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  今週の鑑賞。定年後の身辺雑記

いつまで続く?一日一句A 20.8.20

 コロナに加えて、このところの猛暑である。目の前の日課をこなすのも億劫で、この際と思って考えていた、絵の下書き、出版計画、終活などの中長期的な計画にも全く手がつかない。そんな中、「一日一句の写真俳句」の方は現在26日目で、一ヶ月まであと少しになった。しかし、自粛生活の暇つぶしにと思いつきで始めた俳句だが、これが意外に難物で、毎日俳句のネタを探すのに苦労する。下手をすると、寝ていてもあれやこれやと、言葉の言い回しに悩まされる。何とか一ヶ月までは続けたいと思うが、最近の拙い俳句とそれに添えた短い文章、写真(一部)を載せておきたい。

『遠き夏の 同じ日の吾 日記帳』  (8月20日)
 これまで60年以上、何とか日記をつける習慣を続けて来たのは、中学1年の時の夏休みに日記をつけて、担任の先生から感想を貰ったからだと思います。その当時の日記帳を持ち出して、今日と同じ8月20日に自分が何をしていたのか、ページをめくってみました。まあ、随分と幼い自分がそこにいました。62年前の私は、夏休み中、海に行って遊んでいました。

『今日の日の 無事のうれしさ 熱き夕』  (8月19日)
 猛暑の熱中症とコロナの感染拡大のニュースで一日が過ぎますが、夕方、少し暑さも和らいだ頃に、2人で近所のお寺にお参りし、遊水池公園を見に行きます。とてもウォーキングする感じではありませんが、それでもこのご時世に、今日一日を平穏無事に過ごせたことに感謝です。

『猛暑にも 季節を回す 歯車よ』  (8月18日)
 連日の猛暑ですが、その一方で夜になると秋の虫が鳴きはじめ、お寺の境内にはススキの穂が出始めています。気がつかないうちに、季節を回す自然の大きな歯車が動いているのでしょうね。そんな見えない力に呼びかける感じで詠んでみました。

『老い蝉の 激しくドアに 当たる朝』  (8月17日)
 蝉が地上に出た時の寿命は1週間というけれど、ひとしきり鳴いた後には老い蝉になって、何故か方向感覚を失うらしい。時々、玄関のドアや窓に激しくぶつかって、仰向けになって落ちています。今朝見た蝉は、そのままじっとしていましたが、起こしてやると我に返ったように、どこかに飛んでいきました。夏も終わりのちょっともの悲しい風景です。

『幾つかの 日課も捨てて 午睡かな』 (8月16日)
 
連日の猛暑。これは何も太陽のせいではなく、人間の欲がもたらした温暖化のせいとは分かっているけれど、太陽の日差しは容赦がありません。この暑さでは外出もままならず、ウォーキングはもちろん、読書もコラム書きも諦めて、とりあえず、クーラー効かして昼寝するしかない、そんな毎日です。


『終戦日 75年を 生きし吾』  
『敗戦忌 いくさは本で 知るばかり』
 
(8月15日)
 終戦直前に生まれた私は、敗戦の日本と共に戦後を生きてきて今年75歳になりました。あの戦争については、ジャーナリストの端くれとしてそれなりの関心を持って来ましたが、二度と戦争をしてはいけないという母の言葉をかみしめています。考えれば随分長い時間を生きて来たことに感謝です。

『遠き日の 潮騒想う 夏の雲』  (8月14日)
 その昔、浜辺まで歩いて5分の崖の上に住んでいたので、小学生の頃は一夏、毎日海で遊びました。夏休みが終わる頃には、真っ黒になったものです。潮騒は、崖の上の家までいつも聞こえていました。夏の雲を見上げると、その昔、寝転がって空を眺めながら聞いた潮騒を思い出します。

『緑陰の 誰に恩恵 誇るなし』  (8月13日)
 近所の遊水池に面して、ケヤキの大木が6,7本茂る一角があります。連日の猛暑ですが、そこだけは涼風が流れています。かなりの樹齢で遊水池が整備される以前からそこにあったのでしょう。そこの古びた木のベンチに時々、腰をかけている人を見かけますが、誰にその涼しさを誇るでもなく、ひっそりと立っているケヤキたちです。

