日々のコラム <コラム一覧>

一人の市民として、時代に向き合いながらより良く生きていくために、考えるべきテーマを日々取り上げて行きます。

統治システムの劣化が進む 20.8.27

 8月24日で安倍首相の連続在任期間が、歴代一位になったそうだ。しかし、このところの体調不安説や、巣ごもり状態によって政権はすっかり存在感を失い、後継者の噂が出るなどの末期的症状を見せている。今は国難とも言うべきコロナ危機であり、適確な対策でコロナを押さえ込み、経済も回していくという大事な局面に差し掛かっている。取り巻きたちは盛んに休養説を流して、延命を図ろうとしているが、それが通るかどうか。この政権の末路がどうなるにせよ、長期政権が招いた日本の統治システムの劣化は悪化の一途をたどっている。

 この8年、安倍政権が放置してきた日本の課題ついては、今年のコラム「安倍政治の失われた8年」(3.10)に書いた。未来につけを回す膨大な財政赤字、破綻した核燃料サイクルなど原子力政策、科学研究費削減による国力の低下などの問題だが、安倍政治の課題先延ばしは、課題が迫っているのに身動きがとれない、日本が陥りやすい「統治システムの劣化」と言える。こうした劣化は、安倍政権の8年で一層進んだように見えるが、今の日本の政治家や官僚を覆っている「統治システムの劣化」の実体とその原因について、考えて見たい。

◆利権構造の維持が最優先の「無恥の構造」
 田原総一朗は安倍政権のレガシーは「ゴマすり合戦」(8/21毎日)とし、「安倍政権の最大の問題は、議員も官僚も、安倍官邸へのゴマすり合戦に堕していること」と語っているが、「統治システムの劣化」の第一は、その利権構造から来ていると言っていい。官邸が人事権を握って官僚を支配し、政治も野党が機能しないので思いのまま。そこから生まれたのが、取り巻きやゴマすりたちが権力中枢を占めて甘い汁を吸う「利権構造の維持」が最優先の政治である。コロナ対策費の不透明な流れなどもその一つで、そこでは議員や官僚、そして企業が少しでも政権中枢の甘い汁に近づこうとしのぎを削っている。

 安倍の方もそうして寄ってくる議員や官邸官僚に囲まれるのが好きで、アベノマスクや全国一斉休校など、側近の思いつきに簡単に乗ってしまう(田原)。官邸はまた、その利権構造を維持するために、森友・加計問題など、数々の不祥事もまるでなかったように押さえ込んできた。言い逃れと自己欺瞞を続けながら腐敗を腐敗と思わない。とりあえずこの利権構造を続けることが最優先になり、無能でも無策でも結構。これが、恥を恥と思わない「無恥の構造」を続ける原動力であり、「上が上なら下も下」で官僚もせっせと不祥事の尻ぬぐいをして来たわけである。 

◆現実を直視しない惰性の政治が行き着く先 
 一強体制の中で、与党議員も官僚も「物言えば唇寒し」で、異論を言い出せない。言ったとしても、驕った官邸は聞く耳を待たない。むしろ安倍が耳を傾けるのは、政権を取り巻く(日本会議などの)右翼集団の声である。右翼雑誌やネットに出て、それらを心地よく聞いているうちに、国民多数とのずれが分からなくなる。右翼の求める大義(改憲)に生きているような仮想を引きずりながら、国民多数には見えている、本当にやるべき目の前の課題も先送りして、合理的な対応を怠ってきた。これが安倍政治の実体で、まさに「統治システムの劣化」である。

 「統治システムの劣化」によって、その場しのぎを続けているうちに、様々な課題の時限爆弾が時を刻んでいる。エネルギー政策の転換を果たして、地球温暖化問題をリードするという課題も自然エネルギーについては先進世界の周回遅れである。さらに、経済の実力、科学技術の実力も政治の無策を続けるうちに、世界の2流国に落ち込んでいる(「失われた30年の自画像」19.5.16、「科学技術の揺らぐ足元」18.11.5)。それに拍車をかけているのが、日本の未来を担う次世代がやせ細る少子化だ(「人口減少・衝撃の未来図」18.8.30)。

 こうした国の進路に関わる大きな課題に取り組むには、従来の利害関係を大胆に見直す勇気がいる。例えば、核燃料サイクルの再処理工場(六ヶ所村)や原発増設などは、利害関係のない人間から見ればとても無理筋で、税金の大量投入などは許されない事案だ(「行き詰まる原子力政策と原発」18.9.9)。それを変えられないのは、政治が従来の利権構造から抜けられないからである。現実を直視して、前例にとらわれない合理的な設計図を描き、大胆かつ果断に実行する。それが出来なければ、日本は歴史の前例に見るような破局に向かってしまう。

◆統治システムが機能しなかった日本
 江戸末期の日本は、鎖国を続けて世界の大きな流れから全く取り残されていた。些末な規則と前例主義に縛られるがんじがらめの封建制度の中で、迫り来る文明開化の大波を迎えようとしていた。そこへ黒船がやって来て開国を迫ったわけだが、幕府は小田原評定を続けて埒があかない。何も決められない。ついには革新勢力の台頭で幕府が滅び、辛うじて植民地化を免れた。当時、外国勢力がひたひたと日本に迫っていることは、誰でも知っていたのに、幕府中枢は、家柄重視の官僚制度に縛られて動けず、統治システムが機能しなかったわけである。

 さらに、太平洋戦争前夜。少しでもアメリカのことを知っている政府、軍の幹部は、この戦争はするべきではない、始めたら負けると思っていたのに、日中戦争でずるずると深みにはまって行き、ついにはアメリカとコトを構えるはめになった。事前の図上演習で敗北が分かったときも、「誰にも言うな」と秘密扱いにされ、無謀な戦争に突入した。戦争末期には、誰の目にも敗戦が濃厚なのに、継続だけが目的になってさらに犠牲が膨らんだ。日本民族が絶滅に瀕していたその時、統治システムはないに等しかった(「一億層玉砕と日本殲滅作戦」14.12.17←是非読んで頂きたい)。

◆最低限必要なのは「権力のシャッフル」
 幕府も軍部もそうだったが、権力維持そのものが目的になると、視野が極端に狭くなる。安倍政権も、取り巻き中心の狭い視野で物事を処理しようとして、オープンに野党や国民の意見を聞くという姿勢がない。むしろ自分と異なった意見を敵対勢力と見なす傾向さえある。官僚たちも同様だ。しかし今は、上記のような重要課題が迫っている時である。国の破局を避けるために、日本の統治システムの劣化を少しでも立て直すことは出来るのか。迫り来る現実を直視し、前例主義にとらわれない合理的で大胆な政策を実行にするにはどうすればいいのか。

 そのために最低限必要なのは、与党内での「権力のシャッフル」である。長期政権で固定した利権構造をご破算にすることである。権力中枢の入れ替えが出来れば、国の淀んだ政治にも少しは爽やかな空気が戻ってくるだろう。28日は安倍が久しぶりに記者会見するらしいが、仮に安倍が退陣を表明しても、その後継者がこれまでと同じ利権構造の住人(麻生や菅)なら、期待は出来ないだろう。統治システムの劣化は進み、従来の利権構造、従来の発想、従来の人脈を引きずった惰性の政治が続く。それこそ迫り来る課題の時限爆弾との競争になる。*28日に辞任表明はご存じの通り

◆持つのはあと10年?20年?
 権力のシャッフルの次に必要なのは、政治が「課題解決型」に変ることである。日本に迫っている幾つかの課題(病理)を見極めて、専門家の意見も取り入れながら適確な手術を行う。もう一つ、日本の統治システムが機能するためには、課題解決だけでなく、未来に向けての日本の設計図も必要だ。課題解決策と国の基本計画という2本柱である。そのビジョンをもとに、若い世代のために日本を創り変えていく。それが、今の日本に可能かどうか。今の政治状況を見る限り、とうてい無理という気分になるが、その時、日本に残された時間はどの位だろうか。

 もって10年という意見(友人)もあるが、せめて20年はもって欲しいというのが、私の希望的観測である。幕末の時ように、いよいよとなった時に誰かが目覚めるのか。あるいは先の戦争の時のように完全に打ちのめされるまで分かろうとしないのか。コロナもそうだが、地球温暖化などの人類の課題も、日本特有の課題も変化のスピードが速まっているので、のんびり構えているわけにはいかない筈だ。

コロナストレスと向き合う 20.8.18

 猛暑に加えて、連日のコロナ報道である。最近では憂慮されていたように、中程度や重症者の数も確実に増えてきて、亡くなる人も少しずつ増えている。前々回も書いたように、一人の死者が出る背後には、何十人という重症者がおり、その患者をケアする多くの医療スタッフと膨大な医療資源が必要になる。そのことに想像力を働かせない評論家や専門家が「最近は弱毒化しているようだ」とか、「風邪と同じ」、「98%は無症状で終わる」、「日本の死者はそんなに増えない」などなど、軽々なことを言って歩いているのには呆れるほかない。

◆科学に対する懐疑論の5段階
 科学的事象に対する懐疑論は、「否定」、「責任転嫁」、「矮小化」、「対策の代償の批判」、「手遅れの悲観論」という5段階を経て進行するとアメリカのダナ・ヌッチテリが言っているそうだ(8/10朝日)。例えば、地球温暖化については、「地球温暖化はない」という否定から始まり、「中国の方がCO2を出している」の責任転嫁、「いつかは収まる」(矮小化)、そして「対策には巨額の増税が必要だ」(代償の大きさ批判)、「すでに対策は手遅れだ」(悲観論)となる。コロナも同じような言説を展開する、現実無視の懐疑論が花盛りだ。

 例えば、否定(ただの風邪だ)、矮小化(98%は無症状で死者は少ない)、代償批判(PCR検査拡大は金がかかる、経済の方が先だ)と言った調子で、目の前の実体をその時々の色眼鏡で見ようとする。これが、「既に手遅れ」という状況になる前に、科学的に適切な対策が採られればいいのだが、為政者たちは様々な言説に惑わされて、目の前の不都合な事実を直視しようとしない。国民のストレスも強まる一方で、皆が「コロナストレス」状態にあるような日本列島だが、一方で、この「コロナストレス」は、コロナ現象の全体像がいまだに掴み切れないことからも来ている。

