐渡一人旅を終えた後の身辺雑記である。10月末、インフルエンザの予防注射をした直後に風邪をひいた。単なる風邪だったが、喉の痛みから咳、気管支炎、鼻水と一直線に悪化して、咳き込みが抜けるまで10日ほどもかかった。歳を取ると治りも遅くなるのだろうか。お陰で、友人とのゴルフもキャンセルし、ようやく風邪を脱してお付き合いに戻ったのは半月後である。

 11月は、上記のパーティーのほかにも、親しい人たちとの飲み会が続いた。先日は、4年前に「しみじみとした会食」に書いた先輩の娘さんを囲んで年に一度の会食。あるいは、もう何十年も飲み会や温泉旅行を続けている「4人組」での一杯などなど。これから年末にかけてそうしたお付き合いが続くが、最近はめっきり酒に弱くなった。ちょっと飲み過ぎると夜中が苦しくなる。ほどほどにしておかないと、10年を待たずにあの4割の仲間に入ることになる。12月には大腸検査と人間ドックも控えているので体調管理に努めたい。

 孫たちもいろいろと頑張っているようだ。NY在住の次男のところは、長男(10歳)が、NYシティーバレエのオーディションに受かってこれから年末にかけて「くるみ割り人形」の子ども役で23回の公演に出ることになった。彼にとっても毎日送り迎えをする親たちにとっても、忘れ得ない思い出になるだろう。娘のお腹には第二子が入っていて、来春誕生の予定。こちらは念願の女の子らしい。2年前、「娘のお産につきあった80日」に書いたように、今回もこちらでのお産になるが、今回は子連れでの里帰りになるだけに、我々の体力が持つかどうか。カミサンともども今から緊張している。

◆一人旅第2弾は国東半島巡り
 一人旅の第2弾は、まだ行ったことのない大分県国東半島の寺社6カ所を巡るツアーにした(12月4日〜6日)。飛行機までアレンジする完全な一人旅にすると結構時間と金がかかるので、今回は割安のツアーを選んだ。既に一杯だったが、キャンセル待ちをかけていたら行けることに。一人旅もOKで、臼杵の石仏群や磨崖仏などを訪ね、開基1300年の寺では秘仏も見られる。今度は大きなカメラを持って行こうか。そして、これが終われば年末の大掃除だ。これをちゃんとやらないと大変なことになる。