『いかづちや 下界浄めて 別世界』  (8月12日)
 埼玉地方に、突然の雷雨がやって来ました。地上の猛暑やコロナの憂鬱を洗い浄めるように、豪勢な雷鳴と豪雨でした。停電も瞬時起きましたが、これで、ちょっとは気持ちが晴れるような別世界が見えればいいのですが。そういえば、急に、少し涼しくなったような気がします。

『ウイルスは 心も食うか 盆の里』  (8月11日)
 ロナの地方への感染拡大が止まりません。楽しみにしていた孫たちの里帰りもままならなくなり、田舎でもがっかりしているのではないでしょうか。里帰りも墓参りも出来ず、お盆の時期の雰囲気がコロナによってめげそうになっている昨今、油断するとコロナは私たちの心にまで感染の触手を伸ばしそうな雰囲気です。負けないように、自戒しないといけませんね。

『それぞれの 過酷を耐えて 夏の花』  (8月10日)
 梅雨が明けて一気に猛暑になった昨今。散歩途中の路傍には、それぞれの環境に適応して夏の花々が、精一杯に花を咲かせています。猛暑の過酷な乾燥にも耐えて、咲いている花々に逆に励まされる感じがします。



夕日影 今日の暑さを 刻印す』  (8月9日)
 ギンギンに暑い一日でした。夕方、ウォーキングに出かけようとしても、まだ日中の余熱が残っているような感じです。お寺わきの遊歩道と塀には、夕陽の木陰がくっきりと、まるで刻印されたように映っていました。

『四百年 寺の歴史を 蝉しぐれ』  (8月8日)
 毎日、お参りしている近所の真言宗の寺。般若心経を唱えていると、周囲の木々から今を盛りと、様々な種類の蝉の声が降ってきます。お寺の歴史は400年、蝉の命は一週間。それを年々つないで歴史を紡いで来たのが、何か奇跡のようにも思えます。

『人の距離 月ほどになる 熱き夜』  (8月7日)
 熱帯夜で眠れずに起き出してベランダから月の写真を撮りました。眺めているうちに、そういえばずっと人と直接会ってしみじみとした話をしていないなあ、短時間リーモートで話しても、それはバーチャルでしかない、ということに気づきました。人との距離がはるかに離れてしまったような。眠っている住宅地にも、そんな人恋しさや寂しさ、孤独感といったものが覆っている気がします。コロナの夏の特異さでしょうか。

いつまで続く?一日一句 20.8.5

 コロナの感染拡大が止まらない。メディアではその日その日の新規感染者数をもとに、専門家、解説者、政治家、タレントたちがあれこれ議論を闘わせているが、この感染状況が続く限り、「人間とコロナの共存」は、考えれば考えるほど難しいことが分かって来る。衣食住に関わる生命維持的な経済活動は出来るにしても、人間にとって本質的に重要な、各地の祭り、花火大会、アーティストや芸能のイベント、スポーツ大会といった、文化・芸術に関わる分野が、最も「コロナとの共存」が難しい。これは、人間の精神的生存にとって大きな問題である。 

 これを考えると、目の前の感染拡大防止策だけでなく、もっと中長期的で総合的なコロナ対策を考えるべき時に来ているのではないか。今のような、その場しのぎの対策ではなく、向こう半年から一年を視野に、科学を中心とした専門知識を総動員した体制で、本格的にウイルスとの闘いに挑む。コロナを完全制圧する。そのためには何が必要か。中途半端な議論を繰り返すだけでなく、日本の英知を集めた専門家集団が、(治療薬やワクチン開発の他にも)世界に誇る拡大阻止戦略を研究して発表すべき時期かも知れない。別途、コラムの方で問題提起したい。

◆久しぶりに始めた写真俳句の一日一句
 さて、生活の方は、相変わらずの「Stay home」の中。ほぼ定まってきた日課を過ごしながら、目の前の一日一日を出来るだけ平穏無事に過ごすことを考えている。午前中の読書、昼食の後の昼寝、座禅、夕方のウォーキング、プランター野菜への水やり、などの日課である。その中でつい最近、始めたことがある。一日一句の写真俳句で、ウォーキングの途中で撮った写真などに俳句をつけて、毎日FBにアップする。まだ、10日ほどだが三日坊主は脱した。いつまで続くか分からないが、とりあえず最近のものをここに再録しておきたい。