◆日本列島を覆うコロナストレス
 考えて見れば、今年の年明けには想像もしなかった変化である。コロナ現象が余りに急展開する中、何がどう変ったのか、世界はこの先どうなるのか、全体像が全く見えない。BS1スペシャルなども盛んに、世界の識者(例えばジャレド・ダイアモンド)にインタビューして「コロナ後の世界」を模索するが、長期的見方の提示はあっても、日々変化する不安に答えることは難しい。私たちは今、得体の知れない「コロナストレス」にさらされているが、それとどう向き合ったらいいのか。それを知るためにも、まずは我が身に照らして、不安やストレスの出所や実体について整理してみたい。

 不安は様々な所から生まれる。最近では、医療の逼迫に加えて、熱中症とコロナの初期症状が似ている問題、市中感染の蔓延によって家族内感染が増えていること、或いは、むしろ軽症に多いとされる多様な「後遺症」の問題、これから秋冬にかけてインフルエンザとの同時蔓延も心配といった報道もある。従って不安の第一は、この状況で自分がいつ、どのようにして感染するのか。感染した場合にはどのような症状をたどるのか。後遺症は残るのか、といった不安。また感染した場合に、適切な医療が受けられるかどうかという医療面での不安である。

◆コロナストレスを生む様々な不安
 この点では、感染の兆候が見えた時に、PCR検査はすぐ受けられるのか、宿泊施設や病院に入れるのか、相変わらずの状態が続いている。保健所の電話はかかりにくいと言うし、かかりつけ医師も適切な指示をしてくれるか、どこの医療機関を紹介してくれるのか、地元情報が少ない。例えば、専門病床が少ない埼玉県などは、信頼の置ける病院に上手くたどり着けるのか問題だ。またそこでは、症状の進展に応じて、一連の抗ウイルス薬、免疫抑制剤、抗炎症剤、抗血栓剤など、最新の知見が生かされているのか。そういう身近な安心情報が殆どない。

 不安の第二は、この先の日本経済がどうなるかである。既に日本のGDPは4-6月期でマイナス27.8%。先が全く見えない。感染抑制と経済の二兎を追うという中途半端な自粛政策によって、ウイルス封じ込めが難しくなり、経済の先行きも見通せなくなった。このまま大量倒産と失業の不況が襲ってきたときに日本社会はどうなるのか。財政は破綻しないのか。その不安は、年金生活者の私などより、社会的、経済的弱者にとって一層深刻な筈だ。子どもたちの仕事(自動車、デザイン、アパレル)の先行きも心配だ。オリンピックどころの話ではない。

◆政治の無能・無策が生む直接的なストレス
 こうした不安を増幅し、直接ストレスのもとになっているのが、政治の無策である。安倍首相が「PCR検査を拡大する」と言ったのは、もう何ヶ月も前だが、現在でも(医者が必要と認めればという)医療行政の枠組みを崩しておらず、新しい枠組みを作る積もりはないらしい。検査の価格破壊も起きていない。彼らにはウイルスを封じ込めない限り、経済も回らないということが見えていない。PCR検査を重点的、かつ有効に使って感染者を徹底隔離することが、ウイルスの封じ込めにも、経済を回すためにも必須だという認識の転換が持てていない。それがストレスを生む。

 加えて、この非常時に司令塔の安倍が巣ごもり状態で、2ヶ月あまりも会見らしい会見を開かず、国民の不安に答えていない。国会も開かない。西村担当相、菅官房長官、加藤厚労相などが時々に説明するが、言うことがバラバラ。こういう苛立ちとストレスの中で、社会や家庭の崩壊につながりかねない3密回避の自粛生活をいつまで我慢すればいいのか。私たちは、政府の無策のもとで以上のような「コロナストレス」と向き合わされているわけだが、これはまた個々人の置かれた状況(仕事や年齢、家族構成など)で違ってくるだろう。

◆コロナストレスが爆発するとき
 この「コロナストレス」は、実は多かれ少なかれ、今のコロナ禍の世界に共通のストレスである。ウイルスは見えないだけに、強い不安とストレスを社会に与える。社会がギスギスし、アメリカではマスク着用やソーシャルディスタンスなどのコロナ対策を巡って社会の分断、貧困層への差別、或いは人種差別をきっかけにした暴動や略奪なども起こっている。銃が飛ぶように売れているともいう。日本でも感染者への誹謗、中傷、医療者への差別などが問題になっている。コロナ対策を巡って社会が分断され、ネットでの叩き合いも激しい。それだけコロナストレスが高まっているのだろう。

 問題は、この「コロナストレス」とどう向き合っていくかである。基本的には、不安の根拠を明確に意識化しながら、自立的に自衛するしかないわけだが、前にも書いたように、社会学者や社会心理学者の出番が望まれる。目の前のストレスをどう捉え、折り合っていくのか、という知恵の提供である。出来れば、少し長い目で見る“余裕”の持ち方を社会に提案して欲しいと思う。同時に、重要なのはメディアの役割である。今のメディアは、適確な情報提供、政治批判なら結構だが、どちらかというと、目の前の事象を追うのに精一杯で、却って不安をかき立てる面が多い。

◆「最適解」求めて世界が連携する
 最近のメディアは、それぞれ立場の異なる、色のついた評論家、コメンテーター、自称専門家たちが、百家争鳴の解説を垂れ流す場になりつつある。未整理で何が本当か分からない情報を垂れ流すメディアのあり方も問題だ。今大事なのは、コロナ対策に責任を持つ司令塔がしっかりと国民の不安に答えること。そして、国民が一致協力して、コロナ対策の「最適解」を模索しながら、頑張ることである。コロナ現象は初めての経験だけに、「最適解」も状況に応じて変化して行くに違いない。その模索に向けて総合知をまとめていく。そこにメディアも力を発揮して貰いたい。

 幸か不幸か、コロナストレスは世界に共通の現象であり、各国の多くの取り組みも同時進行で参考になる。不安だらけの時代だが、「コロナストレス」の原因を明確に認識すれば、解決の方向も見えてくる。それへ向けて政治を動かし、それぞれの組織、個人が分断を乗りこえて連携して行く。その中で、明日への希望も見えてくる筈だ。

ウイルス封じ込めに本腰を 20.8.8

 全国的な感染拡大が止まらない。7月16日に児玉龍彦氏が国会で「来月になれば目を覆うようなことになる」と警告したとおりの展開である。しかし、政府の考えは「経済を止めるな」の一点張りで、経済破綻の不安の方が、医療崩壊や重症者増の不安より大きいように見える。緊急事態宣言から解放された国民の気持ちを再び引き締めるのは、心理的、経済的からもかなり難しいのは分かるが、そうかと言ってこの状況を「3密回避」の要請や、一部の休業要請だけで乗り切れるのか。むしろ本腰を入れて、対ウイルス戦略を練り直すべき時ではないのか。

◆「ハンマー&ダンス」の前提条件
 現在の状況は、非常事態宣言のようなハードな対策で感染者を出来るだけ減らした後で、様々な対策を取りながらウイルスとダンスを踊るように共存していく「ハンマー&ダンス」の延長線上にある。日本政府もこの考え方で「ウイルスとの共存」を目指してきたが、最近はこれが却って仇になって感染を拡大させているとも指摘されている。原因は2つ。一つは、このウイルスが想像以上に巧妙な生存戦略を持っているからであり、もう一つは、日本がウイルスと共存するための対策に十分な努力をしていないからである。

 最近まで、このウイルスは高温多湿の夏になれば、勢いが弱まるとか、紫外線に弱いから夏には衰えるとか言われたが、感染が下火になる気配は全くない。猛暑の今も無症状の人間を介して巧みに感染を拡大させている。しかも日本は、次の感染拡大に備えてやるべきだった「徹底的な検査と隔離」、「医療体制の整備」、「治療薬やワクチンの開発」、「人の行動変容」といった対策に十分取り組んで来たとは言えない。特に「徹底的な検査と隔離」、「医療体制の整備」については、第1波の時から言われ続けても、様々な言い訳をしながら先延ばししてきた。

 それが、(陽性者の98%は無症状か軽症で済むといった)都合のいい楽観論や、社会の一定数が感染しても日本は死者数が少ないといった「無作為の言い訳」、そして、保健所の人員確保や行政の能力には限度があるのでこれ以上増やせないといった言い訳である。いい加減で無責任な言い訳を私たちは半年にもわたって聞かされ続け、あげくに国のリーダーが説明責任を放棄するという、笑えない状況に陥っている。「ウイルスとの共存」という看板でごまかしながら、こうしたその場しのぎを続ける限り、日本でのウイルスの封じ込めは不可能になる。

◆人間に不可能を強いる「ウイルスとの共存」
 それ以上に、最近では「ウイルスとの共存」そのものが、人間社会にとって無理筋な命題だと思わざるを得なくなって来た。つまり、その条件である3密を避けることが、長期になればなるほど、私たちにいかに無理な要求を強いるかということである。例えば、3密回避を守れば、地域に続いた伝統の祭り、花火大会、音楽や芸能のイベント、スポーツ大会といった人間の根源的な精神・文化活動も不可能になる。今問題になっている、お盆休みでの家族のふれ合い、絆の確かめ合いといった大事なことも出来なくなる。これが、見えて来た大問題である。

 確かに、3密回避を逆手にとって却って伸びているデジタル産業などもあるが、人との密接な関係を大事にする教育、医療福祉などの分野でも、長期に3密回避を続けることは不可能だ。「ウイルスとの共存」はこの先、経済・社会生活を困難にするだけでなく、人間の精神と文化の息の根を止めることになりかねず、人間生存にとって極めて厳しいものになる。下手をすると人間の心の方がウイルスより先に崩壊することになる。これが今、改めてウイルス封じ込めの闘いに方向転換し、経済活動も精神活動も取り戻す「分岐点」だとする理由である。

◆PCR検査の圧倒的な拡大を可能にした世界
 闘いの一つは、当然「徹底的な検査と隔離」になる。その目的は中途半端な「ウイルスとの共存」政策ではなく、徹底的なウイルスの封じ込めにある。最近の情報によれば、中国は7月末までに、1億6千万人分のPCR検査をしたという。今の検査能力は、1日当たり484万人分。6月以降感染者が増えた北京でも1千万人の検査を行ってウイルスを封じ込めた。中国の主要都市では希望者は当日予約で24時間後に結果を知ることが出来る。ようやく9月末までに1日7.2万件を目指すなどと言っている日本の現状とは雲泥の差だが、これが実際である。

 韓国も同様である。以前も書いたように、韓国では検査キットや自動化されたPCR検査機器の導入、さらには一度に数十人をまとめて効率的に陽性者を見つけるプール方式の試みなどによって、ウイルス封じ込みに全力をあげている。あのNYでも「いつでも、誰でも、タダで、何度でも」やれるようになっている。しかし、このPCR検査の拡大が日本では出来ない。厚労省の縄張り意識と感染症法上のネックがあるからと言うが、誰が責任者なのか。国の存亡にも関わる緊急事態なのに、外国に出来たことが日本に出来ないというのはどういう訳か。

◆拡大と合せて検査のフォローアップ体制の議論も
 もちろん、PCR検査はただ数を増やせばいいというものではない。それをウイルス封じ込めにつなげて行くには、やるべき事が沢山ある。検査拡大を訴える声は多いが、そこの議論が抜けがちなので、素人なりに要点を押さえておきたい。まずは、総力を挙げてPCR検査の改革をしなければならない。今の保健所中心の検査は、「遅い、高い、人手がいる」の何重苦にもなっているので、これを「早い、安い、簡単、大量処理」のPCR検査に変えなければならない。検査キットの開発、自動化、技術者確保など。それと並行して制度設計にも取り組まなければならない。

 差し当たっては、(国会を開いて法律を改正し)厚労省・保健所ルートとは別に、病院や大学、研究所、民間検査機関などでも検査が可能にする。検査精度の問題を整理し、地方の主要都市も含めてデータが瞬時に活用出来るように全国的にネットワーク化する。同時に、大量の陽性者を隔離する体制(10日ほどの拘束を可能にする法整備)、宿泊設備の確保や医療者従事者の確保、中程度から重症者までの患者を収容する高機能の専門病棟(写真は中国)の建設・確保も行う。ウイルスを徹底して封じ込めるには、検査拡大と合せてこうした「フォローアップ体制」を忘れてはならない。

◆政府はウイルス封じ込めへ政策転換できるか
 政府は現在、ワクチンの入手方法を探っては国民に「やっている感」を示そうとしているが、専門家の話を聞いても、ワクチン開発は一筋縄には行かないらしい。政府も国民も、ワクチンに幻想を抱いて、必要な対策を先延ばしにしているが、仮に、この感染拡大の状態が続き、あと半年、一年も3密回避を強いられたら、国家も国民も壊れてしまう。仮にワクチンが早期に出来たとしても、PCR検査の拡大と徹底隔離、そして医療体制の整備は、(必ず来る)次の新型ウイルスへの備えとして必要なものである。韓国、台湾の例を見ても、それは決して無駄な投資ではない。

 韓国は開発した検査システムを海外に輸出もしている(写真)。封じ込めへの政策転換は、「Go toキャンペーン」で1兆4千億円も使うより、余程経済効果も大きい。最近、世田谷区は児玉龍彦氏と連携して、(将来は)韓国から自動検査器を輸入するなどで、独自にPCR検査を拡大し、まずは「人間対人間」の接触が避けがたい介護、保育、医療従事者から重点的に適用する計画を始めた。国の遅さに業を煮やした形の取り組みである。しかし、当然のことながら全国的なウイルス封じ込めのためには、国の総力を挙げた取り組みが必要になる。

 そのためにはこの際、学術会議などの頭脳集団が一致して声を上げて行くことが必要だと思うのだが、プライドが高い今の政府に、大胆な政策転換が出来るだろうか。これには、出来るという希望的観測と、日本人には無理という悲観論とが相半ばする。悲観論は、(先の戦争の時のように)日本は結局行き着くところまで行かなければ変らない、という見方だが、それでは哀しすぎる。

コロナ対策が政治化する時 20.7.29

 「多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない」とは、かのカエサルの言葉(塩野七生)だが、その傾向は凡庸な政治家になるほど、一層激しくなるのではないか。何しろ養老孟司さんも政府のコロナ対策に関して、「政権が持てばいいとしか考えない」と喝破している。今の安倍政権のコロナ対策は、専門家会議を廃して政治主導になったとたんに、目の前の不都合な現実が目に入らなくなったように見える。衣替えした分科会の委員たちも政府の方針を追認するだけになってしまったが、これで日本はコロナの難局を乗り切れるのか。 

 政府の「Go to キャンペーン」は始まったばかりだが、人の動きが増えるにつれて、恐れていた感染が地方へと広がりつつある。思わぬ所でクラスターが発生して医療体制の見直しに追われている地方も多い。キャンペーンの実施にこだわった菅義偉(官房長官)は、業界筋からの評価が上がって存在感を増し、再び安倍後継の有力者に浮上したなどと囁かれているが、この先の感染拡大をどう考えているのか。誰しも思うことだが、このまま感染が拡大すれば国民の不安が先行して、キャンペーンそのものが不発に終わることもあるだろうに。

◆コロナそっちのけの暗闘とメディア締め付け
 毎日の山田孝男は菅の話として、観光関連業者は全国で845万人、農業などへの効果も含めると2000万人もいると、このキャンペーンの意義を伝えているが(風知草7/27)、経済重視はいいとして、それと相矛盾する感染押さえ込みについては誰が責任者なのだろうか。肝心の加藤厚労相は、気がつけば遙か後方に後退し、PCR検査の拡大を含めて殆ど機能していない。西村経済再生担当相はむしろ経済に舵を切るばかりで、感染対策では常に後手に回っている。安倍に至っては、記者会見も開かず「巣ごもり状態」で、早くも夏休みモードという。

 明確な司令塔のもとで適確に手を打たなければならない難局に際して、今の政権は国会も開かず、司令塔を隠して乗り切ろうとしているが、これには何か理由があるのだろうか。一つは、それが安倍の常套手段で何か批判されそうになると、身を隠して逃げ切りを図ること。もう一つは、今の政権が、安倍の4選や後継を巡って暗闘状態にあるということではないか。隙あらばと、4選への可能性につながる解散総選挙を画策する安倍官邸・麻生ライン。それを警戒しながら、後継を狙う菅、岸田、石破、その他諸々(稲田ほか)。キングメーカー気取りの二階。

 これに菅を嫌う(今井尚人らの)官邸官僚が加わって、互いにコロナ対策を挟んで神経戦を繰り広げている。求心力を失いつつある安倍官邸も、巻き返しに必死で、メディア対策にあの手この手だ。各局のワイドショーには政権に近い解説者を強引に送り込み、政府のコロナ対策に批判的な司会者の降板を画策する。官邸記者クラブなどの記者には「医療崩壊と言うな」などと姑息な圧力をかける(「政治部不信」)。巣ごもりの一方でネット番組に出演するなど、相変わらず、「ネット時代のメディアと権力」(19.12.25)のえげつなさを続けている。

◆政府や厚労省の意を汲む専門家たち
 まさに、コロナ対策の政治化、或いは政局化とも言うべき状況だが、これで本当に「経済と感染押さえ込み」の両立を目指す難しい舵取りが出来るのか。政府が新たに人選した「分科会」の専門家たちも追認するばかりで、殆ど何も聞こえなくなっている。(倉持仁、上昌広、児玉龍彦など)民間の医師や識者からは、「感染押さえ込みには、徹底的なPCR検査が必要」、「政府は何故、PCR検査を拡大しないのか」という声がしきりだが、厚労省に近い専門家たちが公然とそれに反対する状況が続いている。政府や厚労省の立場を代弁しているのだろうか。

 こうした状況で、メディアに登場する専門家たちも微妙に色分けされるようになった。余り顔ぶれが多くて整理できないが、その一方の代表は厚労省の「クラスター対策班」にも参加した和田耕治(写真右、国際医療福祉大学教授)で、無症状の人たちまでPCR検査を拡大することに慎重な立場だ(NHKニュース)。一方で、日本のコロナの先行きに楽観論を唱えてメディアに出まくっている人物もいる。高橋泰(写真下、国際医療福祉大学大学院教授)は、アメリカの論文一つを基に仮説を立て、自然免疫の強い日本では98%が無症状か軽症で済むと主張する

 自然免疫で対処出来ない2%のうち、サイトカインストーム(免疫の暴走)などで重症化するのは、全体の1万人〜2.5万人に1人。その結果、日本での致死率は極めて低く、死者数は欧米の100分の一、3800人より多くなることはないと言う。従って、陽性者も無理に入院させることはないと言い、無症状の人たちにPCR検査や抗体検査を広げる必要はないという立場だ。仮にこれが本当であれば、私も安心だし政府も喜びそうな説だが、彼の主張を読んでみると、仮説に仮説を加えたシミュレーションで、私などには殆ど説得力が感じられない。

◆なぜ、国際医療福祉大学なのか?
 この2人が何故、国際医療福祉大学なのか。何やら胡散臭いと思って、医療に詳しい先輩に聞くと、この国際医療福祉大学は医療福祉教育の新興の大学で(1995年設立)、医学部が出来たのは3年前に過ぎない。各地にキャンパスを持つ学校法人で医学部増設に難色を示していた厚労省に食い込んで、国家戦略特区の特別枠で成田に留学生にも対応する医学部を作っている。こうした経緯を見ると国や厚労省との近さが浮かんで来て、うがった見方かも知れないが、それが政府・厚労省の意向に近い専門家として選ばれた理由かも知れないと思ったりする。