『コロナ禍のロビーひっそりと暮れる夏』 (8月5日) 
 夕方、散歩の途中で久しぶりに遊水池に面した市民会館の中に入ってみました。緊急事態解除後に開館したとは知っていましたが、中に入ってみると冷房が効いて外とは大違い。しかし、その広いロビーは写真の通り、ソファーにソーシャルディスタンスの張り紙があって、誰もいません。コロナ禍の異常な状態を物語っているようでした。

『もの言わぬ草もいとしき夏の夕』 (8月4日)
 猛暑の夏が始まりました。日中は、外に出る気が起こらず、夕方になって川風が涼しくなる頃に、近くの元荒川の土手をウォーキングします。その前には、家で50分ほどの座禅を組むようになりましたが、気持ちが穏やかになって川べりを歩いていると、辺りの風景もふと穏やかな調和を見せることがあります。昼の厳しい暑さに耐えた草むらを夕陽が輝かせています。

『昼寝覚む日差しの外はいかばかり』 (8月3日)
 今回は、怠けて身の回り、というより昼寝から目が覚めてソファーから窓の外を眺めただけの句。すだれやよしずで遮られた室内は薄暗く、暑さもそれほどではありませんせんが、外の日差しは見るからに強烈で厳しそう。とても外出する気力がわきません。そんな平凡な句でした。

『それぞれの煩悩包み夏日入る』 (8月2日)
 梅雨が明けたとたんに暑くなった昨日。昼間の暑さを避けて、川風が涼しくなった夕方の元荒川の土手では様々な人々が歩いたり、走ったりしています。この時期だからこそ、それぞれが悩みや願いを胸に運動しているのだと思います。その思い(煩悩)を柔らかく包み込むように、夏の夕陽が川向こうに沈んでいきます。

『この先の見えざる不安梅雨明ける』 (8月1日)
 長かった今年の梅雨もようやく明けました。昔ならこれから海遊びが始まる楽しい夏でしたが、最近の夏はまず、地球温暖化による猛暑、酷暑、そして大型台風の襲来が気になります。加えて今年は、新型コロナの感染が。。心配は心配ですが、子どもの頃の楽しい夏休みの思い出を胸に、一日一日を無事に元気に過ごして行きたいですね。遊水池公園の噴水も上がり始めています。

『地下鉄を出て圧巻の蝉時雨』 (7月31日)
 昨日は、久しぶりに渋谷のNHK近くで打ち合わせ。コロナの新規感染が東京で463人を数えた日で、かなり緊張して千代田線に乗り、代々木公園駅から地上に出たとたん、辺り一面降りしきるような蝉の声に包まれました。一瞬、驚きましたが、見渡せば周りはこんもりとした木々。都会の真ん中での蝉時雨にしばし圧倒されました。いよいよ梅雨明けですね。

『夏草を茂らす力見えねども』 (7月30日)
 ウォーキングコースの元荒川の河川敷。2ヶ月ほど前にはきれいに苅られていたのに、あっという間にこの有様。生い茂る夏草の生命力に圧倒されます。その生命力もまた、宇宙のどこかから降り注いでいるのでしょうか。最初、その繁殖力の始まりに触れて『夏草も種一つから生い茂る』とやっていましたが、上の句になりました。あと数日で、猛暑の夏がやってきますね。

『水草の細胞分裂夏の池』 (7月29日)
 いつもウォーキングしている遊水池に今年もまた、水草が繁殖し始めました。梅雨明けが遅れていますが、これが猛暑の夏になると一気に水面全体を覆い尽くします。まるで、がん細胞の増殖のようですが、『水草はがん細胞か夏の池』だと、ちょっと情緒がないのでね。住み始めた20年前には見られなかった現象ですが、やはり地球温暖化のせいなのでしょうか?