 それにしても、メディアに登場する多くの専門家と称する人たちは、児玉龍彦氏が言う「21世紀型の精密科学的アプローチ」を、どう考えているのだろうか。素人なりに、無症状の人たちの抗体の発現について、データを集めて研究中の児玉氏などと対決させてみたい位である。もう一つ、高橋泰の楽観論が仮に本当であっても、新型コロナで死者が3800人ということは、医療的にも結構重大で、日本は備えが出来ているか疑問になる。また、高齢の自分が仮に3800人の中の1人、或いはその一歩手前になったらこれも大変だ。

◆「プロフェッショナル〜闘いは、始まったばかり〜」
 重篤状態から死に至る1人の患者がいると、感染専門病棟、集中治療室、そしてエクモ(人工呼吸器)をはじめとする膨大な医療設備がいる。エクモを動かすにも10人の医療スタッフが必要だ。1人の重症者が病院に運ばれ死に至るまでに費やされる、医療スタッフ、最新設備、薬、医療費など、膨大な医療資源を考えれば、それが今より2800人増えたら、医療現場は再び大混乱に陥るのではないか。それは、28日放送のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀〜闘いは、始まったばかり〜感染症専門医・笠原敬〜」を見て再認識させられた。

 番組では、奈良県でコロナの感染症に陣頭指揮した笠原敬(奈良県立医科大学感染症センター病院教授)の仕事ぶりを、4月から6月の2ヶ月にわたってディレクターが病院に泊まり込んで密着ドキュメントした。番組の完成度に感心したこともさることながら、笠原の医師としての素晴らしさ、病院スタッフ全体の献身の素晴らしさにほとほと頭が下がる思いがした。まさに「医療者にエールを」である。その笠原が、6月に入って患者のピークが過ぎ、非常事態解除も受けて、病院が感染病床を減らす相談をした時に、「まだ闘いはこれから」と言う。

 笠原は、2次感染は必ず来るし、それも急速に来ると先を見据えていた。人々の気持ちが一気に緩むからである。その後の状況は、まさに笠原の言う通りなのだが、今の政治の現実無視の暗闘を見るにつけ、私たちはやはり、コロナを侮ることなく自らでリスクを判断しながら、自らの生活を作り上げていかなければならないと改めて思う。今の急速な感染拡大が、重症者の急増につながるのか、高橋の楽観論の予測通りになるのか。これから2,3週間がそれを占う山場になる。

迷路に入り込むコロナ対策 20.7.20

 7月16日、参院予算院会で立憲民主側の参考人として立った児玉龍彦東大名誉教授は、(遺伝子解析と抗体検査から)今増えている新型コロナウイルスが既に外国由来のものではなく、東京・埼玉型と言うべきものに変異していると述べた。しかも、そのウイルスは新宿などで無症状の若者たちの間で感染を繰り返しながら変異して、より感染力が強くなって外に広がる傾向を見せている。新宿や埼玉のこうした場所を、エピセンター(震源地)と呼び、ここを“面”として制圧しないと日本は、先のNYやミラノのように大変なことになると警告した。

 より詳しくは、YouTube「緊急提言・エピセンター新宿を制圧せよ〜まずは30万人PCR検査から」(7/17)を見て頂きたいが、新宿などで起きている若者を中心とした無症状、軽症者の中には中途半端に免疫力があるスーパースプレッダーと呼ばれる強力な感染者がいて、たちまちに交通機関、劇場、デパートなどで感染を拡散させ、さらにそれが全国に飛び火することを危惧している。その感染力は、飛沫感染、接触感染だけでなく感染力がより強い空気感染的な様相まで見せ始めている。無症状だからと言って決して放置は出来ないのである。 

 児玉氏は、震源地由来の感染爆発を抑えるには、PCR検査を新宿の住民全体(30万人)に拡大して、ここを面として押さえ込む以外にないと言う。これは中国の武漢や韓国ソウルで成功した方法でもある。しかし、これが日本では保健所を縄張りとする法律の壁があって難しい。児玉氏は、大学や研究機関の能力をもってすれば十分可能だと言うが、行政の現状を考えると却って難しさが先に立ち、日本の体制の遅れと劣化に暗然とする。最新の遺伝子工学と情報科学を駆使する「21世紀型のアプローチ」が必須な時に、何かが決定的に遅れている。 

◆謎多きウイルス。巨大な迷路に入り込む?
 日本の専門家とされる人たちの多くは厚労省との距離が近い人たちで、PCR検査の大規模展開に対しても、現状に妥協して無理とか無駄とか異を唱え、免疫システムの解明や感染傾向を知るための抗体検査も、あれこれ理由をつけて否定する。解析が進むにつれてウイルスの謎は一層深まっているが、それにつれてコロナ対策(予防、診断、治療)に関する専門家や評論家の意見もまとまらない。それに政府の訳の分からない経済対策が拍車をかける。日本のコロナ対策は緊急事態宣言が解除されたとたんに、再び巨大な迷路(ラビリンス)に入り込んだように見える。 

 予防面では、まず、このウイルスが謎だらけということである。先日のNスペ「人体VSウイルス」(7/4)やBS1スペシャル「ウイルスVS人類」(7/18)を見ると、このウイルスは人間側の免疫システムを巧妙にすり抜ける特異な能力を持っている。人の免疫作用を弱める遺伝子を持ち、免疫系の一つのインターフェロンを出させない作用まで持つ。さらに、現在最大の謎は無症状や軽症者の中で、どのような抗体反応が起きているのかである。感染力が一番強いのは無症状の時とも言うが、その謎が解明されないと予防のガイドラインさえ作れない。

◆PCR検査に遅れは日本の劣化の象徴
 児玉氏たちは、こうした謎に迫るべく精密な抗体検査に取り組んでいるが、これにも一般人の抗体検査は意味がないなどと、異を唱える専門家がいて、議論がかみ合わない。さらに診断に必要なPCR検査の拡大に至っては、もう半年近くも堂々巡りの議論が続いている。既にNYなどでは希望者は誰でも無料で受けられるし、韓国も自動化によってあっという間に数十万人の検査が可能だ。最近では手間と経費を省くために、10人位の検体を混ぜて検査する効率的な方法(プール検査)も行われている。それが日本では、保険で無症状の人にまで広げるのが難しいという。

 PCR検査はコロナ対策の根幹である。最近では、唾液を使って短時間で出来る検査や、下水道で地域の感染状況を見る方法なども提案されている。これに加えて、簡単にできる抗体、抗原検査をやれば、地域ごと、職場ごとの感染実態が把握出来る。しかし、(無症状も含めた)PCR検査の規模拡大には、「公衆衛生ムラ」のサボタージュや縄張り意識、或いは法整備の遅れなど、様々な壁と異論がある。韓国や中国で成功したことが何故日本に出来ないのか。PCR検査の遅れは、今や日本の感染症対策の劣化と迷走を示す象徴になりつつある。

◆医療の現場で最新知見は共有されているか
 無症状の解明も大事だが、一方で発症した患者の治療法については、かなりの進んで来た感じがする。3ヶ月にわたるコロナ医療現場の壮絶な闘いを記録したNスペ「新型ウイルス 生と死の記録〜医療最前線、密着3ヶ月」(7/18)では、ラストで「特効薬がない中で、手探りの試行錯誤が続いている」とコメントしていたが、「特効薬ないので、自宅で様子を見る」と言った初期に比べれば、かなり治療方針も見えて来たのではないか。問題は、この3ヶ月にわたる試行錯誤で得られた知見が、多くの医療機関で共有されているかどうかである。

 感染症専門医の二木芳人(昭和大学病院)がテレビで分かりやすく説明しているところでは、症状に応じて、初期にアビガン、中期にレムデシビルといった抗ウイルス薬。免疫暴走(サイトカインストーム)の炎症が各所に広がり始めたら免疫抑制剤のアクテムラや抗炎症剤のステロイド薬を使うと言った「治療の標準化」が進んでいるように見える。これによって死者が抑えられれば、コロナに対する過度の不安はなくなる筈だ。しかし、「アビガン使用を巡る不可解」(6/3)に書いたように、いまだに「特効薬はない」として使用に抵抗する医師もいる。

 アビガンについては最近、藤田医科大学が「統計的な優位はなかった」とする最終報告を出したが、これも最近の患者減少によって統計の取り方が十分でないと指摘されている。さらに、有望な薬が次々と検査に入っているが、薬の認可に当たる厚労省はどう考えているのか。不安なのは、地方の医療機関でも治療に関する最新情報が共有されているのか、薬が使えるようになっているのか、全く分からないことである。多少の余裕がある今こそ、次に備えて治療法の情報共有や治療体制の整備が必要なのだが、司令塔が見えずにこれも迷路の中だ。 

◆混乱に拍車をかける政治の愚策
 医療者や専門家の意見の混乱に加えて、感染押さえ込みに責任を持つ行政の方も手探りと混乱が続いている。東京都は、ちょっと感染者が減ったら軽症者向けのホテルを解約したが、仮に新宿30万人の大規模PCR検査に踏み切ったとしても、無症状、軽症者の隔離をどうするのか。その課題への認識も備えもない。非常事態宣言には戻りたくない気持ちから、「感染拡大警報」などの注意喚起はするが、具体的な手を打てない。余裕があるとしていた病床数にも注意信号がともってきた。加えて、その混乱に拍車をかけているのが国である。

 以前にも書いたが(「コロナ新局面の政治の覚悟」7/1)、政治が経済に舵を切ろうとすると、感染の実態が見えなくなり、自分たちに都合よく解釈するようになる。しかし、それでウイルスの危険な性質が変るわけではない。手綱を緩めれば、たちまちに本領を発揮して感染を広げて行く。国は今、1兆4千億円もかけて「Go toキャンペーン」を始めようとしているが、こんな浮ついた経済対策は日本だけだ。これもアベノマスク同様に官邸官僚の思いつきなのだろうが、国レベルで感染地と非感染地をかき混ぜる「天下の愚策」になりつつある。経済対策なら他にいくらでもあるだろうに。

 巨大な迷路に入り込んだ感がある日本のコロナ対策。国も自治体も、専門家も、そして国民も、出口を求めてあちこちの壁にぶつかっては、議論百出の混乱状況が続いている。日本はこの、先が見えない迷路状態から抜け出られるのか。条件はただ一つ。奇跡などを待つのではなく、最新の科学的知見とデータを動員して、上空から自分たちの位置を俯瞰することである。「日本モデル」などと過信することなく、世界の成果を謙虚に学びながら着実に手を打つ以外にない。

投票で現状を変えたいなら 20.7.11

 マスコミ報道によると、ここへ来て安倍と麻生のA-A独裁体制(*1)は、コロナ感染拡大の深刻な状況を尻目に、解散総選挙を企んで狂奔しているらしい。自粛が解けたら早速、それらしいメンバーと謀議の会食を重ね、メディアを巻き込んで「解散風」を吹かせようと躍起になっている。しかし、安倍の支持率は、側近の河合克行、案里夫妻の買収事件での逮捕・起訴や、コロナ対応での呆れるような無能ぶりによって下がり続け、このままでは、来年秋の総裁4選はおろか、途中で野たれ死ぬ確率も高まっている。2人が焦るわけである。

 4選が無理な場合の策として、数の上では絶対有利なA-Aラインは安倍の任期切れ前に岸田に禅譲して、国会議員だけの総裁選で石破を排除し、背後から岸田を操る院政を敷く案もあったが、今や岸田の人気は石破に遠く及ばない。このままだと、彼らが忌み嫌う石破に総理総裁の座を明け渡すことになりかねないというので、麻生は安倍のプライドに訴えて盛んに解散をけしかけている。7月16日の麻生派の政治資金パーティーで解散の機運を盛り上げ、10月13日公示、25日投開票などという選挙日程を流しているという。懲りない面々である。

 安倍たちは選挙の名分として、イージスアショアの代わりの敵基地攻撃能力や、またぞろ憲法改正などを持ち出すつもりらしいが、誰が見てもこの解散には自分たちの権力を(永久に)手放したくないという手前勝手な下心しかない。それを知りながら易々と解散風に乗せられるのが、政治部記者たちの哀しい性で、ワイドショーなども無批判に政局に関する特集番組を組む。情けないし、腹立たしい。それならそれで、国民の方に何か対抗手段はないものか。一国の政治を恣(ほしいまま)にする政治家たちに一撃を加える手立てはないものか。

◆消極的投票行動とその落とし穴
 今、国政選挙があったらどうするか。仲間内で投票について話し合ったりもするが、選挙に対する考え方がまちまちで、どうも議論がまとまらない。今の野党では政権交代などとても無理だろうが、少しはチェック機能を果たして貰いたいので野党に投票するという野党支持者から、今の安倍政権には反対だが、自民党に代わるような野党が見当たらないので、仕方なく自民党に入れると言う人。あるいは、安倍以外なら誰でもいいと思っているが、野党は頼りない。どうせ選挙に行っても大勢は変らないのだから棄権すると言う人まで様々だ。

 いずれも積極的というよりは(気勢の上がらない)消極的な投票行動で、これは多分、(近年では国民の40%を占める)無党派層にも通じるものだろう。その中でも棄権は、実は安倍たち保守が最も歓迎するところで、アメリカのトランプも同じ(*2)。棄権で投票率が下がれば下がるほど、岩盤支持層がある保守に有利に働く。近年の自民党も低い投票率(53%)の中で、全有権者の僅か17%の得票で60%の議席を獲得してきた。今、安倍たちがコロナの混乱の中で敢えて選挙をやるというのも、実はそこ(低投票率)を狙っているという説もある。

◆支持しない党を選ぶ「戦略的投票」行動
 私たちがこうした姑息な陰謀に乗せられないためには、明確な目的を持った、より戦略的な投票行動を取る必要がある。その明確な目的とは、今の腐敗した安倍政権を延命させないことである。選挙で勝たせずに(責任を取らせて)退陣に追い込む。それで自民党内で権力交代が起きれば、長期政権の淀みで腐敗した利権構造をシャッフルできる。加えて、政権交代までは望まないが、野党の勢力を今より増やして、政権へのチェック機能を強化する。つまり、安倍一強の長期独裁体制に終止符を打ち、政治を国民の手に取り戻すことである。

 こうした明確な目的を設定すれば、国民の多くは、より積極的で戦略的な投票が出来る筈だ。つまり、今の安倍政権の延命を求めない国民はすべて、たとえ自民党支持者であっても、たとえ野党支持でなくとも、安倍を退陣させるために野党に投票する。結果的に自民を助ける棄権は選択しないことである。支持政党に投票するという選挙のイロハからすると、支持もしていない野党に投票するのは、かなりの心理的ハードルかも知れない。しかし、今の腐敗した政治を変えるには、この「戦略的投票行動」を選択する以外にないのである。

◆政治的自覚に待つ「戦略的投票行動」
 昔の中選挙区なら自民党内の勢力図を変えるには、現政権に対抗する派閥に投票する選択もあったが、今は小選挙区なので選択肢がない。自民党に投票することは、現政権を強めることにしかならない。従って、選挙で安倍政権にとどめを刺すには、安倍に敗戦の責任を取らせて退陣に追い込む以外にないわけで、大事なのは、こうした「戦略的投票行動」を、安倍に愛想が尽きている消極的自民党支持層から、無党派層にまで広げて行かなければならないことである。ただし、これには個々人の“政治的自覚”に待つしかないという(案外な)難しさがある。

 何故なら、野党の方は選挙で「我々を支持しなくてもいいから、安倍を退陣させるために敢えて我々に投票して欲しい」とは、恥ずかしくて言えないからだ。せめて野党の方には、こうした「戦略的投票行動」をよりスムーズに広げるための努力、すなわち、有権者の心理的ハードルを低くするための努力をして欲しいと思うのだが、それが出来るかである。今の野党は合流の話も上手く行かず(*2)、バラバラで存在感が殆ど感じられない。投票の受け皿として再合流するとか、選挙で野党共闘をするとか、少しは存在感を示せないものか。

◆野党は「心理的ハードル」を下げられるか
 この点で、最近注目すべきニュースがあった。野党間の連携強化を図る「投票率10%アップを目指す国民運動」である。仕掛け人は(*2)にも書いた“無敗の男”中村喜四郎だ。立憲民主党、共産党、社民党の議員140人が連携して署名活動を行うというが、その趣旨には「長く続く強権的な政権のもと、他に選択肢がない状況の中、多くの国民が政治をあきらめ、絶望させられてきた」とし、「投票所から遠ざかった有権者に、民主主義を守る闘いの共同戦線に戻っていただく」とある。当面は自民党の党員数に並ぶ109万人の署名を集めるという。

 投票率を10%上げるには、今より1000万人多くの有権者に投票所に行って貰うことになるというが、安倍に愛想を尽かしている消極的自民党から無党派層までの幅広い人々の心を捉えるには、この趣旨はちょっと古くさい感じもする。しかし、こうした運動が野党共闘や連携強化につながり、化学反応を起こして野党自身もより広く国民の心を捉えるように変って行けば、有権者の心理的ハードルも低くなるだろう。「戦略的投票行動」は、結果的に野党を増やす結果にもなるので、野党にはもっと成長して貰わなければならない。 

◆一回だけ必要な?「戦略的投票行動」
 ただし、私の言う「戦略的投票行動」は、本来こうした野党の動きとは別個のもので、今回の目的はただ一つ。劣化した安倍長期政権を終わらせるということである。そのことが、腐敗した利権のシャッフルにつながり、野党の監視機能の強化にもつながる。そのための投票行動であり、成功すれば多分、一回限りの「戦略的」なものである。それは、社会の教科書とはちょっと違った投票行動かも知れないが、小選挙区制の弊害が言われる今は、その投票行動にも(その時々の目的に合った)様々な戦略的選択があってもいいのではないか。こんなことは、学校では教えないけれど。

*1)「A-A独裁とファシズムの影」(18.5.31) *2)「サンダースが闘ったアメリカ」(18.7.26)の後半
*3)「闘う相手を見失う野党合流」(20.1.21)

コロナ新局面の政治の覚悟 20.7.1

 規制解除後の東京都の新規感染者の増加が止まらない。6月30日、都はこれまでの数値基準をやめて、医療施設、重症者の状況など7つの指標から総合的に判断するという新方針を打ち出した。何よりも経済的打撃を避けたいという意図からの方針転換であり、3密回避などの要請は続けるとしても、これまでステップを踏んできた感染予防策の数値基準は放棄する。経済重視への方針転換は政府も同じ。従来の基準からすれば東京都と他府県間の移動の自粛や夜の街での休業要請などが出てもおかしくないのに、音なしの構えである。

 経済界や労働界からの悲鳴も届いているのだろうが、今の政治家の頭は、経済的影響の大きい非常事態宣言の再発令は何としても避けたい思いで一杯に見える。これは政治が主導して、一方で感染拡大を気にしながら、他方で経済に舵を切る新たな局面である。しかも、以前と変らない経済活動を期待して手綱を安易に緩めると、たちまちウイルスから手ひどい反撃を食らうことになる。ウイルスと共存する新たな局面で、どのように経済を回していくのか、政治は明確なイメージを持っているのだろうか。政治家にその覚悟があるのだろうか。   

◆専門家会議の廃止が意味するもの
 ウイルスと共存する新たな局面に関しては、専門家たち(政府の専門家会議のメンバーなど)から幾つもの問題提起が行われている。例えば、Nスペ「新型コロナウイルス 危機は繰り返されるのか」(6月27日)では、今の状況について専門家からは、次に迫る感染拡大に備えての人材の補充や、海外からの流入を食い止める検疫体制が極めて手薄だという指摘があった。中には今を「静かに正念場を迎えている状況」と表現する専門家もいて、これはある意味、こうした現実から目を背けて方針転換しようとする政治と対極にあるものである。