『長梅雨に地元野菜の健気かな』 (7月28日)
 「Stay home」で、カミさんが作った買い物リストを持って近所のスーパーに買い出しに行くことが多くなりました。スーパーの一角には、地元農家が出荷する小さな「地元野菜コーナー」があって、新鮮なので、ここにあるときは大抵こちらで購入します。今年の長梅雨で野菜作りも大変だと思いますが、地元の農家さんも健気(けなげ)に頑張っています。



『長梅雨やコンビニコーヒー日課とす』 (7月27日)
 梅雨がなかなか明けない中、小さな日課が続いています。雨の様子を見て、歩いて数分の真言宗の寺で般若心経をあげ、さらに歩いて数分のコンビニで110円のキリマンジャロのコーヒーを買って、雨が上がっていれば、お寺に沿った遊歩道のベンチでゆっくりと飲みます。こんなひとときも、コロナの憂鬱を晴らすのに少しは役に立っているかも知れません。

『厨房のトマト密かに色づけり』 (7月26日)
 ことし初めてプランターにトマト、ナス、オクラを植えてみましたが、この長梅雨でトマトはなかなか色づかず、オクラはまだつぼみのまま。ナスはOKでした。待ちきれずに青いまま収穫したトマトが4日目にして、台所でいつの間にか赤く色づいていました。今日あたり食べてみようかな。

コロナの暗雲の下で淡々と 20.7.6

 6月19日に県をまたいだ移動も解除になり、これで少しはコロナの霧も晴れるかと思ったのも束の間、むしろ暗雲が垂れ込め始めた。地元の越谷でも新規感染者がじわじわと増え始めて、浮かれて出歩くわけにはいかない状況である。7月に入れば大丈夫だろうと、友人たちと一泊温泉ゴルフを2回分も企画していたが、結局はキャンセルになった。母の命日に水戸の墓参りをしようと思っていたが、これも東京勢は諦めて、弟に代表で行って貰うことに。そんな、なかなか気が晴れない梅雨空の近況を書いておきたい。

 相変わらずの自主的「Stay home」で、週2回ほどの会議はリモートで参加し、いくつかのオンライン雑談会も続いている。また、コロナの情報をウォッチングしながら、「メディアの風」にコラムを書く生活も何とか続けている。しかし、有り余る時間を先の見えないコロナのことばかり考えて過ごすのも気鬱で、前にも増して時間の過し方の工夫を迫られるようになった。ありきたりだが、その一つが読書というわけで、最近は、毎日「声の便り」を届けてくれる友人(彼の電話はかけ放題の月額2000円なのだそうだ)が、送ってくれた本と格闘している。

◆コロナの中での読書生活
 映画監督で読書家の彼が送ってきた本は、かなり骨が折れるものばかりだ。江戸時代初期の武士で禅を極めた鈴木正三の「驢鞍橋」(ろあんきょう)、本格的な解説書「老子」(福永光司)、そして「ひとりの男」(オリアーナ・ファラーチ)である。中でも「ひとりの男」は小さな字で書かれた上下二段の大著で530頁もある。1968年にギリシャの軍事独裁政権に抵抗するために暗殺未遂事件を起こしたアレクサンドロス・パナグリス(1939〜1976)について、イタリアの女性ジャーナリストで彼の恋人だったオリアーナ・ファラーチが書いた実録である。

 逮捕されたパナグリスは、死刑執行直前に国際世論の高まりで死刑を免れ、その後の長期にわたる独房の中で徹底的な拷問を受ける。脱走計画の失敗と再度の拷問のあと、ついに釈放されイタリアに亡命。軍事政権が倒れた直後に帰国して議員となり、軍事政権時代の罪状を暴こうとして、謎の死を遂げる。その人物像について、思想について、彼をインタビューしに行って恋に落ちたファラーチが書き残した。彼の死まで僅か3年ほどのつきあいだった。その間に、彼女は膨大かつ詳細な「ひとりの男」の物語を聞き取り、驚くべき文章力で作品にした。

 読書について言えばもう一つ、最近AmazonのKindleで本をダウンロードして読むことを始めた。こちらは、軽く読めるものばかりだ。往年の特異なSF「ソラリス」(スタニスラフ・レム)、「コロナ時代の僕ら」「雪の花」(吉村昭)、「死という最後の未来」(石原×曽野)、「しあわせの値段」(角野光代)など。そのほか、著作権が切れているものはタダで読める。Kindleにつきあっていると、何となく乱読になってしまう。友人が送ってきた「老子」と「驢鞍橋」は、読み始めたばかりだが、こちらはじっくりと読まなければいけないだろう。