 にもかかわらず、政治は専門家たちの意見を振り払うようにして、経済に舵を切ろうとしている。その象徴的出来事が、6月24日の政府専門家会議の突然の廃止だった。後に、西村経済再生担当大臣は、「廃止でなく衣替え」と弁解したが、専門委員の方も寝耳に水だった。これまで散々、専門委員会を隠れ蓑のように利用してきたのに失礼な話だが、時に独走しがちな専門委員会の存在が経済に舵を切る上で、目障りになったのが真相だろう。政府の下に経済も含めた「有識者会議」を置き、その下に感染症対策の専門家からなる「分科会」を置くという。

◆政治家の質が問われる政治主導
 随分と格下げになったものだが、これはこれで「政治の責任」をより明確にする意味からすれば結構なことかもしれない。しかし、そこでは当然のこととして、「政治の質」が問われることになる。例えば、NYのクオモ知事のように、政治家が全面的に責任を負う形で対策の舵取りにあたる一方で、トランプのように、科学的知見やコロナによる弱者の犠牲を全く無視して、経済だけを叫ぶ政治家もいる。そこまで極端ではないにしても、日本の場合も、いわゆる「政治主導」には様々な懸念がある。「政治家の資質」に必ずしも信頼が置けないからだ。 

 かなりの確率で心配なのは、政治家が経済的打撃に怯えるあまり、不都合な現実から目をそらすことである。60人、70人と新規感染者が増えても、「検査を拡充したから」、「無症状が多く、病院機能に影響は出ていない」などと様々な理由をつけて実態を見ようとしない。小池都知事なども、選挙が近づいたとたんにあれこれ聞かれるのが嫌で表に出なくなった。西村も感染者の増加に対して「嫌な感じ」などと言うだけだ。そうした意見に、どれだけ科学的な根拠が反映されているのか、政治家が頼るという専門家の声が一向に聞こえて来ない。

◆無意識の「悪魔の誘惑」を否定する
 さらに懸念されることがある。ポピュリズム的傾向に染まりやすい政治家は、声の大きい多数意見に迎合する。このままでは経済が回らなくなるという声に敏感になるのはいいが、そのために経済活動と感染拡大防止という二律背反の難しい舵取りから手を離してしまうことである。その時の言い訳として政治家の意識下に生まれるのは、「コロナの影響を受けるのは社会の20%弱のハイリスク集団であって、それ以外の大多数にとっては、インフルエンザのようなものだ」、「それを考えれば経済を回す方が大事」という、コロナを見くびった意識である。

 特に政治家には、「仮に感染しても、自分は高度な医療を受けられるから大丈夫」という特有の思い上がりもあるに違いない。これは以前にも書いたが、社会的効率や経済的効率から高齢者、貧困者の犠牲を容認する、「悪魔の誘惑」の無意識版である。こうした無意識が、(トランプのように)現実直視を避けさせ、政治の無作為を生み、科学的知見を遠ざけることにつながったとしたら、問題である。そうでないことを示すために、日本の政治家は方針転換の今こそ、二律背反の難しい舵取りから逃げないという、国民の心に響くメッセージを発しなければならない。

◆先が見えない状況での難しい舵取り
 今、感染の現状について専門家はこう言う。このウイルスの厄介な点は、症状のでる2日前が、一番感染力が高い。また、(夜の街などでの)無症状の若い感染者は、サイレントキャリアとして市中に感染を広げて行き、それが高齢者や持病のあるハイリスク集団の重症化として顕在化する。従って、軽症や無症状だからと言って放置すると、今は余力があるように見える医療施設もたちまち手一杯になる。経済を回すことももちろん重要だが、余裕のある今こそ、感染の第二波が予想される冬に備えて、医療の充実、人材確保を着実に行うべき時と言う。

 さらに、この先の展開になると、様々に意見が分かれていて確かなことは何も分からない。第二波がインフルエンザの大流行と重なるかもしれない。ウイルスが、より感染力が強いものに変異する可能性もあるし、変異が激しければワクチン作りも難しくなる。アメリカ大陸やアフリカなどでの爆発的感染を考えると、ウイルスは引いては寄せる波のように侵入して来るだろう。従って、経済的影響は相当な長期に及ぶだろう、などなど。こうした先が見えない困難な状況を生き抜くためにも、政治は極めて難しい舵取りを迫られるという自覚が必要になる。

◆日本の政治家に政治主導の覚悟はあるか
 これからのコロナ対策は、以前も書いたようにハンマーで一度叩いて下げた感染者数を、できる限り低く抑えながら、ウイルスとダンスしていくことである(ハンマー&ダンス)。その中で、経済活動も感染拡大防止も、という極めて難しい政策を実行して行く。先日のNスペでは、ドイツの例として科学者と経済学者が共同して、もっとも経済にダメージが少ない感染防止の指標を求めていたが、新型コロナ対策の新局面を迎えて、日本でも様々な分野の研究者が協力して政策を提言し、それを政治家主導で実行していく体制作りが不可欠になる。

 以下、その時の政治に必要になることを、思いつくままに書き出しておきたい。まず任に当たる政治家は、経済も感染防止も、という困難な責任から逃げないという強い決意を国民に示すことである。同時に、経済的、身体的弱者を見捨てないというメッセージを発する。また、政策決定過程の根拠を国民に分りやすく伝えることも欠かせない。そのためにも有識者会議、分科会での議論をできる限り公開し、専門家の声が聞こえるようにして貰いたい。さらに国民が今、抱いている不安(検査・診断・治療に関する最新の医療を受けられるのか)に常に答えていく。

 まだまだ謎に包まれた新型コロナウイルスとの共存は、手探りが続く。仮にも政治主導をいうなら、政治家が国民の心に響く自分の言葉で発信していくことである。質問にも丁寧に答える。そして、国民の暮らしや健康、経済への不安に寄り添う姿勢を見せることである。それが日本の政治家に出来るかどうか。常に責任を取らない政治劣化の現実をみると、政治主導が却って心配になる。

規制解除後の日本はどこへ 20.6.22

 先日、3ヶ月ぶりに赤坂に出かけたら、人出が以前と殆ど同じだった。19日には、県をまたいだ移動も解禁になり、各地の観光地の賑わいなども紹介されると、却って、あの自粛の日々が余計に重苦しく感じられる。外出制限で他人と会わない生活は、どこか皮膜一枚で外界と隔たれているような非現実感があって、長くなるほど心の中に言いようのないモヤモヤしたものが溜まってくる。人並みにオンラインの会議や雑談会などをやってはいても、やはりリアルな対面と比べれば、情報量が圧倒的に違うのだろう。これがパンデミックの現実なのか。 

◆人間の本能に無理を強いる外出制限
 今回のパンデミックは感染だけでなく、その恐怖を一気に世界中に広げた。先日の「サイエンス映像学会」の遠隔講演(6/13)で、加藤茂孝氏(ウイルス学)は、急速な感染拡大の要因として(グローバル化による)人・モノ・金・情報の大量移動をあげたが、中でも瞬時に情報が駆け巡る「世界同時不安」の要素が大きいと言う。対策の要点はこの「不安の最小化」にあるとも言うが、世界は今、中国のような強権による封じ込めから、ブラジルのような放置による死者の増大まで、両極端を揺れ動きながら、見えないウイルスの恐怖に駆られている。 

 これは、科学的知見をもとにした「正しく恐れる」ことがいかに難しいかを物語るが、一方で、次々と規制解除に向かう西欧の様子などを見ると、経済への影響だけでなく、外出制限がいかに人間社会に無理を強いるものか分かる気がする。やはり、人間は群れに生きる動物であり、長期の外出制限は本能から言っても無理なのだろう。問題は、私たちの世界は、規制解除後を生きていく共通の理念と哲学を持ち得るか。自粛の反動からタガが一気に外れてまた感染が拡大したらどうするのか。再び経済的打撃が大きい外出制限に戻れるのか、である。

◆「バベルの塔」状態の中でのコロナ対策
 この点で、同じ遠隔講義に参加した養老孟司氏の指摘が興味深かった。例えば、一つのテレビ画面にアナウンサーとウイルスの電子顕微鏡写真が同時に収まっているが、ウイルスから見れば人間の大きさは地球以上にもなる。つまり、ウイルスレベルの精緻さを延長すれば、人間レベルの科学的知見は霞がかかったように見えなくなってしまう。それを考えると、ウイルス学、感染症学、臨床学、数理モデルなど、それぞれ極端に違ったサイズを扱う専門家が集まった会議で、互いの会話が成り立つのか疑問だと言うのだ(詳しくは「新潮」7月号)。

 確かに、ウイルスのサイズで分かって来たことは、他の専門家が扱う臨床や感染症のレベルとかけ離れ過ぎている。まして、そこに政権を守ることが最優先の政治家や官僚の思惑が絡んでくると、3者の会話は旧約聖書にいう(互いの言語が理解不能になる)「バベルの塔」状態になりかねない(養老氏)。仮に専門家同士の会話は成立したとしても、彼らと政治家や官僚たちとの間の意思疎通は可能なのか。言語がバラバラでは、3者の関係も曖昧になり、専門家会議は彼らに上手く利用されるだけの存在になりかねない。コロナ対策の難しさである。 

◆「バベルの塔」状態の中で、規制解除に向かう日本
 さらに少し引いて、今の日本の「バベルの塔」の中を見てみると、政府専門家会議のメンバーの他にも、テレビに良く出る研究者や医師たち、常連のコメンテーター、或いは、コロナ後を論じる知識人、評論家、歴史学者などが目白押しに並んでいる。ある人は集団免疫が出来るまで放置せよと言い、ある人は全員にPCR検査をと言い、ある人は(別な数理モデルからすれば)非常事態宣言は必要なかった、と言う。言うことがバラバラで、表現は悪いがまさに「群盲象をなでる」状態。まじめに考えれば、とても一般人が咀嚼できる状態ではない。

 それでもこの2ヶ月あまり、国民は「自分を守ることが社会を守ること」とする政府、メディア、専門家の言うことを信じて、不要不急の外出を自粛し、休業要請に応じ、3密を避けて来た。外出するときは、マスクをしてソーシャルディスタンスを取り、手の消毒を徹底するといった不自由な生活に耐えてきた。それが、ここへ来て政府も行政も「新しい生活様式」を掲げて、一気に規制を解除しつつある。一度巻いたネジをかなりのスピードで緩めつつある。今まで堪え忍んだ生活を思えば、皆が多少浮かれた気分になるのも無理はない。

◆規制解除後に広がる不安定な精神状態
 この規制解除は主に、このままでは窒息しかねない経済と暮らしを少しでも回復させるためのもので、新規感染者が一頃の勢いでは増えていないこと以外に、確たる科学的根拠があるわけではない。各自治体は目安となる基準を設けたが、それも厳守されているわけではなく、少しの黄信号ではステップを強化するつもりはないように見える。感染押さえ込みがたとえ一時の幻想だとしても、政権は目の前の支持率を、東京都は都知事選を最優先しているからだ。しかし、国民の方は一方で解放気分を味わいながら、他方ではぬぐいがたい不安を抱えている。

 これは、国民心理としてかなり宙ぶらりんの精神状態である。繁華街や観光地に戻った人出を見て経済回復のきざしを喜びつつ、一方では、3密が戻っている状態を憂慮する。それは、国民が一斉に自粛・休業した時とは違って、単なる「新しい生活様式」や「自粛から自衛に」といった曖昧な呼びかけでは収まらない不安定な精神状態でもある。ネジを巻くときよりネジを緩めるときの方が、国民感情が複雑(バラバラ)で一体感を作ることが難しい。この宙ぶらりんの中で、次に予想されるコロナの波に対抗して行くにはどうすればいいのだろうか。

◆「バベルの塔」状態の中で、共通言語を探す
 養老孟司氏は、この時代に必要なのは個人の自立と成熟であり、生きるとは、生きる価値とは、と自分に問うことだという。そこで必要なのは、世界を(統計数字などで見る)神の目ではなく、実人生から見る文学の目線だと言う。カミュの「ペスト」がベストセラーになったのも、この異常事態を生きるための模索が、個人レベルで広がっているからだろう。しかし、それはそれで大事なことだと思うが、ここで私が考えるのは、もう少し広い社会的なことである。どうすれば、この不安な時代を人々が一体感を持って生きられるのか、である。

 それは、この先が見えない「ウイルスと共存する時代」を生きていく上での、理念、哲学、或いは共通の価値観の模索である。一気にはもとの暮らしと経済に戻れないし、再び外出制限にも戻りたくない。この中途半端な時代を、前向きに人々と価値観を共有しながら、コロナの二次感染、三次感染に備えて行く。そのための模索である。コロナ対策に責任を持つ政治家、官僚、科学者の間が「バベルの塔」状態の時に、その間をつなぐ共通の言語を探してくれる専門家はいないのか。このとき、私が漠然と期待をかけるのは「社会心理学」なのである。

◆分断を乗りこえ、連帯と共感を模索する
 社会心理学について、私は何も知らない。しかし、コロナショックの異常な経験が社会にもたらしている、今の特殊な社会心理についてより深い理解を促してくれるとすれば、それは社会心理学なのではないかと思う。例えば今、アメリカの黒人殺害を機に世界中に「BLM」運動が広がっているが、その広がりを見るにつけ、コロナがもたらした分断の深さを思わざるを得ない。もちろん、アメリカの黒人差別は根深いものだが(*)、人々はコロナによる分断と差別と不安を目の当たりにして、より強く連帯や共感の必要に目覚めたのではないか。*時間があれば、是非ドキュメンタリー「13th」

 その欲求は、「新しい生活様式」などという曖昧な言葉では埋められない。私の一方的な期待に過ぎないが、バラバラになりかけている政治と科学と国民をつないで、「不安の最小化」を目指すためには、今こそ社会心理学の出番。コロナ時代を生き抜く価値観と、互いに支え合う人間社会の倫理を模索し提示して欲しい。

生きるためにリスクを知る 20.6.12

 日本人にコロナ死者が少ない理由を聞かれて、麻生が「(他の国と)民度が違う」と答えたという。安倍も「成功の日本モデルだ」と言って胸を張った。政治家というのは、どこまで傲慢で庶民感覚とずれているのだろうか。コロナの危機が迫った頃の日本は、マスクが街から消える、手を消毒するにも消毒液はない、病院があふれるからPCR検査は必要ない、発熱しても家にじっとしていろ。症状が悪化して救急車を呼んでもたらい回しにされる。病院も医療崩壊寸前。院内感染が頻発して次々と人が死んでいく。防護服も医療用マスクも、人工呼吸器も足りない。

 家族は死に目にも会えず、死んだら骨になって帰ってくる。こんな恐ろしいニュースと、政治の無策を目の当たりにして恐怖に駆られた国民が、自分の命は自分で守るしかない、と自宅に引きこもったのが最大の理由だろう。それをさも国民代表のような顔をして、「民度が違う」だの「日本モデル」とはホントに片腹痛い。しかも、アベノマスクに始まり、いつまで経っても届かない10万円、さらには次々と中抜きされる巨額の特別給付金。国民の不幸を餌に金儲けに走る御用企業と官僚のズブズブの関係、それに裏でつながっている政治家たち。

 「日本と言う国はもう少しマシだと思っていたのに、これほどひどいとは思わなかった」とは、国民多数の思いではないだろうか。とはいえ、いつまでも家に引きこもっていると、今度は失業者が増え、倒産が増える。このままでは自分も社会も経済も窒息しそうだ。ここへ来て政治は確たる科学的根拠もなく、なし崩し的にステップを次々と緩和しているが、3密を守りながら経済は回せるのか。結局、このコロナ時代を生き抜くには、国民一人一人がそれぞれのリスク(*)を測りながら、命を守り経済も回すしかない。どうすれば、それは可能なのか。*)年齢、持病の有無、家族構成などでも変る

◆リスクを知ることは出来るか
 生きていくのに、リスクはつきものである。問題は、今の感染状況で、自分の行動のリスクが測れるかどうかである。今、温泉に出かけたり、地元商店街で食事したりする場合、コロナに感染するリスクはどの程度なのか。或いは万一感染した時、重症化したり命を落したりするリスクはどうか。それが一人一人の場合で判断出来れば、それを考慮しながら行動し、経済活動もすればいい。しかし、政府(専門家)もメディアも、2次感染、3次感染の不安を言う割には、そんなデータを示してくれない。私たちが、それを知ることは出来ないのだろうか。

 リスクを判断する指標は幾つかある。第一には、万一コロナに感染した時に適切な医療(診断と治療)を受けられるかどうかである。前回も書いたように、感染の初期段階から、幾つかの抗ウイルス薬(アビガンなど)を用いてウイルスの増殖を抑える。さらに、重症化の兆しが見えた時には、免疫暴走(サイトカインストーム)を抑える免疫抑制剤(アクテムラ)や抗炎症剤を使う。こうした、最新の知見に基づく医療が適切に受けられる可能性(逆に受けられないリスク)はどの程度なのか。

 これは、(前回書いたように)アビガン一つとっても医療機関や医師によって違って来る。それを事前に知ることが、自分のリスクを測る上で欠かせない指標になる。次に大事なのは、自分が取りたい行動(働き方、行きたい場所、したいこと、移動手段)で、感染するリスクがどの程度なのか。例えば、自分の周辺の感染リスクはどうか。歌舞伎町の“夜の街”以外に、潜在的に感染リスクが高い場所はどこなのか。あるいは、病院、スーパー、警察、消防、老人施設など、多くの人が接するライフラインは大丈夫か。そのリスクを具体的に知ることである。

◆精密な抗体検査とPCR検査の組み合わせで
 こうした時に必要になるのが、「精密検査」だと児玉龍彦氏(新型コロナと闘う6/5)は言う。最近の精密な抗体検査で彼らが得た情報は、感染実態を掴む上でかなり重要と思われる。すなわち、新型コロナに対する2つの抗体のうち弱いIgMが正常範囲内ならその人が感染させる力はないが、高い状態なら感染力を持つ。さらに、このIgMが早期に上昇すると、その人は重症化しやすい。また、より強い抗体IgGが顕著ならPCR検査も陰性で、再感染することも、させることもない。その状態は3ヶ月以上持続することも抗体検査から分かってきた。

 つまり、精密な抗体検査を幅広く(血の一滴でOKなので、検診時などに含めて)やることによって、特定の集団、地域での感染傾向を知り、治療が必要な患者の発見が可能になる。さらにPCR検査と組み合わせることによって、IgMが高い感染者を治療すると同時に、既に感染した人(IgGが高い人)が見つかった地域や集団で、感染者と非感染者を分ける。こうした検査を重点的に行うことによって、人との接触が避けられないライフラインで働く人たちからの感染拡大を効率的に防ぐことも可能になるという。

◆PCR検査の拡大を阻んできた「公衆衛生ムラ」
 児玉氏は、感染していない者同士を外出制限などで分けるのは無意味で、それでは経済も回らなくなる。それよりも、特定の地域や集団に対するきめ細かい検査によってリスクを知れば、経済を回しながら感染を防御することが可能になると言う。問題は、この抗体検査がノイズも除去できる最新のものでなければならないことである。この点で、今、国などで行われている抗体検査はノイズが除去出来ないので、データの信頼性が低いという。さらには、PCR検査と組み合わせると言っても、(つい最近まで)PCR検査が思うように出来なかったことも問題だろう。