◆カミさんの病院通いに付き合う
 いつものウォーキングコースでは、アヤメも紫陽花も終わり。代わりに遊水池には睡蓮と水草が勢力を増している。そうした植物相の変化を見ていると時間の流れを実感する。植物と言えば、妙に納得したことがある。家庭菜園をやっている友人たちに話を合わせるために、5月末に初めてプランター3つにナス、トマト、オクラの苗を植えてみた。それが1ヶ月あまりでみるみる大きくなり、花が咲き、先日はナスの第一号を収穫した。トマトも実をつけて赤くなり始めた。それをみて、さすがに品種改良が進んだ野菜の実力を実感したわけである。

 毎日確実に成長している野菜たちをみるのは楽しく、家庭菜園に病みつきになる友人たちの気持ちが分かるような気もする。さて、そんなことをしているうちに、カミさんの病院通いが始まった。去年の夏に胸の診察で気になるところが見つかったのだが、コロナを理由にずるずると先延ばしにしていた。それを再開したわけである。ところが直前になって再びコロナが増え始め、2人で都内の病院に行くのに結構緊張した。電車、地下鉄を乗り継いで行く。呼吸器系の病院なので、待合室では咳をする人が結構いて、ここでもかなり緊張した。 

 先生は「コロナを理由に来ない人が多いけれど、持病の方が大変なのに」と言っていたが、呼吸器系に疾患がある人にとって、コロナは恐怖に違いない。幸いにこちらは、それほどの自覚症状があるわけではないが、そういうこともあって、カミさんはコロナの感染状況に人並み以上に敏感になっている。コロナがこれから先、どのような展開を見せるのか分からないが、ともかく診察を再開したからには、結論が出るまで緊張感を持って病院通いをするしかない。別の検査機関も含めて、あと何度か都内に通うことになりそうだ。

◆一日一日を淡々と重ねて行く
 今の世界には、コロナのパンデミックによる影響だけでなく、心配すればきりがないほどの大問題が揃っている。米中覇権争いや北朝鮮の自爆的な行為による核戦争の恐れ、(未知のウイルスの出現も含めて)地球温暖化の様々な影響、特に日本で心配される巨大地震や巨大噴火、それに伴う原発事故の可能性など。50年と言わず、数十年の間にも、これらの幾つかは現実のものになるかも知れない。しかしそれは今心配しても仕方がない。今のところはコロナに感染しないように気をつけながら、一日一日を出来るだけ淡々と暮らしていくほかない。

 たとえ、それが物足りなく退屈に思えても、1年が過ぎ、来年の今頃になれば、また別の風景が見えてくるだろう。それが今よりいい風景であることを願いつつ、この退屈な日々に耐えていく。人生の最晩年に差し掛かって来ると、時にこのままでいいのかという“迷い”も起きてくるが、今は耐えることだ。たとえリモートでも、家族、きょうだい、友人とのお付き合いを大事にしながら、日々を重ねていく。温泉にも行きたいが、さしあたって1年。コロナが収まる日々を楽しみにして、その他のことは、あれこれ考えずに。

◆あまり淡々でカビが生える?
 そういう状況では、世間の情報に必要以上に振り回されないことが大事になる。今は世間では、現役の誰もがそれぞれのゲームを夢中で闘っている。政治家は政治家で、どう権力を維持するか、どう権力に近づくか、目の前のゲームに夢中だ。一方、社会的に何者でもない私などは、そういうことと全く接点がない。安倍政権によるコロナ対策のいい加減さや、最近の解散総選挙の策謀については、一市民として腹に据えかねるので、コラムの方に書いたりするが、それ以外のことには、(ワイドショーみたいに)些末な関心を持っても疲れるばかり。  

 最近は、そういう情報過多の世間から少しでも離れるために、夕方、短時間の座禅を組むようになった。丹田に気を入れながら、できる限りゆっくりと呼吸する。もう自分が死んでいると思って、死後なら何も考えないだろうと頭に浮かぶ想念を止める。なかなか無念無想とは行かないけれど、友人に言わせれば、「老子」の“道”も、禅に通じるものがあるらしい。こんな生活では、ついにはカビが生えるのではないかと思うが、当面は、コロナの過度の心配、災害のニュースにもあまり振り回されずに暮らして行きたい。その淡々さ加減が難しいけれど。