 日本でのPCR検査が、苛立つほど増えない原因については、雑誌「選択」(6月号)が書いている(PCR検査、異常な少なさの全真相)。それによると、原因は厚労省結核感染課、国立感染研究所、保健所、地方衛生研究所からなる「公衆衛生ムラ」のサボタージュだという。自分たちの既得権益であるPCR検査を独占するために、簡易キットなど新規の検査法を否定し、(保健所を通さずに)医療機関から直接、民間の検査機関に検体を回すのも邪魔してきた。彼らは、保険行政の縄張りを守ることに必死なのだという。呆れる話だが、本当なのだろう。

◆リスクを知って自主的に行動するために
 新しい抗体検査機器の導入についても、厚労省は自分たちの縄張りに置こうとしている(同誌)。ことほどさように、新型コロナは政治の劣化や腐敗、行政のデジタル化の遅ればかりでなく、日本の医療行政や感染症対策の遅れまで露わにしつつある。しかし、児玉氏たちの国の予算に縛られない抗体検査のプロジェクト(3大学病院、3研究所)も大分軌道に乗ってきたようだし、上記のような成果も出始めている。若い人たちも熱心に取り組んでいるというので、その精密科学的な成果に期待したいと思う。

 私などは、ウイルス学にも、感染症学にも、免疫学にも全くの素人で判断出来ないが、(例えば山中伸弥氏をインタビューアーにする)番組などに出てくる専門家たちの話は総じて感覚的、定性的で、定量的なデータに乏しいように見えてしまう。一旦は押さえ込まれたかに見える新型コロナも、これから秋冬にかけて第2次感染の可能性が囁かれている。その時に備えて、精密科学的な感染防御策、診断と治療の方法がある程度確立していることは、再び外出制限などの非常事態宣言の発動によって、社会が窒息しないためにも極めて重要になる。

 このウイルスは、知れば知るほど謎だらけの非常に厄介なウイルスであることは間違いない。それに対抗するには、精密科学的な知見を一つ一つ積み上げていかなければならない。その上で、感染拡大も防ぎ、経済も回して行くには、国民一人一人が自分の行動によって生じるリスクを正確に把握出来ることが必要。そのための判断材料が説得力を持って開示されるには、専門家の人たちに頑張って貰うしかない。同時に、それが実現するように、国民の方からも激励の声を上げなければならないと思う。

アビガン使用を巡る不可解 20.6.3

 4月7日に全国的に緊急事態宣言が出されてから2ヶ月。メディアの方もこの2ヶ月、取材の自粛が続いてリモート番組を工夫する以外は、有り余る時間を再放送で埋めて来た。そんな中でも、気を吐いているのが民放の情報番組で、いろいろ議論はあるにしても連日、コロナ関連の特集を組んできた。その情報量は時折スペシャル番組を組むNHKに比べても圧倒的に多い。私たちの間ではNHKも午後はナマの報道番組に切り変えればいいのにという意見が出るくらいだが、日々扱う情報量の差が、その放送内容にも現れ始めているように見える。

◆民放とNHKの特集番組に感じた差
 そんな差を如実に感じたのが、ほぼ同時期に放送された2つの番組である。それは、「日曜THEリアル!池上彰の緊急スペシャル」(フジ5/31放送)と、BS1スペシャル「わたしはこうして新型コロナと闘った」(NHK 5/30再放送)。池上番組はまず、台湾、韓国、日本のコロナとの闘いを時系列的に比較整理して、日本の取り組みの遅れを可視化したり、抗ウイルス薬やワクチンについて、国際的な開発競争を図解したりと、現時点で知りたい情報を2時間にわたって分かりやすく伝えていた。スタジオ設計や独自入手の映像も含めて力が入っていた。

 特に感心したのは、抗ウイルス薬のアビガンとレムデシビルの説明部分。ウイルスが細胞にとりつき(吸着)、RNA遺伝子を放出し(脱穀)、複製を作って増殖し(複製)、細胞外に飛び出す(遊離)という一連の過程に沿って、初期にはアビガン、その後ではレムデシビルという具合に、薬が増殖を阻害する仕組みを分かりやすく説明。アビガンについては現在検証中ということも付け加えていた。一方のBS1スペシャルは、元患者3人への遠隔インタビューをもとに、医師と感染症の専門家2人が解説するという、ごくシンプルな構成の番組である。

 内容的にもシンプルな番組だったが、特に私が違和感を持ったのは、医師の忽那賢志(国立国際医療研究センター)が新型コロナの薬にかなり否定的だったことである。スタジオのアナウンサーが「軽症の場合、出来るだけ薬は使わないということか」と聞いたのに対し、忽那医師が「現在、有効な薬がないので使わなくてもいい」と答えていた部分である。軽症の場合に関して、前回とりあげた児玉龍彦氏が「症状が出たら“瞬時に”アビガンを使って重症化を防ぐ」と言っていたのと正反対の意見である。これは一体、どういうことなのか。

◆アビガンの効果検証を巡る動き
 アビガン(一般名:ファビピラビル)は、もともとインフルエンザの薬として日本で開発されたが、タミフルなどと比べて副作用があるので、タミフルが効かないような新型インフルエンザへの備えという条件付きで製造・備蓄されて来た。ただし、タミフルとは違って、ウイルスの増殖メカニズムを阻害する薬なので、新型コロナにも有効だと言う予想は言われていた。今回、中国で試験的に使われた結果、いくつかの論文で有効と発表され、日本発の新型コロナ薬として、政府が飛びつき、特例的に「承認」を早める意向を表明したものである。

 3月に発表された中国での投与成績では、軽症の患者では平均4日でウイルスが消える(陰性になる)などの有効性が認められ、「科学研究の専門家によって医療グループに正式に推奨された」とされた。また、国内で検証を行っている医療機関の一つ、藤田医科大学(愛知県豊明市)の中間報告では、軽症と中等症の患者の9割で症状の改善が見られたとし、この部分では中国の発表と一致する。ただし、軽症者の多くはそのまま治るという見方を反映して、検証の比率が中等症や重症に傾いていることが問題という意見(児玉龍彦氏)もある。

◆アビガンの承認と使用を巡る2つの議論
 藤田医科大学の結論はまだだが、一般的に薬の保険適用が可能になる「承認」を得るには、二重盲検といって薬を投与した患者と、(偽薬を使うなど)投与しない患者とに分けて有効性を厳密に比較しないといけないので、4年位もかかるらしい。今回はそれを急がせようとしたわけだが、現時点で未承認のアビガンを使うには、医療機関がいちいち厚労省に使用を依頼し、OKが出れば製造元(富士フイルム富山化学)から提供を受けて投与する原則になっている。政府の前のめりの姿勢には一部の臨床現場から歓迎の意向もある一方で、慎重論も根強い。

 アビガン使用についての意見は2つに分かれている。例えば4月に、日本医師会の横倉会長が、高齢者や基礎疾患があるハイリスクの患者にはアビガンの「早期投与」を推進したいと述べたのに対し、同じ日本医師会の有識者会議が、新型コロナの新薬開発には(藤田医科大学のような)投与群の経過観察だけでは不十分で、観察群を2つに分けた科学的検証と証拠が必要だと訴える緊急提言を行っている(5月18日)。同じ医師会の中でも意見が分かれているのだろうか。

◆アビガン承認に対する慎重意見
 実は調べてみると、BS1スペシャルに出演した忽那医師も慎重派の一人で、「アビガン、科学的根拠に基づいた議論を」と、新薬検証の科学的な手続きを解説し、返す刀で「アビガンを飲まなくてもほとんどの新型コロナ患者は良くなる」と主張する。アビガンが効くという報道にも反対だ。こうした慎重派の主張に基づけば、アビガンの検証には患者を2群に分け、しかも症状の程度でも区分する必要があるので、患者の数も多数必要になる。厳密にやろうとすれば、患者の数が減ってきている現在では困難(朝日5/27)で、結論が出るまで何年もかかることになる。

 アビガンには副作用があるから使用も慎重にという意見もあるが、これについてはほぼ分かっている。催奇形性があるので、これから子どもを作る若い男女や、妊娠中の女性への投与を避ければいい。その他の副作用については、藤田医科大学の検証でも、(多少の尿酸値の増加はあるが)知られている以上のものはないと言う。ならば、高齢者や、基礎疾患のある中高年に「早期に」使えばいいと思うのだが、薬事診査に責任を持つ厚労省(その外郭団体の医薬品医療機器総合機構)の腰は重く、これまでにも新薬承認に時間がかかり過ぎると言われて来た。

◆アビガンが使いにくくなっている医療現場
 忽那医師が属する日本感染症学会は、アビガンについての(倫理委員会の診査などの)使用基準を設け、彼らの検証にも参加することを促しているが、このことが却って、アビガンを使いにくくしているという意見もある(日本ウイルス学会有志)。これは日本感染症学会の基準に対する他学会からの疑問である。以上見てきたように、アビガンの「承認」についても、「使用」についても、日本の状況は混迷している。これには、安倍政権が前のめりになっていることや、治った芸能人のニュースが大きく取り上げられたことへの反発などもあるのだろう。

 分からないでもないが、ことは患者の命に関わる問題である。患者や死者は単なる数字やデータではないはずで、科学的な厳密さを求めるあまりに、救えない命があったら誰が責任を負うのだろうか。特にハイリスクの患者の立場からすれば、ウイルスの増殖を初期段階で抑えるメカニズムも明確だし、明らかに効いたという観察例も多いのだから、自由に使えるようにして貰いたいと考えるのは自然なのではないか。保険適用が認められればもちろんいいが、百歩譲って厳密な「承認」まで待つのでなく、児玉氏が言うように、軽症の初期段階から“瞬時に”投与可能な状況が生まれて欲しいと思う。

◆非常時には非常時の医療を
 現在は、新型コロナの第2波、第3波が危惧される非常事態である。ワクチン開発までに、適切な治療法が確立することは社会の何よりの安心材料になる筈だ。先日の「サイエンス学会の講演会」(5/31)で、救急医療の大家の林成之さん(日大名誉教授)が、今の日本の医療は従来のやり方にこだわって、非常時の医療体制が出来ていないと言っていたが、アビガン使用についても、非常時に患者の命を救うという原点に立ち返って考えることが、重要なのではないか。